視点を変えてみる
29日の聖ペトロの祝日に併せ、宮﨑神父様の霊名をお祝いしました。
ジュゼッペ神父様がお祝い(?)の演奏を披露してくださいました!
いよいよ来月23日には、この久留米教会において、久留米教会出身の船津亮太助祭の司祭叙階式が行われます。
今、久留米教会は喜びとお恵みに満ちています。
先日、ある神父様とじっくりお話をする機会に恵まれました。
その神父様の「キリスト者とはなにものか」というお考えが面白いのです。
もし、わたしが「信者ってどういうひと?どういう生活?」と聞かれたら、うまく説明できないと思うのです。
「どうせ、信仰を持っていない人には理解できないだろうなぁ、、。神に祈りを捧げる生活をしている人とか言ったら引かれるかも、、、」と思ってしまいます。
神父様は『しょっちゅう、イエス・キリストという人とおしゃべりしている人』と表現されました。
なるほど!!と目からウロコでした。
何事も、ちょっとずらして考えてみると、違った見え方がしてくるものです。
宗像の黙想の家のこのご像、素晴らしいですね。
ローマ兵に連行されていくイエス様の様子が表現されています。
でも、わたしには「小さな存在にすぎない弱い人間を全てから守る存在」に見えます。
どうですか?!
そう言われてから見ると、そう見えませんか?!
手をつなぎ、信頼のあかしに肩に触れている、小さき我ら
そう見えます。
前々回の記事、「死者とのつながり」を読んでくださったある神父様からメールをいただきました。
わたしたちが死者のために祈ることについて、書いた記事でした。
神父様からのメールには、
「むしろ死者がわたしたちを生かしている。
生ける者の教会は、亡き者の教会によって支えられている。」
「死者は生きていて、今を生きるわたしたちを生かす。
わたしたちが死者に向かうというよりは、死者の方がわたしたちを生かしている。」
そう、本当にそうです、そうなのです。
「亡き母を天国で安らかに過ごさせてください」と毎晩祈るわたしを動かしているのは、亡くなった母とイエス様なのだ、と日々、いつも感じます。
この世の生(ビオス)は永遠の命(ゾエ)に照らされ、守られ、支えられ、導かれているのです。
視点を少し変える。
何事も真正面からだけとらえて考えるのではなく、少し横から眺めたり、一歩引いて考えてみると見えてくるものがあります。
フランシスコ教皇が昨年秋に来日された際の、東京での青年たちとの集いでのお説教の一説です。
なんのために生きているかに焦点を当てて考えるのは、それほど大切ではありません。
肝心なのは、だれのために生きているのかということです。