行事風景
それぞれの持つ個性
パラリンピックが行われています。
わたしは、これまでの人生で「こうすればよかった」と思わないように努めて生きてきましたが、唯一思うこと。
「パラリンピックを目指して何かスポーツを極めればよかった!」
これだけは後悔しています。
わたしの個性で一番自慢できる点は、障害があることです。
これは、障害を持つすべての方を代弁しているわけではありません。
わたし個人の思いです。
わたしのことをご存知の方には、おそらくこう思ってくださっている方がいらっしゃるでしょう。
「体が不自由だとは思えない、バイタリティのある人」だと。
わたしにとって、片足が義足であるということはわたしの「強み」なのです。
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イエス様の時代、精神的に障害がある人には悪霊がついていて、身体的に障害がある人は前世や本人が犯した罪による穢れ、罰だと考えられていました。
旧約の時代には、サムエル記下5章にあるエピソード(「ダビデの命を憎むという足の悪い者、目の見えない者を討て。」という記述とそのことにまつわるエブス人との争い)があり、このことから、目や足の不自由な人は神殿に入ってはならないとされたのです。
レビ記では、イスラエルの人々は神によって聖別された民であるからこそ、神の掟に服従して聖なる者であり続けなければならない、と主が語っています。
(19章、22章)
それでも、他宗教に染まり偶像崇拝に走る民と、それを罰する(病気、障害、滅び)神という構図が聖書に書かれています。
同時に、申命記の十分の一税やレビ記の落穂に関する下りのように、社会的弱者を虐げてはならないということも書かれています。
3年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちで、相続地の割りあてがないレビ人や、あなたの町に住む他国の者や、孤児や、やもめが来て食べ、満ち足りるようにしなさい。
(申命記14・28~29)
穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ブドウも摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。
これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。
(レビ記19・9~10)
障害のある人は罪人であると考えられ、忌み嫌われていました。
触れたらその人まで穢れる、と思われていたため、人里離れたところに固まって暮らしていた人々もいたように聖書には書かれています。
ですが、イエス様はそうした人々を始め、娼婦、寡婦、といった社会的弱者を最優先にされます。
『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか?
本人ですか。それとも両親ですか』。
イエスはお答えになった。
『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである』」
(ヨハネ9・2~3)
ローマの人々への手紙3章で、結論とも言えることをパウロが書いています。
☆障害のあるなしにかかわらず全ての人は罪人であること
(ユダヤ人もギリシャ人もみな罪のもとにある 3・9)
☆イエス様の贖いの業を通して神の救いを得ることが出来る
(3・22〜24)
障害があることはわたしの強みであり個性だ、と、わたしは思っています。
パラの選手たちの競技を見ていて、「すごい!」「なぜあんな身体能力が!?」と感じるでしょう。
彼らはその個性を生かして努力を重ね、一見不可能な能力を驚くほど発揮するのです。
入院していたころ、お見舞いに来てくださるシスター方は決まって「あなたは神様に選ばれた子だ」とおっしゃってくださいました。
病気をしたことが「選び」「恵み」だということではなく、そのことを受け止めて前向きに治療に取り組むわたしのことを、そう言ってくださったのです。
信仰によって、わたしたちは誰もが神様からの憐れみを受けることができる。
このことをわたしも、何度も身をもって実感しながら生きてきました。
まだ遅くないかも!?
何かスポーツ始めようかな、、、。
隣人愛のかたち
4回目の緊急事態宣言となり、久留米教会も教区の決定に則り、公開ミサが中止となりました。
「宣言には意味がない」という意見があるようですが、そのように不満を抱いてもなにも状況は変わりません。
わたしたちはいま自分にできることを粛々と、そして、感染しない・させない対策を徹底的に行うのみです。
そんな中、パパ様のお言葉がまた心にとまりました。
神は、日々生じる問題から、私たちを解放するために来られるのではありません。
愛の欠如という本質的な問題から、私たちを救うために来られます。
愛の欠如は、私たちの個人的、社会的、国家間、また環境の問題の根本原因です。
自分のことしか考えないことは、すべての悪の始まりなのです。
God does not come to free us from our ever-present daily problems, but to free us from the real problem, which is the lack of love.
This is the main cause of our personal, social, international and environmental ills.
Thinking only of ourselves: this is the father of all evils.
8/17教皇フランシスコ Twitter
夏の甲子園、2回戦を目前に辞退した宮城県代表の東北学院の主将のインタビュー、お聞きになりましたか?
監督と選手たちの話し合いで、「感染した人のことはみんなで守ってあげようという話があった」と報道されていました。
高校生のことばです。
わたしたち大人も、彼らを見習い、恥じない言動をとらなければならないなと身が引き締まる思いがしました。
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何度も書いていますが、今回もお伝えしたいことです。
◆「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」
(マタイ7・12)
この教えは、姪たちが小さいころから彼女たちにも度々言い聞かせてきました。
「おなじように、自分がされたくないことは人にしてはいけないのよ。」とも。
この黄金律は、イエス様の時代よりずっと以前から、ユダヤ人の間で律法全体の要約として語られていたことでした。
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◆「あなた自身にとっていやなことは、あなたの隣人に対してもしてはならない。
それは律法全体であって、あとのものはそこから推し計られるものにすぎない。」
◆「あなたの隣人を裁いてはならない。あなた自身が隣人の立場にならないためである。」
◆「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」
これらもすべて、福音書に書かれる遥か昔からユダヤ人の間では格言として知れ渡っていたことばでした。
イエス様も、黄金律はモーセの律法の要約だと考えていたようです。
◆「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」
(ㇾビ19・18)
古いアラム語の訳では「あなたの隣人を愛しなさい。あなたを不快にさせることはどんなことでも、隣人にしてはならない!」となっているそうです。
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そのとき、ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
(マタイ22・34~40)
イエス様はユダヤ人であり、ユダヤ教の教えのもとに育ち、暮らしておられました。
福音書に記されている教えの重要な箇所からも、イエス様が旧約の教え、律法をとても大切にされていたことが分ります。
黄金律と隣人を愛することの戒めは、その最たる例でしょう。
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隣人愛の実践に尽くし、「これはキリスト教に限った教えではなく、遥か昔からの格言なのよ」と、わたしたちが周りの人にも伝えていくのです。
何かが変わっていくかも、という希望を持って。
少しずつ、秋の気配が。
求めている平和とは
15日までの10日間は、カトリック教会の平和旬間でした。
各々、平和への祈りを捧げ、平和とは何かを考える機会をお持ちになられたのではないでしょうか。
8月15日は、わたしたちにとってたくさんの意義深い日です。
福音宣教の始まりである、フランシスコザビエルが鹿児島に上陸した日
終戦記念日
日本の伝統文化であるお盆
そして、聖母マリア様の被昇天の記念日
宮﨑神父様はお説教の中でこうおっしゃいました。
「8月15日は平和を噛み締める日です。そして、故人を想い、祈り、同時にいずれ訪れる自らの死を重ねて黙想する日です。」
あなたは何のために平和を求めますか?
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わたしはいつも、パパ様の優しい笑顔に平和を感じます。
先日ご紹介した、教皇フランシスコ訪日公式記録集をようやくじっくりと読みました。
広島平和記念公園での「平和のための集い」では、プロテスタントの各宗派の代表だけでなく、神社や様々な仏教の宗派の代表、日本のユダヤ教、ムスリム、ロシア正教などの代表者の方との交流、参加があったことをご存知でしたか?
核兵器の廃絶、戦争のない世界の実現はもちろん平和の重要な条件ですが、最も重要な要件は「人々の間に平和があること」だと思うのです。
コロナ禍において、世界中のいたるところで人間の愚かさ(差別、偏見、誹謗中傷)、不平等などが改めて顕になりました。
紛争のない国であっても、そうした醜い人間の状態が渦巻く状況で平和な社会と言えるでしょうか。
これまでは、世界の差別の大要因は「人種」と「宗教」の問題が根底にあるからだと考えていました。
そして、その根本的な原因の一端はキリスト教にあるのではないかという葛藤があります。
コロナウィルスが世界を席巻する今、問題はさらに大きく深く広がってしまっている気がします。
今このような時代だからこそ強く思うのは、平和はわたしたち一人ひとりの中で育てるべきことであり、平和のためにわたしたちが求めるべきは、お互いの他者への思いやりだということです。
世界が繋がっている一つの社会なのだ、とわたしたちは今、思い知らされているはずです。
平和は自分のためだけに求めるものではないはずです。
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詩編の、いつも心の中に響かせたい、美しい平和の祈りです。
いつくしみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、
まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。
(新共同訳)
いつくしみとまことはともに出会い、義と平和は抱き合う。
まことは地から生えいで、義は天から身をかがめる。
(フランシスコ会訳)
(85・11〜12)
(122・8)
わたしはいおう、わたしの兄弟、友のために。
『あなたのうちに平和があるように』」
(122・8)
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オリンピック陸上競技800メートルの準決勝で、転倒してしまった選手にもう一人の選手が巻き込まれたシーンをご覧になりましたか?
巻き込まれた選手が最初に転倒した選手に手を差し伸べて抱き起こし、抱き合った後、「行こう」「ゴールしよう」と声をかけ、二人で揃って走り出して他の選手から1分近く遅れて一緒に肩を並べてゴールしました。
そこに、平和がありました。
少なくともわたしたちにできることは、周囲の人々に思いやりと優しい気持ちを持って接し、お互いが気持ちよく過ごせる日常を作っていくことでしょう。
平和はそこから生まれます。
自分なりの実り
毎年、8月になると台風が接近し、猛暑を少し和らげるという自然の営み。
地球が温暖化しているとはいえ、このサイクルが日本の季節を作っていることには驚きます。
被害がなければ良いのですが、台風がいくつか通り過ぎてくれると、過ごしやすい夏になります。
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もしも無人島に何か2つ(ひとつではない)持っていけるとしたら?
わたしは迷わず、聖書とワイン一箱(一本ではない)を選びます!
聖書を選んだのは、何も真面目で敬虔な信者だからとかではなく、純粋に読むのが面白いからです。
聖書とワインさえあれば、退屈することはありません。
旧約にはぶどうの木、ぶどう園のたとえが数多く語られています。
それに呼応するように、新約でもぶどうに関する記述があります。
旧約には直球で「飲み過ぎ注意!」という記述も結構あるのですが、多くは「役に立たない、神に背いたものの象徴」「実を結ばなければ価値のないもの」として語られます。
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詩篇80のタイトルは「荒らされたあなたのぶどう園を元どおりに」
あなたはぶどうの木をエジプトから移し、異邦の民を追い出して、これを植えられました。
あなたは前もって地を整え、その木を根づかせ、生い茂らせました。
万軍の神よ、立ち返ってください。
天から見下ろし、目を留めて、このぶどうの木を顧みてください。
(9〜10、15)
BC722年のアッシリア軍侵攻による北イスラエル王国滅亡の直前の自分たちを、ぶどうの木にたとえています。
イザヤ書5章のタイトルは「ぶどう園の歌」
さあ、エルサレムに住む者とユダの人よ、わたしとわたしのぶどう園の間を裁け。
ぶどう園になすべきことで、わたしがしなかったことがまだ何かあるか。
わたしは善い実が結ぶのを期待したのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
まことに、万軍の主のぶどう園とは、イスラエルの家。
主が喜んで植えられたのはユダの人。
(3〜4、7)
イザヤという人はユダ王国の貴族で、エルサレムに暮らしていたとされています。
北王国イスラエルが南王国のユダに攻め入った戦争とその後のアッシリアのユダ侵略が背景にあるのが、本人が書いたとされる第一イザヤ(1〜39章)です。
エゼキエル書15章のタイトルは「無用のぶどうの木」
人の子よ、ぶどうの木はほかの木、すなわち森の木々の間に生える木の枝より優れているだろうか。
その木で何かを作ろうとするだろうか。
それでものを掛ける木釘が作れるだろうか。
それどころか、薪として火にくべられるだけである。
その両端は火で焼き尽くされ、その芯は黒焦げになる。
それが何かに役立つだろうか。
そのままの時でも役に立たないのに、火に焼け、黒焦げになってしまえば、いったいなんの役に立つというのか。
(2〜5)
先ほどのイザヤ書の箇所と同様に、イスラエルが神に背き続け、不忠実であったことへの神の裁きを表現しています。
このように旧約では、救いようのないぶどうの木を神が見放した=エルサレムの崩壊、が語られ、ひたすらに「神に立ち返ること」の重要性が書かれてます。
一方で、新約におけるぶどうの木のたとえは「苦しみのシンボル」であると同時に、「希望の象徴」でもあります。
ヨハネ15章のタイトルは「イエスはまことの〈ぶどうの木〉」
わたしはぶどうの木であり、わたしの父は栽培者である。
わたしにつながれていて、実を結ばない枝はすべて、
父がこれを切り取られる。
しかし、実を結ぶものはすべて、もっと豊かに実を結ぶように、
父がきれいに刈り込んでくださる。
わたしのうちに留まっていなさい。
そうすれば、わたしもあなた方のうちに留まる。
ぶどうの枝が木につながれていなければ、枝だけで実を結ぶことはできない。
それと同じように、あなた方も、
わたしのうちに留まっていなければ、実を結ぶことはできない。
わたしはぶどうの木であり、あなた方は枝である。
人がわたしのうちに留まっており、わたしもその人のうちに留まっているなら、
その人は多くの実を結ぶ。
(1〜5)
できない、ダメなことだけでなく、どうすれば実のるか、どうすれば多くの実を結ぶことができるかが書かれているのが新約のイエス様の言葉なのです。
わたしたちは、この言葉に象徴されるような信仰心を日々鍛えることが必要だと思います。
実を結ぶ、それぞれにとってその意味は違うかもしれません。
わたしにとっての実りとは、
1番大切に思っている家族のためによりよく生きること。
1番大切にしている教え「何事につけ、人にしてもらいたいと思うことを、人にもしてあげなさい。」を努めて毎日行うこと。
自分なりの実を豊かに結ぶことのできるよう、日々を大切にしたいと思っています。
余談:ワインといえばフランス、というイメージの方が多いかと思いますが、イスラエルの北部は肥沃な土地で、ワイン栽培が盛んです。もちろん今でも多くのワイナリーがあり、とても美味しいワインを作っています。
カルメル山という名前はへフライ語で「神のぶどう園」という意味です。
買ってきたコーシャーワイン(ユダヤ人のみが栽培から収穫、瓶詰めまで全ての工程を行なったワイン)が我が家にまだありますが、現地で飲むのとはやはり味わいが違います。。。
イスラエルが恋しい!
暑さを乗りきる術
先週の久留米は、毎日体感気温が40度近かったですね!
日曜日の雨で、暑さが少し落ち着いてくれて助かります。
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この夏の間、立ち止まって休むことを覚えましょう。
携帯電話の電源を切って、他者の目をしっかりと見ましょう。
沈黙の時を持ち、自然を観想し、そして神との対話のうちに生まれ変わりましょう。
(マルコ6・30-34参照)
During summer time, let us learn how to take a break, turn off the mobile phone to gaze into the eyes of others, cultivate silence, contemplate nature, regenerate ourselves in dialogue with God.
2021/7/19教皇フランシスコ twitterより
このTwitterのメッセージ、ものすごく心に染みました。
2年前の8月、イスラエルに巡礼に行きました。
「暑い」という言葉では語れない日差しだったこと、生涯忘れられません。
標高400メートルほど(ただし、立地がマイナス400メートルの死海の西側)のマサダ遺跡の気温は、携帯の温度計で46度でした。
久留米の猛暑は湿度も高いため、家事などで汗をかくと肌がべたつき、不快な感じがしますが、イスラエルはカラッカラの乾燥状態なので、汗が流れながら蒸発します。
毎日一万歩くらい歩いて旅を続けながらいつも思っていたのは、「この気候をイスラエルの人々、イエス様たちも暮らしていたんだ」と言うことでした。
そう思いながら歩くと、意外と頑張れたのです。
暑い
きつい
そう思うのをできるだけ控え、なんのために歩いているのか、何をしにここに来ているのか、そのことに集中するように努めました。
皆さんと同じようには行動できないこともありましたので、無理をせずに時には立ち止まり、一人で立ちすくんで沈黙の時間を持つこともありました。
冒頭にご紹介した、パパ様ツイッターのおことば、手帳に書いていて毎日読んでいます。
☆ 立ち止まって休む
☆ 他者の目を見る
☆ 沈黙の時を持つ
何かせわしなく過ごしていると難しいことのように感じるかもしれませんが、どれも簡単にできることです。
わたしは6月から膝を痛めていて、歩くのも椅子から立ち上がるのも辛い日々が続いていました。
「パウロみたいにとげが与えられたんだわ。
何か思いあがってることはないか、よく考えてみよう!」
そう思って、このところずっと割とよく立ち止まり、沈黙の時間を持つようにしています。
「暑い、暑い」と口にしてバタバタしていると、余計に暑くなる気がしませんか?
立ち止まって、少しだけ沈黙を保ってみると、目に見える景色も聞こえてくる蝉の音色も違ったものに感じます。
今年の夏も、これからが本番です。
暑さに負けず、乗り切って元気に暮らすために、パパ様のこのメッセージを心に留めてみませんか?
感謝の気持ち
東京オリンピック・パラリンピックが始まりました。
ようやく実現しました!
久留米教会の「こどもとともにささげるミサ」もようやく実現しました。
式次第の順番は変わりませんが、多少言葉遣いが平易になっています。
来月からも毎月第4日曜日に予定されています。
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いつの大会でも、開会式は一番の楽しみで見ています。
今回の式典も本当に素晴らしかったと思います。
久留米教会とは全く関係ありませんが(いつもですが。。。)、そして式典のテーマがどのようなものだったのかは存じませんが、わたしは式典の中の至るところに「感謝の気持ち」を感じ、胸が熱くなりました。
前日までハプニングやスキャンダラスな出来事が数多くあり、世論も(報道されている限りでは)盛り上がっていたとは言い難い、大変困難な状況でした。
それでも、オリパラの誘致から今日まで、どれほどの方々がご尽力されたか。
どれほどの方々が影で動かれ、矢面に立ち、携わられたか。
世界的に活躍されているアーティストの皆さんと並んで、エッセンシャルワーカーと呼ばれる方々がたくさん出演者として登場されていました。
そうした全ての皆さんに「ありがとう!」と心から感じることができる開会式でした。
そして、演出の随所に「ありがとう!」と世界中の方々にメッセージを発しているのを感じました。
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あなた方は神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、思いやりの心、親切、へりくだり、優しさ、広い心を身にまといなさい。
互いに耐え忍び、誰かに不満があったとしても、互いに心から赦しあいなさい。
主があなた方を心から赦してくださったように、あなた方もそうしなさい。
これらすべてのことの上に愛をまといなさい。
感謝の人となりなさい。
キリストの言葉をあなた方のうちに豊かに宿らせなさい。
言葉にしろ、行いにしろ、何かをする時は、主イエスを通して父である神に感謝しつつ、すべてを主イエスの名において行いなさい。
(コロサイ3・12〜17)
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「どんなことにも感謝しなさい」と1テサロニケにもあるように、わたしたちキリスト者の信仰の基盤は「愛」「感謝」なのです。
人や物事の粗探しをする風潮がはびこっている現在だからこそ、私たちは「愛」と「感謝」の信仰を実践すべきなのではないでしょうか。
7月25日は、新しく制定された「祖父母と高齢者のための世界祈願日」でした。
84歳の教皇様は「 主は永遠であり、決して引退なさいません。決してです。」とメッセージの中で述べられています。
「兄弟愛と社会的友愛を持って明日の世界を、嵐の後にわたしたちと子どもと孫とが生きる社会を築くには、あなたが必要です。」
高齢の方々、もちろん、自分の親だけではなく地域社会の先輩方への敬意と感謝の気持ちを忘れないようにしたいと思います。
聖書とは
「聖書の中で好きなストーリーはなんですか?」
そう質問されて、何か物語を思い描き、人にそれを話し聞かせることができますか?
「聖書には何が書かれているのですか?」
そう質問されて、読んだことのない方にわかるように、シンプルな言葉で説明できますか?
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モーゼとアロンの物語が好きで、最近このオペラをよく聴いています。
わたしの好きな作曲家シェーンベルクの作品です。
元旦のミサで読まれる、祭司による祝福の箇所です。
主はモーセに次のように告げられた、「アロンとその子らにこう言え、『あなたたちはイスラエルの子らをこのように祝福して彼らに言え、
〈主があなたを祝福し守ってくださいますように。
主があなたの上にみ顔を輝かせ、顧みてくださいますように。
主があなたにみ顔を向け、平安を与えてくださいますように。〉』。
(民数記6・22〜26)
旧約聖書で1番古い「祝福」に関する文言だそうです。
わたしが好きな物語の一つである、ヤコブが兄のエサウから長子の祝福を奪い取った話がありますが、この物語にあるように祝福は一度与えられたら人間が撤回することはできない、とされています。
ある方は、ヨセフの物語が好きだとおっしゃってて、スラスラとストーリーを話されていました。
最初の質問。
「聖書の中で好きなストーリーはなんですか?」
「聖書には何が書かれているのですか?」
実話や神話が書いてある聖なる書物、ではなく、
聖書は「人間とは何者か」ということが書かれている本だ、と教わりました。
一冊の書物ではありません。
さまざまな時代や思想を反映して書かれた、そして加筆修正を繰り返し、その時代に応じてアップデートされた、神と人の関係についての記述を収めた名作集です。
実際に、聖書を読んでいると随所にそのことを感じることができます。
少なくともミサに与っていれば毎週、新旧の聖書を読んでいるのですから、聖書とは何が書かれている書物なのかを人に話せるといいですよね!
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毎週のごミサでの共同祈願、いつも思うのですが、「あ!そうそう、そう思っていた!!」という言葉が書かれています。
「そうなんだ、やっぱりそうだよね。」
いつもそう思います。
⭐︎ 自己の価値観を人に押し付け、敵意と分断をあおるような社会の中の動きを退け、神のみ心にかなう平和を実現することができますように。
⭐︎ 苦境にあえぎ、心のよりどころを見失っている人々を顧みてください。
神のいつくしみによる安らぎと新たな希望で支えられますように。
そして、今日の宮﨑神父様のお説教の中の言葉。
「神の働きに信頼し、希望を失った人々に希望を与えられる存在でいるように。」
なんのために毎週ごミサに与っているのか熟考できる、とても充実した日曜日でした。
賛美と感謝
今は絶賛「ヨセフ年」の真っ最中ということ、覚えていらっしゃいますか?
昨年の聖マリアの祝日(12/8)から今年の12/8まで、各信者は聖ヨセフの模範に倣うことで信仰生活を深めるよう、この特別年が定められています。
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毎日の生活に疲れたとき、あなたはどうやってモチベーションを高めていますか?
ヨセフ様は、穏やかな献身的な愛情を持って日常生活を神へ捧げることで、日々の一見つまらないことでも喜びに変えられました。
以前もご紹介した、教皇フランシスコの新しい使徒的書簡「父の心で」にはこうあります。
ヨセフの喜びは、自己犠牲の論理にではなく、自分贈与の論理にあるのです。
この人には、わだかまりはいっさいなく、信頼だけがあります。
その徹底した口数の少なさは、不満ではなく、信頼を表す具体的な姿勢です。
コロナ禍でなくとも、単調な日常生活に不満やストレスを感じるのは仕方のないことです。
ヨセフ様のように、とはなかなかいきませんが、日常の小さなことに喜びを見出すことはそう難しいことではありません。
家事は家族のための犠牲ではなく、家族とともに心地よく暮らすため、ですよね?
仕事は仕方なく行うことではなく、与えられた役割を果たすことだと思います。
先週から、毎週日曜のミサの後に全員で教会の内外の清掃を行うようになりました。
先月までは「義務」として参加を呼びかけていて、結局いつも同じような数名のメンバーしか集まっていなかったのが事実です。
ところが今月から「一緒にやりましょう」と呼びかけたところ、大勢の方が気持ちよく、当たり前のこととして掃除を行うようになったのです。
「賛美と感謝を捧げましょう」
そうごミサで歌っていたのを覚えていますか?
(歌いたい!聖歌を大きな声で歌いたいです!!)
賛美とはどういう意味を持つのか。
神に犠牲として賛美をささげよ。
いと高き者に誓いを果たせ。
悩みの日にわたしを呼べ。
わたしはお前を救い、お前はわたしをたたえる。
(詩編50・14〜15 フランシスコ会訳)
告白を神へのいけにえとしてささげ、
いと高き神に満願の捧げ物をせよ。
それから、わたしを呼ぶが良い。
苦難の日、わたしはお前を救おう。
(同 新共同訳)
賛美、つまり告白とは、罪を神の前に告白し、いかに神がわたしたちを気にかけてくださっているかを讃えることです。
単に、告解して罪を許してもらうことではなく、神への信頼、神から信頼された人として生かされていることへの感謝を表すことではないでしょうか。
昨日の清掃風景が当たり前の日常となることが嬉しく、神父様に「こうして良かったですね!」とお話ししたら、「掃除だけでなく、新しいコミュニケーションの場にもなるだろう。」と
小さな喜びを見つけた日曜日でした。
日々の中のみ言葉
大谷翔平さん、藤井聡太さんの立ち居振る舞い、人との接し方や受け答え方を見ていると「どんなご家庭で育ったのだろう。きっと素敵なご家族なのだろうな。」と思ってしまう、ファンの一人です。
昨日のミサの聖書と典礼の最後のページに、「イエス様の支えは、彼を信仰と愛を持って育て彼の品性を養った家族、母マリアと養父ヨセフの日常にあった」ということが書いてありました。
どのような環境でどのような人に囲まれて育ったかは、身体に染み込んで行き、人格を形成する最も重要なことなのだと、2人の爽やかな青年を見るたびに感じます。
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今月のパパ様カレンダーのことばにハッとさせられました。
他者に向かって自分を開くことは、決してわたしたちを貧しくしません。
むしろ豊かにします。
なぜなら、そうすることでわたしたちはより人間らしくなるからです。
自分を開くことは、わたしにとってそう簡単ではありません。
相手が望むように、自分が意図したとおりに気持ちが通うことの難しさを感じます。
それでも、あまり深く考え過ぎずに、素直な大人でいたいと思っています。
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「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
わたしは弱いときにこそ強いからです。
(2コリント12・9〜10)
この、有名で、感動的な、一度は実体験の中で痛感したことのあるであろうことば。
わたしは30年前の大病を患った時と、10年前に母が亡くなった時、このことばに救われました。
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たとえ、わたしが人間の異言、み使いの異言を話しても、
愛がなければ、
わたしは鳴る銅鑼、響くシンバル。
たとえ、預言の賜物があり、
あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、
たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、
愛がなければ、
わたしは何ものでもない。
たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、
たとえ、賞賛を受けるために自分の身を引き渡しても、
愛がなければ、
わたしには何の益にもならない。
(1コリント13・1~3)
このことばも、有名で、とても身につまされるものです。
偽善的であってはならないと言い聞かされます。
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わたしは死の影の谷を歩む時でさえ、災いを恐れない、
あなたがともにおられるから。
(詩編23・4)
影ができるということは、そこに光があるから。
死の向こうに光がある。
神が共にいてくださるという確信に満ちた詩です。
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神の業に目を凝らせ。
神が曲げられたものを、
誰がまっすぐにすることができようか。
順境の日には喜び、
逆境の日には反省せよ。
あれも、これも、神のなさることである。
それは、将来、何が起こるか、
人には見通せないからである。
(コヘレト7・13~14)
コヘレト、大好きです。
どこを読んでも、「もう、おっしゃる通りです!!」と言いたくなります。
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相反する、時には敵対する相手であったとしても 、教皇様のおっしゃるように、平和という目標のために共に希望を持って祈ることができるのです。
わたしたち一人ひとりが平和の光を発する存在であるよう、日々の中にあるみ言葉を見逃すことなく生きていかなければなりません。
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今年ももう半分が終わりました。
ごミサで宮﨑神父様がおっしゃったように、この半年の信仰生活を振り返り、半年後のクリスマスの自分を想像してみましょう。
今日いくつかここに書いた言葉は、日々の生活の中で出会い、手帳に書き留めておいたものです。
その時は「わかりました。そうであるように努力します。」と思ったはずなのに、、、、の繰り返しです。
でも、まだ半年あります。
「今年もお恵み溢れる一年でした。ありがとうございました。」
そう、締めくくれるように日々を大切にしていきたいものです。
今を生かす
初夏の陽気の中、皆さんとの久しぶりのごミサでした。
神学生、侍者も揃ってのごミサは清々しいものです。
ご聖体をいただくとき、「今週もこの共同体の一員としての働きをすることを誓います」と祈ってみました。
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昨日の第一朗読の知恵の書のことばは、とても考え深いものでした。
神が死を造られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。
生かすためにこそ神は万物をお造りになった。
世にある造られた物は価値がある。
滅びをもたらす毒はその中になく、陰府がこの世を支配することもない。
義は不滅である。
神は人間を不滅な者として創造し、御自分の本性の似姿として造られた。
悪魔のねたみによって死がこの世に入り、悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。
(知恵1・13~15; 2・23~24)
生かすために造られた。
フランシスコ会訳の聖書では、
「神は万物を存続させるために造られた。
この世に生じたものはすべて益となり、」
となっています。
旧約聖書には「天国」と言う概念はないそうです。
天国、つまり「死後の幸せ」という考え方が確立されたのはヘブライ思想の中間時代(旧約と新約の間の時代)なのだと本で読みました。
時はBC2世紀、シリアの支配下にあったユダヤ教徒たちの過酷な迫害の時代です。
多くの殉教者を出した当時のユダヤの人々の中で、信仰のために殉教した人々はかならず復活し、その死は他の者に救いをもたらすのだ、という思想がその当時に生まれたのだそうです。
この復活信仰が、その後の新約時代を通してイスラエルの民の間に根付いて行ったと考えられています。
聖書の中で最初にこの考え方が表現されたとされているのは、次のダニエル書の一説です。
多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
目覚めた人々は大空の光のように輝き、
多くの者の救いとなった人々は
とこしえに星と輝く。
(ダニエル12・2~3)
続く13節にはこうあります。
お前は最後までお前の道を行き、憩いに入りなさい。
その時の終わりに、定められた分を受けるために、お前は立ち上がるであろう。
「立ち上がる=復活」のことです。
大きな苦難に遭遇していた中間時代の人々は、ヤハウェが全世界の支配者であり全能唯一の神であるという考えに至り、同時に、天国、復活と言う希望ある信仰をも発達させたのです。
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私たち現代人にとっても、今のこの時代を「苦難」と捉えるか「誰かのせい」と不満を並べて日々を漫然とやり過ごすか。
どういった成果を生み出せるかどうかは、わたしたちの今の生かすかどうかで変わると思います。
生かすために造られたわたしたちとこの時代が、何を生み出すのか。
わたしたちには知りえない、遠い未来への遺産となるでしょう。
できることなら、「あの時代に生まれたのがこの思想である」という良きものを後世に残したいものです。