苦難の捉え方
昨日は、久しぶりの宮﨑神父様のごミサに森山神父様も来てくださり、久留米教会は本当に恵まれていることを痛感した日曜日でした。
自然災害、病気、事故はいつの時代もわたしたちをふいに襲う悲劇です。
オーストラリアの森林火災はまだ燃え続けています。
新型のコロナウィルスの感染拡大はどこまで広がるのでしょうか。
交通事故の発生しない日はないのではないでしょうか。
病気治療中の知人に「お祈りしています」と言葉をかけても、それは自己満足でしかない、と感じることもあります。
そう感じたとしても、ぜひ「お祈りしています」と声をかけるか、カードに書いて送ってください。
わたしが病気をしてながく入院していたとき、
(今のように携帯でメッセージ、という時代ではなかったからですが)
励ましのカードや手紙が病室に届くのが楽しみで、とても嬉しかったことを思い出します。
「忘れていませんよ」
「あなたのためにお祈りしましたよ」
その気持ちがとても励みになったものです。
『なぜ私だけが苦しむのか』現代のヨブ記
この本を読んで、ショックを受けました。
「苦難は神様から与えられる試練だ」と信じて生きてきたわたしにとって、衝撃的な本でした。
そして同時に、わたしの『人生の書』の1冊になったのも本心です。
神のみ旨に従い、周囲の人々のために尽くして生きてきたユダヤ教のラビが、我が子に障害があるとわかり、14歳でその短い生涯を終えるまで苦悩を抱えながら育てたのちに行きついた信念が書かれています。
わたしは自分の病気がわかったとき、これは神様からのメッセージだと素直に受け止められたし、いまでは「この障害があることはわたしの長所であり、お恵みだ」と単純に思っています。
母が若くして亡くなった時は「どうしてですか?なぜこんなに早くお召しになったのですか?」と神様に文句を言い続けましたが、いまでは「病弱だった母を早くゆっくりさせてくださったのだ」と純粋に思っています。
ですが、この本の作者は、
「私に言えることは、私の信じる神は、このような病気を与える方ではないし、奇跡的治療法を隠し持っているのでもない、ということだけです。
そうではなく、不滅の精神を弱く傷つきやすい肉体に宿して生きていくしかないこの世界で、自分の責任でない不公平によって苦難にさいなまれている人、死の恐怖におののいている人に、私の信じる神は強さと勇気を与えてくださるのです。」
「私たちにできることは、なぜこんなことが起こったのか?という問いを超えて立ち上がり、こうなった今、私はどうすればよいのか?と問いはじめることなのです。」
災害、病気、事故などで苦難のなかにある人に、「神様は乗り越えられる苦難しかお与えになりませんよ」といった安易な言葉をかけることも、作者は「酷である」と言います。
自らと神との関係において与えられた苦難や試練を乗り越える、という根本的な考え方は同じですが、そもそもそれらは神が与えたものではない、というのです。
その時、お前の光は暁のように輝き出で、
お前の癒やしは速やかに生じる。
お前の正しさがお前の先を行き、
主の栄光が背後の守りとなる。
その時、お前が呼べば、主は応え、
叫べば、『わたしはここにいる』と仰せになる。
もし、お前の中から軛を除き、
指をさすことや中傷をせず、
飢える者のために尽くし、
虐げられる者の必要を満たすなら、
お前の光は闇の中に輝き出で、
お前の暗闇は真昼のようになる。
イザヤ58・8~10
軛、闇をどう捉えるのか。
どこに光が見いだせるか。
神と自分との関係を見直すために、先人たちがそうしていたように、わたしたちも問い続ける問題なのでしょう。
信仰とは、神と自分自身との関りを追求し続けることです。
答えは自分でみつけるのです。
最後に、この本に紹介されていた、アウシュビッツからの生還者のことばを記しておきます。
「ナチの行ったことのために、私は神に近づいたわけでも遠ざかったわけでもない。
神にはその責任はないのだ。
私たちこそ、私たちの人生について神に責任を負っているのだ。
私たちは短い人生の日々、あるいは長い人生の日々を神に負うているのだ。」