行事風景

正当な理由

大相撲、楽しんでいます。
東十両7枚目の友風、という力士は、今場所から下の名前を友太(ゆうた)から想大(そうだい)に変えました。
右膝の大けがで4度の手術、5か月に及ぶ入院生活を経ても土俵に上がり続ける姿に、師匠が言った言葉が紹介されていました。

「お前は人とは違って壮大なことをやり続けている。それはすごいことなんだ。
しかも人の“想い”があって土俵に戻ってくることができた。
『想大』という名前にしたらどうだ」

力士として戦う姿の裏に、怪我とその後遺症による障害との闘いもあったのか、と思うと、より一層応援に力が入ります。

 

福音宣教の8・9月号のテーマは、『戦争をいかに防ぐか』です。

その中でも、神言会のハンス ユーゲン・マルクス神父様(前・南山大学学長)の「正しい戦争はあるか」というコラムが大変興味深く、そして、とても考えさせられるものでした。

神義論には興味がありますが、正戦論というテーマは初めて知ったことでしたので、驚きと共に読み進めました。

正戦論とは、戦争一般が正しいかどうかではなく、正しいと認められるため、戦争の開始と遂行はどのような条件が満たされるべきか、という考え方だそうです。

「災いだ、アッシリア、わたしの怒りの杖。
彼らの手にあるその棒は、わたしの憤り。
わたしは、神を無視する国に向かって彼を遣わし、
わたしの憤りの民から分捕り品を取り、略奪品を奪い、
彼らを巷の泥のように踏みにじるよう、命じる。
しかし、彼はそのように考えず、その心はそのように思わない。
まことに、彼の心にあるのは滅ぼすこと、多くの諸国を滅ぼし尽くすこと」。
(イザヤ10・5~7)フランシスコ会訳

この箇所では、神を敬わない国に罰を与えようとする神の意志が書かれています。
ところが、神が遣わしたアッシリアは、それ以上のこと、破壊して滅ぼし尽くすことしか考えていませんでした。

ニュースで見る、ウクライナとガザの映像、破壊され、根絶やしに滅ぼそうとされているかのような惨状と重なって見えます。

カトリック教会としては、第2バチカン公会議において、「平和的解決のあらゆる手段を講じたうえであれば、政府に対して正当防衛権を拒否することはできない」、とされているようです。
(難しい言い回しですが、ようは、正戦はありうる、ということでしょう。)

教皇様は今年の3月に、ウクライナの形勢が圧倒的に不利だとして「和解交渉のためにウクライナが白旗を揚げるなら、それこそ勇気のある決断だろう」と発言され、欧米の世論が猛烈な批判をしたことは記憶に新しいところです。

主がシオンの山とエルサレムですべての業を終えるとき、アッシリアの王の尊大な心が結んだ実と、その目に輝く高慢を、主は罰せられる。
なぜなら、彼はこう言っているからだ。
「私は自らの手の力で行った。
自らの知恵で賢く振る舞った。
私はもろもろの民の境を取り去り、その蓄えを奪い、力ある者のようにその住民をおとしめた。」
(イザヤ10・12~13)聖書協会共同訳

福音宣教のなかでマルクス神父様は、教皇様の発言の真意をこう書いておられます。

戦闘員と非戦闘員との区別がますます不明瞭になっていく中、自己防衛のために戦われる戦争もついに正当性を失う危険をはらんでいる、という警告も教皇は意図されていたかもしれない。
教皇が踏まえておられるカトリックの正戦論の趣旨は、第一義的には、戦争を正当化することではなく、避けがたい戦争による害を最小限度に減らす、ということである。

 

正戦論についていろいろ調べていると、2020年(日本語版は2021年)に発行された教皇様の回勅、「兄弟の皆さん」のなかに、そのことに関しての記述がありました。

久しぶりに読み返してみて、教皇様は2024年の現在も、恐らく全く同じように考えて上記のウクライナに関する発言をされたのだ、と確信が持てました。

問題であるのは、核兵器、化学兵器、生物兵器の開発と、新技術からもたらされる膨大で増大する手段によって、制御不能な破壊的軍事力が戦争に付与され、多くの罪のない民間人が被害にあっているということです。

ですからわたしたちはもはや、戦争を解決策と考えることはできないのです。
戦争によって手にされるであろう成果よりも、つねにリスクの方が大きいはずだからです。
この現実を見れば、「正戦」の可能性についてかたるべく、過去数世紀の間に合理的に練られた基準を、今日支持することはきわめて困難です。
二度と戦争をしてはなりません。
(第7章258)

 

わたしたちのように、戦争から遠く離れたところで平和に暮らしていると、どうしても現実的に深く考えることが難しい。。。

回勅の一番最初に、教皇様はこう書かれています。

「離れていても、一緒にいるときと同じように兄弟を愛する人は、幸せである。
身体的な近しさを超え、生まれや住む世界と言った場所を超え、一人ひとりを認め、尊重し、愛することを可能にする兄弟愛です。」

戦うのは自分自身の弱さとだけにし、周囲の人、特に子どもたちに対して優しい気持ちで接することに励みたいものです。

キリストは来られ、遠くの者であったあなた方に平和を、近くの者にも平和を、福音として告げ知らせました。
(エフェソ2・17) 

神の方を向く

東京都民ではないのに、今回の都知事選挙はとても気になってニュースを追いかけていました。
バイデン大統領の進退も気になるこの頃です。

今年は、世界中で政治の流れが大きく変わっています。
というのも、EUの多くの地域で、極右とナショナリスト右派が躍進しているからです。

背景にあるのは、(2022年度は700万人がEU内に流入したという)移民問題、インフレ、環境重視の改革のコスト(環境保護を重要視する結果、電気代などが高騰)、などに人々が懸念を募らせているからだと言われています。

反移民、反環境規制、反EUといった主張を掲げる極右の躍進は、昨年11月のオランダの選挙で顕著に表れました。
ドイツ、ハンガリーでも極右政権が誕生しています。
先週のフランスの解散総選挙でも、結果及ばなかったものの、同様に極右政党が大躍進しました。

イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。
実もそれに等しい。
実を結ぶにつれて、祭壇を増し国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。
(ホセア10・1)新共同訳

イスラエルは実を結ぶ茂ったぶどうの木。
その実が多くなればなるほど、彼は祭壇を増やした。
(同)フランシスコ会訳

イスラエルは多くの実を結ぶ、伸び放題のぶどうの木。
たわわに実るにつれ、祭壇を増やし
国が豊かになるにつれ、石柱を飾り立てた。
(同)聖書協会訳

この訳は、断然、聖書協会共同訳が勝っていますね!

わたしの素人考えではありますが、ヨーロッパをよりよい社会にするためにEUを結成し、移民を積極的に受け入れる政策を打ち出したのではなかったでしょうか。

環境を破壊し続けてきたのはわたしたちであり、そのツケを後回しにしないための政策は必要不可欠ではないでしょうか。

ユーロ安・円安、そしてインフレも、お金をゲームのように動かし、莫大な資金を出し合って戦争しているのは、わたしたち人間なのです。

 

クリスチャン・ナショナリズムというイデオロギーがあります。
彼らは、アメリカがキリスト教国家として建国されたと主張し、その政府と社会はキリスト教の価値観を反映すべきだと主張しています。
想像がつくと思いますが、ドナルド・トランプ前大統領を支持する人々です。

これまで人種差別的とみなされてきた欧米の極右は、近年は熱心にユダヤ人差別反対を叫んでいるようです。
それは、反ヘイトに舵を切った、というより、異人種・異教徒との共存を否定する考え方からのようです。

極右にとってイスラエルは、「イスラム勢力と戦う同盟者」であり、ユダヤ人差別反対はそのためのアピールだと言われています。

「南アフリカのアパルトヘイトが公式に消滅した現在、白人と有色人種・異教徒を、軍事力をもってしてでも分離する体制はパレスチナ占領地にしかない」と書いてある記事がありました。

人種、宗教の違いを根幹にしたヘイトクライムは、世界のいたるところで酷くなる一方ですし、政治もその方向を向いている(極右が主流になりつつある)という現実は、とても恐ろしいことのように思えます。

 

ホセアは、神と民の関係を夫婦の関係にたとえて巧みに表した預言者です。 
不貞を働いた妻が、罰を受けた後に回心し神の愛を思い起こさせられる、という構成で編集されたのがホセア書です。
彼が活動したのは、BC750~725年ごろだと考えられています。

わたしは彼らの背信を癒やし、喜んで彼らを愛するであろう。
わたしの怒りは彼らから離れ去った。
わたしはイスラエルに対して露のようになる。
彼はゆりのように花咲き、
ポプラのように根を張る。
その若枝は栄え、オリーブの木のように麗しくなり、
レバノン杉のようにかぐわしくなる。
その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。
わたしは緑の糸杉のようである。
お前を実らせるのはわたしである。
知恵ある者はこの言葉を悟り、賢き者はこれを知れ。
主の道はまっすぐで、正しい者はこれを歩む。
しかし、罪人はこれにつまずく。
(14・2~10)

青くした文字は、すべて神の愛の象徴である、と教わりました。

「お前を実らせるのはわたしである」

一口にキリスト教、と言っても、聖書の解釈も神に向かう姿勢も本当にさまざまであることを、世界情勢をみていると痛感させられます。

身勝手な大人の争いに巻き込まれて犠牲になる子どもたちのために祈ります。
子どもたちの巻き添えが、これ以上増えませんように。
身体と心に傷を負ってしまった子どもたちが、少しでも笑顔になれる時間が持てますように。
子どもたちが、神様の方を向いて、前を向いて生きていくことができますように。

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エルサレムにある、ユダヤ人とアラブ人の子どもたちが共に学ぶ学校についての、NHKの特集記事です。
周りが何と言おうとも、欧米の政治がどのような政策を行おうと、結局は当事者のこうした意識と行動が最高の成果を産むのだ、と思わされました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240708/k10014502391000.html

我が家の近くの、わたしが大好きな風景です。
筑後川と耳納連山と大きな空。 

分かち合い

6/23にアベイヤ司教様をお迎えして、筑後地区の信徒を対象とした研修会が行われました。

研修会、というと一方的に「講話」のようなものを聞くだけ、の場合が多いかと思いますが、今回は司教様が二つのテーマで「さぁ、みなさんで今から分かち合ってください」という場面をくださいました。

教会では、「分かち合い」ということをよくします。

一般的には、「嬉しかったこと、喜ばしいことを分かち合う」こと(お祝いの会や贈り物)はしても、面と向かって人に「さぁ、分かち合いましょう」とは言う機会はあまりないのではないでしょうか。

(多分、ちょっと怪訝な顔をされます。。。)

東京大司教区のホームページに「分かち合いとは」というページがあり、そこにはこう書いてありました。

『分かち合いとは』
知識や考察、正しいとか間違っているという判断ではなく、今ありのままの自分が感じている、心の動き(喜び、悲しみ、怒り、恐れなど)や、気づきを分かち合うこと
互いに、ひたすら心をこめて聴き合うこと
肯定も否定もせず、解決も試みず、教えたり、指図したり、勧めたりもせず、ただ傾聴すること

『分かち合いの実り』
・「今、ここで」自分が感じていることを表現できると、自分のより深いレベルに気づく。
・話す方も聴く方も、お互いを鏡として、自分の価値観、何を大切にしているかが明確になる。
・相手の話を心をこめて聴くと、相手の心の動きに敏感になり、共感できる人になる。
・人との交わりの中で、互いに生かされていることがわかる。

 

アベイヤ司教様は、研修会の中でこうおっしゃいました。

シノドスのテーマであった「ともに歩む教会」を造り上げていくためには、信徒、修道者、司祭、司教が共に話し合い、それぞれの体験を分かち合うことは欠かせません。

実生活の体験を分かち合うことが大事です。
分かち合うことで、様々な気づきが生まれると同時に、お互いを知る事にもつながるからです。
しかし、残念なことに、小教区において「分かち合い」を避ける傾向や、人との付き合いが希薄になっている現状が広がっているようにも見受けられます。

久留米教会では、ピースナインの会やヨセフ会、女性の会といったいくつかのグループが活動していて、それぞれのグループでは毎月さまざまな分かち合いが行われています。

しかしながら、積極的に信徒が分かち合っているか、というと、コロナ前のようには活発ではないでしょう。

10年前(!そんなに前!)から8年間、聖書百週間で学んでいた時のグループでは、毎週聖書を分かち合っていました。
自分の感じたこと、疑問、好きな理由など、自由に全員で分かち合っていて、とても充実した日々でした。

そしていま、わたしはここにこうして書くことで「一人分かち合い」をしています。
書いたことについて、「わたしはこう思いました」といった「分かち合い返し」をいただくことがあり、それがとても嬉しいのです。

やはり、分かち合いは一方通行ではつまらないものです。
今ありのままの自分が感じている、心の動き(喜び、悲しみ、怒り、恐れなど)や、気づきを分かち合うこと。

イエス様の時代、ユダヤ人の多く住む地区にはたいていシナゴーク(会堂)がありました。
信心深いユダヤ教徒たちが集まり、祈り、聖書朗読、律法と預言書に関する教育が施されていました。
多くは文字が読めなかったため、シナゴークでの教えを忠実に守る人々にとっての礼拝は、大切な信仰の分かち合いの場でした。

初期の教会では、イエス様の教えの分かち合いがかなり活発に、というか、まだ新約聖書は存在していなかったのですから、信じる者たちが分かち合いをすることで信仰を保ち、伝えていたはずです。

こうして分かち合われた信仰が、脈々と受け継がれてきたのです。 

イエス様が生まれ故郷のナザレのシナゴークで教えられた時、その教えは受け入れられませんでした。
マルコの5章の終わりまで、イエス様はガリラヤの至る所で神の国を宣べ伝え、癒し、悪霊を追い払い、亡くなった子どもを生き返らせ、勝利の行進のような様相で、満を持して故郷に戻られました。

ナザレは300人ほどしか住んでいない小さな村でしたので、奇跡を行いながら宣教していることも噂には聞いていたものの、小さい頃から知っている若造が偉そうに教えるのが許せない、気に入らなかったのもあったでしょう。
(わたしたちの日常にも、そうした気持ちが湧く場面があることは否定できないものです。)

宣教という分かち合いは、相手が心を開いていなければ受け入れられません。
信仰は、イエス様が心の中に入っていくための扉です。
しかも、その扉は内側からしか開くことはできません。

アベイヤ司教様が研修会でおっしゃいました。

「いろいろな理由で教会から離れてしまった人、それは、家庭の事情かもしれません、人間関係、信仰への疑問からかもしれません、そうした人々を裁いてはいけません。
その人たちとのつながりを考え直すことを話し合って欲しいと思います。」

教会から離れてしまった人を呼び戻せなければ、新しい人の心の扉を開くなどできないのかもしれません。
一人の信徒が、一人の離れてしまった人のことを心に留める。

できることをきちんと取り組みたい、と気持ちを新たにできた研修会でした。

 

歴史を理解する

本を読むのが好きな一番の理由は、「知る」ことができること。

最近のニュースサイトは、AIによってランダムに「好み」そうな記事が表示される仕組みになっていますし、そもそも内容の信憑性が疑わしいものが多い気がして、、、。

また面白い本を読みました。

 

アメリカの歴史はコロンブスがアメリカ大陸を「発見」した1492年から書き始められます。
(そう、学生時代には教わったのです。)

ですがこれは、あくまでもヨーロッパ的な見方であり、アメリカ大陸にはもともと先住民が暮らし、彼らはヨーロッパからやってきた彼らに、土地も彼ら自身をも「略奪」されたにすぎません。

コロンブスが「発見」したカリブ海の島々も、当時の教皇アレクサンデル6世の「認可」を得て、スペインとポルトガルで分け合っています。
その後もスペインは、南アメリカ大陸の地域をも征服し、現在のボリビアのポトシ銀山に眠っていた膨大な埋蔵量の銀山は、スペインの戦費を賄う重要な財源となったのです。

アメリカでは10月第2月曜日はコロンブス最初の航海を記念する『コロンブスデー』の祝日でしたが、近年はさまざまな都市がこの祝日を『先住民の日』に置き換えて、各地でコロンブスの像が取り除かれているようです。

同じ1492年、7世紀にわたってイスラム勢力の支配下にあったスペイン半島のグラナダが、レコンキスタ(失地回復)によってキリスト教徒の下に「取り戻され」ました。

当時、スペイン半島を支配していた連合王国は、統一するためにカトリックの信仰を利用しました。
ローマ教皇からの信認を得て、永年の戦いの末にイスラム勢力を「排除」し、それまでその地で共存していたユダヤ人にカトリックへの「改宗」を迫り、応じなかった10万人を「追放」することで、スペイン半島の統一を成し遂げたのです。

 

一方で、コロンブスの航海に同行したドミニコ会の修道士、ラス・カサスは、インディオを過酷に扱うコロンブスの一行を激しく非難し、自分たちと同じ人間である彼らの尊厳を守るようにと、教皇パウルス3世に訴えます。

アメリカのキリスト教の歴史も、わたしたちが学校で習ったような「メイフラワー号でアメリカ大陸に渡ったピューリタン」から始まるのではなく、敬虔なカトリック信者であったコロンブスと、その対応にあたったローマ教皇にその始まりがありました。

この本を読んで、歴史とは一方的な記述によって(征服者側=ヨーロッパの主観で)伝えられているのだ、と改めて強く感じました。

その意味でも、やはり新約聖書は、あらゆる方向からイエス様と弟子たちの様子を書き残していることがよく分かります。
怒ったり泣いたりするイエス様、疑って争って、イエス様の最期の時まで嘘をついたり逃げたりする弟子たちの姿、人の弱さと強さの両面を包み隠さず表現している聖書。

AIがわたし好みで表示してくれたニュースに、このようなものがありました。

米南部オクラホマ州のウォルターズ教育長は6/27、公立学校の授業で聖書を取り上げることを義務化すると通達した。
南部ルイジアナ州では教室に旧約聖書の十戒の掲示を義務付ける州法が成立しており、公立学校に宗教を持ち込む動きが広がっている。
通達は「聖書は必須の歴史的、文化的な規範だ」とし、授業で教えることで「生徒たちは米国にとって大事な価値観や歴史を理解できる」と主張

アメリカにとって大事な価値観や歴史を理解する、という、これまた一方的な考え方がいかにもアメリカらしいです、、、。

 

何事においてもそうだと思うのですが、背景を理解しておくことはとても大切です。

一側面からの見方で物事を判断してしまうのは、特に歴史に関してはとても危険です。

イスラエルとパレスチナのことについても本を読みました。
本に書いてあることが全て正しいわけではないでしょうが、それでも、歴史的な背景、これまでの長い経過を知ったうえでニュースを見聞きすると、物事の見方が変わります。

起きていることの背景をもっときちんと理解したい、とますます思うようになりました。

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わたしたちの信仰の大切な歴史のひとつである、今村教会
先日、どうなっているだろう、と気になって見に行ってきました。

耐震工事は遅々として進んでいないように見受けられます。
今村の信徒の方にお尋ねしたら、「工事が完了するまで10年はかかるそうです。聖堂の周囲の小屋などを取り壊すことから始めるようですが、まだそれも始まっていません。」とおっしゃっていました。

いつ起こるかわからない災害、特に大きな地震が来たら全て崩壊してしまいそうな様子です。

この美しい聖堂を久しぶりに見て、次の世代にも残したいと改めて思いました。

↓ 2019年7月7日、筑後地区の研修会で前田枢機卿をお呼びした時の写真です。

 

聖書の読み比べ

先日のミサのの朗読で、「あぁ、ここは素敵。帰って聖書を開いて前後を読んでみよう」と思う個所がありました。
家に帰って聖書を開くと、あまりにも訳が違うことに気づきました。

それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。
目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。
わたしたちは、心強い
そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。

(2コリント5・6〜8 新共同訳)

そこで、わたしたちはいつも安心しているのですが、この体に住みついている間は、主のもとを離れているのだと知っています。
見えるものによってではなく、信仰によってわたしたちは生活しているからです・・・・。
わたしたちは安心しているのですが、体の住まいを離れて主のもとに住みつくほうがいいと思っています。
(フランシスコ会訳)

それで、私たちはいつも安心しています。
もっとも、この体を住みかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。
というのは、私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいるからです。
それで、私たちは安心していますが、願わくは、この体という住みかから離れて、主のもとに住みたいと思っています。
(聖書協会共同訳)

読み比べてみて、いかがですか?
わたしは普段、フランシスコ会訳聖書を読んでいるのですが、この部分は断然、新共同訳の言い回しが好きです。
3つ目の聖書の文章はどうですか?
読みやすく、文章が綺麗だと思いませんか?

新共同訳の「わたしたちは、心強い」という部分は、英語聖書では「We are courageous.」です。

聖書と典礼で使用されているのは、新共同訳聖書です。
18年の歳月をかけて1987年に生まれた、現代日本の代表的翻訳です。
カトリック教会とプロテスタント教会の聖書学者の英知を結集した国内初の共同訳。
中央協議会の教皇メッセージ日本語訳は、新共同訳聖書を引用しています。

わたしが普段読んでいるのは、フランシスコ会訳聖書です。
これは、カトリックの聖書です。
(カトリックの学校時代から、この訳に親しんでいます。)

そして、1番新しい訳の聖書が、 聖書協会共同訳聖書。
次世代の標準となる日本語訳聖書を目指して2010年に翻訳を開始し、2018年12月に初版が発行されました。
カトリックとプロテスタント諸教会の支援と協力による共同の翻訳事業です。
国内の聖書学者および歌人などの日本語の専門家によって翻訳されました。
翻訳にあたり「礼拝での朗読にふさわしい」文章にすることを目的にして訳され、格調高く美しい日本語訳になっています。

 

翻訳の微妙なニュアンスの違いによって、頭と心にどのように入ってくるか、その違いをいつも感じています。

時には、「あ〜、やっぱり慣れ親しんだフランシスコ会訳がいい」と思うこともあれば、今回のように、「新共同訳の方がストレートに伝わるな」と思ったり。

それでも疑問に感じる時は、英語の聖書を開いて自分なりに納得したり、しながら読んでいます。

今回、聖書協会共同訳の聖書を手に入れたので、ますます読むのが楽しくなりました。

 

例えば、ガラテヤ6・9〜10の新共同訳

たゆまず善を行いましょう。
飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。
ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、善を行いましょう。

これに対して、フランシスコ会訳は次のとおり。

倦まず弛まず善を行いましょう。
飽きずに励めば、時が来たとき、わたしたちは刈り取ることになります。
ですから、機会のあるごとに、すべての人に、善を行いましょう。

さらに、聖書協会共同訳ではこうなります。

たゆまず善を行いましょう。
倦むことなく励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。
それゆえ、機会のある度に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。

 

「 たゆまず」ではなく、フランシスコ会訳の「倦まず弛まず」という言い方は、ひらがなで表記することの多い聖書の訳の中でも一際強調されたことを感じる表現です。

パウロが伝えたかったのは、「ずっと善を行いましょう」ではなく、「たるまずに(倦まず弛まず)、しっかりとして」善を行うように、なのだろう、とよく理解できます。

 

サンパウロ修道会の神父様の面白いコラムを見つけました。

パウロの勧めは、単に「時のある間に」とか、「機会が訪れれば」とかいう意味ではなく、まさに今がその「機会」、「特別な時」なのだから、という意味です。
わたしたちは、善を行うための「特別な時」、「重要な時」を実感し、行動に移すよう招かれているのです。

訳文の違いから聖書を味わい直す | 聖パウロ修道会 サンパウロ 公式サイト

第4回 機会のあるごとに、すべての人に、善を行いましょう――訳文の違いから聖書を味わい直す
https://www.sanpaolo.jp/14296

読み比べる読み方、これもまたお勧めです。

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聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。
こうして、神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです。
(2テモテ3・16〜17 聖書協会共同訳)

 

つたわる言葉

中世ヨーロッパはラテン語が唯一の公用普遍語であったため、キリスト教ではラテン語を使ってその教えを広めていった、ということを以前書きました。

地方の話し言葉としてのラテン語は、ローマ帝国崩壊後は各地でそれぞれ独自の変容を遂げていき、フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語などの言語が生み出されることになりました。

これらの地方に伝播されたラテン語(Vulgar Lain、俗ラテン語)と、その各地方の現地語とが時とともに融合し、各地で別々に発達し、ついに相互に通じなくなったのです。

「相互に通じなくなった」と聞くと、バベルの塔と聖霊降臨について思い浮かびます。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。
そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
(使徒言行録2・1~3)

 

聖書は、冒頭からこのことを警告しています。
バベルの塔の話について考えましょう(創世記11・1―9参照)。
この話は、人間、被造物、そして創造主とのきずなをないがしろにしながら、天(=わたしたちの行き先)にたどり着こうとする時に起こることを描いています。
つまり、他者のことを考えずに、ひたすら上へ登ろうとするたびに、このようなことが起こるのです。
自分のことだけなのです。
わたしたちはタワーや超高層ビルを建てていますが、共同体を衰えさせています。
さまざまな組織や言語を統一化していますが、文化的な豊かさを抑えつけています。
地球のあるじになろうとしていますが、生物の多様性と生態系の均衡をむしばんでいます。

聖霊降臨はバベルの塔とはまったく逆です。
聖霊が風と炎となって天から降り、高間に閉じこもっていた共同体に、神の力を与え、すべての人に主イエスのことを伝えるためにそこから出るよう駆り立てたのです。
聖霊は、多様なものを一致させ、調和をもたらします。
バベルの話にあるのは調和ではなく、勝ち取るための前進だけです。
そこでは人は単なる道具、「労働力」にすぎません。
しかし、聖霊降臨においては、わたしたち一人ひとりが一つの道具、共同体の建設に全身全霊で参加する一つの共同体という道具なのです。

教皇フランシスコ、2020年9月2日一般謁見演説より抜粋
https://www.cbcj.catholic.jp/2020/09/02/21390/

言語だけでなく、互いになにもかもが通じなくなったかのような世界情勢です。

物理学者のアインシュタインと精神分析家のフロイトの往復書簡、『ひとはなぜ戦争をするのか』というものがあります。

ナチスが政権奪取する前年の1932年に、アインシュタインは「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」というテーマでフロイトと書簡を交わしました。

それにたいしてフロイトは、「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにもない!」と明言しました。
さらに、戦争とは別のはけ口を見つけてやればよいと言い、最期にはこう書いています。

「文化の発展を促せば、戦争の終焉ヘ向けて歩み出すことができる!」

二人ともユダヤ人で、亡命したためホロコーストの犠牲にはならずにすんだのですが、現在の世界に彼らが生きていたら、どんな発言が聞かれたでしょうか。

戦争に対する互いの主張が全く嚙み合わず、果たして何が正しく、何が正義だというのかすら分からない(理解できない)、現在の世界です。
そもそも、正しい戦争などというものはないでしょうが、、、。

争っている国同士は、言葉が通じない、のではなく、心をふさいでいるのだと思うのです。

種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。
道端のものとは、こういう人たちである。
そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。
御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。
この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
(マルコ4・14~19)

今週もマルコが読まれています。
宮﨑神父様はいつも、「朗読される箇所の前後を読みなさい」とおっしゃいます。

聖書、特に福音書は、キリスト者でなくても、誰が読んでもその真意がつたわる言葉だと思っています。

自分の根とは何でしょうか。
揺るぎのない信仰への信頼、とでも言いますか、わたしたちキリスト者が持つべき理想ではないでしょうか。

お説教で、宮﨑神父さまはこうおっしゃいました。

「神からの恵みを、どう自らが成長させるかが大事です。
育てるのは神様ですが、手入れするのは自分です。
神様のお恵みに感謝し、努力する。つまり、不必要な雑草は時々自分で抜かなければなりません。」

メアリー・ヒーリーは、このくだりについての解説で、こう書いています。

「イエスの弟子たちが彼自身の苦しみの神秘を分かち合う上で体験する妨害や失敗は、その計画において予期せぬものではあっても、必要不可欠な部分なのです」

石だらけの人生で、深くはった根を持たず、茨の中に暮らすように心に隙間が多い自分である、と理解すること。
その上で、揺るぎのない信仰への信頼を渇望し、日々を新たに前進する。
神様に対して心をふさがず、「またやってしまった」と反省できることも、内的進歩のためには必要不可欠だと思います。

 

フロイトの言うように、心がささくれたようになった時には、美しい音楽を聴くのが一番の薬です。

普段クラシックを好んで聴かない方でも、これを聴けば喜びの気持ちが湧く、と保証します!

 

あなたとともに

バチカンの一般謁見での教皇様のお話しには、いつも心を打たれ、新しい気づきを与えてもらいます。

わたしたちがある人物について最初に知ること、それは名前である。
わたしたちはそれによってその人を呼び、認識し、記憶する。
聖三位一体の三番目のペルソナも名前を持っている。
それは聖霊である。
しかし、聖霊を指す「スピリトゥス」という呼び方はラテン語化されたものである。
最初に聖霊を啓示された人々が知った名前、預言者や、詩編作者、マリア、イエス、使徒たちが呼び祈った名前、それは風や息を意味する「ルーアハ」という名であった。
(6/5教皇フランシスコ水曜一般謁見でのお説教より)

 

主は皆さんとともに dominus vobiscum
またあなたとともに et cum spiritu tuo

昨年、ミサの式次第が変更になる前は、「また司祭とともに」と言っていました。

先日、友人から「本当は『あなたの霊とともに』と言うのが正しい訳なのよ」と教えてもらいました。

日本語で「主は皆さんとともに」と訳されている表現も、直訳では「主はあなたたちとともに」であり、それに対する会衆の応答が「またあなたとともに」なのだそうです。

主がイサクにかけた言葉「わたしがあなたとともにいる」(創26・3、24)
ボアズが自分の農夫たちへ「主があなたたちとともにおられるように」と言うと、彼らも「主があなたを祝福してくださいますように」と答える(ルツ記2・4)
大天使ガブリエルがマリア様へ「主はあなたとともにおられます」と告げる(ルカ1・28)

神がこのように人に語りかけられるいくつかの場面では、主ご自身か主の御使いが、「主があなたとともにいる」と確信を込めてその人物に語っています。

またあなたとともに et cum spiritu tuo

ラテン語が分からなくても、太字にしたところが英語のスピリットの語源であることには気付きます。

古典ギリシャ語 πνευμα (プネウマ)、ψυχή(プシュケー)
ヘブライ語 רוח(ルーアハ)
ラテン語 spiritus(スピリトゥス)
英語 spirit(スピリット)

(式次第が変わるときに「またあなたの霊とともに」とはならなかったのは、日本語の「霊」は人それぞれに様々な意味に受け取られるため、他の国々や他教派の式文を参考にして「霊」という言葉は使わないこととされたためです。
ちなみに、英語の式次第ではThe Lord  be with you--And with your spirit となっています。)

 

東京教区の田中 昇神父様のnote(ブログのようなもので、色々なジャンルで書かれたコラム)に、「典礼における挨拶」というタイトルの文章が掲載されていました。

その中で、田中神父様はこうおっしゃっています。

「あなたの霊とともに」という表現は、聖書ヘブライ語においては「あなた自身」という意味に解釈することができます。
「あなたにも、神様がともにおられますように」という意味合い以上の何かが含まれています。
「あなたの霊とともに」ということによって、信仰者は、聖なる典礼の間、司祭叙階の際に与えられた聖なる力によって、「主があなたとともにおられる」と宣言するところの司祭を通して聖霊が特別な働きをしていることを認めているのです。
真の意味での司祭とは、ただ一人、キリストご自身のみです。
単なる「あなた」ではなくあなたをキリストの祭司とされた「あなたの霊」とともになのです。

田中神父様は、ここでも何度かご紹介している本、カトリック聖書注解「マルコによる福音書」メアリー・ヒーリー著の翻訳をされた方です。

その本のあとがきの中で、田中神父様はこう書かれています。

「マルコによる福音書」のオリジナルが、あえて復活したイエスとの出会いを書き残さなかったということ。
その理由として考えられるのは、福音書を始めて耳にした(恐らくローマの)教会の人々は、ガリラヤで復活したイエスにすでに出会っていて、あるいは復活したイエスに出会った人からその体験を伝えられていて、イエスの復活をあたりまえのように信じていたということです。
マルコは、今、わたしたちの生きている現実の中で、イエスはともにいて働かれているということを伝えているのです。
ですから、いつもマルコは福音が語られる時、イエスはそこでまさに語りかけているということ、そのイエスをいつも感じるように、いつもそんな風にイエスの前に自分たちが置かれているのだという感覚を伝えたいのではないかとわたしは思うのです。

「主は皆さんとともに」「またあなたとともに」

この1週間、この言葉について考えていて、「神様がともにいてくださる」というより、「風が吹くように、聖霊がいつもわたしたちのまわりに漂っている」、と理解するようになりました。

どこへ行ったら、あなたの霊から離れられようか。
どこへ行ったら、あなたの前から逃れられようか。
わたしが天に昇っても、あなたはそこにおられ、
陰府に横たわっても、あなたはそこにおられる。
わたしが曙の空に翼を駆っても、西の果ての海に住み着こうとも、
あなたの手はわたしを導き、
あなたの右手はわたしを離さない。
(詩編139・7〜10)

風は思いのままに吹く。
あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。
霊から生まれた者もみな、それとおなじである。
(ヨハネ3・8)

「風」「霊」、つまりプネウマが、いつもわたしの頭のまわりに漂っている気がします。

 

言葉のなりたち

6/2のごミサでは、初聖体の子どもたちの晴れやかな笑顔がありました。

・・・・・・・

現代では誰も、話し言葉としては使っていないラテン語ですが、ヨーロッパの様々なは言語はラテン語から派生したものが多いだけでなく、わたしたちの今の生活の中にも、まだまだラテン語が存在しているのを感じます。

「謙遜」の徳は、様々な悪徳の中でも最も深刻な「高慢」の悪徳への偉大な対抗者である。
うぬぼれと高慢が、自分を実際以上のものに見せながら、人の心を膨らませているのに対し、謙遜はそれをあるべきサイズに戻してくれる。
わたしたちは素晴らしい被造物であるが、長所と短所によって限界づけられた存在である。
聖書はその始めから「塵(ちり)にすぎないお前は塵に返る」(参照 創世記3・19)と、わたしたちに思い出させている。
実際、ラテン語で「謙遜な」(humilis)という言葉は「土」(humus)から来ている。
それにも関わらず、人の心にはしばしば大変危険な万能という妄想がのし上がって来る。
(5/22教皇フランシスコ 一般謁見でのお言葉より)

実際に聖書がラテン語で書かれていたわけではないのに、こうして聖書の言葉を説明してくださるときには今でもヴァチカンの公用語であるラテン語の単語がでてきます。

なぜキリスト教ではラテン語が用いられていたのか、と調べてみましたら、ラテン語はもともとローマで話され、書かれていた言語であり、その後の中世ヨーロッパではラテン語が唯一の公用普遍語であったから、なのだそうです。

(とはいえ、映画「The Two Popes(二人のローマ教皇)」で、ベネディクト16世が生前退位をあえてラテン語で発表した際、その場にいた枢機卿たちのほとんどが何を言っているのか理解できなかった、というシーンが思い出されます。)

パパ様のインスタとXのアカウント名は、ラテン語の「フランシスコ」=Franciscusです。

ラテン語を勉強してみたい、と思い、数年前に一度本を買って読んでみました。
その時買ったのは、文法からラテン語を学ぶ、といったものでしたので、数ページで断念。

そして数年たった今、また興味が湧き、自分たちの生活にどのようにラテン語が潜んでいるかを知りたいと思い、ここのところ数冊のラテン語に関する本を読みました。

そのうちの一冊がこちらです。
ハン・ドンイル著「教養としてのラテン語の授業」

(最近の日本の本のタイトルの流行ですね。
本当のタイトルはなんだったのだろう、と思ってしまいます。)

これはもう本当にみなさんにぜひ読んでいただきたい、とても素晴らしい本なのです。

本の内容は、ラテン語を「学ぶ授業」ではありませんでした。
ローマ留学時代の悩める青年期のお話し、世界の若者たちに向けた人生論、といった講義内容にラテン語がちりばめらているのです。
(韓国の大学生への講義内容がベースですので、カトリックの信仰について触れられている箇所はあえて少なく、でもそれがかえって、内容をストレートに伝わるものにしていると思いました。)

いくつか、心に残った箇所をかいつまんでご紹介します。

①「時間」を意味するラテン語tempus(テンプス)
元の由来はサンスクリット語です。
(ラテン語の単語はサンスクリット語に起因しているものが多いのです。)
Time flies(光陰矢の如し)という英語の格言も、ラテン語の「テンプス・フュジット Tempus fugit」の翻訳にすぎません。
時間が矢のように過ぎていくことを表す格言ですが、もともとは「好機を逃すな」と言う意味で古代ローマの詩人 ウェルギリウスが使った表現です。

②beatitudo (ベアティトゥド)という、「幸せ」を意味するラテン語
beo (幸せにする、喜ばせる)とattitudo (態度、心の持ちよう)という言葉の合成語です。
つまり、beatitudoという言葉は、「態度や心の持ちように応じて幸せになれる」ということです。
自分の蒔いた種が、喜びや幸せとなって自分に返ってくることもあれば、苦しみや辛さとなって返ってくることもあります。

③「勉強する」と言うラテン語の動詞の原形は「ストゥデレ studere」
英語のstudyはこの言葉が語源です。
ラテン語のstudere の本来の意味は「専念する、努力する、没頭する」があり、心から望む何かに力を注ぐこと、それが「勉強する」という意味なのです。
自分に合った学び方を捜すことが勉強の第一歩です。
この過程を通じて、私たちは「自分」についても深く知ることとなります。
こうした訓練が、ひいては人間関係における自らの態度や話し方など、人生の多くのことを考えさせてくれます。
ルカ13章33節は、そんな人間の生き方を物語っています。

しかし、今日も明日も、またその次の日も、わたしは旅を続けなければならない。

 

この一節は、イエス様がファリサイ派の人々から、ヘロデが殺そうとしているから立ち去るように、とアドバイスを受けた時にお答えになる場面です。

ハン・ドンイルさんは、イエス様がおっしゃった『見よ、わたしは今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を治す。そして、三日目にすべてを成し遂げる』。という旅の目的を、わたしたち一人ひとりの人生にも当てはめて考えることを教えてくれています。

こうして毎週記事を書いていても、昨日書いたことを翌日見直すと考え方が新たになっていたり、深まっていたり、日々生きていくうちに勉強になっていることを痛感しています。
 

*最近の、ラテン語にまつわるニュース*

イタリアメディアが5/28に報じたニュースで、「イタリア警察は、ラテン語の成績が悪かったとして16歳の娘をローマの高速道路に置き去りにした40歳の女を児童虐待容疑で逮捕・訴追した。」というものが。
イタリアでは現在も、大学進学のためのテスト(大学入試はない)の科目にラテン語があるそうです。

「スペイン・マドリードのプラド美術館で27日、イタリアの巨匠カラバッジョの新発見絵画が公開」というニュースがありました。
絵画は、イバラの冠をかぶった血まみれのキリストが描かれ、ラテン語で「Ecce Homo(この人を見よ)」と名づけられたそうです。

ラテン語は決して、「誰も話さず、使われなくなった言語」ではないのです。

名は体を表す

今週もお相撲の話しからです。

いま、わたしの一番のオシは、入門一年にして優勝した、元横綱稀勢の里の二所ノ関部屋の大の里
(相撲ファンでないと、早口言葉のような文字列ですね。)

大の里というしこ名は、大正から昭和初期に活躍し「相撲の神様」と呼ばれた元大関の大ノ里に由来しているそうです。

『名は体を表す』と言いますが、相撲力士のしこ名と取り組み方を併せて見ていると、その名のように成長していく様を感じるのはわたしだけでしょうか。

この言葉は、『名前にそのものの本当の姿が表れている』という意味を持つ慣用句です。
仏教用語の『名体不二(みょうたいふに)』(名前と体は一緒である、という意味)が由来であるとされています。

正教会やカトリック教会においては聖人を崇敬しており、わたしたちはそれぞれ洗礼名を持っています。
一方で、プロテスタント諸教派においては聖人崇敬を行わないため、特に洗礼名を付けないところが多いようです。

教皇フランシスコは、イエズス会出身であるのに『フランシスコ』という霊名を選びました。
アッシジの聖フランシスコを崇敬されて、というのはご存じかと思います。

成人洗礼であれば、わたしたちは自由に、じっくりと洗礼名を選ぶことができます。
幼児洗礼の場合は、ご両親などが「そのように育ってほしい」という想いを込めて選ばれるでしょう。

数名の成人洗礼の信徒の方に、その洗礼名の由来を伺いましたが、それぞれにエピソードがありました。

教会の広報誌に、受洗者、転入・転出などの方のお名前を洗礼名とともに掲載していますので、あらためて見返してみたら、そのエピソードをお伺いしてみたいと思うお名前がいろいろとありました。

先日ご帰天された、支援させていただいていた方は、ヨハネ(バプティスタ・ド・ラ・サール)という、( )付きの洗礼名でした。
彼がどうしてこの名前を選んだのか、お聞きできないままでした。

久留米教会で司牧実習をされていた古市神父様(現・東京練馬区 北町教会主任司祭)は、ヨハネ・マリア・ミカエルという、かなり贅沢な洗礼名です。
(神父様にお尋ねしたら、3つまでと言われたので、マリア様の両サイドに洗礼者ヨハネと大天使ミカエルを配置することにした、のだそうです。)

聖人を祝う記念日は、四旬節と待降節を除いてほとんど毎日あります。
聖人の祝祭日はその重要性に応じてランクがつけられており、重要性の順に「祭日」「祝日」「義務の記念日」「任意の記念日」とがあります。

5/22は聖リタの任意の記念日でした。

先日、妹がプレゼントしてくれたものです。
イエス様のご像のいばらの棘を額に受けたリタは、なんとなく、中年女性の雰囲気がリアルです。

若い頃の不幸な結婚生活を経て修道女となったリタ。
家庭内に問題のあるところでは彼女の忠告が喜ばれ、そのとおりにすると必ず幸福が帰ってきたと言われ、「望みのないときの助け手」とも言われています。

ウィキペディアには、「守護対象:絶望的状況、必死の状態、望みがない時、不可能な願いを抱く人、病気、怪我、母、結婚問題、不妊、虐待、子育て」とありました。

おそらく、しょっちゅうケガや病気をしているわたしのために、妹は聖リタを選んでくれたのでしょう。
なかなか重い任務を課せられた聖女です。

リタ、という洗礼名をお持ちの方がいらしたら、その方にもその名前を選んだ物語があるのでしょう。

わたしの洗礼名がインマヌエルになったのにも、物語があります。

『名は体を表す』

自分の日々を反省するとき、「インマヌエルの名に恥じないように」と心に鞭を打つ思いです。

人として足りないことの多い、同じ過ちを繰り返してばかりのわたしですが、困難に会った時に「あ、そうだ、インマヌエルだった。神様が共にいてくださっている、心配ないんだ。」という場面がこれまでに何度となくありました。

ですが、葬儀ミサで「彼女はホントにインマヌエルだったね」と言われるよりも、今現在の自分を「インマヌエル」に恥じない存在となるよう励みたい、と思っているのに、なかなかうまくできないのです。

26日のごミサ前に、告解をしました。
「まさにそれ!」というお言葉を神父様からいただき、心だけでなく身体までスッキリした気分になれました。

自分に与えられたもう一つの名前が、自分の体を表すのだ、と心を新たにできた日曜日でした。

・・・・・・・・・・・
「『神のインフルエンサー』の少年がカトリック教会の聖人に」、というニュースがありました。

2006年に15歳で亡くなった少年が、キリスト教カトリック教会で聖人となる見通し。
アクティスさんは、所属していた教区や学校のウェブサイトをデザインしたほか、報告されている全ての「聖体の奇跡」の記録を目的としたウェブサイトを立ち上げて有名になった。
https://www.bbc.com/japanese/articles/c0ddvr8dgm1o

これからは、洗礼名にカルロを選ぶ人も出てくるのかもしれませんね。

イエス様の教え

先週の記事のテーマについて引き続き考えながら、大好きな大相撲中継を見ていました。

教会の友人と、「改めて考えてみると、カトリックって決まり事が多いよね。。。」と話しをしたところでしたので、相撲の所作を改めて注意深く見てみました。

相撲好きの方はご存じのように、

「勝った力士は、勝ったという事実に縁起を担ぎ、次の取組の力士に力水をつけてあげる」
「勝った力士は、懸賞金を受け取るときに刀手を切る(右手で左側を切り、その後で右と中央を連続して切る)」

など、相撲は所作をとても大事にしています。
こうした所作が雑な力士は、たとえ横綱であっても評価が下がり、親方から叱責を受けるのです。

わたしたちも、ミサ中に決まった場面で十字を切り、立ったり座ったり、歌ったり祈ったり、決められた所作をしています。

何気なく、ではなく、ひとつひとつに意味があることも理解しています。

 

19日のごミサでは、お2人の方が受洗されました。

洗礼の秘跡の中では、司祭も受洗者も代父母も、決められた美しい所作を大切にします。

 

ルカ・シニョレッリ『使徒たちの聖体拝領』
Comunione degli apostoli

『初聖体拝領』パブロ・ピカソ

イエス様からパンをいただく使徒たちの姿は、司祭からご聖体を受け取る信徒に重なって見えます。

初聖体式は、子どもたちの晴れやかな笑顔が感動的で、幼児洗礼式、成人洗礼式と同じくらい、カトリックではとても大切な儀式です。

ご聖体自体の重要な意味(イエス様のからだをいただけるのは洗礼を受けているから)、はもちろんですが、わたしたちはその「拝領」する行為(所作)をも大切にしているのではないでしょうか。

幼児洗礼であっても、成人洗礼であっても、ご聖体拝領について学びの期間があり、どのような意味を持つものかをしっかりと教えられます。
ご聖体の受け取り方、口に含むタイミングも決められています。

永年の習慣にすぎないものになっていたとしても、身に沁み込んだ所作は、きちんとした学びがあって与えられた、わたしたちの信仰上の権利のようなものとも言えるのではないか、、、間違っているかもしれませんが、そう思っていました。

旧約の時代のユダヤ教徒たちも、様々な儀式やしきたり、所作を大事にしていました。

レビ記の第一部(1〜7章)には、守るべき掟がびっしりと書かれています。
今でも、厳格なユダヤ教徒であればモーセ5書(創世記〜申命記)を毎日繰り返し読み、頑なにこれらの教えを守っています。
(例:安息日に労働をしてはならない=エレベーターのボタンを押すことも、冷蔵庫の扉を開け閉めすることも、絶対にダメです)

 

先日、親戚の法事があり、お坊さんのお経を45分間も聞かされる、苦行のような体験(何を言っているのか全く分からないので)をしました。
そして驚いたのは、叔母がお経の冊子のようなものを見ながらお経をしっかりと聞いていたことでした。

同時に思い出したのが、母の葬儀ミサに参列してくれた友人が後に、「葬儀ミサは初めての経験だったけど、何を言ってるのか何をしているのか全然わからなかったから、仏教の葬儀よりもすごく長く感じた。。。」と聞かせてくれたことでした。

ユダヤ教、キリスト教、そして仏教でも、知らない人・理解していない人にとっては不思議なことを大真面目にやっているのです。

ヨハネ福音書には、イエス様の教えそのものが「パン」なのだ、と明確に書かれています。

わたしが命のパンである。
わたしの所に来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は、もはや決して乾くことがない。
わたしは天から降ってきた、生けるパンである。
このパンを食べる人は永遠に生きる。
(ヨハネ33・35、51)

主は、乏しいパンと僅かな水しかお前たちに与えないことがあっても、お前の導き手はもはや隠れることはなく、お前の目はお前の導き手を見ている。
(イザヤ30・20)

イエス様は、この預言を成就した存在なのです。

初代教会は、聖体(エウカリスティア)の象徴的な先駆けをイエスが言葉と食べ物をご自分の民と分かち合おうとされたパンの奇跡のうちに見ていました。
事実、聖体祭儀の典礼の構造は、この奇跡に見られるのと同じ形式に従っています。
まず言葉の典礼で、聖書朗読に貫かれている教えと、その教えの意味を解き明かす説教によって、イエスは私たちを養ってくださいます。
それから感謝の典礼で、イエスは、私たちのために与えてくださるご自分の体と血である命のパンによって、私たちを養ってくださいます。
かごいっぱいになった残り物が、生き生きとした象徴になっているように、神がご自分の民を養われるとき、すべての人を十分に満たしても、それ以上の食べ物が常にあるのです。
その賜物は神ご自身なのですから、どうしてそれを知らずにいられるでしょうか。

(メアリー・ヒーリー著
カトリック聖書註解 マルコによる福音書より)

洗礼を受けたわたしたちは(なんとなくであったとしても)こうしたことを知っていて、理解しています。

ここを読んでくださっている方、あるいは、勇気を持って日曜日のミサに参列してくださる洗礼を受けておられない方にも、わたしたち信者がもっとこうした教えをお伝えしなければならないのでしょう。

そうでなければ、信仰への理解が広がることも深まることも、あり得ないのです。 

教会の先輩が教えてくださった、教皇様のお言葉です。

「キリスト信者にとって最大の誘惑となるのは、神からの呼びかけを特権だと考えてしまうこと、それは全く違います」

洗礼を受けていることだけが、本当に神様からの特別なお恵みなのか。
あたらめてもう一度考え直さなければならないと思っています。

宮﨑神父様はお説教で、このようにおっしゃいました。

「 同じ信仰を持つものが、互いに集い、互いに磨き合う場、その集まりの一致の場が教会・エクレシアなのです。」

いつも、わたしたちの心に響くお説教をしてくださいます。