行事風景

”Lex orandi” 祈りの教会

みこころレターvol.9を発行しました。
9号!こうして続けて情報を発信し続けられるのも、信徒の皆さんの協力があってのことです。

 

今回もいろいろな方に寄稿していただきました。
久留米教会を活気づけてくれているフィリピンとベトナムコミュニティの皆さんの様子も、毎号少しはお伝えできるように構成しています。

今回の特集は、信徒の皆様にご協力いただいた「洗礼に関するアンケート」の集計結果です。
詳細は、ぜひ手に取ってご覧いただきたいと思います。

洗礼を受けた時期、信仰を持っていてよかったと感じるとき、ミサ・教会に来てよかったと感じるとき、などについて多くのコメントをいただくことができました。

・静かな(神を想う)時間が持て、日常を忘れることができる。
・神様の前で自分の心を見つめられる機会でもあり、信者の方々との会話が楽しめる。
・困難なことがあった時に必ず支えがあると思える(信じれる)ことで前進できる。
・仕事や人間関係、家族のことなど、祈りながら、大切なことは何かを考えながらやってこれた。

うんうん、なるほど、と皆様のご意見にとても深く気持ちを揺さぶられました。
とても多くのご回答、コメントをいただいたのですが、紙面の都合ですべてを掲載することはできませんでした。
先ほどご紹介したようなご意見をできるだけ多く掲載したつもりです。
ご回答は幅広い年代の信徒の皆様からいただきましたので、集計結果はどなたがお読みになっても共感できる部分が多いかと思います。

 

ラテン語で
Lex orandi,lex credendi

直訳では「祈りの法が信じることの法である」
つまり、教義はそもそも祈りのあり方がまず基盤にあって生まれてくる、祈り方が信じている事柄を決める、ということです。

教会は祈りの場です。
多くの信徒のさまざまな祈りが積み重なり、大きな力となって聖堂のなかいっぱいにみなぎっているのをいつも強く感じます。

日曜の朝、その大きな力をいっぱい吸い込んで、自分の1週間のエネルギー、糧とすることができることを感じるとき、わたしは「信仰を持っていてよかった」と感じます。

 

 

自己愛について

昨日のごミサの時間の時点でもう30℃超えの久留米です!

 

時折吹く風が心地よい中、幼稚園の園庭のマリア様を囲んでロザリオを唱えました。

 

福音書には、愛についてのイエスさまのお言葉が多く書かれています。

26日のごミサの第2朗読のヨハネによる福音書の箇所を、フランシスコ会訳で引用します。

 


 

「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。

わたしの父はその人をお愛しになり、

わたしたちはその人の所に行き、

ともにそこに住む。」

ヨハネ14•23


注釈には、イエスは自分を愛する者の内に父(神)とともに来て居を定める、とあります。


カトリック信者の哲学者の山本芳久さんによると、

「神が私に愛を注いでくれるということは、この世界の根源である神が私自身を肯定してくれていることに他ならない。

そして、神から肯定されているという事実を受け入れることによって、自己を自分自身によって肯定することができる。

これが自己愛の出発点になる。」


自己愛

なかなか難しい問題だと思っています。

トマス•アクィナスは、自己愛が基盤にあってはじめて他者への愛も成り立つのだと言っています。


自己愛、つまり

自分を愛する

自己を大事にする

この愛が基盤にあってはじめて隣人愛が成り立つというのです。


約450年前のキリシタンたちは、宣教師からカリタス(神の愛)というラテン語を「御大切」と訳して教わりました。

愛とは大切にすること、というのはわたしたち日本人にはしっくりくる表現ではないでしょうか。

自己愛、というと自己本位なニュアンスを感じてしまうし、自分を愛する、自分自身を肯定するというのはなかなか出来ないと思ってしまいます。

ですが、自分を大切にするという教えだと捉えれば受け入れやすい気がします。 


「わたしを大切に想う者は、わたしの言葉を守る。」


そう読んで、自己愛の大切さについて深く考えた日曜日でした。

 

Thank

 

 

母マリアの痛み

19日(日)の午後、久留米教会のフィリピンコミュニティの皆さんによる聖母祭が行われました。
昨年も参加させていただいたのですが、フィリピンの皆さんのマリア様への信仰はとても深く、愛に満ち、明るく陽気で、彼女たちの集まりはいつも大好きです。 

 

その後、第3日日曜日の英語ミサがありました。

 

火災で大きな被害を受けたパリのノートルダム、これからどうやって修復されていくのか気にかかるところです。
フランスのメディアがおよそ1000人を対象に行った調査では、
元の姿を復元すべきだと答えた人は55%、新たなデザインを支持すると答えた人が44%と、
世論も割れていて、再建の在り方をめぐって議論になっているようです。
ノートルダム(Notre-Dame)はフランス語で「我らの貴婦人」という意味で、聖母マリアを指します。

9/15は『7つの痛みのノートルダム』の記念日とされています。

7つの痛み、とは
①シメオンの預言
②エジプトへの逃避行
③少年イエスと神殿ではぐれたこと
④イエスの十字架の道行き
⑤十字架上での刑死
⑥亡くなったイエスを十字架から降ろすこと
⑦イエスの埋葬

マリア様の苦しみを追っていく信仰を表しています。
18世紀にベネディクトゥス13世が公式の典礼として採用されました。

「マリアの痛みとは、
彼女の息子によってなされた神の愛の啓示の前に分裂しあう人間のために心を引き裂かれた痛み
であり、その痛みを通してイエスの受難に思いを馳せ、救いを自覚しなくてはならない。」

 

すっかり忘れていたのですが、先週の日曜日は母の日でしたね。

浄水通教会の入り口に掲示されていました。
(高校時代の担任シスターが書かれたものです。)

この詩を読んで、母の苦しみ、悲しみ、喜び、いろいろと思いを馳せました。

 

 

薔薇の奇跡

奇跡、信じますか?身近に経験された方はいらっしゃいますか?

それが奇跡なのかは確信が持てないとしても、「奇跡的な体験」はわたしも経験したことがあります。わたし自身の病気の克服もですが、父は13年前にステージ4の癌で余命半年と言われましたが、今でも元気に仕事と趣味に没頭しています!


祈りや願いのとき、どなたか聖人に依り頼むという方は多いかと思います。

かつてヨハネ•パウロ2世は「信者から1番人気があって1番願い事をされているのはパドヴァの聖アントニウスと聖女リタだ」とおっしゃったそうです。

聖女リタは「絶望的な案件」「不可能な案件」に効くのだとか。 


我が家に以前いた猫ちゃんの名前がリタでした。

聖女リタからとったわけではないのですが、最近彼女に関して書かれた本を読んだので、とても親近感が。

リタは、いわゆる聖女像とはかけ離れた人生だったようです。結婚歴があり、旦那様は家庭内暴力をふるう男、2人の息子は不良。

夫と息子に先立たれた後に、頼んでは断られを3度繰り返したのちに、奇跡が起きてようやく修道院に入ります。しかし、額の傷から悪臭を放つようになり、晩年は14年もの間、隔離されました。

なぜ彼女が奇跡を起こし、今現在も絶大な信頼と人気を誇っているのか⁈


彼女の命日で祝日でもある5/22には、薔薇の奇跡のエピソードにちなんで巡礼者は赤い薔薇を持って集まるそうです。

 


リタにまつわる奇跡のエピソードはたくさんあるようです。妻として母として献身的に生き、未亡人となり、修道女としても決して幸せとは言えなかったかもしれません。だからこそ、「絶望的な案件」「不可能な案件」に効くとされているのでしょう。


5月は聖母マリアに捧げられた月です。薔薇の季節、マリアとリタが多くの恵みを下さるよう祈りましょう。

 

 

他者とのかかわり

GW後半は初夏のような陽気ですが、皆さま少しはゆっくりお休みされましたか?

福岡教区報の5月号に掲載されていた「司教、花祭りにお寺を訪問」の記事、大変興味深く読みました。

4/8のお釈迦様の誕生を祝う仏教行事に際して、教皇庁諸宗教対話評議会(←この会そのものに興味津々‼︎)からのお祝いメッセージを持ってお寺を訪問されたそうです。

 


以前から、こうした他宗教やプロテスタント教会とカトリック教会のかかわりについて、とても関心を持っています。

宮﨑神父様は昨年、プロテスタントの日本基督教教団の筑後地区研修会において講和を依頼され、「隠れキリシタンと潜伏キリシタンについて」というテーマでお話しをされました。

明治時代に創設された教団のため、そのテーマについてよく知らないので勉強したい、との要望があったからだそうです。

久留米教会では毎年12/25の夕方、色々な宗派のプロテスタント教会の信徒と合同で、久留米のメインストリートでクリスマスキャロリングをしています。


ブッダの教えの中に「此あれば、彼あり」というのがあります。

これがこのようなのは、かれがあのようであるからだ、というシンプルな教えです。

他の波があるから、この波が存在する。

哲学的ですが、水は波の存在の基盤なので、波は自分が水そのものであることに気づくのです。

作家の若松英輔さんによると、

「私たちカトリックは」と言ったとき、普遍を意味するカトリックの本来の、すべての人たちと何らかの形でつながろうとする営みどころかむしろ、「わたしたちは選ばれたもの」という立場に立つことになる。それはカトリックの霊性に離反することだ。

 


わたし自身、他者、他宗教の方々に少なからず偏見を持った気持ちをもってしまうことがあります。

司教様のお寺訪問の記事から、とても考えさせられました。

 

わたしたちの創造主

教会の敷地内の植物たちも、春爛漫の季節に息づいていて、素晴らしい生命力でわたしたちを魅了しています。

 

 

ご復活祭のあと、聖書を最初のページから開いて読むにはよいタイミングだと思い、読み返しています。

創世記の始まりは、第一部 『世界と人間の起源』、1章の小タイトル『宇宙の創造』となっています。

1 初めに、神は天と地を創造された。
2 地はむなしく何もなかった。
3 闇が深淵の上にあり、神の霊が水の上を覆うように舞っていた。

フランシスコ会訳の聖書の注釈には、こう書いてあります。

「祭司伝承による創造の経緯では、古代に普及していた考えに基づいて宇宙のことが描かれている。
記事は当時の知識を反映したもので、今日知られているような科学的なものではない。
著者は、人間が特に万物の霊長として神によって創造され、万物の支配権にあずかっていることを説いている。」

さすが、現代的な解説!!

 

高校生の頃、担任のシスターがおっしゃった言葉がずっと心に残っています。
それは、「科学者が宇宙、地球、種の起源を突き詰めて研究しても、
最後には、『最初を作ったのはだれか』という問題に行き当たるそうです。」
というお話でした。

そのシスターがおっしゃっていたのは、村上和雄さん(筑波大学名誉教授)の言葉でした。
彼がその著書などでたびたびおっしゃっているのは、『サムシング・グレート』という概念です。
(村上先生の本はどれもとても面白いのでお勧めです!)

「サムシング・グレートがどんな存在なのか、具体的なことは私にも分かりません。
しかしそういった存在や働きを想定しなければ、小さな細胞の中に膨大な生命の設計図を持ち、これだけ精妙な働きをする生命の世界を当然のこととして受け入れることは、私には到底できないことでした。
それだけに、私は生命科学の現場で研究を続ければ続けるほど、生命の本質は人間の理性や知性だけでは説明できるものではないと感じるようになりました。」

致知出版社ホームページより抜粋

https://www.chichi.co.jp/

村上先生はカトリック信者ではないので、わたしたちが指す「神様」のことをサムシンググレートとおっしゃっているのではないのですが、世界的にすぐれた業績を残されている方が、「科学を突き詰めても説明できない何か」の働きによってわたしたちが生まれ、生かされていることは間違いないと考えていらっしゃるのです。

 

一冊の本をご紹介します.

 


三田一郎さんという、名古屋大学名誉教授でカトリック助祭でもいらっしゃる物理学者の著書です。
「科学者はなぜ神を信じるのか」
タイトルだけですぐに購入し、一気に読みふけりました。

内容を少しご紹介します。

「ニュートンの運動方程式は、神の領域の多くを科学の領域に移しました。
もしも宇宙がこうした物理法則に沿って創られたなら、それらの法則は宇宙創造の前に存在していたはずです。
とすれば、「物理法則こそが神の正体ではないか」と考える人もいるでしょう。
しかし、それは違うと私は思います。
物理法則は、家の建築にたとえれば設計図のようなもので、設計者そのものではありません。
もしも宇宙に設計図があったとしても、ならば設計をしたのは誰なのか、という問題は依然として残るのです。
そして、ニュートン以降の科学者たちにとっても、神の存在をめぐっての議論は、宇宙に創造主は存在するか否かという議論に収斂していくのです。」

お二人とも、生命の設計者がいるはずだ、というお考えに到達されているのは面白いと思いませんか?!

アメリカでは(一部の保守層の地域ですが)、聖書の言葉は書かれている一字一句がそのまま神の言葉であるから「進化論は間違っている」としていまだに教えられていない地域があるそうです。

創世記に限らず、聖書に書かれていることを全て歴史的事実だととらえる必要はない、と、ある神父様から教わりました。

大切なのは、わたしたちがどうやって進化していまの姿で生きているか、ではなく、
創造主である神様は、わたしたちを「お望みになり」「神の似姿」として生かされている、ということなのではないでしょうか。

 

 

ご復活の喜び

主のご復活おめでとうございます!
20日(土)の復活徹夜祭では3名の方が受洗され、21日(日)のご復活主日のごミサでは11名の幼児洗礼式が執り行われました。
本当におめでとうございます。

 

復活徹夜祭のごミサは、光の祭儀から始まりました。
聖堂正面の扉から入り、中央のロウソクから火をもらいながら順に信徒が入場しました。

ご復活に限らず、ごミサはいつも「おはよう」から始まります。
マタイの福音書28章も、「おはよう」のエピソードから始まります。

天使が墓石の上に座り、マグダラのマリアともう一人のマリアに言います。

「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」

彼女たちは恐れながらも大喜びで、弟子たちに知らせようと走り出します。
するとイエス様が行く手に立って「おはよう」と声をかけられるのです。

教会に行くと、神父さまが聖堂入り口に立っておられ、わたしたちに「おはよう」と声をかけてくださいます。

いつもごミサでご一緒する信徒の皆さんと、互いに「おはよう!」と声をかけあいます。

ご復活のミサでは「おはよう!おめでとうございます!」

そして、座って祈り始めるとき、真っ先に心に浮かぶ気持ちは「神様、今週も一週間ありがとうございました。」

おはよう

おめでとう

ありがとうございます

この3つのことばさえあれば、わたしたちの心は豊かに満たされます。

キッペス神父様がミサでおっしゃいました。

「朝起きたらまず、鏡に向かって自分にあいさつをしてください。
自分に、おはようとあいさつをするのです。
日々、自分を受け入れなければ人を受け入れることはできません。」

 

ご復活のミサの様子をダイジェストでお伝えします。

 

普段の倍、久留米のご復活のミサはいつも、外まであふれる参列者です。

 

 

最初に宮﨑神父様がお香をふりまかれます。聖堂中に心地よい香りが漂います。

 

 

ベルナデッタちゃんを始め、幼児洗礼式で11名の子どもたちがわたしたちの仲間入りをしました。
みんな、ようこそ!

 

 

日曜学校の子どもたちが、イースターエッグを配ってくれました。

新しい命が産まれるシンボルとして、ご復活のお祝いに卵が使われます。
また、春にたくさん赤ちゃんを産むことから、うさぎもイースターの象徴です。

春です。
このご復活のごミサがくると、1年が始まった!という気持ちになるのはわたしだけでしょうか。

この喜びを胸に、「おはよう」「ありがとう」の日々を大切に過ごしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

枝の主日2019

4/14は枝の主日でした。
久留米教会でも枝を用意し、教会の外で祈りが捧げられました。

 

ジュゼッペ神父様の隣のイケメンさんは、4月から久留米教会に着任された古市匡史神学生です!

 

イエス様のエルサレム入城を記念して、毎年ご復活の1週間前の主日に行われるのが、この枝を使ったごミサです。
エルサレム入場はイエス様が決定的な受難の道に入ったことを意味し、
この時からイエス様の歩みは一直線に十字架に向かいます。

この日は、エルサレム入城にはじまるイエス様のご受難が、復活の栄光に至る道であることを思い起こす日です。
聖書も受難の箇所が読まれることから、枝の主日は「受難の主日」とも言われます。

そして、この日からカトリックの典礼で最も大切な聖週間が始まるのです。

 

 

「お前は同じ刑罰を受けていながら、まだ神を畏れないのか。
われわれは、自分のやったことの報いを受けているのだからあたりまえだが、この方は何も悪いことはなさっていない。」
そして言った、「イエスよ、あなたがみ国に入られるとき、わたしを思い出してください。」

すると、イエスは仰せになった。

「あなたによく言っておく。今日、あなたはわたしとともに楽園にいる」。

ルカによる福音書23・40〜43


この、罪人の回心についてはルカだけが伝えています。
ごミサでは宮﨑神父様からこの箇所についてのお話がありました。

 

カリタスジャパンの四旬節のカレンダー、皆様もご家庭に持ち帰られましたか?

 

その中のパパ様からのメッセージの一部です。

「祈り」は、偶像崇拝や自力で何でもできるという考えを捨てるために、
また、自分には主と主のいつくしみが必要であることを宣言するためにささげます。

「施し」は、未来は自分たちのものではないにもかかわらず、
その未来を手に入れられると錯覚し、

自分自身のためにすべてを蓄えて生きようという愚かな考えを捨てるために行います。

 

とてもスッキリと心に響きました。

「祈り」は、惰性的になると「お願い」になりがちなのではないでしょうか。

「施し」は、自己満足になると「上から」になる危険をはらんでいます。

この箇所を読んで、今までの自分の祈りの仕方や施しについて回心する必要があるな、と感じました。

人のために祈ること
誰かのために働くこと

相手のために、というよりも、
その行い自体が自分にお恵みとして帰ってくると思うのです。

「施し」は、自分の時間を割くことも含んでいると考えています。
自分の時間を誰かのために惜しみなく使う。

聖週間の始まりとともに、すべての人のためにご自分を捧げられたイエス様に習い、
自分を人のために捧げることについて、自問を続けたいと思います。

 

カトリックの教育

新学期が始まり、久留米教会に敷設されている聖母幼稚園も子どもたちの賑やかな遊ぶ声が響き渡っています。
子どもたちの元気なかわいい声にパワーをもらえる気がします。

「しんぷさま~~ぁ!」と駆け寄ってきて宮﨑神父様に抱き着く子どもたち。
神父様も、「子どもたちからエネルギーをもらえる」とおっしゃっています。

カトリック生活、という雑誌があります。定期購読されているという方も多いかもしれません。
今月号の特集「道徳教育と宗教教育」、とても興味深く読みました。

 

編集長であるサレジオ会の関谷神父様が書かれていたのは、

一般的な社会道徳の規範の中で、一番よく聞かれる最低限のルールは、
「人の嫌がることをするな」という禁止である。

ところがイエスは、このルールを前提にしながらさらに先を行く。
人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
マタイ7・12
受けるよりも与えるほうが、幸いである。
使徒言行録20・35
「するな」という禁止の最低限のルールを守るだけでなく、
それを飛び越えて積極的に自分から愛を示せと勧め、奨励するのがイエスだ。

このあたりが、道徳と宗教の立ち位置の違いの一つではないだろうか。

 

久留米教会では、信徒のみなさんにご協力いただいて、『洗礼と信仰』についてのアンケートを実施しました。
たくさんのご回答をいただいているので、これから集計するのですが、印象的だった回答の一つが
「カトリックの学校に行っていたので大人になって洗礼を受けた」という回答が多くあったことです。
わたしも、その一人です。

学習指導要領の制度変更により、「道徳」の授業が小中学校では必須科目となりました。
現在は、カトリック学校など宗教系の私立学校では「宗教科」がその代わりとして認められています。
(それも来年度は見直されるかもしれない、とのことですが。)

宗教の授業、わたしは大好きな時間でした。

担任でもあったシスターが宗教の時間によく『ブラザーサン、シスタームーン』などの映画を見せてくださっていました。
聖書の勉強の時間も「わたしはヨハネを研究したから」とヨハネの福音書をとても分かりやすく解説してくださいました。

多感な青春時代に、そのシスターから教えていただいた教育としての宗教の時間があったから、
そして、毎朝、毎夕、聖歌を全校生徒一緒に歌い、
学校のお御堂で祈る時間を自然に受け入れたあの日々があるから、
その後に信仰を自然と育み、洗礼にまで至ったのは間違いありません。

教育について語る知識は持ち合わせていませんが、わたし自身の経験から言えるのは、
カトリックの学校が長い年月をかけて蓄積してきた宗教の教育には、
かけがえのない価値があるということです。

聖母幼稚園、ここを巣立った子どもたちがいつの日か
「教会の横の運動場で鐘の音を聞きながら駆け回った記憶」
「あまりよく覚えていないけれど、神父様が大好きだった記憶」
と心の中で思い出し、洗礼を受けたり、結婚式をあげたりする日がくるのではないでしょうか。

あしたは姪の入学式です。
カトリックの学校に進学しました。
彼女は早くも「たくさん聖書を学びたい」と張り切ってくれていて、叔母としては嬉しいかぎりです。

 

音楽による祈り

どのような時に音楽を聴きますか?
わたしは、家事をしながらクラシック音楽をスピーカーから流すのが好きで、いろいろな楽曲が携帯に入っています。
その中でも、詩編を歌ったものや、バッハのマタイ受難曲、ヨハネ受難曲をこの四旬節には毎日聴いています。
マタイ受難曲は、マタイによる福音書の26-27章のイエス様の受難を題材に、
ヨハネ受難曲は、ヨハネによる福音書の18-19章のイエス様の受難を題材にした曲です。

スターバト・マーテル(ラテン語: Stabat Mater、「悲しみの聖母」「聖母哀傷」)をご存知でしょうか。
13世紀に生まれたカトリック教会の聖歌の1つだそうです。

Stabat mater dolorosa 「悲しみの聖母は立ちぬ」から歌詞が始まります。
中世以来、西洋音楽の多くの作曲家がこの詩に曲を付けていて、わたしはドボルザーク、ペルゴレージ、アルヴォ・ペルトのものが好きでよく聴いています。

カトリックでは、マリア様への信仰も大切にしています。
ヨハネによる福音書にだけ、イエス様のご受難に際し母としての悲しみの中にあっても最期に立ち会う姿が書かれています。
ヨハネだけが、十字架のすぐそばで「立っていた」マリア様の姿を書いています。

スターバト・マーテル=母は立っていた 

東京のカテドラル関口教会には、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂にあるピエタの同寸大のレプリカがあります。
数年前に訪れた時に撮った写真です。

 

ピエタとは、イエス様が十字架上で亡くなられた後、
マリア様がそのご遺骸を膝に受けてご苦難のあとを偲んだ、
その限りない母の愛を瞑想する姿を現したものです。

http://cathedral-sekiguchi.jp/cathedral/pieta/

十字架から降ろされた息子を膝に乗せて嘆いた、という記述は聖書にはありませんが、
ピエタに表現されているように、苦しんで亡くなった息子を抱いた母の姿は、
幼子イエスを抱く若い母の姿という正反対のイメージとともに、マリア様への信仰の象徴になっています。


詩はラテン語の強弱四歩格で書かれています。

少しご紹介します。

悲しみの母は立っていた
十字架の傍らに、涙にくれ
御子が架けられているその間

呻き、悲しみ
歎くその魂を
剣が貫いた

ああ、なんと悲しく、打ちのめされたことか
あれほどまでに祝福された
神のひとり子の母が

涙をこぼさないものがあるだろうか
キリストの母が、これほどまでの
責め苦の中にあるのを見て

悲しみを抱かないものがあるだろうか
キリストの母が御子とともに
歎いているのを見つめて

さあ、御母よ、愛の泉よ
私にもあなたの強い悲しみを感じさせ
あなたと共に悲しませてください

私の心を燃やしてください
神なるキリストへの愛で、
その御心にかなうように

どうかキリストの死を私に負わせ、
どうかその受難を共にさせ、
そしてその傷に思いを馳せさせてください

肉体が滅びる時には
どうか魂に、栄光の天国を
与えてください
アーメン

ご受難を扱った音楽を静かに流しながらお祈りするのも、お勧めです。
御復活祭まであと20日となりました。
イエス様のご受難と聖母マリア様の悲しみに心を寄せ、心静かに過ごしたいと思います。

 

七つの秘跡:Part5

最終回は、叙階の秘跡についてです。

3/21に大名町教会において叙階式が執り行われ、船津亮太助祭が誕生しました。
久留米教会出身ということで、わたしたち久留米の信徒も大勢でお祝いのため参列させていただきました!

叙階、これは召しだされた本人はもちろん、わたしたち信徒にとっても大きな大きなお恵みと喜びです。
まずは、今回のように助祭となり、次に司祭へ叙階され、3つ目は司教叙階です。

昨日のごミサでは船津助祭として、とてもキリッとした様子でジュゼッペ神父様の横でお手伝いされていました。

助祭は、ミサと告解はできませんが、洗礼を授けること、結婚式、葬儀の司式は執り行えます。

21日の様子を、たくさんの写真とともにお伝えします。

 

福岡教区の司祭団の入場

親族席も設けられ、ご両親はやや緊張の面持ち。
まさに、息子が神様と結婚する式!の様でした。

久留米教会の聖歌隊のみなさんも、朝早くから練習を重ね、上の階から素晴らしい歌声を響かせてくれました。
中には、感極まって涙ぐみながら歌われていた方もいらしたそうです。

宮原司教様の按手によって、助祭に叙階されます。

最初に船津助祭に神学校を勧め、召命のきかっけを作ってくださった
浦川神父様によってストラを着せてもらう様子。

引き続きミサが行われ、久留米教会の可愛い3人によって奉納の儀式が。

船津助祭、最初のごミサです!

最初にご聖体を拝領されたのは、ご両親。感無量だったのではないでしょうか。

馬渡島から駆けつけられたおばあ様のお手製の紅白まんじゅうが振る舞われました!

ご家族のみなさま、本当におめでとうございます!!

 

結婚の秘跡の際にも書きましたが、叙階は教会共同体と受階者の絆を確固たるものにするので、
結婚の秘跡とともに「交わりの秘跡」と呼ばれています。

宮原司教様が司式の際におっしゃった言葉が心に響きました。

「仕えられる者ではなく、仕える者として来られたキリストの
真の弟子としてのお恵みをお与えくださいました。」

「信者にも、信者でない者にも良い知らせを伝えて行ってください。
福音に奉仕しなければなりません。」

船津助祭がごあいさつで言われました。

「日曜学校の子どもが言った、『助祭は神様へのあといっこ』という言葉が、
なるほど、と心に残っています。

神様に少し劣るものとして作られたわたしが、
少しでも神様に近づけるように奉仕していかなけれはならないと思っています。」

叙階の秘跡を受けた司教や司祭たちは、教会の頭であるキリストの代理者として行動します。
キリストの現存を現す司教、司祭という役務を果たすからといっても、
これら役務者が完全無欠の人になるということではなく、
人間的な弱さもかかえながら神の民の奉仕のために尽力するのです。

https://www.pauline.or.jp/catechism/catechism107.php

 

本当に素晴らしいお恵みの一日でした。

召命を願って祈りましょう。

七つの秘跡:Part4

今回は、結婚の秘跡についてです。
3月10日に結婚式が執り行われました。
わたしも参列させていただきましたが、やはり教会の結婚式は素敵です。

最近は結婚式場に教会のようなチャペルが併設されている場合が多いので、
多くの方がキリスト教的な式を挙げられるのが普通のことになっていますね。
若い方々が教会での式に憧れるのは当然です。

だって、こんなに美しい!!

 

結婚は男女の交わりを強めるものであることから、叙階の秘跡とともに「交わりの秘跡」と呼ばれています。
結婚の秘跡を授けるのは、司祭ではなく夫婦同士です。
司祭は司式を執り行う立会人です。

式次第の後半に、誓約の儀の一連の流れがあり、誓いの言葉ののち、
指輪の祝福と交換が行われます。


新郎は司祭から新婦の指輪を取り、「この指輪は私たちの愛と忠実のしるしです」と唱えながら
新婦の左手の薬指にはめます。
続いて新婦も同様にして、新郎の左手の薬指に指輪をはめます。

指輪の円は継ぎ目なく続く永遠のシンボル。
それを神様の前で交換し、誓いをたてることで永遠の愛情を互いに約束するのです。

 

この、結婚指輪の風習は、カトリックが起源であることをご存知でしたか?
古くは、神様との誓いをたてた証しとして指に紐を結んだことに由来するそうです。

また、カトリック教会における結婚の秘跡は、どちらか一方だけが信者の場合、準秘跡とされています。
ヨーロッパなどのカトリック国では、信者が未信者と結婚することは原則としては認められておらず、
日本のように布教国である場合は認められています。
その場合、司祭が特別に許可をする『ディスペンザチオ』(ラテン語)=特別の免除が与えられます。

以前ご紹介した、ジブランの『預言者』に書かれている結婚について。

◆二人のあいだにも、自由な空間を置きなさい。
 そして、そこに、天からの風をそよがせなさい。

◆愛し合っていなさい。しかし、愛が足かせにならないように。
 むしろ二人の魂の岸辺と岸辺のあいだに、動く海があるように。

◆おたがいの杯を満たし合いなさい。
 しかし、同じひとつの杯からは飲まないように。

◆一緒に歌い、一緒に踊り、共に楽しみなさい。
 しかし、おたがいに相手をひとりにさせなさい。

◆一緒に立っていなさい。しかし、近づき過ぎないように。

深いですね。 

 

ここで、宮﨑神父様からのお願いです。
教会で結婚式をしたいと思われている方は、

①日程を決める前に神父様に相談に行ってください
②必ず、お二人揃って数回の結婚講座に参加してください。

大輝さん、綾乃さん、ご結婚おめでとうございます!

 

「信仰」とは何か。

四旬節が始まり、第一主日のごミサは、3人の司祭と2人の神学生と共にという贅沢なものでした。

 

神父様がたの祭服、ストラも、ご聖体が安置されている 祭壇の幕も紫色です。

カトリックに限らず、その行いの尊さ、素晴らしさ、社会に及ぼした影響などから、尊敬され続けている人は本当に多くいらっしゃいます。そこで、現在バチカンに正式に聖人として登録されている聖者は何人いるのだろう、と思い調べてみました。

結論。
「カトリック、ギリシャ正教合わせて1万人以上の聖人・福者がいるが、厳密に数え上げられてはいない」

ちょっと驚きでした。
聖人ではありませんが、今日はある一人の日本人についてです。

杉原千畝さんについては、ご存知の方が多いかと思います。
「数千人の命を救った男」というタイトルのホームページ、そして実際に記念館もあります。

http://www.sugihara-museum.jp/

リトアニアの日本領事館に押し寄せた、ナチスに追われて逃げてきたユダヤ難民たち。
日本政府が認めなかったのに、6千人もの難民にビザを発給した杉原千畝。

そこまではよく知られている話しだと思います。
でも、杉原が発給したビザは、あくまでも「日本を通過するためのビザ」であり、長くても10日間ほどしか日本に滞在できないものでした。
難民たちは、アメリカなどを最終目的地としており、その10日間の間に日本で目的地と交渉し、船便を確保するのは実際には不可能でした。

杉原の「命のビザ」を引き継ぎ、難民たちの日本での窓口となり、日本政府と様々な形で交渉し、ビザの延長を実現した日本人がいました。

小辻節三という人です。

杉原千畝と違い、彼のことはあまり知られていないようですし、記念館もありません。
かれは、のちにユダヤ教に改宗し、現在はイスラエルに埋葬されています。

「命のビザ」を繋いだ彼に興味を持ち、ほとんど日本には資料がない中、イスラエルやアメリカで資料を集め、取材を重ねて本にしたのは俳優の山田純大さん。
そう!
杉様(スギちゃんではなく、杉良太郎さん)の息子さんです!

命のビザを繋いだ男(NHK出版)

こうした背景があったことを、わたしは全く知りませんでしたので、大変興味深くこの本を読みました。

一見、カトリックとは関係のない話しのようにも感じられるかもしれません。
ですが、信仰を持つ人の行動はやはり何かが違う、と思ったのです。
プロテスタントの教育を受けて育った小辻氏でしたが、ユダヤ教に興味を持ち、実際にユダヤ人たちのために働いた彼の強い信念は、やはり「信仰」からくるものだったのではないでしょうか。

 

昨日のミサでは、来月受洗される方々の洗礼志願式が行われました。
信仰を持つことを決められた方々です。

 

わたしたち自らの信仰について考えを深める良い機会です。
「わたしの信仰とは何か。」
「何のためか。」
思い返してみましょう。

 

七つの秘跡:part3

今回は、洗礼の秘跡についてです。
みなさんは、いつ洗礼を受けられましたか?幼児洗礼?大人になって?結婚を機に?
よく、ミサの際に思うのです。
ここにいらっしゃる信者さんは、どんなきっかけで受洗されたのだろう?
どのようなエピソード、ストーリーをお持ちなのだろう?と。

そう思われたことはありませんか?

わたしの場合について、今日は書いてみたいと思います。
洗礼、これは本当に素晴らしい秘跡です。

キリスト教の入信の秘跡と呼ばれるものには3つの秘跡があります。
洗礼、堅信、聖体の秘跡です。
この3つの入信の秘跡が、私たちキリストを信じる者の生活全体の土台となっているものです。

 

これは、わたしが27年前のご復活の際に洗礼を受けた時の写真です。

平成3年、まだ昭和の香りがしますね!

代母は、出身高校のシスターにお願いしました。

今よりもずっと、ヴェールを着用している方が多いですね。

当時は久留米教会のステンドグラスもシンプルなカラーのガラスです。

わたしの隣は亡くなった母です。今のわたしの年齢よりも若いです!
(間瀬先生もお若い!!)

この時、21歳でした。
20歳の時、骨肉腫を患いました。
苦しい抗がん剤の治療も、大手術も、長い入院生活も、義足での困難なリハビリも、全く苦ではありませんでした。
なぜだかうまく説明できないのですが、若さと、単純で楽天的な性格のわたしは、「退院したら新しい楽しみを見つけなければ!」と考えていました。
それよりも、新宿の都庁の隣の高層病院の窓から見える大都会の景色の中に、どれだけの病院があって、どれだけの病気の方が苦しい思いをされているのだろう、とよく思っていました。

そんなわたしを、東京の姉妹校のシスター方がよくお見舞いに来てくださり、
「あなたは神様の子です。神様の子に間違いない!」
と、何度も言ってくださり、退院と同時に洗礼を受けるのはごく当然の流れでした。
わたしが小さいころから信仰を持っていた母の喜びは大変なものだったようです。

ギリシア語で「洗礼を行う」という「バプティゼイン」という言葉は、「沈める」という意味をもっている言葉です。
洗礼は、「聖霊によって、新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗い」とも呼ばれるものです。
また、洗礼は、「照らし」とも呼ばれています。
洗礼を受けることによって、このキリストご自身のみことばを受け、照らされ、今度は洗礼を受けた人自身が、「光の子」となり、「世の光」となるのです。

参考

https://www.pauline.or.jp/catechism/catechism072.php

わたしは、本当に生まれ変わりました。
義足での新しい生活と、信者としての新しい人生が、同時に始まったのです。
あのような大きな病気をしてなければ、信者として生きる今のわたしはなかったと確信をもって言えます。

「世の光」「神のインフルエンサー」として生きる喜びは、秘跡としか言いようがありません。
数年前には、洗礼を受ける友人の代母となることもできました!

今年のご復活の前夜祭でも、久留米教会では数名の方が受洗されます。来週のごミサでは洗礼志願式が行われます。
新しく生まれ変わって「光の子」として歩まれる方々のために祈りましょう。

 

祈りの必需品

みなさまは、一日の中でいつ、どのように「祈り」をされているでしょうか。

リビングに祭壇を設けていらっしゃるお宅もあるでしょう。

ロザリオを手に祈るというかたもいらっしゃるでしょう。

わたしは昔、「祈り」の仕方がわからず、模索していた時期がありました。

「祈り方」を説いた本を読み漁りましたが、自分の祈りのスタイルを、
確信をもって「こうやって祈っています」と言えるようになったのは、つい最近の様な気がします。

思いついたらいつでも、どこででもお祈りはしますが、寝る前にベッドで祈る時の必需品はこれ!

 

この、手のひらにすっぽり収まる木製の十字架。

 

 

絶妙なカーブがあって、握りしめると心地よく手に収まるのです。
数年前に、仲良しのおば様にプレゼントしていただきました。

(大名町教会のサンパウロでお求めいただけます。)

祈りの助けになっています。
手の中でギュ~っと握りしめていると、とても心が落ち着き、
神様と天国の母に心とからだを明け渡して話しかけることができるような気がするのです。

「神様に全てを明け渡す」

これが、わたしの祈りのスタイルです。
これは、教会の大切な友人が言ってくれた言葉です。

いろいろと悩んでいた時期に、彼女に相談しました。
同じように、彼女もその時悩んでいることを抱えていて、
その結論として自分で導いたのが、「神様に全てを明け渡す」ということだったと話してくれました。

 

パパ様の本、使徒的勧告「喜びに喜べ」の中に書いてあります。

自分の中にある攻撃的で利己的な傾きと闘い、そうした傾向が根づかないうように用心しなさい。
「怒ることがあっても、罪を犯してななりません。
日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」
エフェソ4・26

流され沈みそうになっても、わたしたちはいつだって、祈りという錨(いかり)にすがることができます。
祈りの錨は、わたしたちを神の腕の中に、平和の源のそばに、引き戻してくれます。

 

神の腕の中に引き戻してもらえるように、神様に全幅の信頼を寄せ、今日も、いつも祈りましょう。

 

イエス様はどのようなお顔をしていたのか⁈

みなさんそれぞれにイエス様のお顔のイメージをお持ちだと思います。

それは、馴染みのある教会のご像、見たことのある絵画や映画で演じた俳優の顔など、実は多くの連想させるお顔から各人が確固たるイメージを持っているのではないでしょうか。

久留米教会のイエス様

(十字架のイエス様を左右から照らす照明の位置と光の具合が変わったことにお気付きですか⁈)


その中でも、十字架上のイエス様のイメージについて考えてみました。

12世紀までのイタリアのキリスト像は苦痛や苦悩を超越した表情で描かれていました。
「勝利のキリスト」と言われています。

13世紀になると、首をうなだれ、苦痛と悲しみの表情を浮かべた「苦悩のキリスト」が主流となってきます。
それは、アッシジの聖フランチェスコが要因を作ったとされています。

フランチェスコの体に聖痕が現れたと言われるほど厳格な生活を徹底していたその姿勢は、イエス様の受難について語る際にも反映されます。
聖フランチェスコの説教には鳥も耳を傾けたというエピソードのとおり、人々への共感が広がり、絵画においても人間的な苦悩が強調されることにつながったのです。


グリューネヴァルトは16世紀に活動したドイツの画家。

ドイツ絵画史上最も重要な作品の1つであるのが、このイーゼンハイム祭壇画

 

 

磔刑図は数多く描かれていますが、肉体的な苦痛をここまで表現したものとしてはこの作品に匹敵するものはない、と言われています。
イーゼンハイムの聖アントニウス会修道院付属の施療院の礼拝堂にあったもので、患者が自らの苦痛を十字架上のキリストの苦痛と感じ、救済を得るために、このような凄惨な磔刑像が描かれたと言われているそうです。

 
グリューネヴァルトの絵の背景の闇をさらに濃密にし、風景も他の人物も排除して祈りのための「像」として描かれたのが、スルバラン1627年作の『十字架のキリスト』

 

 

その5年後に描かれたのが、同じくスペインのベラスケスの『十字架のキリスト』

 

 

闇に浮かび上がる十字架によって、神の子としてのイエス様の崇高さを表現すると同時に、リアルな描写で人間イエスの肉体の痛みをも描き出しています。
ちなみに、頭上に書かれているのは、3か国語での「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」
前述のグリューネバルトのように、16世紀ごろまでは「INRI」(ラテン語の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」の頭字語)と書き表すのが普通でしたが、このころから絵画も世界的な広がりを見せてきたことを反映し、3か国語表記が主流となったそうです。


わたしたちの持つイエス様のイメージは、このあたりの作品が近いのでは⁈ 

 

ここで告白!!
すべて、わたしが調べたのではなく、種明かしはこの本!!

 

 

西岡文彦さんの「名画でみる聖書の世界」新約編
(旧約編、は書かれていないようです。)

創世記から最後の審判までの世界中の名画の背景と解説が書かれていて、とっても読み応えがあります!

少し古い本なので、残念ながら本屋さんに新品はありませんが、アマゾンで中古本をお求めいただけます。

(久留米教会の方はわたしにお申し付けください!)


四旬節に向け、十字架上のイエス様に思いをはせ、穏やかに過ごしていきたいと思います。

 

神のインフルエンサー

今年の11月に広島、長崎、東日本大震災の被災地を訪問されることを表明されているパパ様。
もちろんお目にかかったことはないのですが、以前もご紹介したように、ツイッタ―でのお言葉を毎日聞いているので、とても身近に感じているのはわたしだけではないのではないでしょうか。

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その「はい」という答えで、マリアは史上もっとも影響力のある女性となりました。
ソーシャル・ネットワークなしで、マリアは最初の「インフルエンサー」、神の「インフルエンサー」となりました 。
With her “yes”, Mary became the most influential woman in history.
Without social networks, she became the first “influencer”: the “influencer” of God.

神のインフルエンサー!!
このツイートはとても印象的でした。
わたしが目指しているのはこれだ!と。

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人生を上手に航海する秘けつは、イエスが船に乗ってくれるよう招くことです。
イエスに、人生の舵を渡すべきです。
そうすればイエスは道を示してくださいます。
The secret to navigating life well is to invite Jesus on board.
The helm of life should be given to Him, so that He can direct the route.

イエス様に人生の舵を渡す。
なんとわかり易い言い回しでしょうか。

 

久留米教会の信徒の中にいろいろな奉仕活動をされている方がいることは度々ご紹介していますが、
炊き出しボランティアに参加していらっしゃる方も。
NPOホームレス支援久留米越冬活動の会というNPO法人が主催するボランティアで、代表はプロテスタントの信者の方です。
キリスト教の各教会、仏教のお寺が持ち寄り(すべて寄付された食材)で炊き出しされています。
シスター、若い信愛学院学生、元ホームレスの方の参加もあるそうです。

 

「人生を上手に航海する」

その航海することそのものが困難な方が多くいらっしゃるのも現実です。
炊き出しボランティアのことを伺うまで、久留米にそんなに多くのホームレス生活の方がいるとは全く知らず、大変なショックを受けました。
4~11月は月1回の炊き出し(小頭町公園にて)とパトロールの夜回り、12~3月は月2回の炊き出しと夜回りが行われています。


上智大学が2017年12月に主催した「教皇フランシスコと話そう」という企画でのパパ様のご発言を、少し抜粋してご紹介します。

「宗教というのは、創造された『劇』ではないということです。
宗教というのは、もともと人間の心が持っているもの。
あらゆる宗教は人を成長させます。他者のために奉仕しない人は、宗教的な人とは言えない。
ただ単純に何かの見返りを求める人なのでしょう」
そして、ガンジーや、長崎で被爆しながらも救援活動を行ったクリスチャン医師の永井隆博士、多くのユダヤ人を救った杉原千畝を例にあげ、
「これらの人々は、宗教によって成長した人々。
宗教は人を、他者に奉仕する人に成長させる。
キリスト教の啓示とは、神を信じ、他者のために奉仕するということ」

https://www.christiantoday.co.jp/articles/24986/20171226/sophia-university-pope-francis.htm

キリスト者として生きるわたしたちは、他者への思いやり、奉仕の精神を実践することが大切だと改めて気づかされます。
本当の意味での「神のインフルエンサー」としての生き方を目指していきたいものです。

 

七つの秘跡:part2

教会は「病人を癒やす」という務めをとても大切にしています。
『病者の塗油の秘跡』は、7つの秘跡のうち、
病気に苦しむ人を励ますことを目指した秘跡です。

重病の人に授けられ、祝福された油を額と手に塗り
「この聖なる塗油により、慈しみ深い主キリストが聖霊の恵みであなたを助け、
罪から解放してあなたを救い、起き上がらせてくださいますように」
と唱えられます。

 

「あなた方のうちに、病人がいるなら、その人は教会の長老たちを呼び、
主の名によって油を塗って祈ってもらうようにしなさい。
信仰による祈りは、病人を救います。
主はその人を立ち上がらせ、もしその人が罪を犯しているなら、その罪は赦されます。」
ヤコブの手紙5・14~15

これは、当時すでに行われていた病者の塗油のしきたりについて、
公式に説明した箇所とされています。(フランシスコ会訳聖書の注釈より)


イエス様は12人の使徒を2人ずつ宣教に遣わされます。

「そこで弟子たちは出ていき、人々に悔い改めるようにと宣べ伝え、
また多くの悪霊を追い出し、多くの病人に油を塗って癒やした。」
マルコ6・12~13

先日、久留米教会のある信者さんがお亡くなりになりました。
奥様にお話を伺いました。

意識はあるものの意思表示は出来ない状態で、食事も流動食しか食べられなかったのが、宮﨑神父さまがお見舞いに来てくださったあとじわじわと元気を取り戻し、固形物を自分でお箸を使って食べれるようになられたそうです。

最後は眠るように安らかで、主人なりにその時を選んで迎えたのだと思います、とおっしゃっていました。


「病人を見舞う」という奉仕をされている方々がいらっしゃいます。
宮﨑神父様と聖体奉仕者の研修を受けた4名の信者の方が月に数回、信者さんが入院されている病院や施設を訪問してお見舞いし、希望があればご聖体を授けられています。

わたしは東京の大学に行っていた二十歳の時に大病をし、
飛行機に乗ることも出来ない状況でしたので、そのまま東京の病院に入院しました。
家族は頻繁に久留米から来てくれましたが、それ以上にほぼ毎日のように入れ代わり立ち代わりお見舞いに来てくださったのは
出身高校の東京にある姉妹校の修道院のシスター方でした。
このルルドのお水はその時にいただいた(28年前!)ものです。

 


病気で心細い思いをしている信者にとって、
励ましと祈ってくださる方の存在はとても大きなお恵みです。

宮﨑神父様に届いたお手紙を少し抜粋してご紹介します。
(ご了解をいただいています。)

「4月に癌がわかり、リンパ節と脳に転移、ステージ4と言われました。
手術ですべて切除、転移も消え、脳腫瘍も消えました。
昨日、再発なし、抗がん剤も必要なし、今後は定期的に検査をするだけでよいと言われました。
おおいなる奇跡でしかありません。

しみじみと、人の祈りと宮﨑神父様が送ってくださったルルドの水の偉大さに感じ入っています。
神様はきっと患者本人の心も、人のために祈る人の心と祈りも、
何か力になろうとする人の心も行いも、すべてをご覧になっておられると思いました。」

 

病気で入院している方、
施設や自宅で療養をされていて教会に来られない方のために祈りましょう。

 

 

久留米教会:七つの秘跡part1

久留米教会に入ると、すぐ右手にゆるしの秘跡(告解)のための小部屋があります。

毎週日曜日の朝は、優しい笑顔のジュゼッペ神父さまが、わたしたちのために祈り、待っていて下さっています。

 

 

この笑顔、癒されます。

許可を頂いて写真を撮りましたので、今朝は優しい笑顔も120%です!

 

ゆるしの秘跡とは、司祭のもとで自分の犯した罪(SinとCrime)を告白し、罪のゆるしを願うことにより、神様からの罪のゆるしが与えられるというしるしです。
罪がゆるされ、癒しと慰めをいただくことで、これからの生き方の勇気と力になります。

和解の秘跡ともいい、罪を犯したことで神様を悲しませたことを反省し、神様と和解する、ということだそうです。


わたしたちカトリック信者は、少なくとも年に一回はゆるしの秘跡に与ります。

「神様から離れた生活をしてしまった」という気持ちを感じたら、そのことを告解するのも信仰生活の助けになります。


わたしの場合、初めてゆるしの秘跡をいただいたときに神父さまが仰った聖書の言葉は、その後のわたしの信仰生活の指針となり、今でも大切にしています。

『あなたはキリストの良い香りです。あなたの姿が周りを照らしますように。』

20歳の時に神父さまからそう言われ、そのことをずっと心に刻んできました。

 

今日は、神父さまから特別に許可を頂き、もう1つの秘跡についても写真撮影させていただきました。

ご聖体の秘跡

 


このご聖体、ホスチアは洗礼を受けた者だけがいただく、『キリストのからだ』です。


3種類のチボリウム(ラテン語で、食べ物を入れる器)があります。

 

どれがどのように使うもの、という細かい区別はないそうですが、久留米ではこの3種類を使っています。

今年からホスチアの歯ざわり(味も‼︎)が変わったのにお気づきですか⁈

種明かしは、次週、宮﨑神父さまからのお話をお楽しみなさってください。

 

 

 

「聖書に全て書いてある。」

今日は、本をご紹介します。
世界的なベストセラーなので、ご存知の方が多いかと思いますが、
わたしは最近知って買い求め、没頭して一気に読みました。

 

 

1923年に英語で出版されたこの詩集、30数か国語に翻訳されているそうです。
文が美しい。
この携帯サイズの小さな本の中に、カトリックの教えが美しい散文になって凝縮されている気がします。
愛、結婚、自由についてなど26個のテーマに沿って預言者が語る、という設定になっています。

美智子皇后さまもご愛読されているようです。

「レバノンの詩人・哲学者・画家である著者のカリール・ジブラン。
20世紀のウィリアム・ブレイクとも称され、多くの詩人・思想家・政治家のみならず、
サブカルチャーにも影響を及ぼした偉人が、人間の普遍的テーマ…愛、労働、喜びと悲しみ、友情など
26の項目について深く語りかける詩集。」
(amazonの内容紹介より)

本の装丁も美しく、いつもバッグの中に入れて持ち歩くことにしました。
いつでも人に勧められるように。

箴言
好きなのです。
この本を読んでいて、箴言を深く掘り下げて咀嚼されているような気がしたのです。
箴言は、読んでいて心に刺さる言葉が多いし、
何よりも読みやすい。


心を尽くして主に寄り頼み、
自分の聡明さに頼るな(3・5)

口数が多ければ罪は避けられない
しかし、口を慎むものは賢い人(10・19)

寛大な人は満たされる
人を潤すものは自分も潤される(11・25)

心が楽しいと、顔色も晴れやかになり、
心に憂いがあると、気も沈む(15・13)

率直な戒めは、ひそかな愛に勝る(27・5)


『ソロモンの箴言』と言われる10章~22章、25章~29章は
さらりと読めるこうした名言ばかりでお勧めです。

曽野綾子さんの本に書いてありました。

「人生に必要なことは、聖書に全て書いてある。」

本当にそうなのです。

もう一か所、聖書の好きな箇所を。

ぶどう酒は程よく飲めば人にとって命に等しい。
ぶどう酒のない人生とは何であろうか。
時に応じて程よく飲むぶどう酒は、
心の楽しみであり、魂の喜びである。

シラ書31・27~28

 

佐久間神父様の翻訳の『預言者』の中から、一部ご紹介します。

愛があなたがたをさし招いたなら、愛に従いなさい。
たとえ、その道がどんなに厳しく険しくても。
愛があなたがたに語りかけたなら、愛を信じなさい。
たとえ、その声が、庭を荒らす北風のように、あなたがたの夢を打ち砕いても。
なぜなら、愛は、あなたがたに栄冠を与えると同様に、あなたがたを十字架につけるのです。
愛はあなたがたを育て、また刈り込みます。

夜明けに目覚め、飛び立つ思いで、愛のあたらしい一日のために感謝をささげること。
昼下がりには静かに休らい、愛の恍惚を思い出して味わうこと。
夕暮れには、感謝に満ちて家路をたどること。
そして、心では愛するひとのために祈り、
唇では賛美の歌を歌いながら眠りにつくこと。

とてもとてもお勧めの本です。