荒野での声

四旬節の意味について、パパ様が一般謁見で述べられたお言葉を抜粋してご紹介します。

キリスト教信仰と一年の典礼の中心である復活祭へと向かう、この「四旬節」の歩みは、公生活前に荒野で40日間の祈りと断食の日々を過ごしたイエス様に従うもの、と話され、キリスト者にとって「荒野」が示す精神的意味を説明されました。

自分が荒野にいると想像するよう招かれたパパ様は、そこで最初に感じるのは大いなる沈黙ではないだろうかと述べられました。

荒野は、わたしたちを取り囲む騒音から離れ、その沈黙の中で、風のように吹き、心に触れる神の御言葉を聴く、まさに「御言葉の場所」である。

実際、聖書では、主は荒野でご自身の民に話しかけることを好まれる。
神がモーセに十戒を託されたのは、荒野においてであった。
荒野は「孤独の場所」である。
今日もわたしたちのまわりには多くの荒野がある、貧しい人やお年寄りなど、疎外され見捨てられた多くの人々の存在である。
荒野は無言のうちに助けを求めるこれらの人々へとわたしたちを導き、四旬節の歩みは最も弱い立場の人々に向かう愛の歩みとなる。

 

イスラエルの荒野の風景です。

 

 

パパ様は、荒野でのイエス様の言葉によく耳を傾けるために、この四旬節は特に聖書を開くようにも勧められています。

 

イスラエルの荒野では、ここを実際にイエス様が歩かれたのだ、と心が震える思いがしました。

この写真のように荒涼とした場所も死海の西側には多くありますが、イスラエル政府の取り組みで植林が進み、荒野だった地区が緑豊かな景色に生まれ変わっています。

緑、それはわたしたちの「実際の行動」を指しているのではないでしょうか。

 

 

荒野であっても、人々が行動を起こせば緑豊かな地となるのです。

疎外され、見捨てられたと感じている人々のために単に祈るのではなく、わたしにできることはないかと考えています。

病気で教会に行けない方々を訪問する。
公園で定期的にホームレス支援の炊き出しをする。
誰もやらないから、と進んで教会の墓地を清掃する。

そうした先輩信徒の方々の姿を見ていると、彼らには荒野でのイエス様の声が聞こえているのだ、と感じます。

ごミサに与れないこの2週間、わたしにできることを行動して過ごしたいと思います。