「ありがとう」
15日は、ローマへ出発される前日にもかかわらず、船津神父様が久留米の信徒たちに旅立ちのご挨拶も兼ねてミサに来てくださいました。
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弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。
(使徒14・23)
長老とは今の司祭のことです。
アベイヤ司教様から、わたしも神様に任されたのだと思っています。
「神様、船津のことをあなたに任せます」、と。
司教様から、「学びに行くことは奉仕することです」というお言葉をいただきました。
マザーテレサの詩にこうあります。
「信仰の果実は愛
愛の果実は奉仕」
そう、船津神父様がお話くださいました。
「おめでとうございます」
「お身体に気をつけて頑張ってください」
わたしたち信徒は、心からそう思って簡単に口にしてきましたが、船津神父様のお気持ちを深く考えてみると、気安く「頑張って」とお声をかけるのは少し違うような気がしています。
「知り合いの神父様から『ありがとう』と声をかけてもらいました。」
そうおっしゃっていました。
「ありがとう」
確かに、1番相応しい言葉だと思います。
わたしたちのために勉強しに行ってくれてありがとう
大変な任務を引き受けてくれてありがとう
そういう意味なのだと思います。
普段は「ありがとう」と言ってもらえると、気恥ずかしいような、嬉しい気持ちになります。
船津神父様のお話を聴いて、その言葉の持つ意味がより深いものであることを感じながらお御堂を出たところで、一人の方に声をかけられました。
「いつもありがとう」
わたしが「?」という顔をしていると、その方はこうおっしゃいました。
「今日もずっと写真を撮ってくれていたのを見ていました。
ホームページに載せるためでしょ?
いつも記事を書いてくれて、ありがとう。
教会のために働いてくれて、ありがとう。」
この日のミサも、7人の子どもたちが侍者を勤めてくれました。
船津神父様も、「これまで、こんなに大勢の侍者が奉仕してくれたミサは、与ったことも司式したこともありません。
久留米教会は本当に恵まれています。」と。
聖体拝領のお手伝いをしてくれたのは、神父様の甥の壱騎くんです。
いつくしみ深い父よ、わたしたちは新たないのちに満たされ、今、派遣されていきます。
御父への道であるキリストを、喜びをもって伝えていくことができますように。