神様からの質問
ミサが再開されて3週間。土日3回の主日のミサはいずれも100名前後の参列者です。
第2朗読の一説に心を惹かれました。
実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
(ローマ5・14)
神様がアダムとイブ、カインに質問をされている場面は、わたしたちに対する問い掛けと読むと面白いものです。
神様はアダムに質問されます。
「あなたはどこにいるのか」
アダムは答えます。
「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」
「あの女が、木からとってくれたので、(仕方なく)食べたのです」
神様はイブに問い掛けます。
「あなたは、なんということをしたのです」
イブは答えます。
「へびがわたしをだましたのです。」
2人とも、人のせい(へびのせい)にしています。
カインに質問されます。
「弟アベルはどこにいますか」
カインは答えます。
「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」
今でいう、逆ギレのようです。
「なぜ神様はアベルの捧げものを好まれたのでしょうか」と2人の神父様に質問してみました。
おひとりの神父様のお答えは、
「コヘレトにあるように、神の思いを知ろうとしても無駄。
人の考えることと神の考えはかけ離れているのだ。
納得できないこと、理不尽なことは世の中に多くあるものです。」
もうお一方の神父様のお答えは、
「昭和天皇に園遊会で、『陛下、こちらのカインさんがお持ちになったのは精魂込めて作られた新種の米でございます』とお米を献上したら、陛下が『ほぉ、どのような品種改良をされたのですか?』と興味を示される。
次に『陛下、こちらはアベルさんで、最高級の肉をお持ちになりました』、陛下は『あっそ』。
そんなもんです。相手がこちらの期待通りに反応するとは限らないのが世の常です。」
面白い例え話だと思いませんか!?
アダムとイブは神の禁じた実を食べ、楽園を追放されました。
そして、2人の息子を産み、一心不乱に働きますが、弟は兄に殺され、兄は遠くの地に追放されます。
アダムとイブは2人の子どもを一度に失うのです。
その子はさらに、親たちの住む土地からも、神に追われます。
神に対する不従順と傲慢の結果です。
三浦綾子さんの本に、こう書いてありました。
「あなたはどこにいるのか」という問いは、永久に神が人々に問い続けている言葉である。
「あなたはどこに立っているのか」
「あなたの立場はいったいどこなのか」
「何に属しているのか」
という問いだ。
「わたしはいつも神の前に立っています」
「わたしは救い主キリストに属しています」
と、いつ、どこででも、誰に対しても明確に答え得るものは幸いである。
アダムとイブのように、神を避けて、隠れていてはならないのだ。人間はなぜ神に答え得ないか。
それは答え得ぬ生活をしているからである。
来住英俊神父様の本にはこう書いてあります。
「お前はどこにいるのか」神は知っているはずです。それでも質問するのはなぜか。
世々にわたって人間たちがこの質問に答えるためです。
私は結局、いま、どういう状態にあるのか、ということです。
折に触れて、「お前はどこにいるのか」という質問を神から受けて、自分の人生、いま到達している地点について思いをめぐらすことが大事なのです。
誰に対しても「キリストに属しています」と答えるのは難しいですが、「信仰をもって生活しています」と言うことはできるのではないでしょうか。
「信仰を持っていてよかった」とおっしゃるご高齢の方の言葉を何度も聞いたことがあります。
わたしも将来、そうありたいと思ったものです。