行事風景

わたしたちを満たすもの

「今日の聖書朗読」を読むのが習慣だという方、多いかと思います。

好きな箇所、特に旧約のお気に入りの箇所が出てくると嬉しくなり、満たされた1日を送ることができます。

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見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。
主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。
しかし、風の中に主はおられなかった。
風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
(列王記上19・11~12)

19章では、エリヤが長距離の逃避行をします。
神のことばに従って、その通りに生きてきたと自負していたエリヤは、報われないと思っていました。
そして、アハブに命を狙われ、神の山ホレブへと逃げて洞窟に引きこもります。

神が激しい風を吹かせ、地震、火を起こしても、エリヤはそこから出てきません。
「静かにささやく声」(フランシスコ会訳では「かすかにささやく声』)で、神様の現存をようやく感じ、出てくるのです。

強制的にではなく、エリヤの自由意思に任せようという神様の優しさ、エリヤへの信頼なのだ、と教わりました。

英神父様は「神はささやく声で語りかける。静けさがないと聞こえない。心の静けさを大切にして、神のささやく声を聞こう。」とおっしゃっています。

 

体は一つ、霊は一つです。
それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。

主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、
すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
(エフェソ4・4~6)

体、霊、希望、主、信仰、洗礼、神
この7つはそれぞれ一つであり、同時に7つの共同体でもあります。

父と子と聖霊が、それぞれ独立したものではないのと同様です。

宮﨑神父様がお説教で、こうお話しされました。 

「三位一体について説明するのはとても難しい。わたし自身も完全に理解しているとは言えない。
でも、大切なのは、理解することではなく信じること。」


ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。
そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
(マタイ5・15~16)

この箇所は、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10・8)と同様に、わたしがとても大切に心に刻んでいる教えです。
自分のいただいている光が輝くような生き方をしたい、いつもそう思っています。


わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達(試練に磨かれた徳)を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。
わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(神の愛がわたしたちの心の中で溢れ出ているからです。)
(ローマ5・3~5)()はフランシスコ会訳

聖書はいつも、わたしの心を満たし、生活に潤いを与えてくれます。
それが、穏やかな日常、ストレスに負けない精神の基になっていると思っています。

アウグスティヌスの「告白」の一説です。

私たちはあなたから遠ざかったり近づいたりいたします。
しかし、けっして場所ではありません。
すべての人は、自分の聞きたいことをあなたにたずねます。
しかしかならずしも、聞きたい答えを、いただくとはかぎりません。
自分の聞きたいことをあなたから聞こうとするよりもむしろ、あなたから聞くことをそのままにうけとりたいと心がける人こそは、最良のあなたのしもべなのです。
(第10巻 第26章)

人生における苦しい局面も、聞きたくないような耳の痛い言葉も、避けて通ることばかりはできません。
苦難が希望へ繋がるという教えは、生きて行く上でとても大切なものです。

 

最後は、今週の読書で1番心に残った文章をご紹介します。

栄光は神である御父に、また万物の王である御子に。
栄光は最高の讃美をささげるべき至聖なるお方である聖霊に。
三位一体の唯一の神は、万物を創造し、天には天に住むものを、地には地に住むものを満たされた。
神は、海と川と泉を水に住むもので満たされ、ご自分の霊であらゆるものにいのちを与え、あらゆる被造物が、智慧あるその創造主を、つまり生き続け、いつまでも永らえる唯一の原因であるお方を讃美するようにされた。
理性を備える被造物(天使および人間)は、しかし、特に、常に神を大いなる王、善き父として讃美せよ
(ナジアンゾスの聖グレゴリオス)阿部 仲麻呂神父様 訳

 

聖霊の助け

読売新聞5/29朝刊に、若松英輔さんの寄稿文が掲載されていました。
1ページ全面の文章で、とても読み応えのある、「利他の精神」についての深いお話でした。

「利他は、他者のために行動するということだけでなく、自分も他の人がいなければ存在し得ないという現実を、深く自覚するところに原点がある」

「日本では自らを無宗教者と考える人が少なくない。
それでも、誰かのために『思わず祈った』ことがない人は、かえって少ないのではないか。」

コロナ禍以降、この「利他の精神」が再度見直されたように思います。

わたし自身は、他者とのつながりを強く意識するようになりましたし、無暗に不安を煽るような報道が多くなったことで、一人でいることの弱さを思い知らされた日々を経験しました。

 

アポロがコリントにいたときのことである。
パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。
パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。
そこで、パウロは言った。
「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」
人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。
パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。
この人たちは、皆で十二人ほどであった。

パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。
(使徒言行録19・1~8)

 

うまく書き表せないのですが、「神様に祈った結果、聖霊が助けてくれた」と感じた経験が何度もあります。

「神様お願いします」と祈り続け、聖霊がとりなしてくれたのを実感して「ありがとう!!」と心の中で叫ぶのです。

『時として聖霊は、目に見えるかたちをとって、使徒的活動に先立ち、また種々の方法によってその活動に絶えず伴い、それを導く』
(宣教教令より)

若松さんのツイッターにあった言葉が、まさにこれ。

「人の一生は、自分の力で生きるというよりも何かのちからによって生かされている。」

神様に支えられて、聖霊の助けによって生かされている、そういつも感じています。

聖霊、ギリシャ語でpneuma(プネウマ)のギリシャ哲学における意味は、『人間の生命の原理・一切の存在の原理』というものだそうです。

プネウマがあるから生きていける、プネウマがなければわたしたちは存在し得ない、といったところでしょうか。

 

「平和とは聖霊の息吹きが心の奥底に染み渡る状態のこと」、と教皇フランシスコはおっしゃっています。

「自力で平和をつくり出そうとして焦るのではなく、むしろイエスの支えと聖霊の息吹きによって自分の心を根本的に新しくしていただくことが、人間にはぜひとも必要なのです。」

「わたしたちの旅の日々は、神が一緒にいてくださること(臨在)によって支えられており、聖霊がわたしたちの心に吹き込む恵みの強さによってわたしたちの歩みは導かれ、一人ひとりの心が形づくられ、愛することができるように、神からはからっていただけるのです。」
(教皇フランシスコとマルコ・ポッツァ師との対話「CREDO」より) 

 

若松さんのお話でとても印象深いのは、次のような内容の下りでした。

「日頃意識していなかった他者とつながりのなかに自己を見つめなおしつつ、一日のある瞬間など、どんなに短い間でも利他的になれればいい

利他的な人生を目指すのは難しいけれど、日常的に「一日のある瞬間」そう意識して生きていければ、自分にとっても他者にとっても大きな救いになるのだ、とおっしゃっています。

 

昨夜読んだ箇所に、教皇フランシスコがこうおっしゃっていました。

世間的に見れば弱く無防備で、家族と遠く離れて独りで寂しく暮らしているように、自ら勘違いしている人たちが、実は必要なときに支えてくれる兄弟姉妹の存在をすでに得ているような。
それが「いつくしみのひととき」です。
誰かによって支えていただけるほどに自分の存在に価値があることを実感するような「いつくしみのひととき」が、神によるはからいです。
(「CREDO」より)

利他の精神とは、まさに聖霊の働きによる「いつくしみのひととき」のことだと思います。
その意味を深く感じ、心がほぐれたような読書の夜でした。

 

今年も、森山司教様お手植えの白い紫陽花が美しい季節です。

 

自分の主張

先週から、宮﨑神父様が新しいミサ式次第の解説と練習をしてくださっています。

まだ全てを理解したわけではありませんが、とても心を動かされた変更箇所があります。

主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、
あなたをおいて、だれのところに行きましょう。

これが、↓

主よ、わたしはあなたをお迎えするのにふさわしい者ではありません。
おことばをいただくだけで救われます。

これは、マタイ8章の百人隊長のことばに基づいた文で、規範版ではこちらの式文が用いられてきたようです。

すると、百人隊長は答えた。
主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。
ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます。
(マタイ8・8)

ただし、これまでのとおりに唱えてもよい、となっています。

控えめな態度、言葉が美しい箇所です。

・・・・・・・・・・・・・・・

安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。
そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。
ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。
そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。
(使徒言行録16・11~15)

この積極的な態度、面白いですね。
旧約、新約、どちらの聖書も、自分の主張をハッキリとさせるタイプの女性が多く登場します。

21世紀の現代とは違い、女性の社会的地位はとても低かったはずです。
自分の意見や意志をしっかりと持っていた女性が多くいたことよりも、そうした彼女たちの様子が聖書にイキイキと物語られていることに関心があります。

 

マルタとマリア姉妹のエピソードがあります。

イエス様が弟子たちとともに姉妹の家を訪問した際、食事を用意して給仕してせわしなく立ち働くマルタと、弟子たちに交じってイエス様の教えに耳を傾けるマリア。
そのことをイエス様に率直な言い方で「手伝うように、妹になんとか言ってください!」と迫るマルタ。
(ルカ10・39~42)

『マルタとマリアの家のキリスト』フェルメール作

『マルタとマリアの家のキリスト』ベラスケス作

 

兄のラザロが病気になったとき、人を遣わしてイエス様を呼びます。
イエス様が来られた時、マルタは迎えに行きますが、マリアは家の中に座っています。
二人とも、同じ気持ちだったのでしょう。
「ここにいてくれたら、もっと早く来てくれたら、兄は死なずに済んだのに、、、」
マルタはそれを直接ことばにして伝えますが、マリアは沈黙のうちに抗議したのかもしれません。

 

有名な絵画にも、意図的に「口うるさい姉」と「観想的な妹」として表現されているとおり(ベラスケスの絵は明らかにふてくされた顔の姉)、古代から西洋世界ではマリアの方が優れた人間性の持ち主だという解釈がなされていたようです。

じつはわたしも、「長女は家のために働いて、だいたい口うるさいものよ。わたしみたいに、、、。妹は気楽でいいよね~。」と思っていました。

 

福音宣教6月号の本多峰子さんの連載に、こう書いてあります。

「マルタはイエスを敬愛し、イエスを精いっぱいもてなそうとしていますが、同時にイエスには、全く隔てのない近さで接しています。
これはマルタが、すべての思いを包み隠さず、イエスに完全に心を開いていることの表れです。」

「ほとんどイエスをとがめるような言い方をしています。
でも同時に、イエスに行動を求め、ラザロの救いをあきらめようとはしません。

これは、マルタの信仰の強さです。
マルタはとことんイエスに食い下がります。
イエスが神に願うことは何でもかなえられると信じるマルタは、同時に、自分が心からイエスに願うことをイエスはかなえてくれると信じているのです。」

気が強く、男性にも負けずに食い下がる女性。
昔も今も、こういう女性はめんどくさいと思われるかもしれません。

 

「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。
まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。
この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。

(使徒言行録16・22~34)

真夜中なのに、洗礼を授けてもらい、家に連れて帰って食事まで。
やや強引とも思える行動です。

信仰を持つ、ということは、ときには「強引に」自分を主張してもよいのだ、とも思えます。
めんどくさいくらいに自分の主張を神様にぶつけることも、時には必要でしょう。

リディアのように積極的で、マルタのように意志が強く、妹のマリアのように秘めた強さを持ち、

「はいはい、わかりました」

そう神様に言われるくらいまで、強い信仰を貫いて生きて行ってもいいのです。 

 

 

神様に留まる

お薦めの海外ドラマがあります。

医療もののアメリカの作品で、毎回、様々な病気(それもかなり難病)の患者が、研修外科医とそのチームによって治療を受け完治したり時には亡くなったり、という内容です。
主人公は「チャーリーとチョコレート工場」のチャーリー君。(もう30歳!)
自閉症でサヴァン症候群(アスペルガーのなかでも特に、ある分野の能力だけが際立っている症状)という設定です。

主人公が自閉症であることを受け入れながら人間的に成長していく様子、周囲の人々があるがままの彼を受け入れていく様子が感動的なドラマです。

 

わたしはあなたがたを友と呼ぶ。
(ヨハネ15・15) 

ドラマの中で度々出てくるキーワードが、「友だち」です。

自閉症のため、人の気持ちを慮ることが難しい主人公は、友だちをなかなか作ることができません。
ですが、周囲は彼を友だちとして受け入れていくのです。

たとえ自分が孤独だと感じても、イエス様は「友」としてわたしたちのことを受け入れてくださっている。

ヨハネの福音書には、「わたしを受け入れなさい」というイエス様のことばがたびたび出てきます。 

よくよくあなた方に言っておく。
わたしが遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れるのであり、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。
(ヨハネ13・20)

わたしを見た者は、父を見たのである。
(ヨハネ14・8)

当時のファイサイ派の人々や神殿祭司たちは、イエス様のことを受け入れることがどうしてもできませんでした。
多くのユダヤ人も、全面的に受け入れていたわけではないと思います。

「神を信じなさい、そして、わたしをも信じなさい」

この世は仮の住まいであり、死後の心配はしなくていいのだ、と言われても、恐らくピンと来なかったのでしょう。

■自分のことを受け入れる

■人のことを受け入れる

これは、現代人が最も難しいと感じていることではないでしょうか。

わたしも時々、どうしても自分を好きになれない、人の言動を受け入れられないことがあります。
すぐに自分の不甲斐なさに失望し、人の小さなミスを許せないと感じてしまいます。

 

わたしのうちに留まっていなさい。
そうすれば、
わたしもあなた方のうちに留まる。
(ヨハネ15・4)

あなたが方がわたしのうちに留まっており、
わたしの言葉が、
あなた方のうちに留まっているなら、
望むものを何でも願いなさい。
そうすれば、かなえられる。
(ヨハネ15・7)

わたしの愛のうちに留まさい。
(ヨハネ15・9)

自分のことも人のことも受け入れられないのに、神様に願いごとばかりしていることを痛感させられます。

神様のうちに留まる、神様の愛に留まる。
イエス様と一致している(信仰を持っている)ならば、自分と人のことを受け入れたいという祈りも聞き入れられるのだ、と思えます。

 

イエスさま、どうかわたしのことを覚えていてください。
わたしは善い人になりたいのです。
善い人にはなりたいのですが、自分には力がないので、できそうにありません。
わたしは罪びとなのです。
しかし、わたしのことを覚えておいてください。
イエスさま!
あなたはわたしのことを思い出すことができます。
あなたは、あらゆるものの中心におり、まさにあなたの王国にいるからです。
主よ、どうかわたしを覚えていてください。
あなたの王国では、あなたが全てを決定できるのです。
(教皇フランシスコとマルコ・ポッツァ師との対話「CREDO」より)

 

いつのまにか、美しく咲いていました。

 

 

 

「ありがとう」

15日は、ローマへ出発される前日にもかかわらず、船津神父様が久留米の信徒たちに旅立ちのご挨拶も兼ねてミサに来てくださいました。

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弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。
(使徒14・23)

長老とは今の司祭のことです。
アベイヤ司教様から、わたしも神様に任されたのだと思っています。
「神様、船津のことをあなたに任せます」、と。
司教様から、「学びに行くことは奉仕することです」というお言葉をいただきました。
マザーテレサの詩にこうあります。
「信仰の果実は愛
  愛の果実は奉仕」

そう、船津神父様がお話くださいました。

 

「おめでとうございます」

「お身体に気をつけて頑張ってください」

わたしたち信徒は、心からそう思って簡単に口にしてきましたが、船津神父様のお気持ちを深く考えてみると、気安く「頑張って」とお声をかけるのは少し違うような気がしています。

「知り合いの神父様から『ありがとう』と声をかけてもらいました。」

そうおっしゃっていました。

「ありがとう」

確かに、1番相応しい言葉だと思います。

わたしたちのために勉強しに行ってくれてありがとう
大変な任務を引き受けてくれてありがとう

そういう意味なのだと思います。

 

普段は「ありがとう」と言ってもらえると、気恥ずかしいような、嬉しい気持ちになります。

船津神父様のお話を聴いて、その言葉の持つ意味がより深いものであることを感じながらお御堂を出たところで、一人の方に声をかけられました。

「いつもありがとう」

わたしが「?」という顔をしていると、その方はこうおっしゃいました。

「今日もずっと写真を撮ってくれていたのを見ていました。
ホームページに載せるためでしょ?
いつも記事を書いてくれて、ありがとう。
教会のために働いてくれて、ありがとう。」

 

 

この日のミサも、7人の子どもたちが侍者を勤めてくれました。

船津神父様も、「これまで、こんなに大勢の侍者が奉仕してくれたミサは、与ったことも司式したこともありません。
久留米教会は本当に恵まれています。」と。

聖体拝領のお手伝いをしてくれたのは、神父様の甥の壱騎くんです。

 

 

いつくしみ深い父よ、わたしたちは新たないのちに満たされ、今、派遣されていきます。
御父への道であるキリストを、喜びをもって伝えていくことができますように。

 

母の日に、お母様に感謝を伝えましたか?
お子さんから「いつもありがとう」の気持ちが届きましたか?

わたしは、母の祭壇の大掃除をしました。

イエスの十字架の傍らには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアがたたずんでいた。
イエスは、母とそのそばに立っている愛する弟子とを見て、母に仰せになった、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」。
それから弟子に仰せになった、「見なさい、あなたの母です」。
その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

(ヨハネ19・25〜27)

 

The descent from the Cross ジェームズ・ティソ

もし、福音書がヨハネだけだったら、わたしたちはイエス様の母親の名前がマリアだとは知らないのです。

ヨハネは「彼の母」「婦人」と記しています。

 

西暦30年4月7日午後。
イエスは腰布以外の何ものをも持っていなかったのだ。
「彼の者達・弟子群」は母を助けて十字架の下に立った若者をのぞき、みな逃げ去っていたから、彼イエスは弟子たちからも友からさえも「棄てられた」者となっていた。 

だから、最後の最愛の「わがもの」はイエスにとって、足もとに立ちつくす母だけ。
その母を、原始の創造期と同じ「女」の語で呼び、「おまえの子」として万人にあたえた!
われわれに最後のときに与えられたのは「母」だった。
われらの女性(ノートルダム)。アヴェ・マリア。
刃を万人のため心に受けた母。
悲哀の限りを体験して知っている母・マリア。

(聖書を旅する4 女性と聖書 犬養道子 著)

 

「母」でいつも頭に浮かぶのは、アウグスティヌスの母モニカです。

ある日私が不在のとき、母は私の友人のある者たちと、この世のむなしさ、死の善きことなどについて母親らしい確信をもって語りあい、彼らがこの女性の勇気ーーあなたがそれを与えたーーに驚いて、故国からそんなに遠く離れたところに身体をのこすのはこわくないかとたずねると、「神さまからは遠くありません。世の終わりに神さまが、どこからよみがえらせたらよいかご存じないとこまるなどと心配する必要はありませんよ」と答えたそうです。
(告白第9巻 11章) 

母親という存在は、心強いものです。

昨日、妹と話していたら、「毎日ママと話してる」と言っていました。
わたしは、毎日母に話しかけていますが、言葉が返ってきたという感覚はあまりありませんでしたので、妹を羨ましく感じていました。
ですが、ミサで「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」(ヨハネ10・27)という箇所を耳にしたとき、わたしは神様と母の声を聞き分けて生きるように努めることができているかもしれない、と思えたのです。 

 

マグニフィカトに、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」という一文があります。
聖書学者の本多峰子さんによると、この「幸いな」と言う言葉は、「神がどのような方であるかを身をもって味わい知っている」と言うような意味なのだそうです。
イエス様が貧しい人、今飢えている人、今泣いている人を「幸い」とおっしゃったのもこの意味なのです。

控えめで優しくて、柔和な思慮深い方、であるだけではなく、力強い母の一面を垣間見ることができます。

 

ウクライナから各国へ避難している人々の映像を見ていて、いつも思います。

男性は国を守るため残る、として、その姿は避難民の中にはほとんど見られません。
幼い子どもを抱き、手をひいた母親たち。
高齢の母親を気遣う女性の姿。

聖書のストーリーが描かれた名画には、ヘロデ王による幼児虐殺をモチーフにしたものが数多くありますが、どの絵も、泣き叫ぶ母親や兵士たちに立ち向かう母親の姿が描かれています。
母子を守るために立ちはだかる父親の姿はありません。

重なって見えるのです。

いつの世も、子どもを守るために素手で立ち向かうのは母親なのだ、と思うのです。

  

ペルゴレージのSTABAT MATER、アンナ・ネトレプコの美しい歌声で聴いてみてください。

https://youtu.be/gL1fi_2ya7g

 

連休後半は、「母」について想い、スタバート・マーテルを聴きながらいろいろな本を読んで過ごしました。

 

気にかけてくれる人

穏やかな天候が続くGWですが、皆様はどうお過ごしですか?

わたしは、信者の先輩おばさま方のお宅に必ずある「祈りの空間」に憧れて、祈りのコーナーを作りました。

母が大切にしていたマリア像、わたしが小学生の頃に母がプレゼントしてくれたマリア像、わたしの洗礼式の時の蝋燭などで、神様と母に「わたしの罪をお赦しください」と祈る空間にしました。

福音書に罪人と呼ばれる人たちは何人も登場しますが、実際に具体的な罪を犯したことが書かれているのは弟子たちのイエス様に対する裏切りだけだ、と福音宣教5月号の本多峰子さんの連載に書いてありました。

わたしの感じている罪は、とっくに神様も母も赦してくれていると思いますが、毎日ここで祈る習慣を大切に続けようと思っています。

 

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。
神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
身を慎んで目を覚ましていなさい。
(1ペトロ5・7〜8)

あなたの重荷を主にゆだねよ。
主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。
(詩編55・23)

いと高き主こそ、あなたのために計らう方、あなたを支える恩人
(ウガリト文献訳)

 

いつもこの聖句を心に留めています。

神様がわたしたちのことを心にかけてくださっていることを忘れないように。

 

弟子たちは漁に出ますが、「その夜はなにもとれなかった」(ヨハネ21・3)とあります。 

さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。
その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。
それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。
弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。
主であることを知っていたからである。
イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。
魚も同じようにされた。
(ヨハネ21・9~13)

153匹もの大きな魚がいっぱい取れます。
当時、ガリラヤ湖の魚は153種類いると考えられていたそうですので、これは、全ての人々の救いを象徴しているのです。

仕事を終えて疲れて帰ってきたら、部屋が暖まっていて食事の用意もできており、
「さぁ、食べましょう」と言ってくれる人がいる。

そんなシーンを思い浮かべます。

イエス様が弟子たちを、それも、決して出来の良い弟子たちではなかったのに、捉えられた時には裏切られ、十字架につけられた時は誰もそばにいてくれなかったのに、それでも彼らを気にかけてくださっている様子。

5つのパンと2匹の魚で5000人が満腹になった喩えがあります。

マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ、全ての福音書にこの喩えは書かれていますが、誰も「パンが増えた」とは書いていません。
(タイトルは4つとも「パンを増やす」となっていますが、文中にはどこにも書かれていません。)

雨宮神父様は、福音記者たちはパンの増加に主眼を置いていなかったから、とおっしゃっています。
5つのパンと2匹の魚を食べて満腹になった5000人の男たちは羊に喩えられ、その羊が青草の上に伏して、牧者に養われる、そういうイメージが表現されているのだ、と言うことです。
つまりこの例えで、イエス様は「導き養う神」であることが示されているのに、そのことを弟子たちは当時はまだ全く悟っていなかったのです。

ガリラヤ湖での漁の逸話は、弟子たちが自らの復活体験をした後の出来事でしたので、「誰も、あなたはどなたですか?」と問う必要はありませんでした。

イエス様がいつも自分たちのことを思ってそばにいてくださり、気にかけてくださっていることを、もう彼らははっきりとわかっていたのです。

 

久留米教会のことをいつも気にかけてくださっている東京教区の古市匡史神父様が、初ミサを捧げてくださいました。

 

 

古市神父様は3年前に久留米教会で司牧実習をなさっていたおり、日曜学校のこどもたちの教育にも熱心に携わってくださっていましたので、ミサの後も多くの信者たちに囲まれて大人気でした!
絵もお得意で、素敵なカードをプレゼントしてくださいました。
(左が叙階記念のカード、右は神学生時代に描かれたものです。)

ロザリオの月、マリア様にとりなしの祈りを捧げ、神様がわたしたちのことを心にかけてくださっていることを日々感じて過ごしましょう。

 

 

復活したあとの歩み

先週、アベイヤ司教様が配ってくださった、福岡教区の宣教司牧方針の冊子を読みました。

正直に書きますが、昨年末にアンケート方式で意見を求められた時は、「こんなたくさんの項目を信徒全員に意見を聞いてまとめるなんて、、、。司教様はどのような結果を期待されているのだろうか。」と疑心暗鬼だったのです。

 

「とにかく、この21ページ目が大事なのです!」 と司教様がおっしゃっていました。

この9項目は、どれも大切なことです。

例えば、
1(1)(2)
多くの人に福音、教会のことを知っていただけるように、このホームページやフェイスブックでの発信に取り組んでいます。
2(2)
組織の見直し、コミュニケーションの強化のため、宮﨑神父様がわたしたちひとりひとりのことを良く見て考えてくださっています。
3(3)
久留米教会では、毎月第4日曜日に教会委員会を開催していますが、フィリピンコミュニティとベトナムコミュニティの代表者も参加し、活動報告や神父様への要望・提案事項を積極的に発言してくれます。

3(1)青年たちの活動を支援、3(2)青少年の召命のための取り組みは、今後の大きな課題です。

「出向く、交わる、開かれた」久留米教会であるよう、これからも行動していきたいと、心を新たにできる冊子でした。

アウグスティヌスの格言にあるように、
神なくしてわたしたちはなく、わたしたちなくしては神はありません。

わたしたちが神様の業を待つのではなく、神様がわたしたちの行動を待っているのです。

 ***

「主の復活の8日間」と呼ばれる、復活後の8日間は、復活祭の喜びとともに続く、わたしたちの新しい約束の日々です。 

ルカに書かれているエマオ途上の顕現物語は、初代教会の間で数年にわたって熟成して形作られた、「信仰の旅路」という主題を表すための譬えなのだそうです。 

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
(ルカ24・13~35)

クレオパたちの体験が史実であるかどうかは、この場合、全く問題ではありません。
ルカはこの譬えで、信仰の在り方について暗示しています。

・イエス様は聖書の意味を分かり易く説明します。
・パンが裂かれるときに、復活のイエス様を体験することができます。
・気づかなくても、復活されたイエス様はわたしたちと旅路を共にしています。
・わたしたちには、復活されたイエス様が「分かった」という体験があります。

 

イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(ヨハネ20・20)

トマスは、復活したイエス様に直接会いたかったのです。
そして、イエス様はトマスを責めているのではなく、復活したイエス様を直接見ることがない者も同様に幸いである、という教えなのです。

 

福音書に書かれている数多くの譬えは、実際に起きたことかどうかは別として、そのことが示す意義、真理を理解する必要があります。

この二つの譬えは、復活の信仰とはなにかを物語っています。

聖書を説き、食事をともにすることで、生前のイエス様がおっしゃったこと、なさったことに立ち戻りなさいと言うこと、つまり、教えの原点に戻ることを説いています。

ガリラヤに行きなさい、そこで会える。
ガリラヤにおられたころ、あなた方に仰せになったことを思い出しなさい。

この「ガリラヤ」は、イエス様の教えの原点の象徴なのです。

復活したイエス様に会ったことのないわたしたちが信じる「復活」とはなにか。

亡くなられたイエス様が、いつもわたしたちの中に今も生きておられることを実感するのが復活の信仰です。

 

復活祭が終わり、一年で最も大切なミサが終わった、と思って過ごしてしまうかもしれません。

そうではなく、それぞれが復活の信仰についてよく思いを巡らせ、神様との約束を新たに思い起こして再び歩みはじめる、今はその大切な時なのです。

 

 

わたしたちの宣教

イエス様が十字架刑に処せられた日は、教会の暦では最も厳粛な日です。
英語では、「グッドフライデー」と言います。
ギリシャ教会では「聖く大いなる金曜日」、ドイツ語では「嘆きの金曜日」「神の金曜日」などという言い方をするようです。
そして、罪と死に勝利した主イエス・キリストを記念するのが復活祭(イースター)です。

凄惨な金曜日の事件に対して「良い」という形容詞をあてることに、キリスト者はほとんど疑問を感じません。
イエスの死がどれほど悲惨なものでも、それを通して世の贖いが達成されたのだという、何世紀にもわたる教会の確信が、金曜日を肯定的に表現する理由として考えられます。
(「イエス最後の一週間」より抜粋)


「その勝利は罪と死に対してであり、誰かに対してではない。
それなのに、今日、戦争がある。なぜこの世の方法で勝とうとするのか、それは敗北をもたらすだけだ。

なぜ神が勝つままにしないのか。

キリストはわたしたちを悪の支配から解放するために十字架を背負われた。
キリストはいのちと愛と平和が統治するために十字架上で死なれた」

4/10バチカンでの教皇フランシスコのお説教より

 

イエス様の死は『贖罪のための代理死』である、という考え方はキリスト教信者にとっては一般に浸透しているものですが、この概念が一般化するのは1000年ほど経ってからのことでした。

一番最初に福音書を書いたマルコは、イエス様の死を代理死ではなく、「権力者による処刑」と捉えています。
そして同時に、暗闇が地を覆い、神殿の幕が裂けたことを、神殿と神殿権力者たちへの裁きの象徴として表現したのです。

マルコによる福音書10・45の記述から、イエス様の死を罪の対価、代理死であると解釈できるかもしれません。

「人の子は仕えられるためだけではなく仕えるために、
また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

ギリシャ語の原文でこの「身代金」にあたる単語は、捕虜や奴隷を開放する代償金を指しています。
つまり、この文章は「束縛から人々を解放するという大義のために自らの命を投げ出した」ことを意味するのだそうです。

そう理解して、上述の教皇様のお説教の文章を読み直してみると、とてもスッキリと心に響いてきます。

 

 

ご復活のミサは、アベイヤ司教様が司式してくださいました。
11名の子どもたちの洗礼式も執り行われ、ご復活の喜びとともに、将来の希望が誕生しました。

お説教で、「福岡に来て2年になりました。その間ずっと、コロナと一緒です。
わたしたちは、“できること“をしなければなりません。
“できないこと“ではなく、 具体的に行動することが大切なのです。」とお話しされました。

そして、この2年かけて準備され、わたしたち信徒に広く意見を聞いて作り上げられた宣教司牧方針の冊子を配ってくださいました。

 

イエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。
(使徒言行録10・42~43)

わたしたちキリスト者にとって、宣教は重要な務めです。

各自の置かれた立場に応じ、自らの生き方を通して周囲にお恵みを与えることができますように。

子どもたちのためにも、豊かな教会共同体を共につくり、守り、育てていきましょう。 

 

昨年の4月に書いた記事も、ぜひもう一度読んでいただきたいと思います。

「復活」による変化

 

 

これまで、これからの日々

マルコによる福音書は、イエス様の最後の一週間を一日ごとに追って、日記的に描写しています。

そして、マルコだけが、日曜日、月曜日、木曜日の朝と夕の出来事を詳細に語っていて、ローマ軍の時間区分と同じ、3時間ごとに金曜日の出来事を追って書いています。

マルコ福音書が書かれたのは、エルサレム神殿が崩壊したころです。
神殿の崩壊によって、当時のユダヤ教のあり方が一変しました。
ユダヤ人は供儀を捧げる場所を失い、祭司職の役割は薄れ、ユダヤ教の中心は聖典と会堂へと移行しました。

神殿崩壊、つまり戦時下に書かれたこの福音書では、その時代背景もあってエルサレムが中心的な役割を果たしています。

書かれた当時、AD1世紀の教会にとって、十字架は2つの意味を持っていました。

ひとつは、ローマ帝国による処刑。
もうひとつは、死と復活につながる生き様=古い命に対して死んで新しい命にいたる道、の象徴です。

マルコとパウロ書簡では、十字架を新生(新しく生まれ変わる、生き方を刷新する)への道と捉えています。

 

そして、これはとても大切なことですのでしっかりと理解しておきたいのは、イエス様の十字架刑の原因である衝突についてです。
イエス様とユダヤ教の衝突と安易にとらえていた過去の歴史が、その後のユダヤ人迫害へとつながっていったことはご存じのとおりです。

イエス様の声は、当時のユダヤ人たちが発した声のひとつであり、神の名を用いて正当化された支配構造への抵抗、ユダヤ教の神に対する敬神の思いを訴えるものだったのです。

 

棕櫚の聖日に神殿に集う熱狂的な群衆と、その後の数日間の出来事を時系列で追って理解することで、イエス様の死とご復活の意味をより深く正しく捉えることができます。

聖週間の1日1日を噛みしめながら、大切に日々を歩みましょう。

 

日曜日(11・1,11)
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。
・・・
二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。
いと高きところに、ホサナ。」

月曜日(11・12,19)
『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった。

火曜日(11・20)
「神を信じなさい。はっきり言っておく。
だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになる。
また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。
そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

水曜日(14・1)
さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。
彼らは、「民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

木曜日(14・12,17
除酵祭の第一日、すなわち過越の子羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
・・・
弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。

金曜日(15・1,22)
夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
・・・
そして、イエスをゴルゴタという所に連れて行った。
没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。

土曜日(15・42~43)
すでに夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身のヨセフが、思い切ってピラトのもとへ行き、イエスの遺体の引き取りを願い出た。
この人は高名な議員であり、自らも神の国を待ち望んでいた人であった。

日曜日(16・1~8)
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
・・・
若者は言った。「驚くことはない、あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。
さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われた通り、そこでお目にかかれる』と。 

 

 

春は、イエス様の足跡を振り返る季節です。

この春を、新しい環境で迎えた方も多いかと思います。

これまでの日々に思いを馳せながら、同時に、これからの新しい人生に不安や戸惑い・期待と希望といった思いが絡み合う、そんな季節でもあります。

 

4月から、ホン・チャン・キ神学生が司牧実習に来てくださっています。
韓国出身の、神学校3年生です。

意外と、おちゃめな一面がある49歳です。

 

船津神父様は、もうすぐローマへ旅立たれます。
久留米教会で司祭叙階式を終えられた時のお写真です。

この笑顔にはいつも癒され、心が和みます。

 

久留米教会に2017年まで赴任していらした森山神父様が、6月から大分教区に司教として着座されることが先日発表されました。
ガリラヤ湖で、小魚に足をつつかれて喜んでいらした時のお写真です。

「司教様」というと、なにか遠い、恐れ多い存在のように感じてしまいますが、こうした笑顔を思い出すと「同じキリスト者」でいらっしゃるのだ、とじわじわと感じます。

 

ホン神学生、船津神父様、森山新司教様へお祈りを贈りましょう。
わたしたちが心をこめて力強く祈り続け、多くの祈りに支えられながら、これからの日々を強く歩むことができますように。

 

信仰のセンス

長年、教会でお付き合いのある方で、いつかゆっくりお話ししてみたい、と思っている方がいました。
毎週のようにミサの時に言葉を交わしてはきたものの、お互いのことを知っているような知らないような関係でした。

コロナ禍になってから、ご家庭の事情でなかなかお目にかかれなくなっていたので、先日お宅を訪問してお話してきました。

 

自分はこれまで、こういう風に生きてきました

今は、こんな風に生きています

将来は、こういう風に生きたいと思っています

 

その方は、ご自分の人生を話してくださいました。

人に、これまで・今・これからの自分について語ることができますか?

「こうありたい」という理想を語ることはできても、「こういう風に生きよう」という決意を心に持つことは素晴らしい、羨ましい、わたしにはまだ出来てない、と思ったのです。

 

「わたしの父は今もなお働いておられる。
だから、わたしも働くのだ。」
(ヨハネ5・17)

以前書いたことがありますが、ある神父様が、亡くなられたお父様の葬儀ミサがきっかけで、それまで教会から離れていた兄弟がまたミサに足を運ぶようになったこと、「父は今もなお働いている」と感じた、とお話しくださいました。

そして、わたしも、仕事などで困難にぶつかり、それが良い方向に変化していくのを感じる度に「母が今もなお働いている」と強く感じるのです。

 

わたしは自分では何もできない。
ただ、父から聞くままに裁く。
わたしの裁きは正しい。
わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。
(ヨハネ5・30)

困難な状況を克服した時、いつも思います。

「わたしが解決に導いたのではない。
神様が言われることを聞いて、そのように行おうと努めることができた。」

神様と母ばかりを働かせて、わたし自身の働きが弱いのかもしれない、と冒頭の方と話していて感じたのです。
「神頼み」「母頼み」になりすぎています。

わたしが今日あるのは神の恵みによることであり、そして、わたしに対する神の恵みは無駄にはなりませんでした。
それどころか、わたしは使徒の誰よりも多くほねをおって働きました。
わたしが、というより、神の恵みがわたしとともにあって働いていたのですが・・・・。
(1コリント15・10)

その方は、年齢的には大先輩であり、当然わたしよりもずっと色々な経験をされ、今も決して楽な日々ではないはずなのに、ご自分のこれまで・今・将来について話されるときの表情はイキイキと輝いていました。

だから、わたしも働く
神様の御心を行う

その方のお話の中には、この2つの言葉が散りばめられていたと感じました。

「信仰のセンス」と言う言葉について、以前、聖書研究会で教わりました。

◆聖霊によって与えられた、神からの霊的な事柄を感じる能力
◆神からの救いへの働きかけを感じ取り、受け入れる能力
◆日々の生活の中で、神、キリストの永遠の救いについて、自分なりの考えを見出す能力

こうした意味を持つ言葉で、信者個人の生き方で表されるものです。

その方は、抜群の信仰のセンスを持ち合わせた方だ、と、初めてじっくりとお話を伺ってわかりました。


決勝点への邁進
わたしは、そこへ、すでに到達したわけでも、自分がすでに完全なものになったわけでもないので、目指すものをしっかり捕えようと、ひたすら努めています。
このために、わたしはキリスト・イエスに捕らえられたのです。
ただ一つのこと、すなわち、後ろのことを忘れて前のことに全身を傾け、目標を目指してひたすら努め、キリスト・イエスに結ばせることによって、神が、わたしたちを上へ招き、与えてくださる賞を得ようとしているのです。
ですから、わたしたち信仰に成熟した者はみな、このことを念頭に置きましょう。
何はともあれ、ここまでたどりついた道を歩み続けましょう。
(フィリピ3・12~16)

「ただ一つのこと」は、新共同訳では「なすべきことはただ一つ」となっています。

前に書いたキーワードのように、「信仰はいつも発展途上」ですから、わたしたちはどんなに熱心に祈り、毎週ミサに与っていても、完全なものではありません。

目指すもの、とは、この世での生活においても必要なものです。

信仰のセンスを磨き、この世での目指す目標、神様が与えてくださる賞を目指して、自分の生き方を人に話すことのできるキリスト者になりたい、そう思った週でした。

 

キリストを知り、その復活の力を知り、また、キリストの苦しみにあずかることを知って、ますます、キリストの死に様を身に帯び、何とかして、死者の中から復活するまでに漕ぎつけたいものです。
(フィリピ3・10~11)

 

 

神様はゆるす方

ウクライナのことを思わない日はありません。
「ロシアによるウクライナ侵攻」ではなく、戦況はロシアvs西側諸国の様相に変わったかのようです。
ウクライナの街が破壊され多くの市民が亡くなっていることは、惨く、信じられないことですが、ロシアの戦艦が破壊されて激しく燃え盛る様子を見て、良かった、とは決して思えません。

教皇様は、3月25日のお告げの日にバチカンでミサをささげられました。
そしてその中で、ウクライナとロシアを聖母マリアに奉献されたのです。

 

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。
我々は御前に生きる。
我々は主を知ろう。
主を知ることを追い求めよう。
主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。」
(ホセア6・1~3)

 

自分が正しい。
わたしは間違っていない。
あの人の考え方はおかしい。

よく言えば正義感が強くもあり、わたしの欠点である「自分の主張を押し付ける言い方」をして、また人を傷つけてしまいました。
「あんな風に言われて、残念な気持ちになりました。」とメッセージが来るまで、そのことに気づかなかった自分が嫌になりました。
この一週間、その罪の意識がわたしを覆い、ずっと後悔の念に苛まれて過ごしてしまいました。 

 

わたしたちは、言葉をとおして偏見を育てたり、隔ての壁を築いたり、さらには相手を攻撃し、破壊してしまうことさえあります。
わたしたちが日ごろ使っている言葉について、問い直してみましょう。
その言葉は、配慮や尊重、理解や寄り添いを表すものでしょうか、それとも自分をひけらかすためのものでしょうか。
柔和さを持って話していますか?
それとも批判や嘆きや攻撃性で、世の中に毒をまいているのでしょうか。
神がその謙虚さを顧みたおとめマリアが、わたしたちが眼差しと話し方を清められるよう助けてくださいますように。
2/27教皇フランシスコ お告げの祈りでの説教より

 

そんな時に、この教皇様のお説教の言葉を読み、ますます落ち込んだまま日曜日のミサに与りました。

 

「素直に、心から悔い改め、感謝して正直に信仰に生きましょう。
神様は罰する、怒る神ではありません。
ゆるす神です。
両手を広げて、父の愛、母の愛でわたしたちを受け入れ、 ゆるしてくださいます。」

宮﨑神父様がお説教でこう言われ、わたしの心も救われました。

 

 

そのとき、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスは次のたとえを話された。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。

ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
(ルカ18・9~14)

時々、わたしはファリサイ派の人のようです。
「わたしは熱心な信者です。
わたしは一生懸命に役割に取り組んでいます。
褒めてください!」
そういう気持ちが湧き上がってきて、自己満足している自分が嫌になることがあります。

でも今日は、徴税人のように素直になって、正直に信仰に生きるものとなるよう努めよう!
そう、決意を新たにできた気分です。

わたしの罪は赦された、と(勝手に)感じた日曜日でした!

・・・・・・・・・・・・・・・・

「ロシアとウクライナをマリアの汚れなきみ心に奉献する祈り」

 わたしたちはあなたにより頼み、あなたのみ心の扉をたたきます。
あなたは、愛する子であるわたしたちをいつも見守り、回心へと招いてくださいます。
この暗闇の時、わたしたちを救い、慰めに来てください。
わたしたち一人ひとりに繰り返し語ってください。
「あなたの母であるわたしが、ここにいないことがありましょうか」と。
あなたは、わたしたちの心と時代のもつれを解くことがおできになります。
わたしたちはあなたに信頼を寄せています。
とくに試練の時、あなたはわたしたちの願いを軽んじることなく、助けに来てくださると確信しています。

https://www.cbcj.catholic.jp/2022/03/24/24408/


 

信じて生きてみる

教会は古くから舟に例えられてきました。
教会とはわたしたちであり、舟はイエス様でもあります。
そして同時に、イエス様は、荒波の中を舟に揺られ続けるわたしたちのための錨でもあるのです。


わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなもの
(ヘブライ6・19)

 

この写真は、イスラエルのマグダラにある教会です。
祭壇が船の形をしているので、船の教会と呼ばれています。

奥に見えるのはガリラヤ湖です。
聖堂でミサをしていただいたときの写真です。

 

 

先日、久留米の聖マリア学院の公開講座で久留米出身の船津亮太神父様(小倉教会)の講演があり、わたしもzoomで参加しました。

福岡司教区の主日の音声説教でも、船津神父様はいつも「誰にでも分かり易く」を心がけてお話されている、と伺ったことがあります。

公開講座のテーマは「コロナ禍をよりよく生きる」

聖書のことばだけでなく、映像を使って具体的にイメージできるように工夫してくださっていて、神父様の考えていらっしゃることがよく理解できる講演でした。

特に印象に残っているのが、選び取るのは「生活」か「人生」か、というくだりです。

生活を重視するならば、安穏で波風の立たないように日々を生きることを重視しながらも、あくせくと自分の毎日を切り盛りして過ごすことになる。
人生を重視するならば、情熱を持って理想へと日々邁進し、超越者(神)がわたしを動かし生かしているのだと理解することができる。

主体を自分に置くか、神に置くか。

コロナ禍、「生活」を失ってその大切さを誰もが痛感したが、わたしたちが選び取るべきは「人生」である。

大きな時間軸の中で今を捉えること。

束の間の「生活」のなかに与えられた神の賜物に感謝し、
神の導きに応える「人生」を選び取っていく。

生活を大切に生きることは当たり前のことであり、わたしたちは信じて生きる「人生」を歩まねばならないのだ、ということなのでしょう。

船津神父様は、臨床心理士として働かれていた時に運命的な出会いにより召命を受けられました。

「今だったら、このまま働いていたい気持ちと、神学校に入りたい気持ちが半々です」と迷われていたそうです。
「半々なら、神学校に入ろう」と背中を押され、司祭を目指す道へと入られました。

信仰をもつわたしたちの人生は、自分以外の誰かに突き動かされて生かされていく日々です。

神様への信頼に根差したこの人生は、神様の呼びかけに応える「召命」の道と呼応するものだ、と船津神父様のお話にありました。

 

わたしは乾いている地に水を注ぎ
乾いた土地に流れを与える。
あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
あなたの末にわたしの祝福を与える。
彼らは草の生い茂る中に芽生え
水のほとりの柳のように育つ。
(イザヤ44・3~4)

信じる、というのは、信じて生きてみること。
そして、信仰というものはすでに完成したものとして持つものではなく、いつも発展途上にあるもの。

これは、手帳に走り書きしていたのでどなたのお言葉だったか分からないのですが、「信じて生きてみる」「信仰はいつも発展途上」というキーワードが気に入っています。

信じて生きる人生とは、イエス様を信じて皆で共に同じ舟に乗る、ということでしょう。

 

春の乾いた土地が、雨で潤されて新芽が芽吹くように。
茶色だった大地が、いつの間にか生い茂る草に覆われ緑に変わっていくように。

わたしたちの信仰は、特にこの春の四旬節の間に大きく育つように思います。
信じて生きてみよう、とこの季節は気持ちを新たにするよい機会です。

御復活祭の時に洗礼式が執り行われるのは、確かに最高のタイミングです。


船津神父様に続く召命が、久留米の少年たちにいつか降りてきますように。

 

 

 

行う人

311について思いを馳せる日々でした。

西日本新聞の3/10の朝刊には、当時の釜石の子どもたちが11年後の今、当時を振り返って取材に答えた特集が組まれていました。

お読みになっていない方は、ぜひ読んでみてください。

心にずっと刺さった、棘のような「後悔」や「罪の意識」のような気持ちを吐き出すように語った、20代になった人たちの声にいろいろなことを考えさせられました。

地震や津波での被害だけではなく、まだ苦しんでいる人が多くいる現実を再認識することができました。

 

以前ここに書いたことのある、ある支援している方に久しぶりに電話をしてみました。
久しぶりだったからか、溜まっていたのであろう言いたいことや現状への不満を爆発させて、ガチャっと電話を切られてしまいました。
施設の方に再度電話してお話を伺ったら「自分のことをかまってくれる、気にかけてくれる人がいて、本当は嬉しかったのだと思いますよ。」と言っていただきました。

この方も、釜石の方々も、 自分の中に溜め込んでいる思いを思いっきり伝え、聞いてもらえる人がいる、と言うことがどれほどの救いになるか。

わたしもその相手になることができれば、と思うのです。

 

ヤコブの手紙は、短い中にも深く、理解しやすいことばでわたしたちの心に迫ってくるものがあり、とても好きな書簡です。

試練を耐え忍ぶ人は幸いです。
その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。
神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。

御言葉を行う人になりなさい。
自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。
このような人は、その行いによって幸せになります。
自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。
(ヤコブ1・12~27)

 

「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
(ヤコブ2・26)

 

「行う人」でありたい。

役割をいただいているので、毎週ミサに参列させていただいています。
ミサに与ることそのものではなく、教会で出会うすべての皆さんとあいさつを交わすことが、わたしの一週間で一番の喜びになっています。

わたしにとって「行い」は、自分の至らないところを補うように物事を実践し、人に関わることで実現しています。
少なくとも、そう思っています。
良く行えているかどうかはわかりませんが、人付き合いが得意ではないわたしが、こうしてミサ前に聖堂入り口で毎週皆さんをお迎えする役割をいただけていることで、行おうと努めています。

今朝は、先週転勤してこられたばかりというシスターを、満席だったのに偶然空いたお席にご案内することができました。
「初めて久留米教会に来たのに席がなくて、それなのにあなたに案内してもらえて嬉しかったわ!」
そう言ってくださり、少し色々とお話しさせていただく機会となりました。

清々しい、嬉しい日曜日の朝を過ごすことができました。

 

キリスト教の最もすばらしいところのひとつは、神が私達に、過去が何であっても常に、新しい人生をやり直させてくださることだと思います。
神さまが私たちを罪に定めないでいるのに、私たちが自分をもうだめだと、罪に定める理由はないでしょう。
友達や隣人を罪に定めるのは、もっといけないのではないでしょうか。
希望と愛を持って、いつも、助け合い、前を向いて生きていきたいと思います。

聖書学者・本多峰子さんの福音宣教3月号の記事に、このように書いてありました。

この視点は、当たり前のことのようであって、当然のこととして現実に認識できていないことのように思います。

改めて文章で読み、心が救われた気がしました。

 

カリタスジャパンでは、「ウクライナ危機人道支援」緊急募金の受付が行われています。
郵便局、銀行、クレジットカード決済のいずれかを選択できます。

ぜひ、ご検討ください。

https://www.caritas.jp/2022/03/04/4997/

亡くなられたウクライナの市民、軍人、そしてロシアの軍人たちのために、魂の平安を祈ります。

 

いつも「ここにいる」

黄砂や花粉が飛び始めても、久留米の空はエルサレムのように澄み渡っています。

新緑の力強さが感じられる四旬節が始まりました。

.

イエス様は、神から『わたしの愛する子、わたしのこころに叶うもの』と言われたのちすぐに悪魔の試みにあわれました。

「神様から愛され、我が子とまで呼ばれたのに、なぜ試されたのでしょうか。」
森山神父さまに質問してみました。

「イエス様もひとりの人間です。
わたしたちと同じように、苦しんだり悲しんだりする存在です。
人間とは、とかく独りよがり、自己中心に陥りがちで、神への信頼を忘れてしまいます。
旧約の民がそうであったように、イエス様でさえ、神にイニシアティブがあることを徹底的に教えられたのです。
わたしたち人間への徴として、イエス様にも試練が与えられたのです。」

6日のごミサのお説教では、宮﨑神父様がこうおっしゃいました。

「四旬節の四十日、四十年といった数字は、永遠の命への準備期間の象徴であり、わたしたちの人生そのものを指しているとも言えるでしょう。
人生では当然、試されたり試練に遭うこともあります。
イエス様も霊によって守られたのですから、どのような時も聖霊の導きに委ねるのです。」

 

わたしたちは、何か困難に遭った時にそれを「神からの試練」とはすぐに捉えられないものです。
苦しい時間を過ごし、神様に祈りながら(時には神様に文句も言いながら)時間の経過を耐え、物事が好転したり気持ちが落ち着いて後、「あぁ、あれは与えられた試練だったのだ」と振り返ることができるものでしょう。

その時のために、あらためて常に心に刻んでおかなければならないと、気持ちが引き締まりました。

今のわたしは、本当の永遠の命を得るために多くの試練を乗り越える必要があること、聖霊がいつもともにいてくださること。

 

悪魔はあらゆる試みを終えると、定められた時までイエスを離れた。
(ルカ4・13)

フランシスコ会訳聖書の注釈にはこうあります。

[「定められた時」はイエスの受難の時を指す。
その時には、悪魔はユダヤ祭司長や長老たちを使って、イエスに対して最後の攻撃を行う。]

マタイとマルコの並行箇所は、次のように書かれています。

そこで、悪魔はイエスから離れた。
すると、み使いたちが現れ、イエスに仕えた。
(マタイ4・11)

イエスは四十日の間そこに留まり、サタンによって試みられ、野獣とともにおられたが、み使いたちがイエスに仕えていた。
(マルコ1・13)

答唱詩編の詩編91・11〜12がこの箇所の根拠です。

神があなたのために使いに命じ、
あなたの進むすべての道を守られる。
神の使いは手であなたを支える。

「あなた」とは、わたしたちのことであると捉えると、とても心強く響いてきます。

 

お前たちの中の誰が、主を畏れ、その僕の声に聞き従うのか。
明かりを持たずに暗闇を歩いて、
なお主の名に信頼し、自分の神に頼るのか。
(イザヤ50・10)

まことに、お前たちの手は血で、指は悪行で汚れ、
唇は偽りを語り、舌は邪なことを発する。
彼らの働きは不正な働き、手にあるのは暴力。
彼らの足は悪に走り、罪なき者の血を流そうと急ぐ。
彼らの思いは不正の思い、その行く道にあるのは荒廃と破壊。
平和の道を彼らは知らず、巡りゆくその道筋に公正はない。
彼らは自分の行く道を曲げ、その道を歩む者は誰も平和を知らない。
(イザヤ59・3~8)

去年の今ごろは何が起きていただろう、と思い、気になった記事などをファイリングしているものを開いてみました。

ちょうどこの頃、パパ様はイラクを訪問されていました。
過激派組織によって長年苦しみ、宗教的にも政治的にも混乱が続くイラクへの教皇の歴史的な訪問は、冷ややかな姿勢で報道されました。

一昨年のこの頃には、イタリアで新型コロナウィルスが猛威を震い、多くの司祭・修道者が感染者に寄り添うために出かけて行き、命を落としました。

いつも世界のどこかで、想像を絶する苦難や試練に遭っている人がいるのです。

ローマ教皇というお立場は、平和の象徴でもあると思っています。
わたしたちは、いつも困難に遭っている人々に寄り添われる教皇様を信頼し、その言動から神様がいつもそばにいてくださることを感じることができます。

 

 この四旬節の間、食を断つ意味ではなく、本来の「断食」を続けましょう。

 「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
(ローマ10・8~13) 

わたしは、わたしを尋ね求めなかった者にわたしを追い求めさせた。
わたしは、わたしを捜さなかった者にわたしを見出させた。
わたしは、わたしの名を呼ばなかった国に向かって、
『わたしはここにいる、わたしはここにいる』と言った。
(イザヤ65・1)

いないのは神様ではなく、人の心なのだ、ということです。

神様はいつも「ここにいるよ」と寄り添ってくださっていることを、誰もが忘れないように。

 

「断食」という言葉の本来の意味は、次のイザヤ書の言葉の通りである、と以前教わりました。

これこそ、わたしが選ぶ断食ではないのか。
不正の鎖を解き、軛の結び目を解き、
虐げられた人を開放して自由の身にし、
軛をすべて、打ち砕くこと。
飢える人にお前のパンを分かち与え、
家のない貧しい人々に宿を与え、
裸を見れば、着物を着せ、
お前の同胞に対して見て見ぬふりをしないこと。

その時、お前の光は暁のように輝き出で、
お前の癒しは速やかに生じる。
お前の正しさがお前の先を行き、
主の栄光が背後の守りとなる。
その時、お前が呼べば、主は応え、
叫べば、『わたしはここにいる』と仰せになる。
もし、お前の中から軛を除き、
指をさすことや中傷をせず、
飢える者のために尽くし、
虐げられる者の必要を満たすなら、
お前の光は闇の中に輝き出で、
お前の暗闇は真昼のようになる。
(イザヤ58・6~10)

2022年の四旬節を、断食の祈りと共に過ごしましょう。

 

希望の火

天皇陛下は、62歳の誕生日に際してのお言葉で、コロナ禍に対し「支え合う努力を続けることにより、この厳しい現状を忍耐強く乗り越えていくことができる」とおっしゃいました。
また、「つながりを大切にしながら、心に希望の火を絶やさずに」と呼びかけられました。

忍耐強く、希望の火を絶やさずに。

まもなく始まる今年の四旬節を前に、困難の最中にある人々へ心を向けることの大切さを再認識したいと思います。

四旬とは、試練・苦難の象徴である数「40」を意味します。

ウクライナの人々のことを思い、苦しい気持ちで過ごしています。
まさに聖書で言うところの「荒野の40年」のような状況に置かれているのかもしれません。

旧約のイスラエルの民と重なって見えます。
バビロン捕囚で苦しみ、外国勢力による支配で迫害を受け続けた彼らは、民族の救いと、救い主の到来を忍耐強く、希望の光を絶やさずに待ち続けたのでした。

40年という数字は、文字通りの年月ではなく、試練・苦難の象徴として使われます。
新しい秩序に向かうための時間であり、神に出会うために必要な時を表す数字です。

 

 

 

四旬節の教皇様のメッセージを皆様もお読みになったことでしょう。

「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」(ヨハネ4・37)

他の人のために良い種を蒔きなさい。

この回心の時に、神の恵みと教会での交わりに支えを得て、たゆまずよい種を蒔きましょう。
断食は地を整え、祈りは地を潤し、愛は地を実らせます。

断食と祈りは一人でもできます。
それに比べ、地を実らせるための愛の実践はなんと難しいことでしょうか。

人のために良い種を蒔く、とはどういうことでしょう。


わたしはあなた方を遣わした。
自分で苦労しなかったものを、あなた方に刈り取らせるためである。
ほかの人々が苦労して、あなた方はその労苦のお陰を被っている。
(ヨハネ4・38)


種蒔く者に、種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなた方に蒔く種を与え、増やし、また、あなた方の慈しみが結ぶ実をますます大きくさせてくださいます
(2コリント9・10)

 
わたしたちの人生全体が良い種を蒔く時だ、と教えてくださっています。

今日わたしたちが出会った人に、キリストの香りを振りまくことができたでしょうか。


霊という畑に種を蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
倦まず弛まず善を行いましょう。
飽きずに励めば、時が来たとき、わたしたちは刈り取ることになります。
(ガラテヤ6・9)

わたしたちの日々の行いは、すべて種を蒔く行為なのだ、と考えることができます。

その言動は、良い実を結ぶのか。

いつもそう考えて人に接し、言葉を発する、とても難しいことかもしれませんが、少なくとも「あんなことを言わなければよかった」「もっと優しくすればよかった」などといった後悔の気持ちからは解放されます。

先日の宮﨑神父様のお説教にあったように、「教会に来て神父や信者の悪口を言うような日曜日を送ってはならない」のです。

 

荒野の40年は、あの時のイスラエルの民には必要な犠牲だったかもしれません。
ですが、今のウクライナが置かれている状況は耐えるべき苦難とは言い難いものです。

アメリカとドイツが、ウクライナへ地対空ミサイルや戦車といった武器の提供を決定した、と報道がありましたが、それは決して良い種ではないと思います。

ウクライナ正教会は、ロシア正教会から分離独立したという経緯があります。
宗派は違えど、キリスト教の教えを汲む東方正教会の一員である、ロシア正教とウクライナ正教。

少なくとも、多くのウクライナ人、ロシア人がキリスト者であるという事実も忘れてはならないでしょう。

宗教的にも政治的にも、自分が正しい、という驕りは良い実を結ぶ考え方ではありません。

経済制裁で直接的に影響を受けて苦しむのは、ロシアの一般国民です。

何が解決法なのか。

ウクライナの人々が希望の火を失わないように、全身全霊で祈ること、今わたしたちにできるのはこれしかありません。

犠牲になった人々、今困難の中にあるウクライナの人々、リーダーの行動のために不本意な迫害を受けているロシアの人々のために祈りを捧げることに注力するときです。

倦まず弛まず、飽きずに、世界中のキリスト者が一丸となって祈り続けるのです。

宮﨑神父様もおっしゃっていました、「ロザリオの祈りは世界を変える力を持っている」と。

 

教皇フランシスコは、ウクライナにおける状況に深い悲しみを表明され、次のように呼び掛けられています。

「信者の皆さん、そうでない皆さん、すべての人に呼びかけます。
暴力の悪魔的な無分別さに対して、神の武器、すなわち、祈りと断食をもって答えることをイエスは教えました。

来る3月2日、「灰の水曜日」を、平和のための断食の日とするよう皆さんにお願いいたします

特に信者の皆さんが、その日を祈りと断食に熱心に捧げるよう励ましたいと思います。
平和の元后マリアが、世界を戦争の狂気から守ってくださいますように。」

 

奇跡物語が語るもの

中庭の春の装いが、小雪の舞うなかとても美しい日曜日でした。

宮﨑神父様のお説教にとても心を打たれました。
「ウクライナのために祈っていますか?」と問われ、気になってはいるものの、それは「戦争が始まるかも」というニュースとしてに過ぎなかった自分が恥ずかしくなりました。

遠い国のニュースではなく、隣人が戦争と隣り合わせの現実に直面していることを忘れずに、みなさん祈りましょう。

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マタイ、マルコ、ルカの3つの共観福音書には、同じ出来事や教えが書かれている箇所があります。
福音書を読んでいると、注釈でその並行箇所が示されているので、同じ話を他の2人も書いていることを知ることが出来ます。

全く同じエピソードが、福音記者によっては詳しく書かれていたり、短かったり、時には全く違った趣旨で書かれていることがあります。

話の大筋はだいたい同じなのですが、当然3人にはそれぞれに伝えたいポイントがあって、よく読むとわたしたちに訴えていることが違うことが分かります。

エリコの盲人、バルテマイが癒される奇跡物語があります。

(その道の)道端に座っていたバルテマイという盲目の物乞いが、何度黙らせようとされても「ダビデの子イエスさま、わたくしをあわれんでください」と叫び続けます。
イエスが「何をわたしにしてもらいたいのか」とお尋ねになると、盲人は、「先生、見えるようにしてください」と言った。
そこでイエスは仰せになった。
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。
するとたちまち、盲目の人は見えるようになり、(その道を)イエスに従った
(マルコ10・46~52)

 

イエスは立ちどまり、彼らを呼んで、「何をしてもらいたいのか」とお尋ねになった。
二人は「主よ、わたくしたちの目を開けてください」と言った。
イエスは哀れに思い、その目に手をお触れになると、彼らはすぐに見えるようになった。
そして、イエスについて行った。
(マタイ20・29~34)

 

そこで、イエスが「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と仰せになった。
すると、盲人はたちどころに見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスについて行った。
これをみて、民は皆、神を賛美した
(ルカ18・35~43)

 

3人の福音記者たちの意図はそれぞれ違うところにある、と雨宮神父様の本にあります。

マルコ
■「見えるようにしてください」と、物事を見抜く視力の回復が願われている。
■(その道の)という言葉が本来のギリシャ語原文には書かれていて、エルサレムに向かう途上で盲人に会っている。
■奇跡そのものよりも、イエスに叫んだ者が十字架への道=苦難を通って救いへと至る道に招き込まれたことを表現。
■わたしたち読者にも、どうすればイエスによる救いの道へ入れるのかを教えている。

 

マタイ
■「目を開けてください」と、ごく実質的な願いがなされている。
■盲人の目が開かれた、という奇跡物語を語ることに主眼がある。

 

ルカ
■奇跡を通して働く神の力への賛美。
■イエスが神として顕現し、叫び求める者に救いを与えるという教え。


『なぜ聖書は奇跡物語を語るのか』
 雨宮 慧 神父 著より


ひとりで聖書を開いても、ここまで深く意図を読み取ることはできません。
この本を読んで、まさにわたしも「目が開かれた」気持ちです。

 

聖書は、歴史的な出来事を客観的に書いている本ではない、ということはご存じのとおりです。

聖書を書いた人々が伝えたかったのは、その出来事の背後にひそんでいた意味なのだ、と雨宮神父様が書いておられます。

「そして、聖書が出来事を叙述するとき、詩や戯曲の表現方法を駆使し、シンボルや詩的表現を使って把握した意味を伝えようとしています。
イメージを限りなく広げる言葉が好まれるのです。読むほうもそのつもりで読む必要があります。」

 

歴史書は出来事を正確に客観的に叙述して真理を追求するに対して、新約聖書は復活体験が根本になって、知りえた真理からさかのぼって出来事をとらえているのです。

イエス様が行われた奇跡に立ち会った弟子たちでさえ、その時にはその本来の意味を理解できていなかったのす。

復活体験によってイエス様の神性を知り、宣教活動を通してその真理を理解した彼らは、そのことを以前の出来事のなかに確認しながら書き記したのです。

ですから当然、一つの奇跡物語にいくつもの強調したい真理がうまれるわけです。

聖書を読む時にこのことを分かっていて読むかどうかで、心に訴えてくることが変わるはずです。

このことを踏まえたうえで以下の箇所を読んでみてください。
わたしは、以前とは違う景色が見えた気がしました。

 

「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。
覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
(マルコ8・14~21)

 

 

1人の教えと多くの努力

北京オリンピック。
高梨沙羅さんと羽生結弦くんの、本番、4年に一度の大舞台で努力の成果を存分に発揮できなかった時の悔しさ、絶望感などを想像するだけで、胸が苦しくなります。

ついこの前まで、何種類の4回転を飛べるか、を期待されていたのに、4回転半、5回転と、人間の欲は止まることを知りません。
平野歩夢さんが決めた、彼にしかできない大技も「人類史上初の試みを成功させました!」とアナウンサーが絶叫していましたね。
もっと遠くへ、もっと早くと次から次へと期待するわたしたちの欲と、高みを目指して努力する選手たちの努力には、終わりはないのかもしれません。

4年に一度のチャンス、と簡単にわたしたちは口にしますが、平野選手は「前回大会で銀メダルを獲得した後のこの4年間は苦しかった」と言っていました。

彼らにとっての4年とは、どのような時間なのか、簡単に想像できるものではありません。

 

 

わたしたちは、イエスキリストという、一人の人がその言動で示した教えを信じています。

わたしたちにとって、信じるべきはたったひとりの人間です。

そして、わたしたちが信じている教えは、彼がひとりで思いついたこと、自分だけで作り上げたものではなかったはずだということも忘れてはならないでしょう。

イエス様は、敬虔なユダヤ教徒のヨセフ様とマリア様に育てられました。
30歳で公生活を始められるまで、当然、ユダヤ教の教えに従って生活されていたはずです。

 

ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたのち、直ちにイエス様に試練が与えられます。

天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」。
霊はただちにイエスを 荒れ野に追いやった。
イエスは四十日の間そこに留まり、サタンによって試みられ、野獣とともにおられたが、み使いたちがイエスに仕えていた。
(マルコ1・11〜13)

出エジプト記のモーセたちの旅を思い起こします。
彼らは近道を通らず、紅海に沿った荒野の道を通るように神に導かれました。

主は彼らの前を行き、彼らが昼も夜も進むことができるよう、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた。
昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。
(出エジプト13・21〜22)

 

イスラエルの民は神から選ばれ約束の地を目指したものの、四十年、荒れ野をさまよったのです。
イエス様の四十日に及ぶ断食と「試みる者」=悪魔(マタイ)による誘惑のストーリーが重なって見えます。

直接的にはこの2つの箇所には関連性はないのかもしれませんが、どちらも、常に神が片時も離れずに寄り沿い、導かれていたということに心が揺さぶられます。

聖書全体を通して語られる、常に神がわたしたちと共にいてくださるという教えは、こうして旧約の流れを汲んだものなのだということを感じさせてくれます。

同じように、エレミヤたちが繰り返し「主に立ち返れ」と回心を促していた旧約時代の教えを、イエス様は新しい言葉で「悔い改めなさい」と人々に問いかけられたのではないかと、以前書きました。

 

イエス様の公生活は1年半であった、とも3年近くであった、とも解釈されますが、いずれにせよほんの短期間です。

4年に一度のチャンスで成果を出すために、試練と向き合い続けているオリンピアンよりも短いのです。

イエス様は30数年の人生、というより、最後の数年で何かを成し遂げられたわけではない、というのが本当のところでしょう。

イエス様の時代に生きて直接その話を聞いたわけではないわたしたちが、今こうして信じているものはなんなのか。

ユダヤ教徒としてのご両親との慎ましい生活で育まれたイエス様の価値観をベースに、イエス様独特の言葉で語られた神への信頼、
死後の使徒たちによる命懸けの宣教、
後世の人のために文字として残され受け継がれてきた聖書という書物、
2000年以上続く後継者たちのたゆまない努力、
それらすべてがあって、わたしたちが今信じているキリスト教、イエス様の教えがあるのです。

この教えを、これからの世にも繋げていくことは、わたしたちキリスト者一人ひとりに課せられた使命でもあります。

 

 

 

 

 

 

幸福の目的

小雪が舞い、空気が澄み渡り、美しい青空を背景にしたお御堂が美しい日曜日でした。

美味しいものを食べた時、素敵なお店を見つけた時、素晴らしい映画に感動した時、わたしはいつも、誰かと分かち合いたくなります。

わたしの友人が務めている出版社の月刊誌『致知』に、古巣馨神父様の記事が掲載されました。

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彼女は、こうしたキリスト教関係の記事やわたしが好みそうな本、お菓子、文房具など、「好きそうだから」「美味しかったから」としょっちゅう送ってきてくれます。

わたしも、お礼のプレゼントを考えて送るのが楽しみです。

『美味しいものも楽しいことも、幸せは分かち合うほうがいい。』

これはわたしのモットーになっています。

 

「何をしているのか」と聞かれた3人の石工、というお話です。
一人は「これで食べている」と答え、一人は「国で一番の仕事をしている」と答え、一人は「教会を建てている」と答えました。
誰があるべき姿だと思いますか?
誰が一番幸福だと思いますか?
2番目の石工は、自分の仕事の目的を見失っています。
3番目の石工は、していることの目的、目標、使命を示したのです。


幸福になれるかどうか、それは心のレベルで決まる。
私たちがどれだけ利己的な欲望を抑え、他の人に善かれかしと願う「利他」の心を持てるかどうか、このことが幸福の鍵となる。

こう言ったのは稲盛和夫さんです。
稲盛さんは臨済宗・在家得度をされている熱心な仏教徒です。

ある友人に、「あなたが人のことを思ってあげられるのは、あなた自身に心のゆとりがあるからよ。」と言われたことがあります。

心の中のゆとりを持つだけではなく、福音を多くの人に身をもって広めたいと願うキリスト者として生きるわたしたちは、いつも幸福の目的を他者に向けるべきだと思います。

今週の朗読では、レギオンを宿していた人(悪霊に取り憑かれていた人)への奇跡物語が読まれました。
(マルコ5・1〜20)
レギオンはローマの軍隊のことですが、この場合は多数の悪霊の群団の比喩として表現され、ユダヤ人が穢れていると考えている豚の群れにに移って 溺れ死ぬ、というお話です。

奇跡物語では、いわゆる「沈黙命令」と言って、イエス様は「このことを誰にも知らせないように」とおっしゃいます。
ですがこのレギオンの場面では、「主があなたを憐れみ、あなたにどれほど大きなことを行なわれたかを、ことごとく告げなさい」と言われています。

その人は立ち去り、イエスがどれほど大きなことを自分に行ってくださったかを、デカポリス地方で宣べ伝え始めた。人々はみな驚嘆した。
(マルコ5・20)フランシスコ会訳

なぜでしょうか。

当時のユダヤ人たちを苦しめていたローマによる圧政、そのことへの勝利を意味するこのストーリーは、他者と分かち合うこと、広く知らせることに意義があったのではないでしょうか。
「あの噂のイエスに自分の中の悪霊を追い出しもてらった!すごいやろ!」と自慢して言いふらしたのではないのです。
イエス様が奇跡を行なわれた、ということ自体が強調されるのではなく、この人は「宣べ伝え始めた」のです。
福音を多くの人に知らせた、分かち合ったのではないか、そうわたしは理解しています。

 

聖書に、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」という一説があります。
神の思いを生きる人とは、「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」という教えをただ説いている人ではなく、それを生きる人のことを言います。

古巣神父様の記事に、そう書いてありました。

この記事はぜひ多くの方に読んでほしいと思い、コピーして何人かの方にお渡ししました。
(この月刊誌は書店にはなく、定期購読しなければ手に入らないのです。)

フランシスコ教皇さまは、「無関心のウィルスというもう一つのパンデミック」というたとえを度々されています。
いま、他者とのつながり、自己自身との真のつながりを回復するための格好の機会である、ともおっしゃっています。

自分が幸福であるかどうかは、他者とのつながりの中に見出すことができるものです。

自分が幸福であるかどうかは、「自分の幸福の目的は、他者の幸せを願いながら生きることだ」と実感できた時にわかります。

感動したこと、神父様方から教わったこと、学んだことをひとりでも多くの方と分かち合いたい、と思ってこうして書かせていただいていること。

これはわたしの幸せです。 

 

 

イエス様の方を向く

宮﨑神父様にゆるしの秘跡をしていただきました。

自分のおかした罪を認め、告白し、アドバイスをいただき、神様に代わって赦しをいただく。
もう同じ過ちをおかさないように、心に、そして神様に誓う。

これは、「悔い改め」なのか「回心」なのか。

南山大学の名誉教授でもあった故 浜口神父様の論文に、以下のように書かれています。

教会は最初の回心を思い起こして、再び神に立ち返る方途と機会を保持している。
それが「ゆるしの秘跡」である。
罪に陥った信者が再び神と和解することができるという神の無限の憐れみを宣言するのは、「再回心(re-conversio)」である。
真に罪を痛悔する者は、たとえその痛悔が不完全なものであっても、真にキリストに向かっているのである。

 

「改め」、だと「改心する」という言葉のように、罪を認めて心を入れ替える意味になります。
Googleで「かいしん」と検索するとわかりますが、「回心=キリスト教で神の道に心を向けること」と表示されます。

新約聖書で「悔い改め」の意味で使われるメタノイア( meta・noia /μετανοια )は、古いギリシャ語を起源とする言葉で、直訳すると「視座の転換」という意味となるそうです。


悔い改めなさい。
めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。

そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。
(使2・38~39)

また、マルコ福音書の中で最初にイエス様が口を開く場面でおっしゃった、

「時は満ち、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信じなさい」

(マルコ1・15)

この「悔い改め」にあたる単語がメタノイアです。


本田哲郎神父様は、「『時は満ち、神の国はすぐそこに来ている』から、『低みに立って見直しなさい』(メタノエイテ)という。悔い改めなさいではありません。」とおっしゃっています。

メタノイアに対応するヘブライ語はニッハムという単語で、「痛み、苦しみを共感・共有する」という意味だそうです。

「つまり、メタノイアとは、人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りに、共感・共有できるところに視座・視点を移すこと」と本田神父様の著書にあります。

 

 ムリリョ「パウロの回心」

 

以前、HPの記事に以下のように書きました。

E.P.サンダースの著書「イエス その歴史的実像に迫る」によると、
「ルカと使徒行伝の著者が悔い改めを強調することをとりわけ好んだ。
そして、それはイエス自身の教えの重要なテーマではなかった。
イエスは悔い改めに関心を持つ改革者ではなかった。」

福音書に語られる「悔い改め」の概念は、旧約時代にはもっといろいろな意味を持つ曖昧なものでした。
いくつもの単語がそれにあたるとされていますが、もっとも多く出てくるヘブライ語の単語の意味は、「道を変える」「引き返す」「立ち戻る」というものだそうです。
つまり、悪から遠ざかって神に向かう姿勢を意味し、「生き方を変えて生活全体を新しい方向に向ける」ということです。

 

エレミヤは、繰り返し「立ち返れ」と民に呼びかけています。(エレミヤ書3章)

契約の神の愛に立ち戻りなさい、と言うのです。

つまり、旧約時代の教えをイエス様の新しい言葉で問われたのが、この「悔い改めなさい」というものなのではないかと思うのです。

神の教えを確かなものとして受け入れ(アーメン)、自分の凝り固まった考え方、惰性に陥った生活、そうしたものの視点を変えなさい(回心)。
神の方に今一度、自分を向き直しなさい。
それが、「回心=悔い改め」なのだ。

そう、この一週間で学びました。

 

キリストに出会う前のサウロのように、わたしたちも方向を変え、習慣になっていることや楽な道から戻る必要があります。
それは、主がわたしたちに示される、謙遜ときょうだい愛と祈りの道を見出すためです。
1/26教皇フランシスコTwitter

 

友のために祈る

宮﨑神父様から聞かれました。

「あなたは一日にどのくらい祈りますか?」
「友のために祈っていますか?」

祈りの時間と言えるのは寝る前くらいですが、朝起きてすぐから一日中、しょっちゅう神様に話しかけるように祈っています。

でも、友だちのために祈っている、とは言えないとハッとさせられました。

『人はだれも自分ひとりだけが幸せになる権利はない。』という名言でも知られるラウル・フォレロー(1903~1977年)は、ハンセン病患者の支援と差別の撤廃に尽力したフランスの人物です。

詩人でもあった彼の、『ともに生きる恵みを願う祈り』という有名な祈りがあります。

 

主よ、教えてください。
自分だけを愛さないことを、
身内だけを愛さないことを、
仲間だけを愛さないことを。

人のことも考え、
だれからも 愛されない人を優先して愛することを。

主よ、教えてください。
わたし自身も苦しむことを、
人と共に苦しむことを。

主よ、あわれんでください。
苦しむ人々をいわれもなく退けた、このわたしをゆるしてください。
幸せをひとりじめにすることを、わたしにさせないでください。

全世界の苦悩を、わたしにも感じさせてください。
主よ、利己主義からの解放こそ、あなたはお望みになるのです。

(抜粋)

自分自身のため、家族のために祈ることは誰にでもできますが、友だち、ましてや他人のために祈るとなると、わたしは形式的な祈りになってしまっていると分かっていました。

キリスト教一致祈祷週間について2回にわたり書いてみましたが、そのさなかに神父様から冒頭の質問をされ、よく考えてみる機会となりました。

この聖週間の間、特にひとりの友人のために祈り続けています。

彼女は旦那様が病気で早くに天に召され、ひとりで2人の子どもを育てています。
家族の問題や子育ての悩みを抱えていて、わたしは聞くことしかできませんが、とにかく聞き役に徹してきました。
その彼女のために祈っています。

「多くのストレスを抱える彼女が、うまく問題と向き合い、少しでもストレスが軽くなるようお恵みをお与えください。彼女をお導きください。」

 

 

友のために祈りを続けてみて、「会って話を聞きたい」 「会いに行きたい」という気持ちを強く抱いています。

コロナ禍にあって、自由に気軽に遠方の友人に会いに行くことは躊躇われ、LINEで会話することを「話した」と錯覚し、随分あっていないのに分かってあげていると思い込んでいました。

アウグスティヌスが「神の国」でこう述べています。

憐れみとはわれわれの心のうちで他人の苦しみmiseriaを共に苦しむことcompassioであり、それによってわれわれは、もし可能であれば、助けにおもむくようにかりたてられているのである。
「憐れみ」misericordiaは、ある人が他人の苦しみについて「苦しい心」miserum corを抱く、というところから来ている。

 

最近、気に入って唱えている祈りです。

『自己からの解放』

主よ、わたしは信じきっていました。
わたしの心が愛にみなぎっていると。
でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。
わたしが愛していたのは他人ではなく、
他人の中の自分であった事実に。
主よ、わたしが自分自身から解放されますように。

主よ、わたしは思いこんでいました、
わたしは与えるべきことは何でも与えていたと。
でも、胸に手を当ててみて、真実がわかったのです。
わたしのほうこそ与えられていたのだと。
主よ、わたしが自分自身から解放されますように。

主よ、わたしは信じきっていました、
自分が貧しいものであることを。
でも、胸に手をあててみて本音に気づかされました。
実は思いあがりとねたみの心に、
わたしがふくれあがっていたことを。
主よ、わたしが自分自身から解放されますように。

主よ、お願いいたします。
わたしの中で天の国と、この世の国ぐにとがまぜこぜになってしまうとき、
あなたの中にのみ、真の幸福と力添えを見出しますように。

 

キリスト教一致祈祷週間のこの機会に、キリスト者だけでなく、もっと身近な人々のために祈りを捧げていこうと思っています。 

 

自分を試してみる

キリスト教一致祈禱週間は明日から25日までの8日間です。

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主なる神はご自分の民とともに歩み、彼らを保護し、昼も夜も見守っておられることが、聖書には何度も記されています。
道は必ずしも真っすぐとは限りません。
同じ道をたどったり、違う道を通って戻ったりするよう仕向けられることもあります。
いかし、生涯を通じて旅を続ける間中、わたしたちは「まどろむことなく、眠ることもない」神が、わたしたちの足がよろめき倒れてしまわないよう、見守ってくださると信じることができます。
(キリスト教一致祈祷週間 小冊子40ページ)

この聖週間の最終日、8日目の黙想の祈りは「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(マタイ2・12)博士たちがテーマです。

帰り道が行きと違っても、彼らの旅を照らした同じ光が別の道・別の選択肢を示したのだ、と小冊子に書かれています。

あわれみ深い神、
わたしたちが一つの道しか知らず、
同じ道を戻らなければならないと思っているときにも、
すべての道が行き詰まり、絶望しているときにも、
あなたはいつもいてくださいます。
約束を新たにされる神よ、
あなたは、わたしたちには思いもよらない道を切り開いてくださいます。
あなたに心から感謝いたします。
わたしたちの期待をはるかに超えてくださることを。
(47ページ)

 

朝起きてからのすべての行動にルーティンを設けていて、それをこなすのが好きなわたしにとって、行きと帰りの道が違うのは不安でしかありません。

小さなことですが、例えば教会の帰り、行きと違うルートを試してみる、というのは好きな楽しみでもあります。

また、思い通りにいかない時に普段は好まない別の選択肢を選んでみると、思いがけない気づきを得られること、思いもよらない展開に恵まれることもあります。

 

労働が人間生活にとって本質的要素であると同時に、聖性への道でもあることは、あまり理解されていない。
働くとは、生計を立てるためだけではなく、自分自身を表現し、人に役立ち、具体性を学ぶ場として、霊的生活を助けるものである。

また、仕事は、人と関わることを必要とするその性質によって、わたしたちの人間性を表すと同時に、それぞれの創造性を活かす場でもある。

イエスご自身も働き、まさに聖ヨセフから仕事を学んだということ、それは素晴らしいことに思われる。
今日、わたしたちは、仕事の価値を取り戻すために何ができるかを、考えなくてはならない。
仕事が利益だけの論理から解放され、人間の尊厳を表し高める、基本的な権利・義務として体験されるよう、努力しなくてはならない。
(教皇フランシスコ 1/12一般謁見でのお説教より)

 

現代の若者のなりたい職業のトップ5に入るのは、ユーチューバーだそうです。
最近は、ティックトッカーという仕事も脚光を浴びています。
わたしが子どものころにはなかった職業です。

仕事をする、というのは、会社に勤めたり商店を営むことだという固定概念を持っていましたが、もうそのような時代ではないのです。
ですが一方では、イエス様の時代から「働くとは生計を立てるためだけのものではない」ものだ、と教皇様はおっしゃいます。

自分自身を表現すること
人の役に立つこと
具体性を学ぶ場

さらに、人と関わることである、という点も重要なのです。

ひとりきりで自分の部屋で編集したビデオをオンライン上に公開する、そういうユーチューバーであっても、誰か、他者に向けて自分の表現を発信して相互のコミュニケーションを求めているのですから、人と関わるということなのでしょう。

成人の日に取材を受けていた新成人たちをテレビで観て、間違いなくわたしがハタチの頃よりもみんなしっかり自分を持っているな、と思いました。

「最近の若いもんは・・・」、は少し前は否定的な言い回しの枕詞でした。
「最近の若者たち」は、自己表現に長けていて、人の役に立ちたいという意志を持ち、具体的な仕事を望む傾向が強いように感じます。

自分の可能性を試してみる、という冒険を恐れない勇気は素晴らしいお恵みです。

親の価値観を押し付けられた子どもが反発し、親の望みとは全く違う人生を歩んでいる、という話はよく聞きます。
すべてがそうではないとしても、違う道、別の選択肢に神様のお導きがあることに気づくことができるのも、それ自体が素晴らしいお恵みでしょう。

 

☆たとえ自分たちのやり方や道が行き詰っても、永遠の神、光を与えてくださるかたが、つねに前に進む道を見つけてくださると信じる。
☆いつでも新たに出発できる。
☆新しい方向を探して未来に目を向ける。
☆新たな熱意をもって福音の光を輝かす。
(46ページ)

行きと帰りの道が違うと普通は不安に感じるものですが、試してみる価値はあると思いませんか?

わたしも、今年はもう少し自分を試す行動を取ることを抱負として掲げてみました。
いつもと同じ、ばかりではなく、人との関係においても、教会での役割への熱意においても、神様のお導きをもっと強く感じて信じて、今年は新しい方へも進んでいこうと決意したところです。

 

 

わたしたちの願い

あけましておめでとうございます。
2022年も、いただくお恵みを見逃すことなく日々を大切に生きていくことができますように。

新年のごミサでは、成人のお祝いを受ける9名の若者たちの祝福の場を、可愛い小さな子どもたちが侍者としてお手伝いしてくれました。

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この青年たちの未来が明るいものとなるよう、わたしたちは祈り、そして彼ら自身が切り拓いて行ってくれますように。

毎年1月18日〜25日は(北半球では)キリスト教一致祈祷週間が行われます。
南半球では各地で日程が変わるそうですが、この聖週間には世界中の様々な伝統や信条を持つキリスト者が、洗礼を受けたすべての人の一致のために祈りを捧げる習わしです。

今年のテーマは、

わたしたちは東方でそのかたの星を見たので、拝みにきたのです
(マタイ2・2)

このテーマを含め、世界で使われるこのテキストは、中東教会協議会が担当して作成されました。

(この小冊子は、中央協議会にリクエストすると送付してもらえます。)

この困難な時代にあって、わたしたちはこれまで以上に暗闇の中に輝く光を必要としています。
そして、その光はイエス・キリストのうちに示されたと、キリスト者は宣言します。
(10ページ)

礼拝式の文章から、祈りの言葉をご紹介します。

ひとつの星が、キリストのもとに博士たちを導きました。
その星は今も、キリストのおられるところを指し示しています。
キリストがわたしたちに示され、キリストの光はわたしたちの上に注がれています。
博士たちが星を追ってベツレヘムに向かったように、今日、わたしたちはこの星の下に集い、空に自分たちの星を加え、教会の目に見える一致のために、自分たちのたまものと祈りを一つにします。
その目標に向かって旅をするわたしたちの生活が、キリストを知るよう人々を導く、輝かしいあかしとなりますように。
(20ページ)

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冊子に書かれている8日間の黙想のためのことばはどれも、社会的にも精神的にも葛藤を抱えるキリスト者の心の底からの祈りだと感じています。

中東と言う、政治も社会も大変な状況にさらされ続けている地域のキリスト者が編纂した深い現実的な祈りの言葉が、心の奥にささります。

年末の銀座で、オシャレをしてショッピングを楽しんでいる人がインタビューで
「来年こそはいいことがある幸せな年になるように」と答えていました。

中東のキリスト者たちは、「今」の正義と平和を求めています。
コロナ禍であっても安寧な日常が、わたしも含め、日本のキリスト者の心を鈍らせている気がしています。

2022年1月の教皇フランシスコの祈りの意向は、「人類の真の友愛」がテーマです。

宗教的な差別や迫害に苦しんでいるすべての人々のために祈ります。
人間家族の兄弟姉妹であることに裏付けされた一人ひとりの権利と尊厳が認められますように。

身近に「宗教的な差別や迫害」を受けている人がいない。
中東地域の紛争はイスラム教徒の問題だ。

わたしたちがそのように単純に考えてしまうのは当然のことですが、この機会に、中東で活動するキリスト者たちのことを知り、思いを馳せてみませんか?

中東教会協議会は、イラン、ペルシャ湾、地中海、エジプトという範囲の広い地域で、福音派、オリエント正教会、東方正教会、そしてカトリック教会の4つの教会によって構成されています。
それぞれの教会の偏見と障害を取り除いて架け橋となる活動はもとより、ムスリムとの対話と結びつきの強化にも努めています。

そして、なによりも彼らの最大の問題は、中東地域におけるキリスト教の存続です。

以前、このページで難民問題を取り上げた時にも触れましたが、長引く紛争・政治的混乱により、キリスト者は国外へと逃れ続けています。
彼らは、「西側の考え方」に基づいた「東側への介入」はキリスト者や地域の人々の考え方を反映していない、と考えています。

中東におけるキリスト教の未来そのものを案じ、自らが率先して使徒的役割を果たしていこうと奮闘しているのです。

平和な日本であろうと混迷の最中の中東であろうと、わたしたちの願いはひとつです。

キリスト者として、星座や輝く星のようにキリストの光を分かち合う存在として。
キリストを知るよう人々を導く、輝かしいあかしとなるよう。

今年も、それぞれの召命を真摯に見つめて生きましょう。

 

喜びのなかに

クリスマス、おめでとうございます。

愛する者よ、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
(テトス2・11~14)

今年はいろいろなこと、特に信仰、他者との関わりについて、深く考えを巡らせることができた一年だったと感じています。

みなさまにとっては、どのような年でしたでしょうか。

今年最後の一冊として読んでいる本、若松英輔さんと山本芳久さんの対談による「危機の神学」。

若松さんが、アウグスティヌスの「告白」の一節を引用していらっしゃいましたので、本棚から取り出してその個所の前後を再読してみました。

やや悲観的な文章に感じるかもしれませんが、決してそうではありません。
神様のあわれみを最高の拠り所とする、まさに、これがわたしがこの一年の間に感じたことを象徴する言葉です。

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おのがすべてをささげてあなたに寄りすがるとき、何のかなしみも苦しみもなくなることでしょう。
そのとき、私の生はまったくあなたにみたされ、真に生ける者となることでしょう。

ああ、何たることか。
主よ、あわれみたまえ。
悪しきかなしみと善きよろこびとが、争っています。
ああ、何たることか、主よあわれみたまえ。
ああ、何たることか、見たまえ。
私は傷をかくさない。
あなたは医者で、私は病人です。
あなたはあわれみ深く、私はあわれです。
地上の人生、それは試練にほかならないのではないでしょうか。
だれが苦痛や困難を欲する者がありましょう。
あなたはたえよと命ぜられますが、それを愛せよとはお命じにならない。

私は逆境にあって順境を熱望し、順境において逆境を恐れます。
この二つの境遇のあいだに、人生が試練ではないといったような、中間の場所はありません。
まことに、地上における人間の生は、間断のない試練ではないでしょうか。

それゆえ、すべての希望はただひたすら、真に偉大なあなたのあわれみにかかっています。
御身の命ずるものを与えたまえ。
御身の欲することを命じたまえ。

おお、いつも燃えてけっして消えることのない愛よ。
愛よ、わが神よ、われを燃えたたしめたまえ。
御身はつつしみを命じたもう。
御身の命ずるものを与えたまえ。
御身の欲するものを命じたまえ。

「告白」第10巻 28~29章より抜粋

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先月から「侍者を希望する小学生」を募集したところ、7名の子どもたちが手を上げてくれました。

なんというお恵みでしょう。

今年の降誕祭は、この子たちが侍者を務めてくれました。

 

 

24日の午後、宮﨑神父様が久留米のドリームスFMに生出演され、クリスマスについてお話されました。

この世に来られた、いのちのことばであるキリストを、わたしたちの生き方を通してあかしすることができますように。

みなさま、よい年末年始をお過ごしください。

 

 

人とのつながり

4本目のロウソクが灯されました。
この待降節の日々を心穏やかに過ごし、イエス様のご降誕をお祝いする心の準備は整いましたか?

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「質の高い睡眠」が大切であるという話を聞きます。

よく眠れていますか?
目覚めは良いですか?
眠れないほど気になることはありますか?

仕事や家事でとても疲れた日、よく寝付けないことがあります。
反対に、何かを頑張れた!と思える疲れ果てた日に、秒で眠りに落ちる日もあります。

今週は、そんな風に眠りにつけた、精神的に充実した嬉しい忙しさの日々でした。

この2年近くの新しい生活の中で人とのつながりが希薄になってしまった気がしていましたが、そうではなかったと気づく出来事がありました。

神父様から依頼されて、3年に渡って支援をさせていただいている方がいます。
いくつかの問題と病気を抱えていて、入退院を繰り返し、生活はとてもすさんでいました。
治療と安定した生活、落ち着いた日常を送ってもらうことが目標でした。

そこにコロナの蔓延があり、しばらく実際に様子を見に行くことができず、ずっと気になっていました。
その方はしっかりとした信仰心をお持ちの方ですし、担当してもらっているソーシャルワーカーさんとは連絡を取り合っていましたので、心配はしていませんでした。

その方が、今まで頑なに拒否していたグループホームへの入所を自ら希望して、入所されることになり、生活の基盤がようやく固まった、との連絡があったのです。

そのこと自体はもちろんとても嬉しいニュースでしたが、それ以上に感激したのは、ソーシャルワーカーさんの言葉でした。

「この3年、神父様とMさんの粘り強い諦めない支援の姿を見て、とても勉強になりました。
 諦めずに根気強く関われば、こんな日がくるんだ、と感慨深いです。
 本当にありがとうございました。」

 

人生とは永遠の命に向かい自ら選択していく場です。
「自分のことだけ」という小さな選択は、つまらない人生につながり、慈善の業という選択を重ねるなら、実りある人生になります。
良くも悪くも選択によって人生が決まるのです。
神を選べば、神の愛を受け、隣人を愛すれば、真の幸せを見出せるのです。
(12/13 教皇フランシスコTwitter)

 

そして、そのソーシャルワーカーさんは、
「コロナ禍に読んだたくさんの本からも多くのことを学んだ。
出かけられず人と会えなかった日々も、たくさんのことを考える時間になったので、自分には無駄ではなかったと思っている。
次のステップに進んで、自分に出来ること、やりたいことにチャレンジしてみようと思う。」
こう話してくれました。
彼のような若い方のこうした意欲的な意思表示は、聞いていてワクワクしますし、清々しい気持ちになりました。

 

わたしは伏して眠り、また目を覚ます。
主が支えてくださるから。
(詩編3・6)

わたしはみ前で安らかに床に就き眠ります。
主よ、あなただけが、
わたしを安らかに眠らせてくださいます。
(詩編4・9)

立ち返って、落ち着いていることで、お前たちは救われ、
静かにして、信頼することのうちに、お前たちの力がある。
(イザヤ30・15)

すべての思い煩いを神に委ねなさい。
神があなた方を顧みてくださるからです。
(1ペトロ「5・7) 

 

わたしの質の良い睡眠も安らかな日常も、神様への信頼から得られるものです。

支えられていること、落ち着いて信頼すること、すべてを委ねること。

時には忘れてしまいそうになるこれらのお恵み、こうした短い聖句を繰り返し読んでいつも反芻したいと思います。

 

教皇フランシスコは、「シノドス性」を深める呼びかけを続けておられます。
シノドス性とは、「相手と一緒に生きること」ということなのだそうです。

人間関係が希薄になり、人を安易に信じることが出来ないような世の中ですが、キリスト者として生きることは「神=相手」と一緒に日々を歩んでいくことなのだ、と今年はいくつもの出来事から痛感しています。

 

12/1バチカンでの一般謁見説教の中からの抜粋です。
手帳に書き留めておきたい、深いお言葉です。

神はわたしたちの世界を広げ、人生のある状況について、もっと広い、異なる視点から見つめさせてくださる。
多くの場合、自分が陥った状況に囚われていても、そこに隠されていた神の御摂理が次第に形をとり、苦しみの意味を照らしてくれるようになる。

わたしたちの人生は想像どおりにはいかないことが多い。
特に愛情関係においては、恋愛の段階から成熟した愛に移ることは努力を伴う。
愛するとは、相手や生活が自分の理想に一致することを要求するものではない。
愛するとは、むしろ与えられた人生に対し責任を負うことを自由に選択することである。
自覚をもってマリアを選んだヨセフは、わたしたちに大切なことを教えてくれる。

 

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エルサレム西郊外のエン・カレムにある訪問教会の正面壁画には、天使に導かれてエリザベトを訪問するマリア様の美しい絵が描かれていました。


 

人に共感すること

待降節第3主日は、薔薇色のロウソクが灯されます。
第1主日は預言の希望、第2は天使の平和、第3は羊飼いの喜びを表していて「喜びの主日」と呼ばれています。

いよいよクリスマスが間近になってきました。
今年は、他者との繋がりについてとても考えさせられた一年でした。

社会学者の宮台真司先生がインタビューでおっしゃっていた言葉。
(正確ではないと思いますが)
多様性は、「多様な人々がいることを認める」ということではなく、「他者に共感して寄り添う」ということ。

今年はオリンピックイヤーでした。
スケートボードの若い選手たちの活躍を覚えていらっしゃるでしょう。

わたしの大学生時代はスキー全盛期でしたので、スノーボーダーが登場した時はかなりの驚きとジェラシーのような感情が湧いたのを覚えています。
スノーボード、スケボー、サーフィンは「3S」と呼ばれています。
まずサーフィンがあって、街でできるスケボー、雪の上のスノボ。

3Sで重視されるのは、「独自性」「創造性」だと言われています。
誰もできない・しないことを、いかに自分らしくカッコよく決めるかを追求するスポーツです。

金メダル候補だった日本の女子選手が何度も転倒してしまった際、他の国内外の選手が駆け寄って彼女を肩車して讃えた姿は、これまでのオリンピックでは見たことの無い光景でした。

「速さ」「高さ」「強さ」といった数値で計れるものだけを競わない価値観、勝ち負けだけにこだわらない姿勢は、まさに現代的なスポーツだと言えるでしょう。

 

そのとき、イエスは人々に言われた。
「今の時代を何にたとえたらよいか。
広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』
ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。
しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
(マタイ11・16~19)

今の時代を何に例えたらいいでしょう。

マタイの文章は、現在にもそのまま当てはまると思いませんか?
テレビではいつも、誰かが誰かを批評しています。

自分を高め、仲間に寄り添う姿勢は、ある種の英才教育の賜物(知恵)なのかもしれません。
スケボーの選手に限ったことではないでしょうが、物心ついたときからその競技を始めた現代の若いアスリートたちは、この荒波の現代社会で成長する過程において、多様性を内包した価値観が自然と身に付いているのでしょう。

学校では成績の順位を競い、高学歴や有名企業への就職を目指すことをよしとされ、多様性という感性は存在していなかった時代に育ったわたしのような大人は持ち合わせていないものです。
新しすぎて、斬新すぎて、素直に受け入れられずにちょっと躊躇う。

イエス様の突然の登場は、当時同じような受け止めだったのではないかと考えました。

これまで良しとされてきた考え、習慣などのスタイルを、当時のまじめな人々が否定されたように感じたのも無理はありません。
まるで新しい価値観の若者が突然現れて、センセーションを巻き起こしたのです。

まさに、スケボーの堀米優斗選手のようです。
誰もやっていない新しい技を次々と生み出し、それまで、大人たちからは悪ガキの遊びの延長のようにしか見られていなかったスポーツで世界を席巻したのです。

これまで誰もしなかったこと、言わなかったことを次々と繰り広げるイエス様。
新しい伝え方・考え方に稲妻に打たれたように反応する人々。
本人は、特別に目立とうとしたわけではないのに、ひがみ、やっかみ、悪口を言う人々。

つまり、多様性という概念は、単語自体が目新しいだけであって、いつの時代にも存在していたのではないかと思ったのです。

「羊飼いへの告知」17世紀オランダの画家、アブラハム・ホンデイウスの作品

イエス様がお生まれになったとき、ルカでは最初に羊飼いたちに天使のお告げがあります。
み使いに天の大軍が加わって神を讃えるという、壮大な光景が繰り広げられます。

⭐︎それを聞いて急いで聖家族を探し当て、見たこと、幼子について告げられたことを人々に知らせに走った羊飼いたち。
⭐︎聞いたことを「不思議に思った」だけで、そのことに何ら意味を見出せなかった多くの人々。
⭐︎「これらのことをことごとく心に留め、思い巡らしていた」マリア様。
(ルカ2・8〜20)

もしもわたしがイエス様の時代に生きたユダヤ人であったとしたら、羊飼いのように素直に受け入れただろうか、と考えてみました。
現代のわたしたちが教わったこと、信じている教えは、弟子たちによって伝承され、長い年月をかけて先人たちがまとめ上げてきたものです。

そうした教えではなく、その時代に生きていたとして、イエス様の存在と教えを受け入れていただろうか。

当時の、虐げられ社会の片隅に追いやられていた人々に共感して寄り添ったイエス様のように行動することができていただろうか。

信のキリスト者であるということは、単に多様性を認める人ではなく、他者に共感して寄り添うことのできるイエス様に倣うように生きている人のことなのではないだろうか。

冒頭の宮台先生の言葉を聞いて、そう考えて過ごした一週間でした。

 

見えないものを信じる

2本目のロウソクが灯されました。

お寺の町に生まれ育った父は、お寺の役割を引き受け、毎朝お仏壇のお茶を新しくし、ロウソクを灯しお線香をあげ、手を合わせて朝の挨拶をしています。
お経をあげることまではしませんが、熱心な仏教徒と言えるでしょう。

毎朝その様子をみていて感じるのですが、父は「仏教」という宗教を信仰しているというよりも、「そこにいる存在」を信じている、という気がするのです。

「見えないけど信じること」、これはキリスト教に限ったことではありません。

わたしは、子どものころは空に神様がいると信じていたので、いつも空を見上げて話しかけていました。
いつも、何をしても神様に見られている、と思っていましたので、神様に褒められるようよい子でいよう、と思っていました。


旧約聖書で通常「信じる」と訳されている動詞は、本来は、
「誰かを、頼り信頼できる信実な者として認識する」
という深い意味を持つ単語なのだそうです。

わたしは神様を信じています=わたしは神を信頼して頼りにしています

といった意味になるでしょうか。

信じない人には聞こえない声を聞き、心の目が開かれ聖霊の働きが見える(感じる)ようになる。
信頼があるから、信じるのです。

 

主は言われる。 なおしばらくの時がたてば、レバノンは再び園となり、園は森林としても数えられる。
その日には、耳の聞こえない者が、書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。
苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々は、イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。
(イザヤ29・17~19)

これは、牢に入れられていたヨハネがイエスの元に弟子を遣わし、「来るべき方」なのかを尋ねたときにイエスが答えた、イザヤがメシアのこととその業について述べている箇所です。
(マタイ11・2〜6)

「暗黒と闇」の中にあった人が、来るべき方の到来によって目と耳を開かれ、信じることによって見えるようになる・聞こえるようになる、ということです。 

そのとき、イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。
イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。
二人は、「はい、主よ」と言った。
そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。
(マタイ9・27~31)

この箇所は奇跡が描かれているというよりも、信頼して信じることによって心の目を開かれた人のことを喩えられているように思います。

 

人を信頼する、ということはそう簡単なことではないのかもしれません。

人に信頼され頼りにされる、ということの方がハードルは高く、努力してできることでもないでしょう。

信頼する人がいる。
頼りにしている人がいる。

これほど心強いことはありません。

自分のことだけ考え、自分一人と神様との関係だけ満たされていても、人生は豊かに前に進むわけではありません。

お互いが相手を頼りにし、自らも人に頼りにしてもらえる存在であるように生き、その指針として神様を信頼して頼りにする(信じる)ことが理想だと思います。

わたしは、父と二人暮らしですので、年を取ってはいますがなんでも器用にこなす父を頼りにしています。
親しく付き合っている友人は皆、わたしにない魅力や特技を持っていて、信頼しています。
姪や甥は、「何でも買ってくれる優しい叔母」(!!)としてわたしを頼りにしています。

どんなときも、必ずわたしを導いてくださっている神様を頼りに生きています。

あなたを導かれる方は、もはや隠れておられることなく、あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る。
あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。
「これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け」と。
(イザヤ30・20)

 

この1年半ほど、教会から遠のいてしまった信者さんも少なくありません。
やはり、週に一度顔を合わせて言葉を交わし、共にイエス様をいただくミサは素晴らしい時間だといつも思います。
暖かくなる頃には、班分けや人数制限なくミサに与れるようになりますように。

すべてを治められる神よ、信じる民の心を救い主の訪れに向けて整えさせてください。
あなたのひとり子イエスを希望と喜びのうちに迎えることができますように。

・・・・・・・・・・・・・・ 

毎月第一日曜日はベトナム語のミサです。

 

筑後地域のベトナム人コミュニティは大変大きく、日本での家族とも言える大切なものです。
わたしたち久留米教会にとっても、ベトナム人の青年たちは大事な家族であり、共同体に活気をもたらしてくれています。

「家庭年」である今、優しさと希望を感じさせてくれる彼・彼女たちとの交流も、教会に行く喜びとなっています。

人数制限がありますので、希望者全員がベトナム語のミサに参加できないのが申し訳ない気持ちです。

今年は、ベトナム人コミュニティの若者たちに飾り付けを任せました。

 

日常を振り返る季節

待降節が始まり、クリスマスまでひと月を切りました。
この一年を振り返り、やり残したことや気になっていること(掃除も含め!)を整理するにはちょうど良い期間です。

今年もアドベントクランツを作りました。

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とても個人的なことですが、わたしには今年どうしても前に進めたい懸案事項が2つありました。
11月に入り一つ目が大きく前進し、もう一つのことをどうやったら実現させることができるか、ずっと思い悩んでいました。

もちろん、神様のお導きを信じていましたので「きっと大丈夫、その時が来るのを待とう」とも考えていましたが、それでも、わたしはそのために何をしたらいいのか、どう行動すべきか、ずっと模索していました。

それは、認知症の叔母のことでした。

よい恐れは信仰から起こる。偽りの恐れは疑いから起こる。
よい恐れは、希望に結ばれている。
なぜなら、それは信仰から生まれ、信じている神に希望をおくからである。
悪い恐れは、絶望に結ばれている。
なぜなら、信じなかった神を恐れるからである。
(パスカル「パンセ」262)

プライドの高い叔母は、認知症を自覚してはいるものの、デイサービスを利用することをどんなに勧めても頑として拒否していました。

この数ヶ月、従兄弟たちや東京にいる叔母と連携して、思いつくかぎりのことに取り組みました。
そしてようやく、先週、叔母はデイサービスに行くことになったのです。

この間、わたしは家族の絆と信じる心に支えられました。
叔母の穏やかな日常と同居する家族の負担の軽減を願ってのことでしたが、結果的には、わたしや東京の叔母たち自身が、不安の中にも強く幸せを感じることができたのです。

自分のために、古びることのない財布を作り、尽きることのない宝を天に蓄えなさい。
そこでは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
あなた方の宝のある所に、あなた方の心もある。
(ルカ12•33〜34 マタイ6•20〜21)

叔母にはキリスト教の信仰があるわけではありません。
ですが、日々進行していく認知症の中で、時にはわたしのことも分からなくなる中でも、家族の支えを感じてくれたのか、訪問するたびに顔が明るく、見違えるほど穏やかになって行くのを見ることができました。

神を感じるのは、心情であって、理性ではない。
信仰とはこのようなものである。
理性にではなく、心情に感じられる神。
(パスカル「パンセ」278)

わたしを通して、叔母にもお恵みが与えられたのだと信じます。
もしかしたらまた、「あそこには行きたくない」と言い出すかもしれません。
その時はまた、違う対応をして前に進めるつもりです。
彼女のために、家族のために何が1番よいことなのかを考えて。

主イエスに結ばれた者として、あなた方にお願いし、また勧めます。
神に喜んでいただくためにどのように歩まなければならないか、あなた方がわたしたちから学んだとおりに、いや、今そのとおり歩んでいますから、その歩みをますます完全なものにしてください。
(1テサロニケ4・1)

以前もここに書いたとおり、今年は多くのことを学ぶことができました。
ご聖体をいただくときの心の祈りも続けています。
自分に与えられた召命を生きるための努力を積み重ねることができたようにも感じています。

心に残っていること、やり残したことをもう少しきちんと振り返ってみたいと思います。

どんなに困窮し、苦難の中にあっても、あなた方のお陰で励まされています。
あなた方が主に結ばれてしっかりと立っているかぎり、わたしたちは、今、まさに生きていると実感するからです。
(1テサロニケ3・7〜8)

振り返ることも大切ですが、同時に、先を見据えて「来年こそは!」と気持ちを切り替えることもよいでしょう。
このような時代(コロナ禍)に生きるわたしたちは、できるだけ悔いのない日々を送れたら、それに勝る幸せはないのかもしれません。

先週はどのような日々でしたか?
今週はどんな風に過ごしたいですか?

あとひと月あまりです。
今年もたくさんのお恵みをいただけた年であった、そう思えるように、待降節を心穏やかに過ごしましょう。

慈しみとまことはともに会い、
義と平和は抱き合う。
まことは地から生えいで、
義は天から身をかがめる。
主ご自身が恵みを授け、
わたしたちの地は豊かに実る。
(詩編85•11〜13)

 

 

 

価値ある判断

21日のごミサでは、9名の子どもたちの初聖体があり、晴れやかな子どもたちとご家族の様子に心から幸せを感じることができました。

初めてイエス様の体(聖体)をいただくこの日のために、子どもたちは長い時間をかけて勉強をし、日曜学校の先生方のご指導のもとこの日を迎えました。

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日本でも、感染拡大を抑制するために「ワクチン接種済み、あるいはPCR検査での陰性証明の義務化」をする方向性が取られ始めました。

アメリカ南部では、今でもマスク着用を「禁止」するレストランやバーがあるそうです。
店も客も自由の権利があり、全ては自己責任という考え方なのだそう。
一方でニューヨークでは、レストランの室内営業や劇場などでは利用者にワクチン証明書の提示を義務付け、9/27からは医療機関や教職員に対する接種義務化がスタートしています。

オーストリアでは11/15から、新型コロナウイルスのワクチン未接種者(人口の3分の1以上を占める)には、不要不急の外出の禁止措置がとられています。
警察官が巡回し、外出中の人がワクチをン接種済みかどうか抜き打ち検査を実施するのだとか。
(違反者の罰金は500ユーロ)

ドイツでは、娯楽施設などへの入場に加えて、バスや列車に乗車する際にもワクチン接種証明書か陰性証明書の提示を義務付ける法案が審議中。

ベルギーでは、12歳以上はマスクの着用を義務づけられていて、今後は10歳以上に拡大。
在宅勤務については、11/20から週4日が義務。

ポーランドでは、入国しようとベラルーシの国境で多数の移民が立ち往生していて、その対策(国を守る権利)として政府は来月から国境に壁を建設することを発表。

フ〜ッ。。。。(ちょっとため息)

いまわたしたちが生きているこの時代は、どうなっていくのでしょうか。
わたしたちの生きる社会は、どのような未来を描いているでしょうか。

いつの時代も、その時代ごとに大きなジレンマを抱えていたのだろう、ということを考えます。

わたしたちが抱えている問題は、トリレンマかもしれません。
トリレンマとは、どれも好ましくない三つのうちから一つを選ばなければいけない、という三者択一の窮地を意味します。

義務
権利
自己責任

この3つは、本来は大切な概念であり、それぞれ独立したものであるべきですが、ひとたびはき違えると「選択肢」と捉えてしまうことがあります。

義務という名のもとに、本来好ましくないはずの政策が押し付けられているかもしれません。
権利を声高に叫ぶことで、他者への配慮が無視されているかもしれません。
難民とは自己責任で生きていけない人々である、ということを忘れているふりをしているのかもしれません。

初聖体の子どもたちを見ていて感じました。
ご聖体をいただくことは、キリスト者の義務や権利ではありません。

わたしたちは、信じているから、導かれているから、「はい、そのようにします」と確信と希望を持ってイエス様とともに歩んでいるのです。

 

パスカルは『パンセ』のなかで、人は3種類いる、と言っています。

「神を見出したので、これに仕えている人々」
「神を見出していないので、これを求めることに従事している人々」
「神を見出してもいず、求めもしないで暮らしている人々」

科学者の視点で、人間の心の特徴を分析したパスカル。
パスカルが生きた時代は、科学が目覚ましく進歩し、人間の理性への過信がはびこり、キリスト教に基づく世界観に疑問の声があがり始めていました。
しかし世の中を冷静に見つめていたパスカルは、理性こそ万能だという考えには危うさがある、と確信するようになります。
「人間はおごってはならない」と考えたパスカルは、人間の弱さを明らかにするため、日々考えたことを書いてまとめたのが「パンセ」です。
(NHK 100分de名著 ホームページを参考)

 かなりの長編ですが、今この時代に読むべき本ではないかと思い、読み始めました。

 

イギリスで路上ライブを行なっていた女性シンガーが、ライブ中にゴミ箱を漁っているホームレスを見つけました。
近寄って自身の収益をホームレスの男性に寄付したところ、通行人がその倍の金額をシンガーに寄付してくれた、というニュースが目に留まりました。

沖縄の海に押し寄せている軽石を除去するボランティアを人気のユーチューバーが呼びかけたところ、多くの人が集まって作業した、というニュースもありました。

この2つの例は、どちらも「個人の判断」による選択です。

わたしたちはいつも正しい判断ができるわけではありませんが、神の導きをいつも意識しているわたしたちは、何が価値あることで何が必要とされることかはわかっているはずです。

昨日のミサで、初聖体を終えた子どもたちに宮﨑神父様がおっしゃいました。

「教会で、みんなの必要に応えることができる人になってください。」

............................

ヨセフは、本当に価値あることはわたしたちの関心を惹かないが、それを発見し、価値づけるために、忍耐強い識別が必要であることを教えてくれる。
本質を見極めるこの眼差しを、全教会が取り戻すことができるよう、聖ヨセフに取り次ぎを祈ろう。 
(11/17教皇フランシスコ 一般謁見でのお説教より)
 聖ヨセフよ、
 あなたはいつでも神に信頼し、
 御摂理に導かれ、判断しました。
 わたしたちの計画ではなく、
 愛の御計画を大切にすることを教えてください。
 辺境から来たヨセフよ、
 わたしたちの眼差しを変え、
 辺境へ、世が切り捨て疎外するものへと、
 向けてください。
 孤独な人を慰め、
 人間のいのちと尊厳を守るために、
 静かに努力する人を支えてください。
 アーメン。

 

悔いない毎日

今年、ゆるしの秘跡をお受けになりましたか?

「悔い改める」という言葉について、ここのところずっと考えています。

受講している神学のオンライン講座で、教授が「イエスは悔い改めよとは言っていない。ルカが追記したのだ。」とおっしゃいました。
以前、聖書百週間の講義の中でも神父様から、「ルカに度々出てくる悔い改めという言葉は、ルカが付け加えた編集句です。」と教わりました。

例えば、マタイとマルコでは、イエス様が徴税人たちと会食することの正当性について語るとき、自分は罪人たちを呼び集めるためにやって来たと述べますが、それに対してルカでは、罪びとたちに「悔い改め」を呼びかけるためにやって来たと述べています。

このように、並行個所のうちルカだけに結論として「悔い改め」が追記されている箇所がいくつもあります。

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あなたがたも気をつけなさい。
もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。
そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。
(ルカ17・3~4)

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E.P.サンダースの著書「イエス その歴史的実像に迫る」によると、

「ルカと使徒行伝の著者が悔い改めを強調することをとりわけ好んだ。
そして、それはイエス自身の教えの重要なテーマではなかった。
イエスは悔い改めに関心を持つ改革者ではなかった。」

ということになるようです。

 

罪人に悔い改めを要求するのは洗礼者ヨハネの教えであり、イエスはかつての徴税人・罪人ではなく、実際の徴税人・罪人たちの友人でした。
イエスは罪深いと思われていた人々と関わり、飲食を共にし、神はとりわけ彼らを愛してくださること、神の国がすぐそこまで迫っていることを告げます。

「今こそ悔い改めよ、さもなく滅ぼされる」はヨハネの教えで、「神はあなたがたを愛してくださる」とイエスは教えたのです。

イエスは、自分に従う人々は、たとえ聖書の要求すること(犠牲の供物とともに神殿で赦しを乞う)を行わなくても神の選びに属している、と考えていました。

その具体的逸話として、思い出してください。

王が披露宴の客を集める時、僕たちが「通りへ出て来て、彼らの見つけた人々はすべて悪人の善人も集めてきた。こうしてその婚宴は来客者でいっぱいになった」(マタイ22・10)

僕たちは、初めにすべての悪人たちに善人になるように求めたわけではなく、とにかく彼らを中に連れてきたのです。

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『悔い改めなくても大丈夫』という話ではありません。

聖書思想辞典によると、

洗礼によって一つの実を結ぶ悔い改めの行為は、一回限りのものであり、これを繰り返すことは不可能である。
ところが、洗礼を受けた者もふたたび罪に陥ることが可能である。

ちょっと笑ってしまいました。

福音書に語られる「悔い改め」の概念は、旧約時代にはもっといろいろな意味を持つ曖昧なものでした。
いくつもの単語がそれにあたるとされていますが、もっとも多く出てくるヘブライ語の単語の意味は、「道を変える」「引き返す」「立ち戻る」というものだそうです。
つまり、悪から遠ざかって神に向かう姿勢を意味し、生き方を変えて生活全体を新しい方向に向ける」ということです。

 

福音書の並びは書かれた順ではありません。
おおまかな年表で表すと、

30  イエスの処刑
44  パレスチナ全土が再びローマの支配下に
64~67皇帝ネロによるキリスト教迫害
    ペトロ、パウロがローマで殉教
66~70第一次ユダヤ戦争
70  マルコ福音書成立
   エルサレム神殿が炎上し陥落
71~74ローマによりマサダなどが陥落
79  ベスビオ火山噴火によりポンペイ滅亡
80  ルカ福音書成立
85  マタイ福音書成立

マルコとルカの間の10年に、悲劇的な出来事が続いたことがわかります。
旧約の著者たちが、第一神殿の破壊、バビロン捕囚を自らの神への不誠実な行いが原因であり、「神に立ち返れ」と自分たちを律したように、ルカも「神を信じて悔い改めよ」と追記したのではないでしょうか。

悔い改めなければ、告解しなければ罪は赦されない、と考えるよりも、
「しまった!」と思ったその日のうちに、すぐに軌道修正して、「神様に胸を張って生きる毎日を送りたい」というのが、今のところわたしがたどり着いた答えです。

・・・・・・・・・・・・

可愛い子どもたちの七五三の祝福がありました。
この子たちには「悔い」も「赦し」もありません。
素直にすくすくと、毎日を神様に守られながら育ってほしいと、心から願います。

 

この世の祈り

6日に母校である雙葉学園の同窓会が主催した、死者追悼ミサに与ってきました。
この1年の間に、3名の先生と25名の卒業生が天に召されました。

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久しぶりに、所属教会以外の浄水通教会でのごミサに与りました。

7日には久留米教会の死者追悼ミサが捧げられました。

キッペス神父様がお亡くなりになったという、悲しいお知らせがありました。
これは、2019年のクリスマスのごミサの写真です。

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こうして、クリスマスや敬老のお祝いのごミサなどにいつも来てくださっていたキッペス神父様。
いつも陽気なお姿でした。
安らかに憩われますように。

わたしも今年、親しい方々が天に召されました。

コロナ禍にあって、会えずにいた間に病魔に襲われた子ども時代からの友だち。
一緒にイスラエル巡礼にも行った、仲良しのおじさま。
わたしが洗礼を受ける時からずっと気にかけてくださっていた先生。
親しくしていた後輩の奥様。

わたしたちにいつ、その時が訪れるのかは本当にわからないのだ、と痛感した一年でした。

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11/2の死者の日の朗読箇所です。

神に従う人の魂は神の手で守られ、
もはやいかなる責め苦も受けることはない。
愚か者たちの目には彼らは死んだ者と映り、
この世からの旅立ちは災い、自分たちからの離別は破滅に見えた。
ところが彼らは平和のうちにいる。
人間の目には懲らしめを受けたように見えても、
不滅への大いなる希望が彼らにはある。
わずかな試練を受けた後、豊かな恵みを得る。
神が彼らを試し、御自分にふさわしい者と判断されたからである。
るつぼの中の金のように神は彼らをえり分け、
焼き尽くすいけにえの献げ物として受け入れられた。
主に依り頼む人は真理を悟り、
信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる。
主に清められた人々には恵みと憐れみがあり、
主に選ばれた人は主の訪れを受けるからである。
(知恵の書3・1~6, 9)

4節の「彼らには不滅への希望が満ちている。」(フランシスコ会訳)
不滅という単語は、終わりなき命、完全な幸福の永遠性を意味しています。

この箇所を母校の追悼ミサで朗読させていただき、イザヤ書の言葉が浮かびました。

太陽はお前にとってもはや昼の光ではなく、
月の明かりはもはやお前を照らす光ではない。
主がお前にとって永遠の光となり、
お前の神がお前の輝きとなる。
お前の太陽が沈むことはもはやなく、
お前の月が欠けることはない。
まことに、主がお前にとって永遠の光となる。
お前の嘆きの日々は終わる。
(60・19〜20)

死者は平和のうちにあり、永遠の完全な幸福の中にある。

この信仰は、この世で祈り続けるわたしたちにとって、最高の救いではないでしょうか。

死者は神様とともにいるので何も心配することはない、と何度言われても、何年経っても、「天国の母が安らかに過ごすことができますように」と祈り続けています。

信じていないからではなく、この世のわたしが天の母のためにできることは、祈ることとその意思を引き継ぐことだけだと思っているからです。

 

ほんの少し前に、土から生まれた彼自身が、
少し後に、借りていた魂を返すように求められるとき、
元の土に帰っていく
(知恵の書15・8) 

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フランシスコ教皇は、この1年に亡くなられた枢機卿を始めとする方々のためにミサを捧げられました。
以下、バチカンニュースのサイトからです。

「主の救いを黙して待てば、幸いを得る」(哀歌3,26)という聖書の言葉を観想しながら、従順に信頼して主を待つことを学ぶよう招かれた。

困難の時も沈黙のうちに希望をもって主を待つことを学べば、人生の最も大きい試練である死に備えることができる、と教皇は説かれた。

新型コロナウイルス感染によって亡くなった人々をはじめ、最近故人となった枢機卿・司教らを悼まれた教皇は、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(マタイ25,34)という、主の忠実なしもべたちへの招きを、これらの兄弟たちが今、喜びをもって味わっているようにと祈られた。

 

庭で撮った写真です。
天国と死者と生者が繋がっている、と感じた一枚です。

 

コヘレトの空

「わたしたちの生活をコロナ前に戻す」といった発言を最近よく耳にします。

戻るのでしょうか。
全てが元通りになることを期待しますか?
聖堂中に聖歌の歌声が響き渡る日は、いつでしょうか。

この2年近くの間の日常、信仰生活も含め、確かにいろいろな制約がありましたが、悪かったことばかりではありません。

わたしの場合、かなりよく聖書を開くようになりました。
教会に行けない月日が長くあったので、ミサや行事風景をお伝え出来ませんでした。
ですので、ここを読んでくださる方ともっと聖句を分かち合いたいと思って取り組むようになりました。
それまで以上に、聖書に関係する本もよく読んでいます。

良かったこと、というと語弊があるかもしれませんが、人々が一堂に会したり、わざわざ遠方まで出向かなくてもオンラインでできることが多い、ということが実証されたことは、多くの方が納得されているかと思います。

実はわたしも、先月から大学のオンライン講座を受講し始めました。
以前でしたら、「学びたいけど平日の夕方に大学まで通うのは無理」と諦めていたでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・

二人は一人に勝る。
もし一人が倒れると、その仲間が助け起こす。
二人が一緒に寝れば暖かい。
もし、襲われたとき、一人なら負けるが、二人ならともに立ち向かうことができる。
「三本縒りの紐は、たやすくは切れない」。
(4・9〜12)

コロナ禍にあって、友人や家族がどれだけ大切な存在であるか、わたしたちは痛感させられました。
頼ることのできる友人がいること、互いを心配し合う家族がいること、それがどれほどの幸せか。

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順境の日には喜び、
逆境の日には反省せよ。
あれも、これも、神のなさることである。
それは、将来、何が起きるか、人には見通せないからである。
(7・14)

明日のことを知る人はいません。
今を、毎日を大切に生きること。
日常の小さなことの中に喜びを見出し、自らの至らなさを素直に認めることができますように。

あなたは正しすぎてはならない。
知恵がありすぎてもならない。
なぜ、自分で自分を滅ぼそうとするのか。
あなたは悪すぎてはならない。
愚かすぎてもならない。
自分の時がまだ来ないのに、なぜ、死のうとするのか。
(7・16〜17)

生きることは、自分一人の力でできることではないということを忘れてはいけないのです。

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あなたの生涯の空しいすべての日々の間に、
あなたは愛する妻とともに楽しめ。
神がこれらの空しいすべての日々を、
日の下であなたに与えてくださった。
それが、あなたがこの世にあって受ける分であり、
日の下で苦労するあなたが受ける分である。
(9・9)

わたしがこの世にあって「受ける分」、これは先日書いた主の祈りのことにも通じます。
わたしたちの日ごとの糧をお与えください。
日ごとの糧、生きていくのに必要な、わたしたちに神様から与えられた賜物のことです。

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あなたのパンを水の上に投げよ。
長い年月の後に、あなたはそれを見出すであろう。
あなたの持っている物を、七つ、否、八つに分けよ。
(11・1〜2)

寛大な施しは、後日、その報いを受けるだろう、という旧約の一般的な教えです。
施しに限らず、喜び楽しみも、人と分かち合うことでお恵みは7倍8倍になって帰って来た、という経験がわたしにもあります。

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コヘレトは言う。空の空。
空の空。一切は空。
(1・2)

紀元前250〜200の時代に書かれた、コヘレト。

人間が極端に走り、到達不可能な目的をいたずらに追求するのを諫めています。
ひたすら幸福だけを把握し続ける人間の空しい努力を否定します。
(フランシスコ会訳聖書の解説より)

「空」という言葉はヘブライ語で「へベル」といい、日本語の「空しい」という言葉の持つニュアンスとは厳密には開きがあるようです。

この本によると、「空」は「束の間」という意味が適切であろう、ということでした。

 

この本を読んで、久しぶりにコヘレトを読み返し、今心に留まった箇所を抜粋してみました。
間違いなく、2年前に読んだ時とは違った箇所がわたしを捉えました。

コロナ以前の生活に戻りたい、という人間の希望は「空」のように感じます。
わたしたちが求めるべきものは、そこではないと思うのです。

箴言30・7〜8も、コヘレトと同じようにわたしたちを諭します。

わたしは二つのことをあなたにお願いします。
わたしが死なないうちに、それをかなえてください。
わたしを不実と偽りから遠ざけてください。
わたしに貧しさも富も与えないでください。
ただ、わたしに割りあてられたパンだけで、わたしを養ってください。

この世で与えられた「束の間」を生きるわたしたちにとって、その生きる意味を見出すことは使命です。
コヘレトは「死」があるから「生」に意味があるのだ、と言います。

11月は死者の月です。
わたしも毎年、「死」についてよく考えを巡らせる月です。 

今月は、特に今年天に召された方々のために、日々の祈りを捧げましょう。

 

心のシャローム

「WeThe15」(ウィーザフィフティーン)

東京パラリンピックに合わせて始まったこのムーブメント、ご存じでしょうか。

地球上の人口の15%、つまり12億人もの障がいを抱える人々の生活をより良くしていくことを目標として人権運動を展開し、障がい者に対する差別をなくすことを目的としている世界的な運動です。 

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15%の人が心身のどこかに障害を持っている、という現実は、驚きと同時にその割合で自分の周囲にも、という気づきを与えたかと思います。

イエス様の時代にも、栄養や生活環境が原因で不治の病となっていた人や、精神的・身体的な問題を抱えていた人が多くいたことが福音書を読むと分かります。

当時の人々は、シャロームは主が与えてくれる救いや平安という祝福であり、それが与えられていない人々は罪を犯したから、と考えていました。

マルコ2・1~12の中風の人を癒すエピソードでは、「子よ、あなたの罪は癒される」とイエス様がおっしゃいます。
「このことから、病は罪の結果であり、癒されることで罪も赦されるのだとイエス様も考えていた、と考えることができるけれど、聖書学の分析によるとそうではない」と聖書学者の本多峰子さんが書かれています。

ヨハネ9・1~4では、
弟子たちが「誰が罪を犯したからこの人が目が見えなく生まれてきたのか」と問います。
イエス様ははっきりとこう言います。
「彼が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない。」

 

 

バチカンの一般謁見の際、教皇フランシスコが講和しているときに、トコトコと壇上に上がってきた少年。
これが普通の大人であったら、おそらく護衛が止めたでしょう。
でもこの少年(障害がある子でした)は、話している途中の教皇に近づいて話しかけ、隣にチョコンと座り、最終的には「その帽子が欲しい」とおねだりまでして帽子をゲットしました。

 

シャローム(主の平和)
イスラエルに行ったときは、「こんにちは!」という感じでホテルのスタッフやお店の人に言えました。

シャローム(主の平和)
左右前後の方々、周囲の皆さんに笑顔でご挨拶するとき、儀式のようになってしまい、わたしは心から言えていない気がしています。
ニューヨークでいつも行く教会では、届く範囲の方々はハグをして挨拶しあっていました。(コロナ前)
前任の神父様は、「周囲の方と握手をしてください!」と前置きされていました。

シャロームとは、心身ともに満たされた平和な状態を意味していることばです。

現代の複雑な人間関係社会においては、心の平安を保つのが難しい人、孤独のうちにいる人も多いでしょう。
自分の心に平和がなければ、「互いに平和の挨拶を交わしましょう」と促されても、素直に、本当に心からそうすることは出来ないのかもしれません。

ですが、身体や心に問題を抱えていたとしても、それは満たされていないということではありません。
ニュースの少年は、明らかに心が満たされた平和な存在でした。

シャローム「主の平和」と口にするときは、気持ちを楽にして自然体で。

態度で表さなければ、周囲には伝わらないでしょう。
来週こそは、、、やってみます!

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教皇フランシスコは10月7日、ローマ市内コロッセオで行われた諸宗教指導者らとの平和祈願集会に出席されました。
エキュメニカル総主教、アルメニア使徒教会の総主教、イスラム教、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教などの諸宗教の指導者、そして、ドイツのメルケル首相をはじめとする政治家たちが参加したこの集会で、こうお話されました。

「古代、コロッセオでは人や動物が闘わされ、そこでは多くのいのちが失われたが、今日でも暴力や戦争、兄弟殺しを、わたしたちは遠くから眺め、自分たちはその苦しみとは無関係であるかのように思い込んでいる。
人々の生活、子どもたちのいのちがもてあそばれている状況に無関心でいることが決してあってはならない。

他者の苦しみを見世物にはするが、同情することはない今日の社会において、わたしたちが同じ人間であることを認め、共感し、憐れむ心を育てることが大切。

平和は取り付けるべき合意や、単なる言葉ではなく、「心の態度」である。

WeThe15

基本にして最高の祈り

毎週、ごミサの後の大掃除をする様子が好きです。

ようやく秋が訪れたので、落ち葉もキレイに集め、気持ちもスッキリです。

・・・・・・・・・・・・・

タイトルのとおり、基本であり、同時にこれを超えるものはないという祈りが「主の祈り」です。

毎日唱えているためか、暗記しているためか、頭に染み込んでいるせいか、その意味を考えることなく機械的に口ずさんでしまっていることがあります。

結論を先に書くと、この祈りは「わたしの願い」を伝えるためのものではなく、「わたしたちがどう生きるか・何をするか」の決意を表すものです。

わたしは、昔の文語体の方がしっくりとくるため、日常的には昔の言葉で祈っています。

天にまします われらの父よ
み名の尊まれんことを
み国の来らんことを
み旨の天に行わるるごとく 地にも行われんことを
われらの日用の糧を 今日われらに与えたまえ
われらが人に赦すごとく われらの罪を赦したまえ
われらをこころみにひきたまわざれ
われらを悪より救い給え

 

福音書では、マタイとルカに書かれています。

普段わたしたちが唱えている祈りはマタイによる7つの祈願です。(マタイ6・9~13)
それに対し、ルカの祈りは5つです。(11・2~4)

天におられる わたしたちの父よ
(あなたの)み名が崇められますように
(あなたの)み国が来ますように
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください
わたしたちの罪を赦してください わたしたちも自分に負い目のある人を 皆赦しますから
わたしたちを誘惑に遭わせないでください

前半は、み名が崇められ、み国が来ますよう願っているのではなく、「わたしたちがそうなるように参画します」という決意を神様に誓っています。

後半は、「わたしたち=世界中で祈っているどこかのわたしたち」のことを心に想いながら祈るものです。

糧とは、パン、水、医薬品、住まい、仕事といった、人間が生きていくために必要なもののことです。
イエス様がこの祈りを弟子たちに教えた時、今日食べるものがない、極度の貧困や孤独の中にある人々のことを思われていたのです。

フランシスコ教皇は、講和の中でこうおっしゃっています。

キリスト者の祈りは対話です。
イエスは「あなた」と最初に口にする祈りを教えてくださいました。
わたしの名、わたしの国、わたしの心が、ではありません。わたし、ではありません。
それから次に「わたしたち」へと移ります。
キリスト者の祈りでは、自分のために食べ物を願う人はいません。
神との対話には、個人主義の入る余地がないのです。
まるで世界で自分だけが苦しんでいるかのような、自分の悩みの誇示はそこにはありません。
わたしたち、兄弟姉妹としての共同体の祈りではなくして、神にささげられる祈りはありません。
「わたしたち」という祈りは、自分一人の平穏にはならずに、兄弟姉妹に対して責任を感じるように促しているからです。

 

罪・負い目(正確には借金のこと)を赦し、悪の誘惑に惑わされないように、とは次のようなことではないでしょうか。

「神は人に作用する火なのです。」というアンゲラ・メルケルさんのことばを以前紹介しました。
フランシスコ教皇の次のことばも、同じような意味に捉えられます。

「『月の神秘』、つまり、自分自身は発する光をもたずに太陽の光を反射する、月のようなものということです。
わたしたちも自分自身に光はもっていません。
わたしたちの光は、神の恵みを、神の光を反射する光です。
月の神秘とは次のようなものです。
わたしたちが愛を行うのは、ほかでもなく愛されたからです。
ゆるすのは、ゆるされたからです。」
 

ある神父様はこうおっしゃいました。

「主の祈りを、単に自分の内面的、霊的な、宗教上の祈りにしてはなりません。
自分が関わっている人、世の中、世界の出来事、苦しんでいる人々のことを心に想いながら祈るのです。」

そう教わってから、主の祈りを口にする時の気持ちが大きく変化しました。

今までは、やはり機械的に、自分のために祈っていたのだということに気付かされました。

皆様はどうですか?
主の祈りの意味を、噛みしめながら唱えていらっしゃるでしょうか。

 

 

祈りのかたち

10月は宣教の月、そしてロザリオの月でもあります。

コロナ前は、10月は聖堂に集ってともにロザリオの祈りを捧げるのが習慣でした。
ですが、今年もそうした集まりは「中止」されています。

(ここにも、ウィズ・コロナの現代には工夫が求められているでしょう。
個人が各家庭で祈ることでもロザリオの意味は変わらないかもしれませんが、
みなが一堂に集まって、声に出して祈ることにも大きな意味があるのです。
ミサに聖歌が欠かせないように。
なにもかも「中止」ではなく、なにか策を考えなければ!)

久留米教会でも、やはり年配の信者さんたちは年中、熱心にロザリオで祈っていらっしゃいます。
そんな先輩方の、敬老のお祝いの祝福がごミサの中で行われました。

ロザリオという言葉はラテン語ではロザリウム、『バラの冠』という意味です。

1571年10月、ヨーロッパのキリスト教を滅ぼそうとするトルコ帝国にキリスト教徒がロザリオの祈りによって勝利しました。
その記念にと、時の教皇ピオ5世はその日を「ロザリオの聖母マリアの祝日」と定めたとされています。
(平和的なマリア様へのとりなしの祈りの起源が「戦争の勝利」だとは、、、。)

ロザリオの祈りは、イエス様の生涯を黙想しながら、聖母マリアの取り次ぎによってわたしたちの救いと世界平和の恵みを求める祈りです。
(女子パウロ会のホームページを参考にしました。)

 ロザリオの祈りには、祈り方の明確な決まりがあります。

一つひとつにちゃんとした意味があり、それはそれで大切な祈り方ですが、祈りにはいろいろなかたち、やり方があってもよいと思います。

わたしは、なにか大きなことがあった時、例えばやっかいな問題が起きた時、苦しい気持ちや痛い目にあった時などには神様にこう話しかけます。

「神様、この出来事を通して、私に何を語りかけていらっしゃるのですか?」

こう神様に問うことも、祈りの一つのかたちかと思います。
このことばを、一日中、とにかく何度も何度も唱えます。
答えが自分で見つかるまで。
神様が答えに導いてくださるまで。

 

 

エルサレムの「嘆きの壁」と呼ばれる西の壁です。

立って壁に向かって祈り、または椅子に座ってずっと旧約聖書(モーセ五書)を読んでいます。
ずっとです。
(え、仕事は?とか思わない思わない。)
ずっと彼らは祈っているのです。

この写真を撮った日はバルミツバ(少年たちの13歳の成人式=毎週行われています)の日でしたので、特に熱心な正統派ユダヤ教の方々が多かったのですが、それでも、彼らの神との誠実な向き合い方にはとても衝撃を受けました。
この壁の様子をテレビで観たことはありましたが、実際に目の当たりにし、祈っている人の崇高さを感じたのです。
「信じる」ということはこんなにも尊い美しさなのか、と。

 

全イスラエルの王となったダビデは、預言者ナタンから王朝の永久を約束された神の言葉を聞き、感謝の祈りをもって応えています。
「主なる神よ、あなたが語られたようになさってください」
(Ⅱサムエル7・25,Ⅰ王8・26)

次のソロモンは、神殿の奉献祭の際に民のために祈りを捧げており、その後の王たちにとっても、民のために祈ることは公的な職務とされていました。

旧約の預言者たちは、神との仲介者として祈っており、エレミヤは次のように讃えられています。
「民と聖なる都のために不断に祈っている神の預言者」
(Ⅱマカバイ15・14)

もしも祈りのためのことばをお探しならば、詩編をめくってみてください。
詩編はもともと、祈りに使用することを目的として編集されています。
イエス様もいつも詩編を祈りの糧とされていました。

パウロは祈りに言及するとき、「いつも」「どんなときも」「絶えず」「昼も夜も」などの言葉で語っています。

「祈る」という行為は、十字架の前で跪いて手を合わせることではなく、「いつでもどこでも神様に話しかける」ことなのだと、色々な方のお話を聞いていていつも思います。

 

福音書には、祈りに際して3つのことを必要とすると書かれています。

① 人を赦すこと(和解すること)
 (マルコ11・25,マタイ5・23~24、6・14)

②他者との一致を実現しようと努めること
 (マタイ18・19)

③自分の過失を思い出して悔い改めること
 (ルカ18・9~14)

 

わたしたちが重視すべきは「何をどこでどう祈るか」ではないのです。
信じているのですから、委ねましょう。
信仰を持っているのだから、人を赦しましょう。
いつも守られていることを、覚えていましょう。

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サルヴェ・レジナ

元后 あわれみの母
我らの命、喜び、希望
旅路からあなたに叫ぶエバの子
嘆きながら泣きながらも
涙の谷にあなたを慕う
我らのためにとりなすかた
憐れみの目を我らに注ぎ
尊いご胎内の御子イエスを
旅路の果てに示してください
おお、いつくしみ、恵みあふれる
喜びのおとめマリア

神の母聖マリア、わたしたちのために祈ってください。
キリストの約束にかなうものとなりますように。

 

派遣されたわたしたち

ミサに与るために、日曜日の朝、いつもよりも早く起きて家事を終わらせる。

そして、早めに教会に行ってお祈りをし、一週間の感謝を伝える。

ミサ前に幾人かの方々と言葉をかわす。

ミサにみなさんとともに与る。

新しい一週間の始まりに、決意を新たにする。

ミサ後に神父様にお声をかけ、また幾人かの方々と交流する。

本当にすがすがしい気持ちになります。

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あらためて、ミサに参列してご聖体をいただく意味と意義について考えました。

以前もご紹介した、故アドルフォ・ニコラス神父様の本にある、わたしがみなさんにもう一度(何度でも)お伝えしたい言葉を書いておきたいとおもいます。

☆教会がミサを祝うと同時に、ミサが教会を造るという相互関係を、司祭も信徒も皆が意識しなければならなりません。
 ここに私たちのアイデンティティがかかっています。

☆ミサは個人の信心ではなく、教会にとってそのアイデンティティを表す文化的・歴史的な表現です。
 ミサを祝うことによって、私たちはキリストとの交わり、またお互い同士の交わりを新たにします。

☆ミサは教会の顔である。

☆ミサはラテン語で「派遣されている」という意味です。
 「行きなさい、あなた方は派遣されている。」
 「ここで体験したことを生きなさい。」ということです。

 

毎年10月は宣教の月で、最後から2番目の日曜日は「世界宣教の日」とされています。

宣教、というと「宣教師」とか「一信者には恐れ多い」といったイメージがあるかもしれませんが、これはわたしたち一人ひとりに向けられた、わたしたちの使命なのです。

わたしたちは、周りにいるひとに「教会について」「信仰とは」と聞かれたときに、目を見て、素直な心で、優しい言葉で語りかけることができるように準備しておかなければなりません。

 

2021年「世界宣教の日」の教皇メッセージのテーマです。

「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」
(使徒言行録4・20)

聖書のこの箇所は、ペトロとヨハネが捕えられ、尋問された時のものです。

「神に聞き従うよりも、あなた方に聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか判断してください。
私たちとしては、自分の見たことや聞いたことを、話さないわけにはいきません」
(フランシスコ会訳)

そう言われた大祭司たちは、二人を罰するすべをなくし、彼らを釈放せざるを得なくなりました。

「信仰は聞くことから始まります」(ローマ10・17)とパウロが言っているとおり、キリスト者はイエス様の言葉に出会い、教え導いてくださる先輩信徒や司祭の言葉に耳を傾けながら生きています。

信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょうか。
聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょうか。
宣べ伝える者がなければ、どうして聞くことができるでしょうか。
遣わされなければ、どうして宣べ伝えることができるでしょうか。
(ローマ10・14)

聞いて信じているわたしたちが、それぞれの場所で周囲に宣べ伝えていく使命を帯びていることを忘れないようにしましょう。

聖書を論じる必要はありません。

わたしたち一人ひとりは「神にささげられた、キリストのかぐわしい香り」(Ⅱコリント2・15)です。
このことを心に刻みながら、周囲にその香りをふりまく生き方を心がけたいと思っています。

以下、教皇様のメッセージを少し抜粋します。

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このパンデミックの時代、正しいソーシャルディスタンスという名目で、無関心と無感動をマスクで覆って正当化する誘惑に直面する中で、求められる人との距離を、出会い、世話、活動の場にできる、あわれみの宣教が急務です。

わたしたちが受けたものすべて、主がわたしたちに与えてくださったものすべては、わたしたちがそれを持ち出し、他の人に無償で与えるために主から与えられているのです。

https://www.cbcj.catholic.jp/2021/06/29/22623/

 

信仰を持つこと

世界には素晴らしいリーダーがたくさんいらっしゃいますが、今日書いてみたいのは、ドイツのアンゲラ・メルケル首相についてです。

ドイツでは26日に総選挙が行われ、その結果の如何に関わらず、数年前に自ら決断されていた通りにメルケル首相は退任されます。

2015〜2016年にかけてシリア難民を100万人以上受け入れた際には、世界がその決断を称賛しました。
拒むこともできたのに、弱者に共感して国境を開き社会を巻き込んでいく姿に、当時彼女には「ドイツの母」と称されるほどの賛辞が贈られました。

ですが、予期しない展開が待っていました。
難民が次々と事件やテロを起こすのです。
社会は一気に不安に陥ります。

そして選挙で負け、2018年には党首を退任し次の選挙後には政界を引退する、と表明していました。

 

 

今回の退任にあたり、以前読んだ彼女の本を改めて読み返してみました。

旧東ドイツ出身で、父親は牧師であるメルケル氏は、とても熱心なプロテスタント信者として知られます。
実際、先ほど書いた難民受け入れの政策は彼女の信仰的確信の現われだと言われていました。

この本によると、首相としてのメルケル氏はキリスト教の信仰についてあまり公に強く語ることは控えていたようです。

ですが、本の中の様々な場での彼女のスピーチなどからも、読めばすぐにわかるほどの篤い信仰の持ち主であることは間違いありません。

「信仰と、希望と、愛。
これらが、かなり多くのものごとにおいて、わたしを導いていると思います。

ですがわたし自身は信仰に関していつもはっきりと確信があるわけではなく、ときには疑いも抱きます。」
と述べています。

 

一国のリーダーが迫られるほどの決断の場はないとはいえ、わたしたちにもこちらかあちら、どうするかの判断を迫られる場面はあります。
そのとき、そこに信仰による影響があるでしょうか。

あるときのスピーチで、メルケル氏はこう言っています。

「あらゆる問題、毎日絶望してもおかしくないような問題にもかかわらず、キリスト教信仰はわたしたちに、明るく生きる能力も与えてくれるはずです。
自己満足に浸るべきではありませんが、わたしたちにはたくさんのことが動かせるのだ、と言ってもいいでしょう。
25年前の東ドイツでのデモを思い出すならば、教会で行われたこと、祈りやろうそく、変化を呼び起こした平和的な手段を思い出すならば、わたしたちドイツ人は、ものごとを好転させる力についてたくさんのことを語れるでしょう。
わたしたちは、キリスト者としてもそのことを発言していくべきなのです。」

また、あるときにはこう話しています。

「神は人に作用する火なのです。
この作用する火を、わたしたちも自らの内に持っているべきだと思います。

キリスト教信仰は、わたしたちにとって善き力です。
作用する火であり、わたしたちはその火を使って、すでに成し遂げたことを喜びと共に眺めることができますし、その火のもとにいれば大きな問題の前でも目を閉じる必要がなく、その火を通して、これから来る人々のために努力を続ける力を得るのです。」

たしかに、わたしが前向きで明るくいられるのは、信仰によるものだと気づかされます。

神様がわたしのうちに灯してくださった火が、小さく揺らめいているのを感じることがあります。

そして、信仰を持っている友人と話すと、心地よい優しさと良い影響を感じます。

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「信仰を持つこと、それ自体がお恵みである」といつも思っています。

信仰は、希望していることを保証し、見えないものを確信させるものです。
(フランシスコ会訳)
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
(新共同訳)
(ヘブライ11・1)

信仰を持っている人でも、この世での望みは同じではないでしょう。
少なくともキリスト者としては、大きな視野で望みを持っていたいものです。

信仰を持っている人とは、
望んでいること(希望=いつも神様がともにいてくださること)を持っていて、
目に見えない事実(愛=どんなときも神様がともにいてくださること)を信じている人のことだと思うのです。

 

さぁ、ようやく。
今週末は秋晴れの日曜日の朝、教会でミサに与れることでしょう!

スケープゴート

秋晴れの、美しい、気持ちの良い季節です。

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家のあちこちに、十字架、マリア像を置いています。

寝る前に祈るときも、小さな手の中に納まるサイズの十字架を握りしめています。

みなさんもそうではないでしょうか。
つい、お気に入りの十字架やマリア像の前で手を合わせて祈ってしまう、そういう習慣が身に付いている信徒は多いかと思います。

以前、ある神父様がお説教でおっしゃいました。

「イエスの十字架は、首から下げるダイヤモンドの入ったアクセサリーではない。」

 

教皇は訪問先のスロバキア東部プレショフで、十字架や(キリストの)磔刑像はしばしばキリスト教徒によって表面的に使用されていると講話した。

欧州では、東欧の複数の極右政党を含む多数の政党が、十字架を党旗やシンボルに取り入れている。

教皇は、多くのキリスト教徒が十字架を首にかけたり、家の壁にかけたり、自動車やポケットの中に持つなどしているが、実際にイエスとつながっていないと指摘。
「十字架上のイエスを見つめるために立ち止まり、キリストに心を開くのでなければ、何の意味があるだろう。
十字架を奉献の対象におとしめるのはやめよう。
ましてや、政治のシンボルや、宗教・社会的地位の表彰としてはならない」と述べた。

(9/14ロイター配信ニュースより)

 

スケープゴートという言葉をご存知でしょう。

簡潔にいうと「多くの人の罪を負わされた人」という感じでしょうか。

アロンは生かしておいたその山羊の頭に両手を押しあて、イスラエルの子らのすべての咎とすべての背き、すなわち、彼らのすべての罪をその山羊の上に告白し、それらをその頭に置き、係の者の手で荒野に送り出される。
その山羊は彼らのすべての悪を担って、不毛の地へ行く。
係の者はその山羊を荒れ野に送り出す。
(レビ16・21〜22)

最近はスケープゴーティング(罪を着せる行為、報道)が頻繁に目につく気がします。

例えば、音楽イベントの集客が多くお酒の提供もあった、と報道があると、「主催者」「参加者」「出演者」「許可した行政」=悪だ罪人だ、と囃し立て、「参加者に感染者が多く出たらしい」=「ほら見たことか、当然の報いだ」

すべてのことにおいて、このような考え方が蔓延ってきてはいないでしょうか。

以下、イザヤ書の53章を抜粋します。

彼は主の前で若枝のように、
乾いた土地の中から生え出た。
彼は、わたしたちの背きの故に刺し貫かれ、
わたしたちの悪の故に打ち砕かれた。
彼の上に下された懲らしめが、わたしたちに平和をもたらし、
彼の傷によってわたしたちは癒された。
わたしたちはみな、羊のように迷い、
それぞれ自分の道に向かったが、
主はわたしたちみなの悪を彼に負わせられた。

もし彼が自らを賠償の捧げ物とするなら、
彼は末永く子孫を見るだろう。
主の望みは彼の手によって成し遂げられる。
彼は、多くの者の罪を担い、
彼らの背きのために執りなした。

彼=scapegoat です。
彼=メシアのことを予言しているのだ、と当時の人々は捉えていました。

このイザヤ書に呼応する形で書かれたのが、ペトロの手紙の次の箇所です。

わたしたちが罪に死んで義に生きるため、キリストは十字架の上で、わたしたちの罪をその身に負われました。
その傷によって、あなた方は癒されました。
あなた方は、羊のように迷っていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方の元に帰ってきたのです。
(1ペトロ2・24〜25)

同時に理解しておきたいのは、イエス様は「大勢の罪人の罪を背負って死のう」と思っていらっしゃったわけではない、ということです。

イザヤ書の予言していた彼(メシア)はイエス様なのだ、と亡くなられてご復活された姿を見てようやく理解して納得した弟子たちが、「わたしたちの罪のために(代わりに)死んでくださったのだ!」と後になって言ったのです。

イエス様を信じる人が多くなり、このままでは祭司たちの尊厳が危うくなると危惧した大祭司のカイアファは、「一人の人間が民に代わって死に、国民全体が滅びないほうが、あなた方にとって得策である」と言ってイエス様を殺そうと決意しました。(ヨハネ11・50)

この考え方、代理死、贖罪死も、ある種のスケープゴート的なものでした。

わたしたちの信仰は、イエス様がわたしたちの罪の代わりに死んでくださったからではないはずです。

人々のために生き、小さき弱き者、虐げられた人々をも導き、自分自身には罪はなく正しい人であったのに、十字架につけられたのです。

 

十字架を身に纏うことで信仰が篤いと満足し、わたしたちの罪を担ってくださったイエス様はわたしたちの罪を赦してくださると自分勝手な理解をし、他人の罪を勝手に判定して「わたしは違う」と息を巻く。

そのようなキリスト者であってはならない、と最近とても考えています。

みなさまは、どう思われますか?
ミサもなく、教会で集って語り合えないこの日々、みなさまとこうしたお話もしたいのです。

 

 

故郷を逃れる人々

1980年代の内戦状態のエチオピアから、モサド(イスラエルのユダヤ諜報機関)のエージェントたちが1万人近いユダヤ人難民をイスラエルに避難させたという実話をもとにした映画を観ました。
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船で紅海を渡って逃がす「モーセ作戦」と、飛行機(先月のアフガニスタンからの脱出の映像のように)での「ヨシュア作戦」が実際に行われたのだそうです。

映画の中で、スーダンの難民キャンプに偽装難民として連れてこられたうちのひとりが、エージェントに文句を言います。

「わたしの父は、ここに来る途中で死んだ。夫とは途中ではぐれてしまった。子どもは病気だ。ここでは食事もまともに食べられない。
約束の地イスラエルに連れていくと言われて信じたのに。」

どこかで聞いたようなお話ですね。

モーセを信じ、それなりに安定していたエジプトでの暮らしを自ら捨て、主が約束された「乳と蜜の流れる」豊かな地を目指して40年もの間、旅をしました。
(途中、「エジプトの暮らしの方が良かった」「食べるものもない」「肉が食べたい」とか文句を言いながら。)

彼ら、古代のユダヤの人々もある意味では難民と言えるかもしれません。

しかし、現代の難民と言われる人々には選択の余地のない、切迫した状況下を逃れるしかなかった人が多いのです。
古代のユダヤ人のように安住の地を求めて自らの意思で国を出る、という状況とは違います。

オリンピックの期間中に亡命を申請してポーランドに受け入れられたベラルーシの選手がいましたが、彼女のようにすぐに他国に受け入れられる幸運な人は稀なのではないかと思います。

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聖書では、イスラエル人はかつては自分たちもエジプトで寄留者であったことを忘れずに、神が困窮者や貧しい者たちを保護するよう心を配っていることから、通りすがりの異邦人をも同胞のように大切にしていました。
神の前では誰もが寄留者であり、借地人にすぎない(レビ25・23)、との考えがあったのです。
新約の時代になると、信仰者はこの世には永遠の住まいをもたない(2コリント5・1~2)、地上では寄留者・巡礼者であり、天の国に入るまでは信仰者は旅人の生活を送るのだ(1ペトロ2・11)という教えに昇華していきます。
(聖書思想辞典より考察) 

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現在、日本の人口の半数を超える8,240万人が難民となり故郷を離れざるを得ない状況にあると言われています。
ですが、難民となった人の正確な人数は把握できない場合も多いと思われます。

2020年末時点で最も多い難民の出身国はシリアで、アフガニスタンやイラクといった紛争地域を抱える中東の人が全体の半数以上を占めているそうです。

政治的な迫害などが原因の政治難民
経済的貧困から外国へ逃避する難民は経済難民
自然災害、飢餓、伝染病などの災害難民
宗教的追放や域内外の紛争から逃れた難民

先週閉幕したオリンピック・パラリンピックでは、前回大会に続いて2回目となる難民選手団が結成されていたことも話題になりました。
今回参加した6名の選手とその家族は、紛争・圧政、国内の混乱から逃れて難民となった人々でした。


「世界難民移住移動者の日」は、日本では9月第4日曜日に定められています。
「各小教区とカトリック施設が、国籍を超えた神の国を求めて、真の信仰共同体を築き、全世界の人々と『共に生きる』決意を新たにする日」として設立されました。

教皇フランシスコが選ばれた今年の9月26日のテーマは、
「ひたすら『わたしたち』でありますように」

遠い見知らぬ国の人々のこと、ではなく、この問題について知ること、そして自分の問題として捉えて考えてみる機会になれば、と思います。

 

日本カトリック難民移住移動者委員会
https://www.jcarm.com/

第107回 世界難民移住移動者の日(2021年度) 委員会メッセージ
https://www.cbcj.catholic.jp/2021/08/10/22983/

 

 

家族を築く

聖堂は閉められていますが、5日の日曜日は2組の結婚式が執り行われました。

参列者はごく限られたご家族などで、ささやかな中にも優しい幸せに包まれた素敵なお式でした。

1組目は、新郎側のご両親が緊急事態宣言ということで久留米に来ることが叶いませんでした。
2組目は、ご家族がベトナムから日本に来ることができませんでした。

ということで、youtubeでライブ配信をすることになったのです。

便利な世の中です。

このようなことが、2年前に想像できたでしょうか。
結婚式に親が参加できない。
友人をたくさん招いてパーティを開くことはしない。

このような世の中になり、本来ならば一世一代の大イベントであるはずの結婚式と披露宴は、新しいカタチになりました。

カトリック教会に於いて、結婚は7つの秘跡のひとつとされています。

厳密には、新郎新婦共に洗礼に与っている場合が秘跡とされますが、人生のある時に偶然出会った二人が家族になるという結婚は、神様の計らいであるとしか思えません。

現代人にとって、結婚とは「制度」にすぎない、という考え方もあるでしょう。

もちろん今でも、民族や宗教によっては親が結婚相手を選ぶ、ということもあります。

旧約聖書には、結婚生活についての苦労や嫁姑問題、夫の務め、妻の役割など、多彩な記述が随所にあります。

4000年以上前から変わらぬ苦労があったのか、と笑ってしまうような箇所もあります。

創世記の「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」として女性は男性のために造られた、とか、出エジプト記の「不妊の妻は離別される」、「夫の権利を尊重するため、姦淫の妻とその相手は死罪(夫が姦淫してもおとがめなし)」といった記述は、現代に生きるわたしたちには抵抗がありますが。。。

 

旧約聖書のルツ記は、短い文章の中に、結婚によって新しく築かれる家族の愛が書かれています。

BC450ごろ書かれたとされるルツ記は、旧約聖書のなかで一番短い書物ですが、当時のイスラエルの結婚に関する慣習が書かれています。

兄が子供を残さないまま亡くなった場合、その弟が兄嫁を娶って子孫を残すことが普通になされていました。
寡婦であったルツはイスラエル人ではありませんでしたが、ナオミ(姑)の働きかけで親戚のボアズに嫁ぎ、子どもが生まれます。
その子がダビデの祖父にあたることから、異邦人ルツは旧約の中でも重要な女性となりました。

わたしがルツ記を好きな理由は、ルツのナオミへの家族愛が書かれているからです。

夫が亡くなり、子どもがいなかったルツは故郷であるモアブ人の地へ戻ることもできました。
ですが、一人になってしまう姑のナオミを気遣って、一緒にベツレヘムへ戻るのです。

結婚により、彼女にとって姑は他人ではなく、家族になったのです。

 

家庭は2人で築くものでしょう。

ですが、結婚によって家族が築かれるのです。

わたしには妹が2人いて、義弟が2人できました。
彼らはわたしにとって、大切な家族です。

妹たちの結婚によって、わたしにも家族が増えました。
幸せのおすそ分けです。

 

 

それぞれの持つ個性

パラリンピックが行われています。

わたしは、これまでの人生で「こうすればよかった」と思わないように努めて生きてきましたが、唯一思うこと。

「パラリンピックを目指して何かスポーツを極めればよかった!」

これだけは後悔しています。

わたしの個性で一番自慢できる点は、障害があることです。

これは、障害を持つすべての方を代弁しているわけではありません。
わたし個人の思いです。

わたしのことをご存知の方には、おそらくこう思ってくださっている方がいらっしゃるでしょう。
「体が不自由だとは思えない、バイタリティのある人」だと。
わたしにとって、片足が義足であるということはわたしの「強み」なのです。

 

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イエス様の時代、精神的に障害がある人には悪霊がついていて、身体的に障害がある人は前世や本人が犯した罪による穢れ、罰だと考えられていました。

旧約の時代には、サムエル記下5章にあるエピソード(「ダビデの命を憎むという足の悪い者、目の見えない者を討て。」という記述とそのことにまつわるエブス人との争い)があり、このことから、目や足の不自由な人は神殿に入ってはならないとされたのです。

レビ記では、イスラエルの人々は神によって聖別された民であるからこそ、神の掟に服従して聖なる者であり続けなければならない、と主が語っています。
(19章、22章)

それでも、他宗教に染まり偶像崇拝に走る民と、それを罰する(病気、障害、滅び)神という構図が聖書に書かれています。

同時に、申命記の十分の一税やレビ記の落穂に関する下りのように、社会的弱者を虐げてはならないということも書かれています。

3年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちで、相続地の割りあてがないレビ人や、あなたの町に住む他国の者や、孤児や、やもめが来て食べ、満ち足りるようにしなさい。
(申命記14・28~29)

穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ブドウも摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。
これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。
(レビ記19・9~10)

 

障害のある人は罪人であると考えられ、忌み嫌われていました。
触れたらその人まで穢れる、と思われていたため、人里離れたところに固まって暮らしていた人々もいたように聖書には書かれています。

ですが、イエス様はそうした人々を始め、娼婦、寡婦、といった社会的弱者を最優先にされます。

『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか?
本人ですか。それとも両親ですか』。
イエスはお答えになった。
『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである』」
(ヨハネ9・2~3)

ローマの人々への手紙3章で、結論とも言えることをパウロが書いています。

☆障害のあるなしにかかわらず全ての人は罪人であること
 (ユダヤ人もギリシャ人もみな罪のもとにある 3・9)
☆イエス様の贖いの業を通して神の救いを得ることが出来る
 (3・22〜24)

 

障害があることはわたしの強みであり個性だ、と、わたしは思っています。

パラの選手たちの競技を見ていて、「すごい!」「なぜあんな身体能力が!?」と感じるでしょう。
彼らはその個性を生かして努力を重ね、一見不可能な能力を驚くほど発揮するのです。

入院していたころ、お見舞いに来てくださるシスター方は決まって「あなたは神様に選ばれた子だ」とおっしゃってくださいました。

病気をしたことが「選び」「恵み」だということではなく、そのことを受け止めて前向きに治療に取り組むわたしのことを、そう言ってくださったのです。

信仰によって、わたしたちは誰もが神様からの憐れみを受けることができる。

このことをわたしも、何度も身をもって実感しながら生きてきました。

まだ遅くないかも!?
何かスポーツ始めようかな、、、。

 

隣人愛のかたち

4回目の緊急事態宣言となり、久留米教会も教区の決定に則り、公開ミサが中止となりました。
「宣言には意味がない」という意見があるようですが、そのように不満を抱いてもなにも状況は変わりません。
わたしたちはいま自分にできることを粛々と、そして、感染しない・させない対策を徹底的に行うのみです。

そんな中、パパ様のお言葉がまた心にとまりました。

神は、日々生じる問題から、私たちを解放するために来られるのではありません。
愛の欠如という本質的な問題から、私たちを救うために来られます。
愛の欠如は、私たちの個人的、社会的、国家間、また環境の問題の根本原因です。
自分のことしか考えないことは、すべての悪の始まりなのです。

God does not come to free us from our ever-present daily problems, but to free us from the real problem, which is the lack of love.
This is the main cause of our personal, social, international and environmental ills.
Thinking only of ourselves: this is the father of all evils.
8/17教皇フランシスコ Twitter

夏の甲子園、2回戦を目前に辞退した宮城県代表の東北学院の主将のインタビュー、お聞きになりましたか?
監督と選手たちの話し合いで、「感染した人のことはみんなで守ってあげようという話があった」と報道されていました。

高校生のことばです。
わたしたち大人も、彼らを見習い、恥じない言動をとらなければならないなと身が引き締まる思いがしました。

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何度も書いていますが、今回もお伝えしたいことです。

◆「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」
(マタイ7・12)

この教えは、姪たちが小さいころから彼女たちにも度々言い聞かせてきました。

「おなじように、自分がされたくないことは人にしてはいけないのよ。」とも。

この黄金律は、イエス様の時代よりずっと以前から、ユダヤ人の間で律法全体の要約として語られていたことでした。

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◆「あなた自身にとっていやなことは、あなたの隣人に対してもしてはならない。
それは律法全体であって、あとのものはそこから推し計られるものにすぎない。」

◆「あなたの隣人を裁いてはならない。あなた自身が隣人の立場にならないためである。」

◆「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」

これらもすべて、福音書に書かれる遥か昔からユダヤ人の間では格言として知れ渡っていたことばでした。
イエス様も、黄金律はモーセの律法の要約だと考えていたようです。

◆「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」
(ㇾビ19・18)

古いアラム語の訳では「あなたの隣人を愛しなさい。あなたを不快にさせることはどんなことでも、隣人にしてはならない!」となっているそうです。

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そのとき、ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
(マタイ22・34~40)

イエス様はユダヤ人であり、ユダヤ教の教えのもとに育ち、暮らしておられました。

福音書に記されている教えの重要な箇所からも、イエス様が旧約の教え、律法をとても大切にされていたことが分ります。

黄金律と隣人を愛することの戒めは、その最たる例でしょう。

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隣人愛の実践に尽くし、「これはキリスト教に限った教えではなく、遥か昔からの格言なのよ」と、わたしたちが周りの人にも伝えていくのです。

何かが変わっていくかも、という希望を持って。

 

少しずつ、秋の気配が。

求めている平和とは

15日までの10日間は、カトリック教会の平和旬間でした。
各々、平和への祈りを捧げ、平和とは何かを考える機会をお持ちになられたのではないでしょうか。

8月15日は、わたしたちにとってたくさんの意義深い日です。
福音宣教の始まりである、フランシスコザビエルが鹿児島に上陸した日
終戦記念日
日本の伝統文化であるお盆
そして、聖母マリア様の被昇天の記念日

宮﨑神父様はお説教の中でこうおっしゃいました。
「8月15日は平和を噛み締める日です。そして、故人を想い、祈り、同時にいずれ訪れる自らの死を重ねて黙想する日です。」

あなたは何のために平和を求めますか?

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わたしはいつも、パパ様の優しい笑顔に平和を感じます。

先日ご紹介した、教皇フランシスコ訪日公式記録集をようやくじっくりと読みました。

広島平和記念公園での「平和のための集い」では、プロテスタントの各宗派の代表だけでなく、神社や様々な仏教の宗派の代表、日本のユダヤ教、ムスリム、ロシア正教などの代表者の方との交流、参加があったことをご存知でしたか?

核兵器の廃絶、戦争のない世界の実現はもちろん平和の重要な条件ですが、最も重要な要件は「人々の間に平和があること」だと思うのです。

コロナ禍において、世界中のいたるところで人間の愚かさ(差別、偏見、誹謗中傷)、不平等などが改めて顕になりました。

紛争のない国であっても、そうした醜い人間の状態が渦巻く状況で平和な社会と言えるでしょうか。

これまでは、世界の差別の大要因は「人種」と「宗教」の問題が根底にあるからだと考えていました。
そして、その根本的な原因の一端はキリスト教にあるのではないかという葛藤があります。

コロナウィルスが世界を席巻する今、問題はさらに大きく深く広がってしまっている気がします。

今このような時代だからこそ強く思うのは、平和はわたしたち一人ひとりの中で育てるべきことであり、平和のためにわたしたちが求めるべきは、お互いの他者への思いやりだということです。

世界が繋がっている一つの社会なのだ、とわたしたちは今、思い知らされているはずです。

平和は自分のためだけに求めるものではないはずです。

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詩編の、いつも心の中に響かせたい、美しい平和の祈りです。

いつくしみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、
まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。
(新共同訳)
いつくしみとまことはともに出会い、義と平和は抱き合う。
まことは地から生えいで、義は天から身をかがめる。
(フランシスコ会訳)
(85・11〜12)

(122・8)

わたしはいおう、わたしの兄弟、友のために。
『あなたのうちに平和があるように』」

(122・8)

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オリンピック陸上競技800メートルの準決勝で、転倒してしまった選手にもう一人の選手が巻き込まれたシーンをご覧になりましたか? 

巻き込まれた選手が最初に転倒した選手に手を差し伸べて抱き起こし、抱き合った後、「行こう」「ゴールしよう」と声をかけ、二人で揃って走り出して他の選手から1分近く遅れて一緒に肩を並べてゴールしました。

そこに、平和がありました。

少なくともわたしたちにできることは、周囲の人々に思いやりと優しい気持ちを持って接し、お互いが気持ちよく過ごせる日常を作っていくことでしょう。

平和はそこから生まれます。

 

 

自分なりの実り

毎年、8月になると台風が接近し、猛暑を少し和らげるという自然の営み。
地球が温暖化しているとはいえ、このサイクルが日本の季節を作っていることには驚きます。
被害がなければ良いのですが、台風がいくつか通り過ぎてくれると、過ごしやすい夏になります。

もしも無人島に何か2つ(ひとつではない)持っていけるとしたら?

わたしは迷わず、聖書とワイン一箱(一本ではない)を選びます!

聖書を選んだのは、何も真面目で敬虔な信者だからとかではなく、純粋に読むのが面白いからです。
聖書とワインさえあれば、退屈することはありません。

旧約にはぶどうの木、ぶどう園のたとえが数多く語られています。

それに呼応するように、新約でもぶどうに関する記述があります。

旧約には直球で「飲み過ぎ注意!」という記述も結構あるのですが、多くは「役に立たない、神に背いたものの象徴」「実を結ばなければ価値のないもの」として語られます。

詩篇80のタイトルは「荒らされたあなたのぶどう園を元どおりに」

あなたはぶどうの木をエジプトから移し、異邦の民を追い出して、これを植えられました。
あなたは前もって地を整え、その木を根づかせ、生い茂らせました。
万軍の神よ、立ち返ってください。
天から見下ろし、目を留めて、このぶどうの木を顧みてください。
(9〜10、15)

BC722年のアッシリア軍侵攻による北イスラエル王国滅亡の直前の自分たちを、ぶどうの木にたとえています。

イザヤ書5章のタイトルは「ぶどう園の歌」

さあ、エルサレムに住む者とユダの人よ、わたしとわたしのぶどう園の間を裁け。
ぶどう園になすべきことで、わたしがしなかったことがまだ何かあるか。
わたしは善い実が結ぶのを期待したのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
まことに、万軍の主のぶどう園とは、イスラエルの家。
主が喜んで植えられたのはユダの人。
(3〜4、7)

イザヤという人はユダ王国の貴族で、エルサレムに暮らしていたとされています。
北王国イスラエルが南王国のユダに攻め入った戦争とその後のアッシリアのユダ侵略が背景にあるのが、本人が書いたとされる第一イザヤ(1〜39章)です。

エゼキエル書15章のタイトルは「無用のぶどうの木」

人の子よ、ぶどうの木はほかの木、すなわち森の木々の間に生える木の枝より優れているだろうか。
その木で何かを作ろうとするだろうか。
それでものを掛ける木釘が作れるだろうか。
それどころか、薪として火にくべられるだけである。
その両端は火で焼き尽くされ、その芯は黒焦げになる。
それが何かに役立つだろうか。
そのままの時でも役に立たないのに、火に焼け、黒焦げになってしまえば、いったいなんの役に立つというのか。
(2〜5)

先ほどのイザヤ書の箇所と同様に、イスラエルが神に背き続け、不忠実であったことへの神の裁きを表現しています。

このように旧約では、救いようのないぶどうの木を神が見放した=エルサレムの崩壊、が語られ、ひたすらに「神に立ち返ること」の重要性が書かれてます。

一方で、新約におけるぶどうの木のたとえは「苦しみのシンボル」であると同時に、「希望の象徴」でもあります。

ヨハネ15章のタイトルは「イエスはまことの〈ぶどうの木〉」

わたしはぶどうの木であり、わたしの父は栽培者である。
わたしにつながれていて、実を結ばない枝はすべて、
父がこれを切り取られる。
しかし、実を結ぶものはすべて、もっと豊かに実を結ぶように、
父がきれいに刈り込んでくださる。

わたしのうちに留まっていなさい。
そうすれば、わたしもあなた方のうちに留まる。
ぶどうの枝が木につながれていなければ、枝だけで実を結ぶことはできない。
それと同じように、あなた方も、
わたしのうちに留まっていなければ、実を結ぶことはできない。
わたしはぶどうの木であり、あなた方は枝である。
人がわたしのうちに留まっており、わたしもその人のうちに留まっているなら、
その人は多くの実を結ぶ。
(1〜5)

できない、ダメなことだけでなく、どうすれば実のるか、どうすれば多くの実を結ぶことができるかが書かれているのが新約のイエス様の言葉なのです。

わたしたちは、この言葉に象徴されるような信仰心を日々鍛えることが必要だと思います。

実を結ぶ、それぞれにとってその意味は違うかもしれません。

わたしにとっての実りとは、
1番大切に思っている家族のためによりよく生きること。
1番大切にしている教え「何事につけ、人にしてもらいたいと思うことを、人にもしてあげなさい。」を努めて毎日行うこと。

自分なりの実を豊かに結ぶことのできるよう、日々を大切にしたいと思っています。

 

 

 

余談:ワインといえばフランス、というイメージの方が多いかと思いますが、イスラエルの北部は肥沃な土地で、ワイン栽培が盛んです。もちろん今でも多くのワイナリーがあり、とても美味しいワインを作っています。
カルメル山という名前はへフライ語で「神のぶどう園」という意味です。
買ってきたコーシャーワイン(ユダヤ人のみが栽培から収穫、瓶詰めまで全ての工程を行なったワイン)が我が家にまだありますが、現地で飲むのとはやはり味わいが違います。。。
イスラエルが恋しい!

 

暑さを乗りきる術

先週の久留米は、毎日体感気温が40度近かったですね!

日曜日の雨で、暑さが少し落ち着いてくれて助かります。

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この夏の間、立ち止まって休むことを覚えましょう。

携帯電話の電源を切って、他者の目をしっかりと見ましょう。
沈黙の時を持ち、自然を観想し、そして神との対話のうちに生まれ変わりましょう。
(マルコ6・30-34参照)

During summer time, let us learn how to take a break, turn off the mobile phone to gaze into the eyes of others, cultivate silence, contemplate nature, regenerate ourselves in dialogue with God.

2021/7/19教皇フランシスコ twitterより

このTwitterのメッセージ、ものすごく心に染みました。

 

2年前の8月、イスラエルに巡礼に行きました。

「暑い」という言葉では語れない日差しだったこと、生涯忘れられません。

 

 

標高400メートルほど(ただし、立地がマイナス400メートルの死海の西側)のマサダ遺跡の気温は、携帯の温度計で46度でした。

久留米の猛暑は湿度も高いため、家事などで汗をかくと肌がべたつき、不快な感じがしますが、イスラエルはカラッカラの乾燥状態なので、汗が流れながら蒸発します。

毎日一万歩くらい歩いて旅を続けながらいつも思っていたのは、「この気候をイスラエルの人々、イエス様たちも暮らしていたんだ」と言うことでした。

そう思いながら歩くと、意外と頑張れたのです。

暑い
きつい

そう思うのをできるだけ控え、なんのために歩いているのか、何をしにここに来ているのか、そのことに集中するように努めました。

皆さんと同じようには行動できないこともありましたので、無理をせずに時には立ち止まり、一人で立ちすくんで沈黙の時間を持つこともありました。

 

冒頭にご紹介した、パパ様ツイッターのおことば、手帳に書いていて毎日読んでいます。

☆ 立ち止まって休む

☆ 他者の目を見る

☆ 沈黙の時を持つ

何かせわしなく過ごしていると難しいことのように感じるかもしれませんが、どれも簡単にできることです。

わたしは6月から膝を痛めていて、歩くのも椅子から立ち上がるのも辛い日々が続いていました。

「パウロみたいにとげが与えられたんだわ。
何か思いあがってることはないか、よく考えてみよう!」

そう思って、このところずっと割とよく立ち止まり、沈黙の時間を持つようにしています。

「暑い、暑い」と口にしてバタバタしていると、余計に暑くなる気がしませんか?

立ち止まって、少しだけ沈黙を保ってみると、目に見える景色も聞こえてくる蝉の音色も違ったものに感じます。

今年の夏も、これからが本番です。

暑さに負けず、乗り切って元気に暮らすために、パパ様のこのメッセージを心に留めてみませんか?

 

 

感謝の気持ち

東京オリンピック・パラリンピックが始まりました。
ようやく実現しました!
久留米教会の「こどもとともにささげるミサ」もようやく実現しました。

式次第の順番は変わりませんが、多少言葉遣いが平易になっています。
来月からも毎月第4日曜日に予定されています。

いつの大会でも、開会式は一番の楽しみで見ています。

今回の式典も本当に素晴らしかったと思います。

久留米教会とは全く関係ありませんが(いつもですが。。。)、そして式典のテーマがどのようなものだったのかは存じませんが、わたしは式典の中の至るところに「感謝の気持ち」を感じ、胸が熱くなりました。

前日までハプニングやスキャンダラスな出来事が数多くあり、世論も(報道されている限りでは)盛り上がっていたとは言い難い、大変困難な状況でした。

それでも、オリパラの誘致から今日まで、どれほどの方々がご尽力されたか。

どれほどの方々が影で動かれ、矢面に立ち、携わられたか。

 

世界的に活躍されているアーティストの皆さんと並んで、エッセンシャルワーカーと呼ばれる方々がたくさん出演者として登場されていました。

そうした全ての皆さんに「ありがとう!」と心から感じることができる開会式でした。

そして、演出の随所に「ありがとう!」と世界中の方々にメッセージを発しているのを感じました。

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あなた方は神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、思いやりの心、親切、へりくだり、優しさ、広い心を身にまといなさい。
互いに耐え忍び、誰かに不満があったとしても、互いに心から赦しあいなさい。
主があなた方を心から赦してくださったように、あなた方もそうしなさい。
これらすべてのことの上に愛をまといなさい。

感謝の人となりなさい。
キリストの言葉をあなた方のうちに豊かに宿らせなさい。

言葉にしろ、行いにしろ、何かをする時は、主イエスを通して父である神に感謝しつつ、すべてを主イエスの名において行いなさい。
(コロサイ3・12〜17)

「どんなことにも感謝しなさい」と1テサロニケにもあるように、わたしたちキリスト者の信仰の基盤は「愛」「感謝」なのです。
人や物事の粗探しをする風潮がはびこっている現在だからこそ、私たちは「愛」と「感謝」の信仰を実践すべきなのではないでしょうか。

7月25日は、新しく制定された「祖父母と高齢者のための世界祈願日」でした。

84歳の教皇様は「 主は永遠であり、決して引退なさいません。決してです。」とメッセージの中で述べられています。

「兄弟愛と社会的友愛を持って明日の世界を、嵐の後にわたしたちと子どもと孫とが生きる社会を築くには、あなたが必要です。」

高齢の方々、もちろん、自分の親だけではなく地域社会の先輩方への敬意と感謝の気持ちを忘れないようにしたいと思います。

 

 

 

聖書とは

「聖書の中で好きなストーリーはなんですか?」

そう質問されて、何か物語を思い描き、人にそれを話し聞かせることができますか?

「聖書には何が書かれているのですか?」

そう質問されて、読んだことのない方にわかるように、シンプルな言葉で説明できますか?

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モーゼとアロンの物語が好きで、最近このオペラをよく聴いています。

わたしの好きな作曲家シェーンベルクの作品です。

 

元旦のミサで読まれる、祭司による祝福の箇所です。

主はモーセに次のように告げられた、「アロンとその子らにこう言え、『あなたたちはイスラエルの子らをこのように祝福して彼らに言え、
〈主があなたを祝福し守ってくださいますように。
主があなたの上にみ顔を輝かせ、顧みてくださいますように。
主があなたにみ顔を向け、平安を与えてくださいますように。〉』。
(民数記6・22〜26)

旧約聖書で1番古い「祝福」に関する文言だそうです。

わたしが好きな物語の一つである、ヤコブが兄のエサウから長子の祝福を奪い取った話がありますが、この物語にあるように祝福は一度与えられたら人間が撤回することはできない、とされています。

ある方は、ヨセフの物語が好きだとおっしゃってて、スラスラとストーリーを話されていました。

 

最初の質問。

「聖書の中で好きなストーリーはなんですか?」
「聖書には何が書かれているのですか?」

実話や神話が書いてある聖なる書物、ではなく、
聖書は「人間とは何者か」ということが書かれている本だ、と教わりました。

一冊の書物ではありません。

さまざまな時代や思想を反映して書かれた、そして加筆修正を繰り返し、その時代に応じてアップデートされた、神と人の関係についての記述を収めた名作集です。

実際に、聖書を読んでいると随所にそのことを感じることができます。

少なくともミサに与っていれば毎週、新旧の聖書を読んでいるのですから、聖書とは何が書かれている書物なのかを人に話せるといいですよね!

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毎週のごミサでの共同祈願、いつも思うのですが、「あ!そうそう、そう思っていた!!」という言葉が書かれています。
「そうなんだ、やっぱりそうだよね。」
いつもそう思います。

⭐︎ 自己の価値観を人に押し付け、敵意と分断をあおるような社会の中の動きを退け、神のみ心にかなう平和を実現することができますように。

⭐︎ 苦境にあえぎ、心のよりどころを見失っている人々を顧みてください。
  神のいつくしみによる安らぎと新たな希望で支えられますように。

そして、今日の宮﨑神父様のお説教の中の言葉。

「神の働きに信頼し、希望を失った人々に希望を与えられる存在でいるように。」

なんのために毎週ごミサに与っているのか熟考できる、とても充実した日曜日でした。

 

 

賛美と感謝

今は絶賛「ヨセフ年」の真っ最中ということ、覚えていらっしゃいますか?

昨年の聖マリアの祝日(12/8)から今年の12/8まで、各信者は聖ヨセフの模範に倣うことで信仰生活を深めるよう、この特別年が定められています。

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毎日の生活に疲れたとき、あなたはどうやってモチベーションを高めていますか?

ヨセフ様は、穏やかな献身的な愛情を持って日常生活を神へ捧げることで、日々の一見つまらないことでも喜びに変えられました。

以前もご紹介した、教皇フランシスコの新しい使徒的書簡「父の心で」にはこうあります。

ヨセフの喜びは、自己犠牲の論理にではなく、自分贈与の論理にあるのです。
この人には、わだかまりはいっさいなく、信頼だけがあります。
その徹底した口数の少なさは、不満ではなく、信頼を表す具体的な姿勢です。

 

コロナ禍でなくとも、単調な日常生活に不満やストレスを感じるのは仕方のないことです。
ヨセフ様のように、とはなかなかいきませんが、日常の小さなことに喜びを見出すことはそう難しいことではありません。

家事は家族のための犠牲ではなく、家族とともに心地よく暮らすため、ですよね?
仕事は仕方なく行うことではなく、与えられた役割を果たすことだと思います。

先週から、毎週日曜のミサの後に全員で教会の内外の清掃を行うようになりました。
先月までは「義務」として参加を呼びかけていて、結局いつも同じような数名のメンバーしか集まっていなかったのが事実です。

ところが今月から「一緒にやりましょう」と呼びかけたところ、大勢の方が気持ちよく、当たり前のこととして掃除を行うようになったのです。

 

「賛美と感謝を捧げましょう」

そうごミサで歌っていたのを覚えていますか?
(歌いたい!聖歌を大きな声で歌いたいです!!)

賛美とはどういう意味を持つのか。

神に犠牲として賛美をささげよ。
いと高き者に誓いを果たせ。
悩みの日にわたしを呼べ。
わたしはお前を救い、お前はわたしをたたえる。
(詩編50・14〜15 フランシスコ会訳)

告白を神へのいけにえとしてささげ、
いと高き神に満願の捧げ物をせよ。
それから、わたしを呼ぶが良い。
苦難の日、わたしはお前を救おう。
(同 新共同訳)

賛美、つまり告白とは、罪を神の前に告白し、いかに神がわたしたちを気にかけてくださっているかを讃えることです。
単に、告解して罪を許してもらうことではなく、神への信頼、神から信頼された人として生かされていることへの感謝を表すことではないでしょうか。

昨日の清掃風景が当たり前の日常となることが嬉しく、神父様に「こうして良かったですね!」とお話ししたら、「掃除だけでなく、新しいコミュニケーションの場にもなるだろう。」と

小さな喜びを見つけた日曜日でした。

 

 

 

日々の中のみ言葉

大谷翔平さん、藤井聡太さんの立ち居振る舞い、人との接し方や受け答え方を見ていると「どんなご家庭で育ったのだろう。きっと素敵なご家族なのだろうな。」と思ってしまう、ファンの一人です。

昨日のミサの聖書と典礼の最後のページに、「イエス様の支えは、彼を信仰と愛を持って育て彼の品性を養った家族、母マリアと養父ヨセフの日常にあった」ということが書いてありました。

どのような環境でどのような人に囲まれて育ったかは、身体に染み込んで行き、人格を形成する最も重要なことなのだと、2人の爽やかな青年を見るたびに感じます。

今月のパパ様カレンダーのことばにハッとさせられました。

他者に向かって自分を開くことは、決してわたしたちを貧しくしません。
むしろ豊かにします。
なぜなら、そうすることでわたしたちはより人間らしくなるからです。

自分を開くことは、わたしにとってそう簡単ではありません。
相手が望むように、自分が意図したとおりに気持ちが通うことの難しさを感じます。
それでも、あまり深く考え過ぎずに、素直な大人でいたいと思っています。

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「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
わたしは弱いときにこそ強いからです。

(2コリント12・9〜10)

この、有名で、感動的な、一度は実体験の中で痛感したことのあるであろうことば。
わたしは30年前の大病を患った時と、10年前に母が亡くなった時、このことばに救われました。

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たとえ、わたしが人間の異言、み使いの異言を話しても、
愛がなければ、
わたしは鳴る銅鑼、響くシンバル。
たとえ、預言の賜物があり、
あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、
たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、
愛がなければ、
わたしは何ものでもない。
たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、
たとえ、賞賛を受けるために自分の身を引き渡しても、
愛がなければ、
わたしには何の益にもならない。
(1コリント13・1~3)

このことばも、有名で、とても身につまされるものです。
偽善的であってはならないと言い聞かされます。

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わたしは死の影の谷を歩む時でさえ、災いを恐れない、
あなたがともにおられるから。
(詩編23・4)

影ができるということは、そこに光があるから。
死の向こうに光がある。
神が共にいてくださるという確信に満ちた詩です。

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神の業に目を凝らせ。
神が曲げられたものを、
誰がまっすぐにすることができようか。
順境の日には喜び、
逆境の日には反省せよ。
あれも、これも、神のなさることである。
それは、将来、何が起こるか、
人には見通せないからである。
(コヘレト7・13~14)

コヘレト、大好きです。
どこを読んでも、「もう、おっしゃる通りです!!」と言いたくなります。

 

相反する、時には敵対する相手であったとしても 、教皇様のおっしゃるように、平和という目標のために共に希望を持って祈ることができるのです。

わたしたち一人ひとりが平和の光を発する存在であるよう、日々の中にあるみ言葉を見逃すことなく生きていかなければなりません。

今年ももう半分が終わりました。
ごミサで宮﨑神父様がおっしゃったように、この半年の信仰生活を振り返り、半年後のクリスマスの自分を想像してみましょう。

今日いくつかここに書いた言葉は、日々の生活の中で出会い、手帳に書き留めておいたものです。
その時は「わかりました。そうであるように努力します。」と思ったはずなのに、、、、の繰り返しです。

でも、まだ半年あります。
「今年もお恵み溢れる一年でした。ありがとうございました。」
そう、締めくくれるように日々を大切にしていきたいものです。

 

 

今を生かす

初夏の陽気の中、皆さんとの久しぶりのごミサでした。

神学生、侍者も揃ってのごミサは清々しいものです。

ご聖体をいただくとき、「今週もこの共同体の一員としての働きをすることを誓います」と祈ってみました。

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昨日の第一朗読の知恵の書のことばは、とても考え深いものでした。

神が死を造られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。
生かすためにこそ神は万物をお造りになった。
世にある造られた物は価値がある。
滅びをもたらす毒はその中になく、陰府がこの世を支配することもない。
義は不滅である。
神は人間を不滅な者として創造し、御自分の本性の似姿として造られた。
悪魔のねたみによって死がこの世に入り、悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。
(知恵1・13~15; 2・23~24)

生かすために造られた。

フランシスコ会訳の聖書では、
「神は万物を存続させるために造られた。
この世に生じたものはすべて益となり、」
となっています。


旧約聖書には「天国」と言う概念はないそうです。
天国、つまり「死後の幸せ」という考え方が確立されたのはヘブライ思想の中間時代(旧約と新約の間の時代)なのだと本で読みました。

時はBC2世紀、シリアの支配下にあったユダヤ教徒たちの過酷な迫害の時代です。

多くの殉教者を出した当時のユダヤの人々の中で、信仰のために殉教した人々はかならず復活し、その死は他の者に救いをもたらすのだ、という思想がその当時に生まれたのだそうです。

この復活信仰が、その後の新約時代を通してイスラエルの民の間に根付いて行ったと考えられています。

 

聖書の中で最初にこの考え方が表現されたとされているのは、次のダニエル書の一説です。

多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
目覚めた人々は大空の光のように輝き、
多くの者の救いとなった人々は
とこしえに星と輝く。
(ダニエル12・2~3)

続く13節にはこうあります。

お前は最後までお前の道を行き、憩いに入りなさい。
その時の終わりに、定められた分を受けるために、お前は立ち上がるであろう。

「立ち上がる=復活」のことです。

大きな苦難に遭遇していた中間時代の人々は、ヤハウェが全世界の支配者であり全能唯一の神であるという考えに至り、同時に、天国、復活と言う希望ある信仰をも発達させたのです。

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私たち現代人にとっても、今のこの時代を「苦難」と捉えるか「誰かのせい」と不満を並べて日々を漫然とやり過ごすか。

どういった成果を生み出せるかどうかは、わたしたちの今の生かすかどうかで変わると思います。

生かすために造られたわたしたちとこの時代が、何を生み出すのか。
わたしたちには知りえない、遠い未来への遺産となるでしょう。

できることなら、「あの時代に生まれたのがこの思想である」という良きものを後世に残したいものです。

 

キリストのからだをいただく

緊急事態宣言の解除に伴い、本日21日からごミサが再開されました。

教会の門が久しぶりに開かれています。

ごミサに与っていない=ご聖体をいただいていない間に、ご聖体の意味について勉強する機会がありました。

ミサ(エウカリスチア)は「感謝の祭儀」です。
そのハイライトである聖体拝領(コムニオ)は、「communio 交わり・分かち合い」という意味です。

たとえ一人でごミサに参列しご聖体をいただくとしても、わたし一人がキリストのからだをいただく個人プレーではないのです。

大切なことは、ご聖体をいただくわたしたちが結び合い、助け合い、交わりを深めることなのです。

ごミサの意義は、それぞれが同時にキリストをいただき(食べ)、キリストのように生きていくことにより、共同体が変えられていく、ということなのだと教わりました。

その変化を共同体として実感できなければ、わたしたちが毎週ごミサに与る意味は大変希薄なものになると、学んだ今強く感じています。

 

先日、とても親しくさせていただいていた方の葬儀に参列しました。

葬儀ミサのなかでご聖体をいただきました。
本当にひさしぶりのコムニオでした。

いただくとき、「わたしが」ご聖体をいただくというより、神様に霊をお渡しになった故人、残ったご家族、参列している共同体のみなさんのことを想いながら噛み締めるように、心がけてみました。

今いただいたご聖体の意味を心の中で反芻し、このご聖体によって自分がどう変化していくよう託されたかを意識しました。

明らかに、これまでの聖体拝領とは違う感覚に浸りました。

 

今日書いた、わたしが教わったことを踏まえて1コリントの12章を読むと、違った景色が見えるようになりました。

一つの体と多くの部分

体は一つでも多くの部分があり、体のすべての部分は多くあっても一つの体であるように、キリストの場合も同じです。
実に、わたしたちはユダヤ人であれ、ギリシア人であれ、奴隷であれ自由な身分の者であれ、洗礼を受けてみな一つの霊によって一つの体に組み入れられ、また、みな一つの霊を飲ませていただいたのです。

神はお望みのままに、体に一つひとつの部分を備えてくださったのです。
部分はたくさんあっても、体は一つなのです。

体のうちでほかよりも弱いと見える部分が、むしろずっと必要なのです。

体のうちに分裂がなく、かえって、各部分が分け隔てなく互いのことを心し合うようにしてくださったのです。
それで、もし体の一つの部分が苦しめば、すべての部分もともに苦しみ、もし一つの部分がほめたたえられれば、すべての部分もともに喜びます。

あなた方はキリストの体であり、一人ひとりその部分なのです。

 

ご聖体をいただくとき、司祭から「キリストのからだ」と問われます。

☆ この小さなパンのかけらに100%キリストが現存しておられることを信じていますか?
☆ そのパンをいただいて、キリストのからだ=共同体を築く努力をしますか?

こう問われて、「アーメン」=「はい、確かにその通り、その通りにいたします」

そう毎週誓っていることを忘れてはいけません。

みなさんにとっても、この記事を読んだ後にいただくご聖体の意味がより深いものとなりますように。

 

あの日の誓い

教皇様が日本に来てくださり、長崎でごミサに与った2019年11月24日のことは皆様もいまだ鮮明な記憶として残っているでしょう。

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現在のコロナ禍においては信じられないような密集具合です。

当日の長崎県営スタジアムには3万人の信徒が集まり、パパ様のお姿に熱狂しました。

COVID19という正式名称は、コロナウィルス感染症2019の略です。
つまり、2019年のこの教皇様の来日の際にはもうウィルスがまん延を始めていたのです。
事実、このタイと日本への旅の後は教皇様は外国訪問を控えられ、2021年3月のイラク訪問が久しぶりの旅となりました。

このパパ様の訪日の目的として日本の司教団が意図していたのは次のポイントでした。

◆被爆地からの平和メッセージ
◆東日本大震災の被災者へのことば
◆若者へのメッセージ
◆諸宗教対話
◆福音宣教への鼓舞

これらのことが挙げられていました。

メインテーマとして掲げられたことば「すべてのいのちを守るため」は、回勅『ラウダート・シ』の中の祈りの言葉から引用されました。

すべてのいのちを守るために、人間一人ひとりの尊厳を守ることと同時に、環境も大切にしなければならないという教皇様のお考えを表していると思います。

現在のウィルスのパンデミックは、環境破壊の影響にも起因しているのかもしれません。
2016年に日本でも販売されたこの回勅で教皇様が警鐘を鳴らしていた問題の結果とも考えられます。

わたしたち皆がともに暮らす家である地球は、身勝手な人間の暮らしによって蹂躙されています。
その苦しみが未知のウィルスとなってカタチとなり湧きあがり、瞬く間に広まり、皮肉にも「わたしたちの暮らす星はひとつ」であることを今さらのように思い知らされています。

ウィルスの脅威は、経済、環境、他国との関係といった多くの問題、これまでも世界が抱えていた問題をより大きな規模でわたしたちに突きつける結果となっています。

 

教皇様の来日を単なる思い出、スーパースターを生で目撃したあの日、といった記憶で眠らせていませんか?

あの日、わたしたち信徒は誓ったはずです。
キリスト者としての自分の使命を、各々が様々な形で心に浮かべていたはずです。

わたしの誓いは、少しずつですが、努力して継続しています。

 

 

中央協議会から、訪日公式記録集が発行されました。
大人買い(箱買い)しました。

 

あの日の誓いを思い起こすためにも最適なツールです。

なのよりも、全く聞き取れなかったスペイン語でのお説教や、全日程の中で各所でお話になったこと全てが翻訳されて掲載されていますので、ゆっくりとパパ様のお話を読むことができます。

ぜひこの機会に、1年半前の記憶を呼び覚まし、あの日のパパ様への誓いをさらに強い決意としてみませんか?

 

教皇フランシスコ、長崎へ。(2019.11.25の記事)
http://www.kurume-catholic.jp/blogs/blog_entries/view/11/763b7816f574e7f187df6ce9701066d2?frame_id=16

 

互いを認め合う世界

台湾へのワクチン提供に関する一連のニュース、涙が出ました。
純粋なお互いへの思いやりだと信じたいと思います。ワクチン外交などという報道もありましたが、、、。

宗教間、人種間の対立が世界各地で長い間続いています。
わたしはよくNetfrixで外国のドラマを観ますが、偶然なのか現在の世界情勢を鑑みた意図で配信が多いのか、最近よくイスラエル発のドラマが目に留まります。
イスラエルが製作しているので仕方ありませんが、例えばイラクへの諜報活動が正当性をもって描かれていたり、ハマスが起こす終わりのないテロへの闘いであったり、ハラハラドキドキで(誤解を恐れず書くと)面白いドラマばかりです。
ですが、ハリウッドのありえない設定のアクション映画と違い、おそらくかなり現実に近いストーリーばかりでしょう。

 

除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。
「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。
『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
(マルコ14・12~16,22~26)

 

オリーブ山の上から見たエルサレムの神殿です。
建物は違ったとしても、山から神殿を望む眺望はイエス様が目にされた様子と同じはずです。

 

キリスト教徒がイエス様が過ごされたとして大切に考えているオリーブ山は、ユダヤ教徒にとっても最後の審判の日に神が現れ、死者がよみがえる場所とされている聖地です。
左に並んでいる石棺はユダヤ教徒の墓で、右奥に見えるのはイスラム教のドームです。

 

 

ここがその場所であると言われている最後の晩餐の部屋の南側の壁には、イスラム教の聖地・メッカの方角を示すミハブ(Mihrab)があります。
(上の写真の壁の窪み) 

ユダヤ教の聖地のひとつに数えられているダビデ王の墓(King David's Tomb)の上の階にあります。
(下の写真がその墓。ユダヤ教の聖地なので、男性はキッパか帽子、女性はスカーフで頭を覆う必要がありました。)

実際には十字軍の時代に再建された部屋ですが、わたしたちキリスト教の信者が聖地だと思っている建物は、ユダヤ教徒にとってもイスラム教徒にとってもそれぞれの重要な意味が交差する聖なる場所なのです。

 

同じようなことは聖書のあちこちに見ることができます。
例えば、フランシスコ会訳の聖書のコヘレトの解説を抜粋してみると。

「古代ユダヤ教とキリスト教の伝承は、ソロモン王を著者としてきた。今日では、彼の時代のものではなく偽名を用いて書いたものと考えられている。
本書が書かれたのは、前250年から前200年までの間である。パレスチナの植物やエルサレムの街と神殿の描写からして、パレスチナで書かれたと考えられる。」

パレスチナという国は現在の世界地図にはありません。
イスラエルの中では、パレスチナ自治区は壁で覆われています。

バベルの塔を建設しようとしてバラバラの言葉で世界に散らされることになった 人間は、もう一つになることはできないのでしょうか。

ひとつの聖地を奪い合い、歴史的対立を繰り返しています。
この人間の争いに終わりはあるのでしょうか。

イスラエル、とくにエルサレムの城壁で囲まれた旧市街は3つの宗教の聖地という意味で大変貴重な存在です。

互いを認め、互いの宗教を尊重してきたからこそ世界中から人々が安心して巡礼に訪れていたのです。

イスラエルが世界平和の象徴となることができれば互いを認め合う世界が実現するかもしれない、というのは単純すぎる夢ですが、巡礼で訪れたものの願いです。

 

父を信じる教え

併設する聖母幼稚園の園児たちによって、聖母祭が静かにお祝いされました。

緊急事態宣言の延長に伴い、久留米教会の閉鎖期間も6月20日まで続くことになりました。

そうした中,こうして園児たちが教会で祈りの時間を教えてもらっていることはとても嬉しいニュースでした。

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よくここに、教皇様のメッセージをご紹介させていただいています。
以前、どのようなことを書いていくかについて宮﨑神父様とお話していた時に
「教皇がどのようなメッセージを発信しているか、ぜひ紹介してみなさい。
教皇の考えや教えを信徒が知ることも大切なことだから。」
そうおっしゃったことがきっかけです。

 

教皇フランシスコが5月24日、バチカンの広報省・バチカン放送局を訪問、というニュースがありました。

「この席で教皇は、教会のメディアの仕事に関わる人々に感謝を述べ、どれだけ多くの人にイエスのメッセージが届いているかを常に意識しながら、これからも仕事に励んでほしいと述べられた。」

わたしはイエス様のメッセージを発信する末端に過ぎませんが、こうして情報を発することの責任を痛感させられました。

 

シラ書の51章とマタイの28章はとても好きな箇所です。
今週の聖書朗読の部分です。

わたしは、あなたの名を絶え間なくたたえ、
感謝をこめて賛美の歌を歌おう。
わたしの祈りは聞き入れられた。
あなたはわたしを滅びから救い出し、
苦難から助け出してくださいました。
それ故、わたしは、感謝をこめてあなたをたたえ、
主の名をほめたたえよう。
(シラ書51・11~12)

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そのとき、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
イエスは、近寄って来て言われた。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
(マタイ28・16~20)

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シラ書が書かれた背景にはバビロン捕囚という最大の艱難が。
福音書の背景にあるのはイエス様の教えを全世界に広めるという使命が。
そして今日、わたしたちには苦難が与えられ、忍耐と優しさが求められています。

信仰があるだけでは克服できません。
身近にいる信頼できるキリスト者、司祭、教皇様の教えに耳を澄ませましょう。

父を信じる教えに耳を傾けましょう。

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良い時も悪い時も、どんなときにも神を賛美することができることを、聖人たちはわたしたちに教えてくれます。
神は忠実な友だからです。
神は忠実な友であり、神の愛は決して弱まりません。
これこそが賛美の基盤です。主はつねにわたしたちの近くにおられ、待っていてくださいます。
「主はあなたの近くにおられ、あなたが自信をもって前進できるようにしてくださる守り手です」と言う人もいます。
困難に見舞われ、暗闇に覆われた時には、勇気をもってこう言いましょう。
「主よ、あなたがたたえられますように」。
主を賛美しましょう。それは、大いに私たちのためになることです。
(教皇フランシスコ、2021年1月13日一般謁見演説より)

 

Be like St Joseph.

つつましやかな聖家族に倣って、心の貧しいものとしての真の幸せを、父なる神を通して再認識する必要があります。

ヨセフ様がご家族のために捧げられた生涯には、いつも神への純粋な信頼がありました。

ヨセフ様のように生きることができますように。
ヨセフ様が大切にされたマリア様の心のように、いつも誰にでも優しくあることができますように。
イエス様の教えを信じることを喜びとして今日も過ごせますように。

 

霊を渡すまで。

コロナ禍において、世界中の人々の様々な生活様式が大きく変わりました。

ミサの在り方もそのひとつですね。

誰もいないお御堂です。

わたしはどうも「youtubeでごミサに与る」というのがしっくりこないのですが、先日お話したおばさまは、
「以前は、決まった祈りの言葉を口にして、聖歌を一生懸命に歌って、という感じだったけれど、今はパソコンの前でごミサに与り、神父様の動きひとつひとつの細部までじっくりと見ることができて新しい発見があるのと、いろいろな教会のミサに与れるのが嬉しい。」
とおっしゃっていました。

もうひとつ、わたしがよく感じるのは葬儀の執り行い方についてです。

仕事の関係上、「訃報」の連絡がファックスで届くのですが、この1年は決まって「なお、通夜葬儀はすでに近親者で執り行いました。ご供花、ご香典などは固く辞退申し上げます。」と書いてあります。

以前であれば、会社の代表者が亡くなられた際は、大きな広い斎場で多くの参列者が一堂に会し、並んでお焼香や献花をしていました。

わたしが最近参列した葬儀では、「お焼香は13時から随時ご自由にお願いいたします」とご案内がされ、会場に同時間に人が集まることはありませんでした。

お別れの仕方が変わったのです。

 

生き物はみな、ふさわしい時期に、
あなたが食べ物を配られるのを待っている。
あなたが与えられると、彼らはそれを集める。
あなたが手を開くと、彼らは善いもので満たされる。
あなたが顔を隠されると、彼らは慌てふためく。
あなたが彼らの息を取り去られると、
彼らは死んで塵に戻る。
(詩編104・27~29)

 

息を取り去られる、つまり神様が与えられた息(創世記2・7)を「引き取られる」のが死であると考えられていました。
命は神から与えられ、神はそれを引き取ってくださる。

このことを噛みしめて考えると、死は「無」ではないということがよく理解できます。

 

イエスは酸いぶどう酒を受けると仰せになった、「成し遂げられた」。
そして、頭を垂れ、霊をお渡しになった。
(ヨハネ19・30)

 

生きるということは、神に与えられたこの世を成し遂げたと思えるように生き、
死ぬということは、神にその霊を渡して引き取ってもらうということです。

霊を神様に渡すまで、よりよく生きるために今自分に何ができるかを最近よく考えています。

与えられた生を成し遂げた、と思える生き方をしたいものです。

 

先日、久留米教会で行われた葬儀に参列した方がおっしゃっていました。
「ご家族とごく近しい友人たちだけのお式だったけど、こういう静かなお別れの会もいいな、と思った」と。

俳優の田村正和さんが亡くなられた際の報道にありました。
「俳優としての人生に悔いはない。やり尽くしたと思っている。」と彼がおっしゃっていたそうです。
羨ましい生き方です。

亡くなった母が大大大ファンでしたので、今頃天国で先輩風吹かせて、あれこれお世話したり案内したりしているのではないかと考えてクスクス笑っています。

 

聖母月だから、とマリア様にお花を捧げてくださった信徒の方、ありがとうございます。

 イスラエルとパレスチナの平和のためにもお祈りしましょう。

 

混沌から平安

今年はとても早い梅雨の季節となりました。
自然の営みには驚かされます。
我が家でも、はやくも紫陽花がとても美しい。
(知ってたのか?!もう自分の季節が来たことを!と思わず口にしたわたし。)

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初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
(創世記1・1~2 新共同訳)

聖書のこの有名な出だしの一文は、地の混沌とした状態は神の創造行為の後にできたように理解されています。

しかし、現在のヘブライ聖書学者たちは「神が天地を創造され始めた時、世界は混沌であった」という訳を支持しているそうです。
つまり、『混沌からの創造』であり、全ての物事は神に抗うことのできる自由意思を持つのだ、と言うのです。

たしかに、なるほどだからこんなに人間とは成長しない愚かな存在なのだ、、、とも思えてきます。

良きものとして創造されたのに、自由意思をはき違えてしまう歴史を繰り返す生きものです。

先月からのイスラエルの、まさに混沌とした、戦争ともいえる民族間の争いに心が苦しくなります。

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聖書学者の本多峰子さんによると、プロセス神義論では「この世にある悪や人間の苦しみを神ご自身が自己のうちに感じ、神が人間の苦しみを共に担って共に苦しんでいると考える」のだそうです。

神義論とは、簡単に言うと「神が全能であるならなぜこの世に悪や悲惨な出来事があるのか」ということを突き詰めて、神の義を証しするものです。
とても興味のある問題であり、本多峰子さんの論文などをいろいろと読んでみましたが、結局「結論の出ない学問」であると言えるものです。

少し乱暴な言い方になりますが、「悪や災害、苦難の責任が神にあるのか?!」という問いには「とんでもない」と、信仰のある者であればそう思えるのではないでしょうか。

それでも、あまりにも悲惨な体験をしたりやり場のない感情に押しつぶされると、「どうしてですか?」「神はいないのか!」という気持ちになるのは当然でしょう。

神様のせいにしたら、少しは気が晴れるでしょうか。
そうですね。
神様はわたしたちの気持ちに応えて寄り添ってくださるので、少しは気が晴れます。

ですが、誰かのせいにしたら、気持ちが軽く楽になるでしょうか。
誰かを非難したら、問題が解決したり前進するでしょうか。

そういう気持ちになりそうになった時はいつも、混沌とした世の中の安易な波にのみ込まれないように、心の平安を求めて周囲にも良い香りを漂わせたいと思うようにしています。

先日お話したあるご高齢の神父様がおっしゃっていました。

「わたしたちは、こんなに愚かな国民性ではなかったはずだ。
今のニュースを見聞きしていると悲しくなる。」

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「神様、どうか混沌とした現在の世の中と人々の心を静めてください。

わたしたちの今日が、他者を非難することではなく、聖霊のとりなしを願う1日となるようお導きください。

世界中が一致協力してひとつの問題解決に取り組めるよう、指導者たちにより良い英知をお与えください。」

フィリポはナタナエルに、メシアと会ったことを伝えます。
その友は「ナザレから何かよいものが出るだろうか」といって、信じようとしません。
フィリポはことばを重ねて説き伏せようとはせずに、「来て、見なさい」といいます。
ナタナエルは行って、見ます。
そのときから、彼の人生は変わります。キリスト者の信仰はこうして始まるのです。
伝聞ではなく実体験で、じかに得た情報として伝達されるのです。
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。
わたしたちは自分で聞いて、分かったからです」――イエスが滞在した村の人々は、後にサマリアの女にそういいます。

この時代においても、社会生活のあらゆる場面で、商業においても政治においても、いかに中身のない弁舌が氾濫しているかを考えてみましょう。

主よ、教えてください。
自分の内から出ること、
真理を求めて歩き出すことを。
来て、見るよう教えてください。

聞くこと、
偏見を深めぬこと、
結論を急がぬことを、教えてください。

だれも行きたがらないところへ行くこと、
理解するために時間をかけること、
本質的なものに目を向けること、
うわべだけのものに惑わされぬこと、
真理とそれと見まごうものとを識別することを、教えてください。

あなたがこの世におられることに気づけるよう、恵みを注いでください。
見たことを人に伝えるために欠かせない、誠実さをお与えください。

教皇フランシスコ 5/9世界広報の日のメッセージより抜粋

 

わたしがお伝えしたいと思っていることを、いつも明確なメッセージとして発してくださる教皇様です。

今日も心に平安を。
わたしたちに平和と一致をお与えください。

 

気にかけてくれる存在

久留米市の感染状況の増減に一喜一憂していたのですが、とうとう3回目の緊急事態宣言が発令されることになりました。

久留米市もワクチン接種の予約が始まっています。

ウィルスが消えてなくなることはないでしょうが、各人が自分にできる対策をとることはできます。

またミサが再開される日まで、静かにロザリオの祈りと共に心穏やかに過ごしましょう。

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皆さんは普段から「気にかけている人」がいらっしゃいますか?

離れて暮らす子ども
コロナ禍でしばらく会えないでいる親兄弟
大切な友人

お正月に家族が一堂に会し、たまに孫たちが訪ねてきて、仲間たちと集まって飲み会をする。
いまでは懐かしい過去の習慣ですね。。。

コミュニケーションの遮断ともいえる日常が当たり前のようになって、もう1年以上になりました。

わたしの場合、人との交わりの機会が8割は減ったように思います。

いまではすっかり、人との距離間が変わってしまいました。
例えば、スーパーなどで後ろに並ぶ方との距離が近いとそわそわしてしまいます。

 

そんな、人との距離が離れてしまった現在だからこそ、誰かのことを気にかけること、人との繋がりを大切にしたい、と考えるようになりました。

若松英輔さんがおっしゃっていたように、「交わりと繋がり」は違うものですね。

妹たち家族にはずっと会えていませんが、彼女たちとはテレビ電話でしょっちゅう連絡を取ることができます。
交わることはできないけれど、いつも繋がっていることを感じます。

 

気にかけている人が元気に過ごしているか。

もしも思い当たる方がいらっしゃれば、このあと電話してみてください。

わたしたちと気にかけている人を結びつけているのは聖霊の働きです。
わたしたちと神様を結びつけているのと同じ聖霊の働きです。 

心身ともに健康であるために必要なことは、規則正しい生活と誰かに必要とされていると感じること、あるいは、誰かに気にかけてもらえていると実感すること、そう思うのです。

イエス様とマリア様、もちろんヨセフ様がいつもわたしたちを気にかけてくださっているように、聖霊の導きに従って周囲の人を気にかけることはすなわち、誰かが自分をいつも気にかけてくれているということなのです。

 

 

5月の聖母月の間、「祈りのマラソン」として世界五大陸の30聖堂にわたりロザリオの祈りが中継されています。
これは教皇様の希望で、すでに一年以上世界を苦しめているパンデミックの収束を願って繋げる目的で行われているものです。

5月1日のバチカンでの教皇様によるロザリオの祈りから始まり、21日(金)には長崎の浦上教会の被爆マリア像を前に祈りの中継が行われる予定です。

 

 

https://youtu.be/4Rb7_WdNlZY

 

 

ひとつのメッセージ

久留米でも感染者が大幅に増加しています。
皆様も十分にお気をつけになっているかと思いますが、どうぞ外出の際の手洗い、手指の消毒といった基本的なことをしっかりとお守りください。

世界のワクチン接種状況、というニュースを見ました。
「日本は〇〇か国中最下位」といった報道は、見ていて悲しくなります。
こうしたネガティブな情報は取り入れてもあまり良いことはないと思うのですが、このニュースをみていてある映画を思い出し、久しぶりに観ました。

ARRIVAL(邦題は「メッセージ」)
2016年のアメリカ映画です。

宇宙から謎の物体が世界の12都市に現れ、エイリアンが何の目的で地球に来たのかを12か国がそれぞれのやり方で探ります。
最初は、zoomのようなシステムで12か国が連携して情報をやり取りしながら協力関係を構築しつつありました。
しかし次第に、それぞれの思惑や価値観の違いでお互いが情報を出し渋るようになり、ある国は武力行使を決定したりとその協力関係が壊れていきます。

最終的には、主人公である言語学者のある言動をきっかけに、12か国の連帯が再度生まれ、エイリアンの目的を解読します。
その目的は「地球人(地球全体)の連帯」だったです。
(その目的には理由があるのですが。)

主人公はエイリアンの言葉を解読し、「Universal Language / 世界共通言語」として確立させ、地球共通の言葉として広めていきます。

まさに、いまわたしたちの生きている現在の地球のことを表現しているような映画なのです。
ネタバレを書いてしまったのですが、音楽も映像も本当に美しく、わたしの拙い文章では伝わらない感動的な映画です。
ぜひご覧いただきたい作品です。

わたしたちの生きる今の世界は、自然(神様)からのこの(パンデミックという)メッセージを読み誤っていないでしょうか。

世界が連帯してこの現実に向き合っていけているでしょうか。

わたしたちは聖書というUniversal Languageを持っています。

いつの間にか自分たち(国、人種、宗派など)に都合のいいように解釈し、同じ聖書を読みながらもバラバラの言葉を話し意思疎通が出来なくなっているかのようです。

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3/11付けで発表された日本カトリック司教団のメッセージです。

今、コロナ禍にあって、世界は『すべてのいのちを守るため』に連帯しています。
教皇フランシスコは対立と分断、差別と排除、孤立と孤独が深まる現代世界にあって、助けを必要としている人、孤立し、いのちの危機に直面している人のもとへ出向いていこうと呼びかけます。
あの未曾有の災害に襲われたとき、わたしたちは、人間の知恵と知識の限界を感じました。
自然の力を前に、どれほどわたしたちが弱いものであるかを知りました。
そのときわたしたちは、互いに助け合うことの大切さ、いのちを守るために連帯することの大切さ、いたわりの心の大切さを、心に刻み込みました。
大震災 10 年の今、世界はまさしくその大切さを思うことを必要としています。
(カトリック中央協議会 会報4月号掲載)

 

4/22のEarth Dayに教皇さまが出されたメッセージです。

「今日、地球全体で共有している新型コロナウイルスによるパンデミック問題もまた、わたしたちの相互依存関係を明らかにすることになった。」

環境保全そしてパンデミックへの対応という二つの大きな急務の課題に、皆が一体となって努力する必要があることをあらためて強調されました。

同じ一つの星に生きていることを思い知らされたパンデミックという現実。
「皆=地球全体で取り組まねばならない」と、自然界がわたしたちにひとつのメッセージを寄せている気がしてなりません。 

 

子どもたちへの福音

昨年、宮﨑神父様は毎月第4日曜日を「子どもたちと共に捧げるミサにする」とお決めになり、準備をされていました。
感染症対策でごミサが中止になったり、いろいろな制約で子どもたちの参列が減ってしまったこともあり延期になっている子どもミサ。

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今月こそは開催できる!と日曜学校の先生方と、誰に聖書朗読をお願いする?とワクワクしていたのですが、久留米でのコロナウィルス感染者が急増してきたことで、今月も中止になってしまいました。

久留米教会は子どもたちのミサへの参列が多く、それが自慢の一つでもありました。

しかし昨年からのこの事態の中で、仕事上の影響を考えてミサへの参列を控えていらっしゃるご家庭も少なくないため、子どもたちも少なくなっていることはとても寂しい状況です。

日常が以前のような状態に戻るとは思いませんが、教会に子どもたちが戻ってきてくれることだけは願いたいと思います。
大人たちがもっとしっかりしなくては。

 

お中元・お歳暮などでいただいたけど食べないもの
まとめ買いしてしまったけど余っているもの
そうした食品などを持ち寄り、必要としている方々に届ける活動が、フードドライブです。

 

1960年代にフードドライブが盛んになったアメリカでは、食品以外にも「Paper Drive(古紙回収)」や「Book Drive(本の寄付)」「Toy Drive(おもちゃの寄付)」「Clothing Drive(衣類の寄付)」「Uniform Drive(着なくなった制服の寄付)」「Blood Drive(献血)」など様々な「ドライブ」、つまり寄付活動があるそうです。

フードバンクという言葉もご存知かもしれません。
フードドライブの違いは、参加対象です。
フードバンクは、例えばエフコープなど、企業が食品ロス削減のためにも食品などを提供します。
一方、フードドライブはわたしたち一般個人が家庭のものなどを提供します。

久留米でもフードドライブの活動が数年前から行われており、久留米教会には毎月第4土曜日にメンバーが集って受け付けています。

食品だけではなく、タオルや粉ミルク洗剤といった日用品も持ち込まれていました。

カトリック久留米教会、久留米と鳥栖のプロテスタントの教会と仏教のお寺に持ち寄られた品を一箇所に集めて仕分けし、毎月必要とされている個人にお届けされています。

 

 

4月から久留米教会で司牧実習に来てくれている、笑顔が素敵な池田裕輝神学生(神学科の1年生!)です。

29日には、久留米教会に司牧実習に来てくださっていた古市助祭の司祭叙階式が東京のカテドラルで執り行われます。

近しくしてくださっていた神学生の召命による叙階。

大人たちのフードドライブの活動。

若い神学生と過ごし、学ぶ日曜学校。

そうしたこと全てが子どもたちの信仰生活へのよい励みになるはずです。

・・・・・・・・・・・・・・・

教皇様は25日にバチカンでローマ教区の司祭の叙階式をとり行われました。
出身や経歴も様々な9人の助祭が司祭に叙階されました。
バチカンニュースに掲載されていた、9人の召命について書かれていた記事がとても興味深かったのでご紹介します。

https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2021-04/il-papa-ordinera-sacerdoti-per-la-diocesi-di-roma.html

 

「復活」による変化

信者ではない友人から「クリスマスよりもイースターのほうが重要って、どうして?」と質問されました。

ご復活の意味について説明するのは難しいですね。

旧約聖書の預言者たちは「主に立ち返れ」と繰り返し人々を諭している。
それでも、主を忘れ、主に背き、罪から逃れられないのが人の常である。
その救い主として生まれ、十字架につけられ、死んで復活したイエス様。
救い主が生まれたことがめでたいのではなく、死んで復活してくださったことが救いなのだ。

この説明は間違っていないと思うのですが、こう言っても友人は「?」という顔をしていました。

 

復活したイエスは、何度か弟子たちの前に現れ、忍耐強く彼らの不信を解くことで、いわば「弟子たちの復活」を行い、こうしてイエスによって再び引き上げられた弟子たちは、これまでと違う人生を歩み始めることになった。

弟子たちは、これまで主の多くの教えに耳を傾け、多くの模範を目撃したにもかかわらず、自分を変えることはできなかった。

しかし、イエスの復活は彼らに新しい何かをもたらし、彼らを変えた
それはいつくしみのしるしのもとに起きたことであった。

イエスは弟子たちをいつくしみによって引き上げ、「いつくしみを与えられた者」になった彼らは、今度は「いつくしみを与える者」に変容された。

4/11「神のいつくしみの主日」の教皇様のお説教より

教皇様のこのお説教はとても分かり易く、なるほどと深くうなずけます。

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先週書いた、マグダラのマリアの感動的な復活体験。

マグダラのマリアがイエス様の墓が空になっていたのを見た時のこと。
(ヨハネ20・11〜18)

「マリア」と名前を呼ばれた彼女は、振り返って「ラボ二」と答える。
これは、イエス様のご復活というよりも、マリアの復活体験の瞬間でした。

イエス様は、死の後に「生き返った」のではありません。
写真にとれば一緒に写るような、身体の蘇りをなさったのではないのです。

「私は主を見ました」

そうマリアは弟子たちに告げますが、幽霊を見たのではなく、イエス様は自ら「現れ」て弟子たちに「ご自分を見せられた」のです。

ご復活の出来事は、イエス様が弟子たちに現れてくださったという、弟子たちの復活体験に基づいているのです。

弟子たちはイエス様を裏切り、逃げて、十字架の足元にいたのは女性たちとヨハネだけでした。
それでもご自分を現わしてくださった主の愛と赦しを身に受ける弟子たち。

彼ら自身がその復活体験を通して、命をかけて福音を宣べ伝える人に造り変えられます。
自分の惨めさ、醜さを直視させられ、しかもそういう自分を圧倒的な愛で包んでくださる主を体感した弟子たちは、もう畏れるものはなにもありませんでした。

これが、キリスト教の信仰の根源です。

復活体験によって造り変えられた弟子たちの信仰がなければ、2000年以上もこうして福音が宣べ伝えられ続けることはなかったのです。

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わたし個人としては、20歳で洗礼を受けましたが、今思い返せばそれは復活体験ではありませんでした。
確かに洗礼で生まれ変わりましたが、わたしに神様が現れてくださったのは、20年後、母が亡くなった後でした。

自分の罪を直視し、我に返ったのです。
マリアが名前を呼ばれた時のように。
それからは、問題が起きて迷ったり困っているときなどに、神様と母がわたしに何を望んでいてどう歩んでいくべきかをさし示してくれているのを感じ取ることができるようになりました。

どなたにも、キリスト者としての復活体験がおありだと思います。
その時のお気持ちを、どうか思い返してみてください。 

復活とは、「立ち上がる」「起き上がる」ということなのです。
神様との間にあった障壁のような、さえぎっていたものが取り払われる体験のことです。

わたしたちには、いつでも神の愛によって立ち上がることができる機会が与えられています。

それが信仰なのではないでしょうか。

わたしたちは、このことの証人です。
(使徒3・15)

 

生きていくちから

池江璃花子さんのことを検索すると、「池江璃花子の名言集」というサイトがたくさん設けられているのがわかります。
病気を公表した18歳からこの2年間に彼女が発した「名言」がたくさん紹介されています。
その中でも有名なのは、次のことばでしょう。

私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、
自分に乗り越えられない壁はないと思っています。

彼女がクリスチャンなのかは分かりませんが、こういうことばが身に染みていて、それが染み出してきたのでしょうか。
彼女は神様に選ばれたのだと思えて仕方ありません。


ヴィクトール・フランクル博士の本を読みました。

『それでも人生にイエスと言う』

 

 

1946年の講演の内容をもとにしてまとめられた本です。
1946年とはつまり、彼がナチスの強制収容所から解放された翌年のことです。

自殺する一番いい方法はなにかという問題に考えが向くと言っても不思議に思う人はいないでしょう。
実際、このような状況ではたぶんだれだって、一瞬であっても、「鉄線に飛び込む」ことを、つまり自殺を考えてみるでしょう。
しかし、わざわざ自殺を決意する必要がないことがわかります。
遅かれ早かれ、「ガス室に入れられ」ないですむ平均的確率がきわめて低いという状況では、自殺しようとすることはむだなことだからです。

「もう生きていたくない」と言う知り合いを励ましたことがあります。
心の中では「どう励ましたらいいのか見当がつかない」と思っていたのですが、口では「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」と。

2人の息子を相次いで癌で失ったその方は、生きている意味が分からないと、涙さえ出ないほど憔悴されていました。

実際にわたしが彼女を励ますことができるはずもなく、ただただ寄り添い、家族を亡くした方に言うわたしの言葉「天国の先輩であるうちのママがお世話してくれるから安心して」と伝え、たわいもない話をしに行く。

そうすることしかできませんでした。

ですが、次第に自然と、彼女は生きるちからを取り戻されたのでした。

わたしもそういう経験をしたからわかるのですが、生きていくちからは内面で育まれていくのです。
誰かに励まされたから、素晴らしいお話を聞いたから、そういうことから突然みなぎるものではありません。

自ら染み出してくるまで待つのです。

 .

「死は生きる意味の一部である」

◆苦難と死は、人生を無意味なものにするものではなく、むしろ、苦難と死こそが人生を意味あるものにするのだ。
◆人生に重い意味を与えているのは、この世での人生が一回きりだということ、私たちの生涯が取り返しのつかないものであること、人生を満ち足りたものにする行為も、人生をまっとうしない行為もすべてやりなおしがきかないということにほかならないのだ。

◆生き延びたことを、身に余る恩寵としか考えられなかった。
◆その恩寵にふさわしいものになり、すこしでもそれに見合うようになる義務が、死んでいった仲間に対してあるように思われた。

こう、フランクル博士はおっしゃっています。

最初にご紹介したように、この内容は強制収容所での体験からそう月日が経っていない時に語られたお話なのです。

この本のタイトルである「それでも人生にイエスと言う」という言葉は、収容所時代に囚人たちが作って歌っていた歌の歌詞なのだそうです。

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池江璃花子さんの様子をみて感動し、フランクル博士のことばに深くうなずく。
それらが糧となり、生きていくちからの肥やしとなります。

生きるということは人生を楽しむことではない、とここのところよく感じます。
池江さん、フランクル博士ほどの体験をしていなくても、生きていくことは時には困難が伴います。

 

マグダラのマリアがイエス様の墓が空になっていたのを見た時のことです。
(ヨハネ20・11〜18)
泣いていた彼女に
主の使いが「なぜ泣いているのですか」
イエス様が「なぜ泣いているのか」
そう尋ねられます。

「マリア」と名前を呼ばれた彼女は、振り返って「ラボ二」と答える。

これは、イエス様のご復活というよりも、マリアの復活体験の瞬間でした。
一度復活を体験した人は、強い。

 

生きていくちからを耕して耕して、陽の光と水を得て、心と身体を健やかに整えましょう。

生きていくちからを内面で育てていく毎日を、生きることを楽しみましょう。

人間の犯す罪

主の御復活、おめでとうございます。

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ミャンマーで起きていることを、皆様はどうご覧になり、どういう思いを抱き、どんな風に考えていらっしゃるでしょうか。

教皇様の発表されている談話をすべて追えているわけではないのですが、ヴァチカンニュースにはこの1か月、教皇様からミャンマー情勢についてのご発言は紹介されていません。

ミャンマーのヤンゴン大司教のボ枢機卿は2月4日付で公式なメッセージを出されています。

ボ枢機卿は3/23には、治安部隊による弾圧について「暴力を使った抑圧には非暴力で応えていくように」と、抗議デモに参加する若者たちに呼びかけられました。

アジア出身の12人の枢機卿は連名で、クーデターを起こした国軍、ミャンマーの政治指導者、抗議デモの参加者、全ての宗教指導者、カトリック教会に対して、「平和」の重要性を訴える声明文を公表されています。

しかし、現実は悪化の一途を辿っています。

教皇や枢機卿のメッセージは葬られたかのように、暴力はエスカレートするばかりです。
国際社会は、経済制裁しか打つ手がないかのように、非難はすれど無力を露呈しています。

なぜ人間はここまでの悪を犯すのでしょうか。

他国と戦争しているわけでも、民族間の紛争でもなく、軍が自国の国民を殺戮しつづけるというこの事態をニュースで追うたびにこみ上げる無力感。

ヘイトクライム(憎悪犯罪)も多発しています。
ショッキングだったのは先週起きたNYでの事件。
この前まで黒人への暴力が社会問題だったのに、黒人男性がアジア人女性を蹴り飛ばし、目撃していた誰も止めることも助けることも、通報すらしなかったのです。

ミャンマー軍の暴挙、ヘイトクライム、見て見ぬふり、無関心、これらは人間が犯す愚かな罪なのです。

何もできないもどかしさ。
ですが、ここに書かずにはいられませんでした。

せめて、無関心という罪を犯さないように。

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ミャンマーと姉妹教会の関係にある東京教区は、積極的に情報を発信されています。

*とりなしの祈り*
祖国の危機の中にあるミャンマーの兄弟姉妹のために祈りましょう。
正義と対話が、今ミャンマーを覆っている暗闇と分断に打ち勝つことができますように。
希望と平和に満ちた、真の和解の共同体を築くために、すべての人が協力することができますように。
主よ、わたしたちの祈りを聞き入れてください。
(東京教区ホームページより)

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イエスが人類の傷と死をご自身に引き受けられた時から、神の愛はわたしたちの荒れ野を潤し、わたしたちの闇を照らしました。
なぜなら世は闇の中にあるからです。
今起きているすべての紛争、飢餓で亡くなる子どもたち、教育を受けられない児童、戦争やテロで破壊的打撃を受けた人々を考えてみましょう。
麻薬産業の犠牲となる人々、キリスト教や他の宗教を信じる一部の人々で自分が一番でありたいと思う人たち…、これが現実です。

この死のカルワリオで、イエスはご自身の弟子たちの中で苦しんでおられます。
(3/31教皇水曜恒例の一般謁見のお説教より)

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日々たどる十字架の道行を通して、困難な状況にある多くの兄弟姉妹たちの顔に出会います。
見て見ぬふりをして通り過ぎるのではなく、こころを思いやりで満たし、近づいて寄り添いましょう。
(3/30教皇様のツイッター)

神の子羊
世の罪を除きたもう主よ
我らを憐れみたまえ
我らに平安を与えたまえ

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ボ枢機卿のメッセージ
https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/41301/

3/31ケルン大司教区プレスリリース「ミャンマーの民主化と平和のための祈りの日」
https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/41776/

応えていく信仰

受難の主日からのこの聖なる一週間、どのような祈りの日々にするか決意したところです。

枝の主日には、一昨年までは聖堂の前に信徒が大勢集まり、共に聖書を朗読し、枝を掲げて祝福を受けて行進して入場していました。

今年は静かに、前もって祝福していただいていた枝をいただきました。

 

 

女性の会、ヨゼフ会の皆さんがこうして毎年準備をされているのをご存知でしたか?

木から枝を落として一本ずつ洗い、トゲを落とします。
拭きあげてから皆さんが持ちやすいサイズにし、持ち手の部分の葉を落とします。
茶色に変色している葉先は一枚ずつハサミでカット。
こうして手間暇かけて準備され、枝の主日の朝には当然のように聖堂入り口に置いてあるのです。

持ち帰った枝は、来年の灰の水曜日前まで大切になさってください。

 

第一朗読のイザヤ書はわたしが好きな箇所でした。

4つある「僕の歌」のうち、3つ目の「主に応える僕」です。

主なる神は、教えを受ける者の舌をわたしに与えてくださった。
疲れた者を言葉によって支えることを知るために。
主は朝ごとに呼び覚まし、
わたしの耳を呼び覚まし、
教えを受ける者のように聞くようにしてくださった。
主なる神は、わたしの耳を開いてくださった。
わたしは逆らわず、背を向けて退くことはなかった。
(イザヤ50・4〜5)

 

主に応える生き方ができているか。
よく自問自答します。

楽しみを求めることに執着していたり、金銭欲に囚われてしまったり、わたしたちは弱い存在です。
そのような迷いから目覚めることを表現した詩があります。

わたしは眠り夢見る、
生きることがよろこびだったらと。
わたしは目覚め気づく、
生きることは義務だと。
わたしは働くーーーすると、ごらん、
義務はよろこびだった。

これは、1931年のノーベル賞を受賞したインドの哲学者であり詩人でもある、タゴールの詩です。

生きるということはある意味で義務である、とタゴールは言います。
生きることこそが、たった一つの重大な責務である、と。

よろこびは、得ようとして努めることはできない、
よろこびは、自ずと湧いてくるもの。
しあわせは目標ではなく、目標であってはならない、
しあわせは義務を果たした結果に過ぎないのだ。

厳しいような、難しいような価値観だと最初は思いましたが、この詩を繰り返し噛み締めているうちにスーッと「そうかもしれないな」と考えるようになりました。

朝ごとに耳を澄まして神様からの呼びかけに応える生き方は、わたしの理想とする義務のかたちです。

この聖週間の間、誰のためになんのために祈るのか、神様からのメッセージがわたしの内面に降りてきた受難の主日のミサでした。
こういう瞬間は本当に嬉しいよろこびです。

 

日曜学校の子どもたちの十字架の道行の様子です。

 

 

過去との対話

わたしたちはそれぞれに『神様との歩みの歴史』を持っています。

わたしはいにしえの日々を思い起こし
あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し
御手の業を思いめぐらします。
あなたに向かって両手を広げ
渇いた大地のようなわたしの魂を
あなたに向けます。
(詩編143・5~6)

フランシスコ会訳はまたニュアンスが違います。

わたしは過ぎし日をしのび、
あなたの行われたことをすべて思い巡らし、
あなたの手の業に思いを潜めます。
わたしはあなたに手を差し伸べ、
わたしの魂は乾ききった地のように
あなたを慕います。

5節を直訳すると
わたしはわたしの前にある日々を思い出し、あなたのすべてのみ業を思う
となるそうです。


21(日)四旬節第5の主日の第一朗読はエレミヤ31・31~34でした。

見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。
わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。

神を「主」とあおいでいたイスラエルの民は、主との契約を反故にして周囲の大国と同じように「王」を望んだため主から見放されます。
その結果としてバビロン捕囚で神殿と王と土地を失った、エレミヤはそう嘆きます。
エレミヤは実際にバビロン捕囚の時代に生きた預言者です。

前週、第4の主日の第一朗読の歴代誌です。

神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿はすべて灰燼に帰し、貴重な品々はことごとく破壊された。
剣を免れて生き残った者は捕らえられ、バビロンに連れ去られた。
こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地はついに安息を取り戻した。
その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。
(歴代誌下36・19~21)

神殿が破壊されバビロン捕囚で主だった人々が連れ去られたのに、「地は安息を得た」という表現がなされています。


歴代誌はエルサレムがバビロニア軍に破壊されたBC587年より140年ほど後に書かれたとされています。
こうしたイスラエルの過去の歴史を基礎としてユダヤ人が聖書を編纂していくわけですが、その過程においてもっとも重要なのは「後ろを振り返って過去を見ている」のではないという点です。

普通わたしたちは、自分の過去を記録に残そうとする際、たどってきた歴史を都合の良いように頭の中で編集してしまうものです。
しかし聖書を記したユダヤ人たちは、過去は神が導いてきた歩みとして自分の目の前に置いて、その意味を思い巡らしながら目標に達するべく人生の舵を取っているのです。

それが、冒頭の詩編に表れています。

「わたしはいにしえの日々を思い起こし
あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し
御手の業を思いめぐらします。」

 

3.11を過去の歴史に埋もれさせてはならない、次世代に語り継いでいきたい、そういう思いで語り部として活動している若い世代の方々をテレビで観ました。

彼らの深い思いを簡単に理解したふりはできませんし、ここに表現することもできませんが、単に辛い経験を話していらっしゃるのが語り部ではないと思います。

前を向いて、未来のために過去と対話しながらその意味を深く考える。

わたしたちそれぞれの『神様との歩みの歴史』についても同じです。

宮崎神父様がおっしゃったように、四旬節は自らの信仰生活を振り返る時です。

自分のこれまでの人生、信仰生活を後ろに振り返るのでなはく、神様がお示しになったひとつひとつの意味と対話することが大切です。
自分のいたらなかった振る舞いも、忘れ去りたい嫌なこと辛いこともすべて、神様が共にいてくださった歴史だということを忘れずに前を向いて生きたいのです。

 

教皇様の巡礼の旅

教皇フランシスコが2019年11月の日本以来の海外訪問としてイラクを訪れたことは、メディアでも大きく取り上げられました。
わたしが読んだ新聞の記事は「ISの元支配地で紛争犠牲者に祈りをささげ宗教融和を演出」「カディミ政権の教皇受け入れは単なるプロパガンダ」などと、あまり好意的なものではありませんでした。
メディアリテラシーを発動すべき時ですね。

教皇様がどのような思いで、何のためにイラクを訪問されたのか、わたしたちはきちんと正しく理解しておく必要があると思います。

これまでローマ教皇がイラクを訪れたことはなく、今回の訪問が初となりました。
教皇の訪問の目的は、「イラクのキリスト教徒らを励まし、同国の復興と平和を祈り、諸宗教間の対話を育むことにある」とバチカンニュースは報じています。

 

 

2日目に、聖書にも記載のある古代都市、ウルを訪問されました。

ウルは、かつてメソポタミア南部に位置した古代都市。
旧約聖書の「創世記」には「カルデアのウル」と記され、父祖アブラハムの生誕の地とされています。

教皇様は、「アブラハムが生まれ、神の声に従い旅立ったこの場所から、共にアブラハムを父祖として尊ぶ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、そして他の宗教の人々が、互いを兄弟姉妹として、アブラハムと同じように天の星を見つめながら、平和の道を共に歩んでいけるように」と挨拶で話されました。

 

3日目にはモスルを訪問されました。

 

モスルは、2014年から2017年にかけて過激派組織ISに占領された街です。
占領から解放までの激動の期間、人命はもとより、家屋、市民生活、社会・経済機能、文化遺産など、膨大な犠牲をはらいました。

占領されている期間に、2004年に人口およそ185万人だったモスルから、キリスト教徒12万人以上を含む、約50万人の住民が他地域や国外に避難しました。

解放後の現在、モスル市民は国際社会の協力を得ながら復興という大きな挑戦に立ち向かい、難民となった人々の帰還のために努力しているのです。

(青字はVATICAN NEWSより参考)
https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2021-03/iraq-incontro-interreligioso-ad-ur-20210306.html
https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2021-03/iraq-mosul-preghiera-per-le-vittime-della-guerra-20210307.html

 

 

「真の宗教性とは、神を礼拝し、隣人を愛すること」
教皇様はおっしゃいました。

「人間は宗教によって兄弟であるか、あるいは創造によって平等である」
イラクのイスラム教シーア派最高権威、シスタニ師のおことばです。

84歳と90歳のお二人の2つのことばに、今回の訪問の目的の真実が表れていると思います。

教皇様は『演出』するために他宗教を持ち上げたりなされないことを、わたしたちは理解しています。
なぜなら、キリスト教徒もイスラム教徒も、隣人愛を重んじていることは不変の事実だからです。


ここで起きた非常に多くの破壊と残虐行為を悔やむ者として、天と兄弟姉妹にゆるしを請いに、そして平和の君、キリストの名において平和の巡礼のためにイラクに来ました。
どれほどイラクの平和を祈ったことでしょう!
神は聞いてくださっています。
神の道を歩むかどうかは、私たち次第なのです。

教皇様のツイッターです。
これが、教皇様の思いです。

 

帰国の際の機内でのインタビューで「今回の訪問は他の訪問より疲れた。84歳という年齢の波は、一気に来るのではなく、後から少しずつやってくる。」と語られたそうです。
帰りの飛行機の中でさえお働きになるのです。

教皇様はまだ訪れていない多くの国への訪問の希望を語られています。
そのひとつは、祖国アルゼンチンです。

今回のイラク訪問は、教皇様の側近もヴァティカン政府もみなが反対していたそうです。
テロの可能性、年齢的なこと、体力の問題、そしてコロナ禍でもあるからです。
「反対を押しての今回の訪問は、決して我がままではなく長い間に考え抜いたものだ」と語られていました。

聖霊に使命感を与えられているとこうもパワーがみなぎるものか、と驚くばかりです。

『ローマ教皇は最強の平和の使徒』なのだ、と単純な安易な言い方をするつもりはありませんが、パパ様の笑顔をまじかで見て力を得た信徒の一人としては、他宗教の方々も含めもっと多くのひとを勇気づけに ApostolicJourney 教皇様の平和の巡礼の旅に出かけていただきたいと願います。

 

信じるものの力

皆さんとともに与るミサが再開されました。
昨年以来の経験がありますので混乱も戸惑いもなく、消毒をして検温、座席表に氏名と連絡先を記入、マスクを着用しての人数制限のミサがまた始まったのです。

花壇の植物もお花も、以前と同様に有志のおばさま方によって季節を感じさせてくれる美しい姿に手入れが続けられていました。

 

信仰は、望んでいる事柄を確信し、 見えない事実を確認することです。
(新共同訳)
信仰は、希望していることを保証し、見えないものを確信させるものです。
(フランシスコ会訳)
(ヘブライ11・1)

ヘブライ語の修辞法である同義的並行法という書き方で、「望んでいる事、希望していること」と「見えない事実、見えなないもの」は同じなのだそうです。

「目に見えない永遠の事柄」を保証させ、確信させる、それが信仰だというのです。

わたしたちは、「見えるもの」にではなく、「見えないもの」にこそ目を注いでいます。
「見えるもの」はこの代限りものですが、「見えないもの」は永遠に続くものだからです。
(フランシスコ会訳)
(2コリント4・18)

あなた方は、イエスを見たことはありませんが、愛し合っています。
今、見ていませんが、信じて、言い尽くせない輝かしい喜びに溢れています。
それは、あなた方が、信仰の実りである魂の救いを手にしているからです。
(フランシスコ会訳)
(1ペトロ1・8~9) 

 

信仰とは、毎日曜日にミサに与ることではない。

そう分かっています。
特にこの2年の間に教会が2度閉鎖になるという経験をしている間に、いろいろと考え、本を読み、神父様方にお話を伺い、ミサがすべてではないとよく分かりました。

ですがやはり、日曜日に同じ信仰を持つ方々とお会いして言葉を交わす時間は、何ものにも代えがたい、心の喜びを感じさせてくれます。

お説教で宮﨑神父様がおっしゃいました。
「日曜ごとにミサに与り、イエス様のご聖体をいただく。
これは、カトリック信者の信仰の中枢です。」 

 

教皇付説教師ラニエーロ・カンタラメッサ枢機卿のバチカンで四旬節の説教の一節をご紹介します。

カンタラメッサ枢機卿は、マルコ福音書の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1,15)という、今日も響くイエスの呼びかけを観想するよう招かれました。

イエス以前は、悔い改めるとは「後に戻る」、つまり道をはずれた者が律法と神の契約に再び入ることを意味したが、イエスの到来によってその意味は変わった、と枢機卿は強調されました。

「時は満ち、神の国は近づいた」この時、悔い改めるとは、後ろに、すなわち古い契約と律法の順守に戻ることではなく、むしろ、神の国に入るために前に跳躍すること、そして神が王としての自由な意思によって人々に無償で与える救いをしっかりつかみ取ることを意味する

「悔い改めて福音を信じる」とは、連続する二つの行為ではなく、同じ本質を持つ一つの行為であり、「悔い改めよ」とは「信じなさい」と同義である

 

見えない神を信じるわたしたちの確信。

そのことを同じ空間で同じ方向を向いて各々が確認し、喜びを分かち合う時間、それがミサではないでしょうか。

 

久留米教会出身のMr.癒し神父の声でリラックスしてください。
(ホントに癒されます!!)

 

苦難の折の祈りのことば

10年前の3月11日、どこで何をしていたか覚えていますか?

わたしは知り合いからの電話でテレビをつけ、大きな地震が起きたことを知りました。

個人的に2011年は、苦難の毎日でした。
どうやって生活(食事や掃除洗濯など)していたか全く記憶がないほど全てのことが大変で、それ以前もそれ以後もあれほど苦しい年はありません。

東日本大震災で被災された方々は計り知れない苦難の日々を送られていたことと思います。
苦難の大小は比較できるものではありませんが、あの2011年はいまのコロナ禍とは全く違った苦しみの日々を送った大勢の方がおられました。

わたしは、あの日々があったからこそ今がある、と確信しています。
10年経った今は自信を持って「乗り越えた」と言える心境です。

2011年を何年もかけて乗り越えられたのは、間違いなく神様がずっとそばにいてくださったからです。

 

福音宣教3月号の中から、聖書学者の本多峰子さんの連載の要点を書き出してみます。

◆苦しみが本当に無効にされるには、その苦しみがより大きな善のひとつの原因となって、その苦しみがあったからこそもたらされるよいことが成就しなければならない。

◆つらい経験の後では、いままでは当たり前と思っていた幸せを何倍も強く、大切に感じることができるようになるということもある。
けれども、それは苦しみの目的ではなくて、結果だ。
神様はそのようなことのために苦難をお与えになるのではなく、むしろ、そのような苦難の中からさえも幸せをもたらしてくださる、ということ。

◆神様はわたしたちに、苦難を乗り越える力や助け合う力を与えて、助け合って成長してゆくことさえも可能にしてくださっている、ということが恵み。

◆苦難があるから至福があるのではなく、苦難があっても至福がある。

◆神様はわたしたちの成長のために苦難を与えるのだと考えるよりも、苦難の最中にあって神様はわたしたちを助け、わたしたちを成長させてくれる。

 

眠れないほどの苦難の最中にできることは、その現状に抗うことではなく、神様へのクレーム(「どうしてですか!?」「どうしたらいいのですか!?「なにをお望みですか!?」など)とともに祈ることしかできない、というのがわたしの経験です。

苦難の折に聖ヨセフへとりなしを願ってみることを勧めます。

 

聖ヨセフへの祈り

以前ご紹介したとおり、今年の12/8まで聖ヨセフ年となっています。
それに伴って新しい祈りのことばが発表されました。

聖ヨセフよ、わたしたちは苦難の中からあなたにより頼み、あなたの妻、聖マリアの助けとともに、あなたの保護を心から願い求めます。
あなたと汚れないおとめマリアを結んだ愛、幼子イエスを抱いた父の愛に信頼して、心から祈ります。
イエス・キリストがご自分の血によってあがなわれた世界をいつくしみ深く顧み、困難のうちにあるわたしたちに
力強い助けをお与えください。
聖家族の賢明な守護者よ、イエス・キリストの選ばれた子らを見守ってください。
愛に満ちた父ヨセフよ、わたしたちから過ちと腐敗をもたらすあらゆる悪を遠ざけてください。
力強い保護者よ、闇の力と戦うわたしたちを顧み、天から助けを与えてください。
かつて幼子イエスをいのちの危険から救ったように、今も神の聖なる教会を、あらゆる敵意と悪意から守ってください。
わたしたち一人ひとりを、いつも守ってください。
あなたの模範と助けに支えられて聖なる生活を送り、信仰のうちに死を迎え、天における永遠の幸せにあずかることができますように。
アーメン。

(2021年2月16日 日本カトリック司教協議会定例司教総会認可)

 

次にご紹介する祈りは、教皇フランシスコが40年以上毎日唱えられている、イエズス・マリア修道会の19世紀の祈祷書の中の聖ヨセフへの祈りです。

栄光に満ちた父祖、聖ヨセフ。
あなたは不可能なことを可能にできる力のあるかたです。
苦悩と困難にある今この時に、どうか助けに来てください。
深刻で困難な状況を、わたしはあなたにゆだねます。
あなたの保護のもとに引き受けてください。
そうして、よい解決策を得ることができますように。
愛する父よ。あなたを心から信頼します。
あなたにむなしく祈った、そうなることのないように。
あなたはすべてのことを、イエス、マリアとともに行われるのですから、あなたからの恵みが、あなたの力ほどに大いなるものであることを示してください。
アーメン

この祈りは、先ほど発行された新しい使徒的書簡「父の心で」に紹介されていました。

 


 

あの震災から10年。
心の傷が完全に癒えたとは感じられない方もまだ多くいらっしゃることでしょう。

コロナ禍の様々な規制によって苦難の最中にある方も多い今、「沈黙の聖人」と言われる聖ヨセフへの祈りが心の支えとなりますように。

自らのありようを選ぶ

四旬節が始まって聖堂が解放されているのと、宮﨑神父様のお顔も見たかったので、久しぶりに教会に行ってみました。

やはり、お御堂でお祈りすると心が落ち着き、一種のリフレッシュの効果があります。

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有名人であれば、言ったこと(たとえそれが過去の発言でも)、行動(何十年前のことでも)が「現代の規範からすると間違っている」と誰かが判断したら、瞬く間に世界中に広まり、見知らぬ多くの人から非難され、謝罪を要求され、精神的にも追い詰められ、仕事を失う。

それが現代社会です。
「過去であろうと過ちは絶対に許されない」のが今の世の中です。

たとえば、昨年のアカデミー賞授賞式の司会に決まっていた人は、何年も前にツイッターで人種差別的な発言をしていたことを掘り起こされ、司会者を辞退するまでに追い込まれました。
「今の自分は変わった。過去の失言を恥ずかしく思う。」そう謝罪しても時すでに遅し、でした。

周囲の人にしょっちゅう失言したり失礼な態度をとってしまうわたしは、その基準からすれば誰からも許してもらえなくなるのでは、、、。

「裁くな」「おが屑と丸太」「自分の量る秤」
1500年前からのこの教えは、今もまだ有効です。

キリスト者にだけ効力があるのではなく、これらのことが書いてある聖書の箇所を読んでみれば、聖書を初めて聞く人だれにでも分かり易い、至極当然のこととして理解してもらえると思います。

 

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
(マタイ7・1~5)

 

どうして人は、こんなにも他の人に厳しいのでしょうか。
最近のSNSでの他者へのバッシングや誹謗中傷の問題を見聞きするたびに、この疑問が渦巻きます。

今年から、福音宣教を定期購読し始めました。
こうした疑問を解消したい、自分はどうあるべきか、そういう目的で読んでいると閃きのような文章が目に留まります。

(一番のお目当ては、聖書学者の本多峰子さんの神義論の連載を読むためです。
 その内容についてはいつかゆっくり書いてみたいと思っています。)

 

 

3月号のシスター加藤美紀さんの文章にあったことを少しご紹介します。
著作「夜と霧」などで有名なヴィクトール・E・フランクルの考え方を紹介していらっしゃいます。

フランクルによると、ラテン語で「人格」を表すペルソナは、ラテン語の「響き渡る」を意味する単語に由来しています。
人間とは常に自らの良心の内に神の声が響き渡っている存在であり、その神からの呼びかけに応答して初めて、人間は実存の本質を生きることができるのだと、フランクルは主張しています。
その前提として、人間は根本的に自由な存在だからこそ、自らの意思で決断しながら責任をもって神様に応答できるのだ、と言います。

☆人生の意味への問いに対しては詮索や口先ではなく、正しい行為によって応答しなければならない。
☆この場合の「行為」とは、ある状況においてとる態度のこと、生き方をもって示すことを含意してる。
精神的な態度も含め、自らの行為によって意味を闘い取って人生の意味を実現させる。

他の誰も代わることのできないその人固有の生の意味は、本人が決断して選んだ行為(ありよう)によって初めて実現されることになるのです。

 

このフランクルの生き方のありようについての考え方にはとても心打たれました。

必要以上に人に厳しくしてしまう気持ちが渦巻いてしまったら、「正しい行為の選択」と「自らの人生の意味を実現する過程に集中する」ことに心をシフトしたいと思います。


四旬節の間、わたしたちは「人を辱めたり、悲しませたり、怒らせたり、軽蔑したりすることばではなく、力を与え、慰め、励まし、勇気づけることばを使うよう」(回勅『Fratelli tutti』223)、いっそう気をつけなければなりません。

これは、パパ様の四旬節メッセージの一節です。
心に刻んでおきたい大切なことばです。
「人を辱めたり、悲しませたり、怒らせたり、軽蔑したりすることばではなく、力を与え、慰め、励まし、勇気づけることばを使うよう」

四旬節の始まりに、よい気づきを得られた気がします。

世界の諸問題を考える

聖ジュゼッピーナ・バキータの日、2月8日「人身取引反対のための祈りと考察の日」のパパ様のインスタグラムです。

 

フランシスコ教皇のインスタグラム、ツイッター、ヴァチカンニュースを毎日チェックしています。
信仰生活に役立つことばを探すためだけではなく、パパ様の発言・発信されることは世界の問題に目を向けさせてくれるからです。

以前からラウダート・シなどで警鐘を鳴らし続けてこられている環境破壊の問題についても、インド北部で発生した氷河崩壊によって川の氾濫が起きたという衝撃的なニュースはわたしたちに恐怖を感じさせます。
(北極の話ではないのです。わたしはインドで氷河が崩壊するなど想像できませんでした。)

一方で、人身売買や人種差別、キリスト教徒の迫害。
こうした問題は、日本人にとってはあまり現実的なこととして捉えられないのではないでしょうか。

コロナウィルスの感染についても「身近にいないから」という理由で現実味を感じないという日本人が多いと聞きます。
2月12日の統計では世界で1億750万人以上が感染し、236万人以上の方がこのウィルスによって亡くなっています。
ワクチンを開発した欧米ではワクチン接種が進んでいますが、「輸出制限」といったニュースも耳に入ってきており、世界の隅々にまで本当に行き渡るのかという懸念も生じています。

これらは実際にいま、この現代社会において起きている重大な問題です。

竹下節子さんのブログに書いてあったことを2つご紹介します。

①人身売買、臓器売買という問題
ヨハネ・パウロ二世の友人で臨終にも立ち会っていたというポーランド人の女性ワンダ・プウタスフカさんについてです。
彼女はいま100歳でご存命ですが、18歳の時にカトリックのナチスへのレジスタンス運動をしたことによって人体実験のための収容所に連行されました。
ある日、次の日に実験室に呼び出される2人の名が知らされました。その一人がワンダさんでした。
呼び出されるということは死を意味します。
その夜、60歳の女性が、同じく呼ばれたもう一人の20歳の女性に「あなたは若いのだから、明日名前を呼ばれたら私が代わりに返事して連行される」とコルベ神父さまのように身代わりを申し出ます。
ワンダさんにも同じように身代わりを申し出る人がいたそうですが、彼女は断ります。
年齢によって命の軽重はないと思ったからです。
翌朝最初の1人の名が呼ばれ、身代わりの女性が立ち上がります。
そして、2人目のワンダさんの名は呼ばれなかったというのです。
彼女は奇跡的に助かりました。


②キリスト教徒の迫害
世界の人口は今や80億人に近づいていますが、60億人とした時の統計では、その3分の1である20億人がなんらかのキリスト教の「洗礼」を受けていて、10億人がイスラム教徒、30億人がそれ以外(無宗教も含む)。
中国でも、6千万人が洗礼を受けていると言われています。
中近東などアジアのキリスト教徒の4割が、キリスト教徒であるということで迫害を受けているというのです。
アブラハムの出身地イラク、パウロの回心の地シリア、これらの地域には20世紀には400万人のキリスト教徒がいたのに、今は90万人を切っているそうです。
なぜなら裕福な人は外国に移住し、残っているのは最も貧しいキリスト教徒たちなのです。
イラクやシリアでは、キリスト教以前のアッシリアなどの文化遺産も破壊され続けています。
今のイランには100-500万人の隠れキリシタンがいるとも言われています。
エジプトのコプト・キリスト教徒は生まれると手に十字架のタトゥを入れられるそうですが、そのことで差別があったり、逆にラマダンを強制されるといいます。

 

地球環境の崩壊、コロナウィルスの蔓延、ワクチンの囲い込み、人身・臓器売買もキリスト教徒の迫害も、今現実に起こっています。

パパ様がよくおっしゃいます。
無関心が一番罪である、と。
日本に住んでいるわたしに実際に何ができるのかと、ももどかしく感じます。

☆今年の「人身取引反対のための祈りと考察の日」の目標は、この恥ずべき取引を直接的また間接的にも広げることのない経済のために努力することである。
それは、すなわち人間を決して商品のように扱い、搾取することなく、それとは反対に、人間に寄与する経済をめざすことである。

☆「ケアの権利」、貧しい人や疎外された人を救う責任、医療福祉とケアの分野において利益の論理に引きずられることがないように。

☆ワクチンが、貧しい人々をはじめすべての人に行き渡るよう、その平等な配給のための国際レベルの取り組みを。

 

こうした世界の問題に目を向けて知ること・考えることはとても大事なことだと思います。
家庭でのゴミの削減、日常生活においてフェアトレードのものを優先すること、支援活動している組織への寄付など、具体的な行動をとっていくことは、わたしたち個人が出来る最低限のことではないでしょうか。

 

文字にして残すということ

パソコンで仕事をし、スマホでやり取りをする日常。
実際に字を書くことは本当に少なくなりました。
わたしの場合、『お恵みノート』と自分で呼んでいるノートに、今日感じたお恵みを書き記す習慣を長く続けていて、字を書くのはそれくらいかも。

この教会のホームページにこうして書いていることにはわたしなりの意味があります。

学んだこと、知ったこと、お伝えしたいことを多くの方にご紹介したい。
信仰を深める一助となれば。
教会に感心を持っていただけるきっかけになれば。
久留米教会の出来事を記録として残し、またいつでもどなたでも読んでいただけるものとして。

宮﨑神父様が「自由に書いていいよ」と言ってくださるので、お言葉に甘えて色々なことを。

 

なぜ文字ができたのでしょうか。

世界最古の文明発祥の地、古代メソポタミアで楔形文字が考案されたのはBC3000ごろとされています。

今から5000年以上も前、メソポタミアではシュメール文化が起こり、少し後にはインド・パキスタンでインダス文明が起こり、その後にはエジプトでは古代王国が栄えてギザには大ピラミッドが建設されました。
同時期の日本は縄文時代後期!

考案したのはシュメール人で、彼らは最初は例えば、物々交換の記録といった実用的な使い方をしていました。
時代が下るにつれ、文字は神聖化されていき、BC2000年後半以降のメソポタミアでは「文字には過去の英知が宿っている」といった神秘的な考え方が生まれていたそうです。

西アジアの楔形文字文化圏では、文字文化が発達するBC3000年以降のおもな都市遺跡からはほぼ例外なく文書庫や図書館が発見されています!
例えば最大規模の図書館としてはBC1114~1076年のティグラト・ピレセル1世のものが有名で、2万枚を超える粘土板文書が出土しています。
内容は、「ギルガメッシュ叙事詩」「エヌマ・エリシュ(創世神話)」などの文学作品、諸王の年代記、天文書、医学書、法学書、シュメル語をアッカド語に訳した語彙集など、多岐にわたっています。

先ほど書いたように、最初に文字が考案されたときは(発見されている粘土板によると)実用的な使い方をしていました。

その後、街の都市計画や戦闘の記録にも使われていきます。
都市が整備されていくにつれ、人々の生活にはさまざまな決め事やルールが必要となってきました。
つまり、人々が生活するうえで文字として約束事を残していく必要が生じたことが文字の発達の意味であるようです。

ですが、王ですら必ず文字の読み書きができたわけではなく、専門の役人が粘土板に掘って焼いて、それを手紙として他国の王に送ったりなど、必ずしも実用品ではありませんでした。

 

文字の始まりはおよそBC3000年ですが、旧約聖書が書かれたのはバビロン捕囚後のBC500年以降です。

聖書が文字として書かれた意味はなんでしょうか。

後世に残すために書いた、とは思えません。
当時の人々が、2500年後のわたしたちが読むことを想定して、期待して文字に残したわけではないと思います。

バビロン捕囚とは、精神的支柱であった王を失い、神からの嗣業であった土地を奪われ、ユダヤ人の誇りであったソロモンの神殿を破壊されるという、ユダヤ民族そのものが消滅する危機だったのです。

神と交わした約束を捉えなおしどこに基を置いて国を立て直すか、そうしたことを深く考えて民族の誇りを忘れないように、取り戻すために(旧約)聖書を書いたのです。

聖書に書かれているのは「神のことば」ではなく、人間とは何者なのか、何であり得るのか。
神とは誰か、というより人間とは何かということ。
どうしたら人間は天国に行けるかが書いてあるのではなく、どうしたら人間が人間らしく生きていけるか、どうしたら人間は神の望むように生きていけるかが書いてあるのが聖書である。

人間は自らの罪や限界にぶつかったとき失望し、またある場合は絶望する。
その限界をどのように乗り越えるか。
そこに無限の永遠の存在=神が必要となる。
その意味で、苦難や苦悩は人が神に出会うきっかけとなる。

そう、ある神父様がおっしゃっていました。

前回ここに書いたように、数千年に一度の歴史の転換点に生きるわたしたちです。
聖書と神様について子どもたちにどう伝えていくか、深く考える必要に迫られていると思います。

 

丘を登る勇気

先日、ある神父様といろいろなお話をしました。
その中でも、多くの方と共有したいと思ったテーマは、「エジプトに戻ることばかりを考えちゃいかん!」ということです。

現在の世界の状況をよく見て、考え、理解するならば、「元の世界に戻る」ことが幻想であると気づくはずです。
「元の世界」とはすなわち、ウィルスの感染に怯えることなく、自由に、計画したとおりに、楽しみを追い求め、安定した、そうした生き方ができることです。

わたしたちは知っています。
自由を求めて、労働の代わりに食事に事欠くことのなかったエジプトから脱出した民が、荒野での生活に嫌気がさし「エジプトの方が良かった、エジプトに戻りたい、元の生活に戻りたい」と訴えていたことを。
王に隷属させられ自由がなかったエジプトでの生活から出て、安定を捨てても神に仕えることを選んだことを忘れてしまった民のことを。

わたしたちは分かっています。
苦難は「40年」続くことを。
40年とは数字通りの年数ではなく、長い時間がかかるという意味だと。
長い年数をかけて、苦難を噛みしめて乗り越えていかなければ得られないことがあることを。

数年で元に戻したい、そういう感覚で生きていく時代ではないのではないでしょうか。

 

『よく聞け、しかし、理解するな。
よく見よ、しかし、悟るな』。
この民の心を鈍くし、その耳をふさぎ、その目を閉ざせ。
自分の目でみることなく、
自分の耳で聞くことなく、
自分の心で悟ることなく、
悔い改めて癒されることのないために。
(イザヤ6・10)

よく考えてみましょう。
自分の目と耳と心を研ぎ澄まして、よく考えるのです。

今の時代は、地球全体の歴史の上に於いて、数千年に一度訪れる大きな大きな変革の時である。
そのことをもっとみんなが理解して行動し、生き方を変えていく必要があるのではないか。

こんなことを、神父様と盛り上がってお話しました。

 

アメリカの大統領就任式で詩を朗読した若い女性、アマンダ・ゴーマンさんの『The Hill We Climb (私たちがのぼる丘)』をお聞きになりましたか?

彼女の詩は、この4年で分断され暗く陰ったこの国をわたしたちが立て直すのだという、強く勇気溢れる気持ち、鮮やかな希望が表現されています。
わたしは、今世界が置かれている変革のチャンスの時とその丘に勇気をもって登っていくのだ、という風にも読むことができると感じました。

少し抜粋してご紹介します。

 

日が昇ると、私たちは自問する──どこに光を見いだせようか、この果てなき陰のなかに。
私たちが引きずる喪失、歩いて渡らねばならない海。
私たちは果敢に、窮地に立ち向かった。
平穏が平和とは限らず、「正しさ」の規範や概念が正義とは限らないことを学んだ。
それでもその夜明けは、いつのまにか私たちのものだ。

私たちは、完全なる一致を形作ることを目指しているわけではない。
私たちが目指しているのは、意義ある一致を築くことだ。

聖書は私たちにこう幻を抱くようにと語りかける──
「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もない」
(ミカ書4:4)

私たちがこの時代に応えようとするのであれば、勝利は刃ではなく、私たちの作ったあらゆる橋にあるのだ。
それが、木立ちのなかの空き地、私たちがのぼる丘の約束だ──ただし私たちが果敢にのぼりさえすれば。

この信仰に、私たちはより頼む。
私たちが未来に目を向け、歴史が私たちに目を向けているからだ。
これが、正しきあがないの時代なのだ。
私たちはその始まりにあって、恐れた。
そんな恐ろしい時の後継ぎになる備えができているとは思えなかった。
それでもその内側で私たちは見出した──新しい章を著す力を、自分たちに希望と笑いを与える力を。
かつて私たちは問うた──「私たちはいったいどうしたら破滅に勝りえようか」
いま私たちは断言する──「破滅はいったいどうしたら私たちに勝りえようか」

私たちはありしものにふたたび戻らず、あるべきものに向かって動いていこう。

私たちは知っているからだ──自らの無為と無気力を次世代が受け継ぐのだと。
私たちの失態が彼らの重荷になるのだと。
だが、ひとつ確かなことがある。
私たちが慈悲と力を、力と正しさを解け合わせるなら、
そのとき愛が私たちの遺産となり、変革が私たちの子供たちの生得権となる。

(クーリエジャパンのHPより引用 全文は以下のアドレスでご覧になれます。)

https://courrier.jp/amp/229523/?utm_source=yahoonews&utm_medium=related

 

いかがですか。
アメリカだけの話ではない、そう感じませんか。
繰り返しになりますが、ここだけでも暗記したいと思った箇所です。

私たちが未来に目を向け、歴史が私たちに目を向けているからだ。
これが、正しきあがないの時代なのだ。

私たちはありしものにふたたび戻らず、あるべきものに向かって動いていこう。

私たちは知っているからだ──自らの無為と無気力を次世代が受け継ぐのだと。
私たちの失態が彼らの重荷になるのだと。

次の数千年の幕開けのために、エジプト(元の暮らし)を忘れて果敢に丘(新しい生き方)にのぼっていく。
それは、おそらく将来の歴史の記録に刻まれることになるであろう今を生きているわたしたちの責任なのです。

信仰のモチベーション、教会の在り方、教会へのコミットの仕方も同様です。

いま、ありし日々を懐かしむばかりで何もしないこと
-----早く元の生活が戻りますようにとばかり祈ること
-----自粛するだけで次を見据えて行動しないこと
は、子どもや孫の世代に対して無責任なのだ、と若い詩人が教えてくれました。

 

 

自己を見つめなおす時間

カトリック生活を定期購読しています。
2月号は『映画の中のカトリック』が特集されており、たくさんの映画が紹介されています。

日曜日の午前中は教会で過ごすことが習慣でしたので、ぽっかり空いた時間に、以前から観たいと思っていた映画「修道士は沈黙する」をようやく鑑賞しました。

 

 

正直に告白しますが、とても難解な内容でした。
タイトルのとおりに「告解」と観想修道会の修道士であるサルス神父が重要なキーなのですが、想像とは違い、世界経済を動かす強欲で権力主義の人間の心の闇がテーマでした。

映像と音楽が美しく、無駄な描写は一切なく、洗練されたリゾートホテルの中だけでストーリーが展開していきます。

 

 

告解の内容を教えるように迫られますが、戒律を理由にサルス神父は沈黙を貫きます。
「沈黙こそがいかに雄弁であるか」が根底に流れるもう一つのテーマのようです。

サルス神父はカルトジオ修道会所属の修道士という設定です。
映画「大いなる沈黙へ ーグランド・シャルトルーズ修道院」で世界的に知られるようになったあの修道会です。
カトリック教会の中でも最も戒律が厳しく、現在は約200人の修行僧が「沈黙」「孤独」「清貧」を重んじた生活を送っているそうです。

この映画の(わたしが考える)最大の見どころは、ラスト5分でサルス神父が登場人物全員を前にして語るお説教です。

「自らを見つめなおしなさい」「自己を律するのです」と言われている気がしたのです。

権力欲、金銭欲、物欲に支配されている現代社会(登場人物たち)への戒めのお説教が、まるで自分に対して語られているかのような錯覚に陥りました。

それまでの100分以上、ずっと重苦しい空気が流れているストーリー展開だったのが、雲が晴れたようにラスト5分ですがすがしい爽快感に包まれる、圧巻のお説教です。

 

あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、「にわか雨になる」と言う。実際そのとおりになる。
また、南風が吹いているのを見ると、「暑くなる」と言う。事実そうなる。
偽善者よ、このように地や空の模様を見分けることは知っているのに、どうして、今の時を見分けることを知らないのか。
(ルカ12・54~56)

福音書のこの箇所を思い出しました。

わたしの愛読書、カール・ヒルティの言葉も浮かびました。

神の霊がしばしば思いがけない仕方で訪れてきて、その生命と喜びをもってわれわれの全存在を満たし、一瞬のうちにすべての重荷をわれわれの心から取り去ることがありうる。
(「眠られぬ夜のために」より抜粋)

 

今の時に与えられた重荷とはなんでしょうか。
ヒルティの言う「神の霊が思いがけない仕方で」ある日訪れて「満たし」「重荷を心から取り去る」という経験はわたしもあります。

それは、素晴らしい映画を観たとき、心を揺さぶる本を読んだとき、音楽に涙するときにも訪れます。
アメリカの新大統領就任式で、コロナウィルスによって亡くなられたすべての方へ黙祷が捧げられたのを見たとき、そこに神の霊が訪れたのを感じました。

祝賀会の最後を飾った、歌手のケイティ・ペリーの感動的な歌と打ちあがる無数の花火に涙が出ました。

https://youtu.be/qNZ8XCobUUM

わたしも、やはりこのコロナ禍の生活でストレスがかなり溜まっていたようです。
素晴らしい映画と、就任式の黙祷、歌手たちの素晴らしい歌声に涙し、心の重荷が少し軽くなったような気がします。

 

困難に直面したときには、泣いておられるイエスを思い浮かべるとよいでしょう。
少なくともわたしには効き目があります。
エルサレムを見て泣いておられるイエス、ラザロの墓の前で泣いておられるイエスです。
神はわたしたちのために泣いてくださいました。神は泣いておられます。
わたしの苦しみのために泣いておられます。
神は泣けるようになるために――ある神秘家によれば――、自ら人間になろうとされたのですから。

自分と一緒にイエスが苦しんで泣いておられる姿を思い浮かべることは、慰めとなり、さらに前に進む助けとなります。
イエスとのきずなを保ち続けるなら、たとえ人生から苦しみが無くなることはなくても、幸福に向けた素晴らしい地平が開け、その充満に向けて進むことができるでしょう。
勇気をもって、祈りながら進みましょう。
イエスはいつもわたしたちのそばにおられます。
(教皇フランシスコ、2020年10月14日一般謁見演説より)

 

神が、イエス様がいつもわたしたちのそばにおられることを決して忘れてはいけない、改めてそう心に刻み、自己を見つめなおす毎日です。

 

役割とその担い手

久留米教会も、福岡県の緊急事態宣言が終わるまでミサは中止となっています。
各人が引き続き感染防止に努め、一日も早く事態が収まるように行動自粛を心がけましょう。

**********************

教皇フランシスコは、自発教令の形をとった使徒的書簡「スピリトゥス・ドミニ」をもって、教会の朗読奉仕者と祭壇奉仕者に、男性のみならず、女性も正式に選任することができるよう、教会法を改定した。

今日の教会において、男性・女性共に、信徒がみことばと祭壇への奉仕に委託を受けて参加することは、認可のもとに、世界中に定着している。

このように状況に応じて「臨時の委託」を受ける奉仕者に対し、正式な儀式をもって朗読奉仕者ならび祭壇奉仕者に「選任」される者は、伝統的に男性に限られていた。

教皇フランシスコは、このたびの自発教令を通し、教会法230条1項を改定、司教協議会の規則が定める年齢と素質をもった信徒を、正式な典礼によって、選任の朗読奉仕者と祭壇奉仕者とする道を女性にも開いた。

 

このニュースを読んだときの率直な気持ちは、
「知らなかったけど、今頃なの?!」


久留米教会は、昨年6月から主日のミサを4回行ってきました。
(宮﨑神父様、本当にありがとうございます!!)
土曜日19:00,日曜日6:30,9:00,11:00
このうち、日曜日の9時と11時のミサの聖書朗読をしてくださる方2名ずつ、つまり毎週4人の方に依頼する役割を担わせていただいています。

去年まで、日曜日9時のミサで聖書を朗読される方、答唱詩編を歌われる方は、同じようなメンバーでした。
典礼の担当者に「もっといろいろな方に読んだり歌ったりしていただいてはどうですか?」
と、ご苦労されていたことも知らずに言ってしまったことがあります。

「皆さん、断られるのよ」

去年の6月にミサが再開されてから、毎週4人の朗読者を捜して依頼するのは確かに結構大変でした。

「恥ずかしい」
「まだ無理」

そうおっしゃる方に、優しくしつこくお願いするようにしてきました。

「一度やってみてください」
「練習してきてください」
「ご自宅で聖書を開いて読んでみてください」
ベトナム、フィリピンの方には「フリガナがふってあるからよく練習してきたらできる!」と励ましながら。

初めての朗読を終えた方のほとんどが

「またやってみたい」

そうおっしゃるのです。
最近は立候補してくれる方もたまに。

とにかく、やったことがない方にできるだけお声をかけるように。

 

冒頭にご紹介したニュース、なぜ今まで男性に限られていたのか、その理由は十分に理解しています。
ただ、「いまごろ?!」と思ったのは、司祭の召命が世界中で激減している現代、任せられる役割はどんどん振り分けてよいはず(女性に、ではなく誰にでも)と感じているからです。

聖書朗読、第一朗読(預言書など旧約)と第二朗読(書簡)はその簡単な例でしょう。
第一は女性、第二は男性、という習慣?慣例?も、宮﨑神父様は「気にしなくてよい。」と言ってくださいます。

読みたい人、読める人がちゃんと練習してから読めばよい、と。

今まで円形のアドベントクランツを準備してきたのですが、去年は初めて長方形にして横一列にロウソクを並べてみたいと計画しました。

インスタグラムなどで素敵だと思ったし、円形よりもスクエアの方が作りやすいのです。
その時も宮﨑神父様は、「厳格な決まりがあるわけじゃない。作りやすいようにやっていいよ。」と。

つまり、そうやって「任せてくれる」とハードルが下がり、誰にでもできる役割が増えるのです。

これは、教会のことに限ったお話ではありません。

家庭での子どものお手伝い、会社での若い社員への仕事の割り振り、地域の行事など、どの場面でも同じようなことが考えられます。

いつまでもすべての家事をお母さんがこなし、自分がやったほうが確実で早いからと中堅社員がなんでも引き受け、伝統行事を知り尽くしている年配の方だけが地域を取り仕切る。
そんなことでは世の中は全く回らなくなる。

実感された経験をお持ちではありませんか?

 

年明けのごミサの時、神学生の吉浦君が冬休みで来ておらず、祭壇のロウソクの灯がともっていませんでした。
それに気づいた高校生の男の子が、誰に指示されたわけでもなくロウソクを灯してくれました。
遠くからその様子を見ていて、とても嬉しい気持ちになったのです。

「プレゼピオを片付けなきゃ」と佇んでいたら、「手伝いましょうか?」と集まってきてくれた子どもたちやベトナムの若者たち。

何も言わなくても気づいて動いてくれる若い人がいます。
久留米教会っていいな、と2021年の始めはそんなミサが続いていました。

気を引き締めなおしましょう。
国が、政府が、行政が、と言っている場合でもそういう問題でもありません。
わたしたち一人ひとりの行動がまず第一です。

今年は御復活をお祝い出来ますように。
まずはそこに目標に置いて、静かに暮らしましょう。

 

2021をよりよく生きるために

聖堂の横の庭園スペースに、新しく石碑が据え置かれたことにお気づきになりましたか?

イエスのみこころにささげられた久留米教会 
教会を訪れる人がそのことをいつも思い起こせますように。

 

 

キリスト教は3世紀前半まで、まったく政治利用、権力利用されていませんでした。
エルサレムの神殿が起源70年に壊されてほとんどのユダヤ人のディアスポラが始まるまでは、宗教とさえ認められていません。

なぜならローマ帝国は「新宗教」を認めていなかったからです。
キリスト教はユダヤ教の分派と理解されていました。
それからの歴史のいろいろな経緯で、西欧キリスト教文化という今の「近代世界」のベースができたのです。

これは、竹下節子さんのブログに書いてあったことばです。

今では欧米のほとんどの国が、何らかの形でキリスト教の歴史の上に形成されているのは、そう考えると不思議なことにも思えます。

そう。
現在わたしたちが信じていること、生きているこの世の中は、長い長い歴史と葛藤と不思議なことの積み重ねでできているのです。

いまから何年経ったら、コロナウィルスの蔓延とアメリカ大統領選挙の混乱がもたらしている現状が歴史に意味をもたらすでしょうか。

そう考えずにはいられない、2021年の始まりです。

わたしたちの歴史に刻まれるであろうこの2つの出来事にも、政治的、宗教的な権力闘争、利害の対立があります。
示されているはずの教訓を人々(わたし)が実際に受け止めるのはずっと先のことのように感じています。

理想とする連帯、実際には分断
思いやりと希望、現実には批判と非難と不安

わたしたち人間の弱さと愚かさを毎日見聞きし、実際に自らがその悪魔にとり憑かれることを体感する日々。

なぜ協力できないのか。
なぜ批判ばかりするのか。
そう言いながら、他者を非難する。

この悪循環を今年は断ち切りたい。

わたし自身のこと、わたしの決意ではありますが、多くの方も思い当たることはないでしょうか。

何事にも意味があります。

歴史上、人間は多くの過ちをおかしてきました。

その都度、もとに戻すのではなく軌道を変え、価値観を新たにし、示された意味を理解しようと努めてきたはずです。
洗礼を受けている、というお恵みを忘れてはいけないときです。

2020年は良いことがなかった、と感じている方が多いかと思います。
2021年はよりよく生きていきたい、そう思っています。

 

聖書に落ち着きを見出したい。
そう思って、無作為にページを開いて読むことにしました。

(昔からそうしています。
 今週の朗読箇所を読む、読み方ではなく、あえて無作為に開いてみるのです。
 そうして開いて読んでいくうちに、求めていた言葉に出会えた時の喜びは格別です。)

 

嵐における主の栄光

神の子らよ、主に帰せよ、
栄光と力を主に帰せよ、
み名にふさわしい栄光を主に帰せよ。
主を拝め、聖なる方の現れる時。

主の声は水の上。
栄光の神は雷鳴をとどろかされる。
主は果てしない水の上。
主の声には力があり、
主の声には威厳がある。
主の声は杉の木を砕き、
主はレバノンの杉を打ち砕く。

主はレバノンを子牛のように、
シルヨンを若い野牛のように躍らせる。
主の声は火の炎をひらめかす。
主の声は荒れ野を震わせ、
主はカデシュの荒れ野を打ち震わせる。
主の声は雌鹿をのた打ち回らせ、
森を裸にする。
その神殿ですべてのものは「栄光あれ」と言う。
主は洪水の上に座し、
主は王としてとこしえに座られる。

主はご自分の民に力を与え、
主はご自分の民を祝福し平安を与えてくださる。
(詩編29)

 

荒れ野と乾いた土地は歓喜し、
荒地は喜び、花を咲かせる。
水仙のように花を咲かせ、
まさに喜びに喜んで歓呼し、
レバノンの栄光とカルメルとシャロンの威光がこれに与えられる。
彼らは、主の栄光、
わたしたちの神の威光を見る。
弱った手を強くし、
ふらつく膝をしっかりさせよ。
心に不安を抱く者たちに言え、
「強くあれ、恐れるな。
実よ、お前たちの神を。
報復が、神の報いが来る。
ご自身が来られ、お前たちを救ってくださる。」
その時、見えない人の目は開かれ、
聞こえない人の耳は開けられる。
その時、足の不自由な人が鹿のように跳ね、
口のきけない人の舌が喜び叫ぶ。
荒れ野には水が、
荒地にも流れが湧き出る。
焼けつく砂地は池に、
乾いた土地は泉となり、
かつて山犬が伏した棲処に葦やパピルスが生える。
永遠の喜びが彼らの冠となり、
喜びと楽しみが彼らに追いつき、
悲しみと溜息は去る。
(イザヤ35)

 

聖書を開きましょう。
宮﨑神父様がいつもおっしゃっています。
もっと聖書を身近な存在にしてみるのです。

難しく考えなくてもよいのです。
聖書にもっと親しむことによって、自分に与えられているお恵みに気づき、抱えている不安の解決の助けとし、今本当に必要なことを見極める知恵を呼び覚ましましょう。

☆神の音楽の音を出してくれるハーモニーである聖書
☆相違なる音から一つの救いの音声を放つ聖書
☆一面に花の咲く平原である聖書
☆神からの手紙
☆人間の故郷である天国からの手紙である聖書

初代教会の教父たちは、聖書をこう表現したそうです。

聖書を読んだことのある人はほとんど例外なく、この書物の中に何か大切なことがあると言います。
ある人は判断や行動の基準となるものを見出し、
ある人は人生を精神的に豊かにするものを求め、
病んだ心を癒してくれることば、正しく導いてくれることばを探し出す。
優れた文学や偉大な哲学書として読む人もいるでしょう。

人々は聖書にいろいろな仕方で近づいており、そのいろいろな読者の関心に幅広く答える不思議な書物である、と和田幹男先生はおっしゃっています。

2021年はいつも聖書をそばに。

 

『成人』することの意味

皆さま、2021年あけましておめでとうございます。
今年も、毎日のお恵みを見逃さず、各々が置かれている立場と与えられた責任に忠実に、思いやりと感謝に溢れた日々を生きていけますように。

3日のごミサでは、今年20歳の成人となる信徒のお祝いがありました。

 

 

日本では『成人』というと、「お酒が飲める年齢になった」というイメージが強いのですが、本来の成人するという意味は「社会的責任を持つことを認められた」ということではないでしょうか。

ユダヤ教では、男子は13歳で成人となるバル・ミツバ(女子は12歳バト・ミツバ)という儀式がエルサレムで盛大に行われます。

 

(ユダヤ教では祈りの場は厳格に男女が分けられています。
嘆きの壁も左半分が男性用、右半分が女性用です。
このバル・ミツバの儀式も男子と父親や男性親族だけで行われ、母親や女性親族は仕切りからのぞき込む形です。)


これは、(ウィキペディアによると)中世以降にできたしきたりで、キリスト教の堅信式の影響を受けて始まったと言われています。
つまり、イエス様の時代には無かったのです。

ユダヤ教の戒律を守ることができる年齢が成人である、とされています。
自分の行為で許されることと許されないことを認識し、自分の行動に責任を持てる年齢に達したことを、成人式という形で祝うのです。


ヨセフ様、マリア様が3日も探し回ってようやく見つけた12歳になった我が子イエスが神殿で学者たちと知的なやり取りをしていた、というあの出来事を思い出します。

どうして、わたしをお捜しになったのですか。
わたしは父の家にいなければならないことを、ご存じなかったのですか。
(ルカ2・49)

イエスは知恵も増し、背丈も伸び、ますます神と人に愛された。
(ルカ2・52)

イエス様の少年時代(お生まれになったこと、そしてヨハネから洗礼を受けるまでの間の)唯一のエピソードであるこの箇所は、わたしにはイエス様の成人した記念の出来事に思えるのです。

他にイエス様の少年期、青年期の記述がないので想像にすぎませんが、この日、マリア様は悟られたのではないでしょうか。
幼かった我が子はもう母の手元から離れ、成人として、いつの日か何かを担う存在となるということを。
「これらのことをことごとく心に留めていた」という短い記述がその覚悟を秘めていると感じます。

 

教皇フランシスコ講和集7に「よい羊飼い」というお説教があります。
少し抜粋してご紹介します。

よい羊飼い(イエスのことです)は、わたしたち一人ひとりに目を配り、わたしたちを探し、わたしたちを愛し、ご自分のことばを伝え、わたしたちの心の奥底、願望、希望、そしてわたしたちの失敗や失望を知っておられます。
イエスはわたしたち一人ひとりに終わることのない、全きいのちを生きる可能性を与えてくださいます。
さらにイエスは、愛をもってわたしたちを守り抜き、人生で向き合うことになる険しい道や、時に危険な道をくぐり抜けるのを助けてくださいます。
イエスに倣って、兄弟愛と自己奉献という新しい道を歩むために、自分勝手な行いをやめ、誤った道の迷路から離れるのです。

 

次は、2019年のワールドユースデーで語られたお説教の一説です。

皆さんの自分に与えられた使命は遠い未来の約束ではありません。
青年期は待合室ではありません。
今日のあなたの人生は、今日しかありません。
危険を冒すなら、それは今日です。あなたの出番は今日なのです。
「皆さんは未来です」とよく言いますが、皆さんは未来ではありません。
皆さんは「いま」です。
皆さんこそ「神のいま」なのです。
神と神から与えられた使命に、待ち時間はありません。
それは、いまなのです。

 

単純な言い方ですが、この教皇様のおことばを理解できる、実行するように努めようとできる、それが『成人』なのではないかと考えます。

コロナ禍にあって、学業も就職もままならない、困難な時代を生きる若者を思うと、自分が20歳だった時代がうそのようです。

今年『成人』となる若者たちが、これからも直面するであろう困難に立ち向かうための強さと優しさを身にまとうことができますように。

 

父である方の愛

イエス様の誕生をもって、教会のカレンダーは降誕節に入ります。
クリスマスの次の日曜日は聖家族をお祝いするのが習わしです。

父と子と聖霊の御名によって アーメン

父である神
イエス様
聖ヨセフ様もお父様です。

どうしても存在感の薄いヨセフ様ですが、イエス様がダビデの家系なのはヨセフ様の血です。

ヤコブの子はマリアの夫ヨセフである。
キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。
(マタイ1・16)

イエス様がダビデの家系てあることが書かれたそのあとに続き、ヨセフ様へのお告げについて書かれています。

イエスの母マリアはヨセフと婚約していたが、同居する前に、聖霊によって身ごもっていることが分った。
マリアの夫ヨセフは正しい人で、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。
ヨセフがこのように考えていると、主の使いが夢に現れて言った。
(2・18~20)

ヨセフは眠りから覚めると、主の使いが命じたとおり、彼女を妻として迎え入れた。
マリアが男の子を生むまで、ヨセフは彼女を知ることはなかった。
(2・24~25)

イエス様が生まれた直後にも、エジプトに非難するように主の使いが夢でヨセフ様に現れて言います。
そして、エジプトから出てイスラエルに行け、と主の使いが夢に現れるのもヨセフ様に、です。

ルカには、「ダビデ家とその血筋に属していたヨセフ」がベツレヘムに住民登録にマリア様を連れて行ったことと、主の使いが羊飼いにベツレヘムへ行くように告げたとき「マリアとヨセフ、そして飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた」という2か所にヨセフ様のことがチラッと書かれています。

マリア様を静かに受け入れ、エジプトへ行け、イスラエルに戻れ、と天使のお告げに従って家族を守ったお父様。

なのに、外典に書いてあるからなのでしょうが、中年だったさえないおじさんが若いマリアを嫁にもらうことになり気が引けたから耐えた、ようなイメージがないことはない、、、です。

 

ミケランジェロ HolyFamily

(完全に、お父さんじゃなくておじいさんです、、、)

 

ヨセフは一見すると主役級にはならないものの。その姿勢の中にはすべてのキリスト者の知恵が収められています。
説くことも語ることもしませんが、神のみ旨を行おうとするかたで、しかもそれを福音に沿った、真福八端の仕方で行います。
ヨセフは完全に神を信頼し、天使の言葉に従ってマリアを自分のもとに迎えます。
神に対する固い信頼によって、人間には困難なことを、ある意味納得のいかない状況を、受け入れることができるのです。
ヨセフはマリアの胎から生まれる子は自身の子ではないこと、神の御子であることを、信仰において理解します。
そうしてヨセフは、地上での父であることを全面的に受け入れる保護者となるのです。

(教皇フランシスコ講和集7より)

 

早くから描かれていた聖母子像と違って、聖家族は16世紀頃から描かれるようになりました。
それまではヨセフ様に対する信仰が薄かったからと言われています。
教会がヨセフ様を保護者として認定したのは1870年です。

 

久留米教会にはもともと、マリア様のご像しかなかったのですが、30年ほど前にヨセフ様のご像もこうして設置されました。
(ちょっと頼りない雰囲気?)

 

 

これは、ガイドさんが「イスラエルで一番美しい聖家族のご像だと思っている」とおっしゃっていた、イスラエルの聖ヨセフ教会のご像です。
(頼りがいありそう?)

 

教皇フランシスコは12月8日、聖ヨセフがカトリック教会の保護者として宣言されてから150年を迎えるにあたって、2020年12月8日から2021年12月8日を「ヨセフ年」とすることを宣言しました。

教皇は同日、使徒的書簡「パトリス・コルデ」(父親の心で)を発表し、イエスの養父としての聖ヨセフの優しさやあふれる愛、神からの召命への従順さ、父親としてあらゆることを受容し、創造性をもって行動した勇気、質素な労働者としての姿、目立つことがなかった生き方に触れています。
聖ヨセフは「執り成しの人、苦難の時に支え、導いてくれる人」だと教皇は記しています。

使徒的書簡は福者ピオ9世教皇が1870年12月8日に聖ヨセフを「カトリック教会の保護者」と宣言してから150年を記念して発表されました。
教皇フランシスコは使徒的書簡で、新型コロナウイルスのパンデミックが続く中で、聖ヨセフが示してくれているのは、日々の困難を耐え忍び、希望を示しているが、決して目立つことのない「普通の人々」の大切さだと強調しています。
(カトリック中央協議会ホームページより)

 

2020年は、誰にとっても試練が与えられたような、多くのことを考えさせられる、忘れがたい年となりました。

わたしたちには、幸いにもお父さんがいてくれます。

天の父
イエス様、ヨセフ様
神父様

マリア様へは毎日お祈りしていますが、ヨセフ様にお祈りしたことはないかも。。。

この一年の締めくくりとなるあと数日、ヨセフ様にもご加護をお願いしつつ、地球全体に与えられたこの試練の日々が一日も早く収まりますように祈りながら新しい年を迎えたいと思います。

 

 

久留米教会の召命を考える

久留米教会の広報誌、みこころレターの11号が完成しました。

前任主任司祭の森山神父様が「教会に来られない信徒にも教会の様子を知らせるツールとして」の役割も込めて始められた広報誌です。

 

年に2回、6月と12月の発行を続けていましたが、今年は教会が春に閉鎖されたことで6月の発行は見送りました。

毎回、テーマを決めて記事の構想を考えています。

今回のテーマは『召命』です。

 

このコロナ禍、日曜学校の子どもたちが減り、侍者もいないミサが続き、少年たちを日曜日に見かけなくなってしまいました。
やはりどうしても『召命』=少年たちが司祭を目指してくれる聖霊のお導き、という考えにとらわれてしまうわたしとしては、なにか不安が拭えない日々だったのです。

みこころレターの構成について宮﨑神父様と打ち合わせをしているときに、そのことをお話しました。

「教会の庭を手入れしていつも花を植えてくれている人たち、誰も行かない墓地の清掃をしてくれている人たち、そういう信者の召命の姿も記事にしなさい。」

そう教えてくださいました。

心が湧き立ち、次々とアイデアが浮かんできました。

墓地の清掃のことは、このホームページでご紹介させていただきました。
清掃をしてくださっている信徒のおじさま方に「わたしを墓地に連れてって!!」とお願いし、お話を伺っていたら広報誌のスペースでは足りない!と思ったので、ホームページで熱く語りました。

わたしがこうして教会の広報の役割を任せていただき、楽しみながら取り組むことができていることについても、「あなたはあなたの召命を生きてるじゃない!」とある神父様から言っていただきました。

やはり『召命』は幅も奥も深いのです。

今回のみこころレターでは宮﨑神父様、船津神父様、古市助祭様、神学生の吉浦君にご自身の召命について書いていただきました。

 

アベイヤ司教様にインタビューをし、久留米の信徒へのメッセージをいただきました。

紙面の都合で掲載できなかった、みこころレターのためにアベイヤ司教様が書いて送ってくださったメッセージの全文をご紹介します。

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「小教区共同体を行き来するには」 ヨゼフ・アベイヤ

小教区を訪問するときによく聞かれるのは、小教区共同体はより活発になるために何をすればいいでしょうか、ということです。
その時繰り返し伝えるのは、「初代教会の姿を見ることです、4つの特徴が見られます」

1)共に祈る
皆が集い、共に祈りに参加し、互いに支え合っている姿はとても美しいものです。
一人ひとりが置かれている場でイエスの弟子として生きる力となったのです。

2)キリストを記念する
初代教会の人々は、《これを私の記念として行いなさい》というイエスの言葉を忠実に守りました。
その時から教会は二千年にわたって、この記念を行ってきました。現代、ミサと言います。

3)兄弟とすべての人々を心にかける
すべてを分かち合って、物が足らなくて困った人はいなかったことです。
共同体においてはもちろんのこと、周りの人々の情況を心にかけて関わったのです。

4)福音の喜びを伝える、天の父が望んでおられる社会を築く
現代の言葉で言えば「福音宣教」です。
彼らは人々の心の渇きに気づき、与えられた福音を宣べることによって、それに応えたのです。
また、社会の中にあった矛盾と不正に気づき、福音の力によって、社会を変えていくパンだねになろうとしたのです。

・・・・・・・・・・・・

よいクリスマスを ♰

(ベツレヘムの聖誕教会のステンドグラスです。)

 

信仰の歴史と遺産

先週お越しになったアベイヤ司教様が「久留米は歴史ある教会です。この遺産を守りながら将来をしっかり見極めて進んでください。」とおっしゃった言葉が心に響き、そのことをずっと考えています。

【共同訳】
“霊”の火を消してはいけません。
預言を軽んじてはいけません。
すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。
あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。

【フランシスコ会訳】
霊を消してはなりません。
預言を侮らないようにしなさい。
しかし、そのすべてをよく吟味しなさい。
そのうえで道理にかなったことを大切に保ち、
悪いことならどんなことであっても、それに近づいてはなりません。
(1テサロニケ5・19~22)

この「霊」とは、「霊の特別な恵み(カリスマ)」のことを言っています。

日本の先人たちが初めてイエス様の教えを聞いたとき、どのように感じ、どのくらいの驚きと喜びを胸に躍らせたのでしょうか。そのことをずっと想像しています。

イエズス会の記録によると、慶長5年(1600)前半に久留米に伝道所が開設されレモウラ神父と修道士が駐在し、久留米城下に薩摩から運んだ材木で住院のついた天主堂が建設されました。
このほかにも、町のキリシタン達がもう一つの教会を建てていたそうです。

久留米城主 毛利秀包の熱意に支えられて布教は最盛期を迎え、久留米とその周辺のキリスト教信者は7,000人いたと言われています。

久留米教会が1978年に宣教再開100周年を記念して作成した記念誌に載っている、当時の平田司教様の文章をご紹介します。

1601年にスペインで出版された東方伝道史の中に、
「1595年、26聖人の殉教2年前に神父と修道士は久留米という筑後の城下町に到着した。ここには古い二人のキリシタンがいた。この二人のキリシタンは、日曜・祭日に自分の家にあった礼拝所に信者を集め、皆が一緒に祈り終わると、聖教に関する数種の本を朗読した。300名ほどのキリシタンがいるが、神父はこれらの人の告白を聞き、修道士は教えに関する一般の話をした。」と記録されている。

この時点で、久留米での宣教は400年ぐらい前に始められたと思われる。
その後、迫害の火の手が全土に及ぶにつれ、久留米の信者も苦難の道を歩くようになった。
信仰の火種は消えてなくなったかのように見える状態が250年も続いた。

1878年にはソーレ神父様が久留米に正式に赴任して宣教を再開した。

 

旧筑後久留米藩領の三井郡大刀洗町(今村周辺)が、江戸時代禁教期の潜伏キリシタン(かくれキリシタン)集住地区であったことは良く知られています。
幕末~明治時代初頭に久留米藩による今村キリシタンの一斉検挙拘束があり、殉教者を出しています。

 

大刀洗町にある殉教跡地に建てられた祭壇です。

イクトゥスとは、ギリシャ語で魚を意味します。
そして、同時に「イエス」「キリスト」「神の子」「救世主」の頭文字を並べた単語でもあるそうです。
偶像崇拝を禁止していたユダヤ教の勢力が強い時代の初期のキリスト教徒が、隠れシンボルとして用いていた、と言われ、それがこの今村・大刀洗のキリシタンたちにも伝わっていたのでしょうか。

 

戦国時代末期に秋月にはキリシタンに寛大な秋月種実などの武将がおり、末次興善(コメス)という、博多、長崎、堺などで活躍していた豪商のキリシタンがいました。
永禄12年(1569)に興善は、医師でもあるアルメイダ修道士を紹介して武将など30人に洗礼を授けました。
末次コメスの屋敷裏には小さな教会があって、宣教師達は博多から時々秋月の教会を訪れたようです。

秋月の美しい紅葉の小川に沿った道の奥に、ひっそりとその天主堂の跡地はありました。


昨年11月に訪日されたフランシスコ教皇様がおっしゃったことです。
「この数日間に、何世紀にもわたる歴史の中ではぐくまれ、大切にされてきた日本のすばらしい文化遺産と、日本古来の文化を特徴づける宗教的、倫理的な優れた価値に、あらためて感銘を受けました。
異なる宗教間のよい関係は、平和な未来のために不可欠なだけでなく、現在と未来の世代が、真に公正で人間らしい社会の基盤となる道徳規範の大切さを認められるよう導くために重要なのです。」
(政府および外交団との懇談、同年11月25日)

 

歴史は語り継いでいかなければ、いつか忘れ去られます。

遺産は管理していく人がいなければ、朽ち果ててしまいます。

ですが信仰は、歴史のなかに埋もれた遺産であってはいけません。

先月ここに書いた墓地のように、たとえそこにご遺骨がもう眠っていないとしても、管理し、祈りを捧げている信徒の姿がある限り、霊は働き、信仰の火は灯っています。

そして、アベイヤ司教様が仰ったとても大切なこと。

彼らは教会の「未来」ではありません。

彼らは「現在」の教会の仲間です。

ツリーの飾りつけと、馬小屋セットを出す役割を担ってくれました!

彼らと共に教会の歴史を創っていきたい、と心から思った日曜日でした。

 

「今月の本」はこちら。↓
表裏の帯に書いてあることばを読むだけで心が震えました。
キリシタンの信仰の小説ですが、ノンフィクションかと思われるほどのリアリティです。

江戸時代を通じて、ひっそりと潜教し続けた福岡県「今村信徒」の慟哭の歴史(Amazonの説明より)

 

 

『堅信式』アベイヤ司教様公式訪問ミサ

6日はアベイヤ司教様の司式によるミサの中で、17名の子どもたちの堅信式が執り行われました。

 

マリア様が聖霊によって身籠られたこと、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたこと、このようにイエス様は2回聖霊を受けられています

聖霊の導きによって洗礼を受けることで「神の子」として誕生したわたしたちは、2回目の聖霊の働きである堅信の秘跡によってその信仰を確固たるものとし、派遣されていくという意味があるのです。

アベイヤ司教様は「今日もらう堅信証明書は卒業証書とは違います。今日からみなさんは、聖霊の働きによってキリスト者として新たにされたのです。今日参列している先輩信徒の皆さんは、あなたたちのために祈ってくれています。あなたたちのためにですよ!」と力強くおっしゃいました。

今年はコロナ禍において、何も良いことがなかった、、、ということはありません!

5月にはアベイヤ司教様が着座され、7月には船津司祭が、10月には古市助祭が叙階されるという素晴らしい記念すべき年でした。

司祭
司教
教皇

教皇様が一番偉くて、枢機卿、司教、司祭の順である、ということでは全くありません。
12使徒がどのような人々だったかを思い返してみるとわかります。
それぞれがユニークであり、現代の信徒であるわたしたちがそれぞれに個性があるのと全く同じで、12人は違った特性を持っていました。
違いながらもイエス様への愛と信頼において、彼らはひとつに結ばれていたのです。

誰が一番偉いのか、で言い争ってはいましたが、結局はペトロが一番だった、というわけではないのです。
イエス様は、3度自分を否認したペトロに3度ご自分への愛を確認し、首位権をお示しになります。
(ヨハネ21・15~)
神の国の鍵を与え(マタイ16・17~19)、ご自分の羊の群れ(信者たち)をペトロに委ねられました。

イエス様の教えを次の世代に確実に誤りなく伝えていく役割が使徒たちに委ねられ、それが教父たちによって確立され、現代の司教たちへと続いているのです。

『教導職』と言います。

 

教皇権・教皇職(司教・司祭職)は「信ずる人々のエクレシア(集り、教会)」を生き生きと生かし、分裂なき健やかな集まりとするための奉仕職・奉仕権なのだ。
この奉仕(サービス)を受けて、集る側もまた、世の万人のために奉仕(サービス)する。
では、教皇(ペトロ後継者)は「教会のかしら」か。
めっそうもないことである。

教会のかしらはただキリスト・イエスのみ。
教皇(司教)はキリストのわざと心を託されて継いでゆく管理者的しもべ。
(ルカ12章以降度々出る管理人のたとえ参照)
犬養道子さん「聖書を旅する3」より

 

久留米教会というエクレシアに集うわたしたちです。 

同じひとつの心の集まりである教会における、多様性、ヴァラエティ。
これこそがイエス様の望まれたことなのです。

アベイヤ司教が7月の船津司祭の叙階式で久留米に来られた時のことです。

全ての参列司祭が黒っぽいスラックスパンツに黒の革靴でしたが、ある神父様(久留米の前任主任司祭!)は、ブラックジーンズに裸足に皮のサンダル姿で現れ、そのままその上に着衣されたのです。
思わずわたしは、「え、、、まさかその恰好のまま!?うそでしょ!??!」と言ってしまいました。

するとアベイヤ司教様が笑いながら
「カトリック教会は多様性を重んじていますから!」とおっしゃったのです。

このユーモアのセンスと素敵な笑顔と足の長さに、わたしはすっかりファンになってしまったのでした。

司教様へインタビューさせていただきましたので、みこころレターをお楽しみに!!

神と人の仲介役

今日11月30日は聖アンデレの記念日(聖名祝日)です。
マタイは英語でマシュー、マルコはマーク、ルカはルーク、ヨハネはジョン
そして、アンデレはアンドリュー!

(わたしの好きな映画俳優やシンガーは、決まってこの辺の名前です。)

マルコによる福音書では弟子のリストの中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネについで4番目の位置にあります。

わたしのイメージでは兄ペトロに比べあまり目立たない地味な弟子のような気がしていましたが、アンデレに焦点を絞って聖書を読むと、見えてきたのは彼の存在の深い意味でした。

ヨハネによる福音書ではペトロにイエス様を紹介したのはアンデレです。

ヨハネから聞いて、イエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟のアンデレであった。
アンデレは兄弟シモンをまず見つけて、「わたしたちは、メシアを見つけた」と言った。
アンデレはシモンをイエスの所に連れて行った。
(ヨハネ1・40~42)

ガリラヤ湖畔でパンと魚を持った1人の少年を連れてきてイエスに紹介したのもアンデレです。(6・8~9)
また、ギリシャ人がイエスに会いにきたときも、その間を仲介しています。(12・20~22)

つまり、アンデレはいつも重要な仲介役の役割を果たしていたのだ、とヨハネには書かれているのです。

 

聖アンデレ Josepe de Ribera

一番弟子の兄ペトロの陰にかくれて、アンデレの話はあまりのこっていない。
”側近”はペトロとヤコブ&ヨハネ兄弟であり、アンデレはその3人とごく近しかったのにそこに入っていない。
兄のペトロにイエスのすばらしさを話し、であうきっかけをつくったのもアンデレである。功績は大きい。
でも側近にはなれなかった。ヨハネとともに”最初の弟子”のひとりでありながら、ずっと「あのペトロの弟」で過ごした。
きっとアンデレはそんなことどうでもよかったのだろう。不平ひとついわない。
なにかにつけてだれがいちばんえらいかを口論する弟子たちのなかで、彼はめずらしくおだやかで控えめな男だった。
ちなみにアンデレとは”男らしい”という意味である。
主役ではないが渋いヤツという感じだったのだろう。

(遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子 より) 

 

アンデレが兄とイエス様を繋いだ「間を結ぶ者」であったように、イエス様は人々と神様を結ぶ「仲介者」でした。

今、遥かに優れた務めが、キリストに与えられました。
それは、キリストが、この上もなく優れた約束に基づいて制定され、この上もなく優れた契約の仲介者となられたからです。
(ヘブライ人への手紙8・6)

イエスは単に神と人間との間に立つのではない。その身を捧げて永遠に途切れない関係を保つ者だった。
「見るがよい。神の子羊だ」という洗礼者ヨハネの言葉によって、イエスを見たあと、戦慄にも似た畏れと共にイエスに従ったアンデレは、彼の意志とは別なところで、小さな「仲保」の役割を分有されている。
聖書を読む限り、アンデレはそのことを自覚していない。だが、それゆえにこそ、彼の働きは不朽なのだともいえる。
(「イエス伝」 若松英輔 著より)

 

成人洗礼の場合、信仰を持つに至るには運命的な出会いがあったという方が多いと思います。
教会に連れて行ってくれたり聖書講座に誘ってくれた人、つまり、神様との仲介役の存在が大きいのです。

代父、代母の存在もその一端でしょう。
わたしの場合は高校の担任の先生だったシスター。
母の場合は旅行先で訪れた教会で出会った神父様。

神様とわたしを繋いでくださったシスターは、いまでもとても大切な大切な存在です。

そしてわたしも、その体験を生かしてどなたかがわたしの言動で神様を感じてくれる存在になれますようにという希望を心に留め、生きていきたいと思います。

 

久しぶりに、犬養道子さんの「聖書を旅する 3」を読み進めていたら、こんな箇所を見つけました。

充満の生のよろこびから遠くはなれて、死という大制限の方に行ってしまった人類をつれ戻す橋わたし役(救い主とはこれも意味する)は、去って行った者たちの中からは出て来っこない、のである。
去って行った人類の中の男と女の結合は、橋わたし役をゆめ生み出せない。
永劫の充満の者自らが創造の息吹き(創世記)によって、汚れ(原罪)を前以てとりのぞいた乙女の胎に入り、そこで胎児となりひいては誕生し、人間のひとりとなって人間史に介入しない限り。
橋わたし役と言ってもよいし、歪んだ方向に向かってしまった人間性を、元来の方向に向けて逆転させる事業と呼んでもよい。

さぁ、待降節が始まりました。
わたしたちと神様の仲介役、人類を生のよろこびにつれ戻してくださる橋わたし役であるイエス様の御生誕をお祝いするために、わたしたち個々が目を覚ましてこの4週間を過ごしましょう。

↓ 今年は紫色を基調として、こんな感じに作りました!

 

死者への祈り

久留米には2か所の教会墓地があるのをご存じでしょうか。
新しいお墓の設置が中止され、教会内に納骨堂が増設されたこともあり、今は皆さま納骨堂をお選びになっています。

久留米教会の宣教100年を記念して作られた本によると、歴代宣教師のうち初代のソーレ神父様(1917年没)、3代目のフレスノン神父様(1936年没)、チリ司教様が眠っておられたのです。
(現在は和田墓地に移されていらっしゃいます。)

 

 

野中町の墓地の様子です。
遺骨はすべて納骨堂に移設されています。ほとんどのお墓は傾き、訪問者もほとんどないそうですが、こうしてお花を添えに通われているかたもいらっしゃいます。

次は、鳥飼にあるもう一か所の墓地です。
(墓地跡、というほうが正確かも。)

 

 

マリアの墓、と墓石にはありました。
こちらは、もうどなたも通ってこられている気配はありません。
それでも2か所とも久留米教会の有志の信者さんが定期的に草を刈り、除草剤をまき、通路を整備し、清掃してくださっていることで管理されているのが実情です。

 

みなさんはご自分の死後、遺骨をどうしてほしいか、ご家族などにお伝えになっていますか?

亡くなった母は生前、「教会の納骨堂に入れてほしい」と言っていましたが、実際には(仏教のお寺にある)我が家のお墓に眠っています。

理由は「父の希望」です。

父は毎朝、愛犬を連れてお墓にお線香を上げに行っています。
カトリック信者ではない父が「母に手を合わせる場所が欲しいから」として、お寺のお墓に納骨したのです。
(罪滅ぼしです)

この場合、母の希望よりも残された父の気持ちを優先したことは間違っていないと思っています。

長年連れ添った愛する妻サラを葬るために、アブラハムがお墓を造るための土地を買った話があります。

私はあなたがたのもとでは寄留者であり、滞在者です。
あなたがたが所有している墓地を譲っていただきたいのです。
そうすればこのなきがらを移して葬ることができます。
(創世記23・4)

残された者の義務として、私有の墓地にこだわったアブラハムの気持ちがよくわかります。

ローマ教皇庁では「遺骨を親族などで分骨してはならない」としているのですが、日本のカトリック協議会では風習も勘案して許可しているようです。
(注:最下段にリンク)

わたしは、NYと横浜に住んでいる妹たちに少し分骨して渡してあります。
彼女たちも「毎朝お茶を供えて祈る対象として」の分骨を希望したのです。

死者への祈りは、生者の務めであると同時にわたしたちの希望する追悼の形でもある気がします。

死者はそこにはいない、いつもわたしたちとともにいるとわかっていても、わたしたちはどこか定位置を決めて手を合わせることで心が落ち着くのを感じることが出来るし、死者を「追悼している雰囲気」を大切にしているのです。

遺骨のないお墓、聖墳墓教会では毎日ものすごい数の巡礼者が『お墓参り』に来て祈っていました。
(今は閑散としているのでしょうか。)

 

毎日、それぞれの宗派が決められた時間にミサや礼拝を捧げています。
(ほとんど一日中、次々と、です!)
カトリック、東方正教会、アルメニア使徒教会、コプト正教会、シリア正教会の複数教派による共同管理の「イエス様のお墓」なのです。

お墓(納骨堂)という場所は、死者のためではなく残された生者のために必要なものであることが実感できます。

草が生い茂って苔が生えたまま放置されている墓石では、眠っている死者に失礼だ、というよりも、わたしたちがいたたまれない、落ち着かない気持ちになります。

こうして教会の墓地を管理してくださっているボランティアの方がいらっしゃること、心に留め於いてくださいませ。

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*現在、久留米教会の納骨堂は、ご入場いただける時間と人数が決まっています。
 蜜をさけるため土日はお入りいただけません。
 平日の開館時間に、一度に2人まで(もしくはひと家族のみ)でお祈りをお願いしています。

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参考:教皇庁教理省『死者の埋葬および火葬の場合の遺灰の保管に関する指針 (Ad resurgendum cum Christo)』の日本の教会での適応について
https://www.cbcj.catholic.jp/2017/07/20/14105/

 

自分の中に見るユダ

15日のごミサの中で、七五三の子どもたちのお祝いがありました。

 

子どもたち、なんて可愛いのでしょう。
毎週会っている子たちなので、成長の様子をこうして見られることで幸せと喜びを感じています。

 

ただいま、絶賛 聖書週間中(11/15~22)です。みなさま、聖書を開いてみてください。

イスカリオテのユダについては、ずっとわたしの中でくすぶっているテーマの一つです。

12使徒のひとりとして数えられ、イエス様をわずかな額の銀貨で売り渡したとされるイスカリオテのユダ。
彼は本当に救われないのか、考えてみたことがある方は多いのではないでしょうか。
カール・バルトの『イスカリオテのユダ』の中から、バルトの考えにわたしが共感した個所をご紹介します。

 

ジョット Kiss of Judas

バルトはまず、ユダがイエス様の使徒であったという事実を強調しています。
また、「ユダがイエスを裏切った」という言葉の「裏切った」にあたる単語は、もともと「引き渡す」というほどの意味である、といいます。
イエス様は逮捕されるときに、密告者が必要なほど隠れていたわけではなく、バルトによればユダは銀貨で「引き渡した」のだ、と。

ヨハネの福音書13章には、ユダの裏切りの予告の場面につづきペトロの否認の予告が書かれています。
ユダがイエス様を「引き渡した」ことと、ペトロが「3度イエスを知らないと言う」ことは、罪としてどちらかは赦されるというような類のものなのでしょうか。

「あなた方のうちの1人がわたしを裏切ろうとしている」とイエス様がおっしゃったとき、弟子たちは皆「非常に心配して」「主よ、まさかわたしではないでしょう」と尋ねるのです。
ここについてバルトは、誰でもがその裏切り者でありうるし、ありえたのだ、と言います。
さらには、捨てられた人間はユダの中に自分自身を再認識しなければならず、ペトロは自分がユダと連帯責任があることを知るべきだ、と。

自分の中のユダ、ユダの中の自分を認識してみなさい、ということなのでしょう。
そうして初めて、捨てられた者としての自分が救われる福音を、本当の福音として受け止めることが出来るのです。

実際にわたしたちは、日ごろの少しの時間の祈りと、少しばかりの献金と主日のミサに与ることで、イエス様を信じるキリスト者として救いにあずかろうとしているのです。

大変興味深かったのは、ユダの使徒職を実質的にはパウロが継いだのだ、という見解です。

使徒言行録1・15~26によれば、ユダのあとを埋めたのはマティアという人ですが、パウロは迫害者であったのに選ばれて使徒となったのだ、つまり、最初はユダのようにイエス様に敵対していたにもかかわらず使徒とされたのだ、と言います。
ユダの棄却こそがイエス様が担った棄却であり、パウロの選びこそがイエス様の選びなのだ、と。

 

若松英輔さんの「イエス伝」にはこう書いてあります。

さて、ユダが出ていくと、イエスは仰せになった、
今こそ、人の子は栄光を受けた。
神もまた人の子によって栄光をお受けになった。
わたしは新しい掟をあなた方に与える。
互いに愛し合いなさい。
わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。
ヨハネ13・31~34

ここで語られた「愛」の掟からどうしてユダが除外されなくてはならないだろう。
ユダはイエスが自ら選び、近くに暮らした弟子のひとりである。
使徒として権能を与えられた者である。

「新しい掟」によればむしろ、弟子たちにとってのユダは、最初に愛を注ぐべき隣人になったはずだ。
裏切りをすべてユダに背負わせるように福音書を読む。
そのとき人は、「姦通の女」に石を投げつけようとしている男たちと同じところに立っている。


バルトの結論は、ユダがイエス様を売り渡し、自らの運命を自分でさばく自殺という手段をとったために彼の救いを確信することはできないが、それでも、彼のように捨てられた者こそ真の救いを必要としているのだからユダの救いという希望は捨てていない、ということです。

イエス様の言葉です。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう、罪を犯してはならない」
(ヨハネ8・11)

 

煉獄と天国

死者の月です。
みなさんも、天国にいる大切な人のことを想い、日々祈りを捧げていらっしゃることでしょう。

 

 

「死について黙想し、周囲の亡くなられた方が永遠の命に招かれるように祈ることは、私たちがよりよく生きることに繋がります。」
宮﨑神父様が以前、ごミサでおっしゃった言葉です。

信者の友人と話していた時、彼女がこう言いました。
「親が亡くなった時も、悲しくて悲しくて、という感じはなかった。
だって、この世の生活のほうが苦行のようだもの。
辛いこと、大変なことが多いし、なんで私ってこうなんだという自己嫌悪、そんな苦行のようなこの世よりも、天に召された第2の人生のほうがずっと素晴らしいはず!と信じてるから。」と。
彼女は信仰があるからそういうのではなく、素直にそう思っている様子でした。

カトリックでは、死後はすぐに天国へ直行するのではなく、煉獄に行くとされています。
ですが、わたしは母が亡くなった時「できることなら、スーッと天国にお召しください」と祈りました。
頭では煉獄にまず行くとわかっていた(習ったからそう理解していた)のですが、できれば天国に直行させてあげたい、と。

 「亡くなった人は神様の元へ行ったのだから、何も心配することはありませんよ。」

ある神父様からそう言われ、とても心が軽くなりました。
神様の元、とは天国のことでしょう?!
母が亡くなって9年になりますので、もうとっくに煉獄から天国へ移動していると信じています。

煉獄とはなんでしょうか。

福音書にはその単語やその存在について明確な記載はない、と山田昌先生の本に書いてありました。
以下、山田先生の著書「アウグスティヌス講話」の内容から少し書いてみます。

イエス様とともに十字架に架けられた2人の強盗のうちの1人は、イエス様から「今日、あなたは私とともに楽園にいるだろう」と言われました。
イエス様に罪を告白し、同じ十字架の死を受け入れ、一緒に直ちに天国に上ったのです。

だが、このような人は少ないのではないか。
償うべきものを完全には償いきれないまま人は死ぬ。
そこで、煉獄という発想が生まれた。
煉獄は、生前に償いきれなかった罪の償いのために行く場所である。

そう書いてありました。
聖書には明確な記載はないのですが、山田先生によればその根拠とされている箇所が2つあるそうです。

①マタイ12・31~32
だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。
人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。

この箇所を教父たちは、天国に直通する人と地獄に直通する人の間に、この世においては許されないけれど来たるべき世において許される人がいるはずだ、と解釈したのです。
その来たるべき世とは終末の時を待つ場所であり、そこが煉獄なのだ、と。

②1コリント3・10~15
わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。
この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。
だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。
ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。

わたしの土台の上に建てた者はいったんは火をくぐり抜けてきた者のように、試練をへた後に救われるであろう、ということです。
「火をくぐる」=つまり浄化を意味しています。
キリストを信じる者が完全に救われるためには、その前に火によって試され、浄化されなければならない。
その魂の火による浄化の場所が煉獄である、と教父たちは解釈したそうです。

煉獄にいる魂は非常に苦しんでいるけれど、その苦しみは絶望の苦しみではなく、希望を内に含んでいるのだ、と山田先生はおっしゃいます。
そういう魂にとって、ただひとつの慰めは祈りである、と。
だから、生者が死者のために祈ること、祈りによって煉獄の魂を助け、その魂が一刻も早く煉獄の火を通過して天国へ行くことが出来るように祈ること、それがキリスト者の大事な務めとなったのです。

どうでしょうか。
解釈も、納得も、それぞれのお考えに委ねます。
わたしはここまで読んでも、あまりスッと納得できなかったのですが、次の箇所で少し心が軽くなりました。
本の原文のまま記載します。

現在のわれわれの生のなかで、天国も地獄も煉獄も、ある意味で既に始まっているように思われます。
この世界は天国と地獄の混同した世界であり、最も煉獄に似ているように思われます。
この世の中にはいろいろな嫌なことが沢山ある。
外からも苦しめられるが、それだけでなく、内からも苦しめられる。すなわち、自分自身が自分を苦しめるたねとなる。
丁度、煉獄の魂が火によってあぶられ、苦しみもがいているように、この世では一人一人の人間が既に生前において、苦しみの火によってあぶられている。
この世が既に煉獄なのです。
この世は苦しいことにみちている。さながら煉獄である。
しかし、地獄であるとはいわない。
なぜならこの世は苦しいけれども希望があるからです。
この世で受けるさまざまな苦しみを、試練として、あるいは浄化として捉えることができるならば、この世は煉獄となる。
そのように苦しみを受け取るならは、苦しみの中に希望が出てくるからです。
あるいは、逆かもしれない。
希望があるからどんな苦しみも試練として耐えることができるようになるのでしょう。
そしてこの希望を与えてくれるものが信仰であると思います。

お御堂のなかで、天使が舞い踊っていたように感じました。

マグダラのマリアの存在

死者の月、今年は特に、新型コロナウィルスによって命を落とされた多くの司祭、医療従事者のために祈りを捧げたいと思います。

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マグダラのマリアについて、皆さんはどのようなイメージをお持ちでしょうか。
フランシスコ教皇は、お説教の中で彼女のことを「希望の使徒」と呼ばれました。

福音書には、イエス様が十字架に磔にされるのを見守り、埋葬される際に立ち合い、そして復活したイエス様に最初に出会った重要な女性として登場します。

またそこには、多くの婦人たちがいて、離れたところから見守っていた。
彼女たちはガリラヤからイエスに従ってきて、イエスに仕えていた人たちである。
その中に、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、およびゼベダイの子らの母がいた。
(マタイ27・55~56)

ヨセフはイエスの体を受け取って、清らかな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓に納め、その入り口に大きな石を転がしておいて、立ち去った。
そこにはマグダラのマリアともう一人のマリアが、墓に向かって座っていた。
(マタイ27・59~61)

さて安息日が終わり、週の第一日が明け初めるころ、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に来た。
み使いは婦人たちに言った、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのであろうが、その方は、ここにはおられない。かねて仰せになったとおり、復活された。」
婦人たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去ると、弟子たちに知らせるために走っていった。
すると、イエスが彼女らの行く手に立っておられ、「おはよう」と声をかけられた。
彼女たちは近寄って、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
(マタイ28・1~9抜粋)

マグダラのマリアは、イエス様の遺体に香油を塗ろうと香油壺を持って行った際にイエス様の復活を目の当たりにするというエピソードから、絵画に描かれる際には香油壺がアトリビュートとされています。

また、『イエス様の一番近くにいる女性』として描かれるのも彼女です。

ルカの8・1~3には、イエスに仕える婦人たちのひとりとして描かれています。
「彼女たちは自分たちの財産を出し合って、一同に奉仕していた」という記述は、男性に仕えていた、という意味ではなく、男性たちと同様にイエス様に仕えていたのだ、と聖書百週間で教わりました。

ヨハネでは、復活したイエス様が彼女に現れたとき「マリア」と呼び掛けられる様子が感動的に表されています。
(ヨハネ20・16)

 

以前もご紹介したことのある、ジェームス・ティソのこの珍しい構図の絵(十字架上のイエス様の視点から描かれた磔刑図)でも、十字架の真下に描かれているのはおそらくマグダラのマリアです。

 

カラバッジョの「キリストの埋葬」では、ヴェール姿の母マリア様の横に描かれています。

 

 

そして今日、ご紹介したいのはこの映画。

『Mary Magdalene』マグダラのマリア

 

近年の小説や映画では、彼女は実はイエス様の妻であったというストーリーで描かれることもあり、聖書を読んだことがない方の中にはそう信じている人も少なくないのかも、、、、。

この映画では、マグダラのマリアはガリラヤ湖畔からエルサレムまでの道中も(後ろから付いてくる婦人たちの一人ではなく)十二使徒と並んで共にイエス様に従い、重要な役割を担う使徒の一人、いやむしろパウロの右腕のように描かれています。

福音書の記述では「5000人の群衆の空腹を満たした」際も女性と子どもはカウントされていませんので、男性ばかり12人を『使徒』としたとも考えられます。

マグダラのマリアが男性使徒と同等の存在であったかどうかはともかく、彼女が使徒たちにそのご復活を知らせる役割を担ったため、初期キリスト教父たちから「使徒たちへの使徒」(the Apostle to the Apostles) と呼ばれていたのは事実です。

この映画は、福音書の記述通り(わたしたちの理解の通り)に描かれていない場面も多いのですが、イスラエルの風景、当時のユダヤ社会の生活と風習、イエス様の葛藤と苦悩、弟子たちの人間性、マグダラのマリアの静かでありながらも力強い存在がとても丁寧に表現されています。

秋の夜長の映画鑑賞にぜひ。

 

イエスに出会うまで悪霊にとりつかれていた(ルカ8・2参照)この女性は、今や「新しく偉大な希望の使徒」となっています。
彼女の取り次ぎと助けによって、わたしたちもこのような体験をすることができますように。
苦しみと無関心がはびこるこの世界で、名前で呼んでくださる、復活したイエスに耳を傾け、出かけて行って「わたしは主を見ました」(ヨハネ20・18)と告げ知らせることができますように。

教皇フランシスコ、2017年5月17日一般謁見演説
キリスト教的希望に関する連続講話より

 

もう一本!という方は、↓こちらもとてもお勧めです!!
(百人隊長の視点で描かれたイエス様の復活(Risen=起こされた)が描かれています。)

知ることと実践

25日のミサの中で、9人の赤ちゃんの幼児洗礼式が執り行われました。

 

この子たちのためにも、真に平和な世界を求めて行動できる大人でありたいものです。

 

10/20にローマで諸宗教指導者らによる平和の集いが行われました。

この集いは、1986年、聖教皇ヨハネ・パウロ2世が招集したアッシジでの平和祈祷集会の精神にのっとり、平和のために祈り、諸宗教間の対話を促進するために、聖エジディオ共同体が毎年開催地を変えながら行っているもの。

 

 

教皇フランシスコをはじめ、エキュメニカル総主教府のバルトロメオス総主教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、ヒンズー教など、諸宗教の指導者が参加されました。

インスタグラムで見て知ったのですが、バチカンニュースとインスタグラムの他はテレビなどで報道されたのかどうかわかりません。
こうした様々な宗教指導者の連帯の言動に大変興味があります。

この意義深い集いは「誰も一人では救われない‐平和と兄弟愛」をテーマに開催されました。

このニュースはぜひ多くの方に見て知っていただきたい!
日本からも曹洞宗の指導者の方が参加され、スピーチをされています。

世界には様々な宗教が存在します。
同時に、世の中には「なんの宗教も信じていない」人が多く存在します。

だとしても、こうした試みがあることを知ることも大切なことだと思います。

https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2020-10/incontro-per-la-pace-in-campidoglio-20201020.html

集まったことに意味があるのではありません。

この集いに参加された各指導者たちが、どのようにそのことを各信徒たちに伝え、ともに実践していくかにかかっていると思います。
なぜなら、「真に平和な世界」は実現されたことがないからです。

人々の間に諍いがなかった時代はあるでしょうか。
戦争やテロだけではなく、わたしたちの日常にはいつも祈りと争いが併存しています。

平和は取り戻すものではない、人間が真に求めているのは争いのない世界のはずなのに。

「Enough!」

 

フードドライブという活動があります。

カトリック教会、プロテスタントの教会、仏教のお寺の信徒が協力して、家庭で眠っている食材を毎月第4金曜・土曜に集め、コロナで生活が困窮している方やホームレスの方など必要としている方々に配布する、という実践活動です。

今月は10/23.24の2日間、食材を持ち寄っていただく活動が開催されました。

 

 

知ることが、まず大切ですね。
知らなければ、なにも始まりません。
そして、自分にできることを実践することができたら。

 

貧しいこと、幸いなこと

久留米教会の秋の風景です。

 

 

『心の貧しい人は幸いである』
このことばにはかなり深く広く解釈できるために、正しく理解されていない場合があるように思います。

わたしも、以前書いたように、ガリラヤ湖畔で自分のこととして捉えるまでその真意を誤解していました。

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旧約のなかにも「幸い」という単語は多く使われています。
ヘブライ語で「アシュレー」と言い、本当に幸いに生きている人に感動した時の言葉として、8割近くが詩編と箴言に使われているそうです。
「アシュレー」だと呼ばれている人は、神のとの関わりの中にある人を表現しています。

 

いかに幸いなことでしょう
背きを赦され
罪を覆っていただいた者は。
(詩編32)

心の貧しい人々は幸いである
天の国はその人たちのものである
Blessed are the poor in spirit,for theirs is the kingdom of heaven.
(マタイ5・3)

心の貧しい、という箇所は直訳すると「霊において貧しい」となるそうです。
フランシスコ会訳の聖書では
「自分の貧しさを知る人は幸いである。」となっています。

「霊を用いて、貧しく生きている」と言う意味にも解釈できるそうです。
例えば、アッシジのフランチェスコにように、神の霊によって貧しい生活を選んで行く生き方を見出すことのように。

イエス様はアラマイ語で語られていたのですが、福音書はギリシャ語で書かれています。
貧しいと訳されている単語「プトーコイ」と同意義で使われている旧約の単語は、有力者に圧迫されて貧しい、と言う意味なのだとか。

 

わたしが目を留めるのは何か。
それは貧しい人、心砕かれた人であり、わたしの言葉を畏れ敬う人。
(イザヤ66・2)


貧しい人々は幸いである
神の国はあなたがたのものである
Blessed are you who are poor,for the kingdom of God is yours.
(ルカ6・20)

 

マタイでは「心の」貧しい人々、そしてマタイは「神」という言葉を避ける傾向が強いので「天の国」となっています。

ルカでは「あなた方のもの」と二人称になっているのに対し、マタイは旧約の流れを汲んで「その人たち」という三人称を使っています。

マタイとルカの違いは、イエス様をどう見ていたのか、つまり「わたしにとってのイエス様とは誰なのか」を書いている点にある、と雨宮神父様のお話にありました。

「霊において貧しい者」とも「物質的に貧しい者」とも解釈できる、イエス様の言葉の広さと深みの表れなのだ、と。

 

現代社会において「心の貧しい人々」は幸いでしょうか。

幸いであると神様から言われたいけど、心が貧しい人ではありたくない、と思うのが普通の感覚かもしれません。
ですが、自分が心の貧しい者である、と気づくことが出来ることは大切なことなのだと思うのです。

自らの足りないところ、人への接し方、信仰生活の乏しい結果としての言動など、ガリラヤ湖畔で風に吹かれながらわたしが感じたのはそういう「自分の貧しさ」でした。

もちろん、それらは克服できていなくて、いまでもしょっちゅう「あ~、わたしって心が貧しい、、、」と反省することばかりです。。。

そして、気づけて良かった、気づけて幸いだった、と。
その繰り返しです。

召命のきづき

今年はよく、召命ということについて考えています。

今年は船津司祭の叙階式に立ち会うことが出来、そのころから、このコロナ禍にあっての身近な召命について、思いを巡らせているのです。

 

 

何度かご紹介したことのある、カラヴァッジョの『聖マタイの召命』です。
みなさんは、どれがマタイなの?と考えたことはありますか?

わたしはずっと、左端の青年だと勝手に解釈していたのですが、美術研究者の間では「マタイ問題」というほどのテーマなのだそうです。

イタリアではおおむね、左から3人目のおひげのおじ様がマタイである、と主張されているとか。

どれがマタイなのかはともかく、このマタイの召命についての聖書の記述を見てみると、
マタイ9・9、マルコ2・14、ルカ5・27~28のいずれも非常に簡潔なものであり、イエス様の呼びかけにレビ(マタイ)が従ったというだけのエピソードで、まったくドラマチックでも何でもないのです。

レビが徴税人であった、というのが重要なポイントなのです。
当時は罪人と同意味であった徴税人、ユダヤ社会の憎まれ者をイエス様が弟子に召し出した、というのがこのお話のドラマです。
仕事やお金を捨て、世間のしがらみや葛藤を断ち切ってイエス様に従ったマタイは、放蕩息子のように救われました。

現代においての召し出しは、どのような人に、どのようなタイミングで与えられているのでしょう。

聖職者としての召し出しだけではなく、わたしたちそれぞれに与えられている呼びかけについて、キリスト者としてもっともっと思いを馳せて日々を丁寧に生きていかなければならない、そう思うのです。

召命、は英語ではcalling、イタリア語ではvocazione、ドイツ語ではBerufで、どの単語も職業や職務、広義で仕事という意味を持っています。

つまり「マタイの召命」は「マタイの仕事」という意味にもとれます。
人の仕事というのは自分で選んで従事するのではなく、神から与えられた使命である、という考え方ができます。 

 

 

youtubeで配信された、古市助祭の叙階式のスクリーンショットです。

久留米で司牧実習をしてくださっていた古市さんの召命が、一つのステップを上がったのです。

そして、この春からは、吉浦神学生が久留米に来てくれています。

彼も、自らが得た召命を生き、前に進んでいるのです。

船津司祭、古市助祭、吉浦神学生、こうして神様から特別な愛を注がれている方々が久留米教会に縁があるのは誇らしいことですね!

3人には、次号のみこころレター(12月号)に寄稿していただく予定ですのでお楽しみに!

 

 

 

残りの日々の過ごし方

今年は特に何もしていない気がするのに、残り3か月となりました!
毎年秋になると、年初に計画したことや抱負をどのくらい達成したか自己検証し、悔いなく残りの日々を過ごせるように考えてみます。

今年はどうでしょう。。。

抱負として掲げたのが「去年のように、そして去年よりも素晴らしい一年にする」でした。

去年までは、ごミサに与り、時には朗読や答唱詩編を歌わせてもらい、みなさんと語らう。
これがわたしの日曜日でした。

今年は、6月にミサが再開されてからというもの、いつも座る席でじっと静かに手を合わせて祈る、ことはほとんどなく、裏方としていろいろとお手伝いをさせていただけるようになりました。

去年までよりも、わたしにとっては意味のある(絶対にサボることのできない)日曜日となっています。

 

 

第一朗読ではイザヤ5・1~7が読まれました。
7節にはこうあります。

イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。
主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。
正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)。
(イザヤ5・7)

そのあとには、こうした言葉があります。

災いだ、悪を善、善を悪と言い、
闇を光、光を闇とし、
苦いものを甘い、甘いものを苦いとする者たちは。
災いだ、自らを知恵あるものとみなし、
自分一人で賢いと思っている者たちは。
(イザヤ5・20~21)

この箇所は性悪説の表現ですが、マタイ5・1~に書かれた性善説の真福八端との対比で読むことができる、と教わりました。

 

災いだ、わたしは破滅だ。
わたしは汚れた唇の者、汚れた唇の民の中に住んでいるのに、
わたしの目は、王である万軍の主を見てしまったのだから。
(イザヤ6・5)

そして、こう続くのです。

その時、わたしは主の声を聞いた、
「わたしは誰を遣わそうか。誰がわれわれのために行くだろうか」。
わたしは言った、
ここに、わたしがおります。このわたしを遣わしてください」。
(イザヤ6・8)

これはルカ5章のペトロの召命に繋がっています。

「しかし、お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と、疑わず素直に召されていくシモンのように。

 

 

第2朗読は、わたしが大好きな暗記している箇所です。

皆さん、どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。
そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
(フィリピ4・6~9)

この前後にはこうあります。

主に結ばれた者として、いつも喜びなさい。
重ねて言います。喜びなさい。
あなた方の寛容さをすべての人に知らせなさい。
(フィリピ4・4~5)

わたしに力を与えてくださる方に結ばれていることによって、わたしはどんなことでもできます。
(フィリピ4・13)

 

神への従順は返事にではなく、実際の行動にあります。
神への信仰は、悪ではなく善を、虚偽ではなく真理を、利己主義ではなく隣人愛を、毎日繰り返し選択することを要求します。
教皇フランシスコ 9/27 バチカンでの正午の祈りより

 

残りの3か月の抱負が決まりました。

◆神様からの召し出し(それぞれの立場で与えられる役割)に忠実に生きる。

◆くよくよと思い悩まず、神様に明け渡して委ねる。

◆これまでの信仰生活で学んだことを、いつでもどこでもだれにでも実行するよう心掛ける。

 

こうして書きだして決意を新たにすることで、自分に刻み付けることができると思います。
手帳にも書きました。
毎日を少しでも悔いなく(あれもできなかった、そうすればよかった、と思うことなく)生きたい、これはわたしの信仰生活の基本的な考え方なのです。

10/18の福音宣教の日に向けて、わたしたちそれぞれが「わたしがここにおります」と応えることができるような日々を重ねていきましょう。

心の隙間とゆとり

先週は東京に行っていました。
そのため、昨日のミサは自主クアランティンで欠席しました。

2週間教会に行けないことで、今感じているのは心に隙間が空いたような、空虚な感覚です。

都会で過ごした1週間、時間の流れが全く違うことに改めて驚きました。
静かに祈る時間が取れない、というか、祈ることを忘れてしまうような速さで時間が流れていきました。

久留米に戻って聖書を手にして、詩編を読みたい。
ずっとそう思っていました。

 

詩編103をじっくり読んでみました。

主は憐みに満ち、恵み深く、
怒るに遅く、慈しみに溢れておられる。
主は永遠に責めることはなさらず
とこしえに怒り続けられることはない
主はわたしたちの罪に従ってわたしたちを扱わず
わたしたちの咎に従ってわたしたちに報いられない

アンダーラインを引いた箇所は、神の主体性を感じさせる表現です。
神はいないようで存在している、ということを感じさせてくれます。

飛行機から見る空は、本当に美しい。
神が存在しない、とは思えません。

 

天が地より高いように、
その慈しみは、主を畏れる者が考えるよりも遥かに大きい。
東が西から遠く隔てられているように、
主は、わたしたちの罪をわたしたちから遠ざけられる。
父が子を憐れむように、
主はご自分を畏れる者を憐れまれる。
主は、わたしたちの造られた有様を知り、
わたしたちが塵にすぎないことを思われる。
人の日々は草のようにはかなく、
その栄えは野の花のように短い。
風がその上を通り過ぎると跡形もなく、
その場所さえ知る由もない。

この箇所は、わたしたち人間が神と出会うために弱くはかなく造られたことを感じさせる表現です。
人は存在しているようでないもの、ということを感じさせてくれます。

 

分厚い聖書を手に取ってお気に入りの箇所を読むことで、今感じているのは心にゆとりが出来たような、満ち足りた感覚です。

心の隙間は、大事なことです。
心のゆとりは、必要なものです。

隙間をいつも気にかけながら祈り、聖霊が神様との執り成しをしてくださるようにそこに入ってきてもらうのだ、とパパ様の本で読みました。

自分にゆとりをもって他者のために祈ることができれば、その謙虚な心からの祈りは神によって受け入れられるのだ、とパパ様の本に書いてありました。

何をどう言おうかと心配してはならない。
言うべきことは、その時に示される。
というのは、語るのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる父の霊だからである。
(マタイ10・19~20)

 

立派な信仰とはどのようなものでしょうか。
立派な信仰とは、傷をも伴う自分の物語をたずさえ、主の足元に置き、いやしてください、意味を与えてくださいと願うものです。
だれもが、自分の物語をもっています。それは必ずしも清い物語とは限りません。
往々にして、多くの痛み、悲しみ、罪を伴う困難な物語です。

教皇フランシスコ、2020年8月16日「お告げの祈り」でのことばより

 

心に意味のある隙間を保ち、心にゆとりをもって生活できることのお恵みを噛みしめています。

霊的読書のすすめ

教会の手入れされた庭ではいつも、季節を感じさせてくれる植物がわたしたちを出迎えてくれます。

空の雲、草花の色から季節を感じられることは、幸せなことだといつも思います。

 

読書の秋、とよく言われますが、みなさんは本を読みますか?
いつ読みますか。
どのような本を選びますか。

デジタル社会で、スマホで漫画を読む人も多いようですが、それでも次々と新書が発行されていることをみても、実際に紙の本を買い求めて読むわたしのような人がまだまだたくさんいるのです。

本を選ぶポイントは、私の場合はこのような感じです。

◆心の養いとなる

◆できるだけ実話に基づいている

◆信仰生活の道しるべとなる

本棚に並べるのは「また読みたい本」「人に薦めたい本」と決めています。

ヘンリ・ナウエン神父様は、

「霊的な読書とは、私たちの内側と外側の生活における神の霊の働きを、心の目で注意深く読むことです。
霊的な読書を毎日15分でもいいので続けていくことによって、自分の頭がゴミ箱のようになることは減り、反対に、よい思いによって満たされた花瓶に変えられてくることが分るでしょう。」

とおっしゃっています。

 

究極の霊的読書は、やはり聖書を読むことでしょう。

わたしは、4年かけて聖書1冊を学ぶ聖書百週間を経験したことで、聖書の面白さにすっかり魅了されてしまいました。

(本来は100週間=2年と少しで終了するようプログラムされているのですが、神父様の転勤などもあり、4年もかかりました!)

聖書百週間とは、指導役の神父様と信徒10数名のグループで、決められた割り振り(例えば今週は出エジプト記の1章~4章、来週は5章~8章、と黙示録まで割り振られている)に沿って進めます。
事前に読み込んできた結果感じた感想や疑問を、全員が発表し分かち合います。
疑問を晴らすことは目的ではなく、全員が意見を言うためにしっかりと予習して発表することが大切です。

自分一人で聖書を読むだけでは得られない、深まりと広がりを感じることができるのがこのプログラムの魅力です。

全部読み切ったらイスラエル巡礼へ!という目標を掲げ、(意見を発表しなければならないので)毎週真剣に聖書を読んでいました。

最近は、今週の聖書朗読から目に留まった聖書の箇所を開くという読み方です。
宮﨑神父様がいつもおっしゃるように、その前後も読むようにしています。

いつも、この↓ページで朗読箇所を通読しています。

http://www.m-caritas.jp/reading.html

 

霊的読書、なにも聖書や高尚な本ばかりを読む必要はないのです。
自分にとって、生きていくうえで糧となる、癒しとなる、救いとなる、そういう読みものに出会えることはそれだけでお恵みです。

お薦めのサイトは、教皇様の謁見などでのお話を翻訳して掲載してくれるカトリック中央協議会です。

だれにでも容赦なく襲いかかるウイルスに立ち向かう中で、わたしたちの信仰は、人権侵害を前にして、真剣に積極果敢に無関心と戦うよう駆り立てます。
この無関心の文化は、使い捨ての文化も伴っています。自分に関係のないことには興味がないということです。
信仰はつねに、個人的であれ、社会的であれ、利己主義から離れ、回心するよう求めます。
利己主義の中には、集団的な利己主義もあります。

人間家族の一員であることの意味に改めて目を向けられるよう、主が「わたしたちの視力を取り戻して」くださいますように。
その視力が、あらゆる人への共感と敬意に満ちた具体的な活動、共通の家を気遣い、守る活動のために活かされますように。

https://www.cbcj.catholic.jp/2020/09/15/21208/

 

お薦めの雑誌は ↓ これです。

 

わたしたちの『おきて』

季節は秋へと移ろい始めました。

 

13日から教会学校が再開され、子どもたちが教会に戻ってきてくれました。
侍者もいないごミサが続いていますので、子どもたちの姿に目頭が熱くなる思いがしたのはわたしだけでしょうか。
教会共同体が未来に繋がっていく実感が持てるのは、子どもたちの教会での様子を目にできるからだと思うのです。

 

 

13日の第一朗読のシラ書です。

滅びゆく定めと死とを思い、掟を守れ。
掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。
いと高き方の契約を忘れず、他人のおちどには寛容であれ。
(シラ28・6~7)

2200年前に語られたこの『おきて』は、当時の社会に起きていた様々な問題を正面から捉えて、それを踏まえての生き方を説いています。
いまの混迷の時代の最中にあるわたしたちにも迫ってくることばが多く、たくさんアンダーラインを引いているお気に入りの聖書の文書のひとつです。

預言書を除いて、旧約聖書のなかで著者の名前が判明している唯一のものです。
教父たちはシラ書のことを「パナレトス(最も優れた本)」や「パナレトス・ソフィア(最も優れた知恵)」と呼んでいました。
3世紀以降は「エクレジアスティクス(教会の本)」と呼ばれ、教理の教科書として用いられていたのです。

オリジナルのヘブライ語版が19世紀に入って発見され、カトリックでは正典として位置づけられます。
1964年にはイスラエルのマサダの城壁発掘の際に、ほぼ5つの章を含む巻物の写本が発見されています。

 

これが、マサダの城壁です。
この写真を撮影しているとき、携帯の気温計は46℃でした!

主は彼らに判断力と舌と、目と耳を与え、考えるための心をお与えになった。
主は知恵と知識で彼らを満たし、善と悪とを彼らに示された。
主はご自分と同じ力を彼らに帯びさせ、
彼ら一人ひとりに、隣人についての掟をお与えになった。
(シラ17・3~14抜粋)

 

先週ご紹介した、教皇様の説教集からのお話です。


感謝の心を持ち、自由で偽りなく、祝福する心を持った責任ある大人という存在であること
忠実で寛大で裏表なく、いのちを守り愛する者であること

教皇様は説教の中で「十戒で語られる生き方」について、こう語られています。
暗記したい、いや、これは暗記すべき『おきて』です。
キリスト者に限らず、この生き方を全ての大人が心がけるならば、若者や子どもたちに良い影響を与えることができるはずです。

また、「祈り」について語られたことにも触れておきたいと思います。

わたしたちの祈りの多くは、かなえられていないようだからです。
求めても得られなかったことがどれだけあったか。だれもが経験しています。
扉をたたいても、開かれなかった経験をどれだけ重ねたことか。
そうしたときにも、しつこく、決してあきらめてはならないと、イエスは忠告しています。
祈りによって必ず現実は変わります。必ずです。
たとえ周囲の状況が変わらなくとも、少なくともわたしたち自身が、わたしたちの心が変わります。

神はこたえてくださる、それは確信出来ます。
唯一不確かなのはその時期ですが、それでも神がこたえてくださることを疑ってはいけません。

もしかすると、生きている間ずっと待ち続けなければならないかもしれません。
それでも神はこたえてくださいます。

生きている間ずっと待ち続ける、という表現にはハッとさせられました。
聞き入れられないのではなく、待つことに意味があるとは。
これも、心に刻んでおくべき現代の『おきて』です。
わたしを始め、現代人はせっかちで、不安定で、脆い心を持った人が多いからです。

祈ってください。祈りは現実を変えます。
事態を変えるか、わたしたちの心を変えるか、どちらにしても必ず変えます。

パパ様がそうおっしゃるのです。
なんと心強いおことばでしょう。

わたしたちに与えられた十戒も、現代において教皇様が示してくださる新しいおきても、決してわたしたちをしばるものではありません。

これは、神様が与えてくださる『ことば』なのです。

神様はこれらのことばを通してご自身を伝えてくださり、わたしたちがそれに応えて生きていくことを望まれています。

 

安息日の過ごし方

6日のごミサでは、敬老の祝福が行われ、50名ほどの大先輩方をお祝いすることができました。

コロナ禍において初めての、久しぶりの教会行事でしたので、感染防止対策もいつも以上にしっかりと取り組み、お祝いのひと時を過ごすことが出来ました。

 

 

9/1はカトリック教会の「第6回環境保護のための世界祈願日」でした。
10/4までは被造物を保護するための祈りと行動の月間、「被造物の季節(Season of Creation)」がキリスト教諸教会と共に行われています。

特に「アースデイ(地球の日)」の誕生より50周年を迎えた今年は、この期間を「地球のジュビリー(祝年)」として記念されており、教皇様も特別のメッセージを寄せられました。

 

 

神は、大地と人々を休ませるために安息日を設けられたが、今日のわたしたちの生活スタイルは地球をその限界まで追いやり、絶え間ない生産と消費のサイクルは環境を消耗させている。

このジュビリーを「休息の時」とし、いつもの仕事の手を休め、習慣的な消費を減少させることで、大地を生まれ変わらせる必要がある。

現在のパンデミックは、ある意味で、わたしたちによりシンプルで持続可能な生活様式を再発見させることになった。
今こそ、無駄や破壊につながる活動をやめ、価値や絆や計画を育むべき時である。

 

安息日について、中央協議会から出版された最新の教皇講和集のなかの言葉もご紹介します。

十戒のおきてでいう休息とは何でしょうか。
それは思い巡らす機会であり、逃避ではなく賛美の時です。
現実を見つめ、生きるとはなんとすばらしいことかと、感嘆するのです。

現実逃避としての休息に対し、おきては休息を現実の祝福と受け止めています。
わたしたちキリスト者にとって、主の日、日曜日の中心は「感謝」を意味する感謝の祭儀(ミサ)です。

主日は、それ以外の日を忘れ去る日ではなく、それらの日々を思い起こし、感謝し、人生を肯定する日です。

 

 

安息日については、昨年のイスラエル巡礼の記事でも取り上げましたが、ユダヤ教徒とキリスト教徒では捉え方が全く違います。

ユダヤ教徒は、冷蔵庫の扉を開けることさえも労働ととらえ、金曜の午後のうちに土曜の夕食まですべて作り置きして並べておきます。
もし電気のスイッチを押す必要が生じたら、他の宗教の隣人を呼んで、目で合図してつけてもらうそうです。
(スイッチを押して、と頼むのも労働!)

わたしからすると「安らげない安息日」と感じてしまいます。。。

教皇様は、安らぎは偶然手に入るものではなく、自ら選び取るものだとおっしゃいます。
自分が目を背けてきたことがあるのならば、それとも和解し、自らのわだかまりを解消して得るものなのだ、と。

真の安らぎとは、自分の人生をあるがままに受け入れて、その価値を認めることなのだ、と。

 

今日のコロナ禍のわたしたちにとって、安息日はまた新たな役割を持ったと思います。

自分の置かれた今の境遇、社会・生活環境に押しつぶされそうになったり、不満や不安ばかりが募ることも少なくないでしょう。

ですが、日曜日には、安息日である主の日には、真に安らぎを自ら得る努力をしてみませんか。

1週間のうちにいくつかのつらいことがあるでしょう。
喜びや楽しいことばかりの毎日を過ごしている人はいないのです。

それら全てを肯定して、真の休息である『恵みと解放』のために、自らの人生に感謝を捧げる日にしたいものです。

 

わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
神にわたしの救いはある。
(詩編62・2)

 

 

未来を想像してみる

去年の今頃、この今の現状を想像していた人はいるでしょうか。

私の友人の話です。
ある国立大学の3年生の娘さんが、リモート授業が後期も続くことに納得が出来ず、大学を休学すると言っているというのです。
友人も、国が何も対策をしてくれない、大学が満足のいく説明をしてくれない、と不満を持っていました。

私個人としては、そうした考え方の方向に疑問を持っています、
ですが、働き方や学び方、就職活動もままならない現状に不安を持っている人が多いのは事実ですので、その友人が少しでも安心できるよう話ができたら、と真剣に考えてみたのです。


世の中の多くのことは、「どうせ、こうなる」、「こうなるしかない」という予想通りに起こる。
しかし、それが起こる前には「想像もしなかった」良いことが起こって、事態が進展することもある。
それを経験したことがある人は、世界の見方が変わるかもしれない。

「この世界は思いがけない素晴らしいことが起こりうる世界である」。

キング牧師の演説に込められた力は「こんな現状は許せない」「何としても変革しなければならない」ではなく、
「それは起こりえる」、「その世界は可能である」という希望を身体の中に呼び起こすところにあるのです。

「必ず起こるはずだ」ではないのです。
神様は、人間には不可能としか思えないことを成し遂げることが出来る方なのです。
今回も、成し遂げてくださるかもしれないと希望し、祈り続けていくのだ。

この青字の部分は、来住英俊神父様の講演の中でのお話です。

先ほどの友人の話に当てはめて考えてみると、「こんな現状は許せない」という気持ちを、「この逆境とも思える状況を経験した自分をどのような未来に向けていくか考える好機」と捉えてみることはできないでしょうか。

 

イエス様は、悲しむ者だけが慰められる(マタイ5・4)とおっしゃいました。
死の現実を受け入れる者だけが、新しいいのちを受け取ることができます。
嘆かない者は慰められず、終わりに直面しない者は始まりを受け取ることができない、と。

現状に置き換えて考えてみると、嘆き悲しみもがく者だけが、本物の体験を体験し前進できるのだ、と言えると思うのです。

前回も引用したブルッゲマンによると、
イエス様は、古い秩序に凝り固まっていた人に対してではなく、古い秩序に失望したり、そこから締め出されたために何かを切望している人に対して、食べ物を与え、癒し、悪霊を追い出し、赦す、という衝撃的な働きをなされたと言います。

自らのうちに葛藤を抱えている人たちが、自らの意思で善いと思うことを実践しなければ、そこから抜け出すことはできません。

葛藤なしに神様からメッセージを受け取った預言者などいないのです。
ゲッセマネにおけるイエス様でさえそうでした。

地にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう仰せになった。
「アッバ、父よ、あなたにはおできにならないことはありません、
わたしからこの杯を取り除いてください。
しかし、わたしの思いではなく、み旨のままになさってください」。
(マルコ14・35~36)

 

ゲッセマネの園の一番樹齢の古いオリーブの木です。
この木陰でイエス様が祈られたのかもしれません!!

 

 

パパ様ツイッターにも、ヒントがありました。

被害者はわたしたちではないのです。
すべての被造物、地球そのものに目を向ける必要があることを、いまさらながらわたしたちが自覚して未来を想像し、新しい世の中を創造していかなければならないのです。

国が、学校が、会社が、と言っているうちは、「自分は正しい」と凝り固まった考えを持ってしまっています。

現状や体制への不満ではなく、自分がどういう未来(来年の今頃のことでいいので)を生きようとしているのか、どう生きたいのか、想像してみてください。

 

イエス様の涙

最近、泣きましたか?
どういう時に泣きますか?

悲しみ
呻き
傷ついた心

アメリカの旧約聖書学の第一人者であるブルッゲマンによると、
帝国主義的な意識は、呻きを黙らせる能力と、傷ついている人や呻いている人がまるで存在していないかのように、いつものように日々を過ごす能力を用いて生きている、と言います。
もしその呻きが街のあちこちで誰の耳にも聞こえるるような状況になったら、それはもう取り返しのつかないほど追い込まれているのだ、と。

エジプトでの呻きが社会革新の先駆けであり、黙らされた呻きや痛みの代弁者となったのがイエス様でした。

 

都に近づき、イエスは都をご覧になると、そのためにお泣きになって、仰せになった。
「もしこの日、お前も平和をもたらす道が何であるかを知ってさえいたら・・・・。
しかし今は、それがお前の目には隠されている。」
(ルカ19・41~42)

 

 

去年の今日、2019年8月23日に訪問した、エルサレムの『主泣きたもう教会』から旧市街の神殿にある岩のドームを望む写真です。

(この教会はオリーブ山の中腹にあり、上から急勾配の山を下りるのに必死でしたので、ここでほっと一息休憩できた時は本当に泣きそうになりました。)

この場所でイエス様が涙を流されたとされています。
人々に愛された神の都、エルサレム。
イエス様がエルサレムのために涙したのは、ラザロについて涙したのと同様に、死への苦悩を共有されたからです。

ほとんどの人がエルサレムはいのちに満ちた聖地だと考えていた中で、イエス様はその都の死を悲しまれたのです。

 

 

これは、去年の8月24日に歩いたビアドロローサ(エルサレムの十字架の道行き)の途中にある、『茨の教会』の内部です。

茨の冠をかぶらされ、ゴルゴタまで歩かれたイエス様を思いながら、去年の今頃、酷暑のエルサレムを毎日歩いていました。

(そのあとの行程、荒野のさらなる酷暑のことを思い出すと、久留米の40℃近い夏などなんてことありません!)


カトリック生活9月号の李神父様のコラムからのお話です。

感染が疑われる人を入国後2週間、空港近くのホテルなどで待機させる、といった検疫のことをquarantine(クアランティン)と言います。
この言葉は、中世にペストが流行した際、ベネチア共和国が外国からの船の入港を40日間(quaranta)留め置いたことに由来するのだそうです。
40と言う数字が聖書では度々登場する大切なキーワードであることに関係しているのでしょうか。

イスラエルの民がエジプトを脱出して約束の地に至るまで40年
モーセがシナイ山に登って十戒を受けるまで40日
エリアがホレブ山の逃れて神と出会うまで40日
イエス様が荒野で誘惑を受けたのも40日間

お前たちの最後の屍が荒れ野で朽ち果てるまで、子供たちはお前たちの不忠実を背負って、40年間、荒れ野で羊飼いとなるであろう。
お前たちがあの土地を偵察した40日の1日を1年と数えて、40年間、お前たちは自分の背きの罪を負う。
こうしてお前たちは、わたしに反抗するとどうなるかを知るであろう。
(民数記14・33~34)

この場合の40年という数は、文字通りの数字ではなく、次のステップに行くための準備に必要な年数を表現しているのだと教わりました。

神に反抗し続けた結果が今の世界の状況であるとしたら、わたしたちが新しい生活環境を手に入れるまで40か月?40年?、つまり結構長い時間を要するということになります...。

 

異邦人であるということ

異邦人、という単語は聖書を読んでいると度々出てくるのですが、聖書の中での意味は「イスラエルの民ではない人々」を指しています。

日本に暮らしていると、両親が日本人である、という人が多いため、移民や難民、多国籍の人々の暮らしに疎くなります。

つまり、「自分とは成育環境が違いすぎる人々」を『異邦人』として精神的に(無意識に)排斥してしまっていると自分で感じることがわたしには度々あります。


 

第106回「世界難民移住移動者の日」教皇メッセージに呼応して出された、日本の2020年「世界難民移住移動者の日」委員会メッセージからの抜粋です。

教皇フランシスコは、今年のメッセージの中で特に国内避難民について触れています。
難民とは「国境の外に出てきた人」と定義されていますが、現代の日本にも多くの「国内避難民」が存在しています。すでに日本で生活しながら、さまざまな理由で家を失い避難している人びとです。
非正規滞在となり、長期間入管施設に収容されている人、仮放免されても家が無い人、野宿を強いられている人、「ネットカフェ難民」と呼ばれる人。

 

マタイ15章の21~28が読まれました。

イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

この福音にあるように、それまでのイエス様は神から離れていったイスラエルの民への救いを第一に考えていたのです。
イエス様に食い下がったカナン人(異邦人、と言っても、パレスチナの先住民)の女の「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」「主よ、どうかお助けください」という切実で誠実な願い、そして、自らを主人の食卓から落ちるパン屑をいただく小犬にたとえるという謙遜な態度に、イエス様が心を動かされ、その娘の病気を癒すのです。

 

『人間的情感が交わされるこのエピソードは、万人に向けられる福音のもつ意味を温かく感じさせる。』

『イスラエル中心の宣教意識が、復活を通してすべての民への宣教という意識に発展しているともいえる。
このように、マタイの叙述に従って見ると、イエスにおいて「すべての民をわたしの弟子にしなさい」いう意識が顕在化し、明確に告げられるようになるために、宣教活動の中での個々の人たちとの出会いが作用していったともいえる。
イエスの救いのみわざは人々との出会いと交わりを契機として生き生きと展開されていくのが福音書である。』

『 』内は聖書と典礼を発行しているオリエンス宗教研究所のホームページより
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2020/st200816.html

 

回心しないイスラエルの民の不忠実さと頑なさ、王や神殿祭司の愚かさを、そしてシナイ山の契約のような石の板ではなく「彼らの心に記された新しい契約」を預言者としてはばからずに述べたエレミヤ。
わたしはエレミヤを、当時の王政社会において衝撃的であったという点で異邦人だと考えます。

解放の神学を唱えた当時の聖職者たちもしかりです。

 

そして、イエス様こそが当時の社会における異邦人の最たる存在であったのではないでしょうか。

イスラエルだけでなく「すべての民」へ、その教えを広めるよう意図されていたイエス様。
この世における最後には、それまで従っていた人々や弟子たちも離散してしまい、見放されたイエス様。

近現代においては、異邦人でなかった人はいないのではないでしょうか。

根強い人種差別問題を抱える欧米で、その祖先が移民でなかった人はどのくらいいますか?

そうしたことに思いを馳せていて考えてみると、現在の社会における異邦人とはだれを指すのかという問いが浮かびます。
それは、教皇フランシスコ様がおっしゃっているように「忘れられた人々」なのです。

誰からも気にかけてもらえず、社会の周縁に追いやられた、孤独な、希望を持つことを忘れてしまったような人々、それが現代の異邦人です。

イエス様の時代、「律法に十分かなっていること」が最重視されていたため、人間関係にかかわる資質のなかで「あわれみ」は許されていませんでした。

あわれみを表現するギリシャ語《スプランクニゾマイ》には、他者の感情や状況を自分のはらわたが受け止めるという意味があります。 

飼い主のいない羊のような、周縁に追いやられた人々へ、もっともそのあわれみを示されたイエス様のみこころに思いを寄せてみましょう。

 

 

主の平和を生きる

8月6日は、主の変容の祝日でした。

聖書には山の名前についての記載はないのですが、イエス様が山で預言者とともに語り合いながら光り輝く姿を弟子達に見せたと書かれています。

この世的な意味でのイエス様の勝利(イスラエルの解放)を願う弟子たちに対し、自らの受難を予言し続けたイエス様が、これから受ける苦難に際して信仰し続ける希望を与えるためにこの奇蹟を行ったと教えられています。

(マタイ17・1~ 9、マルコ9・2~8、ルカ9・28~36)

伝承では、山の名はタボル山と言われています。

 

 

去年のイスラエル巡礼の際に、タボル山の主の変容教会で撮影しました。

光り輝くイエス様と二人の預言者(モーセとエリヤ)、三人の弟子(ペトロ、ヨハネ、ヤコブ)が描かれています。

 

 

そう!
描かれている、のではなく、モザイクの作品なのです。

素晴らしい。。。(今頃、、、ため息)

 

中央協議会のホームページには、この祝日についてこのように書かれています。

「教会は、ともすると、復活のいのちに至るまでの壮絶な苦しみという面を強調しすぎていたかもしれません。
しかし、その苦難は、神の栄光を表す輝かしい姿でもあります。
私たちには、人生の中で大きな苦しみを耐えなければならない場面が必ずあります。
そのとき、私たちは血にまみれた惨めな姿をさらすだけではありません。
私たちが苦しむとき、人々の前では惨めで情けない姿に見えるかもしれません。
しかし苦しみを神様に委ねるとき、自分自身が神の栄光に輝くまばゆい光を帯びていることを忘れてはなりません。」

 

先日の記事にも書きましたが、船津神父様がおっしゃった
「あなた方の光を人々の前に輝かせなさい、というマタイの教えを忘れないでください。」というお言葉がずっと頭の中でこだましています。

『主の平和』を生きることなのだわ、と解釈して心に刻んでいます。

 

持病を抱えて苦しんでいる知人と話したとき、
「わたしは毎日、痛いし苦しい。祈るし、聖書も読むが、つらい。
神様はなぜこんな重い十字架をわたしに背負わせて、生かされているのか、毎日毎日考えて生きている。」
そう言うのです。

わたしはその方にこう言いました。
「生かされていることそれ自体に意味があるのでしょうね。
神様から目をかけてもらってるということを忘れないで。
わたしがいつもここにいることも忘れないで。」 

『主の平和』

 

先日、友人のお母様の葬儀がありました。
祭壇の遺影が、ご夫婦での素晴らしい笑顔の写真だったのです。
ごあいさつで、「一人で旅立つのはとても寂しいと思い、途中まで同行することにしました。大変不謹慎で非常識とは重々知りつつ、あえて遺影を2人の写真にしました。」と。
おじさまらしいなぁ、とこちらがホッコリさせられました。

『主の平和』

 

平和とは、神とともにある状態を意味します。

弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちがいた場所の戸にはことごとくカギをかけていた。
そこに、イエスがおいでになって、真ん中に立って仰せになった。
「あなた方に平和があるように」。
そう仰せになって、両手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
イエスは重ねて仰せになった、「あなた方に平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす」。
こう言ってから、弟子たちに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けなさい。誰の罪であれ、あなた方が赦せば、その罪は赦され、あなた方が赦さないなら、赦されないまま残る」。
(ヨハネ20・19~23)

主があなた方を心から赦してくださったように、あなた方もそうしなさい。
これらすべてのことの上に愛をまといなさい。
愛は完全さをもたらす帯です。
そして、キリストの平和にあなた方の心を支配させなさい。
あなた方が一つの体に結ばれるものとして招かれたのも、この平和のためなのです。
(コロサイ3・13~15)

+++++++++++++++++

主の変容の出来事から、二つの重要な要素を引き出したいと思います。
わたしはそれを二つのことばで要約します。
「登る」と「下りる」です。
わたしたちは人々から離れ、山に、すなわち沈黙の場所に登らなければなりません。
それは、自分自身を見いだし、主の声をよく聞き取るためです。
わたしたちはこれを祈りの中で行います。
しかし、ここにとどまってはなりません。
祈りの中での神との出会いは、新たに「山を下り」、低いところに、平地に戻るようわたしたちを促します。

わたしたちはこの平地で、労苦、病気、不正、無知、物質的・精神的な貧困にあえぐ多くの兄弟と出会います。
わたしたちは、困難のうちにあるこれらの兄弟に、神とともに体験したことの実りを伝え、受けた恵みを分かち合うよう招かれています。
祈りをもって「登り」、イエスに聞き、兄弟愛をもって「下り」、イエスを告げ知らせることを少しずつ学ぶことができますように。
教皇フランシスコ様 2014年のお説教より

 

8月6日は、広島原爆投下の日です。
終戦の日、8月15日は「聖母マリアの被昇天」の祝日に当たります。

教会では、6日から15日までの10日間を「日本カトリック平和旬間」と定めています。

昨年までは、広島教区と長崎教区では、全国から司教をはじめとして多くの信徒が集まって「平和祈願ミサ」がささげられ、各教区でも平和祈願ミサや平和行進、平和を主題とした映画会、講演会、研修会、平和を求める署名などが行われていました。

主の変容が現代のわたしたちに語りかけている意味について、平和旬間とリンクして平和について思いを馳せる日々が続きます。

 

時代を見分ける選択

梅雨明けし、いよいよ本格的な夏がやってきました。

 

春先、コロナウィルスの市中感染が始まったころ、「夏になって気温が上がればウィルスは終息に向かうだろう」と報道で聞いたことがあります。
現実には、現在、第2波とも第3派とも言われる感染状況です。

わたしたちは、自分に問い続けなければなりません。

「このことに、いったいどんな意味があるのだろうか。
神様はどのようなことをわたしたちに語りかけようとしていらっしゃるのか。
この現実の中、神様はどのように生きるようにとわたしたちを招かれているのだろうか。」

 

イエスはまた群衆にも仰せになった、
「あなた方は雲が西に出るのを見ると、すかさず『雨になる』と言う。
果たしてそのとおりになる。
また南風が吹くと、『暑くなる』と言う。
果たしてそのとおりになる。
偽善者たち、あなた方は大地や空の模様を見分けることを知っていながら、どうして、今の時代を見分けることを知らないのか」。(ルカ11・54~56)

この部分は「時代を見分ける」というタイトルがついています。
いまのわたしたちにもスッと当てはまる教えかと思います。

 

コロナウィルスの感染拡大防止の対策について、評価が様々行われ(報道され)ています。
対策そのものであったり、リーダーの格付けであったり、合格点を出している(と報道されている)、または完全に成功している(と報道されている)国があるでしょうか。
見聞きする多くは、裁き、非難するものであると感じています。

つまり、わたしたちが現在情報として得ているのは、報道機関の取捨選択による「人の評価」によるところが大きいと言っても過言ではないのです。

メディアリテラシーの重要性は言うまでもなく、人の評価ではなく、自分で考えて選択することが大切です。

 

今日は、この時代を見分ける、今を見極めるために有益と思われるいくつかの本、文書をご紹介します。

まずは、つい先日出版された、カトリック中央協議会の『パンデミック後の選択』という本です。
教皇様がこのコロナ禍において語られたいくつかの説教、書簡をまとめたものとなっています。

 

 

感染者、医療従事者へ思いを寄せられているのはもちろんですが、わたしが目に留めたのは次の一文でした。

「普段の生活を取り戻したときには、だれもが人間らしい品位ある生活を送れるよう、必要な方法や手段を提供し、国民の共通善のために精力的に働く責任を負う政治家の皆さんを、力づけたいと思います。」

このような思いやりの言葉を見聞きしたことはありませんでした。
政治家、各国のリーダーへの思いやり。

5月のロザリオの月にあたり「すべての信者に送る手紙」として出された書簡に添えられたマリアへの祈りにも、次の一文があります。

「各国の指導者を支えてください。
知恵と配慮を惜しみない心をもって、
生活に必要な物にも事欠く人々を助け、
将来への展望と連帯の責任をもって、
社会的、経済的な対策を講じることができますように。」

 

このウィルスは消えてなくなることはないでしょう。
わたしたちがどのように生きていくのかを「自ら選択すること」 が必要です。
そして、この現状のために「自分に何ができるのか」についても選択することについて考えてみましょう。

「こうした努力では世界は変えられないだろう、と考えてはなりません。
そうした努力は気づかれないこともしばしばですが、目には見えずとも必ず広がるであろう善を呼び出すがゆえに、社会にとっては益となります」(ラウダート・シより)

以下、あとがきの最後の一文です。

「パンデミック後の社会が、ただ単にパンデミック前に戻ることではなく、弱い人、貧しい人にいっそう寄り添う新たな世界の構築を選択できるよう、教皇の発するメッセージが、カトリック教会にとどまらず、一人でも多くの人に届けられることを願ってやみません。」

https://www.cbcj.catholic.jp/publish/pandemic/

 

次にご紹介するのは、最近わたしがハマって読んでいる故ヘンリ・ナウエン神父様の「いま、ここに生きる」からの一説です。

神が問われることは、「あなたはいまの時代のしるしを、あなたが悔い改め、回心するように求めるしるしとして見分けていますか」ということです。
何よりも大切なことは、兄弟姉妹の味わっている非常な苦しみにあずかって、私たちがあらゆる思い上がり、また、あらゆる裁く態度や非難する態度から解放されて、イエスの心のような柔和で謙遜な心が与えられるよう心の底から求めているか、ということです。

 

3つ目は、教皇庁生命アカデミーから発表された、 『パンデミック時代における人間のコミュニティ:生命の復活についての季節外れの省察』という文書です。

少し難解な文章だったのですが、わたしなりに大事だと思った点をいくつか記してみます。

◆人間家族が現実に直面している本当の問題は、道徳的な、単に戦略的ではない、連帯の意味である。それを必要としている他者への責任も含んでいる。

◆Covid-19の現象は、単なる自然の出来事ではない。
 我々は自然環境への関係を再考するように要求されている。
 我々は支配者や君主としてではなく、地球に執事として居住する必要がある。

◆生命の脆弱性の悲惨な証明は、それが賜であるという我々の自覚も新たにする。

◆誰もが自らの役割を果たすよう要求されている。

https://www.cbcj.catholic.jp/2020/07/27/21006/


最後は、バチカン出版局から発表された、新型コロナウイルス危機をめぐるキリスト教的考察をテーマにした本『交わりと希望』です。

教皇様が序文で「パンデミック危機は、わたしたちの生活の中の幸福やキリスト教信仰の宝について考えさせ、この嵐の中で自分たちを支えるための根をどこに深く張るべきかを考察させた」と書いてあるそうです。

日本語訳が中央協議会から出るのが楽しみです。
(森山神父様、よろしくお願いいたします!)

 

祝「初ミサ」of 初ミサ

新司祭がその教会で初めて執り行うごミサを「初ミサ」と呼びますが、本当に初めてのごミサを久留米教会で上げてくださいました!

 

最初のごあいさつです。

「司祭に叙階されて4日目のわたしがミサをちゃんと捧げることができるのか?と不安に思われている方もいらっしゃるかもしれませんが、ご安心ください。
神様がわたしを通してミサを行ってくださるのです。」

(船津司祭らしい、誠実なお話しぶりです!)

「叙階にあたり、多くの方からお手紙をいただきました。そのなかにはお会いしたことのない方からのものもありました。
全く知らない方からの本当の祈り、願いが込められたお手紙をいただきました。
『この手紙の目的は、あなた様に叙階のお祝いを申し上げるためです。
今日から司祭のための祈りを始めます』と書いてありました。この手紙はわたしにとって、宝です。」

 

 

 

 

 

宮﨑神父様が昨年イタリアで買ってきてくださったカリスを、久留米教会の信徒からの贈り物としてお渡ししました。

 

新司祭からの祝福は、全免償が与えられるとされています。

 

 

最後のごあいさつでは、こうおっしゃいました。

「神様の呼びかけに耳を澄まし、それに応えて生きていく。
わたしの司祭としての道もそう、皆さんひとりひとりもそうです。

あなた方の光を人々の前に輝かせなさい、というマタイの教えを忘れないでください。

10数年前にこの久留米教会から寺濱神父様が誕生したとき、『わたしの願いは、次の10年で新しい司祭がこの教会から生まれることです』とおっしゃっていました。
わたしも同じことを祈りたいと思います。」

 

イエスがご自身の貧しさで豊かにしてくださらなければ、司祭はもっとも貧しい者です。
イエスが友と呼んでくださらなければ、司祭はもっとも役に立たないしもべです。
ペトロにしたようにイエスが忍耐強く説いてくださらなければ、司祭はもっとも無知な者です。
よい羊飼いが羊の群れで強くしてくださらなければ、司祭はもっとも脆弱なキリスト者です。
私が聖職者でいるのは、神が私の小さに「目を留めてくださったからです」(ルカ1・48)
その小ささのなかに、私たちは喜びを見出します。
私たちの小ささのなかにある喜びを!
(教皇フランシスコの説教より)

 

幸せな喜びとお恵みに満ちた、この活気ある久留米教会をこれからもともに前に進め、新司祭のご活躍を祈りたいと思います。

 

船津亮太 司祭 叙階式

23日、久留米教会において、叙階式が執り行われ、船津司祭が誕生しました。

司祭叙階式は、一人の男性が「地に落ちて一粒の麦となる」緊迫した雰囲気であってほしいと思う、と来住神父さまがカトリック生活8月号の連載記事に書かれていました。

もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、
それは一粒のままである。
しかし、死ねば、豊かな実を結ぶ。

(ヨハネ12・24)

3月に予定されていた叙階式が延期となりました。

しかし、5月にはアベイヤ司教が着座され、お心遣いで久留米教会での開催となったという経緯は、わたしたち久留米教会の信徒にとっては大変光栄なことでした。

残念ながら招待者のみの参列ではありましたが、福岡教区のご尽力で初めて生中継され、まさに、厳粛でありながら、喜びに満ち溢れた叙階式でした。

今週末、25日(土)19時、26日(日)9時、11時、3回の主日のミサで船津司祭の初ミサが執り行われます。

 

 

 

最高の笑顔です。

亮太司祭の今後の歩みが愛と恵みに満たされるよう、祈りましょう。

 

 

「父になる」召命

19日のごミサは、6人の子どもたちの待ちに待った初聖体のお祝いでした。

 

 

 

 

6人中5人が男の子という、なんとも期待に胸が膨らむ(笑)初聖体の晴れの日のお祝いでした。

みんなでお揃いの、十字架の刺繍の入ったマスクを作ってもらったようで、晴れ晴れとした子どもたちの姿に、教会中が幸せと喜びに満ち溢れた、久しぶりに活気の戻った久留米教会でした。

 

ルカに書かれている放蕩息子のたとえ話は、福音書の中でも一般的によく知られたストーリーでしょう。

この物語は、次男坊に甘い父(よくある)、兄が弟より愛されておらず、弟よりも価値を認められていない、どうしようもない弟と妬む兄(あるある)、そういうことを言っているたとえ話ではありません。

父は2人の息子を比較していません。

父が2人の息子を愛していることは明らかで、それぞれの置かれた立場に合わせて愛を表しています。

弟を迎えた父は祝宴を催し、畑から戻った兄を迎えた父は弟の帰還をともに喜んでほしいと願います。

 

ヨハネの14章のタイトルは『父への道であるイエス』

わたしの父の家には、住むところがたくさんある。

わたしが行って、あなた方のために場所を準備したら、
戻ってきて、あなた方をわたしのもとへ迎えよう。
わたしのいる所に、
あなた方もいるようになるためである。
(ヨハネ14・2~3)

神の子とされたわたしたちには、ひとりひとりに特別な場所が与えられています。
比較、嫉妬、ライバル心、競争心を捨て、父の愛にゆだねることを暗示しているのが、この放蕩息子のたとえ話です。

真に憐れみ深い父性が生き生きと描かれているのです。

このたとえ話の前には、見失った羊となくした銀貨の話があり、この3つを合わせた15章のタイトルは『憐れみの三つの喩えの序』です。

嘆き
赦し
惜しみなく

この3つのキーワードが秘められています。

祈りの多くは嘆きであり、それを受け止めてくださる父

心からの絶えざる赦しを与えてくださる父

父は自分のために何も取っておかず、子どもたちのために自分自身を注ぎ出します。
何のためらいもなく自分を与え尽くします。

その善良さ、愛、赦し、ケア、喜び、憐れみに何の限界も設けない神の存在が暗示されています。

わたしたちもキリスト者として、この父性に倣うべきところが大きいと思います。

大変難しいことですが、イエス様をとおして表された父の憐れみ深さを、いつも心に刻んでおかなければなりません。

あなた方の父が憐れみ深いように、
あなた方も憐れみ深い者となりなさい。
(ルカ6・36)

これは、神の子となるための根本条件なのです。

 

いよいよです。

神様がわたしたちに新しいお父さんをお与えくださる日が近づいてきました。

およそ父と名づけられるすべての父性の源である天の父(エフェソ3・14~15)の代理人の一人として、わたしたちの船津新司祭の誕生を祝う日が迫ってきました!

召命とは、よく耕された相互愛という畑で熟す果実です。
忘れないでください、召命はひとりでに生まれるものではありませんし、ひとりでに育つものでもありません。
召命は神のみこころを起源とし、信仰心の土壌で、兄弟愛を体験するなかで芽吹きます。
(教皇フランシスコ 世界召命祈願の日メッセージより)

叙階式の模様は、YouTubeでライブ配信される予定です。(23日午後2時より)

準備に余念のない宮﨑神父様と久留米の信徒たちです!