2019年8月の記事一覧

信仰を旅する。

わたしには受けなければならない洗礼がある。

それが成し遂げられるまでは、
わたしはどんなに苦しい思いをすることであろう。

ルカ12.50

とても心を打たれる箇所です。

 

 

「エルサレムはイエスにとって受難と死が与えられる壁です。
しかし神の栄光のためにイエスはその壁を引き受けます。
それは弟子たちに復活を示し、愛の知らせを延べ伝えるためです。」

8/18のごミサの聖書と典礼の最終ページに寄稿されていた、
松村神父様の文章の一部です。

働く(生きていく)上で様々な壁が与えられるけれど、
それを喜ん引き受けて行かねばならない、というようなお話でした。

 

わたしが初めて聖書を読んだ思春期の頃、強烈に印象に残り、
最初に聖書にマーカーを引いた箇所があります。

「狭い門から入りなさい。
 滅びに至る門は広く、その道は広々としていて、
 そこから入る人は多い。
 しかし、命に至る門は何と狭く、その道は細いことか。
 そして、それを見出す人は少ない。」

 マタイ7.13~14

アンドレ・ジイドの「 狭き門」を買い求め、
この聖書の箇所を理解したいと思い、何度も読み返したりもしました。

 

 

当時のエルサレムの神殿には城壁が張り巡らされ、
いくつもの門がありました。

大きくて立派な門は、祭司や裕福なものだけが出入りに利用でき、
貧しい人や体の不自由な人は、小さな目立たない門から入ることを強いられていました。

現在の修復された城壁にも、いくつかの門があります。

 

今日も明日も、その次の日も、わたしは旅を続けなければならない。

預言者がエルサレム以外の地で死ぬことはあり得ないからである。

ルカ13.33

狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。

ルカ13.23

久留米教会の仲間たちとイスラエル巡礼の旅に来ています。

ここに来て強く感じています。信仰とは、人生の旅のような気がしてなりません。

 

 

 

『神の国』はいつ、どこに。

先週の納涼祭の記事を書いていて、『神の国』についてまた考えさせられました。

イエス様は30歳になるまで、ヨゼフ様のお仕事を手伝いながら暮らしておられました。
お生まれになった時には、「神の子、メシアだ」と有名だったはずなのに、です。

30歳になったころ、大衆を魅了した洗礼者ヨハネが現れました。
500年以上の空白ののちに現れた預言者でした。

彼は、民に罪の赦しを得るための回心を勧め、
「天の国は到来した」と述べ広めたのです。

多くの人が彼から洗礼を受け、その一人がイエス様でした。
その後、ヨハネは彼が起こした大衆運動の結果として逮捕されてしまいます。

イエス様にとって、ヨハネの逮捕は神の国が到来したしるしでした。

マルコの福音書には
「ヨハネが捕らえられた後、イエスがガリラヤへ行き、神の福音を延べ伝えて、
『時は満ち、神の国は到来した。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」
とあります。

イエス様はヨハネの宣教を継続したのです。

18日のごミサのルカの朗読にもありました。
「イエスのメッセージは人々に神の国を受け入れるか否かの決断を迫るので、必然的に分裂が起こる」

 

『神の国』とはなんなのでしょうか。

その当時の人々は神の国の到来を待っていました。
しかし、それぞれが違った考えでそれを待っていました。

神の国の到来とは、彼ら自身の努力によるものと考えられていました。

イエス様は全く反対に、
あなたがたの努力とは関係なく、神の国はもうそこにある、と言われました。

「神の国は目に見える形で来るのではない。
神の国は、実にあなた方の間にあるのだから。」

ルカ17・20~21

フランシスコ会訳の聖書の解説には

神の国はイエスと弟子たちの働きによって、
すでに「あなた方の間」に現実に存在する、解釈できる。

と書かれています。

皆が待っていたものは、すでに民の間にあったけれど、
彼らはそれを知ることも、気づくこともなかったが、
イエス様はそれを感知していました。

そして、人々の間にあった神の国の隠された現存をこそ、
彼は自分の故郷のガリラヤの貧しく、除外された人々に述べ伝え、
啓示しようとしたのです。

 

『神の国』

わたしたち、現代のカトリック信者は、なにを待っているのでしょうか。


あなたにとっての神の国は実現していますか?

何を信じ、何を頼みに祈りますか?

わたしたちの間にも『神の国』は現存しているはずです。

この本を神父様から頂いて読んで、納涼祭での皆さんの平和な様子を見て、
そのことをずっと考えています。

 

 

記事中の青い文字は、この本からの引用です。 

 改めて、イエス様の声に耳を澄ませてみたいと思います。

 

 

久留米教会の夏!

今年も納涼祭が賑やかに開催されました!

8/11は、月に一度のベトナム語のごミサでした。

その後の納涼祭にもたくさん参加してくれ、いつも静かな感じの彼らも、踊ったりして楽しそうに過ごしてくれました!

 

 

 

フィリピンコミュニティの方々もダンスを披露してくれ、途中から観客の信者さんも混じり一緒に踊っていました。ベトナムの子も日本のおばさまも混じって楽しそうでした。

平和を感じたひと時。


もちろん聖歌隊チェチリアも頑張りました。

そして恒例のジュゼッペ神父様の手品オンステージ。

 

 

 

設営の準備はベトナムのみんなも手伝ってくれていました。

女性の会のおばさま方が今巷で話題のタピオカドリンクを100円で振舞っていたり、おにぎりやお素麺の準備も。

ヨゼフ会のおじさま達がせっせとお肉や焼そばを焼いてくださり。

お手製の竹を割って作ったそうめん流しもありました。

カキ氷や、わたあめ、ヨーヨー釣り、水にうかんだオモチャのヒヨコすくい、恒例のクジ引きは青年会のみんなが仕切ってました。

今年の納涼祭は、おそらく過去最高の人出でした。
大人だけでも200人は参加してくれました。

 


これが、久留米教会です!

エクレシアekklēsia

わたしたちの教会共同体です。

 

寄り添う人、ダミアン神父様

先日、ハンセン病の元患者さんたちとそのご家族の裁判のニュースが話題になっていました。
ダミアン神父様のことを思い出しました。

ダミアン神父様(1840~1889年)は、ベルギー出身の司祭で、ダミアンは修道名、
本名はヨゼフ・デ・ブーステル(Joseph de Veuster)
ハワイ王国のモロカイ島において、当時誰も顧みなかったハンセン病患者たちのケアに志願して生涯を捧げ、
自らもハンセン病に感染し、48歳の若さで亡くなられました。

聖人で、記念日は5月10日です。

 

ハンセン病の患者のケアをしていて、不運にも感染されたのではありません。
患者たちともっと寄り添うためには、自らも病気にならなければ、
本当の意味で彼らの苦悩を知って寄り添うことはできないのではないか、
と考えてあえて感染することを望んだ、と言われています。

手や顔に病気の兆候が現れた時、神父様は初めて患者たちに向かって
「我々ライ患者は」と言うことができた、と喜んでいたそうです。

長崎の二十六殉教者記念像などで有名な、偉大な彫刻家、舟越保武さんの作品です。

ダミアン神父様がハンセン病患者となったあとのお姿です。

 


ただ私はこの病醜の顔に、恐ろしい程の気高い美しさが見えてならない。
このことは私の心の中だけのことであって、人には美しく見える筈(はず)がない。
それでも私は、これを作らずにはいられなかった。
私はこの像が私の作ったものの中で、いちばん気に入っている。

https://www.christiantoday.co.jp/articles/16659/20150821/funakoshi-yasutake.htm

(彫刻の画像と舟越さんの言葉は、こちらの記事から使わせていただいています。)

 聖霊の働き、プネウマ「神様の慈愛の息吹」が神父様に宿っていたのでしょう。

 

わたしたちが誰か助けや励ましを必要としている人に心を寄せるとき、
ダミアン神父様ほどの献身的な愛を注ぐことはできないかもしれません。
ですが、相手の立場に立ち、自分だったらどうしてほしいか、どう言ってほしいか、を
いつも考えて行動することはできます。

人にしてもらいたいと思うことを
人にもしなさい
ルカ 6・31~36

この言葉はわたしの座右の銘と思っている箇所ですが、同時に、
「人にしてほしくないことは、人にもしない」とも心がけています。