スケープゴート

秋晴れの、美しい、気持ちの良い季節です。

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家のあちこちに、十字架、マリア像を置いています。

寝る前に祈るときも、小さな手の中に納まるサイズの十字架を握りしめています。

みなさんもそうではないでしょうか。
つい、お気に入りの十字架やマリア像の前で手を合わせて祈ってしまう、そういう習慣が身に付いている信徒は多いかと思います。

以前、ある神父様がお説教でおっしゃいました。

「イエスの十字架は、首から下げるダイヤモンドの入ったアクセサリーではない。」

 

教皇は訪問先のスロバキア東部プレショフで、十字架や(キリストの)磔刑像はしばしばキリスト教徒によって表面的に使用されていると講話した。

欧州では、東欧の複数の極右政党を含む多数の政党が、十字架を党旗やシンボルに取り入れている。

教皇は、多くのキリスト教徒が十字架を首にかけたり、家の壁にかけたり、自動車やポケットの中に持つなどしているが、実際にイエスとつながっていないと指摘。
「十字架上のイエスを見つめるために立ち止まり、キリストに心を開くのでなければ、何の意味があるだろう。
十字架を奉献の対象におとしめるのはやめよう。
ましてや、政治のシンボルや、宗教・社会的地位の表彰としてはならない」と述べた。

(9/14ロイター配信ニュースより)

 

スケープゴートという言葉をご存知でしょう。

簡潔にいうと「多くの人の罪を負わされた人」という感じでしょうか。

アロンは生かしておいたその山羊の頭に両手を押しあて、イスラエルの子らのすべての咎とすべての背き、すなわち、彼らのすべての罪をその山羊の上に告白し、それらをその頭に置き、係の者の手で荒野に送り出される。
その山羊は彼らのすべての悪を担って、不毛の地へ行く。
係の者はその山羊を荒れ野に送り出す。
(レビ16・21〜22)

最近はスケープゴーティング(罪を着せる行為、報道)が頻繁に目につく気がします。

例えば、音楽イベントの集客が多くお酒の提供もあった、と報道があると、「主催者」「参加者」「出演者」「許可した行政」=悪だ罪人だ、と囃し立て、「参加者に感染者が多く出たらしい」=「ほら見たことか、当然の報いだ」

すべてのことにおいて、このような考え方が蔓延ってきてはいないでしょうか。

以下、イザヤ書の53章を抜粋します。

彼は主の前で若枝のように、
乾いた土地の中から生え出た。
彼は、わたしたちの背きの故に刺し貫かれ、
わたしたちの悪の故に打ち砕かれた。
彼の上に下された懲らしめが、わたしたちに平和をもたらし、
彼の傷によってわたしたちは癒された。
わたしたちはみな、羊のように迷い、
それぞれ自分の道に向かったが、
主はわたしたちみなの悪を彼に負わせられた。

もし彼が自らを賠償の捧げ物とするなら、
彼は末永く子孫を見るだろう。
主の望みは彼の手によって成し遂げられる。
彼は、多くの者の罪を担い、
彼らの背きのために執りなした。

彼=scapegoat です。
彼=メシアのことを予言しているのだ、と当時の人々は捉えていました。

このイザヤ書に呼応する形で書かれたのが、ペトロの手紙の次の箇所です。

わたしたちが罪に死んで義に生きるため、キリストは十字架の上で、わたしたちの罪をその身に負われました。
その傷によって、あなた方は癒されました。
あなた方は、羊のように迷っていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方の元に帰ってきたのです。
(1ペトロ2・24〜25)

同時に理解しておきたいのは、イエス様は「大勢の罪人の罪を背負って死のう」と思っていらっしゃったわけではない、ということです。

イザヤ書の予言していた彼(メシア)はイエス様なのだ、と亡くなられてご復活された姿を見てようやく理解して納得した弟子たちが、「わたしたちの罪のために(代わりに)死んでくださったのだ!」と後になって言ったのです。

イエス様を信じる人が多くなり、このままでは祭司たちの尊厳が危うくなると危惧した大祭司のカイアファは、「一人の人間が民に代わって死に、国民全体が滅びないほうが、あなた方にとって得策である」と言ってイエス様を殺そうと決意しました。(ヨハネ11・50)

この考え方、代理死、贖罪死も、ある種のスケープゴート的なものでした。

わたしたちの信仰は、イエス様がわたしたちの罪の代わりに死んでくださったからではないはずです。

人々のために生き、小さき弱き者、虐げられた人々をも導き、自分自身には罪はなく正しい人であったのに、十字架につけられたのです。

 

十字架を身に纏うことで信仰が篤いと満足し、わたしたちの罪を担ってくださったイエス様はわたしたちの罪を赦してくださると自分勝手な理解をし、他人の罪を勝手に判定して「わたしは違う」と息を巻く。

そのようなキリスト者であってはならない、と最近とても考えています。

みなさまは、どう思われますか?
ミサもなく、教会で集って語り合えないこの日々、みなさまとこうしたお話もしたいのです。