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誰に、どう祈るか。

「祈る」という行為は、とくに「こうあるべき」というスタイルの定義はなく、

自然に、いつでも、どこででも、心を神様に明け渡して静かに耳を澄ます。

わたしは、そういう風に祈っていた母の姿と、

代母をしてくださったシスターからの教えで、

これまでずっとそう考えています。

 

お御堂で、一人静かに祈りを捧げる人の姿は本当に美しいと思います。

パパ様は現代の教皇様らしく、さまざまな形でわたしたちにメッセージを発信されています。

もちろん、側近のどなたかが担当されているのでしょうが、

ツイッターとインスタグラムを活用して、わたしたちに毎日、そのお姿とお考え、祈りについて教えてくださいます。


このお姿、美しいと思いませんか?!

 


The Lord has so much compassion,He involves Himself in our problems.
Let us often repeat this simple prayer: Lord,I am a sinner,have mercy on me,have compassion for me.

主はとてもいつくしみ深いかたなので、わたしたちが抱える問題に関わってくださいます。
ですから、次の簡単な祈りを、何度も繰り返し唱えましょう。
「主よ、罪深いわたしをあわれみ、いつくしんでください」

 

In worship, we make it possible for the Lord to transform us by His love, to kindle light amid our darkness, to grant us strength in weakness and courage amid trials.

賛美の祈りをささげることで、主の愛によって、わたしたちは変えられていきます。
私たちが直面する暗闇の中に光を灯し、弱さの中に力を与え、
そして苦難の中に勇気を与えてくださるからです。

 

「願い事」と「祈り」は別物であると同時に、

わたしたちが一般的な祈りとして、神様に「お願い」をするのはごく普通のことです。

願い事をするための「祈り」という言葉は、ラテン語のPRECARIA(願い)に由来するもので、

神に語り掛けるORATIO(祈祷)とは別に、12世紀のヨーロッパで「願い事としての祈り」として広まったと言われています。

「畏れ敬うべき神」への祈りではなく、ひたすら救いを求めてすがる対象としてのマリア様への祈りが一般的になったからだそうです。

確かに、神様には感謝の祈りをし、マリア様には「お願いします」とつい甘えてしまいます。

パパ様ツイッターに、その正解を見つけました!

 

Worship means going to Jesus without a list of petitions, but with one request alone: to abide with Him. 
In worship, we allow Jesus to heal and change us.

賛美の祈りとは、多くの願い事を持たず、ただ「主とともにいたい」と願って、イエスのもとへ行くことです。
そして、賛美の祈りをささげるなかで、イエスにわたしたちをいやし、変えていただくことなのです。

 

心に刻んでおきたい、神様への祈り方です。

 

人生を支える言葉との出会い

フランシスコ教皇の紋章のモットー

“Miserando atque eligendo” (憐れみ、そして選ばれた)


選ばれたとはいえ、聖書には「憐れみ、」という言葉はありません。

イエスはさらに進み、マタイという人が収税所に座っているのをご覧になり、呼びかけられた。
「わたしに従いなさい」。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
マタイ9・9

この紋章の言葉は、聖ベーダ・ヴェネラビリスの説教の言葉から取られているそうです。

聖ベーダは、七世紀末から八世紀初めにかけてのイングランドの碩学の司祭で、
ギリシャ・ローマの古典を駆使し、天文学、物理、数学、音楽、哲学、修辞学、医学の文献に通じ、百科全書のような人でした。

聖べーダは聖書解釈の業績でも知られていて、使徒マタイの召命のエピソードについて、イエスがただ「私に従いなさい」とひとこと言ってマタイが職場を離れてついていった、というシーンを、「イエスは徴税人(マタイ)を見つめ、『憐れみ、そして選ばれ』、わたしについてきなさいと言った」と解釈して表現したのです。

(竹下節子さんのブログより参考)

 

カラバッジョ「マタイの召命」

フランシスコ教皇は17歳の年の聖マタイの祝日にこの言葉に出会ったのだとか。

聖書に限らず、人生において大切に思える言葉との出会いをされたという方は多いのではないでしょうか。

 

第二バチカン公会議の教会憲章11にはこうあります。

「すべてのキリスト信者は、どのような生活条件と身分にあっても、
各自自分の道において父自身が完全に持っている聖性に達するよう主から招かれている。」

 

使徒的勧告「キリストは生きている」にパパ様が書いていらっしゃいます。

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「召命」という語は、神からの呼びかけとして、幅広い意味で解しうるものです。
それは、命への招きも、ご自分との友情への招きも、聖性への招きも含む、さまざまなものを意味します。
これは貴重なものです。
わたしたちの生涯全体を、わたしたちを愛してくださる神の真正面に据え、
意味のない混沌の産物であるものなど何もないこと、
すべてのものが、わたしたちのために素晴らしい計画を用意してくださる主にこたえる道へと組み込まれるはずであると、わたしたちに理解させてくれるからです。

 

この2つは、今のわたしにとって、暗記して毎日復唱したいくらいの言葉です。

10日の聖書朗読にも、心が揺さぶられました。

どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、わたしたちを愛し、
永遠の励ましと素晴らしい希望を、恵みとして与えてくださったわたしたちの父である神が、
あなた方が善い業に励み、善い言葉を語るときいつも、あなた方の心を励まし、強めてくださいますように。

2テサロニケ2・16~17

 

今月は死者の月です。

各々、身近な大切な方が神様の下で過ごされているでしょう。

わたしは、特に母が、地上のわたしたちと神様とのとりなしをしてくれているので、
こうして素晴らしい言葉や教会の人々との出会いの恵みが与えられている、と信じています。

死者のために祈りましょう。

 

 

守るべきおきて

今月のベトナム語ミサの様子です。

久留米教会のベトナムコミュニティは人数がどんどん増えて、活気が増してきているように思います。

 

 

彼らの日本での労働の実りと教会コミュニティでのお恵みが豊かなものになるよう、祈っています。

 

【教会のおきて】というのをご存じでしょうか。

教会共同体の約束事として、5つのことが決められています。

1.主日と守るべき祭日のミサにあずかり、肉体労働を休むこと

2.毎年少なくとも一度、ゆるしの秘跡を受けること。

3.少なくとも復活節の間に聖体の秘跡を受けること。

4.教会が定めた大斎と小斎の日を守ること

5.各々の分に応じて教会の維持費を負担すること。

 

そう難しいことではない、と思いませんか?

1の「肉体労働を休むこと」というのは、安息日だから、ということです。

わたしたちキリスト教徒にとっての安息日は、この【おきて】によると、

「ミサにあずかり、そのあとは安らかに過ごしなさい」くらいのニュアンスですが、

ユダヤ教徒にとっての安息日は、ヘブライ語でシャバットと言い、とても厳格に決められた日です。

 

安息日は日曜日ではなく、金曜の日没から翌土曜日の日没までを指します。

ですが、実際には、金曜の日没に備えて午後早い時間からお店などが閉まり始めます。

日没までに家に帰り、翌日の分までの食事を用意しなければならないからです。

ホテルの近くにあったマクドナルドまで閉店していました。

ホテルのエレベーターも「シャバットエレベーター」になり、

ボタンを押さなくてもいいように各階停止モードに切り替えられます。

つまり、何も「労働」をしてなならないのが安息日なのです。

 

ある安息日のことであった。
イエスが麦畑の中を通っておられたとき、弟子たちは道々、穂を摘み始めた。
すると、ファリサイ派の人々がイエスに言った、
「なぜ、安息日に許されていないことをするのか」。
(中略)
イエスはこう仰せになった、
「安息日は人のために設けられたのであって、
人が安息日のためにあるのではない。
それ故、人の子は安息日の主でもある」。

マルコ2・23~28

「あなた方は、わたしが律法や預言者たちを廃止するために来たと思ってはならない。
廃止するためではなく、成就するために来たのだ。」

マタイ5・17

 

イエス様は、ユダヤ人でありユダヤ教徒でした。

おそらく、30歳になられるまでは安息日だけではなく、厳格に律法に従った生活をされていたことでしょう。

だからこそ、こうした教えが生まれたのです。

人の子は安息日の主である
律法を廃止するためではなく、成就するために来た

律法のおきてを守ることに執着し、それに縛られて大切なものを見失っていた当時の人々への警告でした。

 

わたしたち(一般的キリスト教徒)の目には、安息日にはエレベーターのボタンを押すことさえ労働であるから禁止する、というのは不思議な気がします。

 

正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。
わたしたちの主イエス•キリストが現れる時まで、汚れなく、咎められることもなく、この掟を守りなさい。

1テモテ6•11,14

 

【教会共同体のおきて】

ミサにあずかることはもちろん一番大切ですが、

教会維持費を納入し、共同体をわたしたちが守り、将来にわたり維持発展させていくことは、いまのわたしたちの一番重要な責務ではないでしょうか。

 

父と子と聖霊

三位一体の祝日について記事を書こうと考えを巡らせてみましたが、「三位一体」について書くのはとても難しい。

Lex Orandi,Lex Credendi の精神で考えてみました。
三位一体という言葉、教義について噛み砕いて説明しようと試みるのではなく、
「父と子と聖霊のみ名によって、アーメン」と十字を切るとき、どのように感じ、どう考えているか。
ミサに与っている間、心を落ち着かせて集中して三位一体の神に心を寄せているか。
その祈りの在り方についてじっくり考えてみたい、と思ったのです。

 

この祭日は、父と子と聖霊の神のいのちについて考え、賛美する日です。
神のいのちは、交わりと完全な愛のいのちであり、全宇宙とあらゆる被造物の源であると同時に目的でもあります。それは神そのものです。

復活したイエスのたまものである聖霊は、神のいのちをわたしたちに伝え、三位一体の力をわたしたちに引き寄せます。
それは、愛、交わり、助け合い、そして分かち合いの力です。
愛する喜びのうちに他者を愛する人は、三位一体の写しです。
互いに愛し合い、助け合っている家族は三位一体の写しです。
人々が互いの幸せを求め、霊的、物的財を分かち合っている小教区は三位一体の写しなのです。

教皇フランシスコの2014年6月15日の「お告げの祈り」のことば 三位一体より抜粋https://www.cbcj.catholic.jp/2014/06/15/8923/

 

「愛、交わり、助け合い、分かち合いの力」
「人々が互いの幸せを求め分かち合っている小教区は三位一体の写し」

ぜひ取材してホームページに紹介してほしい、と、ある信徒の方から紹介されたグループがあります。

久留米教会の『みこころの会』という祈りのグループです。
50年前から続いているそうで、毎月第1金曜日の「初金ミサ」の後、メンバーが20名ほど集まり、祈りを捧げていらっしゃいます。
亡くなられたメンバーもいらっしゃいますが、コンスタントに新しい方が入られ、この50年ずっと20名ほどで祈り続けてこられたそうです。

「何についてお祈りされているのですか?」と質問すると

「煉獄の霊魂のため、先祖の霊の供養のため、また、信者が家族で自分だけだったという故人のため、久留米教会の納骨堂に収められているすべての霊のために祈っています。」

というお答えでした。

50年もの長きにわたり、亡くなられたすべての霊の安息のために祈り続けていらっしゃることに、とても心を揺さぶられました。

先ほどのパパ様のお言葉にあったように、人々が交わり助け合い、互いに祈りのうちに分かち合っている姿、これが三位一体の写しなのだ、と理解できた気がしました。

みこころの会の皆さんの祈りの集まり、来月は参加してみようと思います。

 

”Lex orandi” 祈りの教会

みこころレターvol.9を発行しました。
9号!こうして続けて情報を発信し続けられるのも、信徒の皆さんの協力があってのことです。

 

今回もいろいろな方に寄稿していただきました。
久留米教会を活気づけてくれているフィリピンとベトナムコミュニティの皆さんの様子も、毎号少しはお伝えできるように構成しています。

今回の特集は、信徒の皆様にご協力いただいた「洗礼に関するアンケート」の集計結果です。
詳細は、ぜひ手に取ってご覧いただきたいと思います。

洗礼を受けた時期、信仰を持っていてよかったと感じるとき、ミサ・教会に来てよかったと感じるとき、などについて多くのコメントをいただくことができました。

・静かな(神を想う)時間が持て、日常を忘れることができる。
・神様の前で自分の心を見つめられる機会でもあり、信者の方々との会話が楽しめる。
・困難なことがあった時に必ず支えがあると思える(信じれる)ことで前進できる。
・仕事や人間関係、家族のことなど、祈りながら、大切なことは何かを考えながらやってこれた。

うんうん、なるほど、と皆様のご意見にとても深く気持ちを揺さぶられました。
とても多くのご回答、コメントをいただいたのですが、紙面の都合ですべてを掲載することはできませんでした。
先ほどご紹介したようなご意見をできるだけ多く掲載したつもりです。
ご回答は幅広い年代の信徒の皆様からいただきましたので、集計結果はどなたがお読みになっても共感できる部分が多いかと思います。

 

ラテン語で
Lex orandi,lex credendi

直訳では「祈りの法が信じることの法である」
つまり、教義はそもそも祈りのあり方がまず基盤にあって生まれてくる、祈り方が信じている事柄を決める、ということです。

教会は祈りの場です。
多くの信徒のさまざまな祈りが積み重なり、大きな力となって聖堂のなかいっぱいにみなぎっているのをいつも強く感じます。

日曜の朝、その大きな力をいっぱい吸い込んで、自分の1週間のエネルギー、糧とすることができることを感じるとき、わたしは「信仰を持っていてよかった」と感じます。