カテゴリ:復活節
困難の中に
『レジリエンス』
困難をしなやかに乗り越え回復する力のことをいう、心理学の用語です。
ローマ皇帝 マルクス・アウレリウスは、すぐれた哲学者でもありました。
彼の哲学(自省録)は、現代のわたしたちもすぐに実践できる現実的な教えが詰まっています。
痛みや病気に対処する方法について、マルクスは自省録のなかでこのように書いています。
病気になったときのわたしが、肉体的な苦痛について話すことはありません。
見舞客が来てもそんな話はしません。
話題はいつもどおり、哲学についてです。特に、哀れな肉体の中で起こる動揺を心に認めながらも、なぜ、特定の善を保っていられるかについて議論します。
ですから、わたしの人生は今まで通り順調に、そして幸せに進んでいます。
(『自省録』9-41)
マルクスの哲学では、痛みや病気、その他のどんな逆境に際しても、知恵の追及に集中することによってその精神的苦痛から解放されると説きました。
肉体的苦痛や症状について愚痴ったり、くよくよ悩んだりするのは時間の無駄だ、と彼は考えていました。
耐えられぬ痛みはわたしたちを死に導くが、長引く痛みなら耐えることが出来る
(『自省録』7-33)
苦痛に対するわたしたちの態度が動揺の大きさを決めている、とマルクスは言います。
痛みや病気そのものではなく、そのことに対する自分の考えや思いが、自分の現実となってしまうのです。
4月くらいから足の調子が悪く、しょっちゅう転んでいました。
そしてとうとう、5月の頭におかしな転び方をしてしまい、左手の親指を骨折しました。
家事ができなくなるから、とギブスで固定はせずに、痛みに耐えながら暮らしています。
転ばないように恐る恐る歩いていて、身体がこわばったようになって首と肩も痛めています。
ですが、わたしの心は沈むことはなく、晴れやかなままなのです。
大好きなシラ書の聖句が、今の気分を表現してくれます。
善きにつけ悪しきにつけて、人の心はその顔つきを変える。
楽し気な顔つきは、幸福な心の徴。
(13・25~26)
口を滑らすことがなく、罪の苦しみに悩まされることのない人は幸いである。
良心の責めに遭うことがなく、希望を失うことのない人は幸いである。
(14・1~2)
自分に対してきびしすぎる者が、どうして他人に対して親切にできようか。
(14・5)
食事を終えたとき、家族が「おいしかった!ごちそうさま!」と言ってくれると、痛みを忘れます。
病気でなかなかミサに来られない方に教会でお会いできると、嬉しくなります。
妹たち家族が楽しそうにしている様子を見聞きすると、安心します。
久しぶりに会った友人たちと近況報告をしあい、元気が出ました。
趣味を楽しむことができることに、感謝しています。
そしてさらに、2つの大きな出来事が、わたしの心を晴れやかにしてくれました。
このページを読むのを楽しみにしていて、いつも励まされている、というお手紙をいただきました。
お会いしたことのない方からのお手紙です。
そこに書かれたたくさんの素敵な言葉に、信仰で繋がる友情のような感覚を覚えました。
久しぶりに会った大学時代からの友人。
彼は講演で世界中を飛び回り、いつもキラキラしていると思っていました。
「急に体調が悪くなり、検査したら大きな病気が見つかった。来月手術するけど、どうせ入院するなら楽しんでやろうと思って、高い特別室を予約した!」と楽しそうに笑いながら話してくれました。
人間とは何ものなのか、彼は何の役に立つのだろうか。
その善、あるいはその悪は、どのような意味をもつのか。
人の寿命は百歳にまで及べばたいしたものである。
永遠の日に比べると、この僅かな寿命は、海の水の一滴、砂の一粒にすぎない。
それ故、主は人々を耐え忍び、その慈しみを彼らに注がれる。
主は人間のみじめな末路を見ており、知っておられる。
そこで、彼らにその赦しを豊かにお与えになる。
人の慈しみはその隣人に及ぶが、主の慈しみはすべての人に及ぶ。
(シラ書18・8~13)
日々の暮らしのなかで、抱えきれないほどのお恵みをいただいていることを、身体が不調なこの1か月ほどの間はいつも以上に感じ取ることが出来ている気がします。
健康で何も悩みのないときには、「もっと楽しいこと」「もっと良いこと」を追求してしまうのかもしれません。
マルクスは皇帝としての国務と哲学とに人生を捧げましたが、身近にいる人たちに愛される気さくで親しみやすい人物だったそうです。
厳粛ですが過度にではなく、謙虚だけど消極的ではなく、まじめだけど気難しいわけではなく、友人や家族と一緒にいることに大きな喜びを感じる人だった、と。
わたしは少し不自由なほうが、マルクスの言うようにお恵みの探究に心を研ぎ澄まして暮らせるようです。
これまでの人生で乗り越えてきたものと、徐々に蓄えてきた信仰心を通して、レジリエンスが身についているのかもしれません。
必要な助け
雨の季節が始まったような日も多くなってきました。
大相撲、今場所もかなり盛り上がり、毎日楽しませもらいました。
押し出しなどで力士が二人とも土俵から落ちた時、どちらかの力士が相手のことを気遣って手を差し伸べることがあります。
そこまで押さなくても、というくらい突き飛ばし、勝ち誇って興奮した様子の力士もいる中で、手を貸そうとする様子を見るととても嬉しくなります。
わたしは足が不自由なので、得することが多くあります。
どなたもすぐにわたしのことを覚えてくださる、どこでもどなたかが席を譲って座らせてくださる、など本当にたくさんあります。
旅行する際も、空港の方に駐車場まで車いすで迎えに来てもらい、搭乗口までスムースに移動でき、いつもとても助かっています。
助けが必要そうな人を見かけたら、躊躇しますか?
すぐに動くことはできますか?
自分が人の助けを必要としているとき、素直にそう伝えていますか?
わたしは自分がいつも周囲から助けられていることを実感していますので、そういうサインをかなり敏感に感じ取ることがあります。
その日、ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。
ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
議論を重ねた後、ペトロが立って使徒たちと長老たちに言った。
「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。
それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。
人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです」。
(使徒15・1~8抜粋)
先週の朗読箇所のこの部分を読んでいて、「救い」とは「必要な時に与えられる助け」のことだ、と感じたのです。
割礼を受けて、律法を守った生活をしたうえでなければ信者として認められない、ということが議論されたと書かれています。
洗礼を受けていなければ救われないのか、という質問を受けることがあります。
そうではありません。
救いは、救われたと「信じる」から与えられたことが分かるものです。
神様が自分の祈りを聞き入れてくださったのだ、と素直に自然に受け入れることができる、それが信仰なのだと思っています。
救いは魔法のようにではなく、恵みと信仰が互いに織り成す神秘から来ます。
神が先に愛してくださることへのわたしたちの信頼と自由意志からの従順によっているのです。
教皇レオ14世 5/21のX(旧Twitter)
わたしが言いたいことを、偶然にもパパ様がXで明確にお伝えくださっているのを見つけました!!
神はわたしたちを救い、また聖なる招きをもって招いてくださいましたが、これは、わたしたちの業によるのではなく、神ご自身の計画とその恵みによるものです。
この恵みは、キリスト・イエスに結ばれているわたしたちに、永遠の昔から与えられ、今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたものです。
わたしは信じてきた方をよく知っており、また、その方は、わたしに委ねたものを、「かの日」まで守ってくださる力があると確信しているからです。
(2テモテ1・9〜10、12)
必要な時に必要な助けの手が差し伸べられる、という神様への従順な信頼、それが信仰の恵みであることを忘れないようにしましょう。
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万博に行った友人がリアルタイムで写真を送ってくれ、わたしも一緒に観ているように感じることができました。
1602~1604年制作のカラヴァッジョ「キリストの埋葬」
16世紀にミケランジェロが手掛けた石像「キリストの復活」
この2つが今回の万博で共に展示されていることに、深い意味を想います。
真実の種を蒔く
「デマを聞いた2人に1人はデマを正しい情報と信じた」「信じた人の4人に1人は知り合いにSNSで送った」という、総務省が行ったインターネット上の偽・誤情報の拡散に関する全国調査の結果がニュースになっていました。
菊池枢機卿は、ブログにこう書いておられました。
イタリアメディアを中心に、世界各国のメディアでは、様々な情報が飛び交っています。
なかには正確に、誰が何票得たのに、それがそのあとで大きく変わったのは、これこれこういう裏事情があったのだと、かなり断定的に書いているメディアがありましたが、わたしもそれを見ましたけれど、わたしが目の当たりにした事実とはかけ離れた数字だったので、何らかのストーリーを作るための推測の結果なのだろうと思います。
わたしたちのために聖霊の導きで新しく選出された教皇様、それが真実のすべてです。
何票で選出されたのか、といったことはゴシップの類の情報であり、わたしたちが心に留める必要はありません。
教皇レオ14世の誕生にあたり、日本カトリック司教協議会会長メッセージとして、菊池枢機卿はこう指摘されています。
枢機卿団は、教皇フランシスコの後継者を探しているのではなくて、使徒ペトロの後継者を捜し求めているのだということを、皆が心に深く留めていました。
枢機卿団が祈りのうちに求めたのは第二の教皇フランシスコの誕生ではなく、主ご自身から牧者となるように委ねられた教会を忠実に導く使徒ペトロの後継者でありました。
多くの枢機卿が、多様性を尊重しつつも、信仰における明白性を持って、教会が一致することの重要性を強調されました。
胸が熱くなるようなお言葉でした。
わたしたちは、新しい教皇様の選出を心から、祈りとともに待っていましたが、一般的には「映画のような」「隠されたドラマチックな展開」を期待していたのだとあたらめて感じました。
教皇レオ14世は、5/12に行われた報道関係者との会見での挨拶でこのようにおっしゃっています。
わたしたちは、進むことも報道することも困難な時代に生きています。
この時代はわたしたち皆にとって挑戦となりますが、わたしたちはそこから逃れてはなりません。
反対に、この時代は、わたしたち一人一人に、さまざまな役割と奉仕を通して、決して凡庸さに陥らないように求めます。
教会は時代の挑戦を受けています。
同時に、コミュニケーションとジャーナリズムも、時間と歴史の外に存在することはできません。
聖アウグスティヌスがこういってわたしたちに思い起こさせてくれるとおりです。
「わたしたちがよく生きれば、時代もよくなる。わたしたちは時代なのだ」。
わたしの父はよく「NHKでこう言っていたから、やってみる」(=NHKは真実しか伝えていないと信じて疑わない)という、素直な人です。笑
いつも、このページには私見を交えていろいろと書かせていただいています。
できるだけ、教皇様や神父様方がおっしゃったこと、書いておられる本の内容を軸にするようにしていますが、時々、真実をお伝えできていないかもしれない、と不安を感じることがあります。
ただひとつ、自信を持って言えるのは、丁寧に、心を込めて、学んだことをお伝えしようとしているということです。
ここを読んでくださる方にとって希望の種となる、信仰における真実を、わたしなりに蒔いています。
最後に、5/25の世界広報の日のために、故フランシスコ教皇が今年の1月にわたしたちに向けて伝えてくださったお言葉を抜粋してここに載せておきます。
わたしたちに希望が開かれ、注意深く、柔和で、思慮深く、対話の道を示唆するコミュニケーションの必要性が示されています。ですから皆さんを励まします。
ニュースのひだに隠された多くのよい物語を見つけ出し、それを伝えてください。
柔和でいること、ほかの人の顔を忘れずにいること。
あなたがたが働きを通して奉仕する人々の、心に語りかけること。
衝動的な反応によって、あなたがたのコミュニケーションが左右されないようにすること。
困難なときでも、犠牲を伴うときでも、実を結ばないように思えるときでも、いつだって希望の種を蒔き続けること。
傷を負ったわたしたちの人間性を回復させうるコミュニケーションの実践に努めること。
敵意のないコミュニケーションの証人となり、推進者となって、ケアの文化を広め、橋を架け、この時代の見える壁と見えない壁とを突き破ること。
わたしたちの共通の運命を心に掛け、未来の物語を一緒につづって、希望に満ちた物語を語ること。
第59回「世界広報の日」教皇メッセージ
https://www.cbcj.catholic.jp/2025/05/02/32234/
新しい時代
HABEMUS PAPAM(我らは教皇を得たり)
このラテン語は、新しい教皇が決まった時に枢機卿が宣言として唱える言葉だそうです。
ダマスコにアナニアという弟子がいた。
幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。
すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。
アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」
しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。
ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」
すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。
わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」。
(使徒9・10~16)
わたしが受洗した時はヨハネ・パウロ2世でしたので、コンクラーベの様子を観たのは3度目でした。
これほどまでに今回の新教皇選出への関心が高かったのは、故フランシスコ教皇の世界平和の訴え、環境意識の向上につながる働きかけなどが、テレビやネットで広く、信徒以外にも響き、伝わったからではないでしょうか。
「聖霊の導き、教皇選出は自分たちの利害を越え、現代世界のなかでカトリック教会を誰に託すべきか真摯な祈りの中で決めるプロセスがコンクラーベです」と、イグナチオ教会の主任司祭の髙祖敏明神父さまがおっしゃっていました。
2011年のイタリア映画「ローマ法王の休日」では、コンクラーベの様子が少しコミカルな要素を入れて描かれています。
コンクラーベのシーンでは、枢機卿たちが「わたしを選ばないでください」と心の中で神に祈ります。
新しい教皇に選ばれた枢機卿が、就任あいさつに姿を見せないまま重圧から街へ逃げ出すものの、街の人々との交流を通して信仰心や教皇の存在意義を見つめ直していくという映画です。
ローマカトリック教会の教皇は、現代の世界政治の中で特殊な存在感をもつ、と感じる場面が多くあります。
社会学者のドミニック・ヴォルトンとの対話をまとめた本「橋をつくるためにー現代世界の諸問題をめぐる対話」のなかで、ヴォルトンは故フランシスコ教皇のことを「ラテンアメリカとヨーロッパの間に立つ、グローバル時代の最初の教皇」と言っています。
「彼の役割は、世界の政治指導者たちの役割とはまったく違うのだが、常に問題と対峙している」
「教皇がその肩に担っている責任の重圧を思うと、わたしはときとしてめまいを感じるほどだ」
とも表現しています。
本の中(対談)でヴォルトンが、「皆が言っています、カトリック教会は政治に介入している、と。あなたも、前任者たちも、なんにでもです。」と問いかけると、フランシスコ教皇がこうおっしゃっています。
「事前にさんざん反対されたところへも行きました。
たとえ安全上の問題があろうと、教会が何をすることができるかを言うためにです。
人々が平和に暮らせるようになるために、何をすることができるか?
わたしはいつも、学ぶために巡礼者として、平和の巡礼者として、そこに行くのだと言っています」
「福音宣教するということは、信者を獲得することではありません。
教会は、信徒獲得によってではなく、人を引き付ける力によって発展するのです。
政治が発展するのは人を引き付ける力によって、友情によってです・・・橋です、橋、橋なのです」
「フランシスコ前教皇のリベラルな路線を引き継いで、世界の人々を一つにするために『橋』を懸けてほしい」
そうインタビューに答えていた方がいました。
「フランシスコ教皇は教会改革を推進して保守派の反発を買い、同時に進歩派からは改革が十分に行われなかったという批判を受けていたため、プレボスト枢機卿はこのように分裂した教会で掛け橋役をする人物になる」、とイギリスのBBC放送が分析していました。
アメリカ大統領にトランプ氏が初めて選出され、オバマ前大統領の政策をことごとく廃止すると発言した時に、当時の久留米教会の主任司祭だった森山神父様(現・大分教区司教)がおっしゃいました。
「政治家は、政権が変わると簡単に政策の方向性を変えますが、カトリック教会の教皇は連綿とその意思を引き継いでいきます」
「私はあなたのための一司教であり、あなたと共にいる一人のキリスト教徒です。
対話と出会いの橋を架け、平和を実現できるよう助けてください」。
8日の選出後、初演説でのおことばです。
レオ14世、新しいパパ様のために祈ります。
現代に生きる信仰
故教皇様について、インターネット上にはさまざまなAIによる画像や動画がアップされています。
有名人が「わたしが謁見した時の写真」として掲載しているものの中には、真偽が疑わしいものも多くありました。
天国でイエス様(と思われる男性)や帰天した歴代の教皇様方と楽しそうに語らっている動画も数多くあり、観ていて少し怖さを感じました。
「そうであったらいいな」が、AIによって具体的な映像で見られるというのは、なんだか夢がないと思うのは時代遅れでしょうか。。。
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故教皇様の『実績』をさまざまに評価分析された記事や、次の教皇候補の枢機卿についての推測も盛んに書かれています。
前回の記事に書きましたように、他の宗教との対話を実際に推進されたことは本当に大きな功績だったのではないでしょうか。
第二バチカン公会議で取りまとめられた公文書には、次のようなものがあります。
(カトリック中央協議会が発行している、公文書改訂公式訳から抜粋してご紹介します。
数字は公文書のページ数です。)
教会はムスリムも尊敬の念をもって顧みる。
彼らは、唯一の神、生きていて自存する神、あわれみ深い全能の神、天地の創造者、人間に語りかける神を礼拝しているからである。
イエスを神としては認めないとしても、預言者としては敬っているし、その母である処女マリアをも尊び、時には彼女に敬虔に祈りさえもするのである。
(386頁)
この聖なる教会会議は、教会の神秘を探究しつつ、新約の民とアブラハムの子孫を霊的に結びつけているきずなに心を留める。
というのは、キリストの教会は、自らの信仰と選びの始まりが神の救いの神秘に基づいてすでに族長たちとモーセと預言者たちのもとに見出されることを認めるからである。
信仰によってアブラハムの子であるすべてのキリスト信者がこの同じ族長の召命のうちに含まれており、・・・・。
異邦人である野生のオリーブの枝が接ぎ木されたよいオリーブの木の根によって養われていることをも忘れることはない。
(387頁)
前者はイスラム教のことを、後者はユダヤ教のことについて書かれています。
イスラム教にはまずアブラハムを重視しているという共通点があり、イエスを預言者としては敬っていて、その母マリアも尊んでいます。
ユダヤ教については、キリスト信者は血縁としてアブラハムの子孫ではないにしても、信仰によってアブラハムに連なっているのだ、つまり旧約聖書と新約聖書は深い結びつきがあるのだ、ということです。
そして、公文書のこの続きには、「教会はさらに、教会の土台であり柱であった使徒たちも、世界にキリストの福音をのべ伝えた多くの弟子たちも、ユダヤの民の出身であったことを忘れない」と書かれています。
1962年~1965年に開催された公会議でこのように宣言されただけではなく、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という3つの一神教は、さまざまな違いを抱えながらも、同じ原点を有するという大きな共通点を互いに認め合ってもいます。
そのことを、身をもって、実際に行われた対話をもってわたしたちに示して、あたらめて教えてくださったのが故教皇様でした。
わたしたちは、現代に生きるキリスト者として、他宗教への正しい理解とふさわしい言動を心がけるべきだと考えさせられました。
公文書のこの一文が心に強く訴えてきました。
人間の条件の秘められた謎は昔も今も人間の心を奥深く揺さぶるものであるが、人々はこの謎についてさまざまな宗教に答えを願い求めている。
たとえば、人間とは何か、われわれの人生の意義と目的は何か、善とは何であり罪とは何であるか、苦しみは何から起こりどんな目的をもつのか、真の幸福に達するための道とはどんなものか、死とは何であり死後の裁きと報いとは何なのか、最後に、われわれの存在を包むとともにわれわれの始まりともなりわれわれの行き先ともなっているあの名状しがたい究極の神秘とは何なのか、というように。
(385頁)
宗教を信じるということは、こういうことなのだ、と改めて確信しました。
自分の幸せを望むためではなく、簡単に答えの出ない問について長い時間をかけて考え尽くし、丁寧に人生を生きていくこと。
信仰とは、望んでいることを確信し、見えない事実を確証することです(新共同訳)
信仰は、希望していることを保証し、見えないものを確信させるものです(フランシスコ会訳)
(ヘブライ11・1)
今回の記事は、山本芳久さんの新刊↓を参考にしました。
橋をかけた教皇
2022年6月に作成された遺言に、教皇様は自らの遺体をローマ中心部のサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に埋葬するよう書き残しておられました。
(歴代教皇が埋葬されてきたサンピエトロ大聖堂ではなく)
天井に聖母マリアの有名なモザイク画がある教会で、教皇様が2013年の就任翌日に訪れていた聖堂です。
(それからも、頻繁にこの聖堂で祈りを捧げておられたようです。
宮﨑神父様がローマを巡礼で訪れた際にも、他の巡礼者はほとんどいない中、教皇様が祈られていたところに遭遇されたことがあったそうです。)
お墓は簡素で特別な装飾をせず、自身の名のラテン語名であるFranciscusとだけ刻んで欲しいとの遺言でした。
https://www.cbcj.catholic.jp/2025/04/22/31968/ ←遺言
「私は神を信じていますが、カトリックの神ではありません。
なぜなら、カトリックの神などいないからです。
おられるのは神だけで、私が信じるのはイエス・キリスト、つまり、人間の姿を借りて、この世に現れた神です」
(教皇フランシスコ、2013年10月1日、イタリア紙『ラ・レプッブリカ』の取材)
帰天される前の日、御復活祭のミサでの様子です。
かすれた声を絞り出すようにして、世界中に向けてメッセージをくださった様子が忘れられません。
He gave his all until the end.
教皇様は最期まで、本当に全てをわたしたちに差し出してくださいました。
教皇様は本(『橋をつくるために』)の中で、こうおっしゃっています。
父なる神は御子を遣わされましたが、その御子は橋なのです。
イエス・キリスト自体が神から人に架けられた橋であり、キリスト者も他者へと橋を架けていく存在なのです。
Summus Pontifex
ラテン語で教皇を意味するこの言葉は、pons(橋)+facio(作る)が語源です。
哲学者の山本芳久さんによると、教皇様が宗教改革500周年の際にルター派のイベントに参加して共同宣言を出したり、ユダヤ教・イスラム教の指導者と積極的に対話を度々行ったのは、単なる「宗教間対話」ということだけではなく、橋を架けていくことがキリスト教の本質に属しているという理解があったからだ、ということでした。
カトリックが説く「一致」は、同一化ではなく、さまざまなものがそれぞれでありながら「共鳴」する状態を意味する。
「共鳴」はときに厚い「壁」の向こうにも響く。
「壁」と「橋」はフランシスコの信念を理解する上で、鍵となる言葉だといってよい。
「壁」をなくし、「橋をかける」こと、それがキリスト者の考える「一致」にほかならない。
(若松英輔 著「いのちの巡礼者 教皇フランシスコの祈り」より)
27日のミサでは、宮﨑神父様が2019年の長崎でのミサの思い出をお話しされました。
「朝からの大雨と寒さで、皆震えながらミサが始まるのを待っていたのを覚えているでしょう。
ところが、いざ教皇様が登場される時間になると、雨は止み、青空が広がり、汗ばむほどの陽気になったのでした。」
天国での永遠の安息をお祈りします。
ありがとうございました。
知的好奇心
以前書いた、聖書とキリスト教の教えについて学び始めた友人と、先日LINEでやりとりをしていました。
先週の記事を読んでもらい、意見交換をしていて、わたしが「この世はテンポラリーなもので、永遠の命のためにわたしたちはこの世を旅しているのよ」と伝えたところ、こう質問されました。
「永遠の命、とはどういうこと?」
皆さんは、そう尋ねられたらどうお答えになりますか?
昔、「マラナタ、ってどういう意味ですか?」と、年配の信者さんに質問したことがあります。
その時のお答えは、「心で理解していることなので、そういう風に聞かれたらうまく言葉にできない」と。
使徒信条は、このように締めくくられます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、
聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、
永遠のいのちを信じます。
二ケア・コンスタンチノープル信条では、
わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。
わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世のいのちを待ち望みます。
この文章を使って友人に説明してもおそらく理解してもらえないでしょうし、わたし自身もいまいちピンとこないというのが正直なところです。
聖霊、聖徒の交わり、こうしたことは「信じています」と簡単に言えますが、「永遠のいのちを信じます」とは何を信じているということなのでしょうか。
「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。
生きていて、わたしを信じる者はみな、永遠に死ぬことはない。
このことをあなたは信じるか」。
(ヨハネ11・25〜26)
愛していたラザロが墓に葬られ、嘆き悲しむ姉妹のマルタに対してイエス様はこうおっしゃいました。
フランシスコ会訳聖書の解説には、「イエスが死者を復活させる力をもち、永遠の命の源であることを意味する。イエスを信じるものは、この世の命に死んでも、永遠の命に生き続けることを意味する。」とあります。
うっすらと、疑問の霧が晴れてきたような気がします。
逮捕される直前、イエス様は数々の祈りをされます。
ヨハネ17章では、まずご自分のために祈りを捧げます。
あなたは、すべての人を治める権能を子にお与えになりました。
子が、あなたから与えられたすべての人に、永遠の命を与えるためです。
永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたを知り、また、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
(1〜3)
続けて、弟子たちのために祈りを捧げます。
あなたが世から選んでわたしにお与えになった人々に、わたしはあなたの名を現しました。
彼らはあなたの言葉を守りました。
あなたがわたしにお与えになったものはすべて、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
なぜなら、あなたがわたしにお与えになった言葉を、わたしが彼らに与え、そして、彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたの元から出てきたことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
(6〜8)
だいぶん視界が開けてきました。
以前ご紹介した、わたしの愛読書を開いて、さらなる答えを探してみました。
第3巻第47章は、タイトルが「永遠の命を受けるために、すべての労苦を忍ぶべきこと」となっており、その2節にはこう書いてあります。
あなたの為すべきことを忠実に行いなさい。
『わたしのぶどう園に行って働きなさい』(マタイ21・28)、そうすれば『わたしはお前の報い』(創15・1)となるだろう。
読み、書き、歌い、願い、沈黙し、祈り、勇気をもって苦しみを受け入れなさい。
永遠の命は、このような苦悩、いやそれ以上の苦悩に値するものである。
第49章「永遠の命への憧れと、そのために戦う人に約束された大いなる報いについて」の3、4節には、
あなたは、『神の子供の栄光の自由』(ローマ8・21)に入りたがっている。
またあなたは、永遠の住居と喜びに満ちた天の国を望んでいる。
しかしその時はまだあなたの上には来ていない。
今は、まだその時ではなく、戦いの時、苦労と試練の時だからである。
あなたはまだこの世で試され、さまざまに鍛えられなければならない。
たびたび慰めも与えられるが、しかしこの世に完全な慰めはない。
「キリストを生きる」トマス・ア・ケンピス(翻訳:山内清海)
深い霧が少しづつ晴れてきて、心が軽くなるような気持ちになります。
わたしたちのこの世での日々は、信仰があったとしても苦悩や試練の連続です。
それらに打ち勝ち、内的成長のための糧と捉えて前に進むことができるのは、イエス様の教えを「知って、理解して、信じている」からです。
現在の苦しみは、将来、わたしたちに現されるはずの栄光と比べると、取るに足りないとわたしは思います。
わたしたちは救われているのですが、まだ、希望している状態にあるのです。
目に見える望みは望みではありません。
目に見えるものを誰が望むでしょうか。
わたしたちは目に見えないものを望んでいるので辛抱強く待っているのです。
(ローマ8・18、24〜25)
と、ここまで書いたところで28日のごミサに与り、宮﨑神父様のお説教で目を見開かされました。
「永遠の命を得るということは、イエス様の求める生き方を追求して自分の人生を全うすること、とも言えるでしょう。」
わたしがこの記事を書いていることは、もちろん神父様がご存知なはずはないのに。
思わず、「今日のお説教素晴らしかったです!」とお伝えしました。
(「いつも、やろ」と返されました。)
「 永遠の命とは」と、こうして聖書の言葉などを紐解きながら、友人がもっと「教えを知りたい」という好奇心を掻き立ててくれることは、わたしにとっても喜びです。
内なる旅
「The Book」といえば、「聖書」を意味します。
2010年の映画「ザ・ウォーカー」(デンゼル・ワシントン主演)は、原題「The Book」です。
それが聖書とは知らずに、「本を西へ運べ」という心の声に導かれ、目的地も分からぬまま30年間アメリカを西に歩き続ける男の話しです。
先日、「星の旅人たち」という映画を観ました。
原題は「The Way」
The Bookが聖書であるように、The Wayは聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路のことです。
旅の途中で出会ったジプシーの男が主人公に告げた、「息子の遺灰をムシーアの海に撒け」との言葉に従って、目的の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラに辿り着いた後も旅を続ける、父親の物語です。
父親役はマーティン・シーン、息子役はエミリオ・エステべス、2人は実の親子であり、息子のエミリオがこの作品の監督です。
(AmazonPrimeでご覧になれます。)
イスラエル、ローマ、サンティアゴ・デ・コンポステーラが、キリスト教の3大巡礼地と言われています。
スペイン語でEl Camino de Santiago(サンティアゴの道)と呼ばれ、El Camino(その道)、つまりThe Wayといえば、この巡礼のことを指します。
エルサレム、ローマと比べ、800キロ以上もの道のりを1か月ほど歩き続ける行程は、かなりハードルが高いものです。
そして、イスラエル、ローマへの巡礼とはかなり様子が違うのです。
つまり、「純粋なカトリックの信仰の故に歩く」のではない人の方が多いようなのです。
この映画の主人公もそうです。
旅を共にすることになる3人の仲間も、それぞれに「歩く理由」を持っていました。
巡礼者の中には、理由・目的をはっきりと自覚している人もいれば、それを捜すために歩く人もいます。
歩く理由、あるいは、生きる理由とも言えると思います。
わたしがイスラエル巡礼をした理由は、イエス様たちが生きた土地を自分で体感したいから、でした。
(実際には、足の不自由なわたしにとって灼熱のイスラエルを歩き回るのはかなり大変で、イエス様たちの生きた証を体感するなどという素敵な目的は、ほとんど忘れていましたが。。。)
歩く理由、生きる理由は本当に必要でしょうか。
男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。
ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。
(申命記16・16)
旧約時代の人々、熱心なユダヤ教徒たちは、この3つの祭りを厳格に祝うことを今で言う「巡礼」、と考えていました。
理由は、「主がエジプトからあなたを導き出されたから。エジプトで奴隷であったことを思い起こすため。すべての収穫、すべての働きの実を祝福してもらうため。」でした。
巡礼者であるとはどういう意味でしょう。
巡礼を始める人は、まず目的地をはっきりと設定し、それを心と頭につねに置いています。
ですが同時に、その目的地に達するには、目の前の一歩に集中することが必要で、足取りが重くならないよう無駄な荷を下ろし、必要なものだけをもち、疲れ、恐れ、不安、暗闇が、歩み始めた道の妨げにならないよう、日々頑張らなければなりません。
このように巡礼者であるとは、毎日新たに出発すること、再出発を続けること、旅路にあるさまざまな道を進むための熱意と意欲を新たにし続けるということです。
疲労や困難はあっても、それによってつねに新たな地平と、見たことのない光景とが広がるのです。
キリスト者にとっての巡礼の意義は、まさに次のとおりです。
わたしたちが旅に出るのは神の愛を発見するためであり、と同時に、内なる旅によって自分自身を見いだすためでもあります。
内なる旅とはいえそれは、多様なかかわりに刺激され続けるものです。
つまり、呼ばれているから巡礼者なのです。
神を愛し、互いに愛し合うよう呼ばれています。
ですから、この地上におけるわたしたちの旅が徒労に、あるいは無意味な放浪に終わることは決してありません。
その逆で、日々、呼びかけにこたえつつ、平和と正義と愛を生きる新たな世界に向かうはずの一歩を踏み出そうとしているのです。
わたしたちは希望の巡礼者です。
よりよい未来に向かおうとし、その道すがら、よりよい未来を築くことに全力を尽くすからです。
「第61回世界召命祈願の日」教皇メッセージより
記事を書くために色々と読んだり調べたりしていたら、この、教皇様のメッセージに出会いました。
現代のわたしたちが巡礼する意味が、明確に述べられています。
イスラエルやローマなどに行かずとも、わたしたちは巡礼者、旅人なのです。
内なる旅を続けながら、自分自身を見出す人生、それが巡礼なのでしょう。
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この映画、とてもお勧めです。
歴史の評価
ローマに滞在中の聖書の師匠が、カラバッジョの作品の写真を送ってくださいました。
サンタゴスティーノ聖堂(ローマ)にある、カラヴァッジョの『ロレートの聖母(巡礼者の聖母)』
貧しい農民であろう老夫婦が、聖母子を拝む様子が描かれています。
聖母マリアは、33歳のカラヴァッジョが当時の公証人パスクアローネを襲撃し、大怪我を負わせる原因となった娼婦マッダレーナ・アトニエッティがモデルと言われています。
崇敬の対象である聖母マリアが普通の人々と同じように素足で描かれ、肩を出した露出の高い服、しかも巡礼者とかなり近い距離であることから、不敬だとしてライバルの画家に訴えられて裁判にかけられ、実際に投獄されています。
マリアの母性は、わたしたちを神の御父としての優しさに出会わせてくださる、もっとも直接的で、容易な道です。
聖母が、信仰の始まりとその中心へ導いてくださるのです。
それは、計り知れない賜物で、わたしたちを神に愛される子どもとし、御父の愛のうちに住まわせてくださるのです。
(教皇様の4/10のX)
そして、今観ているネットフリックスのドラマに登場したのが、次の作品です。
この『ゴリアテの首を持つダビデ』は、カラヴァッジョ最晩年の代表作です。
旧約聖書に登場する巨人兵士ゴリアテを倒し、斬り落とした首を持っている、羊飼いダビデの姿を描いた作品です。
彼は、このタイトルで3枚の絵を描きました。
マドリードのプラド美術館に所蔵されている絵は、初期の作品とされています。
他の2つのバージョンは、ウィーンの美術史美術館とローマのボルゲーゼ美術館にあり、これはローマにある作品です。
若きダビデと手に掴まれたゴリアテの首は、カラヴァッジョの若い頃と晩年の自画像だと言われています。
同情と愛を秘めた目でゴリアテの首を見つめているダビデの表情は、人間の複雑な心理描写であるように感じます。
「カラヴァッジョはこの作品を枢機卿に贈答することで、自らの罪を改悛している姿勢を示し、恩赦を得ることを画策した」
「ダビデの持っている剣に「H-AS OS」という文字が刻まれていおり、これはラテン語の「humilitas occidit superbiam(謙虚さは誇りを殺す)」の略語」
「旧約聖書の英雄ダビデをイエス・キリストに重ね合わせ、巨人ゴリアテを悪魔になぞらえて、イエスによって悪魔は葬られることを指す。」
「イエスは謙虚さであり、ゴリアテは誇りを意味する。」
などと説明されているサイトもありました。
https://note.com/ryuishi/n/nf836e5bb9e20
カラバッジョは、いわゆる「キレやすい」人物だったことはよく知られています。
頻繁に問題を起こし、人を切りつけ、絵画のモデルとして死体や娼婦を使っていたことも有名です。
彼が生きていた時は、作品よりも彼の問題行動や人間性の方が評判だったのかもしれません。
しかし今となっては、彼の作品は最高級の芸術品として崇め奉られています。
死がその評価を変える例としては、ゴッホなどとも通ずるものがあります。
イエスのご復活によって、悪は力を失いました。
失敗も、わたしたちがやり直すのを阻むことはできません。
死さえも、新たないのちの始まりへの通過点となったのです。
(教皇様の4/8のX)
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:余談1:
教皇様のX(旧ツイッター)のアカウント名は、@Pontifexです。
ラテン語で、pontifex maximus は教皇を意味します。
元々は、「最高神祇官」(古代ローマの公式な宗教行事を司る神官団に属する人)を指す言葉でした。
今では、pontifexはカトリックの司教を意味していて、英語のpontificate(尊大に話す、横柄な態度で話す)の語源になっています。(笑)
バチカンへの定期訪問のためローマを訪れた日本の司教らは、4月8日(月)より、教皇庁の各省・各機関を精力的に訪問し、日本のカトリック教会の現在の情勢を報告すると共に、具体的な情報の交換とより緊密な関係構築に努めた。
アド・リミナ(ad limina )とよばれるこの定期訪問では、「使徒たちの墓所へ」を意味するその言葉のとおり、初代教会を支え、宣教に尽くし、ローマで殉教した2人の使徒、聖ペトロと聖パウロの墓参りが行われる。
バチカンニュースより
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:余談2:
「ゴリアテの首を持つダビデ」の絵が出てきたのは、ネットフリックスの「リプリー」というドラマです。
アラン・ドロン主演の映画『太陽がいっぱい』(1960)が新たにドラマ化され、先週から配信されています。
イタリアの美しい風景があえて全編白黒なところが、かえって美しさを際立たせているように感じました。
この作品もまた、何度もこうして映像化され、歴史に残る名作となっています。
行動する女性たち
4月の教皇様の祈りの意向は、「女性の役割」のために、とされています。
「女性の尊厳と価値があらゆる文化で認められ、さまざまな差別に終止符が打たれますように」。
ビヨンセ(アメリカの世界的アーティスト)の楽曲に、「Who run the world? Girls!」というのがあります。
誰が世界を動かしてる?女性たちよ!!
日本では女性管理職の数が少ない、議員になる女性が少ない、などと言われていますが、世界を見渡せば、女性たちがまだ旧約聖書の時代のような扱いを受けている国もあるのです。
聖書が書かれたのは、古くは今から4000年以上前であるにも関わらず、そして、当時は当然の如く女性蔑視(人数を数える際にはカウントされないですし)の時代であったにも関わらず、旧約にも新約にも、歴史を動かす女性や男性に怯まず行動する女性たちが描かれています。
イエス様が亡くなった時とその直後、すぐに行動したのは女性たちでした。
イエス様が息を引き取られた時に、百人隊長が「まことに、この方は神の子であった」。と言い、その様子を婦人たちが遠くから見守っていました。(マルコ15・40)
ジェームズ・ティソ(James Tissot)
『十字架上から見たキリストの磔刑』 1890年頃
この人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って、仕えていた婦人たちである。
なお、このほかにもイエスと一緒にエルサレムに上って来た多くの婦人たちがいた。
(マルコ15・41)
マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスが納められた場所を見ておいた。
(15・47)
安息日が終わるとすぐに、3人の女性たちは香料を買って墓に向かいます。
彼女たちは、遺体の腐敗が始まっているであろうことには気にも留めず、イエス様への献身の故に、最後の奉仕をしようと行動するのです。
十字架につけられたイエス様と一緒にいた彼女たちの誠実さは、その不在が際立っているペトロをはじめとする十二人の弟子たちの不誠実さとは対照的です。
「日が昇るとすぐ」(16・2)彼女たちは墓に向かいます。
マルコがわざわざ日の出を記したのは、旧約の最後の預言にあたるマラキ書の言葉を指し示しているのかもしれません。
わたしの名を畏れるお前たちには、正義の太陽が輝き、その翼には癒しがある。
お前たちは外に出て、肥えた子牛のように跳ね踊る。
(マラキ3・20)
正義の太陽とはまさにメシアを指しています。
そして、週の初めの日は、神が光を創造した日、つまり新しい創造の始まりを意味します。
7日のごミサで宮﨑神父様がおっしゃったように、週の初めの日、つまり日曜日から始まるわたしたちの日常は、イエス様の復活を記念して集うミサごとに新しくされます。
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何度か紹介している画家、ジェームズ・ティソ(James Tissot、1836~1902)
晩年は、フランス東部のドゥー県シュヌセ=ビュイヨンにある修道院で聖書の挿絵に取り組みました。
先日のNY滞在の折、JewishMuseumで彼の連作を見てきました。
旧約聖書の物語を描いた作品は、どれも生き生きと描かれており、画集を買ったので今も時々開いて見ています。
「十字架上から見たキリストの磔刑」という作品は、BrooklynMuseumにありますが、次にご紹介する作品はJewishMuseumに収蔵されています。
旧約の中で主人公として描かれている女性は何人もいますが、このエステルはわたしのお気に入りです。
ユダヤ人であることを隠してクセルクセス王の妃となったエステルは、王の家臣であるハマンがユダヤ人の虐殺を計画していることを知り、機転を効かせて行動し、それを阻止するという物語がエステル記です。
この絵は、エステル記に書かれている豪奢な王宮の様子をよく表しています。
銀の輪と大理石の柱には、白い木綿の織物と緋色の幔幕が良質の亜麻布と紫色の織物でできた紐で結ばれていた。
また、まだら石や大理石、真珠貝やいろいろな宝石でモザイクを施した床の上には、金や銀の長椅子が置かれていた。
(エステル記1・6)
信念を持って行動する女性の姿は、いつの時代も鮮烈な印象を残します。
男性には武勇伝的なものが多いのに比べ、知恵と機転を効かせた女性の行動力は、あっぱれとしか言いようがないと思いませんか?
男性と女性は同じ、ではなく、女性にしかできない役割、能力というものがあると思っています。
教皇様のご意向のように、全ての女性たちの尊厳と価値が守られますよう、祈りましょう。