カテゴリ:聖書
後悔を晴らす
次の日曜日まで、聖書週間となっています。
皆さんは、どのようなタイミングで聖書を開いていますか?
いつも何か、1冊の本を読むようにしています。
信仰に関する本でなくとも、気になった箇所があればそこに関連するかもしれない聖書の箇所を探します。
ニュースも、気になる内容があれば聖書にその応えがないか開いてみます。
わたしにとって、聖書を開くのは習慣となっています。
昨日お話しした方は、「眠れない時や、夜中に目が覚めてしまった時に、聖書を開いて読んでいます」とおっしゃっていました。
聖書を家で一人で読んでも、「理解」することは難しいかもしれません。
ですが、聖書を家で開いて斜め読みすることは、テレビをつけっぱなしにしておくよりもずっと善い「習慣」になるでしょう。
ぜひ、今週は心掛けてみてください。
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先週紹介した、米田神父様の『イエスは四度笑った』を読んでいて、ある記憶が蘇りました。
18歳、大学一年生の冬の忘れられない記憶です。
終電での帰りの車内。
満員でギュウギュウ詰めに近かったのですが、ドア付近にいた若い男性に、酔っていて立ったまま寝ていたおじいさんが寄りかかっていました。
若い男性は何度もおじいさんを押して自分から離していましたが、すぐにまた寄りかかってきます。
その時、駅に到着し、ドアが開いた途端、若い男性はおじいさんをホームに突き倒したのです。
降りる人も乗り込む人も、一様に驚いていましたし、近くに立っていたみんなが(わたしを含め)あっけにとられました。
そして、ドアは閉まり、何事もなかったように電車は動き出しました。
すぐに、一人の女性が大きな声でその男性に向かって「あなた、サイテー!!」と言い放ちました。
すると、2人くらいが続けて「ホントだよ、あのおじいさん、頭打ってケガしてたらどうすんだよ!」「サイテーなやつだな!」などと非難を始めたのです。
終電でした。
降りて介抱するか、乗らずにおじいさんを助ければ、帰りの電車はもうありません。
わたしも含め、誰もそうしなかったのです。
米田神父様は、こう書いておられます。
イエスが生涯かけて身をもって示したこと、それは人間性の回復である。
困っている他者、悲しんでいる他者に近づき、他者のために惜しみなく時間を空け、他者の必要をすべて満たしつつ、その人の友人になりなさい、という内容こそ、「よきサマリア人」の譬え話である。
18歳のわたしが、洗礼を受けていたら、ホームに突き倒されたおじいさんに駆け寄って、介抱したのでしょうか。
当時、「よきサマリア人」の教えのことをきちんと理解していたら、おじいさんを助けたでしょうか。
おそらく、出来なかったでしょう。
この後悔は、長い間ずっとわたしの心に刺さったままでした。
電車が動き始めてから若い男性の行為を非難した人たちとわたしは、全く同じなのだ、という恥ずかしい気持ちです。
「よきサマリア人」の話は、ルカ福音書だけに書かれています。
ですが、米田神父様によると、共観福音書すべてに出てくる「最も重要な掟は何か」(マルコ12・28,マタイ22・36)、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるか」(ルカ10・25)が前提となっている話です。
イエス様の時代、「隣人」というのははっきりとした概念があり、選ばれたイスラエルの民に属していて、ユダヤ教の掟に忠実で敬虔な仲間内のことを指していました。
ですが、この譬え話の結論としてイエス様が伝えようとしているのは、「隣人」の定義でもあるのです。
「隣人とはだれか?」と問われて、「隣人とは誰々である」と答えることは、隣人の枠を定めることになります。
イエス様は、まずその枠を取り払いなさい、とおっしゃっているのです。
枠や壁を打ち破り、苦しんでいる人、悲しんでいる人に自分から近づいていき、その人の隣人になりなさい、という教えなのです。
イスラエルよ、聞け。
わたしたちの神、主こそ、唯一の主である。
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたたちの神、主を愛しなさい。
今日、わたしがあなたに命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちにそれらを繰り返し教え、あなたが家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も起きている時も、この言葉を語り聞かせなさい。
(申命記5・4〜7)
「第二の掟はこれである。
『隣人をあなた自身のように愛せよ』
この二つの掟よりも大事な掟はない」。
(マルコ12・31)
洗礼を受けたから、信仰を持っていると自覚しているから、「隣人を自分のように愛する」ことができるわけではありません。
人生の中で、幾つものつまずきを経験し、失敗を糧に進み、後悔を挽回すべく努力する。
そうした積み重ねによって形成されてきた、自分の人間性。
「酸いも甘いも」ではありませんが、若い頃には分からなかったこと、気づかなかったこと、出来なかったことを、人生を重ねるうちに理解し、自分の糧としていく。
今の自分の姿を、神様の前で自信を持って「努力していますので、これからもよろしくお願いします」、と言えるようにしたいものです。
先日、とても嬉しいお言葉をいただきました。
「いつも読ませてもらっています。
先日の記事で、とても救われました。
ありがとうございました。」
本当に嬉しく、「一人の方を励ますことができた」としたら、わたしの過去の後悔も神様に少しは許してもらえるかも、、、、と思えたのです。
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いつも、花壇を美しく整えてくださって、ありがとうございます。
イエス様のユーモア
突然ですが、大人に必要な、一番大事な人間性は「ユーモア」のセンスだと、常々思っています。
「ユーモア」とは、人を意図して笑わせる能力ではありません。
辞書によると、
広辞苑:上品な洒落やおかしみ
三省堂:人間味のある、上品な・おかしみ
大辞林:思わず微笑させるような、上品で機知に富んだしゃれ
大辞泉:人の心を和ませるようなおかしみ、上品で笑いを誘うしゃれ
などと表現されています。
「ユーモアは感情的なものであり、自分を客観視して笑いのめす余裕と、他者を完全に突き放すことなく、愛情によって自分と結びつける能力を兼ね備えてこそ、真のユーモアの持ち主になれる。
こうしたユーモアに欠かせない要素をイエスは誰よりも豊かに身につけている。
ユーモアとは、他者を思いやる懐が深い人間、他者のみならず自己に対しても寛大である人間のみが備え得る特性であり、人生の悲しみや苦しみを潜り抜け、汗と涙で生き抜いてきた者こそが身に帯びる感覚である。」
カナダとスイスで10年にわたって徹底的に聖書と神学の研究をされた著者の米田神父様は、この本のタイトルを「意表をついてみた」とおっしゃっています。
事実、わたしもタイトルに魅せられて(よく内容も知らずに)、この本を購入しました。
本の導入で、1970年代に発見されたグノーシス主義者による「ユダの福音書」(発見されたのは写本で、書かれたのは2世紀ではないか、とのこと)について紐解いています。
この福音書には、「イエス様が笑った」場面が4カ所あります。
カトリックでは異端とされた教義ですが、この中での最初のイエス様の笑いは、ミサを捧げている弟子たちを嘲笑した笑いです。
一世紀後半から始まった、正統派教会とグノーシス派との論争のなかで、イエス様は人為的に笑わされたのです。
ですが、米田神父様は「正統派による聖書の正典化に拍車がかかった」、「今日、不動の如く整理された聖書やミサ、教義の上にあぐらをかくのではなく、長い歴史の中での学問的論争を通じての一つの実りであることを認識」すべきだ、とおっしゃっています。
米田神父様が紙幅を割いたのはこの4つの笑いのことではなく、「大食漢の大酒飲み、取税人や罪人の仲間」と正典の福音書が記すイエス様の、ユーモアと隠れた笑いの読み解きのほうです。
その中でひとつ、最も心に響いた箇所をご紹介します。
だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。
(マルコ2・21~22)
この箇所、わたしは全く誤解、というか、理解していなかったと自分で驚きました。
米田神父様によると、「古くて硬い入れ物に今まさに発酵中の新しいぶどう酒を注ぐと、その生命力、膨張力によって、古い革袋は持ち堪えられなくなる。
この比喩を通して、イエスの漲る生命力を指し示している。
今まさに新しく生まれつつある力が、古い殻を、古い体質を、古い壁を打ち破ってゆく、自分はまさにその力であるという、イエスの力強い積極的な意欲がここでは語られている。
マタイとルカは、「誰も、古いぶどう酒を飲んだ後で、新しいぶどう酒を欲しがりはしない。『古いものが善い』と言うからである」と付け加えている。
マルコが伝える真意を十分理解できなかったのかもしれないが、思わず笑ってしまう。
イエスなら言いそうな、まさにユーモアが感じられれる。
まあ、そうは言っても現実はそう甘いもんじゃないよ、そうはうまく行かないよ、と茶目っ気たっぷりに言い足したのかもしれない。」
その他にも、わたしたちがよく知っている福音書のエピソードを紐解いて、隠された(知らなかった)イエス様のユーモアが解き明かされていきます。
「米国の多様な社会を行き過ぎと感じる有権者は地方を中心に多い。
黒人かつアジア系の女性という多様性を体現するハリス氏の存在そのものが、保守層のみならず、無党派層の一部に忌避された面は否めない。」
読売新聞のアメリカ総局長が、記事にこう書いていました。
多様性を訴え続け、世界をリードしてきたかにみえた国の、これが現実です。
品がなく、他者を愚弄するユーモアのセンスの持ち主が勝つ、これが現実です。
(応援している方、ごめんなさい)
今週は、「ウィットに飛んでいる」「面白い」とは違う、「ユーモアのセンス」を身につけたい!と改めて決意を新たにしました。
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10日のごミサは、3人の神父様と4人の侍者と、七五三のお祝い、という贅沢なお恵みの時間でした。
時代に求められる資質
9/11に行われたアメリカ大統領選挙の討論会を観ました。
表情をほとんど変えずに、時にはイラついた様子で、(虚言も多かった印象ですが)相手を非難したり自身の主張を述べていたトランプ氏
一方で、相手の発言がひどい際には(それは、ほとんどの発言であり、わたしでさえ「根拠がなさそう」と思った)、口の動きは「It's not true.(事実ではない)」とあきれ顔をするハリス副大統領
ハリス副大統領は、トランプ氏には「事実を混同しない気質や能力」がないと主張していました。
兵庫県知事、2つの党の党首選のニュースも含め、最近のニュースは「誰が、どのような人がリーダーとして相応しいか」を考えさせるきっかけになっています。
リーダーにはいろいろな要素が求められますが、時代、国、現状によって、相応しいリーダー像は当然変わっていきます。
旧約に描かれたリーダーも、状況に応じていろいろなタイプがいます。
そこで、モーセとアロンは、集会の前から離れて会見の幕屋の入り口に行き、ひれ伏した。
すると、主の栄光が彼らに現れた。
主はモーセに次のように告げられた、「杖を取れ。そして、お前と兄弟のアロンは会衆を集め、彼らの目の前で岩に命じて水を出させよ。こうしてお前は岩から水を湧き出でさせ、会衆とその家畜に水を飲ませよ」。
モーセは主が命じられたとおり、主の前から杖を取った。
そして、モーセとアロンは集会を岩の前に召集して言った、「反逆する者たちよ、聞け。お前たちのためにわたしたちはこの岩から水を湧き出させることができるのだろうか」。
モーセは手を上げ、杖で岩を二度打った。すると、水が豊かに湧き出てきたので、会衆もその家畜も飲んだ。
(民数記20・6~11)
会衆たちにとって、モーセは自分たちを約束の地に引き連れてくれる、信頼すべきリーダーでした。
途中で「肉が食べたい」などと文句を言っても、こうして必要な時に水を豊かに湧き出させることができる彼は、主に導かれた理想のリーダーに映ったことでしょう。
ですが、この場面に続いて、主は怒りを露わにします。
「お前たちは、わたしを信じようとはせず、イスラエルの子らの目の前でわたしの聖なることを示さなかった。
それ故、お前たちはこの集会を、わたしが彼らに与えた土地に導くことはできない」。
主への信頼があれば、言われた通りに岩に命じればよかったのです。
そして、いらだって岩を二度も打つ必要はなかったのです。
その後、ほどなくしてアロンがホル山で死に、モーセもネボ山で召され(申命記32・48~52)、兄弟は約束の地に入ることは出来ませんでした。
「あなたの神、主が部族ごとに与えてくださる、あなたのすべての町に、裁き手と役人を任命しなければならない。
彼らは公正な裁きをもって民を裁かなければならない。
あなたは裁きを曲げてはならない。
人を分け隔てしてはならない。
賄賂を受け取ってはならない。
賄賂は賢い者の目を眩ませ、正しい者の言い分をゆがめるからである。
ひたすら正義を追い求めなさい。
そうすれば、あなたは生き永らえ、あなたの神、主が与えてくださる土地を所有することができる」。
(申命記16・18~20)
リーダーに求められるのは、いつの時代も「信頼」と「正義」
やはり、聖書にはすべての答えが書かれています。
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WOWOWのドラマ「0.5の男」をネットフリックスで観ました。
(最近はネットフリックスで日本のドラマが充実しています!)
このドラマは、ざっと以下のテーマが網羅されています。
・引きこもり
・家庭内暴力
・いじめ
・職場でのパワハラ
・育休後の女性の働き方
・老後の暮らし方
すべて現代社会を反映している問題であり、その対策が国のリーダーに求められていることです。
なんだか、重くて暗い展開を想像されるかもしれませんが、俳優陣の演技の賜物もあり、軽快で明るく、ホロリとさせられる、とっても楽しいドラマでした。
この、現代の社会問題のすべてを解決するキーワードは、「家族」でした。
現実はそう単純なものではないでしょうが、親子の関わり方、兄弟姉妹の関係性、孤立した人への接し方など、いろいろな点において「知れてよかった」と思える内容でした。
人間関係の根本はやはり、家族なのです。
そしていつの時代も、やっぱり家族のリーダーは「お母さん」なのです!!
(このドラマ、かなりお薦めです!)
聖書を楽しむ日
台風10号は、進路が刻一刻と予報から変わり、想定されていなかったであろう地域にも被害をもたらしました。
逆に久留米は、予想されていた暴風雨がほとんどありませんでした。
人間はコンピュータのデータ計算によって何事も予測できるようになったと思っていますが、自然の力はわたしたちの次元とは全く異なり、災害からは逃れることはできない、という無力さを痛感します。
教皇様の9月の祈りの意向は「地球の叫びのために」
私たち一人ひとりが、地球の叫びに、また、環境災害や気候変動の犠牲者の叫びに心の耳を傾け、私たちの住む世界を大切にする生き方へと導かれますように。
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台風の影響を考慮して、金曜日は仕事を休みにしていましたので、ゆっくりと聖書を開いて読み返していました。
列王記のエリシャの召し出しと活躍のあたり、いつもワクワクさせられます。
エリヤはシャファトの子エリシャを見つけた。
彼は十二軛の牛を先に立て、畑を耕しており、自分は十二番目の牛とともにいた。
エリヤはそばに行き、自分のマントをエリシャに投げかけた。
エリシャは牛を残したまま、エリアの後を追って言った、「わたしの父と母に別れの口づけをさせてください。それからあなたに従います」。
エリシャは一軛の牛を取って犠牲としてささげ、牛の引き具を燃やして肉を調理し、人々に振る舞い食べさせた。
それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。
(列王記上19・19〜21)
12という数字
自分のマントを投げる行為
牛を残したまま後を追う様子
両親への別れの口づけ
新約へのつながりを感じます。
列王記は、北イスラエルと南ユダ、両王国の王の不誠実さとその滅亡という悲劇的な史実を描いているのですが、その中に挿入されている、反バアル礼拝の主唱者である預言者エリヤと、その弟子エリシャの信頼関係が際立っています。
列王記下の2章では、エリヤが主に遣わされて遠くへ行くので、何度もエリシャに「あなたはここに留まりなさい」と言います。
ですがエリシャは、「生ける主と生けるあなたに誓って申します。わたしはあなたから離れません」。と何度も答えるのです。
イエス様から弟子が逃げるように離れて行った場面を思い起こすと、このエリヤとエリシャの場面はとても感動的です。
「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をすればよいか、言いなさい」。
エリシャは答えた、「あなたの霊の二倍の分け前を継がせてください」。
(列王記下2・9)
エリシャにはエリヤの霊が強く留まり、水が悪くて流産が多いと嘆くエリコの町で、水源の水を癒します。
(列王記下2・19〜)
この『エリシャの泉』は、聖書にある通り、今現在もきれいな水が湧き出で続けています。
2019年の巡礼の際に毎日書いていた記録を読み返してみると、コーディネーターの牧師さんから教わったことを、次のように記していました。
エリコは地中海の海面より250m低い。
亜熱帯的な気候と泉から、BC9000年頃から人類が定住した地として、世界最古の記録がある。
BC7000年の時代の城壁で囲まれた町の跡が発見された。
新約の時代のエリコは別の町。
1994年のオスロ合意でパレスチナ自治区となる。
日本のODA支援で、病院、学校、工場が建てられた。
悲劇を悲観的に捉えるのではなく、その不忠実さを悔い改めを呼びかけるためにあえて楽観的に締めくくられているのが列王記です。
こうして旧約聖書を読むことは、イエス様の教えの根本を知る、大切なことだと教わってきました。
巡礼の手帳の最初には、指導してくださった森山神父様(現、大分教区司教)が事前説明会でおっしゃった言葉を記していました。
わたしたちは、2000年後のキリスト教を受け取っている。
この巡礼は、2000年前のイエス様の言葉を受け取る旅。
新約に書かれたイエス様の言葉の元である旧約を理解し、イエス様と一人ひとりが出会う旅。
イエス様と近しくなるための巡礼の旅。
(2019・7・22コレジオにて)
旧約聖書を読みながら、イスラエルの風景を思い出す休日でした。
強く賢く
毎年、「今年の夏は暑さが厳しくなります」「10年に一度の大雨」といったニュースを耳にしますが、今年は記録の残る126年間で「1番暑い7月」だったとか。
イスラエルのマサダ遺跡を歩いたときの気温を思い出す、猛暑を超えた酷暑の久留米です。
(マサダの山頂で、携帯の気温計は47℃だったのです!)
福音書には、イエス様のたとえ話に登場したり、男性使徒たちよりも重要な場面に遭遇する女性たちの姿が生き生きと描かれています。
イエス様は、女性の活躍の場は家に限定されるという考え方を覆すような教え、社会生活・信仰生活のなかにも女性の活躍の場があること、を示してくださいました。
女性がたとえ話の中で良いお手本として描かれ、イエス様の死に立ち会い、復活後に空になった墓を見つけたり。
イエス様の生きた時代は、女性は数に数えることすらされないような存在でしたのに、女性に対するイエス様の考え方だけでなく、福音史家の受けた教えがそれを物語っています。
(パンと魚の奇跡で、5000人が満腹したという数字は、男性だけの数でした。)
あなたがたは皆、真実によって、キリスト・イエスにあって神の子なのです。
キリストにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです。
ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。男と女もありません。
あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。
あなたがたがキリストのものであるなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
(ガラテヤ3・26~29)
松田聖子さんのコンサートに行ってきました。
世界に遅ればせながら、女性でも目標のためにはどんな努力も惜しまない姿を日本でも見せつけた、初めての女性アイドルではないでしょうか。
一度狙いを定めると、目的を遂げるまでは決してあきらめない彼女の姿勢と行動力は、20世紀末の日本にあっては非難の対象でしかなかったように思います。
憧れの人と恋愛をし、アメリカデビューのためにすざましい努力をし、結婚、出産、離婚、恋愛、再婚、そして永遠のアイドルとしての存在。
もう25年も、ほぼ毎年コンサートに行っています!
62歳になった彼女は、わたしたちファンには今でも「聖子ちゃん」なのです。
彼女は、わたしたちにとってずっと、「尊敬の対象」です。
旧約聖書には、
ペルシャの王妃に選ばれたエステルが、ユダヤ人を救うために知恵と信念をもって行動する姿
ダビデに進言し、無益な争いをやめるよう思いとどまらせたアビゲイルの思慮深い行動
こうした、活躍する多くの女性たちの生き生きとした物語が多くあり、読んでいてワクワクさせられます。
彼女たちの物語は、信仰、指導、母性、勇気、知恵、そしてさまざまな人間の側面を示しています。
オンライン上の論文、『Woman of Faith in the Gospels』(「福音書に登場する信仰の女性たち」著者 ピーター・アムステルダム氏)には、このように書かれていました。
最初期の弟子全員がイエス復活の証人であり、十字架刑のあとにイエスが生きておられるのを見ましたが、最初の目撃者は女性たちでした。
墓が空であることを最初に発見したのが女性である、と福音書著者たちが告げているということは、福音書の記述が真実であることを示す、重要な根拠として挙げられることがよくあります。
1世紀においては、女性は一般に信頼できる証人とはみなされていなかったので、福音書の著者たちは、それが真実でない限り、最初の目撃者として女性に注目を向けたりはしないだろうからです。
・どうして使徒として描かれているのは男性12人に限定されているのだろう。
・そういう時代だったとしても、聖書に描かれている女性たちの方がずっと重要な役割を果たし、男性使徒たちよりもずっと強くて賢いように思うのに。
そう思っていましたが、この文章を読んで腑に落ちた気がしました。
誰が一番弟子かを争い、嘘をつき、一番大事な場面で逃げ、十字架につけられたイエス様の足元にすらおらず(いたのは一人だけ)、そうした弟子たちの不甲斐なさと比べ、女性たちの献身ぶりは際立っています。
同時に、その後の弟子たちを命がけの宣教に駆り立てたのは、自分たちの不出来さへの後悔と反動もあったでしょうし、女性たちの物心両面の支えがあってのことでしょう。
イエス様も福音史家たちも、男女の役割と能力、その影響をよく理解されていたのだわ、と思うのです。
パリオリンピックでは、 平均年齢が41.5歳で、自身らがつけたチームの異名「初老ジャパン」でも話題になった馬術が、92年ぶりのメダルとなる銅メダルを獲得しました。
「体力面では男性にかなわない女性であっても、馬との信頼関係を築き、馬に正しく指示することができれば、互角に勝負することができるのが馬術」ということで、五輪では唯一男女が同じステージで戦う種目でもあるのです。
わたしはフェミニストではありませんが、やはり、強く賢い女性が活躍する姿を見るのは嬉しいものです。
聖書の読み比べ
。
先日のミサのの朗読で、「あぁ、ここは素敵。帰って聖書を開いて前後を読んでみよう」と思う個所がありました。
家に帰って聖書を開くと、あまりにも訳が違うことに気づきました。
それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。
目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。
わたしたちは、心強い。
そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。
(2コリント5・6〜8 新共同訳)
そこで、わたしたちはいつも安心しているのですが、この体に住みついている間は、主のもとを離れているのだと知っています。
見えるものによってではなく、信仰によってわたしたちは生活しているからです・・・・。
わたしたちは安心しているのですが、体の住まいを離れて主のもとに住みつくほうがいいと思っています。
(フランシスコ会訳)
それで、私たちはいつも安心しています。
もっとも、この体を住みかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。
というのは、私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいるからです。
それで、私たちは安心していますが、願わくは、この体という住みかから離れて、主のもとに住みたいと思っています。
(聖書協会共同訳)
読み比べてみて、いかがですか?
わたしは普段、フランシスコ会訳聖書を読んでいるのですが、この部分は断然、新共同訳の言い回しが好きです。
3つ目の聖書の文章はどうですか?
読みやすく、文章が綺麗だと思いませんか?
新共同訳の「わたしたちは、心強い」という部分は、英語聖書では「We are courageous.」です。
聖書と典礼で使用されているのは、新共同訳聖書です。
18年の歳月をかけて1987年に生まれた、現代日本の代表的翻訳です。
カトリック教会とプロテスタント教会の聖書学者の英知を結集した国内初の共同訳。
中央協議会の教皇メッセージ日本語訳は、新共同訳聖書を引用しています。
わたしが普段読んでいるのは、フランシスコ会訳聖書です。
これは、カトリックの聖書です。
(カトリックの学校時代から、この訳に親しんでいます。)
そして、1番新しい訳の聖書が、 聖書協会共同訳聖書。
次世代の標準となる日本語訳聖書を目指して2010年に翻訳を開始し、2018年12月に初版が発行されました。
カトリックとプロテスタント諸教会の支援と協力による共同の翻訳事業です。
国内の聖書学者および歌人などの日本語の専門家によって翻訳されました。
翻訳にあたり「礼拝での朗読にふさわしい」文章にすることを目的にして訳され、格調高く美しい日本語訳になっています。
翻訳の微妙なニュアンスの違いによって、頭と心にどのように入ってくるか、その違いをいつも感じています。
時には、「あ〜、やっぱり慣れ親しんだフランシスコ会訳がいい」と思うこともあれば、今回のように、「新共同訳の方がストレートに伝わるな」と思ったり。
それでも疑問に感じる時は、英語の聖書を開いて自分なりに納得したり、しながら読んでいます。
今回、聖書協会共同訳の聖書を手に入れたので、ますます読むのが楽しくなりました。
例えば、ガラテヤ6・9〜10の新共同訳
たゆまず善を行いましょう。
飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。
ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、善を行いましょう。
これに対して、フランシスコ会訳は次のとおり。
倦まず弛まず善を行いましょう。
飽きずに励めば、時が来たとき、わたしたちは刈り取ることになります。
ですから、機会のあるごとに、すべての人に、善を行いましょう。
さらに、聖書協会共同訳ではこうなります。
たゆまず善を行いましょう。
倦むことなく励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。
それゆえ、機会のある度に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
「 たゆまず」ではなく、フランシスコ会訳の「倦まず弛まず」という言い方は、ひらがなで表記することの多い聖書の訳の中でも一際強調されたことを感じる表現です。
パウロが伝えたかったのは、「ずっと善を行いましょう」ではなく、「たるまずに(倦まず弛まず)、しっかりとして」善を行うように、なのだろう、とよく理解できます。
サンパウロ修道会の神父様の面白いコラムを見つけました。
パウロの勧めは、単に「時のある間に」とか、「機会が訪れれば」とかいう意味ではなく、まさに今がその「機会」、「特別な時」なのだから、という意味です。
わたしたちは、善を行うための「特別な時」、「重要な時」を実感し、行動に移すよう招かれているのです。
訳文の違いから聖書を味わい直す | 聖パウロ修道会 サンパウロ 公式サイト
第4回 機会のあるごとに、すべての人に、善を行いましょう――訳文の違いから聖書を味わい直す
https://www.sanpaolo.jp/14296
読み比べる読み方、これもまたお勧めです。
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聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。
こうして、神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです。
(2テモテ3・16〜17 聖書協会共同訳)
つたわる言葉
中世ヨーロッパはラテン語が唯一の公用普遍語であったため、キリスト教ではラテン語を使ってその教えを広めていった、ということを以前書きました。
地方の話し言葉としてのラテン語は、ローマ帝国崩壊後は各地でそれぞれ独自の変容を遂げていき、フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語などの言語が生み出されることになりました。
これらの地方に伝播されたラテン語(Vulgar Lain、俗ラテン語)と、その各地方の現地語とが時とともに融合し、各地で別々に発達し、ついに相互に通じなくなったのです。
「相互に通じなくなった」と聞くと、バベルの塔と聖霊降臨について思い浮かびます。
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。
そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
(使徒言行録2・1~3)
聖書は、冒頭からこのことを警告しています。
バベルの塔の話について考えましょう(創世記11・1―9参照)。
この話は、人間、被造物、そして創造主とのきずなをないがしろにしながら、天(=わたしたちの行き先)にたどり着こうとする時に起こることを描いています。
つまり、他者のことを考えずに、ひたすら上へ登ろうとするたびに、このようなことが起こるのです。
自分のことだけなのです。
わたしたちはタワーや超高層ビルを建てていますが、共同体を衰えさせています。
さまざまな組織や言語を統一化していますが、文化的な豊かさを抑えつけています。
地球のあるじになろうとしていますが、生物の多様性と生態系の均衡をむしばんでいます。
聖霊降臨はバベルの塔とはまったく逆です。
聖霊が風と炎となって天から降り、高間に閉じこもっていた共同体に、神の力を与え、すべての人に主イエスのことを伝えるためにそこから出るよう駆り立てたのです。
聖霊は、多様なものを一致させ、調和をもたらします。
バベルの話にあるのは調和ではなく、勝ち取るための前進だけです。
そこでは人は単なる道具、「労働力」にすぎません。
しかし、聖霊降臨においては、わたしたち一人ひとりが一つの道具、共同体の建設に全身全霊で参加する一つの共同体という道具なのです。
教皇フランシスコ、2020年9月2日一般謁見演説より抜粋
https://www.cbcj.catholic.jp/2020/09/02/21390/
言語だけでなく、互いになにもかもが通じなくなったかのような世界情勢です。
物理学者のアインシュタインと精神分析家のフロイトの往復書簡、『ひとはなぜ戦争をするのか』というものがあります。
ナチスが政権奪取する前年の1932年に、アインシュタインは「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」というテーマでフロイトと書簡を交わしました。
それにたいしてフロイトは、「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにもない!」と明言しました。
さらに、戦争とは別のはけ口を見つけてやればよいと言い、最期にはこう書いています。
「文化の発展を促せば、戦争の終焉ヘ向けて歩み出すことができる!」
二人ともユダヤ人で、亡命したためホロコーストの犠牲にはならずにすんだのですが、現在の世界に彼らが生きていたら、どんな発言が聞かれたでしょうか。
戦争に対する互いの主張が全く嚙み合わず、果たして何が正しく、何が正義だというのかすら分からない(理解できない)、現在の世界です。
そもそも、正しい戦争などというものはないでしょうが、、、。
争っている国同士は、言葉が通じない、のではなく、心をふさいでいるのだと思うのです。
種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。
道端のものとは、こういう人たちである。
そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。
御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。
この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
(マルコ4・14~19)
今週もマルコが読まれています。
宮﨑神父様はいつも、「朗読される箇所の前後を読みなさい」とおっしゃいます。
聖書、特に福音書は、キリスト者でなくても、誰が読んでもその真意がつたわる言葉だと思っています。
自分の根とは何でしょうか。
揺るぎのない信仰への信頼、とでも言いますか、わたしたちキリスト者が持つべき理想ではないでしょうか。
お説教で、宮﨑神父さまはこうおっしゃいました。
「神からの恵みを、どう自らが成長させるかが大事です。
育てるのは神様ですが、手入れするのは自分です。
神様のお恵みに感謝し、努力する。つまり、不必要な雑草は時々自分で抜かなければなりません。」
メアリー・ヒーリーは、このくだりについての解説で、こう書いています。
「イエスの弟子たちが彼自身の苦しみの神秘を分かち合う上で体験する妨害や失敗は、その計画において予期せぬものではあっても、必要不可欠な部分なのです」
石だらけの人生で、深くはった根を持たず、茨の中に暮らすように心に隙間が多い自分である、と理解すること。
その上で、揺るぎのない信仰への信頼を渇望し、日々を新たに前進する。
神様に対して心をふさがず、「またやってしまった」と反省できることも、内的進歩のためには必要不可欠だと思います。
フロイトの言うように、心がささくれたようになった時には、美しい音楽を聴くのが一番の薬です。
普段クラシックを好んで聴かない方でも、これを聴けば喜びの気持ちが湧く、と保証します!
新しい楽しみ
NYに聖書を持って行ったことを書きましたが、妹は友だちが来たとき、「姉は毎日聖書を読んでいる」と驚いた様子で話していました。
(毎日読んでいた訳ではないのですが、、、、)
その彼女から、「ボーイフレンドがプロテスタントの熱心な信者で、聖書を勉強してほしいと言われたの。Aki(わたしの妹)に聖書を借りて読んでるけど、眠くなるだけで全然意味がわからない。どうしたらいい?」と聞かれました。
「一人で家で聖書を読んでも、理解は難しいよ、、、。」
その時は、そう答えました。
『信仰が先か、聖書が先か。』その時は、そう思ったのです。
聖書をどこから読むかによっても、「面白くない」「意味がわからない」という感想だけに終わってしまいます。
福音宣教の3月号、高橋洋成さんのコラムに、
「マルコの福音書はせわしなく場面が切り替わる。導入部分のイエスの出現と洗礼、荒野の試練、宣教の開始、使徒たちとの出会いに至るまでの経緯を、マタイとルカでは4〜5章を費やしているのに、マルコはたったの1章で駆け抜ける。」
と書いてありました。
今では1番最初に書かれた福音書はマルコである、とわたしたちは認識していますが、実はこの福音書は他の3つの福音書に比べて軽視されていたという歴史があります。
マルコに関する注解書は、中世のはじめまで何一つ世に出ることはなかったのです。
マルコの661節のうち、90%がマタイの中に複製され、55%はルカにあります。
マルコは使徒たちの幾つもの欠点を赤裸々に描写しているのに、マタイとルカはそれを柔軟に扱っています。
そして、イエスのかなり人間臭いさまざまな活動と感情を描いているのに、マタイとルカはそれを削除しています。
そのような細かな研究が進む中で、20世紀になってようやく「マルコが最初に書かれた福音書である」と学者たちは結論づけるに至ったのです。
冒頭に書いた妹の友人に、この本を薦めようと思います。
この本は、聖書の師匠から「素晴らしいから、ぜひ読んで!」と教えてもらった、今年の1冊目です。
マルコを1章1節から、1節ずつ、様々な解説文を添えながら深く、それでいて分かりやすく解きほぐしていきます。
例えば、イエスの洗礼についての箇所
1・9の解説
「彼自らが、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けるために、悔い改める謙遜な人物の役目を担って現れるというのは驚くべきこと」
「キリストが洗礼を受けたのは、ご自分が水で聖化されるためではなく、水を聖化するためであり、ご自分が水で洗われることによって、ご自身が触れた川の水を清めるためだった。」
1・10の解説
「イエスが水から上がってくることに応えて、上から聖霊が降っています。神は恐らく、その民が不浄から清められた後に初めて、彼らのもとに降って来るのでしょう。イエスの上に霊が降るということは、十字架によって罪が取り除かれた後、聖霊降臨の時に教会にその霊が降ることを予示しています。」
11章のイエスのエルサレム到着の場面についての解説
「イエスの時代に、神殿は改修され、エルサレムはほとんど地上に存在する壮麗さの頂点を極めていました。
ユダヤ教の三大祝祭、過越祭、五旬祭、仮庵祭がそれぞれ祝われる頃になると、その町は巡礼者であふれ、通常4万人いる人口が三倍以上にもなりました。
さらに、イエスの言葉と預言的行為が明らかになるにつれ、その聖都は頽廃と宗教的偽善によって損なわれていきました。
この都が著しく荒廃することを彼は警告しましたが、紀元70年にエルサレムがローマ軍によって徹底的に破壊されたときに、それは悲劇的にも成就しました。(マルコ13・1〜30)」
とても具体的で深く、そしてわたしにとっては時折、とても新しい視点で解説されていて、読んでいて多くの発見があります。
マタイ、ルカ、ヨハネについても書かれているようですので、翻訳されるのが楽しみです。
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先日の記事で「日本人には知らない人に挨拶をする習慣はない」ということを書きましたが、飛行機を降りる時に「これが日本人」と思ったことがありました。
わたしはいつも、空港内は車椅子でのサポートを頼むため、一番最後に飛行機を降ります。
そのため、全員が下りるまで座席で待つのですが、乗客一人ひとりに「ご搭乗ありがとうございました」と挨拶するCAさんに対して、ほぼ全員の日本人乗客が頭を下げていたのです。
おそらく、皆さんは「礼節を重んじた」というような感覚ではなく、自然とそうされたのではないでしょうか。
心と身体に染みついた、そうした自然な振る舞いが、日常生活の中でもっと表現されれば、と思うのです。
学ぶ喜び
勉強は何歳からでも始められる、とはよく言われますが、時間はあっても、気力とタイミングが必要です。
以前、わたしが大学の学部を選ぶときは「就職に有利かで決めた」、と書きました。
今、もしまた大学で学ぶ機会があったら、迷わず「神学部」を選びます!
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福岡の神学院が閉鎖となり、最後の神学院祭でした。
このホームページにこうして記事を書くようになって、6年ほどになりました。
宮﨑神父さまが「あなたの好きなように書いていい」と言ってくださり、聖書のこと、神父様方に教わったことなどを「好きなように」書いてきました。
学びながら、書きながら、聖書の奥深さの魅力にどんどんハマり、たくさんの本を読むようになりました。
「もっと学びたい!」
18歳の自分は絶対に選ばなかった神学部に、今は興味津々です。
現在、ローマで神学を勉強をされている船津神父様は、最近Facebookで発信してくださっています。
イタリア語、ヘブライ語、ドイツ語だけでなく、ギリシャ語、ラテン語でも聖書と神学を深く学ばれている様子に、わたしもワクワクさせられています。
福岡の神学院で神学を学ばれた、たくさんの神父様方とお目にかかることができました。
久留米教会の彼ら二人が、侍者を務めてくれました。
久しぶりに久留米の信者たちと交流してくださった森山司教様に、みんな大喜びでした。
わたしは見張り場に立ち、砦にしっかりと立って見張りをしよう。
主がわたしに何を語られ、わたしの訴えに何と答えられるかを見るために。
主がわたしに答えておおせになった、「啓示を書き記せ。それを読む者が容易に読めるように、板の上にはっきりと書きつけよ。
この啓示は定められた時までのもの、終わりの時について告げるもので、偽りはない。
もし、遅れるとしても、それを待ちなさい。
それは必ず来る。
それは遅れることはない。
見よ、心がまっすぐでない者は崩れ去る。
しかし、正しい人はその誠実さによって生きる」。
(ハバクク2・1〜4)
ここでいう誠実とは、「信仰」「アーメン」と同じ語源です。
主の日にも、神への不動の信頼を持つ人は「生きる」と書かれています。
この聖書の箇所を文字通りに信じるかどうか、それが神学ではなく、神様の導きを信じること、信じて待つことの意味、そうしたことを考えさせらるのが聖書の面白さだとわたしは思っています。
わたしは福音を恥としません。
福音はユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じるすべての人の上に救いをもたらす神の力だからです。
人を救うのは神の義であり、それはひとえに信仰を通して与えられることが、福音に現われています。
「正しい人は信仰によって生きる」と記されているとおりです。
(ローマ1・16〜17)
こうして新約聖書を紐解くと、必ず旧約の箇所と結びつきます。
神の義、つまり神の愛・優しさはイエス様が来られて最高潮に達しましたが、旧約の時代からもともとユダヤ人の間では理解され、大切な教えとして信じられていました。
ハバクク書は紀元前600年ごろに書かれたとされています。
2600年前に書かれたことを、2000年前の人々が守り継ぎ、それを現代のわたしたちがまた読んでいるのです。
そのように学びました。
このような読み方、旧約と新約を同時に読むことを学びました。
読書の対象としても、聖書は本当に面白いのです!
わたしの聖書の師匠の教えです。
運命を愛する
自分の運命について考えたことがおありでしょうか。
「あの人は運がいい」「あんな事故にあうなんで運が悪い」などという言い方をしますが、運命だと受け入れるにはあまりにも辛い現実もあります。
Amor Fati
ラテン語で、『運命を愛せよ』という意味なのだそうです。
運命は選べないが、寄り添うことはできる。
そう解釈する言葉です。
運を良し悪しで判断することはあまり好きではないのですが、この単語を知り、「寄り添う」という表現に惹かれました。
聖書では、運命のことを「神の摂理」(Providentia)という言い方をします。
すべての被造物は、神がお望みになる、究極の到達点に「向かう途上」にあるものとして造られました。
神がこの途上にある私たちを導かれるはからいのことを、「摂理」と呼んでいます。
世界は、何らかの必然性、まったくの運命、偶然などの産物ではありません。
神は、御子と聖霊を通して被造界の存在を保ち、これを支え、これに活動する能力を与え、完成へと導かれます。
カテキズムでは、このように説明されています。
畏れおののきながら、自分の救いを力を尽くして達成しなさい。
あなたがたのうちに働きかけて、ご自分のよしとするところを望ませ、実行に移させるのは神だからです。
(フィリピ2・13)
カテキズムによれば、聖書のこの箇所の通りに、神様が内側から働きかけることによって、わたしたちの自由を尊重しながらも、自らの行いと祈り、苦しみによって協力する力を与えてくださるのだ、ということです。
運命、摂理について考えてみたのは、自分の「信仰史」を書いてみたからなのです。
信仰を持つきっかけとなったこと、自分のこれまでの人生に信仰がどのように関わってきたのか、今現在の日々のなかで信仰がどのような位置づけにあるか。
きちんと書き残しておきたい、と突然思いつきました。
書いているうちに、自分の人生そのものが整理されていくようでした。
文字にしたことで、人生の節目節目で信仰が大きな支えであったこと、ターニングポイントとなった時期には寄り添っていた力があったことを感じていた、と改めて理解しました。
運命という言葉のイメージは、「変えられないもの」ではないでしょうか。
ですがわたしたちキリスト者は、「神が寄り添い、導かれるもの」である人生が摂理である、と心で理解しています。
主は憐れみ深く正しい方
罪人に道を示し、
へりくだる者を正義に導き、
へりくだる者にその道を教えてくださる。
主は、その人に選ぶべき道を示してくださる。
(詩編25・8〜9、12)
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子をあわれまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。
(イザヤ49・15)
神はわたしたちを、わたしたちの一人ひとりを決して忘れない、という『もっとも慰めに満ちた真理』が摂理である、とフランシスコ教皇はおっしゃっています。
キリスト者として、このことを心にしっかりと刻んでおけば、「運が悪かった」などとは決して思うことはないでしょう。
・・・・・・・・・・
2日の夕方、韓国の安東(アンドン)司教区・南城洞(ナンソントン)教会から30名の巡礼団が久留米教会を訪問されました。
長崎への巡礼が目的でしたが、途中の久留米に立ち寄り、ミサを捧げるために訪問してくださったのです。
言葉はまったく分かりませんでしたが、ミサの雰囲気の中に、同じキリスト者として神様が与えてくださった摂理への感謝の気持ちを感じたような気がしました。
神様への文句
空はすっかり秋です。
猛暑日も、きっとこの日曜日が最後でしょう。(希望)
今週は、ちょっと痛いお話しを。
事故や病気で手足を切断、もしくは神経を損傷して感覚を失った人が、以前と変わらず存在するかのように感じている手足を「幻肢」と呼びます。
そして、幻肢を経験している方の約5〜8割は「幻肢が痛い」ことに悩まされています。
この痛みが「幻肢痛」と呼ばれるものです。
幻肢痛は、無いはずの手足が刃物で裂かれるような、電気が走るような、しみるような、痙攣するような、こむら返りするような、ねじれるような、など、感じる(幻の)痛みは様々です。
わたしは、20歳で右足を離断しました。
つまり、20年間は脳が右足のことを記憶していたのです。
幻肢痛は、この「脳の記憶」が消えないために起こると考えられていますので、治療法はないと聞いていました。
術後数日はこの痛みに悩まされた記憶がありますが、わたしのようにスパッと諦めがついた人は、あまり長い期間痛みは続かないようです。
ところが、今頃になってこの痛みが襲いかかり、眠れない夜を過ごしたのです。
幻の痛みであるとはいえ、雷に打たれたような(打たれた経験はありませんが・・・)、のたうち回るほどの痛みでした。
わたしの神よ、わたしの神よ、
なぜ、わたしを見捨てられたのですか。
なぜ、あなたは遠く離れてわたしを助けようとせず、叫び声を聞こうとされないのですか。
わたしの神よ、昼、わたしが叫んでも、あなたは答えられません。
夜、叫んでも、心の憩いが得られません。
(詩編22・2〜3)
大袈裟ではなく、本当にこのような心境でした。
願う時も、祈る時も、感謝する時も、文句を言う時も、やはり相手は神様なのです。
わたしの神、主よ、わたしが救いを求めたとき、あなたはわたしを癒してくださいました。
主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げてくださいました。
わたしが穴に落ちかかったとき、命を新たにしてくださいました。
主の怒りはほんの一瞬、その厚意は一生。
夜は嘆きに包まれ、朝は喜びに明ける。
(詩編29・3〜6)
主はわたしの求めに応えて、あらゆる恐れから助けてくださった。
主を仰ぎ見る者は輝き、恥じて顔を赤らめることはない。
主は哀れな者が叫び求めたとき、耳を傾け、あらゆる悩みから救われた。
主を畏れる者の周りには、み使いが陣を敷き、彼らを助け出す。
(詩編34・5〜8)
以前、『詩編で祈る』という小さな本をいただきました。
それ以来、辛いことがあったり、心が落ち着かなくなると、詩編を開く習慣ができました。
幻肢痛が起きた初日は、聖書を開く余裕はありませんでした。
2日目の夜、どうにか心の平安を得たくて、詩編を読みました。
もちろん、全く頭に入ってきませんでしたが。
ダメ元で病院に行き、主治医に相談したところ、なんと!今は緩和するお薬があったのです。
医学の進歩はすごいですね!
あまりに神様に文句を言ったので、「まぁそう言わずに、病院に行ってみなさい」と言われた気がしました。
子よ、主のもとで仕えたいのであれば、お前の心を試練に備えよ。
心を正し、耐え忍び、艱難の時に慌てふためくな。
主に寄りすがって離れるな。
身に降りかかるすべてのことを甘んじて受けよ。
主に寄り頼め。
主はお前を助けてくださるだろう。
お前の道をまっすぐにし、主に希望せよ。
主を畏れる人々よ、主の慈しみを待ち望め。
道をそれるな。倒れるかもしれないから。
主を畏れる人々よ、主に信頼せよ。
お前たちの報いは、失われることはない。
(シラ書2・1〜8)
シラ書2章のタイトルは、『試練についての心得』となっています。
ちょっと痛かったくらいで大袈裟な、という気が自分でもしますが、わたしなりに色々な艱難を経験して生きてきましたので、そのような時に「聞きたかったのはこれ!」と言う聖書の言葉に出会うのは、至福の時です。
こうした時、いつも思うのです。
世の中には、悩みや痛みを抱えている人がたくさんいるのだ、と。
3日のお説教で宮﨑神父様がおっしゃったことは、まさに今のわたしが求めていたものでした。
「自分の苦しみの時に、イエス様の御受難を重ねてみてください。
宗教が重んじられない今の時代だからこそ、より一層しっかりと自分の信仰を生きなければならないのです。」
皆さんは、どういう時に聖書を開きますか?
友人は、こうしてわたしがここに紹介する聖句をきっかけに、その箇所を読むようになった、と言ってくれました。
以前も書きましたが、「無人島に何か持って行けるとしたら?」と聞かれたら、わたしは迷わず「聖書とワイン」と答えます。
考えるちから
日中は35℃を超える日もありますが、朝晩の風、空気が少しずつ変わってきているのを感じます。
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このお盆休みに、姪の大学選びについて一緒に考えていて、色々な驚きと発見がありました。
わたしが大学を選んだ時は、もちろん実際に見学にも行きましたが、「偏差値」と「就職に有利か」だけがポイントだった記憶があります。
歴史や考古学に興味があったわたしが史学科を選んで先生に相談したら、「史学科に行っても学校の先生にしかなれないよ」と言われ、無難な経済学科を選択したのです。
「リベラルアーツ」という学問をご存知でしょうか。
現代社会のさまざまな問題に立ち向かうための「総合力」を養う教育のことです。
単に知識を身につけるだけでなく、実践的な知性や創造力を養うための学問です。
リベラルアーツの起源は、古代ギリシャ・ローマ時代の「自由七科(じゆうしちか)」にあります。
自由七科とは、「文法」「弁証」「修辞」「算術」「幾何」「天文」「音楽」の7つを指します。
当時、リベラルアーツは、人間が自由に生きていくため、束縛から解放されるための素養とされていました。
時代の変化によって、近年日本でもリベラルアーツ教育が注目され、大学教育で取り入れられています。
学部・科目横断的に幅広い分野を学び、問題発見・課題解決型の実践的な学習スタイルが採用されているのが特徴です。
テクノロジーの発展やグローバル化によって複雑化する社会における「答えのない難問」を解決するには、幅広い知識を持ち、さまざまな角度から物事を考えられる柔軟な思考が必要とされています。
時々ご紹介する随筆家の若松英輔さんは、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授でもいらっしゃいました。
富が人生において望ましい宝であるなら、どんなことにも万能な知恵に勝る富があるだろうか。
賢慮がものを作り出すとすれば、万物の中で、知恵に勝る作り手がいるだろうか。
人がもし義を愛するなら、知恵の働きの実りこそ徳である。
知恵は節制と賢明、正義と剛毅を教える。
人生において、これらよりも人に益するものはない。
また、もし人が広い体験を得ようと望むなら、知恵こそが昔を知り、未来を推し量り、言葉のあやを悟り、謎を解き、徴と不思議、季節と時代の移り変わりを予見する。
(知恵の書8・5〜8)
知恵の書は、ユダヤ教、プロテスタントでは聖書と認められていません。
しかし、道徳生活においての考察がわかりやすく書かれたこの書物は、現代のわたしたちにも色褪せることなく、自ら考えるちからを「知恵」によって養う必要性を説いていると考えます。
「知恵」すなわち、わたしたちが神様から生まれながらに授けられた能力は、生かすも殺すもわたしたち次第です。
わたしのように勉強=暗記力が求められた時代の学び方では、リベラルアーツという実践的な知性や創造力を養うことはできません。
ハワイで起きた山火事では、住民に危険を知らせる警報サイレンを作動させなかったことが被害の拡大を招いた、と問題になっているようです。
サイレンが「津波用」だったから、という理由のようですが、「もしもサイレンが鳴っていたら」という議論には、双方の言い分に違和感を覚えました。
サイレンが鳴っていたら、火の手のある山の方に避難することになり、さらに被害者が増えていた。
サイレンが鳴っていたら、もっと早く危険を察知することができ、被害は抑えられたはず。
事後になって「もしも」と争うことは、本来神からわたしたちに与えられた考えるちからを養う妨げにしかならないように思うのです。
20日のミサの福音書朗読は、マタイ15章のカナンの女のエピソードでした。
わたしは、彼女が大好きです。
賢く、熱意を持った、立派な信仰の持ち主であり、パレスチナの先住民といういわゆる『異邦人』の彼女は、弟子たちだけでなくイエス様からも冷たくあしらわれます。
イスラエル民族の救いのために遣わされていると自負していたイエス様は、乞い願う彼女にこう言い放ちます。
わたしはイスラエルの家の失われた羊のためにしか遣わされていない。
(マタイ15・24)
まず子供たちに満腹するまで食べさせよう。
子供たちのパンを取って子犬に投げ与えるのはよくないことだ。
(マルコ7・27)
並行箇所であるマルコに書かれたこの言い方は、ちょっと冷たすぎると思いませんか?
子供たち=ユダヤ人、子犬=異邦人を指しています。
主よ、ごもっともです。
でも、食卓の下にいる子犬も、子供たちのパン屑を食べます。
(マルコ7・28)
あっぱれ!と言いたくなる彼女の名回答です。
彼女には、立派な信仰だけではなく、考えるちからが備わっていたのだと感じます。
宮﨑神父様は、この箇所についてお説教でおっしゃいました。
「苦しい時の神頼み、という人も多いが、この話では、彼女の日頃からの信仰の姿をイエス様が見抜かれたのだ。」
さまざまな角度から物事を考えられる柔軟な思考を磨き、自分がどうすべきかを考えるちからを養い、賢い信仰を生きたいものです。
信仰の誇り
1998年公開の『プリンス・オブ・エジプト』(The Prince of Egypt)を久しぶりに観ました。
出エジプト記の、モーセ率いるイスラエル人のエジプト脱出を描いた、ミュージカルアニメーション映画です。
『十戒』『ベン・ハー』『パッション』などの作品と並んで、聖書の映画化としては史上最高の作品と評価されています。
25年前の作品ですが、その映像と音楽の素晴らしさは全く色褪せていません。
ひとつには、ストーリーが旧約聖書のとおりであり、余計な脚色がない、わたしたちがよく知っている、あのモーセの物語だからです。
わたしが一番好きな曲であると言っても過言ではない、テーマソング「When you beleive」は、ホイットニー・ヒューストンとマライア・キャリーによる美しいデュエットソングです。
イスラエル人の脱出、と先ほど書きましたが、映画の中のセリフでは「わたしはヘブライ人だ」とモーセが言っていました。
イスラエル人、ヘブライ人、そしてユダヤ人。
ヘブル(ヘブライ)人(Hebrew)
➡︎他民族からの呼び名。
特にエジプトの奴隷時代にそう呼ばれた。
「国境を越えてきたもの」「川向こうから来た者」の意味。
イスラエル人が異民族に自分を紹介する際に用いた言葉。
ファラオは自分の民全体に命じて言った、「ヘブライ人に男の子が生まれたなら、みなナイル川へ投げ込め。しかし女の子はみな生かしておけ」。
(出エジプト1・22)
イスラエル人(Israeli)
➡︎神から与えられた自らの呼び名。
現在のイスラエル人国家の市民を指す。
「お前の名はもはやヤコブではなく、イスラエルと呼ばれる。
お前は神と闘い、人と闘って勝ったからである」。
(創世記32・29)
ユダヤ人(Jew)
➡︎“バビロン捕囚”以降の呼び名。
いずれの呼び方にしても、自らの民族性に誇りを持っていることが感じられます。
この映画を観て強く感じるのは、「このストーリーを4000年以上言い伝えられて来たユダヤ人が、自分たちのルーツや信仰に誇りを持つのは当然のことだ」ということです。
実際の出来事かどうかは問題ではなく、言い伝えが書き残され、『自分たちの先祖は選ばれた民として神から導かれたのだ』と聖書に記されているということは、疑いようのない事実です。
アメリカに住む友人は「わたしはユダヤ人」と言いますが、映画ワンダーウーマンの主演俳優であるガル・ガドットは「わたしはイスラエル人です」と言っていました。
わたしは、生後八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民、しかも、ベニヤミン族の出身で、生粋のヘブライ人です。
(フィリピ3・5)
パウロも、自分を説明するときにこのように使い分けています。
しかし現実には、今の混沌とした、国家としてのイスラエルを見ると複雑な気持ちになります。
民族としての、国際的に認められた国としての誇りが、裏目に出ているのかもしれません。
西日本新聞7/6の朝刊の記事によると、1948年のイスラエル建国で故郷を追われたパレスチナ人が難民となって移り住んでいるジェニンという街がパレスチナ武装勢力の拠点となっており、イスラエルによる大規模な軍事作戦で多数の死傷者が出ました。
昨年末に誕生した、対パレスチナ強硬派のネタニヤフ政権の政策により、反発するパレスチナ人のユダヤ人襲撃も増えています。
エジプトから逃れて荒野を40年にわたってさまよったヘブライ人は、その経験から他国の寄留者や弱い立場の人を虐げてはならないと教えられてきた、と聖書で学んだわたしは、こうしたイスラエルのニュースをいつも注視しています。
イスラエルに巡礼した2019年は、エルサレムにいても危険が迫っているような状況ではありませんでしたが、最近は旧市街(神殿のあたり)でも砲撃が起きています。
巡礼の間、バスを運転してくださったのはイスラエルに住むアラブ人の男性でした。
アラブ人とはアラビア語を話す人のことで、そのうち、パレスチナ自治区に住む人をパレスチナ人と言います。
複雑です。
ユダヤ人vsパレスチナ人の問題は、とても複雑なのです。
おそらく、解決することはないのでしょう。
それぞれが、民族と信仰に誇りを持っているのです。
娘シオンよ、大いに喜べ。
娘エルサレムよ、歓呼せよ。
見よ、お前の王がお前の所に来られる。
またお前についても、お前と血で結んだ契約の故に、わたしは囚われ人となっているお前の民を、水のない穴から助け出そう。
囚われの身にあっても希望を持つ人々よ、砦に帰れ。
わたしはユダをわたしの弓として引き絞り、エフライムをその矢としてつがえる。
(ゼカリヤ9・9、11〜13)
出エジプト記24・6〜8にあるとおり、主はモーセを通してイスラエルと「契約の血」を結ばれたのです。
『プリンス・オブ・エジプト』はネットフリックス」でご覧いただけます。
テーマソングもyoutubeでぜひお聴きください。
疑いと信頼
「それは本当に当たり前か」
時には疑ってみることも必要です。
金曜日の大きなニュース、アメリカで長年採用されてきた「アファーマティブ・アクション」(積極的差別是正措置)が憲法違反であるとの判決がでました。
これは、1960年代に導入された、大学入学選考に際して黒人やヒスパニックの学生が一定の割合で優遇されるというものです。
「公正な入学選考を求める学生たち」の主張が認められた形です。
性的マイノリティーLGBTQに関して、性的指向や性自認についての特定の議論を学校の授業で行わないよう規定する法案、いわゆる「ゲイと言ってはいけない法」は、アメリカのマイアミ州で成立し施行されています。
昨年は、女性の中絶の権利を認めた1973年の「ロー対ウェイド」判決が覆されました。
アメリカは保守派が主流になってきた、と言えるでしょう。
黒人差別を禁止する流れでできたアファーマティブ・アクションが「白人差別だ」「不公平だ」とされ、性的マイノリティーの権利擁護が叫ばれる一方で「言ってはいけない」となり、、、、。
「人種や性的嗜好で人を差別してはいけないのは当たり前」と言われる一方で、他方の権利がこういった形で主張されるのも、また「当たり前」なのかもしれません。
サラは心の中で笑って言った。
主はアブラハムに言われた。
「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」
サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。
「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。
「いや、あなたは確かに笑った。」
(創世記18・12〜15)
サラは主のことばを信じず、疑っていました。
この後に続く話では、ソドムとゴモラの全住民を土地もろとも滅ぼされた、厳しい神です。
同性愛が「ソドムの罪」と言われる所以となっています。
続いて、主の使いによってソドムから脱出させてもらったロトと、その二人の娘の近親相姦による家系存続のエピソード。
38章にある、ユダとその息子嫁のタマルの同様のエピソード。
聖書の注釈には、「家系を存続しようとする意欲は理解できるが、許されることではない。キリストの系図にはタマルが入っている。」と書いてあります。
マタイ1章のイエス様の系図を見ると、確かにこのタマルや、娼婦であったラハブの名前があります。
神であるイエス・キリストは、由緒正しい家系のおぼっちゃまではありません。
いわゆる罪人や当時嫌われていた異邦人をルーツに持ち、しかもそのことを聖書に書き記されている、「人」なのです。
あなた方によく言っておく。イエスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない。
あなた方に言っておく。多くの人々が東からも西からも来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブとともに宴会の席に着く。
しかし、み国の子らは外の闇に投げ出される。
そこには嘆きと歯ぎしりがある。
(マタイ8・10〜12)
この「信仰」の意味は、その人を全面的に信頼して全てをその人に任せるという態度の現れのことです。
百人隊長は、イエス様に全幅の信頼を寄せました。
罪人であったとしても、その罪のためにその人の全てを疑ってはいけません。
あなた方によく言っておく。
徴税人や娼婦が、あなた方より先に神の国に入る。
なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなた方は彼を信じなかったが、徴税人や娼婦は彼を信じたからである。
あなた方はそれを見てもなお、悔い改めてヨハネを信じようとしなかった。
(マタイ21・31〜32)
その話は、そのニュースは本当か?!と疑ってみることは、ときには必要です。
そして、信じられないようなことでも、信仰によって全幅の信頼を持って受け入れた聖書の人々を自分に重ねてみることも、ときには大切でしょう。
アファーマティブ・アクションに関するニュース
https://www.yomiuri.co.jp/world/20230630-OYT1T50001/
ゲイと言ってはいけない法に関するニュース
https://lgbter.jp/noise/0155/
大事な掟
先週の父の日、友人男性たちは様々だったようです。
娘からプレゼントをもらえた人、「お父さんいつもありがとう」と息子から言ってもらった人、あと数時間で父の日が終わるのに何も起こる気配がない、、、と嘆いていた人。
我が家の場合は、父の一番のお気に入りの妹が帰ってきていたので、それが贈り物でした。
先日、ある神父様から「十戒の第4の掟はなんでしたか?」と突然質問されました。
「『あなたの父母を敬え』という、当たり前のことがわざわざ十戒に入っているのはどうしてだと思いますか?」と続けて質問されました。
答えは、カトリック教会のカテキズムにありました。
2005年に『カトリック教会のカテキズム綱要』編纂委員会委員長だったヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(故ベネディクト16世)は、以下のように述べられています。
カトリック教会のカテキズムは、「カトリックの教え全般についての正当な説明を行うことによって、教会が何を宣言し、どのような祭儀を執り行い、どのような生き方をし、日々どのような生活方針をもって祈るべきかをすべての人に知らせること」を目的としています。
これは、あらゆる年齢と境遇のキリスト信者の真理への渇きと、信仰をもたない人々の真理と正義への渇きとを満たすための、新たな源泉となるものです。
カテキズムは、(信仰を持たない人にも)わたしたちは人生をどう生きるべきか、何がわたしたちとこの世界に生きるに値する将来を与え得るのかといったことを教えてくれるものです。
第4の掟は、直接的にはこどもたちの父母との関係に関するものです。
この関係がもっとも普遍的なものだからです。
同じように、これは近親者との関係にも当てはまります。
(カテキズム2199)
父母と子どもたちの関係に留まらず、例えば教師に対する生徒の、上司に対する部下の、祖国に対する国民の義務にも及んで当てはめることができる、と書いてあります。
神の父性が人間の父性の源泉です。
両親が敬われる根拠はここにあります。
子どもたちの父母への尊敬は相互を結ぶきずなから生まれる自然の愛情によって培われます。
これこそ、神のおきてによって命じられているものなのです。
(2214)
「神様の父性が源泉、父なる神、わたしたちは神様のこども」、こうして紐解いて考えてみると、両親を尊敬し、感謝することは強いられるものではなく、自然と湧きあがるものだとわかってきます。
両親は、神の写しなのです。
地上を旅するわたしたちを、神様は「両親」に託したのです。
両親への尊敬(孝行心)は両親に対する感謝の心から生じるものです。
(2215)
心を尽くして父を敬い、また、母の産みの苦しみを忘れてはならない。
両親のおかげで今のお前があることを銘記せよ。
お前は両親にどんな恩返しができるのか。
(シラ7・27~28)
わが子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。
(箴言6・20~21)
両親へ従順の義務は子どもが後見から解除されるときに終わりますが、尊敬の義務のほうはいつまでたってもなくなるものではありません。というのは、その根拠が、聖霊のたまものの一つである神への畏敬にあるからです。
(2217)
イエス様は、世の中で最も弱い立場の人々を心に留め、癒し、導かれました。
そのことは、この第4の掟に繋がっていると言えます。
両親の老後や、病気・孤独・悲しみなどに際して、できる限りの物的・精神的援助の手を差し伸べなければなりません。
イエスはこの感謝の義務について語っておられます。
(2218)
モーセは、『お前の父と母を敬え』と言っている。
(マルコ7・10)
イエス様は、ファリサイ派の人々との問答でこうおっしゃり、神の掟を蔑ろにしていることを責められました。
この第4の掟に関するカテキズムを読んでいて、一番心に響いたのはこの箇所です。
孝行心は家庭生活全体の調和を生み出し、兄弟姉妹の関係にも影響を与えます。
両親への尊敬は家庭環境を明るくします。
(2219)
カテキズムではこの後、両親の子どもたちへの義務について述べています。
ここまで読んでみても、信仰の有無にかかわる書ではないことが伝わると思います。
わたしたちが大切にしなければならない掟、十戒のうち4から10は「当たり前のこと」なのです。
ですが、とても難しいのがこの第4の掟です。
この記事でお伝えしたかったことは、この2つです。
①神の父性が人間の父性の源泉である。
②両親への尊敬は家庭環境を明るくする。
今週も、心に刻みたい教えをいただきました。
カテキズムは、要約版もあります。
どう生きるか
梅雨の中休み、一足早い夏がやってきたかのようです。
父の日でしたね。
テレビで「母の日よりも世間では意識が低い」と言っていましたが、世のお父様方はなにかプレゼントがありましたか?
ヨブ記を読みました。
ヨブ記は、どうすれば苦悩の状態を信仰のうちに生きることができるか、を考えさせてくれます。
故カルロ・マリア・マルティーニ枢機卿は、自信の著書の中でこのように書いておられます。
(31章の「ヨブの潔白の証言」について)ヨブは自分の人生のさまざまなときに、正しく行動したということを確かめ得ました。
このような人間はけっして実在しなかったのです。
明らかに架空の人物、極限例、すべてのことを常にただ立派にだけ行う楽園のアダムの投影です。
なぜ、自分はかつて誰に対しても、いかなる悪も犯さなかった、瞬時の過失の自覚さえないと宣言して、全世界を告発するこの男を理解しようと試みる必要があるのでしょうか。
それは、たとえヨブのような人間が存在するとしても、30章に描かれている悲劇的な試練を免除されることはなかったということを確信するためです。
試練は神対人間の関係にはつきものです。
試練は、人間と神とのかかわりがどれほど真実であるか、この関係がどれほど無私無償のものであるかということと関連しています。
そして人間と神とのかかわりが真実であるかどうかは、報いが止むときにはっきりとあらわれます。
ヨブ記の著者は、単に罪からの清めという意味を超えるような試練を与える神という、神の秘儀の一側面を追求しています。
(『ヨブ記の黙想 試練と恵み』より)
わたしたちの状態は、正しいヨブとは全く違います。
日々の生活のなかで、人間関係において、義務についての取り組みにおいて、わたしたちはどのような生き方をしているでしょうか。
週刊誌報道で追い込まれる有名人のニュース、事件を起こした人とその家族について執拗に繰り返される報道、自分の気に入らない人へのSNSでの誹謗中傷など、自分のことは棚に上げて人には非常に厳しい、というのが最近の傾向のように思います。
つまり、現代は「不寛容の時代」だと感じられて仕方ありません。
イエス様がおっしゃった「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、この女に、まず石を投げなさい」という言葉を身に染みて理解しているわたしたちは、自分が日常で犯している罪がいかに多く、人を裁くことはできない、ということをわかっています。
わたしの聖書には、聖書100週間で教わったことがあちこちに記してあります。
知恵はどこで見出されるのか。
悟りのある所はどこか。
人はそこに行く道を知らない。
また、それは生ける者の地では見出せない。
深淵は『それはわたしの中にない』と言い、海も、『それはわたしの所にもない』と言う。
知恵はどこから来るのか。
悟りのある所はどこか。
それは、すべての生き物の目に隠され、空の鳥にも隠されている。
しかし、神はそこに至る道を弁えておられ、それが在る所を知っておられる。
神が風の強さを定め、
水の量を量り、
雨に限度を、雷に道を設けられたとき、
神は知恵を見つめ、それをほめたたえ、それを確かめ、それを調べ上げられた。
そして神は人に仰せになった。
『主を畏れること、これこそ知恵であり、悪を離れることは悟りである』と。
(ヨブ28・12~28抜粋)
神父様から教わったことを、聖書に書き入れていました。
「知恵」とは、「どう生きるか」ということ。
人生の真実を悟り、物事の本質を理解するには、経験だけでは足りず、神から来る知識が必要。
こう、教わりました。
どう生きるか。
人生の真実も物事の本質も、生きていく限り追い求めるものでしょう。
ヨハネ23世の『魂の日記』からの抜粋です。
「年を重ね経験を積みながら成熟していくに従い、自分自身の聖化と奉仕において成功するための一番確実な道は、一切のことを最高に簡素で穏やかなものにすることだと思う。
そのためには自分のぶどう園のむだな葉っぱやつるを注意深く剪定し、真理・正義・愛を大切にすることである。
これこそ、この世の知恵を恥じ入らせる確かな知恵である。」
深いお言葉です。
洪水のようにメディアから流れてくる情報に飲み込まれないように。
人のことを気にしすぎて余計なストレスを抱えないように。
自分の見た目を過度に気にせずに。
無駄をそぎ落とした穏やかな生活を。
どう生きるか。
こう生きたいものです。
人間の弱さ
トルコ・シリアで起きた大地震の被害をニュースで見る度に、心が苦しくなります。
多くの命が犠牲になり、全容が完全に明らかになるには時間がかかるのでしょう。
トルコには各国からの支援が集まっているようですが、内戦状態のシリアには直接手を差し伸べられない現実。
福岡教区でも募金の受付を始めています。
皆様のご協力をお願いいたします。
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2月6~8日に西日本新聞に連載されていた、「プーチンの戦争-侵攻1年-」という記事。
プーチン大統領は大晦日の演説で、「祖国防衛は先人と子孫に対する神聖な義務だ」と言ったそうです。
1月末のインタビューで、ゼレンスキー大統領は「プーチンとの会談には興味がない」と発言したとも。
同じ面には、ウクライナの国防相が軍の食糧調達を巡っての汚職が原因で辞任、とのニュース。
人間とはなんと弱いのでしょうか。
自然の威力の前に、わたしたちは無力です。
今回の戦争で、いったい何人の兵士と市民が犠牲になったのでしょう。
その最中にあっても、自らの私腹を肥やす人間の存在。
「わたしが道をそれたのは、主のせいだ」と言うな。
主は決してご自分が憎むことをなさらないのだから。
「主ご自身がわたしを迷わした」と言うな。
主は罪深い者には用がないのだから。
主ご自身が始めに人間を造り、彼の手に判断を任された。
お前が欲するなら、掟を守ることができる。
これを忠実に守ることは、お前の決定するところである。
主は、お前の前に火と水を置かれた。
お前の欲しいものに手を差し伸べよ。
人の前に生と死とが置かれている。
いずれでも、欲するものが彼に与えられる。
主は、誰にも不敬な者になれと命じられず、誰にも罪を犯す許しを与えられたことはない。
(シラ15・11〜12、14〜17、20)
主は人間を土から造られ、彼を再び土に帰される。
主は彼らに判断力と舌と、目と耳とを与え、考えるための心をお与えになった。
主は知恵と知識で彼らを満たし、善と悪とを彼らに示された。
(シラ17・1、6〜7)
すべてのことを行う力は人間にはない。
人の子は不死身ではないのだから。
太陽に優って光り輝くものがあろうか。
しかし、太陽ですら欠けることがある。
肉と血からなるものは、悪を思い巡らす。
主は、いと高き天の大軍を見守られる。
しかし、人はみな、塵と灰にすぎない。
(シラ17・30〜32)
旧約聖書、大好きです。
紀元前2世紀初頭に書かれたとされるシラ書ですが、その教えは全く色褪せることなく現代のわたしたちの心にも染み透るものがあります。
シラ書は長い間その写本が失われていましたが、19世紀末にカイロの古いユダヤ教会堂で写本が見つかり、その後20世紀になってクムランとマサダの城壁からほぼ全ての写本が発見されたそうです。
クムランの洞窟とマサダの城壁です。
人間には自由が与えられました。
同時に、知恵もお与えになりました。
わたしたちは、弱いだけではなく、使い分けることのできる知恵と判断力を持ち合わせているはずです。
トルコとシリアへの支援と、ウクライナへの戦闘機の供与。
比べるべきものではないかもしれませんが、今、世界が目を向けるべき、手を差し伸べるべき対象と優先順位を見誤ることがありませんように。
わたしはバイオリンの演奏を聴くのがとても好きなのですが、1番好きなのはと聞かれたら、迷わず五嶋みどりさんを挙げます。
彼女は子どもの時から天才と言われ、11歳でデビュー後、10代のうちに世界的な評価を確立させました。
ですが、22歳のときに心身ともに不調をきたし、しばらくの間、表舞台から身を引いていました。
今はまた精力的に演奏活動をされていますが、その時の経験から「みどり教育財団」を立ち上げ、音楽を通して世界の若者のための活動も積極的に行ない、毎年、何千人もの恵まれない子どもたちに音楽教育プログラムを提供されています。
また、2007年に国連のピース・メッセンジャーに任命され、意欲的に世界を駆け巡り、音楽の持つ力で平和へのメッセージを伝える活動もされています。
「神ってる」という感じの言葉は好きではないのですが、彼女の演奏は、音だけでなくその姿、小さな体全体で演奏する様子はまさに「神がかり」です。
同い年の彼女を見ていると、人間は弱くてもいい、立ち上がれるのだ、と背中を押してもらえる気がします。
導きに委ねる
2月になり、立春とはよく言ったもので、春めいた暖かさが続いています。
昔の人は、季節を素晴らしいタイミングで暦に表したものだと感心しますね!
差し込む光も、気分的に柔らかなものに感じます。
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これこそ、わたしが選ぶ断食ではないのか。
不正の鎖を解き、軛の結び目を解き、虐げられた人を解放して自由の身にし、軛をすべて、打ち砕くこと。
飢える人にお前のパンを分かち与え、家のない貧しい人々に宿を与え、裸を見れば、着物を着せ、お前の同胞に対してみて見ぬ振りをしないこと。
その時、お前の光は暁のように輝き出で、お前の癒しは速やかに生じる。
お前の正しさがお前の先を行き、主の栄光が背後の守りとなる。
その時、お前が呼べば、主は応え、
叫べば、『わたしはここにいる』と仰せになる。
お前の光は闇の中に輝き出で、お前の暗闇は真昼のようになる。
(イザヤ58・6~10)
(これが本来の「断食」を意味する箇所である、と教わりました。)
わたしは悩みの中から主を呼び求め、主は答えて、わたしを広々とした所に移してくださった。
主はわたしの味方、わたしには恐れがない。
人はわたしに何をなしえよう。
主はわたしの味方、わたしの助け。
主に寄り頼むことは、人にすがるよりも善い。
(詩編118・5〜8)
「わたしは決してあなたを見放すことも、見捨てることもない」と神は仰せになりました。
イエス・キリストは、きのうも、今日も、いつまでも変わることはありません。
(ヘブライ13・5、8)
心強い聖句ばかりだと思いませんか?
神様がわたしの問い掛けに答え、祈りに応えてくださるのは、無条件にではありません。
わたしの行動が伴っていれば、です。
神様がわたしを導いてくださると信じるのは、成り行きに任せているのとは違います。
わたしが神様を信頼し、自分に今できることをやったうえで、です。
この2つのことは、わたしが自分に言い聞かせてきたことです。
先日、子どもの頃からの友達と会い、いろいろと話をしました。
カトリック信者であり、恵まれた家庭環境で育ち、一見何不自由ない幸せな人生を歩んできたわたしたち。
ですが、それぞれの人生を歩んできた中で、彼女もまた大きな問題を抱えて悩んでいました。
わたしなりの経験からできるアドバイスは、上記の聖句に基づいて、自分にできることは何かを考えて実行しながら、神様のお導きに委ねる、ということです。
悩みや問題を抱えている。
生きていれば当たり前のことですが、それにどう向き合うかが大事なのだと思っています。
5日の主日ミサで、宮﨑神父様がおっしゃいました。
「あなた方は地の塩・世の光である、というのは、地上での生活の中で信者としてどう生きるかが問われているのです。
人生の登り坂、下り坂の場面だけでなく、まさか!という時にそれをどう受け止め、どう対処するか。
さらには、信者として、自分を必要としている人のために希望の光となることが求められているのです。」
今月のパパ様カレンダーのお言葉です。
イエスは、「見せかけの信心深さ」を望んでおられません。
心からの信仰を望んでおられるのです。
受験生が太宰府天満宮にお参りし、お守りを買って「神頼み」をしたとしても、本人が必死に勉強することが大前提です。
それと同じです。
本来の意味の「断食」(犠牲、努力)をすることなく、自分の願いばかりを神様に祈りすがっても、応えてもらえないでしょう。
いつも、このことを肝に銘じるように努めています。
今自分にできることは?
今自分がすべきことは?
そして、神様を信頼しているのであれば、やたらに不安を抱かずに、神様のお導きに委ねよう、と。
今ここにあるお恵み
ご家族やご友人などと、賑やかで楽しいお正月を過ごされましたか?
わたしは妹家族が帰省していましたので、それはそれは賑やかな(騒々しい)年末年始でした。
大騒ぎしながらみんなで鍋を囲んでいるときに、思わず涙ぐんでしまいました。
「何という幸せだろう。
今ここに、神様がいてくださっているんだ。」
心からそう思いました。
主の御国が来ますように。マラナタ、マラナタ。
頭の中で、聖歌がぐるぐると鳴り響いていました。
「神の国」
その時に、このテーマで記事を書こう、と思ったのです。
いつもこのように、日々の些細な出来事や、目にした、耳にしたニュースから聖書の言葉が浮かび、iPadに向かって聖書を開くのが、わたしのここ数年の日課となっています。
今読んでいる本はこれ。
クロッサン
「最も偉大な祈り 主の祈りを再発見する」
主の祈りのワンフレーズずつが章になっていて、広く深く考察された、クロッサン独特の洞察力による解説です。
この中の、神の国の到来についての下りによると、ヨハネは神の国は『神による世界の大掃除』であり、今にも起きるかもしれないが未来のことである、と語っていました。
一方でイエスは、すでに今ここに現臨していると語りました。
わたしが神の指(神の力)で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなた方の所にすでに来ている。
(ルカ11・20)
律法と預言者はヨハネの時までである。
それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、あらゆる人が力ずくで、そこに入ろうとしている。
(ルカ16・16)
神の国は目に見える形で来るのではない。
また、『見なさい、ここに』とか、『あそこに』とか言えるものでもない。
神の国は、実にあなた方の間にあるのだから。
(ルカ17・20〜21)
当時の人々にとって、神の国がすでに存在していると言われても、理解することができなかったことは容易に想像できます。
クロッサンによると、イエス様の言いたかったのは次のようなことなのです。
あなたがたは神を待っているが、実際には神の方があなたがたを待っているのだ。
どうりで何も起こっていないわけだ。
あなたがたは神の介入を求めているが、神があなたがたの協力を求めているのだ。
神の王国はここにある。
あなたがたがそれを認めて、その中に入り、それを生き、そしてそれを築きさえすれば。
イエスは、神の介入ではなく、神への参与を説いたのです。
神による世界の大掃除は、人が神によって力づけられて参与し、超越的な力に動かされて協力しなければ開始せず、完成しないのです。
わたしにとって、この考え方は新しく斬新で、とても腑に落ちました。
神の国は、人の協働がなければ始まらない。
神の介入だけでは神の国の実現は起こらない。
主の祈りが、神に対する祈りの前半と、わたしたちの祈りの後半で構成され、均等にかつ相関的に成り立っているように。
どんなことであれ、もしあなた方のうち二人が心を一つにして地上で願うなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださる。
二人また、三人がわたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる。
(マタイ18・19〜20)
わたしたち現代人にとっては、イエス様のこの言葉が1番「神の国」のイメージに近いのではないでしょうか。
わたしたちの間に、今ここに神様がいてくださる。
互いが思いやりを持って愛し合っている場に、神様の愛がある。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪のために、贖いの供え物として、御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
いまだかつて神を見た者はいません。
しかし、わたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちに留まり、神の愛はわたしたちのうちに全うされているのです。
(1ヨハネ4・10、12)
神の国は、わたしたち次第でわたしたちのうちに実現するお恵みです。
飛行機から見る景色にも、神様の現存を感じます。
聖書の楽しみ方
紅葉が美しいですね。
聖書は、すべての人を心にかけてくださる神の愛といつくしみを示す本であり、そのかかわりの中に生きるように人間を招く本です。
聖書は、「内容を覚える」教科書ではなく、人生を支える「糧」です。
だからこそ、わたしたちの心に響きます。
これは、今年の聖書週間(11/20~27)のリーフレットに寄稿された、アベイヤ司教様のお言葉です。
リーフレット『聖書に親しむ』
https://www.cbcj.catholic.jp/wp-content/uploads/2022/08/bibleweek2022.pdf
「新約聖書外典」を読みました。
正典から排除された(正式に採用されなかった)文書を、外典と言います。
以前、ある神父様が「昔は神学校で『これは読んではいけない』と言われていたようですが、面白いので読んでみました。」とおっしゃったので、いつか読もうと思って買ったまま、ほこりをかぶっていました。
たとえば、ラファエロの「聖母の結婚」という絵をご覧になると、聖書のどこにこのエピソードが?と思われるでしょう。
外典のヤコブ原福音書にあるのは、次のような物語です。
マリアは神殿で育てられていました。
大祭司ザカリアの夢に天使が現れ、マリアの結婚相手にふさわしい人を集めて、その手に持った杖に徴があらわれた人を夫とするように、と告げられました。
ヨセフの杖から鳩が出てヨセフの頭にとまるという徴があり、マリアを引き取って保護したのです。
この物語では、「結婚した」とはなっていません。
というのも、この時マリアは12歳、男やもめだったヨセフには息子が何人かいて、自分はマリアの夫には年を取りすぎていると思っていたからです。
マリアがイエス様を産んだ時は、16歳になっていました。
(このストーリーは福音書には書かれていませんので、2人の年齢、ヤコブが2度目の結婚だと知っていたと思われた方は、この物語を知っていらしたのです。)
この絵は、1504年に描かれました。
わたしたちが外典として普段読むことの無い書物は、キリスト教徒の中で人気のある大衆文学作品として広く親しまれていたのです。
次の写真は、イスラエルに行ったときに撮影した、ナザレの聖ヨセフ教会のステンドグラスです。
ヨセフの杖にユリの花が咲いている、という徴が表現されています。
この教会は1914年に建てられたそうですので、長い間に浸透した福音書と外典の物語が、自然と融合したことが分ります。
冒頭にご紹介した、今年の聖書週間のリーフレットの2ページ目は、若松英輔さんのコラムです。
わたしが一番好きな彼の著書は、「イエス伝」です。
その中に、こういう記述があります。
ある若きインド人はこう語り始めた。
「もし皆さんがキリスト教徒になりたいと希望するなら、キリストが生まれたのはエルサレムかベツレヘムのどちらかといったことや、 山上の説教が語られた正確な日時を知る必要なない。
もとめられているのは、ただ山上の説教を感じることである。
説教がなされた時期を論じるために書かれた数多くの言葉を読む必要はない。
それらはすべて学者たちのたのしみにすぎない。
そうしたことは彼らに任せておこう。
私たちは『マンゴ』を食べようではないか。」
マンゴとは、この場合「聖典」を意味している。
キリスト者に求められているのは「山上の説教」について知ろうとすることではなく、そこで語られる言葉を「感じる」ことだというのである。
何かについて知ろうとすることに留まるものは、空腹にもかかわらず『マンゴ』を目の前にいつまでもその生態を調べているような者だというのである。
聖書の楽しみ方は、ぞれぞれにいろいろとあるかと思いますが、わたしは絵画や音楽の中に聖書のエピソードを見つけてその箇所を読むのが好きです。
聖書を読んでもわからないことが多い、と思っている方には、わたしが聖書を学んだ師匠がおっしゃった言葉をお伝えします。
「イスラエルの人々の体験を通して神様を知るために、聖書があるのです。」
・・・・・・・・・・・・・・
死者の月、毎日の祈りの中で、特に親しかった方々のことを想っています。
大好きなマックス・リヒターのNovember(11月)という曲があります。
最近気に入っている、マリ・サムエルセンの北京での演奏は、何度聴いても涙がこぼれます。
天国の皆さんのことを想いながら、聴いてみてください。
毎日を生きる
1ヶ月ぶりにごミサに与ることが出来ました。
今求めていた聖句に出会えるのも、ミサの醍醐味であると思っています。
自分を正しい人間であると思い込み、ほかの人をさげすむ人々に、イエスは喩えを語られた。
(ルカ18・9)
「思い込み」新共同訳では「うぬぼれて」、つまり自分自身に頼る人々とは、「むしろイエスの弟子たちのことであろう」と聖書と典礼の注釈にありました。
「胸を張って立ち、心の中で祈ったファリサイ派の人」と、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら声に出して言った徴税人」。
とてもハッとさせられました。
私は聖書が私を理解し、私を説明してくれているのを感じます。
聖書は私が切望していたことや恐れていたことを私に指摘し、待望と期待のかぎを与えてくれます。
聖書は神を探す人、真理と人生の意味を探す人、絶望や恐怖から逃れようとする人にとって、自分を見せてくれる鏡です。
聖書は人間に人間自身、その種々の望み、その目的を啓示し、復活されたかたのことばは、ほんとうに世の救いの歴史のなかで行われつつあるすべてのことの上に押された神の封印であるということを悟らせてくれます。
(「宣教者をそだてるイエス」カルロ・マリア・マルティーニ著より)
世界にはまだキリストを知らない人がたくさんいます。
日本でもわたしたちはキリストを知らない人たちに囲まれて生きています。
キリストを伝えることである宣教は、神の子ども、キリストの弟子となったわたしたち皆に与えられている使命です。
(カトリック中央協議会 「日本の祈願日における解説」より)
世界宣教の日にあたり、自分自身をきちんと見直し、信仰を持っていることをうぬぼれず、自分を通して宣教できるようになるためには、もう少し謙虚にならなければいけないと強く思った日曜日でした。
・
今回の入院中も、1日に一度は聖書を開いて読んでいました。
昔、入院していた時に母がしてくれていたように、目をつぶり、パッと開いたページを読むのが好きです。
抗がん剤の治療中に吐き気を少しでも忘れることができるように、と、母がそうやってわたしに聖書を読んでくれていました。
死者の月を前に、「生」についてのいくつかの聖句をピックアップしてみました。
生きるということはこういうことである、と、聖書ではさまざまな表現でわたしたちに問いかけています。
永遠の命とは、
唯一のまことの神であるあなたを知り、
また、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
(ヨハネ17・3)
たとえ、誰かが自分は信仰をもっていると言っても、行いを伴わないなら、何の役に立つでしょう。
人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるものではありません。
息をしない体が死んだものであるのと同じように、行いの伴わない信仰もまた死んだものです。
(ヤコブの手紙2・14、24、26)
この箇所は、いつも胸にグサッと刺さります。
行いの伴わない信仰では、誰にも宣教することはできません。
地の塵の中に眠っている多くの者が目を覚ます。
ある者は永遠の命に。
ある者は永遠の恥とさげすみに至る。
懸命な者たちは、大空の光のように輝き、
多くの者を義へと導いた人々は星のように夜々限りなく輝く。
(ダニエル書12・2〜3)
これは、旧約聖書中の最初の復活信仰に関する記述なのだそうです。
紀元前2世紀ごろに書かれたこの文の美しさに、現代のわたしたちも感動させられます。
お前は最後までお前の道を行き、憩いに入りなさい。
その時の終わりに、定められた分を受けるために、お前は立ち上がるであろう。
(ダニエル書12・13)
「立ち上がる」、すなわち復活を意味します。
最後まで自分の役割を果たす生き方をしなさい、と言われているような気がします。
毎日をより良く生きていくために、こうした聖書のことばはわたしにとって欠かすことのできないものです。
秋の夜長に、聖書を開いてみませんか?
きっと、聖書がわたしを理解してくれている、と感じることができると思います。
信じていること
教皇フランシスコは、10月の祈りの意向を「すべての人に開かれた教会」とされました。
また、10月はロザリオの月、福音宣教の月です。
すべての人に開かれた、とは、「多様性のうちに互いに耳を傾け合い、教会の外にいる人に扉を開くこと」であると教皇様はおっしゃっています。
教会の外にいる人とは、信じることを熱望し、探している人、とも言えるでしょう。
宣教のためには、わたしたちキリスト者が自分の信じていることを自分の言葉でわかり易く語ることができなければなりません。
膝の治療のため、しばらく入院していました。
入院中、ずっと考えていたことがあります。
「孤独」とは何か、と言うことです。
この2年の間に、知り合いが何人も入院されていたので話には聞いていましたが、コロナ禍の入院生活は本当に孤独でした。
お見舞いどころか、必要なものを届けてくれる家族にでさえ、会うことは許されませんでした。
前回書いたように、「こんな時に、神父様が訪ねて来てくださってご聖体をいただけたら、どんなに幸せか。」と何度も頭をよぎりました。
ですがよくよく考えてみると、本当の孤独というものは、話し相手がいないことではなく「信じられるものが何もない」状態を指すのではないか、そう思ったのです。
ダニエル書3章では、偶像崇拝を強要するネブカドネツァル王が、その命令に従わなかった3人の若者を火の燃え盛る炉に投げ入れます。
主の使いが炉の中に下りて来て、アザルヤを囲む者たちのそばにつき、炎を炉の外に追い払った。
そのため、火は全く彼らに触れることもなく、何の危害も苦しみも与えなかった。
その時、三人は炉の中で口をそろえて神をほめたたえて、栄光を帰し、賛美した。
(49〜51)
52節からの長い祈りは、「聖職者が祝日に唱える祈り」なのだ、と以前教わったことがあります。
美しい祈りです。
抜粋してご紹介します。
わたしたちの先祖の神、主よ、あなたが賛美されますように。
代々に、たたえられ、崇められますように。
天の大空におられるあなたは賛美されますように。
代々にほめたたえられ、栄光が帰されますように。
天よ、主を賛美せよ。
主の使いたち、主を賛美せよ。
日と月よ、天の星よ、すべての雨と露よ、すべての風よ、火と熱よ、寒さと暑さよ、夜と昼よ、光と闇よ、稲妻と雲よ、大地よ、山と丘よ、地に生えるすべてのものよ、海よ川よ、空のすべての鳥よ、地のすべての獣と家畜よ、人の子らよ、、、、
主を賛美せよ。
代々に主をほめたたえ、崇めよ。
主に感謝せよ。
主は善なる方、その憐れみは永遠。
主を礼拝するすべての者よ、神々の神を賛美せよ。
ほめたたえ、感謝せよ。
その憐れみは永遠であるから。
彼らのこの美しい祈りを聞いて、ネブカドネツァル王は神を信じるのでした。
主を賛美する。
ほめたたえ、感謝する。
これは、キリスト者にとっては当たり前のようなことかもしれません。
このシンプルで素直な気持ち、わたしたちが信じていることを「孤独な」方々に伝えることができれば、この祈りに触れたことで神の愛に包まれた王のように、その方の心の霧が晴れるかもしれません。
福音宣教10月号に、本多峰子さんが書いていらっしゃいます。
福音書の中で「神は愛である」と、神が愛そのものであり、イエス様を見た者は愛なる神を見たのだ(14・9)と断言しているのは、ヨハネだけです。
ずっとイエスの近くにおいていただいて、イエスの愛を感じ知ることができたヨハネは、イエスを「命の言(ことば)」と悟り、イエスとの交わりによって喜びにあふれ、またそうした交わりの輪が広げられることで、イエスをじかに知らない人たちにも喜びが満ちあふれると確信しました。
神が存在し、いつも私たちを愛して、ともにいてくださると確信すれば、どのような時にでも絶望に沈みこんでしまうことはできなくなるでしょう。
神様は私たちを愛し、私たちのつらさを憐れみ、私たちの最も暗いところに入ってきてくださる方です。
(福音宣教10月号 本多峰子さん連載より)
福音宣教月間の今こそ、私たち一人ひとりが「すべての人に開かれた教会」となることを意識して、日々を丁寧に生きましょう。
神様を感じる
10月になりました。
教会では「待降節まであと2ヶ月!早い〜!」なんて言う声も。
日中はまだ暑さが残っていますが、遠くにドライブでもしたくなる気分です。
今週はヨブ記が読まれましたが、この物語を読んで納得するのは難しいですね。
この人は非の打ち所がなく、正しく、神を畏れ、悪を遠ざけていた。
(1・1)
その義人ヨブに、神はサタンを使って苦しみをお与えになるのです。
先月は、静岡県に上陸した台風15号で広範囲に渡って断水が続き、今もまだ解消されていません。
先週は、アメリカのフロリダ州にハリケーン「イアン」が上陸し、街が破壊されました。
風速67メートルで高潮・洪水も起き、10/2の報道ではまだ100万世帯が停電しているようです。
Apple TVでFIVE DAYS at MEMORIAL というドラマを観ました。
2005年8月、ニューオリンズに上陸したハリケーン「カトリーナ」では町の8割が冠水し、当時の政府(ブッシュ大統領)の救出活動の遅れは、貧富の格差や人種問題をあらためて浮き彫りにしました。
実在したメモリアル病院の医師、看護師たちの患者への懸命の対応と、あってはならないある決断の意義について考えさせられる、息の詰まるドキュメンタリーのようなドラマです。
ヨブ記では、すべての災いはサタンの業である、としています。
イスラエルの民は、何世紀にもわたって、善を行う者は幸福で、悪を行う者は不幸だと信じていました。
フランシスコ会訳聖書の解説には、こう書いてあります。
神がヨブに現れ、語りかけるが、苦しみの意義は明らかにされない。
それは神秘のまま留まる。
だが、重要なのはヨブが苦しんでいる時に神が現れたことである。
これによって、人は苦しんでいる時も孤独ではなく、自分の傍には神が常におられることを深く感じるのである。
ヨブは苦しみの中で改めて神を見出し、その苦しみの中にも慰めを見出す。
神の臨在こそが人々に真の霊的な喜びを与えるものであり、また敬虔な人に繁栄の時も苦難の時も神の臨在を悟らせるのである。
3章20節から26節のサブタイトルは「人生の価値」
読んでいて、心が苦しくなる思いがします。
なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛む者に命が与えられるのか。(20)
神はなぜ、光をお与えになるのか、その道が隠されている者に、神ご自身がその道を囲っておられる者に。(23)
わたしには安らぎも、静けさも、憩いもない。ただ悩みだけが訪れる。(26)
さらに、著者は「悪の源」と題する5章でこう断言します。
なぜなら、災いは地から生じるものではなく、苦しみは地から芽を出すものでもないから。
そうだ、人は苦労するために生まれる、鳥が高く飛ぶために生まれるように。(6〜7)
人間の災いも苦しみも、人の心に原因があるのだ、と言います。
言われている厳しさに胸が押しつぶされそうな気持ちになりますが、同時に美しい文章に心が揺さぶられます。
ヨブの究極の信仰告白は、この言葉でしょう。
たとえ、神がわたしを殺しても、わたしは神に信頼する。
しかし、わたしは神の前で、わたしの道を申し立てたい。
これもまた、わたしの救いとなるだろう。
不敬な者は神の前に立つことができないのだから。
(13・15〜16)
先ほど紹介したドラマで病院が極限状態にまで追い込まれたのは、ハリケーンや高潮による洪水よりも、対策の甘さ、対応の遅れ、判断の遅さ、幾つもの人為的なミスが原因でした。
真夏に電力も止まり、救出もいつになるかわからない病院で、数人の医師たちによって究極の決定がなされます。
彼らは皆、クリスチャンでした。
病院には聖堂があり、病室の壁にも主人公の胸にも十字架が。
ことあるごとに神に祈り、「自分たちの下した決断は決して間違っていない、神に誓って罪は犯していない。」と確信しているのです。
これは実話です。
「どんなに大変だったか分かります」と言われ、主人公はこう言い返します。
「絶対にあなたには分からない」
わたしは、床上まで泥水が浸水して、電気も水道もない生活を何日間も強いられた、そういう体験はありません。
ヨブが受けたほどの苦しみも、想像がつきません。
あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。
(42・5〜6)
ですが、ヨブのように、苦しみの最中にあっても神様を感じたことはあります。
その時の神様は、平和な日常で出会う神様とは印象が違うのです。
平時に思い描いている(出会ったと思っている)神様は、柔和で落ち着いた、優しいお父様のような笑顔です。
涙が止まらない、涙も出ないような苦難に喘ぐとき、神様はわたしを抱きしめておられるほど近くにいらっしゃるので、どのような表情をされているか分かりません。
世界各地で絶え間なく起きる災害によって、甚大な被害に苦しんでいる方々のために祈りましょう。
一人でも多くの人が、神様を感じることができますように。
わたしたちは神の住まい
コロナウィルスはまだ消えたわけではありませんが、日本の各地では今年は「3年ぶり開催」のイベントやお祭りで賑わっています。
夏の帰省を断念された方もいらっしゃるでしょう。
3年ぶりに孫に会えたという方もいらっしゃるでしょう。
それぞれの楽しみ方で、今年の残暑を過ごしていきましょう!
・・・・・・・・・・・・・・・
いったいアポロとは何者ですか。
パウロとは何者ですか。
あなた方を信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった分に応じて働いた奉仕者なのです。
わたしは植え、アポロは水をやりました。
しかし、成長させてくださったのは神です。
わたしたちは神の協力者であり、あなた方は神の畑、神の建物なのです。
(1コリント3・5~6,9)
あなた方は使徒と預言者という土台の上に、キリスト・イエスご自身を要石として築き上げられたのです。
このキリスト・イエスに結ばれることによって、建物全体は組み合わされ、主のうちにあって大きくなり、聖なる神殿となります。
キリストに結ばれることによって、あなた方も霊によってともに組み入れられ、神の住まいを築きあげることになるのです。
(エフェソ2・20~22)
主は人に捨てられましたが、神によって選ばれた尊い生きた石です。
この主に近づいて、あなた方もまた、生きた石として、霊に満たされた家に築きあげられます。
(1ペトロ2・4~5)
パウロは度々、わたしたちは神の住まいである、と例えています。
最近、この本を読みました。
パウロの人生、信仰を振り返りながら深く霊操する内容です。
パウロについて知れば知るほど、複雑な自信家、ちょっとめんどくさい頑固者だったのだろうなぁ、、、などと思ってしまいます。
ですが、彼を助けた重要な人々、バルナバ、アポロ、アキラとプリスキラなどの人々と決定的に違ったのは、頑固さゆえの根気強さと熱意でしょう。
希望と情熱に満ちた、大胆な言葉で多くの書簡を残しています。
だから、支援者の彼らと違い、イエス様への信頼に基づいた彼の教えが、こうして聖書として受け継がれてきたのではないかと思います。
パウロの遺言とも言える、使徒言行録20・18〜35でも、わたしたちが神の家であることを書き記しています。
そして今、わたしはあなた方を、神とその恵みの言葉に委ねます。
このみ言葉には、あなた方を造りあげ、全ての聖なる人々とともに受け継ぐ遺産をあなた方に与える力があるのです。
32節の「造りあげ」は、ギリシャ語で「家を建てる」に当たるそうです。
キリスト教的生活は、家を建てるのと同じく、教会と信者を次第に完成させるものだ、とフランシスコ会訳聖書の注釈にあります。
あなた方も、このように働いて、弱い人を助けなければならないこと、また、『受けるより与えるほうが幸いである』と仰せになった主イエスご自身の言葉を、心に留めておくように、わたしはいつも模範を示してきました。
35節は、自信家で熱意が溢れるパウロらしい言い方です。
『受けるより与えるほうが幸いである』とは、福音書中にイエス様の言葉として出てこない(注釈による)のですが、とても重要な教えだと思っています。
聖書の聖句の中で、いくつかわたしの人生の指針としているものがありますが、これはその一つです。
受けるより与えるほうが幸い
現実には、どうしても「こんなに与えてるのに・・・」と思ってしまうのですが、、、、、。
わたしたちが神様の住まいである、のならば、いつでも居心地良く過ごしていただけるように、心と身体を整えておくべきです。
ですから、あなた方は神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、思いやりの心、親切、へりくだり、優しさ、広い心を身にまといなさい。
キリストの平和にあなた方の心を支配させなさい。
感謝の人となりなさい。
キリストの言葉をあなた方のうちに豊かに宿らせなさい。
(コロサイ3・12〜15抜粋)
「了解です!」
暑い夏の盛りもあと少しです。
お身体にお気をつけになって、有意義な日々をお過ごしください。
熱い信仰
梅雨明けであって欲しい、そんな空です。
ジメジメとしているよりも、カラッと暑い季節が好きです。
以前、宮﨑神父様が「あなたの信仰がなまぬるいものでないか、自問してみてください」とお説教でおっしゃったのが、ずっと心に残っていました。
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信仰とは火を消してしまう水ではありません。
燃え上がる炎なのです。
ストレスにさらされている人のための鎮静剤でもありません。
信仰は、神を求めて恋をしている人のラブ・ストーリーなのです!
ですから、イエスは何よりも「なまぬるいこと」を嫌われるのです。
Faith is not water that extinguishes flames, it is fire that burns; it is not a tranquilizer for people under stress, it is a love story for people in love! That is why Jesus above all else detests lukewarmness (cf. Rev 3:16).
(教皇フランシスコ Twitterより)
最近は、この本と並行してヨハネの黙示録を読んでいます。
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黙示録は、旧約聖書の内容をベースに、独特の言い回しでさまざまなシンボルに例えて書いてあります。
わたしたち現代人にはそのシンボルを理解するのが難しく、とても難解で分かりにくい聖書の代表のように捉えてしまいます。
福音書の著者ヨハネではなく、ヨハネと言う名前の1世紀末の人物によって書かれたものだそうです。
自らを預言者であるとし、黙示録は典礼祭儀のなかで会衆に向けて朗読するための書である、と書いています。
この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。
時が迫っているからである。
(1・3)
会衆に向けられた書、ということで、わたしたちはもう少し気楽に読んでも良いのかもしれません。
『今おられ、かつておられ、やがて来られる方』という、黙示録独特の神様の呼び名が、1章に2回出てきます。(1・4&8)
これは、出エジプト記にある「わたしはある、わたしはあるという者だ」を分かり易くいいかえたものだ、と今道さんは書いておられます。
エジプトからの脱出、約束の地に導き、バビロン捕囚を通して民に自尊心を与え、主に忠実な民に立ち返らせてくださった神。
かつてこれほどのことをしてくださり、今わたしたちを支えてくださる神は、世界にキリスト教が広まることを通して深い意味でともにいてくださる方であり、終末にはキリストの再臨をもたらしてくださる神。
それが、『今おられ、かつておられ、やがて来られる方』なのです。
アーメンである方、忠実で信実な証人、神の創造の初めである方が、こう仰せになる、
わたしはお前の行いを知っている。
お前は冷たくもなく熱くもない。
むしろ、熱いか冷たいか、いずれかであればよいものを。
だが、このように、お前は熱くもなく冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはお前を口から吐き出そうとしている。
(3・14~16)
『アーメンである方』という言い方も、黙示録特有のものです。
新約の中で、アーメンがキリストの属性として使われている唯一の例だそうです。
今道さんによると、わたしたちへの神の約束に対する忠実と、神の呼びかけに対する人間のポジティブな応えとしての「アーメン、はい」の両方を、一身に具現しているキリストを表すのが「アーメンである方」、ということです。
「むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」という表現、面白いと思います。
まるで恋人同士の会話のような、真摯な愛を求めるイエス様のみ心でしょう。
冒頭に紹介したパパ様のツイッターにある通り、信仰は、神を求めて恋をしている人のラブ・ストーリーなのです。
見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。
もし、誰かがわたしの声を聞いて戸を開くなら、わたしはその人の所に入って、食事をともにし、その人もまたわたしとともに食事をする。
(3・20)
神様は、わたしたちが熱い気持ちで信仰を求める気持ちを期待されている、そういう感じが伝わってきます。
まだ3章までしか読み進めることができていませんが、今道さんの解説を同時に読みながら聖書をめくると、ヨハネの意図していたことが薄っすらと理解できるような気がしてきます。
わたしたちを満たすもの
「今日の聖書朗読」を読むのが習慣だという方、多いかと思います。
好きな箇所、特に旧約のお気に入りの箇所が出てくると嬉しくなり、満たされた1日を送ることができます。
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見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。
主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。
しかし、風の中に主はおられなかった。
風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
(列王記上19・11~12)
19章では、エリヤが長距離の逃避行をします。
神のことばに従って、その通りに生きてきたと自負していたエリヤは、報われないと思っていました。
そして、アハブに命を狙われ、神の山ホレブへと逃げて洞窟に引きこもります。
神が激しい風を吹かせ、地震、火を起こしても、エリヤはそこから出てきません。
「静かにささやく声」(フランシスコ会訳では「かすかにささやく声』)で、神様の現存をようやく感じ、出てくるのです。
強制的にではなく、エリヤの自由意思に任せようという神様の優しさ、エリヤへの信頼なのだ、と教わりました。
英神父様は「神はささやく声で語りかける。静けさがないと聞こえない。心の静けさを大切にして、神のささやく声を聞こう。」とおっしゃっています。
体は一つ、霊は一つです。
それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。
主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、
すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
(エフェソ4・4~6)
体、霊、希望、主、信仰、洗礼、神
この7つはそれぞれ一つであり、同時に7つの共同体でもあります。
父と子と聖霊が、それぞれ独立したものではないのと同様です。
宮﨑神父様がお説教で、こうお話しされました。
「三位一体について説明するのはとても難しい。わたし自身も完全に理解しているとは言えない。
でも、大切なのは、理解することではなく信じること。」
ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。
そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
(マタイ5・15~16)
この箇所は、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10・8)と同様に、わたしがとても大切に心に刻んでいる教えです。
自分のいただいている光が輝くような生き方をしたい、いつもそう思っています。
わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達(試練に磨かれた徳)を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。
わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(神の愛がわたしたちの心の中で溢れ出ているからです。)
(ローマ5・3~5)()はフランシスコ会訳
聖書はいつも、わたしの心を満たし、生活に潤いを与えてくれます。
それが、穏やかな日常、ストレスに負けない精神の基になっていると思っています。
アウグスティヌスの「告白」の一説です。
私たちはあなたから遠ざかったり近づいたりいたします。
しかし、けっして場所ではありません。
すべての人は、自分の聞きたいことをあなたにたずねます。
しかしかならずしも、聞きたい答えを、いただくとはかぎりません。
自分の聞きたいことをあなたから聞こうとするよりもむしろ、あなたから聞くことをそのままにうけとりたいと心がける人こそは、最良のあなたのしもべなのです。
(第10巻 第26章)
人生における苦しい局面も、聞きたくないような耳の痛い言葉も、避けて通ることばかりはできません。
苦難が希望へ繋がるという教えは、生きて行く上でとても大切なものです。
最後は、今週の読書で1番心に残った文章をご紹介します。
栄光は神である御父に、また万物の王である御子に。
栄光は最高の讃美をささげるべき至聖なるお方である聖霊に。
三位一体の唯一の神は、万物を創造し、天には天に住むものを、地には地に住むものを満たされた。
神は、海と川と泉を水に住むもので満たされ、ご自分の霊であらゆるものにいのちを与え、あらゆる被造物が、智慧あるその創造主を、つまり生き続け、いつまでも永らえる唯一の原因であるお方を讃美するようにされた。
理性を備える被造物(天使および人間)は、しかし、特に、常に神を大いなる王、善き父として讃美せよ
(ナジアンゾスの聖グレゴリオス)阿部 仲麻呂神父様 訳
自分の主張
先週から、宮﨑神父様が新しいミサ式次第の解説と練習をしてくださっています。
まだ全てを理解したわけではありませんが、とても心を動かされた変更箇所があります。
主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、
あなたをおいて、だれのところに行きましょう。
これが、↓
主よ、わたしはあなたをお迎えするのにふさわしい者ではありません。
おことばをいただくだけで救われます。
これは、マタイ8章の百人隊長のことばに基づいた文で、規範版ではこちらの式文が用いられてきたようです。
すると、百人隊長は答えた。
主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。
ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます。
(マタイ8・8)
ただし、これまでのとおりに唱えてもよい、となっています。
控えめな態度、言葉が美しい箇所です。
・・・・・・・・・・・・・・・
安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。
そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。
ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。
そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。
(使徒言行録16・11~15)
この積極的な態度、面白いですね。
旧約、新約、どちらの聖書も、自分の主張をハッキリとさせるタイプの女性が多く登場します。
21世紀の現代とは違い、女性の社会的地位はとても低かったはずです。
自分の意見や意志をしっかりと持っていた女性が多くいたことよりも、そうした彼女たちの様子が聖書にイキイキと物語られていることに関心があります。
マルタとマリア姉妹のエピソードがあります。
イエス様が弟子たちとともに姉妹の家を訪問した際、食事を用意して給仕してせわしなく立ち働くマルタと、弟子たちに交じってイエス様の教えに耳を傾けるマリア。
そのことをイエス様に率直な言い方で「手伝うように、妹になんとか言ってください!」と迫るマルタ。
(ルカ10・39~42)
『マルタとマリアの家のキリスト』フェルメール作
『マルタとマリアの家のキリスト』ベラスケス作
兄のラザロが病気になったとき、人を遣わしてイエス様を呼びます。
イエス様が来られた時、マルタは迎えに行きますが、マリアは家の中に座っています。
二人とも、同じ気持ちだったのでしょう。
「ここにいてくれたら、もっと早く来てくれたら、兄は死なずに済んだのに、、、」
マルタはそれを直接ことばにして伝えますが、マリアは沈黙のうちに抗議したのかもしれません。
有名な絵画にも、意図的に「口うるさい姉」と「観想的な妹」として表現されているとおり(ベラスケスの絵は明らかにふてくされた顔の姉)、古代から西洋世界ではマリアの方が優れた人間性の持ち主だという解釈がなされていたようです。
じつはわたしも、「長女は家のために働いて、だいたい口うるさいものよ。わたしみたいに、、、。妹は気楽でいいよね~。」と思っていました。
福音宣教6月号の本多峰子さんの連載に、こう書いてあります。
「マルタはイエスを敬愛し、イエスを精いっぱいもてなそうとしていますが、同時にイエスには、全く隔てのない近さで接しています。
これはマルタが、すべての思いを包み隠さず、イエスに完全に心を開いていることの表れです。」
「ほとんどイエスをとがめるような言い方をしています。
でも同時に、イエスに行動を求め、ラザロの救いをあきらめようとはしません。
これは、マルタの信仰の強さです。
マルタはとことんイエスに食い下がります。
イエスが神に願うことは何でもかなえられると信じるマルタは、同時に、自分が心からイエスに願うことをイエスはかなえてくれると信じているのです。」
気が強く、男性にも負けずに食い下がる女性。
昔も今も、こういう女性はめんどくさいと思われるかもしれません。
「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。
まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。
この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。
(使徒言行録16・22~34)
真夜中なのに、洗礼を授けてもらい、家に連れて帰って食事まで。
やや強引とも思える行動です。
信仰を持つ、ということは、ときには「強引に」自分を主張してもよいのだ、とも思えます。
めんどくさいくらいに自分の主張を神様にぶつけることも、時には必要でしょう。
リディアのように積極的で、マルタのように意志が強く、妹のマリアのように秘めた強さを持ち、
「はいはい、わかりました」
そう神様に言われるくらいまで、強い信仰を貫いて生きて行ってもいいのです。
奇跡物語が語るもの
中庭の春の装いが、小雪の舞うなかとても美しい日曜日でした。
宮﨑神父様のお説教にとても心を打たれました。
「ウクライナのために祈っていますか?」と問われ、気になってはいるものの、それは「戦争が始まるかも」というニュースとしてに過ぎなかった自分が恥ずかしくなりました。
遠い国のニュースではなく、隣人が戦争と隣り合わせの現実に直面していることを忘れずに、みなさん祈りましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・
マタイ、マルコ、ルカの3つの共観福音書には、同じ出来事や教えが書かれている箇所があります。
福音書を読んでいると、注釈でその並行箇所が示されているので、同じ話を他の2人も書いていることを知ることが出来ます。
全く同じエピソードが、福音記者によっては詳しく書かれていたり、短かったり、時には全く違った趣旨で書かれていることがあります。
話の大筋はだいたい同じなのですが、当然3人にはそれぞれに伝えたいポイントがあって、よく読むとわたしたちに訴えていることが違うことが分かります。
エリコの盲人、バルテマイが癒される奇跡物語があります。
(その道の)道端に座っていたバルテマイという盲目の物乞いが、何度黙らせようとされても「ダビデの子イエスさま、わたくしをあわれんでください」と叫び続けます。
イエスが「何をわたしにしてもらいたいのか」とお尋ねになると、盲人は、「先生、見えるようにしてください」と言った。
そこでイエスは仰せになった。
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。
するとたちまち、盲目の人は見えるようになり、(その道を)イエスに従った。
(マルコ10・46~52)
イエスは立ちどまり、彼らを呼んで、「何をしてもらいたいのか」とお尋ねになった。
二人は「主よ、わたくしたちの目を開けてください」と言った。
イエスは哀れに思い、その目に手をお触れになると、彼らはすぐに見えるようになった。
そして、イエスについて行った。
(マタイ20・29~34)
そこで、イエスが「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と仰せになった。
すると、盲人はたちどころに見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスについて行った。
これをみて、民は皆、神を賛美した。
(ルカ18・35~43)
3人の福音記者たちの意図はそれぞれ違うところにある、と雨宮神父様の本にあります。
マルコ
■「見えるようにしてください」と、物事を見抜く視力の回復が願われている。
■(その道の)という言葉が本来のギリシャ語原文には書かれていて、エルサレムに向かう途上で盲人に会っている。
■奇跡そのものよりも、イエスに叫んだ者が十字架への道=苦難を通って救いへと至る道に招き込まれたことを表現。
■わたしたち読者にも、どうすればイエスによる救いの道へ入れるのかを教えている。
マタイ
■「目を開けてください」と、ごく実質的な願いがなされている。
■盲人の目が開かれた、という奇跡物語を語ることに主眼がある。
ルカ
■奇跡を通して働く神の力への賛美。
■イエスが神として顕現し、叫び求める者に救いを与えるという教え。
『なぜ聖書は奇跡物語を語るのか』
雨宮 慧 神父 著より
ひとりで聖書を開いても、ここまで深く意図を読み取ることはできません。
この本を読んで、まさにわたしも「目が開かれた」気持ちです。
聖書は、歴史的な出来事を客観的に書いている本ではない、ということはご存じのとおりです。
聖書を書いた人々が伝えたかったのは、その出来事の背後にひそんでいた意味なのだ、と雨宮神父様が書いておられます。
「そして、聖書が出来事を叙述するとき、詩や戯曲の表現方法を駆使し、シンボルや詩的表現を使って把握した意味を伝えようとしています。
イメージを限りなく広げる言葉が好まれるのです。読むほうもそのつもりで読む必要があります。」
歴史書は出来事を正確に客観的に叙述して真理を追求するに対して、新約聖書は復活体験が根本になって、知りえた真理からさかのぼって出来事をとらえているのです。
イエス様が行われた奇跡に立ち会った弟子たちでさえ、その時にはその本来の意味を理解できていなかったのす。
復活体験によってイエス様の神性を知り、宣教活動を通してその真理を理解した彼らは、そのことを以前の出来事のなかに確認しながら書き記したのです。
ですから当然、一つの奇跡物語にいくつもの強調したい真理がうまれるわけです。
聖書を読む時にこのことを分かっていて読むかどうかで、心に訴えてくることが変わるはずです。
このことを踏まえたうえで以下の箇所を読んでみてください。
わたしは、以前とは違う景色が見えた気がしました。
「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。
覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
(マルコ8・14~21)
イエス様の方を向く
宮﨑神父様にゆるしの秘跡をしていただきました。
自分のおかした罪を認め、告白し、アドバイスをいただき、神様に代わって赦しをいただく。
もう同じ過ちをおかさないように、心に、そして神様に誓う。
これは、「悔い改め」なのか「回心」なのか。
南山大学の名誉教授でもあった故 浜口神父様の論文に、以下のように書かれています。
教会は最初の回心を思い起こして、再び神に立ち返る方途と機会を保持している。
それが「ゆるしの秘跡」である。
罪に陥った信者が再び神と和解することができるという神の無限の憐れみを宣言するのは、「再回心(re-conversio)」である。
真に罪を痛悔する者は、たとえその痛悔が不完全なものであっても、真にキリストに向かっているのである。
「改め」、だと「改心する」という言葉のように、罪を認めて心を入れ替える意味になります。
Googleで「かいしん」と検索するとわかりますが、「回心=キリスト教で神の道に心を向けること」と表示されます。
新約聖書で「悔い改め」の意味で使われるメタノイア( meta・noia /μετανοια )は、古いギリシャ語を起源とする言葉で、直訳すると「視座の転換」という意味となるそうです。
悔い改めなさい。
めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。
そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。
(使2・38~39)
また、マルコ福音書の中で最初にイエス様が口を開く場面でおっしゃった、
「時は満ち、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信じなさい」
(マルコ1・15)
この「悔い改め」にあたる単語がメタノイアです。
本田哲郎神父様は、「『時は満ち、神の国はすぐそこに来ている』から、『低みに立って見直しなさい』(メタノエイテ)という。悔い改めなさいではありません。」とおっしゃっています。
メタノイアに対応するヘブライ語はニッハムという単語で、「痛み、苦しみを共感・共有する」という意味だそうです。
「つまり、メタノイアとは、人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りに、共感・共有できるところに視座・視点を移すこと」と本田神父様の著書にあります。
ムリリョ「パウロの回心」
以前、HPの記事に以下のように書きました。
E.P.サンダースの著書「イエス その歴史的実像に迫る」によると、
「ルカと使徒行伝の著者が悔い改めを強調することをとりわけ好んだ。
そして、それはイエス自身の教えの重要なテーマではなかった。
イエスは悔い改めに関心を持つ改革者ではなかった。」
福音書に語られる「悔い改め」の概念は、旧約時代にはもっといろいろな意味を持つ曖昧なものでした。
いくつもの単語がそれにあたるとされていますが、もっとも多く出てくるヘブライ語の単語の意味は、「道を変える」「引き返す」「立ち戻る」というものだそうです。
つまり、悪から遠ざかって神に向かう姿勢を意味し、「生き方を変えて生活全体を新しい方向に向ける」ということです。
エレミヤは、繰り返し「立ち返れ」と民に呼びかけています。(エレミヤ書3章)
契約の神の愛に立ち戻りなさい、と言うのです。
つまり、旧約時代の教えをイエス様の新しい言葉で問われたのが、この「悔い改めなさい」というものなのではないかと思うのです。
神の教えを確かなものとして受け入れ(アーメン)、自分の凝り固まった考え方、惰性に陥った生活、そうしたものの視点を変えなさい(回心)。
神の方に今一度、自分を向き直しなさい。
それが、「回心=悔い改め」なのだ。
そう、この一週間で学びました。
キリストに出会う前のサウロのように、わたしたちも方向を変え、習慣になっていることや楽な道から戻る必要があります。
それは、主がわたしたちに示される、謙遜ときょうだい愛と祈りの道を見出すためです。
1/26教皇フランシスコTwitter
悔いない毎日
今年、ゆるしの秘跡をお受けになりましたか?
「悔い改める」という言葉について、ここのところずっと考えています。
受講している神学のオンライン講座で、教授が「イエスは悔い改めよとは言っていない。ルカが追記したのだ。」とおっしゃいました。
以前、聖書百週間の講義の中でも神父様から、「ルカに度々出てくる悔い改めという言葉は、ルカが付け加えた編集句です。」と教わりました。
例えば、マタイとマルコでは、イエス様が徴税人たちと会食することの正当性について語るとき、自分は罪人たちを呼び集めるためにやって来たと述べますが、それに対してルカでは、罪びとたちに「悔い改め」を呼びかけるためにやって来たと述べています。
このように、並行個所のうちルカだけに結論として「悔い改め」が追記されている箇所がいくつもあります。
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あなたがたも気をつけなさい。
もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。
そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。
(ルカ17・3~4)
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E.P.サンダースの著書「イエス その歴史的実像に迫る」によると、
「ルカと使徒行伝の著者が悔い改めを強調することをとりわけ好んだ。
そして、それはイエス自身の教えの重要なテーマではなかった。
イエスは悔い改めに関心を持つ改革者ではなかった。」
ということになるようです。
罪人に悔い改めを要求するのは洗礼者ヨハネの教えであり、イエスはかつての徴税人・罪人ではなく、実際の徴税人・罪人たちの友人でした。
イエスは罪深いと思われていた人々と関わり、飲食を共にし、神はとりわけ彼らを愛してくださること、神の国がすぐそこまで迫っていることを告げます。
「今こそ悔い改めよ、さもなく滅ぼされる」はヨハネの教えで、「神はあなたがたを愛してくださる」とイエスは教えたのです。
イエスは、自分に従う人々は、たとえ聖書の要求すること(犠牲の供物とともに神殿で赦しを乞う)を行わなくても神の選びに属している、と考えていました。
その具体的逸話として、思い出してください。
王が披露宴の客を集める時、僕たちが「通りへ出て来て、彼らの見つけた人々はすべて悪人の善人も集めてきた。こうしてその婚宴は来客者でいっぱいになった」(マタイ22・10)
僕たちは、初めにすべての悪人たちに善人になるように求めたわけではなく、とにかく彼らを中に連れてきたのです。
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『悔い改めなくても大丈夫』という話ではありません。
聖書思想辞典によると、
洗礼によって一つの実を結ぶ悔い改めの行為は、一回限りのものであり、これを繰り返すことは不可能である。
ところが、洗礼を受けた者もふたたび罪に陥ることが可能である。
ちょっと笑ってしまいました。
福音書に語られる「悔い改め」の概念は、旧約時代にはもっといろいろな意味を持つ曖昧なものでした。
いくつもの単語がそれにあたるとされていますが、もっとも多く出てくるヘブライ語の単語の意味は、「道を変える」「引き返す」「立ち戻る」というものだそうです。
つまり、悪から遠ざかって神に向かう姿勢を意味し、「生き方を変えて生活全体を新しい方向に向ける」ということです。
福音書の並びは書かれた順ではありません。
おおまかな年表で表すと、
30 イエスの処刑
44 パレスチナ全土が再びローマの支配下に
64~67皇帝ネロによるキリスト教迫害
ペトロ、パウロがローマで殉教
66~70第一次ユダヤ戦争
70 マルコ福音書成立
エルサレム神殿が炎上し陥落
71~74ローマによりマサダなどが陥落
79 ベスビオ火山噴火によりポンペイ滅亡
80 ルカ福音書成立
85 マタイ福音書成立
マルコとルカの間の10年に、悲劇的な出来事が続いたことがわかります。
旧約の著者たちが、第一神殿の破壊、バビロン捕囚を自らの神への不誠実な行いが原因であり、「神に立ち返れ」と自分たちを律したように、ルカも「神を信じて悔い改めよ」と追記したのではないでしょうか。
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悔い改めなければ、告解しなければ罪は赦されない、と考えるよりも、
「しまった!」と思ったその日のうちに、すぐに軌道修正して、「神様に胸を張って生きる毎日を送りたい」というのが、今のところわたしがたどり着いた答えです。
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可愛い子どもたちの七五三の祝福がありました。
この子たちには「悔い」も「赦し」もありません。
素直にすくすくと、毎日を神様に守られながら育ってほしいと、心から願います。
コヘレトの空
「わたしたちの生活をコロナ前に戻す」といった発言を最近よく耳にします。
戻るのでしょうか。
全てが元通りになることを期待しますか?
聖堂中に聖歌の歌声が響き渡る日は、いつでしょうか。
この2年近くの間の日常、信仰生活も含め、確かにいろいろな制約がありましたが、悪かったことばかりではありません。
わたしの場合、かなりよく聖書を開くようになりました。
教会に行けない月日が長くあったので、ミサや行事風景をお伝え出来ませんでした。
ですので、ここを読んでくださる方ともっと聖句を分かち合いたいと思って取り組むようになりました。
それまで以上に、聖書に関係する本もよく読んでいます。
良かったこと、というと語弊があるかもしれませんが、人々が一堂に会したり、わざわざ遠方まで出向かなくてもオンラインでできることが多い、ということが実証されたことは、多くの方が納得されているかと思います。
実はわたしも、先月から大学のオンライン講座を受講し始めました。
以前でしたら、「学びたいけど平日の夕方に大学まで通うのは無理」と諦めていたでしょう。
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二人は一人に勝る。
もし一人が倒れると、その仲間が助け起こす。
二人が一緒に寝れば暖かい。
もし、襲われたとき、一人なら負けるが、二人ならともに立ち向かうことができる。
「三本縒りの紐は、たやすくは切れない」。
(4・9〜12)
コロナ禍にあって、友人や家族がどれだけ大切な存在であるか、わたしたちは痛感させられました。
頼ることのできる友人がいること、互いを心配し合う家族がいること、それがどれほどの幸せか。
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順境の日には喜び、
逆境の日には反省せよ。
あれも、これも、神のなさることである。
それは、将来、何が起きるか、人には見通せないからである。
(7・14)
明日のことを知る人はいません。
今を、毎日を大切に生きること。
日常の小さなことの中に喜びを見出し、自らの至らなさを素直に認めることができますように。
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あなたは正しすぎてはならない。
知恵がありすぎてもならない。
なぜ、自分で自分を滅ぼそうとするのか。
あなたは悪すぎてはならない。
愚かすぎてもならない。
自分の時がまだ来ないのに、なぜ、死のうとするのか。
(7・16〜17)
生きることは、自分一人の力でできることではないということを忘れてはいけないのです。
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あなたの生涯の空しいすべての日々の間に、
あなたは愛する妻とともに楽しめ。
神がこれらの空しいすべての日々を、
日の下であなたに与えてくださった。
それが、あなたがこの世にあって受ける分であり、
日の下で苦労するあなたが受ける分である。
(9・9)
わたしがこの世にあって「受ける分」、これは先日書いた主の祈りのことにも通じます。
わたしたちの日ごとの糧をお与えください。
日ごとの糧、生きていくのに必要な、わたしたちに神様から与えられた賜物のことです。
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あなたのパンを水の上に投げよ。
長い年月の後に、あなたはそれを見出すであろう。
あなたの持っている物を、七つ、否、八つに分けよ。
(11・1〜2)
寛大な施しは、後日、その報いを受けるだろう、という旧約の一般的な教えです。
施しに限らず、喜び楽しみも、人と分かち合うことでお恵みは7倍8倍になって帰って来た、という経験がわたしにもあります。
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コヘレトは言う。空の空。
空の空。一切は空。
(1・2)
紀元前250〜200の時代に書かれた、コヘレト。
人間が極端に走り、到達不可能な目的をいたずらに追求するのを諫めています。
ひたすら幸福だけを把握し続ける人間の空しい努力を否定します。
(フランシスコ会訳聖書の解説より)
「空」という言葉はヘブライ語で「へベル」といい、日本語の「空しい」という言葉の持つニュアンスとは厳密には開きがあるようです。
この本によると、「空」は「束の間」という意味が適切であろう、ということでした。
この本を読んで、久しぶりにコヘレトを読み返し、今心に留まった箇所を抜粋してみました。
間違いなく、2年前に読んだ時とは違った箇所がわたしを捉えました。
コロナ以前の生活に戻りたい、という人間の希望は「空」のように感じます。
わたしたちが求めるべきものは、そこではないと思うのです。
箴言30・7〜8も、コヘレトと同じようにわたしたちを諭します。
わたしは二つのことをあなたにお願いします。
わたしが死なないうちに、それをかなえてください。
わたしを不実と偽りから遠ざけてください。
わたしに貧しさも富も与えないでください。
ただ、わたしに割りあてられたパンだけで、わたしを養ってください。
この世で与えられた「束の間」を生きるわたしたちにとって、その生きる意味を見出すことは使命です。
コヘレトは「死」があるから「生」に意味があるのだ、と言います。
11月は死者の月です。
わたしも毎年、「死」についてよく考えを巡らせる月です。
今月は、特に今年天に召された方々のために、日々の祈りを捧げましょう。
スケープゴート
秋晴れの、美しい、気持ちの良い季節です。
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家のあちこちに、十字架、マリア像を置いています。
寝る前に祈るときも、小さな手の中に納まるサイズの十字架を握りしめています。
みなさんもそうではないでしょうか。
つい、お気に入りの十字架やマリア像の前で手を合わせて祈ってしまう、そういう習慣が身に付いている信徒は多いかと思います。
以前、ある神父様がお説教でおっしゃいました。
「イエスの十字架は、首から下げるダイヤモンドの入ったアクセサリーではない。」
教皇は訪問先のスロバキア東部プレショフで、十字架や(キリストの)磔刑像はしばしばキリスト教徒によって表面的に使用されていると講話した。
欧州では、東欧の複数の極右政党を含む多数の政党が、十字架を党旗やシンボルに取り入れている。
教皇は、多くのキリスト教徒が十字架を首にかけたり、家の壁にかけたり、自動車やポケットの中に持つなどしているが、実際にイエスとつながっていないと指摘。
「十字架上のイエスを見つめるために立ち止まり、キリストに心を開くのでなければ、何の意味があるだろう。
十字架を奉献の対象におとしめるのはやめよう。
ましてや、政治のシンボルや、宗教・社会的地位の表彰としてはならない」と述べた。
(9/14ロイター配信ニュースより)
スケープゴートという言葉をご存知でしょう。
簡潔にいうと「多くの人の罪を負わされた人」という感じでしょうか。
アロンは生かしておいたその山羊の頭に両手を押しあて、イスラエルの子らのすべての咎とすべての背き、すなわち、彼らのすべての罪をその山羊の上に告白し、それらをその頭に置き、係の者の手で荒野に送り出される。
その山羊は彼らのすべての悪を担って、不毛の地へ行く。
係の者はその山羊を荒れ野に送り出す。
(レビ16・21〜22)
最近はスケープゴーティング(罪を着せる行為、報道)が頻繁に目につく気がします。
例えば、音楽イベントの集客が多くお酒の提供もあった、と報道があると、「主催者」「参加者」「出演者」「許可した行政」=悪だ罪人だ、と囃し立て、「参加者に感染者が多く出たらしい」=「ほら見たことか、当然の報いだ」
すべてのことにおいて、このような考え方が蔓延ってきてはいないでしょうか。
以下、イザヤ書の53章を抜粋します。
彼は主の前で若枝のように、
乾いた土地の中から生え出た。
彼は、わたしたちの背きの故に刺し貫かれ、
わたしたちの悪の故に打ち砕かれた。
彼の上に下された懲らしめが、わたしたちに平和をもたらし、
彼の傷によってわたしたちは癒された。
わたしたちはみな、羊のように迷い、
それぞれ自分の道に向かったが、
主はわたしたちみなの悪を彼に負わせられた。
もし彼が自らを賠償の捧げ物とするなら、
彼は末永く子孫を見るだろう。
主の望みは彼の手によって成し遂げられる。
彼は、多くの者の罪を担い、
彼らの背きのために執りなした。
彼=scapegoat です。
彼=メシアのことを予言しているのだ、と当時の人々は捉えていました。
このイザヤ書に呼応する形で書かれたのが、ペトロの手紙の次の箇所です。
わたしたちが罪に死んで義に生きるため、キリストは十字架の上で、わたしたちの罪をその身に負われました。
その傷によって、あなた方は癒されました。
あなた方は、羊のように迷っていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方の元に帰ってきたのです。
(1ペトロ2・24〜25)
同時に理解しておきたいのは、イエス様は「大勢の罪人の罪を背負って死のう」と思っていらっしゃったわけではない、ということです。
イザヤ書の予言していた彼(メシア)はイエス様なのだ、と亡くなられてご復活された姿を見てようやく理解して納得した弟子たちが、「わたしたちの罪のために(代わりに)死んでくださったのだ!」と後になって言ったのです。
イエス様を信じる人が多くなり、このままでは祭司たちの尊厳が危うくなると危惧した大祭司のカイアファは、「一人の人間が民に代わって死に、国民全体が滅びないほうが、あなた方にとって得策である」と言ってイエス様を殺そうと決意しました。(ヨハネ11・50)
この考え方、代理死、贖罪死も、ある種のスケープゴート的なものでした。
わたしたちの信仰は、イエス様がわたしたちの罪の代わりに死んでくださったからではないはずです。
人々のために生き、小さき弱き者、虐げられた人々をも導き、自分自身には罪はなく正しい人であったのに、十字架につけられたのです。
十字架を身に纏うことで信仰が篤いと満足し、わたしたちの罪を担ってくださったイエス様はわたしたちの罪を赦してくださると自分勝手な理解をし、他人の罪を勝手に判定して「わたしは違う」と息を巻く。
そのようなキリスト者であってはならない、と最近とても考えています。
みなさまは、どう思われますか?
ミサもなく、教会で集って語り合えないこの日々、みなさまとこうしたお話もしたいのです。
隣人愛のかたち
4回目の緊急事態宣言となり、久留米教会も教区の決定に則り、公開ミサが中止となりました。
「宣言には意味がない」という意見があるようですが、そのように不満を抱いてもなにも状況は変わりません。
わたしたちはいま自分にできることを粛々と、そして、感染しない・させない対策を徹底的に行うのみです。
そんな中、パパ様のお言葉がまた心にとまりました。
神は、日々生じる問題から、私たちを解放するために来られるのではありません。
愛の欠如という本質的な問題から、私たちを救うために来られます。
愛の欠如は、私たちの個人的、社会的、国家間、また環境の問題の根本原因です。
自分のことしか考えないことは、すべての悪の始まりなのです。
God does not come to free us from our ever-present daily problems, but to free us from the real problem, which is the lack of love.
This is the main cause of our personal, social, international and environmental ills.
Thinking only of ourselves: this is the father of all evils.
8/17教皇フランシスコ Twitter
夏の甲子園、2回戦を目前に辞退した宮城県代表の東北学院の主将のインタビュー、お聞きになりましたか?
監督と選手たちの話し合いで、「感染した人のことはみんなで守ってあげようという話があった」と報道されていました。
高校生のことばです。
わたしたち大人も、彼らを見習い、恥じない言動をとらなければならないなと身が引き締まる思いがしました。
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何度も書いていますが、今回もお伝えしたいことです。
◆「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」
(マタイ7・12)
この教えは、姪たちが小さいころから彼女たちにも度々言い聞かせてきました。
「おなじように、自分がされたくないことは人にしてはいけないのよ。」とも。
この黄金律は、イエス様の時代よりずっと以前から、ユダヤ人の間で律法全体の要約として語られていたことでした。
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◆「あなた自身にとっていやなことは、あなたの隣人に対してもしてはならない。
それは律法全体であって、あとのものはそこから推し計られるものにすぎない。」
◆「あなたの隣人を裁いてはならない。あなた自身が隣人の立場にならないためである。」
◆「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」
これらもすべて、福音書に書かれる遥か昔からユダヤ人の間では格言として知れ渡っていたことばでした。
イエス様も、黄金律はモーセの律法の要約だと考えていたようです。
◆「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」
(ㇾビ19・18)
古いアラム語の訳では「あなたの隣人を愛しなさい。あなたを不快にさせることはどんなことでも、隣人にしてはならない!」となっているそうです。
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そのとき、ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
(マタイ22・34~40)
イエス様はユダヤ人であり、ユダヤ教の教えのもとに育ち、暮らしておられました。
福音書に記されている教えの重要な箇所からも、イエス様が旧約の教え、律法をとても大切にされていたことが分ります。
黄金律と隣人を愛することの戒めは、その最たる例でしょう。
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隣人愛の実践に尽くし、「これはキリスト教に限った教えではなく、遥か昔からの格言なのよ」と、わたしたちが周りの人にも伝えていくのです。
何かが変わっていくかも、という希望を持って。
少しずつ、秋の気配が。
自分なりの実り
毎年、8月になると台風が接近し、猛暑を少し和らげるという自然の営み。
地球が温暖化しているとはいえ、このサイクルが日本の季節を作っていることには驚きます。
被害がなければ良いのですが、台風がいくつか通り過ぎてくれると、過ごしやすい夏になります。
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もしも無人島に何か2つ(ひとつではない)持っていけるとしたら?
わたしは迷わず、聖書とワイン一箱(一本ではない)を選びます!
聖書を選んだのは、何も真面目で敬虔な信者だからとかではなく、純粋に読むのが面白いからです。
聖書とワインさえあれば、退屈することはありません。
旧約にはぶどうの木、ぶどう園のたとえが数多く語られています。
それに呼応するように、新約でもぶどうに関する記述があります。
旧約には直球で「飲み過ぎ注意!」という記述も結構あるのですが、多くは「役に立たない、神に背いたものの象徴」「実を結ばなければ価値のないもの」として語られます。
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詩篇80のタイトルは「荒らされたあなたのぶどう園を元どおりに」
あなたはぶどうの木をエジプトから移し、異邦の民を追い出して、これを植えられました。
あなたは前もって地を整え、その木を根づかせ、生い茂らせました。
万軍の神よ、立ち返ってください。
天から見下ろし、目を留めて、このぶどうの木を顧みてください。
(9〜10、15)
BC722年のアッシリア軍侵攻による北イスラエル王国滅亡の直前の自分たちを、ぶどうの木にたとえています。
イザヤ書5章のタイトルは「ぶどう園の歌」
さあ、エルサレムに住む者とユダの人よ、わたしとわたしのぶどう園の間を裁け。
ぶどう園になすべきことで、わたしがしなかったことがまだ何かあるか。
わたしは善い実が結ぶのを期待したのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
まことに、万軍の主のぶどう園とは、イスラエルの家。
主が喜んで植えられたのはユダの人。
(3〜4、7)
イザヤという人はユダ王国の貴族で、エルサレムに暮らしていたとされています。
北王国イスラエルが南王国のユダに攻め入った戦争とその後のアッシリアのユダ侵略が背景にあるのが、本人が書いたとされる第一イザヤ(1〜39章)です。
エゼキエル書15章のタイトルは「無用のぶどうの木」
人の子よ、ぶどうの木はほかの木、すなわち森の木々の間に生える木の枝より優れているだろうか。
その木で何かを作ろうとするだろうか。
それでものを掛ける木釘が作れるだろうか。
それどころか、薪として火にくべられるだけである。
その両端は火で焼き尽くされ、その芯は黒焦げになる。
それが何かに役立つだろうか。
そのままの時でも役に立たないのに、火に焼け、黒焦げになってしまえば、いったいなんの役に立つというのか。
(2〜5)
先ほどのイザヤ書の箇所と同様に、イスラエルが神に背き続け、不忠実であったことへの神の裁きを表現しています。
このように旧約では、救いようのないぶどうの木を神が見放した=エルサレムの崩壊、が語られ、ひたすらに「神に立ち返ること」の重要性が書かれてます。
一方で、新約におけるぶどうの木のたとえは「苦しみのシンボル」であると同時に、「希望の象徴」でもあります。
ヨハネ15章のタイトルは「イエスはまことの〈ぶどうの木〉」
わたしはぶどうの木であり、わたしの父は栽培者である。
わたしにつながれていて、実を結ばない枝はすべて、
父がこれを切り取られる。
しかし、実を結ぶものはすべて、もっと豊かに実を結ぶように、
父がきれいに刈り込んでくださる。
わたしのうちに留まっていなさい。
そうすれば、わたしもあなた方のうちに留まる。
ぶどうの枝が木につながれていなければ、枝だけで実を結ぶことはできない。
それと同じように、あなた方も、
わたしのうちに留まっていなければ、実を結ぶことはできない。
わたしはぶどうの木であり、あなた方は枝である。
人がわたしのうちに留まっており、わたしもその人のうちに留まっているなら、
その人は多くの実を結ぶ。
(1〜5)
できない、ダメなことだけでなく、どうすれば実のるか、どうすれば多くの実を結ぶことができるかが書かれているのが新約のイエス様の言葉なのです。
わたしたちは、この言葉に象徴されるような信仰心を日々鍛えることが必要だと思います。
実を結ぶ、それぞれにとってその意味は違うかもしれません。
わたしにとっての実りとは、
1番大切に思っている家族のためによりよく生きること。
1番大切にしている教え「何事につけ、人にしてもらいたいと思うことを、人にもしてあげなさい。」を努めて毎日行うこと。
自分なりの実を豊かに結ぶことのできるよう、日々を大切にしたいと思っています。
余談:ワインといえばフランス、というイメージの方が多いかと思いますが、イスラエルの北部は肥沃な土地で、ワイン栽培が盛んです。もちろん今でも多くのワイナリーがあり、とても美味しいワインを作っています。
カルメル山という名前はへフライ語で「神のぶどう園」という意味です。
買ってきたコーシャーワイン(ユダヤ人のみが栽培から収穫、瓶詰めまで全ての工程を行なったワイン)が我が家にまだありますが、現地で飲むのとはやはり味わいが違います。。。
イスラエルが恋しい!
聖書とは
「聖書の中で好きなストーリーはなんですか?」
そう質問されて、何か物語を思い描き、人にそれを話し聞かせることができますか?
「聖書には何が書かれているのですか?」
そう質問されて、読んだことのない方にわかるように、シンプルな言葉で説明できますか?
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モーゼとアロンの物語が好きで、最近このオペラをよく聴いています。
わたしの好きな作曲家シェーンベルクの作品です。
元旦のミサで読まれる、祭司による祝福の箇所です。
主はモーセに次のように告げられた、「アロンとその子らにこう言え、『あなたたちはイスラエルの子らをこのように祝福して彼らに言え、
〈主があなたを祝福し守ってくださいますように。
主があなたの上にみ顔を輝かせ、顧みてくださいますように。
主があなたにみ顔を向け、平安を与えてくださいますように。〉』。
(民数記6・22〜26)
旧約聖書で1番古い「祝福」に関する文言だそうです。
わたしが好きな物語の一つである、ヤコブが兄のエサウから長子の祝福を奪い取った話がありますが、この物語にあるように祝福は一度与えられたら人間が撤回することはできない、とされています。
ある方は、ヨセフの物語が好きだとおっしゃってて、スラスラとストーリーを話されていました。
最初の質問。
「聖書の中で好きなストーリーはなんですか?」
「聖書には何が書かれているのですか?」
実話や神話が書いてある聖なる書物、ではなく、
聖書は「人間とは何者か」ということが書かれている本だ、と教わりました。
一冊の書物ではありません。
さまざまな時代や思想を反映して書かれた、そして加筆修正を繰り返し、その時代に応じてアップデートされた、神と人の関係についての記述を収めた名作集です。
実際に、聖書を読んでいると随所にそのことを感じることができます。
少なくともミサに与っていれば毎週、新旧の聖書を読んでいるのですから、聖書とは何が書かれている書物なのかを人に話せるといいですよね!
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毎週のごミサでの共同祈願、いつも思うのですが、「あ!そうそう、そう思っていた!!」という言葉が書かれています。
「そうなんだ、やっぱりそうだよね。」
いつもそう思います。
⭐︎ 自己の価値観を人に押し付け、敵意と分断をあおるような社会の中の動きを退け、神のみ心にかなう平和を実現することができますように。
⭐︎ 苦境にあえぎ、心のよりどころを見失っている人々を顧みてください。
神のいつくしみによる安らぎと新たな希望で支えられますように。
そして、今日の宮﨑神父様のお説教の中の言葉。
「神の働きに信頼し、希望を失った人々に希望を与えられる存在でいるように。」
なんのために毎週ごミサに与っているのか熟考できる、とても充実した日曜日でした。
日々の中のみ言葉
大谷翔平さん、藤井聡太さんの立ち居振る舞い、人との接し方や受け答え方を見ていると「どんなご家庭で育ったのだろう。きっと素敵なご家族なのだろうな。」と思ってしまう、ファンの一人です。
昨日のミサの聖書と典礼の最後のページに、「イエス様の支えは、彼を信仰と愛を持って育て彼の品性を養った家族、母マリアと養父ヨセフの日常にあった」ということが書いてありました。
どのような環境でどのような人に囲まれて育ったかは、身体に染み込んで行き、人格を形成する最も重要なことなのだと、2人の爽やかな青年を見るたびに感じます。
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今月のパパ様カレンダーのことばにハッとさせられました。
他者に向かって自分を開くことは、決してわたしたちを貧しくしません。
むしろ豊かにします。
なぜなら、そうすることでわたしたちはより人間らしくなるからです。
自分を開くことは、わたしにとってそう簡単ではありません。
相手が望むように、自分が意図したとおりに気持ちが通うことの難しさを感じます。
それでも、あまり深く考え過ぎずに、素直な大人でいたいと思っています。
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「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
わたしは弱いときにこそ強いからです。
(2コリント12・9〜10)
この、有名で、感動的な、一度は実体験の中で痛感したことのあるであろうことば。
わたしは30年前の大病を患った時と、10年前に母が亡くなった時、このことばに救われました。
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たとえ、わたしが人間の異言、み使いの異言を話しても、
愛がなければ、
わたしは鳴る銅鑼、響くシンバル。
たとえ、預言の賜物があり、
あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、
たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、
愛がなければ、
わたしは何ものでもない。
たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、
たとえ、賞賛を受けるために自分の身を引き渡しても、
愛がなければ、
わたしには何の益にもならない。
(1コリント13・1~3)
このことばも、有名で、とても身につまされるものです。
偽善的であってはならないと言い聞かされます。
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わたしは死の影の谷を歩む時でさえ、災いを恐れない、
あなたがともにおられるから。
(詩編23・4)
影ができるということは、そこに光があるから。
死の向こうに光がある。
神が共にいてくださるという確信に満ちた詩です。
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神の業に目を凝らせ。
神が曲げられたものを、
誰がまっすぐにすることができようか。
順境の日には喜び、
逆境の日には反省せよ。
あれも、これも、神のなさることである。
それは、将来、何が起こるか、
人には見通せないからである。
(コヘレト7・13~14)
コヘレト、大好きです。
どこを読んでも、「もう、おっしゃる通りです!!」と言いたくなります。
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相反する、時には敵対する相手であったとしても 、教皇様のおっしゃるように、平和という目標のために共に希望を持って祈ることができるのです。
わたしたち一人ひとりが平和の光を発する存在であるよう、日々の中にあるみ言葉を見逃すことなく生きていかなければなりません。
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今年ももう半分が終わりました。
ごミサで宮﨑神父様がおっしゃったように、この半年の信仰生活を振り返り、半年後のクリスマスの自分を想像してみましょう。
今日いくつかここに書いた言葉は、日々の生活の中で出会い、手帳に書き留めておいたものです。
その時は「わかりました。そうであるように努力します。」と思ったはずなのに、、、、の繰り返しです。
でも、まだ半年あります。
「今年もお恵み溢れる一年でした。ありがとうございました。」
そう、締めくくれるように日々を大切にしていきたいものです。
今を生かす
初夏の陽気の中、皆さんとの久しぶりのごミサでした。
神学生、侍者も揃ってのごミサは清々しいものです。
ご聖体をいただくとき、「今週もこの共同体の一員としての働きをすることを誓います」と祈ってみました。
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昨日の第一朗読の知恵の書のことばは、とても考え深いものでした。
神が死を造られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。
生かすためにこそ神は万物をお造りになった。
世にある造られた物は価値がある。
滅びをもたらす毒はその中になく、陰府がこの世を支配することもない。
義は不滅である。
神は人間を不滅な者として創造し、御自分の本性の似姿として造られた。
悪魔のねたみによって死がこの世に入り、悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。
(知恵1・13~15; 2・23~24)
生かすために造られた。
フランシスコ会訳の聖書では、
「神は万物を存続させるために造られた。
この世に生じたものはすべて益となり、」
となっています。
旧約聖書には「天国」と言う概念はないそうです。
天国、つまり「死後の幸せ」という考え方が確立されたのはヘブライ思想の中間時代(旧約と新約の間の時代)なのだと本で読みました。
時はBC2世紀、シリアの支配下にあったユダヤ教徒たちの過酷な迫害の時代です。
多くの殉教者を出した当時のユダヤの人々の中で、信仰のために殉教した人々はかならず復活し、その死は他の者に救いをもたらすのだ、という思想がその当時に生まれたのだそうです。
この復活信仰が、その後の新約時代を通してイスラエルの民の間に根付いて行ったと考えられています。
聖書の中で最初にこの考え方が表現されたとされているのは、次のダニエル書の一説です。
多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
目覚めた人々は大空の光のように輝き、
多くの者の救いとなった人々は
とこしえに星と輝く。
(ダニエル12・2~3)
続く13節にはこうあります。
お前は最後までお前の道を行き、憩いに入りなさい。
その時の終わりに、定められた分を受けるために、お前は立ち上がるであろう。
「立ち上がる=復活」のことです。
大きな苦難に遭遇していた中間時代の人々は、ヤハウェが全世界の支配者であり全能唯一の神であるという考えに至り、同時に、天国、復活と言う希望ある信仰をも発達させたのです。
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私たち現代人にとっても、今のこの時代を「苦難」と捉えるか「誰かのせい」と不満を並べて日々を漫然とやり過ごすか。
どういった成果を生み出せるかどうかは、わたしたちの今の生かすかどうかで変わると思います。
生かすために造られたわたしたちとこの時代が、何を生み出すのか。
わたしたちには知りえない、遠い未来への遺産となるでしょう。
できることなら、「あの時代に生まれたのがこの思想である」という良きものを後世に残したいものです。
混沌から平安
今年はとても早い梅雨の季節となりました。
自然の営みには驚かされます。
我が家でも、はやくも紫陽花がとても美しい。
(知ってたのか?!もう自分の季節が来たことを!と思わず口にしたわたし。)
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初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
(創世記1・1~2 新共同訳)
聖書のこの有名な出だしの一文は、地の混沌とした状態は神の創造行為の後にできたように理解されています。
しかし、現在のヘブライ聖書学者たちは「神が天地を創造され始めた時、世界は混沌であった」という訳を支持しているそうです。
つまり、『混沌からの創造』であり、全ての物事は神に抗うことのできる自由意思を持つのだ、と言うのです。
たしかに、なるほどだからこんなに人間とは成長しない愚かな存在なのだ、、、とも思えてきます。
良きものとして創造されたのに、自由意思をはき違えてしまう歴史を繰り返す生きものです。
先月からのイスラエルの、まさに混沌とした、戦争ともいえる民族間の争いに心が苦しくなります。
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聖書学者の本多峰子さんによると、プロセス神義論では「この世にある悪や人間の苦しみを神ご自身が自己のうちに感じ、神が人間の苦しみを共に担って共に苦しんでいると考える」のだそうです。
神義論とは、簡単に言うと「神が全能であるならなぜこの世に悪や悲惨な出来事があるのか」ということを突き詰めて、神の義を証しするものです。
とても興味のある問題であり、本多峰子さんの論文などをいろいろと読んでみましたが、結局「結論の出ない学問」であると言えるものです。
少し乱暴な言い方になりますが、「悪や災害、苦難の責任が神にあるのか?!」という問いには「とんでもない」と、信仰のある者であればそう思えるのではないでしょうか。
それでも、あまりにも悲惨な体験をしたりやり場のない感情に押しつぶされると、「どうしてですか?」「神はいないのか!」という気持ちになるのは当然でしょう。
神様のせいにしたら、少しは気が晴れるでしょうか。
そうですね。
神様はわたしたちの気持ちに応えて寄り添ってくださるので、少しは気が晴れます。
ですが、誰かのせいにしたら、気持ちが軽く楽になるでしょうか。
誰かを非難したら、問題が解決したり前進するでしょうか。
そういう気持ちになりそうになった時はいつも、混沌とした世の中の安易な波にのみ込まれないように、心の平安を求めて周囲にも良い香りを漂わせたいと思うようにしています。
先日お話したあるご高齢の神父様がおっしゃっていました。
「わたしたちは、こんなに愚かな国民性ではなかったはずだ。
今のニュースを見聞きしていると悲しくなる。」
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「神様、どうか混沌とした現在の世の中と人々の心を静めてください。
わたしたちの今日が、他者を非難することではなく、聖霊のとりなしを願う1日となるようお導きください。
世界中が一致協力してひとつの問題解決に取り組めるよう、指導者たちにより良い英知をお与えください。」
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フィリポはナタナエルに、メシアと会ったことを伝えます。
その友は「ナザレから何かよいものが出るだろうか」といって、信じようとしません。
フィリポはことばを重ねて説き伏せようとはせずに、「来て、見なさい」といいます。
ナタナエルは行って、見ます。
そのときから、彼の人生は変わります。キリスト者の信仰はこうして始まるのです。
伝聞ではなく実体験で、じかに得た情報として伝達されるのです。
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。
わたしたちは自分で聞いて、分かったからです」――イエスが滞在した村の人々は、後にサマリアの女にそういいます。
この時代においても、社会生活のあらゆる場面で、商業においても政治においても、いかに中身のない弁舌が氾濫しているかを考えてみましょう。
主よ、教えてください。
自分の内から出ること、
真理を求めて歩き出すことを。
来て、見るよう教えてください。
聞くこと、
偏見を深めぬこと、
結論を急がぬことを、教えてください。
だれも行きたがらないところへ行くこと、
理解するために時間をかけること、
本質的なものに目を向けること、
うわべだけのものに惑わされぬこと、
真理とそれと見まごうものとを識別することを、教えてください。
あなたがこの世におられることに気づけるよう、恵みを注いでください。
見たことを人に伝えるために欠かせない、誠実さをお与えください。
教皇フランシスコ 5/9世界広報の日のメッセージより抜粋
わたしがお伝えしたいと思っていることを、いつも明確なメッセージとして発してくださる教皇様です。
今日も心に平安を。
わたしたちに平和と一致をお与えください。
2021をよりよく生きるために
聖堂の横の庭園スペースに、新しく石碑が据え置かれたことにお気づきになりましたか?
イエスのみこころにささげられた久留米教会
教会を訪れる人がそのことをいつも思い起こせますように。
キリスト教は3世紀前半まで、まったく政治利用、権力利用されていませんでした。
エルサレムの神殿が起源70年に壊されてほとんどのユダヤ人のディアスポラが始まるまでは、宗教とさえ認められていません。
なぜならローマ帝国は「新宗教」を認めていなかったからです。
キリスト教はユダヤ教の分派と理解されていました。
それからの歴史のいろいろな経緯で、西欧キリスト教文化という今の「近代世界」のベースができたのです。
これは、竹下節子さんのブログに書いてあったことばです。
今では欧米のほとんどの国が、何らかの形でキリスト教の歴史の上に形成されているのは、そう考えると不思議なことにも思えます。
そう。
現在わたしたちが信じていること、生きているこの世の中は、長い長い歴史と葛藤と不思議なことの積み重ねでできているのです。
いまから何年経ったら、コロナウィルスの蔓延とアメリカ大統領選挙の混乱がもたらしている現状が歴史に意味をもたらすでしょうか。
そう考えずにはいられない、2021年の始まりです。
わたしたちの歴史に刻まれるであろうこの2つの出来事にも、政治的、宗教的な権力闘争、利害の対立があります。
示されているはずの教訓を人々(わたし)が実際に受け止めるのはずっと先のことのように感じています。
理想とする連帯、実際には分断
思いやりと希望、現実には批判と非難と不安
わたしたち人間の弱さと愚かさを毎日見聞きし、実際に自らがその悪魔にとり憑かれることを体感する日々。
なぜ協力できないのか。
なぜ批判ばかりするのか。
そう言いながら、他者を非難する。
この悪循環を今年は断ち切りたい。
わたし自身のこと、わたしの決意ではありますが、多くの方も思い当たることはないでしょうか。
何事にも意味があります。
歴史上、人間は多くの過ちをおかしてきました。
その都度、もとに戻すのではなく軌道を変え、価値観を新たにし、示された意味を理解しようと努めてきたはずです。
洗礼を受けている、というお恵みを忘れてはいけないときです。
2020年は良いことがなかった、と感じている方が多いかと思います。
2021年はよりよく生きていきたい、そう思っています。
聖書に落ち着きを見出したい。
そう思って、無作為にページを開いて読むことにしました。
(昔からそうしています。
今週の朗読箇所を読む、読み方ではなく、あえて無作為に開いてみるのです。
そうして開いて読んでいくうちに、求めていた言葉に出会えた時の喜びは格別です。)
嵐における主の栄光
神の子らよ、主に帰せよ、
栄光と力を主に帰せよ、
み名にふさわしい栄光を主に帰せよ。
主を拝め、聖なる方の現れる時。
主の声は水の上。
栄光の神は雷鳴をとどろかされる。
主は果てしない水の上。
主の声には力があり、
主の声には威厳がある。
主の声は杉の木を砕き、
主はレバノンの杉を打ち砕く。
主はレバノンを子牛のように、
シルヨンを若い野牛のように躍らせる。
主の声は火の炎をひらめかす。
主の声は荒れ野を震わせ、
主はカデシュの荒れ野を打ち震わせる。
主の声は雌鹿をのた打ち回らせ、
森を裸にする。
その神殿ですべてのものは「栄光あれ」と言う。
主は洪水の上に座し、
主は王としてとこしえに座られる。
主はご自分の民に力を与え、
主はご自分の民を祝福し平安を与えてくださる。
(詩編29)
荒れ野と乾いた土地は歓喜し、
荒地は喜び、花を咲かせる。
水仙のように花を咲かせ、
まさに喜びに喜んで歓呼し、
レバノンの栄光とカルメルとシャロンの威光がこれに与えられる。
彼らは、主の栄光、
わたしたちの神の威光を見る。
弱った手を強くし、
ふらつく膝をしっかりさせよ。
心に不安を抱く者たちに言え、
「強くあれ、恐れるな。
実よ、お前たちの神を。
報復が、神の報いが来る。
ご自身が来られ、お前たちを救ってくださる。」
その時、見えない人の目は開かれ、
聞こえない人の耳は開けられる。
その時、足の不自由な人が鹿のように跳ね、
口のきけない人の舌が喜び叫ぶ。
荒れ野には水が、
荒地にも流れが湧き出る。
焼けつく砂地は池に、
乾いた土地は泉となり、
かつて山犬が伏した棲処に葦やパピルスが生える。
永遠の喜びが彼らの冠となり、
喜びと楽しみが彼らに追いつき、
悲しみと溜息は去る。
(イザヤ35)
聖書を開きましょう。
宮﨑神父様がいつもおっしゃっています。
もっと聖書を身近な存在にしてみるのです。
難しく考えなくてもよいのです。
聖書にもっと親しむことによって、自分に与えられているお恵みに気づき、抱えている不安の解決の助けとし、今本当に必要なことを見極める知恵を呼び覚ましましょう。
☆神の音楽の音を出してくれるハーモニーである聖書
☆相違なる音から一つの救いの音声を放つ聖書
☆一面に花の咲く平原である聖書
☆神からの手紙
☆人間の故郷である天国からの手紙である聖書
初代教会の教父たちは、聖書をこう表現したそうです。
聖書を読んだことのある人はほとんど例外なく、この書物の中に何か大切なことがあると言います。
ある人は判断や行動の基準となるものを見出し、
ある人は人生を精神的に豊かにするものを求め、
病んだ心を癒してくれることば、正しく導いてくれることばを探し出す。
優れた文学や偉大な哲学書として読む人もいるでしょう。
人々は聖書にいろいろな仕方で近づいており、そのいろいろな読者の関心に幅広く答える不思議な書物である、と和田幹男先生はおっしゃっています。
2021年はいつも聖書をそばに。
自分の中に見るユダ
15日のごミサの中で、七五三の子どもたちのお祝いがありました。
子どもたち、なんて可愛いのでしょう。
毎週会っている子たちなので、成長の様子をこうして見られることで幸せと喜びを感じています。
ただいま、絶賛 聖書週間中(11/15~22)です。みなさま、聖書を開いてみてください。
イスカリオテのユダについては、ずっとわたしの中でくすぶっているテーマの一つです。
12使徒のひとりとして数えられ、イエス様をわずかな額の銀貨で売り渡したとされるイスカリオテのユダ。
彼は本当に救われないのか、考えてみたことがある方は多いのではないでしょうか。
カール・バルトの『イスカリオテのユダ』の中から、バルトの考えにわたしが共感した個所をご紹介します。
ジョット Kiss of Judas
バルトはまず、ユダがイエス様の使徒であったという事実を強調しています。
また、「ユダがイエスを裏切った」という言葉の「裏切った」にあたる単語は、もともと「引き渡す」というほどの意味である、といいます。
イエス様は逮捕されるときに、密告者が必要なほど隠れていたわけではなく、バルトによればユダは銀貨で「引き渡した」のだ、と。
ヨハネの福音書13章には、ユダの裏切りの予告の場面につづきペトロの否認の予告が書かれています。
ユダがイエス様を「引き渡した」ことと、ペトロが「3度イエスを知らないと言う」ことは、罪としてどちらかは赦されるというような類のものなのでしょうか。
「あなた方のうちの1人がわたしを裏切ろうとしている」とイエス様がおっしゃったとき、弟子たちは皆「非常に心配して」「主よ、まさかわたしではないでしょう」と尋ねるのです。
ここについてバルトは、誰でもがその裏切り者でありうるし、ありえたのだ、と言います。
さらには、捨てられた人間はユダの中に自分自身を再認識しなければならず、ペトロは自分がユダと連帯責任があることを知るべきだ、と。
自分の中のユダ、ユダの中の自分を認識してみなさい、ということなのでしょう。
そうして初めて、捨てられた者としての自分が救われる福音を、本当の福音として受け止めることが出来るのです。
実際にわたしたちは、日ごろの少しの時間の祈りと、少しばかりの献金と主日のミサに与ることで、イエス様を信じるキリスト者として救いにあずかろうとしているのです。
大変興味深かったのは、ユダの使徒職を実質的にはパウロが継いだのだ、という見解です。
使徒言行録1・15~26によれば、ユダのあとを埋めたのはマティアという人ですが、パウロは迫害者であったのに選ばれて使徒となったのだ、つまり、最初はユダのようにイエス様に敵対していたにもかかわらず使徒とされたのだ、と言います。
ユダの棄却こそがイエス様が担った棄却であり、パウロの選びこそがイエス様の選びなのだ、と。
若松英輔さんの「イエス伝」にはこう書いてあります。
さて、ユダが出ていくと、イエスは仰せになった、
今こそ、人の子は栄光を受けた。
神もまた人の子によって栄光をお受けになった。
わたしは新しい掟をあなた方に与える。
互いに愛し合いなさい。
わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。
ヨハネ13・31~34
ここで語られた「愛」の掟からどうしてユダが除外されなくてはならないだろう。
ユダはイエスが自ら選び、近くに暮らした弟子のひとりである。
使徒として権能を与えられた者である。
「新しい掟」によればむしろ、弟子たちにとってのユダは、最初に愛を注ぐべき隣人になったはずだ。
裏切りをすべてユダに背負わせるように福音書を読む。
そのとき人は、「姦通の女」に石を投げつけようとしている男たちと同じところに立っている。
バルトの結論は、ユダがイエス様を売り渡し、自らの運命を自分でさばく自殺という手段をとったために彼の救いを確信することはできないが、それでも、彼のように捨てられた者こそ真の救いを必要としているのだからユダの救いという希望は捨てていない、ということです。
イエス様の言葉です。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう、罪を犯してはならない」
(ヨハネ8・11)
煉獄と天国
死者の月です。
みなさんも、天国にいる大切な人のことを想い、日々祈りを捧げていらっしゃることでしょう。
「死について黙想し、周囲の亡くなられた方が永遠の命に招かれるように祈ることは、私たちがよりよく生きることに繋がります。」
宮﨑神父様が以前、ごミサでおっしゃった言葉です。
信者の友人と話していた時、彼女がこう言いました。
「親が亡くなった時も、悲しくて悲しくて、という感じはなかった。
だって、この世の生活のほうが苦行のようだもの。
辛いこと、大変なことが多いし、なんで私ってこうなんだという自己嫌悪、そんな苦行のようなこの世よりも、天に召された第2の人生のほうがずっと素晴らしいはず!と信じてるから。」と。
彼女は信仰があるからそういうのではなく、素直にそう思っている様子でした。
カトリックでは、死後はすぐに天国へ直行するのではなく、煉獄に行くとされています。
ですが、わたしは母が亡くなった時「できることなら、スーッと天国にお召しください」と祈りました。
頭では煉獄にまず行くとわかっていた(習ったからそう理解していた)のですが、できれば天国に直行させてあげたい、と。
「亡くなった人は神様の元へ行ったのだから、何も心配することはありませんよ。」
ある神父様からそう言われ、とても心が軽くなりました。
神様の元、とは天国のことでしょう?!
母が亡くなって9年になりますので、もうとっくに煉獄から天国へ移動していると信じています。
煉獄とはなんでしょうか。
福音書にはその単語やその存在について明確な記載はない、と山田昌先生の本に書いてありました。
以下、山田先生の著書「アウグスティヌス講話」の内容から少し書いてみます。
イエス様とともに十字架に架けられた2人の強盗のうちの1人は、イエス様から「今日、あなたは私とともに楽園にいるだろう」と言われました。
イエス様に罪を告白し、同じ十字架の死を受け入れ、一緒に直ちに天国に上ったのです。
だが、このような人は少ないのではないか。
償うべきものを完全には償いきれないまま人は死ぬ。
そこで、煉獄という発想が生まれた。
煉獄は、生前に償いきれなかった罪の償いのために行く場所である。
そう書いてありました。
聖書には明確な記載はないのですが、山田先生によればその根拠とされている箇所が2つあるそうです。
①マタイ12・31~32
だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。
人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。
この箇所を教父たちは、天国に直通する人と地獄に直通する人の間に、この世においては許されないけれど来たるべき世において許される人がいるはずだ、と解釈したのです。
その来たるべき世とは終末の時を待つ場所であり、そこが煉獄なのだ、と。
②1コリント3・10~15
わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。
この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。
だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。
ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
わたしの土台の上に建てた者はいったんは火をくぐり抜けてきた者のように、試練をへた後に救われるであろう、ということです。
「火をくぐる」=つまり浄化を意味しています。
キリストを信じる者が完全に救われるためには、その前に火によって試され、浄化されなければならない。
その魂の火による浄化の場所が煉獄である、と教父たちは解釈したそうです。
煉獄にいる魂は非常に苦しんでいるけれど、その苦しみは絶望の苦しみではなく、希望を内に含んでいるのだ、と山田先生はおっしゃいます。
そういう魂にとって、ただひとつの慰めは祈りである、と。
だから、生者が死者のために祈ること、祈りによって煉獄の魂を助け、その魂が一刻も早く煉獄の火を通過して天国へ行くことが出来るように祈ること、それがキリスト者の大事な務めとなったのです。
どうでしょうか。
解釈も、納得も、それぞれのお考えに委ねます。
わたしはここまで読んでも、あまりスッと納得できなかったのですが、次の箇所で少し心が軽くなりました。
本の原文のまま記載します。
現在のわれわれの生のなかで、天国も地獄も煉獄も、ある意味で既に始まっているように思われます。
この世界は天国と地獄の混同した世界であり、最も煉獄に似ているように思われます。
この世の中にはいろいろな嫌なことが沢山ある。
外からも苦しめられるが、それだけでなく、内からも苦しめられる。すなわち、自分自身が自分を苦しめるたねとなる。
丁度、煉獄の魂が火によってあぶられ、苦しみもがいているように、この世では一人一人の人間が既に生前において、苦しみの火によってあぶられている。
この世が既に煉獄なのです。
この世は苦しいことにみちている。さながら煉獄である。
しかし、地獄であるとはいわない。
なぜならこの世は苦しいけれども希望があるからです。
この世で受けるさまざまな苦しみを、試練として、あるいは浄化として捉えることができるならば、この世は煉獄となる。
そのように苦しみを受け取るならは、苦しみの中に希望が出てくるからです。
あるいは、逆かもしれない。
希望があるからどんな苦しみも試練として耐えることができるようになるのでしょう。
そしてこの希望を与えてくれるものが信仰であると思います。
お御堂のなかで、天使が舞い踊っていたように感じました。
マグダラのマリアの存在
死者の月、今年は特に、新型コロナウィルスによって命を落とされた多くの司祭、医療従事者のために祈りを捧げたいと思います。
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マグダラのマリアについて、皆さんはどのようなイメージをお持ちでしょうか。
フランシスコ教皇は、お説教の中で彼女のことを「希望の使徒」と呼ばれました。
福音書には、イエス様が十字架に磔にされるのを見守り、埋葬される際に立ち合い、そして復活したイエス様に最初に出会った重要な女性として登場します。
またそこには、多くの婦人たちがいて、離れたところから見守っていた。
彼女たちはガリラヤからイエスに従ってきて、イエスに仕えていた人たちである。
その中に、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、およびゼベダイの子らの母がいた。
(マタイ27・55~56)
ヨセフはイエスの体を受け取って、清らかな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓に納め、その入り口に大きな石を転がしておいて、立ち去った。
そこにはマグダラのマリアともう一人のマリアが、墓に向かって座っていた。
(マタイ27・59~61)
さて安息日が終わり、週の第一日が明け初めるころ、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に来た。
み使いは婦人たちに言った、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのであろうが、その方は、ここにはおられない。かねて仰せになったとおり、復活された。」
婦人たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去ると、弟子たちに知らせるために走っていった。
すると、イエスが彼女らの行く手に立っておられ、「おはよう」と声をかけられた。
彼女たちは近寄って、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
(マタイ28・1~9抜粋)
マグダラのマリアは、イエス様の遺体に香油を塗ろうと香油壺を持って行った際にイエス様の復活を目の当たりにするというエピソードから、絵画に描かれる際には香油壺がアトリビュートとされています。
また、『イエス様の一番近くにいる女性』として描かれるのも彼女です。
ルカの8・1~3には、イエスに仕える婦人たちのひとりとして描かれています。
「彼女たちは自分たちの財産を出し合って、一同に奉仕していた」という記述は、男性に仕えていた、という意味ではなく、男性たちと同様にイエス様に仕えていたのだ、と聖書百週間で教わりました。
ヨハネでは、復活したイエス様が彼女に現れたとき「マリア」と呼び掛けられる様子が感動的に表されています。
(ヨハネ20・16)
以前もご紹介したことのある、ジェームス・ティソのこの珍しい構図の絵(十字架上のイエス様の視点から描かれた磔刑図)でも、十字架の真下に描かれているのはおそらくマグダラのマリアです。
カラバッジョの「キリストの埋葬」では、ヴェール姿の母マリア様の横に描かれています。
そして今日、ご紹介したいのはこの映画。
『Mary Magdalene』マグダラのマリア
近年の小説や映画では、彼女は実はイエス様の妻であったというストーリーで描かれることもあり、聖書を読んだことがない方の中にはそう信じている人も少なくないのかも、、、、。
この映画では、マグダラのマリアはガリラヤ湖畔からエルサレムまでの道中も(後ろから付いてくる婦人たちの一人ではなく)十二使徒と並んで共にイエス様に従い、重要な役割を担う使徒の一人、いやむしろパウロの右腕のように描かれています。
福音書の記述では「5000人の群衆の空腹を満たした」際も女性と子どもはカウントされていませんので、男性ばかり12人を『使徒』としたとも考えられます。
マグダラのマリアが男性使徒と同等の存在であったかどうかはともかく、彼女が使徒たちにそのご復活を知らせる役割を担ったため、初期キリスト教父たちから「使徒たちへの使徒」(the Apostle to the Apostles) と呼ばれていたのは事実です。
この映画は、福音書の記述通り(わたしたちの理解の通り)に描かれていない場面も多いのですが、イスラエルの風景、当時のユダヤ社会の生活と風習、イエス様の葛藤と苦悩、弟子たちの人間性、マグダラのマリアの静かでありながらも力強い存在がとても丁寧に表現されています。
秋の夜長の映画鑑賞にぜひ。
イエスに出会うまで悪霊にとりつかれていた(ルカ8・2参照)この女性は、今や「新しく偉大な希望の使徒」となっています。
彼女の取り次ぎと助けによって、わたしたちもこのような体験をすることができますように。
苦しみと無関心がはびこるこの世界で、名前で呼んでくださる、復活したイエスに耳を傾け、出かけて行って「わたしは主を見ました」(ヨハネ20・18)と告げ知らせることができますように。
教皇フランシスコ、2017年5月17日一般謁見演説
キリスト教的希望に関する連続講話より
もう一本!という方は、↓こちらもとてもお勧めです!!
(百人隊長の視点で描かれたイエス様の復活(Risen=起こされた)が描かれています。)
貧しいこと、幸いなこと
久留米教会の秋の風景です。
『心の貧しい人は幸いである』
このことばにはかなり深く広く解釈できるために、正しく理解されていない場合があるように思います。
わたしも、以前書いたように、ガリラヤ湖畔で自分のこととして捉えるまでその真意を誤解していました。
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旧約のなかにも「幸い」という単語は多く使われています。
ヘブライ語で「アシュレー」と言い、本当に幸いに生きている人に感動した時の言葉として、8割近くが詩編と箴言に使われているそうです。
「アシュレー」だと呼ばれている人は、神のとの関わりの中にある人を表現しています。
いかに幸いなことでしょう
背きを赦され
罪を覆っていただいた者は。
(詩編32)
心の貧しい人々は幸いである
天の国はその人たちのものである
Blessed are the poor in spirit,for theirs is the kingdom of heaven.
(マタイ5・3)
心の貧しい、という箇所は直訳すると「霊において貧しい」となるそうです。
フランシスコ会訳の聖書では
「自分の貧しさを知る人は幸いである。」となっています。
「霊を用いて、貧しく生きている」と言う意味にも解釈できるそうです。
例えば、アッシジのフランチェスコにように、神の霊によって貧しい生活を選んで行く生き方を見出すことのように。
イエス様はアラマイ語で語られていたのですが、福音書はギリシャ語で書かれています。
貧しいと訳されている単語「プトーコイ」と同意義で使われている旧約の単語は、有力者に圧迫されて貧しい、と言う意味なのだとか。
わたしが目を留めるのは何か。
それは貧しい人、心砕かれた人であり、わたしの言葉を畏れ敬う人。
(イザヤ66・2)
貧しい人々は幸いである
神の国はあなたがたのものである
Blessed are you who are poor,for the kingdom of God is yours.
(ルカ6・20)
マタイでは「心の」貧しい人々、そしてマタイは「神」という言葉を避ける傾向が強いので「天の国」となっています。
ルカでは「あなた方のもの」と二人称になっているのに対し、マタイは旧約の流れを汲んで「その人たち」という三人称を使っています。
マタイとルカの違いは、イエス様をどう見ていたのか、つまり「わたしにとってのイエス様とは誰なのか」を書いている点にある、と雨宮神父様のお話にありました。
「霊において貧しい者」とも「物質的に貧しい者」とも解釈できる、イエス様の言葉の広さと深みの表れなのだ、と。
現代社会において「心の貧しい人々」は幸いでしょうか。
幸いであると神様から言われたいけど、心が貧しい人ではありたくない、と思うのが普通の感覚かもしれません。
ですが、自分が心の貧しい者である、と気づくことが出来ることは大切なことなのだと思うのです。
自らの足りないところ、人への接し方、信仰生活の乏しい結果としての言動など、ガリラヤ湖畔で風に吹かれながらわたしが感じたのはそういう「自分の貧しさ」でした。
もちろん、それらは克服できていなくて、いまでもしょっちゅう「あ~、わたしって心が貧しい、、、」と反省することばかりです。。。
そして、気づけて良かった、気づけて幸いだった、と。
その繰り返しです。
心の隙間とゆとり
先週は東京に行っていました。
そのため、昨日のミサは自主クアランティンで欠席しました。
2週間教会に行けないことで、今感じているのは心に隙間が空いたような、空虚な感覚です。
都会で過ごした1週間、時間の流れが全く違うことに改めて驚きました。
静かに祈る時間が取れない、というか、祈ることを忘れてしまうような速さで時間が流れていきました。
久留米に戻って聖書を手にして、詩編を読みたい。
ずっとそう思っていました。
詩編103をじっくり読んでみました。
主は憐みに満ち、恵み深く、
怒るに遅く、慈しみに溢れておられる。
主は永遠に責めることはなさらず、
とこしえに怒り続けられることはない。
主はわたしたちの罪に従ってわたしたちを扱わず、
わたしたちの咎に従ってわたしたちに報いられない。
アンダーラインを引いた箇所は、神の主体性を感じさせる表現です。
神はいないようで存在している、ということを感じさせてくれます。
飛行機から見る空は、本当に美しい。
神が存在しない、とは思えません。
天が地より高いように、
その慈しみは、主を畏れる者が考えるよりも遥かに大きい。
東が西から遠く隔てられているように、
主は、わたしたちの罪をわたしたちから遠ざけられる。
父が子を憐れむように、
主はご自分を畏れる者を憐れまれる。
主は、わたしたちの造られた有様を知り、
わたしたちが塵にすぎないことを思われる。
人の日々は草のようにはかなく、
その栄えは野の花のように短い。
風がその上を通り過ぎると跡形もなく、
その場所さえ知る由もない。
この箇所は、わたしたち人間が神と出会うために弱くはかなく造られたことを感じさせる表現です。
人は存在しているようでないもの、ということを感じさせてくれます。
分厚い聖書を手に取ってお気に入りの箇所を読むことで、今感じているのは心にゆとりが出来たような、満ち足りた感覚です。
心の隙間は、大事なことです。
心のゆとりは、必要なものです。
隙間をいつも気にかけながら祈り、聖霊が神様との執り成しをしてくださるようにそこに入ってきてもらうのだ、とパパ様の本で読みました。
自分にゆとりをもって他者のために祈ることができれば、その謙虚な心からの祈りは神によって受け入れられるのだ、とパパ様の本に書いてありました。
何をどう言おうかと心配してはならない。
言うべきことは、その時に示される。
というのは、語るのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる父の霊だからである。
(マタイ10・19~20)
立派な信仰とはどのようなものでしょうか。
立派な信仰とは、傷をも伴う自分の物語をたずさえ、主の足元に置き、いやしてください、意味を与えてくださいと願うものです。
だれもが、自分の物語をもっています。それは必ずしも清い物語とは限りません。
往々にして、多くの痛み、悲しみ、罪を伴う困難な物語です。
教皇フランシスコ、2020年8月16日「お告げの祈り」でのことばより
心に意味のある隙間を保ち、心にゆとりをもって生活できることのお恵みを噛みしめています。
霊的読書のすすめ
教会の手入れされた庭ではいつも、季節を感じさせてくれる植物がわたしたちを出迎えてくれます。
空の雲、草花の色から季節を感じられることは、幸せなことだといつも思います。
読書の秋、とよく言われますが、みなさんは本を読みますか?
いつ読みますか。
どのような本を選びますか。
デジタル社会で、スマホで漫画を読む人も多いようですが、それでも次々と新書が発行されていることをみても、実際に紙の本を買い求めて読むわたしのような人がまだまだたくさんいるのです。
本を選ぶポイントは、私の場合はこのような感じです。
◆心の養いとなる
◆できるだけ実話に基づいている
◆信仰生活の道しるべとなる
本棚に並べるのは「また読みたい本」「人に薦めたい本」と決めています。
ヘンリ・ナウエン神父様は、
「霊的な読書とは、私たちの内側と外側の生活における神の霊の働きを、心の目で注意深く読むことです。
霊的な読書を毎日15分でもいいので続けていくことによって、自分の頭がゴミ箱のようになることは減り、反対に、よい思いによって満たされた花瓶に変えられてくることが分るでしょう。」
とおっしゃっています。
究極の霊的読書は、やはり聖書を読むことでしょう。
わたしは、4年かけて聖書1冊を学ぶ聖書百週間を経験したことで、聖書の面白さにすっかり魅了されてしまいました。
(本来は100週間=2年と少しで終了するようプログラムされているのですが、神父様の転勤などもあり、4年もかかりました!)
聖書百週間とは、指導役の神父様と信徒10数名のグループで、決められた割り振り(例えば今週は出エジプト記の1章~4章、来週は5章~8章、と黙示録まで割り振られている)に沿って進めます。
事前に読み込んできた結果感じた感想や疑問を、全員が発表し分かち合います。
疑問を晴らすことは目的ではなく、全員が意見を言うためにしっかりと予習して発表することが大切です。
自分一人で聖書を読むだけでは得られない、深まりと広がりを感じることができるのがこのプログラムの魅力です。
全部読み切ったらイスラエル巡礼へ!という目標を掲げ、(意見を発表しなければならないので)毎週真剣に聖書を読んでいました。
最近は、今週の聖書朗読から目に留まった聖書の箇所を開くという読み方です。
宮﨑神父様がいつもおっしゃるように、その前後も読むようにしています。
いつも、この↓ページで朗読箇所を通読しています。
http://www.m-caritas.jp/reading.html
霊的読書、なにも聖書や高尚な本ばかりを読む必要はないのです。
自分にとって、生きていくうえで糧となる、癒しとなる、救いとなる、そういう読みものに出会えることはそれだけでお恵みです。
お薦めのサイトは、教皇様の謁見などでのお話を翻訳して掲載してくれるカトリック中央協議会です。
だれにでも容赦なく襲いかかるウイルスに立ち向かう中で、わたしたちの信仰は、人権侵害を前にして、真剣に積極果敢に無関心と戦うよう駆り立てます。
この無関心の文化は、使い捨ての文化も伴っています。自分に関係のないことには興味がないということです。
信仰はつねに、個人的であれ、社会的であれ、利己主義から離れ、回心するよう求めます。
利己主義の中には、集団的な利己主義もあります。
人間家族の一員であることの意味に改めて目を向けられるよう、主が「わたしたちの視力を取り戻して」くださいますように。
その視力が、あらゆる人への共感と敬意に満ちた具体的な活動、共通の家を気遣い、守る活動のために活かされますように。
https://www.cbcj.catholic.jp/2020/09/15/21208/
お薦めの雑誌は ↓ これです。
異邦人であるということ
異邦人、という単語は聖書を読んでいると度々出てくるのですが、聖書の中での意味は「イスラエルの民ではない人々」を指しています。
日本に暮らしていると、両親が日本人である、という人が多いため、移民や難民、多国籍の人々の暮らしに疎くなります。
つまり、「自分とは成育環境が違いすぎる人々」を『異邦人』として精神的に(無意識に)排斥してしまっていると自分で感じることがわたしには度々あります。
第106回「世界難民移住移動者の日」教皇メッセージに呼応して出された、日本の2020年「世界難民移住移動者の日」委員会メッセージからの抜粋です。
教皇フランシスコは、今年のメッセージの中で特に国内避難民について触れています。
難民とは「国境の外に出てきた人」と定義されていますが、現代の日本にも多くの「国内避難民」が存在しています。すでに日本で生活しながら、さまざまな理由で家を失い避難している人びとです。
非正規滞在となり、長期間入管施設に収容されている人、仮放免されても家が無い人、野宿を強いられている人、「ネットカフェ難民」と呼ばれる人。
マタイ15章の21~28が読まれました。
イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
この福音にあるように、それまでのイエス様は神から離れていったイスラエルの民への救いを第一に考えていたのです。
イエス様に食い下がったカナン人(異邦人、と言っても、パレスチナの先住民)の女の「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」「主よ、どうかお助けください」という切実で誠実な願い、そして、自らを主人の食卓から落ちるパン屑をいただく小犬にたとえるという謙遜な態度に、イエス様が心を動かされ、その娘の病気を癒すのです。
『人間的情感が交わされるこのエピソードは、万人に向けられる福音のもつ意味を温かく感じさせる。』
『イスラエル中心の宣教意識が、復活を通してすべての民への宣教という意識に発展しているともいえる。
このように、マタイの叙述に従って見ると、イエスにおいて「すべての民をわたしの弟子にしなさい」いう意識が顕在化し、明確に告げられるようになるために、宣教活動の中での個々の人たちとの出会いが作用していったともいえる。
イエスの救いのみわざは人々との出会いと交わりを契機として生き生きと展開されていくのが福音書である。』
『 』内は聖書と典礼を発行しているオリエンス宗教研究所のホームページより
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2020/st200816.html
回心しないイスラエルの民の不忠実さと頑なさ、王や神殿祭司の愚かさを、そしてシナイ山の契約のような石の板ではなく「彼らの心に記された新しい契約」を預言者としてはばからずに述べたエレミヤ。
わたしはエレミヤを、当時の王政社会において衝撃的であったという点で異邦人だと考えます。
解放の神学を唱えた当時の聖職者たちもしかりです。
そして、イエス様こそが当時の社会における異邦人の最たる存在であったのではないでしょうか。
イスラエルだけでなく「すべての民」へ、その教えを広めるよう意図されていたイエス様。
この世における最後には、それまで従っていた人々や弟子たちも離散してしまい、見放されたイエス様。
近現代においては、異邦人でなかった人はいないのではないでしょうか。
根強い人種差別問題を抱える欧米で、その祖先が移民でなかった人はどのくらいいますか?
そうしたことに思いを馳せていて考えてみると、現在の社会における異邦人とはだれを指すのかという問いが浮かびます。
それは、教皇フランシスコ様がおっしゃっているように「忘れられた人々」なのです。
誰からも気にかけてもらえず、社会の周縁に追いやられた、孤独な、希望を持つことを忘れてしまったような人々、それが現代の異邦人です。
イエス様の時代、「律法に十分かなっていること」が最重視されていたため、人間関係にかかわる資質のなかで「あわれみ」は許されていませんでした。
あわれみを表現するギリシャ語《スプランクニゾマイ》には、他者の感情や状況を自分のはらわたが受け止めるという意味があります。
飼い主のいない羊のような、周縁に追いやられた人々へ、もっともそのあわれみを示されたイエス様のみこころに思いを寄せてみましょう。
詩編で祈る
12日の第一朗読と答唱詩編にハッとさせられました。
まことに、天から雨や雪が降れば、地を潤し、これに生えさせ、芽を出させ、
種蒔く者に種を、食べる者に糧を与えずに、天に戻ることはないように、
わたしの口から出る言葉は、わたしが望むことを行い、
わたしが託した使命を成し遂げずにむなしくわたしに戻ることはない。
(イザヤ55・10~11)
あなたは地を訪れて、潤わせ、それを大いに豊かにされました。
天の水路には水が満ちています。
あなたは彼らに麦を用意されました。
あなたはこのように大地を整えられました。
畝間を豊かに潤し、土塊をならし、夕立で大地を柔らかにし、
芽生えたものを祝福されました。
(詩編65・10~11)
恵みの雨を降らせてくださる神に感謝する祈りの詩編です。
今この時だからこそ、この詩編を祈りとして唱えることが必要だ、と感じました。
黙想会に参加すると、(安易な表現ですが)心も身体もデトックスされたような気持ちになります。
「さあ、静かなところへ行ってしばらく休みなさい。」
マルコ6.31
黙想の家を、英語ではRetreat House(リトリートハウス)といいます。
Retreatには「退く」と言う意味があります。
日常生活からひとまず退き、離れ、独りになって静かに祈りの時を持つ。
そして、こころに語りかける神のことばに耳を澄まします。
(カトリック福岡黙想の家 ホームページより抜粋)
「詩編で祈る」 というテーマでの黙想勉強会に参加しました。
詩編についてこれほど深く考えたのは初めての経験でしたし、詩編が「使える」ことに目からウロコでした!
聖書は神から人への語り掛けですが、唯一詩編だけは、人間が神に語りかけている言葉、詩です。
自分のなかに渦巻く様々な思い、怒り、嘆き、痛悔、あるいは信頼、感謝、賛美といった思いを、神様に向かって、詩編にのせて「注ぎ出す」ことで、神様との関係が循環し、生き生きと生きることが出来るのです。
人間のあらゆる思い、それらを偏らずに祈ることによって、自分の心という畑をまんべんなく深く耕し、肥沃なものにしていくことができるのです。
神様には何を言っても大丈夫なのです。
怒りに任せて、祈りかどうかもわからず、不安や不満をぶちまけることさえも受け止めていただけます。
詩編には「嘆きの詩編」「怒りの詩編」などと呼ばれている詩があります。
たとえば、あなたが今苦難を抱えていて嘆き悲しんでいるとしたら、その詩編(ex.102)に乗せて嘆き抜いてみるとよいでしょう。
嘆きの詩編102は、こう神に語りかけます。
不幸なものが心挫け、その憂いを主の前に訴える時の祈り。
主よ、わたしの祈りを聞き入れ、
わたしの叫びをみ前に至らせてください。
わたしの悩みの日に、あなたの顔を隠さず、
わたしに耳を傾け、わたしが叫び求める日に速やかに答えてください。
(1~3)
父が子を憐れむように、主はご自分を畏れる者を憐れまれる。
主は、わたしたちの造られた有様を知り、
わたしたちが塵にすぎないことを想われる。
人の日々は草のようにはかなく、
その栄えは野の花のように短い。
風がその上を通り過ぎると跡形もなく、その場所さえ知る由もない。
しかし、主の慈しみは主を畏れる者の上に、とこしえからとこしえに。
(13~17)
このポケットに入るサイズの祈りの本は、数年前の御復活祭の時にプレゼントでいただいたものです。
バッグに入れて持ち歩き、ふとした瞬間に開くだけでお祈りが出来るという優れものです!
嘆いて嘆いて、嘆きの底までたどり着いて、その底に足がついたら蹴り上げて上昇するのだ。
底までいかずに途中で上昇しようとすると、中途半端な気持ちのままに嘆きがくすぶり続ける。
嘆きたいときは、神に嘆き尽くすほうがよい。
黙想を指導してくださった神父様がおっしゃっていました。
詩編65の恵みの雨に感謝する詩は、この水害の時だからこそ、唱えなければならないと思うのです。
雨は本来、神からの大地への、わたしたちへの恵みなのです。
そのことを、災害時には忘れてしまいます。
雨を、恵みとして降らせてください。
被災された方々に一日も早く心の平安をお与えください。
そう祈りたいと思います。
祈りに求めるものは何でしょうか。
「安らぎ」が得られる祈りができることは、喜びでしょう。
ご自分のもとに来る者を「休ませて」くださると、イエスは言います。
キリストが疲れた者、重荷を負う者に与える「安らぎ」は、単なる心理的な慰めでも、施しでもありません。
それは、福音を知り、新しい人類の構築者となった、貧しい人たちの喜びです。
イエスご自身があたえる喜び、それが安らぎです。
(7/5 教皇フランシスコのお説教より)
神様からの質問
ミサが再開されて3週間。土日3回の主日のミサはいずれも100名前後の参列者です。
第2朗読の一説に心を惹かれました。
実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
(ローマ5・14)
神様がアダムとイブ、カインに質問をされている場面は、わたしたちに対する問い掛けと読むと面白いものです。
神様はアダムに質問されます。
「あなたはどこにいるのか」
アダムは答えます。
「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」
「あの女が、木からとってくれたので、(仕方なく)食べたのです」
神様はイブに問い掛けます。
「あなたは、なんということをしたのです」
イブは答えます。
「へびがわたしをだましたのです。」
2人とも、人のせい(へびのせい)にしています。
カインに質問されます。
「弟アベルはどこにいますか」
カインは答えます。
「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」
今でいう、逆ギレのようです。
「なぜ神様はアベルの捧げものを好まれたのでしょうか」と2人の神父様に質問してみました。
おひとりの神父様のお答えは、
「コヘレトにあるように、神の思いを知ろうとしても無駄。
人の考えることと神の考えはかけ離れているのだ。
納得できないこと、理不尽なことは世の中に多くあるものです。」
もうお一方の神父様のお答えは、
「昭和天皇に園遊会で、『陛下、こちらのカインさんがお持ちになったのは精魂込めて作られた新種の米でございます』とお米を献上したら、陛下が『ほぉ、どのような品種改良をされたのですか?』と興味を示される。
次に『陛下、こちらはアベルさんで、最高級の肉をお持ちになりました』、陛下は『あっそ』。
そんなもんです。相手がこちらの期待通りに反応するとは限らないのが世の常です。」
面白い例え話だと思いませんか!?
アダムとイブは神の禁じた実を食べ、楽園を追放されました。
そして、2人の息子を産み、一心不乱に働きますが、弟は兄に殺され、兄は遠くの地に追放されます。
アダムとイブは2人の子どもを一度に失うのです。
その子はさらに、親たちの住む土地からも、神に追われます。
神に対する不従順と傲慢の結果です。
三浦綾子さんの本に、こう書いてありました。
「あなたはどこにいるのか」という問いは、永久に神が人々に問い続けている言葉である。
「あなたはどこに立っているのか」
「あなたの立場はいったいどこなのか」
「何に属しているのか」
という問いだ。
「わたしはいつも神の前に立っています」
「わたしは救い主キリストに属しています」
と、いつ、どこででも、誰に対しても明確に答え得るものは幸いである。
アダムとイブのように、神を避けて、隠れていてはならないのだ。人間はなぜ神に答え得ないか。
それは答え得ぬ生活をしているからである。
来住英俊神父様の本にはこう書いてあります。
「お前はどこにいるのか」神は知っているはずです。それでも質問するのはなぜか。
世々にわたって人間たちがこの質問に答えるためです。
私は結局、いま、どういう状態にあるのか、ということです。
折に触れて、「お前はどこにいるのか」という質問を神から受けて、自分の人生、いま到達している地点について思いをめぐらすことが大事なのです。
誰に対しても「キリストに属しています」と答えるのは難しいですが、「信仰をもって生活しています」と言うことはできるのではないでしょうか。
「信仰を持っていてよかった」とおっしゃるご高齢の方の言葉を何度も聞いたことがあります。
わたしも将来、そうありたいと思ったものです。
神はどこに?
もう、紫陽花の季節になりました。
わたしたちの新しい生活が進むにつれ、季節も神様が与えられたその時を知っていて、前に進んでいるのですね。
「神はどこにいるのか」という問いは、人類がこれまで繰り返し問うてきたように思います。
特に、困難な時代、戦争、大規模な自然災害の際には、神はどこに?とつい思うのが人間でしょう。
神がそれらの困難を引き起こしているのではない、我々人間の仕業、傲慢な生活の末に我々自身が引き起こしているのだ、ということについては以前ここに書きました。
今日は、違う視点から考えてみます。
モーセは荒野の山の麓で、燃える柴の中から神の声を聞きます。
「わたしの民イスラエルの子らをエジプトから導き出せ」 (出エジプト3・10)
「わたしは必ずお前とともにいる」 (3・12)
「わたしは『ある』ものである」 (3・14)
「これは永遠にわたしの名、これは代々にわたってわたしの呼び名である。」(3・15)
古代の神々には、名前があるのが普通でした。
黄泉の神イシス、太陽の神ラー、嵐の神バアル、などです。
ですからモーセは、あなたの名前を教えてください、と言ったのでしょう。
その答えが「わたしは『ある』もの」とは、なんと面白い答えでしょう。
(ちなみに、共同訳聖書では「私はいる、という者である。」)
英語の聖書では、 "I am who I am." となっています。
今回読んだ本で初めて知ったのですが、原典の古代ヘブライ語には過去形、現在形、未来形という考え方は存在しないのだそうです。
著者によると、「ある」の部分は「あるだろう」となるのだというのです。
「わたしはあるだろう、わたしがあるであろうように」
と訳するのが妥当なのだと。
「ある」というなら、(さらに言えば、共同訳の「私はいる」ならば)神はすでに「存在している」ことになります。
ですが、「あるであろう」となると、「将来あるだろう」「いつか姿を現すだろう」、つまり「今はまだいない者」となるのです。
「わたしは今はいない。
だが、いつか出てくるだろう。
わたしがあろうと望んだ時に。
あるであろう者、それがわたしの名」
わたしたちは神様を「存在」としてとらえようとするとき、「神はどこに?」と考えているのです。
神様は「時間」のなかに姿を現されるのだ、というのがこの著者の考え方です。
神様は自分の好きな時に、好きなところで、好きなようにわたしたちに触れてこられるのです。
人間が、好きな時に自分の都合で神様を引っ張り出してきて「どこに?」というから、「求める時にいない」などと思ってしまうのでしょう。
神様は「体験」する対象なのだ、と目からうろこでした。
ところで、 水を入れた容器の中心に強力な磁石を入れると水が左右へと分かれる現象が生じることを、『出エジプト記』のモーセにちなみモーゼ効果 (英語で Moses Effects) とよばれていると、ご存じでしたか!?
「神様がわたしの肩に触れてくださった」ような気がした、ガリラヤ湖畔を歩いた日を思い出しています。
去年は、夏にイスラエルに巡礼に行くことが出来、秋にはパパ様のごミサに与ることができ、神様の愛を全身に浴び続けた日々を過ごしていました。
今年は、教会に行くことができず、仲間たちと集まって教会の行事の準備をすることすら出来ない日々が続いています。
だからと言って、今はなかなか「神様を感じられない」なんてことはありません。
神様は、今日、今という時間にもわたしたちに触れてくださっているのを感じるようになりました。
教会に行けないから、ミサに与れないから、感覚が鋭くなっているのかも?!
「愛」にまつわる言葉
「愛」「愛する」という言葉は、口にすると少し気恥しい気がしますが、最近いくつかの「愛」にまつわる言葉を目にしたので、書いてみたいと思います。
5/17「世界広報の日」にあたっての教皇様のメッセージの一文です。
わたしたちを造り、救ってくださった愛を思い起こすなら、日々の物語の中に愛を差し込むなら、日常の筋書き〔横糸〕をあわれみで織るなら、そのときわたしたちは、ページをめくっているのです。
主とともに、ほころびや裂け目を修繕しながら、いのちの織物を再び織り上げることができるのです。
パパ様のメッセージはいつも愛に満ちていて、読んでいて涙が溢れそうになります。
1コリント13章は、パウロの愛の賛歌とでも言えるもので、とても好きな箇所です。
たとえ、わたしが人間の異言、み使いの異言を話しても、
愛がなければ、わたしは鳴る銅鑼、響くシンバル。
たとえ、預言の賜物があり、あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、
たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、
愛がなければ、わたしは何ものでもない。
(13・1~3)
「その時」引き続き残るのは、信仰、希望、愛、この三つ。
このうち最も優れているのは、愛。
(13・13)
フランシスコ会訳聖書の解説にはこうあります。
「愛」はあらゆる「特別な恵み」(カリスマ)に本質的に伴うものであり、「愛」がなければ、賜物はそれを与えられて行使する人にとって無意味なものになる。
「愛」は「信仰」「希望」とともに人を神と直接に結び付けるが、この2者にさえも勝るものである。
昨日の聖書朗読はヨハネの福音書でした。
「わたしの掟を自分のものとし、それを守る人、その人は、わたしを愛する者である。
わたしを愛する者は、わたしの父に愛される。
わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現す。」
(ヨハネ14・21)
さらに15章には、
父がわたしを愛してくださったように、わたしもあなた方を愛してきた。
わたしの愛のうちに留まりなさい。
(15・9)
ドン・ボスコの言葉です。
「若者たちを愛するだけでは十分ではない。
若者たちに『愛されている』とわからせることが必要だ」
信頼関係を築き、若者の生きづらさを取り除くには「愛する」だけでは不十分で、それを分かってもらえる努力をしなければならない、ということだそうです。
竹下節子さんの本にはこうありました。
「愛する」とは愛する「相手をリスペクトすること」と、「相手のためにだけとってある時間や場所があること」とが組み合わさったものである。
誰かを愛するというのは、自分の生きる努力の中に、スケジュール帳の中に、心の中に、愛する人のためにだけ取り出せる「空き」があるということだ。
だから、「自分は愛されている」と子どもたちにわかってもらうには、言葉だけでは十分ではない。
子どもたちに必要とされるときに、いつも応える用意があることを伝えること、全身全霊を投入して世話したり本気でともに遊んだりすることが必要だ。
もう一人、竹下さんと同様にわたしが尊敬する若松英輔さんの言葉です。
神が私に愛を注いでくれるということは、
この世界全体の根源である神が、私自身を肯定してくれていることに他ならない。
そして、神から肯定されているという事実を受け入れることによって、
自己を自分自身によって肯定することができる。
これが自己愛の出発点になる。
(これは、わたしの手帳に書き留めてあります。)
一方で、信仰についての心打たれる表現を見つけました。
1998年のヨハネ・パウロ2世の教書の中の言葉です。
「信仰と理性は、人間の精神が真理の黙想へと飛翔するための二つの翼である」
わたしの今日の結論は、パウロの言葉に行きつきます。
最後に残るのは、信仰、希望、愛、この三つ。
最後にもう一文、世界広報の日のパパ様メッセージより。
聖書は、神と人間との壮大なラブストーリーです。
その中心にはイエスがおられます。
イエスの物語は、神の人間への愛を完成させ、同時に、人間の神へのラブストーリーも完成させます。
是非、全文を読んでみてください。