日常を振り返る季節

待降節が始まり、クリスマスまでひと月を切りました。
この一年を振り返り、やり残したことや気になっていること(掃除も含め!)を整理するにはちょうど良い期間です。

今年もアドベントクランツを作りました。

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とても個人的なことですが、わたしには今年どうしても前に進めたい懸案事項が2つありました。
11月に入り一つ目が大きく前進し、もう一つのことをどうやったら実現させることができるか、ずっと思い悩んでいました。

もちろん、神様のお導きを信じていましたので「きっと大丈夫、その時が来るのを待とう」とも考えていましたが、それでも、わたしはそのために何をしたらいいのか、どう行動すべきか、ずっと模索していました。

それは、認知症の叔母のことでした。

よい恐れは信仰から起こる。偽りの恐れは疑いから起こる。
よい恐れは、希望に結ばれている。
なぜなら、それは信仰から生まれ、信じている神に希望をおくからである。
悪い恐れは、絶望に結ばれている。
なぜなら、信じなかった神を恐れるからである。
(パスカル「パンセ」262)

プライドの高い叔母は、認知症を自覚してはいるものの、デイサービスを利用することをどんなに勧めても頑として拒否していました。

この数ヶ月、従兄弟たちや東京にいる叔母と連携して、思いつくかぎりのことに取り組みました。
そしてようやく、先週、叔母はデイサービスに行くことになったのです。

この間、わたしは家族の絆と信じる心に支えられました。
叔母の穏やかな日常と同居する家族の負担の軽減を願ってのことでしたが、結果的には、わたしや東京の叔母たち自身が、不安の中にも強く幸せを感じることができたのです。

自分のために、古びることのない財布を作り、尽きることのない宝を天に蓄えなさい。
そこでは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
あなた方の宝のある所に、あなた方の心もある。
(ルカ12•33〜34 マタイ6•20〜21)

叔母にはキリスト教の信仰があるわけではありません。
ですが、日々進行していく認知症の中で、時にはわたしのことも分からなくなる中でも、家族の支えを感じてくれたのか、訪問するたびに顔が明るく、見違えるほど穏やかになって行くのを見ることができました。

神を感じるのは、心情であって、理性ではない。
信仰とはこのようなものである。
理性にではなく、心情に感じられる神。
(パスカル「パンセ」278)

わたしを通して、叔母にもお恵みが与えられたのだと信じます。
もしかしたらまた、「あそこには行きたくない」と言い出すかもしれません。
その時はまた、違う対応をして前に進めるつもりです。
彼女のために、家族のために何が1番よいことなのかを考えて。

主イエスに結ばれた者として、あなた方にお願いし、また勧めます。
神に喜んでいただくためにどのように歩まなければならないか、あなた方がわたしたちから学んだとおりに、いや、今そのとおり歩んでいますから、その歩みをますます完全なものにしてください。
(1テサロニケ4・1)

以前もここに書いたとおり、今年は多くのことを学ぶことができました。
ご聖体をいただくときの心の祈りも続けています。
自分に与えられた召命を生きるための努力を積み重ねることができたようにも感じています。

心に残っていること、やり残したことをもう少しきちんと振り返ってみたいと思います。

どんなに困窮し、苦難の中にあっても、あなた方のお陰で励まされています。
あなた方が主に結ばれてしっかりと立っているかぎり、わたしたちは、今、まさに生きていると実感するからです。
(1テサロニケ3・7〜8)

振り返ることも大切ですが、同時に、先を見据えて「来年こそは!」と気持ちを切り替えることもよいでしょう。
このような時代(コロナ禍)に生きるわたしたちは、できるだけ悔いのない日々を送れたら、それに勝る幸せはないのかもしれません。

先週はどのような日々でしたか?
今週はどんな風に過ごしたいですか?

あとひと月あまりです。
今年もたくさんのお恵みをいただけた年であった、そう思えるように、待降節を心穏やかに過ごしましょう。

慈しみとまことはともに会い、
義と平和は抱き合う。
まことは地から生えいで、
義は天から身をかがめる。
主ご自身が恵みを授け、
わたしたちの地は豊かに実る。
(詩編85•11〜13)