カテゴリ:平和旬間

誠実に向き合う

福岡教区で平和に関する作文が募集され、久留米教会の3人が筑後地区の代表に選出されました。
11日の平和の集いでの司教様の前での発表会に、3人が出席してくれました。

彼女たちの作文は、提出された時点で「キレイな字で丁寧に書いてある!」と、読む前から感激したものです。

日曜学校で課題として「平和への思い」というテーマで、たくさんの子どもたちに作文を書いてもらいました。
思い思いに感じていることを書いてくれたのですが、今回の代表に選ばれた中学3年の女の子の作文は、感動しただけではなく、とても考えさせられました。

彼女は、「平和な世界を造るためには、まずはわたしたちが日常のなかで意見の食い違いによるケンカをしないことが大切だと思います」と始まります。

「ふたつめに大切なのは、意見が違うと思っても、相手を責め立てず、穏やかにわかりやすく伝えること」
「さらに大切なのは、助け合うこと、当たり前のことにも感謝する、自分が悪いときは素直にすぐに謝ること」
「私もあまりできていないな、と書きながら思いました。
全部をすぐにできるようにならなくても、ひとつめをできるようになったら、ふたつめを、と心がけてみてください。
平和は案外すぐに訪れるかもしれませんよ。」と締めくくられています。

汚れのない、誠実な想いに触れ、忘れそうになることを思い起こさせてくれました。

 

教皇様は、ワールドユースデイのためポルトガルを訪問されていました。
帰りの飛行機のなかで、記者の質問に答えられた一部をご紹介します。

ポルトガル滞在中、フランシスコ教皇はファティマを訪問し、「出現の礼拝堂」において沈黙のうちに祈りを捧げた。
これについて、一人の記者から、かつて聖母が戦争の終結を祈るようにと願った場所で、今日の戦争を前に、教皇が平和の祈りを公の場で新たにすることを人々は期待していたが、なぜそれをしなかったのか、という問いがあった。

これに対して、教皇は、「わたしは聖母に祈り、平和を祈ったが、ひけらかすことはしなかった。
しかし、わたしは祈った。
われわれはこの平和のための祈りを続けなければならない。聖母は第一次世界大戦の中で平和を祈るよう願ったが、今回はわたしが聖母にそれをお願いした」と答えた。

 

「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」(マタイ6・6)、という聖句をこの記者は知らなかったのでしょうか。

 

教皇がリスボンで「教会にはすべての人に居場所がある」と強調したことに対し、教会はすべての人に開かれている一方で、すべての人が同じ権利を持っているわけではない、たとえば、同性愛者や女性はすべての秘跡を受けられない、という問いかけがなされた。

この問いに教皇は、教会はすべての人に開かれており、その教会の中には教会生活を秩序づける決まりがあると語り、「すべての秘跡を受けられないから(教会は皆に開かれていない)」という解釈は一種の単純化であり、それだからといって、教会が閉ざされていることにはならない、と指摘。
「教会は一人ひとりが自分の道を見出すために神に出会う場所であり、教会はそのための母であり導き手である。一人ひとりが祈りや、内的対話、あるいは司牧者との対話を通して、前へと進む方法を見出していく」と話し、そのためにも教会は、同性愛者はもとより、すべての人に開かれている、と説明した。

 

今年9月教皇がマルセイユを訪問することについて、フランスの記者から、なぜあなたはフランス(そのもの)を訪問しないのか、という質問があった。

「わたしは以前ストラスブールに行き、今度はマルセイユに行くが、フランス訪問はまだである」と述べた教皇は、地中海における問題、移民の搾取という犯罪が目下憂慮される事項であり、そのために地中海地域の司教たちが開く会議に出席するためにマルセイユに行く、と話された。
そして、教皇はフランスをまだ(公式に)訪問していないのは、これまでヨーロッパの小さな国々を訪問してきたためであり、スペイン、フランス、イギリスなどの大国は最後のために残してある、と語った。

 

教皇様はいつも、どのような問いかけに対しても誠実にお答えになっています。
これらの質問をした記者は、それぞれのお答えに対して、どのように受け止めたでしょうか。

足りないところを突き詰めたつもりの問いでも、教皇様の(想像するに)穏やかで丁寧な、誠実な態度と口調に心がほぐされたのではないか、と感じます。

わたしは、自分の考えや行動を少しでも否定されたような気がすると、ついついカッとしてしまい、顔に出てしまいます。
冒頭の女の子の作文を読んで、心から反省しています。。。

8月前半はテレビで連日、(日本の)終戦にまつわる番組が流れています。

1989年〜2022年の間に、世界では336万人以上が紛争や内戦などで亡くなっているそうです。
特に昨年1年間だけでも、23万人以上がロシアによるウクライナ侵攻とエチオピアの内戦などによって犠牲者が出ています。

殺戮を止める術はないかもしれませんが、作文に書かれていたように、わたしたち一人ひとりが他者に対して穏やかに思いやりを持って接することを心がけていけば、少なくとも身近なところには平和が保たれるのでしょう。

「司教様とのランチはどうだった!」と質問したら、「とっても楽しかったです!!」と答えてくれました。

大人になると、そういう場面では緊張してしまい、楽しむなんて畏れ多い、となってしまうものですよね。

やはり、素直に誠実に置かれた状況と向き合える、こどもたちにからも学ぶことが多くあります。

彼女たちの夏休みの、素敵な時間となっていたら嬉しいです。

https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2023-08/portogallo-conferenza-stampa-sul-volo-di-ritorno.html

 

平和の岩

8/6は、77回目の広島の原爆の日でした。
国連の事務総長を始め、99カ国とEUの代表も参列されての平和式典の中継をテレビで観ていました。

世界各国の方々が参列してくださるのは本当に素晴らしいことですが、その国で報道され、一般市民にも伝えられたのでしょうか。

同じ日のニュースでは、パレスチナ自治区のガザ地区へのイスラエル軍による空爆について、そして台湾を囲むようにして実施された中国の軍事演習について報じられていました。

平和を願う祈りは、「神様、平和をもたらしてください」「争いのない世界を実現させてください」ではなく、「わたしたちが戦争を起こさない未来を創ります」という宣誓であるべきです。

甲子園の開会式で選手宣誓をした球児の言葉を聞いて、改めて強くそう思います。

頑張るのは神様ではないのです。
努力するべきは、わたしたちなのです。

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主は岩。
その業は完全で、その道はことごとく正しい。
真実の神で、偽りがなく、
正しく、まっすぐな方。
(申命記32・1)

申命記32章には、他にも「救いの岩」「自分を産んだ岩」「彼らの岩」「身を避ける岩」といった表現で、堅固で安全な保護者である神を岩に例えています。

信じれば願いが叶う
信じれば癒される

聖書には、そう書かれているように感じるかもしれませんが、決してそうではありません。

神様は岩のように揺るがない、わたしたちの拠り所です。
悔い改めて熱心に祈れば、なんでも許される、叶えられるのではなく、どのような状況にあっても神様が隣にいてくださると信じて、一人ひとりができる限り、できる以上の努力をする必要があります。

教区報に載っていた、アベイヤ司教様のお言葉です。

「いつも以上に平和を祈り、平和のために働く決意を新たにする事が大切です。
私・私たちに何ができるでしょうか。
一人ひとりが考えるべき課題です。」

 

エレミヤは言った、
アーメン。主がそのとおりにしてくださるように。

主があなたが預言した言葉を成就させ、主の神殿の器とすべての捕囚の民とをバビロンからこの場所に連れ戻してくださるように。
わたしがあなたの耳と民全体の耳に語る言葉を聞け。
わたしとあなたよりも先にいた預言者たちは、昔から、多くの地と偉大な諸王国に対して、戦い、災い、疫病を予言した。
平和を預言する預言者は、その言葉が実現してはじめて、ほんとうに主が遣わされた預言者であると認められる」。
(エレミヤ28・6~9)


こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。
土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。
それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。
触れた者は皆いやされた。
(マタイ14・35~36) 

 

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
そのとき、娘の病気はいやされた
(マタイ15・28)

「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」という名言をイエス様に言い放った女性も、願いが聞き入れられました。

当時の彼らは皆、 簡単に祈りが聞き入れられたわけではないと思うのです。

アベイヤ司教様のお言葉にある通り、「神様の望みに応える」生き方が必要なのです。

 

わたしたちの魂は主を待ち望む。
主こそはわたしたちの助け、わたしたちの盾。
わたしたちの心は主の故に喜び、
聖なる名に寄り頼む。
主よ、わたしたちはあなたを信頼してきました。
慈しみはわたしたちの上に。
(詩編33・20〜22)

わたしの口の言葉があなたの望みにかない、
わたしの心の思いがみ旨にかないますように。
わたしの岩、わたしの贖い主である主よ。
(詩編19・15)

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ミサの後の掃除を、いつもより念入りに行いました。
愛すべき、平和の風景です。

 

 

現代における平和

教皇フランシスコは、「今日の危険はウクライナの悲劇を忘れること」と先週おっしゃっていました。

争いやテロによって、一般市民が苦しい思いや悲劇的な日常を強いられているのは、何もウクライナだけではありません。
21世紀はテロとの戦いに象徴される、と誰かが言っていましたが、わたしたちにできるのはせめて「忘れないで祈ること」かもしれません。

 

2022年平和旬間(8/6~15)が近づいてきました。

菊地 功大司教のメッセージは、このように始まります。

「平和が暴力的に踏みにじられた年になりました。
いのちの尊厳がないがしろにされ、その保護が後回しにされる年になりました。」


そして、このように締めくくられています。

「平和旬間を迎え、わたしたちはさまざまな角度から平和について学び行動する時を与えられています。
「すべての戦争は全人類に影響を与え、死別や難民の悲劇、経済危機や食糧危機に至るまで、さまざまな後遺症をもたらします」。
そう述べたうえで教皇フランシスコは、復活祭メッセージを次のような呼びかけで締めくくっています。

「兄弟姉妹の皆さん、キリストの平和において勝利を収めましょう。
平和は可能です。
平和は義務です。
平和はすべての人が責任をもって第一に優先するべきものです」。

皆さん、この平和旬間に、暴力によらない平和は可能だと、連帯こそが平和を生み出すのだと、あらためて声を上げ行動しましょう。」

 

毎年8月になると、原爆投下の慰霊祭と終戦記念日のニュースが連日報道され、わたしたちに戦争と平和について考える機会が与えられます。

ですが、日本人にとっての戦争は第二次世界大戦のことだけなのか、とどうしても感じてしまうのです。

今年は特に、連日のようにウクライナの戦況について見聞きしながらこの5ヶ月ほどを過ごして来ましたので、若い世代に戦争と平和について掘り下げて伝えることができるのではないでしょうか。

「あの悲劇(第二次世界大戦で犠牲になった日本人)を繰り返してはならない。」
だけではなく、
「今もなお、世界の至るところで戦争によって苦しんでいる人々がいることを心に留め、考えてみよう。」
そう、子どもたちにより現実的に伝えることが大切でしょう。

24日のミサは、こどもとともに捧げるミサでした。

「神様、ひろい心、やさしい心、平和を強く求める心、
そしていつも神様にむかう心を与えてください。
けんかや争いのない、きょうだいの心を持つことができますように。」

 

宮﨑神父様がお説教でおっしゃいました。

「祈りは信仰の心臓とも言えるものです。
そして、祈りは自分のためにするものではありません。」 

旅行中の友達のために、真夜中に友達のところへ「友よ、パンを三つ貸してください」と頼みに行った人のように、わたしたちは、家族のため、友のため、誰かのために祈りを捧げるのです。

それしかできなくても、続けるのです。

 

「あなたがたに平和があるように」(ルカ24・36)
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20・21)

福岡教区でも、平和を祈る集いが企画されています。

 

 

 

求めている平和とは

15日までの10日間は、カトリック教会の平和旬間でした。
各々、平和への祈りを捧げ、平和とは何かを考える機会をお持ちになられたのではないでしょうか。

8月15日は、わたしたちにとってたくさんの意義深い日です。
福音宣教の始まりである、フランシスコザビエルが鹿児島に上陸した日
終戦記念日
日本の伝統文化であるお盆
そして、聖母マリア様の被昇天の記念日

宮﨑神父様はお説教の中でこうおっしゃいました。
「8月15日は平和を噛み締める日です。そして、故人を想い、祈り、同時にいずれ訪れる自らの死を重ねて黙想する日です。」

あなたは何のために平和を求めますか?

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わたしはいつも、パパ様の優しい笑顔に平和を感じます。

先日ご紹介した、教皇フランシスコ訪日公式記録集をようやくじっくりと読みました。

広島平和記念公園での「平和のための集い」では、プロテスタントの各宗派の代表だけでなく、神社や様々な仏教の宗派の代表、日本のユダヤ教、ムスリム、ロシア正教などの代表者の方との交流、参加があったことをご存知でしたか?

核兵器の廃絶、戦争のない世界の実現はもちろん平和の重要な条件ですが、最も重要な要件は「人々の間に平和があること」だと思うのです。

コロナ禍において、世界中のいたるところで人間の愚かさ(差別、偏見、誹謗中傷)、不平等などが改めて顕になりました。

紛争のない国であっても、そうした醜い人間の状態が渦巻く状況で平和な社会と言えるでしょうか。

これまでは、世界の差別の大要因は「人種」と「宗教」の問題が根底にあるからだと考えていました。
そして、その根本的な原因の一端はキリスト教にあるのではないかという葛藤があります。

コロナウィルスが世界を席巻する今、問題はさらに大きく深く広がってしまっている気がします。

今このような時代だからこそ強く思うのは、平和はわたしたち一人ひとりの中で育てるべきことであり、平和のためにわたしたちが求めるべきは、お互いの他者への思いやりだということです。

世界が繋がっている一つの社会なのだ、とわたしたちは今、思い知らされているはずです。

平和は自分のためだけに求めるものではないはずです。

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詩編の、いつも心の中に響かせたい、美しい平和の祈りです。

いつくしみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、
まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。
(新共同訳)
いつくしみとまことはともに出会い、義と平和は抱き合う。
まことは地から生えいで、義は天から身をかがめる。
(フランシスコ会訳)
(85・11〜12)

(122・8)

わたしはいおう、わたしの兄弟、友のために。
『あなたのうちに平和があるように』」

(122・8)

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オリンピック陸上競技800メートルの準決勝で、転倒してしまった選手にもう一人の選手が巻き込まれたシーンをご覧になりましたか? 

巻き込まれた選手が最初に転倒した選手に手を差し伸べて抱き起こし、抱き合った後、「行こう」「ゴールしよう」と声をかけ、二人で揃って走り出して他の選手から1分近く遅れて一緒に肩を並べてゴールしました。

そこに、平和がありました。

少なくともわたしたちにできることは、周囲の人々に思いやりと優しい気持ちを持って接し、お互いが気持ちよく過ごせる日常を作っていくことでしょう。

平和はそこから生まれます。

 

 

主の平和を生きる

8月6日は、主の変容の祝日でした。

聖書には山の名前についての記載はないのですが、イエス様が山で預言者とともに語り合いながら光り輝く姿を弟子達に見せたと書かれています。

この世的な意味でのイエス様の勝利(イスラエルの解放)を願う弟子たちに対し、自らの受難を予言し続けたイエス様が、これから受ける苦難に際して信仰し続ける希望を与えるためにこの奇蹟を行ったと教えられています。

(マタイ17・1~ 9、マルコ9・2~8、ルカ9・28~36)

伝承では、山の名はタボル山と言われています。

 

 

去年のイスラエル巡礼の際に、タボル山の主の変容教会で撮影しました。

光り輝くイエス様と二人の預言者(モーセとエリヤ)、三人の弟子(ペトロ、ヨハネ、ヤコブ)が描かれています。

 

 

そう!
描かれている、のではなく、モザイクの作品なのです。

素晴らしい。。。(今頃、、、ため息)

 

中央協議会のホームページには、この祝日についてこのように書かれています。

「教会は、ともすると、復活のいのちに至るまでの壮絶な苦しみという面を強調しすぎていたかもしれません。
しかし、その苦難は、神の栄光を表す輝かしい姿でもあります。
私たちには、人生の中で大きな苦しみを耐えなければならない場面が必ずあります。
そのとき、私たちは血にまみれた惨めな姿をさらすだけではありません。
私たちが苦しむとき、人々の前では惨めで情けない姿に見えるかもしれません。
しかし苦しみを神様に委ねるとき、自分自身が神の栄光に輝くまばゆい光を帯びていることを忘れてはなりません。」

 

先日の記事にも書きましたが、船津神父様がおっしゃった
「あなた方の光を人々の前に輝かせなさい、というマタイの教えを忘れないでください。」というお言葉がずっと頭の中でこだましています。

『主の平和』を生きることなのだわ、と解釈して心に刻んでいます。

 

持病を抱えて苦しんでいる知人と話したとき、
「わたしは毎日、痛いし苦しい。祈るし、聖書も読むが、つらい。
神様はなぜこんな重い十字架をわたしに背負わせて、生かされているのか、毎日毎日考えて生きている。」
そう言うのです。

わたしはその方にこう言いました。
「生かされていることそれ自体に意味があるのでしょうね。
神様から目をかけてもらってるということを忘れないで。
わたしがいつもここにいることも忘れないで。」 

『主の平和』

 

先日、友人のお母様の葬儀がありました。
祭壇の遺影が、ご夫婦での素晴らしい笑顔の写真だったのです。
ごあいさつで、「一人で旅立つのはとても寂しいと思い、途中まで同行することにしました。大変不謹慎で非常識とは重々知りつつ、あえて遺影を2人の写真にしました。」と。
おじさまらしいなぁ、とこちらがホッコリさせられました。

『主の平和』

 

平和とは、神とともにある状態を意味します。

弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちがいた場所の戸にはことごとくカギをかけていた。
そこに、イエスがおいでになって、真ん中に立って仰せになった。
「あなた方に平和があるように」。
そう仰せになって、両手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
イエスは重ねて仰せになった、「あなた方に平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす」。
こう言ってから、弟子たちに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けなさい。誰の罪であれ、あなた方が赦せば、その罪は赦され、あなた方が赦さないなら、赦されないまま残る」。
(ヨハネ20・19~23)

主があなた方を心から赦してくださったように、あなた方もそうしなさい。
これらすべてのことの上に愛をまといなさい。
愛は完全さをもたらす帯です。
そして、キリストの平和にあなた方の心を支配させなさい。
あなた方が一つの体に結ばれるものとして招かれたのも、この平和のためなのです。
(コロサイ3・13~15)

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主の変容の出来事から、二つの重要な要素を引き出したいと思います。
わたしはそれを二つのことばで要約します。
「登る」と「下りる」です。
わたしたちは人々から離れ、山に、すなわち沈黙の場所に登らなければなりません。
それは、自分自身を見いだし、主の声をよく聞き取るためです。
わたしたちはこれを祈りの中で行います。
しかし、ここにとどまってはなりません。
祈りの中での神との出会いは、新たに「山を下り」、低いところに、平地に戻るようわたしたちを促します。

わたしたちはこの平地で、労苦、病気、不正、無知、物質的・精神的な貧困にあえぐ多くの兄弟と出会います。
わたしたちは、困難のうちにあるこれらの兄弟に、神とともに体験したことの実りを伝え、受けた恵みを分かち合うよう招かれています。
祈りをもって「登り」、イエスに聞き、兄弟愛をもって「下り」、イエスを告げ知らせることを少しずつ学ぶことができますように。
教皇フランシスコ様 2014年のお説教より

 

8月6日は、広島原爆投下の日です。
終戦の日、8月15日は「聖母マリアの被昇天」の祝日に当たります。

教会では、6日から15日までの10日間を「日本カトリック平和旬間」と定めています。

昨年までは、広島教区と長崎教区では、全国から司教をはじめとして多くの信徒が集まって「平和祈願ミサ」がささげられ、各教区でも平和祈願ミサや平和行進、平和を主題とした映画会、講演会、研修会、平和を求める署名などが行われていました。

主の変容が現代のわたしたちに語りかけている意味について、平和旬間とリンクして平和について思いを馳せる日々が続きます。