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自己を見つめなおす時間

カトリック生活を定期購読しています。
2月号は『映画の中のカトリック』が特集されており、たくさんの映画が紹介されています。

日曜日の午前中は教会で過ごすことが習慣でしたので、ぽっかり空いた時間に、以前から観たいと思っていた映画「修道士は沈黙する」をようやく鑑賞しました。

 

 

正直に告白しますが、とても難解な内容でした。
タイトルのとおりに「告解」と観想修道会の修道士であるサルス神父が重要なキーなのですが、想像とは違い、世界経済を動かす強欲で権力主義の人間の心の闇がテーマでした。

映像と音楽が美しく、無駄な描写は一切なく、洗練されたリゾートホテルの中だけでストーリーが展開していきます。

 

 

告解の内容を教えるように迫られますが、戒律を理由にサルス神父は沈黙を貫きます。
「沈黙こそがいかに雄弁であるか」が根底に流れるもう一つのテーマのようです。

サルス神父はカルトジオ修道会所属の修道士という設定です。
映画「大いなる沈黙へ ーグランド・シャルトルーズ修道院」で世界的に知られるようになったあの修道会です。
カトリック教会の中でも最も戒律が厳しく、現在は約200人の修行僧が「沈黙」「孤独」「清貧」を重んじた生活を送っているそうです。

この映画の(わたしが考える)最大の見どころは、ラスト5分でサルス神父が登場人物全員を前にして語るお説教です。

「自らを見つめなおしなさい」「自己を律するのです」と言われている気がしたのです。

権力欲、金銭欲、物欲に支配されている現代社会(登場人物たち)への戒めのお説教が、まるで自分に対して語られているかのような錯覚に陥りました。

それまでの100分以上、ずっと重苦しい空気が流れているストーリー展開だったのが、雲が晴れたようにラスト5分ですがすがしい爽快感に包まれる、圧巻のお説教です。

 

あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、「にわか雨になる」と言う。実際そのとおりになる。
また、南風が吹いているのを見ると、「暑くなる」と言う。事実そうなる。
偽善者よ、このように地や空の模様を見分けることは知っているのに、どうして、今の時を見分けることを知らないのか。
(ルカ12・54~56)

福音書のこの箇所を思い出しました。

わたしの愛読書、カール・ヒルティの言葉も浮かびました。

神の霊がしばしば思いがけない仕方で訪れてきて、その生命と喜びをもってわれわれの全存在を満たし、一瞬のうちにすべての重荷をわれわれの心から取り去ることがありうる。
(「眠られぬ夜のために」より抜粋)

 

今の時に与えられた重荷とはなんでしょうか。
ヒルティの言う「神の霊が思いがけない仕方で」ある日訪れて「満たし」「重荷を心から取り去る」という経験はわたしもあります。

それは、素晴らしい映画を観たとき、心を揺さぶる本を読んだとき、音楽に涙するときにも訪れます。
アメリカの新大統領就任式で、コロナウィルスによって亡くなられたすべての方へ黙祷が捧げられたのを見たとき、そこに神の霊が訪れたのを感じました。

祝賀会の最後を飾った、歌手のケイティ・ペリーの感動的な歌と打ちあがる無数の花火に涙が出ました。

https://youtu.be/qNZ8XCobUUM

わたしも、やはりこのコロナ禍の生活でストレスがかなり溜まっていたようです。
素晴らしい映画と、就任式の黙祷、歌手たちの素晴らしい歌声に涙し、心の重荷が少し軽くなったような気がします。

 

困難に直面したときには、泣いておられるイエスを思い浮かべるとよいでしょう。
少なくともわたしには効き目があります。
エルサレムを見て泣いておられるイエス、ラザロの墓の前で泣いておられるイエスです。
神はわたしたちのために泣いてくださいました。神は泣いておられます。
わたしの苦しみのために泣いておられます。
神は泣けるようになるために――ある神秘家によれば――、自ら人間になろうとされたのですから。

自分と一緒にイエスが苦しんで泣いておられる姿を思い浮かべることは、慰めとなり、さらに前に進む助けとなります。
イエスとのきずなを保ち続けるなら、たとえ人生から苦しみが無くなることはなくても、幸福に向けた素晴らしい地平が開け、その充満に向けて進むことができるでしょう。
勇気をもって、祈りながら進みましょう。
イエスはいつもわたしたちのそばにおられます。
(教皇フランシスコ、2020年10月14日一般謁見演説より)

 

神が、イエス様がいつもわたしたちのそばにおられることを決して忘れてはいけない、改めてそう心に刻み、自己を見つめなおす毎日です。

 

未来を想像してみる

去年の今頃、この今の現状を想像していた人はいるでしょうか。

私の友人の話です。
ある国立大学の3年生の娘さんが、リモート授業が後期も続くことに納得が出来ず、大学を休学すると言っているというのです。
友人も、国が何も対策をしてくれない、大学が満足のいく説明をしてくれない、と不満を持っていました。

私個人としては、そうした考え方の方向に疑問を持っています、
ですが、働き方や学び方、就職活動もままならない現状に不安を持っている人が多いのは事実ですので、その友人が少しでも安心できるよう話ができたら、と真剣に考えてみたのです。


世の中の多くのことは、「どうせ、こうなる」、「こうなるしかない」という予想通りに起こる。
しかし、それが起こる前には「想像もしなかった」良いことが起こって、事態が進展することもある。
それを経験したことがある人は、世界の見方が変わるかもしれない。

「この世界は思いがけない素晴らしいことが起こりうる世界である」。

キング牧師の演説に込められた力は「こんな現状は許せない」「何としても変革しなければならない」ではなく、
「それは起こりえる」、「その世界は可能である」という希望を身体の中に呼び起こすところにあるのです。

「必ず起こるはずだ」ではないのです。
神様は、人間には不可能としか思えないことを成し遂げることが出来る方なのです。
今回も、成し遂げてくださるかもしれないと希望し、祈り続けていくのだ。

この青字の部分は、来住英俊神父様の講演の中でのお話です。

先ほどの友人の話に当てはめて考えてみると、「こんな現状は許せない」という気持ちを、「この逆境とも思える状況を経験した自分をどのような未来に向けていくか考える好機」と捉えてみることはできないでしょうか。

 

イエス様は、悲しむ者だけが慰められる(マタイ5・4)とおっしゃいました。
死の現実を受け入れる者だけが、新しいいのちを受け取ることができます。
嘆かない者は慰められず、終わりに直面しない者は始まりを受け取ることができない、と。

現状に置き換えて考えてみると、嘆き悲しみもがく者だけが、本物の体験を体験し前進できるのだ、と言えると思うのです。

前回も引用したブルッゲマンによると、
イエス様は、古い秩序に凝り固まっていた人に対してではなく、古い秩序に失望したり、そこから締め出されたために何かを切望している人に対して、食べ物を与え、癒し、悪霊を追い出し、赦す、という衝撃的な働きをなされたと言います。

自らのうちに葛藤を抱えている人たちが、自らの意思で善いと思うことを実践しなければ、そこから抜け出すことはできません。

葛藤なしに神様からメッセージを受け取った預言者などいないのです。
ゲッセマネにおけるイエス様でさえそうでした。

地にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう仰せになった。
「アッバ、父よ、あなたにはおできにならないことはありません、
わたしからこの杯を取り除いてください。
しかし、わたしの思いではなく、み旨のままになさってください」。
(マルコ14・35~36)

 

ゲッセマネの園の一番樹齢の古いオリーブの木です。
この木陰でイエス様が祈られたのかもしれません!!

 

 

パパ様ツイッターにも、ヒントがありました。

被害者はわたしたちではないのです。
すべての被造物、地球そのものに目を向ける必要があることを、いまさらながらわたしたちが自覚して未来を想像し、新しい世の中を創造していかなければならないのです。

国が、学校が、会社が、と言っているうちは、「自分は正しい」と凝り固まった考えを持ってしまっています。

現状や体制への不満ではなく、自分がどういう未来(来年の今頃のことでいいので)を生きようとしているのか、どう生きたいのか、想像してみてください。

 

時代を見分ける選択

梅雨明けし、いよいよ本格的な夏がやってきました。

 

春先、コロナウィルスの市中感染が始まったころ、「夏になって気温が上がればウィルスは終息に向かうだろう」と報道で聞いたことがあります。
現実には、現在、第2波とも第3派とも言われる感染状況です。

わたしたちは、自分に問い続けなければなりません。

「このことに、いったいどんな意味があるのだろうか。
神様はどのようなことをわたしたちに語りかけようとしていらっしゃるのか。
この現実の中、神様はどのように生きるようにとわたしたちを招かれているのだろうか。」

 

イエスはまた群衆にも仰せになった、
「あなた方は雲が西に出るのを見ると、すかさず『雨になる』と言う。
果たしてそのとおりになる。
また南風が吹くと、『暑くなる』と言う。
果たしてそのとおりになる。
偽善者たち、あなた方は大地や空の模様を見分けることを知っていながら、どうして、今の時代を見分けることを知らないのか」。(ルカ11・54~56)

この部分は「時代を見分ける」というタイトルがついています。
いまのわたしたちにもスッと当てはまる教えかと思います。

 

コロナウィルスの感染拡大防止の対策について、評価が様々行われ(報道され)ています。
対策そのものであったり、リーダーの格付けであったり、合格点を出している(と報道されている)、または完全に成功している(と報道されている)国があるでしょうか。
見聞きする多くは、裁き、非難するものであると感じています。

つまり、わたしたちが現在情報として得ているのは、報道機関の取捨選択による「人の評価」によるところが大きいと言っても過言ではないのです。

メディアリテラシーの重要性は言うまでもなく、人の評価ではなく、自分で考えて選択することが大切です。

 

今日は、この時代を見分ける、今を見極めるために有益と思われるいくつかの本、文書をご紹介します。

まずは、つい先日出版された、カトリック中央協議会の『パンデミック後の選択』という本です。
教皇様がこのコロナ禍において語られたいくつかの説教、書簡をまとめたものとなっています。

 

 

感染者、医療従事者へ思いを寄せられているのはもちろんですが、わたしが目に留めたのは次の一文でした。

「普段の生活を取り戻したときには、だれもが人間らしい品位ある生活を送れるよう、必要な方法や手段を提供し、国民の共通善のために精力的に働く責任を負う政治家の皆さんを、力づけたいと思います。」

このような思いやりの言葉を見聞きしたことはありませんでした。
政治家、各国のリーダーへの思いやり。

5月のロザリオの月にあたり「すべての信者に送る手紙」として出された書簡に添えられたマリアへの祈りにも、次の一文があります。

「各国の指導者を支えてください。
知恵と配慮を惜しみない心をもって、
生活に必要な物にも事欠く人々を助け、
将来への展望と連帯の責任をもって、
社会的、経済的な対策を講じることができますように。」

 

このウィルスは消えてなくなることはないでしょう。
わたしたちがどのように生きていくのかを「自ら選択すること」 が必要です。
そして、この現状のために「自分に何ができるのか」についても選択することについて考えてみましょう。

「こうした努力では世界は変えられないだろう、と考えてはなりません。
そうした努力は気づかれないこともしばしばですが、目には見えずとも必ず広がるであろう善を呼び出すがゆえに、社会にとっては益となります」(ラウダート・シより)

以下、あとがきの最後の一文です。

「パンデミック後の社会が、ただ単にパンデミック前に戻ることではなく、弱い人、貧しい人にいっそう寄り添う新たな世界の構築を選択できるよう、教皇の発するメッセージが、カトリック教会にとどまらず、一人でも多くの人に届けられることを願ってやみません。」

https://www.cbcj.catholic.jp/publish/pandemic/

 

次にご紹介するのは、最近わたしがハマって読んでいる故ヘンリ・ナウエン神父様の「いま、ここに生きる」からの一説です。

神が問われることは、「あなたはいまの時代のしるしを、あなたが悔い改め、回心するように求めるしるしとして見分けていますか」ということです。
何よりも大切なことは、兄弟姉妹の味わっている非常な苦しみにあずかって、私たちがあらゆる思い上がり、また、あらゆる裁く態度や非難する態度から解放されて、イエスの心のような柔和で謙遜な心が与えられるよう心の底から求めているか、ということです。

 

3つ目は、教皇庁生命アカデミーから発表された、 『パンデミック時代における人間のコミュニティ:生命の復活についての季節外れの省察』という文書です。

少し難解な文章だったのですが、わたしなりに大事だと思った点をいくつか記してみます。

◆人間家族が現実に直面している本当の問題は、道徳的な、単に戦略的ではない、連帯の意味である。それを必要としている他者への責任も含んでいる。

◆Covid-19の現象は、単なる自然の出来事ではない。
 我々は自然環境への関係を再考するように要求されている。
 我々は支配者や君主としてではなく、地球に執事として居住する必要がある。

◆生命の脆弱性の悲惨な証明は、それが賜であるという我々の自覚も新たにする。

◆誰もが自らの役割を果たすよう要求されている。

https://www.cbcj.catholic.jp/2020/07/27/21006/


最後は、バチカン出版局から発表された、新型コロナウイルス危機をめぐるキリスト教的考察をテーマにした本『交わりと希望』です。

教皇様が序文で「パンデミック危機は、わたしたちの生活の中の幸福やキリスト教信仰の宝について考えさせ、この嵐の中で自分たちを支えるための根をどこに深く張るべきかを考察させた」と書いてあるそうです。

日本語訳が中央協議会から出るのが楽しみです。
(森山神父様、よろしくお願いいたします!)

 

神との信頼関係

 

名誉教皇ベネディクト16世の兄、ゲオルグ・ラッツィンガー師が帰天されました。

「わたしが小さな時から、兄はわたしにとって同志であるだけでなく、信頼のおける導き手でもありました。
わたしに、方向性と拠り所をはっきりと、決然とした選択をもって示してくれました。
困難な状況の時も、わたしに取るべき道をいつも示してくれました。」

これは、ベネディクト16世がゲオルグ氏についてかつて語られたおことばです。
おふたりの関係は、強固な信頼関係のうえにあったことが、このたびのいくつかの報道からもよくわかりました。

(余談ですが、映画「2人のローマ教皇」を観てからすっかりベネディクト16世を見る目が変わりました!)

 

サマリアの女に井戸の水を飲ませてほしい、と頼まれた時のイエス様のことが思い出されました。

多くのエピソードは、死にそうな子どもを助けてほしい、病気を癒してほしい、という人々からイエス様への働きかけであるのに対し、イエス様の方から女性に頼みごとをするというこの逸話は、大変興味深いものです。

なぜか、イエス様はこのサマリアの女を信頼して自ら話しかけます。
そして、最初はいぶかしがった彼女も少しずつ心を開き、町の人に「このひとがメシアかもしれません」とわざわざ言いに行くのです。
彼女はおそらく、自分の身の上から周囲の人々と疎遠になっていたであろうに、だから日中の暑い時間帯(他の人がいない時間)に水を汲みに行っていたであろうに、自分から町まで知らせに行ったのです。

イエス様と長い時間話したことで、彼女もイエス様を信頼し、変貌を遂げたようです。

 

親、兄弟姉妹、恩師、友人のなかにみなさんも、「信頼する人」がいらっしゃるかと思います。

そう書きながら、わたしにとっては誰だろう、と思いを巡らせています。

「わたしはこの人を信頼しています」

そう明確に言えることは、それだけで幸せなのかもしれません。

わたしたちの信仰は、その最たるものではないでしょうか。

『神との信頼関係』

神への揺るぎない信頼があるわたしたちの生き方
神から信頼されたわたしたちへの招きに、ときにはフワフワとしたり、寄り道をしながらも応えていく生き方。

個人的なことですが、今日7/6はわたしの母が帰天して9年目の日にあたります。

9年前のわたしは、今思い返しても恥ずかしいくらい身勝手な娘でしたが、母がわたしを信頼してくれていることは感じていました。
それにうまく応えられないことへの焦りともどかしさを抱えていました。

 


最近読んだ本の中で、ダントツにお勧めなのが、この来住英俊神父様の本です。

 

私は、イエス・キリストに自分の苦労や嘆きを折に触れてよく語りかけています。
くだらない悩み、くよくよした弱音もイエスがすべて受け止めてくれると感じます。
もちろんそれで生活上の苦労や悩みがなくなったわけではありませんが、イエスのおかげでフラストレーションや怒りをほとんど感じなくなりました。

キリスト教信仰は、神からの招き(呼びかけ)への応答です。
一緒に歩もうじゃないかという招きに「わかりました。そうしましょう。」と応答した。
どんなに理不尽なことを体験し、また見聞きしても、「それでも」応答し続ける人がキリスト者と呼ばれる人々です。

 

来住神父様の語られる、人生経験の中から織り出された生きたことばは、どれも心に深く刺さります。

お互いの信頼関係があるキリスト者として、時にはフワフワとした気持ちになってもいいのだ。
焦らなくていい、もどかしさを抱えるのも普通のことなんだ、と安心させてもらえた本でした。

 

苦難の捉え方

昨日は、久しぶりの宮﨑神父様のごミサに森山神父様も来てくださり、久留米教会は本当に恵まれていることを痛感した日曜日でした。

 

自然災害、病気、事故はいつの時代もわたしたちをふいに襲う悲劇です。

オーストラリアの森林火災はまだ燃え続けています。

新型のコロナウィルスの感染拡大はどこまで広がるのでしょうか。

交通事故の発生しない日はないのではないでしょうか。

 

病気治療中の知人に「お祈りしています」と言葉をかけても、それは自己満足でしかない、と感じることもあります。

そう感じたとしても、ぜひ「お祈りしています」と声をかけるか、カードに書いて送ってください。

わたしが病気をしてながく入院していたとき、
(今のように携帯でメッセージ、という時代ではなかったからですが)
励ましのカードや手紙が病室に届くのが楽しみで、とても嬉しかったことを思い出します。

「忘れていませんよ」
「あなたのためにお祈りしましたよ」

その気持ちがとても励みになったものです。


『なぜ私だけが苦しむのか』現代のヨブ記


この本を読んで、ショックを受けました。

「苦難は神様から与えられる試練だ」と信じて生きてきたわたしにとって、衝撃的な本でした。

そして同時に、わたしの『人生の書』の1冊になったのも本心です。

神のみ旨に従い、周囲の人々のために尽くして生きてきたユダヤ教のラビが、我が子に障害があるとわかり、14歳でその短い生涯を終えるまで苦悩を抱えながら育てたのちに行きついた信念が書かれています。

 

わたしは自分の病気がわかったとき、これは神様からのメッセージだと素直に受け止められたし、いまでは「この障害があることはわたしの長所であり、お恵みだ」と単純に思っています。

母が若くして亡くなった時は「どうしてですか?なぜこんなに早くお召しになったのですか?」と神様に文句を言い続けましたが、いまでは「病弱だった母を早くゆっくりさせてくださったのだ」と純粋に思っています。

ですが、この本の作者は、

 

「私に言えることは、私の信じる神は、このような病気を与える方ではないし、奇跡的治療法を隠し持っているのでもない、ということだけです。
そうではなく、不滅の精神を弱く傷つきやすい肉体に宿して生きていくしかないこの世界で、自分の責任でない不公平によって苦難にさいなまれている人、死の恐怖におののいている人に、私の信じる神は強さと勇気を与えてくださるのです。

 

私たちにできることは、なぜこんなことが起こったのか?という問いを超えて立ち上がり、こうなった今、私はどうすればよいのか?と問いはじめることなのです。

 

災害、病気、事故などで苦難のなかにある人に、「神様は乗り越えられる苦難しかお与えになりませんよ」といった安易な言葉をかけることも、作者は「酷である」と言います。

自らと神との関係において与えられた苦難や試練を乗り越える、という根本的な考え方は同じですが、そもそもそれらは神が与えたものではない、というのです。

 

その時、お前の光は暁のように輝き出で、
お前の癒やしは速やかに生じる。
お前の正しさがお前の先を行き、
主の栄光が背後の守りとなる。
その時、お前が呼べば、主は応え、
叫べば、『わたしはここにいる』と仰せになる。
もし、お前の中から軛を除き、
指をさすことや中傷をせず、
飢える者のために尽くし、
虐げられる者の必要を満たすなら、
お前の光は闇の中に輝き出で、
お前の暗闇は真昼のようになる。
イザヤ58・8~10

軛、闇をどう捉えるのか。
どこに光が見いだせるか。

神と自分との関係を見直すために、先人たちがそうしていたように、わたしたちも問い続ける問題なのでしょう。

信仰とは、神と自分自身との関りを追求し続けることです。

答えは自分でみつけるのです。

 

最後に、この本に紹介されていた、アウシュビッツからの生還者のことばを記しておきます。

「ナチの行ったことのために、私は神に近づいたわけでも遠ざかったわけでもない。

神にはその責任はないのだ。

私たちこそ、私たちの人生について神に責任を負っているのだ。

私たちは短い人生の日々、あるいは長い人生の日々を神に負うているのだ。」