カテゴリ:聖書
「愛」にまつわる言葉
「愛」「愛する」という言葉は、口にすると少し気恥しい気がしますが、最近いくつかの「愛」にまつわる言葉を目にしたので、書いてみたいと思います。
5/17「世界広報の日」にあたっての教皇様のメッセージの一文です。
わたしたちを造り、救ってくださった愛を思い起こすなら、日々の物語の中に愛を差し込むなら、日常の筋書き〔横糸〕をあわれみで織るなら、そのときわたしたちは、ページをめくっているのです。
主とともに、ほころびや裂け目を修繕しながら、いのちの織物を再び織り上げることができるのです。
パパ様のメッセージはいつも愛に満ちていて、読んでいて涙が溢れそうになります。
1コリント13章は、パウロの愛の賛歌とでも言えるもので、とても好きな箇所です。
たとえ、わたしが人間の異言、み使いの異言を話しても、
愛がなければ、わたしは鳴る銅鑼、響くシンバル。
たとえ、預言の賜物があり、あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、
たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、
愛がなければ、わたしは何ものでもない。
(13・1~3)
「その時」引き続き残るのは、信仰、希望、愛、この三つ。
このうち最も優れているのは、愛。
(13・13)
フランシスコ会訳聖書の解説にはこうあります。
「愛」はあらゆる「特別な恵み」(カリスマ)に本質的に伴うものであり、「愛」がなければ、賜物はそれを与えられて行使する人にとって無意味なものになる。
「愛」は「信仰」「希望」とともに人を神と直接に結び付けるが、この2者にさえも勝るものである。
昨日の聖書朗読はヨハネの福音書でした。
「わたしの掟を自分のものとし、それを守る人、その人は、わたしを愛する者である。
わたしを愛する者は、わたしの父に愛される。
わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現す。」
(ヨハネ14・21)
さらに15章には、
父がわたしを愛してくださったように、わたしもあなた方を愛してきた。
わたしの愛のうちに留まりなさい。
(15・9)
ドン・ボスコの言葉です。
「若者たちを愛するだけでは十分ではない。
若者たちに『愛されている』とわからせることが必要だ」
信頼関係を築き、若者の生きづらさを取り除くには「愛する」だけでは不十分で、それを分かってもらえる努力をしなければならない、ということだそうです。
竹下節子さんの本にはこうありました。
「愛する」とは愛する「相手をリスペクトすること」と、「相手のためにだけとってある時間や場所があること」とが組み合わさったものである。
誰かを愛するというのは、自分の生きる努力の中に、スケジュール帳の中に、心の中に、愛する人のためにだけ取り出せる「空き」があるということだ。
だから、「自分は愛されている」と子どもたちにわかってもらうには、言葉だけでは十分ではない。
子どもたちに必要とされるときに、いつも応える用意があることを伝えること、全身全霊を投入して世話したり本気でともに遊んだりすることが必要だ。
もう一人、竹下さんと同様にわたしが尊敬する若松英輔さんの言葉です。
神が私に愛を注いでくれるということは、
この世界全体の根源である神が、私自身を肯定してくれていることに他ならない。
そして、神から肯定されているという事実を受け入れることによって、
自己を自分自身によって肯定することができる。
これが自己愛の出発点になる。
(これは、わたしの手帳に書き留めてあります。)
一方で、信仰についての心打たれる表現を見つけました。
1998年のヨハネ・パウロ2世の教書の中の言葉です。
「信仰と理性は、人間の精神が真理の黙想へと飛翔するための二つの翼である」
わたしの今日の結論は、パウロの言葉に行きつきます。
最後に残るのは、信仰、希望、愛、この三つ。
最後にもう一文、世界広報の日のパパ様メッセージより。
聖書は、神と人間との壮大なラブストーリーです。
その中心にはイエスがおられます。
イエスの物語は、神の人間への愛を完成させ、同時に、人間の神へのラブストーリーも完成させます。
是非、全文を読んでみてください。