行事風景
久留米のクリスマスミサ
クリスマスおめでとうございます。
昨夜のイブのごミサと今朝の降誕ミサには、とても多くの参列者がありました。
毎年とても盛大にご降誕のお祝いができることは大きな喜びです。
日曜学校を卒業した青年たち、おなかの大きな子、、お母さんになった子
あか抜けした新社会人、普段の日曜日のごミサにはなかなか与れないという信者だけでなく、
ミサはクリスマスだけは必ず!という信者さん、
初めて教会を訪れる方も大変多いのがクリスマスミサの醍醐味ではないでしょうか。
イエス様がお生まれになった意味を、すべての人と分かち合う時間です。
宮﨑神父様は
「信じる者はすべてを神にゆだねるのです。
クリスマスを、信じることの喜びを改めて見つめなおす機会にしてください。」
とおっしゃいました。
昨夜のミサまでの間、多くの方がいろいろな役割を担って準備に取り組んできました。
この祭壇のお花もそのひとつです。
女性の会のみなさんが、丁寧に活けてくださいました。
信徒会館の中の飾りつけは、ベトナムの青年たちの手によるものです。
イブのミサのあとに振る舞われた軽食も、女性の会のみさなんのお手製です。
ミサの中で演奏されたハンドベル
猛練習の成果を発揮してくれた青年会のみんな!
こんなに多くの若者までもが、積極的に教会での役割、使命に喜んで応えてくれている久留米教会、
自画自賛ですが、とても素敵な自慢の教会です。
昨夜のミサのあと、敷地内の木の下でベトナムの青年たちが
クリスマスソングに合わせてダンスをしていた姿もとても素敵な光景でした。
クリスマス会の子どもたちの様子も、また改めてご紹介します!
今夜は、恒例となった、筑後地区のプロテスタントの各教会と合同でのキャロリング
(久留米市内を歩きながら聖歌を披露します。)が行われます。
喜びの主日
なんてステキな呼び名でしょう!
喜びの日に相応しく、待降節第3のロウソクはピンクが灯されました。
今日に合わせ、ピンクの実が追加されています。
みこころレターのこと、ホームページの記事のことを褒めてくださったり感想を聞かせてくださる方が何人も声をかけてくださり、嬉しい日曜日の朝だわ、と思っていたら。
ジュゼッペ神父様の最初のお言葉が
「今日は喜びの日曜日です。
主があなたたちの内に、あなたたちと一緒におられ歩んでおられることを喜びなさい。」
喜びその1
日曜学校の子どもたちが、いつも神父様に教わっていることをいつくか、わたしたちにも聞かせてくれました。
「朝昼晩、神様に感謝しましょう!」
「毎日何回も、ありがとうを言いましょう!」
大人も大切にしなければならない習慣ですね。
喜びその2
青年会という20名ほどのグループがあります。高校生以上の若者たちが、クリスマスミサで披露するハンドベル演奏の猛練習中です!
(メンバーのIさんは、わたしが洗礼を受けたときに一緒に幼児洗礼を受けたのです。
こんなにステキな女性に成長して、感無量です(涙))
今日は、ミサの後、馬小屋の飾り付けをしてくれました。
そして、完成‼︎
喜びはいつも、そこにあります。
神様がいつも横にいてくださるのと同じように。
神様とインターネット
久留米教会にはこのホームページと、「みこころレター」という広報誌、
2つの広報ツールがあります。
みこころレターの第8号を発行しました。
この半年の久留米教会の活動だけではなく、
4つの国出身の信徒によるアドベントの過ごし方の記事、
神学生2名のご家族による「わが子の召命」についての寄稿、
海外で活動する信徒の報告など、
いろいろとお伝えしたいこと盛りだくさんの内容です。
クリスマスは多くの場合、ハロウィンの様にイベント化し、
新聞を取るのをお止めになるご家庭も多くなり、
来年からは年賀状出すのをどうしようかと考えていらっしゃる方もいるようです。
現代は紙離れ?神離れ?なのでしょうか。
広報誌、つまり手に取っていつでも好きな時にゆっくり読める媒体と、
ホームページのように、情報を得るために自主的に検索してから見る媒体とでは、
その役割は全く違います。
たとえば、わたしもこのホームページに聖書の言葉を引用したいと思った時、
それが、どの福音書の何章だったか知りたい場合、
すぐにインターネットで検索します。
そのあと、自分で聖書を開いてその箇所を読み返します。(ここ大事!)
神様はインターネットで自分のことを検索されるなど、
想像もされなかったでしょう!
先日、ある神父様がおっしゃっていました。
「信仰は、”神と、神に祈るわたし” だけの関係だけではありません。
わたしたちをとりまく社会、家庭の問題など、
さまざまなことが絡まっているのが現代社会の信仰の姿です。
たとえば、現教皇は、カテキズムから『死刑制度容認』の文言を削除したのです。
長年、カトリック教会は死刑制度を容認してきましたが、
今、教会は反対の立場へ変わったのです。」
聖書の教えは本質的には変わらないはずなのに、
信仰も、時代とともに変化している、ということなのでしょうか。
世界中、わたしたちの身近なところでさえ、いろいろな問題が起こっています。
他者の意見に耳を傾け、インターネットにあふれる「だれか、個人」の意見に振り回されず、
検索するよりも、日常に神様を感じた暮らしをしたいものです。
広報誌は、近隣教会の信者さん、教会を初めて訪れる方にも手に取っていただきたく、
たくさん印刷しておいてあります。
(近隣教会にはお送りしています。)
どうぞ、遠慮なくどんどんお持ち帰りください!
待降節、新しい1年の始まり。
典礼暦では、待降節から新しい1年がスタートします。
久留米教会でも、アドベントの飾りつけを始めました。
これは、待降節の間、毎週1本づつ灯すロウソクを立てるためのもので、
ラテン語で、アドベントゥス クラントゥスと言います。
毎年、一人の有志の方が素敵なものを作ってくださっていたのですが、
今年からは、わたしたち(Team40代!)が担当させていただくことになりました。
こちらは、去年のもの。
完成度が高く、とてもこんな風にはできませんでした。(^_^;)
それでも、神様を感じながら、戴いた役割を楽しみました。
「どんなことであれ、あなた方のうち二人が心を一つにして地上で願うなら、
天におられるわたしの父はそれをかなえてくださる。
二人また、三人がわたしの名によって集まっているところには、わたしもその中にいる。」
マタイ18・18~20
この聖書の言葉を思い出さずにはいられませんでした。
「今年から、作るのをお願いできない?」と言われた時、わたしたちはとても嬉しく、
「ほかにもお手伝いできることがあれば、なんでも言ってください!」
と、誰もが口を揃えて言うことができました。
久留米教会にはいろいろな役割があり、お手伝いしてくださる方が必要です。
力仕事は20代の「青年会」のみなさんにお願いしています。
バザーをして、収益を支援が必要なところへ送ってくださる
「ピースナインの会」「女性の会」「フィリピンコミュニティ」の方々。
掃除やイベントの裏方をやってくださる「ヨゼフ会」の男性方。
花壇のお手入れをしてくださっている「女性の会」の方。
ごミサの時、初めて来られる方に案内をしてくださる「教会学校保護者会」の方。
教会の備品を管理してくださっている「役員」の方。
教会学校担当、納骨堂委員、営繕委員、広報委員など。
いろいろな方が、快く役割を担ってくださっていることで成り立っているのが教会です。
その方々すべてに、神様のお導きがあります。
「主は彼らの前を行き、彼らが昼も夜も進むことができるよう、
昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた。
昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。」
出エジプト13・21~22
モーセが民を率い、エジプトから紅海に向かう時の様子を書いた箇所ですが、
わたしはこのくだりがとても好きです。
誰もが、神の導きによって、昼も夜も迷うことなく前に進めるように、
という神様の愛を連想します。
わたしたちは、教会、家庭、職場、地域社会などでさまざまな役割を担っています。
待降節の期間、今年の残りの日々、周囲の人々への優しさと感謝の気持ちを大切に。
そして、どんな時も神が導いてくださっている、ということを忘れないように過ごしたいものです。
神学院祭、召命。
少し前のことになりますが、11/3 福岡キャンパスでの開催は今年で最後となった、神学院祭に久留米教会からも大勢で参加してきました。
恵まれた敷地!
素晴らしい環境で、17名の神学生が学んでいます。
われらが誇り、船津神学生もその一人です。
丘の上から神学生の挨拶があり、開会しました。
各教区の神父様方も勢揃いし、美しい秋晴れの空の下、
贅沢なごミサに与ることができました。
企画ももりだくさんで、大人も子供もとても楽しい時間を過ごすことが出来ました。
丘を利用した草スキー(?ソリ?)、神学生を探してシールを集めてお菓子をもらったり、
神学生によるマジックショー、ウッドビーズでのロザリオ作りなど。
各教会ごとのいろいろな食事やお菓子の露店も出ていました。
こんな面白いランキングも!
日本の神学生の数は、年々減少しています。
わたしたち信徒にとっても、カトリック教会全体にとっても、とても深刻な問題です。
聖アウグスティヌスは、自身の放蕩生活やマニ教への入信を振り返り、苦悩していたさなか、
隣りの家の子どもが遊びながら歌う声にハッとします。
「とれ、よめ」
そこにあった聖書を手にし、どこを読むとも意識せずに開いたページが、パウロの回心するくだりでした。
「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けてはならない」
ローマ人への手紙13・13~14
そして洗礼を受け、修道生活へと入っていきます。
ひとりでも多くの若者が、神の招きに気づき、導かれるように祈りたいと思います。
この中に、将来の神学生がいるかも!?!
バザーと聖書
11/18〜25は聖書週間となっています。
みなさん、聖書はどのくらいのペースで手にしますか?
聖書に親しんでいますか?
今日はごミサの後、バザーが開催されました。このバザーも、聖書の教えを実践しているのだわ、と感じました。
今日のバザーの収益金は、震災後続けられている福島家族支援のプログラム「博多にきんしゃ〜い」への支援金として充てられます。
久留米教会には女性の会というグループがあり、定期的にコーヒーバザーが開催されます。
ごミサの後、教会前の広場で皆がコーヒーを片手に語り合う、貴重な親睦の場でもあります。その収益は、例えば教会の空調献金に充てられたりしているのです。
なぜ、バザーをするのか。
答えは、聖書のいたるところに書かれています。
これは、わたしの聖書、フランシスコ会翻訳です。
このように、気に入っている箇所や大事にしている言葉のページには付箋を貼っていて、時折読み返しています。
今日のごミサの箇所。
『天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。』マルコ13・31
共同訳が採用されている聖書と典礼はこう訳されていますが、フランシスコ会だと。
『天地は過ぎ去る。しかし、わたしの言葉は過ぎ去ることはない。』
どうでしょうか。
この微妙なニュアンスの違いを楽しむのも、わたしが聖書を開く理由のひとつです。
宮﨑神父様がおっしゃいました。
「聖書は神様からのラブレターです。
ラブレターをもらったら、それに答えようとしませんか?
神からの教えに応えなければなりません。
教会は、人の言葉、聖書の教えの上に成り立っています。
聖書に書かれた、使徒たちの苦難に満ちた宣教の旅のことを知らなければ、本当の意味でのイエス様の教えを知ることはできません。」
この期間のうちに、ぜひ聖書を開いてみましょう。
どこを読んでもいいのです。気負わず、気軽に。
先週の神学生たちと久留米の子供たちの集合写真です。
みんな、素敵な笑顔‼︎
七五三のお祝いとお恵みの子どもたち
11日のごミサでは、七五三のお祝いがありました。
そして、長崎の神学校から13名の神学生と3名の神父様がたもお越しになり、
お恵み溢れる素晴らしい日曜日のミサとなりました。
現在、14名の神学生が在籍していて、そのうち12名が長崎教区の出身とのこと!
2名は、われらが福岡教区の誇り、久留米の横山神学生と、今村教会出身の鈴木神学生です。
5人の神父様による贅沢なごミサ。
そして、お恵みに満ちた神学生たちと七五三の祝福を受けるたくさんの子どもたち。
みなさん、教会中に満ち溢れる聖霊のパワーを感じられたのではないでしょうか。
特別のお恵みを受けた子どもたち&青年たちからのおすそ分けをいただいたような気持ちで、
息を吸い込むたびに、体内に良いエネルギーが入ってくるのを感じました。
ごミサのあと、何人もの方が「今日は素晴らしいごミサだった!」とおっしゃっていました。
最後に神学生たちがギターの演奏付きで素敵な歌声を披露してくれました。
3曲目は自らのアンコールによって。(笑)
♪聖霊きてください
あなたの光の力で
わたしたちを照らしてください♪
♪わが主イエス
わたしを包む、わたしを満たす♪
横山神学生の挨拶がとても心に響きました。
「わたしたちも皆さんのために日々お祈りしています。
来週末に大学受験を控えている2名の神学生のために、わたしたち神学生のためにもお祈りください。」
彼らがこれから、高校へ進学し、大学生となりコレジオで学び、その後に神学院で6年学び、
助祭、司祭となっていく長い道のり。
彼らのためにも、わたしたち信徒のためにも、心を込めて祈り続けて行きましょう。
死者の月に想う。
3日の秋晴れの美しい空の下、盛大に行われた神学院祭については、また次回!
今月は、死者の月です。
「死について黙想し、周囲の亡くなられた方が永遠の命に招かれるように祈ることは、
私たちがよりよく生きることに繋がります。」
宮﨑神父様がミサでおっしゃった言葉です。
今日のミサで撮影した写真。
朝日の偶然による光の屈折が美しく、聖霊が、天と教会のなかのわたしたちを結んでいるような気がしました。
こちらは、ボリビアの死者の日の様子。
ボリビアでは死者の日から数日、お仕事はお休みだそうです。
「みなさん、お墓参りに行ったり、もし今年亡くなった方が家族にいたら、その方が好きだったものを準備して、お祈りに来て下さる方々とそれらを分かち合う日となっています。
わたしも、知り合いの家にお祈りに行き、パンとワインをいただいてきました。」
ボリビアのAkikoさんより。
日本のお盆のような感じですね。
午後3時から、久留米教会の全ての死者の追悼のためのごミサが捧げられました。
聖アウグスティヌスは、母モニカが亡くなったとき、悲しみにくれていました。
「私は終日、心の奥底においては、重いかなしみに沈んでいました。
そして、精神をかきみだされ、このかなしみをいやしたまえと、あなたにむかってなしうるかぎり乞いもとめましたが、あなたはその願いを聞きとどけてくださらなかった。」
告白 第9巻 第13章
紛らわすため、入浴したり眠ってみたり、いろいろ試してみます。
そして、アンブロシウスの”夕の讃美歌”を想い出し、敬虔な母の想い出にひたるのです。
かみよ、すべてのつくりぬし
あまつそらを しろしめす
ひるは あかるきひかりもて
よるは めぐみのねむりもて
よそおいたまえば もろびとは
ゆるみしからだ よこたえて
あすのちからを やしなえり
つかれしこころ かろやかに
なやみはとけて あともなし
わたしも、母が亡くなったとき、神様にながいあいだ問い続けました。
なぜ、こんなに早く母を召されたのですか?と。
簡単には哀しみは癒えませんでした。
神様からお返事が聞こえたような気がしたのは 随分時間が経ってからでしたが、いまでも鮮明に覚えています。
「亡くなった人のことを祈るより、
残った家族や友人のために祈るのです。
亡くなった人は神様の元へ行ったのだから、
何も心配することはありませんよ。」
と神父様から言われ、とても心が軽くなりました。
死者の月に、周囲で大切な方が神様の元へ召された全ての方のために祈りましょう。
幼児洗礼式ー洗礼と信仰のことー
2人の赤ちゃんの洗礼式が執り行われました。幼児洗礼式は年に2回行われますが、ご復活祭の洗礼式と同様に、自分の信仰を改めて見つめ直すよい機会である、と宮﨑神父様が仰っていました。
クララ西坂香怜(かれん)ちゃん
マリア松尾柴織(しおり)ちゃんがわたしたちの共同体に迎え入れられました。
信仰とは何か。
人に聞かれたら、何と答えるでしょうか。わたしの場合、教会に行って静かに座っていると、スラスラっと感謝の気持ちが湧き上がり、事前に考えていた以外の想いまで自然と祈りとなることがよくあります。
わたしの場合の『信仰の現象』です。
信仰とは、望んでいることを確信し、見えない事実を確証することです。
ヘブライ人への手紙11.1
信仰は、いつ洗礼を受けたか(長さ)や、どのくらい熱心か(深さ)ではかれるものではないと思うのです。
このご家族は、今年のご復活祭に親子3人同時に受洗されました。信仰とは、を考えた時に真っ先に彼らのことが浮かびました。
彼女はわたしの入院中のゴーストライター(笑)でもある、大切な友人です。
家族で色々な教会の行事に参加し、聖歌隊にも入り、娘さんも日曜学校の活動を楽しんでいるようです。神様からのお恵みをものすごい勢いで吸収しているように見えて、わたしまで幸せな気持ちにしてくれるファミリーです。
あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ
詩編2.7
やすらぎの集いin聖マリア病院ルルド
爽やかな秋晴れの19日土曜日に、聖マリア病院のルルドの広場でやすらぎの集いがありました。
「やすらぎの集い」とは、ご病気で療養中の方々とご家族、ご友人の皆さんのこころとからだの安らぎを願って一緒に祈る集いで、今年で18年目になるそうです。
久留米教会の子ども聖歌隊『チェチリア聖歌隊』が聖歌を歌ってくれ、青空に可愛らしく透き通る様な声が響きわたりました。みなさん、天使の歌声だったねと喜んでおられました。
患者さんだけでなく、病院関係者、学生、久留米教会の参列者が、こころとからだの安らぎを頂きました。
8週間程の入院生活を終え、自宅療養しています。
この間、こうして教会のホームページの記事を更新できているのも、教会の友人たちの協力があってのことです。
彼女たちから、こんなことがあったよ、と写真と文章が送られてきたり、気にかけてくださる方々が優しい励ましのメッセージを下さったり、どれだけ心のやすらぎを得られたことか。
入院生活というのは、本当に心細く、時に滅入ることもあります。
携帯のメールでもいいのです。
身近にご病気やケガで入院している方がいらっしゃる方は、その方に「想ってるよ、祈ってるよ」とメッセージを伝えてください。
まず、自分自身を平安に保ちなさい。そうすれば、他人にも平和を分け与えることができる。
平和を愛する人は、全てを善に変える。
心を平和に保つ人は誰をも疑わないが、しかし不平を言い激昂しやすい人は、いろいろな邪推に振り回され、自分も落ち着かないばかりか、他人をも苛立たせる。
あなたはまず、自分の霊魂について真剣でありなさい。そうすれば自然に、隣人のことについても正しく、熱心に注意できるだろう。
キリストを生きる 第二巻 第三章 1
トマス•ア•ケンピス