カテゴリ:聖書
神はどこに?
もう、紫陽花の季節になりました。
わたしたちの新しい生活が進むにつれ、季節も神様が与えられたその時を知っていて、前に進んでいるのですね。
「神はどこにいるのか」という問いは、人類がこれまで繰り返し問うてきたように思います。
特に、困難な時代、戦争、大規模な自然災害の際には、神はどこに?とつい思うのが人間でしょう。
神がそれらの困難を引き起こしているのではない、我々人間の仕業、傲慢な生活の末に我々自身が引き起こしているのだ、ということについては以前ここに書きました。
今日は、違う視点から考えてみます。
モーセは荒野の山の麓で、燃える柴の中から神の声を聞きます。
「わたしの民イスラエルの子らをエジプトから導き出せ」 (出エジプト3・10)
「わたしは必ずお前とともにいる」 (3・12)
「わたしは『ある』ものである」 (3・14)
「これは永遠にわたしの名、これは代々にわたってわたしの呼び名である。」(3・15)
古代の神々には、名前があるのが普通でした。
黄泉の神イシス、太陽の神ラー、嵐の神バアル、などです。
ですからモーセは、あなたの名前を教えてください、と言ったのでしょう。
その答えが「わたしは『ある』もの」とは、なんと面白い答えでしょう。
(ちなみに、共同訳聖書では「私はいる、という者である。」)
英語の聖書では、 "I am who I am." となっています。
今回読んだ本で初めて知ったのですが、原典の古代ヘブライ語には過去形、現在形、未来形という考え方は存在しないのだそうです。
著者によると、「ある」の部分は「あるだろう」となるのだというのです。
「わたしはあるだろう、わたしがあるであろうように」
と訳するのが妥当なのだと。
「ある」というなら、(さらに言えば、共同訳の「私はいる」ならば)神はすでに「存在している」ことになります。
ですが、「あるであろう」となると、「将来あるだろう」「いつか姿を現すだろう」、つまり「今はまだいない者」となるのです。
「わたしは今はいない。
だが、いつか出てくるだろう。
わたしがあろうと望んだ時に。
あるであろう者、それがわたしの名」
わたしたちは神様を「存在」としてとらえようとするとき、「神はどこに?」と考えているのです。
神様は「時間」のなかに姿を現されるのだ、というのがこの著者の考え方です。
神様は自分の好きな時に、好きなところで、好きなようにわたしたちに触れてこられるのです。
人間が、好きな時に自分の都合で神様を引っ張り出してきて「どこに?」というから、「求める時にいない」などと思ってしまうのでしょう。
神様は「体験」する対象なのだ、と目からうろこでした。
ところで、 水を入れた容器の中心に強力な磁石を入れると水が左右へと分かれる現象が生じることを、『出エジプト記』のモーセにちなみモーゼ効果 (英語で Moses Effects) とよばれていると、ご存じでしたか!?
「神様がわたしの肩に触れてくださった」ような気がした、ガリラヤ湖畔を歩いた日を思い出しています。
去年は、夏にイスラエルに巡礼に行くことが出来、秋にはパパ様のごミサに与ることができ、神様の愛を全身に浴び続けた日々を過ごしていました。
今年は、教会に行くことができず、仲間たちと集まって教会の行事の準備をすることすら出来ない日々が続いています。
だからと言って、今はなかなか「神様を感じられない」なんてことはありません。
神様は、今日、今という時間にもわたしたちに触れてくださっているのを感じるようになりました。
教会に行けないから、ミサに与れないから、感覚が鋭くなっているのかも?!