行事風景
塩の契約
昨日、10/13はジュゼッペ神父様の38歳(自称) のお誕生日でした!
そして、宮﨑神父様の叙階40周年の記念日でもあるという、とても大切な日でした!
そして、全勝で8強入り、おめでとうございます‼︎
おめでとうございます‼︎
宮﨑神父様のお祝いのために、東京から10人くらいの信者さんが駆けつけて来られていました。
話は変わりますが(宮﨑神父さま風)、食欲の!
いえ、味覚の秋です!!
塩、お料理には欠かせませんね。
わたしはコーシャーソルトを使っています。
ユダヤ教における食事に関する決まり(食事規定)である「カシュルート」に沿った食品をコーシェルと言います。
(英語ではコーシャー)
コーシャーソルトは精製塩ではなく、化学物質が含まれていない自然塩で、ミネラルが豊富、まろやかな味わいです。
とにかく、しょっぱくなくて、お肉が柔らかくなるし、スープの味付けにも最適です。
聖書には、たくさん「塩」についての記述があります。
旧約聖書だけでも41か所あるそうです。
(ちなみに、わたしは「塩対応」という言葉は好きではありません。。。)
創世記19章のソドムとゴモラの滅亡に関連した話では、ロトとその家族は神によって救われ、逃げる途中は振り返るなと神に言われたのにロトの妻は振り返ったために塩柱にされました。
すべての献げ物を、塩で味付けしなければならない。
お前の穀物の供え物にお前の神の契約の塩を欠いてはならない。
お前の献げ物にはすべて塩を添えてささげなければならない。
レビ記2・13
わたしはイスラエルの子らが主にささげる聖なる献納物すべてを、お前と、ともにいるお前の息子たちや娘たちに、永久に受けるべき分として与える。
これは主の前でお前とお前の子孫に対する永遠の塩の契約である。
民数記18・19
塩そのものは腐りません。
フランシスコ会訳の聖書の注釈には「塩が持つ防腐の機能から、浄化や保存作用のあるものと考えられ、会食に用いられる塩は解くことのできない友情の徴とされた。」とあります。
さらには、その性質は、神とその民との間に交わされた不変の契約を表すのに最適な象徴なのです。
一方で、新約聖書には6か所、塩に関する記述があります。
一番有名なのは、マタイ5・13でしょう。
あなたがたは、地の塩です。
もし塩がその持ち味を失ったなら、どうやってそれを取り戻すことができるだろうか。
もはやその塩は何の役にも立たず外に投げ捨てられ、人に踏みつけられるだけである。
イエス様がこの話をされたのは、ユダヤ人に対してです。
彼らはそれまで、神の命令はレビ記、民数記、申命記に記されている、という教えを厳格に守って生きていたので、おそらく、先ほど書いた「塩の契約」のことをイメージしたはずです。
塩は善い物(ルカ14・34)です。
わたしたちは、地の塩、世の光(マタイ5・13)であり続け、自分の中に塩を持ち互いに平和を保つ(マルコ9・50)ことができるよう、心がけていきましょう。
聖書、面白い!!
キリスト者としての心構え
久留米も秋の気配です。
昨日のごミサでは、フィリピンの若者たちの姿に感激しました。
『日本で生きていくけど、祖国を愛してる』
若者たちのグループで、インターネットでこのお揃いのティーシャツを作ったそうです。
お揃いのシャツを着て教会に集まる彼らを見て、そのメッセージにも感動しました。
わたしたちは弱い人間ですから、「〇〇神父様がいい」「〇〇神父様は少し苦手」などといった気持ちを抱いてしまうこともあります。
以前、人間関係についてある神父様にご相談した際、意外なお答えが返ってきました。
司祭の皆様は神様からの召命を受けて職務に当たる聖職者なので、
そうした些細な人間関係のもめごととは無縁なのでは?と勝手に思っていたのですが、
「わたしたち司祭も同じようなことで悩みますよ。」
心の中の小さな棘が取れ、気持ちが軽くなりました。
また、東京に住んでいたころに、ある神父様につい愚痴を言ってしまった際に返ってきたお言葉も心に刻まれています。
苦手な神父様がいて、その神父様のごミサに行くのが億劫だと話したら、
「あなたは”イエス様”を信じているのでしょう?
〇〇神父教の信者ではないでしょう?」
笑ってそうおっしゃった言葉に、ハッとさせられ、自分で自分の言ったことがおかしくなりました。
イエス様の時代はおそらく、『ユダヤ教イエス派』といった感じだったでしょう。
そのユダヤ教も、ファイサイ派、サドカイ派、エッセネ派など様々なグループ、宗派があり多様性に満ちていました。
以前読んだ曽野綾子さんの本に、現代のわたしたちは『キリスト教パウロ派』のようなもの、と言ったことが書いてありました。
キリスト教が形成されていく使徒たちの宣教の時代には、まだ当然、新約聖書という形作られた経典はありませんでした。
一番古い福音書であるマルコも、65年~70年ごろに成立したとされています。
その後、他の3つの福音書が書かれても一冊の本として印刷されて人々が手にしていたわけではないのです。
実際に、4つの福音書が揃い、正典とされたのは2世紀ごろだそうです。
初期のキリスト教は、旧約の諸文書を大切にしながら、あくまでも口述により使徒たちを通してイエス様の言葉を聞いた多くの人々が、その教えに共感し形作られていったのです。
イエス様が直接お選びになった使徒たちでさえ、だれが一番偉いか争い、ゲッセマネの園では眠りこけ、一番弟子のペトロでさえ3度「知らない」と言う、そんな始まりだったのです。
人間的である、つまり、弱さや愚かささえも包み隠さずさらけ出し、その中に救いとお恵みを見出していく。
これは、旧約聖書にも表される教えの根本です。
わたしたちは、弱い人間です。
悩み、苦しみ、悲しみがあるから、祈りを捧げます。
この1週間、改めてそのことを感じ、考えました。
守るべきおきて
今月のベトナム語ミサの様子です。
久留米教会のベトナムコミュニティは人数がどんどん増えて、活気が増してきているように思います。
彼らの日本での労働の実りと教会コミュニティでのお恵みが豊かなものになるよう、祈っています。
【教会のおきて】というのをご存じでしょうか。
教会共同体の約束事として、5つのことが決められています。
1.主日と守るべき祭日のミサにあずかり、肉体労働を休むこと。
2.毎年少なくとも一度、ゆるしの秘跡を受けること。
3.少なくとも復活節の間に聖体の秘跡を受けること。
4.教会が定めた大斎と小斎の日を守ること。
5.各々の分に応じて教会の維持費を負担すること。
そう難しいことではない、と思いませんか?
1の「肉体労働を休むこと」というのは、安息日だから、ということです。
わたしたちキリスト教徒にとっての安息日は、この【おきて】によると、
「ミサにあずかり、そのあとは安らかに過ごしなさい」くらいのニュアンスですが、
ユダヤ教徒にとっての安息日は、ヘブライ語でシャバットと言い、とても厳格に決められた日です。
安息日は日曜日ではなく、金曜の日没から翌土曜日の日没までを指します。
ですが、実際には、金曜の日没に備えて午後早い時間からお店などが閉まり始めます。
日没までに家に帰り、翌日の分までの食事を用意しなければならないからです。
ホテルの近くにあったマクドナルドまで閉店していました。
ホテルのエレベーターも「シャバットエレベーター」になり、
ボタンを押さなくてもいいように各階停止モードに切り替えられます。
つまり、何も「労働」をしてなならないのが安息日なのです。
ある安息日のことであった。
イエスが麦畑の中を通っておられたとき、弟子たちは道々、穂を摘み始めた。
すると、ファリサイ派の人々がイエスに言った、
「なぜ、安息日に許されていないことをするのか」。
(中略)
イエスはこう仰せになった、
「安息日は人のために設けられたのであって、人が安息日のためにあるのではない。
それ故、人の子は安息日の主でもある」。
マルコ2・23~28
「あなた方は、わたしが律法や預言者たちを廃止するために来たと思ってはならない。
廃止するためではなく、成就するために来たのだ。」
マタイ5・17
イエス様は、ユダヤ人でありユダヤ教徒でした。
おそらく、30歳になられるまでは安息日だけではなく、厳格に律法に従った生活をされていたことでしょう。
だからこそ、こうした教えが生まれたのです。
人の子は安息日の主である
律法を廃止するためではなく、成就するために来た
律法のおきてを守ることに執着し、それに縛られて大切なものを見失っていた当時の人々への警告でした。
わたしたち(一般的キリスト教徒)の目には、安息日にはエレベーターのボタンを押すことさえ労働であるから禁止する、というのは不思議な気がします。
正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。
わたしたちの主イエス•キリストが現れる時まで、汚れなく、咎められることもなく、この掟を守りなさい。
1テモテ6•11,14
【教会共同体のおきて】
ミサにあずかることはもちろん一番大切ですが、
教会維持費を納入し、共同体をわたしたちが守り、将来にわたり維持発展させていくことは、いまのわたしたちの一番重要な責務ではないでしょうか。
「あなたに、話がある。」
フランシスコ教皇様が長崎と東京でごミサをあげられます。
日本中のカトリック信者が集まることでしょう。
今からとても楽しみです。
このポスター、ご覧になったかと思いますが、キャッチコピーがいい!
(どこかの広告代理店の方が作ったのかもしれませんが)
わたしたちに訴えかけられるものを感じます。
パパ様、初来日ではないのですね。
カトリック新聞に記事が載っていました。
1987年に、イエズス会の新学院の院長であった
ベルゴリオ神父さまとして来日されていたのです。
国際会議では、各国の首脳が何を言うか、
あらかじめほとんど決まっています。
けれども教皇は政治家ではありません。
私が教皇フランシスコと会うときにいつも受ける印象は、
その言葉と行動が、祈りから生まれているということです。
教皇は聖霊に導かれて動いています。
そして聖霊はいつも何か新しいことをします。
教皇フランシスコが私たちに希望を与えるのは、
彼がこの世界のリーダーとは全く違うリーダーだからです。
教皇フランシスコは、「この世界は福音の価値観で変わる」と固く信じて、
その通りに生きている人です。
(写真、文章はカトリック新聞より)
今月のパパ様カレンダーのメッセージは
「 自分の限界や弱さを知ることはよいことです。
むしろ、知らなければなりません。
しかしそれは、絶望するためではありません。
神におささげするためです。」
教皇フランシスコとしての来日は、これが最初で最後の機会になるかもしれません。
どのようなメッセージをわたしたちに語られるのか、とても楽しみです。
久留米教会からは300名近くで申し込みをします!!
教会ごとの大移動のようになるでしょう。
いちじくの実、オリーブの木
マタイとマルコの福音書にある「実のないいちじくの木」の例え話をご存じでしょう。
イエス様が、道端のいちじくの木に葉のほかには何も見当たらなかったので
呪って「今後、永遠にお前は実を結ばないように」と仰せになると枯れてしまった、
というお話です。
ルカの喩えでは、
「3年このかた、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、
一つも見つけたことがない。切り倒しなさい。」
とまで言われています。
以前、聖書の勉強会で、
「これは、神殿そのものに仕えている不毛な人々への警告と
イスラエルの宗教的不毛の暗示です」
と教わりました。
今回イスラエルに行った時にガイドをしてくださった牧師さん(↑写真の、立ってお話されている方)によると、
「いちじくの木は、葉が茂っているということは同時に実もなっているもの。
その木に葉しかついていないということは、
実りのないうわべだけの偽善者のようなもの、ということなのです。」
とのこと。
(↑写真は、ゲッセマネの園の立派な年代物のオリーブの木です!)
イスラエルをオリーブの木に喩えられている箇所も多くあります。
エレミヤ書11・16では
主はかつてお前を、
「素晴らしい実のなる、美しく生い茂るオリーブの木」と名付けられた。
・ぶどう園、ぶどう畑、ぶどうの木
=旧約時代のイスラエル(ユダヤ人)
・いちじくの木
=イエス様の時代のイスラエル(ユダヤ人)
・オリーブの木
=将来の患難時代のイスラエル(ユダヤ人)
という見方ができる箇所もあります。
イスラエルは、死海の西側のユダの荒野と対照的にガリラヤ湖やヨルダン川流域は緑豊かで、
お野菜と果物がとても美味しい国です。
ぶどう(ワイン)、いちじく、オリーブオイル、
これらは毎食わたしたちを楽しませてくれました。
当然、イエス様の時代も、こうしたものを楽しむのが日常だったので、
喩えとして大衆にわかりやすく話す際に多用されたのでしょう。
根が聖なるものであれば、枝もそうです。
しかし、枝のあるものが折り取られ、
野生のオリーブであるあなたがその代わりに接ぎ木され、
元の木の根から来る豊かな養分にあずかっているからといって、
元の木の枝に対して誇ってはなりません。
思いあがってはなりません。
むしろ、恐れなさい。
神が自然のままに生えた枝を惜しまなかったとすれば、
あなたをも惜しまれないでしょう。
ここに神の慈しみときびしさがあります。
ローマ人への手紙11・16~22
わたしたちキリスト者(野生のオリーブ)は
ユダヤ教徒(元の木の根)であったイエス様の新しい教えを受け取っています。
「思いあがってはなりません」
パウロの厳しい愛の言葉ですね。
聖書の読み方
イスラエル巡礼後、今までと違った感覚で聖書を読めるようになりました。
特に、旧約聖書を読みたい!とよく思うのです。文中に地名が出てくる箇所を読んでいると
「あぁ、あそこのことだ」と思い出しながら読め、
そこで言われていることが実感として伝わってくるように感じます。
聖書は特別な「本」であり、
同時に、人生に必要なことがすべて書いてある「本」です。
英語で【 the Book 】 は、「聖書」を意味します。
ある信者さんは、自分がまだ洗礼を受けていなかった頃に、高校生だった娘さんに、
「一生のうちに一度は読んでおくべき本だ」と言って聖書をプレゼントされました。
それから20年後、娘さんはその本を手に教会に通うようになり、
聖書の勉強に行き始め、洗礼を受けました。
そしてその後、お父様も聖書講座に通い始め、
3年後に洗礼を受けることになりました。
聖書に求めるべきは、真理であって、雄弁ではない。
われわれは聖書を、それが書き記された精神に従って読まなければならない。
われわれは聖書を、著者の権威や、その文学的評価にかかわりなく、
真理に対する純粋な愛をもって読むべきである。
誰がこれを言ったのかを問題にせず、
どういうことが言われているかに注意しなければならない。
人は過ぎ去る。
しかし主の「まことは代々に及ぶ」(詩編117.2)
神はだれかれの差別なしに、われわれ人間に、いろいろな方法で語りたもう。
われわれが聖書を読むにあたってしばしば邪魔になるのが好奇心である。
われわれが素直に読み進めるべきところを、詮索し、議論じようとするからである。
もしあなたが聖書から利益を汲み取りたいと望むならば、
へりくだって、単純で、敬虔な信仰をもって読むべきであり、
学識があるなどという評価を得ようなどと望んではならない。
自由に質問し、聖人たちの言葉を黙って聞き、
また年配者たちの言うことを拒否してはならない。
彼らは、理由なしには、そのように語ってはいないからである。
わたしの愛読書のひとつ、
「キリストを生きる」(デ・イミタチオネ・クリスティ)からの一説です。
トマス・ア・ケンピスの原書が「キリストに倣いて」というタイトルで何種類か訳されていますが、わたしが何度も読み返しているこの本は、2017年に新しく翻訳されたものです。
聖書と同じように、何度読んでも新しい気づきと発見がある
素晴らしい本です。
万寿会:お元気な先輩方!
やはり、我が家である久留米教会は落ち着きます!
8日に、恒例の万寿会(75歳以上の先輩信徒の皆さん)のお祝いのミサと懇親会が開催されました!
今年も山頭神父様、ジュゼッペ神父様、キッペス神父様もお見えになり、夏休み中の船津助祭と一緒に賑やかなごミサでした。
お一人づつ祝福の按手を受ける皆さん。
列に並んで祝福を受ける神父様!
最後はお互いに祝福しあってらして、教会中が優しい笑いに包まれました。
今年は51名のご参加があり、女性の会や日曜学校の子供たち、フィリピン・ベトナムの皆さんによって、
心温まるおもてなしの会となりました。
ジュゼッペ神父様は、満をじして新ネタを披露‼️
先輩信徒の皆さんの積み上げを引き継いでいるのが教会です。
わたしたち、キリスト教の教会の起源は、
ユダヤ教のシナゴーグです。
洞窟のシナゴーグ跡に建てられたキリスト教の祭壇です。
そのシナゴーグは、エルサレムの第一神殿
(ソロモンによって築かれた最初の神殿)が崩壊し、
バビロン捕囚によってほとんどのユダヤ人がバビロニアに連れていかれたときに
その原型ができました。
それまでの神殿礼拝ができなくなったユダヤの人々が、
信仰を保つために会堂(初めはだれかの家)に集まり、
会堂礼拝を始めたことに起因するそうです。
先輩信徒の皆さん、
それも2000年以上もの積み上げを引き継いでいるのが今のわたしたちです。
巡礼の旅の間もずっと、
「教会」「信徒の集まり」のことを考えていました。
ユダヤ教の人々の敬虔な祈りの姿、信仰を守る姿を見ていて、
彼らには4000年以上の積み上げがあり、
先祖たちへの敬意、教えへの畏敬の念を持ち続けているのだと痛感しました。
信仰の対象や大切にしている教えが違っていたとしても、
わたしたちが彼らから学ぶことは少なくありません。
久留米教会も、万寿会で健康をお祝いさせていただいた先輩方の積み重ねてこられた祈りと信仰の歴史があるからこそ、
今の信徒の集まりがあるのです。
先祖たちの信仰
先月のごミサは、第二朗読でヘブライ人への手紙が読まれました。
わたしは、11章の出だしの一文が大好きで、カードに書いて手帳に挟んで持ち歩いているくらいです。
「信仰は、希望していることを保証し
見えないものを確信させるものです。」(フランシスコ会訳)
「信仰とは、望んでいることを確信し、
見えない事実を確証することです。」(新共同訳)
この11章のサブタイトルが『先祖たちの信仰』です。
聖墳墓教会
11.2 昔の人々は、この信仰の故に称賛されました。
信仰によって生きた旧約時代の人々を思い起こすのが11章です。
11.13 これらの人々はみな、信仰を抱いて死にました。
彼らは、約束されたものを受けませんでしたが、
遥かにそれを望み見て歓呼の声をあげ、
自分たちが、この世では異邦人であり、
旅人にすぎないことを表明しました。
11.39 これらの人々はみな、その信仰のために称賛されましたが、
神が約束されたものを受けませんでした。
神は、さらに善い計画を、わたしたちのために、あらかじめ立てておられました。
そして12章には、
イエス様が『信仰の導き手であり、その完成者』であると書かれています。
アルケゴス、導き手であり草分けであるイエス様がこの地上において神への信頼を持ち、我々の先頭に立ってくださったのです。
ガリラヤ湖畔の風景です。
ここを実際にイエス様が歩かれたのです。
公生活を始められたイエス様が初めて大衆の前で、しかも、体の不自由な人ややもめ、虐げられている人々が多く集まったと思われるあの日、この山の上で山上の垂訓と言われるお話をされたのです。
この場所であの言葉が語られたのだ、と実感しました。
本当に声が聞こえた気がしたのです。
ゲッセマネの園の教会でごミサに与りました。
創始者であり導き手であるイエス様の生きた地を見たい、と思い、イスラエルに行きました。
わたしたちキリスト者に先立って固い信仰に生きた先人たちの思いを感じ取ることが少しはできた、そんな旅でした。
信仰を旅する。
わたしには受けなければならない洗礼がある。
それが成し遂げられるまでは、
わたしはどんなに苦しい思いをすることであろう。
ルカ12.50
とても心を打たれる箇所です。
「エルサレムはイエスにとって受難と死が与えられる壁です。
しかし神の栄光のためにイエスはその壁を引き受けます。
それは弟子たちに復活を示し、愛の知らせを延べ伝えるためです。」
8/18のごミサの聖書と典礼の最終ページに寄稿されていた、
松村神父様の文章の一部です。
働く(生きていく)上で様々な壁が与えられるけれど、
それを喜ん引き受けて行かねばならない、というようなお話でした。
わたしが初めて聖書を読んだ思春期の頃、強烈に印象に残り、
最初に聖書にマーカーを引いた箇所があります。
「狭い門から入りなさい。
滅びに至る門は広く、その道は広々としていて、
そこから入る人は多い。
しかし、命に至る門は何と狭く、その道は細いことか。
そして、それを見出す人は少ない。」
マタイ7.13~14
アンドレ・ジイドの「 狭き門」を買い求め、
この聖書の箇所を理解したいと思い、何度も読み返したりもしました。
当時のエルサレムの神殿には城壁が張り巡らされ、
いくつもの門がありました。
大きくて立派な門は、祭司や裕福なものだけが出入りに利用でき、
貧しい人や体の不自由な人は、小さな目立たない門から入ることを強いられていました。
現在の修復された城壁にも、いくつかの門があります。
今日も明日も、その次の日も、わたしは旅を続けなければならない。
預言者がエルサレム以外の地で死ぬことはあり得ないからである。
ルカ13.33
狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
ルカ13.23
久留米教会の仲間たちとイスラエル巡礼の旅に来ています。
ここに来て強く感じています。信仰とは、人生の旅のような気がしてなりません。
『神の国』はいつ、どこに。
先週の納涼祭の記事を書いていて、『神の国』についてまた考えさせられました。
イエス様は30歳になるまで、ヨゼフ様のお仕事を手伝いながら暮らしておられました。
お生まれになった時には、「神の子、メシアだ」と有名だったはずなのに、です。
30歳になったころ、大衆を魅了した洗礼者ヨハネが現れました。
500年以上の空白ののちに現れた預言者でした。
彼は、民に罪の赦しを得るための回心を勧め、
「天の国は到来した」と述べ広めたのです。
多くの人が彼から洗礼を受け、その一人がイエス様でした。
その後、ヨハネは彼が起こした大衆運動の結果として逮捕されてしまいます。
イエス様にとって、ヨハネの逮捕は神の国が到来したしるしでした。
マルコの福音書には
「ヨハネが捕らえられた後、イエスがガリラヤへ行き、神の福音を延べ伝えて、
『時は満ち、神の国は到来した。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」
とあります。
イエス様はヨハネの宣教を継続したのです。
18日のごミサのルカの朗読にもありました。
「イエスのメッセージは人々に神の国を受け入れるか否かの決断を迫るので、必然的に分裂が起こる」
『神の国』とはなんなのでしょうか。
その当時の人々は神の国の到来を待っていました。
しかし、それぞれが違った考えでそれを待っていました。
神の国の到来とは、彼ら自身の努力によるものと考えられていました。
イエス様は全く反対に、
あなたがたの努力とは関係なく、神の国はもうそこにある、と言われました。
「神の国は目に見える形で来るのではない。
神の国は、実にあなた方の間にあるのだから。」
ルカ17・20~21
フランシスコ会訳の聖書の解説には
神の国はイエスと弟子たちの働きによって、
すでに「あなた方の間」に現実に存在する、解釈できる。
と書かれています。
皆が待っていたものは、すでに民の間にあったけれど、
彼らはそれを知ることも、気づくこともなかったが、
イエス様はそれを感知していました。
そして、人々の間にあった神の国の隠された現存をこそ、
彼は自分の故郷のガリラヤの貧しく、除外された人々に述べ伝え、
啓示しようとしたのです。
『神の国』
わたしたち、現代のカトリック信者は、なにを待っているのでしょうか。
あなたにとっての神の国は実現していますか?
何を信じ、何を頼みに祈りますか?
わたしたちの間にも『神の国』は現存しているはずです。
この本を神父様から頂いて読んで、納涼祭での皆さんの平和な様子を見て、
そのことをずっと考えています。
記事中の青い文字は、この本からの引用です。
改めて、イエス様の声に耳を澄ませてみたいと思います。