行事風景
後悔を晴らす
次の日曜日まで、聖書週間となっています。
皆さんは、どのようなタイミングで聖書を開いていますか?
いつも何か、1冊の本を読むようにしています。
信仰に関する本でなくとも、気になった箇所があればそこに関連するかもしれない聖書の箇所を探します。
ニュースも、気になる内容があれば聖書にその応えがないか開いてみます。
わたしにとって、聖書を開くのは習慣となっています。
昨日お話しした方は、「眠れない時や、夜中に目が覚めてしまった時に、聖書を開いて読んでいます」とおっしゃっていました。
聖書を家で一人で読んでも、「理解」することは難しいかもしれません。
ですが、聖書を家で開いて斜め読みすることは、テレビをつけっぱなしにしておくよりもずっと善い「習慣」になるでしょう。
ぜひ、今週は心掛けてみてください。
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先週紹介した、米田神父様の『イエスは四度笑った』を読んでいて、ある記憶が蘇りました。
18歳、大学一年生の冬の忘れられない記憶です。
終電での帰りの車内。
満員でギュウギュウ詰めに近かったのですが、ドア付近にいた若い男性に、酔っていて立ったまま寝ていたおじいさんが寄りかかっていました。
若い男性は何度もおじいさんを押して自分から離していましたが、すぐにまた寄りかかってきます。
その時、駅に到着し、ドアが開いた途端、若い男性はおじいさんをホームに突き倒したのです。
降りる人も乗り込む人も、一様に驚いていましたし、近くに立っていたみんなが(わたしを含め)あっけにとられました。
そして、ドアは閉まり、何事もなかったように電車は動き出しました。
すぐに、一人の女性が大きな声でその男性に向かって「あなた、サイテー!!」と言い放ちました。
すると、2人くらいが続けて「ホントだよ、あのおじいさん、頭打ってケガしてたらどうすんだよ!」「サイテーなやつだな!」などと非難を始めたのです。
終電でした。
降りて介抱するか、乗らずにおじいさんを助ければ、帰りの電車はもうありません。
わたしも含め、誰もそうしなかったのです。
米田神父様は、こう書いておられます。
イエスが生涯かけて身をもって示したこと、それは人間性の回復である。
困っている他者、悲しんでいる他者に近づき、他者のために惜しみなく時間を空け、他者の必要をすべて満たしつつ、その人の友人になりなさい、という内容こそ、「よきサマリア人」の譬え話である。
18歳のわたしが、洗礼を受けていたら、ホームに突き倒されたおじいさんに駆け寄って、介抱したのでしょうか。
当時、「よきサマリア人」の教えのことをきちんと理解していたら、おじいさんを助けたでしょうか。
おそらく、出来なかったでしょう。
この後悔は、長い間ずっとわたしの心に刺さったままでした。
電車が動き始めてから若い男性の行為を非難した人たちとわたしは、全く同じなのだ、という恥ずかしい気持ちです。
「よきサマリア人」の話は、ルカ福音書だけに書かれています。
ですが、米田神父様によると、共観福音書すべてに出てくる「最も重要な掟は何か」(マルコ12・28,マタイ22・36)、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるか」(ルカ10・25)が前提となっている話です。
イエス様の時代、「隣人」というのははっきりとした概念があり、選ばれたイスラエルの民に属していて、ユダヤ教の掟に忠実で敬虔な仲間内のことを指していました。
ですが、この譬え話の結論としてイエス様が伝えようとしているのは、「隣人」の定義でもあるのです。
「隣人とはだれか?」と問われて、「隣人とは誰々である」と答えることは、隣人の枠を定めることになります。
イエス様は、まずその枠を取り払いなさい、とおっしゃっているのです。
枠や壁を打ち破り、苦しんでいる人、悲しんでいる人に自分から近づいていき、その人の隣人になりなさい、という教えなのです。
イスラエルよ、聞け。
わたしたちの神、主こそ、唯一の主である。
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたたちの神、主を愛しなさい。
今日、わたしがあなたに命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちにそれらを繰り返し教え、あなたが家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も起きている時も、この言葉を語り聞かせなさい。
(申命記5・4〜7)
「第二の掟はこれである。
『隣人をあなた自身のように愛せよ』
この二つの掟よりも大事な掟はない」。
(マルコ12・31)
洗礼を受けたから、信仰を持っていると自覚しているから、「隣人を自分のように愛する」ことができるわけではありません。
人生の中で、幾つものつまずきを経験し、失敗を糧に進み、後悔を挽回すべく努力する。
そうした積み重ねによって形成されてきた、自分の人間性。
「酸いも甘いも」ではありませんが、若い頃には分からなかったこと、気づかなかったこと、出来なかったことを、人生を重ねるうちに理解し、自分の糧としていく。
今の自分の姿を、神様の前で自信を持って「努力していますので、これからもよろしくお願いします」、と言えるようにしたいものです。
先日、とても嬉しいお言葉をいただきました。
「いつも読ませてもらっています。
先日の記事で、とても救われました。
ありがとうございました。」
本当に嬉しく、「一人の方を励ますことができた」としたら、わたしの過去の後悔も神様に少しは許してもらえるかも、、、、と思えたのです。
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いつも、花壇を美しく整えてくださって、ありがとうございます。
イエス様のユーモア
突然ですが、大人に必要な、一番大事な人間性は「ユーモア」のセンスだと、常々思っています。
「ユーモア」とは、人を意図して笑わせる能力ではありません。
辞書によると、
広辞苑:上品な洒落やおかしみ
三省堂:人間味のある、上品な・おかしみ
大辞林:思わず微笑させるような、上品で機知に富んだしゃれ
大辞泉:人の心を和ませるようなおかしみ、上品で笑いを誘うしゃれ
などと表現されています。
「ユーモアは感情的なものであり、自分を客観視して笑いのめす余裕と、他者を完全に突き放すことなく、愛情によって自分と結びつける能力を兼ね備えてこそ、真のユーモアの持ち主になれる。
こうしたユーモアに欠かせない要素をイエスは誰よりも豊かに身につけている。
ユーモアとは、他者を思いやる懐が深い人間、他者のみならず自己に対しても寛大である人間のみが備え得る特性であり、人生の悲しみや苦しみを潜り抜け、汗と涙で生き抜いてきた者こそが身に帯びる感覚である。」
カナダとスイスで10年にわたって徹底的に聖書と神学の研究をされた著者の米田神父様は、この本のタイトルを「意表をついてみた」とおっしゃっています。
事実、わたしもタイトルに魅せられて(よく内容も知らずに)、この本を購入しました。
本の導入で、1970年代に発見されたグノーシス主義者による「ユダの福音書」(発見されたのは写本で、書かれたのは2世紀ではないか、とのこと)について紐解いています。
この福音書には、「イエス様が笑った」場面が4カ所あります。
カトリックでは異端とされた教義ですが、この中での最初のイエス様の笑いは、ミサを捧げている弟子たちを嘲笑した笑いです。
一世紀後半から始まった、正統派教会とグノーシス派との論争のなかで、イエス様は人為的に笑わされたのです。
ですが、米田神父様は「正統派による聖書の正典化に拍車がかかった」、「今日、不動の如く整理された聖書やミサ、教義の上にあぐらをかくのではなく、長い歴史の中での学問的論争を通じての一つの実りであることを認識」すべきだ、とおっしゃっています。
米田神父様が紙幅を割いたのはこの4つの笑いのことではなく、「大食漢の大酒飲み、取税人や罪人の仲間」と正典の福音書が記すイエス様の、ユーモアと隠れた笑いの読み解きのほうです。
その中でひとつ、最も心に響いた箇所をご紹介します。
だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。
(マルコ2・21~22)
この箇所、わたしは全く誤解、というか、理解していなかったと自分で驚きました。
米田神父様によると、「古くて硬い入れ物に今まさに発酵中の新しいぶどう酒を注ぐと、その生命力、膨張力によって、古い革袋は持ち堪えられなくなる。
この比喩を通して、イエスの漲る生命力を指し示している。
今まさに新しく生まれつつある力が、古い殻を、古い体質を、古い壁を打ち破ってゆく、自分はまさにその力であるという、イエスの力強い積極的な意欲がここでは語られている。
マタイとルカは、「誰も、古いぶどう酒を飲んだ後で、新しいぶどう酒を欲しがりはしない。『古いものが善い』と言うからである」と付け加えている。
マルコが伝える真意を十分理解できなかったのかもしれないが、思わず笑ってしまう。
イエスなら言いそうな、まさにユーモアが感じられれる。
まあ、そうは言っても現実はそう甘いもんじゃないよ、そうはうまく行かないよ、と茶目っ気たっぷりに言い足したのかもしれない。」
その他にも、わたしたちがよく知っている福音書のエピソードを紐解いて、隠された(知らなかった)イエス様のユーモアが解き明かされていきます。
「米国の多様な社会を行き過ぎと感じる有権者は地方を中心に多い。
黒人かつアジア系の女性という多様性を体現するハリス氏の存在そのものが、保守層のみならず、無党派層の一部に忌避された面は否めない。」
読売新聞のアメリカ総局長が、記事にこう書いていました。
多様性を訴え続け、世界をリードしてきたかにみえた国の、これが現実です。
品がなく、他者を愚弄するユーモアのセンスの持ち主が勝つ、これが現実です。
(応援している方、ごめんなさい)
今週は、「ウィットに飛んでいる」「面白い」とは違う、「ユーモアのセンス」を身につけたい!と改めて決意を新たにしました。
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10日のごミサは、3人の神父様と4人の侍者と、七五三のお祝い、という贅沢なお恵みの時間でした。
空から見ている
秋の空は本当に美しい
こどもの頃から、美しく晴れた空を見上げると、そこに神様がいらっしゃる気がするのです。
そして、上からわたしたちすべてを見ていらっしゃるのを、小さいころから感じていました。
アメリカメジャーリーグのワールドシリーズとプロ野球の日本シリーズ、同時日程だったので、朝と夜と、観るのが大変でした!
スポーツの秋、自分では全く運動をしないので、観戦するだけでも気持ちが高揚します。
野球選手が、バッターボックスに入る前に、バットに滑り止めのスプレーを吹きかける姿をご覧になったことがあると思います。
わたしが見てきた限り、普通、選手はそのスプレー缶をその辺に投げ捨てていますが、大谷翔平選手は違います。
使い終わった缶を、きちんと立てて、足元に置きます。
(このことに気づいたのはわたしだけではないはず。)
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人の行いは、必ず誰かに見られているものです。
死者の月、いつもよりも天国の方々を身近に感じます。
とくに、母がわたしの仕事ぶりを見ている気がしています。
自分がどのような最期を迎えるか、想像したことはありませんか?
わたしの母は、若いころからとても病弱な人でした。
母を知っていた方は、「いつも明るく元気な人」だと思っていたようで、亡くなった後にその話をすると、誰もが「信じられない」と驚いていました。
しかし、義人の魂は神の手にあり、どんな責め苦も彼らに触れることはない。
彼らは愚かな者の目には死んだ者のように見え、彼らがこの世を去るのは災いだと思われ、彼らがわれわれから去っていくのは滅びだと思われた。
しかし、彼らは平和のうちにある。
主に寄り頼む者は心理を悟り、主を信じる者は愛のうちに主とともに住むであろう。
主に選ばれた者には恵みと憐れみとがある。
(知恵の書3・1~3,9)
病弱な母の元に、しょっちゅうホームドクターが往診に来ていた様子が、こどもの頃の記憶です。
最後の10年ほどは、月のうち1週間は寝込んでいました。
そんな母を、「かわいそう」な人だと思っていました。
遠藤周作さんのエッセイ『死について考える』に、興味深い箇所がありました。
以下、かいつまんでご紹介します。
わたしが大変面白く思うのは、釈迦とキリストの死に方が全くちがうことです。
お釈迦様は、お弟子や鳥や獣や虫たちにまで囲まれて、惜しまれて死んでいったわけですが、それが東洋的感覚で言ったら、死に際がきれいということでしょう。
しかし、キリスト教の場合は、キリスト自身が十字架の上で、槍で突かれて苦しんで、最後まで苦しみながら、一見絶望的に聞こえる言葉までくちにされました。
神よ我を見捨て給うやなどど。
これは、詩篇のなかの祈りの言葉で神を呪う言葉ではないのですが、非常に苦しんだ死に方です。
しかも、その死に方を聖書は肯定しているわけです。
そのうえ、キリスト教の信者は、そのイエスの死に自分の苦しみを重ねて考えるようになっています。
母は病気で苦しんで亡くなったのですが、信仰を持っていたので、間違いなく神様の元へ行くことができたと信じています。そして、身体は苦しんでいましたが、おそらく、最期まで家族の幸せを祈っていたであろうと確信しています。
さらに思うのが、母が亡くなった後により結束して強固な絆で結ばれたわたしたち家族は、母が天国から働きかけ、空から見守ってくれているおかげなのだ、ということです。
わたしがもし病気になって、地上での最期を迎える時も、病に負けても心は晴れやかでありたい、天国でもいつまでも家族のために祈り働き続けるのだ、と死者の日には毎年思っています。
天に属する体の輝きと、地に属する体の輝きとは違っています。
太陽の輝き、月の輝き、星の輝きは、それぞれ別であり、一つの星と他の星とでは輝きが違います。
死者の復活も、これと同じです。
蒔かれる時は滅び去るはずであったものが、復活する時は滅びないものとなります。
蒔かれる時は卑しかったものが、復活する時は輝かしいものとなります。
蒔かれる時は無力であったものが、復活する時は力あるものとなります。
自然の命の体として蒔かれて、霊的な体として復活するのです。
(1コリント15・40〜44)
遠藤周作さんは、このようにも書いておられます。
永遠に人間の同伴者となるため、愛の神の存在証明をするために自分がもっとも惨めな形で死なねばならなかった。
人間にむかって、ごらん、わたしがそばにいる、わたしもあなたと同じように、いや、あなた以上に苦しんだんだ、と言えぬからである。
人間にむかって、あなたの悲しみはわたしにはわかる、なぜならわたしもそれを味わったからと言えぬからである。
地上の生で苦しんだ人は幸いである
天の国にはその人たちの憩いが用意されているからである
(byわたし)
しっかり腰を据え、またどっしりと構え、絶えず主の業に励みなさい。
主と一致していれば自分の労苦は無駄ではないと、あなた方は知っているのですから。
(1コリント15・58)
わたしにとって、空から見てわたしを守り、働きかけ、導き、共にいてくれる聖霊は「母」なのです。
許される罪
いつの時代も、犯罪は存在し、犯罪を犯す者と被害者はなくなることはありません。
「闇バイト」という社会問題について、とても気になっています。
高額の報酬を餌に実行犯をSNSで募集する、という犯罪が横行しています。
お互いに素性の知らない者同士が集まり、強盗や窃盗を行い、離散していく。
計画者は指示するだけで手を汚さず、実行犯は使い捨て、という、信じられないような時代です。
逮捕されるのは、10代や20代の若者です。
『お金が手元に入ってきたら、罪悪感は消えていった』
『まともに働くことが馬鹿らしくなった』
『受け子だし罪の意識はあまりない』
この犯罪の一番の問題は、罪の意識が薄い(ない)、という点ではないでしょうか。
嘆きの壁、石の隙間に入れられた紙片には、祈りの言葉や宗教的メッセージが書かれています。
観光客は、単に自分の願い事を書く場合もあるでしょう。
実際にこの壁の前に立ってみて、そして祈りをささげる人の様子に触れて、人々は自分の罪を悔い改めているのではないか、と感じたことを今でもよく覚えています。
実際に起きた、司祭なりすまし事件をモチーフにして作られた映画「聖なる犯罪者」
(以前もご紹介していたかもしれません。。。)
犯罪を犯し、少年院にいるダニエルは、院内でのミサの侍者をしていました。
出るとき、ダニエルは司祭にこう尋ねます。
「神の元で働きたい。資格があれば」と。
しかし司祭はこう告げます、「前科者は、聖職者に就けない」と。
ダニエルは、司祭が病気で入院することになった教会で「代理の神父様」だと招き入れられ、静かな村の司祭代理の職にありつきます。
もちろん彼はカトリックの司祭教育など受けておらず、最初は、院内で見聞きしたことを見よう見まねで繰り返しているにすぎませんでした。
しかし次第に、これまでの司祭とは全く違い、熱く大胆に自分のことばで語る説教、形式を気にしない型破りなミサ、人々へ接するその様が、村人の「生」を呼び覚ましていくことになるのでした。
ですから、誰でもキリストと一致しているなら、新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去り、今は新しいものが到来したのです。
これらのことはみな、神に由来しています。
神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する務めをわたしたちにお与えになりました。
つまり、神こそ、キリストにおいてこの世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解のための言葉をわたしたちにお委ねになったのです。
(2コリント5・17~19)
主は憐れみに満ち、恵み深く、怒るに遅く、慈しみに溢れておられる。
主は永遠に責めることはなさらず、とこしえに怒り続けられることはない。
主は、わたしたちの罪に従ってわたしたちを扱わず、わたしたちの咎に従ってわたしたちに報いられない。
(詩編103・8~10)
前科のある人は聖職者になれない、という点がとても心に引っかかっています。
「罪を犯した人に石を投げられる者」はだれもいない、それがわたしたちです。
犯罪を犯し、罪を認め、報いを受けて悔い改めて社会復帰している人には、真の赦しは与えられないのでしょうか。
わたしは自分のうちに、すなわち、わたしの肉のうちに、善が住んでいないことを知っています。
善いことをしようという意志はありますが、行いが伴いません。
わたしは自分の望む善いことをせず、望まない悪いことをしているのです。
わたしが自分の望まないことをしているとすれば、それを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に住んでいる罪なのです。
(ローマ7・18〜20)
許される罪と許されない罪があるのでしょうか。
「わたしが悪かった、言いすぎた、申し訳なかった、ごめんね」、そう言ってくれた人を許しませんか?
罪を認め、裁判で決められた刑期を終えて、悔い改めた犯罪者は赦されませんか?
アメリカ大統領選挙に関するニュースを見ていて、こう発言している人がいました。
「犯罪歴のある移民は、国外に追放すべきだ」
あるのは「許されない罪」ではなく、「許さない罪」なのではないでしょうか。
「許されない罪」があるのならば、罪を認めず、反省も後悔もせず、悔い改める心すらない、そういう罪でしょう。
そういう罪人のために、神様が働いてくださいますように。
↓ 予告編をご覧ください。
きっと、映画を見たくなるはず!
静かな祈り
ある日の、教皇様のXのお言葉です。
戦争を望み、引き起こし、あおっては、無用に長引かせて、戦争から冷淡に利益を得る人々のためにともに祈りましょう 。
神がその人々の心を照らし、その目の前に自分たちが引き起こした数々の不幸を示してくださいますように。
読み間違い?書き間違い?かと思い、何度も読み返してしまいました。
「戦争から利益を得る人々のために祈りましょう」とは?と。
心のうちでお前の兄弟を憎んではならない。
必要なら同胞を戒めなければならない。
そうすれば、彼のことで罪を負うことはないであろう。
復讐してはならない。
お前の民の子らに恨みを抱いてはならない。
お前の隣人をお前自身のように愛さななければならない。
わたしは主である。
(レビ記19・17〜18)
下線を引いた言葉は、すべて同じ意味だと教わりました。
レビ記では、この単語はすべてユダヤ人を意味していますが、新約におけるイエス様の教えは、文字通りにすべての「隣人」へと広がります。
冷たい人、嫌なことを言う人、気の合わない人、、、
自分の周りに日常的に存在する、こうした人のために祈れますか?
わたしは全くできていません。
それすらできずに、教皇様がおっしゃる「戦争から利益を得る人のために祈る」など、到底できるはずはありません。
人のために祈るというのは、本当にハードルの高い教えです。
戦争は、旧約聖書のいたるところに書かれています。
神は人間たちの戦争に巻き込まれ、戦争に干渉したり、出陣の命令を下したりします。
これは、古代の中近東の考え方が反映されているのだそうです。
ヘブライ語で戦争を表す「ミルハマ」は、「敵対する」という意味の言葉が語源です。
また、ヘブライ語の「シャローム」という語は「繁栄・充足・平和」を意味します。
戦争に対立する言葉は、普通は平和ですが、ヘブライ思想において戦争は「シャローム」に対立するものではありません。
戦争と平和は、いずれも混とん状態や無秩序に対立するものです。
ですので、旧約における戦争は、混とん状態に対抗し、調和と秩序を取り戻すための手段である、という意味なのだ、ということです。
(トーマス・レーマー著「100語でわかる旧約聖書」より)
わたしが発見した次のことだけに目を留めよ。
神は人を正しい者に造られたが、人はさまざまな策略を探し求めたのだ。
(コヘレト7・29)
わたしはまた、日の下で見た。
必ずしも、足の速い者が競争に勝ち、強い者が戦いに勝つとは限らず、また知恵ある者がパンを、賢い者が富を、学識のある者が愛護を得るとは限らないことを。
時と災難が、すべての者に臨むからである。
誰も自分の時がいつ来るかを知らない。
(コヘレト9・11〜12)
コヘレトは、善人にも悪人にも同じように不条理なことが起こるが、それを神の手の中にある人生の一断面と捉えて歩んでいくことを説いています。
イエス様はそれを一歩進めて、善人にも悪人にも等しく同じ自然が与えられることに触れ、それを「敵を愛する」という教えの根拠としています。
ノーベル文学賞を受賞したハン・ガンさんは、受賞した後すぐに記者会見やお祝いの席を設けることを拒みました。
「今すぐスポットライトを浴びたくはないです、私は静かにしていたい。
世界に多くの苦痛があり、私たちはもう少し静かにしていなければなりません。
それが私の考えで、(それで父に)宴会を開くなと言ったのでした。」と取材で答えていました。
なるほど、と深くうなずけました。
敵、とまではいかずとも、「あの人」のために静かに祈ってみよう、そう思わされました。
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不安定なお天気が続いていましたが、20日日曜日は秋晴れで涼しい一日となりました。
春に企画を始めて、試行錯誤しながら準備をし、ようやく皆さんとこのような時間を持つことができました。
企画した当初は、老朽化に伴い毎年あちらこちらを修繕し続けているため、教会の営繕費基金のためにバザーを、と考えていました。
ですがある信者さんから、「今日のバザーの目的は、信徒の親睦ですね!」と最高の笑顔で言われ、涙が出そうでした。
慣れない手つきでポップコーンと地鶏を焼いてくれた壮年男性陣
美味しいぜんざいを作ってくれた女性の会
バザー経験豊富でたくさんのアドバイスをくださったおばさま方
子どもたちのために遊びのコーナーを作ってくれた青年会
早朝からの設営を手伝ってくれた、若いベトナムのみんな
美味しいパンと飲み物を振る舞ってくれたフィリピンコミュニティ
たくさんの信徒の方々が、本当にたくさんの商品を出してくださり、カラッとした秋晴れの下、素晴らしい親睦のバザーとなりました。
久留米教会は、本当に恵まれています。
現代の徴
『シビル・ウォー』という映画が公開中です。(観てないけど)
アメリカで内戦が勃発したら、という衝撃作です。
近未来のアメリカが舞台で、連邦政府から19の州が離脱し、テキサスとカリフォルニアの同盟軍がホワイトハウスに侵攻するというストーリー。
今、世界では信じられないようなことばかりが起きている(報道されている)ので、この映画も将来ありえるのかも、と思わされます。
ガザの惨状を映像で見るたびに、奇跡でも起きない限りこの街の将来は絶望的だ、と思うのはわたしだけではないでしょう。
遠藤周作さんの『イエスの生涯』のなかに、こう書いてあります。
共観福音書やヨハネ福音書に記述されたおびただしいイエスの奇蹟物語は私たちに彼が奇蹟を本当に行ったか、否かという通俗的な疑問よりも、群衆が求めるものが奇蹟だけだったという悲しい事実を思い起こさせるのである。
そしてその背後に現実的な奇蹟しか要求しない群衆のなかでじっとうつむいているイエスの姿がうかんでいるのだ。
福音書が残しているこれらのイエスの悲しみの言葉にリアリティがあるのは、彼の前にあらわれる人間たちが「愛」ではなく、徴と奇蹟とを、現実に効力のあるものだけを願ったという事実に基づいて書かれたからにちがいない。
これらイエスの悲しみの言葉、とは、以下の2箇所を指しています。
すると、ファリサイ派の人々がやって来て、イエスに議論をしかけ、イエスを試みようとして、天からの徴を求めた。
イエスは心から深く嘆息して仰せになった、「どうして今の時代は徴を求めるのか」。
(マルコ8・11~12)
イエスはトマスに仰せになった、「あなたは、わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人たちは幸いである」。
(ヨハネ20・29)
下線を引いた「天からの徴」とは、フランシスコ会訳聖書の注釈によると、衆目を見張らせるようなメシア的徴のことで、エリヤの時に天から火が降って犠牲を焼き尽くしたような奇跡を指す、ということです。
遠藤周作さんの仰るように、イエス様は「心から深く嘆息して」(フランシスコ会訳)、悲しみのうちにうつむいておられたことでしょう。
そして、今日の世界各地で起きている戦争や紛争をみて、今も悲しんでおられるでしょう。
教皇様は、先日談話を発表され、「戦争は敗北であり、武器は未来を建設するものではなく破壊し、暴力は和を決してもたらさない事実を歴史が証明しているが、我々は何も学んでいないようだ」、とおっしゃっていました。
イエス様が、病人を癒す奇跡というかたちで人々に徴をお見せになったのは、ご自分の権威を示し、証明するためなどではない、と教わりました。
そして、そう理解しています。
奇跡はイエスの神性を証明するために書き留められたのではありません。
イエスの神性を復活体験によって知った弟子たちが、導くために奇跡を行った旧約の神の働きの延長として、イエスの奇跡を語るのです。
これまでの歴史を導き続けた神が、今もイエスとなって導いている、との信仰告白として奇跡が語られたのです。
(雨宮神父「なぜ聖書は奇跡物語を語るのか」79ページ参考)
さらに、遠藤周作さんはエッセイの中でこう書いておられます。
イエスは、この結婚式ではじめて奇蹟を行った。
酒がつきたのを知った母マリアがそっとイエスに教えると、彼は甕に水を入れさせ、その水を葡萄酒に変えてみせたのである。
この奇蹟が象徴的だというのは、「水を葡萄酒に変える」ように、イエスはこの後、それまでの旧約的なユダヤ教の信仰を新約的な宗教に変えたことを、この物語が暗示しているからだ。
怒りの神、裁きの神、罰の神は、イエスによって愛の神、許しの神に変えられていく。
その旧約から新約への本質的な変化を、カナの奇蹟の物語は語っているのである。
イエス様が「どうして徴を求めるのか」、と仰ったときのことを考えています。
冒頭に、「奇跡でも起きなければガザに未来は見えない」と書きました。
戦争も冤罪もすべて、人間の仕業です。
神に祈って解決してもらう、奇跡を信じよう、ではなく、わたしたち一人ひとりが、あたらしい現代の徴として行動することが求められています。
日本被団協がノーベル平和賞を受賞したことは、何にも勝る徴でしょう。
68年も活動を続けてこられた被爆者の方々。
想いを引き継ぐべく活動をともにしている若者たちがいることにも、感動しました。
発表の映像を見ていて、「ヒダンキョウ」「ヒバクシャ」という日本語で委員長が語られたことにも感激し、誇らしく思いました。
受賞理由の骨子には、「被爆者の証言は世界で幅広い核兵器反対運動を生み出した」「平和に取り組んできた全ての被爆者に敬意」とありました。
彼らの活動も受賞も、奇跡ではありません。
現代世界を象徴する、新しい徴だと思うのです。
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13日は、宮﨑神父様の叙階45年、ジュゼッペ神父様の88回目のお誕生日という、素晴らしい日曜日でした。
幼児洗礼式も行われ、大阪に赴任する前のピーター神父様も来てくださり、侍者が5人もいて、久留米教会は恵まれた徴に溢れた日曜日でした。
沈黙のうちに
2024年10月の祈りの意向は、「使命を担い合う」ために。
教皇様は次のようにおっしゃっています。
わたしたちキリスト者は皆、教会の使命に責任を負っています。
すべての司祭が、すべての人がです。
信徒たち、洗礼を受けた人たちは、教会の中に、自分の家にいます。
そして、その家の世話をしなくてはなりません。
それはわたしたち司祭や修道者にとっても同じです。
一人ひとりが自分に得意なことをとおして貢献するのです。
わたしたちは教会の使命における共同責任者です。
わたしたちは教会の交わりの中で、参加し、生きています。
主なる神は言われた。
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。
人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。
(創世記2・18、21~22)
この箇所は、女性は男性の一部から造られたものであり、男性より劣っている、などという意味ではありません。
教皇様のお考えでは、こうです。
最初のアダムを深い眠りに落とされた後に、神が彼の脇腹からエバを引き出したように、十字架上での死の眠りに落ちた新しいアダムの脇腹からは、新しいエバである教会が生まれたのです。
(使徒的書簡「わたしはせつに願っていた」14)
わたしたちキリスト者は、いつも、旧約に書かれていることがどのようにイエス様によって成就されたのか、という並行的な読み方で聖書を理解する必要があります。
必要がある、というより、その方が何倍も、聖書を身近で面白いものに感じられるはずです。
新しいエバである教会の一員として、冒頭の10月の祈りの意向のように、教会に集うわたしたち皆が、その使命における共同責任者であることに誇りと喜びを感じることができますように。
教皇様の使徒的書簡「わたしはせつに願っていた」は、70ページほどの薄い本ですが、毎週ミサに集うわたしたちが理解しておくべき教えがぎっしりつまっています。
イエスは言われた。
「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」。
(ルカ22・15)
過越の食事であるミサ、その『祭儀の美』としての典礼について、教皇様の教えが述べられています。
その中でわたしが特にご紹介したいと感じたのが、ミサにおける「沈黙」の重要性についてです。
洗礼を受けた時、代母であるシスターから「ミサ中に何度か『祈りましょう』という場面があるから、その時は目を閉じて頭を少し下げて、静かに祈るのよ」と教わりました。
ミサのなかでの所作については、以前このページに書いたことがありますが、わたしはミサの中で特に大切にしているのが、この『祈りましょう』の時間です。
会衆全体に属する儀式行為の中で、沈黙は絶対的な重要性をもっています。
感謝の祭儀全体は、それに先立つ沈黙と、展開する儀式のあらゆる瞬間を特徴づける沈黙に浸されているのです。
回心の祈りの中に、「祈りましょう」という招きの後に、ことばの典礼の中に、奉献文の中に、そして聖体拝領の後に、沈黙が存在しています。
典礼的な沈黙とは、祭儀の行為全体にいのちを吹き込む聖霊の現存と働きのシンボル(象徴)なのです。
だからこそ典礼的な沈黙は、聖霊の多面的な働きを表現する力を持っているのです。
沈黙はみことばを聞く心構えを呼び覚まし、祈りを目覚めさせます。
そして、沈黙はわたしたちを、キリストの御からだと御血への礼拝へと向かわせます。
これらすべての理由から、わたしたちは細心の注意を払って沈黙と言うシンボリック(象徴的)な動作をするように呼ばれているのです。
沈黙を通して、聖霊はわたしたちを磨き、形づくります。
(52)
ミサのなかでの沈黙は、ある意味で「間(ま)」とも言えるかもしれません。
展開する儀式、シンボリックな所作、みことばの連続の中に織り込まれた「間」。
聖霊の働きを、わたしたち一人ひとりが体感するための「間」。
形式的に祭儀を進めない(受けない)ように、ミサの先唱をする際にわたしが特に気を付けているのも、「間」です。
ひとつひとつの典礼が進むたびに、わたしなりにごく小さな時間を置くようにしています。
久留米教会では、ミサの5分前までロザリオの祈りを行います。
そして、ミサまでの5分間、それぞれが静かに沈黙し、祈っています。
ミサが終わると、(すぐに立ち上がって帰る方もいますが)ほんの少しの時間だけ、皆がまた座り、沈黙の時間を持ちます。
沈黙にはじまり、祭儀中に訪れる沈黙を守り、沈黙のうちに終える。
次のミサで、これまでよりもう少しだけ、この沈黙を意識してみませんか?
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上智福岡高校の生徒たちが、夏休みに行ったカンボジアでの研修の報告をしにきてくれました。
毎年実施されている研修だそうで、多数の応募者の中から選抜された12名が参加したとのことでした。
久留米教会から派遣されている中島 愛さんとの交流もあったようで、貴重な体験をした高校生たちの生き生きとしたレポートに、多くの質問が投げかけられました。
ひとつの生
明日から10月、ようやく秋を感じ始めたというのに、色々な教会の行事のことを考え、個人的な予定を立てていたら、もう今年は終わった気分です。
ステンドグラスから差し込む光も、柔らかで、あたたかく感じます。
イスラエルが展開する報復攻撃が、新たな局面に入っています。
自国民を殺害され人質に取られた報復にハマスを撲滅する、とガザ地区を集中攻撃していたのが、いつの間にか、ハマスを支援しているヒズボラをも撲滅する、という作戦も同時進行しています。
ヒズボラは先週、テルアビブ近郊にあるイスラエルの対外特務機関モサド(Mossad)本部を標的とした報復攻撃を行いました。
数日後には、イスラエルがヒズボラの本部を攻撃し、最高指導者を殺害したと発表しました。
互いに「血の復讐をする者」(申命記19・6)となり、やられたから何倍にもしてやり返す「復讐」の連鎖は、エスカレートする一方のようです。
紀元前18世紀に制定されたとされるハンムラビ法典の、「目には目を、歯には歯を」という同害復讐法は有名ですが、この法典は犯罪に対して厳罰を加えることが主目的ではありません。
(もちろん、目をやられたら目をやり返せ、という意味でもありません。)
ハンムラビ法典はその目的を、「全土に正義をいきわたらせるため、悪事を撲滅するため、強者が弱者をしいたげないため」としています。
財産の保障なども含まれており、奴隷階級であっても一定の権利を認め、条件によっては奴隷解放を認める条文が存在し、女性の権利が含まれている。
ハンムラビ法典は身分の違いによってその刑罰が異なるのに対し、旧約聖書の律法は身分の違いによる刑罰の軽重はない。
(Wikipediaより)
ハンムラビ法典は、次の序文から始まります。
敬虔なる君主で、神を畏れる朕ハンムラビをして国の中に正義を輝かせるために、悪者と奸者とを殲滅させるために、シャマシュ神のように黒い頭どもに向かって立ち昇り国土を照らすために、アヌ神とエンリル神とは朕の名をこう呼び給うた。
これは人びとの幸せを満たすためである。
世界の現代民法の根幹に影響を与えているとされるハンムラビ法典は、一般的に世間が持つイメージとは違い、弱者保護、人民の幸せを守るための法律なのです。
旧約聖書では、出エジプト記21章、レビ記24章、申命記19章の3か所に、この同害復讐に関する記述があります。
あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。
もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。
必ず彼と共に助け起こさねばならない。
(出エジプト23・4~5)
これは動物愛護の掟ではなく、たとえ敵であってもせめてこのぐらいのことはするように、そうすれば関係の改善の糸口が開けるかもしれないという意味合いがあると思われます。
イエスは単刀直入に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。
この場合、キリストが求めておられる敵への愛の根拠は、ただ父である神が「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」かただからであり、目指すところは天の父の子となることです。
今道瑤子シスターは、「復讐」についてこう書いておられます。
あなた方も聞いているとおり、『あなたの隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしはあなたがたに言っておく。
あなた方の敵を愛し、あなた方を迫害する者のために祈りなさい。
それは、天におられる父の子となるためである。
天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださるからである。
(マタイ5・43〜45)
30歳で逮捕されてから58年、1980年に最高裁で死刑判決が確定していた袴田巌さんが、9/26の再審によって無罪となりました。
袴田さんのニュースを見聞きするたびにいつも気になっていたのは、お姉様のひで子さんの存在です。
「人生を懸けてでも、弟の無実を証明する。それが自分の運命だと感じた。」という彼女は、御年91歳。
長年の拘禁生活で精神を病んでしまった袴田さん、弟の代わりに出廷したお姉様。
裁判長が判決を言い渡した最後に、「心身ともに健やかに、ひで子さんの健康を祈ります」と、時折言葉を詰まらせながら語りかけた、というニュースの記事を見て、心が痛くなりました。
この58年間という長い日々、取り返すことのできない人生について、判決が下りた今、どう考えておられるのだろうかと思いを巡らせています。
裁判を終えてインタビューに答えていらっしゃる様子、笑顔で何度も「ありがとうございました。」とおっしゃるお姿、「裁判長にねぎらいの言葉をかけてもらって、とてもうれしかった。皆さま、ありがとうございました」というお言葉。
わたしが彼女の立場だったとして、「うれしかった」「ありがとう」という言葉を発することができたか、、、、。
世界的仏教者のティク・ナット・ハンは、その著書『イエスとブッダ』の中で、このように言っています。
仏教徒はリインカーネーション(生まれ変わり)を信じています。
人間は幾度も生をくりかえすという考え方です。
仏教界では、リーインカネーションよりも、リバース(輪廻転生)という言葉のほうを好みます。
死後、あなたはふたたび生まれて、別の生を生きるのです。
キリスト教では、あなたの今の生は唯一無二のもので、このたったひとつの生があなたの救済の唯一のチャンスとなります。
あなたにあるのは、ただひとつの生だけです。
パウロ袴田さんとお姉さまに、この人生は過ぎ去ってしまったので、生まれ変わったら良い日々があるでしょう、などとは言えません。
「判決をもらって、58年なんか吹っとんじゃったみたいな気がする」とおっしゃっていましたが、お2人は、これからの人生をどのような思いでお過ごしになるでしょうか。
過ぎ去った日々を思い起こせ。
代々の年を顧みよ。
主は荒れ野で、獣の吼える不毛の地で、彼を見出し、彼を囲み、いたわり、ご自分の瞳のように守られた。
今こそ、見よ、わたし、わたしこそがそれである。
わたしのほかに神はない。
わたしは殺し、また生かす。
わたしは傷つけ、また癒やす。
(申命記32・7、10、39)
人生
2024年の全国の100歳以上の高齢者は、2023年から3000人近く増えて9万5000人あまりで、女性が8万3958人(全体の88%)、男性が1万1161人との統計が発表されました。
1924年(大正13年)は、シャネルがリップスティックを初めて発表した年であり、日本初の大規模多目的野球場である甲子園球場が竣工し、越路吹雪・淡島千景・竹下登・相田みつを・力道山などが誕生した年でもあります。
1924年生まれの山頭原太郎神父様は、9/20に100歳を迎えられました。
まだまだお元気で、相変わらずお茶目で、みんなの人気者です。
以前は時々久留米教会のごミサに来てくださっていましたし、現在は久留米の施設にいらっしゃるということもあり、久留米教会で100歳記念ミサを開催しました。
アベイヤ司教様、森山司教様を始め、神父様方が各所からお越しになり、盛大なお祝いのミサとなりました。
山頭神父様がお説教で、色々なお話をしてくださいました。
365日前の、まさに今日、救急車で病院に運ばれました。
悪魔にやられた、と思うほどの痛みに苦しみました。
そのちょうど1年後に、司教様から「ミサで説教をしなさい」と言われてこの場にいます。
神様がこうして、また司祭としての道に帰してくださいました。
今、聖母の家という施設で、なんでもやってもらえて何不自由ない生活をしているのに、やはり寂しいです。
ステーキもトロも、何にもいらない。
ただ、どこかの教会で信者と過ごして、ミサを捧げたい。
それだけが望みです。
カトリック教会は今、衰え始めているのかもしれませんが、イエズス様は全く衰えていません。
司教や司祭だけではなく、あなたたち一人ひとりにイエズス様が力を与えてくださっていることを忘れないでください。
・・・・・・・・・
人生100年時代、と言われて久しいかと思いますが、自分がまだ折り返したばかりなのかと思うと、、、、(;'∀')
人の生とは、語り尽くすことのできない、100人100様の生き様です。
お前は白髪の人の前で起立し、老人を敬い、お前の神を畏れなければならない。
(レビ記19・32)
白髪は栄光の冠。
それは正義の歩みによって得られる。
(箴言16・31)
ヤコブの家よ、わたしに聞け、イスラエルの家のすべての残りの者よ、母の胎にいた時からわたしに担われてきた者たち、腹にいた時からわたしに背負われてきた者たちよ。
お前が老いるまで、わたしはその者である。
白髪になるまで、わたしは担う。
わたしは造り、わたしは背負う。
わたしは担い、わたしは救う。
(イザヤ46・3〜4)
このイザヤの言葉は、こうして書いていて、涙が出そうになります。
あと残りの人生がどのくらい与えられるか、見当もつきませんが、背負って救って頂かなければ。
山頭神父様の人生は、県内各地から集まってくださった、この参列者の溢れんばかりの愛が物語っています。
時代に求められる資質
9/11に行われたアメリカ大統領選挙の討論会を観ました。
表情をほとんど変えずに、時にはイラついた様子で、(虚言も多かった印象ですが)相手を非難したり自身の主張を述べていたトランプ氏
一方で、相手の発言がひどい際には(それは、ほとんどの発言であり、わたしでさえ「根拠がなさそう」と思った)、口の動きは「It's not true.(事実ではない)」とあきれ顔をするハリス副大統領
ハリス副大統領は、トランプ氏には「事実を混同しない気質や能力」がないと主張していました。
兵庫県知事、2つの党の党首選のニュースも含め、最近のニュースは「誰が、どのような人がリーダーとして相応しいか」を考えさせるきっかけになっています。
リーダーにはいろいろな要素が求められますが、時代、国、現状によって、相応しいリーダー像は当然変わっていきます。
旧約に描かれたリーダーも、状況に応じていろいろなタイプがいます。
そこで、モーセとアロンは、集会の前から離れて会見の幕屋の入り口に行き、ひれ伏した。
すると、主の栄光が彼らに現れた。
主はモーセに次のように告げられた、「杖を取れ。そして、お前と兄弟のアロンは会衆を集め、彼らの目の前で岩に命じて水を出させよ。こうしてお前は岩から水を湧き出でさせ、会衆とその家畜に水を飲ませよ」。
モーセは主が命じられたとおり、主の前から杖を取った。
そして、モーセとアロンは集会を岩の前に召集して言った、「反逆する者たちよ、聞け。お前たちのためにわたしたちはこの岩から水を湧き出させることができるのだろうか」。
モーセは手を上げ、杖で岩を二度打った。すると、水が豊かに湧き出てきたので、会衆もその家畜も飲んだ。
(民数記20・6~11)
会衆たちにとって、モーセは自分たちを約束の地に引き連れてくれる、信頼すべきリーダーでした。
途中で「肉が食べたい」などと文句を言っても、こうして必要な時に水を豊かに湧き出させることができる彼は、主に導かれた理想のリーダーに映ったことでしょう。
ですが、この場面に続いて、主は怒りを露わにします。
「お前たちは、わたしを信じようとはせず、イスラエルの子らの目の前でわたしの聖なることを示さなかった。
それ故、お前たちはこの集会を、わたしが彼らに与えた土地に導くことはできない」。
主への信頼があれば、言われた通りに岩に命じればよかったのです。
そして、いらだって岩を二度も打つ必要はなかったのです。
その後、ほどなくしてアロンがホル山で死に、モーセもネボ山で召され(申命記32・48~52)、兄弟は約束の地に入ることは出来ませんでした。
「あなたの神、主が部族ごとに与えてくださる、あなたのすべての町に、裁き手と役人を任命しなければならない。
彼らは公正な裁きをもって民を裁かなければならない。
あなたは裁きを曲げてはならない。
人を分け隔てしてはならない。
賄賂を受け取ってはならない。
賄賂は賢い者の目を眩ませ、正しい者の言い分をゆがめるからである。
ひたすら正義を追い求めなさい。
そうすれば、あなたは生き永らえ、あなたの神、主が与えてくださる土地を所有することができる」。
(申命記16・18~20)
リーダーに求められるのは、いつの時代も「信頼」と「正義」
やはり、聖書にはすべての答えが書かれています。
・・・・・・・・・・・
WOWOWのドラマ「0.5の男」をネットフリックスで観ました。
(最近はネットフリックスで日本のドラマが充実しています!)
このドラマは、ざっと以下のテーマが網羅されています。
・引きこもり
・家庭内暴力
・いじめ
・職場でのパワハラ
・育休後の女性の働き方
・老後の暮らし方
すべて現代社会を反映している問題であり、その対策が国のリーダーに求められていることです。
なんだか、重くて暗い展開を想像されるかもしれませんが、俳優陣の演技の賜物もあり、軽快で明るく、ホロリとさせられる、とっても楽しいドラマでした。
この、現代の社会問題のすべてを解決するキーワードは、「家族」でした。
現実はそう単純なものではないでしょうが、親子の関わり方、兄弟姉妹の関係性、孤立した人への接し方など、いろいろな点において「知れてよかった」と思える内容でした。
人間関係の根本はやはり、家族なのです。
そしていつの時代も、やっぱり家族のリーダーは「お母さん」なのです!!
(このドラマ、かなりお薦めです!)
将来を見据える
8日のミサでは、敬老祝福式が行われました。
わたしにとっては、親と変わらない世代の先輩方ですが、友人のように仲良くさせていただいている方も多くいます。
そして、いつのまにか宮﨑神父様も、「敬老」の対象者に近づいていました。
・・・・・・・・・・
今読んでいる本に、ブッダの召命について書かれているくだりがありました。
若き王子ゴータマ・シャーキムニ、未来のブッダは、世俗を捨てるという考え方に染まっては困るから、老・病・死と出家は知らせないように、と父に厳格に守られ、大切に育てられていました。
3つの宮殿と4万人の踊り子をあてがわれ、現世の世俗的な喜びの世界を経験し尽くしていた若者は、違った経験を求めるようになります。
ある日、庭園に行こうと思った王子は、御者が用意した豪華な馬車で出かけます。
「王子に光を与える時来たり。しるしを見せねばならない」と神々は考え、仲間のひとりを身体の弱った年寄りに変え、未来のブッダに見せました。
王子と御者にしか見えていないので、王子は御者に尋ねます。
「この人は何だろう。髪までほかの人と違うが」
生まれれば老いが必ず訪れるものだと知った王子は、心をかき乱されます。
次に庭園に出かけた時は、神々は病人を、その次には死人を見せます。
そのたびに心を乱し、引き返す王子。
ある日、庭園に向かっていた王子は、神々が造った、丁寧にきちんと衣装をまとった僧侶を見ます。
「この人は何者だ」
「この世から隠遁した者でございます」
御者は、この世から隠遁することがどれほど素晴らしいことかを話して聞かせます。
この世から隠遁するというのは、未来のブッダを大変満足させる話でした。
神よ、わたしを守ってください。
わたしはあなたのもとに逃れます。
主に向かって、わたしは言う、
「あなたこそわたしの主、わたしの幸せ、あなたに勝るものはありません」。
(詩編16・1〜2)
わたしにも、「あぁ、あれが召命だった」と思い返すことができる出来事があります。
14年前、熱心にミサに通うようになったわたしは、昨日お祝いした先輩方が、ミサ前に準備で忙しく立ち回っていらっしゃる姿を遠目に見ていました。
それまで、たまに気が向いたらミサに行く、程度の信徒でしたので、教会の運営やミサの典礼準備など、全く知らなかった(関心を持っていなかった)のでした。
ある日、「あなた最近よく来てるわね。聖書朗読してみない?」と声をかけてもらいました。
それ以来、気にかけていただき、少しづつ色々な役割を任せいていただくようになりました。
先週のミサで、あらかじめお願いしていた聖書朗読者が5分前になっても現れず、急遽、夏休みで帰省していた大学生に「お願い、第2朗読、いまから!」とお願いしました。
その時、14年前の記憶が蘇ったのでした。
いま役割を任せてもらっているわたしたちも、将来を見据えて行動しなければ、と。
教会を繋いでいくためには、人の力が必要です。
建物を綺麗に整備して、傷んだ箇所を修理し、祭壇にお花を飾っても、教会という組織を動かして典礼の準備をする人材がなくては、信仰の場を将来に繋げていくことはできないのだ、と最近よく考えるようになりました。
信仰には、信徒の交わりという横軸がとても大切です。
そして、その交わる場が教会です。
以前のわたしのように、自分がミサに与ること以外に関心のない方も多いかと思うのですが、わたしが目をかけてもらったように、わたしも次の人材を見つけたい、と常々目を光らせています。
主よ、あなたはわたしの分け前、わたしの杯に受けるもの。
あなたこそわたしの行く末を決める方。
測り綱はわたしのために善い所に落ちた。
まことに、わたしが受けた譲りは素晴らしい。
わたしはたたえる、わたしを諭す主を。
夜には、心がわたしに教える。
わたしは常に主を思い浮かべる。
主がわたしの右におられるので、わたしは揺らぐことがない。
あなたはわたしに命の道を示してくださいます。
あなたの前には溢れる喜び、あなたの右には永遠の楽しみ。
(詩編16・5〜8、11)
気づいた時に、思った時に、こうして自分の背中を押すためにもここに書いています。
おこがましくも、勝手に身に負った使命感ですが、今神様がわたしたちをこうして働かせてくださっていることの意味を、見逃してはいけないと感じています。
典礼担当者が作ってくれた共同祈願の文が、まさに今の気持ちに合致していました。
今月、敬老の日を迎えるにあたり祈ります。
これまで、周りの方々のため、また教会のために、自分の時間、才能を惜しみなく使われてきたみなさんが、これからも健康に恵まれ、心身ともに元気に過ごすことができますように。
アーメン
聖書を楽しむ日
台風10号は、進路が刻一刻と予報から変わり、想定されていなかったであろう地域にも被害をもたらしました。
逆に久留米は、予想されていた暴風雨がほとんどありませんでした。
人間はコンピュータのデータ計算によって何事も予測できるようになったと思っていますが、自然の力はわたしたちの次元とは全く異なり、災害からは逃れることはできない、という無力さを痛感します。
教皇様の9月の祈りの意向は「地球の叫びのために」
私たち一人ひとりが、地球の叫びに、また、環境災害や気候変動の犠牲者の叫びに心の耳を傾け、私たちの住む世界を大切にする生き方へと導かれますように。
・・・・・・・
台風の影響を考慮して、金曜日は仕事を休みにしていましたので、ゆっくりと聖書を開いて読み返していました。
列王記のエリシャの召し出しと活躍のあたり、いつもワクワクさせられます。
エリヤはシャファトの子エリシャを見つけた。
彼は十二軛の牛を先に立て、畑を耕しており、自分は十二番目の牛とともにいた。
エリヤはそばに行き、自分のマントをエリシャに投げかけた。
エリシャは牛を残したまま、エリアの後を追って言った、「わたしの父と母に別れの口づけをさせてください。それからあなたに従います」。
エリシャは一軛の牛を取って犠牲としてささげ、牛の引き具を燃やして肉を調理し、人々に振る舞い食べさせた。
それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。
(列王記上19・19〜21)
12という数字
自分のマントを投げる行為
牛を残したまま後を追う様子
両親への別れの口づけ
新約へのつながりを感じます。
列王記は、北イスラエルと南ユダ、両王国の王の不誠実さとその滅亡という悲劇的な史実を描いているのですが、その中に挿入されている、反バアル礼拝の主唱者である預言者エリヤと、その弟子エリシャの信頼関係が際立っています。
列王記下の2章では、エリヤが主に遣わされて遠くへ行くので、何度もエリシャに「あなたはここに留まりなさい」と言います。
ですがエリシャは、「生ける主と生けるあなたに誓って申します。わたしはあなたから離れません」。と何度も答えるのです。
イエス様から弟子が逃げるように離れて行った場面を思い起こすと、このエリヤとエリシャの場面はとても感動的です。
「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をすればよいか、言いなさい」。
エリシャは答えた、「あなたの霊の二倍の分け前を継がせてください」。
(列王記下2・9)
エリシャにはエリヤの霊が強く留まり、水が悪くて流産が多いと嘆くエリコの町で、水源の水を癒します。
(列王記下2・19〜)
この『エリシャの泉』は、聖書にある通り、今現在もきれいな水が湧き出で続けています。
2019年の巡礼の際に毎日書いていた記録を読み返してみると、コーディネーターの牧師さんから教わったことを、次のように記していました。
エリコは地中海の海面より250m低い。
亜熱帯的な気候と泉から、BC9000年頃から人類が定住した地として、世界最古の記録がある。
BC7000年の時代の城壁で囲まれた町の跡が発見された。
新約の時代のエリコは別の町。
1994年のオスロ合意でパレスチナ自治区となる。
日本のODA支援で、病院、学校、工場が建てられた。
悲劇を悲観的に捉えるのではなく、その不忠実さを悔い改めを呼びかけるためにあえて楽観的に締めくくられているのが列王記です。
こうして旧約聖書を読むことは、イエス様の教えの根本を知る、大切なことだと教わってきました。
巡礼の手帳の最初には、指導してくださった森山神父様(現、大分教区司教)が事前説明会でおっしゃった言葉を記していました。
わたしたちは、2000年後のキリスト教を受け取っている。
この巡礼は、2000年前のイエス様の言葉を受け取る旅。
新約に書かれたイエス様の言葉の元である旧約を理解し、イエス様と一人ひとりが出会う旅。
イエス様と近しくなるための巡礼の旅。
(2019・7・22コレジオにて)
旧約聖書を読みながら、イスラエルの風景を思い出す休日でした。
モチベーション
この夏の久留米の暑さは本当に異常でしたが、ようやく、朝晩がいくらか過ごしやすくなってきました。
先週18日の夕方、久留米教会恒例の夏の行事「納涼祭」が開催されました。
酷暑の中ではありましたが、多くの皆さんが協力し合い、夏の思い出深い時間を過ごすことができました。
・・・
社会学者・古市憲寿さんの「楽観論」という本を読みました。
その中にこう書かれています。
全く科学的根拠がなくても、ほんの些細なきっかけで人は自信を持ったり、幸せな気持ちになったりする。
結果として、その気分が仕事を成功に導くこともある。
社会学では「予言の自己成就」と言うが、たとえ間違った「予言」であっても、その内容によって人間の行動や意識が影響を受け、ついにはそれが現実となってしまうことがあるのだ。
「予言の自己成就」とは、根拠のない噂や思い込みであっても、人々がその状況が起こりそうだと考えて行動することで、事実ではなかったはずの状況が本当に実現してしまうこと。
例えば、自分は成功すると思う人は成功しやすく、失敗すると思う人は失敗しやすくなることなどがあります。
人から言われた些細な事、ちょっとした行き違い、などがきかっけで負のスパイラルに陥ることもあれば、努力が実ったと実感できること、美味しい食事、友人との楽しい会話などで力がみなぎるような気分になり、やる気が湧くこともありますね。
信仰も、ある意味「自己成就」的な要素を持っているのではないか、と思います。
信仰とは、願うだけ、祈るだけ、想像するだけ、ではありません。
求めるもののために、積極的な行動を起こす必要があります。
信仰生活は、「神様と向き合うことを縦軸とし、周りの人々とのつながりである横軸を深める」ことであると言われます。
そして、人生とは、自分と向き合い、周囲との関係性のなかで常に成長することで深まっていきます。
「わたしはお前たちに清い水を注ぐ。
そうすれば、お前たちは清くなる。
すべての汚れ、すべての偶像からお前たちを清める。
お前たちに新しい心を与え、新しい霊をお前たちの内に置く。
お前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
わたしたちの霊をお前たちの内に置く。
そして、わたしの掟に従わせ、わたしの定めを守り行わせる」。
(エゼキエル36・25〜27)
わたしは、心が汚れていることを自覚しており、流言やテクノロジーといった偶像に時に支配されています。
心が石のようになり、他者を退け、批判することもあります。
そして、日々反省し、「絶対に神様がわたしを正しく、あるべき方向に導いてくださる」と信じています。
毎日の祈りで、呪文のように祈っています。
必ず祈りを聞き入れてくださる、と信じて、毎日をよりよく生きようと努めています。
谷は一面おびただしい骨で埋まり、しかもそれらは枯れきっていた。
主はわたしに仰せになった、「人の子よ、これらの骨が再び生き返ると思うか」。
わたしは答えた、「主なる神よ、それはあなたがご存知です」。
すると主は仰せになった、「これらの骨に向かって預言し、告げなさい。枯れた骨よ、主の言葉に耳を傾けよ。主なる神はこれらの骨に仰せになる。わたしはお前たちの中に息を送り込む。そうすれば、お前たちは生き返る」。
(エゼキエル37・2〜6)
適切な言い方ではないかもしれませんが、わたしにとって信仰は、人生のモチベーションを上げるために欠かせないものです。
ゼッタイたいじょうぶ
きっとたいじょうぶ
そう自分に言い聞かせるときに、祈りを捧げる対象があることは、本当に救いでありお恵みであると思うのです。
わたしのカトリックの信仰は、母から教わって始まりました。
神様が母を選び、そして、わたしをも選んでくださったのです。
キリストの良い香りでありたい、そう思って信仰を思い返し、今日もモチベーションを上げて、生きます。
永遠の父よ、約束された聖霊を待ち望むわたしたちの祈りを聞き入れてください。
多様な価値観が共存する世界の中で、救い主キリストを信じるわたしたちが、その信仰を誠実にあかししていくことができますように。
わたしが今すべきこと
お盆休みの間、皆さんも、ご家族が帰省されていたり、ご家族の元を訪ねて遠出されたりと、それぞれの過ごし方をされていたことでしょう。
お盆、というのは仏教に起源がある風習なのかもしれませんが、日本の夏の習慣として定着しています。
改めて家族のことを深く想う、日本の美しい季節です。
わたしも、横浜に住む甥を預かって、美味しいものを食べに行き、宿題を見てあげたりお買い物をしたり、と、楽しい時間を過ごすことができました。
子よ、すべての行いに注意し、すべての振る舞いに節度を守りなさい。
お前自身が嫌うことを他人にしてはならない。
(トビト4・14)
信仰を持たない家族に、自分の生き方を示して理解してもらうのは、そう難しいことではないと思っています。
わたしは、妹と、亡くなった母が信仰を持っていますが、姪・甥は洗礼を受けていません。
だからこそ、機会あるごとに、「人からしてほしいと思うことを、人にもしなさいね」と伝えるようにしています。
小さな頃から、機会があればごミサに連れて行き、一緒に祈って一緒に歌って、そうやって大きくなった姪と甥です。
カトリックの教義や信仰の意味については、おそらく全く理解していないでしょうが、わたしは彼らとミサの時間を共にすることが大切な喜びです。
聖母の被昇天の祝日のごミサに、甥を連れて行きました。
ジュゼッペ神父様のお説教は、今のわたしの心境を表してくださったような、とても大切な教えでした。
マリア様の被昇天については、聖書には全く書かれていません。
1950年に、教皇様が正式にカトリックの信仰として確立されました。
このことは、マリア様がわたしたちの父である神のお母様であることを、改めて「信じるべきこと」として宣言されたと理解するべきことです。
わたしたち信者は、胎内の子が喜んで踊ったように、いつも喜んでいなければなりません。
そして、周りの人も喜ばせなさい。
あなたが出会う人々に、あなたがもらっているお恵みを与えなさい。
そうすれば、イエス様があなたを通してあなたにも周囲の人にも、喜びを与えてくださいます。
わかりやすい、とても心に響くお話でした。
中2の少年にこのお話が響いたとは思いませんが、わたしが受けているお恵みを彼にもお裾分けしていることを、いつか気付いてくれたら、と思っています。
いつもこのことを基本として、わたしが家族の中ですべきことはなにか、を考えています。
こうして、聖書を開きながら書いている横で、甥はイヤイヤながら夏休みの宿題をしています。
この瞬間も、わたしにとっての思い出深いお恵みのひとときです。
すべての思慮深い人から助言を求めなさい。
そして、有益な助言を軽んじてはならない
いかなる時にも主である神をたたえ、お前の道をまっすぐにし、お前の歩みと計画とが栄えるように神に祈りなさい。
ただ主だけが、ご自分の欲する人にすべての善いものを与えてくださるからである。
(トビト4・18〜19)
受けているお恵みを家族にもお裾分けし、わたしの歩み(生き方)と計画(家族の幸せ)を神様が力強く導いてくださるように、と毎日毎日お祈りしています。
神様が、今もいつも、わたしたちの祈りを聞き入れ、導いてくださいますように。
自分の心で
今の期間は、カトリック教会の平和旬間(8/6~15)となっています。
平和の祭典でもあるオリンピックの期間中も、戦闘は止まず、ネット上では身勝手な正義感を振りかざす誹謗中傷がエスカレートしています。
根拠がなく真偽が定かではないのに言いふらされる、無責任なうわさのことを、「流言(りゅうげん)」と言います。
今回のオリンピックでは、ボクシングの女性選手2名は「性転換して女性になった男性」という流言が広まりました。
イングランド全土と北アイルランドの町や都市で現在も続く暴力事件は、7月末に起きたダンス教室で幼い子ども3人が殺された事件に端を発しました。
容疑者は小型ボートでイギリスに到着したイスラム教徒の亡命希望者だ、という間違った憶測と間違った名前がSNSで拡散されたことで、大きな移民排斥運動へと繋がったのです。
第17主日から第21主日まで、ヨハネ福音書6章のほぼ全部が読まれます。
「福音書のある一章を5回の主日に渡って読むことは、典礼暦年でこれ以外に例がありません。
ヨハネの6章が、いかに教会で重視されてきたかが分かります。」
と、来住 英俊 神父様がnoteに書いていらっしゃいました。
その後、イエスはガリラヤ湖、すなわち、ティベリアス湖の向こう岸へ行かれた。
大勢の群衆がついて行った。
イエスが病人たちに行われた徴を見たからである。
よくよく言っておく、あなた方がわたしを探し求めるのは、徴を見たからではなく、パンを食べて満腹したからである。
(ヨハネ6・1~2,26)
イエス様の時代にも、もちろん貧困はありました。
ですが、現代のほうが世界には大いなる貧困が存在し、富の格差は遥かに大きいのです。
パンと魚を食べて物質的に満足した群衆は、現代のわたしたちとも通ずるものがあるように思います。
今日食べるものに困っているわけではない人の方が、現状への不満や不安を大きく抱えているようにも思えるのが今の時代です。
イエス様を追い求めて付いて行った群衆は、イエス様の業の噂を聞き、実際に自分で確かめたかったのです。
少なくとも彼らは、自分の目で確信を得ようとしたのです。
貧困とローマの圧政から救ってくれると信じられていたメシアを、自分で。
流言などというものはなかったのでしょう。
インターネットがない時代は、可能であれば自分の目と耳で確認する、出向いて会って話す、これしかなかったのですから。
なぜ、ヨハネの6章がカトリック教会で重視されてきたのでしょうか。
改めて読み返してみて、今のわたしにはこの箇所が1番心に響きました。
弟子たちのうちの多くの者はこれを聞いて、「これはとんでもない話だ。誰が、こんな話を聞いていられよう」と言った。
イエスは、弟子たちがこのことについて不平を言っているのに気づいて、仰せになった、「わたしの話があなた方をつまずかせるのか。
それでは、人の子が元いた所に上って行くのを見るなら・・・・・
しかし、あなた方の中には信じない者もいる」。
このことがあって、弟子の多くはイエスに背を向けて去り、もはやイエスと行動をともにしなくなった。
(6・60〜66)
ここで書かれた「弟子」は、12使徒ではなく、イエス様の行われた徴を見てイエス様に付き従った群衆を意味しています。
わたしたちの多くは、この群衆と同じです。
自分の求めていたものとは違う
自分はこの人を間違っていると思う
自分のために何もしてくれない
目先の利益(ここでは満腹すること)が優先され、イエス様の伝えたかったメッセージを「とうてい受け入れられない」と拒絶する。
聖書とは素晴らしいことばかりを書いている書物ではない、とつくづく思います。
人の心の中をつぶさに表現し、「あぁ、わたしも同じだ」と身につまされるエピソードが散りばめられています。
それに気づくことができる信仰、それが、自分の心の中で行われる神様の業、徴なのです。
来年1月1日に記念される「第58回世界平和の日」のために教皇フランシスコが選んだテーマは、
「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちに平和をお与えください」。
平和旬間の今こそ、そう祈りたいと思います。
いつも、不安、不満を探し出してばかりいるわたしたちをお赦しください。
すべての人々の周りに平和をお与えください。
強く賢く
毎年、「今年の夏は暑さが厳しくなります」「10年に一度の大雨」といったニュースを耳にしますが、今年は記録の残る126年間で「1番暑い7月」だったとか。
イスラエルのマサダ遺跡を歩いたときの気温を思い出す、猛暑を超えた酷暑の久留米です。
(マサダの山頂で、携帯の気温計は47℃だったのです!)
福音書には、イエス様のたとえ話に登場したり、男性使徒たちよりも重要な場面に遭遇する女性たちの姿が生き生きと描かれています。
イエス様は、女性の活躍の場は家に限定されるという考え方を覆すような教え、社会生活・信仰生活のなかにも女性の活躍の場があること、を示してくださいました。
女性がたとえ話の中で良いお手本として描かれ、イエス様の死に立ち会い、復活後に空になった墓を見つけたり。
イエス様の生きた時代は、女性は数に数えることすらされないような存在でしたのに、女性に対するイエス様の考え方だけでなく、福音史家の受けた教えがそれを物語っています。
(パンと魚の奇跡で、5000人が満腹したという数字は、男性だけの数でした。)
あなたがたは皆、真実によって、キリスト・イエスにあって神の子なのです。
キリストにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです。
ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。男と女もありません。
あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。
あなたがたがキリストのものであるなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
(ガラテヤ3・26~29)
松田聖子さんのコンサートに行ってきました。
世界に遅ればせながら、女性でも目標のためにはどんな努力も惜しまない姿を日本でも見せつけた、初めての女性アイドルではないでしょうか。
一度狙いを定めると、目的を遂げるまでは決してあきらめない彼女の姿勢と行動力は、20世紀末の日本にあっては非難の対象でしかなかったように思います。
憧れの人と恋愛をし、アメリカデビューのためにすざましい努力をし、結婚、出産、離婚、恋愛、再婚、そして永遠のアイドルとしての存在。
もう25年も、ほぼ毎年コンサートに行っています!
62歳になった彼女は、わたしたちファンには今でも「聖子ちゃん」なのです。
彼女は、わたしたちにとってずっと、「尊敬の対象」です。
旧約聖書には、
ペルシャの王妃に選ばれたエステルが、ユダヤ人を救うために知恵と信念をもって行動する姿
ダビデに進言し、無益な争いをやめるよう思いとどまらせたアビゲイルの思慮深い行動
こうした、活躍する多くの女性たちの生き生きとした物語が多くあり、読んでいてワクワクさせられます。
彼女たちの物語は、信仰、指導、母性、勇気、知恵、そしてさまざまな人間の側面を示しています。
オンライン上の論文、『Woman of Faith in the Gospels』(「福音書に登場する信仰の女性たち」著者 ピーター・アムステルダム氏)には、このように書かれていました。
最初期の弟子全員がイエス復活の証人であり、十字架刑のあとにイエスが生きておられるのを見ましたが、最初の目撃者は女性たちでした。
墓が空であることを最初に発見したのが女性である、と福音書著者たちが告げているということは、福音書の記述が真実であることを示す、重要な根拠として挙げられることがよくあります。
1世紀においては、女性は一般に信頼できる証人とはみなされていなかったので、福音書の著者たちは、それが真実でない限り、最初の目撃者として女性に注目を向けたりはしないだろうからです。
・どうして使徒として描かれているのは男性12人に限定されているのだろう。
・そういう時代だったとしても、聖書に描かれている女性たちの方がずっと重要な役割を果たし、男性使徒たちよりもずっと強くて賢いように思うのに。
そう思っていましたが、この文章を読んで腑に落ちた気がしました。
誰が一番弟子かを争い、嘘をつき、一番大事な場面で逃げ、十字架につけられたイエス様の足元にすらおらず(いたのは一人だけ)、そうした弟子たちの不甲斐なさと比べ、女性たちの献身ぶりは際立っています。
同時に、その後の弟子たちを命がけの宣教に駆り立てたのは、自分たちの不出来さへの後悔と反動もあったでしょうし、女性たちの物心両面の支えがあってのことでしょう。
イエス様も福音史家たちも、男女の役割と能力、その影響をよく理解されていたのだわ、と思うのです。
パリオリンピックでは、 平均年齢が41.5歳で、自身らがつけたチームの異名「初老ジャパン」でも話題になった馬術が、92年ぶりのメダルとなる銅メダルを獲得しました。
「体力面では男性にかなわない女性であっても、馬との信頼関係を築き、馬に正しく指示することができれば、互角に勝負することができるのが馬術」ということで、五輪では唯一男女が同じステージで戦う種目でもあるのです。
わたしはフェミニストではありませんが、やはり、強く賢い女性が活躍する姿を見るのは嬉しいものです。
正しい行い
2022年末に、難病のスティッフパーソン症候群という神経疾患に侵されていることを告白し、現在も治療中のセリーヌ・ディオン
名前は知らなくても、彼女の歌声は誰もが聴いたことがあり、その伸びのある美しく力強い歌声には誰もが感動したことがあるはずです。
パリオリンピックの開会式で、観衆を前に久しぶりに歌声を披露してくれました。
彼女のドキュメンタリー映画が先月、Amazonでリリースされました。
自分を導いてくれる存在だった歌、声を奪われた心境を赤裸々に、涙ながらに語る彼女の姿は見ていてとてもつらくなりました。
ですが、彼女には「またステージで歌いたい」という強い強い希望があります。
https://www.vogue.co.jp/article/celine-dion-documentary-trailer-interview
このドキュメンタリーの中で、彼女が実際に発作を起こし、医療スタッフが治療をする場面があります。
全身の筋肉が硬直し、呼吸することすら辛そうでした。
幸い、彼女には24時間体制で付き添うチームがいますが、もし、目の前で人が倒れたりしたら、自分は何ができるだろうかと考えました。
佐賀・有田の救急救命士が、患者の家族(看護師)に処置を手伝わせたことで、地方公務員法違反の懲戒処分を受けた、というニュースがありました。
消防本部の見解は「偶然現場に居合わせた人が医療従事者だと告げてきたとしても、資格の証明が難しい。」。
宮﨑神父様がお説教で何度かお話ししてくださった、「善きサマリア人法(Good Samaritan Law)」について。
これは、アメリカ合衆国のすべての州で制定されている法律で、事故でケガをしたり、急病になった人を善意で助けた人に対し法的な保護を与えるもので、原則として、損害賠償責任を負わせないものとされています。
アメリカ以外にも、カナダ、オーストラリアなどでもこれに該当する法律が存在し、現在日本でも立法化すべきか否かという議論がなされているそうです。
昨年12月には、救護者保護に関わる合同検討委員会(日本賠償科学会 ・日本救急医学会 )が国に対して法整備を提言しています。
この提言書には、次の2つの理念の下に法整備をするよう書かれています。
(ア) 医療従事者は、日常的に社会において連帯する人々の突然の傷病や災難に対して、できる限りの診療にあたり、寄り添い、心の安寧の提供に努める。
(イ) 医療需給が不均衡な状況において、急病や災難による窮地の人々を救うために善意の行動をとった場合、できることを良識的かつ誠実に行った医療従事者に対して、行為の結果については責任を問わない。
欧米のようなキリスト教社会では、善きサマリア人のエピソードは説明するまでもないのでしょうが、日本ではほとんどの人が知らないかもしれません。
この提言では、医療従事者のみが想定されています。
だとしても、だれでも善きサマリア人のように行動することが求められいる、と思うのです。
そして同時に、倒れていた重症の人を遠巻きに避けて通った祭司とレビ人は、単に、無関心な非情な人だったのではないということも理解しておくべきでしょう。
(彼らは、律法に従って、血を流して倒れている人が死んでいるかもしれないため、触れると穢れて、自分の生活に支障が出ることを恐れたのです。)
助けなかった人を責めるものではなく、自ら進んで助けを必要としている人(それが敵対する相手だったとしても)に寄り添い、できることがあれば実行しなさい、という教えだと理解しています。
名乗り出て手を貸さなかった医療従事者を非難するのではなく、実践した人を守るための法律です。
冒頭に紹介した、セリーヌ・ディオン
彼女のドキュメンタリーを見た後でしたので、開会式の最後に『愛の讃歌』を高らかに力強く歌い上げる姿には、本当に驚かされ、力付けられました。
彼女の不屈の精神力は、オリンピアンと変わらぬものに感じられます。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3891293d207727be35c5b9e80dba6ab41978f998
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/1275648?utm_source=yahoonews&utm_medium=related&utm_campaign=link&utm_content=related#goog_rewarded
・・・・・・・・・・・
気持ちがほっこりする記事を見つけました。
オランダで2000ユーロ(約34万円)入った財布を拾って警察に届けた30代の路上生活者のハジャーさん。
財布を拾って警察に届けたことがニュースとなった後、彼の生活を支援するためにオンラインファンディングを通じて一日で3万4000ユーロが集まったのです。
警察は「財布に身分証や連絡先がなく、持ち主にいかなる連絡も取れなかった」として、「特別なことをした地域住民に授与している『シルバー親指賞』と50ユーロ相当の商品券を彼に手渡しました。
さらに、誰も名乗り出なかった場合はお財布の2000ユーロもハジャーさんのものになるそう。
正当な理由
大相撲、楽しんでいます。
東十両7枚目の友風、という力士は、今場所から下の名前を友太(ゆうた)から想大(そうだい)に変えました。
右膝の大けがで4度の手術、5か月に及ぶ入院生活を経ても土俵に上がり続ける姿に、師匠が言った言葉が紹介されていました。
「お前は人とは違って壮大なことをやり続けている。それはすごいことなんだ。
しかも人の“想い”があって土俵に戻ってくることができた。
『想大』という名前にしたらどうだ」
力士として戦う姿の裏に、怪我とその後遺症による障害との闘いもあったのか、と思うと、より一層応援に力が入ります。
福音宣教の8・9月号のテーマは、『戦争をいかに防ぐか』です。
その中でも、神言会のハンス ユーゲン・マルクス神父様(前・南山大学学長)の「正しい戦争はあるか」というコラムが大変興味深く、そして、とても考えさせられるものでした。
神義論には興味がありますが、正戦論というテーマは初めて知ったことでしたので、驚きと共に読み進めました。
正戦論とは、戦争一般が正しいかどうかではなく、正しいと認められるため、戦争の開始と遂行はどのような条件が満たされるべきか、という考え方だそうです。
「災いだ、アッシリア、わたしの怒りの杖。
彼らの手にあるその棒は、わたしの憤り。
わたしは、神を無視する国に向かって彼を遣わし、
わたしの憤りの民から分捕り品を取り、略奪品を奪い、
彼らを巷の泥のように踏みにじるよう、命じる。
しかし、彼はそのように考えず、その心はそのように思わない。
まことに、彼の心にあるのは滅ぼすこと、多くの諸国を滅ぼし尽くすこと」。
(イザヤ10・5~7)フランシスコ会訳
この箇所では、神を敬わない国に罰を与えようとする神の意志が書かれています。
ところが、神が遣わしたアッシリアは、それ以上のこと、破壊して滅ぼし尽くすことしか考えていませんでした。
ニュースで見る、ウクライナとガザの映像、破壊され、根絶やしに滅ぼそうとされているかのような惨状と重なって見えます。
カトリック教会としては、第2バチカン公会議において、「平和的解決のあらゆる手段を講じたうえであれば、政府に対して正当防衛権を拒否することはできない」、とされているようです。
(難しい言い回しですが、ようは、正戦はありうる、ということでしょう。)
教皇様は今年の3月に、ウクライナの形勢が圧倒的に不利だとして「和解交渉のためにウクライナが白旗を揚げるなら、それこそ勇気のある決断だろう」と発言され、欧米の世論が猛烈な批判をしたことは記憶に新しいところです。
主がシオンの山とエルサレムですべての業を終えるとき、アッシリアの王の尊大な心が結んだ実と、その目に輝く高慢を、主は罰せられる。
なぜなら、彼はこう言っているからだ。
「私は自らの手の力で行った。
自らの知恵で賢く振る舞った。
私はもろもろの民の境を取り去り、その蓄えを奪い、力ある者のようにその住民をおとしめた。」
(イザヤ10・12~13)聖書協会共同訳
福音宣教のなかでマルクス神父様は、教皇様の発言の真意をこう書いておられます。
戦闘員と非戦闘員との区別がますます不明瞭になっていく中、自己防衛のために戦われる戦争もついに正当性を失う危険をはらんでいる、という警告も教皇は意図されていたかもしれない。
教皇が踏まえておられるカトリックの正戦論の趣旨は、第一義的には、戦争を正当化することではなく、避けがたい戦争による害を最小限度に減らす、ということである。
正戦論についていろいろ調べていると、2020年(日本語版は2021年)に発行された教皇様の回勅、「兄弟の皆さん」のなかに、そのことに関しての記述がありました。
久しぶりに読み返してみて、教皇様は2024年の現在も、恐らく全く同じように考えて上記のウクライナに関する発言をされたのだ、と確信が持てました。
問題であるのは、核兵器、化学兵器、生物兵器の開発と、新技術からもたらされる膨大で増大する手段によって、制御不能な破壊的軍事力が戦争に付与され、多くの罪のない民間人が被害にあっているということです。
ですからわたしたちはもはや、戦争を解決策と考えることはできないのです。
戦争によって手にされるであろう成果よりも、つねにリスクの方が大きいはずだからです。
この現実を見れば、「正戦」の可能性についてかたるべく、過去数世紀の間に合理的に練られた基準を、今日支持することはきわめて困難です。
二度と戦争をしてはなりません。
(第7章258)
わたしたちのように、戦争から遠く離れたところで平和に暮らしていると、どうしても現実的に深く考えることが難しい。。。
回勅の一番最初に、教皇様はこう書かれています。
「離れていても、一緒にいるときと同じように兄弟を愛する人は、幸せである。
身体的な近しさを超え、生まれや住む世界と言った場所を超え、一人ひとりを認め、尊重し、愛することを可能にする兄弟愛です。」
戦うのは自分自身の弱さとだけにし、周囲の人、特に子どもたちに対して優しい気持ちで接することに励みたいものです。
キリストは来られ、遠くの者であったあなた方に平和を、近くの者にも平和を、福音として告げ知らせました。
(エフェソ2・17)
神の方を向く
東京都民ではないのに、今回の都知事選挙はとても気になってニュースを追いかけていました。
バイデン大統領の進退も気になるこの頃です。
今年は、世界中で政治の流れが大きく変わっています。
というのも、EUの多くの地域で、極右とナショナリスト右派が躍進しているからです。
背景にあるのは、(2022年度は700万人がEU内に流入したという)移民問題、インフレ、環境重視の改革のコスト(環境保護を重要視する結果、電気代などが高騰)、などに人々が懸念を募らせているからだと言われています。
反移民、反環境規制、反EUといった主張を掲げる極右の躍進は、昨年11月のオランダの選挙で顕著に表れました。
ドイツ、ハンガリーでも極右政権が誕生しています。
先週のフランスの解散総選挙でも、結果及ばなかったものの、同様に極右政党が大躍進しました。
イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。
実もそれに等しい。
実を結ぶにつれて、祭壇を増し国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。
(ホセア10・1)新共同訳
イスラエルは実を結ぶ茂ったぶどうの木。
その実が多くなればなるほど、彼は祭壇を増やした。
(同)フランシスコ会訳
イスラエルは多くの実を結ぶ、伸び放題のぶどうの木。
たわわに実るにつれ、祭壇を増やし
国が豊かになるにつれ、石柱を飾り立てた。
(同)聖書協会訳
この訳は、断然、聖書協会共同訳が勝っていますね!
わたしの素人考えではありますが、ヨーロッパをよりよい社会にするためにEUを結成し、移民を積極的に受け入れる政策を打ち出したのではなかったでしょうか。
環境を破壊し続けてきたのはわたしたちであり、そのツケを後回しにしないための政策は必要不可欠ではないでしょうか。
ユーロ安・円安、そしてインフレも、お金をゲームのように動かし、莫大な資金を出し合って戦争しているのは、わたしたち人間なのです。
クリスチャン・ナショナリズムというイデオロギーがあります。
彼らは、アメリカがキリスト教国家として建国されたと主張し、その政府と社会はキリスト教の価値観を反映すべきだと主張しています。
想像がつくと思いますが、ドナルド・トランプ前大統領を支持する人々です。
これまで人種差別的とみなされてきた欧米の極右は、近年は熱心にユダヤ人差別反対を叫んでいるようです。
それは、反ヘイトに舵を切った、というより、異人種・異教徒との共存を否定する考え方からのようです。
極右にとってイスラエルは、「イスラム勢力と戦う同盟者」であり、ユダヤ人差別反対はそのためのアピールだと言われています。
「南アフリカのアパルトヘイトが公式に消滅した現在、白人と有色人種・異教徒を、軍事力をもってしてでも分離する体制はパレスチナ占領地にしかない」と書いてある記事がありました。
人種、宗教の違いを根幹にしたヘイトクライムは、世界のいたるところで酷くなる一方ですし、政治もその方向を向いている(極右が主流になりつつある)という現実は、とても恐ろしいことのように思えます。
ホセアは、神と民の関係を夫婦の関係にたとえて巧みに表した預言者です。
不貞を働いた妻が、罰を受けた後に回心し神の愛を思い起こさせられる、という構成で編集されたのがホセア書です。
彼が活動したのは、BC750~725年ごろだと考えられています。
わたしは彼らの背信を癒やし、喜んで彼らを愛するであろう。
わたしの怒りは彼らから離れ去った。
わたしはイスラエルに対して露のようになる。
彼はゆりのように花咲き、
ポプラのように根を張る。
その若枝は栄え、オリーブの木のように麗しくなり、
レバノン杉のようにかぐわしくなる。
その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。
わたしは緑の糸杉のようである。
お前を実らせるのはわたしである。
知恵ある者はこの言葉を悟り、賢き者はこれを知れ。
主の道はまっすぐで、正しい者はこれを歩む。
しかし、罪人はこれにつまずく。
(14・2~10)
青くした文字は、すべて神の愛の象徴である、と教わりました。
「お前を実らせるのはわたしである」
一口にキリスト教、と言っても、聖書の解釈も神に向かう姿勢も本当にさまざまであることを、世界情勢をみていると痛感させられます。
身勝手な大人の争いに巻き込まれて犠牲になる子どもたちのために祈ります。
子どもたちの巻き添えが、これ以上増えませんように。
身体と心に傷を負ってしまった子どもたちが、少しでも笑顔になれる時間が持てますように。
子どもたちが、神様の方を向いて、前を向いて生きていくことができますように。
・・・・・・・・・・・・・・
エルサレムにある、ユダヤ人とアラブ人の子どもたちが共に学ぶ学校についての、NHKの特集記事です。
周りが何と言おうとも、欧米の政治がどのような政策を行おうと、結局は当事者のこうした意識と行動が最高の成果を産むのだ、と思わされました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240708/k10014502391000.html
我が家の近くの、わたしが大好きな風景です。
筑後川と耳納連山と大きな空。
分かち合い
6/23にアベイヤ司教様をお迎えして、筑後地区の信徒を対象とした研修会が行われました。
研修会、というと一方的に「講話」のようなものを聞くだけ、の場合が多いかと思いますが、今回は司教様が二つのテーマで「さぁ、みなさんで今から分かち合ってください」という場面をくださいました。
教会では、「分かち合い」ということをよくします。
一般的には、「嬉しかったこと、喜ばしいことを分かち合う」こと(お祝いの会や贈り物)はしても、面と向かって人に「さぁ、分かち合いましょう」とは言う機会はあまりないのではないでしょうか。
(多分、ちょっと怪訝な顔をされます。。。)
東京大司教区のホームページに「分かち合いとは」というページがあり、そこにはこう書いてありました。
『分かち合いとは』
知識や考察、正しいとか間違っているという判断ではなく、今ありのままの自分が感じている、心の動き(喜び、悲しみ、怒り、恐れなど)や、気づきを分かち合うこと
互いに、ひたすら心をこめて聴き合うこと
肯定も否定もせず、解決も試みず、教えたり、指図したり、勧めたりもせず、ただ傾聴すること
『分かち合いの実り』
・「今、ここで」自分が感じていることを表現できると、自分のより深いレベルに気づく。
・話す方も聴く方も、お互いを鏡として、自分の価値観、何を大切にしているかが明確になる。
・相手の話を心をこめて聴くと、相手の心の動きに敏感になり、共感できる人になる。
・人との交わりの中で、互いに生かされていることがわかる。
アベイヤ司教様は、研修会の中でこうおっしゃいました。
シノドスのテーマであった「ともに歩む教会」を造り上げていくためには、信徒、修道者、司祭、司教が共に話し合い、それぞれの体験を分かち合うことは欠かせません。
実生活の体験を分かち合うことが大事です。
分かち合うことで、様々な気づきが生まれると同時に、お互いを知る事にもつながるからです。
しかし、残念なことに、小教区において「分かち合い」を避ける傾向や、人との付き合いが希薄になっている現状が広がっているようにも見受けられます。
久留米教会では、ピースナインの会やヨセフ会、女性の会といったいくつかのグループが活動していて、それぞれのグループでは毎月さまざまな分かち合いが行われています。
しかしながら、積極的に信徒が分かち合っているか、というと、コロナ前のようには活発ではないでしょう。
10年前(!そんなに前!)から8年間、聖書百週間で学んでいた時のグループでは、毎週聖書を分かち合っていました。
自分の感じたこと、疑問、好きな理由など、自由に全員で分かち合っていて、とても充実した日々でした。
そしていま、わたしはここにこうして書くことで「一人分かち合い」をしています。
書いたことについて、「わたしはこう思いました」といった「分かち合い返し」をいただくことがあり、それがとても嬉しいのです。
やはり、分かち合いは一方通行ではつまらないものです。
今ありのままの自分が感じている、心の動き(喜び、悲しみ、怒り、恐れなど)や、気づきを分かち合うこと。
イエス様の時代、ユダヤ人の多く住む地区にはたいていシナゴーク(会堂)がありました。
信心深いユダヤ教徒たちが集まり、祈り、聖書朗読、律法と預言書に関する教育が施されていました。
多くは文字が読めなかったため、シナゴークでの教えを忠実に守る人々にとっての礼拝は、大切な信仰の分かち合いの場でした。
初期の教会では、イエス様の教えの分かち合いがかなり活発に、というか、まだ新約聖書は存在していなかったのですから、信じる者たちが分かち合いをすることで信仰を保ち、伝えていたはずです。
こうして分かち合われた信仰が、脈々と受け継がれてきたのです。
イエス様が生まれ故郷のナザレのシナゴークで教えられた時、その教えは受け入れられませんでした。
マルコの5章の終わりまで、イエス様はガリラヤの至る所で神の国を宣べ伝え、癒し、悪霊を追い払い、亡くなった子どもを生き返らせ、勝利の行進のような様相で、満を持して故郷に戻られました。
ナザレは300人ほどしか住んでいない小さな村でしたので、奇跡を行いながら宣教していることも噂には聞いていたものの、小さい頃から知っている若造が偉そうに教えるのが許せない、気に入らなかったのもあったでしょう。
(わたしたちの日常にも、そうした気持ちが湧く場面があることは否定できないものです。)
宣教という分かち合いは、相手が心を開いていなければ受け入れられません。
信仰は、イエス様が心の中に入っていくための扉です。
しかも、その扉は内側からしか開くことはできません。
アベイヤ司教様が研修会でおっしゃいました。
「いろいろな理由で教会から離れてしまった人、それは、家庭の事情かもしれません、人間関係、信仰への疑問からかもしれません、そうした人々を裁いてはいけません。
その人たちとのつながりを考え直すことを話し合って欲しいと思います。」
教会から離れてしまった人を呼び戻せなければ、新しい人の心の扉を開くなどできないのかもしれません。
一人の信徒が、一人の離れてしまった人のことを心に留める。
できることをきちんと取り組みたい、と気持ちを新たにできた研修会でした。