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”Lex orandi” 祈りの教会
みこころレターvol.9を発行しました。
9号!こうして続けて情報を発信し続けられるのも、信徒の皆さんの協力があってのことです。
今回もいろいろな方に寄稿していただきました。
久留米教会を活気づけてくれているフィリピンとベトナムコミュニティの皆さんの様子も、毎号少しはお伝えできるように構成しています。
今回の特集は、信徒の皆様にご協力いただいた「洗礼に関するアンケート」の集計結果です。
詳細は、ぜひ手に取ってご覧いただきたいと思います。
洗礼を受けた時期、信仰を持っていてよかったと感じるとき、ミサ・教会に来てよかったと感じるとき、などについて多くのコメントをいただくことができました。
・静かな(神を想う)時間が持て、日常を忘れることができる。
・神様の前で自分の心を見つめられる機会でもあり、信者の方々との会話が楽しめる。
・困難なことがあった時に必ず支えがあると思える(信じれる)ことで前進できる。
・仕事や人間関係、家族のことなど、祈りながら、大切なことは何かを考えながらやってこれた。
うんうん、なるほど、と皆様のご意見にとても深く気持ちを揺さぶられました。
とても多くのご回答、コメントをいただいたのですが、紙面の都合ですべてを掲載することはできませんでした。
先ほどご紹介したようなご意見をできるだけ多く掲載したつもりです。
ご回答は幅広い年代の信徒の皆様からいただきましたので、集計結果はどなたがお読みになっても共感できる部分が多いかと思います。
ラテン語で
Lex orandi,lex credendi
直訳では「祈りの法が信じることの法である」
つまり、教義はそもそも祈りのあり方がまず基盤にあって生まれてくる、祈り方が信じている事柄を決める、ということです。
教会は祈りの場です。
多くの信徒のさまざまな祈りが積み重なり、大きな力となって聖堂のなかいっぱいにみなぎっているのをいつも強く感じます。
日曜の朝、その大きな力をいっぱい吸い込んで、自分の1週間のエネルギー、糧とすることができることを感じるとき、わたしは「信仰を持っていてよかった」と感じます。
カトリックの教育
新学期が始まり、久留米教会に敷設されている聖母幼稚園も子どもたちの賑やかな遊ぶ声が響き渡っています。
子どもたちの元気なかわいい声にパワーをもらえる気がします。
「しんぷさま~~ぁ!」と駆け寄ってきて宮﨑神父様に抱き着く子どもたち。
神父様も、「子どもたちからエネルギーをもらえる」とおっしゃっています。
カトリック生活、という雑誌があります。定期購読されているという方も多いかもしれません。
今月号の特集「道徳教育と宗教教育」、とても興味深く読みました。
編集長であるサレジオ会の関谷神父様が書かれていたのは、
一般的な社会道徳の規範の中で、一番よく聞かれる最低限のルールは、
「人の嫌がることをするな」という禁止である。
ところがイエスは、このルールを前提にしながらさらに先を行く。
人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
マタイ7・12
受けるよりも与えるほうが、幸いである。
使徒言行録20・35
「するな」という禁止の最低限のルールを守るだけでなく、
それを飛び越えて積極的に自分から愛を示せと勧め、奨励するのがイエスだ。
このあたりが、道徳と宗教の立ち位置の違いの一つではないだろうか。
久留米教会では、信徒のみなさんにご協力いただいて、『洗礼と信仰』についてのアンケートを実施しました。
たくさんのご回答をいただいているので、これから集計するのですが、印象的だった回答の一つが
「カトリックの学校に行っていたので大人になって洗礼を受けた」という回答が多くあったことです。
わたしも、その一人です。
学習指導要領の制度変更により、「道徳」の授業が小中学校では必須科目となりました。
現在は、カトリック学校など宗教系の私立学校では「宗教科」がその代わりとして認められています。
(それも来年度は見直されるかもしれない、とのことですが。)
宗教の授業、わたしは大好きな時間でした。
担任でもあったシスターが宗教の時間によく『ブラザーサン、シスタームーン』などの映画を見せてくださっていました。
聖書の勉強の時間も「わたしはヨハネを研究したから」とヨハネの福音書をとても分かりやすく解説してくださいました。
多感な青春時代に、そのシスターから教えていただいた教育としての宗教の時間があったから、
そして、毎朝、毎夕、聖歌を全校生徒一緒に歌い、
学校のお御堂で祈る時間を自然に受け入れたあの日々があるから、
その後に信仰を自然と育み、洗礼にまで至ったのは間違いありません。
教育について語る知識は持ち合わせていませんが、わたし自身の経験から言えるのは、
カトリックの学校が長い年月をかけて蓄積してきた宗教の教育には、
かけがえのない価値があるということです。
聖母幼稚園、ここを巣立った子どもたちがいつの日か
「教会の横の運動場で鐘の音を聞きながら駆け回った記憶」
「あまりよく覚えていないけれど、神父様が大好きだった記憶」
と心の中で思い出し、洗礼を受けたり、結婚式をあげたりする日がくるのではないでしょうか。
あしたは姪の入学式です。
カトリックの学校に進学しました。
彼女は早くも「たくさん聖書を学びたい」と張り切ってくれていて、叔母としては嬉しいかぎりです。
祈りの必需品
みなさまは、一日の中でいつ、どのように「祈り」をされているでしょうか。
リビングに祭壇を設けていらっしゃるお宅もあるでしょう。
ロザリオを手に祈るというかたもいらっしゃるでしょう。
わたしは昔、「祈り」の仕方がわからず、模索していた時期がありました。
「祈り方」を説いた本を読み漁りましたが、自分の祈りのスタイルを、
確信をもって「こうやって祈っています」と言えるようになったのは、つい最近の様な気がします。
思いついたらいつでも、どこででもお祈りはしますが、寝る前にベッドで祈る時の必需品はこれ!
この、手のひらにすっぽり収まる木製の十字架。
絶妙なカーブがあって、握りしめると心地よく手に収まるのです。
数年前に、仲良しのおば様にプレゼントしていただきました。
(大名町教会のサンパウロでお求めいただけます。)
祈りの助けになっています。
手の中でギュ~っと握りしめていると、とても心が落ち着き、
神様と天国の母に心とからだを明け渡して話しかけることができるような気がするのです。
「神様に全てを明け渡す」
これが、わたしの祈りのスタイルです。
これは、教会の大切な友人が言ってくれた言葉です。
いろいろと悩んでいた時期に、彼女に相談しました。
同じように、彼女もその時悩んでいることを抱えていて、
その結論として自分で導いたのが、「神様に全てを明け渡す」ということだったと話してくれました。
パパ様の本、使徒的勧告「喜びに喜べ」の中に書いてあります。
自分の中にある攻撃的で利己的な傾きと闘い、そうした傾向が根づかないうように用心しなさい。
「怒ることがあっても、罪を犯してななりません。
日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」
エフェソ4・26
流され沈みそうになっても、わたしたちはいつだって、祈りという錨(いかり)にすがることができます。
祈りの錨は、わたしたちを神の腕の中に、平和の源のそばに、引き戻してくれます。
神の腕の中に引き戻してもらえるように、神様に全幅の信頼を寄せ、今日も、いつも祈りましょう。
イエス様はどのようなお顔をしていたのか⁈
みなさんそれぞれにイエス様のお顔のイメージをお持ちだと思います。
それは、馴染みのある教会のご像、見たことのある絵画や映画で演じた俳優の顔など、実は多くの連想させるお顔から各人が確固たるイメージを持っているのではないでしょうか。
久留米教会のイエス様
(十字架のイエス様を左右から照らす照明の位置と光の具合が変わったことにお気付きですか⁈)
その中でも、十字架上のイエス様のイメージについて考えてみました。
12世紀までのイタリアのキリスト像は苦痛や苦悩を超越した表情で描かれていました。
「勝利のキリスト」と言われています。
13世紀になると、首をうなだれ、苦痛と悲しみの表情を浮かべた「苦悩のキリスト」が主流となってきます。
それは、アッシジの聖フランチェスコが要因を作ったとされています。
フランチェスコの体に聖痕が現れたと言われるほど厳格な生活を徹底していたその姿勢は、イエス様の受難について語る際にも反映されます。
聖フランチェスコの説教には鳥も耳を傾けたというエピソードのとおり、人々への共感が広がり、絵画においても人間的な苦悩が強調されることにつながったのです。
グリューネヴァルトは16世紀に活動したドイツの画家。
ドイツ絵画史上最も重要な作品の1つであるのが、このイーゼンハイム祭壇画
磔刑図は数多く描かれていますが、肉体的な苦痛をここまで表現したものとしてはこの作品に匹敵するものはない、と言われています。
イーゼンハイムの聖アントニウス会修道院付属の施療院の礼拝堂にあったもので、患者が自らの苦痛を十字架上のキリストの苦痛と感じ、救済を得るために、このような凄惨な磔刑像が描かれたと言われているそうです。
グリューネヴァルトの絵の背景の闇をさらに濃密にし、風景も他の人物も排除して祈りのための「像」として描かれたのが、スルバラン1627年作の『十字架のキリスト』
その5年後に描かれたのが、同じくスペインのベラスケスの『十字架のキリスト』
闇に浮かび上がる十字架によって、神の子としてのイエス様の崇高さを表現すると同時に、リアルな描写で人間イエスの肉体の痛みをも描き出しています。
ちなみに、頭上に書かれているのは、3か国語での「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」
前述のグリューネバルトのように、16世紀ごろまでは「INRI」(ラテン語の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」の頭字語)と書き表すのが普通でしたが、このころから絵画も世界的な広がりを見せてきたことを反映し、3か国語表記が主流となったそうです。
わたしたちの持つイエス様のイメージは、このあたりの作品が近いのでは⁈
ここで告白!!
すべて、わたしが調べたのではなく、種明かしはこの本!!
西岡文彦さんの「名画でみる聖書の世界」新約編
(旧約編、は書かれていないようです。)
創世記から最後の審判までの世界中の名画の背景と解説が書かれていて、とっても読み応えがあります!
少し古い本なので、残念ながら本屋さんに新品はありませんが、アマゾンで中古本をお求めいただけます。
(久留米教会の方はわたしにお申し付けください!)
四旬節に向け、十字架上のイエス様に思いをはせ、穏やかに過ごしていきたいと思います。
今年の祈り
新しい一年が始まりました。
今年はどんなお恵みや出会いがあるでしょうか。
考えるとワクワクします。
以前読んだ祈りの本に書いてありました。
「朝起きて1番最初に心に浮かぶ考えで1日が決まる」
一年の始まりも同じではないかと思うのです。
どんな一年にしようか
どんなふうに過ごしていこうか
前向きな明るい気持ちで始めるほうが、お恵みが多くなる気がします。
パパ様カレンダーの1月のメッセージは
『澄んだ目と、信頼や希望に満たされた顔でわたしたちを見つめる子どもたちの笑顔を守るために、わたしたちは何をしているでしょうか?』
わたしには4人の姪、甥がいます。
毎日、彼女たちのことはお祈りしていますが、
今年はこのパパ様のメッセージを心に刻み、
いつも以上に子供たちのために祈ろう、と誓いました。
皆さまは、今年はどんなお祈りを抱負とされますか?
教会にしばらく来れていないという方を誘いませんか?
教会に行ってみたいというお知り合いを誘いませんか?
久留米教会は今年も、開かれた活気ある、お恵みの象徴のような共同体でありたいと思います。