将来ための、今の時。

桜と菜の花の季節から、久留米はつつじが咲き誇る時がやってきました。

コヘレトのことばが頭をよぎります。

天の下のすべてのものには、その時期があり、すべての営みにはその時がある。
生まれてくるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、癒すのに時がある。
壊すのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、笑うのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
(コヘレト3・1~4)

 

今回は、2つの記事をご紹介したいと思います。

一つ目は、カトリック新聞に掲載されていた、京都の柳本神父様の記事の一部です。

以前の状態に戻ることが正しいことでしょうか。
確かに、感染症に対する恐れは今ほどありませんでした。
けれども、貧困や格差、紛争や圧政によっていのちの危険にさらされていた人も多くいます。
国境が封鎖される前から、追い返される難民の人たちがいます。
わたしたちがパンデミック(世界的大流行)の恐ろしさを感じる前から、彼らは恐怖と不安を押し付けられていたのです。

新型コロナウイルスの恐怖から一刻も早く解放されることを願うのは当然ですが、そのときに「元の平穏な生活」に戻るのではなく、「排除のない神の国」へと少しでも進めていかねばなりません。

http://www.cwjpn.com/cwjpn/article/index.htm

 

2つ目は、竹下節子さんのブログからの一部です。

ローマ・カトリックというのは、何しろ強大なローマ帝国の国教になったのだから、ありとあらゆる「変異」を遂げてきた。
もとは何しろ「神の子」が刑死するというスキャンダルから発して、信徒も迫害を受けそれこそ隠れて生き延びた。
ありとあらゆる逸脱があった。
それなのに、消滅しないで、奇跡的に時々、「キリストに倣う」という人々が出てきて、苦しい自浄を重ねて生き延びだ。
言ってみれば、何度も瀕死になりながら生還して、過ちへの抗体を獲得したわけだ。

フランシスコ教皇。
彼が一貫して警鐘を鳴らしている環境破壊と、エコロジー的回心の必要は、このコロナ危機と四旬節をまさに先取りしたものだ。

コロナ危機の「後」の世界はない。

コロナ危機は、まさに、私たちの逸脱と過ちの「後」の出来事だからだ。

これまでの私たちの驕りと全能感が「前」にあり、今の「危機」はその帰結なのだ。
新型コロナウィルスとの「戦い」に「勝利」したら「戦後」のより輝かしい復興があるのではない。
私たちには「今」を変える以外には未来はない。

https://spinou.exblog.jp/31001045/

 

ニューヨークに住む妹が、日本に緊急事態宣言が発令される前に言った言葉が心にささっています。

「この危機が収束した後、世界の様子は激変してると思う。」

世界の風景が大きく変わりました。
日本の街の様子も、変わりました。

ですが、変わらなければならないのは、わたしたち人間なのですね。


 

昨日の主日には、ヨハネの福音書が読まれました。

トマスが指を入れて見なければ信じない、と言った後、

「わたしの主、わたしの神よ」

と言った有名な箇所が第2朗読でした。
詩編からの引用です。

主よ、あなたは見ておられました。
黙っていないでください。
主よ、わたしから離れて遠くにいないでください。
わたしの神よ、わたしの主よ、奮い立ってください。
わたしの裁き、わたしの争いのために、目を覚ましてください。
(詩編35・22~23)

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

ペテロたち使徒は、イエス様の死後、漁師や徴税人の仕事に戻ってはいません。

一度大きく変革した事態は、決して元に戻ることはないのです。

コロナ後に「元の平穏な日々が戻る」と信じるのではなく、近い将来にわたしたちが生きることになる「新しい世界」のために、「今わたしたちが変わる必要がある、自分たちの行動と意思で現状を変えることができる」と信じて、今を生きる時なのだと思います。