行事風景
お恵みを受け取る
もう2週間以上も体調がすぐれず、風邪やコロナでもなく、黄砂と花粉が原因と思われる、むせかえる咳に悩まされています。
聖書を開いて今週の記事を書く、という気持ちの余裕がありませんでした。
それでも、毎日の小さなお恵みを見逃さずにノートに書き留める習慣は、忘れずに続けていました。
「主に感謝せよ、主は恵み深く、その慈しみは永遠」。
主に贖われた者は言え。
主は彼らに敵対する者の手から贖い、もろもろの国から、東と西、北と南の海から集められた。
彼らが悩みのあまり主に叫ぶと、主は彼らを苦しみから救い出された。
主はまっすぐな道に彼らを導き、人の住む町にたどりつかせた。
主の慈しみと、人の子らへの不思議な業に感謝せよ。
主は渇ききった魂を満ち足らせ、飢えた魂を善いもので満たされた。
(詩編107・1〜9)
お恵みノートは、20年近く続けている、わたしの習慣です。
お恵み=良かったこと、嬉しかったこと、幸せを感じたこと、思いがけない喜び、など、1日にひとつもなかったことはありません。
そんなことがお恵み?と思われるかもしれませんが、小さな喜びや幸せを受け取ると、「神様、ママ、ありがとうございます」と思わず呟くのも、わたしの長年の習慣なのです。
先日書いた、職場でのストレスの原因の人が、「お昼に食べて」とたこ焼きを買ってきてくれました。
(さすがにわたしへの態度が悪かったことを反省したのか!?)
洗濯機が壊れ、新しいのを買うしかない、と家電店に行ったら、「もったいないので修理したほうがいい」と思いがけない提案をされ、年度末の繁忙期にも関わらず迅速に対応してもらえました。
体調を崩していることを知った教会の方が、栄養ドリンクとケーキを届けてくれました。
別の教会の方も、「道の駅であなたが好きなお野菜(セリ!!)見つけたから」と色々なお野菜を買ってきてくれました。
こうしたわたしなりのお恵みを見逃さずに受け取ることで、心のキャパシティのうちの不安・悲しみ・寂しさが占める割合を減らすようにしています。
弱った手を強くし、
ふらつく膝をしっかりさせよ。
心に不安を抱く者たちに言え、
「強くあれ、恐れるな。
見よ、お前たちの神を。
神の報いが来る。
ご自身が来られ、お前たちを救ってくださる」。
(イザヤ35・3〜4)
体調がすぐれないと、どうしても気持ちまで落ち込んでしまいます。
自信をなくし、心に占める不安や心配事の割合が大きくなるのを感じます。
それでも、神様が毎日の暮らしの中にもお恵みを与えてくださっていることを感じることができる、それ自体がお恵みだと思えると、元気が出るのです。
教皇様の体調が心配です。
教皇様は、回心し、悔い改め、神のいつくしみを受け入れるべき時であるこの四旬節に、自分たち自身がまず何よりも神のゆるしの対象であることを忘れないように、と指摘されています。
宮﨑神父様がお説教でおっしゃいました。
「赦してもらうのだから、自分も人を赦さなければなりません。
隣人を赦して受け入れること、放蕩息子のたとえの“兄の心“を持たないこと。
特にこの四旬節は心がけてください。」
自分が日々受け取っているお恵み、神様がわたしたちの日々の罪をも赦してくださるというお恵みを、もっと深く噛み締めたいと思います。
信仰を噛みしめる
わたしは、33年前の御復活祭に受洗しました。
今年が33回目の四旬節です。
その年の3月22日に、まだ桜の便りはなかったような気がします。
33年前、久留米教会での御復活祭の写真です。
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先週の来住神父様のnoteには、こう書いてありました。
「私が洗礼を受けたのは1981年です。
今年が43回目の四旬節です。
43年のうちに、良くも悪くも平穏であろうと思っていた人生が意外に難しいとわかって来ました。」
来住神父様は、洗礼を受けていたから、聖書を読んでいたから、自分に降りかかった苦しみの意味を考えざるを得なかった、とおっしゃっています。
受洗を控えた方が、「まだ悩んでいる」「疑問がたくさんある」「心が定まっていない」、といったことをおっしゃるのを聞いたことがあります。
わたしが洗礼を受けた時、受洗への迷い、信仰・聖書への疑問など、持ち合わせるほどに考えもしていませんでした。
周囲から、「あなたは神様の子だ」「インマヌエルだ」と何度も言われて(調子に乗り)、洗礼を受けることは「正式な信仰の始まり」のような気持ちでした。
来住神父様が書かれているように、わたしもこれまでの年月、人間として成長していく過程に信仰と聖書があったことは何よりの救いでした。
神様に「どうしてですか?」「どうしたらよいですか?」と訴えることができた、そう言える対象は、最高の相談相手でした。
主に信頼し、主を望みとする者は祝福される。
その人は水辺に植えられ、流れの方にその根を伸ばす木。
暑さが来ても恐れず、その葉は青々としている。
旱魃の年にも心配はなく、実を結ぶのをやめることはない。
心はあらゆるものに勝って偽るもの、たばかるもの。
誰がこれを究めえようか。
わたし、主が心を調べ、思いを吟味する。
各々をその振る舞いに応じて
その行いの実に応じて報いるために。
(エレミヤ17・7~10)
(アンダーラインの箇所、聖書教会共同訳の聖書では、「主である私が心を探り、思いを調べる。おのおのが歩んだ道、その業が結んだ実に応じて報いるためである」となっています。)
信頼して望みをかけることができるよりどころがある、それが信仰の醍醐味です。
しっかりと根をはり、葉を青く茂らせ、実を結ぶように、心と心の芯(はらわた)を強く整えてくださる神様。
憂いを和らげてくださる神様を信頼する以外に、人生に降りかかる様々な問題を解決する術を知りません。
とはいえ、わたしがちゃんと聖書を読むようになったのは、この15年ほどです。
信仰について噛みしめて核心を持てるようになったのは、この10年ほどです。
いつもここに偉そうなことを書いていますが、書きながら噛みしめることが、ここ数年のわたしの信仰の基盤になっているのです。
自分が今歩んでいる道が実を結ぶように、と心がけながら。
あなたの立てた決心を思い起こし、十字架上の救い主の面影を、常に自分の眼前に置きなさい。
イエス・キリストのご生涯を思うなら、大いに恥じるべきことがあるはずである。
なぜなら、あなたは長い間、神の道に入っていながら、未だに、イエスに自分を一致させようと、真剣に努力していないからである。
彼の聖なるご生涯とご受難とを、熱心に、注意深く黙想するキリスト者は、自分に有益で必要なものを、そこに多く見出すであろう。
イエスにまさる何かほかのものを探す必要はないはずである。
(「キリストに倣いて」 第1巻第25章6)
3/20長崎・浦上教会での司祭叙階式には、久留米教会からバスで34名が参列しました。
久留米で司牧実習をしてくださったホンさんの、晴れやかな、新しい出発の日でした。
来月の御復活祭で洗礼を受けることになっている方が、中村大司教から祝福をいただいた時に、「よくいらっしゃいました」と声をかけられたそうです。
「祝福が心に染み渡りました」と感激されていました。
わたしたちキリスト者には、このように、信仰を噛みしめる幸せな瞬間があります。
愛する者よ、あなたの魂が幸いであるのと同じように、万事において恵まれ、また、健やかであるようにと祈っています。
兄弟たちが来て、あなたが真理のうちに歩んでいることを証ししてくれたので、わたしは非常に喜んでいます。
事実、あなたは真理のうちに歩んでいます。
わたしにとって、子供たちが真理のうちに歩んでいると聞くことほどうれしいことはありません。
(3ヨハネ1・2~4)
この聖句は、友人がわたしの誕生日プレゼントに添えて送ってくれた箇所です。
こうして信仰の分かち合いができることも、幸せなお恵みです。
ストレスと向き合う
今年の四旬節にあたっての教皇様のメッセージ、この一文が目と心に留まりました。
「この四旬節、神がわたしたちに求めるのは、生活において、家庭で、職場で、小教区や諸共同体において、他者とともに歩めているか、その声に耳を傾けられているか、自己中心的になったり自分の必要だけを考えたりする誘惑に屈せずにいられているかということです。」
https://www.cbcj.catholic.jp/2025/02/28/31569/
皆さんは、どのようなことに、どのようなときにストレスを感じますか?
わたしは最近、いろいろなことにストレスを感じて疲れてしまっている気がしていましたので、ストレス度自己テスト、というのをネットで見つけてやってみました。
日常生活でのストレス、職場でのストレスの2つのパターンでテストしてみたのですが、「あなたは『軽度のストレス状況』(多少のストレスはあるが、大きな問題はない)にあるようです。」という結果でした。
ようは、自分で「自分はストレスを感じている」と思い込んでいるだけで、心とからだには大した不調はない、ということがよく分かったのです。
つまり、「自己中心的になったり自分の必要だけを考えたりする誘惑に屈していた」ということを自覚しました。
⚫︎人々を不安にするものは、事柄それ自体ではなく、その事柄に関する考え方である
⚫︎自分ではどうしようもない物事は軽視せよ
⚫︎自由に生きていくうえで重要なことは、自分がどのような人間かをしっかりと把握し、自分の強みに磨きをかけることだ(日々、内省すること)
古代ローマの奴隷出身のストア派哲学者、エピクテトスの残した格言です。
古代ローマの人々も、やはり人間関係や仕事のストレスを抱えていたと思われます。
⚫︎ストレスを感じているのは、自分の意に沿わないからなのではないか、と立ち止まって考えてみる
⚫︎夢に出るほど考えたところで、明日何かが変わるわけではない
⚫︎今日の自分の言動は本当にあれで良かったのかを毎晩反芻し、明日はよりよく過ごすこと
エピクテトスの言葉に沿ってみると、うまくストレスと向き合える気がしてきました。
主よ、わたしたちを思い起こし、この悩みの時、あなたご自身をお示しください。
わたしに勇気をお与えください。
すべての主権を統治する方、神々の王よ。
主よ、あなたの手をもってわたしたちをお救いください。
わたしをお助けください。
わたしはただ一人、わたしにはあなたのほかに誰も助け手はおりません。
すべてに勝って力ある神よ、絶望のうちにある者の声を聞き、悪を行う者の手からわたしたちをお救いください。
また恐れからわたしをお救いください。
(エステル記C 23,25,30)
ストレスを感じていると思う時は、神様への信頼が損なわれている時かもしれません。
わたしのストレスの多くは仕事に関することですが、いつも結局はこう自分に言い聞かせて落ち着くようにしています。
「母が感じていたストレスに比べたら、こんなことはちっぽけな悩みに過ぎない」
わたしたちは四方八方から苦しめられていますが、行き詰まりはしません。
途方に暮れますが、望みを失いはしません。
迫害されますが、見捨てられはしません。
打ち倒されますが、滅びはしません。
わたしたちは、いつもイエスの死に瀕した状態を体に帯びています。
それはまた、イエスの命がこの体に現れるためでもあります。
実に、わたしたちは生きていますが、イエスの故に絶えず死の危険にさらされています。
イエスの命が、わたしたちの死すべきこの身に現れるためです。
そこで、死がわたしたちの内に働いでいますが、命があなた方の内に働いていることになります。
(1コリント4・8〜12)
パウロが献身的に働いていた宣教活動において受けた苦しみは、そのことを通してイエス様の死が働き、自分自身と信徒たちにイエス様の命を現すための犠牲だったのです。
地下鉄サリン事件から30年です。
事件から25年後の2020年に最高裁で判決が確定し、オウム真理教の後継団体「アレフ」が支払い義務を負う賠償金約10億円が未だに支払われていないことをニュースで知りました。
東日本大震災から14年です。
福島原発の廃炉への工程が予定通りに進んでいないことも懸念されます。
物事の解決には、なんと時間がかかるのだろうかと痛感させられます。
30年前のテロの犠牲者のご家族、いまだ後遺症やトラウマに悩む方々。
帰還者が想定通りに戻らず、故郷の再生に不安を抱く地域の方々。
そのような方々の抱えるストレスを想像すると、日々のちっぽけなこと(目をつぶればいいこと、気にしなければいいこと)にストレスを感じたわたしが恥ずかしくなります。
今週のお恵みは、ストレスと向き合う方法をこうして神様と母がわたしに気づかせてくれたことでした。
無償の愛
曽野綾子さんが帰天されました。
20代前半、いろいろ悩んでいた時期に曽野さんの本を読み漁っていたのを思い出し、いまでも大切にとってあった『天上の青』を読み返しました。
ヘブンリーブル―という鮮やかな青い朝顔に引き寄せられて、ふと、雪子の家を訪問するようになった富士男。
彼は、適当に狙いを定めた女性や子どもを次々に、大した理由もなく(本人には明確な理由があるのですが)殺します。
それでも、ふらっと雪子の家に来ては、お茶を飲み、お菓子を食べながら素直な様子でおしゃべりをすることが唯一の救いのような楽しみでした。
そして、ある事件をきっかけに富士男は逮捕されます。
(以下、紫の太文字は本からの抜粋です)
「今、良識ある行動というのは、一切黙っていることであり、宇野富士男に関することは総て忘れることだということは、わかっている。しかしそう思う傍ら、雪子はそのような自分の判断に恐怖を抱いた。
その人は確かにこの世にいるのに、その人の存在が都合悪くなると、あたかもその人がいなかったように無視せよ、と言う。
それが良識、というものなのだろうか。
それが、正しい、人間的な行為なのだろうか。
聖書の中には、イエスと悪人との関係がいくつも明瞭に記されている。
それはともすれば溺れそうになる感情の深淵から這い上がった上での悲痛なまでに理性的な選択だった。」
そうして、雪子は留置所の富士男に手紙を書くのです。
「この手紙は、あなたの手に届くのかどうか、私は知りません。差し入れということができるとも聞きました。
私にできることがあったら致します。
あなたには私など必要ないかもしれません。
しかしもし、何かの事情で、ご家族にそういうことがおできにならないような状況になった時は、私がしましょう。
あなたが、私の身内でしたらこう言うだろうと思います。
今いる所と時間を、どこであろうといつであろうと、自分を育てるために使ってください、と。
あなたが、ご自分を失われないことを祈っております」
どうしたらこのような気持ちになれるのだろうか、と初めて読んだ時は理解できませんでした。
さらに、雪子は富士男のために弁護士を見つけて費用を負担しようとします。
相談に行った教会の司祭からも、ごく普通に考えても死刑になる可能性が大きい人のために、なぜかなりの額のお金を払うのか、あなたの気持ちが何のためなのですか、と問いかけられます。
雪子の答えはこうです。
「同じ死刑になるのでも、それまでが、大切だと思うんです。
見捨てられて死ぬのではいけないんです、誰でも。」
雪子は帰り道、「あなたと神の間になにがあるか、ということだから」としか言ってくれなかった司祭のことを「何も進路を教えてくれなかった」と考えていました。
少し考えてから、司祭の深い配慮を感じるようになります。
余計な指示は出さずに、だたよく祈って決めるように、と背中を押してくれていたのだと。
こうしてずいぶん時間を置いて読み返してみて、最初は理解できなかった雪子の気持ちがすーっと心に入ってきたことに驚きました。
富士男は、いびつな愛情を雪子に抱いていますが、雪子は恋愛感情も明確な友情も感じているわけではありません。
20代のわたしには分からなかった、真の無償の愛を持って、最後まで富士男と誠実に向き合う様子に涙がこぼれます。
聡明な愛は、愛する相手の贈り物よりも、むしろ贈る者の愛を重んじる。
彼は価よりもむしろ愛情に注目し、愛する者の次に贈り物を置く。
崇高な愛をもつ人は、受けた贈り物に満足せず、あらゆる贈り物にまさって、神であるわたしに満足する。
(「キリストを生きる」第3巻 第6章 2)
ネタバレをしますが、留置所の富士男との文通の中で、彼は「たった一言答えを聞かせてほしい。愛していてくれるなら、控訴しない」と書いてよこします。
それに対し、雪子は「同じ時に生まれ合わせて、偶然あなたを知り、私はあなたの存在を悲しみつつ、深く愛しました」と返事を書くのです。
1994年にNHKでドラマ化されました。
雪子は桃井かおりさん、富士男は佐藤浩一さんです。
最後の「愛している」の重要なシーンで、ドラマでは「愛していません」と雪子は返信したのです。
インタビューで桃井かおりさんが、「聴衆を信じようよ、と監督と話し合い、原作・脚本と違うように変えた」とおっしゃっていました。
(このインタビューは衝撃だったので、よく覚えています)
当時は、桃井さんの考えも深くは理解できませんでした。
そして、愛とは親子の愛と恋愛のことだ、と思っていました。
色々な経験を積み重ね、信仰についても自問自答しながら生きてきた今、はっきりと無償の愛とはそういうものなのだと、今回読み返してみて素直に思えたことは、新たな発見でもありました。
・・・・・・・・・・・・
9日のミサでは、御復活祭で洗礼を受ける2名の方の洗礼志願式が行われました。
今年の四旬節は、教皇様のご病気への心配が拭えないままにスタートしましたので、とても嬉しいミサとなりました。
この道を歩む
フランシスコ教皇の病状について、先週は「午前中は治療を受けられ、午後は個室に付属した礼拝堂で祈り、聖体を拝領された。そして仕事上の作業に専念された。」という表現が続いていましたが、週末には人工呼吸器を装着されるまでに病状が進行しました。
山火事が広範囲で発生した岩手県大船渡市だけでなく、山梨県大月市、静岡県函南町でも山で火災が起き、甚大な被害が広がっています。
教皇様のためには「苦しみを少しでも早く取り除いてください」、山火事のことについては「地域の人々の不安を少しでも早く取り除いてください」と祈り続けています。
祈りの力を信じたい。
・・・・・・・・・・・・・
わたしとてみなと同じく死すべき者である。
土で形づくられた最初の人の子孫であり生まれ出で、同じ空気を吸い、同じ土の上に生み落とされ、みなと同じ産声をあげ、産着と心遣いに包まれて育てられた。
王の中でも、これと異なる出生の初めをもつ者はいない。
すべての人にとって命への入り口は一つであり、出口もただ一つである。
(知恵の書7・1〜6)
知恵の書は、紀元前2世紀ごろにエジプトで書かれた書である、とされています。
ユダヤ教徒、キリスト教のプロテスタントでは正典とは見なされていませんが、カトリックでは典礼にもたびたび用いられ、大切にされています。
「同じ土の上に生み落とされ」とは、誰が生まれ落ちても土のほうでは同じように感じる、という意味だとフランシスコ会訳聖書の注釈に書いてあります。
同じような産声をあげ、産着を着せられ、親だけでなく祖父母や兄妹などの心遣いに包まれて育つ子どもは、生まれた時はみな愛され、幸せな存在であってほしい。
そう、強く思います。
先日の教会委員会で「子どもたちが教会に来るようにするにはどうしたらよいか」という議題がありました。
結論は一つです。
家族が連れてくるしかないのです。
成人洗礼の信者は自らの意思で教会に行きますが、幼児洗礼の子どもたちの信仰は、ある程度の年齢までは親(家族)が導かなければならない、それは義務とも言えるのではないでしょうか。
アレクサンドリア生まれのアポロというユダヤ人が、エフェソにやって来た。
彼は雄弁家で、聖書に精通していた。この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことについて詳しく語り、かつ教えていた。
このアポロは、会堂で、大胆に語り始めた。それを聞いていたプリスキラとアキラは、彼を招き入れて、神の道をさらに正確に説明した。
アポロは神の恵みによってすでに信仰に入っていた人々の大きな助けとなった。
(使徒言行録18・24〜27)
アポロは、パウロの宣教を助けた大切な人物だと教わりました。
わたしたちがこの道、「主の道・神の道」=「キリスト教の信仰」を成熟させていくためには、助けてくれる人の存在が欠かせません。
わたしのために祈ってくれる人の存在、とも言えるでしょう。
「子どもたちが家族に連れられて教会に来てくれますように」という祈りは、なくてはならないものです。
昨日のごミサでは3人の男の子が侍者を務めてくれました。
侍者になりたい、と立候補してくれている子どもが数名いる、と聞いています。
ですが、ミサに与っている子どもの姿はほとんどありません。
しっかり腰を据え、またどっしり構え、絶えず主の業に励みなさい。
主と一致していれば自分の労苦は無駄ではないと、あなた方は知っているのですから。
(1コリント15・58)
先日、ある方が「教会に行くと信徒の皆さんがなんとなく微笑をたたえている、という姿がいい教会だと感じます」とおっしゃいました。
子どもたちにとっても、同じです。
主の道を歩む大人がその姿を見せること、良いものを入れた心の倉から良いものを出す(ルカ6・45)生き方をいつも心がけること。
子どもが来ない、と諦めずに、次世代の子どもたちのために教会=木の手入れの上手下手は実で分かる(シラ27・6)ことを肝に銘じ、手入れを怠らないようにしたいものです。
傲慢という自由
受験生の合格発表の様子をニュースで見ました。
姪はネットで発表を確認しているので、てっきりそれが主流かと思っていましたが、西南学院大学の発表はキャンパスの掲示板に合格者の番号が張り出されていました。
飛び上がったり泣いたりして喜びを表している受験生の姿、微笑ましくて。
わたしの合格発表は、郵送されるのが待ちきれなくて、東京にいる知人に大学まで見に行ってもらったことを思い出しました。
努力の成果を素直に喜べたあの頃が懐かしい。
毎日の聖書朗読の箇所、21日金曜日にはバベルの塔のくだりが読まれました。
この箇所は単に、人間の傲慢さと神の怒りが書かれている、と思っていました。
全地は同じ発音同じ言葉を用いていた。
東のほうから移り住んでいるうちに、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住みついた。
彼らは互いに言った、「さあ、煉瓦を造ってよく焼こう」。
彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。
(創世記11・1~3)
改めて、当時(紀元前3000年くらい?)の技術革新には驚きます。
フランシスコ会訳聖書の解説には、このように書かれています。
創世記の第一部は人類の起源を述べると同時に、人類に対する神の摂理を示している。
この型は歴史を通じて繰り返されることになる。
この型の循環は神から出る本来の善、人間から出る破滅的罪悪、神の善と慈悲による救いである。
この型は創世記全体を通じて展開され、イスラエル人がエジプトにおける奴隷の状態から解放される出エジプトの出来事の前置きともなっている。
第一部が現代的な意味において「歴史」として格付けられないことは確かであるが、神話でもないことも確かである。
主は人の子らが建てた町と塔を見るために降ってこられた。
そして主は仰せになった、「見よ、彼らはみな同じ言葉を持つ一つの民である。これは彼らの業の初めにすぎない。これからも彼らが行うと思うことで、成し遂げられないものはないであろう。さあ、われわれは降りていって、あそこで彼らの言葉を乱し、互いの言葉が分からなくなるようにしよう」。
(11・5~6)
「神から出る本来の善、人間から出る破滅的罪悪、神の善と慈悲による救い」という循環は歴史を通じて繰り返される、という解説には深く頷かされます。
善き者として造られた人間は自由意志で神に背き、罪を繰り返し、それでも見捨てない神、という循環です。
先日観に行った歌舞伎のストーリーは、簡単に書くと次のような感じです。
戦場で兵士の死体から金品を盗んで生計を立てていた主人公ライは、朧の森の精霊たちに「なんでも願いを叶えてやろう」と持ち掛けられます。
「王になりたい」というライに、「お前の命と引き換えに叶えてやる」と精霊たちが答え、ライは悪事の限りを尽くして王に上り詰めますが、、、。
人間の欲、傲慢さがこれでもか、と盛り込まれた演目です。
主人公は自分だけを信じていて、他者はあくまでも利用価値のある存在としてしか見ていません。
18歳の頃の自分には、傲慢さはなかったように思います。
神様に顔向けできないような罪も犯してはいませんでした。
信じられる対象(それは友人であり、カトリックの信仰であり)が次第に確立されていく過程、大人になるにしたがって少しづつ傲慢さを蓄えてしまったように感じています。
生活の知恵が増すに伴って、上へ上へと欲望を増していったバベルの人々のように。
人が信仰を持つようになるのは神様の働きかけによるものか、それとも人の自由意思によるものなのか、というキリスト教神学の「恩寵論」について、読んでいる本で知りました。
古代の教父たちは、神に似せて創られた人間の力を強調し、恩寵のみではなく、自由意志に基づく善の選択を説いています。
一方で、宗教改革をおこなったルターは「恩寵のみ」を力説し、人間の救済には神の働きしか作用しない、としました。
そしてトマス・アクィナスは、「恩寵と自由意志」がともに働くことで、神と人間の深い協働関係が構築されていくという立場でした。
トマスの研究で知られる山本芳久さんは、トマスの主張を次のように解説されています。
「人間が生まれつき固有に持っている『自然』だけでは、無限な幸福に対するあこがれは実現するのが難しい。
むしろ、実現する力は神の『恩寵』によって与えられる。
人間は幸福への憧れのようなもの、そして『恩寵』と協働する力ももともと持っているけれど、自分一人で実現するだけの力は持っていない。
信じられないほどの『恩寵』に参与させられることで、心底追い求めていたものが自らの思いを超えた仕方で現れ、実現する。」
歌舞伎の主人公ライは、自分のもともと持っていた能力しか信じておらず、神も仏も仲間すらも切り捨て、自分の命と引き換えに人生を上り詰めようとしました。
王になることこそが、自分にとっての最高の幸せだと信じて疑わなかったのです。
わたしたちキリスト者は、最高の幸せを求める信仰を生きています。
それは、究極には「永遠の命」のことですが、この世を生きる上での幸せは、神様からのお恵みという「恩寵」を絶えず受け取ることです。
傲慢なわたしをいつも見捨てず、「また!?」と思いながらも正しい方向へ導いてくださる神様の愛に、今日も甘えます。
進歩していく教会
書きたいことが溢れてきて、でも一旦落ち着かなければと思い適当に聖書を開いたら、この言葉が最初に目に留まりました。
「心を騒がせてはならない。
あなた方は神を信じなさい。
そして、わたしをも信じなさい」。
(ヨハネ14・1)
そして、昨日のごミサでは、宮﨑神父様の力強いお言葉にとても励まされました。
「わたしたちにとって、本当の幸せとは何か。
それは、神への信頼という信仰に満たされること。
つまり、諦めず、絶望しない生き方をすることです。」
この1週間は、心がざわざわする日々を過ごしていました。
人々の中に偏見や対立、旧態然とした考え方があることは、どの教会、いえ、どの組織にもあることなのかもしれません。
先日、歌舞伎を観に行きました。
歌舞伎といっても、演劇と融合した、全く新しいスタイルの演目です。
30年ほど前でしたでしょうか、テレビで、亡くなった勘三郎さんが息子たち(当時の勘太郎・七之助兄弟)に所作の指導をしているところを見たことがあります。
父から教わった後、勘太郎くんが「オッケーです!」と答えたところ、大きな張り手が飛んできました。
「古典芸能の稽古をしている時に、オッケーですとは何事か!!」と。
今回観に行った歌舞伎は、松本幸四郎さん(52歳)が座長です。
稽古風景の写真では、幸四郎さんは髪を赤く染め、歌舞伎役者の皆さんはジャージ姿でした。
インタビューで幸四郎さんが、「昔は役者が髪を染めたり、浴衣ではない姿で稽古をするなんて考えられなかった。歌舞伎界も柔軟になったなぁ、と思います。」とおっしゃっていました。
ユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。
安息日にこのようなことをしておられたからである。
ところが、イエスは彼らにお答えになった、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしもまた働く」。
このために、ユダヤ人たちはますますイエスを殺そうと狙うようになった。
イエスが安息日を破ったばかりでなく、神をご自分の父と呼んで、ご自分を神と等しいものとされたからである。
(ヨハネ5・16〜18)
イエス様は、当時は相当な異端児であったでしょう。
ユダヤ教徒の指導者たちが必死に守って、民衆にも厳しく教えてきたことを、簡単に破ったのです。
新しいもの、新しいやり方が必ずしも良いこととは限りません。
良いかどうかは、新しさにあるのではなく、柔軟な発想と行動力の中に現れるのではないでしょうか。
群衆の間では、イエスのことがいろいろと取りざたされていた。
「善い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言うものもいた。
しかし、ユダヤ人たちを恐れて、誰もイエスについて公然と話す者はいなかった。
(ヨハネ7・12〜13)
キリスト教という宗教、カトリック教会という組織は、2000年以上前に確立されたものではありません。
罪深い歴史も、多くの失敗もありながら、今なお進歩し続けていると感じます。
特に、フランシスコ教皇になってからの時代は(情報が誰でも簡単に手に入るようになり)、現代社会と向き合う姿勢が内部の反発を招く様子も見てとれます。
慎重でありながらも、内外の課題に目をつぶらず、時には世界政治を動かすほどの影響力を発揮される教皇様は、信仰面だけでなく、リーダーとしてわたしたちの手本ではないでしょうか。
他の教会のある年配の信徒の方とお話ししていたら、「教会のことをいろいろ一人でしていて大変だ。青年向けの事業をやっても、うちの教会には若者はいないので誰も参加できない。」とおっしゃいました。
確かに、高齢の信徒が多い教会なのかもしれません。
ですが、本当に、誰も後任がいないのでしょうか。
一人も若い信徒はいないのでしょうか。
変わることを拒絶しているだけかもしれない、と考えてみる必要はないでしょうか。
久留米教会では、長年、納骨堂の管理を一人の信徒(80代後半)に任せきりでした。
「誰か若い人に代わってもらいたい」とおっしゃり、何人かの方に依頼してみました。
先日、ようやく「やります」と言ってくれたのは、20代の女性2人でした。
本当に、とても嬉しい出来事でした。
わたしたち強い者は、強くない人たちの弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
わたしたち一人ひとりは、互いにキリスト者として造り上げられるのに役立つように、隣人を満足させるべきです。
忍耐と励ましの源である神が、あなた方に、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。
それは、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり父である方をたたえるためです。
(ローマ15・1〜2、5〜6)
失敗を恐れず、前に進むために、与えてもらった役割に責任を持つ。
教会のために、集うキリスト者のために、そして、自分自身のために働く。
そうしたことができるのは、聖霊が背中を押してくれているからなのだ、と強く再認識した1週間でした。
人間の本質
見なければいいのに、つい見てしまうのが「ネットニュース」と「SNS」
報道という言葉とは程遠い、質の低い(取材に基づかず、噂と想像と憶測とが入り混じっている)内容を見聞きするたびに、これは一種のいじめに近い気がするのです。
「いじめ」には、言葉、態度、精神的、暴力など、いろいろな種類があると定義されています。
判断基準は非常にシンプルで、「身体的・精神的にかかわらず、いじめられた本人が苦痛を伴うかどうか」です。
そして、被害者がいじめを受ける「きかっけ・動機」はあるものの、「原因」は見当たらない(少なくとも本人に心当たりはない)という特徴が、多くの場合に言えることです。
わたしも子どもの頃、心当たりなくいじめのようなことをされた経験があります。
いじめは、子どもの社会にだけある問題ではありません。
大人の社会のほうがむしろ、陰湿でしつこく、凶暴性を帯びているように思います。
イエス様の公生活は、苦難の日々だったと言えると思います。
ご自身が、「人々は理由もなく私を憎んだ」と言われています。
「これは一種のいじめ状態だったのだ」、とプロテスタントの牧師さんが書いておられるコラムがありました。
イエス様は「理由もなく憎まれ」、ユダヤ社会という閉塞集団の中で「いじめによる殺人」のような状況に追い詰められたのだ、そんな状況でも、イエス様が閉塞感や絶望感に蝕まれなかったのは、上の世界を見ておられたからなのだ、と。
わたしたちのように、目に見える世界に翻弄されることなく、この世界を創られた、神だけに目を向けておられたのです。
神よ、わたしを救ってください。
水はわたしの首にまで達しました。
わたしは泥の深みに沈み、そこには足を掛ける所もありません。
わたしは水の深みにはまり、渦に巻き込まれました。
わたしは叫び疲れ、喉は嗄れました。
わたしの神よ、目は待ちわびて衰えました。
故なくわたしを憎む者は髪の毛よりも多く、わたしを欺く者は頭の毛よりもおびただしい。
(詩編69・2〜5)
だまし打ちを仕掛ける敵を喜ばせず、故なくわたしを憎む者が、目くばせし合うことのないようにしてください。
彼らは平和を語らず、国のうちに穏やかに住む者を欺こうと企みます。
(詩編35・19〜20)
ほかの誰も行わなかったような業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らには罪はなかったであろう。
だが、今、彼らはその業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。
しかし、これは、『人々は理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれている言葉が成就するためである。
(ヨハネ15・24~25)
人を憎んだり恨んだりするのは、ある種、人間の本質的なものかもしれません。
ガザで起きている惨劇は、ジェノサイドです。
ハマスから奇襲攻撃を受けたイスラエルがガザ攻撃を激化させたのに伴って、欧州や北米、オーストラリアなどでイスラエルへの批判とともに、反ユダヤ主義の動きが目立つようになっています。
また、アメリカ大統領の「ガザを所有」「住民を全員他国に一時的に移住させる」といった、トンデモ発言が新たな火種となっています。
実行されることはないでしょうが、この発想自体がジェノサイドです。
わたしがあなたと争う時に、正しいのは、主よ、あなたです。
それでも公正について、わたしはあなたと話したい。
なぜ、悪人の道が栄え、不忠実の極みの者がみな、安穏としているのですか。
あなたが彼らを植えられ、彼らは根を張り、成長して実を結びます。
あなたは彼らの口には近いのですが、腹には遠いのです。
主よ、あなたがわたしを知り、わたしを見、わたしを試みられると、わたしの心があなたとともにあることがお分かりになります。
(エレミヤ12・1〜3)
アウシュビッツの解放から1/27で80年となり、各国の首脳を招いた式典が開かれました。
当時を語ることができるホロコーストの生存者が減り、記憶の継承が課題となる一方、若者の間ではSNSを通じて「否定論」(ホロコーストは実際にはなかった、という考え)が広がっているそうです。
現在でもフランス語やスペイン語の聖書で、「焼き尽くす捧げ物」がホロコーストと表記されているものもあります。
奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。
これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。
(レビ記1・9)
生存者の方の訴え、「人間は忘れる。だからわたしは何度も言う。二度と同じ悲劇を繰り返すなと」「憎しみは憎しみを生むと警告する義務がある」という言葉は、非常に重いものでした。
人を憎み、恨み、相手を傷つけ、そして報復する。
負の連鎖が繰り返される中で、祈りの力はどこまで立ち向かえるでしょうか。
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詩編13『痛みに耐えかねた人の祈り』
主よ、いつまでですか、とこしえにわたしをお忘れになるのですか。
いつまでみ顔をお隠しになるのですか。
いつまでわたしは魂を悩ませ、心に痛みを抱けばよいのですか。
いつまで敵がわたしについて勝ち誇るのですか。
わたしの神、主よ、わたしを顧みて、わたしに答え、目に光を与えて、死の眠りに就かせないでください。
「わたしは勝った」と敵に言わせず、わたしの倒れるのを見て、敵を喜ばせないでください。
わたしは、あなたの慈しみに寄り頼み、わたしの心は、あなたの救いを喜びます。
わたしは歌います、主に。
恵みを与えてくださった主に向かって。
閉ざされた信仰
中世のスペイン王国・ポルトガル王国で、ユダヤ人でユダヤ教からキリスト教に改宗した人々のことを、「コンベルソ」(新キリスト教徒)と言います。
イベリア半島(現在のスペイン)は、ヨーロッパの中で最もユダヤ人が住む地域でしたが、キリスト教国とイスラム教国のせめぎあいの中で翻弄され、レコンキスタの最中に即位したカトリックの国王の迫害を逃れるために、多くのユダヤ人がキリスト教に改宗しました。
そのような中、1478年にローマ教皇の許可を得てドミニコ修道会が異端審問制度を始めます。
この異端審問所は、ユダヤ教徒やイスラム教徒に対してではなく、新キリスト教徒の中の背信者を取り締まるために設けられたのです。
1492年、国王はついにユダヤ教徒追放令を出し、キリスト教に改宗しないユダヤ人は国外に退去することを命じました。
ちなみに、レコンキスタとは、イスラム教徒から不当に領地を占領されたとして、その支配に抵抗するカトリックを信仰するスペイン人による領土奪還のことです。
レコンキスタ、とは19世紀に作られた造語で、当時の人々はそのような自覚(我々はスペイン人である、イベリア半島は統一すべき、というような)はなかったようです。
アメリカの新政権が打ち出した政策、「犯罪を犯した不法移民を国外退去か、グアンタナモの収容所に入れる」は、もちろん根本的には全く別のものですが、どこか似たような政策に感じます。
中世の当時、「スペイン」というひとつの国は存在せず、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教という宗教カテゴリーごとに連帯するわけでもなかった。
当時の人々は各々の思惑を持って懸命に生きたのであって、その割り切れない生き様を単純化してしまってはならない。
国家や民族、信仰や善悪といった、後世の人々が創り出した「フィクション」で単純化して線引きすることが、どれほど多くの悲劇を生み出してきたか、そして生み出し続けているのかを、現代に生きる我々は痛感している。
「レコンキスタ ―「スペイン」を生んだ中世800年の戦争と平和」
黒田 祐我 著より
全く知らなかった、中世のスペインの歴史について、とても勉強になる本です。
そして、歴史上の大きな転換点には良くも悪くも、いつもカトリック教会(教皇)の深い関わりがあったことを、この本でも改めて認識させられました。
わたしは、聖書の基本理念はこの箇所に表されていると、いつも思います。
お前たちが自分の土地の刈り入れをするとき、お前は畑の隅まで刈り尽くしてはならない。
またお前の刈り入れの落ち穂を拾ってはならない。
お前のぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。
お前のぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。
それらは貧しい人や他国の者のために、残して置かなければならない。
(申命記19・9〜10)
在留する他国の者や孤児の権利を侵してはならない。
やもめから衣服を質に取ってはならない。
エジプトで奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖われたことを思い起こしなさい。
畑で穀物の刈り入れをするとき、一束を畑に置き忘れたなら、それを取りに戻ってはならない。
それは在留する他国の者、孤児、やもめのためのものである。
そのように行えば、あなたの神、主はあなたのすべての業を祝福なさるであろう。
(申命記24・17〜19)
ミレーは、この申命記の理念を表したルツ記の場面を取り入れて「落穂拾い」を描いたと言われています。
これは、キリスト教の教えではなく、旧約聖書に書かれている「全人類」への教えではないでしょうか。
レコンキスタの時代も、現代も、自分たちがそもそも寄留者に過ぎないことを完全に忘れているのです。
もちろん現代社会は、各国が定めた法律に則って暮らす義務と責任をだれもが持っていますが、「メキシコ湾」か「アメリカ湾」か、そのようなレベルの争いが未だに繰り広げられているのが現実です。
問題が拡大したのはテレビ局のせい、山火事が大規模で長期間にわたったのは前政権の予算配分のせい(気候変動対策に予算を割きすぎたから)、旅客機に軍のヘリが追突したのはFAAがDEI(多様性、公平性、包摂性)の推進のために「重度の知的障害や精神障害を持つ人々の雇用を進めた」せい、、、。
(もちろん、大統領の根拠のない発言です)
紹介した本によると、10世紀のアンダルス(現在のスペインの一部)では、どれか一つに統合されることのないハイブリッドな社会でした。
公用語はアラビア語、日常言語はラテン語が俗語化したロマンス諸語、ヘブライ語もユダヤ人の儀礼言語として用いられていました。
イスラムが実質的に支配していた10世紀の後ウマイヤ朝は、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、その庇護のもとで自らのアイデンティティを維持しながら、それぞれの分野で活躍していたそうです。
「多様性に根差し、宗教的寛容によって形作られた非凡なる中世文化」と書かれています。
2025年の今、そのような社会の形成を求めるのは理想主義すぎるでしょうか。
少なくともキリスト教を信仰するのであれば、信仰の根本を思い起こし、わたしたち一人ひとりがもっと寛容でなければならない、と痛感するこの頃です。
ミサ後の、わたしの大好きな光景です。
あちらこちらで、それぞれの日常を交換する信徒の皆さん。
わたしも、週に一度お会いする方々と言葉を交わす日曜日が大好きです。
女性の決断
めでたし聖寵充ち満てるマリア
主御身とともにまします
御身は女のうちにて祝せられ
御胎内の御子イエズスも祝せられたもう
天主の御母 聖マリア
罪人なるわれらのために
今も臨終のときも祈り給え
アーメン
わたしは、毎日の祈りはいまだにこの言い回しを使っています。
主の祈りもそうです。
(天にまします・・・・)
日々、誰に向かって、誰を想いながら祈りを捧げていますか?
神に祈るなら、神は聞いてくださる。
そして、あなたは自分の誓願を果たすことが出来よう。
(ヨブ22・27)
わたしは彼らが呼ぶ前に応え、
彼らがまだ語り続けている間に聞き入れる。
(イザヤ65・24)
映画「マリア」が、先月ネットフリックスで公開されました。
聖母マリアの幼少期から、聖家族のエジプト逃亡までを描いた物語です。
福音書(外典も含む)の記述にとても忠実でありながらも、新しい解釈を用いたストーリーです。
この映画では、ヨゼフ様も若い俳優が演じています。
「ヨゼフに声を与えて欲しい」と、親交の深かった司教からの言葉があったから、と監督がインタビューで答えていました。
カトリック信徒のダニエル・ジョン・カルーソ監督は、
「私はこの物語を伝えたいという強い意志があった。
マリアの物語は過小評価されていると感じた。
私たちはみなキリスト降誕の物語を知っているが、彼女の視点からこの物語を伝えるというアイデアにとても心を動かされた。
マリアの立場になって、幼少期からキリストの誕生、そしてその後まで、このすべてを経験するのはどんな感じだったか、この若い女性は逆境に直面し、疑いや恐れを抱きながらも、最終的にはこの美しい『フィアット(fiat)』、つまり神からの恩寵を受け入れた」
と語っています。
監督は、「私たちはマリア様に祈ることが大好きで、マリア様を執り成し手として受け入れている。」とおっしゃっています。
マリア様は、象徴的で、美しく、聖なる母であり、私たち皆が崇敬している存在ですが、同時に若い女性でもあったのです。
若いというより、まだ少女でした。
彼女はその中で大きな決断を下し、前に進まなければなりませんでした。
そして、若いヨゼフ様もまた、困難な決断を下したのでした。
フランシスコ教皇は、先週の一般謁見のお説教で、次のように話されています。
「マリアの心には信頼の光が灯った。
神に委ね、従い、自分を明け渡した。
マリアは御言葉をその肉に受け、こうして、一人の女性、人間にこれまで託されたことのない、最大の使命に飛び込んだのである。」
映画の中で、誠実なユダヤ教徒の両親ヨアキムとアンナへのお告げに従って、マリア様は幼少期から神殿の中で育てられます。(外典:ヤコブの福音書に沿っています)
両親、マリア様、マリア様を見初めて結婚を申し込むヨゼフ様は、大事な場面ではその都度、天使ガブリエルから導きを受けます。
わたしは「神様のお導き」を強く信じていますが、その「神様」とは、わたしにとってはイエス様だけを指しているのではない気がしています。
なにか、聖なるものの集合体とでもいうか、イエス様の足元に集うマリア様を始めとする聖なるかたまり(天国の母も含む)が頭に浮かぶのです。
イエスは、常に生きて、人々のために神に執りなしをしておられるので、ご自分を通して神に近づく者を、完全に救うことがおできになります。
(ヘブライ7・25)
わたしたちは神の前に確信をもっています。
それは、わたしたちが神のみ旨にかなうことを求めるのであれば、神は聞き入れてくださるということです。
わたしたちのどんな願いをも神が聞き入れてくださることが分かるなら、わたしたちが神に願い求めたことはすでにかなえられていることも分かります。
(1ヨハネ5・14~15)
ヘロデ王をアンソニー・ホプキンズ、マリア様・ヨゼフ様は若くて美しいイスラエルの俳優が演じていたのも素晴らしかったです。
(アンソニー・ホプキンズは映画「2人のローマ教皇」でベネディクト教皇を演じていましたので、そのギャップがすごかったし、マリア様は他の映画ではたいていヨーロッパの白人俳優が演じていますから。)
ヨーロッパ第2のカトリックメディア、ポーランドのカトリック情報局KAIの特派員であるJJ神父(パウロ・ヤノチンスキー神父、ドミニコ会)のnoteの記事を参考にさせていただきました
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アメリカ大統領は、就任後にワシントン大聖堂で礼拝に参加することが慣例となっています。
聖公会のマリアン・エドガー・バディ主教が、就任したばかりのトランプ大統領に説教壇からLGBTQと不法移民のために訴えたことがニュースになっていました。
バディ主教は、「大統領閣下、どうか慈悲をお与えください」と静かに語り、米国全体で「恐怖」が感じられるとおっしゃっていました。
(当然、トランプ大統領や側近たちは不満そうな表情で、後日、謝罪を求める声明を出してた。)
奇しくも一致祈祷週間の中でしたので、世界中が注目する中でこうした発言をハッキリなさった女性の主教様の行動力には感服させられました。
「女性だから」「女性なのに」というのは不適切な時代ですが、やはり女性の決断力と行動力はものすごいパワーを持っている気がします。
https://www.afpbb.com/articles/-/3559308?pno=3&pid=doc-36V64DR_1_2395207_preview