行事風景
ローマ教皇の役割
17日のごミサでは、七五三お祝いがあり、子どもたちが祝福を受けました。
この様子は毎年、子どもたちだけでなく、信徒みんなの楽しみでもあります。
子どもたちが豊かなお恵みを受けながら、幸せいっぱいの中で健やかに成長してくれることを願わずにいられません。
ローマ教皇をわたしたち信徒は親しみを込めて「パパ様」と呼びます。
元は、ギリシャ語の「パパス」に由来しています。
今でも神父様をファーザーと呼ぶことからわかる通り、もともとは「教父=パパ」とはすべての司教様の通称でした。
グレゴリウス1世が教皇の尊称と定めたのだそうです。
教皇にはいろいろな呼び名が他にもあります。
他教会に対して首位性を主張するために、「使徒ペトロの後継者」と称していた時代もあります。
ローマ司教、ヴァチカンの国家元首でもあるのです。
2015年の統計によると、カトリックの司教は世界中に5304人、40万人以上の司祭、20万以上の教育施設、10万以上の病院、養護施設などの福祉施設があり、その最高責任者が教皇様です。
「神のしもべのしもべ」=servus servorum
サービスする人にサービスする人、という言い方もあります。
「最高の大祭司」=Pontifex maximus
最高の天と地の架け橋、という言い方も。
これは、創世記28・10にあるヤコブの夢、天と地がつながる階段を上り下りする天使たちのあの夢に由来する表現です。
ヨハネ1・51にあるとおり、十字架を通じて神と人間がつながる、その架け橋の最高の人が教皇なのです。
「よくよくあなた方に言っておく。
あなた方は、天が開けて神の使いたちが人の子の上に昇り降りするのを見ることになる。」
シャガール Jacobs' Ladder
フランシスコ教皇は、どんどん教会の外に出て行くべき時代であると若者を鼓舞しています。
ツイッターにも「教会は布教によっては成長しない。アトラクション(引き付ける力)によって大きくなるのだ。」とおっしゃっています。
改革を促すような形での布教は他者の在り方を否定して別の在り方を強要するもので、
福音を伝える宣教というのは他者がいるところに加わることなのだ、ともおっしゃっています。
キリスト者は「心理の所有者」ではない。
「真理の奉仕者」なのだ、と。
今回のパパ様の来日にも、いろいろな意味が込められていることでしょう。
被爆地、長崎を訪問してくださることもその一つです。
わたしたちに何をお話ししてくださるでしょうか。
いよいよ、24日です!
人生を支える言葉との出会い
フランシスコ教皇の紋章のモットー
“Miserando atque eligendo” (憐れみ、そして選ばれた)
選ばれたとはいえ、聖書には「憐れみ、」という言葉はありません。
イエスはさらに進み、マタイという人が収税所に座っているのをご覧になり、呼びかけられた。
「わたしに従いなさい」。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
マタイ9・9
この紋章の言葉は、聖ベーダ・ヴェネラビリスの説教の言葉から取られているそうです。
聖ベーダは、七世紀末から八世紀初めにかけてのイングランドの碩学の司祭で、
ギリシャ・ローマの古典を駆使し、天文学、物理、数学、音楽、哲学、修辞学、医学の文献に通じ、百科全書のような人でした。
聖べーダは聖書解釈の業績でも知られていて、使徒マタイの召命のエピソードについて、イエスがただ「私に従いなさい」とひとこと言ってマタイが職場を離れてついていった、というシーンを、「イエスは徴税人(マタイ)を見つめ、『憐れみ、そして選ばれ』、わたしについてきなさいと言った」と解釈して表現したのです。
(竹下節子さんのブログより参考)
カラバッジョ「マタイの召命」
フランシスコ教皇は17歳の年の聖マタイの祝日にこの言葉に出会ったのだとか。
聖書に限らず、人生において大切に思える言葉との出会いをされたという方は多いのではないでしょうか。
第二バチカン公会議の教会憲章11にはこうあります。
「すべてのキリスト信者は、どのような生活条件と身分にあっても、
各自自分の道において父自身が完全に持っている聖性に達するよう主から招かれている。」
使徒的勧告「キリストは生きている」にパパ様が書いていらっしゃいます。
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「召命」という語は、神からの呼びかけとして、幅広い意味で解しうるものです。
それは、命への招きも、ご自分との友情への招きも、聖性への招きも含む、さまざまなものを意味します。
これは貴重なものです。
わたしたちの生涯全体を、わたしたちを愛してくださる神の真正面に据え、
意味のない混沌の産物であるものなど何もないこと、
すべてのものが、わたしたちのために素晴らしい計画を用意してくださる主にこたえる道へと組み込まれるはずであると、わたしたちに理解させてくれるからです。
この2つは、今のわたしにとって、暗記して毎日復唱したいくらいの言葉です。
10日の聖書朗読にも、心が揺さぶられました。
どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、わたしたちを愛し、
永遠の励ましと素晴らしい希望を、恵みとして与えてくださったわたしたちの父である神が、
あなた方が善い業に励み、善い言葉を語るときいつも、あなた方の心を励まし、強めてくださいますように。
2テサロニケ2・16~17
今月は死者の月です。
各々、身近な大切な方が神様の下で過ごされているでしょう。
わたしは、特に母が、地上のわたしたちと神様とのとりなしをしてくれているので、
こうして素晴らしい言葉や教会の人々との出会いの恵みが与えられている、と信じています。
死者のために祈りましょう。
イエス様に「恋する」
久留米教会の敷地では、いつも美しい神様の愛を感じることができます。
27日のごミサでは幼児洗礼式が執り行われ、3名の子どもたちが受洗しました。
子どもたちの目がキラキラしていました。
嬉しい光景です。
8月に出版された新しい使徒的勧告「キリストは生きている」には、とても生き生きとした表現でイエス様の姿が、特に若者に向けて表されています。
(ここでご紹介したいと思って付けた付箋がたくさん!)
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神はあなたを愛している、キリストはあなたの救い主である、このかたは生きている―
この3つの真理には、父なる神が登場し、イエスが登場します。
御父とイエスがおられるならば、そこには聖霊もおられます。
裏方をしておられるかたです。
このメッセージを受け入れるために心を整えさせ、開いてくださる方です。
救いの体験を鮮やかに保たせてくださるかたです。
あなたがこのかたに働いていただくようにすれば、この喜びを膨らませるよう助けてくださるかたです。
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美しい詩「恋しなさい」が語っているとおりです。
「神に出会うこと、つまりは、決定的に熱烈に、神と恋に落ちること。
これ以上に大切なことはない。
あなたが恋しているかたは、あなたが思い描くことすべてに映り、そうしてすべてにその痕跡が刻まれる。
朝、床から出るのはそのかたのため、夕べもそのかたのためにあり、週末はそのかたのために使う。
読み取るものはそのかた、感じ取るものはそのかた、そのかたのために心を砕き、そのかたへの喜びと感謝で打ちのめされる。
恋しなさい。愛に浸っていなさい。
すべてが違ってくるでしょう。」
神へのこうした愛によって、生活のすべてを情熱をもって過ごせるようになります。
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主を求め、そのことばを大切にし、生活をもってそれにこたえようと努め、徳を磨く、
こうして若者の心は強くなるのです。
そのためにはイエスとの「接続」を保ち、イエスと「オンライン」でいなければなりません。
あなたの力と、あなたの知識だけでは、幸福も聖性も高めることはできないからです。
インターネットにつながらないことを心配するのと同じく、主との接続を確保しておきなさい。
つまり、対話をたやさず、主に耳を傾け、自分のことを主に伝え、どうしたらいいか分からないときには主に尋ねなさい。
「イエス様、あなただったらどうなさいますか」。
まだまだたくさん、素晴らしいと思って付箋を付けたページがあります。
本や神父様のお話は、その方が置かれている状況やその時の心境で、入ってくる内容が違うかと思います。
ぜひ、お読みいただいて自分へのメッセージを受け取ってみてください。
この子どもたちが久留米教会で生き生きとした信仰生活を送っていけますよう、お祈りしてください。
パパ様と会うために。
11/24の長崎での教皇様のごミサまで、あとひと月足らずとなりました。
パパ様をお迎えする前に、わたしたちは霊的に自らの準備をしなければなりません。
大名教会では、企画展「-いつくしみと憐れみの人-教皇フランシスコ」」が12/3まで開催されています。
今日は、2013年5月号のカトリック生活に特集されていた、教皇フランシスコの横顔という記事からパパ様について書いてみたいと思います。
科学者を目指して勉学に励んでいたホルヘ・マリオ・ベルゴリオ青年は、イエズス会の修道者となります。
貧困に喘ぐ人々のために尽くし、イエズス会(エリート聖職者を養成することで知られていたそうです)でも特異な存在でした。
ブエノスアイレスの大司教となっても質素な生活を貫き、大司教公邸ではなく郊外のアパートに住んで自炊生活をし、バスや地下鉄を使って司牧に出かけていらっしゃいました。
料理がお得意だったようで、日曜日のお昼には神学生たちのためにお食事を作っていらしたそうです。
この写真は、6月に宮﨑神父様がバチカンに行かれた時に撮影されたものです。
ローマ教皇は、バチカン市国の国家元首でもあります。
ですが、今でも高級車ではなく大衆車で移動されますし、訪問先の海外の国で豪華なホテルに宿泊されることも好まれないようです。
初代の聖ペテロから数えて、現教皇は266代目ですが、ここまで徹底して修道者時代からの信念を貫いていらっしゃる方は珍しいのではないでしょうか。
貧しい人々へ心を寄せ続けられている姿勢は、その選ばれたお名前にも表れています。
フランシスコ(イエズス会出身なのに!)
駐日教皇大使のヨセフ・チェノットゥ氏から福岡教区の信徒に向けてお手紙をいただいていますので、その一文をご紹介します。
平和、喜び、友愛、連帯、希望のメッセージを届けに来日するフランシスコ教皇を迎えるために、私たちも霊的に準備をいたしましょう。
教皇様は私たちの信仰を確信へと導き、励ましてくださることでしょう。
教皇パウロ六世の使徒的勧告『福音宣教』の言葉を引用致します。
「福音を伝えることは、実に教会自身の本性に深く根差したもっとも特有の恵みであり、召命です。
教会はまさに福音をのべ伝えるために存在しています」
オフィシャルテーマソングが作られていることをご存じですか?
カトリック中央協議会のサイトによれば
「テーマソングは各会場で、BGMとして使用されるほか、東京や長崎で実施されるミサ等においてフランシスコ教皇に向けて披露される予定です。」
あとひと月足らずです。
各々が、自分なりの霊的な準備を心がけて過ごしましょう。
パウロの手紙
久留米教会のマリア様はとても良い香りがします。
10月のロザリオの月は金木犀の香りがするマリア様です。
20日の第一朗読はテモテへの手紙でした。
聖書は、あなたに知恵を与え、キリスト・イエスに基づく信仰によって、あなたを救いに導くことができるのです。
聖書はすべて、神の霊感によるもので、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするために有益です。
2テモテ3・15~16
この「聖書」とは、もちろん旧約聖書を指し、直訳では「聖なる文字」を意味しているそうです。
わたしたちが読んでいる聖書に、なぜ特定の人々に向けて出された『手紙』が収められているのだろう?と思ったことはありませんか。
新約聖書には、”パウロの手紙”とされる文書が13通あります。
実際にパウロが書いたと考えられているのはそのうち7通だそうです。
(テモテについては、パウロ書簡の研究において最も議論されている問題の一つ)
これらの手紙は、地中海のいろいろな都市に建てられた教会の特定の人々に宛てて書かれ、いくつかの教会で回覧されることを意図して書かれたそうです。
イエス様の十字架と復活についてのパウロの信仰告白、宣教の情熱、願いや祈り、課題とその解決の勧めなどがその内容です。
一方、6通の手紙は、名前も知られない伝道者たちが書きました。
当時、一定の権威を持って人々に知られていた人の名前を使って大切なことを書く、ということは珍しいことではなかったそうです。
では、なぜ初期のキリスト者たちはこれらの手紙を大切に伝え、残したのでしょうか。
いくつかの理由が考えられているようですが、なるほど!と思ったのは大きく次の2点です。
① 民族、出自、階級、性別を超えて、またユダヤ教の律法にとらわれずに、
イエス様の十字架と復活の福音がすべての人に救いとして与えられている、
と語るパウロの言葉のもつ大きな意味と励ましの重要性。
② エルサレム教会の指導者や様々な伝道者から「正当な使徒」ではないと批判されながらも、
パウロが地中海世界の諸教会のなかで一定の権威を持つ伝道者とみられるようになっていたから。
当時は今と違い印刷技術もなく、高価な紙や羊皮紙に手紙を書きました。
そして、人々は丁寧に書き写してコピーを作っていました。
つまり、いかにパウロの手紙が重要な教えとして認められていたか、そしてパウロが評価されていたかが分かります。
そして、パウロの名を借りた6通の手紙が書かれた時代は80~120年頃であり、使徒たちも第一世代の主要な伝道者や指導者たちも亡くなり、キリスト者迫害の時代でした。
教会の強化を図りながら、福音を途絶えなく宣べ伝えていく必要性に駆られていたのです。
その中でも、ヘブライ人への手紙は特異な重要性を感じます。
著者が誰で、宛て先は誰で、どの教会への手紙なのか一切書かれておらず、迫害や試練の中で、信仰を持って生きることに疲れた人々への慰めと励ましのメッセージが込めらています。
以前も書きましたが、わたしはこのヘブライ人への手紙がとても好きで、たくさん線を引いたり書き込みをしています。
霊の父は、わたしたちの益のために訓練なさるのです。
楽しいものではなく、むしろ苦しいものに思われますが、後になると、この訓練は、それによって鍛えられた人々に、義という平和の実をもたらします。
ですから、あなた方はなえた手と、弱った膝をまっすぐにしなさい。
12・10~12
この本からの記事です。
とてもお勧めです!
塩の契約
昨日、10/13はジュゼッペ神父様の38歳(自称) のお誕生日でした!
そして、宮﨑神父様の叙階40周年の記念日でもあるという、とても大切な日でした!
そして、全勝で8強入り、おめでとうございます‼︎
おめでとうございます‼︎
宮﨑神父様のお祝いのために、東京から10人くらいの信者さんが駆けつけて来られていました。
話は変わりますが(宮﨑神父さま風)、食欲の!
いえ、味覚の秋です!!
塩、お料理には欠かせませんね。
わたしはコーシャーソルトを使っています。
ユダヤ教における食事に関する決まり(食事規定)である「カシュルート」に沿った食品をコーシェルと言います。
(英語ではコーシャー)
コーシャーソルトは精製塩ではなく、化学物質が含まれていない自然塩で、ミネラルが豊富、まろやかな味わいです。
とにかく、しょっぱくなくて、お肉が柔らかくなるし、スープの味付けにも最適です。
聖書には、たくさん「塩」についての記述があります。
旧約聖書だけでも41か所あるそうです。
(ちなみに、わたしは「塩対応」という言葉は好きではありません。。。)
創世記19章のソドムとゴモラの滅亡に関連した話では、ロトとその家族は神によって救われ、逃げる途中は振り返るなと神に言われたのにロトの妻は振り返ったために塩柱にされました。
すべての献げ物を、塩で味付けしなければならない。
お前の穀物の供え物にお前の神の契約の塩を欠いてはならない。
お前の献げ物にはすべて塩を添えてささげなければならない。
レビ記2・13
わたしはイスラエルの子らが主にささげる聖なる献納物すべてを、お前と、ともにいるお前の息子たちや娘たちに、永久に受けるべき分として与える。
これは主の前でお前とお前の子孫に対する永遠の塩の契約である。
民数記18・19
塩そのものは腐りません。
フランシスコ会訳の聖書の注釈には「塩が持つ防腐の機能から、浄化や保存作用のあるものと考えられ、会食に用いられる塩は解くことのできない友情の徴とされた。」とあります。
さらには、その性質は、神とその民との間に交わされた不変の契約を表すのに最適な象徴なのです。
一方で、新約聖書には6か所、塩に関する記述があります。
一番有名なのは、マタイ5・13でしょう。
あなたがたは、地の塩です。
もし塩がその持ち味を失ったなら、どうやってそれを取り戻すことができるだろうか。
もはやその塩は何の役にも立たず外に投げ捨てられ、人に踏みつけられるだけである。
イエス様がこの話をされたのは、ユダヤ人に対してです。
彼らはそれまで、神の命令はレビ記、民数記、申命記に記されている、という教えを厳格に守って生きていたので、おそらく、先ほど書いた「塩の契約」のことをイメージしたはずです。
塩は善い物(ルカ14・34)です。
わたしたちは、地の塩、世の光(マタイ5・13)であり続け、自分の中に塩を持ち互いに平和を保つ(マルコ9・50)ことができるよう、心がけていきましょう。
聖書、面白い!!
キリスト者としての心構え
久留米も秋の気配です。
昨日のごミサでは、フィリピンの若者たちの姿に感激しました。
『日本で生きていくけど、祖国を愛してる』
若者たちのグループで、インターネットでこのお揃いのティーシャツを作ったそうです。
お揃いのシャツを着て教会に集まる彼らを見て、そのメッセージにも感動しました。
わたしたちは弱い人間ですから、「〇〇神父様がいい」「〇〇神父様は少し苦手」などといった気持ちを抱いてしまうこともあります。
以前、人間関係についてある神父様にご相談した際、意外なお答えが返ってきました。
司祭の皆様は神様からの召命を受けて職務に当たる聖職者なので、
そうした些細な人間関係のもめごととは無縁なのでは?と勝手に思っていたのですが、
「わたしたち司祭も同じようなことで悩みますよ。」
心の中の小さな棘が取れ、気持ちが軽くなりました。
また、東京に住んでいたころに、ある神父様につい愚痴を言ってしまった際に返ってきたお言葉も心に刻まれています。
苦手な神父様がいて、その神父様のごミサに行くのが億劫だと話したら、
「あなたは”イエス様”を信じているのでしょう?
〇〇神父教の信者ではないでしょう?」
笑ってそうおっしゃった言葉に、ハッとさせられ、自分で自分の言ったことがおかしくなりました。
イエス様の時代はおそらく、『ユダヤ教イエス派』といった感じだったでしょう。
そのユダヤ教も、ファイサイ派、サドカイ派、エッセネ派など様々なグループ、宗派があり多様性に満ちていました。
以前読んだ曽野綾子さんの本に、現代のわたしたちは『キリスト教パウロ派』のようなもの、と言ったことが書いてありました。
キリスト教が形成されていく使徒たちの宣教の時代には、まだ当然、新約聖書という形作られた経典はありませんでした。
一番古い福音書であるマルコも、65年~70年ごろに成立したとされています。
その後、他の3つの福音書が書かれても一冊の本として印刷されて人々が手にしていたわけではないのです。
実際に、4つの福音書が揃い、正典とされたのは2世紀ごろだそうです。
初期のキリスト教は、旧約の諸文書を大切にしながら、あくまでも口述により使徒たちを通してイエス様の言葉を聞いた多くの人々が、その教えに共感し形作られていったのです。
イエス様が直接お選びになった使徒たちでさえ、だれが一番偉いか争い、ゲッセマネの園では眠りこけ、一番弟子のペトロでさえ3度「知らない」と言う、そんな始まりだったのです。
人間的である、つまり、弱さや愚かささえも包み隠さずさらけ出し、その中に救いとお恵みを見出していく。
これは、旧約聖書にも表される教えの根本です。
わたしたちは、弱い人間です。
悩み、苦しみ、悲しみがあるから、祈りを捧げます。
この1週間、改めてそのことを感じ、考えました。
守るべきおきて
今月のベトナム語ミサの様子です。
久留米教会のベトナムコミュニティは人数がどんどん増えて、活気が増してきているように思います。
彼らの日本での労働の実りと教会コミュニティでのお恵みが豊かなものになるよう、祈っています。
【教会のおきて】というのをご存じでしょうか。
教会共同体の約束事として、5つのことが決められています。
1.主日と守るべき祭日のミサにあずかり、肉体労働を休むこと。
2.毎年少なくとも一度、ゆるしの秘跡を受けること。
3.少なくとも復活節の間に聖体の秘跡を受けること。
4.教会が定めた大斎と小斎の日を守ること。
5.各々の分に応じて教会の維持費を負担すること。
そう難しいことではない、と思いませんか?
1の「肉体労働を休むこと」というのは、安息日だから、ということです。
わたしたちキリスト教徒にとっての安息日は、この【おきて】によると、
「ミサにあずかり、そのあとは安らかに過ごしなさい」くらいのニュアンスですが、
ユダヤ教徒にとっての安息日は、ヘブライ語でシャバットと言い、とても厳格に決められた日です。
安息日は日曜日ではなく、金曜の日没から翌土曜日の日没までを指します。
ですが、実際には、金曜の日没に備えて午後早い時間からお店などが閉まり始めます。
日没までに家に帰り、翌日の分までの食事を用意しなければならないからです。
ホテルの近くにあったマクドナルドまで閉店していました。
ホテルのエレベーターも「シャバットエレベーター」になり、
ボタンを押さなくてもいいように各階停止モードに切り替えられます。
つまり、何も「労働」をしてなならないのが安息日なのです。
ある安息日のことであった。
イエスが麦畑の中を通っておられたとき、弟子たちは道々、穂を摘み始めた。
すると、ファリサイ派の人々がイエスに言った、
「なぜ、安息日に許されていないことをするのか」。
(中略)
イエスはこう仰せになった、
「安息日は人のために設けられたのであって、人が安息日のためにあるのではない。
それ故、人の子は安息日の主でもある」。
マルコ2・23~28
「あなた方は、わたしが律法や預言者たちを廃止するために来たと思ってはならない。
廃止するためではなく、成就するために来たのだ。」
マタイ5・17
イエス様は、ユダヤ人でありユダヤ教徒でした。
おそらく、30歳になられるまでは安息日だけではなく、厳格に律法に従った生活をされていたことでしょう。
だからこそ、こうした教えが生まれたのです。
人の子は安息日の主である
律法を廃止するためではなく、成就するために来た
律法のおきてを守ることに執着し、それに縛られて大切なものを見失っていた当時の人々への警告でした。
わたしたち(一般的キリスト教徒)の目には、安息日にはエレベーターのボタンを押すことさえ労働であるから禁止する、というのは不思議な気がします。
正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。
わたしたちの主イエス•キリストが現れる時まで、汚れなく、咎められることもなく、この掟を守りなさい。
1テモテ6•11,14
【教会共同体のおきて】
ミサにあずかることはもちろん一番大切ですが、
教会維持費を納入し、共同体をわたしたちが守り、将来にわたり維持発展させていくことは、いまのわたしたちの一番重要な責務ではないでしょうか。
「あなたに、話がある。」
フランシスコ教皇様が長崎と東京でごミサをあげられます。
日本中のカトリック信者が集まることでしょう。
今からとても楽しみです。
このポスター、ご覧になったかと思いますが、キャッチコピーがいい!
(どこかの広告代理店の方が作ったのかもしれませんが)
わたしたちに訴えかけられるものを感じます。
パパ様、初来日ではないのですね。
カトリック新聞に記事が載っていました。
1987年に、イエズス会の新学院の院長であった
ベルゴリオ神父さまとして来日されていたのです。
国際会議では、各国の首脳が何を言うか、
あらかじめほとんど決まっています。
けれども教皇は政治家ではありません。
私が教皇フランシスコと会うときにいつも受ける印象は、
その言葉と行動が、祈りから生まれているということです。
教皇は聖霊に導かれて動いています。
そして聖霊はいつも何か新しいことをします。
教皇フランシスコが私たちに希望を与えるのは、
彼がこの世界のリーダーとは全く違うリーダーだからです。
教皇フランシスコは、「この世界は福音の価値観で変わる」と固く信じて、
その通りに生きている人です。
(写真、文章はカトリック新聞より)
今月のパパ様カレンダーのメッセージは
「 自分の限界や弱さを知ることはよいことです。
むしろ、知らなければなりません。
しかしそれは、絶望するためではありません。
神におささげするためです。」
教皇フランシスコとしての来日は、これが最初で最後の機会になるかもしれません。
どのようなメッセージをわたしたちに語られるのか、とても楽しみです。
久留米教会からは300名近くで申し込みをします!!
教会ごとの大移動のようになるでしょう。
いちじくの実、オリーブの木
マタイとマルコの福音書にある「実のないいちじくの木」の例え話をご存じでしょう。
イエス様が、道端のいちじくの木に葉のほかには何も見当たらなかったので
呪って「今後、永遠にお前は実を結ばないように」と仰せになると枯れてしまった、
というお話です。
ルカの喩えでは、
「3年このかた、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、
一つも見つけたことがない。切り倒しなさい。」
とまで言われています。
以前、聖書の勉強会で、
「これは、神殿そのものに仕えている不毛な人々への警告と
イスラエルの宗教的不毛の暗示です」
と教わりました。
今回イスラエルに行った時にガイドをしてくださった牧師さん(↑写真の、立ってお話されている方)によると、
「いちじくの木は、葉が茂っているということは同時に実もなっているもの。
その木に葉しかついていないということは、
実りのないうわべだけの偽善者のようなもの、ということなのです。」
とのこと。
(↑写真は、ゲッセマネの園の立派な年代物のオリーブの木です!)
イスラエルをオリーブの木に喩えられている箇所も多くあります。
エレミヤ書11・16では
主はかつてお前を、
「素晴らしい実のなる、美しく生い茂るオリーブの木」と名付けられた。
・ぶどう園、ぶどう畑、ぶどうの木
=旧約時代のイスラエル(ユダヤ人)
・いちじくの木
=イエス様の時代のイスラエル(ユダヤ人)
・オリーブの木
=将来の患難時代のイスラエル(ユダヤ人)
という見方ができる箇所もあります。
イスラエルは、死海の西側のユダの荒野と対照的にガリラヤ湖やヨルダン川流域は緑豊かで、
お野菜と果物がとても美味しい国です。
ぶどう(ワイン)、いちじく、オリーブオイル、
これらは毎食わたしたちを楽しませてくれました。
当然、イエス様の時代も、こうしたものを楽しむのが日常だったので、
喩えとして大衆にわかりやすく話す際に多用されたのでしょう。
根が聖なるものであれば、枝もそうです。
しかし、枝のあるものが折り取られ、
野生のオリーブであるあなたがその代わりに接ぎ木され、
元の木の根から来る豊かな養分にあずかっているからといって、
元の木の枝に対して誇ってはなりません。
思いあがってはなりません。
むしろ、恐れなさい。
神が自然のままに生えた枝を惜しまなかったとすれば、
あなたをも惜しまれないでしょう。
ここに神の慈しみときびしさがあります。
ローマ人への手紙11・16~22
わたしたちキリスト者(野生のオリーブ)は
ユダヤ教徒(元の木の根)であったイエス様の新しい教えを受け取っています。
「思いあがってはなりません」
パウロの厳しい愛の言葉ですね。