行事風景
苦難の捉え方
昨日は、久しぶりの宮﨑神父様のごミサに森山神父様も来てくださり、久留米教会は本当に恵まれていることを痛感した日曜日でした。
自然災害、病気、事故はいつの時代もわたしたちをふいに襲う悲劇です。
オーストラリアの森林火災はまだ燃え続けています。
新型のコロナウィルスの感染拡大はどこまで広がるのでしょうか。
交通事故の発生しない日はないのではないでしょうか。
病気治療中の知人に「お祈りしています」と言葉をかけても、それは自己満足でしかない、と感じることもあります。
そう感じたとしても、ぜひ「お祈りしています」と声をかけるか、カードに書いて送ってください。
わたしが病気をしてながく入院していたとき、
(今のように携帯でメッセージ、という時代ではなかったからですが)
励ましのカードや手紙が病室に届くのが楽しみで、とても嬉しかったことを思い出します。
「忘れていませんよ」
「あなたのためにお祈りしましたよ」
その気持ちがとても励みになったものです。
『なぜ私だけが苦しむのか』現代のヨブ記
この本を読んで、ショックを受けました。
「苦難は神様から与えられる試練だ」と信じて生きてきたわたしにとって、衝撃的な本でした。
そして同時に、わたしの『人生の書』の1冊になったのも本心です。
神のみ旨に従い、周囲の人々のために尽くして生きてきたユダヤ教のラビが、我が子に障害があるとわかり、14歳でその短い生涯を終えるまで苦悩を抱えながら育てたのちに行きついた信念が書かれています。
わたしは自分の病気がわかったとき、これは神様からのメッセージだと素直に受け止められたし、いまでは「この障害があることはわたしの長所であり、お恵みだ」と単純に思っています。
母が若くして亡くなった時は「どうしてですか?なぜこんなに早くお召しになったのですか?」と神様に文句を言い続けましたが、いまでは「病弱だった母を早くゆっくりさせてくださったのだ」と純粋に思っています。
ですが、この本の作者は、
「私に言えることは、私の信じる神は、このような病気を与える方ではないし、奇跡的治療法を隠し持っているのでもない、ということだけです。
そうではなく、不滅の精神を弱く傷つきやすい肉体に宿して生きていくしかないこの世界で、自分の責任でない不公平によって苦難にさいなまれている人、死の恐怖におののいている人に、私の信じる神は強さと勇気を与えてくださるのです。」
「私たちにできることは、なぜこんなことが起こったのか?という問いを超えて立ち上がり、こうなった今、私はどうすればよいのか?と問いはじめることなのです。」
災害、病気、事故などで苦難のなかにある人に、「神様は乗り越えられる苦難しかお与えになりませんよ」といった安易な言葉をかけることも、作者は「酷である」と言います。
自らと神との関係において与えられた苦難や試練を乗り越える、という根本的な考え方は同じですが、そもそもそれらは神が与えたものではない、というのです。
その時、お前の光は暁のように輝き出で、
お前の癒やしは速やかに生じる。
お前の正しさがお前の先を行き、
主の栄光が背後の守りとなる。
その時、お前が呼べば、主は応え、
叫べば、『わたしはここにいる』と仰せになる。
もし、お前の中から軛を除き、
指をさすことや中傷をせず、
飢える者のために尽くし、
虐げられる者の必要を満たすなら、
お前の光は闇の中に輝き出で、
お前の暗闇は真昼のようになる。
イザヤ58・8~10
軛、闇をどう捉えるのか。
どこに光が見いだせるか。
神と自分との関係を見直すために、先人たちがそうしていたように、わたしたちも問い続ける問題なのでしょう。
信仰とは、神と自分自身との関りを追求し続けることです。
答えは自分でみつけるのです。
最後に、この本に紹介されていた、アウシュビッツからの生還者のことばを記しておきます。
「ナチの行ったことのために、私は神に近づいたわけでも遠ざかったわけでもない。
神にはその責任はないのだ。
私たちこそ、私たちの人生について神に責任を負っているのだ。
私たちは短い人生の日々、あるいは長い人生の日々を神に負うているのだ。」
「今日」という日について
先週は司教館の青木神父様、昨日はジュゼッペ神父様がごミサに来てくださいました。
毎週違った神父様のお話を聞くことができる、というのも贅沢なものです。
先週のごミサと今週のごミサが違うものであるように、
昨日と今日は、まったく別のものです。
以前ある神父様が、遠方の町の教会にミサに呼ばれ高速道路で帰る際についうとうとしてしまった、というお話をされました。
「片道2時間ほどかかる道中、睡魔に襲われ、高速道路の壁に激突してしまいまいた。
幸い、前後に他の車はおらず、自分のケガも大したことはなかったけれど、
さっき司式した今日のミサが自分の司祭生活の最後のミサになっていたのかもしれない。
心を込めて務めただろうか。
次からは、毎回『今日のミサが人生最後』と思って務めよう、と心に誓った。」
今日、という日は今この瞬間のことでもあります。
24時間という時間軸ではなく、神様を感じたそのときが、今日となるのです。
御ひとり子は人となられ、
きょう神殿に捧げられました。
わたしたちも聖霊の光に従い、罪のやみを捨て、
みずからをあなたにささげることができますように。
昨日の集会祈願のことばを聞いて
パパ様が「キリストは生きている」とおっしゃっている意味がよくわかりました。
今日、ダビデのまちに救い主が生まれた
今日、この家に救いが訪れた
今日、あなたは楽園にいる
これらの「今日」は、単にそのことが起きた日を指すと読むのではなく、いつでも起こりえる「今日」と考えられます。
社会的に弱い立場の人を受け入れたとき
人の嫌がる仕事を喜んで引き受けたとき
自分の罪を悔い改め心から神に祈るとき
他者のために自分を犠牲にして働くとき
家族友人と心を一つに神を賛美するとき
そのとき、それがイエス様が生まれた「今日」となり、
救いが訪れる「今日」、イエス様とともに楽園にいる「今日」となりえるのです。
『われらの日用の糧を、こんにちわれらに与えたまえ』
マタイ6・11では「今日与えてください」、
ルカ11・3では「毎日与えてください」となっています。
マタイ福音書では、きょう一日神の恵みによって生きるという幸せを願い求めており、
ルカ福音書では、神の恵みが永遠に続くことを願い求められていると理解できるそうです。
パパ様は先週の一般謁見で、山上の垂訓に関するお話しをされました。
「メッセージは弟子たちに対するものであったが、その背後には群衆の姿があったように、
これはすなわち全人類に向けたものであった。」
弟子たちに向けて教えられたその2000年前のある日は、
全世界のわたしたちに向けて語られた現代のある日でもあるのです。
事実、その教えは、聖書を開いて読んだその日、そのときにわたしたちに語りかけてきませんか?
朝起きて一番に祈るとき
「今日も一日よろしくお願いします」と唱えます。
寝る前に祈るとき
「今日も一日ありがとうございました」とつぶやきます。
わたしたちの人生は「今日」という日の積み重ねであり、明日が与えられる保証はありません。
今日、わたしたちのところにイエス様がお生まれになりますように。
今日、救いが訪れますように。
今日、楽園にいるお恵みが与えられますように。
ある、主日のミサ
昨年、教皇フランシスコ様が新しく制定された「神のみことばの主日」は
典礼歴「年間第3主日」、つまり1/26でした。
昨年の聖ヒエロニモ(ヒエロニムス)の日にパパ様は
『聖書を知らぬことは、キリストを知らぬこと』という彼の言葉を引用し、
みことばに捧げた日曜日が、神の民に聖書に対する宗教的で熱心な親しみを育むことを願って、この新しい典礼歴を発表されました。
毎週の主日のミサの一時間余りの時間に、わたしたちは多くの聖書のみことばにふれています。
26日のごミサの集会祈願がとても美しいと感じ、ここに記しておきたいと思いました。
天の父よ、冬の寒さのなか、あなたを賛美するためにわたしたちは集まりました。
きょうも御子キリストは、神の国の福音をわたしたちに語りかけてくださいます。
わたしたちの集いがあなたの光を受けて輝き、世界のやみを照らすものとなりますように。
イザヤ書9・1
闇の中を歩んでいた民は、大いなる光を見た。
暗闇の地に住んでいた者の上に、光が輝いた。
闇があるから、光が美しいのです。
わたしたちの日々に、さまざまな困難が与えられているから、
より強く神様のことばに耳を澄ませることができるのです。
詩編27・4
わたしは主に一つのことを願う。
わたしは一つのことを請い求める。
命あるかぎり、日ごとに主の家に住み、
主の麗しさを仰ぎ見、神殿の中で暁に目覚めたい。
1コリント1・17
キリストがわたしをお遣わしになったのは、洗礼を授けるためではなく、
福音を宣べ伝えるためでした。
それも、キリストの十字架が無意味なものとならないように、
知恵に溢れた雄弁に頼らずに伝えるためでした。
わたしたちは、福音を周囲に宣べ伝えているでしょうか、その行いを通して。
マタイ4・17
この時から、「悔い改めよ。天の国は近づいた」とイエスは宣べ伝え始められた。
ミサの司式をしてくださった青木神父様がおっしゃいました。
「神様のわたしたちへの働きかけ、神様の愛に気づくことが、悔い改めるということです。」
マタイ4・23
イエスはガリラヤ全土を巡り、会堂で教え、天の国の福音を宣べ伝え、民のすべての患いや病気を癒された。
人々の軛をともに背負い、患いや病気を抱えている人々と心を一つにして歩んで行かれたイエス様のお姿が、ガリラヤ湖の景色とともに目に浮かんできます。
青木神父様は、こうもおっしゃいました。
「日曜日のミサの聖書のことばを日曜だけのものにせず、
聖書を日々の生活に、つまり信仰の旅路にあてはめながら大切にしてください。」
天の父よ、あなたはわたしのうちに、いのちと力をおくってくださいました。
わたしたちがこの力に生かされて、
新しい一週間をあなたとともに歩むことができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
今日のこの記事を、教会から遠ざかっている方、
事情がありなかなかミサに参列できない方、
教会に来る勇気がまだ持てない方、
みなさんに捧げます。
誰に、どう祈るか。
「祈る」という行為は、とくに「こうあるべき」というスタイルの定義はなく、
自然に、いつでも、どこででも、心を神様に明け渡して静かに耳を澄ます。
わたしは、そういう風に祈っていた母の姿と、
代母をしてくださったシスターからの教えで、
これまでずっとそう考えています。
お御堂で、一人静かに祈りを捧げる人の姿は本当に美しいと思います。
パパ様は現代の教皇様らしく、さまざまな形でわたしたちにメッセージを発信されています。
もちろん、側近のどなたかが担当されているのでしょうが、
ツイッターとインスタグラムを活用して、わたしたちに毎日、そのお姿とお考え、祈りについて教えてくださいます。
このお姿、美しいと思いませんか?!
The Lord has so much compassion,He involves Himself in our problems.
Let us often repeat this simple prayer: Lord,I am a sinner,have mercy on me,have compassion for me.
主はとてもいつくしみ深いかたなので、わたしたちが抱える問題に関わってくださいます。
ですから、次の簡単な祈りを、何度も繰り返し唱えましょう。
「主よ、罪深いわたしをあわれみ、いつくしんでください」
In worship, we make it possible for the Lord to transform us by His love, to kindle light amid our darkness, to grant us strength in weakness and courage amid trials.
賛美の祈りをささげることで、主の愛によって、わたしたちは変えられていきます。
私たちが直面する暗闇の中に光を灯し、弱さの中に力を与え、
そして苦難の中に勇気を与えてくださるからです。
「願い事」と「祈り」は別物であると同時に、
わたしたちが一般的な祈りとして、神様に「お願い」をするのはごく普通のことです。
願い事をするための「祈り」という言葉は、ラテン語のPRECARIA(願い)に由来するもので、
神に語り掛けるORATIO(祈祷)とは別に、12世紀のヨーロッパで「願い事としての祈り」として広まったと言われています。
「畏れ敬うべき神」への祈りではなく、ひたすら救いを求めてすがる対象としてのマリア様への祈りが一般的になったからだそうです。
確かに、神様には感謝の祈りをし、マリア様には「お願いします」とつい甘えてしまいます。
パパ様ツイッターに、その正解を見つけました!
Worship means going to Jesus without a list of petitions, but with one request alone: to abide with Him.
In worship, we allow Jesus to heal and change us.
賛美の祈りとは、多くの願い事を持たず、ただ「主とともにいたい」と願って、イエスのもとへ行くことです。
そして、賛美の祈りをささげるなかで、イエスにわたしたちをいやし、変えていただくことなのです。
心に刻んでおきたい、神様への祈り方です。
それは、誰のためか。
久留米教会では、毎月第2日曜日のごミサで手話通訳がなされています。
前任の森山信三神父様が始められた取り組みで、そのお考えに共鳴した信徒によって、もう4年以上続けられています。
あなたは祈る時は、奥の部屋に入って戸を閉め、
隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。
そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いてくださる。
マタイ6・6
竹下節子さんの新書に書かれていました。
彼女が昔、初めて日本の愛徳姉妹会のシスターに会ったときに驚いたことがあるそうです。
シスターたちの視線や関心が、「ご出現」や「奇跡」にではなくて、
彼女らが世話をする子どもたちやお年寄り、訪問する病院や支援を必要とする人々にばかり向けられていることに驚いた。
彼女たちからあふれる幸せオーラの秘密は、いわゆる生産性も承認要求も関係のないところでの、
「見返り」を求めない奉仕の生活にあるらしかった。
いや、「見返り」どころか、先に無償で与えられている何かを分かち合う歓びが、彼女らの「奉仕」だった。
竹下さんが出会ったシスター方は、隠れた行いをご覧になる父からの「報い」すら求めてはいない、のではないでしょうか。
毎月、ごミサを手話通訳してくださっている方々にお話を聞きました。
「誰のために手話通訳をされていますか?」
「森山神父様から手話通訳ミサの理念を初めて伺ったとき、その趣旨に賛同しました。
通訳を必要としている人がいるから行うのではなく、
久留米の教会に行けば手話通訳ミサがある、という開かれた場を作りたい、というお考えでした。
それでも、時には自己満足にならないようにしなければ、というジレンマを感じることもありました。
必要としている人は久留米の信徒には誰もいないのに、と言う声があったのも事実です。
それでもこうして続けてきて、最近では、久留米教会外から数名の耳の不自由な信徒の方が来てくださるようになりました。
来ていただいたときは、特にその方のために心を込めて通訳しています。
ミサの後の手話の勉強会に参加してくださるようにもなりました。」
「できれば、毎週でも手話通訳ミサができるような体制になり、
近隣の教会からもっと多くの必要とされている方が来ていただけるようにしたいとも思っています。」
最初は「誰のために?」という葛藤を抱え、
次第に「誰かのために」、そして今では「もっと多くの方のために」と気持ちが高まってこられているのを感じ、同じ久留米教会の信徒として誇らしく思いました。
通訳をされている方々が、分かち合う歓びという「報い」をお感じになっている気がしました。
これをご覧になっている方で、周囲に手話通訳ミサを必要とされている方がいらっしゃれば、お伝えください。
久留米では毎月第2日曜にやってるよ!と。
新しく生まれる信仰
あけましておめでとうございます。
そして、主の公現の主日、おめでとうございます。
イザヤ書はわたしの好きな聖書です。
昨日の朗読は、60章1~6の美しい箇所が読まれました。
立ち上がれ、光を放て。
まことに、お前の光がやって来る。
主の栄光がお前の上に輝き上る。
まことに、見よ、
闇が地を、暗黒が諸国の民を覆うが、
お前の上には主が輝き上り、
その栄光がお前の上に現れる。
らくだの大群、
ミディアンとエファの若いらくだが、
お前の町を埋め尽くす。
これらはみなシェバから来て、
黄金と乳香を携え、
主に対する賛美を公に告げる。
ボッティチェリ「東方三博士の礼拝」
神の栄光がキリストにおいて現れ、
すべての人におよぶ救いの光が輝きはじめていることを賛美する公現の祭日(エピファニア)は、
4世紀以来ずっと教会で大切にされてきた日なのだそうです。
昨年はどのような年だったでしょうか。
今年はどのような一年にしたいとお考えでしょうか。
「立ち上がれ、光を放て」
主の栄光を受けているわたしたち信徒の役割は、
周囲に光を放つことではないか、とわたしは以前から考えていました。
子どもが親や周囲の大人の言動に影響を受けるように、
わたしたちも、自分の周囲にいる人々に良い影響を、
信仰によって得たお恵みを与える存在であることが必要ではないでしょうか。
わたしはこの福音のための奉仕者となりました。
神が、その力の働きかけによって、わたしに与えてくださった
恵みとしての賜物に則してのことです。
聖なる人々のうちで最も小さな者であるこのわたしに、
このような恵みが与えられました。
すなわち、キリストの測り知れない豊かさを福音として異邦人に告げ知らせ、
また、すべてのものを造られた神のうちに永遠の昔から秘められてきた神秘が、
実現するというのはどういうことであるかを、
すべての人々に明らかにするという恵みです。
エフェソ3・7~9
常々、宮﨑神父様がおっしゃるように、もっと聖書に親しむことも必要なことだと思います。
聖書には全てのこと、人生に必要なことは全部書いてあります。
2020年という新しい年が始まりました。
信仰を新たに生まれ変わらせるチャンスです。
去年出来なかったことを実行するチャンスです。
教会から遠ざかってしまっているとしたら、
月に一度だけでもごミサに与ろうと決意するチャンスです。
日曜日、ごミサから帰ったら、その日の朗読の個所を聖書を開いて読み返す、
という良い習慣を身に着けるチャンスです。
今年も素晴らしい一年にしましょう。
召命を生きるために
今年のクリスマスのごミサも、大変多くの参列がありました。
今年も2回とも、外まであふれるほどの人でした。
「普段はなかなか行けないけど、ご復活とクリスマスのミサだけは行く」という信者さんも多いかと思います。
そして、ご復活と違ってクリスマスのミサには、信者ではない方もイルミネーションや教会の温かい雰囲気に引き寄せられるように集まってきてくださいます。
使徒的勧告「喜びに喜べ」を久しぶりに読み返してみました。
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聖霊からもたらされたものなのか、この世の考えや悪魔の霊に由来するものなのかを、
どのように知るのでしょうか。
唯一の方法が、識別です。
これは、理性的判断や良識といったよい働きの能力を指すだけでなく、
願い求めなければならないたまものでもあります。
信頼をもって聖霊に願い求めつつ、
祈りと黙想と読書とよい助言によってその力を養うよう努めるならば、
わたしたちは確実にこの霊的な能力を伸ばすことができるでしょう。
以前にも書きましたが、パパ様の「キリストは生きている」に書かれていた一文も再度ご紹介します。
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「召命」という語は、神からの呼びかけとして、幅広い意味で解しうるものです。
それは、命への招きも、ご自分との友情への招きも、聖性への招きも含む、さまざまなものを意味します。
これは貴重なものです。
わたしたちの生涯全体を、わたしたちを愛してくださる神の真正面に据え、
意味のない混沌の産物であるものなど何もないこと、
すべてのものが、わたしたちのために素晴らしい計画を用意してくださる
主にこたえる道へと組み込まれているはずであると、
わたしたちに理解させてくれるからです。
◆自分に与えられている召命を識別すること。
◆意味のない神様からのメッセージはないこと。
この2つは、今年の私の指針でした。
そして、これからも。
みなさまにとって、今年はどのような一年だったでしょうか。
祈り、黙想し、本を読み、周りにいる先輩や師と仰ぐ方からの助言を得られたでしょうか。
家族や友人と信仰に関する話をし、先祖たちの信仰に思いを馳せ、十字架の道行きを杖を突いて歩き切り、週末には聖書を開き、与えられた役割に喜びを見出す。
わたしにとってはそのような、恵まれた一年でした。
来る2020年も、今年のようでありますように。
あなたの上に、平安がありますように。
あなたとあなたの家、あなたのすべてのものに平和がありますように。
サムエル上25・6
わたしたちの「メシア」
クリスマス、おめでとうございます。
日本語では「厩」もしくは「馬小屋」を表現することが多いようですが、
イエス様がお生まれになったのは家畜小屋です。
一方、正教会では洞窟と伝承されていて、イコンにも洞窟の場面が描かれています。
新約外典『ヤコブ原福音書』には洞窟で産まれたと書いてあるそうです。
イエス様のご降誕の情景は、カトリック教会やその影響の強い国々では人形で再現します。
イタリア語のプレゼピオ(Presepio)は飼い葉桶を意味します。
我が家のプレゼピオです。
「メシアとは何ですか?」と、ある神父様に質問されました。
「救い主です」と答えたら、「誰がそう言ったのですか、聖書になんと書いてありますか?」と。
ヘブライ語のメシアに相当するギリシャ語がクリストス、日本語ではキリストと表記し、
イエス様をメシアとして認めた呼び方がイエス・キリストということになります。
英語ではセイバー(Savior)、スター・ウォーズのライトセイバーも語源は救世主なのかも?!
イエス様の死後も、現代にいたるまでユダヤ教ではメシアはまだ現れていないと考えられていますし、
メシアの再臨だと自称した人は実際に数多くいるようです。
イエス様は自分のことをメシアだ、神の子だ、とは名乗っていません。
そして、弟子たちも「神の子キリスト」としての認識はなかったのです。
当時のユダヤ人にとってのメシア(キリスト)とは何者だったのでしょう。
そこでイエスがお尋ねになった。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
マルコ8・29
この時、ペトロはイエス様を「神の子」、あるいは必ずしも「神」であると言ったのではないとも考えられます。
ローマからの圧政から解放してくれる救い主を待ち望んでいた当時のユダヤ人にとってのメシアは、文字通り「救い主」であり、油注がれた王として神が選ばれた存在であったのです。
デューラーの「東方三博士の礼拝」という作品です。
イエスが、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、
東方の博士たちがエルサレムに来て、尋ねた、
「お生まれになったユダヤ人の王は、どこにおられますか。」
マタイ2・1~2
ユダヤ人のメシア観がよく表されているのが、詩編72です。
神よ、あなたの裁きの力を王に、あなたの義を王の子にお与えください。
王が義をもって、あなたの民を治め、
公平をもって哀れなもののために取り計らいますように。
彼は太陽のように末永く、月のように代々生き永らえる。
マタイによる福音書には、「主よ、ダビデの子よ」という表現で人々がイエス様に呼びかける場面が度々書かれています。
これは、イエス様をダビデの子孫として生まれたとして書き始められたマタイにおいて、「ダビデの子孫であるメシアよ」という意味です。
苦悩のうちにある人々とともにおられる旧約の理想的な王、まさに「インマヌエル、我らとともにおられる方」の実現なのです。
ピラトのもとで「お前はユダヤ人の王か」と聞かれたとき、イエス様は
「それは、あなたが言っていることである。」と答えます。
十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫び、息絶えたとき、
百人隊長がこうつぶやくのです。
百人隊長と、彼とともにイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れて言った、
「まことに、この人は神の子であった。」
マタイ27・54
百人隊長はこの出来事を見て、神を賛美して言った、
「まことに、この方は正しい人だった。」
ルカ23・47
イエス様を「神の子であった」と初めて認識したは、他でもない、ローマ人だったのです。
御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
聖なる霊によれば、死者の復活の時から、力ある、神の子として立てられました。
これがわたしたちの主イエス・キリストです。
ローマの人々への手紙1・3~4
マタイとルカ、イエス様の誕生物語が書かれている2つの福音書では、
イエス様は「神の子」としてお生まれになったと言うことを強調するために、ご生誕のシーンが感動的に表現されています。
さあ、いよいよクリスマスです。
2020年前にお生まれになったイエス様が、生まれながらに神であったか、ご復活後に神となられたか、いずれにせよ、わたしたちが信仰しているのは、その教えです。
ともに、お祝いしましょう。
カトリックと女性たち
久留米教会の、わたしの一番好きな光景です。
ミサの後、気持ち良い陽射しの下、年代も国籍も様々な信徒がこうしてコーヒーや温かいスープを片手におしゃべりして笑い、交流し。
ベトナムのみんなも、彼らの飾り付けのお手入れに余念がありません!
昨年、ハリウッドの世界で盛り上がりを見せた運動に、#meetooというものがありました。
女性であるがゆえに軽んじられてきた地位の向上や、
セクハラによる被害を訴えていく活動をハリウッドの有名女優たちが行ったことで、
とても大きく取り上げられました。
先週の報道では、「サウジアラビア政府は、レストランなどに設けられている男女別の入り口を撤廃すると発表」とありましたし、エルサレムでは神殿の西の壁(ユダヤ教徒の祈りの場)では壁は男女別に祈るよう分けられていました。
このように、宗教の世界では、男女の区別(差別ではなく)が色濃く残っている現実があります。
歴史を振り帰ってみると、イエス様のお墓を最初に訪問して、遺体がなくなっているのを発見したのが女性だった ように、
目を引く、女性が成し遂げた活躍や転換点があったと思います。
ルイーザ・ロルダン作
The Entombment of Christ(「キリストの埋葬」一部)
また、ローマ帝国の皇帝があれほど迫害していたキリスト教を結局認め、
ローマ帝国の国教にまで格上げしたのはなぜか。
その理由の大きなひとつとして考えられるのが、
皇帝の母親や妻たちの存在であったと言われています。
コンスタンティヌス帝の母ヘレナ
313年に皇帝コンスタンティヌス1世がキリスト教を公認しました。
母ヘレナが320年ごろにエルサレムを巡礼し、イエス様の処刑に使われた十字架や釘を発見したことで聖墳墓教会が建てられた、と言われています。
長い伝統と既成宗教によって、イエス様の生きた時代から先もずっと、当時の女性たちはとても抑圧されていました。
ですが、初期のキリスト教(といっても宗教としてではなく、イエス・キリストの教えそのもの)は、
規制や戒律といった堅苦しい義務を語らず、
「夫が妻を離縁する」などという一方通行の男女関係はありえない、とまで言いました。
女性に支持されたのは当然でしょう。
バチカンでも、女性の活躍がめざましいようです。
首長も政府の首脳も全員がカトリックの聖職者(=独身男性)のみ、という特異な国、バチカン市国。
2014年の統計では、バチカンの公務員として働く一般女性は全体の19%を占めています。
修道女の場合でも、観想型修道会のシスターと違い、世界中をまわるアクティブな修道会のメンバーが多いそうです。
実際に、各国政府の招聘するさまざまなテーマの国際会議にバチカン代表として出席するシスターもいらっしゃるのです。
1983年には、一般信者が男女の区別なくバチカンの職員になれることが、
教会法の中に正式に書き加えられました。
わたしたちにとって一番身近な教会共同体を取ってみても、女性(おばさま方!)の活動なしには語れません。
これは、どこの教会でも異論のないところでしょう。
昨日の女性の会のバザーも大盛況でした。
久留米教会も、素敵なおばさま方が精力的に様々な役割を引き受けてくださっています。
プレゼピオの意味と価値
久留米教会のナティビティセットの飾りつけが始まりました。
御降誕の場面が再現されています。
今年は聖家族のご像、プレゼピオを新しくしました。
本当の「貧しい厩」を再現してほしい、という宮﨑神父様のリクエストで、今年はとにかく「シンプル」にしてみました。
教皇フランシスコは待降節の始まりに、プレゼピオの意味と価値をめぐる使徒的書簡
「アドミラビレ・シニュム」を発表されました。
プレゼピオ発祥の地、1223年の降誕祭にアッシジの聖フランシスコが
幼子イエス降誕を観想するための馬小屋を初めて再現したと言われている
イタリア中部グレッチョで、この書簡に署名されました。
「キリスト者たちにこれほどにも親しまれる、プレゼピオの素晴らしいしるしが、
常に驚きと感嘆を呼び覚しますように」
という言葉で始まっています。
「イエスの降誕の出来事を表現することは、
神の御子の受肉の神秘を単純さと喜びを持って告げることに等しい。」
プレゼピオを準備し飾ることを、福音宣教の行為として示されました。
「プレゼピオは、わたしたちの小ささまでに身を低くされ、
貧しい者となられた神の優しさを表すがゆえに、わたしたちに驚きと感動を起こさせる。」
教皇は、プレゼピオに見られるさまざまなしるし、
たとえば、わたしたちの人生の苦しみの闇を象徴する夜の沈黙や暗さの中に、
光をもたらす星の存在に触れています。
プレゼピオは信仰の伝達における甘美で必要とされるプロセス、と述べつつ、
「重要なのは、毎年どのように飾り付けるかではなく、
それがわたしたちに対する神の愛をいかに語りかけるかにある。」
と強調されました。
厩、羊飼い、博士たち、そして天使、ヨセフ様とマリア様を取り囲むように、
いろいろな飾りが準備されて全体でナティビティ(御降誕の再現)となります。
みなさんも、ご家庭に飾られますか?
久留米教会では、台座などの大物をヨセフ会の男性陣が設置し、
細かな飾りつけは若い信徒が担当します。(含む:わたし)
今年はベトナムのみんなが手伝ってくれました。
(実際の厩は藁ぶき屋根ではないと思うのですが、
ベトナムの男子たちが楽しそうに藁ぶき屋根を作っていたので、良しとしてください!)
まだ完成ではありません!
東方からの博士たちも、小屋の裏で待機中ですし、なにより、イエス様はまだお生まれになっていません。
豊かな緑の芝生のような大地の上の小屋、これは変更の余地が大いにあります。
そしてさらに、今年はなにやら大掛かりな飾りつけがベトナムコミュニティのみんなによって進んでいました!
楽しみです!
彼らは本当に手先が器用で、この岩屋のセットも竹で編んで作っていました。
ライトアップも美しい季節です。