四旬節の意義
教会でみなさんとごミサに与り、言葉を交わす通常に、一日も早く戻ることができますように。
今年の四旬節は、いつもとは違う、特別な意味を神様がお与えになっているのかもしれません。
使徒的勧告「喜びに喜べ」145
ささやかな愛情表現を大切にする共同体では、
成員が互いに気遣い合い、開かれた場、福音化の場を築いており、
そこは、御父の計画のとおりにご自分をささげられた復活の主の現存の場です。
パパ様からの四旬節メッセージを読みながら黙想してみました。
使徒的勧告『キリストは生きている』の中で若者に向けて記したことを、あらゆるキリスト者と分かち合いたいと思います。
「十字架につけられたキリストの広げた腕を見つめなさい。
幾度も幾度も繰り返し救っていただきなさい。
そして自分の過ちを告白しようとするときは、罪の憂いから解き放ってくださるキリストのあわれみを、固く信じてください。
深い思いがこもった流れるその血をじっと見つめ、その血で清めていただきなさい。
そうすればあなたは、つねに新たにされるでしょう」(123)。
イエスの過越は過去の出来事ではありません。
聖霊の力によって、つねに今ここにある出来事です。
そして、わたしたちが苦しんでいる多くの人々のうちに、信仰によってキリストのからだを見て触れられるようにしてくれるのです。
ダビデは、イスラエルの王のうちで、その代々の民族に最も愛された王です。
波乱万丈の生涯について書かれた旧約聖書の「サムエル記」「列王記」は、どのような小説にも及ばないほどの読みごたえがあります。
マタイの1章には、6回も「ダビデ」という名が登場します。
ひとことで言えば、『たて琴が巧みな美少年』という感じでしょうか。
グイド・レーニ『ゴリアテの首を持つダビデ』
ウフィツィ美術館
さまざまな逸話は省いて、今日ご紹介したいのは、ダビデの詩です。
研究家たちは詩編はダビデ作ではない、と結論づけているようですが、そんなことはどうでもいい。
150編中、「ダビデが書いた」として紹介されている73編のなかから、詩編51を、美しい文語訳で少し抜粋しながらご紹介します。
『聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、これはダビデがバテシバに通った後、預言者ナタンがきたときによんだもの』
ああ、神よ、
ねがわくは汝のいつくしみによりて、我をあわれみ、
汝のあわれみの多きによりて、
わがもろもろのとがを消したまえ。
わが不義を、ことごとく洗い去り、
我をわが罪よりきよめたまえ。
我はわがとがを知る。
わが罪は常にわが前にあり。
汝のヒソプをもて我を潔めたまえ、
さらば我清まらん。
我を洗い給え、
さらば我雪よりも白からん。
汝我に喜びと楽しみとをきかせ、
汝が砕きし骨を喜ばせたまえ。
ねがわくは聖顔をわがすべての罪よりそむけ、
わがすべての不義を消し給え。
我をみ前より棄て給うなかれ、
汝の潔きみたまを我より取り給うことなかれ。
汝の救いの喜びを我に返し、
自由のみたまを与えて、我を保ち給え。
さらば我、とがを犯せるものに、汝の道を教えん。
ダビデは「我はわがとがを知る。わが罪は常にわが前にあり。」と、謙遜で心からの悔悛の気持ちをこの詩に込めているように感じます。
ダビデがウリヤを殺した罪を許せますか?
神はダビデを許されました。
わたしたちがダビデの罪を「許せない」と感じるとしたら、それはわたしたちが自分の友人や周囲の人々に対して、同じような裁きの気持ちを持っているということかもしれません。
豊かで穏やかな、優しい気持ちで、今週も四旬節の祈りの日々を過ごしましょう。