行事風景

共に食卓を囲む

教皇様の2023年1月の祈りは、「教育にたずさわる人たち」のためにとなっています。

「教育にたずさわる人たちが、信頼される証し人となって、競争ではなく友愛を育みながら、とりわけ幼く傷つきやすい者の助けとなることができますように」

みこころレター13号に、日曜学校からのメッセージを掲載しました。

「日曜学校は祈りの場」
毎月第4日曜日は「こどもとともに捧げるミサ」です。
たくさんのこどもたちを待っています。

学年が上がるにつれてなかなか日曜日のミサに行けなくなってしまうという現象は(習い事、部活、塾等で)、どこの共同体も同じ悩みだと思います。
だからこそ日曜日、ミサに行けるときはぜひこどもたちに来てほしい、と願っています。
教会学校では、久しぶりにミサに来たこどもには必ず、言葉かけを行っています。
「待っていたよ!来てくれるのを!!」という気持ちです。
それは、イエス様も同じ気持ちだからです。

お父さん、お母さんにお願いです。
祈りの場へこどもを導いて下さい、大人が祈る姿をこどもに見せることが、一番の信仰教育だと思います。

こどもたちの成長を間近で見ることは、すごく嬉しく、楽しい事です。
神に感謝!!

 

コロナ禍以前に比べ、日曜日のミサ、日曜学校へのこどもたちの参加がとても減ってしまったことは、みなさまもお気づきだと思います。

日曜学校にたずさわる担当者の声は、ご家族の皆さんに届いているでしょうか。

わたしたち大人も、こどもたちと共にミサに与ることで信仰を確信し、深めていくことができます。
大人だけでなく、共に集まって祈り、共にイエス様の食卓に並ぶことが神様のお望みです。

 

先週ご紹介した本に、マルコ6章のパンと魚の奇跡についての考察があります。

そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちはイエスに近づいて言った、「ここは人里離れた所です。もう、時もだいぶたちました。みなを解散させてください
そうすれば、周りの村里や村々に行って何か食べるものを買うことができるでしょう」。
すると、イエスは答えて、「あなた方が食べる物をやりなさい」と仰せになった。
(マルコ6・35~37)

弟子たちの解決策は「人々を解散」させることでした。
それに対してイエス様の解決策は「あなた方が彼らに食べるものを与える」でした。

クロッサンは、この物語はイエス様がパンと魚を増やしたことを表した譬え話ではなく、神の国の食べ物を民に分配する責任を強調する譬え話だ、と言っています。
弟子たちとイエス様の繰り返されるやり取りは、イエス様が自らの神の国のビジョンへ弟子たちを引き込んでいく過程なのです。

そこで、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰ぎ、賛美をささげてパンを裂いて、弟子たちに渡し、みなに配らせ、二匹の魚もみなに分け与えられた。
みなは満腹するまで食べた。

(6・41~42)

神の国がすでにこの地に存在しているのだから、弟子たちが食べ物の適切な分配の責任を負うように、イエス様は仕向けているのです。
だから、「あなたがたがの手で食べ物をあげなさい」が、「人々を解散」させるに打ち勝つのです。

イエス様にとって、神の国について教えることは、人々に食べさせることだったのです。

神の正義の手をとおして分配するならば、私たちの地にはすでに十分に、必要以上の食べ物があると言っているのだと私は考えます。
取られ、祝福され、裂かれ、渡されるならば、つまりそれを聖別された神の贈り物と見るならば。
今ここに存在する神の国とは、この地をすべての人に公正に分配することです。
イエスはただ、世界の世帯主である神の譬えを実演しているだけなのです。
(「最も偉大な祈り 主の祈りを再発見する」166ページ)

主の食卓であるミサには信仰を持つすべての人が集うべきである、とわたしは痛感させられました。

親の意思で洗礼を授かったこどもたちは特に、保護者や家族が導いてあげる必要があります。

周囲のこどもたち、こどものいる家庭の方々に、今年はもっと積極的に声をかけていきましょう。
来週は、こどもとともに捧げるミサです。

 

今ここにあるお恵み

ご家族やご友人などと、賑やかで楽しいお正月を過ごされましたか?

わたしは妹家族が帰省していましたので、それはそれは賑やかな(騒々しい)年末年始でした。
大騒ぎしながらみんなで鍋を囲んでいるときに、思わず涙ぐんでしまいました。

「何という幸せだろう。
今ここに、神様がいてくださっているんだ。」

心からそう思いました。

主の御国が来ますように。マラナタ、マラナタ。

頭の中で、聖歌がぐるぐると鳴り響いていました。

「神の国」

その時に、このテーマで記事を書こう、と思ったのです。
いつもこのように、日々の些細な出来事や、目にした、耳にしたニュースから聖書の言葉が浮かび、iPadに向かって聖書を開くのが、わたしのここ数年の日課となっています。

今読んでいる本はこれ。
クロッサン
「最も偉大な祈り 主の祈りを再発見する」

 

主の祈りのワンフレーズずつが章になっていて、広く深く考察された、クロッサン独特の洞察力による解説です。

この中の、神の国の到来についての下りによると、ヨハネは神の国は『神による世界の大掃除』であり、今にも起きるかもしれないが未来のことである、と語っていました。
一方でイエスは、すでに今ここに現臨していると語りました。

わたしが神の指(神の力)で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなた方の所にすでに来ている。
(ルカ11・20)

律法と預言者はヨハネの時までである。
それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、あらゆる人が力ずくで、そこに入ろうとしている。
(ルカ16・16)

神の国は目に見える形で来るのではない。
また、『見なさい、ここに』とか、『あそこに』とか言えるものでもない。
神の国は、実にあなた方の間にあるのだから。
(ルカ17・20〜21)

当時の人々にとって、神の国がすでに存在していると言われても、理解することができなかったことは容易に想像できます。

クロッサンによると、イエス様の言いたかったのは次のようなことなのです。

あなたがたは神を待っているが、実際には神の方があなたがたを待っているのだ。
どうりで何も起こっていないわけだ。
あなたがたは神の介入を求めているが、神があなたがたの協力を求めているのだ。
神の王国はここにある。
あなたがたがそれを認めて、その中に入り、それを生き、そしてそれを築きさえすれば。

イエスは、神の介入ではなく、神への参与を説いたのです。
神による世界の大掃除は、人が神によって力づけられて参与し、超越的な力に動かされて協力しなければ開始せず、完成しないのです。

わたしにとって、この考え方は新しく斬新で、とても腑に落ちました。

神の国は、人の協働がなければ始まらない。
神の介入だけでは神の国の実現は起こらない。

主の祈りが、神に対する祈りの前半と、わたしたちの祈りの後半で構成され、均等にかつ相関的に成り立っているように。

 

どんなことであれ、もしあなた方のうち二人が心を一つにして地上で願うなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださる。
二人また、三人がわたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる。
(マタイ18・19〜20)

わたしたち現代人にとっては、イエス様のこの言葉が1番「神の国」のイメージに近いのではないでしょうか。

わたしたちの間に、今ここに神様がいてくださる。
互いが思いやりを持って愛し合っている場に、神様の愛がある。

 

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪のために、贖いの供え物として、御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
いまだかつて神を見た者はいません。
しかし、わたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちに留まり、神の愛はわたしたちのうちに全うされているのです。
(1ヨハネ4・10、12)

神の国は、わたしたち次第でわたしたちのうちに実現するお恵みです。

 

飛行機から見る景色にも、神様の現存を感じます。

 

今年の誓い

新年、明けましておめでとうございます。

今年も皆様にとって、恵み溢れる豊かな一年となりますように。

前教皇ベネディクト16世がご逝去されました。

皆様は、「2人のローマ教皇」という映画をご覧になったでしょうか。

この映画が公開された時、このページで紹介したことがありますが、もう一度皆様にお勧めさせてください。

 

この映画は、ベネディクト16世がベルゴリオ枢機卿を後任に押すために説得を繰り返す、2人の交流の様子が丁寧に描かれたものです。

実際にバチカンで撮影されたこと、2人の俳優が同時にアカデミー賞にノミネートされたことなどでも話題となりました。

 

アンソニー・ホプキンスがドイツ訛りの英語を話すだけでなく、容姿も風貌も、本当にそっくりです。

わたしの抱いていた前教皇様のイメージとは違い、厳格ながらもユーモアのセンスと愛嬌のある様子が描かれていて、むしろベルゴリオ枢機卿(現 フランシスコ教皇)の方が頑固で融通が利かないようなところがあるのが面白いのです。

この映画で特にわたしが印象に残っているのは、ベネディクト16世がベルゴリオ枢機卿に告解をするシーンです。
当時、幾つものスキャンダルに見舞われ、精神的肉体的に疲労困憊していた教皇が、正反対の主義主張・性格の枢機卿に次第に心を許していく様には、心が揺さぶられます。
そしてその後、バチカン美術館に見学に訪れていた多くの観光客にもみくちゃにされながら、気さくに、楽しそうに自撮りに応じるベネディクト16世の様子が、本当に微笑ましいのです。

ぜひ、ご覧いただきたい映画です。

天国で安らかにお過ごしになられますよう、心からお祈りいたします。

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1月1日、元日の主日のミサで、新成人の祝福が行われました。

 

20歳を迎える3名の新成人が参列し、宮﨑神父様の祝福を受けました。

3人は、今年の抱負を抱いていることでしょう。
そして大人として扱われることになるこれからの人生に、期待と希望を持っていることでしょう。

20歳の時、皆様はどのような誓いをしましたか?
覚えていらっしゃいますか?

わたしは、20歳になってすぐに、大きな病気をしました。
それまでは、勉強とスポーツに明け暮れ、何となく幸せに生きていましたので、生死に関わるような大病を20歳の時に経験したことで、そしてその後すぐに洗礼を受けたことで、文字通り「生まれ変わり」、新しい人生を歩み始めました。

生きていれば誰も、節目となるような出来事に遭遇するでしょう。

まずは、20歳という成人の年は大切にしたい節目です。

人生とは、生きるとは、楽しむことだ。

若い彼、彼女には、そう思ってほしいものです。

望まなくても、辛いことや悲しいことは必ず起こります。
まずは、楽しんで!と伝えたい。

 

わたしも、今年の誓いを立てました。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

神様の子

主の御降誕、おめでとうございます。

ADVENTアドベントとは、「到来」を意味します。

メシア、キリストの到来を祝うのがクリスマス、キリストのミサです。

実際に12月25日にベツレヘムでお生まれになったわけではありませんが、史実かどうかは問題ではないのです。

何のために、誰に向けて誕生物語が描かれているのを理解することが大切です。

わたしたちキリスト者は、このイエス様の誕生の意味をどう捉えているでしょうか。

当時のユダヤ人たちにとってのメシア(キリスト)とは何者だったのか。
ナザレのイエス
歴史上の人物
信仰のキリスト

ユダヤ人にとっての救い主は、当時のローマ帝国からの圧政から救ってくれる王としての神でした。

現代のわたしたちキリスト者にとっては、イエス様は神の子、そして同時に神様です。

パウロの認識では、イエス様は神の子としてお生まれになったのではありませんでした。
一人の人間として生まれ、活動したイエス様がご復活を通して神となられた、という考え方です。

ペトロの認識では、イエス様は特別な使命を神から受けたメシア(王)である、というものでした。
彼はイエス様を神の子であるとは思っていなかったのです。
「あなたはメシアです」(マルコ8・29)

1番古い福音書であるマルコによる福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の始まり。」という出だしで進みます。
これは、最初から神の子だった、という認識からではなく、イエスとは何者なのか、そして「神の子」として人々に認識されていく過程を中心テーマとする、マルコの洞察の表れです。
「まことに、この方は神の子であった」(マルコ15・39)
この百人隊長の言葉は、マルコの神学的頂点である考え方、受難・死・復活によって全世界の異邦人から神の子であることが認められたことを暗示しています。

それに比べ、誕生物語を記したマタイとルカは、当時のユダヤ人に向けて「この方は神の子、神様だ」と伝えたかったので、生まれた時から神の子であるということを強調しているわけです。

 

 

ルカ2章のイエスの誕生物語は、旧約聖書からの多くの逸話が散りばめられた、映像が目に浮かぶような美しい描写です。

今日、ダビデの町に、あなた方のために、救い主がお生まれになった。
この方こそ、主メシアである。
あなた方は、産衣にくるまれて、飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見出すであろう。
これが徴である。
(11〜13)

イエス様が神の子、神様であるからこそ、わたしたちはその神様の子なのです。

25日のミサでは、2名の方の洗礼式が執り行われました。 

 

来る年も今年のようでありますように。
あなたの上に、平安がありますように。
あなたとあなたの家、あなたのすべてのものに平和がありますように。
(サムエル上25・6)

良いお年をお迎えください。✝️ 

 

クリスマスの過ごし方

久留米は初雪の日曜日でした。
朝は吹雪のような降り方でしたが、主日のミサにはいつも通り100名以上の参列がありました。

先日、ジュゼッペ神父様が「あなたにラブレターです」、とお手紙をくださいました。

先週のごミサで、ジュゼッペ神父様がこうおっしゃいました。

「人を喜ばせるために、努力・苦労していますか?
今年のクリスマスこそは、誰かを幸せにするための努力をしましょう!」

この前、わたしの前の席に座られていたご年配の女性。
お見かけしたことのない方でしたし、明らかにごミサに与るのは初めて(数回目?)のご様子。
聖体拝領の時に「洗礼を受けておられますか?」とお尋ねしてみました。
「いいえ。両親は信者でしたが、わたしは受洗していません。今日は父の命日なので、教会に来てみました。」
「それでは、神父様の前に行かれた時に、頭を下げてみてください。祝福してくださいますから。」
「本当にいいのですか?」
「もちろんです。お父様も喜ばれますよ。」

席に戻られた時、とても晴れやかなお顔をされていました。

毎年この季節になると、信者ではない方のミサへの参列が増えます。
フラッと入ってこられるだけではなく、ミサに参列してみよう、というのはおそらく勇気のいることではないでしょうか。

そうした方を見つけたら、「はじめてこられた方へ」という教会のパンフレットをお渡ししたり、少しお話を伺ったり。

ジュゼッペ神父様のおっしゃったように、「この季節だからこそ!」とできることはいろいろとあります。

十戒には、「お前の父と母を敬え」という項目があります。

男性優位社会であったのに、「父に従い、母を尊重」ではなくどちらも同じように「敬え」となっているところがポイントです。

シラ書には、この十戒について解説された箇所があります。

父を敬う者は罪を償い、
母を尊ぶ者は宝を積む者に等しい。
言葉と行いを持って、父を敬え。
そうすれば、父の祝福が、お前の上に臨むだろう。
父の祝福は、子供たちの家を強めるが、
母の呪いは、その土台を覆す。
(3・3〜4、8~9)

心を尽くして父を敬え。
母の産みの苦しみを忘れるな。
お前は、両親によって生まれたことを銘記せよ。
彼らがお前に与えたものに、
何を持って報いることができようか。
(7・27〜28)

箴言23章24~25節には、次のように書かれています。

正しい者の父は大いに楽しみ、
知恵のある子を産んだ人は、その子を喜ぶ。
お前の父はお前とともに喜び、
お前の産みの母はお前とともに楽しむ。

今週は、耳を疑うような事件がありました。
親を大切にする家庭で育っていれば、その習慣は自ずと子どもに引き継がれるものだと思うのです。

「両親を大切にする。」

当たり前のような、誰もが分かっているこの大切な務めは、同時にみんなが「思ったほどできていない」ことではありませんか?

遠く離れて住んでいても、亡くなって天国にいても、できる親孝行はあるものです。

わたしがモットーにしているのは、次の聖句です。

『天国にいる母のために』

主に従う者は、母に安らぎをもたらす。
(シラ書3・6)

教会で与えていただいている役割を務めていると、母が喜んでいるような気がするのです。

『助け合って暮らす父のために』

子よ、年老いた父の世話をせよ。
その余生を悲しませるな。
たとえ、父の知力が衰えても、これを大目に見よ。
(シラ書3・12〜13)

かなり大目に見ています。
歳と共に優しくなってきているので、これからも大目に見ることとします。

・ 

フランシスコ教皇様は水曜日の一般謁見のお説教で、クリスマスを祝うことは良いことだとしながらも、「しかし、お金をかけずに、もっと質素なプレゼントを用意し、節約した分をウクライナの人々に送ろう」と呼びかけられました。

これもまた、クリスマスのよい過ごし方でしょう。

降誕祭までのあと数日、丁寧に、悔いのないように、大切に過ごしていきましょう。

愛すること

アウグスティヌスの「告白」第10巻第27章は、彼の回心後の心境を表現した美しい文章です。

古くて新しき美よ、おそかりしかな、御身を愛することのあまりにもおそかりし。
御身は内にありしにわれ外にあり、むなしく御身を外に追いもとめいたり。
御身に造られしみめよきものにいざなわれ、堕ちゆきつつわが姿醜くなれり。
御身はわれとともにいたまいし、されどわれ、御身とともにいず。
御身によらざれば虚無なるものにとらえられ、わが心御身を遠くはなれたり。
御身は呼ばわりさらに声高くさけびたまいて、わが聾せし耳をつらぬけり。
ほのかに光さらにまぶしく輝きて、わが盲目の闇をはらいたり。
御身のよき香りをすいたれば、わが心は御身をもとめてあえぐ。
御身のよき味を味わいたれば、わが心は御身をもとめて飢え渇く。
御身はわれにふれたまいたれば、御身の平和をもとめてわが心は燃ゆるなり。

先週ご紹介した、山本芳久さんの本に、この箇所の解説があります。
「何を愛しても何を手に入れても本当の満足が得られなかった。
しかし、神と出会って、神を愛するようになって、真の恋人である神と出会って、自分の心は本当の満足をはじめて得ることができた。
なぜなら、もともと自分は神に向けて造られていたのだから、と。
自分が「あなた(御身)」を愛するようになったのは比較的最近のことだが、「あなた」の方では、私があなたを愛し始める前から私と共にいてくださって、私のことを愛し導いてくださっていたのですと。」

先日、宮﨑神父様がおっしゃっていました。
「最近では、わたしは無宗教です、家には仏壇も神棚もありません、そういう人がとても多い。」

自宅の神棚に手を合わせなくても、神社でお賽銭を投げて祈る日本人は多いのでしょう。
ワールドカップで日本の勝利を祈った人、受験の合格を願って祈る人、何かに向かって祈るという行為はそう難しいことではないのです。
ですが、それは「信仰」ではありません。

自分が神様から愛されている、そう実感して涙したことがある。
自分の事だけではなく、友のため、誰かのために祈りを捧げる。

信仰があるというのは、そういうことだと思います。

 

「ラザロの蘇生」(1631)

この絵は、最近観た映画の中で初めて知りました。
オランダの画家、ヤン・リーヴェンスの作品です。
映画のストーリーが頭に入らないほど惹きつけられました。

イギリスのBRIGHTON&HOVE MUSEUMSに収蔵されています。

ヨハネの福音書11章のラザロの蘇生のエピソードでは、イエス様が涙を流された様子が描かれています。 

わたしたちの親しい友ラザロが眠ってしまった。しかし、わたしは彼を眠りから覚ましに行く。」(11)
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に死ぬことはない。このことをあなたは信じるか」。(25~26)

心に憤りを覚え、張り裂ける思いで、(33)
イエスは涙を流された。(35)
イエスは、またも心に憤りを覚えて、墓においでになった。(38)

ラザロを愛しておられたから悲しまれた涙ではない、といろいろな方が解説されています。

愛する者たちが、イエス様の言葉を理解していないことへの怒りもあったのでしょう。
死から逃れられない、罪深い人の性への怒りもあったことでしょう。
そして、このこと(ラザロを起こされたこと)がイエス様の逮捕につながる重大な出来事となったのでした。

「ラザロ、出てきなさい」(43)

こう叫ばれて、「イエス様は愛するラザロを死から脱出させたのだ」と、わたしは聖書の師匠から学びました。

この絵のイエス様の天を仰ぐような様子を見た時、やはりイエス様は愛しておられた友の死に涙を流されたのだ、と感じました。

イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。(5)

イエス様の涙が書かれているのは、3か所あります。
エルサレムに近づいたとき(ルカ19・41)、「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」(ヘブライ5・7)と表現された箇所、そして、ラザロの蘇生に関する箇所です。

わたしは、この3つのエピソードいずれからも、イエス様の愛を感じるのです。 

民(エルサレム)を救う愛、天の父への愛、そして愛する友(仲間、弟子)を想う気持ち。

・・・・・・・・・・・・・・

バキアーナスという曲をご紹介します。
日本語では「ブラジル風バッハ」と言うようです。
ブラジル出身のエイトル・ヴィラ=ロボスの代表作です。

先ほどのラザロの蘇生の絵を見ながら第4番の1、前奏曲Prelúdioを聴いてみてください。

わたしはこの曲に、イエス様の涙を感じるのです。

 

目覚めの季節

宮﨑神父様はお説教の中で、たびたびおっしゃっています。

「自分がいつ天に召されるかはだれにも分からない。
 いつも、目を覚ましていなさい。」

 

神は最も普通の日常、毎日の生活の中に隠れておられるということを忘れないようにしよう。
神は日々の仕事の中に、偶然の出会いの中に、時には助けを必要とする人の中や、退屈な灰色の日々の中にもおられ、わたしたちを呼び、話しかけ、わたしたちがどのように行動すべきか促される。

この待降節、無気力を振り払い、眠気の中から目を覚そう。
意識し、注意深く、目覚めて生きているか、日常生活の様々な状況における神の存在に気づく努力をしているか、自問しよう。
もし、今日、わたしたちが神の訪れに気づかないならば、終わりの時が来ても、準備できていないだろう。
だから、目覚めていよう。

教皇フランシスコ 11/27 正午の祈りでの説教より

 

先週、友人のお兄様が亡くなられたと連絡がありました。
まだ50歳でした。
家族と夕食を食べていて、突然倒れられたそうです。

持病があったわけではないそうなので、こどもたちと食事中に自分が天に召されることになるとは、夢にも思っていらっしゃらなかったでしょう。

ですが、葬儀でご家族からお話を聞いて、大変驚いたことがあります。

「会社の事務の専門的なことを、数か月前から奥さんに教えていた。
分与できる財産を、弟たちの名義に変える手続きも先月済ませていた。」

おそらく、死期が近いことを察してではなく、偶然のことなのだろうとは思います。
ですが、彼は「準備ができていた」のです。

 

目を覚ましていなさい。

いつもこの言葉とその教えを耳にし、理解しているはずのわたしたちは、「目を覚ます」ことの意味をしっかりと意識しておかなければなりません。

パパ様のお説教にあったとおり、「意識し、注意深く、目覚めて生きているか、日常生活の様々な状況における神の存在に気づく努力をしているか」を自らに問い掛けてみましょう。

 

山本芳久さんの、「愛」の思想史という新刊を読みました。
山本さんの本はいつもわたしには難しく、途中で挫折してしまうこともあるのですが、この本は分かり易く、とてもお勧めです。

たくさんの学びがありましたが、特に心に残った箇所を抜粋しながらご紹介します。

「主はわたしの牧者。」で始まる、詩編23章についての下りです。

「愛」という言葉は一度も使われていませんが、この詩篇以上に鮮やかに神の愛とはどういうものかを表現した旧約聖書のテクストはほとんどないと言っても過言ではありません。
旧約聖書の中には、イスラエルの民の導き手である神のことを「牧者」として捉える箇所はいくつもあります。
ですが、「わたしの牧者」というような仕方で個人の内面的な神への信頼関係が描き出されている箇所は他にはほとんどありません。
単なる一般論ではなく、極めて親密な「わたし」と「神」との信頼関係が描き出されているのです。

「恵みと慈しみは生涯わたしに伴う」の「わたしに伴う」と訳されている部分は、原文のヘブライ語では「わたしを追いかける」と訳することができる単語になっています。
神の「恵みと慈しみ」の方が、わたしを見失わないように、わたしを追いかけてくるというわけです。

この詩篇に表現されているのは、「死の影の谷を歩む時」とか「敵」といった詩句に顕著なように、この世界が様々な危険に満ちた場所であることが痛切に自覚されたうえで、その危険や困難に正面から立ち向かう力を与える者として、牧者である神に対する信頼が歌い上げられているのです。


 

危険や困難に立ち向かう、病気や苦しみと向き合う、そうした場面に置かれたとしても「目覚めて」いることが大切です。

 「意識し、注意深く、目覚めて生きているか、日常生活の様々な状況における神の存在に気づく努力をしているか」

このパパ様のお言葉を、胸に刻み、今年の待降節の日々を大切に過ごしていこうと思います。

 

ベトナムコミュニティの力作が完成しました!! 

 

 

 

待降節を創る

いよいよ今年の待降節が始まりました。

ミサの式次第が新しくなったこともあり、背筋が伸びるような、清々しい気分です。

待降節になると、今年を振り返ってやり残したことはないか、今年を誠実に生きたか、などを丁寧に想う気持ちが自然と湧き起こります。

もし心に引っかかった棘のようなものがあれば、降誕祭までにクリアにする。
いつも、そうやって新年を迎えることができるように取り組みます。

 

毎年、久留米教会では祭壇に大掛かりな馬小屋の飾り付けをしますが、コロナ前は日曜学校のこども達や青年会の若者たちが協力して取り組んでくれていました。

一昨年からは、ベトナムコミュニティのみんなが率先して手伝ってくれていましたが、今年は、神父様が全面的におまかせになり、かなり凝った設定になっているようです。

 

 

筑後地区には、300名ほどのベトナム人の若者たちが暮らしています。
留学生、技能実習生、中には資格をとって就職している人もいます。
みんな20代前半ですので、おかげで久留米教会は若いパワーで活気に満ちています。

これは、本当に素晴らしいお恵みです。

月に一度、ベトナム人の司祭を招いてベトナム語のミサがありますが、それでも毎週日曜日の日本語でのミサにも参列する、熱心な信仰を持ったベトナムコミュニティの若者たち。

彼ら、彼女たちに、「隣人愛」を抱くのはごく自然なことです。

 

ベネディクト16世の回勅「神の愛」には、こうあります。(18)

神への愛と隣人愛を切り離すことはできません。
それらはただ一つのおきてをなしています。
しかし、この二つの愛をともに生かしているのは神の愛です、
まず神がわたしたちを愛したからです。

重要なのは、無償で与えられる愛を自分のなかで経験することです。
そして、この愛は、本性的に、人に分け与えないでいることのできないものです。
愛は愛によって成長します。
愛は「神的」なものです。
愛は神から出て、わたしたちを神と結びつけるものだからです。
愛はわたしたちを神と結びつけながら、わたしたちを一つの「わたしたち」にします。
こうしてこの一つとされた「わたしたち」は、わたしたち人間の分裂を乗り越え、わたしたちを一致させます。

神様に愛されていること実感したら、無償で誰かにその愛を伝えたくなる。
そういう連鎖が起こるのが「神の愛」なのだ、とベネディクト16世はおっしゃいました。

 

来月発行の久留米教会の広報誌みこころレター、今回のテーマは「共同体の役割」としました。 

コロナ禍にあって、本来の共同体活動が全面的にできるようになるにはもう少し時間がかかるでしょう。

それでも、例えばベトナムコミュニティの若者たちの献身的な行動は、わたしたちに無償の愛を与えてくれています。

わたしたちはとかく、「まだできない」と考えがちです。
「役に立ちたい」という 若者たちの愛が、わたしたち久留米教会共同体をひとつにしてくれている、毎週、そう感じています。

来週の完成が楽しみです!

 

 

聖書の楽しみ方

紅葉が美しいですね。

聖書は、すべての人を心にかけてくださる神の愛といつくしみを示す本であり、そのかかわりの中に生きるように人間を招く本です。
聖書は、「内容を覚える」教科書ではなく、人生を支える「糧」です。
だからこそ、わたしたちの心に響きます。

これは、今年の聖書週間(11/20~27)のリーフレットに寄稿された、アベイヤ司教様のお言葉です。

リーフレット『聖書に親しむ』
https://www.cbcj.catholic.jp/wp-content/uploads/2022/08/bibleweek2022.pdf

 

「新約聖書外典」を読みました。
正典から排除された(正式に採用されなかった)文書を、外典と言います。

以前、ある神父様が「昔は神学校で『これは読んではいけない』と言われていたようですが、面白いので読んでみました。」とおっしゃったので、いつか読もうと思って買ったまま、ほこりをかぶっていました。

たとえば、ラファエロの「聖母の結婚」という絵をご覧になると、聖書のどこにこのエピソードが?と思われるでしょう。

外典のヤコブ原福音書にあるのは、次のような物語です。

マリアは神殿で育てられていました。
大祭司ザカリアの夢に天使が現れ、マリアの結婚相手にふさわしい人を集めて、その手に持った杖に徴があらわれた人を夫とするように、と告げられました。
ヨセフの杖から鳩が出てヨセフの頭にとまるという徴があり、マリアを引き取って保護したのです。
この物語では、「結婚した」とはなっていません。
というのも、この時マリアは12歳、男やもめだったヨセフには息子が何人かいて、自分はマリアの夫には年を取りすぎていると思っていたからです。
マリアがイエス様を産んだ時は、16歳になっていました。

(このストーリーは福音書には書かれていませんので、2人の年齢、ヤコブが2度目の結婚だと知っていたと思われた方は、この物語を知っていらしたのです。)

この絵は、1504年に描かれました。
わたしたちが外典として普段読むことの無い書物は、キリスト教徒の中で人気のある大衆文学作品として広く親しまれていたのです。

次の写真は、イスラエルに行ったときに撮影した、ナザレの聖ヨセフ教会のステンドグラスです。
ヨセフの杖にユリの花が咲いている、という徴が表現されています。 

この教会は1914年に建てられたそうですので、長い間に浸透した福音書と外典の物語が、自然と融合したことが分ります。

冒頭にご紹介した、今年の聖書週間のリーフレットの2ページ目は、若松英輔さんのコラムです。
わたしが一番好きな彼の著書は、「イエス伝」です。
その中に、こういう記述があります。

ある若きインド人はこう語り始めた。
「もし皆さんがキリスト教徒になりたいと希望するなら、キリストが生まれたのはエルサレムかベツレヘムのどちらかといったことや、 山上の説教が語られた正確な日時を知る必要なない。
もとめられているのは、ただ山上の説教を感じることである。
説教がなされた時期を論じるために書かれた数多くの言葉を読む必要はない。
それらはすべて学者たちのたのしみにすぎない。
そうしたことは彼らに任せておこう。
私たちは『マンゴ』を食べようではないか。」

マンゴとは、この場合「聖典」を意味している。
キリスト者に求められているのは「山上の説教」について知ろうとすることではなく、そこで語られる言葉を「感じる」ことだというのである。
何かについて知ろうとすることに留まるものは、空腹にもかかわらず『マンゴ』を目の前にいつまでもその生態を調べているような者だというのである。

聖書の楽しみ方は、ぞれぞれにいろいろとあるかと思いますが、わたしは絵画や音楽の中に聖書のエピソードを見つけてその箇所を読むのが好きです。 

聖書を読んでもわからないことが多い、と思っている方には、わたしが聖書を学んだ師匠がおっしゃった言葉をお伝えします。

「イスラエルの人々の体験を通して神様を知るために、聖書があるのです。」

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死者の月、毎日の祈りの中で、特に親しかった方々のことを想っています。
大好きなマックス・リヒターのNovember(11月)という曲があります。
最近気に入っている、マリ・サムエルセンの北京での演奏は、何度聴いても涙がこぼれます。
天国の皆さんのことを想いながら、聴いてみてください。

 

 

 

 

模範となる人

12日土曜日は、宮﨑神父様の71歳のお誕生日でした。

夜ミサで、花束をお渡ししてお祝いしました。
久留米教会に赴任して来られて6年です。
ちょっとコワモテですが、意外とチャーミングで素敵な神父様、まだまだよろしくお願いします!

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七五三のお祝いを、13日のミサのなかで行いました。
無邪気なこどもたちの様子を見ていると、いつも思います。
「教会で出会うわたしたち大人が、この子たちの模範となる存在でいたいな。」と。

 

愛する者よ、あなたは健全な教えに適うことを語りなさい。
年老いた男には、節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい。
同じように、年老いた女には、聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教える者となるように勧めなさい。
そうすれば、彼女たちは若い女を諭して、夫を愛し、子供を愛し、分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うようにさせることができます。
これは、神の言葉が汚されないためです。
同じように、万事につけ若い男には、思慮深くふるまうように勧めなさい。
あなた自身、良い行いの模範となりなさい。
教えるときには、清廉で品位を保ち、非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。
そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。
(テトス2・1~8)新共同訳

あなたは、健全な教えにかなうことを語りなさい。
年老いた男性には、節制し、謹厳で、思慮深く、信仰と、愛と、忍耐においても健全なものであるように勧めなさい。
同じく、年老いた女性には、敬虔な生活を送る者にふさわしく振る舞い、人を謗ることも、酒におぼれることもなく、善いことを教える者となるように勧めなさい。
そうすれば、年老いた女性は、若い女性に、夫を愛し、子供を慈しみ、慎み深く、貞潔で、家事に勤しみ、親切で、夫に従うようにと、教え導くことができます。
これは神の言葉が謗られることのないためです。
若い男性も同じく、すべてにおいて慎み深くあるように勧めなさい。
あなた自身を善行の手本として示しなさい。
教える場合には、誠実で謹厳で、非の打ち所のない、健全な言葉を用いなさい。
そうすれば、反対する者は、一言も悪口を言うことができず、恥をかくことになります。
(同)フランシスコ会訳

新共同訳よりフランシスコ会訳の方が柔らかい書き方ですが、年老いた男、年老いた女、若い女、若い男、という分け方がストレートで分かりやすい!
現代人には多少、抵抗がある表現かもしれませんが、ストライクに正論ではないでしょうか。

年配の男性=忍耐深くあるように
年配の女性=善いことを教える者となるように
若い女性=家族を愛するように
若い男性=思慮深くふるまうように

(ストレスの多い女性にお酒の注意を促し、男性に忍耐を求める。昔からそうなのですね、、、。)

信者の場合、自分の信仰の模範となる人が代父、代母であることも多いかと思います。
わたしも、自分の代母をとても尊敬しています。

現代社会のさまざまな問題のなかでも、わたしが特に気になっているのがこどもの不登校です。

11日の西日本新聞朝刊の社説に、9年連続で不登校の小中学生の数が増加している、と書いてありました。
2021年度は24万4940人で、コロナ禍にあって臨時休校や活動制限もあり、学校を休むことへの抵抗感が薄れたことも影響している、とのことでした。
そして、3人に1人が誰にも相談せず、支援を受けていない現状なのだそうです。

久留米教会も、コロナ前のミサはこどもの参列がとても多かったのですが、家族の仕事の都合や感染のリスクを考えて、などの事情があり、最近はこどもたちの姿がめっきり減ってしまっています。
もしかしたら、教会のこどもたちにも不登校の問題を抱えている子がいるのでは、と心配になります。

このことを友人と話していたら、「うちの娘も小学校の時、5ヶ月不登校だったよ。弟の息子も不登校になって、転校したよ。」と、当時の話を聞かせてくれました。

あたらめて、この問題が身近なことなのだと痛感させられました。

 

そのとき、 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。
「神の国は、見える形では来ない。
『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
(ルカ17・20)

こどもが必要としているのは、必ずしも「模範となる大人」ではないかもしれません。
優しい親、素敵な家族であっても、大人もこどもも生きづらさを感じる世の中です。

それでも、わたしたち大人が担う役割は小さくはありません。

せめて姪たちには、模範、お手本となる存在であるよう、善いことを教えることができるように、わたし自身が生き方を見せることができるようにならなければ。
今、このことを強く感じながら過ごしています。

それぞれの家庭の中に、そして久留米教会の中に、神の国がありますように。

 

死と共に歩む

6日の午後、久留米教会のすべての死者のための追悼ミサが捧げられました。

わたしも、この数年のうちに親しかった人たちが天に召されたので、参列して祈りを捧げてきました。

侍者は、3人の女の子でした!

皆さん、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
(フィリピ2・1~4)

普段のごミサももちろん、皆で心を一つに祈るのですが、「死者のためのミサ」の祈りの一体感はまた違ったものを感じます。
心を合わせ、天に召された近しい人々のために思いを一つにして祈る時間には、特別な力があると思います。

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映画監督のジャン=リュック・ゴダールさん(91)がスイスの自宅で「安らかに息を引き取った」というニュースをご覧になったでしょうか。
「スイスで法的支援を受けて自発的に旅立った」という声明でしたが、スイスでは状況によっては自殺幇助が合法なのだそうです。
オーストラリアの環境・植物学者デイビッド・グドールさん(104)も、2018年にスイスの医療機関でこの措置によって死を選択しています。

現在、10カ国以上の国・地域で自殺ほう助が認められています。
伝統的にカトリック教徒の国だったスペインでも昨年、右派政党やカトリック教会の強い反対を押し退けて「死ぬ権利」が合法化され、積極的安楽死も認められるようになりました。

「カトリック教会は、神の法に触れるとして死を手助けすることに反対しており、フランシスコ教皇も医師に対し、死を手助けしたいという誘惑を退けるよう促していた。」
と、CNNのニュースサイトに書いてありました。

教皇様は「私たちは死と共に歩んで行くもの。死を挑発したり、いかなる類いの自殺も支持したりしてはならない。」とコメントされています。

日本ではそれ自体が罪として罰せられていますし、倫理的な観点からもこの制度が導入されることはおそらくないように思います。

そもそも、人間の「倫理」とは何なのでしょうか。
基準があるとすれば、それはどのようなものなのでしょうか。

死とは、望んで得るものではなく、神様に(天に)その命を託すこと、身を委ねることであってほしいと思います。

 

「今、わたしの心はかき乱されている。
何と言おうか。
『父よ、わたしをこの時から救ってください』
と言おうか。
いや、このために、この時のためにこそ、わたしは来たのである。
父よ、み名の栄光を現してください」。
(ヨハネ12・27)

死を目前にして、イエス様が心を騒がせた様子が、ここに書かれています。

「この時」は、イエス様のようにわたしたちに示されることはないでしょう。
イエス様は、全ての人を導く光としての役割を担っていました。

「もうしばらくの間、光はあなた方のうちにある。
闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。
闇の中を歩く人は、自分がどこに行くのかを知らない。
あなた方は光のあるうちに、光の子となるために光を信じなさい」。
(ヨハネ12・35〜36)

 

教皇様のお言葉のとおり、わたしたちは「死と共に歩む」人生を送っています。

自分に残された、この世での時はわからないのですから、神様の導かれる光に従って歩んでいくしかないのです。

主は信頼に値する方です。
必ず、あなた方を強め、あなた方を「邪悪なもの」から守ってくださいます。
どうか、主が、あなた方の心を神の愛とキリストの忍耐へと導いてくださいますように。
(2テサロニケ3・3、5)

生きることは時に、忍耐を必要とします。
特に、病に苦しむ人にとっては、生きることは大変な苦痛を伴うでしょう。

この死者の月には、そうした方々のためにも祈るように導かれているように思います。

 

「悲しみ」の意味

コロナ禍においては、信仰の有無に関わらず、多くの人が「生と死」について考えを巡らせたでしょう。

今はどうでしょうか。
あれほど世界中が大混乱に陥れられ、見えない感染症に怯えて暮らしていたのが、もう過去のことのような気がしてしまいます。

コロナウィルスで亡くなられる方が、家族に看取られることなくお骨になって自宅に戻る。
これは、今現在も少なからず起きている、旅立ちの現実です。
これまでに、全世界で658万人の方がこのウィルスの犠牲になったと報道されていました。

家族や大切な友人の最期を見送ることができる、見送ってもらえることは、とても恵まれたことです。

終活、という言葉がありますが、自分がいつ天に戻されることになっても良いように備えておけることも、また恵まれた状況でしょう。

残される人をできるだけ悲しませないように、煩わせないように、と準備しておくことと同様に、日頃からわたしたち自身が心と生活において豊かに構えることが必要です。

 

わたしたちは皆何らかの形で悲嘆を経験しているだろう。
問題は、それにどのように耐えるかである。
なぜなら、悲しみにもわたしたちにとって重要な意味があり、そこから性急に逃れようとするならば、その意味を見失う恐れがあるからである。

悲嘆や心痛を望む人はいない。
誰もが常に喜びにあふれ、陽気で、満足した生活を望んでいる。
しかし、それは不可能であるばかりか、わたしたちのためになることとも言えない。

「悲しみを読む」ことを学ぶのは大切である。
今日、それはどちらかというとネガティブなことのように考えられている。
ところが、悲しみはわたしたちの人生に不可欠な非常ベルのようなものであり得ると同時に、より豊かな心の風景を旅させるものでもある。

わたしたちが孤独と悲嘆を開かれ目覚めた心で体験するならば、人間的・霊的により強められてそこから脱することができるだろう。
わたしたちの限界を超える試練はない。
(教皇フランシスコ10/26のバチカン一般謁見での講話より)

悲しみを読む。
その中に意味を見出す作業もまた大切なことなのだ、というパパ様のお言葉に感動しました。

悲しみはたいていの場合、突然わたしたちを覆い尽くします。

悲しさに支配されないようにするには、普段の生活の仕方が大事なのだと教えられています。

「いつも目を覚ましていなさい。」

イエス様がそうおっしゃっていたとおり、いざという時のために日頃から備えておきたいものです。

 

明日から11月、死者の月です。
個人的に、一年で一番大切に想っている祈りの月です。

「亡くなった人のことは心配しなくていい。
神様のところにいるのだから。」

11年前、そう言ってもらったことで心の底から救われました。

それから数年後、悲しみがようやく癒やされたと感じることが出来た時から今日までの、豊かな心の風景の旅路を振り返りながら感謝する、そんな時がわたしの11月です。


御前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、
朝早く地に降りる一滴の露にすぎない。
全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
あなたは存在するものすべてを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し、
あなたが呼び出されないのに存在するものが
果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
あなたはすべてをいとおしまれる。

あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。
主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、
罪のきっかけを思い出させて人を諭される。
悪を捨ててあなたを信じるようになるために。
(知恵 11・22〜12・2)

 

「暗闇からの祈り」と題された詩編88を、死者の月に心に留めたいと思います。

わたしの救いの神、主よ、わたしは叫びます。
昼も夜も、あなたに向かって。
わたしの祈りをみ前に至らせ、わたしの叫びに耳を傾けてください。
わたしの魂は悩みに満ち、わたしの命は陰府に近づきました。
わたしは穴に下る者のうちに数えられ、
力尽きた者のようになりました。
わたしの床は死者のうちにあり、わたしの寝床は墓の中にあります。
わたしは刺し殺された者のようです。
あなたはもはや死者を心に留められず、彼らはあなたの愛から切り離されています。
主よ、わたしは日ごと、あなたに呼び求め、
あなたに向かって手を伸べました。
あなたは死者のために不思議な業を行われるでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・

どこにも出掛けられなくて悲しいな、、、、と思っていたら、イタリアに出張中の妹がたくさん写真を送ってくれました。
少し旅行に行けたような、幸せなお裾分けでした。

Basilica di Santa Maria Novella(サンタマリアノヴェッラ聖堂)

 

Duomo(ドゥオモ)

 

Basilica di San Lorenzo-Cappelle medicee(メディチ家の礼拝堂)

マリア像byミケランジェロ

このマリア像は初めて見ました!

心豊かな一週間になりますように。

 

毎日を生きる

1ヶ月ぶりにごミサに与ることが出来ました。
今求めていた聖句に出会えるのも、ミサの醍醐味であると思っています。

自分を正しい人間であると思い込み、ほかの人をさげすむ人々に、イエスは喩えを語られた。
(ルカ18・9)

「思い込み」新共同訳では「うぬぼれて」、つまり自分自身に頼る人々とは、「むしろイエスの弟子たちのことであろう」と聖書と典礼の注釈にありました。

「胸を張って立ち、心の中で祈ったファリサイ派の人」と、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら声に出して言った徴税人」。

とてもハッとさせられました。

 

私は聖書が私を理解し、私を説明してくれているのを感じます。
聖書は私が切望していたことや恐れていたことを私に指摘し、待望と期待のかぎを与えてくれます。
聖書は神を探す人、真理と人生の意味を探す人、絶望や恐怖から逃れようとする人にとって、自分を見せてくれる鏡です。
聖書は人間に人間自身、その種々の望み、その目的を啓示し、復活されたかたのことばは、ほんとうに世の救いの歴史のなかで行われつつあるすべてのことの上に押された神の封印であるということを悟らせてくれます。
(「宣教者をそだてるイエス」カルロ・マリア・マルティーニ著より)

 

世界にはまだキリストを知らない人がたくさんいます。
日本でもわたしたちはキリストを知らない人たちに囲まれて生きています。
キリストを伝えることである宣教は、神の子ども、キリストの弟子となったわたしたち皆に与えられている使命です。
(カトリック中央協議会 「日本の祈願日における解説」より)

 

世界宣教の日にあたり、自分自身をきちんと見直し、信仰を持っていることをうぬぼれず、自分を通して宣教できるようになるためには、もう少し謙虚にならなければいけないと強く思った日曜日でした。

 

今回の入院中も、1日に一度は聖書を開いて読んでいました。

昔、入院していた時に母がしてくれていたように、目をつぶり、パッと開いたページを読むのが好きです。
抗がん剤の治療中に吐き気を少しでも忘れることができるように、と、母がそうやってわたしに聖書を読んでくれていました。

死者の月を前に、「生」についてのいくつかの聖句をピックアップしてみました。

生きるということはこういうことである、と、聖書ではさまざまな表現でわたしたちに問いかけています。

 

永遠の命とは、
唯一のまことの神であるあなたを知り、
また、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
(ヨハネ17・3)

たとえ、誰かが自分は信仰をもっていると言っても、行いを伴わないなら、何の役に立つでしょう。
人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるものではありません。
息をしない体が死んだものであるのと同じように、行いの伴わない信仰もまた死んだものです。
(ヤコブの手紙2・14、24、26)

この箇所は、いつも胸にグサッと刺さります。
行いの伴わない信仰では、誰にも宣教することはできません。

 

地の塵の中に眠っている多くの者が目を覚ます。
ある者は永遠の命に。
ある者は永遠の恥とさげすみに至る。
懸命な者たちは、大空の光のように輝き、
多くの者を義へと導いた人々は星のように夜々限りなく輝く。
(ダニエル書12・2〜3)

これは、旧約聖書中の最初の復活信仰に関する記述なのだそうです。
紀元前2世紀ごろに書かれたこの文の美しさに、現代のわたしたちも感動させられます。

 

お前は最後までお前の道を行き、憩いに入りなさい。
その時の終わりに、定められた分を受けるために、お前は立ち上がるであろう。
(ダニエル書12・13)

「立ち上がる」、すなわち復活を意味します。
最後まで自分の役割を果たす生き方をしなさい、と言われているような気がします。

 

毎日をより良く生きていくために、こうした聖書のことばはわたしにとって欠かすことのできないものです。

秋の夜長に、聖書を開いてみませんか?
きっと、聖書がわたしを理解してくれている、と感じることができると思います。

みなさんの役割

美しい空、澄んだ空気、可憐な草花、美味しい果物、秋は本当に素晴らしい季節です!

教会の前庭も、いつもの季節を知らせる香りが漂い始めています。

むせ返るような香り!(だそうです!!)

こんな気持ちの良い気候の中、自宅で療養生活を送っていますが、妹が家事をしに来てくれているので本当に助かっています。

やはり、こう言う時に頼りになるのは姉妹ですね。

家族にはそれぞれの役割があり、いつどんな時にも助け合える関係を日頃から築いておくのはとても大切なことだ、と、こういう時にしみじみと感じます。

 

ところで、わたしたち一人ひとりに、キリストから受けた賜物の種類に応じた恵みが与えられました。
そして、この方ご自身がある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を教師または牧者として与えてくださいました。
それは、聖なる人々を奉仕の働きができるように準備させ、キリストの体を築きあげるためです。
(エフェソ4・7、11〜12)

お知らせでご案内した通り、10月から久留米教会の各種役割を担う委員会が新体制となりました。

当然のことながら、教会はミサを行うだけではなく、様々な裏方さんたちの役割分担があって維持されています。

今回の新体制では、
■典礼奉仕(毎週の典礼、侍者、オルガン体制の調整)
■各種行事(復活祭、初聖体、冠婚葬祭など)
■渉外・広報(宣教司牧委員会、外国籍の方々との連携)
■営繕(教会、信徒会館、駐車場、墓地の管理)
■財務(毎週の献金・予算決算の管理)

大きく分けてこの5つの役割に、8人の委員が割り振られました。

このキリストによって体全体は、必要なものをもたらす互いのあらゆる触れ合いを通して、また、各部分の役割に従った働きに応じて一つに組み合わされ、結び合わされて大きく成長し、愛に基づいて自分を築きあげていくのです。
(エフェソ4・16)

フランシスコ会訳聖書の注釈には、「ここで強調されているのは、ご自分の体の異なった各部分の相互の触れ合いと愛の交流を通して、キリストは教会を成長させるという点である。」と書いてあります。

これらの役割を担う人の働きと、それをサポートする共同体の皆さんの助けがあってはじめて、わたしたちの教会が築き上げられていくのです。

5つの仕事以外にも、
■女性の会
■ヨゼフ会
■納骨堂維持管理
■日曜学校
■手話の会
■フードドライブなどの福祉活動
■正義と平和を考える会
といった活動が活発に行われているのが久留米教会です。

わたしたちはこのわざに参与することが、恵みとして、キリストの賜物の量りに従って与えられます。
わたしたちが、それを復活された方から絶えまなく与えられる恵みであり、賜物であると認めている限り、この御父とキリストのわざへの参与は、重荷や苦しみとしてではなく、むしろ情熱と創意の泉としてわたしたちのうちに、新鮮で湧き出るような自由なものとしてとどまるのです。
わたしたちを刺激して、自らの立場を本当に見直し、再考し、機会あるごとに新しい目で眺め、わたしたちがしていることの意義と理由、および、どうしたらいっそうよく実行できるかを問うように刺激します。
(「宣教者をそだてるイエス」カルロ・マリア・マルティーニ著より)

 

久留米教会は登録信徒が1000人近く、毎週のごミサには延べ400人ほどが参列する大きな共同体です。

当然ながら、8人の委員だけでは維持管理は困難です。

教会という共同体をより良く築きあげるためには、信徒の皆さんのご協力、アドバイス、ご指導が欠かせないのです。

 

かつて、あなた方は闇でしたが、今は、主に結ばれて光となっています。
「光の子」として歩みなさい。
 実に、光が結ぶ実は、あらゆる善意、正義、真実を備えたものです。ー
主に喜んでいただけることは何か見極めなさい。
(エフェソ5・8〜10)

霊に満たされ、互いに詩編や、賛美の歌、霊的な歌をもって語り合い、主に向かって心から歌い、琴を奏でなさい。
わたしたちの主イエス・キリストの名において、いつも、父である神にすべてのことを感謝し、キリストを畏れ敬う心をもって互いに従いなさい。
(エフェソ5・19〜21)

新しく任命された委員は、平均年齢50歳ほどのメンバーです。
知らないこと、気づかないこと、見落としていること、足りないことが多々あるかと思います。

どうぞ、遠慮なくご指摘いただきたいと思います。

共により良い久留米教会共同体を築きあげていきましょう。
よろしくお願いいたします。

 

 

 

信じていること

教皇フランシスコは、10月の祈りの意向を「すべての人に開かれた教会」とされました。

また、10月はロザリオの月、福音宣教の月です。

すべての人に開かれた、とは、「多様性のうちに互いに耳を傾け合い、教会の外にいる人に扉を開くこと」であると教皇様はおっしゃっています。
教会の外にいる人とは、信じることを熱望し、探している人、とも言えるでしょう。

宣教のためには、わたしたちキリスト者が自分の信じていることを自分の言葉でわかり易く語ることができなければなりません。

膝の治療のため、しばらく入院していました。

入院中、ずっと考えていたことがあります。
「孤独」とは何か、と言うことです。

この2年の間に、知り合いが何人も入院されていたので話には聞いていましたが、コロナ禍の入院生活は本当に孤独でした。
お見舞いどころか、必要なものを届けてくれる家族にでさえ、会うことは許されませんでした。

前回書いたように、「こんな時に、神父様が訪ねて来てくださってご聖体をいただけたら、どんなに幸せか。」と何度も頭をよぎりました。

ですがよくよく考えてみると、本当の孤独というものは、話し相手がいないことではなく「信じられるものが何もない」状態を指すのではないか、そう思ったのです。

 

ダニエル書3章では、偶像崇拝を強要するネブカドネツァル王が、その命令に従わなかった3人の若者を火の燃え盛る炉に投げ入れます。

主の使いが炉の中に下りて来て、アザルヤを囲む者たちのそばにつき、炎を炉の外に追い払った。
そのため、火は全く彼らに触れることもなく、何の危害も苦しみも与えなかった。
その時、三人は炉の中で口をそろえて神をほめたたえて、栄光を帰し、賛美した。
(49〜51)

52節からの長い祈りは、「聖職者が祝日に唱える祈り」なのだ、と以前教わったことがあります。

美しい祈りです。
抜粋してご紹介します。

わたしたちの先祖の神、主よ、あなたが賛美されますように。
代々に、たたえられ、崇められますように。
天の大空におられるあなたは賛美されますように。
代々にほめたたえられ、栄光が帰されますように。

天よ、主を賛美せよ。
主の使いたち、主を賛美せよ。
日と月よ、天の星よ、すべての雨と露よ、すべての風よ、火と熱よ、寒さと暑さよ、夜と昼よ、光と闇よ、稲妻と雲よ、大地よ、山と丘よ、地に生えるすべてのものよ、海よ川よ、空のすべての鳥よ、地のすべての獣と家畜よ、人の子らよ、、、、
主を賛美せよ。
代々に主をほめたたえ、崇めよ。

主に感謝せよ。
主は善なる方、その憐れみは永遠。
主を礼拝するすべての者よ、神々の神を賛美せよ。
ほめたたえ、感謝せよ。
その憐れみは永遠であるから。

彼らのこの美しい祈りを聞いて、ネブカドネツァル王は神を信じるのでした。

主を賛美する。
ほめたたえ、感謝する。

これは、キリスト者にとっては当たり前のようなことかもしれません。
このシンプルで素直な気持ち、わたしたちが信じていることを「孤独な」方々に伝えることができれば、この祈りに触れたことで神の愛に包まれた王のように、その方の心の霧が晴れるかもしれません。

 

福音宣教10月号に、本多峰子さんが書いていらっしゃいます。

福音書の中で「神は愛である」と、神が愛そのものであり、イエス様を見た者は愛なる神を見たのだ(14・9)と断言しているのは、ヨハネだけです。

ずっとイエスの近くにおいていただいて、イエスの愛を感じ知ることができたヨハネは、イエスを「命の言(ことば)」と悟り、イエスとの交わりによって喜びにあふれ、またそうした交わりの輪が広げられることで、イエスをじかに知らない人たちにも喜びが満ちあふれると確信しました。

神が存在し、いつも私たちを愛して、ともにいてくださると確信すれば、どのような時にでも絶望に沈みこんでしまうことはできなくなるでしょう。
神様は私たちを愛し、私たちのつらさを憐れみ、私たちの最も暗いところに入ってきてくださる方です。
(福音宣教10月号 本多峰子さん連載より)

福音宣教月間の今こそ、私たち一人ひとりが「すべての人に開かれた教会」となることを意識して、日々を丁寧に生きましょう。

神様を感じる

10月になりました。
教会では「待降節まであと2ヶ月!早い〜!」なんて言う声も。

日中はまだ暑さが残っていますが、遠くにドライブでもしたくなる気分です。

今週はヨブ記が読まれましたが、この物語を読んで納得するのは難しいですね。

この人は非の打ち所がなく、正しく、神を畏れ、悪を遠ざけていた。
(1・1)

その義人ヨブに、神はサタンを使って苦しみをお与えになるのです。

先月は、静岡県に上陸した台風15号で広範囲に渡って断水が続き、今もまだ解消されていません。
先週は、アメリカのフロリダ州にハリケーン「イアン」が上陸し、街が破壊されました。
風速67メートルで高潮・洪水も起き、10/2の報道ではまだ100万世帯が停電しているようです。

Apple TVでFIVE DAYS at MEMORIAL というドラマを観ました。
2005年8月、ニューオリンズに上陸したハリケーン「カトリーナ」では町の8割が冠水し、当時の政府(ブッシュ大統領)の救出活動の遅れは、貧富の格差や人種問題をあらためて浮き彫りにしました。
実在したメモリアル病院の医師、看護師たちの患者への懸命の対応と、あってはならないある決断の意義について考えさせられる、息の詰まるドキュメンタリーのようなドラマです。

 

 

ヨブ記では、すべての災いはサタンの業である、としています。
イスラエルの民は、何世紀にもわたって、善を行う者は幸福で、悪を行う者は不幸だと信じていました。
フランシスコ会訳聖書の解説には、こう書いてあります。

神がヨブに現れ、語りかけるが、苦しみの意義は明らかにされない。
それは神秘のまま留まる。
だが、重要なのはヨブが苦しんでいる時に神が現れたことである。
これによって、人は苦しんでいる時も孤独ではなく、自分の傍には神が常におられることを深く感じるのである。
ヨブは苦しみの中で改めて神を見出し、その苦しみの中にも慰めを見出す。
神の臨在こそが人々に真の霊的な喜びを与えるものであり、また敬虔な人に繁栄の時も苦難の時も神の臨在を悟らせるのである。

 

3章20節から26節のサブタイトルは「人生の価値」
読んでいて、心が苦しくなる思いがします。

なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛む者に命が与えられるのか。(20)
神はなぜ、光をお与えになるのか、その道が隠されている者に、神ご自身がその道を囲っておられる者に。(23)
わたしには安らぎも、静けさも、憩いもない。ただ悩みだけが訪れる。(26)

さらに、著者は「悪の源」と題する5章でこう断言します。

なぜなら、災いは地から生じるものではなく、苦しみは地から芽を出すものでもないから。
そうだ、人は苦労するために生まれる、鳥が高く飛ぶために生まれるように。(6〜7)

人間の災いも苦しみも、人の心に原因があるのだ、と言います。
言われている厳しさに胸が押しつぶされそうな気持ちになりますが、同時に美しい文章に心が揺さぶられます。

ヨブの究極の信仰告白は、この言葉でしょう。

たとえ、神がわたしを殺しても、わたしは神に信頼する。
しかし、わたしは神の前で、わたしの道を申し立てたい。
これもまた、わたしの救いとなるだろう。
不敬な者は神の前に立つことができないのだから。
(13・15〜16)

 

先ほど紹介したドラマで病院が極限状態にまで追い込まれたのは、ハリケーンや高潮による洪水よりも、対策の甘さ、対応の遅れ、判断の遅さ、幾つもの人為的なミスが原因でした。
真夏に電力も止まり、救出もいつになるかわからない病院で、数人の医師たちによって究極の決定がなされます。

彼らは皆、クリスチャンでした。
病院には聖堂があり、病室の壁にも主人公の胸にも十字架が。
ことあるごとに神に祈り、「自分たちの下した決断は決して間違っていない、神に誓って罪は犯していない。」と確信しているのです。
これは実話です。

「どんなに大変だったか分かります」と言われ、主人公はこう言い返します。

「絶対にあなたには分からない」

 

わたしは、床上まで泥水が浸水して、電気も水道もない生活を何日間も強いられた、そういう体験はありません。
ヨブが受けたほどの苦しみも、想像がつきません。

あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。
(42・5〜6) 

ですが、ヨブのように、苦しみの最中にあっても神様を感じたことはあります。

その時の神様は、平和な日常で出会う神様とは印象が違うのです。

平時に思い描いている(出会ったと思っている)神様は、柔和で落ち着いた、優しいお父様のような笑顔です。

涙が止まらない、涙も出ないような苦難に喘ぐとき、神様はわたしを抱きしめておられるほど近くにいらっしゃるので、どのような表情をされているか分かりません。

世界各地で絶え間なく起きる災害によって、甚大な被害に苦しんでいる方々のために祈りましょう。

一人でも多くの人が、神様を感じることができますように。 

 

素直に耳を傾ける

朝晩の澄んだ空気、本当に気持ち良い季節です。

「朝起きてすぐの心の状態が、その日1日を決める。」

昔読んだ本にそう書いてありました。
この何年もずっとこのことを心に留めていて、起きてすぐにカーテンと窓を開け、神様と母に挨拶をして、「今日も一日よろしくお願いします!」と口に出して言うようにしています。

 

31年前の今頃は、東京の大きな病院に入院していました。

新宿の都庁のすぐそばの病院で、14階の病室からは山手線沿線の街が一望でき、空気の澄んだ日には、遠くに富士山も見えました。
病室からその景色を見渡した瞬間に思ったことは、今でも忘れられません。

「この景色の中に、幾つの病院があって、何人の人が病気で入院しているのだろう。
わたしはその多くの人の中の一人に過ぎない。
わたしは神様から守ってもらえてるはずだから、全然大丈夫!」

ハタチのわたしの心に浮かんだその気持ちは、その後の長い入院生活でもずっと変わりませんでした。

最近、また大きな病院に通院するようになり、コロナが落ち着いたこともあるのでしょうが、本当に多くの方が病院を受診されていることに驚きます。

「スーパーで出会う人々とは違う。
この人たちは皆、どこかに病気や不具合を抱えているんだ。」

25日のミサの福音書では、金持ちとラザロのたとえ話が読まれました。
金持ちは、死んでからようやく周りを思いやる気持ちを見せます。
そして、周りと言っても自分の兄弟のことだけでした。
アブラハムに頼むときにでさえ、「彼らもこんな苦しい場所に来ることがないよう、きびしく言い聞かせてください。」と自己中心的な言い方です。
それに対しアブラハムは、「彼らの言うことを聞けば良い」と答えます。
それでも食い下がる金持ちは口答えをします。
「しかし、アブラハムは言った。『もし、モーセや預言者たちに耳を傾けないなら、たとえ、誰かが死者の中から生き返っても、彼らはその言うことを聞かないであろう』」。
(ルカ16・19〜31)

聞いて行動することが求められているのです。
聞いても行動しないのならば、全く意味がありません。
まずは、耳を傾けるのです。
今、わたしたちの助けを必要としている人のために、心を開き、耳を傾け、愛の実践を実行することが必要なのだ、と、宮﨑神父様がお説教でおっしゃいました。

病院での出会いについて書いたのは、聖体奉仕者の役割を担っていらした方から「コロナ禍になって、病院やご自宅に聖体を持って行くことができなくなって久しい。求めていらっしゃる方がどのくらいいるのかも把握できていない。」というお話を伺ったからです。

宮﨑神父様にお願いしてみました。

「病院はまだ外部からの訪問を受け入れないでしょうが、ご自宅にいて教会に来ることができないご高齢の方のために聖体奉仕者の方々が働けるように、司教様に聞いてみていただけないでしょうか。」

 

わが子よ、施すべき相手に善行を拒むな、あなたの手にその力があるなら。
出直してくれ、明日あげよう、と友に言うな、あなたが今持っているなら。
友に対して悪意を耕すな、彼は安心してあなたのもとに住んでいるのだ。
理由もなく他人と争うな、あなたに悪事をはたらいていないなら。
不法を行う者をうらやむな、その道を選ぶな。
主は曲がった者をいとい、まっすぐな人と交わってくださる。
主に逆らう者の家には主の呪いが、主に従う人の住みかには祝福がある。
主は不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜る。
(箴言3・27~34)

 

耳を傾け、聞いて、自分が今何をすべきかを自問し、実行する。
できないことに囚われずに、やるべきこと、できることを。

神父様のお説教を聞いて、このことを強く感じた日曜日でした。

 

主の御手にあって王の心は水路のよう。
主は御旨のままにその方向を定められる。
人間の道は自分の目に正しく見える。
主は心の中を測られる。
神に従い正義を行うことは、いけにえをささげるよりも主に喜ばれる。
(箴言21・1~6)

 

信愛から自転車で来られて誰にでも元気にご挨拶してくださるシスター、お御堂に入る前に必ずマリア様のご像の前でお祈りされるご夫婦。
こうした風景が、本当に大好きです。

 

神様からのサイン

毎週、ここを読むのを楽しみにしてくださっている仲良しのおばさま方。
最近はなかなかお目にかかる機会がなくなっている方もいらっしゃるのですが、感想を聞かせてくださったり近況を知らせるお電話をくださり、色々とお話しするのも楽しみの一つです。

みなさん、何かしら健康上の問題、日常生活の変化などがあり、何事もなく平穏な日々というわけにもいかないようです。

わたしは、膝の痛みに悩まされています。
この痛みと付き合い始めて1年になります。
最近はますますひどくなってきてかなり辛いのですが、先日、フッとある考えが下りてきたのです。

「この痛みとうまく付き合っていくには、これは神様からの何らかのサインなのだ、と思ったほうがいい。」

そうしたら、(痛みは全く改善しませんが)気持ちがちょっとだけ楽になりました。

信仰を持っていない人からしたら、「それって、プラシーボ効果じゃ?」と言われそうですね。

プラシーボ効果とは、本来薬としての効能が全くない物質を摂取しているのに、「お薬が効いた!」と感じる効果のことです。
一種の「思い込みによる心理的な働き」なのだそうです。

 

識別は、思いがけない出来事の中で、イグナチオの足の負傷のように、時には不快な状況の中でも、主が与えるサインを認識することを助けてくれる。
そして、彼の場合のように、そこから永遠に人生を変える出会い、人生の歩みをより良いものとする出会いが生まれることがある。
教皇フランシスコ
9/7バチカン一般謁見での講和より

どのような困難な状況にあっても、その日々の中に神様からのサインを見出そうと思えることは、それ自体がお恵みでしょう。

いま、アリストテレスに関する本を読み進めているのですが、彼の父親はお医者様でした。
医者と言っても、当時(紀元前4世紀)は、病気の原因は神々の怒りだと考えられていて、医者は病人を癒すために医術の神(アスクレピオス)の力を引き出すという、魔術師のような役割でした。

それでも、アリストテレスの父のニコマコスは新しい発想の医者だったそうで、病気の原因は自然に由来するので、自然に即した方法で病人を治療することができる、という、当時にしては革新的な考えの流派に属していました。
そうした父親の影響がベースにあり、アリストテレスは哲学者として、当時のライバルたちとは一線を画す価値観と感性を磨いていきます。

彼にとって、善い生活とはこの世で幸福に暮らすことでした。
そのための鍵は、友情、家庭生活、政治への参与、観想といったものであると主張しました。
こうした考え方は当時としてはかなり「先を行った」もので、10数世紀のちに彼の倫理学書が再発見されたときには、天国に望みを託しているキリスト教徒たちを驚愕させました。

アリストテレスはBC384〜322年に生きた人です。
イエス様がお生まれになるよりも300年以上も前に、ギリシャには優れた哲学者、数学者、天文学者などが数多くいて、ある程度の階級の人々は、非常に高度な知的教育を受けていたのです。

ですが、長きに渡りイエス様の時代も、病気や災害は(いろいろなパターンの)神の怒りによる仕業、先祖の冒した罪によるものと信じられていました。

そうではないということを知っている、現代のわたしたちは幸いです。

神様は、災害をひき起きしてわたしたちを不安に陥れるようなことはなさいません。
美しい自然を与えてくださるのが神様です。

 

18日のミサのアレルヤ唱は、本当に美しい聖句でした。

アレルヤ アレルヤ
イエス・キリストは富んでおられたのに貧しくなられた
あなたがたがキリストの貧しさによって 富むように
アレルヤ アレルヤ

主は豊かであられましたが、あなた方のために貧しくなられた、という慈しみです。
ご自分の貧しさによってあなた方を豊かにしようとなされたのです。
(2コリント8・9)

 

わたしは、わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。
この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。
(1テモテ1・12)

 

神は、わたしたちがどのような苦難にある時でも慰めてくださいます。
そこで、わたしたちも、自分たちが神から慰めていただくその慰めによって、あらゆる苦難の中にある人を慰めることができるのです。
わたしたちが苦しみに遭うとするなら、それは、あなた方が慰められ救われるためですし、わたしたちが慰められるとするなら、それは、あなた方がわたしたちも受けているのと同じ苦しみを耐え忍ぶにあたって、力を発揮する慰めがあなた方に与えられるためです。
(2コリント1・4〜6)

 

あなたは、持っている確信を、自分自身のために神の前にもち続けなさい。
行おうと決心したことについて、心に疑いを持たない人は幸いです。
確信に基づいていないことはすべて、罪なのです。
(ローマ14・22〜23)

この場合の確信とは、信仰という意味です。

神様からいただいているサインを見逃さす、聞き逃さず、今という時に与えられている使命を果たすと決心しています。

聖書をこうして読み進め、自分が求めている言葉を見つけることは、膝の痛みで外出もままならない今のわたしにとって、最高の贅沢です。

 

洗礼を授ける(バプティゾー)を「漬ける」と訳した人がいます。
「聖霊によって洗礼を授ける」は「聖霊漬けにする」と言ってもよいかもしれません。
福神漬けの中に入っている野菜が、それぞれの個性を失わず、それぞれの野菜のままでありながら、すべての野菜が福神漬けになっている、というイメージを思い浮かべてはどうでしょうか。
「一人一人が聖霊の香りを放つ者になる」と言ってもよいかもしれません。
幸田和生司教「福音のヒント」より

いま、痛み止め漬けになってしまっているわたしですが、神様からのサインを模索するために聖霊漬けになって、キリストの良い香りを放つ存在になれるよう、もっと努力したいと思います!

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台風接近の中、信徒集会にご参加くださり、ありがとうございました。
決算・事業報告は、12月発行の『みこころレター13号』にも掲載いたします。

 

大切に想うこと

先週の日曜日は、月に一度のベトナム語のミサの日でした。

アベイヤ司教様が司式してくださり、ローマ留学に旅立たれるピーター神父様の通訳で、盛大なミサとなりました。

ピーター神父様の右は、福岡教区に新しく着任されたベトナム人司祭のトゥエン神父様です。
(カッコイイ!)

 

ベトナムコミュニティのみんなは、ほとんどが20代前半です。
多くは、技能実習生として久留米近郊で様々な業種に従事しています。
そして、3年から5年でベトナムへ戻ってしまいます(制度上仕方ないのですが)。

日曜日にこうして集うことの意味、みんなにとっての久留米教会の存在、共同体の仲間であること。
そうしたことを、次号のみこころレターに寄稿してもらう予定です!

そして、11日のミサでは敬老祝福式が執り行われ、班分けの都合で会う機会の少なくなった方々が集い、久しぶりの教会行事となりました。

 

ジュゼッペ神父様も、無事にイタリアへの里帰りからお戻りになりました。

「久留米教会はいい共同体だよね!」

わたしはそう思っていて、ミサで会う方にも時々そう伝えます。

共同体とは、メンバーが人格的に参加し、分に応じた役割を果たすことを通して、一人ひとりが生かされ成長してゆく仲間を意味する。
教会は単なる無名の大衆ではない。
それは、宣教によって呼び集められ、信仰と洗礼によってキリストに結ばれ、聖霊に生かされる共同体であって、「彼らの中には一人も乏しい者はなかった」(使徒言行録4・34)と言われるように、霊的面だけでなく、毎日の生活面でも互いに思いやり、分かち合いながら、天の国目指して地上を「旅する神の民」(教会憲章第7章参照)なのだ。
小教区とは、キリストを信じる地域の信者全員が参加し、主任司祭を中心として責任を共有する共同体である。

鹿児島教区の司教だった、故 糸永真一司教様のブログに、このような記述を見つけました。

 

「共同体主義」という言葉をご存じでしょうか。
民主主義、社会主義のように、政治的なスタンスを表すものですが、普遍的、単一的な価値観ではなく、文化的な共同体(国家、地域、家族など)の中で培われる価値観を重視する政治哲学の立場を、共同体主義(コミュニタリアニズム/communitarianism)と言います。

共同体主義の考え方では、コミュニティを、共通の歴史を通じて発展した興味、伝統、道徳的価値を共有する、単一の場所または異なる場所に住む人々のグループと見なします。
たとえば、世界中に散らばっているユダヤ人(ディアスポラ)は、強い共同体意識を共有し続けています。


進化論的にも、社会進化論的にも、自己中心主義や、自分の属する共同体中心主義という本能、圧力、誘惑は強大だ。
核兵器使用の決定など、権力者の自己中心主義がたとえ「類的破滅」につながっても暴走する可能性だってあるのだ。

(竹下節子さんのブログより)

このように、この単語はあまり良い意味で使われるものではないようです。

でもいいのです。
わたしは自分を「共同体主義」の信者だなぁ、と思っています。
久留米教会という共同体が好きです。

大先輩方と語らうのも、若いベトナムコミュニティのみんなと言葉を交わすのも、「初めて来ました」という方をご案内するのも、こうして広報のお仕事を任せていただけていることも。

同じ信仰、道徳的価値感を持ち、大切に想っていることを共有できる人々との交わりは、わたしの心の支えです。

ベトナムコミュニティのみんなのように、教会に集うことをもっと楽しんでくれる若い人たち、子どもたちが増えるように働きたい、という希望を持っています。

 

夏休みにベトナムに帰省したメンバーが、アベイヤ司教様へのプレゼントを買ってきてくれたそうで、司教様は大変お喜びになっていました。

敬老祝福式では、詩篇1章が読まれました。

幸せな人、神のおきてを喜びとし、昼も夜も教えを心に留める人。
流れのほとりに植えられた木が、
季節になると豊かに実り、葉もしおれることのないように、
この人の行いも実を結ぶ。
神に従う人の集いは神のもとにあり、
神に逆らう者の道は滅びへと続く。

 

 

現代のケリュグマ

いま世界各地を襲っているのが、大規模な干ばつです。
ヨーロッパでは60%以上の地域が干ばつの危険にさらされていて、過去500年で最悪の水不足になっています。

ローマでは川底に眠っていた古代遺跡が姿を現しました。
イラク南部のメソポタミア湿地帯でも、3年にわたる干ばつと少雨で肥沃な土地が干上がり、旧約聖書のエデンの園があったとされる場所もひび割れた状態です。

パキスタンでは、6月から続くモンスーン(雨期)の洪水で国土の3分の1が水没しているといいます。
アフガニスタンでは6月の大地震に続き、現在は洪水に襲われ、甚大な被害が続いています。

16歳の姪が言っていました。
「ニュースを見るとひどいことばかりで、こんな世界に生きているのかと思うと悲しくなる。」

国内で起こる(報道される)ニュースも、世界で起こる災害も、確かにわたしたちを不安にさせます。

「世界は、もし愛がなければ、受け入れるにはあまりにも醜いものである」

という言葉を、本の中に見つけました。

どうしたらこのような世界を受け入れることができるでしょうか。
どうしたら神の存在を認めることができるでしょうか。


誰が神の計画を知り得ましょう。
誰が主のみ旨を推し量れましょう。
死すべき者の考えはおどおどし、
わたしたちの思いは確かではありません。
朽ちるべき体は魂の重荷となり、
地上の幕屋は心配事の多い精神に重くのしかかります。
(知恵9・13〜15)フランシスコ会訳

 

現代社会を生きるわたしたちは、現世での旅(人生)にのしかかる重荷と苦労に打ちひしがれる存在なのです。

決して悲観しているわけではありません。
エマオへの途上でイエス様に出会った、「憂鬱そうな」二人の弟子たちのことが思い起こされます。

暗い顔で、混乱と苦しみの中に沈んで、起きた出来事の意味を理解できないままに議論していた彼ら。

イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。
(ルカ24・15)

イエス様は、自ら近づき、救いのイニシアティブを取られます。
彼らと歩調を合わせて、一緒に歩かれるのです。

そして、ごく自然に「歩きながら、語り合っているその話は何のことですか」(16)と話しかけられました。
いきなり彼らの迷いを指摘して叱ったり、動転させるようなことはなさらず、彼らがみずからの内面にある問題をはっきりと捕らえ、それを客観視することで、うちにあるもつれを解いていくように導かれました。

さらに、モーセ五書と旧約全体にわたってご自分について書かれていることを二人に説明されますが、それでも彼らはイエス様であることに気づきません。
気づいたのは、食事の席でした。

イエスはパンを取り、賛美をささげて、それを裂いて、二人にお渡しになった。
すると二人の目が開かれ、イエスであることに気づいたが、その姿は見えなくなっていた。
二人は、「あの方が道々わたしたちに話しかけ、聖書を説き明かされたとき、わたしたちの心は内で燃えていたではないか」
(30〜32)

この二人はすぐにエルサレムに引き返して、他の弟子たちにこのことを話しますが、やはり彼らはすぐには信じません。

このエピソードは、ケリュグマの働きについてさまざまな角度から描いています。

まず彼らの目が開け、心がうちから燃え、とても自分たちの心にだけ秘めておくことができず、伝えずにはいられないメッセージを仲間に知らせに走り、仲間が集まっているのを見つけ、皆にみ言葉を伝えます。

わたしたちとしては、自分の見たことや聞いたことを、話さないわけにはいきません」(使徒4・20)
これが、ケリュグマです。

ケリュグマとは、「彼らの開眼、自分が生きている状況の中に神がみずからを示しておられ、予期していなかったような地平を私たちに開いてくださったということを認めること」だと、今読んでいる本に書いてありました。

 

 

辛い、心配な出来事が多い世界です。 
わたしは、この壮大なテーマについて答えを持っているわけではありません。

わたしたちキリスト者は、心を喜びで満たす内面の変容を生む生き方、外面にも平和に満ちた喜びが溢れる生き方、すなわち現代のケリュグマを実践するように努めなければならない、と本から学びました。

少なくともわたしは、姪の不安な気持ちを明るいものに変える存在であるように。
そして、イエス様の行いに立ち戻り、イエス様が退けられたものを退け、イエス様が大切にされたことを大切にする社会の実現に向けて歩みましょう。
(大分教区報、森山司教様のお言葉より)

 

わたしが宣言し、信じている信仰は、自己満足の平穏につながっているのか、それともわたしの中であかしの炎に火をつけているだろうか?
教会としても、こう問いかけてみましょう。
わたしたちの共同体で、祈りと慈善のわざへの情熱のうちに、また信仰の喜びのうちに、聖霊の火が燃えているだろうか?
それとも、意気消沈した顔をして、嘆きを口にし、毎日噂話をして、疲労や習慣にわたしたち自身を引きずり込んでいるだろうか?
兄弟姉妹の皆さん、これらについて、自分自身を振り返ってみましょう。
教皇フランシスコ、2022年8月14日「お告げの祈り」でのことばより

 

 

愛のきずな

教会にこんなメッセージと写真が届きました。

I wanted to share a 1944 (Showa 19) photo of my father posing in front of the church with 2 friends.

1944年に、当時の久留米教会の前で撮影された写真です。

こちらは、久留米の街中でのお写真。

お父様の大切な思い出を、久留米教会の信徒の皆さんと共有したい、と送ってくださいました。

お父様は国費留学生としてフィリピンから来日し、日本に2年(1943~1944年)滞在されていました。
そのうちの1年は、久留米高等工業学校(現在の久留米高専)で学んでいらしたそうです。

久留米で過ごした間は、久留米教会のミサに毎週通われていたそうで、1945年の空襲で聖堂が破壊されたことを残念に思っていらしたとのこと。

戦時中にお父様が日本で学び、体験されたことをまとめた本を出版されました。

 

本の表紙にも、久留米での写真を使ってくださっています。

Garyさんは作家ではありません。

「なぜこの本を書かれたのですか?」
「最初は本を書く予定はなかったのだが、父たち国費留学生(南方特別留学生)のことを調査しているアメリカの学者から連絡があり、いろいろと調べているうちに自分でもまとめてみたくなった。」

調べているうちに、多くの写真や当時使っていた万年筆(東条英機氏から贈られたもの)などの遺品がきちんと保管されているのを見て、お父様の若かりし頃に思いを馳せられたようです。

わたしたちも、自分の親の若い頃のことは知らないことばかりです。

(お父様のことをご紹介したいので、と少しインタビューさせていただき、写真とお話を掲載する許可をいただいています。)

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コロサイの人々への手紙3章14節です。

これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。
愛は、すべてを完成させるきずなです。
(新共同訳)

これらすべてのことの上に愛をまといなさい。
愛は完全さをもたらすです。

(フランシスコ会訳)

ギリシャ語原文では、“シンデスモス テス テレイオテトス”
ギリシャ語の辞書によると、シンデスモスは「二つ以上のものを一つにまとめる手段」で、紐、綱、環という意味だそうです。
シンクロナイズドスイミング、シンフォニー、の「シン」(“一緒“の意味)がこれにあたります。

愛は完成のきずな
愛は完全の帯

コロサイ1章では、キリストとわたしたちの結びつき、 教会がキリストの体であること、その完成のためにわたしたちがもっと苦労する必要があることが書かれています。

神様の愛というきずなに結ばれているわたしたち一人ひとりが、自分の行いに愛があるか、いつも意識して行動する必要があるのです。

親子のきずなも共同体のきずなも、わたしたちの行動、すべての行為が愛という帯でまとめられることによって、完成(完全な状態)に導かれます。

「先ほど話した方とのやりとりは、愛をまとっていたか。」

最近、こう意識するように心がけています。

毎日の祈りと毎週のミサで、幾つもの誓いをしているわたしたちです。
日々の言動に責任を持ち、愛をまとう生き方をしたいと、さらに誓います。

 

祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。
神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。
天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。
(マタイ23・22)

 

朝晩の澄んだ空気と空の高い雲に、秋の近づいていることを感じる頃となりました。

 

人のためになること

グローバルスタンダード(international standard)という考え方について、最近思いを巡らせています。

例えばバリアフリーのような、誰にとっても利用しやすいまちづくり、というような取り組みは、世界中どこの国でも同じように進めば大変ありがたいことです。

世界にはさまざまな国があり、それぞれの価値観のもとで生活しています。

ロシアとウクライナの争いを見ても、「ウクライナの主張がグローバルスタンダード(世界標準)であり、ロシアが全て間違っているのだ」と、本当のところは言えないところがあるのかもしれません。

 

 

キリマンジャロの標高3720メートル地点にインターネットの基地局が開設され、ネットが使えるようになったというニュースがありました。
年内には、5895メートルの頂上でも使えるようになるそうです。

世界中どこに行ってもネット環境が整っている、というスタンダード。
これは、事故などの際にどこからでも連絡ができるという面では素晴らしい進歩です。
ニュースでは、「登山者がインスタグラムやツイッターに投稿できるようになる」と言った書き方がされていました。

広義で考えると、世の中の技術の進歩、世界中の至る所でなくならない紛争、人種や宗教の価値観、どの側面から見ても、人間の生活にはグローバルスタンダードというポイントを設定するのが不可能なのかもしれない、と思います。

そして同時に、そうした概念をすべてに当てはめる必要はない、とも思うのです。

 

主は言われる。わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。
彼らは来て、わたしの栄光を見る。
(イザヤ66・18)


人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。
(ルカ13・30)

 

スタートは同じはずのキリスト教の信仰も、数えきれないほどに枝分かれし、それぞれの信者が篤い信仰のもとに生活をしています。
ともすると、カトリック信者であるわたしたちは「自分たちの信仰がスタンダードであり、他は・・・」といった感情を抱きがちではないでしょうか。

 

旧約聖書に何度も書かれている、寄留者を労わるように、というくだりがとても好きです。

寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。
あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。
(出エジプト22・20)

あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。
それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。
そうすればあなたの神、主はすべてあなたがする事において、あなたを祝福されるであろう。

(申命記24・19)

自分たちだけが特別なのではなく、人のためにと考えて行動する。
これが、必要とされる、人間生活におけるグローバルスタンダードです。 

キリスト教信者であるかどうかに関係なく、聖書に書かれている膨大な教えは、(読み間違えなければ)誰にとっても有益なものである、といつも思います。

 

先日、ベトナムの2組の結婚式が執り行われました。
友人たちが聖堂内にお花を生けてくれました。

なんて美しいのでしょう。
日本人とは明らかに違ったセンスです。

友の幸せを願う気持ち。
これも、大切なグローバルスタンダートです。

 

 

わたしたちは神の住まい

コロナウィルスはまだ消えたわけではありませんが、日本の各地では今年は「3年ぶり開催」のイベントやお祭りで賑わっています。

夏の帰省を断念された方もいらっしゃるでしょう。
3年ぶりに孫に会えたという方もいらっしゃるでしょう。

それぞれの楽しみ方で、今年の残暑を過ごしていきましょう!

・・・・・・・・・・・・・・・

いったいアポロとは何者ですか。
パウロとは何者ですか。
あなた方を信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった分に応じて働いた奉仕者なのです。
わたしは植え、アポロは水をやりました。
しかし、成長させてくださったのは神です。

わたしたちは神の協力者であり、あなた方は神の畑、神の建物なのです。
(1コリント3・5~6,9)

あなた方は使徒と預言者という土台の上に、キリスト・イエスご自身を要石として築き上げられたのです。
このキリスト・イエスに結ばれることによって、建物全体は組み合わされ、主のうちにあって大きくなり、聖なる神殿となります。
キリストに結ばれることによって、あなた方も霊によってともに組み入れられ、神の住まいを築きあげることになるのです。
(エフェソ2・20~22)

主は人に捨てられましたが、神によって選ばれた尊い生きた石です。
この主に近づいて、あなた方もまた、生きた石として、霊に満たされた家に築きあげられます。
(1ペトロ2・4~5) 

 

パウロは度々、わたしたちは神の住まいである、と例えています。 

最近、この本を読みました。

 

パウロの人生、信仰を振り返りながら深く霊操する内容です。

パウロについて知れば知るほど、複雑な自信家、ちょっとめんどくさい頑固者だったのだろうなぁ、、、などと思ってしまいます。

ですが、彼を助けた重要な人々、バルナバ、アポロ、アキラとプリスキラなどの人々と決定的に違ったのは、頑固さゆえの根気強さと熱意でしょう。
希望と情熱に満ちた、大胆な言葉で多くの書簡を残しています。

だから、支援者の彼らと違い、イエス様への信頼に基づいた彼の教えが、こうして聖書として受け継がれてきたのではないかと思います。

 

パウロの遺言とも言える、使徒言行録20・18〜35でも、わたしたちが神の家であることを書き記しています。

そして今、わたしはあなた方を、神とその恵みの言葉に委ねます。
このみ言葉には、あなた方を造りあげ、全ての聖なる人々とともに受け継ぐ遺産をあなた方に与える力があるのです。

32節の「造りあげ」は、ギリシャ語で「家を建てる」に当たるそうです。
キリスト教的生活は、家を建てるのと同じく、教会と信者を次第に完成させるものだ、とフランシスコ会訳聖書の注釈にあります。

あなた方も、このように働いて、弱い人を助けなければならないこと、また、『受けるより与えるほうが幸いである』と仰せになった主イエスご自身の言葉を、心に留めておくように、わたしはいつも模範を示してきました。

35節は、自信家で熱意が溢れるパウロらしい言い方です。
『受けるより与えるほうが幸いである』とは、福音書中にイエス様の言葉として出てこない(注釈による)のですが、とても重要な教えだと思っています。

聖書の聖句の中で、いくつかわたしの人生の指針としているものがありますが、これはその一つです。

受けるより与えるほうが幸い

現実には、どうしても「こんなに与えてるのに・・・」と思ってしまうのですが、、、、、。

 

わたしたちが神様の住まいである、のならば、いつでも居心地良く過ごしていただけるように、心と身体を整えておくべきです。

ですから、あなた方は神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、思いやりの心、親切、へりくだり、優しさ、広い心を身にまといなさい。
キリストの平和にあなた方の心を支配させなさい。
感謝の人となりなさい。
キリストの言葉をあなた方のうちに豊かに宿らせなさい。
(コロサイ3・12〜15抜粋)

 

「了解です!」

 

暑い夏の盛りもあと少しです。

お身体にお気をつけになって、有意義な日々をお過ごしください。 

 


 

平和の岩

8/6は、77回目の広島の原爆の日でした。
国連の事務総長を始め、99カ国とEUの代表も参列されての平和式典の中継をテレビで観ていました。

世界各国の方々が参列してくださるのは本当に素晴らしいことですが、その国で報道され、一般市民にも伝えられたのでしょうか。

同じ日のニュースでは、パレスチナ自治区のガザ地区へのイスラエル軍による空爆について、そして台湾を囲むようにして実施された中国の軍事演習について報じられていました。

平和を願う祈りは、「神様、平和をもたらしてください」「争いのない世界を実現させてください」ではなく、「わたしたちが戦争を起こさない未来を創ります」という宣誓であるべきです。

甲子園の開会式で選手宣誓をした球児の言葉を聞いて、改めて強くそう思います。

頑張るのは神様ではないのです。
努力するべきは、わたしたちなのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

主は岩。
その業は完全で、その道はことごとく正しい。
真実の神で、偽りがなく、
正しく、まっすぐな方。
(申命記32・1)

申命記32章には、他にも「救いの岩」「自分を産んだ岩」「彼らの岩」「身を避ける岩」といった表現で、堅固で安全な保護者である神を岩に例えています。

信じれば願いが叶う
信じれば癒される

聖書には、そう書かれているように感じるかもしれませんが、決してそうではありません。

神様は岩のように揺るがない、わたしたちの拠り所です。
悔い改めて熱心に祈れば、なんでも許される、叶えられるのではなく、どのような状況にあっても神様が隣にいてくださると信じて、一人ひとりができる限り、できる以上の努力をする必要があります。

教区報に載っていた、アベイヤ司教様のお言葉です。

「いつも以上に平和を祈り、平和のために働く決意を新たにする事が大切です。
私・私たちに何ができるでしょうか。
一人ひとりが考えるべき課題です。」

 

エレミヤは言った、
アーメン。主がそのとおりにしてくださるように。

主があなたが預言した言葉を成就させ、主の神殿の器とすべての捕囚の民とをバビロンからこの場所に連れ戻してくださるように。
わたしがあなたの耳と民全体の耳に語る言葉を聞け。
わたしとあなたよりも先にいた預言者たちは、昔から、多くの地と偉大な諸王国に対して、戦い、災い、疫病を予言した。
平和を預言する預言者は、その言葉が実現してはじめて、ほんとうに主が遣わされた預言者であると認められる」。
(エレミヤ28・6~9)


こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。
土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。
それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。
触れた者は皆いやされた。
(マタイ14・35~36) 

 

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
そのとき、娘の病気はいやされた
(マタイ15・28)

「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」という名言をイエス様に言い放った女性も、願いが聞き入れられました。

当時の彼らは皆、 簡単に祈りが聞き入れられたわけではないと思うのです。

アベイヤ司教様のお言葉にある通り、「神様の望みに応える」生き方が必要なのです。

 

わたしたちの魂は主を待ち望む。
主こそはわたしたちの助け、わたしたちの盾。
わたしたちの心は主の故に喜び、
聖なる名に寄り頼む。
主よ、わたしたちはあなたを信頼してきました。
慈しみはわたしたちの上に。
(詩編33・20〜22)

わたしの口の言葉があなたの望みにかない、
わたしの心の思いがみ旨にかないますように。
わたしの岩、わたしの贖い主である主よ。
(詩編19・15)

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ミサの後の掃除を、いつもより念入りに行いました。
愛すべき、平和の風景です。

 

 

恵まれた人々

久留米教会の、わたしが1番好きな風景です。
ミサの後、あちらこちらで語り合うみなさんの様子。

コロナ前は、ミサの後にはコーヒーが振る舞われ(バザーとして)、たくさんの方々が集まって語り合っていました。
今は、こうした形ではありますが、大切な時間だと思います。

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特異な才能を持つ子どもたちの能力を伸ばすための教育の必要性が、日本でも議論され始めている、とニュースで知りました。

小学校低学年で大学レベルの教科書を理解している、とか、ある科目だけは抜きんでた理解力を持っている、など、特定分野に顕著に高い能力のある子どもを『ギフティッド』と呼ぶそうです。
そうした子どもたちのためのギフティッド教育は、生まれつき特別な才能を持つ子どもたちの能力を伸ばすための教育手法で、アメリカでは40年以上前から実践されています。

「ある教育研究所の調査によれば、小学校で学校教育についていけない『落ちこぼれ』は約15%いるといわれるが、それとほぼ同じ比率の約13%が『吹きこぼれ』、授業が簡単すぎてつまらないと感じる子どもたちが存在する」とニュースの記事に書いてありました。

 

『吹きこぼれ』という呼び方には少し抵抗を感じますが、『ギフトが与えられた子ども』giftedという表現は、心に響きます。

自分の子どもが「学校の授業がつまらない」と言ったら、「うちの子は落ちこぼれだろうか」と心配になるでしょう。
でも、「うちの子はギフティッドなのかも」と思えたら。

イエス様が好んで関わられた人々、障害のある人たちのことをイエス様は「ギフティッド」だとおっしゃいました。
ヨハネ9章の、「生まれつき目の見えない人」は「神の業がこの人に現れるためである」というように。

 

わたしが大きな病気をすることになったのは、もしかしたら生まれた時からの運命だったのかもしれない、と思っています。
そしてそこのこと自体が「ギフト」なのだ、と思ってずっと生きてきました。

わたしはお前を永遠の愛をもって愛してきた。
それ故、わたしはお前に慈しみを示し続ける。

まことに主はこう仰せになる、
見よ、わたしは彼らを北の地から連れ戻し、彼らを地の果てから集める。
彼らの中には目の見えない者、体の不自由な者、身籠った女と臨月を迎えた女もともにおり、彼らは大きな群れを成してこの地に帰る。
彼らは嘆きながら帰ってくる。
わたしは哀願する彼らを導く。
わたしは彼らを水の流れのほとり、滑らかな道を行かせる。
彼らはつまずくことはない。
(エレミヤ31・3、8〜9)

バビロン捕囚からの帰還を、大きな喜びのうちに主を讃える31章です。

神様は、社会的弱者と言われる人々をいつも心に留めてくださいます。
誰もが大切な存在であること、ギフティットであるのだということが、旧約の時代、遥か昔から言い伝えられてきているのです。

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教皇フランシスコはカナダを訪問されました。
「カトリック教会が運営していた寄宿学校で先住民の子供が虐待されていた問題をめぐり、謝罪することが目的」と報道されていました。
85歳のパパ様は、10時間のフライトを経て車いすで空港に降り立たれ、謝罪のための訪問をされたのです。

「私が話している間にも、古い記憶を呼び起こし不快になる人がいると思う。それでも、思い出さねばならない。忘却は無関心につながるからだ」と述べられ、さらなる実態調査を行う意向を示されました。

カナダでのミサでは、こうお話されました。

「わたしたちは守るべき歴史の子である。
わたしたちは孤立した存在ではない。
誰一人、世界と切り離されて生まれる人はいない。
わたしたちが生まれた時に受け取ったルーツと愛、わたしたちが育った家庭は、ただ一つしかない歴史の一部である。
それはわたしたちが受けた恵み、守るようにと召された恵みである」

カナダの先住民の子どもたちが受けた被害は、壮絶なものです。

現在でも、 白人でなければ暴行を受ける、遊園地でキャラクターに扮した大人から差別を受ける、歩いていていきなり殴られる、などといったニュースは絶えることがありません。

差別や暴力はなくならないでしょう。

宮﨑神父様がお説教で仰いました。

「自分さえ良ければ、という生き方をする者は愚か者と呼ばれる。
神の前に豊かに生きる者は、愛を実践する者だ。」

わたしたち一人ひとりが、生まれた時に神様から与えられたギフトがあるのだと自覚し、尊厳をもって生きていくことができたら。
誰もがギフティッドなのだということを理解し、互いを尊重しあって生きていくことができたら。

愛の実践、とはそういう生き方ではないでしょうか。

ギフトは必ず与えられています。 

 

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ギフティッド教育についての記事です。 

https://toyokeizai.net/articles/-/515051?utm_source=yahoo&utm_medium=http&utm_campaign=link_back&utm_content=related


https://news.yahoo.co.jp/articles/dfe53fc94f699a687dc9d25f6307483c14e9c01a

 

 

現代における平和

教皇フランシスコは、「今日の危険はウクライナの悲劇を忘れること」と先週おっしゃっていました。

争いやテロによって、一般市民が苦しい思いや悲劇的な日常を強いられているのは、何もウクライナだけではありません。
21世紀はテロとの戦いに象徴される、と誰かが言っていましたが、わたしたちにできるのはせめて「忘れないで祈ること」かもしれません。

 

2022年平和旬間(8/6~15)が近づいてきました。

菊地 功大司教のメッセージは、このように始まります。

「平和が暴力的に踏みにじられた年になりました。
いのちの尊厳がないがしろにされ、その保護が後回しにされる年になりました。」


そして、このように締めくくられています。

「平和旬間を迎え、わたしたちはさまざまな角度から平和について学び行動する時を与えられています。
「すべての戦争は全人類に影響を与え、死別や難民の悲劇、経済危機や食糧危機に至るまで、さまざまな後遺症をもたらします」。
そう述べたうえで教皇フランシスコは、復活祭メッセージを次のような呼びかけで締めくくっています。

「兄弟姉妹の皆さん、キリストの平和において勝利を収めましょう。
平和は可能です。
平和は義務です。
平和はすべての人が責任をもって第一に優先するべきものです」。

皆さん、この平和旬間に、暴力によらない平和は可能だと、連帯こそが平和を生み出すのだと、あらためて声を上げ行動しましょう。」

 

毎年8月になると、原爆投下の慰霊祭と終戦記念日のニュースが連日報道され、わたしたちに戦争と平和について考える機会が与えられます。

ですが、日本人にとっての戦争は第二次世界大戦のことだけなのか、とどうしても感じてしまうのです。

今年は特に、連日のようにウクライナの戦況について見聞きしながらこの5ヶ月ほどを過ごして来ましたので、若い世代に戦争と平和について掘り下げて伝えることができるのではないでしょうか。

「あの悲劇(第二次世界大戦で犠牲になった日本人)を繰り返してはならない。」
だけではなく、
「今もなお、世界の至るところで戦争によって苦しんでいる人々がいることを心に留め、考えてみよう。」
そう、子どもたちにより現実的に伝えることが大切でしょう。

24日のミサは、こどもとともに捧げるミサでした。

「神様、ひろい心、やさしい心、平和を強く求める心、
そしていつも神様にむかう心を与えてください。
けんかや争いのない、きょうだいの心を持つことができますように。」

 

宮﨑神父様がお説教でおっしゃいました。

「祈りは信仰の心臓とも言えるものです。
そして、祈りは自分のためにするものではありません。」 

旅行中の友達のために、真夜中に友達のところへ「友よ、パンを三つ貸してください」と頼みに行った人のように、わたしたちは、家族のため、友のため、誰かのために祈りを捧げるのです。

それしかできなくても、続けるのです。

 

「あなたがたに平和があるように」(ルカ24・36)
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20・21)

福岡教区でも、平和を祈る集いが企画されています。

 

 

 

信実を祈りのうちに

今年は久留米の夏が戻ってきた!という感じがしています。
毎週土曜日には夜市が賑わっているようですし、この提灯を見ると心が踊ります。

 

教皇フランシスコは、7/10の正午の祈りで「善きサマリア人」についてのお説教をされました。

主の道に従う弟子は、その考え方や行動の仕方が次第に師のそれと似てくることに気づく。
キリストの後を歩むことで、自分も旅人となり、このサマリア人のように、見ること、憐れむことを学ぶ。
主の道に従うことで、まず、見ることを学ぶ。
現実に目を開き、自分の考えに閉じこもって目をつぶらないことを学ぶ。
一方、祭司とレビ人は、災難にあったこの人を見ても、見ぬふりをして通り過ぎてしまった。
福音は見ることを教え、先入観や教条主義を乗り越え、正しく現実を理解するように、わたしたち一人ひとりを導く。
また、イエスに従うことは、憐れみを持つこと、他者、特に苦しむ人や助けを必要とする人を受け入れることを教える。
そして、このサマリア人のように行動することを教えてくれる。

以前、神父様から教わりました。
祭司とレビ人(彼らは下級祭司であり、神殿に仕えていた)が「見ぬふり」をしたのは、当時のユダヤ教の戒律(血や死体に触れることは穢れるとされていた)によるものであり、単純に非難できるものではない、と。

祭司とレビ人のことを非難して、「こんな風であってはならない」と思うことには疑問を感じます。

旧約の時代から、サマリア人は非難され続けていました。
いつの時代も、誰かが誰かを非難し続けています。

問題点は、「見ぬふりをして通り過ぎる人であってはならない」「助けを必要とする人のために行動すること」であり、祭司とレビ人を見下すことでも、サマリア人がユダヤ人の敵であることでもありません。

「隣人を自分自身のように愛すること」

この、旧約で最も重要な教えを伝えるお話です。

 

神に従う者の行く道は平らです。
あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。
主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み、わたしたちはあなたを待ち望みます。
あなたの御名を呼び、たたえることは、わたしたちの魂の願いです。
わたしの魂は夜あなたを捜し、わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。
あなたの裁きが地に行われるとき、世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう。
(イザヤ26・7~9)

「定められた道」とは、主がご自分の民に正しい生活を送らせるように啓示された指示を意味する、とフランシスコ会訳聖書の注釈にあります。

正しい生活、を現代のわたしたちに置き換えて考えてみるとどうでしょうか。
「神に従う者」は、フランシスコ会訳では「正しい者」となっています。

正しさの定義は、現代社会では多岐に渡り、自分の正しさを振りかざすことは他者を非難することにつながる恐れがあります。
わたしが自分の1番の問題点だと思っていることです。
ついつい、自分の尺度で人を判断してしまいます。

正しい者の正しい生活とは、神に従うこと。
自分の判断で人を裁くことは、最も不毛な行為だとわかっているのに、、、、。

①「わたしの魂は、夜、あなたを慕い求め、わたしの中の霊はあなたを慕います。」(フランシスコ会訳)

美しい表現だと思いませんか?
毎晩、この聖句を祈りの中に取り入れようと思います。


そのとき、イエスは言われた。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。

休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
(マタイ11・28~30)

重荷とは、単に貧困や病気を指していただけではなく、当時の人々が律法に縛られていたこと、ローマ帝国の圧政の意味も含んでいます。

そして、イエス様がご自分を「柔和で謙遜な者」とおっしゃった真意は、大きな力で権力者から押さえつけられている気持ちが分かる、ということです。

どのように辛い状況にあっても、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」という気持ちを忘れてはならない、そうおっしゃっているのです。

 

妹家族が滞在している間、遊んでばかりいて、世の中にあまり目を向けていなかった間にも、世界や身近なところでいろいろな大変なことが起きていました。

コロナウィルス感染の波が、再び世界を覆っています。
サル痘というウィルスが、ヨーロッパを中心に広がり始めているようです。

スリランカは国家として「破産」しました。
食料や衣料品、燃料といった生活に欠かせないものが手に入らず、警備にあたる軍や警察と一般の人々による衝突が絶えず起きているようです。
紅茶が手に入りにくくなるかも!?というニュースもありました。

世界の至るところで、心を騒がせるような、不安な出来事が起こり続けています。
このような時だからこそ、わたしが大切にしたい信実を、落ち着いて祈ることのうちに見出したいと思います。

 

主日のミサで、ハッとさせられた答唱詩編の一節。

②ことばで人を傷つけず
悪を行わず、隣人をはずかしめない。
神を捨てた者を戒め、神をおそれる者をとうとぶ。
このようにふるまう人は、とこしえにゆらぐことがない。

人を傷つけず
はずかしめず
ゆらがないこと。

宮﨑神父様のお説教で、ハッとさせられたこと。

③「イエス様のみことばにしっかりと根付いた行動、日常を心がけること。」

今週の祈りの際の格言が3つできました。

 

遣わされたもの

私事ですが、今、3年ぶりに妹と姪がNYから帰省しています。

コロナで分断された世界中の家族が、こうして久しぶりの再会と団欒を楽しんでいるのでしょうか。

わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
(イザヤ6・8)

いつも考えています。
わたしは何のために今、この場に遣わされているのか、と。

こうして家族と過ごしていて、確信するのです。

家族の平安と愛、彼女たちの幸せのために。

そして、自らが幸せであることで、周囲に平安をもたらす存在となれるように、と。

 

そのとき、イエスは使徒たちに言われた。
「わたしはあなたがたを遣わす。
それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。

だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい
(マタイ10・16〜) 

 

わたしたちは、キリスト者として存在している意味を、常に自問する必要があります。

政治信条に関わらず、殺された元首相のために祈りを捧げることは、決して間違ったことではありません。

わたしたちが遣わされている意義を、今、このような時に素直に周囲に示すことができるのではないでしょうか。

平時には一見敵対しているかに思える諸外国も、今はわたしたちに寄り添って、弔意を示してくださっています。

そうしたニュースを見聞きすると、感謝と感動で涙が溢れます。

 

弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。
(イザヤ35・3)

今、わたしたちは 自らに自信を持ち、遣わされたものとしての役割をどのように果たすかについて思いを巡らせる機会でもあるのではないか、とこの数日考えています。


傷ついたものを介抱し、弱いものを力づける。
(エゼキエル34・16)

この聖句は、森山司教様が選ばれたものだと先週ご紹介しました。

自分の存在と言動が、周囲の力となれるとしたらどうでしょうか。

もしも、わたしが誰かを励ますことができ、悲しんでいる人を慰めて力づけることができるとしたら。

何のために洗礼を授かっているのか。
誰かのためなのか。
自分自身だけのためなのか。
もしくは、その意味を見出すように仕向けられているのではないか。

こうした思いを巡らせることは、いつもわたしたち自身のためになるはずだと思いませんか?

 

わたしはこの一週間を、安倍元総理の安息のために捧げたいと思います。

 

 

 

森山司教様 誕生

2022年7月3日、森山司教様が叙階されました。

2014~2017年まで、主任司祭として久留米教会に来てくださいました。
司教様にとって、最後に赴任された小教区です。

信徒一同、心からお祝い申し上げます。

今日は、少しだけセンチメンタルに、思い出に浸っています。

 

森山神父様(そう呼ばせてください)らしい聖句を選ばれたと感じました!!

 

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毎年、女性の会で楽しく新年会をしていました。
その時に、1月生まれの神父様のお誕生日会も!

 

 

毎週、聖書の勉強会をしていただき、「聖書100週間」で学んだメンバーは、2019年にイスラエル巡礼に連れて行ってもらいました。

 

 

洗礼を授けてもらった信徒も大勢です。

 

 

コロナもなかった時代ですので、ご復活のミサのあとは、こうして賑やかに懇談していたのですね。

 

 

ゴールデンウィークにはバーベキューをし、6月には熊本地震の被災地で田植えを!

 

 

 

久留米のフィリピン人コミュニティが、タグレ枢機卿をお招きしました。

枢機卿と一緒に、まるでジャニーズのアイドルのようにもみくちゃにされている様子です。

 

 

 

子どもが大好きで、子どもたちも神父様が大好きでした。

 

「隣の県にいますよ。東京より近いですよ。」 
そうおっしゃっていましたが、やはり、隣の県の司教様は遠くに感じてしまいます。

司教様のご健康とご活躍、神様のお導きを心よりお祈り申し上げます。

 

熱い信仰

梅雨明けであって欲しい、そんな空です。
ジメジメとしているよりも、カラッと暑い季節が好きです。

以前、宮﨑神父様が「あなたの信仰がなまぬるいものでないか、自問してみてください」とお説教でおっしゃったのが、ずっと心に残っていました。

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信仰とは火を消してしまう水ではありません。
燃え上がる炎なのです。
ストレスにさらされている人のための鎮静剤でもありません。
信仰は、神を求めて恋をしている人のラブ・ストーリーなのです!
ですから、イエスは何よりも「なまぬるいこと」を嫌われるのです。
Faith is not water that extinguishes flames, it is fire that burns; it is not a tranquilizer for people under stress, it is a love story for people in love! That is why Jesus above all else detests lukewarmness (cf. Rev 3:16).
(教皇フランシスコ Twitterより)

 

最近は、この本と並行してヨハネの黙示録を読んでいます。

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黙示録は、旧約聖書の内容をベースに、独特の言い回しでさまざまなシンボルに例えて書いてあります。
わたしたち現代人にはそのシンボルを理解するのが難しく、とても難解で分かりにくい聖書の代表のように捉えてしまいます。

福音書の著者ヨハネではなく、ヨハネと言う名前の1世紀末の人物によって書かれたものだそうです。

自らを預言者であるとし、黙示録は典礼祭儀のなかで会衆に向けて朗読するための書である、と書いています。

この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。
時が迫っているからである。
(1・3)

会衆に向けられた書、ということで、わたしたちはもう少し気楽に読んでも良いのかもしれません。

 

『今おられ、かつておられ、やがて来られる方』という、黙示録独特の神様の呼び名が、1章に2回出てきます。(1・4&8)

これは、出エジプト記にある「わたしはある、わたしはあるという者だ」を分かり易くいいかえたものだ、と今道さんは書いておられます。

エジプトからの脱出、約束の地に導き、バビロン捕囚を通して民に自尊心を与え、主に忠実な民に立ち返らせてくださった神。
かつてこれほどのことをしてくださり、今わたしたちを支えてくださる神は、世界にキリスト教が広まることを通して深い意味でともにいてくださる方であり、終末にはキリストの再臨をもたらしてくださる神。
それが、『今おられ、かつておられ、やがて来られる方』なのです。

 

アーメンである方、忠実で信実な証人、神の創造の初めである方が、こう仰せになる、
わたしはお前の行いを知っている。
お前は冷たくもなく熱くもない。
むしろ、熱いか冷たいか、いずれかであればよいものを。
だが、このように、お前は熱くもなく冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはお前を口から吐き出そうとしている。
(3・14~16)

『アーメンである方』という言い方も、黙示録特有のものです。
新約の中で、アーメンがキリストの属性として使われている唯一の例だそうです。

今道さんによると、わたしたちへの神の約束に対する忠実と、神の呼びかけに対する人間のポジティブな応えとしての「アーメン、はい」の両方を、一身に具現しているキリストを表すのが「アーメンである方」、ということです。

「むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」という表現、面白いと思います。
まるで恋人同士の会話のような、真摯な愛を求めるイエス様のみ心でしょう。

冒頭に紹介したパパ様のツイッターにある通り、信仰は、神を求めて恋をしている人のラブ・ストーリーなのです。

 

見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。
もし、誰かがわたしの声を聞いて戸を開くなら、わたしはその人の所に入って、食事をともにし、その人もまたわたしとともに食事をする。
(3・20)

神様は、わたしたちが熱い気持ちで信仰を求める気持ちを期待されている、そういう感じが伝わってきます。

まだ3章までしか読み進めることができていませんが、今道さんの解説を同時に読みながら聖書をめくると、ヨハネの意図していたことが薄っすらと理解できるような気がしてきます。

 

忘れないこと

「顔のないヒトラーたち」という映画を観ました。

1958年のフランクフルト。
市民の間では戦争の記憶が薄れ、若い世代はアウシュビッツのことを聞かれても「知らない」と言います。
元ナチスだったことを隠して普通に市民生活を送っている元親衛隊員たちを探し出し、裁判にかけ罪を償わせるために実際に行われたアウシュビッツ裁判のお話です。
ドイツ人がドイツを裁き、ドイツの歴史認識を変えたと言われる裁判までの苦悩が描かれています。

 

 

教皇フランシスコは、6/12の正午の祈りでウクライナの平和について改めて呼びかけられました。

「月日と共に、深く傷つけられたこれらの人々へのわたしたちの悲しみと心配が冷めることがないように。
この悲劇的な現実に慣れてしまうことなく、それをいつも心に留めよう。
平和のために祈り、努力しよう。」

わたしたちは、どんなに悲惨な現実が起こったとしても、自分が関わっていない・直接被害を受けていないことは忘れてしまうことも多いのです。

 

戦争で疲弊したウクライナ の人々のことを忘れないでいましょう。
戦争がどこか遠くの出来事であるかのような生活に慣れてしまわないようにしましょう。
とても苦しんでいる人、真の苦難を生きる人たちのためにともに祈りましょう 。
(教皇フランシスコTwitter)

忘れないこと。

 

『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
それはみな、異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
(マタイ6・30~34)

Do not worry about tomorrow; tomorrow will take care of itself.
Sufficient‎ for a day is its own evil.

有名な箇所ですが、わたしは最後の一文が特に好きです。

『今日の苦労』

日々の些細な事に気をもみ、仕事、家庭の問題に頭と心を痛める。
そうしたことは、大なり小なり誰もに降りかかる難です。
明日のことまで思い悩むな、というよりも、

☆今日を精一杯苦労して生きること。
☆今日の問題を明日に持ち越さないこと。


それが大事なのだよ、という教えだとわたしは理解しています。

時には、今日起きた嫌なことを忘れることも大事だと思っています。

苦しい思いをしている人のことを忘れないこと。
日々の苦労は寝る前にリセットして忘れること。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宮﨑神父様がお説教で、「お手紙をいただきました」というお話をされたので、思い出したことがあります。

お説教の内容は、初聖体を受けるお子さんのことを嬉しく報告されたという信者さんのお話でした。
先日、いろいろなものを整理していた時に、わたしが信仰を得た20歳のとき、病院から母に宛てて出した手紙を見つけたのです。
そこには、こう書いていました。

「今、よかったと思っていることがあるの。
それは、誰が見てもすごいオペをしたわたしが、以前と少しも変わらず明るく、病院のみんなと仲良く過ごせているってこと。
気分的にも全然滅入ってないし、いろんな先生や看護婦さんとすごく仲良くしてて、病室のみんなともワイワイ明るくしてるよ。
歩けるようになる希望で、胸も頭もいっぱいで、こういう性格で本当に救われたよ。
これは、お恵みだよ。」

あの時の、確かに神様がわたしと家族に大きなお恵みを下さった信仰の始まりの時期のことは、絶対に忘れません。

 

教皇フランシスコが車いすに乗る姿を見ると、とても心配で悲しくなります。
膝の調子が悪く、治療中だとのことです。
わたしもあの時は、車椅子でした。

パパ様のためにも、忘れずにお祈りしています。

  

わたしたちを満たすもの

「今日の聖書朗読」を読むのが習慣だという方、多いかと思います。

好きな箇所、特に旧約のお気に入りの箇所が出てくると嬉しくなり、満たされた1日を送ることができます。

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見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。
主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。
しかし、風の中に主はおられなかった。
風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
(列王記上19・11~12)

19章では、エリヤが長距離の逃避行をします。
神のことばに従って、その通りに生きてきたと自負していたエリヤは、報われないと思っていました。
そして、アハブに命を狙われ、神の山ホレブへと逃げて洞窟に引きこもります。

神が激しい風を吹かせ、地震、火を起こしても、エリヤはそこから出てきません。
「静かにささやく声」(フランシスコ会訳では「かすかにささやく声』)で、神様の現存をようやく感じ、出てくるのです。

強制的にではなく、エリヤの自由意思に任せようという神様の優しさ、エリヤへの信頼なのだ、と教わりました。

英神父様は「神はささやく声で語りかける。静けさがないと聞こえない。心の静けさを大切にして、神のささやく声を聞こう。」とおっしゃっています。

 

体は一つ、霊は一つです。
それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。

主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、
すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
(エフェソ4・4~6)

体、霊、希望、主、信仰、洗礼、神
この7つはそれぞれ一つであり、同時に7つの共同体でもあります。

父と子と聖霊が、それぞれ独立したものではないのと同様です。

宮﨑神父様がお説教で、こうお話しされました。 

「三位一体について説明するのはとても難しい。わたし自身も完全に理解しているとは言えない。
でも、大切なのは、理解することではなく信じること。」


ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。
そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
(マタイ5・15~16)

この箇所は、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10・8)と同様に、わたしがとても大切に心に刻んでいる教えです。
自分のいただいている光が輝くような生き方をしたい、いつもそう思っています。


わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達(試練に磨かれた徳)を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。
わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(神の愛がわたしたちの心の中で溢れ出ているからです。)
(ローマ5・3~5)()はフランシスコ会訳

聖書はいつも、わたしの心を満たし、生活に潤いを与えてくれます。
それが、穏やかな日常、ストレスに負けない精神の基になっていると思っています。

アウグスティヌスの「告白」の一説です。

私たちはあなたから遠ざかったり近づいたりいたします。
しかし、けっして場所ではありません。
すべての人は、自分の聞きたいことをあなたにたずねます。
しかしかならずしも、聞きたい答えを、いただくとはかぎりません。
自分の聞きたいことをあなたから聞こうとするよりもむしろ、あなたから聞くことをそのままにうけとりたいと心がける人こそは、最良のあなたのしもべなのです。
(第10巻 第26章)

人生における苦しい局面も、聞きたくないような耳の痛い言葉も、避けて通ることばかりはできません。
苦難が希望へ繋がるという教えは、生きて行く上でとても大切なものです。

 

最後は、今週の読書で1番心に残った文章をご紹介します。

栄光は神である御父に、また万物の王である御子に。
栄光は最高の讃美をささげるべき至聖なるお方である聖霊に。
三位一体の唯一の神は、万物を創造し、天には天に住むものを、地には地に住むものを満たされた。
神は、海と川と泉を水に住むもので満たされ、ご自分の霊であらゆるものにいのちを与え、あらゆる被造物が、智慧あるその創造主を、つまり生き続け、いつまでも永らえる唯一の原因であるお方を讃美するようにされた。
理性を備える被造物(天使および人間)は、しかし、特に、常に神を大いなる王、善き父として讃美せよ
(ナジアンゾスの聖グレゴリオス)阿部 仲麻呂神父様 訳

 

聖霊の助け

読売新聞5/29朝刊に、若松英輔さんの寄稿文が掲載されていました。
1ページ全面の文章で、とても読み応えのある、「利他の精神」についての深いお話でした。

「利他は、他者のために行動するということだけでなく、自分も他の人がいなければ存在し得ないという現実を、深く自覚するところに原点がある」

「日本では自らを無宗教者と考える人が少なくない。
それでも、誰かのために『思わず祈った』ことがない人は、かえって少ないのではないか。」

コロナ禍以降、この「利他の精神」が再度見直されたように思います。

わたし自身は、他者とのつながりを強く意識するようになりましたし、無暗に不安を煽るような報道が多くなったことで、一人でいることの弱さを思い知らされた日々を経験しました。

 

アポロがコリントにいたときのことである。
パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。
パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。
そこで、パウロは言った。
「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」
人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。
パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。
この人たちは、皆で十二人ほどであった。

パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。
(使徒言行録19・1~8)

 

うまく書き表せないのですが、「神様に祈った結果、聖霊が助けてくれた」と感じた経験が何度もあります。

「神様お願いします」と祈り続け、聖霊がとりなしてくれたのを実感して「ありがとう!!」と心の中で叫ぶのです。

『時として聖霊は、目に見えるかたちをとって、使徒的活動に先立ち、また種々の方法によってその活動に絶えず伴い、それを導く』
(宣教教令より)

若松さんのツイッターにあった言葉が、まさにこれ。

「人の一生は、自分の力で生きるというよりも何かのちからによって生かされている。」

神様に支えられて、聖霊の助けによって生かされている、そういつも感じています。

聖霊、ギリシャ語でpneuma(プネウマ)のギリシャ哲学における意味は、『人間の生命の原理・一切の存在の原理』というものだそうです。

プネウマがあるから生きていける、プネウマがなければわたしたちは存在し得ない、といったところでしょうか。

 

「平和とは聖霊の息吹きが心の奥底に染み渡る状態のこと」、と教皇フランシスコはおっしゃっています。

「自力で平和をつくり出そうとして焦るのではなく、むしろイエスの支えと聖霊の息吹きによって自分の心を根本的に新しくしていただくことが、人間にはぜひとも必要なのです。」

「わたしたちの旅の日々は、神が一緒にいてくださること(臨在)によって支えられており、聖霊がわたしたちの心に吹き込む恵みの強さによってわたしたちの歩みは導かれ、一人ひとりの心が形づくられ、愛することができるように、神からはからっていただけるのです。」
(教皇フランシスコとマルコ・ポッツァ師との対話「CREDO」より) 

 

若松さんのお話でとても印象深いのは、次のような内容の下りでした。

「日頃意識していなかった他者とつながりのなかに自己を見つめなおしつつ、一日のある瞬間など、どんなに短い間でも利他的になれればいい

利他的な人生を目指すのは難しいけれど、日常的に「一日のある瞬間」そう意識して生きていければ、自分にとっても他者にとっても大きな救いになるのだ、とおっしゃっています。

 

昨夜読んだ箇所に、教皇フランシスコがこうおっしゃっていました。

世間的に見れば弱く無防備で、家族と遠く離れて独りで寂しく暮らしているように、自ら勘違いしている人たちが、実は必要なときに支えてくれる兄弟姉妹の存在をすでに得ているような。
それが「いつくしみのひととき」です。
誰かによって支えていただけるほどに自分の存在に価値があることを実感するような「いつくしみのひととき」が、神によるはからいです。
(「CREDO」より)

利他の精神とは、まさに聖霊の働きによる「いつくしみのひととき」のことだと思います。
その意味を深く感じ、心がほぐれたような読書の夜でした。

 

今年も、森山司教様お手植えの白い紫陽花が美しい季節です。

 

自分の主張

先週から、宮﨑神父様が新しいミサ式次第の解説と練習をしてくださっています。

まだ全てを理解したわけではありませんが、とても心を動かされた変更箇所があります。

主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、
あなたをおいて、だれのところに行きましょう。

これが、↓

主よ、わたしはあなたをお迎えするのにふさわしい者ではありません。
おことばをいただくだけで救われます。

これは、マタイ8章の百人隊長のことばに基づいた文で、規範版ではこちらの式文が用いられてきたようです。

すると、百人隊長は答えた。
主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。
ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます。
(マタイ8・8)

ただし、これまでのとおりに唱えてもよい、となっています。

控えめな態度、言葉が美しい箇所です。

・・・・・・・・・・・・・・・

安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。
そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。
ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。
そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。
(使徒言行録16・11~15)

この積極的な態度、面白いですね。
旧約、新約、どちらの聖書も、自分の主張をハッキリとさせるタイプの女性が多く登場します。

21世紀の現代とは違い、女性の社会的地位はとても低かったはずです。
自分の意見や意志をしっかりと持っていた女性が多くいたことよりも、そうした彼女たちの様子が聖書にイキイキと物語られていることに関心があります。

 

マルタとマリア姉妹のエピソードがあります。

イエス様が弟子たちとともに姉妹の家を訪問した際、食事を用意して給仕してせわしなく立ち働くマルタと、弟子たちに交じってイエス様の教えに耳を傾けるマリア。
そのことをイエス様に率直な言い方で「手伝うように、妹になんとか言ってください!」と迫るマルタ。
(ルカ10・39~42)

『マルタとマリアの家のキリスト』フェルメール作

『マルタとマリアの家のキリスト』ベラスケス作

 

兄のラザロが病気になったとき、人を遣わしてイエス様を呼びます。
イエス様が来られた時、マルタは迎えに行きますが、マリアは家の中に座っています。
二人とも、同じ気持ちだったのでしょう。
「ここにいてくれたら、もっと早く来てくれたら、兄は死なずに済んだのに、、、」
マルタはそれを直接ことばにして伝えますが、マリアは沈黙のうちに抗議したのかもしれません。

 

有名な絵画にも、意図的に「口うるさい姉」と「観想的な妹」として表現されているとおり(ベラスケスの絵は明らかにふてくされた顔の姉)、古代から西洋世界ではマリアの方が優れた人間性の持ち主だという解釈がなされていたようです。

じつはわたしも、「長女は家のために働いて、だいたい口うるさいものよ。わたしみたいに、、、。妹は気楽でいいよね~。」と思っていました。

 

福音宣教6月号の本多峰子さんの連載に、こう書いてあります。

「マルタはイエスを敬愛し、イエスを精いっぱいもてなそうとしていますが、同時にイエスには、全く隔てのない近さで接しています。
これはマルタが、すべての思いを包み隠さず、イエスに完全に心を開いていることの表れです。」

「ほとんどイエスをとがめるような言い方をしています。
でも同時に、イエスに行動を求め、ラザロの救いをあきらめようとはしません。

これは、マルタの信仰の強さです。
マルタはとことんイエスに食い下がります。
イエスが神に願うことは何でもかなえられると信じるマルタは、同時に、自分が心からイエスに願うことをイエスはかなえてくれると信じているのです。」

気が強く、男性にも負けずに食い下がる女性。
昔も今も、こういう女性はめんどくさいと思われるかもしれません。

 

「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。
まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。
この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。

(使徒言行録16・22~34)

真夜中なのに、洗礼を授けてもらい、家に連れて帰って食事まで。
やや強引とも思える行動です。

信仰を持つ、ということは、ときには「強引に」自分を主張してもよいのだ、とも思えます。
めんどくさいくらいに自分の主張を神様にぶつけることも、時には必要でしょう。

リディアのように積極的で、マルタのように意志が強く、妹のマリアのように秘めた強さを持ち、

「はいはい、わかりました」

そう神様に言われるくらいまで、強い信仰を貫いて生きて行ってもいいのです。 

 

 

神様に留まる

お薦めの海外ドラマがあります。

医療もののアメリカの作品で、毎回、様々な病気(それもかなり難病)の患者が、研修外科医とそのチームによって治療を受け完治したり時には亡くなったり、という内容です。
主人公は「チャーリーとチョコレート工場」のチャーリー君。(もう30歳!)
自閉症でサヴァン症候群(アスペルガーのなかでも特に、ある分野の能力だけが際立っている症状)という設定です。

主人公が自閉症であることを受け入れながら人間的に成長していく様子、周囲の人々があるがままの彼を受け入れていく様子が感動的なドラマです。

 

わたしはあなたがたを友と呼ぶ。
(ヨハネ15・15) 

ドラマの中で度々出てくるキーワードが、「友だち」です。

自閉症のため、人の気持ちを慮ることが難しい主人公は、友だちをなかなか作ることができません。
ですが、周囲は彼を友だちとして受け入れていくのです。

たとえ自分が孤独だと感じても、イエス様は「友」としてわたしたちのことを受け入れてくださっている。

ヨハネの福音書には、「わたしを受け入れなさい」というイエス様のことばがたびたび出てきます。 

よくよくあなた方に言っておく。
わたしが遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れるのであり、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。
(ヨハネ13・20)

わたしを見た者は、父を見たのである。
(ヨハネ14・8)

当時のファイサイ派の人々や神殿祭司たちは、イエス様のことを受け入れることがどうしてもできませんでした。
多くのユダヤ人も、全面的に受け入れていたわけではないと思います。

「神を信じなさい、そして、わたしをも信じなさい」

この世は仮の住まいであり、死後の心配はしなくていいのだ、と言われても、恐らくピンと来なかったのでしょう。

■自分のことを受け入れる

■人のことを受け入れる

これは、現代人が最も難しいと感じていることではないでしょうか。

わたしも時々、どうしても自分を好きになれない、人の言動を受け入れられないことがあります。
すぐに自分の不甲斐なさに失望し、人の小さなミスを許せないと感じてしまいます。

 

わたしのうちに留まっていなさい。
そうすれば、
わたしもあなた方のうちに留まる。
(ヨハネ15・4)

あなたが方がわたしのうちに留まっており、
わたしの言葉が、
あなた方のうちに留まっているなら、
望むものを何でも願いなさい。
そうすれば、かなえられる。
(ヨハネ15・7)

わたしの愛のうちに留まさい。
(ヨハネ15・9)

自分のことも人のことも受け入れられないのに、神様に願いごとばかりしていることを痛感させられます。

神様のうちに留まる、神様の愛に留まる。
イエス様と一致している(信仰を持っている)ならば、自分と人のことを受け入れたいという祈りも聞き入れられるのだ、と思えます。

 

イエスさま、どうかわたしのことを覚えていてください。
わたしは善い人になりたいのです。
善い人にはなりたいのですが、自分には力がないので、できそうにありません。
わたしは罪びとなのです。
しかし、わたしのことを覚えておいてください。
イエスさま!
あなたはわたしのことを思い出すことができます。
あなたは、あらゆるものの中心におり、まさにあなたの王国にいるからです。
主よ、どうかわたしを覚えていてください。
あなたの王国では、あなたが全てを決定できるのです。
(教皇フランシスコとマルコ・ポッツァ師との対話「CREDO」より)

 

いつのまにか、美しく咲いていました。

 

 

 

「ありがとう」

15日は、ローマへ出発される前日にもかかわらず、船津神父様が久留米の信徒たちに旅立ちのご挨拶も兼ねてミサに来てくださいました。

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弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。
(使徒14・23)

長老とは今の司祭のことです。
アベイヤ司教様から、わたしも神様に任されたのだと思っています。
「神様、船津のことをあなたに任せます」、と。
司教様から、「学びに行くことは奉仕することです」というお言葉をいただきました。
マザーテレサの詩にこうあります。
「信仰の果実は愛
  愛の果実は奉仕」

そう、船津神父様がお話くださいました。

 

「おめでとうございます」

「お身体に気をつけて頑張ってください」

わたしたち信徒は、心からそう思って簡単に口にしてきましたが、船津神父様のお気持ちを深く考えてみると、気安く「頑張って」とお声をかけるのは少し違うような気がしています。

「知り合いの神父様から『ありがとう』と声をかけてもらいました。」

そうおっしゃっていました。

「ありがとう」

確かに、1番相応しい言葉だと思います。

わたしたちのために勉強しに行ってくれてありがとう
大変な任務を引き受けてくれてありがとう

そういう意味なのだと思います。

 

普段は「ありがとう」と言ってもらえると、気恥ずかしいような、嬉しい気持ちになります。

船津神父様のお話を聴いて、その言葉の持つ意味がより深いものであることを感じながらお御堂を出たところで、一人の方に声をかけられました。

「いつもありがとう」

わたしが「?」という顔をしていると、その方はこうおっしゃいました。

「今日もずっと写真を撮ってくれていたのを見ていました。
ホームページに載せるためでしょ?
いつも記事を書いてくれて、ありがとう。
教会のために働いてくれて、ありがとう。」

 

 

この日のミサも、7人の子どもたちが侍者を勤めてくれました。

船津神父様も、「これまで、こんなに大勢の侍者が奉仕してくれたミサは、与ったことも司式したこともありません。
久留米教会は本当に恵まれています。」と。

聖体拝領のお手伝いをしてくれたのは、神父様の甥の壱騎くんです。

 

 

いつくしみ深い父よ、わたしたちは新たないのちに満たされ、今、派遣されていきます。
御父への道であるキリストを、喜びをもって伝えていくことができますように。

 

母の日に、お母様に感謝を伝えましたか?
お子さんから「いつもありがとう」の気持ちが届きましたか?

わたしは、母の祭壇の大掃除をしました。

イエスの十字架の傍らには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアがたたずんでいた。
イエスは、母とそのそばに立っている愛する弟子とを見て、母に仰せになった、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」。
それから弟子に仰せになった、「見なさい、あなたの母です」。
その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

(ヨハネ19・25〜27)

 

The descent from the Cross ジェームズ・ティソ

もし、福音書がヨハネだけだったら、わたしたちはイエス様の母親の名前がマリアだとは知らないのです。

ヨハネは「彼の母」「婦人」と記しています。

 

西暦30年4月7日午後。
イエスは腰布以外の何ものをも持っていなかったのだ。
「彼の者達・弟子群」は母を助けて十字架の下に立った若者をのぞき、みな逃げ去っていたから、彼イエスは弟子たちからも友からさえも「棄てられた」者となっていた。 

だから、最後の最愛の「わがもの」はイエスにとって、足もとに立ちつくす母だけ。
その母を、原始の創造期と同じ「女」の語で呼び、「おまえの子」として万人にあたえた!
われわれに最後のときに与えられたのは「母」だった。
われらの女性(ノートルダム)。アヴェ・マリア。
刃を万人のため心に受けた母。
悲哀の限りを体験して知っている母・マリア。

(聖書を旅する4 女性と聖書 犬養道子 著)

 

「母」でいつも頭に浮かぶのは、アウグスティヌスの母モニカです。

ある日私が不在のとき、母は私の友人のある者たちと、この世のむなしさ、死の善きことなどについて母親らしい確信をもって語りあい、彼らがこの女性の勇気ーーあなたがそれを与えたーーに驚いて、故国からそんなに遠く離れたところに身体をのこすのはこわくないかとたずねると、「神さまからは遠くありません。世の終わりに神さまが、どこからよみがえらせたらよいかご存じないとこまるなどと心配する必要はありませんよ」と答えたそうです。
(告白第9巻 11章) 

母親という存在は、心強いものです。

昨日、妹と話していたら、「毎日ママと話してる」と言っていました。
わたしは、毎日母に話しかけていますが、言葉が返ってきたという感覚はあまりありませんでしたので、妹を羨ましく感じていました。
ですが、ミサで「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」(ヨハネ10・27)という箇所を耳にしたとき、わたしは神様と母の声を聞き分けて生きるように努めることができているかもしれない、と思えたのです。 

 

マグニフィカトに、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」という一文があります。
聖書学者の本多峰子さんによると、この「幸いな」と言う言葉は、「神がどのような方であるかを身をもって味わい知っている」と言うような意味なのだそうです。
イエス様が貧しい人、今飢えている人、今泣いている人を「幸い」とおっしゃったのもこの意味なのです。

控えめで優しくて、柔和な思慮深い方、であるだけではなく、力強い母の一面を垣間見ることができます。

 

ウクライナから各国へ避難している人々の映像を見ていて、いつも思います。

男性は国を守るため残る、として、その姿は避難民の中にはほとんど見られません。
幼い子どもを抱き、手をひいた母親たち。
高齢の母親を気遣う女性の姿。

聖書のストーリーが描かれた名画には、ヘロデ王による幼児虐殺をモチーフにしたものが数多くありますが、どの絵も、泣き叫ぶ母親や兵士たちに立ち向かう母親の姿が描かれています。
母子を守るために立ちはだかる父親の姿はありません。

重なって見えるのです。

いつの世も、子どもを守るために素手で立ち向かうのは母親なのだ、と思うのです。

  

ペルゴレージのSTABAT MATER、アンナ・ネトレプコの美しい歌声で聴いてみてください。

https://youtu.be/gL1fi_2ya7g

 

連休後半は、「母」について想い、スタバート・マーテルを聴きながらいろいろな本を読んで過ごしました。

 

気にかけてくれる人

穏やかな天候が続くGWですが、皆様はどうお過ごしですか?

わたしは、信者の先輩おばさま方のお宅に必ずある「祈りの空間」に憧れて、祈りのコーナーを作りました。

母が大切にしていたマリア像、わたしが小学生の頃に母がプレゼントしてくれたマリア像、わたしの洗礼式の時の蝋燭などで、神様と母に「わたしの罪をお赦しください」と祈る空間にしました。

福音書に罪人と呼ばれる人たちは何人も登場しますが、実際に具体的な罪を犯したことが書かれているのは弟子たちのイエス様に対する裏切りだけだ、と福音宣教5月号の本多峰子さんの連載に書いてありました。

わたしの感じている罪は、とっくに神様も母も赦してくれていると思いますが、毎日ここで祈る習慣を大切に続けようと思っています。

 

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。
神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
身を慎んで目を覚ましていなさい。
(1ペトロ5・7〜8)

あなたの重荷を主にゆだねよ。
主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。
(詩編55・23)

いと高き主こそ、あなたのために計らう方、あなたを支える恩人
(ウガリト文献訳)

 

いつもこの聖句を心に留めています。

神様がわたしたちのことを心にかけてくださっていることを忘れないように。

 

弟子たちは漁に出ますが、「その夜はなにもとれなかった」(ヨハネ21・3)とあります。 

さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。
その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。
それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。
弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。
主であることを知っていたからである。
イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。
魚も同じようにされた。
(ヨハネ21・9~13)

153匹もの大きな魚がいっぱい取れます。
当時、ガリラヤ湖の魚は153種類いると考えられていたそうですので、これは、全ての人々の救いを象徴しているのです。

仕事を終えて疲れて帰ってきたら、部屋が暖まっていて食事の用意もできており、
「さぁ、食べましょう」と言ってくれる人がいる。

そんなシーンを思い浮かべます。

イエス様が弟子たちを、それも、決して出来の良い弟子たちではなかったのに、捉えられた時には裏切られ、十字架につけられた時は誰もそばにいてくれなかったのに、それでも彼らを気にかけてくださっている様子。

5つのパンと2匹の魚で5000人が満腹になった喩えがあります。

マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ、全ての福音書にこの喩えは書かれていますが、誰も「パンが増えた」とは書いていません。
(タイトルは4つとも「パンを増やす」となっていますが、文中にはどこにも書かれていません。)

雨宮神父様は、福音記者たちはパンの増加に主眼を置いていなかったから、とおっしゃっています。
5つのパンと2匹の魚を食べて満腹になった5000人の男たちは羊に喩えられ、その羊が青草の上に伏して、牧者に養われる、そういうイメージが表現されているのだ、と言うことです。
つまりこの例えで、イエス様は「導き養う神」であることが示されているのに、そのことを弟子たちは当時はまだ全く悟っていなかったのです。

ガリラヤ湖での漁の逸話は、弟子たちが自らの復活体験をした後の出来事でしたので、「誰も、あなたはどなたですか?」と問う必要はありませんでした。

イエス様がいつも自分たちのことを思ってそばにいてくださり、気にかけてくださっていることを、もう彼らははっきりとわかっていたのです。

 

久留米教会のことをいつも気にかけてくださっている東京教区の古市匡史神父様が、初ミサを捧げてくださいました。

 

 

古市神父様は3年前に久留米教会で司牧実習をなさっていたおり、日曜学校のこどもたちの教育にも熱心に携わってくださっていましたので、ミサの後も多くの信者たちに囲まれて大人気でした!
絵もお得意で、素敵なカードをプレゼントしてくださいました。
(左が叙階記念のカード、右は神学生時代に描かれたものです。)

ロザリオの月、マリア様にとりなしの祈りを捧げ、神様がわたしたちのことを心にかけてくださっていることを日々感じて過ごしましょう。

 

 

復活したあとの歩み

先週、アベイヤ司教様が配ってくださった、福岡教区の宣教司牧方針の冊子を読みました。

正直に書きますが、昨年末にアンケート方式で意見を求められた時は、「こんなたくさんの項目を信徒全員に意見を聞いてまとめるなんて、、、。司教様はどのような結果を期待されているのだろうか。」と疑心暗鬼だったのです。

 

「とにかく、この21ページ目が大事なのです!」 と司教様がおっしゃっていました。

この9項目は、どれも大切なことです。

例えば、
1(1)(2)
多くの人に福音、教会のことを知っていただけるように、このホームページやフェイスブックでの発信に取り組んでいます。
2(2)
組織の見直し、コミュニケーションの強化のため、宮﨑神父様がわたしたちひとりひとりのことを良く見て考えてくださっています。
3(3)
久留米教会では、毎月第4日曜日に教会委員会を開催していますが、フィリピンコミュニティとベトナムコミュニティの代表者も参加し、活動報告や神父様への要望・提案事項を積極的に発言してくれます。

3(1)青年たちの活動を支援、3(2)青少年の召命のための取り組みは、今後の大きな課題です。

「出向く、交わる、開かれた」久留米教会であるよう、これからも行動していきたいと、心を新たにできる冊子でした。

アウグスティヌスの格言にあるように、
神なくしてわたしたちはなく、わたしたちなくしては神はありません。

わたしたちが神様の業を待つのではなく、神様がわたしたちの行動を待っているのです。

 ***

「主の復活の8日間」と呼ばれる、復活後の8日間は、復活祭の喜びとともに続く、わたしたちの新しい約束の日々です。 

ルカに書かれているエマオ途上の顕現物語は、初代教会の間で数年にわたって熟成して形作られた、「信仰の旅路」という主題を表すための譬えなのだそうです。 

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
(ルカ24・13~35)

クレオパたちの体験が史実であるかどうかは、この場合、全く問題ではありません。
ルカはこの譬えで、信仰の在り方について暗示しています。

・イエス様は聖書の意味を分かり易く説明します。
・パンが裂かれるときに、復活のイエス様を体験することができます。
・気づかなくても、復活されたイエス様はわたしたちと旅路を共にしています。
・わたしたちには、復活されたイエス様が「分かった」という体験があります。

 

イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(ヨハネ20・20)

トマスは、復活したイエス様に直接会いたかったのです。
そして、イエス様はトマスを責めているのではなく、復活したイエス様を直接見ることがない者も同様に幸いである、という教えなのです。

 

福音書に書かれている数多くの譬えは、実際に起きたことかどうかは別として、そのことが示す意義、真理を理解する必要があります。

この二つの譬えは、復活の信仰とはなにかを物語っています。

聖書を説き、食事をともにすることで、生前のイエス様がおっしゃったこと、なさったことに立ち戻りなさいと言うこと、つまり、教えの原点に戻ることを説いています。

ガリラヤに行きなさい、そこで会える。
ガリラヤにおられたころ、あなた方に仰せになったことを思い出しなさい。

この「ガリラヤ」は、イエス様の教えの原点の象徴なのです。

復活したイエス様に会ったことのないわたしたちが信じる「復活」とはなにか。

亡くなられたイエス様が、いつもわたしたちの中に今も生きておられることを実感するのが復活の信仰です。

 

復活祭が終わり、一年で最も大切なミサが終わった、と思って過ごしてしまうかもしれません。

そうではなく、それぞれが復活の信仰についてよく思いを巡らせ、神様との約束を新たに思い起こして再び歩みはじめる、今はその大切な時なのです。

 

 

わたしたちの宣教

イエス様が十字架刑に処せられた日は、教会の暦では最も厳粛な日です。
英語では、「グッドフライデー」と言います。
ギリシャ教会では「聖く大いなる金曜日」、ドイツ語では「嘆きの金曜日」「神の金曜日」などという言い方をするようです。
そして、罪と死に勝利した主イエス・キリストを記念するのが復活祭(イースター)です。

凄惨な金曜日の事件に対して「良い」という形容詞をあてることに、キリスト者はほとんど疑問を感じません。
イエスの死がどれほど悲惨なものでも、それを通して世の贖いが達成されたのだという、何世紀にもわたる教会の確信が、金曜日を肯定的に表現する理由として考えられます。
(「イエス最後の一週間」より抜粋)


「その勝利は罪と死に対してであり、誰かに対してではない。
それなのに、今日、戦争がある。なぜこの世の方法で勝とうとするのか、それは敗北をもたらすだけだ。

なぜ神が勝つままにしないのか。

キリストはわたしたちを悪の支配から解放するために十字架を背負われた。
キリストはいのちと愛と平和が統治するために十字架上で死なれた」

4/10バチカンでの教皇フランシスコのお説教より

 

イエス様の死は『贖罪のための代理死』である、という考え方はキリスト教信者にとっては一般に浸透しているものですが、この概念が一般化するのは1000年ほど経ってからのことでした。

一番最初に福音書を書いたマルコは、イエス様の死を代理死ではなく、「権力者による処刑」と捉えています。
そして同時に、暗闇が地を覆い、神殿の幕が裂けたことを、神殿と神殿権力者たちへの裁きの象徴として表現したのです。

マルコによる福音書10・45の記述から、イエス様の死を罪の対価、代理死であると解釈できるかもしれません。

「人の子は仕えられるためだけではなく仕えるために、
また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

ギリシャ語の原文でこの「身代金」にあたる単語は、捕虜や奴隷を開放する代償金を指しています。
つまり、この文章は「束縛から人々を解放するという大義のために自らの命を投げ出した」ことを意味するのだそうです。

そう理解して、上述の教皇様のお説教の文章を読み直してみると、とてもスッキリと心に響いてきます。

 

 

ご復活のミサは、アベイヤ司教様が司式してくださいました。
11名の子どもたちの洗礼式も執り行われ、ご復活の喜びとともに、将来の希望が誕生しました。

お説教で、「福岡に来て2年になりました。その間ずっと、コロナと一緒です。
わたしたちは、“できること“をしなければなりません。
“できないこと“ではなく、 具体的に行動することが大切なのです。」とお話しされました。

そして、この2年かけて準備され、わたしたち信徒に広く意見を聞いて作り上げられた宣教司牧方針の冊子を配ってくださいました。

 

イエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。
(使徒言行録10・42~43)

わたしたちキリスト者にとって、宣教は重要な務めです。

各自の置かれた立場に応じ、自らの生き方を通して周囲にお恵みを与えることができますように。

子どもたちのためにも、豊かな教会共同体を共につくり、守り、育てていきましょう。 

 

昨年の4月に書いた記事も、ぜひもう一度読んでいただきたいと思います。

「復活」による変化

 

 

これまで、これからの日々

マルコによる福音書は、イエス様の最後の一週間を一日ごとに追って、日記的に描写しています。

そして、マルコだけが、日曜日、月曜日、木曜日の朝と夕の出来事を詳細に語っていて、ローマ軍の時間区分と同じ、3時間ごとに金曜日の出来事を追って書いています。

マルコ福音書が書かれたのは、エルサレム神殿が崩壊したころです。
神殿の崩壊によって、当時のユダヤ教のあり方が一変しました。
ユダヤ人は供儀を捧げる場所を失い、祭司職の役割は薄れ、ユダヤ教の中心は聖典と会堂へと移行しました。

神殿崩壊、つまり戦時下に書かれたこの福音書では、その時代背景もあってエルサレムが中心的な役割を果たしています。

書かれた当時、AD1世紀の教会にとって、十字架は2つの意味を持っていました。

ひとつは、ローマ帝国による処刑。
もうひとつは、死と復活につながる生き様=古い命に対して死んで新しい命にいたる道、の象徴です。

マルコとパウロ書簡では、十字架を新生(新しく生まれ変わる、生き方を刷新する)への道と捉えています。

 

そして、これはとても大切なことですのでしっかりと理解しておきたいのは、イエス様の十字架刑の原因である衝突についてです。
イエス様とユダヤ教の衝突と安易にとらえていた過去の歴史が、その後のユダヤ人迫害へとつながっていったことはご存じのとおりです。

イエス様の声は、当時のユダヤ人たちが発した声のひとつであり、神の名を用いて正当化された支配構造への抵抗、ユダヤ教の神に対する敬神の思いを訴えるものだったのです。

 

棕櫚の聖日に神殿に集う熱狂的な群衆と、その後の数日間の出来事を時系列で追って理解することで、イエス様の死とご復活の意味をより深く正しく捉えることができます。

聖週間の1日1日を噛みしめながら、大切に日々を歩みましょう。

 

日曜日(11・1,11)
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。
・・・
二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。
いと高きところに、ホサナ。」

月曜日(11・12,19)
『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった。

火曜日(11・20)
「神を信じなさい。はっきり言っておく。
だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになる。
また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。
そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

水曜日(14・1)
さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。
彼らは、「民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

木曜日(14・12,17
除酵祭の第一日、すなわち過越の子羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
・・・
弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。

金曜日(15・1,22)
夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
・・・
そして、イエスをゴルゴタという所に連れて行った。
没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。

土曜日(15・42~43)
すでに夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身のヨセフが、思い切ってピラトのもとへ行き、イエスの遺体の引き取りを願い出た。
この人は高名な議員であり、自らも神の国を待ち望んでいた人であった。

日曜日(16・1~8)
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
・・・
若者は言った。「驚くことはない、あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。
さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われた通り、そこでお目にかかれる』と。 

 

 

春は、イエス様の足跡を振り返る季節です。

この春を、新しい環境で迎えた方も多いかと思います。

これまでの日々に思いを馳せながら、同時に、これからの新しい人生に不安や戸惑い・期待と希望といった思いが絡み合う、そんな季節でもあります。

 

4月から、ホン・チャン・キ神学生が司牧実習に来てくださっています。
韓国出身の、神学校3年生です。

意外と、おちゃめな一面がある49歳です。

 

船津神父様は、もうすぐローマへ旅立たれます。
久留米教会で司祭叙階式を終えられた時のお写真です。

この笑顔にはいつも癒され、心が和みます。

 

久留米教会に2017年まで赴任していらした森山神父様が、6月から大分教区に司教として着座されることが先日発表されました。
ガリラヤ湖で、小魚に足をつつかれて喜んでいらした時のお写真です。

「司教様」というと、なにか遠い、恐れ多い存在のように感じてしまいますが、こうした笑顔を思い出すと「同じキリスト者」でいらっしゃるのだ、とじわじわと感じます。

 

ホン神学生、船津神父様、森山新司教様へお祈りを贈りましょう。
わたしたちが心をこめて力強く祈り続け、多くの祈りに支えられながら、これからの日々を強く歩むことができますように。

 

信仰のセンス

長年、教会でお付き合いのある方で、いつかゆっくりお話ししてみたい、と思っている方がいました。
毎週のようにミサの時に言葉を交わしてはきたものの、お互いのことを知っているような知らないような関係でした。

コロナ禍になってから、ご家庭の事情でなかなかお目にかかれなくなっていたので、先日お宅を訪問してお話してきました。

 

自分はこれまで、こういう風に生きてきました

今は、こんな風に生きています

将来は、こういう風に生きたいと思っています

 

その方は、ご自分の人生を話してくださいました。

人に、これまで・今・これからの自分について語ることができますか?

「こうありたい」という理想を語ることはできても、「こういう風に生きよう」という決意を心に持つことは素晴らしい、羨ましい、わたしにはまだ出来てない、と思ったのです。

 

「わたしの父は今もなお働いておられる。
だから、わたしも働くのだ。」
(ヨハネ5・17)

以前書いたことがありますが、ある神父様が、亡くなられたお父様の葬儀ミサがきっかけで、それまで教会から離れていた兄弟がまたミサに足を運ぶようになったこと、「父は今もなお働いている」と感じた、とお話しくださいました。

そして、わたしも、仕事などで困難にぶつかり、それが良い方向に変化していくのを感じる度に「母が今もなお働いている」と強く感じるのです。

 

わたしは自分では何もできない。
ただ、父から聞くままに裁く。
わたしの裁きは正しい。
わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。
(ヨハネ5・30)

困難な状況を克服した時、いつも思います。

「わたしが解決に導いたのではない。
神様が言われることを聞いて、そのように行おうと努めることができた。」

神様と母ばかりを働かせて、わたし自身の働きが弱いのかもしれない、と冒頭の方と話していて感じたのです。
「神頼み」「母頼み」になりすぎています。

わたしが今日あるのは神の恵みによることであり、そして、わたしに対する神の恵みは無駄にはなりませんでした。
それどころか、わたしは使徒の誰よりも多くほねをおって働きました。
わたしが、というより、神の恵みがわたしとともにあって働いていたのですが・・・・。
(1コリント15・10)

その方は、年齢的には大先輩であり、当然わたしよりもずっと色々な経験をされ、今も決して楽な日々ではないはずなのに、ご自分のこれまで・今・将来について話されるときの表情はイキイキと輝いていました。

だから、わたしも働く
神様の御心を行う

その方のお話の中には、この2つの言葉が散りばめられていたと感じました。

「信仰のセンス」と言う言葉について、以前、聖書研究会で教わりました。

◆聖霊によって与えられた、神からの霊的な事柄を感じる能力
◆神からの救いへの働きかけを感じ取り、受け入れる能力
◆日々の生活の中で、神、キリストの永遠の救いについて、自分なりの考えを見出す能力

こうした意味を持つ言葉で、信者個人の生き方で表されるものです。

その方は、抜群の信仰のセンスを持ち合わせた方だ、と、初めてじっくりとお話を伺ってわかりました。


決勝点への邁進
わたしは、そこへ、すでに到達したわけでも、自分がすでに完全なものになったわけでもないので、目指すものをしっかり捕えようと、ひたすら努めています。
このために、わたしはキリスト・イエスに捕らえられたのです。
ただ一つのこと、すなわち、後ろのことを忘れて前のことに全身を傾け、目標を目指してひたすら努め、キリスト・イエスに結ばせることによって、神が、わたしたちを上へ招き、与えてくださる賞を得ようとしているのです。
ですから、わたしたち信仰に成熟した者はみな、このことを念頭に置きましょう。
何はともあれ、ここまでたどりついた道を歩み続けましょう。
(フィリピ3・12~16)

「ただ一つのこと」は、新共同訳では「なすべきことはただ一つ」となっています。

前に書いたキーワードのように、「信仰はいつも発展途上」ですから、わたしたちはどんなに熱心に祈り、毎週ミサに与っていても、完全なものではありません。

目指すもの、とは、この世での生活においても必要なものです。

信仰のセンスを磨き、この世での目指す目標、神様が与えてくださる賞を目指して、自分の生き方を人に話すことのできるキリスト者になりたい、そう思った週でした。

 

キリストを知り、その復活の力を知り、また、キリストの苦しみにあずかることを知って、ますます、キリストの死に様を身に帯び、何とかして、死者の中から復活するまでに漕ぎつけたいものです。
(フィリピ3・10~11)

 

 

神様はゆるす方

ウクライナのことを思わない日はありません。
「ロシアによるウクライナ侵攻」ではなく、戦況はロシアvs西側諸国の様相に変わったかのようです。
ウクライナの街が破壊され多くの市民が亡くなっていることは、惨く、信じられないことですが、ロシアの戦艦が破壊されて激しく燃え盛る様子を見て、良かった、とは決して思えません。

教皇様は、3月25日のお告げの日にバチカンでミサをささげられました。
そしてその中で、ウクライナとロシアを聖母マリアに奉献されたのです。

 

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。
我々は御前に生きる。
我々は主を知ろう。
主を知ることを追い求めよう。
主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。」
(ホセア6・1~3)

 

自分が正しい。
わたしは間違っていない。
あの人の考え方はおかしい。

よく言えば正義感が強くもあり、わたしの欠点である「自分の主張を押し付ける言い方」をして、また人を傷つけてしまいました。
「あんな風に言われて、残念な気持ちになりました。」とメッセージが来るまで、そのことに気づかなかった自分が嫌になりました。
この一週間、その罪の意識がわたしを覆い、ずっと後悔の念に苛まれて過ごしてしまいました。 

 

わたしたちは、言葉をとおして偏見を育てたり、隔ての壁を築いたり、さらには相手を攻撃し、破壊してしまうことさえあります。
わたしたちが日ごろ使っている言葉について、問い直してみましょう。
その言葉は、配慮や尊重、理解や寄り添いを表すものでしょうか、それとも自分をひけらかすためのものでしょうか。
柔和さを持って話していますか?
それとも批判や嘆きや攻撃性で、世の中に毒をまいているのでしょうか。
神がその謙虚さを顧みたおとめマリアが、わたしたちが眼差しと話し方を清められるよう助けてくださいますように。
2/27教皇フランシスコ お告げの祈りでの説教より

 

そんな時に、この教皇様のお説教の言葉を読み、ますます落ち込んだまま日曜日のミサに与りました。

 

「素直に、心から悔い改め、感謝して正直に信仰に生きましょう。
神様は罰する、怒る神ではありません。
ゆるす神です。
両手を広げて、父の愛、母の愛でわたしたちを受け入れ、 ゆるしてくださいます。」

宮﨑神父様がお説教でこう言われ、わたしの心も救われました。

 

 

そのとき、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスは次のたとえを話された。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。

ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
(ルカ18・9~14)

時々、わたしはファリサイ派の人のようです。
「わたしは熱心な信者です。
わたしは一生懸命に役割に取り組んでいます。
褒めてください!」
そういう気持ちが湧き上がってきて、自己満足している自分が嫌になることがあります。

でも今日は、徴税人のように素直になって、正直に信仰に生きるものとなるよう努めよう!
そう、決意を新たにできた気分です。

わたしの罪は赦された、と(勝手に)感じた日曜日でした!

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「ロシアとウクライナをマリアの汚れなきみ心に奉献する祈り」

 わたしたちはあなたにより頼み、あなたのみ心の扉をたたきます。
あなたは、愛する子であるわたしたちをいつも見守り、回心へと招いてくださいます。
この暗闇の時、わたしたちを救い、慰めに来てください。
わたしたち一人ひとりに繰り返し語ってください。
「あなたの母であるわたしが、ここにいないことがありましょうか」と。
あなたは、わたしたちの心と時代のもつれを解くことがおできになります。
わたしたちはあなたに信頼を寄せています。
とくに試練の時、あなたはわたしたちの願いを軽んじることなく、助けに来てくださると確信しています。

https://www.cbcj.catholic.jp/2022/03/24/24408/


 

信じて生きてみる

教会は古くから舟に例えられてきました。
教会とはわたしたちであり、舟はイエス様でもあります。
そして同時に、イエス様は、荒波の中を舟に揺られ続けるわたしたちのための錨でもあるのです。


わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなもの
(ヘブライ6・19)

 

この写真は、イスラエルのマグダラにある教会です。
祭壇が船の形をしているので、船の教会と呼ばれています。

奥に見えるのはガリラヤ湖です。
聖堂でミサをしていただいたときの写真です。

 

 

先日、久留米の聖マリア学院の公開講座で久留米出身の船津亮太神父様(小倉教会)の講演があり、わたしもzoomで参加しました。

福岡司教区の主日の音声説教でも、船津神父様はいつも「誰にでも分かり易く」を心がけてお話されている、と伺ったことがあります。

公開講座のテーマは「コロナ禍をよりよく生きる」

聖書のことばだけでなく、映像を使って具体的にイメージできるように工夫してくださっていて、神父様の考えていらっしゃることがよく理解できる講演でした。

特に印象に残っているのが、選び取るのは「生活」か「人生」か、というくだりです。

生活を重視するならば、安穏で波風の立たないように日々を生きることを重視しながらも、あくせくと自分の毎日を切り盛りして過ごすことになる。
人生を重視するならば、情熱を持って理想へと日々邁進し、超越者(神)がわたしを動かし生かしているのだと理解することができる。

主体を自分に置くか、神に置くか。

コロナ禍、「生活」を失ってその大切さを誰もが痛感したが、わたしたちが選び取るべきは「人生」である。

大きな時間軸の中で今を捉えること。

束の間の「生活」のなかに与えられた神の賜物に感謝し、
神の導きに応える「人生」を選び取っていく。

生活を大切に生きることは当たり前のことであり、わたしたちは信じて生きる「人生」を歩まねばならないのだ、ということなのでしょう。

船津神父様は、臨床心理士として働かれていた時に運命的な出会いにより召命を受けられました。

「今だったら、このまま働いていたい気持ちと、神学校に入りたい気持ちが半々です」と迷われていたそうです。
「半々なら、神学校に入ろう」と背中を押され、司祭を目指す道へと入られました。

信仰をもつわたしたちの人生は、自分以外の誰かに突き動かされて生かされていく日々です。

神様への信頼に根差したこの人生は、神様の呼びかけに応える「召命」の道と呼応するものだ、と船津神父様のお話にありました。

 

わたしは乾いている地に水を注ぎ
乾いた土地に流れを与える。
あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
あなたの末にわたしの祝福を与える。
彼らは草の生い茂る中に芽生え
水のほとりの柳のように育つ。
(イザヤ44・3~4)

信じる、というのは、信じて生きてみること。
そして、信仰というものはすでに完成したものとして持つものではなく、いつも発展途上にあるもの。

これは、手帳に走り書きしていたのでどなたのお言葉だったか分からないのですが、「信じて生きてみる」「信仰はいつも発展途上」というキーワードが気に入っています。

信じて生きる人生とは、イエス様を信じて皆で共に同じ舟に乗る、ということでしょう。

 

春の乾いた土地が、雨で潤されて新芽が芽吹くように。
茶色だった大地が、いつの間にか生い茂る草に覆われ緑に変わっていくように。

わたしたちの信仰は、特にこの春の四旬節の間に大きく育つように思います。
信じて生きてみよう、とこの季節は気持ちを新たにするよい機会です。

御復活祭の時に洗礼式が執り行われるのは、確かに最高のタイミングです。


船津神父様に続く召命が、久留米の少年たちにいつか降りてきますように。

 

 

 

行う人

311について思いを馳せる日々でした。

西日本新聞の3/10の朝刊には、当時の釜石の子どもたちが11年後の今、当時を振り返って取材に答えた特集が組まれていました。

お読みになっていない方は、ぜひ読んでみてください。

心にずっと刺さった、棘のような「後悔」や「罪の意識」のような気持ちを吐き出すように語った、20代になった人たちの声にいろいろなことを考えさせられました。

地震や津波での被害だけではなく、まだ苦しんでいる人が多くいる現実を再認識することができました。

 

以前ここに書いたことのある、ある支援している方に久しぶりに電話をしてみました。
久しぶりだったからか、溜まっていたのであろう言いたいことや現状への不満を爆発させて、ガチャっと電話を切られてしまいました。
施設の方に再度電話してお話を伺ったら「自分のことをかまってくれる、気にかけてくれる人がいて、本当は嬉しかったのだと思いますよ。」と言っていただきました。

この方も、釜石の方々も、 自分の中に溜め込んでいる思いを思いっきり伝え、聞いてもらえる人がいる、と言うことがどれほどの救いになるか。

わたしもその相手になることができれば、と思うのです。

 

ヤコブの手紙は、短い中にも深く、理解しやすいことばでわたしたちの心に迫ってくるものがあり、とても好きな書簡です。

試練を耐え忍ぶ人は幸いです。
その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。
神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。

御言葉を行う人になりなさい。
自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。
このような人は、その行いによって幸せになります。
自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。
(ヤコブ1・12~27)

 

「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
(ヤコブ2・26)

 

「行う人」でありたい。

役割をいただいているので、毎週ミサに参列させていただいています。
ミサに与ることそのものではなく、教会で出会うすべての皆さんとあいさつを交わすことが、わたしの一週間で一番の喜びになっています。

わたしにとって「行い」は、自分の至らないところを補うように物事を実践し、人に関わることで実現しています。
少なくとも、そう思っています。
良く行えているかどうかはわかりませんが、人付き合いが得意ではないわたしが、こうしてミサ前に聖堂入り口で毎週皆さんをお迎えする役割をいただけていることで、行おうと努めています。

今朝は、先週転勤してこられたばかりというシスターを、満席だったのに偶然空いたお席にご案内することができました。
「初めて久留米教会に来たのに席がなくて、それなのにあなたに案内してもらえて嬉しかったわ!」
そう言ってくださり、少し色々とお話しさせていただく機会となりました。

清々しい、嬉しい日曜日の朝を過ごすことができました。

 

キリスト教の最もすばらしいところのひとつは、神が私達に、過去が何であっても常に、新しい人生をやり直させてくださることだと思います。
神さまが私たちを罪に定めないでいるのに、私たちが自分をもうだめだと、罪に定める理由はないでしょう。
友達や隣人を罪に定めるのは、もっといけないのではないでしょうか。
希望と愛を持って、いつも、助け合い、前を向いて生きていきたいと思います。

聖書学者・本多峰子さんの福音宣教3月号の記事に、このように書いてありました。

この視点は、当たり前のことのようであって、当然のこととして現実に認識できていないことのように思います。

改めて文章で読み、心が救われた気がしました。

 

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郵便局、銀行、クレジットカード決済のいずれかを選択できます。

ぜひ、ご検討ください。

https://www.caritas.jp/2022/03/04/4997/

亡くなられたウクライナの市民、軍人、そしてロシアの軍人たちのために、魂の平安を祈ります。

 

いつも「ここにいる」

黄砂や花粉が飛び始めても、久留米の空はエルサレムのように澄み渡っています。

新緑の力強さが感じられる四旬節が始まりました。

.

イエス様は、神から『わたしの愛する子、わたしのこころに叶うもの』と言われたのちすぐに悪魔の試みにあわれました。

「神様から愛され、我が子とまで呼ばれたのに、なぜ試されたのでしょうか。」
森山神父さまに質問してみました。

「イエス様もひとりの人間です。
わたしたちと同じように、苦しんだり悲しんだりする存在です。
人間とは、とかく独りよがり、自己中心に陥りがちで、神への信頼を忘れてしまいます。
旧約の民がそうであったように、イエス様でさえ、神にイニシアティブがあることを徹底的に教えられたのです。
わたしたち人間への徴として、イエス様にも試練が与えられたのです。」

6日のごミサのお説教では、宮﨑神父様がこうおっしゃいました。

「四旬節の四十日、四十年といった数字は、永遠の命への準備期間の象徴であり、わたしたちの人生そのものを指しているとも言えるでしょう。
人生では当然、試されたり試練に遭うこともあります。
イエス様も霊によって守られたのですから、どのような時も聖霊の導きに委ねるのです。」

 

わたしたちは、何か困難に遭った時にそれを「神からの試練」とはすぐに捉えられないものです。
苦しい時間を過ごし、神様に祈りながら(時には神様に文句も言いながら)時間の経過を耐え、物事が好転したり気持ちが落ち着いて後、「あぁ、あれは与えられた試練だったのだ」と振り返ることができるものでしょう。

その時のために、あらためて常に心に刻んでおかなければならないと、気持ちが引き締まりました。

今のわたしは、本当の永遠の命を得るために多くの試練を乗り越える必要があること、聖霊がいつもともにいてくださること。

 

悪魔はあらゆる試みを終えると、定められた時までイエスを離れた。
(ルカ4・13)

フランシスコ会訳聖書の注釈にはこうあります。

[「定められた時」はイエスの受難の時を指す。
その時には、悪魔はユダヤ祭司長や長老たちを使って、イエスに対して最後の攻撃を行う。]

マタイとマルコの並行箇所は、次のように書かれています。

そこで、悪魔はイエスから離れた。
すると、み使いたちが現れ、イエスに仕えた。
(マタイ4・11)

イエスは四十日の間そこに留まり、サタンによって試みられ、野獣とともにおられたが、み使いたちがイエスに仕えていた。
(マルコ1・13)

答唱詩編の詩編91・11〜12がこの箇所の根拠です。

神があなたのために使いに命じ、
あなたの進むすべての道を守られる。
神の使いは手であなたを支える。

「あなた」とは、わたしたちのことであると捉えると、とても心強く響いてきます。

 

お前たちの中の誰が、主を畏れ、その僕の声に聞き従うのか。
明かりを持たずに暗闇を歩いて、
なお主の名に信頼し、自分の神に頼るのか。
(イザヤ50・10)

まことに、お前たちの手は血で、指は悪行で汚れ、
唇は偽りを語り、舌は邪なことを発する。
彼らの働きは不正な働き、手にあるのは暴力。
彼らの足は悪に走り、罪なき者の血を流そうと急ぐ。
彼らの思いは不正の思い、その行く道にあるのは荒廃と破壊。
平和の道を彼らは知らず、巡りゆくその道筋に公正はない。
彼らは自分の行く道を曲げ、その道を歩む者は誰も平和を知らない。
(イザヤ59・3~8)

去年の今ごろは何が起きていただろう、と思い、気になった記事などをファイリングしているものを開いてみました。

ちょうどこの頃、パパ様はイラクを訪問されていました。
過激派組織によって長年苦しみ、宗教的にも政治的にも混乱が続くイラクへの教皇の歴史的な訪問は、冷ややかな姿勢で報道されました。

一昨年のこの頃には、イタリアで新型コロナウィルスが猛威を震い、多くの司祭・修道者が感染者に寄り添うために出かけて行き、命を落としました。

いつも世界のどこかで、想像を絶する苦難や試練に遭っている人がいるのです。

ローマ教皇というお立場は、平和の象徴でもあると思っています。
わたしたちは、いつも困難に遭っている人々に寄り添われる教皇様を信頼し、その言動から神様がいつもそばにいてくださることを感じることができます。

 

 この四旬節の間、食を断つ意味ではなく、本来の「断食」を続けましょう。

 「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
(ローマ10・8~13) 

わたしは、わたしを尋ね求めなかった者にわたしを追い求めさせた。
わたしは、わたしを捜さなかった者にわたしを見出させた。
わたしは、わたしの名を呼ばなかった国に向かって、
『わたしはここにいる、わたしはここにいる』と言った。
(イザヤ65・1)

いないのは神様ではなく、人の心なのだ、ということです。

神様はいつも「ここにいるよ」と寄り添ってくださっていることを、誰もが忘れないように。

 

「断食」という言葉の本来の意味は、次のイザヤ書の言葉の通りである、と以前教わりました。

これこそ、わたしが選ぶ断食ではないのか。
不正の鎖を解き、軛の結び目を解き、
虐げられた人を開放して自由の身にし、
軛をすべて、打ち砕くこと。
飢える人にお前のパンを分かち与え、
家のない貧しい人々に宿を与え、
裸を見れば、着物を着せ、
お前の同胞に対して見て見ぬふりをしないこと。

その時、お前の光は暁のように輝き出で、
お前の癒しは速やかに生じる。
お前の正しさがお前の先を行き、
主の栄光が背後の守りとなる。
その時、お前が呼べば、主は応え、
叫べば、『わたしはここにいる』と仰せになる。
もし、お前の中から軛を除き、
指をさすことや中傷をせず、
飢える者のために尽くし、
虐げられる者の必要を満たすなら、
お前の光は闇の中に輝き出で、
お前の暗闇は真昼のようになる。
(イザヤ58・6~10)

2022年の四旬節を、断食の祈りと共に過ごしましょう。

 

希望の火

天皇陛下は、62歳の誕生日に際してのお言葉で、コロナ禍に対し「支え合う努力を続けることにより、この厳しい現状を忍耐強く乗り越えていくことができる」とおっしゃいました。
また、「つながりを大切にしながら、心に希望の火を絶やさずに」と呼びかけられました。

忍耐強く、希望の火を絶やさずに。

まもなく始まる今年の四旬節を前に、困難の最中にある人々へ心を向けることの大切さを再認識したいと思います。

四旬とは、試練・苦難の象徴である数「40」を意味します。

ウクライナの人々のことを思い、苦しい気持ちで過ごしています。
まさに聖書で言うところの「荒野の40年」のような状況に置かれているのかもしれません。

旧約のイスラエルの民と重なって見えます。
バビロン捕囚で苦しみ、外国勢力による支配で迫害を受け続けた彼らは、民族の救いと、救い主の到来を忍耐強く、希望の光を絶やさずに待ち続けたのでした。

40年という数字は、文字通りの年月ではなく、試練・苦難の象徴として使われます。
新しい秩序に向かうための時間であり、神に出会うために必要な時を表す数字です。

 

 

 

四旬節の教皇様のメッセージを皆様もお読みになったことでしょう。

「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」(ヨハネ4・37)

他の人のために良い種を蒔きなさい。

この回心の時に、神の恵みと教会での交わりに支えを得て、たゆまずよい種を蒔きましょう。
断食は地を整え、祈りは地を潤し、愛は地を実らせます。

断食と祈りは一人でもできます。
それに比べ、地を実らせるための愛の実践はなんと難しいことでしょうか。

人のために良い種を蒔く、とはどういうことでしょう。


わたしはあなた方を遣わした。
自分で苦労しなかったものを、あなた方に刈り取らせるためである。
ほかの人々が苦労して、あなた方はその労苦のお陰を被っている。
(ヨハネ4・38)


種蒔く者に、種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなた方に蒔く種を与え、増やし、また、あなた方の慈しみが結ぶ実をますます大きくさせてくださいます
(2コリント9・10)

 
わたしたちの人生全体が良い種を蒔く時だ、と教えてくださっています。

今日わたしたちが出会った人に、キリストの香りを振りまくことができたでしょうか。


霊という畑に種を蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
倦まず弛まず善を行いましょう。
飽きずに励めば、時が来たとき、わたしたちは刈り取ることになります。
(ガラテヤ6・9)

わたしたちの日々の行いは、すべて種を蒔く行為なのだ、と考えることができます。

その言動は、良い実を結ぶのか。

いつもそう考えて人に接し、言葉を発する、とても難しいことかもしれませんが、少なくとも「あんなことを言わなければよかった」「もっと優しくすればよかった」などといった後悔の気持ちからは解放されます。

先日の宮﨑神父様のお説教にあったように、「教会に来て神父や信者の悪口を言うような日曜日を送ってはならない」のです。

 

荒野の40年は、あの時のイスラエルの民には必要な犠牲だったかもしれません。
ですが、今のウクライナが置かれている状況は耐えるべき苦難とは言い難いものです。

アメリカとドイツが、ウクライナへ地対空ミサイルや戦車といった武器の提供を決定した、と報道がありましたが、それは決して良い種ではないと思います。

ウクライナ正教会は、ロシア正教会から分離独立したという経緯があります。
宗派は違えど、キリスト教の教えを汲む東方正教会の一員である、ロシア正教とウクライナ正教。

少なくとも、多くのウクライナ人、ロシア人がキリスト者であるという事実も忘れてはならないでしょう。

宗教的にも政治的にも、自分が正しい、という驕りは良い実を結ぶ考え方ではありません。

経済制裁で直接的に影響を受けて苦しむのは、ロシアの一般国民です。

何が解決法なのか。

ウクライナの人々が希望の火を失わないように、全身全霊で祈ること、今わたしたちにできるのはこれしかありません。

犠牲になった人々、今困難の中にあるウクライナの人々、リーダーの行動のために不本意な迫害を受けているロシアの人々のために祈りを捧げることに注力するときです。

倦まず弛まず、飽きずに、世界中のキリスト者が一丸となって祈り続けるのです。

宮﨑神父様もおっしゃっていました、「ロザリオの祈りは世界を変える力を持っている」と。

 

教皇フランシスコは、ウクライナにおける状況に深い悲しみを表明され、次のように呼び掛けられています。

「信者の皆さん、そうでない皆さん、すべての人に呼びかけます。
暴力の悪魔的な無分別さに対して、神の武器、すなわち、祈りと断食をもって答えることをイエスは教えました。

来る3月2日、「灰の水曜日」を、平和のための断食の日とするよう皆さんにお願いいたします

特に信者の皆さんが、その日を祈りと断食に熱心に捧げるよう励ましたいと思います。
平和の元后マリアが、世界を戦争の狂気から守ってくださいますように。」

 

奇跡物語が語るもの

中庭の春の装いが、小雪の舞うなかとても美しい日曜日でした。

宮﨑神父様のお説教にとても心を打たれました。
「ウクライナのために祈っていますか?」と問われ、気になってはいるものの、それは「戦争が始まるかも」というニュースとしてに過ぎなかった自分が恥ずかしくなりました。

遠い国のニュースではなく、隣人が戦争と隣り合わせの現実に直面していることを忘れずに、みなさん祈りましょう。

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マタイ、マルコ、ルカの3つの共観福音書には、同じ出来事や教えが書かれている箇所があります。
福音書を読んでいると、注釈でその並行箇所が示されているので、同じ話を他の2人も書いていることを知ることが出来ます。

全く同じエピソードが、福音記者によっては詳しく書かれていたり、短かったり、時には全く違った趣旨で書かれていることがあります。

話の大筋はだいたい同じなのですが、当然3人にはそれぞれに伝えたいポイントがあって、よく読むとわたしたちに訴えていることが違うことが分かります。

エリコの盲人、バルテマイが癒される奇跡物語があります。

(その道の)道端に座っていたバルテマイという盲目の物乞いが、何度黙らせようとされても「ダビデの子イエスさま、わたくしをあわれんでください」と叫び続けます。
イエスが「何をわたしにしてもらいたいのか」とお尋ねになると、盲人は、「先生、見えるようにしてください」と言った。
そこでイエスは仰せになった。
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。
するとたちまち、盲目の人は見えるようになり、(その道を)イエスに従った
(マルコ10・46~52)

 

イエスは立ちどまり、彼らを呼んで、「何をしてもらいたいのか」とお尋ねになった。
二人は「主よ、わたくしたちの目を開けてください」と言った。
イエスは哀れに思い、その目に手をお触れになると、彼らはすぐに見えるようになった。
そして、イエスについて行った。
(マタイ20・29~34)

 

そこで、イエスが「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と仰せになった。
すると、盲人はたちどころに見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスについて行った。
これをみて、民は皆、神を賛美した
(ルカ18・35~43)

 

3人の福音記者たちの意図はそれぞれ違うところにある、と雨宮神父様の本にあります。

マルコ
■「見えるようにしてください」と、物事を見抜く視力の回復が願われている。
■(その道の)という言葉が本来のギリシャ語原文には書かれていて、エルサレムに向かう途上で盲人に会っている。
■奇跡そのものよりも、イエスに叫んだ者が十字架への道=苦難を通って救いへと至る道に招き込まれたことを表現。
■わたしたち読者にも、どうすればイエスによる救いの道へ入れるのかを教えている。

 

マタイ
■「目を開けてください」と、ごく実質的な願いがなされている。
■盲人の目が開かれた、という奇跡物語を語ることに主眼がある。

 

ルカ
■奇跡を通して働く神の力への賛美。
■イエスが神として顕現し、叫び求める者に救いを与えるという教え。


『なぜ聖書は奇跡物語を語るのか』
 雨宮 慧 神父 著より


ひとりで聖書を開いても、ここまで深く意図を読み取ることはできません。
この本を読んで、まさにわたしも「目が開かれた」気持ちです。

 

聖書は、歴史的な出来事を客観的に書いている本ではない、ということはご存じのとおりです。

聖書を書いた人々が伝えたかったのは、その出来事の背後にひそんでいた意味なのだ、と雨宮神父様が書いておられます。

「そして、聖書が出来事を叙述するとき、詩や戯曲の表現方法を駆使し、シンボルや詩的表現を使って把握した意味を伝えようとしています。
イメージを限りなく広げる言葉が好まれるのです。読むほうもそのつもりで読む必要があります。」

 

歴史書は出来事を正確に客観的に叙述して真理を追求するに対して、新約聖書は復活体験が根本になって、知りえた真理からさかのぼって出来事をとらえているのです。

イエス様が行われた奇跡に立ち会った弟子たちでさえ、その時にはその本来の意味を理解できていなかったのす。

復活体験によってイエス様の神性を知り、宣教活動を通してその真理を理解した彼らは、そのことを以前の出来事のなかに確認しながら書き記したのです。

ですから当然、一つの奇跡物語にいくつもの強調したい真理がうまれるわけです。

聖書を読む時にこのことを分かっていて読むかどうかで、心に訴えてくることが変わるはずです。

このことを踏まえたうえで以下の箇所を読んでみてください。
わたしは、以前とは違う景色が見えた気がしました。

 

「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。
覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
(マルコ8・14~21)

 

 

1人の教えと多くの努力

北京オリンピック。
高梨沙羅さんと羽生結弦くんの、本番、4年に一度の大舞台で努力の成果を存分に発揮できなかった時の悔しさ、絶望感などを想像するだけで、胸が苦しくなります。

ついこの前まで、何種類の4回転を飛べるか、を期待されていたのに、4回転半、5回転と、人間の欲は止まることを知りません。
平野歩夢さんが決めた、彼にしかできない大技も「人類史上初の試みを成功させました!」とアナウンサーが絶叫していましたね。
もっと遠くへ、もっと早くと次から次へと期待するわたしたちの欲と、高みを目指して努力する選手たちの努力には、終わりはないのかもしれません。

4年に一度のチャンス、と簡単にわたしたちは口にしますが、平野選手は「前回大会で銀メダルを獲得した後のこの4年間は苦しかった」と言っていました。

彼らにとっての4年とは、どのような時間なのか、簡単に想像できるものではありません。

 

 

わたしたちは、イエスキリストという、一人の人がその言動で示した教えを信じています。

わたしたちにとって、信じるべきはたったひとりの人間です。

そして、わたしたちが信じている教えは、彼がひとりで思いついたこと、自分だけで作り上げたものではなかったはずだということも忘れてはならないでしょう。

イエス様は、敬虔なユダヤ教徒のヨセフ様とマリア様に育てられました。
30歳で公生活を始められるまで、当然、ユダヤ教の教えに従って生活されていたはずです。

 

ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたのち、直ちにイエス様に試練が与えられます。

天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」。
霊はただちにイエスを 荒れ野に追いやった。
イエスは四十日の間そこに留まり、サタンによって試みられ、野獣とともにおられたが、み使いたちがイエスに仕えていた。
(マルコ1・11〜13)

出エジプト記のモーセたちの旅を思い起こします。
彼らは近道を通らず、紅海に沿った荒野の道を通るように神に導かれました。

主は彼らの前を行き、彼らが昼も夜も進むことができるよう、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた。
昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。
(出エジプト13・21〜22)

 

イスラエルの民は神から選ばれ約束の地を目指したものの、四十年、荒れ野をさまよったのです。
イエス様の四十日に及ぶ断食と「試みる者」=悪魔(マタイ)による誘惑のストーリーが重なって見えます。

直接的にはこの2つの箇所には関連性はないのかもしれませんが、どちらも、常に神が片時も離れずに寄り沿い、導かれていたということに心が揺さぶられます。

聖書全体を通して語られる、常に神がわたしたちと共にいてくださるという教えは、こうして旧約の流れを汲んだものなのだということを感じさせてくれます。

同じように、エレミヤたちが繰り返し「主に立ち返れ」と回心を促していた旧約時代の教えを、イエス様は新しい言葉で「悔い改めなさい」と人々に問いかけられたのではないかと、以前書きました。

 

イエス様の公生活は1年半であった、とも3年近くであった、とも解釈されますが、いずれにせよほんの短期間です。

4年に一度のチャンスで成果を出すために、試練と向き合い続けているオリンピアンよりも短いのです。

イエス様は30数年の人生、というより、最後の数年で何かを成し遂げられたわけではない、というのが本当のところでしょう。

イエス様の時代に生きて直接その話を聞いたわけではないわたしたちが、今こうして信じているものはなんなのか。

ユダヤ教徒としてのご両親との慎ましい生活で育まれたイエス様の価値観をベースに、イエス様独特の言葉で語られた神への信頼、
死後の使徒たちによる命懸けの宣教、
後世の人のために文字として残され受け継がれてきた聖書という書物、
2000年以上続く後継者たちのたゆまない努力、
それらすべてがあって、わたしたちが今信じているキリスト教、イエス様の教えがあるのです。

この教えを、これからの世にも繋げていくことは、わたしたちキリスト者一人ひとりに課せられた使命でもあります。

 

 

 

 

 

 

幸福の目的

小雪が舞い、空気が澄み渡り、美しい青空を背景にしたお御堂が美しい日曜日でした。

美味しいものを食べた時、素敵なお店を見つけた時、素晴らしい映画に感動した時、わたしはいつも、誰かと分かち合いたくなります。

わたしの友人が務めている出版社の月刊誌『致知』に、古巣馨神父様の記事が掲載されました。

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彼女は、こうしたキリスト教関係の記事やわたしが好みそうな本、お菓子、文房具など、「好きそうだから」「美味しかったから」としょっちゅう送ってきてくれます。

わたしも、お礼のプレゼントを考えて送るのが楽しみです。

『美味しいものも楽しいことも、幸せは分かち合うほうがいい。』

これはわたしのモットーになっています。

 

「何をしているのか」と聞かれた3人の石工、というお話です。
一人は「これで食べている」と答え、一人は「国で一番の仕事をしている」と答え、一人は「教会を建てている」と答えました。
誰があるべき姿だと思いますか?
誰が一番幸福だと思いますか?
2番目の石工は、自分の仕事の目的を見失っています。
3番目の石工は、していることの目的、目標、使命を示したのです。


幸福になれるかどうか、それは心のレベルで決まる。
私たちがどれだけ利己的な欲望を抑え、他の人に善かれかしと願う「利他」の心を持てるかどうか、このことが幸福の鍵となる。

こう言ったのは稲盛和夫さんです。
稲盛さんは臨済宗・在家得度をされている熱心な仏教徒です。

ある友人に、「あなたが人のことを思ってあげられるのは、あなた自身に心のゆとりがあるからよ。」と言われたことがあります。

心の中のゆとりを持つだけではなく、福音を多くの人に身をもって広めたいと願うキリスト者として生きるわたしたちは、いつも幸福の目的を他者に向けるべきだと思います。

今週の朗読では、レギオンを宿していた人(悪霊に取り憑かれていた人)への奇跡物語が読まれました。
(マルコ5・1〜20)
レギオンはローマの軍隊のことですが、この場合は多数の悪霊の群団の比喩として表現され、ユダヤ人が穢れていると考えている豚の群れにに移って 溺れ死ぬ、というお話です。

奇跡物語では、いわゆる「沈黙命令」と言って、イエス様は「このことを誰にも知らせないように」とおっしゃいます。
ですがこのレギオンの場面では、「主があなたを憐れみ、あなたにどれほど大きなことを行なわれたかを、ことごとく告げなさい」と言われています。

その人は立ち去り、イエスがどれほど大きなことを自分に行ってくださったかを、デカポリス地方で宣べ伝え始めた。人々はみな驚嘆した。
(マルコ5・20)フランシスコ会訳

なぜでしょうか。

当時のユダヤ人たちを苦しめていたローマによる圧政、そのことへの勝利を意味するこのストーリーは、他者と分かち合うこと、広く知らせることに意義があったのではないでしょうか。
「あの噂のイエスに自分の中の悪霊を追い出しもてらった!すごいやろ!」と自慢して言いふらしたのではないのです。
イエス様が奇跡を行なわれた、ということ自体が強調されるのではなく、この人は「宣べ伝え始めた」のです。
福音を多くの人に知らせた、分かち合ったのではないか、そうわたしは理解しています。

 

聖書に、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」という一説があります。
神の思いを生きる人とは、「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」という教えをただ説いている人ではなく、それを生きる人のことを言います。

古巣神父様の記事に、そう書いてありました。

この記事はぜひ多くの方に読んでほしいと思い、コピーして何人かの方にお渡ししました。
(この月刊誌は書店にはなく、定期購読しなければ手に入らないのです。)

フランシスコ教皇さまは、「無関心のウィルスというもう一つのパンデミック」というたとえを度々されています。
いま、他者とのつながり、自己自身との真のつながりを回復するための格好の機会である、ともおっしゃっています。

自分が幸福であるかどうかは、他者とのつながりの中に見出すことができるものです。

自分が幸福であるかどうかは、「自分の幸福の目的は、他者の幸せを願いながら生きることだ」と実感できた時にわかります。

感動したこと、神父様方から教わったこと、学んだことをひとりでも多くの方と分かち合いたい、と思ってこうして書かせていただいていること。

これはわたしの幸せです。 

 

 

イエス様の方を向く

宮﨑神父様にゆるしの秘跡をしていただきました。

自分のおかした罪を認め、告白し、アドバイスをいただき、神様に代わって赦しをいただく。
もう同じ過ちをおかさないように、心に、そして神様に誓う。

これは、「悔い改め」なのか「回心」なのか。

南山大学の名誉教授でもあった故 浜口神父様の論文に、以下のように書かれています。

教会は最初の回心を思い起こして、再び神に立ち返る方途と機会を保持している。
それが「ゆるしの秘跡」である。
罪に陥った信者が再び神と和解することができるという神の無限の憐れみを宣言するのは、「再回心(re-conversio)」である。
真に罪を痛悔する者は、たとえその痛悔が不完全なものであっても、真にキリストに向かっているのである。

 

「改め」、だと「改心する」という言葉のように、罪を認めて心を入れ替える意味になります。
Googleで「かいしん」と検索するとわかりますが、「回心=キリスト教で神の道に心を向けること」と表示されます。

新約聖書で「悔い改め」の意味で使われるメタノイア( meta・noia /μετανοια )は、古いギリシャ語を起源とする言葉で、直訳すると「視座の転換」という意味となるそうです。


悔い改めなさい。
めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。

そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。
(使2・38~39)

また、マルコ福音書の中で最初にイエス様が口を開く場面でおっしゃった、

「時は満ち、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信じなさい」

(マルコ1・15)

この「悔い改め」にあたる単語がメタノイアです。


本田哲郎神父様は、「『時は満ち、神の国はすぐそこに来ている』から、『低みに立って見直しなさい』(メタノエイテ)という。悔い改めなさいではありません。」とおっしゃっています。

メタノイアに対応するヘブライ語はニッハムという単語で、「痛み、苦しみを共感・共有する」という意味だそうです。

「つまり、メタノイアとは、人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りに、共感・共有できるところに視座・視点を移すこと」と本田神父様の著書にあります。

 

 ムリリョ「パウロの回心」

 

以前、HPの記事に以下のように書きました。

E.P.サンダースの著書「イエス その歴史的実像に迫る」によると、
「ルカと使徒行伝の著者が悔い改めを強調することをとりわけ好んだ。
そして、それはイエス自身の教えの重要なテーマではなかった。
イエスは悔い改めに関心を持つ改革者ではなかった。」

福音書に語られる「悔い改め」の概念は、旧約時代にはもっといろいろな意味を持つ曖昧なものでした。
いくつもの単語がそれにあたるとされていますが、もっとも多く出てくるヘブライ語の単語の意味は、「道を変える」「引き返す」「立ち戻る」というものだそうです。
つまり、悪から遠ざかって神に向かう姿勢を意味し、「生き方を変えて生活全体を新しい方向に向ける」ということです。

 

エレミヤは、繰り返し「立ち返れ」と民に呼びかけています。(エレミヤ書3章)

契約の神の愛に立ち戻りなさい、と言うのです。

つまり、旧約時代の教えをイエス様の新しい言葉で問われたのが、この「悔い改めなさい」というものなのではないかと思うのです。

神の教えを確かなものとして受け入れ(アーメン)、自分の凝り固まった考え方、惰性に陥った生活、そうしたものの視点を変えなさい(回心)。
神の方に今一度、自分を向き直しなさい。
それが、「回心=悔い改め」なのだ。

そう、この一週間で学びました。

 

キリストに出会う前のサウロのように、わたしたちも方向を変え、習慣になっていることや楽な道から戻る必要があります。
それは、主がわたしたちに示される、謙遜ときょうだい愛と祈りの道を見出すためです。
1/26教皇フランシスコTwitter

 

友のために祈る

宮﨑神父様から聞かれました。

「あなたは一日にどのくらい祈りますか?」
「友のために祈っていますか?」

祈りの時間と言えるのは寝る前くらいですが、朝起きてすぐから一日中、しょっちゅう神様に話しかけるように祈っています。

でも、友だちのために祈っている、とは言えないとハッとさせられました。

『人はだれも自分ひとりだけが幸せになる権利はない。』という名言でも知られるラウル・フォレロー(1903~1977年)は、ハンセン病患者の支援と差別の撤廃に尽力したフランスの人物です。

詩人でもあった彼の、『ともに生きる恵みを願う祈り』という有名な祈りがあります。

 

主よ、教えてください。
自分だけを愛さないことを、
身内だけを愛さないことを、
仲間だけを愛さないことを。

人のことも考え、
だれからも 愛されない人を優先して愛することを。

主よ、教えてください。
わたし自身も苦しむことを、
人と共に苦しむことを。

主よ、あわれんでください。
苦しむ人々をいわれもなく退けた、このわたしをゆるしてください。
幸せをひとりじめにすることを、わたしにさせないでください。

全世界の苦悩を、わたしにも感じさせてください。
主よ、利己主義からの解放こそ、あなたはお望みになるのです。

(抜粋)

自分自身のため、家族のために祈ることは誰にでもできますが、友だち、ましてや他人のために祈るとなると、わたしは形式的な祈りになってしまっていると分かっていました。

キリスト教一致祈祷週間について2回にわたり書いてみましたが、そのさなかに神父様から冒頭の質問をされ、よく考えてみる機会となりました。

この聖週間の間、特にひとりの友人のために祈り続けています。

彼女は旦那様が病気で早くに天に召され、ひとりで2人の子どもを育てています。
家族の問題や子育ての悩みを抱えていて、わたしは聞くことしかできませんが、とにかく聞き役に徹してきました。
その彼女のために祈っています。

「多くのストレスを抱える彼女が、うまく問題と向き合い、少しでもストレスが軽くなるようお恵みをお与えください。彼女をお導きください。」

 

 

友のために祈りを続けてみて、「会って話を聞きたい」 「会いに行きたい」という気持ちを強く抱いています。

コロナ禍にあって、自由に気軽に遠方の友人に会いに行くことは躊躇われ、LINEで会話することを「話した」と錯覚し、随分あっていないのに分かってあげていると思い込んでいました。

アウグスティヌスが「神の国」でこう述べています。

憐れみとはわれわれの心のうちで他人の苦しみmiseriaを共に苦しむことcompassioであり、それによってわれわれは、もし可能であれば、助けにおもむくようにかりたてられているのである。
「憐れみ」misericordiaは、ある人が他人の苦しみについて「苦しい心」miserum corを抱く、というところから来ている。

 

最近、気に入って唱えている祈りです。

『自己からの解放』

主よ、わたしは信じきっていました。
わたしの心が愛にみなぎっていると。
でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。
わたしが愛していたのは他人ではなく、
他人の中の自分であった事実に。
主よ、わたしが自分自身から解放されますように。

主よ、わたしは思いこんでいました、
わたしは与えるべきことは何でも与えていたと。
でも、胸に手を当ててみて、真実がわかったのです。
わたしのほうこそ与えられていたのだと。
主よ、わたしが自分自身から解放されますように。

主よ、わたしは信じきっていました、
自分が貧しいものであることを。
でも、胸に手をあててみて本音に気づかされました。
実は思いあがりとねたみの心に、
わたしがふくれあがっていたことを。
主よ、わたしが自分自身から解放されますように。

主よ、お願いいたします。
わたしの中で天の国と、この世の国ぐにとがまぜこぜになってしまうとき、
あなたの中にのみ、真の幸福と力添えを見出しますように。

 

キリスト教一致祈祷週間のこの機会に、キリスト者だけでなく、もっと身近な人々のために祈りを捧げていこうと思っています。 

 

自分を試してみる

キリスト教一致祈禱週間は明日から25日までの8日間です。

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主なる神はご自分の民とともに歩み、彼らを保護し、昼も夜も見守っておられることが、聖書には何度も記されています。
道は必ずしも真っすぐとは限りません。
同じ道をたどったり、違う道を通って戻ったりするよう仕向けられることもあります。
いかし、生涯を通じて旅を続ける間中、わたしたちは「まどろむことなく、眠ることもない」神が、わたしたちの足がよろめき倒れてしまわないよう、見守ってくださると信じることができます。
(キリスト教一致祈祷週間 小冊子40ページ)

この聖週間の最終日、8日目の黙想の祈りは「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(マタイ2・12)博士たちがテーマです。

帰り道が行きと違っても、彼らの旅を照らした同じ光が別の道・別の選択肢を示したのだ、と小冊子に書かれています。

あわれみ深い神、
わたしたちが一つの道しか知らず、
同じ道を戻らなければならないと思っているときにも、
すべての道が行き詰まり、絶望しているときにも、
あなたはいつもいてくださいます。
約束を新たにされる神よ、
あなたは、わたしたちには思いもよらない道を切り開いてくださいます。
あなたに心から感謝いたします。
わたしたちの期待をはるかに超えてくださることを。
(47ページ)

 

朝起きてからのすべての行動にルーティンを設けていて、それをこなすのが好きなわたしにとって、行きと帰りの道が違うのは不安でしかありません。

小さなことですが、例えば教会の帰り、行きと違うルートを試してみる、というのは好きな楽しみでもあります。

また、思い通りにいかない時に普段は好まない別の選択肢を選んでみると、思いがけない気づきを得られること、思いもよらない展開に恵まれることもあります。

 

労働が人間生活にとって本質的要素であると同時に、聖性への道でもあることは、あまり理解されていない。
働くとは、生計を立てるためだけではなく、自分自身を表現し、人に役立ち、具体性を学ぶ場として、霊的生活を助けるものである。

また、仕事は、人と関わることを必要とするその性質によって、わたしたちの人間性を表すと同時に、それぞれの創造性を活かす場でもある。

イエスご自身も働き、まさに聖ヨセフから仕事を学んだということ、それは素晴らしいことに思われる。
今日、わたしたちは、仕事の価値を取り戻すために何ができるかを、考えなくてはならない。
仕事が利益だけの論理から解放され、人間の尊厳を表し高める、基本的な権利・義務として体験されるよう、努力しなくてはならない。
(教皇フランシスコ 1/12一般謁見でのお説教より)

 

現代の若者のなりたい職業のトップ5に入るのは、ユーチューバーだそうです。
最近は、ティックトッカーという仕事も脚光を浴びています。
わたしが子どものころにはなかった職業です。

仕事をする、というのは、会社に勤めたり商店を営むことだという固定概念を持っていましたが、もうそのような時代ではないのです。
ですが一方では、イエス様の時代から「働くとは生計を立てるためだけのものではない」ものだ、と教皇様はおっしゃいます。

自分自身を表現すること
人の役に立つこと
具体性を学ぶ場

さらに、人と関わることである、という点も重要なのです。

ひとりきりで自分の部屋で編集したビデオをオンライン上に公開する、そういうユーチューバーであっても、誰か、他者に向けて自分の表現を発信して相互のコミュニケーションを求めているのですから、人と関わるということなのでしょう。

成人の日に取材を受けていた新成人たちをテレビで観て、間違いなくわたしがハタチの頃よりもみんなしっかり自分を持っているな、と思いました。

「最近の若いもんは・・・」、は少し前は否定的な言い回しの枕詞でした。
「最近の若者たち」は、自己表現に長けていて、人の役に立ちたいという意志を持ち、具体的な仕事を望む傾向が強いように感じます。

自分の可能性を試してみる、という冒険を恐れない勇気は素晴らしいお恵みです。

親の価値観を押し付けられた子どもが反発し、親の望みとは全く違う人生を歩んでいる、という話はよく聞きます。
すべてがそうではないとしても、違う道、別の選択肢に神様のお導きがあることに気づくことができるのも、それ自体が素晴らしいお恵みでしょう。

 

☆たとえ自分たちのやり方や道が行き詰っても、永遠の神、光を与えてくださるかたが、つねに前に進む道を見つけてくださると信じる。
☆いつでも新たに出発できる。
☆新しい方向を探して未来に目を向ける。
☆新たな熱意をもって福音の光を輝かす。
(46ページ)

行きと帰りの道が違うと普通は不安に感じるものですが、試してみる価値はあると思いませんか?

わたしも、今年はもう少し自分を試す行動を取ることを抱負として掲げてみました。
いつもと同じ、ばかりではなく、人との関係においても、教会での役割への熱意においても、神様のお導きをもっと強く感じて信じて、今年は新しい方へも進んでいこうと決意したところです。

 

 

わたしたちの願い

あけましておめでとうございます。
2022年も、いただくお恵みを見逃すことなく日々を大切に生きていくことができますように。

新年のごミサでは、成人のお祝いを受ける9名の若者たちの祝福の場を、可愛い小さな子どもたちが侍者としてお手伝いしてくれました。

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この青年たちの未来が明るいものとなるよう、わたしたちは祈り、そして彼ら自身が切り拓いて行ってくれますように。

毎年1月18日〜25日は(北半球では)キリスト教一致祈祷週間が行われます。
南半球では各地で日程が変わるそうですが、この聖週間には世界中の様々な伝統や信条を持つキリスト者が、洗礼を受けたすべての人の一致のために祈りを捧げる習わしです。

今年のテーマは、

わたしたちは東方でそのかたの星を見たので、拝みにきたのです
(マタイ2・2)

このテーマを含め、世界で使われるこのテキストは、中東教会協議会が担当して作成されました。

(この小冊子は、中央協議会にリクエストすると送付してもらえます。)

この困難な時代にあって、わたしたちはこれまで以上に暗闇の中に輝く光を必要としています。
そして、その光はイエス・キリストのうちに示されたと、キリスト者は宣言します。
(10ページ)

礼拝式の文章から、祈りの言葉をご紹介します。

ひとつの星が、キリストのもとに博士たちを導きました。
その星は今も、キリストのおられるところを指し示しています。
キリストがわたしたちに示され、キリストの光はわたしたちの上に注がれています。
博士たちが星を追ってベツレヘムに向かったように、今日、わたしたちはこの星の下に集い、空に自分たちの星を加え、教会の目に見える一致のために、自分たちのたまものと祈りを一つにします。
その目標に向かって旅をするわたしたちの生活が、キリストを知るよう人々を導く、輝かしいあかしとなりますように。
(20ページ)

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冊子に書かれている8日間の黙想のためのことばはどれも、社会的にも精神的にも葛藤を抱えるキリスト者の心の底からの祈りだと感じています。

中東と言う、政治も社会も大変な状況にさらされ続けている地域のキリスト者が編纂した深い現実的な祈りの言葉が、心の奥にささります。

年末の銀座で、オシャレをしてショッピングを楽しんでいる人がインタビューで
「来年こそはいいことがある幸せな年になるように」と答えていました。

中東のキリスト者たちは、「今」の正義と平和を求めています。
コロナ禍であっても安寧な日常が、わたしも含め、日本のキリスト者の心を鈍らせている気がしています。

2022年1月の教皇フランシスコの祈りの意向は、「人類の真の友愛」がテーマです。

宗教的な差別や迫害に苦しんでいるすべての人々のために祈ります。
人間家族の兄弟姉妹であることに裏付けされた一人ひとりの権利と尊厳が認められますように。

身近に「宗教的な差別や迫害」を受けている人がいない。
中東地域の紛争はイスラム教徒の問題だ。

わたしたちがそのように単純に考えてしまうのは当然のことですが、この機会に、中東で活動するキリスト者たちのことを知り、思いを馳せてみませんか?

中東教会協議会は、イラン、ペルシャ湾、地中海、エジプトという範囲の広い地域で、福音派、オリエント正教会、東方正教会、そしてカトリック教会の4つの教会によって構成されています。
それぞれの教会の偏見と障害を取り除いて架け橋となる活動はもとより、ムスリムとの対話と結びつきの強化にも努めています。

そして、なによりも彼らの最大の問題は、中東地域におけるキリスト教の存続です。

以前、このページで難民問題を取り上げた時にも触れましたが、長引く紛争・政治的混乱により、キリスト者は国外へと逃れ続けています。
彼らは、「西側の考え方」に基づいた「東側への介入」はキリスト者や地域の人々の考え方を反映していない、と考えています。

中東におけるキリスト教の未来そのものを案じ、自らが率先して使徒的役割を果たしていこうと奮闘しているのです。

平和な日本であろうと混迷の最中の中東であろうと、わたしたちの願いはひとつです。

キリスト者として、星座や輝く星のようにキリストの光を分かち合う存在として。
キリストを知るよう人々を導く、輝かしいあかしとなるよう。

今年も、それぞれの召命を真摯に見つめて生きましょう。

 

喜びのなかに

クリスマス、おめでとうございます。

愛する者よ、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
(テトス2・11~14)

今年はいろいろなこと、特に信仰、他者との関わりについて、深く考えを巡らせることができた一年だったと感じています。

みなさまにとっては、どのような年でしたでしょうか。

今年最後の一冊として読んでいる本、若松英輔さんと山本芳久さんの対談による「危機の神学」。

若松さんが、アウグスティヌスの「告白」の一節を引用していらっしゃいましたので、本棚から取り出してその個所の前後を再読してみました。

やや悲観的な文章に感じるかもしれませんが、決してそうではありません。
神様のあわれみを最高の拠り所とする、まさに、これがわたしがこの一年の間に感じたことを象徴する言葉です。

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おのがすべてをささげてあなたに寄りすがるとき、何のかなしみも苦しみもなくなることでしょう。
そのとき、私の生はまったくあなたにみたされ、真に生ける者となることでしょう。

ああ、何たることか。
主よ、あわれみたまえ。
悪しきかなしみと善きよろこびとが、争っています。
ああ、何たることか、主よあわれみたまえ。
ああ、何たることか、見たまえ。
私は傷をかくさない。
あなたは医者で、私は病人です。
あなたはあわれみ深く、私はあわれです。
地上の人生、それは試練にほかならないのではないでしょうか。
だれが苦痛や困難を欲する者がありましょう。
あなたはたえよと命ぜられますが、それを愛せよとはお命じにならない。

私は逆境にあって順境を熱望し、順境において逆境を恐れます。
この二つの境遇のあいだに、人生が試練ではないといったような、中間の場所はありません。
まことに、地上における人間の生は、間断のない試練ではないでしょうか。

それゆえ、すべての希望はただひたすら、真に偉大なあなたのあわれみにかかっています。
御身の命ずるものを与えたまえ。
御身の欲することを命じたまえ。

おお、いつも燃えてけっして消えることのない愛よ。
愛よ、わが神よ、われを燃えたたしめたまえ。
御身はつつしみを命じたもう。
御身の命ずるものを与えたまえ。
御身の欲するものを命じたまえ。

「告白」第10巻 28~29章より抜粋

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先月から「侍者を希望する小学生」を募集したところ、7名の子どもたちが手を上げてくれました。

なんというお恵みでしょう。

今年の降誕祭は、この子たちが侍者を務めてくれました。

 

 

24日の午後、宮﨑神父様が久留米のドリームスFMに生出演され、クリスマスについてお話されました。

この世に来られた、いのちのことばであるキリストを、わたしたちの生き方を通してあかしすることができますように。

みなさま、よい年末年始をお過ごしください。

 

 

人とのつながり

4本目のロウソクが灯されました。
この待降節の日々を心穏やかに過ごし、イエス様のご降誕をお祝いする心の準備は整いましたか?

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「質の高い睡眠」が大切であるという話を聞きます。

よく眠れていますか?
目覚めは良いですか?
眠れないほど気になることはありますか?

仕事や家事でとても疲れた日、よく寝付けないことがあります。
反対に、何かを頑張れた!と思える疲れ果てた日に、秒で眠りに落ちる日もあります。

今週は、そんな風に眠りにつけた、精神的に充実した嬉しい忙しさの日々でした。

この2年近くの新しい生活の中で人とのつながりが希薄になってしまった気がしていましたが、そうではなかったと気づく出来事がありました。

神父様から依頼されて、3年に渡って支援をさせていただいている方がいます。
いくつかの問題と病気を抱えていて、入退院を繰り返し、生活はとてもすさんでいました。
治療と安定した生活、落ち着いた日常を送ってもらうことが目標でした。

そこにコロナの蔓延があり、しばらく実際に様子を見に行くことができず、ずっと気になっていました。
その方はしっかりとした信仰心をお持ちの方ですし、担当してもらっているソーシャルワーカーさんとは連絡を取り合っていましたので、心配はしていませんでした。

その方が、今まで頑なに拒否していたグループホームへの入所を自ら希望して、入所されることになり、生活の基盤がようやく固まった、との連絡があったのです。

そのこと自体はもちろんとても嬉しいニュースでしたが、それ以上に感激したのは、ソーシャルワーカーさんの言葉でした。

「この3年、神父様とMさんの粘り強い諦めない支援の姿を見て、とても勉強になりました。
 諦めずに根気強く関われば、こんな日がくるんだ、と感慨深いです。
 本当にありがとうございました。」

 

人生とは永遠の命に向かい自ら選択していく場です。
「自分のことだけ」という小さな選択は、つまらない人生につながり、慈善の業という選択を重ねるなら、実りある人生になります。
良くも悪くも選択によって人生が決まるのです。
神を選べば、神の愛を受け、隣人を愛すれば、真の幸せを見出せるのです。
(12/13 教皇フランシスコTwitter)

 

そして、そのソーシャルワーカーさんは、
「コロナ禍に読んだたくさんの本からも多くのことを学んだ。
出かけられず人と会えなかった日々も、たくさんのことを考える時間になったので、自分には無駄ではなかったと思っている。
次のステップに進んで、自分に出来ること、やりたいことにチャレンジしてみようと思う。」
こう話してくれました。
彼のような若い方のこうした意欲的な意思表示は、聞いていてワクワクしますし、清々しい気持ちになりました。

 

わたしは伏して眠り、また目を覚ます。
主が支えてくださるから。
(詩編3・6)

わたしはみ前で安らかに床に就き眠ります。
主よ、あなただけが、
わたしを安らかに眠らせてくださいます。
(詩編4・9)

立ち返って、落ち着いていることで、お前たちは救われ、
静かにして、信頼することのうちに、お前たちの力がある。
(イザヤ30・15)

すべての思い煩いを神に委ねなさい。
神があなた方を顧みてくださるからです。
(1ペトロ「5・7) 

 

わたしの質の良い睡眠も安らかな日常も、神様への信頼から得られるものです。

支えられていること、落ち着いて信頼すること、すべてを委ねること。

時には忘れてしまいそうになるこれらのお恵み、こうした短い聖句を繰り返し読んでいつも反芻したいと思います。

 

教皇フランシスコは、「シノドス性」を深める呼びかけを続けておられます。
シノドス性とは、「相手と一緒に生きること」ということなのだそうです。

人間関係が希薄になり、人を安易に信じることが出来ないような世の中ですが、キリスト者として生きることは「神=相手」と一緒に日々を歩んでいくことなのだ、と今年はいくつもの出来事から痛感しています。

 

12/1バチカンでの一般謁見説教の中からの抜粋です。
手帳に書き留めておきたい、深いお言葉です。

神はわたしたちの世界を広げ、人生のある状況について、もっと広い、異なる視点から見つめさせてくださる。
多くの場合、自分が陥った状況に囚われていても、そこに隠されていた神の御摂理が次第に形をとり、苦しみの意味を照らしてくれるようになる。

わたしたちの人生は想像どおりにはいかないことが多い。
特に愛情関係においては、恋愛の段階から成熟した愛に移ることは努力を伴う。
愛するとは、相手や生活が自分の理想に一致することを要求するものではない。
愛するとは、むしろ与えられた人生に対し責任を負うことを自由に選択することである。
自覚をもってマリアを選んだヨセフは、わたしたちに大切なことを教えてくれる。

 

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エルサレム西郊外のエン・カレムにある訪問教会の正面壁画には、天使に導かれてエリザベトを訪問するマリア様の美しい絵が描かれていました。


 

人に共感すること

待降節第3主日は、薔薇色のロウソクが灯されます。
第1主日は預言の希望、第2は天使の平和、第3は羊飼いの喜びを表していて「喜びの主日」と呼ばれています。

いよいよクリスマスが間近になってきました。
今年は、他者との繋がりについてとても考えさせられた一年でした。

社会学者の宮台真司先生がインタビューでおっしゃっていた言葉。
(正確ではないと思いますが)
多様性は、「多様な人々がいることを認める」ということではなく、「他者に共感して寄り添う」ということ。

今年はオリンピックイヤーでした。
スケートボードの若い選手たちの活躍を覚えていらっしゃるでしょう。

わたしの大学生時代はスキー全盛期でしたので、スノーボーダーが登場した時はかなりの驚きとジェラシーのような感情が湧いたのを覚えています。
スノーボード、スケボー、サーフィンは「3S」と呼ばれています。
まずサーフィンがあって、街でできるスケボー、雪の上のスノボ。

3Sで重視されるのは、「独自性」「創造性」だと言われています。
誰もできない・しないことを、いかに自分らしくカッコよく決めるかを追求するスポーツです。

金メダル候補だった日本の女子選手が何度も転倒してしまった際、他の国内外の選手が駆け寄って彼女を肩車して讃えた姿は、これまでのオリンピックでは見たことの無い光景でした。

「速さ」「高さ」「強さ」といった数値で計れるものだけを競わない価値観、勝ち負けだけにこだわらない姿勢は、まさに現代的なスポーツだと言えるでしょう。

 

そのとき、イエスは人々に言われた。
「今の時代を何にたとえたらよいか。
広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』
ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。
しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
(マタイ11・16~19)

今の時代を何に例えたらいいでしょう。

マタイの文章は、現在にもそのまま当てはまると思いませんか?
テレビではいつも、誰かが誰かを批評しています。

自分を高め、仲間に寄り添う姿勢は、ある種の英才教育の賜物(知恵)なのかもしれません。
スケボーの選手に限ったことではないでしょうが、物心ついたときからその競技を始めた現代の若いアスリートたちは、この荒波の現代社会で成長する過程において、多様性を内包した価値観が自然と身に付いているのでしょう。

学校では成績の順位を競い、高学歴や有名企業への就職を目指すことをよしとされ、多様性という感性は存在していなかった時代に育ったわたしのような大人は持ち合わせていないものです。
新しすぎて、斬新すぎて、素直に受け入れられずにちょっと躊躇う。

イエス様の突然の登場は、当時同じような受け止めだったのではないかと考えました。

これまで良しとされてきた考え、習慣などのスタイルを、当時のまじめな人々が否定されたように感じたのも無理はありません。
まるで新しい価値観の若者が突然現れて、センセーションを巻き起こしたのです。

まさに、スケボーの堀米優斗選手のようです。
誰もやっていない新しい技を次々と生み出し、それまで、大人たちからは悪ガキの遊びの延長のようにしか見られていなかったスポーツで世界を席巻したのです。

これまで誰もしなかったこと、言わなかったことを次々と繰り広げるイエス様。
新しい伝え方・考え方に稲妻に打たれたように反応する人々。
本人は、特別に目立とうとしたわけではないのに、ひがみ、やっかみ、悪口を言う人々。

つまり、多様性という概念は、単語自体が目新しいだけであって、いつの時代にも存在していたのではないかと思ったのです。

「羊飼いへの告知」17世紀オランダの画家、アブラハム・ホンデイウスの作品

イエス様がお生まれになったとき、ルカでは最初に羊飼いたちに天使のお告げがあります。
み使いに天の大軍が加わって神を讃えるという、壮大な光景が繰り広げられます。

⭐︎それを聞いて急いで聖家族を探し当て、見たこと、幼子について告げられたことを人々に知らせに走った羊飼いたち。
⭐︎聞いたことを「不思議に思った」だけで、そのことに何ら意味を見出せなかった多くの人々。
⭐︎「これらのことをことごとく心に留め、思い巡らしていた」マリア様。
(ルカ2・8〜20)

もしもわたしがイエス様の時代に生きたユダヤ人であったとしたら、羊飼いのように素直に受け入れただろうか、と考えてみました。
現代のわたしたちが教わったこと、信じている教えは、弟子たちによって伝承され、長い年月をかけて先人たちがまとめ上げてきたものです。

そうした教えではなく、その時代に生きていたとして、イエス様の存在と教えを受け入れていただろうか。

当時の、虐げられ社会の片隅に追いやられていた人々に共感して寄り添ったイエス様のように行動することができていただろうか。

信のキリスト者であるということは、単に多様性を認める人ではなく、他者に共感して寄り添うことのできるイエス様に倣うように生きている人のことなのではないだろうか。

冒頭の宮台先生の言葉を聞いて、そう考えて過ごした一週間でした。

 

見えないものを信じる

2本目のロウソクが灯されました。

お寺の町に生まれ育った父は、お寺の役割を引き受け、毎朝お仏壇のお茶を新しくし、ロウソクを灯しお線香をあげ、手を合わせて朝の挨拶をしています。
お経をあげることまではしませんが、熱心な仏教徒と言えるでしょう。

毎朝その様子をみていて感じるのですが、父は「仏教」という宗教を信仰しているというよりも、「そこにいる存在」を信じている、という気がするのです。

「見えないけど信じること」、これはキリスト教に限ったことではありません。

わたしは、子どものころは空に神様がいると信じていたので、いつも空を見上げて話しかけていました。
いつも、何をしても神様に見られている、と思っていましたので、神様に褒められるようよい子でいよう、と思っていました。


旧約聖書で通常「信じる」と訳されている動詞は、本来は、
「誰かを、頼り信頼できる信実な者として認識する」
という深い意味を持つ単語なのだそうです。

わたしは神様を信じています=わたしは神を信頼して頼りにしています

といった意味になるでしょうか。

信じない人には聞こえない声を聞き、心の目が開かれ聖霊の働きが見える(感じる)ようになる。
信頼があるから、信じるのです。

 

主は言われる。 なおしばらくの時がたてば、レバノンは再び園となり、園は森林としても数えられる。
その日には、耳の聞こえない者が、書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。
苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々は、イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。
(イザヤ29・17~19)

これは、牢に入れられていたヨハネがイエスの元に弟子を遣わし、「来るべき方」なのかを尋ねたときにイエスが答えた、イザヤがメシアのこととその業について述べている箇所です。
(マタイ11・2〜6)

「暗黒と闇」の中にあった人が、来るべき方の到来によって目と耳を開かれ、信じることによって見えるようになる・聞こえるようになる、ということです。 

そのとき、イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。
イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。
二人は、「はい、主よ」と言った。
そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。
(マタイ9・27~31)

この箇所は奇跡が描かれているというよりも、信頼して信じることによって心の目を開かれた人のことを喩えられているように思います。

 

人を信頼する、ということはそう簡単なことではないのかもしれません。

人に信頼され頼りにされる、ということの方がハードルは高く、努力してできることでもないでしょう。

信頼する人がいる。
頼りにしている人がいる。

これほど心強いことはありません。

自分のことだけ考え、自分一人と神様との関係だけ満たされていても、人生は豊かに前に進むわけではありません。

お互いが相手を頼りにし、自らも人に頼りにしてもらえる存在であるように生き、その指針として神様を信頼して頼りにする(信じる)ことが理想だと思います。

わたしは、父と二人暮らしですので、年を取ってはいますがなんでも器用にこなす父を頼りにしています。
親しく付き合っている友人は皆、わたしにない魅力や特技を持っていて、信頼しています。
姪や甥は、「何でも買ってくれる優しい叔母」(!!)としてわたしを頼りにしています。

どんなときも、必ずわたしを導いてくださっている神様を頼りに生きています。

あなたを導かれる方は、もはや隠れておられることなく、あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る。
あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。
「これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け」と。
(イザヤ30・20)

 

この1年半ほど、教会から遠のいてしまった信者さんも少なくありません。
やはり、週に一度顔を合わせて言葉を交わし、共にイエス様をいただくミサは素晴らしい時間だといつも思います。
暖かくなる頃には、班分けや人数制限なくミサに与れるようになりますように。

すべてを治められる神よ、信じる民の心を救い主の訪れに向けて整えさせてください。
あなたのひとり子イエスを希望と喜びのうちに迎えることができますように。

・・・・・・・・・・・・・・ 

毎月第一日曜日はベトナム語のミサです。

 

筑後地域のベトナム人コミュニティは大変大きく、日本での家族とも言える大切なものです。
わたしたち久留米教会にとっても、ベトナム人の青年たちは大事な家族であり、共同体に活気をもたらしてくれています。

「家庭年」である今、優しさと希望を感じさせてくれる彼・彼女たちとの交流も、教会に行く喜びとなっています。

人数制限がありますので、希望者全員がベトナム語のミサに参加できないのが申し訳ない気持ちです。

今年は、ベトナム人コミュニティの若者たちに飾り付けを任せました。

 

日常を振り返る季節

待降節が始まり、クリスマスまでひと月を切りました。
この一年を振り返り、やり残したことや気になっていること(掃除も含め!)を整理するにはちょうど良い期間です。

今年もアドベントクランツを作りました。

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とても個人的なことですが、わたしには今年どうしても前に進めたい懸案事項が2つありました。
11月に入り一つ目が大きく前進し、もう一つのことをどうやったら実現させることができるか、ずっと思い悩んでいました。

もちろん、神様のお導きを信じていましたので「きっと大丈夫、その時が来るのを待とう」とも考えていましたが、それでも、わたしはそのために何をしたらいいのか、どう行動すべきか、ずっと模索していました。

それは、認知症の叔母のことでした。

よい恐れは信仰から起こる。偽りの恐れは疑いから起こる。
よい恐れは、希望に結ばれている。
なぜなら、それは信仰から生まれ、信じている神に希望をおくからである。
悪い恐れは、絶望に結ばれている。
なぜなら、信じなかった神を恐れるからである。
(パスカル「パンセ」262)

プライドの高い叔母は、認知症を自覚してはいるものの、デイサービスを利用することをどんなに勧めても頑として拒否していました。

この数ヶ月、従兄弟たちや東京にいる叔母と連携して、思いつくかぎりのことに取り組みました。
そしてようやく、先週、叔母はデイサービスに行くことになったのです。

この間、わたしは家族の絆と信じる心に支えられました。
叔母の穏やかな日常と同居する家族の負担の軽減を願ってのことでしたが、結果的には、わたしや東京の叔母たち自身が、不安の中にも強く幸せを感じることができたのです。

自分のために、古びることのない財布を作り、尽きることのない宝を天に蓄えなさい。
そこでは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
あなた方の宝のある所に、あなた方の心もある。
(ルカ12•33〜34 マタイ6•20〜21)

叔母にはキリスト教の信仰があるわけではありません。
ですが、日々進行していく認知症の中で、時にはわたしのことも分からなくなる中でも、家族の支えを感じてくれたのか、訪問するたびに顔が明るく、見違えるほど穏やかになって行くのを見ることができました。

神を感じるのは、心情であって、理性ではない。
信仰とはこのようなものである。
理性にではなく、心情に感じられる神。
(パスカル「パンセ」278)

わたしを通して、叔母にもお恵みが与えられたのだと信じます。
もしかしたらまた、「あそこには行きたくない」と言い出すかもしれません。
その時はまた、違う対応をして前に進めるつもりです。
彼女のために、家族のために何が1番よいことなのかを考えて。

主イエスに結ばれた者として、あなた方にお願いし、また勧めます。
神に喜んでいただくためにどのように歩まなければならないか、あなた方がわたしたちから学んだとおりに、いや、今そのとおり歩んでいますから、その歩みをますます完全なものにしてください。
(1テサロニケ4・1)

以前もここに書いたとおり、今年は多くのことを学ぶことができました。
ご聖体をいただくときの心の祈りも続けています。
自分に与えられた召命を生きるための努力を積み重ねることができたようにも感じています。

心に残っていること、やり残したことをもう少しきちんと振り返ってみたいと思います。

どんなに困窮し、苦難の中にあっても、あなた方のお陰で励まされています。
あなた方が主に結ばれてしっかりと立っているかぎり、わたしたちは、今、まさに生きていると実感するからです。
(1テサロニケ3・7〜8)

振り返ることも大切ですが、同時に、先を見据えて「来年こそは!」と気持ちを切り替えることもよいでしょう。
このような時代(コロナ禍)に生きるわたしたちは、できるだけ悔いのない日々を送れたら、それに勝る幸せはないのかもしれません。

先週はどのような日々でしたか?
今週はどんな風に過ごしたいですか?

あとひと月あまりです。
今年もたくさんのお恵みをいただけた年であった、そう思えるように、待降節を心穏やかに過ごしましょう。

慈しみとまことはともに会い、
義と平和は抱き合う。
まことは地から生えいで、
義は天から身をかがめる。
主ご自身が恵みを授け、
わたしたちの地は豊かに実る。
(詩編85•11〜13)

 

 

 

価値ある判断

21日のごミサでは、9名の子どもたちの初聖体があり、晴れやかな子どもたちとご家族の様子に心から幸せを感じることができました。

初めてイエス様の体(聖体)をいただくこの日のために、子どもたちは長い時間をかけて勉強をし、日曜学校の先生方のご指導のもとこの日を迎えました。

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日本でも、感染拡大を抑制するために「ワクチン接種済み、あるいはPCR検査での陰性証明の義務化」をする方向性が取られ始めました。

アメリカ南部では、今でもマスク着用を「禁止」するレストランやバーがあるそうです。
店も客も自由の権利があり、全ては自己責任という考え方なのだそう。
一方でニューヨークでは、レストランの室内営業や劇場などでは利用者にワクチン証明書の提示を義務付け、9/27からは医療機関や教職員に対する接種義務化がスタートしています。

オーストリアでは11/15から、新型コロナウイルスのワクチン未接種者(人口の3分の1以上を占める)には、不要不急の外出の禁止措置がとられています。
警察官が巡回し、外出中の人がワクチをン接種済みかどうか抜き打ち検査を実施するのだとか。
(違反者の罰金は500ユーロ)

ドイツでは、娯楽施設などへの入場に加えて、バスや列車に乗車する際にもワクチン接種証明書か陰性証明書の提示を義務付ける法案が審議中。

ベルギーでは、12歳以上はマスクの着用を義務づけられていて、今後は10歳以上に拡大。
在宅勤務については、11/20から週4日が義務。

ポーランドでは、入国しようとベラルーシの国境で多数の移民が立ち往生していて、その対策(国を守る権利)として政府は来月から国境に壁を建設することを発表。

フ〜ッ。。。。(ちょっとため息)

いまわたしたちが生きているこの時代は、どうなっていくのでしょうか。
わたしたちの生きる社会は、どのような未来を描いているでしょうか。

いつの時代も、その時代ごとに大きなジレンマを抱えていたのだろう、ということを考えます。

わたしたちが抱えている問題は、トリレンマかもしれません。
トリレンマとは、どれも好ましくない三つのうちから一つを選ばなければいけない、という三者択一の窮地を意味します。

義務
権利
自己責任

この3つは、本来は大切な概念であり、それぞれ独立したものであるべきですが、ひとたびはき違えると「選択肢」と捉えてしまうことがあります。

義務という名のもとに、本来好ましくないはずの政策が押し付けられているかもしれません。
権利を声高に叫ぶことで、他者への配慮が無視されているかもしれません。
難民とは自己責任で生きていけない人々である、ということを忘れているふりをしているのかもしれません。

初聖体の子どもたちを見ていて感じました。
ご聖体をいただくことは、キリスト者の義務や権利ではありません。

わたしたちは、信じているから、導かれているから、「はい、そのようにします」と確信と希望を持ってイエス様とともに歩んでいるのです。

 

パスカルは『パンセ』のなかで、人は3種類いる、と言っています。

「神を見出したので、これに仕えている人々」
「神を見出していないので、これを求めることに従事している人々」
「神を見出してもいず、求めもしないで暮らしている人々」

科学者の視点で、人間の心の特徴を分析したパスカル。
パスカルが生きた時代は、科学が目覚ましく進歩し、人間の理性への過信がはびこり、キリスト教に基づく世界観に疑問の声があがり始めていました。
しかし世の中を冷静に見つめていたパスカルは、理性こそ万能だという考えには危うさがある、と確信するようになります。
「人間はおごってはならない」と考えたパスカルは、人間の弱さを明らかにするため、日々考えたことを書いてまとめたのが「パンセ」です。
(NHK 100分de名著 ホームページを参考)

 かなりの長編ですが、今この時代に読むべき本ではないかと思い、読み始めました。

 

イギリスで路上ライブを行なっていた女性シンガーが、ライブ中にゴミ箱を漁っているホームレスを見つけました。
近寄って自身の収益をホームレスの男性に寄付したところ、通行人がその倍の金額をシンガーに寄付してくれた、というニュースが目に留まりました。

沖縄の海に押し寄せている軽石を除去するボランティアを人気のユーチューバーが呼びかけたところ、多くの人が集まって作業した、というニュースもありました。

この2つの例は、どちらも「個人の判断」による選択です。

わたしたちはいつも正しい判断ができるわけではありませんが、神の導きをいつも意識しているわたしたちは、何が価値あることで何が必要とされることかはわかっているはずです。

昨日のミサで、初聖体を終えた子どもたちに宮﨑神父様がおっしゃいました。

「教会で、みんなの必要に応えることができる人になってください。」

............................

ヨセフは、本当に価値あることはわたしたちの関心を惹かないが、それを発見し、価値づけるために、忍耐強い識別が必要であることを教えてくれる。
本質を見極めるこの眼差しを、全教会が取り戻すことができるよう、聖ヨセフに取り次ぎを祈ろう。 
(11/17教皇フランシスコ 一般謁見でのお説教より)
 聖ヨセフよ、
 あなたはいつでも神に信頼し、
 御摂理に導かれ、判断しました。
 わたしたちの計画ではなく、
 愛の御計画を大切にすることを教えてください。
 辺境から来たヨセフよ、
 わたしたちの眼差しを変え、
 辺境へ、世が切り捨て疎外するものへと、
 向けてください。
 孤独な人を慰め、
 人間のいのちと尊厳を守るために、
 静かに努力する人を支えてください。
 アーメン。

 

悔いない毎日

今年、ゆるしの秘跡をお受けになりましたか?

「悔い改める」という言葉について、ここのところずっと考えています。

受講している神学のオンライン講座で、教授が「イエスは悔い改めよとは言っていない。ルカが追記したのだ。」とおっしゃいました。
以前、聖書百週間の講義の中でも神父様から、「ルカに度々出てくる悔い改めという言葉は、ルカが付け加えた編集句です。」と教わりました。

例えば、マタイとマルコでは、イエス様が徴税人たちと会食することの正当性について語るとき、自分は罪人たちを呼び集めるためにやって来たと述べますが、それに対してルカでは、罪びとたちに「悔い改め」を呼びかけるためにやって来たと述べています。

このように、並行個所のうちルカだけに結論として「悔い改め」が追記されている箇所がいくつもあります。

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あなたがたも気をつけなさい。
もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。
そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。
(ルカ17・3~4)

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E.P.サンダースの著書「イエス その歴史的実像に迫る」によると、

「ルカと使徒行伝の著者が悔い改めを強調することをとりわけ好んだ。
そして、それはイエス自身の教えの重要なテーマではなかった。
イエスは悔い改めに関心を持つ改革者ではなかった。」

ということになるようです。

 

罪人に悔い改めを要求するのは洗礼者ヨハネの教えであり、イエスはかつての徴税人・罪人ではなく、実際の徴税人・罪人たちの友人でした。
イエスは罪深いと思われていた人々と関わり、飲食を共にし、神はとりわけ彼らを愛してくださること、神の国がすぐそこまで迫っていることを告げます。

「今こそ悔い改めよ、さもなく滅ぼされる」はヨハネの教えで、「神はあなたがたを愛してくださる」とイエスは教えたのです。

イエスは、自分に従う人々は、たとえ聖書の要求すること(犠牲の供物とともに神殿で赦しを乞う)を行わなくても神の選びに属している、と考えていました。

その具体的逸話として、思い出してください。

王が披露宴の客を集める時、僕たちが「通りへ出て来て、彼らの見つけた人々はすべて悪人の善人も集めてきた。こうしてその婚宴は来客者でいっぱいになった」(マタイ22・10)

僕たちは、初めにすべての悪人たちに善人になるように求めたわけではなく、とにかく彼らを中に連れてきたのです。

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『悔い改めなくても大丈夫』という話ではありません。

聖書思想辞典によると、

洗礼によって一つの実を結ぶ悔い改めの行為は、一回限りのものであり、これを繰り返すことは不可能である。
ところが、洗礼を受けた者もふたたび罪に陥ることが可能である。

ちょっと笑ってしまいました。

福音書に語られる「悔い改め」の概念は、旧約時代にはもっといろいろな意味を持つ曖昧なものでした。
いくつもの単語がそれにあたるとされていますが、もっとも多く出てくるヘブライ語の単語の意味は、「道を変える」「引き返す」「立ち戻る」というものだそうです。
つまり、悪から遠ざかって神に向かう姿勢を意味し、生き方を変えて生活全体を新しい方向に向ける」ということです。

 

福音書の並びは書かれた順ではありません。
おおまかな年表で表すと、

30  イエスの処刑
44  パレスチナ全土が再びローマの支配下に
64~67皇帝ネロによるキリスト教迫害
    ペトロ、パウロがローマで殉教
66~70第一次ユダヤ戦争
70  マルコ福音書成立
   エルサレム神殿が炎上し陥落
71~74ローマによりマサダなどが陥落
79  ベスビオ火山噴火によりポンペイ滅亡
80  ルカ福音書成立
85  マタイ福音書成立

マルコとルカの間の10年に、悲劇的な出来事が続いたことがわかります。
旧約の著者たちが、第一神殿の破壊、バビロン捕囚を自らの神への不誠実な行いが原因であり、「神に立ち返れ」と自分たちを律したように、ルカも「神を信じて悔い改めよ」と追記したのではないでしょうか。

悔い改めなければ、告解しなければ罪は赦されない、と考えるよりも、
「しまった!」と思ったその日のうちに、すぐに軌道修正して、「神様に胸を張って生きる毎日を送りたい」というのが、今のところわたしがたどり着いた答えです。

・・・・・・・・・・・・

可愛い子どもたちの七五三の祝福がありました。
この子たちには「悔い」も「赦し」もありません。
素直にすくすくと、毎日を神様に守られながら育ってほしいと、心から願います。

 

この世の祈り

6日に母校である雙葉学園の同窓会が主催した、死者追悼ミサに与ってきました。
この1年の間に、3名の先生と25名の卒業生が天に召されました。

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久しぶりに、所属教会以外の浄水通教会でのごミサに与りました。

7日には久留米教会の死者追悼ミサが捧げられました。

キッペス神父様がお亡くなりになったという、悲しいお知らせがありました。
これは、2019年のクリスマスのごミサの写真です。

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こうして、クリスマスや敬老のお祝いのごミサなどにいつも来てくださっていたキッペス神父様。
いつも陽気なお姿でした。
安らかに憩われますように。

わたしも今年、親しい方々が天に召されました。

コロナ禍にあって、会えずにいた間に病魔に襲われた子ども時代からの友だち。
一緒にイスラエル巡礼にも行った、仲良しのおじさま。
わたしが洗礼を受ける時からずっと気にかけてくださっていた先生。
親しくしていた後輩の奥様。

わたしたちにいつ、その時が訪れるのかは本当にわからないのだ、と痛感した一年でした。

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11/2の死者の日の朗読箇所です。

神に従う人の魂は神の手で守られ、
もはやいかなる責め苦も受けることはない。
愚か者たちの目には彼らは死んだ者と映り、
この世からの旅立ちは災い、自分たちからの離別は破滅に見えた。
ところが彼らは平和のうちにいる。
人間の目には懲らしめを受けたように見えても、
不滅への大いなる希望が彼らにはある。
わずかな試練を受けた後、豊かな恵みを得る。
神が彼らを試し、御自分にふさわしい者と判断されたからである。
るつぼの中の金のように神は彼らをえり分け、
焼き尽くすいけにえの献げ物として受け入れられた。
主に依り頼む人は真理を悟り、
信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる。
主に清められた人々には恵みと憐れみがあり、
主に選ばれた人は主の訪れを受けるからである。
(知恵の書3・1~6, 9)

4節の「彼らには不滅への希望が満ちている。」(フランシスコ会訳)
不滅という単語は、終わりなき命、完全な幸福の永遠性を意味しています。

この箇所を母校の追悼ミサで朗読させていただき、イザヤ書の言葉が浮かびました。

太陽はお前にとってもはや昼の光ではなく、
月の明かりはもはやお前を照らす光ではない。
主がお前にとって永遠の光となり、
お前の神がお前の輝きとなる。
お前の太陽が沈むことはもはやなく、
お前の月が欠けることはない。
まことに、主がお前にとって永遠の光となる。
お前の嘆きの日々は終わる。
(60・19〜20)

死者は平和のうちにあり、永遠の完全な幸福の中にある。

この信仰は、この世で祈り続けるわたしたちにとって、最高の救いではないでしょうか。

死者は神様とともにいるので何も心配することはない、と何度言われても、何年経っても、「天国の母が安らかに過ごすことができますように」と祈り続けています。

信じていないからではなく、この世のわたしが天の母のためにできることは、祈ることとその意思を引き継ぐことだけだと思っているからです。

 

ほんの少し前に、土から生まれた彼自身が、
少し後に、借りていた魂を返すように求められるとき、
元の土に帰っていく
(知恵の書15・8) 

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フランシスコ教皇は、この1年に亡くなられた枢機卿を始めとする方々のためにミサを捧げられました。
以下、バチカンニュースのサイトからです。

「主の救いを黙して待てば、幸いを得る」(哀歌3,26)という聖書の言葉を観想しながら、従順に信頼して主を待つことを学ぶよう招かれた。

困難の時も沈黙のうちに希望をもって主を待つことを学べば、人生の最も大きい試練である死に備えることができる、と教皇は説かれた。

新型コロナウイルス感染によって亡くなった人々をはじめ、最近故人となった枢機卿・司教らを悼まれた教皇は、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(マタイ25,34)という、主の忠実なしもべたちへの招きを、これらの兄弟たちが今、喜びをもって味わっているようにと祈られた。

 

庭で撮った写真です。
天国と死者と生者が繋がっている、と感じた一枚です。

 

コヘレトの空

「わたしたちの生活をコロナ前に戻す」といった発言を最近よく耳にします。

戻るのでしょうか。
全てが元通りになることを期待しますか?
聖堂中に聖歌の歌声が響き渡る日は、いつでしょうか。

この2年近くの間の日常、信仰生活も含め、確かにいろいろな制約がありましたが、悪かったことばかりではありません。

わたしの場合、かなりよく聖書を開くようになりました。
教会に行けない月日が長くあったので、ミサや行事風景をお伝え出来ませんでした。
ですので、ここを読んでくださる方ともっと聖句を分かち合いたいと思って取り組むようになりました。
それまで以上に、聖書に関係する本もよく読んでいます。

良かったこと、というと語弊があるかもしれませんが、人々が一堂に会したり、わざわざ遠方まで出向かなくてもオンラインでできることが多い、ということが実証されたことは、多くの方が納得されているかと思います。

実はわたしも、先月から大学のオンライン講座を受講し始めました。
以前でしたら、「学びたいけど平日の夕方に大学まで通うのは無理」と諦めていたでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・

二人は一人に勝る。
もし一人が倒れると、その仲間が助け起こす。
二人が一緒に寝れば暖かい。
もし、襲われたとき、一人なら負けるが、二人ならともに立ち向かうことができる。
「三本縒りの紐は、たやすくは切れない」。
(4・9〜12)

コロナ禍にあって、友人や家族がどれだけ大切な存在であるか、わたしたちは痛感させられました。
頼ることのできる友人がいること、互いを心配し合う家族がいること、それがどれほどの幸せか。

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順境の日には喜び、
逆境の日には反省せよ。
あれも、これも、神のなさることである。
それは、将来、何が起きるか、人には見通せないからである。
(7・14)

明日のことを知る人はいません。
今を、毎日を大切に生きること。
日常の小さなことの中に喜びを見出し、自らの至らなさを素直に認めることができますように。

あなたは正しすぎてはならない。
知恵がありすぎてもならない。
なぜ、自分で自分を滅ぼそうとするのか。
あなたは悪すぎてはならない。
愚かすぎてもならない。
自分の時がまだ来ないのに、なぜ、死のうとするのか。
(7・16〜17)

生きることは、自分一人の力でできることではないということを忘れてはいけないのです。

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あなたの生涯の空しいすべての日々の間に、
あなたは愛する妻とともに楽しめ。
神がこれらの空しいすべての日々を、
日の下であなたに与えてくださった。
それが、あなたがこの世にあって受ける分であり、
日の下で苦労するあなたが受ける分である。
(9・9)

わたしがこの世にあって「受ける分」、これは先日書いた主の祈りのことにも通じます。
わたしたちの日ごとの糧をお与えください。
日ごとの糧、生きていくのに必要な、わたしたちに神様から与えられた賜物のことです。

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あなたのパンを水の上に投げよ。
長い年月の後に、あなたはそれを見出すであろう。
あなたの持っている物を、七つ、否、八つに分けよ。
(11・1〜2)

寛大な施しは、後日、その報いを受けるだろう、という旧約の一般的な教えです。
施しに限らず、喜び楽しみも、人と分かち合うことでお恵みは7倍8倍になって帰って来た、という経験がわたしにもあります。

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コヘレトは言う。空の空。
空の空。一切は空。
(1・2)

紀元前250〜200の時代に書かれた、コヘレト。

人間が極端に走り、到達不可能な目的をいたずらに追求するのを諫めています。
ひたすら幸福だけを把握し続ける人間の空しい努力を否定します。
(フランシスコ会訳聖書の解説より)

「空」という言葉はヘブライ語で「へベル」といい、日本語の「空しい」という言葉の持つニュアンスとは厳密には開きがあるようです。

この本によると、「空」は「束の間」という意味が適切であろう、ということでした。

 

この本を読んで、久しぶりにコヘレトを読み返し、今心に留まった箇所を抜粋してみました。
間違いなく、2年前に読んだ時とは違った箇所がわたしを捉えました。

コロナ以前の生活に戻りたい、という人間の希望は「空」のように感じます。
わたしたちが求めるべきものは、そこではないと思うのです。

箴言30・7〜8も、コヘレトと同じようにわたしたちを諭します。

わたしは二つのことをあなたにお願いします。
わたしが死なないうちに、それをかなえてください。
わたしを不実と偽りから遠ざけてください。
わたしに貧しさも富も与えないでください。
ただ、わたしに割りあてられたパンだけで、わたしを養ってください。

この世で与えられた「束の間」を生きるわたしたちにとって、その生きる意味を見出すことは使命です。
コヘレトは「死」があるから「生」に意味があるのだ、と言います。

11月は死者の月です。
わたしも毎年、「死」についてよく考えを巡らせる月です。 

今月は、特に今年天に召された方々のために、日々の祈りを捧げましょう。

 

心のシャローム

「WeThe15」(ウィーザフィフティーン)

東京パラリンピックに合わせて始まったこのムーブメント、ご存じでしょうか。

地球上の人口の15%、つまり12億人もの障がいを抱える人々の生活をより良くしていくことを目標として人権運動を展開し、障がい者に対する差別をなくすことを目的としている世界的な運動です。 

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15%の人が心身のどこかに障害を持っている、という現実は、驚きと同時にその割合で自分の周囲にも、という気づきを与えたかと思います。

イエス様の時代にも、栄養や生活環境が原因で不治の病となっていた人や、精神的・身体的な問題を抱えていた人が多くいたことが福音書を読むと分かります。

当時の人々は、シャロームは主が与えてくれる救いや平安という祝福であり、それが与えられていない人々は罪を犯したから、と考えていました。

マルコ2・1~12の中風の人を癒すエピソードでは、「子よ、あなたの罪は癒される」とイエス様がおっしゃいます。
「このことから、病は罪の結果であり、癒されることで罪も赦されるのだとイエス様も考えていた、と考えることができるけれど、聖書学の分析によるとそうではない」と聖書学者の本多峰子さんが書かれています。

ヨハネ9・1~4では、
弟子たちが「誰が罪を犯したからこの人が目が見えなく生まれてきたのか」と問います。
イエス様ははっきりとこう言います。
「彼が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない。」

 

 

バチカンの一般謁見の際、教皇フランシスコが講和しているときに、トコトコと壇上に上がってきた少年。
これが普通の大人であったら、おそらく護衛が止めたでしょう。
でもこの少年(障害がある子でした)は、話している途中の教皇に近づいて話しかけ、隣にチョコンと座り、最終的には「その帽子が欲しい」とおねだりまでして帽子をゲットしました。

 

シャローム(主の平和)
イスラエルに行ったときは、「こんにちは!」という感じでホテルのスタッフやお店の人に言えました。

シャローム(主の平和)
左右前後の方々、周囲の皆さんに笑顔でご挨拶するとき、儀式のようになってしまい、わたしは心から言えていない気がしています。
ニューヨークでいつも行く教会では、届く範囲の方々はハグをして挨拶しあっていました。(コロナ前)
前任の神父様は、「周囲の方と握手をしてください!」と前置きされていました。

シャロームとは、心身ともに満たされた平和な状態を意味していることばです。

現代の複雑な人間関係社会においては、心の平安を保つのが難しい人、孤独のうちにいる人も多いでしょう。
自分の心に平和がなければ、「互いに平和の挨拶を交わしましょう」と促されても、素直に、本当に心からそうすることは出来ないのかもしれません。

ですが、身体や心に問題を抱えていたとしても、それは満たされていないということではありません。
ニュースの少年は、明らかに心が満たされた平和な存在でした。

シャローム「主の平和」と口にするときは、気持ちを楽にして自然体で。

態度で表さなければ、周囲には伝わらないでしょう。
来週こそは、、、やってみます!

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教皇フランシスコは10月7日、ローマ市内コロッセオで行われた諸宗教指導者らとの平和祈願集会に出席されました。
エキュメニカル総主教、アルメニア使徒教会の総主教、イスラム教、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教などの諸宗教の指導者、そして、ドイツのメルケル首相をはじめとする政治家たちが参加したこの集会で、こうお話されました。

「古代、コロッセオでは人や動物が闘わされ、そこでは多くのいのちが失われたが、今日でも暴力や戦争、兄弟殺しを、わたしたちは遠くから眺め、自分たちはその苦しみとは無関係であるかのように思い込んでいる。
人々の生活、子どもたちのいのちがもてあそばれている状況に無関心でいることが決してあってはならない。

他者の苦しみを見世物にはするが、同情することはない今日の社会において、わたしたちが同じ人間であることを認め、共感し、憐れむ心を育てることが大切。

平和は取り付けるべき合意や、単なる言葉ではなく、「心の態度」である。

WeThe15

基本にして最高の祈り

毎週、ごミサの後の大掃除をする様子が好きです。

ようやく秋が訪れたので、落ち葉もキレイに集め、気持ちもスッキリです。

・・・・・・・・・・・・・

タイトルのとおり、基本であり、同時にこれを超えるものはないという祈りが「主の祈り」です。

毎日唱えているためか、暗記しているためか、頭に染み込んでいるせいか、その意味を考えることなく機械的に口ずさんでしまっていることがあります。

結論を先に書くと、この祈りは「わたしの願い」を伝えるためのものではなく、「わたしたちがどう生きるか・何をするか」の決意を表すものです。

わたしは、昔の文語体の方がしっくりとくるため、日常的には昔の言葉で祈っています。

天にまします われらの父よ
み名の尊まれんことを
み国の来らんことを
み旨の天に行わるるごとく 地にも行われんことを
われらの日用の糧を 今日われらに与えたまえ
われらが人に赦すごとく われらの罪を赦したまえ
われらをこころみにひきたまわざれ
われらを悪より救い給え

 

福音書では、マタイとルカに書かれています。

普段わたしたちが唱えている祈りはマタイによる7つの祈願です。(マタイ6・9~13)
それに対し、ルカの祈りは5つです。(11・2~4)

天におられる わたしたちの父よ
(あなたの)み名が崇められますように
(あなたの)み国が来ますように
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください
わたしたちの罪を赦してください わたしたちも自分に負い目のある人を 皆赦しますから
わたしたちを誘惑に遭わせないでください

前半は、み名が崇められ、み国が来ますよう願っているのではなく、「わたしたちがそうなるように参画します」という決意を神様に誓っています。

後半は、「わたしたち=世界中で祈っているどこかのわたしたち」のことを心に想いながら祈るものです。

糧とは、パン、水、医薬品、住まい、仕事といった、人間が生きていくために必要なもののことです。
イエス様がこの祈りを弟子たちに教えた時、今日食べるものがない、極度の貧困や孤独の中にある人々のことを思われていたのです。

フランシスコ教皇は、講和の中でこうおっしゃっています。

キリスト者の祈りは対話です。
イエスは「あなた」と最初に口にする祈りを教えてくださいました。
わたしの名、わたしの国、わたしの心が、ではありません。わたし、ではありません。
それから次に「わたしたち」へと移ります。
キリスト者の祈りでは、自分のために食べ物を願う人はいません。
神との対話には、個人主義の入る余地がないのです。
まるで世界で自分だけが苦しんでいるかのような、自分の悩みの誇示はそこにはありません。
わたしたち、兄弟姉妹としての共同体の祈りではなくして、神にささげられる祈りはありません。
「わたしたち」という祈りは、自分一人の平穏にはならずに、兄弟姉妹に対して責任を感じるように促しているからです。

 

罪・負い目(正確には借金のこと)を赦し、悪の誘惑に惑わされないように、とは次のようなことではないでしょうか。

「神は人に作用する火なのです。」というアンゲラ・メルケルさんのことばを以前紹介しました。
フランシスコ教皇の次のことばも、同じような意味に捉えられます。

「『月の神秘』、つまり、自分自身は発する光をもたずに太陽の光を反射する、月のようなものということです。
わたしたちも自分自身に光はもっていません。
わたしたちの光は、神の恵みを、神の光を反射する光です。
月の神秘とは次のようなものです。
わたしたちが愛を行うのは、ほかでもなく愛されたからです。
ゆるすのは、ゆるされたからです。」
 

ある神父様はこうおっしゃいました。

「主の祈りを、単に自分の内面的、霊的な、宗教上の祈りにしてはなりません。
自分が関わっている人、世の中、世界の出来事、苦しんでいる人々のことを心に想いながら祈るのです。」

そう教わってから、主の祈りを口にする時の気持ちが大きく変化しました。

今までは、やはり機械的に、自分のために祈っていたのだということに気付かされました。

皆様はどうですか?
主の祈りの意味を、噛みしめながら唱えていらっしゃるでしょうか。

 

 

祈りのかたち

10月は宣教の月、そしてロザリオの月でもあります。

コロナ前は、10月は聖堂に集ってともにロザリオの祈りを捧げるのが習慣でした。
ですが、今年もそうした集まりは「中止」されています。

(ここにも、ウィズ・コロナの現代には工夫が求められているでしょう。
個人が各家庭で祈ることでもロザリオの意味は変わらないかもしれませんが、
みなが一堂に集まって、声に出して祈ることにも大きな意味があるのです。
ミサに聖歌が欠かせないように。
なにもかも「中止」ではなく、なにか策を考えなければ!)

久留米教会でも、やはり年配の信者さんたちは年中、熱心にロザリオで祈っていらっしゃいます。
そんな先輩方の、敬老のお祝いの祝福がごミサの中で行われました。

ロザリオという言葉はラテン語ではロザリウム、『バラの冠』という意味です。

1571年10月、ヨーロッパのキリスト教を滅ぼそうとするトルコ帝国にキリスト教徒がロザリオの祈りによって勝利しました。
その記念にと、時の教皇ピオ5世はその日を「ロザリオの聖母マリアの祝日」と定めたとされています。
(平和的なマリア様へのとりなしの祈りの起源が「戦争の勝利」だとは、、、。)

ロザリオの祈りは、イエス様の生涯を黙想しながら、聖母マリアの取り次ぎによってわたしたちの救いと世界平和の恵みを求める祈りです。
(女子パウロ会のホームページを参考にしました。)

 ロザリオの祈りには、祈り方の明確な決まりがあります。

一つひとつにちゃんとした意味があり、それはそれで大切な祈り方ですが、祈りにはいろいろなかたち、やり方があってもよいと思います。

わたしは、なにか大きなことがあった時、例えばやっかいな問題が起きた時、苦しい気持ちや痛い目にあった時などには神様にこう話しかけます。

「神様、この出来事を通して、私に何を語りかけていらっしゃるのですか?」

こう神様に問うことも、祈りの一つのかたちかと思います。
このことばを、一日中、とにかく何度も何度も唱えます。
答えが自分で見つかるまで。
神様が答えに導いてくださるまで。

 

 

エルサレムの「嘆きの壁」と呼ばれる西の壁です。

立って壁に向かって祈り、または椅子に座ってずっと旧約聖書(モーセ五書)を読んでいます。
ずっとです。
(え、仕事は?とか思わない思わない。)
ずっと彼らは祈っているのです。

この写真を撮った日はバルミツバ(少年たちの13歳の成人式=毎週行われています)の日でしたので、特に熱心な正統派ユダヤ教の方々が多かったのですが、それでも、彼らの神との誠実な向き合い方にはとても衝撃を受けました。
この壁の様子をテレビで観たことはありましたが、実際に目の当たりにし、祈っている人の崇高さを感じたのです。
「信じる」ということはこんなにも尊い美しさなのか、と。

 

全イスラエルの王となったダビデは、預言者ナタンから王朝の永久を約束された神の言葉を聞き、感謝の祈りをもって応えています。
「主なる神よ、あなたが語られたようになさってください」
(Ⅱサムエル7・25,Ⅰ王8・26)

次のソロモンは、神殿の奉献祭の際に民のために祈りを捧げており、その後の王たちにとっても、民のために祈ることは公的な職務とされていました。

旧約の預言者たちは、神との仲介者として祈っており、エレミヤは次のように讃えられています。
「民と聖なる都のために不断に祈っている神の預言者」
(Ⅱマカバイ15・14)

もしも祈りのためのことばをお探しならば、詩編をめくってみてください。
詩編はもともと、祈りに使用することを目的として編集されています。
イエス様もいつも詩編を祈りの糧とされていました。

パウロは祈りに言及するとき、「いつも」「どんなときも」「絶えず」「昼も夜も」などの言葉で語っています。

「祈る」という行為は、十字架の前で跪いて手を合わせることではなく、「いつでもどこでも神様に話しかける」ことなのだと、色々な方のお話を聞いていていつも思います。

 

福音書には、祈りに際して3つのことを必要とすると書かれています。

① 人を赦すこと(和解すること)
 (マルコ11・25,マタイ5・23~24、6・14)

②他者との一致を実現しようと努めること
 (マタイ18・19)

③自分の過失を思い出して悔い改めること
 (ルカ18・9~14)

 

わたしたちが重視すべきは「何をどこでどう祈るか」ではないのです。
信じているのですから、委ねましょう。
信仰を持っているのだから、人を赦しましょう。
いつも守られていることを、覚えていましょう。

・・・・・・・・・・・・

サルヴェ・レジナ

元后 あわれみの母
我らの命、喜び、希望
旅路からあなたに叫ぶエバの子
嘆きながら泣きながらも
涙の谷にあなたを慕う
我らのためにとりなすかた
憐れみの目を我らに注ぎ
尊いご胎内の御子イエスを
旅路の果てに示してください
おお、いつくしみ、恵みあふれる
喜びのおとめマリア

神の母聖マリア、わたしたちのために祈ってください。
キリストの約束にかなうものとなりますように。

 

派遣されたわたしたち

ミサに与るために、日曜日の朝、いつもよりも早く起きて家事を終わらせる。

そして、早めに教会に行ってお祈りをし、一週間の感謝を伝える。

ミサ前に幾人かの方々と言葉をかわす。

ミサにみなさんとともに与る。

新しい一週間の始まりに、決意を新たにする。

ミサ後に神父様にお声をかけ、また幾人かの方々と交流する。

本当にすがすがしい気持ちになります。

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あらためて、ミサに参列してご聖体をいただく意味と意義について考えました。

以前もご紹介した、故アドルフォ・ニコラス神父様の本にある、わたしがみなさんにもう一度(何度でも)お伝えしたい言葉を書いておきたいとおもいます。

☆教会がミサを祝うと同時に、ミサが教会を造るという相互関係を、司祭も信徒も皆が意識しなければならなりません。
 ここに私たちのアイデンティティがかかっています。

☆ミサは個人の信心ではなく、教会にとってそのアイデンティティを表す文化的・歴史的な表現です。
 ミサを祝うことによって、私たちはキリストとの交わり、またお互い同士の交わりを新たにします。

☆ミサは教会の顔である。

☆ミサはラテン語で「派遣されている」という意味です。
 「行きなさい、あなた方は派遣されている。」
 「ここで体験したことを生きなさい。」ということです。

 

毎年10月は宣教の月で、最後から2番目の日曜日は「世界宣教の日」とされています。

宣教、というと「宣教師」とか「一信者には恐れ多い」といったイメージがあるかもしれませんが、これはわたしたち一人ひとりに向けられた、わたしたちの使命なのです。

わたしたちは、周りにいるひとに「教会について」「信仰とは」と聞かれたときに、目を見て、素直な心で、優しい言葉で語りかけることができるように準備しておかなければなりません。

 

2021年「世界宣教の日」の教皇メッセージのテーマです。

「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」
(使徒言行録4・20)

聖書のこの箇所は、ペトロとヨハネが捕えられ、尋問された時のものです。

「神に聞き従うよりも、あなた方に聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか判断してください。
私たちとしては、自分の見たことや聞いたことを、話さないわけにはいきません」
(フランシスコ会訳)

そう言われた大祭司たちは、二人を罰するすべをなくし、彼らを釈放せざるを得なくなりました。

「信仰は聞くことから始まります」(ローマ10・17)とパウロが言っているとおり、キリスト者はイエス様の言葉に出会い、教え導いてくださる先輩信徒や司祭の言葉に耳を傾けながら生きています。

信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょうか。
聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょうか。
宣べ伝える者がなければ、どうして聞くことができるでしょうか。
遣わされなければ、どうして宣べ伝えることができるでしょうか。
(ローマ10・14)

聞いて信じているわたしたちが、それぞれの場所で周囲に宣べ伝えていく使命を帯びていることを忘れないようにしましょう。

聖書を論じる必要はありません。

わたしたち一人ひとりは「神にささげられた、キリストのかぐわしい香り」(Ⅱコリント2・15)です。
このことを心に刻みながら、周囲にその香りをふりまく生き方を心がけたいと思っています。

以下、教皇様のメッセージを少し抜粋します。

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このパンデミックの時代、正しいソーシャルディスタンスという名目で、無関心と無感動をマスクで覆って正当化する誘惑に直面する中で、求められる人との距離を、出会い、世話、活動の場にできる、あわれみの宣教が急務です。

わたしたちが受けたものすべて、主がわたしたちに与えてくださったものすべては、わたしたちがそれを持ち出し、他の人に無償で与えるために主から与えられているのです。

https://www.cbcj.catholic.jp/2021/06/29/22623/

 

信仰を持つこと

世界には素晴らしいリーダーがたくさんいらっしゃいますが、今日書いてみたいのは、ドイツのアンゲラ・メルケル首相についてです。

ドイツでは26日に総選挙が行われ、その結果の如何に関わらず、数年前に自ら決断されていた通りにメルケル首相は退任されます。

2015〜2016年にかけてシリア難民を100万人以上受け入れた際には、世界がその決断を称賛しました。
拒むこともできたのに、弱者に共感して国境を開き社会を巻き込んでいく姿に、当時彼女には「ドイツの母」と称されるほどの賛辞が贈られました。

ですが、予期しない展開が待っていました。
難民が次々と事件やテロを起こすのです。
社会は一気に不安に陥ります。

そして選挙で負け、2018年には党首を退任し次の選挙後には政界を引退する、と表明していました。

 

 

今回の退任にあたり、以前読んだ彼女の本を改めて読み返してみました。

旧東ドイツ出身で、父親は牧師であるメルケル氏は、とても熱心なプロテスタント信者として知られます。
実際、先ほど書いた難民受け入れの政策は彼女の信仰的確信の現われだと言われていました。

この本によると、首相としてのメルケル氏はキリスト教の信仰についてあまり公に強く語ることは控えていたようです。

ですが、本の中の様々な場での彼女のスピーチなどからも、読めばすぐにわかるほどの篤い信仰の持ち主であることは間違いありません。

「信仰と、希望と、愛。
これらが、かなり多くのものごとにおいて、わたしを導いていると思います。

ですがわたし自身は信仰に関していつもはっきりと確信があるわけではなく、ときには疑いも抱きます。」
と述べています。

 

一国のリーダーが迫られるほどの決断の場はないとはいえ、わたしたちにもこちらかあちら、どうするかの判断を迫られる場面はあります。
そのとき、そこに信仰による影響があるでしょうか。

あるときのスピーチで、メルケル氏はこう言っています。

「あらゆる問題、毎日絶望してもおかしくないような問題にもかかわらず、キリスト教信仰はわたしたちに、明るく生きる能力も与えてくれるはずです。
自己満足に浸るべきではありませんが、わたしたちにはたくさんのことが動かせるのだ、と言ってもいいでしょう。
25年前の東ドイツでのデモを思い出すならば、教会で行われたこと、祈りやろうそく、変化を呼び起こした平和的な手段を思い出すならば、わたしたちドイツ人は、ものごとを好転させる力についてたくさんのことを語れるでしょう。
わたしたちは、キリスト者としてもそのことを発言していくべきなのです。」

また、あるときにはこう話しています。

「神は人に作用する火なのです。
この作用する火を、わたしたちも自らの内に持っているべきだと思います。

キリスト教信仰は、わたしたちにとって善き力です。
作用する火であり、わたしたちはその火を使って、すでに成し遂げたことを喜びと共に眺めることができますし、その火のもとにいれば大きな問題の前でも目を閉じる必要がなく、その火を通して、これから来る人々のために努力を続ける力を得るのです。」

たしかに、わたしが前向きで明るくいられるのは、信仰によるものだと気づかされます。

神様がわたしのうちに灯してくださった火が、小さく揺らめいているのを感じることがあります。

そして、信仰を持っている友人と話すと、心地よい優しさと良い影響を感じます。

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「信仰を持つこと、それ自体がお恵みである」といつも思っています。

信仰は、希望していることを保証し、見えないものを確信させるものです。
(フランシスコ会訳)
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
(新共同訳)
(ヘブライ11・1)

信仰を持っている人でも、この世での望みは同じではないでしょう。
少なくともキリスト者としては、大きな視野で望みを持っていたいものです。

信仰を持っている人とは、
望んでいること(希望=いつも神様がともにいてくださること)を持っていて、
目に見えない事実(愛=どんなときも神様がともにいてくださること)を信じている人のことだと思うのです。

 

さぁ、ようやく。
今週末は秋晴れの日曜日の朝、教会でミサに与れることでしょう!

スケープゴート

秋晴れの、美しい、気持ちの良い季節です。

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家のあちこちに、十字架、マリア像を置いています。

寝る前に祈るときも、小さな手の中に納まるサイズの十字架を握りしめています。

みなさんもそうではないでしょうか。
つい、お気に入りの十字架やマリア像の前で手を合わせて祈ってしまう、そういう習慣が身に付いている信徒は多いかと思います。

以前、ある神父様がお説教でおっしゃいました。

「イエスの十字架は、首から下げるダイヤモンドの入ったアクセサリーではない。」

 

教皇は訪問先のスロバキア東部プレショフで、十字架や(キリストの)磔刑像はしばしばキリスト教徒によって表面的に使用されていると講話した。

欧州では、東欧の複数の極右政党を含む多数の政党が、十字架を党旗やシンボルに取り入れている。

教皇は、多くのキリスト教徒が十字架を首にかけたり、家の壁にかけたり、自動車やポケットの中に持つなどしているが、実際にイエスとつながっていないと指摘。
「十字架上のイエスを見つめるために立ち止まり、キリストに心を開くのでなければ、何の意味があるだろう。
十字架を奉献の対象におとしめるのはやめよう。
ましてや、政治のシンボルや、宗教・社会的地位の表彰としてはならない」と述べた。

(9/14ロイター配信ニュースより)

 

スケープゴートという言葉をご存知でしょう。

簡潔にいうと「多くの人の罪を負わされた人」という感じでしょうか。

アロンは生かしておいたその山羊の頭に両手を押しあて、イスラエルの子らのすべての咎とすべての背き、すなわち、彼らのすべての罪をその山羊の上に告白し、それらをその頭に置き、係の者の手で荒野に送り出される。
その山羊は彼らのすべての悪を担って、不毛の地へ行く。
係の者はその山羊を荒れ野に送り出す。
(レビ16・21〜22)

最近はスケープゴーティング(罪を着せる行為、報道)が頻繁に目につく気がします。

例えば、音楽イベントの集客が多くお酒の提供もあった、と報道があると、「主催者」「参加者」「出演者」「許可した行政」=悪だ罪人だ、と囃し立て、「参加者に感染者が多く出たらしい」=「ほら見たことか、当然の報いだ」

すべてのことにおいて、このような考え方が蔓延ってきてはいないでしょうか。

以下、イザヤ書の53章を抜粋します。

彼は主の前で若枝のように、
乾いた土地の中から生え出た。
彼は、わたしたちの背きの故に刺し貫かれ、
わたしたちの悪の故に打ち砕かれた。
彼の上に下された懲らしめが、わたしたちに平和をもたらし、
彼の傷によってわたしたちは癒された。
わたしたちはみな、羊のように迷い、
それぞれ自分の道に向かったが、
主はわたしたちみなの悪を彼に負わせられた。

もし彼が自らを賠償の捧げ物とするなら、
彼は末永く子孫を見るだろう。
主の望みは彼の手によって成し遂げられる。
彼は、多くの者の罪を担い、
彼らの背きのために執りなした。

彼=scapegoat です。
彼=メシアのことを予言しているのだ、と当時の人々は捉えていました。

このイザヤ書に呼応する形で書かれたのが、ペトロの手紙の次の箇所です。

わたしたちが罪に死んで義に生きるため、キリストは十字架の上で、わたしたちの罪をその身に負われました。
その傷によって、あなた方は癒されました。
あなた方は、羊のように迷っていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方の元に帰ってきたのです。
(1ペトロ2・24〜25)

同時に理解しておきたいのは、イエス様は「大勢の罪人の罪を背負って死のう」と思っていらっしゃったわけではない、ということです。

イザヤ書の予言していた彼(メシア)はイエス様なのだ、と亡くなられてご復活された姿を見てようやく理解して納得した弟子たちが、「わたしたちの罪のために(代わりに)死んでくださったのだ!」と後になって言ったのです。

イエス様を信じる人が多くなり、このままでは祭司たちの尊厳が危うくなると危惧した大祭司のカイアファは、「一人の人間が民に代わって死に、国民全体が滅びないほうが、あなた方にとって得策である」と言ってイエス様を殺そうと決意しました。(ヨハネ11・50)

この考え方、代理死、贖罪死も、ある種のスケープゴート的なものでした。

わたしたちの信仰は、イエス様がわたしたちの罪の代わりに死んでくださったからではないはずです。

人々のために生き、小さき弱き者、虐げられた人々をも導き、自分自身には罪はなく正しい人であったのに、十字架につけられたのです。

 

十字架を身に纏うことで信仰が篤いと満足し、わたしたちの罪を担ってくださったイエス様はわたしたちの罪を赦してくださると自分勝手な理解をし、他人の罪を勝手に判定して「わたしは違う」と息を巻く。

そのようなキリスト者であってはならない、と最近とても考えています。

みなさまは、どう思われますか?
ミサもなく、教会で集って語り合えないこの日々、みなさまとこうしたお話もしたいのです。

 

 

故郷を逃れる人々

1980年代の内戦状態のエチオピアから、モサド(イスラエルのユダヤ諜報機関)のエージェントたちが1万人近いユダヤ人難民をイスラエルに避難させたという実話をもとにした映画を観ました。
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船で紅海を渡って逃がす「モーセ作戦」と、飛行機(先月のアフガニスタンからの脱出の映像のように)での「ヨシュア作戦」が実際に行われたのだそうです。

映画の中で、スーダンの難民キャンプに偽装難民として連れてこられたうちのひとりが、エージェントに文句を言います。

「わたしの父は、ここに来る途中で死んだ。夫とは途中ではぐれてしまった。子どもは病気だ。ここでは食事もまともに食べられない。
約束の地イスラエルに連れていくと言われて信じたのに。」

どこかで聞いたようなお話ですね。

モーセを信じ、それなりに安定していたエジプトでの暮らしを自ら捨て、主が約束された「乳と蜜の流れる」豊かな地を目指して40年もの間、旅をしました。
(途中、「エジプトの暮らしの方が良かった」「食べるものもない」「肉が食べたい」とか文句を言いながら。)

彼ら、古代のユダヤの人々もある意味では難民と言えるかもしれません。

しかし、現代の難民と言われる人々には選択の余地のない、切迫した状況下を逃れるしかなかった人が多いのです。
古代のユダヤ人のように安住の地を求めて自らの意思で国を出る、という状況とは違います。

オリンピックの期間中に亡命を申請してポーランドに受け入れられたベラルーシの選手がいましたが、彼女のようにすぐに他国に受け入れられる幸運な人は稀なのではないかと思います。

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聖書では、イスラエル人はかつては自分たちもエジプトで寄留者であったことを忘れずに、神が困窮者や貧しい者たちを保護するよう心を配っていることから、通りすがりの異邦人をも同胞のように大切にしていました。
神の前では誰もが寄留者であり、借地人にすぎない(レビ25・23)、との考えがあったのです。
新約の時代になると、信仰者はこの世には永遠の住まいをもたない(2コリント5・1~2)、地上では寄留者・巡礼者であり、天の国に入るまでは信仰者は旅人の生活を送るのだ(1ペトロ2・11)という教えに昇華していきます。
(聖書思想辞典より考察) 

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現在、日本の人口の半数を超える8,240万人が難民となり故郷を離れざるを得ない状況にあると言われています。
ですが、難民となった人の正確な人数は把握できない場合も多いと思われます。

2020年末時点で最も多い難民の出身国はシリアで、アフガニスタンやイラクといった紛争地域を抱える中東の人が全体の半数以上を占めているそうです。

政治的な迫害などが原因の政治難民
経済的貧困から外国へ逃避する難民は経済難民
自然災害、飢餓、伝染病などの災害難民
宗教的追放や域内外の紛争から逃れた難民

先週閉幕したオリンピック・パラリンピックでは、前回大会に続いて2回目となる難民選手団が結成されていたことも話題になりました。
今回参加した6名の選手とその家族は、紛争・圧政、国内の混乱から逃れて難民となった人々でした。


「世界難民移住移動者の日」は、日本では9月第4日曜日に定められています。
「各小教区とカトリック施設が、国籍を超えた神の国を求めて、真の信仰共同体を築き、全世界の人々と『共に生きる』決意を新たにする日」として設立されました。

教皇フランシスコが選ばれた今年の9月26日のテーマは、
「ひたすら『わたしたち』でありますように」

遠い見知らぬ国の人々のこと、ではなく、この問題について知ること、そして自分の問題として捉えて考えてみる機会になれば、と思います。

 

日本カトリック難民移住移動者委員会
https://www.jcarm.com/

第107回 世界難民移住移動者の日(2021年度) 委員会メッセージ
https://www.cbcj.catholic.jp/2021/08/10/22983/

 

 

家族を築く

聖堂は閉められていますが、5日の日曜日は2組の結婚式が執り行われました。

参列者はごく限られたご家族などで、ささやかな中にも優しい幸せに包まれた素敵なお式でした。

1組目は、新郎側のご両親が緊急事態宣言ということで久留米に来ることが叶いませんでした。
2組目は、ご家族がベトナムから日本に来ることができませんでした。

ということで、youtubeでライブ配信をすることになったのです。

便利な世の中です。

このようなことが、2年前に想像できたでしょうか。
結婚式に親が参加できない。
友人をたくさん招いてパーティを開くことはしない。

このような世の中になり、本来ならば一世一代の大イベントであるはずの結婚式と披露宴は、新しいカタチになりました。

カトリック教会に於いて、結婚は7つの秘跡のひとつとされています。

厳密には、新郎新婦共に洗礼に与っている場合が秘跡とされますが、人生のある時に偶然出会った二人が家族になるという結婚は、神様の計らいであるとしか思えません。

現代人にとって、結婚とは「制度」にすぎない、という考え方もあるでしょう。

もちろん今でも、民族や宗教によっては親が結婚相手を選ぶ、ということもあります。

旧約聖書には、結婚生活についての苦労や嫁姑問題、夫の務め、妻の役割など、多彩な記述が随所にあります。

4000年以上前から変わらぬ苦労があったのか、と笑ってしまうような箇所もあります。

創世記の「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」として女性は男性のために造られた、とか、出エジプト記の「不妊の妻は離別される」、「夫の権利を尊重するため、姦淫の妻とその相手は死罪(夫が姦淫してもおとがめなし)」といった記述は、現代に生きるわたしたちには抵抗がありますが。。。

 

旧約聖書のルツ記は、短い文章の中に、結婚によって新しく築かれる家族の愛が書かれています。

BC450ごろ書かれたとされるルツ記は、旧約聖書のなかで一番短い書物ですが、当時のイスラエルの結婚に関する慣習が書かれています。

兄が子供を残さないまま亡くなった場合、その弟が兄嫁を娶って子孫を残すことが普通になされていました。
寡婦であったルツはイスラエル人ではありませんでしたが、ナオミ(姑)の働きかけで親戚のボアズに嫁ぎ、子どもが生まれます。
その子がダビデの祖父にあたることから、異邦人ルツは旧約の中でも重要な女性となりました。

わたしがルツ記を好きな理由は、ルツのナオミへの家族愛が書かれているからです。

夫が亡くなり、子どもがいなかったルツは故郷であるモアブ人の地へ戻ることもできました。
ですが、一人になってしまう姑のナオミを気遣って、一緒にベツレヘムへ戻るのです。

結婚により、彼女にとって姑は他人ではなく、家族になったのです。

 

家庭は2人で築くものでしょう。

ですが、結婚によって家族が築かれるのです。

わたしには妹が2人いて、義弟が2人できました。
彼らはわたしにとって、大切な家族です。

妹たちの結婚によって、わたしにも家族が増えました。
幸せのおすそ分けです。

 

 

それぞれの持つ個性

パラリンピックが行われています。

わたしは、これまでの人生で「こうすればよかった」と思わないように努めて生きてきましたが、唯一思うこと。

「パラリンピックを目指して何かスポーツを極めればよかった!」

これだけは後悔しています。

わたしの個性で一番自慢できる点は、障害があることです。

これは、障害を持つすべての方を代弁しているわけではありません。
わたし個人の思いです。

わたしのことをご存知の方には、おそらくこう思ってくださっている方がいらっしゃるでしょう。
「体が不自由だとは思えない、バイタリティのある人」だと。
わたしにとって、片足が義足であるということはわたしの「強み」なのです。

 

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イエス様の時代、精神的に障害がある人には悪霊がついていて、身体的に障害がある人は前世や本人が犯した罪による穢れ、罰だと考えられていました。

旧約の時代には、サムエル記下5章にあるエピソード(「ダビデの命を憎むという足の悪い者、目の見えない者を討て。」という記述とそのことにまつわるエブス人との争い)があり、このことから、目や足の不自由な人は神殿に入ってはならないとされたのです。

レビ記では、イスラエルの人々は神によって聖別された民であるからこそ、神の掟に服従して聖なる者であり続けなければならない、と主が語っています。
(19章、22章)

それでも、他宗教に染まり偶像崇拝に走る民と、それを罰する(病気、障害、滅び)神という構図が聖書に書かれています。

同時に、申命記の十分の一税やレビ記の落穂に関する下りのように、社会的弱者を虐げてはならないということも書かれています。

3年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちで、相続地の割りあてがないレビ人や、あなたの町に住む他国の者や、孤児や、やもめが来て食べ、満ち足りるようにしなさい。
(申命記14・28~29)

穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ブドウも摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。
これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。
(レビ記19・9~10)

 

障害のある人は罪人であると考えられ、忌み嫌われていました。
触れたらその人まで穢れる、と思われていたため、人里離れたところに固まって暮らしていた人々もいたように聖書には書かれています。

ですが、イエス様はそうした人々を始め、娼婦、寡婦、といった社会的弱者を最優先にされます。

『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか?
本人ですか。それとも両親ですか』。
イエスはお答えになった。
『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである』」
(ヨハネ9・2~3)

ローマの人々への手紙3章で、結論とも言えることをパウロが書いています。

☆障害のあるなしにかかわらず全ての人は罪人であること
 (ユダヤ人もギリシャ人もみな罪のもとにある 3・9)
☆イエス様の贖いの業を通して神の救いを得ることが出来る
 (3・22〜24)

 

障害があることはわたしの強みであり個性だ、と、わたしは思っています。

パラの選手たちの競技を見ていて、「すごい!」「なぜあんな身体能力が!?」と感じるでしょう。
彼らはその個性を生かして努力を重ね、一見不可能な能力を驚くほど発揮するのです。

入院していたころ、お見舞いに来てくださるシスター方は決まって「あなたは神様に選ばれた子だ」とおっしゃってくださいました。

病気をしたことが「選び」「恵み」だということではなく、そのことを受け止めて前向きに治療に取り組むわたしのことを、そう言ってくださったのです。

信仰によって、わたしたちは誰もが神様からの憐れみを受けることができる。

このことをわたしも、何度も身をもって実感しながら生きてきました。

まだ遅くないかも!?
何かスポーツ始めようかな、、、。

 

隣人愛のかたち

4回目の緊急事態宣言となり、久留米教会も教区の決定に則り、公開ミサが中止となりました。
「宣言には意味がない」という意見があるようですが、そのように不満を抱いてもなにも状況は変わりません。
わたしたちはいま自分にできることを粛々と、そして、感染しない・させない対策を徹底的に行うのみです。

そんな中、パパ様のお言葉がまた心にとまりました。

神は、日々生じる問題から、私たちを解放するために来られるのではありません。
愛の欠如という本質的な問題から、私たちを救うために来られます。
愛の欠如は、私たちの個人的、社会的、国家間、また環境の問題の根本原因です。
自分のことしか考えないことは、すべての悪の始まりなのです。

God does not come to free us from our ever-present daily problems, but to free us from the real problem, which is the lack of love.
This is the main cause of our personal, social, international and environmental ills.
Thinking only of ourselves: this is the father of all evils.
8/17教皇フランシスコ Twitter

夏の甲子園、2回戦を目前に辞退した宮城県代表の東北学院の主将のインタビュー、お聞きになりましたか?
監督と選手たちの話し合いで、「感染した人のことはみんなで守ってあげようという話があった」と報道されていました。

高校生のことばです。
わたしたち大人も、彼らを見習い、恥じない言動をとらなければならないなと身が引き締まる思いがしました。

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何度も書いていますが、今回もお伝えしたいことです。

◆「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」
(マタイ7・12)

この教えは、姪たちが小さいころから彼女たちにも度々言い聞かせてきました。

「おなじように、自分がされたくないことは人にしてはいけないのよ。」とも。

この黄金律は、イエス様の時代よりずっと以前から、ユダヤ人の間で律法全体の要約として語られていたことでした。

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◆「あなた自身にとっていやなことは、あなたの隣人に対してもしてはならない。
それは律法全体であって、あとのものはそこから推し計られるものにすぎない。」

◆「あなたの隣人を裁いてはならない。あなた自身が隣人の立場にならないためである。」

◆「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」

これらもすべて、福音書に書かれる遥か昔からユダヤ人の間では格言として知れ渡っていたことばでした。
イエス様も、黄金律はモーセの律法の要約だと考えていたようです。

◆「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」
(ㇾビ19・18)

古いアラム語の訳では「あなたの隣人を愛しなさい。あなたを不快にさせることはどんなことでも、隣人にしてはならない!」となっているそうです。

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そのとき、ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
(マタイ22・34~40)

イエス様はユダヤ人であり、ユダヤ教の教えのもとに育ち、暮らしておられました。

福音書に記されている教えの重要な箇所からも、イエス様が旧約の教え、律法をとても大切にされていたことが分ります。

黄金律と隣人を愛することの戒めは、その最たる例でしょう。

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隣人愛の実践に尽くし、「これはキリスト教に限った教えではなく、遥か昔からの格言なのよ」と、わたしたちが周りの人にも伝えていくのです。

何かが変わっていくかも、という希望を持って。

 

少しずつ、秋の気配が。

求めている平和とは

15日までの10日間は、カトリック教会の平和旬間でした。
各々、平和への祈りを捧げ、平和とは何かを考える機会をお持ちになられたのではないでしょうか。

8月15日は、わたしたちにとってたくさんの意義深い日です。
福音宣教の始まりである、フランシスコザビエルが鹿児島に上陸した日
終戦記念日
日本の伝統文化であるお盆
そして、聖母マリア様の被昇天の記念日

宮﨑神父様はお説教の中でこうおっしゃいました。
「8月15日は平和を噛み締める日です。そして、故人を想い、祈り、同時にいずれ訪れる自らの死を重ねて黙想する日です。」

あなたは何のために平和を求めますか?

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わたしはいつも、パパ様の優しい笑顔に平和を感じます。

先日ご紹介した、教皇フランシスコ訪日公式記録集をようやくじっくりと読みました。

広島平和記念公園での「平和のための集い」では、プロテスタントの各宗派の代表だけでなく、神社や様々な仏教の宗派の代表、日本のユダヤ教、ムスリム、ロシア正教などの代表者の方との交流、参加があったことをご存知でしたか?

核兵器の廃絶、戦争のない世界の実現はもちろん平和の重要な条件ですが、最も重要な要件は「人々の間に平和があること」だと思うのです。

コロナ禍において、世界中のいたるところで人間の愚かさ(差別、偏見、誹謗中傷)、不平等などが改めて顕になりました。

紛争のない国であっても、そうした醜い人間の状態が渦巻く状況で平和な社会と言えるでしょうか。

これまでは、世界の差別の大要因は「人種」と「宗教」の問題が根底にあるからだと考えていました。
そして、その根本的な原因の一端はキリスト教にあるのではないかという葛藤があります。

コロナウィルスが世界を席巻する今、問題はさらに大きく深く広がってしまっている気がします。

今このような時代だからこそ強く思うのは、平和はわたしたち一人ひとりの中で育てるべきことであり、平和のためにわたしたちが求めるべきは、お互いの他者への思いやりだということです。

世界が繋がっている一つの社会なのだ、とわたしたちは今、思い知らされているはずです。

平和は自分のためだけに求めるものではないはずです。

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詩編の、いつも心の中に響かせたい、美しい平和の祈りです。

いつくしみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、
まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。
(新共同訳)
いつくしみとまことはともに出会い、義と平和は抱き合う。
まことは地から生えいで、義は天から身をかがめる。
(フランシスコ会訳)
(85・11〜12)

(122・8)

わたしはいおう、わたしの兄弟、友のために。
『あなたのうちに平和があるように』」

(122・8)

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オリンピック陸上競技800メートルの準決勝で、転倒してしまった選手にもう一人の選手が巻き込まれたシーンをご覧になりましたか? 

巻き込まれた選手が最初に転倒した選手に手を差し伸べて抱き起こし、抱き合った後、「行こう」「ゴールしよう」と声をかけ、二人で揃って走り出して他の選手から1分近く遅れて一緒に肩を並べてゴールしました。

そこに、平和がありました。

少なくともわたしたちにできることは、周囲の人々に思いやりと優しい気持ちを持って接し、お互いが気持ちよく過ごせる日常を作っていくことでしょう。

平和はそこから生まれます。

 

 

自分なりの実り

毎年、8月になると台風が接近し、猛暑を少し和らげるという自然の営み。
地球が温暖化しているとはいえ、このサイクルが日本の季節を作っていることには驚きます。
被害がなければ良いのですが、台風がいくつか通り過ぎてくれると、過ごしやすい夏になります。

もしも無人島に何か2つ(ひとつではない)持っていけるとしたら?

わたしは迷わず、聖書とワイン一箱(一本ではない)を選びます!

聖書を選んだのは、何も真面目で敬虔な信者だからとかではなく、純粋に読むのが面白いからです。
聖書とワインさえあれば、退屈することはありません。

旧約にはぶどうの木、ぶどう園のたとえが数多く語られています。

それに呼応するように、新約でもぶどうに関する記述があります。

旧約には直球で「飲み過ぎ注意!」という記述も結構あるのですが、多くは「役に立たない、神に背いたものの象徴」「実を結ばなければ価値のないもの」として語られます。

詩篇80のタイトルは「荒らされたあなたのぶどう園を元どおりに」

あなたはぶどうの木をエジプトから移し、異邦の民を追い出して、これを植えられました。
あなたは前もって地を整え、その木を根づかせ、生い茂らせました。
万軍の神よ、立ち返ってください。
天から見下ろし、目を留めて、このぶどうの木を顧みてください。
(9〜10、15)

BC722年のアッシリア軍侵攻による北イスラエル王国滅亡の直前の自分たちを、ぶどうの木にたとえています。

イザヤ書5章のタイトルは「ぶどう園の歌」

さあ、エルサレムに住む者とユダの人よ、わたしとわたしのぶどう園の間を裁け。
ぶどう園になすべきことで、わたしがしなかったことがまだ何かあるか。
わたしは善い実が結ぶのを期待したのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
まことに、万軍の主のぶどう園とは、イスラエルの家。
主が喜んで植えられたのはユダの人。
(3〜4、7)

イザヤという人はユダ王国の貴族で、エルサレムに暮らしていたとされています。
北王国イスラエルが南王国のユダに攻め入った戦争とその後のアッシリアのユダ侵略が背景にあるのが、本人が書いたとされる第一イザヤ(1〜39章)です。

エゼキエル書15章のタイトルは「無用のぶどうの木」

人の子よ、ぶどうの木はほかの木、すなわち森の木々の間に生える木の枝より優れているだろうか。
その木で何かを作ろうとするだろうか。
それでものを掛ける木釘が作れるだろうか。
それどころか、薪として火にくべられるだけである。
その両端は火で焼き尽くされ、その芯は黒焦げになる。
それが何かに役立つだろうか。
そのままの時でも役に立たないのに、火に焼け、黒焦げになってしまえば、いったいなんの役に立つというのか。
(2〜5)

先ほどのイザヤ書の箇所と同様に、イスラエルが神に背き続け、不忠実であったことへの神の裁きを表現しています。

このように旧約では、救いようのないぶどうの木を神が見放した=エルサレムの崩壊、が語られ、ひたすらに「神に立ち返ること」の重要性が書かれてます。

一方で、新約におけるぶどうの木のたとえは「苦しみのシンボル」であると同時に、「希望の象徴」でもあります。

ヨハネ15章のタイトルは「イエスはまことの〈ぶどうの木〉」

わたしはぶどうの木であり、わたしの父は栽培者である。
わたしにつながれていて、実を結ばない枝はすべて、
父がこれを切り取られる。
しかし、実を結ぶものはすべて、もっと豊かに実を結ぶように、
父がきれいに刈り込んでくださる。

わたしのうちに留まっていなさい。
そうすれば、わたしもあなた方のうちに留まる。
ぶどうの枝が木につながれていなければ、枝だけで実を結ぶことはできない。
それと同じように、あなた方も、
わたしのうちに留まっていなければ、実を結ぶことはできない。
わたしはぶどうの木であり、あなた方は枝である。
人がわたしのうちに留まっており、わたしもその人のうちに留まっているなら、
その人は多くの実を結ぶ。
(1〜5)

できない、ダメなことだけでなく、どうすれば実のるか、どうすれば多くの実を結ぶことができるかが書かれているのが新約のイエス様の言葉なのです。

わたしたちは、この言葉に象徴されるような信仰心を日々鍛えることが必要だと思います。

実を結ぶ、それぞれにとってその意味は違うかもしれません。

わたしにとっての実りとは、
1番大切に思っている家族のためによりよく生きること。
1番大切にしている教え「何事につけ、人にしてもらいたいと思うことを、人にもしてあげなさい。」を努めて毎日行うこと。

自分なりの実を豊かに結ぶことのできるよう、日々を大切にしたいと思っています。

 

 

 

余談:ワインといえばフランス、というイメージの方が多いかと思いますが、イスラエルの北部は肥沃な土地で、ワイン栽培が盛んです。もちろん今でも多くのワイナリーがあり、とても美味しいワインを作っています。
カルメル山という名前はへフライ語で「神のぶどう園」という意味です。
買ってきたコーシャーワイン(ユダヤ人のみが栽培から収穫、瓶詰めまで全ての工程を行なったワイン)が我が家にまだありますが、現地で飲むのとはやはり味わいが違います。。。
イスラエルが恋しい!

 

暑さを乗りきる術

先週の久留米は、毎日体感気温が40度近かったですね!

日曜日の雨で、暑さが少し落ち着いてくれて助かります。

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この夏の間、立ち止まって休むことを覚えましょう。

携帯電話の電源を切って、他者の目をしっかりと見ましょう。
沈黙の時を持ち、自然を観想し、そして神との対話のうちに生まれ変わりましょう。
(マルコ6・30-34参照)

During summer time, let us learn how to take a break, turn off the mobile phone to gaze into the eyes of others, cultivate silence, contemplate nature, regenerate ourselves in dialogue with God.

2021/7/19教皇フランシスコ twitterより

このTwitterのメッセージ、ものすごく心に染みました。

 

2年前の8月、イスラエルに巡礼に行きました。

「暑い」という言葉では語れない日差しだったこと、生涯忘れられません。

 

 

標高400メートルほど(ただし、立地がマイナス400メートルの死海の西側)のマサダ遺跡の気温は、携帯の温度計で46度でした。

久留米の猛暑は湿度も高いため、家事などで汗をかくと肌がべたつき、不快な感じがしますが、イスラエルはカラッカラの乾燥状態なので、汗が流れながら蒸発します。

毎日一万歩くらい歩いて旅を続けながらいつも思っていたのは、「この気候をイスラエルの人々、イエス様たちも暮らしていたんだ」と言うことでした。

そう思いながら歩くと、意外と頑張れたのです。

暑い
きつい

そう思うのをできるだけ控え、なんのために歩いているのか、何をしにここに来ているのか、そのことに集中するように努めました。

皆さんと同じようには行動できないこともありましたので、無理をせずに時には立ち止まり、一人で立ちすくんで沈黙の時間を持つこともありました。

 

冒頭にご紹介した、パパ様ツイッターのおことば、手帳に書いていて毎日読んでいます。

☆ 立ち止まって休む

☆ 他者の目を見る

☆ 沈黙の時を持つ

何かせわしなく過ごしていると難しいことのように感じるかもしれませんが、どれも簡単にできることです。

わたしは6月から膝を痛めていて、歩くのも椅子から立ち上がるのも辛い日々が続いていました。

「パウロみたいにとげが与えられたんだわ。
何か思いあがってることはないか、よく考えてみよう!」

そう思って、このところずっと割とよく立ち止まり、沈黙の時間を持つようにしています。

「暑い、暑い」と口にしてバタバタしていると、余計に暑くなる気がしませんか?

立ち止まって、少しだけ沈黙を保ってみると、目に見える景色も聞こえてくる蝉の音色も違ったものに感じます。

今年の夏も、これからが本番です。

暑さに負けず、乗り切って元気に暮らすために、パパ様のこのメッセージを心に留めてみませんか?

 

 

感謝の気持ち

東京オリンピック・パラリンピックが始まりました。
ようやく実現しました!
久留米教会の「こどもとともにささげるミサ」もようやく実現しました。

式次第の順番は変わりませんが、多少言葉遣いが平易になっています。
来月からも毎月第4日曜日に予定されています。

いつの大会でも、開会式は一番の楽しみで見ています。

今回の式典も本当に素晴らしかったと思います。

久留米教会とは全く関係ありませんが(いつもですが。。。)、そして式典のテーマがどのようなものだったのかは存じませんが、わたしは式典の中の至るところに「感謝の気持ち」を感じ、胸が熱くなりました。

前日までハプニングやスキャンダラスな出来事が数多くあり、世論も(報道されている限りでは)盛り上がっていたとは言い難い、大変困難な状況でした。

それでも、オリパラの誘致から今日まで、どれほどの方々がご尽力されたか。

どれほどの方々が影で動かれ、矢面に立ち、携わられたか。

 

世界的に活躍されているアーティストの皆さんと並んで、エッセンシャルワーカーと呼ばれる方々がたくさん出演者として登場されていました。

そうした全ての皆さんに「ありがとう!」と心から感じることができる開会式でした。

そして、演出の随所に「ありがとう!」と世界中の方々にメッセージを発しているのを感じました。

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あなた方は神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、思いやりの心、親切、へりくだり、優しさ、広い心を身にまといなさい。
互いに耐え忍び、誰かに不満があったとしても、互いに心から赦しあいなさい。
主があなた方を心から赦してくださったように、あなた方もそうしなさい。
これらすべてのことの上に愛をまといなさい。

感謝の人となりなさい。
キリストの言葉をあなた方のうちに豊かに宿らせなさい。

言葉にしろ、行いにしろ、何かをする時は、主イエスを通して父である神に感謝しつつ、すべてを主イエスの名において行いなさい。
(コロサイ3・12〜17)

「どんなことにも感謝しなさい」と1テサロニケにもあるように、わたしたちキリスト者の信仰の基盤は「愛」「感謝」なのです。
人や物事の粗探しをする風潮がはびこっている現在だからこそ、私たちは「愛」と「感謝」の信仰を実践すべきなのではないでしょうか。

7月25日は、新しく制定された「祖父母と高齢者のための世界祈願日」でした。

84歳の教皇様は「 主は永遠であり、決して引退なさいません。決してです。」とメッセージの中で述べられています。

「兄弟愛と社会的友愛を持って明日の世界を、嵐の後にわたしたちと子どもと孫とが生きる社会を築くには、あなたが必要です。」

高齢の方々、もちろん、自分の親だけではなく地域社会の先輩方への敬意と感謝の気持ちを忘れないようにしたいと思います。

 

 

 

聖書とは

「聖書の中で好きなストーリーはなんですか?」

そう質問されて、何か物語を思い描き、人にそれを話し聞かせることができますか?

「聖書には何が書かれているのですか?」

そう質問されて、読んだことのない方にわかるように、シンプルな言葉で説明できますか?

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モーゼとアロンの物語が好きで、最近このオペラをよく聴いています。

わたしの好きな作曲家シェーンベルクの作品です。

 

元旦のミサで読まれる、祭司による祝福の箇所です。

主はモーセに次のように告げられた、「アロンとその子らにこう言え、『あなたたちはイスラエルの子らをこのように祝福して彼らに言え、
〈主があなたを祝福し守ってくださいますように。
主があなたの上にみ顔を輝かせ、顧みてくださいますように。
主があなたにみ顔を向け、平安を与えてくださいますように。〉』。
(民数記6・22〜26)

旧約聖書で1番古い「祝福」に関する文言だそうです。

わたしが好きな物語の一つである、ヤコブが兄のエサウから長子の祝福を奪い取った話がありますが、この物語にあるように祝福は一度与えられたら人間が撤回することはできない、とされています。

ある方は、ヨセフの物語が好きだとおっしゃってて、スラスラとストーリーを話されていました。

 

最初の質問。

「聖書の中で好きなストーリーはなんですか?」
「聖書には何が書かれているのですか?」

実話や神話が書いてある聖なる書物、ではなく、
聖書は「人間とは何者か」ということが書かれている本だ、と教わりました。

一冊の書物ではありません。

さまざまな時代や思想を反映して書かれた、そして加筆修正を繰り返し、その時代に応じてアップデートされた、神と人の関係についての記述を収めた名作集です。

実際に、聖書を読んでいると随所にそのことを感じることができます。

少なくともミサに与っていれば毎週、新旧の聖書を読んでいるのですから、聖書とは何が書かれている書物なのかを人に話せるといいですよね!

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毎週のごミサでの共同祈願、いつも思うのですが、「あ!そうそう、そう思っていた!!」という言葉が書かれています。
「そうなんだ、やっぱりそうだよね。」
いつもそう思います。

⭐︎ 自己の価値観を人に押し付け、敵意と分断をあおるような社会の中の動きを退け、神のみ心にかなう平和を実現することができますように。

⭐︎ 苦境にあえぎ、心のよりどころを見失っている人々を顧みてください。
  神のいつくしみによる安らぎと新たな希望で支えられますように。

そして、今日の宮﨑神父様のお説教の中の言葉。

「神の働きに信頼し、希望を失った人々に希望を与えられる存在でいるように。」

なんのために毎週ごミサに与っているのか熟考できる、とても充実した日曜日でした。

 

 

賛美と感謝

今は絶賛「ヨセフ年」の真っ最中ということ、覚えていらっしゃいますか?

昨年の聖マリアの祝日(12/8)から今年の12/8まで、各信者は聖ヨセフの模範に倣うことで信仰生活を深めるよう、この特別年が定められています。

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毎日の生活に疲れたとき、あなたはどうやってモチベーションを高めていますか?

ヨセフ様は、穏やかな献身的な愛情を持って日常生活を神へ捧げることで、日々の一見つまらないことでも喜びに変えられました。

以前もご紹介した、教皇フランシスコの新しい使徒的書簡「父の心で」にはこうあります。

ヨセフの喜びは、自己犠牲の論理にではなく、自分贈与の論理にあるのです。
この人には、わだかまりはいっさいなく、信頼だけがあります。
その徹底した口数の少なさは、不満ではなく、信頼を表す具体的な姿勢です。

 

コロナ禍でなくとも、単調な日常生活に不満やストレスを感じるのは仕方のないことです。
ヨセフ様のように、とはなかなかいきませんが、日常の小さなことに喜びを見出すことはそう難しいことではありません。

家事は家族のための犠牲ではなく、家族とともに心地よく暮らすため、ですよね?
仕事は仕方なく行うことではなく、与えられた役割を果たすことだと思います。

先週から、毎週日曜のミサの後に全員で教会の内外の清掃を行うようになりました。
先月までは「義務」として参加を呼びかけていて、結局いつも同じような数名のメンバーしか集まっていなかったのが事実です。

ところが今月から「一緒にやりましょう」と呼びかけたところ、大勢の方が気持ちよく、当たり前のこととして掃除を行うようになったのです。

 

「賛美と感謝を捧げましょう」

そうごミサで歌っていたのを覚えていますか?
(歌いたい!聖歌を大きな声で歌いたいです!!)

賛美とはどういう意味を持つのか。

神に犠牲として賛美をささげよ。
いと高き者に誓いを果たせ。
悩みの日にわたしを呼べ。
わたしはお前を救い、お前はわたしをたたえる。
(詩編50・14〜15 フランシスコ会訳)

告白を神へのいけにえとしてささげ、
いと高き神に満願の捧げ物をせよ。
それから、わたしを呼ぶが良い。
苦難の日、わたしはお前を救おう。
(同 新共同訳)

賛美、つまり告白とは、罪を神の前に告白し、いかに神がわたしたちを気にかけてくださっているかを讃えることです。
単に、告解して罪を許してもらうことではなく、神への信頼、神から信頼された人として生かされていることへの感謝を表すことではないでしょうか。

昨日の清掃風景が当たり前の日常となることが嬉しく、神父様に「こうして良かったですね!」とお話ししたら、「掃除だけでなく、新しいコミュニケーションの場にもなるだろう。」と

小さな喜びを見つけた日曜日でした。

 

 

 

日々の中のみ言葉

大谷翔平さん、藤井聡太さんの立ち居振る舞い、人との接し方や受け答え方を見ていると「どんなご家庭で育ったのだろう。きっと素敵なご家族なのだろうな。」と思ってしまう、ファンの一人です。

昨日のミサの聖書と典礼の最後のページに、「イエス様の支えは、彼を信仰と愛を持って育て彼の品性を養った家族、母マリアと養父ヨセフの日常にあった」ということが書いてありました。

どのような環境でどのような人に囲まれて育ったかは、身体に染み込んで行き、人格を形成する最も重要なことなのだと、2人の爽やかな青年を見るたびに感じます。

今月のパパ様カレンダーのことばにハッとさせられました。

他者に向かって自分を開くことは、決してわたしたちを貧しくしません。
むしろ豊かにします。
なぜなら、そうすることでわたしたちはより人間らしくなるからです。

自分を開くことは、わたしにとってそう簡単ではありません。
相手が望むように、自分が意図したとおりに気持ちが通うことの難しさを感じます。
それでも、あまり深く考え過ぎずに、素直な大人でいたいと思っています。

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「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
わたしは弱いときにこそ強いからです。

(2コリント12・9〜10)

この、有名で、感動的な、一度は実体験の中で痛感したことのあるであろうことば。
わたしは30年前の大病を患った時と、10年前に母が亡くなった時、このことばに救われました。

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たとえ、わたしが人間の異言、み使いの異言を話しても、
愛がなければ、
わたしは鳴る銅鑼、響くシンバル。
たとえ、預言の賜物があり、
あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、
たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、
愛がなければ、
わたしは何ものでもない。
たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、
たとえ、賞賛を受けるために自分の身を引き渡しても、
愛がなければ、
わたしには何の益にもならない。
(1コリント13・1~3)

このことばも、有名で、とても身につまされるものです。
偽善的であってはならないと言い聞かされます。

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わたしは死の影の谷を歩む時でさえ、災いを恐れない、
あなたがともにおられるから。
(詩編23・4)

影ができるということは、そこに光があるから。
死の向こうに光がある。
神が共にいてくださるという確信に満ちた詩です。

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神の業に目を凝らせ。
神が曲げられたものを、
誰がまっすぐにすることができようか。
順境の日には喜び、
逆境の日には反省せよ。
あれも、これも、神のなさることである。
それは、将来、何が起こるか、
人には見通せないからである。
(コヘレト7・13~14)

コヘレト、大好きです。
どこを読んでも、「もう、おっしゃる通りです!!」と言いたくなります。

 

相反する、時には敵対する相手であったとしても 、教皇様のおっしゃるように、平和という目標のために共に希望を持って祈ることができるのです。

わたしたち一人ひとりが平和の光を発する存在であるよう、日々の中にあるみ言葉を見逃すことなく生きていかなければなりません。

今年ももう半分が終わりました。
ごミサで宮﨑神父様がおっしゃったように、この半年の信仰生活を振り返り、半年後のクリスマスの自分を想像してみましょう。

今日いくつかここに書いた言葉は、日々の生活の中で出会い、手帳に書き留めておいたものです。
その時は「わかりました。そうであるように努力します。」と思ったはずなのに、、、、の繰り返しです。

でも、まだ半年あります。
「今年もお恵み溢れる一年でした。ありがとうございました。」
そう、締めくくれるように日々を大切にしていきたいものです。

 

 

今を生かす

初夏の陽気の中、皆さんとの久しぶりのごミサでした。

神学生、侍者も揃ってのごミサは清々しいものです。

ご聖体をいただくとき、「今週もこの共同体の一員としての働きをすることを誓います」と祈ってみました。

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昨日の第一朗読の知恵の書のことばは、とても考え深いものでした。

神が死を造られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。
生かすためにこそ神は万物をお造りになった。
世にある造られた物は価値がある。
滅びをもたらす毒はその中になく、陰府がこの世を支配することもない。
義は不滅である。
神は人間を不滅な者として創造し、御自分の本性の似姿として造られた。
悪魔のねたみによって死がこの世に入り、悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。
(知恵1・13~15; 2・23~24)

生かすために造られた。

フランシスコ会訳の聖書では、
「神は万物を存続させるために造られた。
この世に生じたものはすべて益となり、」
となっています。


旧約聖書には「天国」と言う概念はないそうです。
天国、つまり「死後の幸せ」という考え方が確立されたのはヘブライ思想の中間時代(旧約と新約の間の時代)なのだと本で読みました。

時はBC2世紀、シリアの支配下にあったユダヤ教徒たちの過酷な迫害の時代です。

多くの殉教者を出した当時のユダヤの人々の中で、信仰のために殉教した人々はかならず復活し、その死は他の者に救いをもたらすのだ、という思想がその当時に生まれたのだそうです。

この復活信仰が、その後の新約時代を通してイスラエルの民の間に根付いて行ったと考えられています。

 

聖書の中で最初にこの考え方が表現されたとされているのは、次のダニエル書の一説です。

多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
目覚めた人々は大空の光のように輝き、
多くの者の救いとなった人々は
とこしえに星と輝く。
(ダニエル12・2~3)

続く13節にはこうあります。

お前は最後までお前の道を行き、憩いに入りなさい。
その時の終わりに、定められた分を受けるために、お前は立ち上がるであろう。

「立ち上がる=復活」のことです。

大きな苦難に遭遇していた中間時代の人々は、ヤハウェが全世界の支配者であり全能唯一の神であるという考えに至り、同時に、天国、復活と言う希望ある信仰をも発達させたのです。

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私たち現代人にとっても、今のこの時代を「苦難」と捉えるか「誰かのせい」と不満を並べて日々を漫然とやり過ごすか。

どういった成果を生み出せるかどうかは、わたしたちの今の生かすかどうかで変わると思います。

生かすために造られたわたしたちとこの時代が、何を生み出すのか。
わたしたちには知りえない、遠い未来への遺産となるでしょう。

できることなら、「あの時代に生まれたのがこの思想である」という良きものを後世に残したいものです。

 

キリストのからだをいただく

緊急事態宣言の解除に伴い、本日21日からごミサが再開されました。

教会の門が久しぶりに開かれています。

ごミサに与っていない=ご聖体をいただいていない間に、ご聖体の意味について勉強する機会がありました。

ミサ(エウカリスチア)は「感謝の祭儀」です。
そのハイライトである聖体拝領(コムニオ)は、「communio 交わり・分かち合い」という意味です。

たとえ一人でごミサに参列しご聖体をいただくとしても、わたし一人がキリストのからだをいただく個人プレーではないのです。

大切なことは、ご聖体をいただくわたしたちが結び合い、助け合い、交わりを深めることなのです。

ごミサの意義は、それぞれが同時にキリストをいただき(食べ)、キリストのように生きていくことにより、共同体が変えられていく、ということなのだと教わりました。

その変化を共同体として実感できなければ、わたしたちが毎週ごミサに与る意味は大変希薄なものになると、学んだ今強く感じています。

 

先日、とても親しくさせていただいていた方の葬儀に参列しました。

葬儀ミサのなかでご聖体をいただきました。
本当にひさしぶりのコムニオでした。

いただくとき、「わたしが」ご聖体をいただくというより、神様に霊をお渡しになった故人、残ったご家族、参列している共同体のみなさんのことを想いながら噛み締めるように、心がけてみました。

今いただいたご聖体の意味を心の中で反芻し、このご聖体によって自分がどう変化していくよう託されたかを意識しました。

明らかに、これまでの聖体拝領とは違う感覚に浸りました。

 

今日書いた、わたしが教わったことを踏まえて1コリントの12章を読むと、違った景色が見えるようになりました。

一つの体と多くの部分

体は一つでも多くの部分があり、体のすべての部分は多くあっても一つの体であるように、キリストの場合も同じです。
実に、わたしたちはユダヤ人であれ、ギリシア人であれ、奴隷であれ自由な身分の者であれ、洗礼を受けてみな一つの霊によって一つの体に組み入れられ、また、みな一つの霊を飲ませていただいたのです。

神はお望みのままに、体に一つひとつの部分を備えてくださったのです。
部分はたくさんあっても、体は一つなのです。

体のうちでほかよりも弱いと見える部分が、むしろずっと必要なのです。

体のうちに分裂がなく、かえって、各部分が分け隔てなく互いのことを心し合うようにしてくださったのです。
それで、もし体の一つの部分が苦しめば、すべての部分もともに苦しみ、もし一つの部分がほめたたえられれば、すべての部分もともに喜びます。

あなた方はキリストの体であり、一人ひとりその部分なのです。

 

ご聖体をいただくとき、司祭から「キリストのからだ」と問われます。

☆ この小さなパンのかけらに100%キリストが現存しておられることを信じていますか?
☆ そのパンをいただいて、キリストのからだ=共同体を築く努力をしますか?

こう問われて、「アーメン」=「はい、確かにその通り、その通りにいたします」

そう毎週誓っていることを忘れてはいけません。

みなさんにとっても、この記事を読んだ後にいただくご聖体の意味がより深いものとなりますように。

 

あの日の誓い

教皇様が日本に来てくださり、長崎でごミサに与った2019年11月24日のことは皆様もいまだ鮮明な記憶として残っているでしょう。

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現在のコロナ禍においては信じられないような密集具合です。

当日の長崎県営スタジアムには3万人の信徒が集まり、パパ様のお姿に熱狂しました。

COVID19という正式名称は、コロナウィルス感染症2019の略です。
つまり、2019年のこの教皇様の来日の際にはもうウィルスがまん延を始めていたのです。
事実、このタイと日本への旅の後は教皇様は外国訪問を控えられ、2021年3月のイラク訪問が久しぶりの旅となりました。

このパパ様の訪日の目的として日本の司教団が意図していたのは次のポイントでした。

◆被爆地からの平和メッセージ
◆東日本大震災の被災者へのことば
◆若者へのメッセージ
◆諸宗教対話
◆福音宣教への鼓舞

これらのことが挙げられていました。

メインテーマとして掲げられたことば「すべてのいのちを守るため」は、回勅『ラウダート・シ』の中の祈りの言葉から引用されました。

すべてのいのちを守るために、人間一人ひとりの尊厳を守ることと同時に、環境も大切にしなければならないという教皇様のお考えを表していると思います。

現在のウィルスのパンデミックは、環境破壊の影響にも起因しているのかもしれません。
2016年に日本でも販売されたこの回勅で教皇様が警鐘を鳴らしていた問題の結果とも考えられます。

わたしたち皆がともに暮らす家である地球は、身勝手な人間の暮らしによって蹂躙されています。
その苦しみが未知のウィルスとなってカタチとなり湧きあがり、瞬く間に広まり、皮肉にも「わたしたちの暮らす星はひとつ」であることを今さらのように思い知らされています。

ウィルスの脅威は、経済、環境、他国との関係といった多くの問題、これまでも世界が抱えていた問題をより大きな規模でわたしたちに突きつける結果となっています。

 

教皇様の来日を単なる思い出、スーパースターを生で目撃したあの日、といった記憶で眠らせていませんか?

あの日、わたしたち信徒は誓ったはずです。
キリスト者としての自分の使命を、各々が様々な形で心に浮かべていたはずです。

わたしの誓いは、少しずつですが、努力して継続しています。

 

 

中央協議会から、訪日公式記録集が発行されました。
大人買い(箱買い)しました。

 

あの日の誓いを思い起こすためにも最適なツールです。

なのよりも、全く聞き取れなかったスペイン語でのお説教や、全日程の中で各所でお話になったこと全てが翻訳されて掲載されていますので、ゆっくりとパパ様のお話を読むことができます。

ぜひこの機会に、1年半前の記憶を呼び覚まし、あの日のパパ様への誓いをさらに強い決意としてみませんか?

 

教皇フランシスコ、長崎へ。(2019.11.25の記事)
http://www.kurume-catholic.jp/blogs/blog_entries/view/11/763b7816f574e7f187df6ce9701066d2?frame_id=16

 

互いを認め合う世界

台湾へのワクチン提供に関する一連のニュース、涙が出ました。
純粋なお互いへの思いやりだと信じたいと思います。ワクチン外交などという報道もありましたが、、、。

宗教間、人種間の対立が世界各地で長い間続いています。
わたしはよくNetfrixで外国のドラマを観ますが、偶然なのか現在の世界情勢を鑑みた意図で配信が多いのか、最近よくイスラエル発のドラマが目に留まります。
イスラエルが製作しているので仕方ありませんが、例えばイラクへの諜報活動が正当性をもって描かれていたり、ハマスが起こす終わりのないテロへの闘いであったり、ハラハラドキドキで(誤解を恐れず書くと)面白いドラマばかりです。
ですが、ハリウッドのありえない設定のアクション映画と違い、おそらくかなり現実に近いストーリーばかりでしょう。

 

除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。
「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。
『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
(マルコ14・12~16,22~26)

 

オリーブ山の上から見たエルサレムの神殿です。
建物は違ったとしても、山から神殿を望む眺望はイエス様が目にされた様子と同じはずです。

 

キリスト教徒がイエス様が過ごされたとして大切に考えているオリーブ山は、ユダヤ教徒にとっても最後の審判の日に神が現れ、死者がよみがえる場所とされている聖地です。
左に並んでいる石棺はユダヤ教徒の墓で、右奥に見えるのはイスラム教のドームです。

 

 

ここがその場所であると言われている最後の晩餐の部屋の南側の壁には、イスラム教の聖地・メッカの方角を示すミハブ(Mihrab)があります。
(上の写真の壁の窪み) 

ユダヤ教の聖地のひとつに数えられているダビデ王の墓(King David's Tomb)の上の階にあります。
(下の写真がその墓。ユダヤ教の聖地なので、男性はキッパか帽子、女性はスカーフで頭を覆う必要がありました。)

実際には十字軍の時代に再建された部屋ですが、わたしたちキリスト教の信者が聖地だと思っている建物は、ユダヤ教徒にとってもイスラム教徒にとってもそれぞれの重要な意味が交差する聖なる場所なのです。

 

同じようなことは聖書のあちこちに見ることができます。
例えば、フランシスコ会訳の聖書のコヘレトの解説を抜粋してみると。

「古代ユダヤ教とキリスト教の伝承は、ソロモン王を著者としてきた。今日では、彼の時代のものではなく偽名を用いて書いたものと考えられている。
本書が書かれたのは、前250年から前200年までの間である。パレスチナの植物やエルサレムの街と神殿の描写からして、パレスチナで書かれたと考えられる。」

パレスチナという国は現在の世界地図にはありません。
イスラエルの中では、パレスチナ自治区は壁で覆われています。

バベルの塔を建設しようとしてバラバラの言葉で世界に散らされることになった 人間は、もう一つになることはできないのでしょうか。

ひとつの聖地を奪い合い、歴史的対立を繰り返しています。
この人間の争いに終わりはあるのでしょうか。

イスラエル、とくにエルサレムの城壁で囲まれた旧市街は3つの宗教の聖地という意味で大変貴重な存在です。

互いを認め、互いの宗教を尊重してきたからこそ世界中から人々が安心して巡礼に訪れていたのです。

イスラエルが世界平和の象徴となることができれば互いを認め合う世界が実現するかもしれない、というのは単純すぎる夢ですが、巡礼で訪れたものの願いです。

 

父を信じる教え

併設する聖母幼稚園の園児たちによって、聖母祭が静かにお祝いされました。

緊急事態宣言の延長に伴い、久留米教会の閉鎖期間も6月20日まで続くことになりました。

そうした中,こうして園児たちが教会で祈りの時間を教えてもらっていることはとても嬉しいニュースでした。

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よくここに、教皇様のメッセージをご紹介させていただいています。
以前、どのようなことを書いていくかについて宮﨑神父様とお話していた時に
「教皇がどのようなメッセージを発信しているか、ぜひ紹介してみなさい。
教皇の考えや教えを信徒が知ることも大切なことだから。」
そうおっしゃったことがきっかけです。

 

教皇フランシスコが5月24日、バチカンの広報省・バチカン放送局を訪問、というニュースがありました。

「この席で教皇は、教会のメディアの仕事に関わる人々に感謝を述べ、どれだけ多くの人にイエスのメッセージが届いているかを常に意識しながら、これからも仕事に励んでほしいと述べられた。」

わたしはイエス様のメッセージを発信する末端に過ぎませんが、こうして情報を発することの責任を痛感させられました。

 

シラ書の51章とマタイの28章はとても好きな箇所です。
今週の聖書朗読の部分です。

わたしは、あなたの名を絶え間なくたたえ、
感謝をこめて賛美の歌を歌おう。
わたしの祈りは聞き入れられた。
あなたはわたしを滅びから救い出し、
苦難から助け出してくださいました。
それ故、わたしは、感謝をこめてあなたをたたえ、
主の名をほめたたえよう。
(シラ書51・11~12)

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そのとき、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
イエスは、近寄って来て言われた。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
(マタイ28・16~20)

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シラ書が書かれた背景にはバビロン捕囚という最大の艱難が。
福音書の背景にあるのはイエス様の教えを全世界に広めるという使命が。
そして今日、わたしたちには苦難が与えられ、忍耐と優しさが求められています。

信仰があるだけでは克服できません。
身近にいる信頼できるキリスト者、司祭、教皇様の教えに耳を澄ませましょう。

父を信じる教えに耳を傾けましょう。

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良い時も悪い時も、どんなときにも神を賛美することができることを、聖人たちはわたしたちに教えてくれます。
神は忠実な友だからです。
神は忠実な友であり、神の愛は決して弱まりません。
これこそが賛美の基盤です。主はつねにわたしたちの近くにおられ、待っていてくださいます。
「主はあなたの近くにおられ、あなたが自信をもって前進できるようにしてくださる守り手です」と言う人もいます。
困難に見舞われ、暗闇に覆われた時には、勇気をもってこう言いましょう。
「主よ、あなたがたたえられますように」。
主を賛美しましょう。それは、大いに私たちのためになることです。
(教皇フランシスコ、2021年1月13日一般謁見演説より)

 

Be like St Joseph.

つつましやかな聖家族に倣って、心の貧しいものとしての真の幸せを、父なる神を通して再認識する必要があります。

ヨセフ様がご家族のために捧げられた生涯には、いつも神への純粋な信頼がありました。

ヨセフ様のように生きることができますように。
ヨセフ様が大切にされたマリア様の心のように、いつも誰にでも優しくあることができますように。
イエス様の教えを信じることを喜びとして今日も過ごせますように。

 

霊を渡すまで。

コロナ禍において、世界中の人々の様々な生活様式が大きく変わりました。

ミサの在り方もそのひとつですね。

誰もいないお御堂です。

わたしはどうも「youtubeでごミサに与る」というのがしっくりこないのですが、先日お話したおばさまは、
「以前は、決まった祈りの言葉を口にして、聖歌を一生懸命に歌って、という感じだったけれど、今はパソコンの前でごミサに与り、神父様の動きひとつひとつの細部までじっくりと見ることができて新しい発見があるのと、いろいろな教会のミサに与れるのが嬉しい。」
とおっしゃっていました。

もうひとつ、わたしがよく感じるのは葬儀の執り行い方についてです。

仕事の関係上、「訃報」の連絡がファックスで届くのですが、この1年は決まって「なお、通夜葬儀はすでに近親者で執り行いました。ご供花、ご香典などは固く辞退申し上げます。」と書いてあります。

以前であれば、会社の代表者が亡くなられた際は、大きな広い斎場で多くの参列者が一堂に会し、並んでお焼香や献花をしていました。

わたしが最近参列した葬儀では、「お焼香は13時から随時ご自由にお願いいたします」とご案内がされ、会場に同時間に人が集まることはありませんでした。

お別れの仕方が変わったのです。

 

生き物はみな、ふさわしい時期に、
あなたが食べ物を配られるのを待っている。
あなたが与えられると、彼らはそれを集める。
あなたが手を開くと、彼らは善いもので満たされる。
あなたが顔を隠されると、彼らは慌てふためく。
あなたが彼らの息を取り去られると、
彼らは死んで塵に戻る。
(詩編104・27~29)

 

息を取り去られる、つまり神様が与えられた息(創世記2・7)を「引き取られる」のが死であると考えられていました。
命は神から与えられ、神はそれを引き取ってくださる。

このことを噛みしめて考えると、死は「無」ではないということがよく理解できます。

 

イエスは酸いぶどう酒を受けると仰せになった、「成し遂げられた」。
そして、頭を垂れ、霊をお渡しになった。
(ヨハネ19・30)

 

生きるということは、神に与えられたこの世を成し遂げたと思えるように生き、
死ぬということは、神にその霊を渡して引き取ってもらうということです。

霊を神様に渡すまで、よりよく生きるために今自分に何ができるかを最近よく考えています。

与えられた生を成し遂げた、と思える生き方をしたいものです。

 

先日、久留米教会で行われた葬儀に参列した方がおっしゃっていました。
「ご家族とごく近しい友人たちだけのお式だったけど、こういう静かなお別れの会もいいな、と思った」と。

俳優の田村正和さんが亡くなられた際の報道にありました。
「俳優としての人生に悔いはない。やり尽くしたと思っている。」と彼がおっしゃっていたそうです。
羨ましい生き方です。

亡くなった母が大大大ファンでしたので、今頃天国で先輩風吹かせて、あれこれお世話したり案内したりしているのではないかと考えてクスクス笑っています。

 

聖母月だから、とマリア様にお花を捧げてくださった信徒の方、ありがとうございます。

 イスラエルとパレスチナの平和のためにもお祈りしましょう。

 

混沌から平安

今年はとても早い梅雨の季節となりました。
自然の営みには驚かされます。
我が家でも、はやくも紫陽花がとても美しい。
(知ってたのか?!もう自分の季節が来たことを!と思わず口にしたわたし。)

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初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
(創世記1・1~2 新共同訳)

聖書のこの有名な出だしの一文は、地の混沌とした状態は神の創造行為の後にできたように理解されています。

しかし、現在のヘブライ聖書学者たちは「神が天地を創造され始めた時、世界は混沌であった」という訳を支持しているそうです。
つまり、『混沌からの創造』であり、全ての物事は神に抗うことのできる自由意思を持つのだ、と言うのです。

たしかに、なるほどだからこんなに人間とは成長しない愚かな存在なのだ、、、とも思えてきます。

良きものとして創造されたのに、自由意思をはき違えてしまう歴史を繰り返す生きものです。

先月からのイスラエルの、まさに混沌とした、戦争ともいえる民族間の争いに心が苦しくなります。

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聖書学者の本多峰子さんによると、プロセス神義論では「この世にある悪や人間の苦しみを神ご自身が自己のうちに感じ、神が人間の苦しみを共に担って共に苦しんでいると考える」のだそうです。

神義論とは、簡単に言うと「神が全能であるならなぜこの世に悪や悲惨な出来事があるのか」ということを突き詰めて、神の義を証しするものです。
とても興味のある問題であり、本多峰子さんの論文などをいろいろと読んでみましたが、結局「結論の出ない学問」であると言えるものです。

少し乱暴な言い方になりますが、「悪や災害、苦難の責任が神にあるのか?!」という問いには「とんでもない」と、信仰のある者であればそう思えるのではないでしょうか。

それでも、あまりにも悲惨な体験をしたりやり場のない感情に押しつぶされると、「どうしてですか?」「神はいないのか!」という気持ちになるのは当然でしょう。

神様のせいにしたら、少しは気が晴れるでしょうか。
そうですね。
神様はわたしたちの気持ちに応えて寄り添ってくださるので、少しは気が晴れます。

ですが、誰かのせいにしたら、気持ちが軽く楽になるでしょうか。
誰かを非難したら、問題が解決したり前進するでしょうか。

そういう気持ちになりそうになった時はいつも、混沌とした世の中の安易な波にのみ込まれないように、心の平安を求めて周囲にも良い香りを漂わせたいと思うようにしています。

先日お話したあるご高齢の神父様がおっしゃっていました。

「わたしたちは、こんなに愚かな国民性ではなかったはずだ。
今のニュースを見聞きしていると悲しくなる。」

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「神様、どうか混沌とした現在の世の中と人々の心を静めてください。

わたしたちの今日が、他者を非難することではなく、聖霊のとりなしを願う1日となるようお導きください。

世界中が一致協力してひとつの問題解決に取り組めるよう、指導者たちにより良い英知をお与えください。」

フィリポはナタナエルに、メシアと会ったことを伝えます。
その友は「ナザレから何かよいものが出るだろうか」といって、信じようとしません。
フィリポはことばを重ねて説き伏せようとはせずに、「来て、見なさい」といいます。
ナタナエルは行って、見ます。
そのときから、彼の人生は変わります。キリスト者の信仰はこうして始まるのです。
伝聞ではなく実体験で、じかに得た情報として伝達されるのです。
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。
わたしたちは自分で聞いて、分かったからです」――イエスが滞在した村の人々は、後にサマリアの女にそういいます。

この時代においても、社会生活のあらゆる場面で、商業においても政治においても、いかに中身のない弁舌が氾濫しているかを考えてみましょう。

主よ、教えてください。
自分の内から出ること、
真理を求めて歩き出すことを。
来て、見るよう教えてください。

聞くこと、
偏見を深めぬこと、
結論を急がぬことを、教えてください。

だれも行きたがらないところへ行くこと、
理解するために時間をかけること、
本質的なものに目を向けること、
うわべだけのものに惑わされぬこと、
真理とそれと見まごうものとを識別することを、教えてください。

あなたがこの世におられることに気づけるよう、恵みを注いでください。
見たことを人に伝えるために欠かせない、誠実さをお与えください。

教皇フランシスコ 5/9世界広報の日のメッセージより抜粋

 

わたしがお伝えしたいと思っていることを、いつも明確なメッセージとして発してくださる教皇様です。

今日も心に平安を。
わたしたちに平和と一致をお与えください。

 

気にかけてくれる存在

久留米市の感染状況の増減に一喜一憂していたのですが、とうとう3回目の緊急事態宣言が発令されることになりました。

久留米市もワクチン接種の予約が始まっています。

ウィルスが消えてなくなることはないでしょうが、各人が自分にできる対策をとることはできます。

またミサが再開される日まで、静かにロザリオの祈りと共に心穏やかに過ごしましょう。

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皆さんは普段から「気にかけている人」がいらっしゃいますか?

離れて暮らす子ども
コロナ禍でしばらく会えないでいる親兄弟
大切な友人

お正月に家族が一堂に会し、たまに孫たちが訪ねてきて、仲間たちと集まって飲み会をする。
いまでは懐かしい過去の習慣ですね。。。

コミュニケーションの遮断ともいえる日常が当たり前のようになって、もう1年以上になりました。

わたしの場合、人との交わりの機会が8割は減ったように思います。

いまではすっかり、人との距離間が変わってしまいました。
例えば、スーパーなどで後ろに並ぶ方との距離が近いとそわそわしてしまいます。

 

そんな、人との距離が離れてしまった現在だからこそ、誰かのことを気にかけること、人との繋がりを大切にしたい、と考えるようになりました。

若松英輔さんがおっしゃっていたように、「交わりと繋がり」は違うものですね。

妹たち家族にはずっと会えていませんが、彼女たちとはテレビ電話でしょっちゅう連絡を取ることができます。
交わることはできないけれど、いつも繋がっていることを感じます。

 

気にかけている人が元気に過ごしているか。

もしも思い当たる方がいらっしゃれば、このあと電話してみてください。

わたしたちと気にかけている人を結びつけているのは聖霊の働きです。
わたしたちと神様を結びつけているのと同じ聖霊の働きです。 

心身ともに健康であるために必要なことは、規則正しい生活と誰かに必要とされていると感じること、あるいは、誰かに気にかけてもらえていると実感すること、そう思うのです。

イエス様とマリア様、もちろんヨセフ様がいつもわたしたちを気にかけてくださっているように、聖霊の導きに従って周囲の人を気にかけることはすなわち、誰かが自分をいつも気にかけてくれているということなのです。

 

 

5月の聖母月の間、「祈りのマラソン」として世界五大陸の30聖堂にわたりロザリオの祈りが中継されています。
これは教皇様の希望で、すでに一年以上世界を苦しめているパンデミックの収束を願って繋げる目的で行われているものです。

5月1日のバチカンでの教皇様によるロザリオの祈りから始まり、21日(金)には長崎の浦上教会の被爆マリア像を前に祈りの中継が行われる予定です。

 

 

https://youtu.be/4Rb7_WdNlZY

 

 

ひとつのメッセージ

久留米でも感染者が大幅に増加しています。
皆様も十分にお気をつけになっているかと思いますが、どうぞ外出の際の手洗い、手指の消毒といった基本的なことをしっかりとお守りください。

世界のワクチン接種状況、というニュースを見ました。
「日本は〇〇か国中最下位」といった報道は、見ていて悲しくなります。
こうしたネガティブな情報は取り入れてもあまり良いことはないと思うのですが、このニュースをみていてある映画を思い出し、久しぶりに観ました。

ARRIVAL(邦題は「メッセージ」)
2016年のアメリカ映画です。

宇宙から謎の物体が世界の12都市に現れ、エイリアンが何の目的で地球に来たのかを12か国がそれぞれのやり方で探ります。
最初は、zoomのようなシステムで12か国が連携して情報をやり取りしながら協力関係を構築しつつありました。
しかし次第に、それぞれの思惑や価値観の違いでお互いが情報を出し渋るようになり、ある国は武力行使を決定したりとその協力関係が壊れていきます。

最終的には、主人公である言語学者のある言動をきっかけに、12か国の連帯が再度生まれ、エイリアンの目的を解読します。
その目的は「地球人(地球全体)の連帯」だったです。
(その目的には理由があるのですが。)

主人公はエイリアンの言葉を解読し、「Universal Language / 世界共通言語」として確立させ、地球共通の言葉として広めていきます。

まさに、いまわたしたちの生きている現在の地球のことを表現しているような映画なのです。
ネタバレを書いてしまったのですが、音楽も映像も本当に美しく、わたしの拙い文章では伝わらない感動的な映画です。
ぜひご覧いただきたい作品です。

わたしたちの生きる今の世界は、自然(神様)からのこの(パンデミックという)メッセージを読み誤っていないでしょうか。

世界が連帯してこの現実に向き合っていけているでしょうか。

わたしたちは聖書というUniversal Languageを持っています。

いつの間にか自分たち(国、人種、宗派など)に都合のいいように解釈し、同じ聖書を読みながらもバラバラの言葉を話し意思疎通が出来なくなっているかのようです。

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3/11付けで発表された日本カトリック司教団のメッセージです。

今、コロナ禍にあって、世界は『すべてのいのちを守るため』に連帯しています。
教皇フランシスコは対立と分断、差別と排除、孤立と孤独が深まる現代世界にあって、助けを必要としている人、孤立し、いのちの危機に直面している人のもとへ出向いていこうと呼びかけます。
あの未曾有の災害に襲われたとき、わたしたちは、人間の知恵と知識の限界を感じました。
自然の力を前に、どれほどわたしたちが弱いものであるかを知りました。
そのときわたしたちは、互いに助け合うことの大切さ、いのちを守るために連帯することの大切さ、いたわりの心の大切さを、心に刻み込みました。
大震災 10 年の今、世界はまさしくその大切さを思うことを必要としています。
(カトリック中央協議会 会報4月号掲載)

 

4/22のEarth Dayに教皇さまが出されたメッセージです。

「今日、地球全体で共有している新型コロナウイルスによるパンデミック問題もまた、わたしたちの相互依存関係を明らかにすることになった。」

環境保全そしてパンデミックへの対応という二つの大きな急務の課題に、皆が一体となって努力する必要があることをあらためて強調されました。

同じ一つの星に生きていることを思い知らされたパンデミックという現実。
「皆=地球全体で取り組まねばならない」と、自然界がわたしたちにひとつのメッセージを寄せている気がしてなりません。 

 

子どもたちへの福音

昨年、宮﨑神父様は毎月第4日曜日を「子どもたちと共に捧げるミサにする」とお決めになり、準備をされていました。
感染症対策でごミサが中止になったり、いろいろな制約で子どもたちの参列が減ってしまったこともあり延期になっている子どもミサ。

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今月こそは開催できる!と日曜学校の先生方と、誰に聖書朗読をお願いする?とワクワクしていたのですが、久留米でのコロナウィルス感染者が急増してきたことで、今月も中止になってしまいました。

久留米教会は子どもたちのミサへの参列が多く、それが自慢の一つでもありました。

しかし昨年からのこの事態の中で、仕事上の影響を考えてミサへの参列を控えていらっしゃるご家庭も少なくないため、子どもたちも少なくなっていることはとても寂しい状況です。

日常が以前のような状態に戻るとは思いませんが、教会に子どもたちが戻ってきてくれることだけは願いたいと思います。
大人たちがもっとしっかりしなくては。

 

お中元・お歳暮などでいただいたけど食べないもの
まとめ買いしてしまったけど余っているもの
そうした食品などを持ち寄り、必要としている方々に届ける活動が、フードドライブです。

 

1960年代にフードドライブが盛んになったアメリカでは、食品以外にも「Paper Drive(古紙回収)」や「Book Drive(本の寄付)」「Toy Drive(おもちゃの寄付)」「Clothing Drive(衣類の寄付)」「Uniform Drive(着なくなった制服の寄付)」「Blood Drive(献血)」など様々な「ドライブ」、つまり寄付活動があるそうです。

フードバンクという言葉もご存知かもしれません。
フードドライブの違いは、参加対象です。
フードバンクは、例えばエフコープなど、企業が食品ロス削減のためにも食品などを提供します。
一方、フードドライブはわたしたち一般個人が家庭のものなどを提供します。

久留米でもフードドライブの活動が数年前から行われており、久留米教会には毎月第4土曜日にメンバーが集って受け付けています。

食品だけではなく、タオルや粉ミルク洗剤といった日用品も持ち込まれていました。

カトリック久留米教会、久留米と鳥栖のプロテスタントの教会と仏教のお寺に持ち寄られた品を一箇所に集めて仕分けし、毎月必要とされている個人にお届けされています。

 

 

4月から久留米教会で司牧実習に来てくれている、笑顔が素敵な池田裕輝神学生(神学科の1年生!)です。

29日には、久留米教会に司牧実習に来てくださっていた古市助祭の司祭叙階式が東京のカテドラルで執り行われます。

近しくしてくださっていた神学生の召命による叙階。

大人たちのフードドライブの活動。

若い神学生と過ごし、学ぶ日曜学校。

そうしたこと全てが子どもたちの信仰生活へのよい励みになるはずです。

・・・・・・・・・・・・・・・

教皇様は25日にバチカンでローマ教区の司祭の叙階式をとり行われました。
出身や経歴も様々な9人の助祭が司祭に叙階されました。
バチカンニュースに掲載されていた、9人の召命について書かれていた記事がとても興味深かったのでご紹介します。

https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2021-04/il-papa-ordinera-sacerdoti-per-la-diocesi-di-roma.html

 

「復活」による変化

信者ではない友人から「クリスマスよりもイースターのほうが重要って、どうして?」と質問されました。

ご復活の意味について説明するのは難しいですね。

旧約聖書の預言者たちは「主に立ち返れ」と繰り返し人々を諭している。
それでも、主を忘れ、主に背き、罪から逃れられないのが人の常である。
その救い主として生まれ、十字架につけられ、死んで復活したイエス様。
救い主が生まれたことがめでたいのではなく、死んで復活してくださったことが救いなのだ。

この説明は間違っていないと思うのですが、こう言っても友人は「?」という顔をしていました。

 

復活したイエスは、何度か弟子たちの前に現れ、忍耐強く彼らの不信を解くことで、いわば「弟子たちの復活」を行い、こうしてイエスによって再び引き上げられた弟子たちは、これまでと違う人生を歩み始めることになった。

弟子たちは、これまで主の多くの教えに耳を傾け、多くの模範を目撃したにもかかわらず、自分を変えることはできなかった。

しかし、イエスの復活は彼らに新しい何かをもたらし、彼らを変えた
それはいつくしみのしるしのもとに起きたことであった。

イエスは弟子たちをいつくしみによって引き上げ、「いつくしみを与えられた者」になった彼らは、今度は「いつくしみを与える者」に変容された。

4/11「神のいつくしみの主日」の教皇様のお説教より

教皇様のこのお説教はとても分かり易く、なるほどと深くうなずけます。

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先週書いた、マグダラのマリアの感動的な復活体験。

マグダラのマリアがイエス様の墓が空になっていたのを見た時のこと。
(ヨハネ20・11〜18)

「マリア」と名前を呼ばれた彼女は、振り返って「ラボ二」と答える。
これは、イエス様のご復活というよりも、マリアの復活体験の瞬間でした。

イエス様は、死の後に「生き返った」のではありません。
写真にとれば一緒に写るような、身体の蘇りをなさったのではないのです。

「私は主を見ました」

そうマリアは弟子たちに告げますが、幽霊を見たのではなく、イエス様は自ら「現れ」て弟子たちに「ご自分を見せられた」のです。

ご復活の出来事は、イエス様が弟子たちに現れてくださったという、弟子たちの復活体験に基づいているのです。

弟子たちはイエス様を裏切り、逃げて、十字架の足元にいたのは女性たちとヨハネだけでした。
それでもご自分を現わしてくださった主の愛と赦しを身に受ける弟子たち。

彼ら自身がその復活体験を通して、命をかけて福音を宣べ伝える人に造り変えられます。
自分の惨めさ、醜さを直視させられ、しかもそういう自分を圧倒的な愛で包んでくださる主を体感した弟子たちは、もう畏れるものはなにもありませんでした。

これが、キリスト教の信仰の根源です。

復活体験によって造り変えられた弟子たちの信仰がなければ、2000年以上もこうして福音が宣べ伝えられ続けることはなかったのです。

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わたし個人としては、20歳で洗礼を受けましたが、今思い返せばそれは復活体験ではありませんでした。
確かに洗礼で生まれ変わりましたが、わたしに神様が現れてくださったのは、20年後、母が亡くなった後でした。

自分の罪を直視し、我に返ったのです。
マリアが名前を呼ばれた時のように。
それからは、問題が起きて迷ったり困っているときなどに、神様と母がわたしに何を望んでいてどう歩んでいくべきかをさし示してくれているのを感じ取ることができるようになりました。

どなたにも、キリスト者としての復活体験がおありだと思います。
その時のお気持ちを、どうか思い返してみてください。 

復活とは、「立ち上がる」「起き上がる」ということなのです。
神様との間にあった障壁のような、さえぎっていたものが取り払われる体験のことです。

わたしたちには、いつでも神の愛によって立ち上がることができる機会が与えられています。

それが信仰なのではないでしょうか。

わたしたちは、このことの証人です。
(使徒3・15)

 

生きていくちから

池江璃花子さんのことを検索すると、「池江璃花子の名言集」というサイトがたくさん設けられているのがわかります。
病気を公表した18歳からこの2年間に彼女が発した「名言」がたくさん紹介されています。
その中でも有名なのは、次のことばでしょう。

私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、
自分に乗り越えられない壁はないと思っています。

彼女がクリスチャンなのかは分かりませんが、こういうことばが身に染みていて、それが染み出してきたのでしょうか。
彼女は神様に選ばれたのだと思えて仕方ありません。


ヴィクトール・フランクル博士の本を読みました。

『それでも人生にイエスと言う』

 

 

1946年の講演の内容をもとにしてまとめられた本です。
1946年とはつまり、彼がナチスの強制収容所から解放された翌年のことです。

自殺する一番いい方法はなにかという問題に考えが向くと言っても不思議に思う人はいないでしょう。
実際、このような状況ではたぶんだれだって、一瞬であっても、「鉄線に飛び込む」ことを、つまり自殺を考えてみるでしょう。
しかし、わざわざ自殺を決意する必要がないことがわかります。
遅かれ早かれ、「ガス室に入れられ」ないですむ平均的確率がきわめて低いという状況では、自殺しようとすることはむだなことだからです。

「もう生きていたくない」と言う知り合いを励ましたことがあります。
心の中では「どう励ましたらいいのか見当がつかない」と思っていたのですが、口では「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」と。

2人の息子を相次いで癌で失ったその方は、生きている意味が分からないと、涙さえ出ないほど憔悴されていました。

実際にわたしが彼女を励ますことができるはずもなく、ただただ寄り添い、家族を亡くした方に言うわたしの言葉「天国の先輩であるうちのママがお世話してくれるから安心して」と伝え、たわいもない話をしに行く。

そうすることしかできませんでした。

ですが、次第に自然と、彼女は生きるちからを取り戻されたのでした。

わたしもそういう経験をしたからわかるのですが、生きていくちからは内面で育まれていくのです。
誰かに励まされたから、素晴らしいお話を聞いたから、そういうことから突然みなぎるものではありません。

自ら染み出してくるまで待つのです。

 .

「死は生きる意味の一部である」

◆苦難と死は、人生を無意味なものにするものではなく、むしろ、苦難と死こそが人生を意味あるものにするのだ。
◆人生に重い意味を与えているのは、この世での人生が一回きりだということ、私たちの生涯が取り返しのつかないものであること、人生を満ち足りたものにする行為も、人生をまっとうしない行為もすべてやりなおしがきかないということにほかならないのだ。

◆生き延びたことを、身に余る恩寵としか考えられなかった。
◆その恩寵にふさわしいものになり、すこしでもそれに見合うようになる義務が、死んでいった仲間に対してあるように思われた。

こう、フランクル博士はおっしゃっています。

最初にご紹介したように、この内容は強制収容所での体験からそう月日が経っていない時に語られたお話なのです。

この本のタイトルである「それでも人生にイエスと言う」という言葉は、収容所時代に囚人たちが作って歌っていた歌の歌詞なのだそうです。

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池江璃花子さんの様子をみて感動し、フランクル博士のことばに深くうなずく。
それらが糧となり、生きていくちからの肥やしとなります。

生きるということは人生を楽しむことではない、とここのところよく感じます。
池江さん、フランクル博士ほどの体験をしていなくても、生きていくことは時には困難が伴います。

 

マグダラのマリアがイエス様の墓が空になっていたのを見た時のことです。
(ヨハネ20・11〜18)
泣いていた彼女に
主の使いが「なぜ泣いているのですか」
イエス様が「なぜ泣いているのか」
そう尋ねられます。

「マリア」と名前を呼ばれた彼女は、振り返って「ラボ二」と答える。

これは、イエス様のご復活というよりも、マリアの復活体験の瞬間でした。
一度復活を体験した人は、強い。

 

生きていくちからを耕して耕して、陽の光と水を得て、心と身体を健やかに整えましょう。

生きていくちからを内面で育てていく毎日を、生きることを楽しみましょう。

人間の犯す罪

主の御復活、おめでとうございます。

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ミャンマーで起きていることを、皆様はどうご覧になり、どういう思いを抱き、どんな風に考えていらっしゃるでしょうか。

教皇様の発表されている談話をすべて追えているわけではないのですが、ヴァチカンニュースにはこの1か月、教皇様からミャンマー情勢についてのご発言は紹介されていません。

ミャンマーのヤンゴン大司教のボ枢機卿は2月4日付で公式なメッセージを出されています。

ボ枢機卿は3/23には、治安部隊による弾圧について「暴力を使った抑圧には非暴力で応えていくように」と、抗議デモに参加する若者たちに呼びかけられました。

アジア出身の12人の枢機卿は連名で、クーデターを起こした国軍、ミャンマーの政治指導者、抗議デモの参加者、全ての宗教指導者、カトリック教会に対して、「平和」の重要性を訴える声明文を公表されています。

しかし、現実は悪化の一途を辿っています。

教皇や枢機卿のメッセージは葬られたかのように、暴力はエスカレートするばかりです。
国際社会は、経済制裁しか打つ手がないかのように、非難はすれど無力を露呈しています。

なぜ人間はここまでの悪を犯すのでしょうか。

他国と戦争しているわけでも、民族間の紛争でもなく、軍が自国の国民を殺戮しつづけるというこの事態をニュースで追うたびにこみ上げる無力感。

ヘイトクライム(憎悪犯罪)も多発しています。
ショッキングだったのは先週起きたNYでの事件。
この前まで黒人への暴力が社会問題だったのに、黒人男性がアジア人女性を蹴り飛ばし、目撃していた誰も止めることも助けることも、通報すらしなかったのです。

ミャンマー軍の暴挙、ヘイトクライム、見て見ぬふり、無関心、これらは人間が犯す愚かな罪なのです。

何もできないもどかしさ。
ですが、ここに書かずにはいられませんでした。

せめて、無関心という罪を犯さないように。

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ミャンマーと姉妹教会の関係にある東京教区は、積極的に情報を発信されています。

*とりなしの祈り*
祖国の危機の中にあるミャンマーの兄弟姉妹のために祈りましょう。
正義と対話が、今ミャンマーを覆っている暗闇と分断に打ち勝つことができますように。
希望と平和に満ちた、真の和解の共同体を築くために、すべての人が協力することができますように。
主よ、わたしたちの祈りを聞き入れてください。
(東京教区ホームページより)

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イエスが人類の傷と死をご自身に引き受けられた時から、神の愛はわたしたちの荒れ野を潤し、わたしたちの闇を照らしました。
なぜなら世は闇の中にあるからです。
今起きているすべての紛争、飢餓で亡くなる子どもたち、教育を受けられない児童、戦争やテロで破壊的打撃を受けた人々を考えてみましょう。
麻薬産業の犠牲となる人々、キリスト教や他の宗教を信じる一部の人々で自分が一番でありたいと思う人たち…、これが現実です。

この死のカルワリオで、イエスはご自身の弟子たちの中で苦しんでおられます。
(3/31教皇水曜恒例の一般謁見のお説教より)

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日々たどる十字架の道行を通して、困難な状況にある多くの兄弟姉妹たちの顔に出会います。
見て見ぬふりをして通り過ぎるのではなく、こころを思いやりで満たし、近づいて寄り添いましょう。
(3/30教皇様のツイッター)

神の子羊
世の罪を除きたもう主よ
我らを憐れみたまえ
我らに平安を与えたまえ

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ボ枢機卿のメッセージ
https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/41301/

3/31ケルン大司教区プレスリリース「ミャンマーの民主化と平和のための祈りの日」
https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/41776/

応えていく信仰

受難の主日からのこの聖なる一週間、どのような祈りの日々にするか決意したところです。

枝の主日には、一昨年までは聖堂の前に信徒が大勢集まり、共に聖書を朗読し、枝を掲げて祝福を受けて行進して入場していました。

今年は静かに、前もって祝福していただいていた枝をいただきました。

 

 

女性の会、ヨゼフ会の皆さんがこうして毎年準備をされているのをご存知でしたか?

木から枝を落として一本ずつ洗い、トゲを落とします。
拭きあげてから皆さんが持ちやすいサイズにし、持ち手の部分の葉を落とします。
茶色に変色している葉先は一枚ずつハサミでカット。
こうして手間暇かけて準備され、枝の主日の朝には当然のように聖堂入り口に置いてあるのです。

持ち帰った枝は、来年の灰の水曜日前まで大切になさってください。

 

第一朗読のイザヤ書はわたしが好きな箇所でした。

4つある「僕の歌」のうち、3つ目の「主に応える僕」です。

主なる神は、教えを受ける者の舌をわたしに与えてくださった。
疲れた者を言葉によって支えることを知るために。
主は朝ごとに呼び覚まし、
わたしの耳を呼び覚まし、
教えを受ける者のように聞くようにしてくださった。
主なる神は、わたしの耳を開いてくださった。
わたしは逆らわず、背を向けて退くことはなかった。
(イザヤ50・4〜5)

 

主に応える生き方ができているか。
よく自問自答します。

楽しみを求めることに執着していたり、金銭欲に囚われてしまったり、わたしたちは弱い存在です。
そのような迷いから目覚めることを表現した詩があります。

わたしは眠り夢見る、
生きることがよろこびだったらと。
わたしは目覚め気づく、
生きることは義務だと。
わたしは働くーーーすると、ごらん、
義務はよろこびだった。

これは、1931年のノーベル賞を受賞したインドの哲学者であり詩人でもある、タゴールの詩です。

生きるということはある意味で義務である、とタゴールは言います。
生きることこそが、たった一つの重大な責務である、と。

よろこびは、得ようとして努めることはできない、
よろこびは、自ずと湧いてくるもの。
しあわせは目標ではなく、目標であってはならない、
しあわせは義務を果たした結果に過ぎないのだ。

厳しいような、難しいような価値観だと最初は思いましたが、この詩を繰り返し噛み締めているうちにスーッと「そうかもしれないな」と考えるようになりました。

朝ごとに耳を澄まして神様からの呼びかけに応える生き方は、わたしの理想とする義務のかたちです。

この聖週間の間、誰のためになんのために祈るのか、神様からのメッセージがわたしの内面に降りてきた受難の主日のミサでした。
こういう瞬間は本当に嬉しいよろこびです。

 

日曜学校の子どもたちの十字架の道行の様子です。

 

 

過去との対話

わたしたちはそれぞれに『神様との歩みの歴史』を持っています。

わたしはいにしえの日々を思い起こし
あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し
御手の業を思いめぐらします。
あなたに向かって両手を広げ
渇いた大地のようなわたしの魂を
あなたに向けます。
(詩編143・5~6)

フランシスコ会訳はまたニュアンスが違います。

わたしは過ぎし日をしのび、
あなたの行われたことをすべて思い巡らし、
あなたの手の業に思いを潜めます。
わたしはあなたに手を差し伸べ、
わたしの魂は乾ききった地のように
あなたを慕います。

5節を直訳すると
わたしはわたしの前にある日々を思い出し、あなたのすべてのみ業を思う
となるそうです。


21(日)四旬節第5の主日の第一朗読はエレミヤ31・31~34でした。

見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。
わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。

神を「主」とあおいでいたイスラエルの民は、主との契約を反故にして周囲の大国と同じように「王」を望んだため主から見放されます。
その結果としてバビロン捕囚で神殿と王と土地を失った、エレミヤはそう嘆きます。
エレミヤは実際にバビロン捕囚の時代に生きた預言者です。

前週、第4の主日の第一朗読の歴代誌です。

神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿はすべて灰燼に帰し、貴重な品々はことごとく破壊された。
剣を免れて生き残った者は捕らえられ、バビロンに連れ去られた。
こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地はついに安息を取り戻した。
その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。
(歴代誌下36・19~21)

神殿が破壊されバビロン捕囚で主だった人々が連れ去られたのに、「地は安息を得た」という表現がなされています。


歴代誌はエルサレムがバビロニア軍に破壊されたBC587年より140年ほど後に書かれたとされています。
こうしたイスラエルの過去の歴史を基礎としてユダヤ人が聖書を編纂していくわけですが、その過程においてもっとも重要なのは「後ろを振り返って過去を見ている」のではないという点です。

普通わたしたちは、自分の過去を記録に残そうとする際、たどってきた歴史を都合の良いように頭の中で編集してしまうものです。
しかし聖書を記したユダヤ人たちは、過去は神が導いてきた歩みとして自分の目の前に置いて、その意味を思い巡らしながら目標に達するべく人生の舵を取っているのです。

それが、冒頭の詩編に表れています。

「わたしはいにしえの日々を思い起こし
あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し
御手の業を思いめぐらします。」

 

3.11を過去の歴史に埋もれさせてはならない、次世代に語り継いでいきたい、そういう思いで語り部として活動している若い世代の方々をテレビで観ました。

彼らの深い思いを簡単に理解したふりはできませんし、ここに表現することもできませんが、単に辛い経験を話していらっしゃるのが語り部ではないと思います。

前を向いて、未来のために過去と対話しながらその意味を深く考える。

わたしたちそれぞれの『神様との歩みの歴史』についても同じです。

宮崎神父様がおっしゃったように、四旬節は自らの信仰生活を振り返る時です。

自分のこれまでの人生、信仰生活を後ろに振り返るのでなはく、神様がお示しになったひとつひとつの意味と対話することが大切です。
自分のいたらなかった振る舞いも、忘れ去りたい嫌なこと辛いこともすべて、神様が共にいてくださった歴史だということを忘れずに前を向いて生きたいのです。

 

教皇様の巡礼の旅

教皇フランシスコが2019年11月の日本以来の海外訪問としてイラクを訪れたことは、メディアでも大きく取り上げられました。
わたしが読んだ新聞の記事は「ISの元支配地で紛争犠牲者に祈りをささげ宗教融和を演出」「カディミ政権の教皇受け入れは単なるプロパガンダ」などと、あまり好意的なものではありませんでした。
メディアリテラシーを発動すべき時ですね。

教皇様がどのような思いで、何のためにイラクを訪問されたのか、わたしたちはきちんと正しく理解しておく必要があると思います。

これまでローマ教皇がイラクを訪れたことはなく、今回の訪問が初となりました。
教皇の訪問の目的は、「イラクのキリスト教徒らを励まし、同国の復興と平和を祈り、諸宗教間の対話を育むことにある」とバチカンニュースは報じています。

 

 

2日目に、聖書にも記載のある古代都市、ウルを訪問されました。

ウルは、かつてメソポタミア南部に位置した古代都市。
旧約聖書の「創世記」には「カルデアのウル」と記され、父祖アブラハムの生誕の地とされています。

教皇様は、「アブラハムが生まれ、神の声に従い旅立ったこの場所から、共にアブラハムを父祖として尊ぶ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、そして他の宗教の人々が、互いを兄弟姉妹として、アブラハムと同じように天の星を見つめながら、平和の道を共に歩んでいけるように」と挨拶で話されました。

 

3日目にはモスルを訪問されました。

 

モスルは、2014年から2017年にかけて過激派組織ISに占領された街です。
占領から解放までの激動の期間、人命はもとより、家屋、市民生活、社会・経済機能、文化遺産など、膨大な犠牲をはらいました。

占領されている期間に、2004年に人口およそ185万人だったモスルから、キリスト教徒12万人以上を含む、約50万人の住民が他地域や国外に避難しました。

解放後の現在、モスル市民は国際社会の協力を得ながら復興という大きな挑戦に立ち向かい、難民となった人々の帰還のために努力しているのです。

(青字はVATICAN NEWSより参考)
https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2021-03/iraq-incontro-interreligioso-ad-ur-20210306.html
https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2021-03/iraq-mosul-preghiera-per-le-vittime-della-guerra-20210307.html

 

 

「真の宗教性とは、神を礼拝し、隣人を愛すること」
教皇様はおっしゃいました。

「人間は宗教によって兄弟であるか、あるいは創造によって平等である」
イラクのイスラム教シーア派最高権威、シスタニ師のおことばです。

84歳と90歳のお二人の2つのことばに、今回の訪問の目的の真実が表れていると思います。

教皇様は『演出』するために他宗教を持ち上げたりなされないことを、わたしたちは理解しています。
なぜなら、キリスト教徒もイスラム教徒も、隣人愛を重んじていることは不変の事実だからです。


ここで起きた非常に多くの破壊と残虐行為を悔やむ者として、天と兄弟姉妹にゆるしを請いに、そして平和の君、キリストの名において平和の巡礼のためにイラクに来ました。
どれほどイラクの平和を祈ったことでしょう!
神は聞いてくださっています。
神の道を歩むかどうかは、私たち次第なのです。

教皇様のツイッターです。
これが、教皇様の思いです。

 

帰国の際の機内でのインタビューで「今回の訪問は他の訪問より疲れた。84歳という年齢の波は、一気に来るのではなく、後から少しずつやってくる。」と語られたそうです。
帰りの飛行機の中でさえお働きになるのです。

教皇様はまだ訪れていない多くの国への訪問の希望を語られています。
そのひとつは、祖国アルゼンチンです。

今回のイラク訪問は、教皇様の側近もヴァティカン政府もみなが反対していたそうです。
テロの可能性、年齢的なこと、体力の問題、そしてコロナ禍でもあるからです。
「反対を押しての今回の訪問は、決して我がままではなく長い間に考え抜いたものだ」と語られていました。

聖霊に使命感を与えられているとこうもパワーがみなぎるものか、と驚くばかりです。

『ローマ教皇は最強の平和の使徒』なのだ、と単純な安易な言い方をするつもりはありませんが、パパ様の笑顔をまじかで見て力を得た信徒の一人としては、他宗教の方々も含めもっと多くのひとを勇気づけに ApostolicJourney 教皇様の平和の巡礼の旅に出かけていただきたいと願います。

 

信じるものの力

皆さんとともに与るミサが再開されました。
昨年以来の経験がありますので混乱も戸惑いもなく、消毒をして検温、座席表に氏名と連絡先を記入、マスクを着用しての人数制限のミサがまた始まったのです。

花壇の植物もお花も、以前と同様に有志のおばさま方によって季節を感じさせてくれる美しい姿に手入れが続けられていました。

 

信仰は、望んでいる事柄を確信し、 見えない事実を確認することです。
(新共同訳)
信仰は、希望していることを保証し、見えないものを確信させるものです。
(フランシスコ会訳)
(ヘブライ11・1)

ヘブライ語の修辞法である同義的並行法という書き方で、「望んでいる事、希望していること」と「見えない事実、見えなないもの」は同じなのだそうです。

「目に見えない永遠の事柄」を保証させ、確信させる、それが信仰だというのです。

わたしたちは、「見えるもの」にではなく、「見えないもの」にこそ目を注いでいます。
「見えるもの」はこの代限りものですが、「見えないもの」は永遠に続くものだからです。
(フランシスコ会訳)
(2コリント4・18)

あなた方は、イエスを見たことはありませんが、愛し合っています。
今、見ていませんが、信じて、言い尽くせない輝かしい喜びに溢れています。
それは、あなた方が、信仰の実りである魂の救いを手にしているからです。
(フランシスコ会訳)
(1ペトロ1・8~9) 

 

信仰とは、毎日曜日にミサに与ることではない。

そう分かっています。
特にこの2年の間に教会が2度閉鎖になるという経験をしている間に、いろいろと考え、本を読み、神父様方にお話を伺い、ミサがすべてではないとよく分かりました。

ですがやはり、日曜日に同じ信仰を持つ方々とお会いして言葉を交わす時間は、何ものにも代えがたい、心の喜びを感じさせてくれます。

お説教で宮﨑神父様がおっしゃいました。
「日曜ごとにミサに与り、イエス様のご聖体をいただく。
これは、カトリック信者の信仰の中枢です。」 

 

教皇付説教師ラニエーロ・カンタラメッサ枢機卿のバチカンで四旬節の説教の一節をご紹介します。

カンタラメッサ枢機卿は、マルコ福音書の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1,15)という、今日も響くイエスの呼びかけを観想するよう招かれました。

イエス以前は、悔い改めるとは「後に戻る」、つまり道をはずれた者が律法と神の契約に再び入ることを意味したが、イエスの到来によってその意味は変わった、と枢機卿は強調されました。

「時は満ち、神の国は近づいた」この時、悔い改めるとは、後ろに、すなわち古い契約と律法の順守に戻ることではなく、むしろ、神の国に入るために前に跳躍すること、そして神が王としての自由な意思によって人々に無償で与える救いをしっかりつかみ取ることを意味する

「悔い改めて福音を信じる」とは、連続する二つの行為ではなく、同じ本質を持つ一つの行為であり、「悔い改めよ」とは「信じなさい」と同義である

 

見えない神を信じるわたしたちの確信。

そのことを同じ空間で同じ方向を向いて各々が確認し、喜びを分かち合う時間、それがミサではないでしょうか。

 

久留米教会出身のMr.癒し神父の声でリラックスしてください。
(ホントに癒されます!!)

 

苦難の折の祈りのことば

10年前の3月11日、どこで何をしていたか覚えていますか?

わたしは知り合いからの電話でテレビをつけ、大きな地震が起きたことを知りました。

個人的に2011年は、苦難の毎日でした。
どうやって生活(食事や掃除洗濯など)していたか全く記憶がないほど全てのことが大変で、それ以前もそれ以後もあれほど苦しい年はありません。

東日本大震災で被災された方々は計り知れない苦難の日々を送られていたことと思います。
苦難の大小は比較できるものではありませんが、あの2011年はいまのコロナ禍とは全く違った苦しみの日々を送った大勢の方がおられました。

わたしは、あの日々があったからこそ今がある、と確信しています。
10年経った今は自信を持って「乗り越えた」と言える心境です。

2011年を何年もかけて乗り越えられたのは、間違いなく神様がずっとそばにいてくださったからです。

 

福音宣教3月号の中から、聖書学者の本多峰子さんの連載の要点を書き出してみます。

◆苦しみが本当に無効にされるには、その苦しみがより大きな善のひとつの原因となって、その苦しみがあったからこそもたらされるよいことが成就しなければならない。

◆つらい経験の後では、いままでは当たり前と思っていた幸せを何倍も強く、大切に感じることができるようになるということもある。
けれども、それは苦しみの目的ではなくて、結果だ。
神様はそのようなことのために苦難をお与えになるのではなく、むしろ、そのような苦難の中からさえも幸せをもたらしてくださる、ということ。

◆神様はわたしたちに、苦難を乗り越える力や助け合う力を与えて、助け合って成長してゆくことさえも可能にしてくださっている、ということが恵み。

◆苦難があるから至福があるのではなく、苦難があっても至福がある。

◆神様はわたしたちの成長のために苦難を与えるのだと考えるよりも、苦難の最中にあって神様はわたしたちを助け、わたしたちを成長させてくれる。

 

眠れないほどの苦難の最中にできることは、その現状に抗うことではなく、神様へのクレーム(「どうしてですか!?」「どうしたらいいのですか!?「なにをお望みですか!?」など)とともに祈ることしかできない、というのがわたしの経験です。

苦難の折に聖ヨセフへとりなしを願ってみることを勧めます。

 

聖ヨセフへの祈り

以前ご紹介したとおり、今年の12/8まで聖ヨセフ年となっています。
それに伴って新しい祈りのことばが発表されました。

聖ヨセフよ、わたしたちは苦難の中からあなたにより頼み、あなたの妻、聖マリアの助けとともに、あなたの保護を心から願い求めます。
あなたと汚れないおとめマリアを結んだ愛、幼子イエスを抱いた父の愛に信頼して、心から祈ります。
イエス・キリストがご自分の血によってあがなわれた世界をいつくしみ深く顧み、困難のうちにあるわたしたちに
力強い助けをお与えください。
聖家族の賢明な守護者よ、イエス・キリストの選ばれた子らを見守ってください。
愛に満ちた父ヨセフよ、わたしたちから過ちと腐敗をもたらすあらゆる悪を遠ざけてください。
力強い保護者よ、闇の力と戦うわたしたちを顧み、天から助けを与えてください。
かつて幼子イエスをいのちの危険から救ったように、今も神の聖なる教会を、あらゆる敵意と悪意から守ってください。
わたしたち一人ひとりを、いつも守ってください。
あなたの模範と助けに支えられて聖なる生活を送り、信仰のうちに死を迎え、天における永遠の幸せにあずかることができますように。
アーメン。

(2021年2月16日 日本カトリック司教協議会定例司教総会認可)

 

次にご紹介する祈りは、教皇フランシスコが40年以上毎日唱えられている、イエズス・マリア修道会の19世紀の祈祷書の中の聖ヨセフへの祈りです。

栄光に満ちた父祖、聖ヨセフ。
あなたは不可能なことを可能にできる力のあるかたです。
苦悩と困難にある今この時に、どうか助けに来てください。
深刻で困難な状況を、わたしはあなたにゆだねます。
あなたの保護のもとに引き受けてください。
そうして、よい解決策を得ることができますように。
愛する父よ。あなたを心から信頼します。
あなたにむなしく祈った、そうなることのないように。
あなたはすべてのことを、イエス、マリアとともに行われるのですから、あなたからの恵みが、あなたの力ほどに大いなるものであることを示してください。
アーメン

この祈りは、先ほど発行された新しい使徒的書簡「父の心で」に紹介されていました。

 


 

あの震災から10年。
心の傷が完全に癒えたとは感じられない方もまだ多くいらっしゃることでしょう。

コロナ禍の様々な規制によって苦難の最中にある方も多い今、「沈黙の聖人」と言われる聖ヨセフへの祈りが心の支えとなりますように。

自らのありようを選ぶ

四旬節が始まって聖堂が解放されているのと、宮﨑神父様のお顔も見たかったので、久しぶりに教会に行ってみました。

やはり、お御堂でお祈りすると心が落ち着き、一種のリフレッシュの効果があります。

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有名人であれば、言ったこと(たとえそれが過去の発言でも)、行動(何十年前のことでも)が「現代の規範からすると間違っている」と誰かが判断したら、瞬く間に世界中に広まり、見知らぬ多くの人から非難され、謝罪を要求され、精神的にも追い詰められ、仕事を失う。

それが現代社会です。
「過去であろうと過ちは絶対に許されない」のが今の世の中です。

たとえば、昨年のアカデミー賞授賞式の司会に決まっていた人は、何年も前にツイッターで人種差別的な発言をしていたことを掘り起こされ、司会者を辞退するまでに追い込まれました。
「今の自分は変わった。過去の失言を恥ずかしく思う。」そう謝罪しても時すでに遅し、でした。

周囲の人にしょっちゅう失言したり失礼な態度をとってしまうわたしは、その基準からすれば誰からも許してもらえなくなるのでは、、、。

「裁くな」「おが屑と丸太」「自分の量る秤」
1500年前からのこの教えは、今もまだ有効です。

キリスト者にだけ効力があるのではなく、これらのことが書いてある聖書の箇所を読んでみれば、聖書を初めて聞く人だれにでも分かり易い、至極当然のこととして理解してもらえると思います。

 

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
(マタイ7・1~5)

 

どうして人は、こんなにも他の人に厳しいのでしょうか。
最近のSNSでの他者へのバッシングや誹謗中傷の問題を見聞きするたびに、この疑問が渦巻きます。

今年から、福音宣教を定期購読し始めました。
こうした疑問を解消したい、自分はどうあるべきか、そういう目的で読んでいると閃きのような文章が目に留まります。

(一番のお目当ては、聖書学者の本多峰子さんの神義論の連載を読むためです。
 その内容についてはいつかゆっくり書いてみたいと思っています。)

 

 

3月号のシスター加藤美紀さんの文章にあったことを少しご紹介します。
著作「夜と霧」などで有名なヴィクトール・E・フランクルの考え方を紹介していらっしゃいます。

フランクルによると、ラテン語で「人格」を表すペルソナは、ラテン語の「響き渡る」を意味する単語に由来しています。
人間とは常に自らの良心の内に神の声が響き渡っている存在であり、その神からの呼びかけに応答して初めて、人間は実存の本質を生きることができるのだと、フランクルは主張しています。
その前提として、人間は根本的に自由な存在だからこそ、自らの意思で決断しながら責任をもって神様に応答できるのだ、と言います。

☆人生の意味への問いに対しては詮索や口先ではなく、正しい行為によって応答しなければならない。
☆この場合の「行為」とは、ある状況においてとる態度のこと、生き方をもって示すことを含意してる。
精神的な態度も含め、自らの行為によって意味を闘い取って人生の意味を実現させる。

他の誰も代わることのできないその人固有の生の意味は、本人が決断して選んだ行為(ありよう)によって初めて実現されることになるのです。

 

このフランクルの生き方のありようについての考え方にはとても心打たれました。

必要以上に人に厳しくしてしまう気持ちが渦巻いてしまったら、「正しい行為の選択」と「自らの人生の意味を実現する過程に集中する」ことに心をシフトしたいと思います。


四旬節の間、わたしたちは「人を辱めたり、悲しませたり、怒らせたり、軽蔑したりすることばではなく、力を与え、慰め、励まし、勇気づけることばを使うよう」(回勅『Fratelli tutti』223)、いっそう気をつけなければなりません。

これは、パパ様の四旬節メッセージの一節です。
心に刻んでおきたい大切なことばです。
「人を辱めたり、悲しませたり、怒らせたり、軽蔑したりすることばではなく、力を与え、慰め、励まし、勇気づけることばを使うよう」

四旬節の始まりに、よい気づきを得られた気がします。

世界の諸問題を考える

聖ジュゼッピーナ・バキータの日、2月8日「人身取引反対のための祈りと考察の日」のパパ様のインスタグラムです。

 

フランシスコ教皇のインスタグラム、ツイッター、ヴァチカンニュースを毎日チェックしています。
信仰生活に役立つことばを探すためだけではなく、パパ様の発言・発信されることは世界の問題に目を向けさせてくれるからです。

以前からラウダート・シなどで警鐘を鳴らし続けてこられている環境破壊の問題についても、インド北部で発生した氷河崩壊によって川の氾濫が起きたという衝撃的なニュースはわたしたちに恐怖を感じさせます。
(北極の話ではないのです。わたしはインドで氷河が崩壊するなど想像できませんでした。)

一方で、人身売買や人種差別、キリスト教徒の迫害。
こうした問題は、日本人にとってはあまり現実的なこととして捉えられないのではないでしょうか。

コロナウィルスの感染についても「身近にいないから」という理由で現実味を感じないという日本人が多いと聞きます。
2月12日の統計では世界で1億750万人以上が感染し、236万人以上の方がこのウィルスによって亡くなっています。
ワクチンを開発した欧米ではワクチン接種が進んでいますが、「輸出制限」といったニュースも耳に入ってきており、世界の隅々にまで本当に行き渡るのかという懸念も生じています。

これらは実際にいま、この現代社会において起きている重大な問題です。

竹下節子さんのブログに書いてあったことを2つご紹介します。

①人身売買、臓器売買という問題
ヨハネ・パウロ二世の友人で臨終にも立ち会っていたというポーランド人の女性ワンダ・プウタスフカさんについてです。
彼女はいま100歳でご存命ですが、18歳の時にカトリックのナチスへのレジスタンス運動をしたことによって人体実験のための収容所に連行されました。
ある日、次の日に実験室に呼び出される2人の名が知らされました。その一人がワンダさんでした。
呼び出されるということは死を意味します。
その夜、60歳の女性が、同じく呼ばれたもう一人の20歳の女性に「あなたは若いのだから、明日名前を呼ばれたら私が代わりに返事して連行される」とコルベ神父さまのように身代わりを申し出ます。
ワンダさんにも同じように身代わりを申し出る人がいたそうですが、彼女は断ります。
年齢によって命の軽重はないと思ったからです。
翌朝最初の1人の名が呼ばれ、身代わりの女性が立ち上がります。
そして、2人目のワンダさんの名は呼ばれなかったというのです。
彼女は奇跡的に助かりました。


②キリスト教徒の迫害
世界の人口は今や80億人に近づいていますが、60億人とした時の統計では、その3分の1である20億人がなんらかのキリスト教の「洗礼」を受けていて、10億人がイスラム教徒、30億人がそれ以外(無宗教も含む)。
中国でも、6千万人が洗礼を受けていると言われています。
中近東などアジアのキリスト教徒の4割が、キリスト教徒であるということで迫害を受けているというのです。
アブラハムの出身地イラク、パウロの回心の地シリア、これらの地域には20世紀には400万人のキリスト教徒がいたのに、今は90万人を切っているそうです。
なぜなら裕福な人は外国に移住し、残っているのは最も貧しいキリスト教徒たちなのです。
イラクやシリアでは、キリスト教以前のアッシリアなどの文化遺産も破壊され続けています。
今のイランには100-500万人の隠れキリシタンがいるとも言われています。
エジプトのコプト・キリスト教徒は生まれると手に十字架のタトゥを入れられるそうですが、そのことで差別があったり、逆にラマダンを強制されるといいます。

 

地球環境の崩壊、コロナウィルスの蔓延、ワクチンの囲い込み、人身・臓器売買もキリスト教徒の迫害も、今現実に起こっています。

パパ様がよくおっしゃいます。
無関心が一番罪である、と。
日本に住んでいるわたしに実際に何ができるのかと、ももどかしく感じます。

☆今年の「人身取引反対のための祈りと考察の日」の目標は、この恥ずべき取引を直接的また間接的にも広げることのない経済のために努力することである。
それは、すなわち人間を決して商品のように扱い、搾取することなく、それとは反対に、人間に寄与する経済をめざすことである。

☆「ケアの権利」、貧しい人や疎外された人を救う責任、医療福祉とケアの分野において利益の論理に引きずられることがないように。

☆ワクチンが、貧しい人々をはじめすべての人に行き渡るよう、その平等な配給のための国際レベルの取り組みを。

 

こうした世界の問題に目を向けて知ること・考えることはとても大事なことだと思います。
家庭でのゴミの削減、日常生活においてフェアトレードのものを優先すること、支援活動している組織への寄付など、具体的な行動をとっていくことは、わたしたち個人が出来る最低限のことではないでしょうか。