行事風景
揺るがないことば
通常(去年まで)のGWは、多くの方がお仕事、学校がお休みとなり、家族が帰省して賑やかだったことでしょう。
今年は、静かに新しい連休の過ごし方を楽しんでいるところです。
その一つが、最近よくご紹介しているインスタグラムの楽しみ方です。
世界中の美術館が、おしみなく素晴らしい作品をどんどん紹介してくれています。
バチカン美術館は、日々の聖書朗読の箇所に関連した作品をあげてくれています。
パパ様のアカウントでは毎日、その優しいお顔やお声に触れることが出来ます!
ヨハネ・パウロ2世の、1997年のワールドユースデイでのメッセージです。
「わたしたちは、激変する世界の中で生きています。
絶対と思われたイデオロギーも、終わりを迎えようとしています。
地球上の多くの国の国境線を引き直さなければなりません。
全世界の人々は、うろたえ、怯え、不安を感じています。
(マタイ9・36)
しかし、主のみ言葉は消え去ることはありません。
歴史を読み返すとき、各時代は絶えず栄枯盛衰を繰り返してきましたが、主のみ言葉は、揺らぐことなく輝いています。
(マタイ24・35)
教会の信仰は、唯一の救い主、主イエス・キリストの上に、昨日も、今日も、そしてこれからも永遠に築かれていくのです。」
1997年は、香港が中国に返還された年です。
また、イギリスのダイアナ妃、マザー・テレサがお亡くなりになった年でした。
群衆が牧者のいない羊のように疲れ果て、倒れているのを見て、憐れに思われた。
(マタイ9・36)
天地は過ぎ去る。しかし、わたしの言葉は決して過ぎ去ることはない。
(マタイ24・35)
23年も前のお言葉ですが、たまたまこの箇所が紹介された本を読んでいて、とても驚きました。
まるで、昨日、教皇が世界中の信徒に向けて発せられたメッセージのようです。
その時代を反映した、その時々の場所と相手を想定して語られる歴代のパパ様のお言葉は、いつの時代も古びることなく、わたしたちの心を深く揺らします。
決して消えない、揺るがずに輝き続ける祈りの言葉、みなさんも自分の気に入ったものをいくつか心にお持ちだと思います。
キリストによって、
キリストとともに、
キリストのうちに、
聖霊の交わりの中で、
全能の神、
父であるあなたに、
すべての誉れと栄光は、
世々にいたるまで。
アーメン
(書きながら思わず歌ってしまいました。)
どうか、すべてのものを一つにしてください。
父よ、あなたがわたしのうちにおられ、
わたしがあなたのうちにいるように、
彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。
(ヨハネ17・21)
聖なる神の御母よ、御保護に寄りすがり、御助けを求めます。
わたしたちは、あなたにより頼みます。
あなたはわたしたちの歩みを救いと希望のしるしとして照らしてくださいます。
いつくしみ深き、慈悲あふれる、優しきおとめマリアよ。
アーメン。
(パパ様のロザリオの月にあたっての書簡より)
祈りの言葉は、こうした揺るぎない聖書のことばを唱えるだけでいいのです。
祈る人ほど強い人はいない、と思うのです。
主はすべてを与えると約束してくださいました。
わたしたちが心を一つにして祈るとき、主はわたしたちのあいだにおられます。
(マタイ18・19~20)
心にエネルギーが湧いてくるような、元気な気分になる新しいお気に入りの祈りのことばを、聖なる読書や聖書のなかから見つけてみませんか。
我が家でも甥たちが帰省できないGWですが、ご近所に元気をお裾分けする意味で鯉のぼりを上げました。
マラナ・タ
教会は閉鎖されていますが、以前と同じように、事務の森さんと有志の方が聖堂を整えてくれています。
久留米教会の行事風景を、聖書の言葉と神父様、先輩方に教わったことを交えながら書いてきました。
ご紹介すべき行事がありません。
神父様や先輩方とお会いしてお話することもありません。
ですが、素敵な写真をこうして撮影して送ってくれる友だちがいます。
今週の記事についての感想を聞かせてくださる先輩方がいらっしゃいます。
外出自粛の生活の中で、読書の時間がたっぷりとあることは、お恵みのひとつでしょう。
そして、信仰に関する本を読んでいると聖書を開いて確認したくなります。
聖書を開き、以前、神父様に教わったことを書きこんでいる箇所に出会ったときの喜び!
「聖書に直接どんどん書きなさい。
聖書が汚れるくらい書いていいのです。」
と、よくおっしゃっていました。
(故人ではありません!お元気です。
東京で頑張っていらっしゃるようです!)
十字架の教えは、滅びてしまう者にとっては愚かしいことですが、救いの道を歩いているわたしたちにとっては神の力です。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする」と聖書に書き記されています。
事実、この世は神の知恵に囲まれているのに、自らの知恵によって神を知るには至りませんでした。
ユダヤ人は徴を要求し、ギリシャ人は知恵を追求していますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えているからです。
つまり、わたしたちが宣べ伝えているのは、ユダヤ人には人をつまづかせること、異邦人には愚かなことですが、ユダヤ人であれギリシャ人であれ、召された者にとっては、神の力、神の知恵であるキリストなのです。
神の愚かさは人間より賢く、神の弱さは人間より強いからです。
(1コリント1・18~19、21~25)
この箇所には、
ギリシャ人(=異邦人)は知性を求めているが、本当の知恵とは「十字架につけられたキリスト」である。
十字架につけられたイエスは、今もなおわたしたちとともに苦しんでくださっている。
と手書きしていました。
「十字架につけられたキリスト」の事件は、その意味に共鳴しない者にとっては、単なる愚かな出来事にすぎないのです。
一方で、この事件の悲劇的な出来事が勝利であると目を開かされた者にとっては「神の力」となり、それが生み出すのが「神の知恵」というわけです。
バチカン美術館のインスタグラムからの画像です。
(天使がおじさんっぽいのがちょっと怖いですが。。。)
この絵の説明にはこうあります。
「キリストだけが、沈まない光の夜明けを引き起こすことができるのです。
なぜなら、彼は正義の太陽だからです。(Mal3・20)」
マラキ書の3章を開いてみました。
しかし、わたしの名を畏れるお前たちには、正義の太陽が輝き、その翼には癒しがある。
(マラキ3・20)
正義の太陽( sun of justice )のところに、「メシア」と鉛筆で記入していました。
いま、切に願います。
マラナ・タ
神のもとにいらっしゃる「生けるキリスト」の再来を乞い願う言葉です。
いわゆる「再臨」信仰で、今の世の終わりと新しい世の到来を期待する、当時の黙示思想的信仰の表れだそうです。
黙示録に描かれているような状況が来るかは別として、「今の世」(=人間のおごりが招いた混沌)の終わりが近づき、「新しい世」(=世界が協調してより良い社会を築く時代)の到来が期待される現在は、ある意味では黙示思想の時代なのかもしれません。
今もなおわたしたちとともにいてくださる方、苦しんでくださっている方、わたしたちのすぐ近くに来てください。
迷い、苦しみ、正しくない方向へと進んでしまう弱いわたしたちのすぐ近くにいてください。
将来ための、今の時。
桜と菜の花の季節から、久留米はつつじが咲き誇る時がやってきました。
コヘレトのことばが頭をよぎります。
天の下のすべてのものには、その時期があり、すべての営みにはその時がある。
生まれてくるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、癒すのに時がある。
壊すのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、笑うのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
(コヘレト3・1~4)
今回は、2つの記事をご紹介したいと思います。
一つ目は、カトリック新聞に掲載されていた、京都の柳本神父様の記事の一部です。
以前の状態に戻ることが正しいことでしょうか。
確かに、感染症に対する恐れは今ほどありませんでした。
けれども、貧困や格差、紛争や圧政によっていのちの危険にさらされていた人も多くいます。
国境が封鎖される前から、追い返される難民の人たちがいます。
わたしたちがパンデミック(世界的大流行)の恐ろしさを感じる前から、彼らは恐怖と不安を押し付けられていたのです。
新型コロナウイルスの恐怖から一刻も早く解放されることを願うのは当然ですが、そのときに「元の平穏な生活」に戻るのではなく、「排除のない神の国」へと少しでも進めていかねばなりません。
http://www.cwjpn.com/cwjpn/article/index.htm
2つ目は、竹下節子さんのブログからの一部です。
ローマ・カトリックというのは、何しろ強大なローマ帝国の国教になったのだから、ありとあらゆる「変異」を遂げてきた。
もとは何しろ「神の子」が刑死するというスキャンダルから発して、信徒も迫害を受けそれこそ隠れて生き延びた。
ありとあらゆる逸脱があった。
それなのに、消滅しないで、奇跡的に時々、「キリストに倣う」という人々が出てきて、苦しい自浄を重ねて生き延びだ。
言ってみれば、何度も瀕死になりながら生還して、過ちへの抗体を獲得したわけだ。
フランシスコ教皇。
彼が一貫して警鐘を鳴らしている環境破壊と、エコロジー的回心の必要は、このコロナ危機と四旬節をまさに先取りしたものだ。
コロナ危機の「後」の世界はない。
コロナ危機は、まさに、私たちの逸脱と過ちの「後」の出来事だからだ。
これまでの私たちの驕りと全能感が「前」にあり、今の「危機」はその帰結なのだ。
新型コロナウィルスとの「戦い」に「勝利」したら「戦後」のより輝かしい復興があるのではない。
私たちには「今」を変える以外には未来はない。
https://spinou.exblog.jp/31001045/
ニューヨークに住む妹が、日本に緊急事態宣言が発令される前に言った言葉が心にささっています。
「この危機が収束した後、世界の様子は激変してると思う。」
世界の風景が大きく変わりました。
日本の街の様子も、変わりました。
ですが、変わらなければならないのは、わたしたち人間なのですね。
昨日の主日には、ヨハネの福音書が読まれました。
トマスが指を入れて見なければ信じない、と言った後、
「わたしの主、わたしの神よ」
と言った有名な箇所が第2朗読でした。
詩編からの引用です。
主よ、あなたは見ておられました。
黙っていないでください。
主よ、わたしから離れて遠くにいないでください。
わたしの神よ、わたしの主よ、奮い立ってください。
わたしの裁き、わたしの争いのために、目を覚ましてください。
(詩編35・22~23)
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
ペテロたち使徒は、イエス様の死後、漁師や徴税人の仕事に戻ってはいません。
一度大きく変革した事態は、決して元に戻ることはないのです。
コロナ後に「元の平穏な日々が戻る」と信じるのではなく、近い将来にわたしたちが生きることになる「新しい世界」のために、「今わたしたちが変わる必要がある、自分たちの行動と意思で現状を変えることができる」と信じて、今を生きる時なのだと思います。
同じ、ひとつの言葉を話す世界
聖書の中に、「様々な言葉で話す人々」「いくつもの言語」に触れて書かれた箇所があります。
今の世界の状況と重なって読めないでしょうか。
同じひとつのウィルスと闘っているはずなのに、バラバラの言語で話し、資源・物資を囲い込み、他国・他者を非難する。
エリザベス女王のスピーチに感動しました。
NY州のクオモ知事のリーダーシップに感心しています。
マスクを日本に送ってくれた中国の都市がありました。
コロナウィルス感染症の治療薬として期待されている日本製の薬であるアビガンを、希望する世界の国々にも利用してもらえるように増産が始まっています。
わたしたちは、バラバラの言語で話している場合でしょうか。
創世記10章には、世界には様々な民族、言語があることが述べられています。
バベルの塔の話しは、その言葉や民族の違いを超えて世界はもともと一つで、皆が通じ合い、コミュニティをつくっていた、というところから始まります。
同じ言語を話す人々が自分たちの名声を高めるとともに、人々が他の地に散逸するのを妨げるためにバベルの塔の建築を始めたと記されています。
『町を造り、頂が天に達する塔を建てよう。われわれの名を高め、われわれが全地に散らばらないようにしよう』。
主は人の子らが建てた町と塔を見るために降ってこられた。
そして主は仰せになった、
「見よ、彼らはみな同じ言葉をもつ一つの民である。これは彼らの業の初めにすぎない。
これからも彼らが行おうと思うことで、成し遂げられないものはないであろう。
さあ、われわれは降りていって、あそこで彼らの言葉を乱し、互いの言葉が分からなくなるようにしよう」。
(創世記11・4~7)
今こそ、全地の面に散って生活しているわたしたちが、そして世界が、「同じ言語を話す人々」であるべきではないかと感じます。
聖霊降臨の場面を思い出します。
この場面は、「自分の尺度で神をつくらず、神の言葉に忠実に従い、聖霊で満たされれば、意思の疎通が実現し民族や個人の一致が可能であることを教えている」と書かれた故 小平神父様の本(聖書散歩)を読みました。
「話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。
それなのに、どうしてわたしたちは、めいめい生まれ故郷の言葉を耳にしているのだろうか。
わたしたちの中には、パルティア人、メディア人、エラム人もいれば、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、フリギアとパンフィリア、エジプトとキレネに近いリビア地方などに住む者もいるし、また、滞在中のローマ人や、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。
それにクレタ人やアラビア人もいるのだが、わたしたちはそれぞれ自分たちの国の言葉で、あの人たちが神の偉大な業を語るのを聞こうとは」。
(使徒2・7~11)
ウィルスは、世界中、文字通りくまなく蔓延してしまっています。
それぞれが自分たちの国の言葉で話しています。
医療体制も対策もさまざまです。
それでも願いは同じ、同じことを目指しています。
感染者の回復
医療従事者の負担軽減
この事態の収束
今こそ、もう一度私たちが人類共通のことばを構築する必要があるのではないでしょうか。
つまり、批判ではなく、互いに理解しあい、世界が協力することが今こそ必要なのです。
「わたしはいつも目の前に主を見ていました。
主がわたしの右にいてくださるから、
わたしは動揺することがない。
それ故、わたしの心は楽しみ、
わたしの舌は喜びに溢れた。
わたしの体もまた希望のうちに憩う。
あなたは、わたしの魂を陰府に捨ておかず、
あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。
あなたは、命に至る道をわたしに示し、
み前にあって、わたしを喜びで満たしてくださる」。
(使徒2・25~28)
危機的な中でありながらも、世界中の人が同じことを願うというこの状況のなか迎えたご復活の日でした。
ともに祈り続けましょう。
Stay home.
受難の主日
久留米教会は美しい。
久しぶりに訪れてみて、その威厳に満ちた佇まいを見て心からそう思いました。
5日日曜日は受難の主日(枝の主日)、イエス様のエルサレム入場を記念する日でした。
『集会祈願』
わたしたちが、主とともに苦しみを耐えることによって、復活の喜びをともにすることができますように。
久留米教会は、平日の午後のみ、皆さんの祈りの場として開放されています。
聖書と典礼も、4月分が置かれています。
以下、教皇フランシスコ 2020年3月27日新型コロナウイルスの感染拡大にあたっての「特別な祈りの時」でのことば(ローマと全世界へ)から抜粋しています。
この四旬節、あなたの差し迫った呼びかけが聞こえます。
「回心せよ」、「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」(ヨエル2・12)。
主はこの試練の時を選びの時とするようわたしたちに求めておられます。
それはあなたの裁きの時ではなく、わたしたちの判断の時です。
何が重要で、何が一過性であるかを識別し、必要なものとそうでないものを見分ける時です。
人生が向かう方向を、あなたと他者に向けて定め直すときです。
主はわたしたちに呼びかけておられます。
この嵐の中で目覚めるよう、イエスはわたしたちに招いておられます。
そして何もかもが難破しそうに思える今このときに、堅固さと支えと意味を与えることのできる連帯と希望を促すよう呼びかけておられます。
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、岩のように固いペトロの信仰を物語るこの場で、今夜わたしは皆さんを、嵐の海の星であり民の救いであるマリアの取り次ぎのもとに、主にゆだねたいと思います。
ローマと世界を抱きしめるこの広場から、神の祝福が皆さんに、なぐさめに満ちた抱擁として注がれますように。
主よ、世界を祝福してください。
人々のからだに健康をもたらし、心を慰めてください。
恐れてはいけないと呼びかけてください。
けれども、わたしたちの信仰は弱く、わたしたちは恐れてしまいます。
それでも主よ、どうか嵐のなすがままに、わたしたちを放っておかないでください。
もう一度「恐れることはない」(マタイ28・5)とおっしゃってください。
そうすれば、わたしたちはペトロとともに、「思い煩いを、何もかも神にお任せします。
神が、わたしたちのことを心にかけていてくださるからです」(一ペトロ5・7参照)。
---------------------------------------------------------------
教会でミサに与れる日がいつまた訪れるのか分かりません。
ですが、祈りはどこででも、いつでもできます。
わたしたちは、祈りの力を信じています。
福岡教区では聖週間の過ごし方として、次の祈り方を薦めています。
新型コロナウィルス感染の終息と、これに苦しむ人々への慰め、そして主が自らのもとへ呼び寄せられた人々の永遠の救いを全能の神に祈願する人は、
ロザリオ、十字架の道行き、聖体訪問、聖体礼拝、最低30分の聖なる読書のうちのいずれかを行い、神への信仰と隣人へのいつくしみと愛をもって、次の祈りを唱える。
- 信仰宣言
- 主の祈り
- アヴェ・マリアの祈り
心をこめてわたしに立ち返れ。
お前たちの衣服ではなく、心を引き裂き、
お前たちの神、主に立ち返れ。
ヨエル2・12~13(フランシスコ会訳)
聖週間の過ごし方とお願い
聖週間は、以下の通り、非公開でミサが捧げられます。
信徒はミサに与ることは出来ませんが、同じ時間に各家庭にて心を合わせてお祈りください。
4月 5日(日)枝の主日 6:30
4月 9日(木)聖木曜日 19:00
4月10日(金)聖金曜日(大斎・小斎)19:00
4月11日(土)聖土曜日 19:00
4月12日(日)復活の主日 6:30
福岡司教区内で、公開のミサはすべて中止となっております。
世界中で、信徒が教会でのミサに与れない現状であるという現実についても思いを馳せ、ともに祈りましょう。
カトリック久留米教会
信仰を持つという強さ
ドイツのメルケル首相の16の講演とインタビューをまとめた一冊の本があります。
『わたしの信仰 キリスト者として行動する』
という素晴らしいタイトルがついています。
この本は、彼女のキリスト者としての信念を根底に置いた力強い指導力を垣間見ることができます。
現在、わたしたちは困難な時代の中にあると言えるのではないでしょうか。
そんなときに、メルケル首相のこの本を読んで、力づけられました。
「紀元前5世紀前半、イスラエルの歴史においては困難な時代でした。
でも、イスラエルとユダヤ民族の歴史において「困難」でなかったときがあるでしょうか。
何千年にもわたるイスラエルの歴史は、大きな苦しみの道でしかなかったようにも読めます。
平和で幸せな時期もごくわずかに混じっていますが、ほとんどは苦難と痛みと悲劇の連続のようでした。
ユダヤ人の何千年もの歴史のなかで、彼らの希望と生命力の強さを目の当たりにするならば、大いに畏敬の念に襲われるでしょう。
この民族は常に、神が歴史の本来の主であるという信仰の掟を守り続けたのです。
この世界が直面する脅威や不安、破滅の淵を目にして、日ごとにおかしくならずにいられるでしょうか。」
2020年の春、まさに世界がそのさ中にあります。
お前たちは、『神に奉仕するのはむなしいことだ』と言う。
『その戒めを守ったからといって、
万軍の主の前に慎んで歩んだからといって、何の益があるだろう。
(マラキ3・14)
人生の方向や価値観を見失いそうな深刻な危機のなかで、現代のわたしたちにとってもこのマラキの問いは縁のないものではありません。
メルケル首相は、マラキの関心は、神を思い出させることにあった、と言います。
方向を見失って分裂した社会において、神を想起するように促し、
よき人生の支えであり最終的に人生を決めるものでもある、人間の存在理由を考えるように呼び掛けたのだ、と。
しかし、わたしの名を畏れるお前たちには、
正義の太陽が輝き、その翼には癒やしがある。
お前たちは外に出て、肥えた子牛のように跳ね踊る。
(マラキ3・20)
彼女の政治家としての信念は、キリスト教的な人間観に基づいています。
あらゆる人(ドイツ人だけではなく)の尊厳を守ろうとし、「被造物」に対する責任を全うしようとする姿勢。
次世代の繁栄に配慮し、スピードを増していく社会変化に取り残される人のないよう気を配り、高齢化社会への努力を続ける誠実さ。
政治家がキリスト教の信仰に基づいて行動する、というのは日本人には違和感があるかもしれませんが、現代の困難に立ち向かうためには、彼女のような確固たる信仰、ぶれない信念があることは最大の強みなのかもしれません。
この状況を、イスラエルの歴史と重ねるのは強引だとわかっています。
それでも、どうしても感じるのです。
希望と生命力の強さは、信仰というゆるぎない信念からくるのだ、と。
日本にいると、いえ、久留米で生活していると、この今の、恐怖に飲み込まれそうな現実から遠い世界に生きているようにも思えます。
ニューヨークとカリフォルニアに住んでいる知り合いは、不自由な生活の中、不安な日々を過ごしています。
強い信仰心があっても、この危機から逃れられるわけではありません。
今こそ、神様への信頼を見失わないように、心を鍛えるときでしょう。
パパ様は3/20のビデオメッセージで、こうおっしゃっていました。(意訳しています)
「イースターを前に告解したくても、教会に行けない、神父はどこに?
家から出れないのにどうすれば?
そういう人の声を聞きます。
いまこそ、神様と直接向き合いなさい。」
ミサ、信徒の役割
イエズス会の英(はなふさ)神父様の本に、こういうくだりがありました。
日本の教会はすでにイエスの口から吐き出されてしまったのだろうか。
主任司祭が不在になっている教会は多い。
そのとき、信者さんの心配はただ一つだけである。
日曜日のミサはどうなるのか。
もちろんそれは大きな問題だが、日曜日のミサさえあれば、それで教会と言えるだろうか。
もちろん日曜日のミサは中心的なものだが、それだけで教会が成り立っているわけではない。
今こそ、教会のメンバーすべてが目を覚ますように、主から望まれているのではないだろうか。
イエスは次のように語っている。
わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。
だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。
(黙示録3,19)
四旬節という、わたしたちキリスト者にとって最も大事なシーズンに入った途端にミサができない事態となりました。
この本は、今のコロナウィルスによる影響について書かれているわけではなく、カトリック教会全体の今置かれている危機的状況について書かれたものです。
ですが、今のわたしたちへのメッセージとも受け取れないでしょうか。
前イエズス会総長のアドルフォ・ニコラス神父様は、上智大学の講演で以下のように話されています。
「キリストの体の秘跡とは、聖櫃の中に安置されている聖体のことではありません。
キリストの体の秘跡とは、ホスチアだけではなく、ともに食べ、ともに飲む「おこない」としての感謝の祭儀です。
教会がミサを祝うと同時に、ミサが教会を作るという相互関係を、司祭も信徒も皆が意識していなければなりません。
ここに私たちのアイデンティティがかかっています。」
弟子たちとともにする食事のなかに、イエス様はその生涯の究極の意味を表現されています。
愛する弟子たちに、これまでのご自分の生き方を集約し、これからの十字架の死を先取りする表現として、この食事を祝っています。
最後の晩餐に限らず、イエス様は何度も何度も貧しい人々とともに食事をした姿が福音書に描かれています。
特に、罪びと、徴税人など社会の中でつまはじきにされていた人たちとともに食事をし、神の国の宴への招きを示したのです。
また、どこに座るか、だれを招くか、どのようにふるまうかなど、イエス様の大切な教えの場でもありました。
あなたがたのうちで一番偉い者は年下の者のようになりなさい。
上に立つ者は、給仕する者のようになりなさい。
食卓に着く者と給仕する者とでは、どちらが偉いか。食卓に着く者ではないか。
しかし、わたしはあなた方の中で、給仕する者のようになっている。
(ルカ22・26~27)
さらにペトロは説教の中で、イエス様の復活の証人を、
「前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活したあと、ご一緒に食事をした私たち」
(使徒言行録10・41)
と呼んでいます。
キリストとしてのイエス様を証しするのは、ペトロたちだけではなく、キリストともに食事をするすべての人々です。
現代のわたしたちも、その証しする人々なのではないでしょうか。
見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。
もし、誰かがわたしの声を聞いて戸を開くなら、わたしはその人の所に入って、食事をともにし、
その人もまたわたしとともに食事をする。
(黙4・20)
ニコラス神父様によると、ミサは個人の信心ではなく、教会にとってそのアイデンティティを表す表現です。
つまり、教会の自己表現、教会の生きる場である、というのです。
ミサを祝うことによって、私たちはキリストとの交わり、またお互い同士の交わりを新たにしてるのです。
お二人の神父様のお言葉から、ミサの意義、そのなかでの信徒の担う役割と責任について、とても考えさせられました。
久留米教会のお二人の神父様、「Mr.なごみ神父」と「Mr.癒し助祭」です。
聖書の成り立ち
日曜日にはミサに与り、一堂に会し、感謝をささげ、御聖体をいただく。
これまで当たり前だったことが、これほどの喜びだったとは、、、と多くの方が感じられでいるのではないでしょうか。
パパ様は「ミサで集まることができなくても、ウィルスに感染している方、そのために働く医師、看護師、ボランティアで対応する方、そのご家族のために特に祈りを捧げてください。」とビデオメッセージでおっしゃっていました。
ミサのない日々でも、こうして花壇のお手入れをしてくださっている方がいらっしゃることを心に留めてください。
「なぜ、新約聖書はギリシャ語で書かれたのか。」
という質問を、ある神父様にしてみました。
◆アレクサンドロス大王(在位BC336~323)の東方遠征以降、「コイネー」と呼ばれるギリシャ語が、地中海沿岸全域で共通語として用いられた。
◆広く多くの人々に教えを広めるためには、バビロン捕囚後、異邦人世界に離散したユダヤ人たちの言葉であるヘブライ語ではなく、ギリシャ語で書くことが最善策であった。
(移住先での暮らすユダヤ人たちは次第にヘブライ語を理解できる人が少なくなり、ギリシャ語など移住先の言葉を習得していく。)
◆新約聖書の著者たちが、ヘブライ語にこだわることなく、すべての人の救いという普遍性の観点から70人訳と呼ばれるギリシャ語旧約聖書(BC3世紀頃)を重視し、新約に引用していること。
イエス様の死後、非ユダヤ人キリスト教徒が増えると同時に、聖書(律法)を軽んじる傾向が芽生えていきます。
エルサレムを中心とした初代教会の使徒たちが、割礼、食物規定などの旧約の律法の規定にこだわっていたのに対し、掟にしばられずにキリストの弟子となる人々が増えてきたのです。
「私は律法を廃止するためではなく、完成するために来た」(マタイ5,17)
と言われたイエス様の教えに従って、使徒たちはその基本的スタンス、聖書(律法の文字ではなく精神を)重んじる態度を受け継ぎながら、イエス様の愛と無条件のゆるしを説くようになります。
★そして自分のためにも、聞き手のためにも、イエス様の宣教内容を要約して書き留めていく作業が必要となってきました。
★遠く離れた信徒を指導するために、手紙と言う形態で宣教することも必要となります。
★時間的にもイエス様から離れるようになるに従い、その言葉と活動を集め、書にして後世に残すことも必要です。
このように、イエス様の言葉として伝えられた口伝えの伝承が文書化されていくようになり、これらが編集されたのが新約聖書です。
聖書はすべて、神の霊感によるもの で、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするために有益です。
(2テモテ 3,16)
聖書のなかで、聖書の霊感について書かれている唯一の箇所だそうです。
何よりも心に留めておくべきことは、聖書のすべての預言は勝手に解釈すべきではないということです。
預言は決して人間の意志によってなされたものではありません。
聖霊に動かされた人々が、神からの言葉を語ったのです。
(2ペトロ 1,20~21)
福音書は、もちろん当時は「聖書」としての扱いではありませんでした。
ですが、徐々に「聖書と同じように」イエス様の言葉である福音書が意識されていくのです。
毎週のごミサで、旧約と新約、両方の聖書の箇所が読まれる意味は、ここにあります。
聖書は、イエス様が大事にされていた聖書(旧約)と、それを根底に置いたうえでイエス様が教えられたことを記した聖書(新約)を並べて読むことに意味があると言えるでしょう。
よく、宮﨑神父様が「聖書を声に出して読みなさい」とおっしゃいます。
聖ベネディクトゥスの戒律によれば、修道者が「聖書を読む」というのは、
声を出して読み、心に銘記し、暗誦し、黙想し、実行に移すことを意味するそうです。
そこまでは、、、。
ですが、試しに声に出して読んでみてください。
目で字を追うのとはまた、全然違った発見があります。
四旬節の意義
教会でみなさんとごミサに与り、言葉を交わす通常に、一日も早く戻ることができますように。
今年の四旬節は、いつもとは違う、特別な意味を神様がお与えになっているのかもしれません。
使徒的勧告「喜びに喜べ」145
ささやかな愛情表現を大切にする共同体では、
成員が互いに気遣い合い、開かれた場、福音化の場を築いており、
そこは、御父の計画のとおりにご自分をささげられた復活の主の現存の場です。
パパ様からの四旬節メッセージを読みながら黙想してみました。
使徒的勧告『キリストは生きている』の中で若者に向けて記したことを、あらゆるキリスト者と分かち合いたいと思います。
「十字架につけられたキリストの広げた腕を見つめなさい。
幾度も幾度も繰り返し救っていただきなさい。
そして自分の過ちを告白しようとするときは、罪の憂いから解き放ってくださるキリストのあわれみを、固く信じてください。
深い思いがこもった流れるその血をじっと見つめ、その血で清めていただきなさい。
そうすればあなたは、つねに新たにされるでしょう」(123)。
イエスの過越は過去の出来事ではありません。
聖霊の力によって、つねに今ここにある出来事です。
そして、わたしたちが苦しんでいる多くの人々のうちに、信仰によってキリストのからだを見て触れられるようにしてくれるのです。
ダビデは、イスラエルの王のうちで、その代々の民族に最も愛された王です。
波乱万丈の生涯について書かれた旧約聖書の「サムエル記」「列王記」は、どのような小説にも及ばないほどの読みごたえがあります。
マタイの1章には、6回も「ダビデ」という名が登場します。
ひとことで言えば、『たて琴が巧みな美少年』という感じでしょうか。
グイド・レーニ『ゴリアテの首を持つダビデ』
ウフィツィ美術館
さまざまな逸話は省いて、今日ご紹介したいのは、ダビデの詩です。
研究家たちは詩編はダビデ作ではない、と結論づけているようですが、そんなことはどうでもいい。
150編中、「ダビデが書いた」として紹介されている73編のなかから、詩編51を、美しい文語訳で少し抜粋しながらご紹介します。
『聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、これはダビデがバテシバに通った後、預言者ナタンがきたときによんだもの』
ああ、神よ、
ねがわくは汝のいつくしみによりて、我をあわれみ、
汝のあわれみの多きによりて、
わがもろもろのとがを消したまえ。
わが不義を、ことごとく洗い去り、
我をわが罪よりきよめたまえ。
我はわがとがを知る。
わが罪は常にわが前にあり。
汝のヒソプをもて我を潔めたまえ、
さらば我清まらん。
我を洗い給え、
さらば我雪よりも白からん。
汝我に喜びと楽しみとをきかせ、
汝が砕きし骨を喜ばせたまえ。
ねがわくは聖顔をわがすべての罪よりそむけ、
わがすべての不義を消し給え。
我をみ前より棄て給うなかれ、
汝の潔きみたまを我より取り給うことなかれ。
汝の救いの喜びを我に返し、
自由のみたまを与えて、我を保ち給え。
さらば我、とがを犯せるものに、汝の道を教えん。
ダビデは「我はわがとがを知る。わが罪は常にわが前にあり。」と、謙遜で心からの悔悛の気持ちをこの詩に込めているように感じます。
ダビデがウリヤを殺した罪を許せますか?
神はダビデを許されました。
わたしたちがダビデの罪を「許せない」と感じるとしたら、それはわたしたちが自分の友人や周囲の人々に対して、同じような裁きの気持ちを持っているということかもしれません。
豊かで穏やかな、優しい気持ちで、今週も四旬節の祈りの日々を過ごしましょう。
荒野での声
四旬節の意味について、パパ様が一般謁見で述べられたお言葉を抜粋してご紹介します。
キリスト教信仰と一年の典礼の中心である復活祭へと向かう、この「四旬節」の歩みは、公生活前に荒野で40日間の祈りと断食の日々を過ごしたイエス様に従うもの、と話され、キリスト者にとって「荒野」が示す精神的意味を説明されました。
自分が荒野にいると想像するよう招かれたパパ様は、そこで最初に感じるのは大いなる沈黙ではないだろうかと述べられました。
荒野は、わたしたちを取り囲む騒音から離れ、その沈黙の中で、風のように吹き、心に触れる神の御言葉を聴く、まさに「御言葉の場所」である。
実際、聖書では、主は荒野でご自身の民に話しかけることを好まれる。
神がモーセに十戒を託されたのは、荒野においてであった。
荒野は「孤独の場所」である。
今日もわたしたちのまわりには多くの荒野がある、貧しい人やお年寄りなど、疎外され見捨てられた多くの人々の存在である。
荒野は無言のうちに助けを求めるこれらの人々へとわたしたちを導き、四旬節の歩みは最も弱い立場の人々に向かう愛の歩みとなる。
イスラエルの荒野の風景です。
パパ様は、荒野でのイエス様の言葉によく耳を傾けるために、この四旬節は特に聖書を開くようにも勧められています。
イスラエルの荒野では、ここを実際にイエス様が歩かれたのだ、と心が震える思いがしました。
この写真のように荒涼とした場所も死海の西側には多くありますが、イスラエル政府の取り組みで植林が進み、荒野だった地区が緑豊かな景色に生まれ変わっています。
緑、それはわたしたちの「実際の行動」を指しているのではないでしょうか。
荒野であっても、人々が行動を起こせば緑豊かな地となるのです。
疎外され、見捨てられたと感じている人々のために単に祈るのではなく、わたしにできることはないかと考えています。
病気で教会に行けない方々を訪問する。
公園で定期的にホームレス支援の炊き出しをする。
誰もやらないから、と進んで教会の墓地を清掃する。
そうした先輩信徒の方々の姿を見ていると、彼らには荒野でのイエス様の声が聞こえているのだ、と感じます。
ごミサに与れないこの2週間、わたしにできることを行動して過ごしたいと思います。
主の山に備えあり
久留米教会の春の風景です。
「自分の信仰が弱い」と感じることがあります。
強弱で表すのはおかしな言い方かもしれませんが、
ふとしたとき、つい神様への信頼を忘れかけたとき、「あぁ、なんと弱いことか」とへこむのです。
おなか一杯に夕食を食べた翌朝、ものすごい空腹感で目覚めるように、
恵まれた日々に幸せと感謝を感じた翌日には、つまらないことで落ち込むことがあります。
聖書の中で、神様への信仰と従順の究極の逸話と言えば、真っ先に思い浮かぶのはアブラハムとイサクのストーリーでしょう。
アブラハムは100歳の時に、とうに諦めていた子ども、一人息子のイサクを思いがけなく授かります。
数年後、神様はアブラハムを試みられます。
「お前の愛するひとり子のイサクを焼き尽くす捧げものとしてささげよ」
聖書には、驚き慌てた、とも妻に相談した、とも記されていません。
翌朝、粛々と準備をし、供を連れてイサクとともに3日も歩き続けます。
歩いていた3日の間に、葛藤や怒りが渦巻いた様子もありません。
「二人はともに進んでいった」
と2回、記述があります。
創世記22・6~8
イサクも、父への信頼の中で、ともに進むことを恐れていないようです。
縛られて祭壇の上に置かれる際にも抵抗した様子はありません。
「その子供に手を下すな。
何もするな。
今こそわたしは、お前が神を畏れ、
お前のひとり子さえもわたしのために惜しまないことが分かった」
アブラハムが目を上げて見ると、角をやぶに引っ掛けている一匹の雄羊がいた。
アブラハムは行ってそれを捕らえ、息子の代わりに焼き尽くす捧げものとしてささげた。
アブラハムはその場所を「主は備えてくださる(ヤーウェ・イルエ)」と名付けた。
それで今日でもなお、
「主の山には備えがある」と言われている。
22・12~14
神への信頼
親への尊敬
従順な祈り
絶対的な愛
そうした信仰を歩んでいれば、主は必ずそれに応え、備えておいてくださるのです。
とても真似できることではありませんが、
神様への信仰の基本は、「信頼と愛」であることを痛感させられます。
アブラハムは若者たちの所に戻った。
彼らは、ともにベエル・シェバに向かった。
アブラハムはベエル・シェバに住んだ。
22・19
ベエル・シェバは、現在の地図で見てもそのままの名前で存在する町です。
イスラエル12氏族の住む土地の南端だったことから、
北端のダンと併せて「ダンからベエル・シェバまで」という言葉がイスラエルの民の住む土地の意味で聖書に登場します。
ダンはヨルダン川上流にある、現在のテル・エル・カディ。
アブラハムがベエル・シェバに住んでいたのです!
こういう記述を見ると、4000年以上前の彼らの姿が目に浮かぶようです。
創世記を読み返しています。
今週も、お恵みを見逃しませんように。
芸術の中の聖書
偉大な芸術作品に聖書を題材にしたものが多いことは、以前も記事にしました。
現代においても、絵画、音楽、映画、小説の中に聖書の物語が意外とちりばめられています。
その聖書の箇所を知っているのと知らないのとでは楽しみ方も違ってきます。
昨年、19世紀フランス象徴主義の画家ギュスターヴ・モローの展覧会が福岡市美術館で開催されました。
一番のお目当ては、洗礼者聖ヨハネとサロメにかかる作品群でした。
それだけでもおよそ30作品が展示されていました。
展覧会の出口には、こうして撮影可能な巨大な作品の写真がありました。
この作品も、ヨハネとサロメのストーリーを知らなければ鑑賞を満喫できません。
そんな中でもわたしが一番衝撃を受けた作品は、
象徴主義性の集大成的な傑作『人類の生』です。
(この写真は2種類ある作品うちの一つで、今回展示されていたものとは違います。)
写真引用 http://www.salvastyle.com/menu_symbolism/moreau_hummanite.html
1870年代末には構想が練られていたことが判明している作品で、
聖書中の主題や神話の逸話から9つの場面を選定し
人類の3つの時期を表した祭壇画形式の大作です。
9つに分割される場面は、左から右に朝、昼、晩という時間的経過を表していて、
上段には旧約聖書の『アダム』の物語、
中段にはギリシア神話に登場する吟遊詩人『オルフェウス』の物語、
下段には旧約聖書の『カイン』の逸話が、
画面最上部の半円形の画面には、人類が至る終着地として「贖主イエス」の姿が描かれています。
「人類が至る終着地」という表現は、作品の解説にあったものですが、
実際にはイエス様の死は、わたしたち信徒にとっては、終着地ではなく始まりです。
同時に、イエス様が贖い主として今もこれからも人類の救いのために生きておられるということも表されているように思いました。
モローは聖書とギリシャ神話を題材とした絵を多く書いていますが、
この『人類の生』という作品には、タイトルからもわかるとおり、彼の人生観が表れているのではないでしょうか。
モロー展では他にもサムソンとデリラの物語など、旧約聖書から題材を得た作品が多くありました。
絵画はこうして「目で見る」のでわかりやすいのですが、
音楽となると言葉の壁もあり、ピンと来ないことが多いかもしれません。
マーラーの交響曲第4番をご紹介しましょう。
交響曲の中に、ドイツ語で歌われているパートがあります。
天上の生活「少年の魔法の角笛」より
我らは踊り、そして、飛び跳ねる。
我らは跳ね回り、そして、歌う。
それを天のペテロ様が見ていらっしゃる。
ヨハネは仔羊を小屋から放して、屠殺者ヘロデスはそれを待ち受ける。
我らは寛容で純潔な一匹のかわいらしい仔羊を死へと愛らしいその身を捧げ、犠牲にする。
聖ルカは牛をためらいもなく、犠牲にさせなさる。
天上の酒蔵には、ワインは1ヘラーもかからない。
ここでは天使たちがパンを焼くのだ。
すべての種類の良質な野菜が天上の農園にはある。
それは良質のアスパラガスや隠元豆や、その他欲しいものは我らが思うがままに鉢皿一杯に盛られている!
良質な林檎や梨や葡萄もこの農園の庭師は何でも与えてくれる。
牡鹿や兎やみんなそこの辺りを楽しそうに走り回り、獣肉の断食日がやって来たらあらゆる魚が喜んでやって来る!
ペテロ様が網と餌とを持って天上の生け簀(す)へといそいそといらっしゃる。
マルタ様が料理人におなりになるのだ。
(Wikipediaより)
ペテロにヨハネ、ヘロデ、ルカ、天使がパンを焼き、ペテロが魚を獲り、マルタが料理をする!
こんな歌詞で歌われていると知ってから聞くと、また全然違って楽しめる気がしませんか?
苦難の捉え方
昨日は、久しぶりの宮﨑神父様のごミサに森山神父様も来てくださり、久留米教会は本当に恵まれていることを痛感した日曜日でした。
自然災害、病気、事故はいつの時代もわたしたちをふいに襲う悲劇です。
オーストラリアの森林火災はまだ燃え続けています。
新型のコロナウィルスの感染拡大はどこまで広がるのでしょうか。
交通事故の発生しない日はないのではないでしょうか。
病気治療中の知人に「お祈りしています」と言葉をかけても、それは自己満足でしかない、と感じることもあります。
そう感じたとしても、ぜひ「お祈りしています」と声をかけるか、カードに書いて送ってください。
わたしが病気をしてながく入院していたとき、
(今のように携帯でメッセージ、という時代ではなかったからですが)
励ましのカードや手紙が病室に届くのが楽しみで、とても嬉しかったことを思い出します。
「忘れていませんよ」
「あなたのためにお祈りしましたよ」
その気持ちがとても励みになったものです。
『なぜ私だけが苦しむのか』現代のヨブ記
この本を読んで、ショックを受けました。
「苦難は神様から与えられる試練だ」と信じて生きてきたわたしにとって、衝撃的な本でした。
そして同時に、わたしの『人生の書』の1冊になったのも本心です。
神のみ旨に従い、周囲の人々のために尽くして生きてきたユダヤ教のラビが、我が子に障害があるとわかり、14歳でその短い生涯を終えるまで苦悩を抱えながら育てたのちに行きついた信念が書かれています。
わたしは自分の病気がわかったとき、これは神様からのメッセージだと素直に受け止められたし、いまでは「この障害があることはわたしの長所であり、お恵みだ」と単純に思っています。
母が若くして亡くなった時は「どうしてですか?なぜこんなに早くお召しになったのですか?」と神様に文句を言い続けましたが、いまでは「病弱だった母を早くゆっくりさせてくださったのだ」と純粋に思っています。
ですが、この本の作者は、
「私に言えることは、私の信じる神は、このような病気を与える方ではないし、奇跡的治療法を隠し持っているのでもない、ということだけです。
そうではなく、不滅の精神を弱く傷つきやすい肉体に宿して生きていくしかないこの世界で、自分の責任でない不公平によって苦難にさいなまれている人、死の恐怖におののいている人に、私の信じる神は強さと勇気を与えてくださるのです。」
「私たちにできることは、なぜこんなことが起こったのか?という問いを超えて立ち上がり、こうなった今、私はどうすればよいのか?と問いはじめることなのです。」
災害、病気、事故などで苦難のなかにある人に、「神様は乗り越えられる苦難しかお与えになりませんよ」といった安易な言葉をかけることも、作者は「酷である」と言います。
自らと神との関係において与えられた苦難や試練を乗り越える、という根本的な考え方は同じですが、そもそもそれらは神が与えたものではない、というのです。
その時、お前の光は暁のように輝き出で、
お前の癒やしは速やかに生じる。
お前の正しさがお前の先を行き、
主の栄光が背後の守りとなる。
その時、お前が呼べば、主は応え、
叫べば、『わたしはここにいる』と仰せになる。
もし、お前の中から軛を除き、
指をさすことや中傷をせず、
飢える者のために尽くし、
虐げられる者の必要を満たすなら、
お前の光は闇の中に輝き出で、
お前の暗闇は真昼のようになる。
イザヤ58・8~10
軛、闇をどう捉えるのか。
どこに光が見いだせるか。
神と自分との関係を見直すために、先人たちがそうしていたように、わたしたちも問い続ける問題なのでしょう。
信仰とは、神と自分自身との関りを追求し続けることです。
答えは自分でみつけるのです。
最後に、この本に紹介されていた、アウシュビッツからの生還者のことばを記しておきます。
「ナチの行ったことのために、私は神に近づいたわけでも遠ざかったわけでもない。
神にはその責任はないのだ。
私たちこそ、私たちの人生について神に責任を負っているのだ。
私たちは短い人生の日々、あるいは長い人生の日々を神に負うているのだ。」
「今日」という日について
先週は司教館の青木神父様、昨日はジュゼッペ神父様がごミサに来てくださいました。
毎週違った神父様のお話を聞くことができる、というのも贅沢なものです。
先週のごミサと今週のごミサが違うものであるように、
昨日と今日は、まったく別のものです。
以前ある神父様が、遠方の町の教会にミサに呼ばれ高速道路で帰る際についうとうとしてしまった、というお話をされました。
「片道2時間ほどかかる道中、睡魔に襲われ、高速道路の壁に激突してしまいまいた。
幸い、前後に他の車はおらず、自分のケガも大したことはなかったけれど、
さっき司式した今日のミサが自分の司祭生活の最後のミサになっていたのかもしれない。
心を込めて務めただろうか。
次からは、毎回『今日のミサが人生最後』と思って務めよう、と心に誓った。」
今日、という日は今この瞬間のことでもあります。
24時間という時間軸ではなく、神様を感じたそのときが、今日となるのです。
御ひとり子は人となられ、
きょう神殿に捧げられました。
わたしたちも聖霊の光に従い、罪のやみを捨て、
みずからをあなたにささげることができますように。
昨日の集会祈願のことばを聞いて
パパ様が「キリストは生きている」とおっしゃっている意味がよくわかりました。
今日、ダビデのまちに救い主が生まれた
今日、この家に救いが訪れた
今日、あなたは楽園にいる
これらの「今日」は、単にそのことが起きた日を指すと読むのではなく、いつでも起こりえる「今日」と考えられます。
社会的に弱い立場の人を受け入れたとき
人の嫌がる仕事を喜んで引き受けたとき
自分の罪を悔い改め心から神に祈るとき
他者のために自分を犠牲にして働くとき
家族友人と心を一つに神を賛美するとき
そのとき、それがイエス様が生まれた「今日」となり、
救いが訪れる「今日」、イエス様とともに楽園にいる「今日」となりえるのです。
『われらの日用の糧を、こんにちわれらに与えたまえ』
マタイ6・11では「今日与えてください」、
ルカ11・3では「毎日与えてください」となっています。
マタイ福音書では、きょう一日神の恵みによって生きるという幸せを願い求めており、
ルカ福音書では、神の恵みが永遠に続くことを願い求められていると理解できるそうです。
パパ様は先週の一般謁見で、山上の垂訓に関するお話しをされました。
「メッセージは弟子たちに対するものであったが、その背後には群衆の姿があったように、
これはすなわち全人類に向けたものであった。」
弟子たちに向けて教えられたその2000年前のある日は、
全世界のわたしたちに向けて語られた現代のある日でもあるのです。
事実、その教えは、聖書を開いて読んだその日、そのときにわたしたちに語りかけてきませんか?
朝起きて一番に祈るとき
「今日も一日よろしくお願いします」と唱えます。
寝る前に祈るとき
「今日も一日ありがとうございました」とつぶやきます。
わたしたちの人生は「今日」という日の積み重ねであり、明日が与えられる保証はありません。
今日、わたしたちのところにイエス様がお生まれになりますように。
今日、救いが訪れますように。
今日、楽園にいるお恵みが与えられますように。
ある、主日のミサ
昨年、教皇フランシスコ様が新しく制定された「神のみことばの主日」は
典礼歴「年間第3主日」、つまり1/26でした。
昨年の聖ヒエロニモ(ヒエロニムス)の日にパパ様は
『聖書を知らぬことは、キリストを知らぬこと』という彼の言葉を引用し、
みことばに捧げた日曜日が、神の民に聖書に対する宗教的で熱心な親しみを育むことを願って、この新しい典礼歴を発表されました。
毎週の主日のミサの一時間余りの時間に、わたしたちは多くの聖書のみことばにふれています。
26日のごミサの集会祈願がとても美しいと感じ、ここに記しておきたいと思いました。
天の父よ、冬の寒さのなか、あなたを賛美するためにわたしたちは集まりました。
きょうも御子キリストは、神の国の福音をわたしたちに語りかけてくださいます。
わたしたちの集いがあなたの光を受けて輝き、世界のやみを照らすものとなりますように。
イザヤ書9・1
闇の中を歩んでいた民は、大いなる光を見た。
暗闇の地に住んでいた者の上に、光が輝いた。
闇があるから、光が美しいのです。
わたしたちの日々に、さまざまな困難が与えられているから、
より強く神様のことばに耳を澄ませることができるのです。
詩編27・4
わたしは主に一つのことを願う。
わたしは一つのことを請い求める。
命あるかぎり、日ごとに主の家に住み、
主の麗しさを仰ぎ見、神殿の中で暁に目覚めたい。
1コリント1・17
キリストがわたしをお遣わしになったのは、洗礼を授けるためではなく、
福音を宣べ伝えるためでした。
それも、キリストの十字架が無意味なものとならないように、
知恵に溢れた雄弁に頼らずに伝えるためでした。
わたしたちは、福音を周囲に宣べ伝えているでしょうか、その行いを通して。
マタイ4・17
この時から、「悔い改めよ。天の国は近づいた」とイエスは宣べ伝え始められた。
ミサの司式をしてくださった青木神父様がおっしゃいました。
「神様のわたしたちへの働きかけ、神様の愛に気づくことが、悔い改めるということです。」
マタイ4・23
イエスはガリラヤ全土を巡り、会堂で教え、天の国の福音を宣べ伝え、民のすべての患いや病気を癒された。
人々の軛をともに背負い、患いや病気を抱えている人々と心を一つにして歩んで行かれたイエス様のお姿が、ガリラヤ湖の景色とともに目に浮かんできます。
青木神父様は、こうもおっしゃいました。
「日曜日のミサの聖書のことばを日曜だけのものにせず、
聖書を日々の生活に、つまり信仰の旅路にあてはめながら大切にしてください。」
天の父よ、あなたはわたしのうちに、いのちと力をおくってくださいました。
わたしたちがこの力に生かされて、
新しい一週間をあなたとともに歩むことができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
今日のこの記事を、教会から遠ざかっている方、
事情がありなかなかミサに参列できない方、
教会に来る勇気がまだ持てない方、
みなさんに捧げます。
誰に、どう祈るか。
「祈る」という行為は、とくに「こうあるべき」というスタイルの定義はなく、
自然に、いつでも、どこででも、心を神様に明け渡して静かに耳を澄ます。
わたしは、そういう風に祈っていた母の姿と、
代母をしてくださったシスターからの教えで、
これまでずっとそう考えています。
お御堂で、一人静かに祈りを捧げる人の姿は本当に美しいと思います。
パパ様は現代の教皇様らしく、さまざまな形でわたしたちにメッセージを発信されています。
もちろん、側近のどなたかが担当されているのでしょうが、
ツイッターとインスタグラムを活用して、わたしたちに毎日、そのお姿とお考え、祈りについて教えてくださいます。
このお姿、美しいと思いませんか?!
The Lord has so much compassion,He involves Himself in our problems.
Let us often repeat this simple prayer: Lord,I am a sinner,have mercy on me,have compassion for me.
主はとてもいつくしみ深いかたなので、わたしたちが抱える問題に関わってくださいます。
ですから、次の簡単な祈りを、何度も繰り返し唱えましょう。
「主よ、罪深いわたしをあわれみ、いつくしんでください」
In worship, we make it possible for the Lord to transform us by His love, to kindle light amid our darkness, to grant us strength in weakness and courage amid trials.
賛美の祈りをささげることで、主の愛によって、わたしたちは変えられていきます。
私たちが直面する暗闇の中に光を灯し、弱さの中に力を与え、
そして苦難の中に勇気を与えてくださるからです。
「願い事」と「祈り」は別物であると同時に、
わたしたちが一般的な祈りとして、神様に「お願い」をするのはごく普通のことです。
願い事をするための「祈り」という言葉は、ラテン語のPRECARIA(願い)に由来するもので、
神に語り掛けるORATIO(祈祷)とは別に、12世紀のヨーロッパで「願い事としての祈り」として広まったと言われています。
「畏れ敬うべき神」への祈りではなく、ひたすら救いを求めてすがる対象としてのマリア様への祈りが一般的になったからだそうです。
確かに、神様には感謝の祈りをし、マリア様には「お願いします」とつい甘えてしまいます。
パパ様ツイッターに、その正解を見つけました!
Worship means going to Jesus without a list of petitions, but with one request alone: to abide with Him.
In worship, we allow Jesus to heal and change us.
賛美の祈りとは、多くの願い事を持たず、ただ「主とともにいたい」と願って、イエスのもとへ行くことです。
そして、賛美の祈りをささげるなかで、イエスにわたしたちをいやし、変えていただくことなのです。
心に刻んでおきたい、神様への祈り方です。
それは、誰のためか。
久留米教会では、毎月第2日曜日のごミサで手話通訳がなされています。
前任の森山信三神父様が始められた取り組みで、そのお考えに共鳴した信徒によって、もう4年以上続けられています。
あなたは祈る時は、奥の部屋に入って戸を閉め、
隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。
そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いてくださる。
マタイ6・6
竹下節子さんの新書に書かれていました。
彼女が昔、初めて日本の愛徳姉妹会のシスターに会ったときに驚いたことがあるそうです。
シスターたちの視線や関心が、「ご出現」や「奇跡」にではなくて、
彼女らが世話をする子どもたちやお年寄り、訪問する病院や支援を必要とする人々にばかり向けられていることに驚いた。
彼女たちからあふれる幸せオーラの秘密は、いわゆる生産性も承認要求も関係のないところでの、
「見返り」を求めない奉仕の生活にあるらしかった。
いや、「見返り」どころか、先に無償で与えられている何かを分かち合う歓びが、彼女らの「奉仕」だった。
竹下さんが出会ったシスター方は、隠れた行いをご覧になる父からの「報い」すら求めてはいない、のではないでしょうか。
毎月、ごミサを手話通訳してくださっている方々にお話を聞きました。
「誰のために手話通訳をされていますか?」
「森山神父様から手話通訳ミサの理念を初めて伺ったとき、その趣旨に賛同しました。
通訳を必要としている人がいるから行うのではなく、
久留米の教会に行けば手話通訳ミサがある、という開かれた場を作りたい、というお考えでした。
それでも、時には自己満足にならないようにしなければ、というジレンマを感じることもありました。
必要としている人は久留米の信徒には誰もいないのに、と言う声があったのも事実です。
それでもこうして続けてきて、最近では、久留米教会外から数名の耳の不自由な信徒の方が来てくださるようになりました。
来ていただいたときは、特にその方のために心を込めて通訳しています。
ミサの後の手話の勉強会に参加してくださるようにもなりました。」
「できれば、毎週でも手話通訳ミサができるような体制になり、
近隣の教会からもっと多くの必要とされている方が来ていただけるようにしたいとも思っています。」
最初は「誰のために?」という葛藤を抱え、
次第に「誰かのために」、そして今では「もっと多くの方のために」と気持ちが高まってこられているのを感じ、同じ久留米教会の信徒として誇らしく思いました。
通訳をされている方々が、分かち合う歓びという「報い」をお感じになっている気がしました。
これをご覧になっている方で、周囲に手話通訳ミサを必要とされている方がいらっしゃれば、お伝えください。
久留米では毎月第2日曜にやってるよ!と。
新しく生まれる信仰
あけましておめでとうございます。
そして、主の公現の主日、おめでとうございます。
イザヤ書はわたしの好きな聖書です。
昨日の朗読は、60章1~6の美しい箇所が読まれました。
立ち上がれ、光を放て。
まことに、お前の光がやって来る。
主の栄光がお前の上に輝き上る。
まことに、見よ、
闇が地を、暗黒が諸国の民を覆うが、
お前の上には主が輝き上り、
その栄光がお前の上に現れる。
らくだの大群、
ミディアンとエファの若いらくだが、
お前の町を埋め尽くす。
これらはみなシェバから来て、
黄金と乳香を携え、
主に対する賛美を公に告げる。
ボッティチェリ「東方三博士の礼拝」
神の栄光がキリストにおいて現れ、
すべての人におよぶ救いの光が輝きはじめていることを賛美する公現の祭日(エピファニア)は、
4世紀以来ずっと教会で大切にされてきた日なのだそうです。
昨年はどのような年だったでしょうか。
今年はどのような一年にしたいとお考えでしょうか。
「立ち上がれ、光を放て」
主の栄光を受けているわたしたち信徒の役割は、
周囲に光を放つことではないか、とわたしは以前から考えていました。
子どもが親や周囲の大人の言動に影響を受けるように、
わたしたちも、自分の周囲にいる人々に良い影響を、
信仰によって得たお恵みを与える存在であることが必要ではないでしょうか。
わたしはこの福音のための奉仕者となりました。
神が、その力の働きかけによって、わたしに与えてくださった
恵みとしての賜物に則してのことです。
聖なる人々のうちで最も小さな者であるこのわたしに、
このような恵みが与えられました。
すなわち、キリストの測り知れない豊かさを福音として異邦人に告げ知らせ、
また、すべてのものを造られた神のうちに永遠の昔から秘められてきた神秘が、
実現するというのはどういうことであるかを、
すべての人々に明らかにするという恵みです。
エフェソ3・7~9
常々、宮﨑神父様がおっしゃるように、もっと聖書に親しむことも必要なことだと思います。
聖書には全てのこと、人生に必要なことは全部書いてあります。
2020年という新しい年が始まりました。
信仰を新たに生まれ変わらせるチャンスです。
去年出来なかったことを実行するチャンスです。
教会から遠ざかってしまっているとしたら、
月に一度だけでもごミサに与ろうと決意するチャンスです。
日曜日、ごミサから帰ったら、その日の朗読の個所を聖書を開いて読み返す、
という良い習慣を身に着けるチャンスです。
今年も素晴らしい一年にしましょう。
召命を生きるために
今年のクリスマスのごミサも、大変多くの参列がありました。
今年も2回とも、外まであふれるほどの人でした。
「普段はなかなか行けないけど、ご復活とクリスマスのミサだけは行く」という信者さんも多いかと思います。
そして、ご復活と違ってクリスマスのミサには、信者ではない方もイルミネーションや教会の温かい雰囲気に引き寄せられるように集まってきてくださいます。
使徒的勧告「喜びに喜べ」を久しぶりに読み返してみました。
166
聖霊からもたらされたものなのか、この世の考えや悪魔の霊に由来するものなのかを、
どのように知るのでしょうか。
唯一の方法が、識別です。
これは、理性的判断や良識といったよい働きの能力を指すだけでなく、
願い求めなければならないたまものでもあります。
信頼をもって聖霊に願い求めつつ、
祈りと黙想と読書とよい助言によってその力を養うよう努めるならば、
わたしたちは確実にこの霊的な能力を伸ばすことができるでしょう。
以前にも書きましたが、パパ様の「キリストは生きている」に書かれていた一文も再度ご紹介します。
248
「召命」という語は、神からの呼びかけとして、幅広い意味で解しうるものです。
それは、命への招きも、ご自分との友情への招きも、聖性への招きも含む、さまざまなものを意味します。
これは貴重なものです。
わたしたちの生涯全体を、わたしたちを愛してくださる神の真正面に据え、
意味のない混沌の産物であるものなど何もないこと、
すべてのものが、わたしたちのために素晴らしい計画を用意してくださる
主にこたえる道へと組み込まれているはずであると、
わたしたちに理解させてくれるからです。
◆自分に与えられている召命を識別すること。
◆意味のない神様からのメッセージはないこと。
この2つは、今年の私の指針でした。
そして、これからも。
みなさまにとって、今年はどのような一年だったでしょうか。
祈り、黙想し、本を読み、周りにいる先輩や師と仰ぐ方からの助言を得られたでしょうか。
家族や友人と信仰に関する話をし、先祖たちの信仰に思いを馳せ、十字架の道行きを杖を突いて歩き切り、週末には聖書を開き、与えられた役割に喜びを見出す。
わたしにとってはそのような、恵まれた一年でした。
来る2020年も、今年のようでありますように。
あなたの上に、平安がありますように。
あなたとあなたの家、あなたのすべてのものに平和がありますように。
サムエル上25・6