行う人

311について思いを馳せる日々でした。

西日本新聞の3/10の朝刊には、当時の釜石の子どもたちが11年後の今、当時を振り返って取材に答えた特集が組まれていました。

お読みになっていない方は、ぜひ読んでみてください。

心にずっと刺さった、棘のような「後悔」や「罪の意識」のような気持ちを吐き出すように語った、20代になった人たちの声にいろいろなことを考えさせられました。

地震や津波での被害だけではなく、まだ苦しんでいる人が多くいる現実を再認識することができました。

 

以前ここに書いたことのある、ある支援している方に久しぶりに電話をしてみました。
久しぶりだったからか、溜まっていたのであろう言いたいことや現状への不満を爆発させて、ガチャっと電話を切られてしまいました。
施設の方に再度電話してお話を伺ったら「自分のことをかまってくれる、気にかけてくれる人がいて、本当は嬉しかったのだと思いますよ。」と言っていただきました。

この方も、釜石の方々も、 自分の中に溜め込んでいる思いを思いっきり伝え、聞いてもらえる人がいる、と言うことがどれほどの救いになるか。

わたしもその相手になることができれば、と思うのです。

 

ヤコブの手紙は、短い中にも深く、理解しやすいことばでわたしたちの心に迫ってくるものがあり、とても好きな書簡です。

試練を耐え忍ぶ人は幸いです。
その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。
神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。

御言葉を行う人になりなさい。
自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。
このような人は、その行いによって幸せになります。
自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。
(ヤコブ1・12~27)

 

「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
(ヤコブ2・26)

 

「行う人」でありたい。

役割をいただいているので、毎週ミサに参列させていただいています。
ミサに与ることそのものではなく、教会で出会うすべての皆さんとあいさつを交わすことが、わたしの一週間で一番の喜びになっています。

わたしにとって「行い」は、自分の至らないところを補うように物事を実践し、人に関わることで実現しています。
少なくとも、そう思っています。
良く行えているかどうかはわかりませんが、人付き合いが得意ではないわたしが、こうしてミサ前に聖堂入り口で毎週皆さんをお迎えする役割をいただけていることで、行おうと努めています。

今朝は、先週転勤してこられたばかりというシスターを、満席だったのに偶然空いたお席にご案内することができました。
「初めて久留米教会に来たのに席がなくて、それなのにあなたに案内してもらえて嬉しかったわ!」
そう言ってくださり、少し色々とお話しさせていただく機会となりました。

清々しい、嬉しい日曜日の朝を過ごすことができました。

 

キリスト教の最もすばらしいところのひとつは、神が私達に、過去が何であっても常に、新しい人生をやり直させてくださることだと思います。
神さまが私たちを罪に定めないでいるのに、私たちが自分をもうだめだと、罪に定める理由はないでしょう。
友達や隣人を罪に定めるのは、もっといけないのではないでしょうか。
希望と愛を持って、いつも、助け合い、前を向いて生きていきたいと思います。

聖書学者・本多峰子さんの福音宣教3月号の記事に、このように書いてありました。

この視点は、当たり前のことのようであって、当然のこととして現実に認識できていないことのように思います。

改めて文章で読み、心が救われた気がしました。

 

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ぜひ、ご検討ください。

https://www.caritas.jp/2022/03/04/4997/

亡くなられたウクライナの市民、軍人、そしてロシアの軍人たちのために、魂の平安を祈ります。