行事風景

荒野での声

四旬節の意味について、パパ様が一般謁見で述べられたお言葉を抜粋してご紹介します。

キリスト教信仰と一年の典礼の中心である復活祭へと向かう、この「四旬節」の歩みは、公生活前に荒野で40日間の祈りと断食の日々を過ごしたイエス様に従うもの、と話され、キリスト者にとって「荒野」が示す精神的意味を説明されました。

自分が荒野にいると想像するよう招かれたパパ様は、そこで最初に感じるのは大いなる沈黙ではないだろうかと述べられました。

荒野は、わたしたちを取り囲む騒音から離れ、その沈黙の中で、風のように吹き、心に触れる神の御言葉を聴く、まさに「御言葉の場所」である。

実際、聖書では、主は荒野でご自身の民に話しかけることを好まれる。
神がモーセに十戒を託されたのは、荒野においてであった。
荒野は「孤独の場所」である。
今日もわたしたちのまわりには多くの荒野がある、貧しい人やお年寄りなど、疎外され見捨てられた多くの人々の存在である。
荒野は無言のうちに助けを求めるこれらの人々へとわたしたちを導き、四旬節の歩みは最も弱い立場の人々に向かう愛の歩みとなる。

 

イスラエルの荒野の風景です。

 

 

パパ様は、荒野でのイエス様の言葉によく耳を傾けるために、この四旬節は特に聖書を開くようにも勧められています。

 

イスラエルの荒野では、ここを実際にイエス様が歩かれたのだ、と心が震える思いがしました。

この写真のように荒涼とした場所も死海の西側には多くありますが、イスラエル政府の取り組みで植林が進み、荒野だった地区が緑豊かな景色に生まれ変わっています。

緑、それはわたしたちの「実際の行動」を指しているのではないでしょうか。

 

 

荒野であっても、人々が行動を起こせば緑豊かな地となるのです。

疎外され、見捨てられたと感じている人々のために単に祈るのではなく、わたしにできることはないかと考えています。

病気で教会に行けない方々を訪問する。
公園で定期的にホームレス支援の炊き出しをする。
誰もやらないから、と進んで教会の墓地を清掃する。

そうした先輩信徒の方々の姿を見ていると、彼らには荒野でのイエス様の声が聞こえているのだ、と感じます。

ごミサに与れないこの2週間、わたしにできることを行動して過ごしたいと思います。 

 

主の山に備えあり

久留米教会の春の風景です。

 

 

「自分の信仰が弱い」と感じることがあります。

強弱で表すのはおかしな言い方かもしれませんが、
ふとしたとき、つい神様への信頼を忘れかけたとき、「あぁ、なんと弱いことか」とへこむのです。

おなか一杯に夕食を食べた翌朝、ものすごい空腹感で目覚めるように、
恵まれた日々に幸せと感謝を感じた翌日には、つまらないことで落ち込むことがあります。

 

聖書の中で、神様への信仰と従順の究極の逸話と言えば、真っ先に思い浮かぶのはアブラハムとイサクのストーリーでしょう。

アブラハムは100歳の時に、とうに諦めていた子ども、一人息子のイサクを思いがけなく授かります。

数年後、神様はアブラハムを試みられます。
「お前の愛するひとり子のイサクを焼き尽くす捧げものとしてささげよ」

聖書には、驚き慌てた、とも妻に相談した、とも記されていません。
翌朝、粛々と準備をし、供を連れてイサクとともに3日も歩き続けます。
歩いていた3日の間に、葛藤や怒りが渦巻いた様子もありません。

「二人はともに進んでいった」

と2回、記述があります。
創世記22・6~8

イサクも、父への信頼の中で、ともに進むことを恐れていないようです。
縛られて祭壇の上に置かれる際にも抵抗した様子はありません。

「その子供に手を下すな。
何もするな。
今こそわたしは、お前が神を畏れ、
お前のひとり子さえもわたしのために惜しまないことが分かった」

アブラハムが目を上げて見ると、角をやぶに引っ掛けている一匹の雄羊がいた。
アブラハムは行ってそれを捕らえ、息子の代わりに焼き尽くす捧げものとしてささげた。
アブラハムはその場所を「主は備えてくださる(ヤーウェ・イルエ)」と名付けた。

それで今日でもなお、
「主の山には備えがある」と言われている。

22・12~14


神への信頼
親への尊敬
従順な祈り
絶対的な愛

そうした信仰を歩んでいれば、主は必ずそれに応え、備えておいてくださるのです。

とても真似できることではありませんが、
神様への信仰の基本は、「信頼と愛」であることを痛感させられます。

 

アブラハムは若者たちの所に戻った。
彼らは、ともにベエル・シェバに向かった。
アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

22・19

 

ベエル・シェバは、現在の地図で見てもそのままの名前で存在する町です。
イスラエル12氏族の住む土地の南端だったことから、
北端のダンと併せて「ダンからベエル・シェバまで」という言葉がイスラエルの民の住む土地の意味で聖書に登場します。
ダンはヨルダン川上流にある、現在のテル・エル・カディ。

アブラハムがベエル・シェバに住んでいたのです!
こういう記述を見ると、4000年以上前の彼らの姿が目に浮かぶようです。

創世記を読み返しています。

今週も、お恵みを見逃しませんように。

 

芸術の中の聖書

偉大な芸術作品に聖書を題材にしたものが多いことは、以前も記事にしました。
現代においても、絵画、音楽、映画、小説の中に聖書の物語が意外とちりばめられています。

その聖書の箇所を知っているのと知らないのとでは楽しみ方も違ってきます。

 

昨年、19世紀フランス象徴主義の画家ギュスターヴ・モローの展覧会が福岡市美術館で開催されました。

一番のお目当ては、洗礼者聖ヨハネとサロメにかかる作品群でした。
それだけでもおよそ30作品が展示されていました。

 

 

展覧会の出口には、こうして撮影可能な巨大な作品の写真がありました。
この作品も、ヨハネとサロメのストーリーを知らなければ鑑賞を満喫できません。

そんな中でもわたしが一番衝撃を受けた作品は、
象徴主義性の集大成的な傑作『人類の生』です。

 

(この写真は2種類ある作品うちの一つで、今回展示されていたものとは違います。)
 写真引用 http://www.salvastyle.com/menu_symbolism/moreau_hummanite.html

1870年代末には構想が練られていたことが判明している作品で、
聖書中の主題や神話の逸話から9つの場面を選定し
人類の3つの時期を表した祭壇画形式の大作です。

9つに分割される場面は、左から右に朝、昼、晩という時間的経過を表していて、
上段には旧約聖書の『アダム』の物語、
中段にはギリシア神話に登場する吟遊詩人『オルフェウス』の物語、
下段には旧約聖書の『カイン』の逸話が、
画面最上部の半円形の画面には、人類が至る終着地として「贖主イエス」の姿が描かれています。

「人類が至る終着地」という表現は、作品の解説にあったものですが、
実際にはイエス様の死は、わたしたち信徒にとっては、終着地ではなく始まりです。

同時に、イエス様が贖い主として今もこれからも人類の救いのために生きておられるということも表されているように思いました。

 

モローは聖書とギリシャ神話を題材とした絵を多く書いていますが、
この『人類の生』という作品には、タイトルからもわかるとおり、彼の人生観が表れているのではないでしょうか。

モロー展では他にもサムソンとデリラの物語など、旧約聖書から題材を得た作品が多くありました。

 

絵画はこうして「目で見る」のでわかりやすいのですが、
音楽となると言葉の壁もあり、ピンと来ないことが多いかもしれません。

マーラーの交響曲第4番をご紹介しましょう。

交響曲の中に、ドイツ語で歌われているパートがあります。

天上の生活「少年の魔法の角笛」より

我らは踊り、そして、飛び跳ねる。
我らは跳ね回り、そして、歌う。
それを天のペテロ様が見ていらっしゃる。

ヨハネは仔羊を小屋から放して、屠殺者ヘロデスはそれを待ち受ける。
我らは寛容で純潔な一匹のかわいらしい仔羊を死へと愛らしいその身を捧げ、犠牲にする。
聖ルカは牛をためらいもなく、犠牲にさせなさる。
天上の酒蔵には、ワインは1ヘラーもかからない。
ここでは天使たちがパンを焼くのだ。

すべての種類の良質な野菜が天上の農園にはある。
それは良質のアスパラガスや隠元豆や、その他欲しいものは我らが思うがままに鉢皿一杯に盛られている!
良質な林檎や梨や葡萄もこの農園の庭師は何でも与えてくれる。
牡鹿や兎やみんなそこの辺りを楽しそうに走り回り、獣肉の断食日がやって来たらあらゆる魚が喜んでやって来る!
ペテロ様が網と餌とを持って天上の生け簀(す)へといそいそといらっしゃる。
マルタ様が料理人におなりになるのだ。

(Wikipediaより)

ペテロにヨハネ、ヘロデ、ルカ、天使がパンを焼き、ペテロが魚を獲り、マルタが料理をする!

こんな歌詞で歌われていると知ってから聞くと、また全然違って楽しめる気がしませんか?

 

苦難の捉え方

昨日は、久しぶりの宮﨑神父様のごミサに森山神父様も来てくださり、久留米教会は本当に恵まれていることを痛感した日曜日でした。

 

自然災害、病気、事故はいつの時代もわたしたちをふいに襲う悲劇です。

オーストラリアの森林火災はまだ燃え続けています。

新型のコロナウィルスの感染拡大はどこまで広がるのでしょうか。

交通事故の発生しない日はないのではないでしょうか。

 

病気治療中の知人に「お祈りしています」と言葉をかけても、それは自己満足でしかない、と感じることもあります。

そう感じたとしても、ぜひ「お祈りしています」と声をかけるか、カードに書いて送ってください。

わたしが病気をしてながく入院していたとき、
(今のように携帯でメッセージ、という時代ではなかったからですが)
励ましのカードや手紙が病室に届くのが楽しみで、とても嬉しかったことを思い出します。

「忘れていませんよ」
「あなたのためにお祈りしましたよ」

その気持ちがとても励みになったものです。


『なぜ私だけが苦しむのか』現代のヨブ記


この本を読んで、ショックを受けました。

「苦難は神様から与えられる試練だ」と信じて生きてきたわたしにとって、衝撃的な本でした。

そして同時に、わたしの『人生の書』の1冊になったのも本心です。

神のみ旨に従い、周囲の人々のために尽くして生きてきたユダヤ教のラビが、我が子に障害があるとわかり、14歳でその短い生涯を終えるまで苦悩を抱えながら育てたのちに行きついた信念が書かれています。

 

わたしは自分の病気がわかったとき、これは神様からのメッセージだと素直に受け止められたし、いまでは「この障害があることはわたしの長所であり、お恵みだ」と単純に思っています。

母が若くして亡くなった時は「どうしてですか?なぜこんなに早くお召しになったのですか?」と神様に文句を言い続けましたが、いまでは「病弱だった母を早くゆっくりさせてくださったのだ」と純粋に思っています。

ですが、この本の作者は、

 

「私に言えることは、私の信じる神は、このような病気を与える方ではないし、奇跡的治療法を隠し持っているのでもない、ということだけです。
そうではなく、不滅の精神を弱く傷つきやすい肉体に宿して生きていくしかないこの世界で、自分の責任でない不公平によって苦難にさいなまれている人、死の恐怖におののいている人に、私の信じる神は強さと勇気を与えてくださるのです。

 

私たちにできることは、なぜこんなことが起こったのか?という問いを超えて立ち上がり、こうなった今、私はどうすればよいのか?と問いはじめることなのです。

 

災害、病気、事故などで苦難のなかにある人に、「神様は乗り越えられる苦難しかお与えになりませんよ」といった安易な言葉をかけることも、作者は「酷である」と言います。

自らと神との関係において与えられた苦難や試練を乗り越える、という根本的な考え方は同じですが、そもそもそれらは神が与えたものではない、というのです。

 

その時、お前の光は暁のように輝き出で、
お前の癒やしは速やかに生じる。
お前の正しさがお前の先を行き、
主の栄光が背後の守りとなる。
その時、お前が呼べば、主は応え、
叫べば、『わたしはここにいる』と仰せになる。
もし、お前の中から軛を除き、
指をさすことや中傷をせず、
飢える者のために尽くし、
虐げられる者の必要を満たすなら、
お前の光は闇の中に輝き出で、
お前の暗闇は真昼のようになる。
イザヤ58・8~10

軛、闇をどう捉えるのか。
どこに光が見いだせるか。

神と自分との関係を見直すために、先人たちがそうしていたように、わたしたちも問い続ける問題なのでしょう。

信仰とは、神と自分自身との関りを追求し続けることです。

答えは自分でみつけるのです。

 

最後に、この本に紹介されていた、アウシュビッツからの生還者のことばを記しておきます。

「ナチの行ったことのために、私は神に近づいたわけでも遠ざかったわけでもない。

神にはその責任はないのだ。

私たちこそ、私たちの人生について神に責任を負っているのだ。

私たちは短い人生の日々、あるいは長い人生の日々を神に負うているのだ。」

 

 

「今日」という日について

先週は司教館の青木神父様、昨日はジュゼッペ神父様がごミサに来てくださいました。

毎週違った神父様のお話を聞くことができる、というのも贅沢なものです。

 

 


先週のごミサと今週のごミサが違うものであるように、
昨日と今日は、まったく別のものです。

以前ある神父様が、遠方の町の教会にミサに呼ばれ高速道路で帰る際についうとうとしてしまった、というお話をされました。

「片道2時間ほどかかる道中、睡魔に襲われ、高速道路の壁に激突してしまいまいた。
幸い、前後に他の車はおらず、自分のケガも大したことはなかったけれど、
さっき司式した今日のミサが自分の司祭生活の最後のミサになっていたのかもしれない。
心を込めて務めただろうか。
次からは、毎回『今日のミサが人生最後』と思って務めよう、と心に誓った。」

 

今日、という日は今この瞬間のことでもあります。

24時間という時間軸ではなく、神様を感じたそのときが、今日となるのです。

御ひとり子は人となられ、
きょう神殿に捧げられました。
わたしたちも聖霊の光に従い、罪のやみを捨て、
みずからをあなたにささげることができますように。

昨日の集会祈願のことばを聞いて
パパ様が「キリストは生きている」とおっしゃっている意味がよくわかりました。

 

今日、ダビデのまちに救い主が生まれた

今日、この家に救いが訪れた

今日、あなたは楽園にいる


これらの「今日」は、単にそのことが起きた日を指すと読むのではなく、いつでも起こりえる「今日」と考えられます。

社会的に弱い立場の人を受け入れたとき
人の嫌がる仕事を喜んで引き受けたとき
自分の罪を悔い改め心から神に祈るとき
他者のために自分を犠牲にして働くとき
家族友人と心を一つに神を賛美するとき

そのとき、それがイエス様が生まれた「今日」となり、
救いが訪れる「今日」、イエス様とともに楽園にいる「今日」となりえるのです。

 

『われらの日用の糧を、こんにちわれらに与えたまえ』

マタイ6・11では「今日与えてください」、
ルカ11・3では「毎日与えてください」となっています。
マタイ福音書では、きょう一日神の恵みによって生きるという幸せを願い求めており、
ルカ福音書では、神の恵みが永遠に続くことを願い求められていると理解できるそうです。

 

パパ様は先週の一般謁見で、山上の垂訓に関するお話しをされました。

「メッセージは弟子たちに対するものであったが、その背後には群衆の姿があったように、
これはすなわち全人類に向けたものであった。」

弟子たちに向けて教えられたその2000年前のある日は、
全世界のわたしたちに向けて語られた現代のある日でもあるのです。

事実、その教えは、聖書を開いて読んだその日、そのときにわたしたちに語りかけてきませんか?

 

朝起きて一番に祈るとき
「今日も一日よろしくお願いします」と唱えます。

寝る前に祈るとき
「今日も一日ありがとうございました」とつぶやきます。

わたしたちの人生は「今日」という日の積み重ねであり、明日が与えられる保証はありません。

今日、わたしたちのところにイエス様がお生まれになりますように。
今日、救いが訪れますように。
今日、楽園にいるお恵みが与えられますように。

 

ある、主日のミサ

昨年、教皇フランシスコ様が新しく制定された「神のみことばの主日」は
典礼歴「年間第3主日」、つまり1/26でした。

昨年の聖ヒエロニモ(ヒエロニムス)の日にパパ様は
『聖書を知らぬことは、キリストを知らぬこと』という彼の言葉を引用し、
みことばに捧げた日曜日が、神の民に聖書に対する宗教的で熱心な親しみを育むことを願って、この新しい典礼歴を発表されました。

 

 

 

毎週の主日のミサの一時間余りの時間に、わたしたちは多くの聖書のみことばにふれています。

26日のごミサの集会祈願がとても美しいと感じ、ここに記しておきたいと思いました。

天の父よ、冬の寒さのなか、あなたを賛美するためにわたしたちは集まりました。
きょうも御子キリストは、神の国の福音をわたしたちに語りかけてくださいます。
わたしたちの集いがあなたの光を受けて輝き、世界のやみを照らすものとなりますように。

 

イザヤ書9・1
闇の中を歩んでいた民は、大いなる光を見た。
暗闇の地に住んでいた者の上に、光が輝いた。

闇があるから、光が美しいのです。
わたしたちの日々に、さまざまな困難が与えられているから、
より強く神様のことばに耳を澄ませることができるのです。

 

詩編27・4
わたしは主に一つのことを願う。
わたしは一つのことを請い求める。
命あるかぎり、日ごとに主の家に住み、
主の麗しさを仰ぎ見、神殿の中で暁に目覚めたい。

 

1コリント1・17
キリストがわたしをお遣わしになったのは、洗礼を授けるためではなく、
福音を宣べ伝えるためでした。
それも、キリストの十字架が無意味なものとならないように、
知恵に溢れた雄弁に頼らずに伝えるためでした。

わたしたちは、福音を周囲に宣べ伝えているでしょうか、その行いを通して。

 

マタイ4・17
この時から、「悔い改めよ。天の国は近づいた」とイエスは宣べ伝え始められた。

ミサの司式をしてくださった青木神父様がおっしゃいました。
「神様のわたしたちへの働きかけ、神様の愛に気づくことが、悔い改めるということです。」

マタイ4・23
イエスはガリラヤ全土を巡り、会堂で教え、天の国の福音を宣べ伝え、民のすべての患いや病気を癒された。

人々の軛をともに背負い、患いや病気を抱えている人々と心を一つにして歩んで行かれたイエス様のお姿が、ガリラヤ湖の景色とともに目に浮かんできます。

 

 

青木神父様は、こうもおっしゃいました。
「日曜日のミサの聖書のことばを日曜だけのものにせず、
聖書を日々の生活に、つまり信仰の旅路にあてはめながら大切にしてください。」

天の父よ、あなたはわたしのうちに、いのちと力をおくってくださいました。
わたしたちがこの力に生かされて、
新しい一週間をあなたとともに歩むことができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。


今日のこの記事を、教会から遠ざかっている方、
事情がありなかなかミサに参列できない方、
教会に来る勇気がまだ持てない方、
みなさんに捧げます。 

 

 

 

誰に、どう祈るか。

「祈る」という行為は、とくに「こうあるべき」というスタイルの定義はなく、

自然に、いつでも、どこででも、心を神様に明け渡して静かに耳を澄ます。

わたしは、そういう風に祈っていた母の姿と、

代母をしてくださったシスターからの教えで、

これまでずっとそう考えています。

 

お御堂で、一人静かに祈りを捧げる人の姿は本当に美しいと思います。

パパ様は現代の教皇様らしく、さまざまな形でわたしたちにメッセージを発信されています。

もちろん、側近のどなたかが担当されているのでしょうが、

ツイッターとインスタグラムを活用して、わたしたちに毎日、そのお姿とお考え、祈りについて教えてくださいます。


このお姿、美しいと思いませんか?!

 


The Lord has so much compassion,He involves Himself in our problems.
Let us often repeat this simple prayer: Lord,I am a sinner,have mercy on me,have compassion for me.

主はとてもいつくしみ深いかたなので、わたしたちが抱える問題に関わってくださいます。
ですから、次の簡単な祈りを、何度も繰り返し唱えましょう。
「主よ、罪深いわたしをあわれみ、いつくしんでください」

 

In worship, we make it possible for the Lord to transform us by His love, to kindle light amid our darkness, to grant us strength in weakness and courage amid trials.

賛美の祈りをささげることで、主の愛によって、わたしたちは変えられていきます。
私たちが直面する暗闇の中に光を灯し、弱さの中に力を与え、
そして苦難の中に勇気を与えてくださるからです。

 

「願い事」と「祈り」は別物であると同時に、

わたしたちが一般的な祈りとして、神様に「お願い」をするのはごく普通のことです。

願い事をするための「祈り」という言葉は、ラテン語のPRECARIA(願い)に由来するもので、

神に語り掛けるORATIO(祈祷)とは別に、12世紀のヨーロッパで「願い事としての祈り」として広まったと言われています。

「畏れ敬うべき神」への祈りではなく、ひたすら救いを求めてすがる対象としてのマリア様への祈りが一般的になったからだそうです。

確かに、神様には感謝の祈りをし、マリア様には「お願いします」とつい甘えてしまいます。

パパ様ツイッターに、その正解を見つけました!

 

Worship means going to Jesus without a list of petitions, but with one request alone: to abide with Him. 
In worship, we allow Jesus to heal and change us.

賛美の祈りとは、多くの願い事を持たず、ただ「主とともにいたい」と願って、イエスのもとへ行くことです。
そして、賛美の祈りをささげるなかで、イエスにわたしたちをいやし、変えていただくことなのです。

 

心に刻んでおきたい、神様への祈り方です。

 

それは、誰のためか。

久留米教会では、毎月第2日曜日のごミサで手話通訳がなされています。

 

 

前任の森山信三神父様が始められた取り組みで、そのお考えに共鳴した信徒によって、もう4年以上続けられています。

あなたは祈る時は、奥の部屋に入って戸を閉め、
隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。
そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いてくださる。

マタイ6・6

 

竹下節子さんの新書に書かれていました。
彼女が昔、初めて日本の愛徳姉妹会のシスターに会ったときに驚いたことがあるそうです。

シスターたちの視線や関心が、「ご出現」や「奇跡」にではなくて、
彼女らが世話をする子どもたちやお年寄り、訪問する病院や支援を必要とする人々にばかり向けられていることに驚いた。

彼女たちからあふれる幸せオーラの秘密は、いわゆる生産性も承認要求も関係のないところでの、
「見返り」を求めない奉仕の生活にあるらしかった。

いや、「見返り」どころか、先に無償で与えられている何かを分かち合う歓びが、彼女らの「奉仕」だった。

竹下さんが出会ったシスター方は、隠れた行いをご覧になる父からの「報い」すら求めてはいない、のではないでしょうか。

 

毎月、ごミサを手話通訳してくださっている方々にお話を聞きました。

「誰のために手話通訳をされていますか?」

 

「森山神父様から手話通訳ミサの理念を初めて伺ったとき、その趣旨に賛同しました。
通訳を必要としている人がいるから行うのではなく、
久留米の教会に行けば手話通訳ミサがある、という開かれた場を作りたい、というお考えでした。

それでも、時には自己満足にならないようにしなければ、というジレンマを感じることもありました。
必要としている人は久留米の信徒には誰もいないのに、と言う声があったのも事実です。

それでもこうして続けてきて、最近では、久留米教会外から数名の耳の不自由な信徒の方が来てくださるようになりました。
来ていただいたときは、特にその方のために心を込めて通訳しています。
ミサの後の手話の勉強会に参加してくださるようにもなりました。」

「できれば、毎週でも手話通訳ミサができるような体制になり、
近隣の教会からもっと多くの必要とされている方が来ていただけるようにしたいとも思っています。」


最初は「誰のために?」という葛藤を抱え、
次第に「誰かのために」、そして今では「もっと多くの方のために」と気持ちが高まってこられているのを感じ、同じ久留米教会の信徒として誇らしく思いました。

通訳をされている方々が、分かち合う歓びという「報い」をお感じになっている気がしました。

 

これをご覧になっている方で、周囲に手話通訳ミサを必要とされている方がいらっしゃれば、お伝えください。

久留米では毎月第2日曜にやってるよ!と。 

 

新しく生まれる信仰

あけましておめでとうございます。

そして、主の公現の主日、おめでとうございます。

イザヤ書はわたしの好きな聖書です。

昨日の朗読は、60章1~6の美しい箇所が読まれました。

立ち上がれ、光を放て。
まことに、お前の光がやって来る。
主の栄光がお前の上に輝き上る。

まことに、見よ、
闇が地を、暗黒が諸国の民を覆うが、
お前の上には主が輝き上り、
その栄光がお前の上に現れる。

らくだの大群、
ミディアンとエファの若いらくだが、
お前の町を埋め尽くす。
これらはみなシェバから来て、
黄金と乳香を携え、
主に対する賛美を公に告げる。

 

ボッティチェリ「東方三博士の礼拝」

神の栄光がキリストにおいて現れ、

すべての人におよぶ救いの光が輝きはじめていることを賛美する公現の祭日(エピファニア)は、

4世紀以来ずっと教会で大切にされてきた日なのだそうです。

 

昨年はどのような年だったでしょうか。

今年はどのような一年にしたいとお考えでしょうか。

 

「立ち上がれ、光を放て」

主の栄光を受けているわたしたち信徒の役割は、

周囲に光を放つことではないか、とわたしは以前から考えていました。

子どもが親や周囲の大人の言動に影響を受けるように、

わたしたちも、自分の周囲にいる人々に良い影響を、

信仰によって得たお恵みを与える存在であることが必要ではないでしょうか。

 

わたしはこの福音のための奉仕者となりました。

神が、その力の働きかけによって、わたしに与えてくださった

恵みとしての賜物に則してのことです。

聖なる人々のうちで最も小さな者であるこのわたしに、

このような恵みが与えられました。

すなわち、キリストの測り知れない豊かさを福音として異邦人に告げ知らせ、

また、すべてのものを造られた神のうちに永遠の昔から秘められてきた神秘が、

実現するというのはどういうことであるかを、

すべての人々に明らかにするという恵みです。

エフェソ3・7~9

 

常々、宮﨑神父様がおっしゃるように、もっと聖書に親しむことも必要なことだと思います。

聖書には全てのこと、人生に必要なことは全部書いてあります。

2020年という新しい年が始まりました。

信仰を新たに生まれ変わらせるチャンスです。

去年出来なかったことを実行するチャンスです。

教会から遠ざかってしまっているとしたら、
月に一度だけでもごミサに与ろうと決意するチャンスです。

日曜日、ごミサから帰ったら、その日の朗読の個所を聖書を開いて読み返す、
という良い習慣を身に着けるチャンスです。

 

今年も素晴らしい一年にしましょう。

 

 

召命を生きるために

今年のクリスマスのごミサも、大変多くの参列がありました。

今年も2回とも、外まであふれるほどの人でした。

「普段はなかなか行けないけど、ご復活とクリスマスのミサだけは行く」という信者さんも多いかと思います。

そして、ご復活と違ってクリスマスのミサには、信者ではない方もイルミネーションや教会の温かい雰囲気に引き寄せられるように集まってきてくださいます。

 

 

 

使徒的勧告「喜びに喜べ」を久しぶりに読み返してみました。

166
聖霊からもたらされたものなのか、この世の考えや悪魔の霊に由来するものなのかを、
どのように知るのでしょうか。
唯一の方法が、識別です。

これは、理性的判断や良識といったよい働きの能力を指すだけでなく、
願い求めなければならないたまものでもあります。

信頼をもって聖霊に願い求めつつ、
祈りと黙想と読書とよい助言によってその力を養うよう努めるならば、
わたしたちは確実にこの霊的な能力を伸ばすことができるでしょう。

 

以前にも書きましたが、パパ様の「キリストは生きている」に書かれていた一文も再度ご紹介します。

248

「召命」という語は、神からの呼びかけとして、幅広い意味で解しうるものです。

それは、命への招きも、ご自分との友情への招きも、聖性への招きも含む、さまざまなものを意味します。

これは貴重なものです。

わたしたちの生涯全体を、わたしたちを愛してくださる神の真正面に据え、
意味のない混沌の産物であるものなど何もないこと、
すべてのものが、わたしたちのために素晴らしい計画を用意してくださる
主にこたえる道へと組み込まれているはずであると、
わたしたちに理解させてくれるからです。

 

◆自分に与えられている召命を識別すること。

◆意味のない神様からのメッセージはないこと。

この2つは、今年の私の指針でした。

そして、これからも。

 

みなさまにとって、今年はどのような一年だったでしょうか。

祈り、黙想し、本を読み、周りにいる先輩や師と仰ぐ方からの助言を得られたでしょうか。

家族や友人と信仰に関する話をし、先祖たちの信仰に思いを馳せ、十字架の道行きを杖を突いて歩き切り、週末には聖書を開き、与えられた役割に喜びを見出す。

わたしにとってはそのような、恵まれた一年でした。

 

来る2020年も、今年のようでありますように。

あなたの上に、平安がありますように。

あなたとあなたの家、あなたのすべてのものに平和がありますように。

サムエル上25・6

 

わたしたちの「メシア」

クリスマス、おめでとうございます。

日本語では「厩」もしくは「馬小屋」を表現することが多いようですが、
イエス様がお生まれになったのは家畜小屋です。

一方、正教会では洞窟と伝承されていて、イコンにも洞窟の場面が描かれています。
新約外典『ヤコブ原福音書』には洞窟で産まれたと書いてあるそうです。

イエス様のご降誕の情景は、カトリック教会やその影響の強い国々では人形で再現します。
イタリア語のプレゼピオ(Presepio)は飼い葉桶を意味します。

我が家のプレゼピオです。

 

「メシアとは何ですか?」と、ある神父様に質問されました。

「救い主です」と答えたら、「誰がそう言ったのですか、聖書になんと書いてありますか?」と。

 

ヘブライ語のメシアに相当するギリシャ語がクリストス、日本語ではキリストと表記し、
イエス様をメシアとして認めた呼び方がイエス・キリストということになります。

英語ではセイバー(Savior)、スター・ウォーズのライトセイバーも語源は救世主なのかも?!

イエス様の死後も、現代にいたるまでユダヤ教ではメシアはまだ現れていないと考えられていますし、
メシアの再臨だと自称した人は実際に数多くいるようです。

 

イエス様は自分のことをメシアだ、神の子だ、とは名乗っていません。

そして、弟子たちも「神の子キリスト」としての認識はなかったのです。

当時のユダヤ人にとってのメシア(キリスト)とは何者だったのでしょう。

そこでイエスがお尋ねになった。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」

マルコ8・29

この時、ペトロはイエス様を「神の子」、あるいは必ずしも「神」であると言ったのではないとも考えられます。

ローマからの圧政から解放してくれる救い主を待ち望んでいた当時のユダヤ人にとってのメシアは、文字通り「救い主」であり、油注がれた王として神が選ばれた存在であったのです。

 

デューラーの「東方三博士の礼拝」という作品です。

イエスが、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、
東方の博士たちがエルサレムに来て、尋ねた、
「お生まれになったユダヤ人の王は、どこにおられますか。」

マタイ2・1~2

 

ユダヤ人のメシア観がよく表されているのが、詩編72です。

神よ、あなたの裁きの力を王に、あなたの義を王の子にお与えください。
王が義をもって、あなたの民を治め、
公平をもって哀れなもののために取り計らいますように。
彼は太陽のように末永く、月のように代々生き永らえる。

 

マタイによる福音書には、「主よ、ダビデの子よ」という表現で人々がイエス様に呼びかける場面が度々書かれています。

これは、イエス様をダビデの子孫として生まれたとして書き始められたマタイにおいて、「ダビデの子孫であるメシアよ」という意味です。
苦悩のうちにある人々とともにおられる旧約の理想的な王、まさに「インマヌエル、我らとともにおられる方」の実現なのです。

 

ピラトのもとで「お前はユダヤ人の王か」と聞かれたとき、イエス様は

「それは、あなたが言っていることである。」と答えます。

十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫び、息絶えたとき、
百人隊長がこうつぶやくのです。

百人隊長と、彼とともにイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れて言った、
「まことに、この人は神の子であった。」

マタイ27・54

百人隊長はこの出来事を見て、神を賛美して言った、
「まことに、この方は正しい人だった。」

ルカ23・47

イエス様を「神の子であった」と初めて認識したは、他でもない、ローマ人だったのです。

 

御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
聖なる霊によれば、死者の復活の時から、力ある、神の子として立てられました。
これがわたしたちの主イエス・キリストです。

ローマの人々への手紙1・3~4

 

マタイとルカ、イエス様の誕生物語が書かれている2つの福音書では、
イエス様は「神の子」としてお生まれになったと言うことを強調するために、ご生誕のシーンが感動的に表現されています。

さあ、いよいよクリスマスです。

2020年前にお生まれになったイエス様が、生まれながらに神であったか、ご復活後に神となられたか、いずれにせよ、わたしたちが信仰しているのは、その教えです。

ともに、お祝いしましょう。

 

カトリックと女性たち

久留米教会の、わたしの一番好きな光景です。

 

ミサの後、気持ち良い陽射しの下、年代も国籍も様々な信徒がこうしてコーヒーや温かいスープを片手におしゃべりして笑い、交流し。

ベトナムのみんなも、彼らの飾り付けのお手入れに余念がありません!

 

昨年、ハリウッドの世界で盛り上がりを見せた運動に、#meetooというものがありました。

女性であるがゆえに軽んじられてきた地位の向上や、
セクハラによる被害を訴えていく活動をハリウッドの有名女優たちが行ったことで、
とても大きく取り上げられました。

先週の報道では、「サウジアラビア政府は、レストランなどに設けられている男女別の入り口を撤廃すると発表」とありましたし、エルサレムでは神殿の西の壁(ユダヤ教徒の祈りの場)では壁は男女別に祈るよう分けられていました。

このように、宗教の世界では、男女の区別(差別ではなく)が色濃く残っている現実があります。

 

歴史を振り帰ってみると、イエス様のお墓を最初に訪問して遺体がなくなっているのを発見したのが女性だった ように、
目を引く、女性が成し遂げた活躍や転換点があったと思います。

 

ルイーザ・ロルダン作
The Entombment of Christ(「キリストの埋葬」一部)

 

また、ローマ帝国の皇帝があれほど迫害していたキリスト教を結局認め、
ローマ帝国の国教にまで格上げしたのはなぜか。

その理由の大きなひとつとして考えられるのが、
皇帝の母親や妻たちの存在であったと言われています。

コンスタンティヌス帝の母ヘレナ

 

313年に皇帝コンスタンティヌス1世がキリスト教を公認しました。

母ヘレナが320年ごろにエルサレムを巡礼し、イエス様の処刑に使われた十字架や釘を発見したことで聖墳墓教会が建てられた、と言われています。

長い伝統と既成宗教によって、イエス様の生きた時代から先もずっと、当時の女性たちはとても抑圧されていました。

ですが、初期のキリスト教(といっても宗教としてではなく、イエス・キリストの教えそのもの)は、
規制や戒律といった堅苦しい義務を語らず、
「夫が妻を離縁する」などという一方通行の男女関係はありえない、とまで言いました。

女性に支持されたのは当然でしょう。

 

バチカンでも、女性の活躍がめざましいようです。

首長も政府の首脳も全員がカトリックの聖職者(=独身男性)のみ、という特異な国、バチカン市国。

2014年の統計では、バチカンの公務員として働く一般女性は全体の19%を占めています。

修道女の場合でも、観想型修道会のシスターと違い、世界中をまわるアクティブな修道会のメンバーが多いそうです。

実際に、各国政府の招聘するさまざまなテーマの国際会議にバチカン代表として出席するシスターもいらっしゃるのです。

1983年には、一般信者が男女の区別なくバチカンの職員になれることが、
教会法の中に正式に書き加えられました。

 

わたしたちにとって一番身近な教会共同体を取ってみても、女性(おばさま方!)の活動なしには語れません。

これは、どこの教会でも異論のないところでしょう。

昨日の女性の会のバザーも大盛況でした。

久留米教会も、素敵なおばさま方が精力的に様々な役割を引き受けてくださっています。

 

プレゼピオの意味と価値

久留米教会のナティビティセットの飾りつけが始まりました。

御降誕の場面が再現されています。

 

今年は聖家族のご像、プレゼピオを新しくしました。

本当の「貧しい厩」を再現してほしい、という宮﨑神父様のリクエストで、今年はとにかく「シンプル」にしてみました。

 

教皇フランシスコは待降節の始まりに、プレゼピオの意味と価値をめぐる使徒的書簡

「アドミラビレ・シニュム」を発表されました。

プレゼピオ発祥の地、1223年の降誕祭にアッシジの聖フランシスコが

幼子イエス降誕を観想するための馬小屋を初めて再現したと言われている

イタリア中部グレッチョで、この書簡に署名されました。

 

「キリスト者たちにこれほどにも親しまれる、プレゼピオの素晴らしいしるしが、

常に驚きと感嘆を呼び覚しますように」

という言葉で始まっています。

「イエスの降誕の出来事を表現することは、

神の御子の受肉の神秘を単純さと喜びを持って告げることに等しい。」

プレゼピオを準備し飾ることを、福音宣教の行為として示されました。

 

「プレゼピオは、わたしたちの小ささまでに身を低くされ、

貧しい者となられた神の優しさを表すがゆえに、わたしたちに驚きと感動を起こさせる。」

教皇は、プレゼピオに見られるさまざまなしるし、
たとえば、わたしたちの人生の苦しみの闇を象徴する夜の沈黙や暗さの中に、
光をもたらす星の存在に触れています。

 

プレゼピオは信仰の伝達における甘美で必要とされるプロセス、と述べつつ、

「重要なのは、毎年どのように飾り付けるかではなく、

それがわたしたちに対する神の愛をいかに語りかけるかにある。」

と強調されました。

 

バチカンニュースサイト

バチカン公式ホームページ

 

厩、羊飼い、博士たち、そして天使、ヨセフ様とマリア様を取り囲むように、

いろいろな飾りが準備されて全体でナティビティ(御降誕の再現)となります。

みなさんも、ご家庭に飾られますか? 

 

久留米教会では、台座などの大物をヨセフ会の男性陣が設置し、

細かな飾りつけは若い信徒が担当します。(含む:わたし)

今年はベトナムのみんなが手伝ってくれました。

 

 

 

(実際の厩は藁ぶき屋根ではないと思うのですが、
  ベトナムの男子たちが楽しそうに藁ぶき屋根を作っていたので、良しとしてください!)

まだ完成ではありません!

東方からの博士たちも、小屋の裏で待機中ですし、なにより、イエス様はまだお生まれになっていません。

豊かな緑の芝生のような大地の上の小屋、これは変更の余地が大いにあります。

 

そしてさらに、今年はなにやら大掛かりな飾りつけがベトナムコミュニティのみんなによって進んでいました!

楽しみです!
彼らは本当に手先が器用で、この岩屋のセットも竹で編んで作っていました。

 

ライトアップも美しい季節です。

生き方の指針

待降節が始まりました。

今年も、自称「若手の女性信徒グループ」でアドベントクランツを作りました!

 

フランシスコ教皇様が、東京での青年の集いでおっしゃいました。

「どんな複雑な状況でも、自己の行動において、公正で人間的であり、
責任を持ち、決然とし、弱者を擁護する誠実な者になってほしい。」

 

上智大学の学生たちとの交流の際には

「必要とされる誠実な人でありなさい。」

 

長崎でのごミサのお説教では

「わたしたちの信仰は、生きる者たちの神への信仰なのです。

キリストは生きておられ、わたしたちの間で働かれ、
わたしたち皆をいのちの充満へと導いておられます。

キリストは生きておられ、わたしたちに生きるものであってほしいと願っておられるのです。

キリストはわたしたちの希望です。」

 

使徒的勧告「キリストは生きている」に書かれている

「キリストは生きておられる」というお言葉を直接教皇様からお聞きできた時は、感動で心が震えました。

 

イエス様が示されたことの一番の、そして根幹ともいえる教えは

「その場で最も弱い立場の人に手を指し伸べる」ということでしょう。

カトリックでは大回勅の中で、「七つの良い行い」という形で示されています。

・飢えている人に食べさせること

・乾いている人に飲み物を与えること

・着るものを持たない人に衣服を与えること

・宿のない人に宿を提供すること

・病者を訪問すること

・受刑者を訪問すること

・死者を埋葬すること

マタイの福音書25・31~40に出てくるお話に基づいています。

 

東京ドームのごミサではこうおっしゃいました。

「キリスト者の共同体として、わたしたちはすべてのいのちを守り、あかしするよう招かれています。

知恵と勇気をもって、無償性と思いやり、寛大さとすなおに耳を傾ける姿勢、
それらに特徴づけられるあかしです。

それは、実際に目前にあるいのちを、抱擁し、受け入れる態度です。 

 

(教皇様と船津助祭の貴重なお写真2枚は、バチカン公式ホームページより)


パパ様が日本に残してくださった多くの言葉の中から
みなさんも「生き方の指針となる、心に刻んでおきたい教え」を読み取ってください。

高見大司教様が記者会見でおっしゃいました。

「教皇の言葉にどう納得して、どう動くのか。
一人一人が考えないといけない。」

 

 パパ様の各地でのお説教、講話は、すべてカトリック中央協議会のホームページに掲載されています。

待降節をより有意義に過ごせますように。

教皇フランシスコ、長崎へ。

長崎での教皇さまのごミサに、久留米教会からは約300名で参列しました。

長崎の街は、24日のパパ様訪問のため、おそらくかなりの時間をかけて準備がなされていたものと思われます。

信者ではない一般市民の方には大変なご迷惑をおかけしたかと思います。

そして、この日を迎えるまで、大変な苦労があったであろう、準備をされた事務局の皆さんに心からの敬意を表します。

午前中は悲しくなるほどの大雨、そして、パパ様到着を空が知っていたかのように突然の晴天。

パパ様を先導したのは久留米の船津亮太助祭!

 

 

 

 

共同祈願は、5か国語でなされました。

【教皇さまのため】スペイン語
主よ、わたしたちの声を聴いてください。
それは、あなたが与えてくださった教皇フランシスコのために感謝して祈る神の民の声だからです。
日々全世界の人々のために心を砕いておられる教皇様が、この日本訪問を無事に、また有意義に全うされますように。

【国の指導者のため】韓国語
主よ、わたしたちの声を聴いてください。
それは、安心して生活することを望むすべての民の声だからです。
政治に携わる人々が、それぞれの地域、国、そして世界の人々の真の幸福と平和のために、与えられた力を用いることができますように。

【困難の中にある人のため】タガログ語
主よ、わたしたちの声を聴いてください。
それは、さまざまな困難や苦しみの中にある人々、とくに、戦争や暴力から逃れ、災害や事故から生活再建に努める人々の声だからです。
苦しみと死から新しいいのちをもたらしてくださったキリストに信頼し、わたしたちが互いに、希望をもって生きる助けとなることができますように。

【日本のキリスト者のため】日本語
主よ、わたしたちの声を聴いてください。
それは、この国では小さな群れにすぎない日本のキリスト者の声だからです。
殉教者と先祖の信仰に倣い、アジアの兄弟姉妹とともに、神のいつくしみをパン種のように人々に伝える知恵と勇気が、わたしたちに与えられますように。

【召命のため】
主よ、わたしたちの声を聴いてください。
それは、あなたの呼びかけに誠実にこたえる人を求める神の民の声だからです。
神の国の完成のために働く人が、日本の教会にもますます与えられますように。

【平和のため】ベトナム語
主よ、被爆地に立って祈るわたしたちの声を聴いてください。
それは、戦争の犠牲となって、苦しみの内に眠りについた人たちの声だからです。
お互いにゆるし合い、助け合い、協力し合う、愛の上に築かれる平和が、この世界に実現しますように。

 

 

 

感想などはあえて書かないことにしました。

各々が感じたこと、それがすべてです。

パパ様の日本滞在のあと二日、お元気で、有意義な時間をお過ごしになられますように。

 

ローマ教皇の役割

17日のごミサでは、七五三お祝いがあり、子どもたちが祝福を受けました。

この様子は毎年、子どもたちだけでなく、信徒みんなの楽しみでもあります。

子どもたちが豊かなお恵みを受けながら、幸せいっぱいの中で健やかに成長してくれることを願わずにいられません。

 

ローマ教皇をわたしたち信徒は親しみを込めて「パパ様」と呼びます。

元は、ギリシャ語の「パパス」に由来しています。

今でも神父様をファーザーと呼ぶことからわかる通り、もともとは「教父=パパ」とはすべての司教様の通称でした。
グレゴリウス1世が教皇の尊称と定めたのだそうです。

教皇にはいろいろな呼び名が他にもあります。
他教会に対して首位性を主張するために、「使徒ペトロの後継者」と称していた時代もあります。

ローマ司教、ヴァチカンの国家元首でもあるのです。

2015年の統計によると、カトリックの司教は世界中に5304人、40万人以上の司祭、20万以上の教育施設、10万以上の病院、養護施設などの福祉施設があり、その最高責任者が教皇様です。

 

「神のしもべのしもべ」=servus servorum

サービスする人にサービスする人、という言い方もあります。

「最高の大祭司」=Pontifex maximus

最高の天と地の架け橋、という言い方も。

これは、創世記28・10にあるヤコブの夢、天と地がつながる階段を上り下りする天使たちのあの夢に由来する表現です。

ヨハネ1・51にあるとおり、十字架を通じて神と人間がつながる、その架け橋の最高の人が教皇なのです。

「よくよくあなた方に言っておく。
 あなた方は、天が開けて神の使いたちが人の子の上に昇り降りするのを見ることになる。」

 

シャガール Jacobs' Ladder

 

 

フランシスコ教皇は、どんどん教会の外に出て行くべき時代であると若者を鼓舞しています。

ツイッターにも「教会は布教によっては成長しない。アトラクション(引き付ける力)によって大きくなるのだ。」とおっしゃっています。

改革を促すような形での布教は他者の在り方を否定して別の在り方を強要するもので、
福音を伝える宣教というのは他者がいるところに加わることなのだ、ともおっしゃっています。

キリスト者は「心理の所有者」ではない。
「真理の奉仕者」なのだ、と。

今回のパパ様の来日にも、いろいろな意味が込められていることでしょう。

被爆地、長崎を訪問してくださることもその一つです。

わたしたちに何をお話ししてくださるでしょうか。

 

いよいよ、24日です!

人生を支える言葉との出会い

フランシスコ教皇の紋章のモットー

“Miserando atque eligendo” (憐れみ、そして選ばれた)


選ばれたとはいえ、聖書には「憐れみ、」という言葉はありません。

イエスはさらに進み、マタイという人が収税所に座っているのをご覧になり、呼びかけられた。
「わたしに従いなさい」。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
マタイ9・9

この紋章の言葉は、聖ベーダ・ヴェネラビリスの説教の言葉から取られているそうです。

聖ベーダは、七世紀末から八世紀初めにかけてのイングランドの碩学の司祭で、
ギリシャ・ローマの古典を駆使し、天文学、物理、数学、音楽、哲学、修辞学、医学の文献に通じ、百科全書のような人でした。

聖べーダは聖書解釈の業績でも知られていて、使徒マタイの召命のエピソードについて、イエスがただ「私に従いなさい」とひとこと言ってマタイが職場を離れてついていった、というシーンを、「イエスは徴税人(マタイ)を見つめ、『憐れみ、そして選ばれ』、わたしについてきなさいと言った」と解釈して表現したのです。

(竹下節子さんのブログより参考)

 

カラバッジョ「マタイの召命」

フランシスコ教皇は17歳の年の聖マタイの祝日にこの言葉に出会ったのだとか。

聖書に限らず、人生において大切に思える言葉との出会いをされたという方は多いのではないでしょうか。

 

第二バチカン公会議の教会憲章11にはこうあります。

「すべてのキリスト信者は、どのような生活条件と身分にあっても、
各自自分の道において父自身が完全に持っている聖性に達するよう主から招かれている。」

 

使徒的勧告「キリストは生きている」にパパ様が書いていらっしゃいます。

248
「召命」という語は、神からの呼びかけとして、幅広い意味で解しうるものです。
それは、命への招きも、ご自分との友情への招きも、聖性への招きも含む、さまざまなものを意味します。
これは貴重なものです。
わたしたちの生涯全体を、わたしたちを愛してくださる神の真正面に据え、
意味のない混沌の産物であるものなど何もないこと、
すべてのものが、わたしたちのために素晴らしい計画を用意してくださる主にこたえる道へと組み込まれるはずであると、わたしたちに理解させてくれるからです。

 

この2つは、今のわたしにとって、暗記して毎日復唱したいくらいの言葉です。

10日の聖書朗読にも、心が揺さぶられました。

どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、わたしたちを愛し、
永遠の励ましと素晴らしい希望を、恵みとして与えてくださったわたしたちの父である神が、
あなた方が善い業に励み、善い言葉を語るときいつも、あなた方の心を励まし、強めてくださいますように。

2テサロニケ2・16~17

 

今月は死者の月です。

各々、身近な大切な方が神様の下で過ごされているでしょう。

わたしは、特に母が、地上のわたしたちと神様とのとりなしをしてくれているので、
こうして素晴らしい言葉や教会の人々との出会いの恵みが与えられている、と信じています。

死者のために祈りましょう。

 

 

イエス様に「恋する」

久留米教会の敷地では、いつも美しい神様の愛を感じることができます。

 

27日のごミサでは幼児洗礼式が執り行われ、3名の子どもたちが受洗しました。

子どもたちの目がキラキラしていました。

嬉しい光景です。

 

8月に出版された新しい使徒的勧告「キリストは生きている」には、とても生き生きとした表現でイエス様の姿が、特に若者に向けて表されています。

(ここでご紹介したいと思って付けた付箋がたくさん!)

 

 

130
神はあなたを愛している、キリストはあなたの救い主である、このかたは生きている―
この3つの真理には、父なる神が登場し、イエスが登場します。
御父とイエスがおられるならば、そこには聖霊もおられます。
裏方をしておられるかたです。
このメッセージを受け入れるために心を整えさせ、開いてくださる方です。
救いの体験を鮮やかに保たせてくださるかたです。
あなたがこのかたに働いていただくようにすれば、この喜びを膨らませるよう助けてくださるかたです。

 

132
美しい詩「恋しなさい」が語っているとおりです。
「神に出会うこと、つまりは、決定的に熱烈に、神と恋に落ちること
これ以上に大切なことはない。
あなたが恋しているかたは、あなたが思い描くことすべてに映り、そうしてすべてにその痕跡が刻まれる。
朝、床から出るのはそのかたのため、夕べもそのかたのためにあり、週末はそのかたのために使う。
読み取るものはそのかた、感じ取るものはそのかた、そのかたのために心を砕き、そのかたへの喜びと感謝で打ちのめされる。
恋しなさい。愛に浸っていなさい。
すべてが違ってくるでしょう。」
神へのこうした愛によって、生活のすべてを情熱をもって過ごせるようになります。

 

158
主を求め、そのことばを大切にし、生活をもってそれにこたえようと努め、徳を磨く、
こうして若者の心は強くなるのです。
そのためにはイエスとの「接続」を保ち、イエスと「オンライン」でいなければなりません
あなたの力と、あなたの知識だけでは、幸福も聖性も高めることはできないからです。
インターネットにつながらないことを心配するのと同じく、主との接続を確保しておきなさい。
つまり、対話をたやさず、主に耳を傾け、自分のことを主に伝え、どうしたらいいか分からないときには主に尋ねなさい。
「イエス様、あなただったらどうなさいますか」。

 

まだまだたくさん、素晴らしいと思って付箋を付けたページがあります。

本や神父様のお話は、その方が置かれている状況やその時の心境で、入ってくる内容が違うかと思います。

ぜひ、お読みいただいて自分へのメッセージを受け取ってみてください。

 

 

この子どもたちが久留米教会で生き生きとした信仰生活を送っていけますよう、お祈りしてください。

 

 

パパ様と会うために。

11/24の長崎での教皇様のごミサまで、あとひと月足らずとなりました。

パパ様をお迎えする前に、わたしたちは霊的に自らの準備をしなければなりません。

大名教会では、企画展「-いつくしみと憐れみの人-教皇フランシスコ」」が12/3まで開催されています。

今日は、2013年5月号のカトリック生活に特集されていた、教皇フランシスコの横顔という記事からパパ様について書いてみたいと思います。

科学者を目指して勉学に励んでいたホルヘ・マリオ・ベルゴリオ青年は、イエズス会の修道者となります。

貧困に喘ぐ人々のために尽くし、イエズス会(エリート聖職者を養成することで知られていたそうです)でも特異な存在でした。

ブエノスアイレスの大司教となっても質素な生活を貫き、大司教公邸ではなく郊外のアパートに住んで自炊生活をし、バスや地下鉄を使って司牧に出かけていらっしゃいました。

料理がお得意だったようで、日曜日のお昼には神学生たちのためにお食事を作っていらしたそうです。

 

この写真は、6月に宮﨑神父様がバチカンに行かれた時に撮影されたものです。

 

ローマ教皇は、バチカン市国の国家元首でもあります。

ですが、今でも高級車ではなく大衆車で移動されますし、訪問先の海外の国で豪華なホテルに宿泊されることも好まれないようです。

初代の聖ペテロから数えて、現教皇は266代目ですが、ここまで徹底して修道者時代からの信念を貫いていらっしゃる方は珍しいのではないでしょうか。

貧しい人々へ心を寄せ続けられている姿勢は、その選ばれたお名前にも表れています。

フランシスコ(イエズス会出身なのに!)

 

駐日教皇大使のヨセフ・チェノットゥ氏から福岡教区の信徒に向けてお手紙をいただいていますので、その一文をご紹介します。

平和、喜び、友愛、連帯、希望のメッセージを届けに来日するフランシスコ教皇を迎えるために、私たちも霊的に準備をいたしましょう。

教皇様は私たちの信仰を確信へと導き、励ましてくださることでしょう。

教皇パウロ六世の使徒的勧告『福音宣教』の言葉を引用致します。

「福音を伝えることは、実に教会自身の本性に深く根差したもっとも特有の恵みであり、召命です。
教会はまさに福音をのべ伝えるために存在しています」

 

オフィシャルテーマソングが作られていることをご存じですか?

カトリック中央協議会のサイトによれば
「テーマソングは各会場で、BGMとして使用されるほか、東京や長崎で実施されるミサ等においてフランシスコ教皇に向けて披露される予定です。」

あとひと月足らずです。

各々が、自分なりの霊的な準備を心がけて過ごしましょう。

 

パウロの手紙

久留米教会のマリア様はとても良い香りがします。

10月のロザリオの月は金木犀の香りがするマリア様です。

20日の第一朗読はテモテへの手紙でした。

聖書は、あなたに知恵を与え、キリスト・イエスに基づく信仰によって、あなたを救いに導くことができるのです。
聖書はすべて、神の霊感によるもので、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするために有益です。

2テモテ3・15~16

この「聖書」とは、もちろん旧約聖書を指し、直訳では「聖なる文字」を意味しているそうです。

わたしたちが読んでいる聖書に、なぜ特定の人々に向けて出された『手紙』が収められているのだろう?と思ったことはありませんか。

新約聖書には、”パウロの手紙”とされる文書が13通あります。
実際にパウロが書いたと考えられているのはそのうち7通だそうです。
(テモテについては、パウロ書簡の研究において最も議論されている問題の一つ)

これらの手紙は、地中海のいろいろな都市に建てられた教会の特定の人々に宛てて書かれ、いくつかの教会で回覧されることを意図して書かれたそうです。

イエス様の十字架と復活についてのパウロの信仰告白、宣教の情熱、願いや祈り、課題とその解決の勧めなどがその内容です。

一方、6通の手紙は、名前も知られない伝道者たちが書きました。

当時、一定の権威を持って人々に知られていた人の名前を使って大切なことを書く、ということは珍しいことではなかったそうです。

 

では、なぜ初期のキリスト者たちはこれらの手紙を大切に伝え、残したのでしょうか。

いくつかの理由が考えられているようですが、なるほど!と思ったのは大きく次の2点です。

① 民族、出自、階級、性別を超えて、またユダヤ教の律法にとらわれずに、
 イエス様の十字架と復活の福音がすべての人に救いとして与えられている、
 と語るパウロの言葉のもつ大きな意味と励ましの重要性。

② エルサレム教会の指導者や様々な伝道者から「正当な使徒」ではないと批判されながらも、
 パウロが地中海世界の諸教会のなかで一定の権威を持つ伝道者とみられるようになっていたから。

 

当時は今と違い印刷技術もなく、高価な紙や羊皮紙に手紙を書きました。

そして、人々は丁寧に書き写してコピーを作っていました。

つまり、いかにパウロの手紙が重要な教えとして認められていたか、そしてパウロが評価されていたかが分かります。

そして、パウロの名を借りた6通の手紙が書かれた時代は80~120年頃であり、使徒たちも第一世代の主要な伝道者や指導者たちも亡くなり、キリスト者迫害の時代でした。

教会の強化を図りながら、福音を途絶えなく宣べ伝えていく必要性に駆られていたのです。

 

その中でも、ヘブライ人への手紙は特異な重要性を感じます。

著者が誰で、宛て先は誰で、どの教会への手紙なのか一切書かれておらず、迫害や試練の中で、信仰を持って生きることに疲れた人々への慰めと励ましのメッセージが込めらています。

以前も書きましたが、わたしはこのヘブライ人への手紙がとても好きで、たくさん線を引いたり書き込みをしています。

 

霊の父は、わたしたちの益のために訓練なさるのです。
楽しいものではなく、むしろ苦しいものに思われますが、後になると、この訓練は、それによって鍛えられた人々に、義という平和の実をもたらします。
ですから、あなた方はなえた手と、弱った膝をまっすぐにしなさい。

12・10~12

 

この本からの記事です。
とてもお勧めです!