行事風景

文字にして残すということ

パソコンで仕事をし、スマホでやり取りをする日常。
実際に字を書くことは本当に少なくなりました。
わたしの場合、『お恵みノート』と自分で呼んでいるノートに、今日感じたお恵みを書き記す習慣を長く続けていて、字を書くのはそれくらいかも。

この教会のホームページにこうして書いていることにはわたしなりの意味があります。

学んだこと、知ったこと、お伝えしたいことを多くの方にご紹介したい。
信仰を深める一助となれば。
教会に感心を持っていただけるきっかけになれば。
久留米教会の出来事を記録として残し、またいつでもどなたでも読んでいただけるものとして。

宮﨑神父様が「自由に書いていいよ」と言ってくださるので、お言葉に甘えて色々なことを。

 

なぜ文字ができたのでしょうか。

世界最古の文明発祥の地、古代メソポタミアで楔形文字が考案されたのはBC3000ごろとされています。

今から5000年以上も前、メソポタミアではシュメール文化が起こり、少し後にはインド・パキスタンでインダス文明が起こり、その後にはエジプトでは古代王国が栄えてギザには大ピラミッドが建設されました。
同時期の日本は縄文時代後期!

考案したのはシュメール人で、彼らは最初は例えば、物々交換の記録といった実用的な使い方をしていました。
時代が下るにつれ、文字は神聖化されていき、BC2000年後半以降のメソポタミアでは「文字には過去の英知が宿っている」といった神秘的な考え方が生まれていたそうです。

西アジアの楔形文字文化圏では、文字文化が発達するBC3000年以降のおもな都市遺跡からはほぼ例外なく文書庫や図書館が発見されています!
例えば最大規模の図書館としてはBC1114~1076年のティグラト・ピレセル1世のものが有名で、2万枚を超える粘土板文書が出土しています。
内容は、「ギルガメッシュ叙事詩」「エヌマ・エリシュ(創世神話)」などの文学作品、諸王の年代記、天文書、医学書、法学書、シュメル語をアッカド語に訳した語彙集など、多岐にわたっています。

先ほど書いたように、最初に文字が考案されたときは(発見されている粘土板によると)実用的な使い方をしていました。

その後、街の都市計画や戦闘の記録にも使われていきます。
都市が整備されていくにつれ、人々の生活にはさまざまな決め事やルールが必要となってきました。
つまり、人々が生活するうえで文字として約束事を残していく必要が生じたことが文字の発達の意味であるようです。

ですが、王ですら必ず文字の読み書きができたわけではなく、専門の役人が粘土板に掘って焼いて、それを手紙として他国の王に送ったりなど、必ずしも実用品ではありませんでした。

 

文字の始まりはおよそBC3000年ですが、旧約聖書が書かれたのはバビロン捕囚後のBC500年以降です。

聖書が文字として書かれた意味はなんでしょうか。

後世に残すために書いた、とは思えません。
当時の人々が、2500年後のわたしたちが読むことを想定して、期待して文字に残したわけではないと思います。

バビロン捕囚とは、精神的支柱であった王を失い、神からの嗣業であった土地を奪われ、ユダヤ人の誇りであったソロモンの神殿を破壊されるという、ユダヤ民族そのものが消滅する危機だったのです。

神と交わした約束を捉えなおしどこに基を置いて国を立て直すか、そうしたことを深く考えて民族の誇りを忘れないように、取り戻すために(旧約)聖書を書いたのです。

聖書に書かれているのは「神のことば」ではなく、人間とは何者なのか、何であり得るのか。
神とは誰か、というより人間とは何かということ。
どうしたら人間は天国に行けるかが書いてあるのではなく、どうしたら人間が人間らしく生きていけるか、どうしたら人間は神の望むように生きていけるかが書いてあるのが聖書である。

人間は自らの罪や限界にぶつかったとき失望し、またある場合は絶望する。
その限界をどのように乗り越えるか。
そこに無限の永遠の存在=神が必要となる。
その意味で、苦難や苦悩は人が神に出会うきっかけとなる。

そう、ある神父様がおっしゃっていました。

前回ここに書いたように、数千年に一度の歴史の転換点に生きるわたしたちです。
聖書と神様について子どもたちにどう伝えていくか、深く考える必要に迫られていると思います。

 

丘を登る勇気

先日、ある神父様といろいろなお話をしました。
その中でも、多くの方と共有したいと思ったテーマは、「エジプトに戻ることばかりを考えちゃいかん!」ということです。

現在の世界の状況をよく見て、考え、理解するならば、「元の世界に戻る」ことが幻想であると気づくはずです。
「元の世界」とはすなわち、ウィルスの感染に怯えることなく、自由に、計画したとおりに、楽しみを追い求め、安定した、そうした生き方ができることです。

わたしたちは知っています。
自由を求めて、労働の代わりに食事に事欠くことのなかったエジプトから脱出した民が、荒野での生活に嫌気がさし「エジプトの方が良かった、エジプトに戻りたい、元の生活に戻りたい」と訴えていたことを。
王に隷属させられ自由がなかったエジプトでの生活から出て、安定を捨てても神に仕えることを選んだことを忘れてしまった民のことを。

わたしたちは分かっています。
苦難は「40年」続くことを。
40年とは数字通りの年数ではなく、長い時間がかかるという意味だと。
長い年数をかけて、苦難を噛みしめて乗り越えていかなければ得られないことがあることを。

数年で元に戻したい、そういう感覚で生きていく時代ではないのではないでしょうか。

 

『よく聞け、しかし、理解するな。
よく見よ、しかし、悟るな』。
この民の心を鈍くし、その耳をふさぎ、その目を閉ざせ。
自分の目でみることなく、
自分の耳で聞くことなく、
自分の心で悟ることなく、
悔い改めて癒されることのないために。
(イザヤ6・10)

よく考えてみましょう。
自分の目と耳と心を研ぎ澄まして、よく考えるのです。

今の時代は、地球全体の歴史の上に於いて、数千年に一度訪れる大きな大きな変革の時である。
そのことをもっとみんなが理解して行動し、生き方を変えていく必要があるのではないか。

こんなことを、神父様と盛り上がってお話しました。

 

アメリカの大統領就任式で詩を朗読した若い女性、アマンダ・ゴーマンさんの『The Hill We Climb (私たちがのぼる丘)』をお聞きになりましたか?

彼女の詩は、この4年で分断され暗く陰ったこの国をわたしたちが立て直すのだという、強く勇気溢れる気持ち、鮮やかな希望が表現されています。
わたしは、今世界が置かれている変革のチャンスの時とその丘に勇気をもって登っていくのだ、という風にも読むことができると感じました。

少し抜粋してご紹介します。

 

日が昇ると、私たちは自問する──どこに光を見いだせようか、この果てなき陰のなかに。
私たちが引きずる喪失、歩いて渡らねばならない海。
私たちは果敢に、窮地に立ち向かった。
平穏が平和とは限らず、「正しさ」の規範や概念が正義とは限らないことを学んだ。
それでもその夜明けは、いつのまにか私たちのものだ。

私たちは、完全なる一致を形作ることを目指しているわけではない。
私たちが目指しているのは、意義ある一致を築くことだ。

聖書は私たちにこう幻を抱くようにと語りかける──
「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もない」
(ミカ書4:4)

私たちがこの時代に応えようとするのであれば、勝利は刃ではなく、私たちの作ったあらゆる橋にあるのだ。
それが、木立ちのなかの空き地、私たちがのぼる丘の約束だ──ただし私たちが果敢にのぼりさえすれば。

この信仰に、私たちはより頼む。
私たちが未来に目を向け、歴史が私たちに目を向けているからだ。
これが、正しきあがないの時代なのだ。
私たちはその始まりにあって、恐れた。
そんな恐ろしい時の後継ぎになる備えができているとは思えなかった。
それでもその内側で私たちは見出した──新しい章を著す力を、自分たちに希望と笑いを与える力を。
かつて私たちは問うた──「私たちはいったいどうしたら破滅に勝りえようか」
いま私たちは断言する──「破滅はいったいどうしたら私たちに勝りえようか」

私たちはありしものにふたたび戻らず、あるべきものに向かって動いていこう。

私たちは知っているからだ──自らの無為と無気力を次世代が受け継ぐのだと。
私たちの失態が彼らの重荷になるのだと。
だが、ひとつ確かなことがある。
私たちが慈悲と力を、力と正しさを解け合わせるなら、
そのとき愛が私たちの遺産となり、変革が私たちの子供たちの生得権となる。

(クーリエジャパンのHPより引用 全文は以下のアドレスでご覧になれます。)

https://courrier.jp/amp/229523/?utm_source=yahoonews&utm_medium=related

 

いかがですか。
アメリカだけの話ではない、そう感じませんか。
繰り返しになりますが、ここだけでも暗記したいと思った箇所です。

私たちが未来に目を向け、歴史が私たちに目を向けているからだ。
これが、正しきあがないの時代なのだ。

私たちはありしものにふたたび戻らず、あるべきものに向かって動いていこう。

私たちは知っているからだ──自らの無為と無気力を次世代が受け継ぐのだと。
私たちの失態が彼らの重荷になるのだと。

次の数千年の幕開けのために、エジプト(元の暮らし)を忘れて果敢に丘(新しい生き方)にのぼっていく。
それは、おそらく将来の歴史の記録に刻まれることになるであろう今を生きているわたしたちの責任なのです。

信仰のモチベーション、教会の在り方、教会へのコミットの仕方も同様です。

いま、ありし日々を懐かしむばかりで何もしないこと
-----早く元の生活が戻りますようにとばかり祈ること
-----自粛するだけで次を見据えて行動しないこと
は、子どもや孫の世代に対して無責任なのだ、と若い詩人が教えてくれました。

 

 

自己を見つめなおす時間

カトリック生活を定期購読しています。
2月号は『映画の中のカトリック』が特集されており、たくさんの映画が紹介されています。

日曜日の午前中は教会で過ごすことが習慣でしたので、ぽっかり空いた時間に、以前から観たいと思っていた映画「修道士は沈黙する」をようやく鑑賞しました。

 

 

正直に告白しますが、とても難解な内容でした。
タイトルのとおりに「告解」と観想修道会の修道士であるサルス神父が重要なキーなのですが、想像とは違い、世界経済を動かす強欲で権力主義の人間の心の闇がテーマでした。

映像と音楽が美しく、無駄な描写は一切なく、洗練されたリゾートホテルの中だけでストーリーが展開していきます。

 

 

告解の内容を教えるように迫られますが、戒律を理由にサルス神父は沈黙を貫きます。
「沈黙こそがいかに雄弁であるか」が根底に流れるもう一つのテーマのようです。

サルス神父はカルトジオ修道会所属の修道士という設定です。
映画「大いなる沈黙へ ーグランド・シャルトルーズ修道院」で世界的に知られるようになったあの修道会です。
カトリック教会の中でも最も戒律が厳しく、現在は約200人の修行僧が「沈黙」「孤独」「清貧」を重んじた生活を送っているそうです。

この映画の(わたしが考える)最大の見どころは、ラスト5分でサルス神父が登場人物全員を前にして語るお説教です。

「自らを見つめなおしなさい」「自己を律するのです」と言われている気がしたのです。

権力欲、金銭欲、物欲に支配されている現代社会(登場人物たち)への戒めのお説教が、まるで自分に対して語られているかのような錯覚に陥りました。

それまでの100分以上、ずっと重苦しい空気が流れているストーリー展開だったのが、雲が晴れたようにラスト5分ですがすがしい爽快感に包まれる、圧巻のお説教です。

 

あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、「にわか雨になる」と言う。実際そのとおりになる。
また、南風が吹いているのを見ると、「暑くなる」と言う。事実そうなる。
偽善者よ、このように地や空の模様を見分けることは知っているのに、どうして、今の時を見分けることを知らないのか。
(ルカ12・54~56)

福音書のこの箇所を思い出しました。

わたしの愛読書、カール・ヒルティの言葉も浮かびました。

神の霊がしばしば思いがけない仕方で訪れてきて、その生命と喜びをもってわれわれの全存在を満たし、一瞬のうちにすべての重荷をわれわれの心から取り去ることがありうる。
(「眠られぬ夜のために」より抜粋)

 

今の時に与えられた重荷とはなんでしょうか。
ヒルティの言う「神の霊が思いがけない仕方で」ある日訪れて「満たし」「重荷を心から取り去る」という経験はわたしもあります。

それは、素晴らしい映画を観たとき、心を揺さぶる本を読んだとき、音楽に涙するときにも訪れます。
アメリカの新大統領就任式で、コロナウィルスによって亡くなられたすべての方へ黙祷が捧げられたのを見たとき、そこに神の霊が訪れたのを感じました。

祝賀会の最後を飾った、歌手のケイティ・ペリーの感動的な歌と打ちあがる無数の花火に涙が出ました。

https://youtu.be/qNZ8XCobUUM

わたしも、やはりこのコロナ禍の生活でストレスがかなり溜まっていたようです。
素晴らしい映画と、就任式の黙祷、歌手たちの素晴らしい歌声に涙し、心の重荷が少し軽くなったような気がします。

 

困難に直面したときには、泣いておられるイエスを思い浮かべるとよいでしょう。
少なくともわたしには効き目があります。
エルサレムを見て泣いておられるイエス、ラザロの墓の前で泣いておられるイエスです。
神はわたしたちのために泣いてくださいました。神は泣いておられます。
わたしの苦しみのために泣いておられます。
神は泣けるようになるために――ある神秘家によれば――、自ら人間になろうとされたのですから。

自分と一緒にイエスが苦しんで泣いておられる姿を思い浮かべることは、慰めとなり、さらに前に進む助けとなります。
イエスとのきずなを保ち続けるなら、たとえ人生から苦しみが無くなることはなくても、幸福に向けた素晴らしい地平が開け、その充満に向けて進むことができるでしょう。
勇気をもって、祈りながら進みましょう。
イエスはいつもわたしたちのそばにおられます。
(教皇フランシスコ、2020年10月14日一般謁見演説より)

 

神が、イエス様がいつもわたしたちのそばにおられることを決して忘れてはいけない、改めてそう心に刻み、自己を見つめなおす毎日です。

 

役割とその担い手

久留米教会も、福岡県の緊急事態宣言が終わるまでミサは中止となっています。
各人が引き続き感染防止に努め、一日も早く事態が収まるように行動自粛を心がけましょう。

**********************

教皇フランシスコは、自発教令の形をとった使徒的書簡「スピリトゥス・ドミニ」をもって、教会の朗読奉仕者と祭壇奉仕者に、男性のみならず、女性も正式に選任することができるよう、教会法を改定した。

今日の教会において、男性・女性共に、信徒がみことばと祭壇への奉仕に委託を受けて参加することは、認可のもとに、世界中に定着している。

このように状況に応じて「臨時の委託」を受ける奉仕者に対し、正式な儀式をもって朗読奉仕者ならび祭壇奉仕者に「選任」される者は、伝統的に男性に限られていた。

教皇フランシスコは、このたびの自発教令を通し、教会法230条1項を改定、司教協議会の規則が定める年齢と素質をもった信徒を、正式な典礼によって、選任の朗読奉仕者と祭壇奉仕者とする道を女性にも開いた。

 

このニュースを読んだときの率直な気持ちは、
「知らなかったけど、今頃なの?!」


久留米教会は、昨年6月から主日のミサを4回行ってきました。
(宮﨑神父様、本当にありがとうございます!!)
土曜日19:00,日曜日6:30,9:00,11:00
このうち、日曜日の9時と11時のミサの聖書朗読をしてくださる方2名ずつ、つまり毎週4人の方に依頼する役割を担わせていただいています。

去年まで、日曜日9時のミサで聖書を朗読される方、答唱詩編を歌われる方は、同じようなメンバーでした。
典礼の担当者に「もっといろいろな方に読んだり歌ったりしていただいてはどうですか?」
と、ご苦労されていたことも知らずに言ってしまったことがあります。

「皆さん、断られるのよ」

去年の6月にミサが再開されてから、毎週4人の朗読者を捜して依頼するのは確かに結構大変でした。

「恥ずかしい」
「まだ無理」

そうおっしゃる方に、優しくしつこくお願いするようにしてきました。

「一度やってみてください」
「練習してきてください」
「ご自宅で聖書を開いて読んでみてください」
ベトナム、フィリピンの方には「フリガナがふってあるからよく練習してきたらできる!」と励ましながら。

初めての朗読を終えた方のほとんどが

「またやってみたい」

そうおっしゃるのです。
最近は立候補してくれる方もたまに。

とにかく、やったことがない方にできるだけお声をかけるように。

 

冒頭にご紹介したニュース、なぜ今まで男性に限られていたのか、その理由は十分に理解しています。
ただ、「いまごろ?!」と思ったのは、司祭の召命が世界中で激減している現代、任せられる役割はどんどん振り分けてよいはず(女性に、ではなく誰にでも)と感じているからです。

聖書朗読、第一朗読(預言書など旧約)と第二朗読(書簡)はその簡単な例でしょう。
第一は女性、第二は男性、という習慣?慣例?も、宮﨑神父様は「気にしなくてよい。」と言ってくださいます。

読みたい人、読める人がちゃんと練習してから読めばよい、と。

今まで円形のアドベントクランツを準備してきたのですが、去年は初めて長方形にして横一列にロウソクを並べてみたいと計画しました。

インスタグラムなどで素敵だと思ったし、円形よりもスクエアの方が作りやすいのです。
その時も宮﨑神父様は、「厳格な決まりがあるわけじゃない。作りやすいようにやっていいよ。」と。

つまり、そうやって「任せてくれる」とハードルが下がり、誰にでもできる役割が増えるのです。

これは、教会のことに限ったお話ではありません。

家庭での子どものお手伝い、会社での若い社員への仕事の割り振り、地域の行事など、どの場面でも同じようなことが考えられます。

いつまでもすべての家事をお母さんがこなし、自分がやったほうが確実で早いからと中堅社員がなんでも引き受け、伝統行事を知り尽くしている年配の方だけが地域を取り仕切る。
そんなことでは世の中は全く回らなくなる。

実感された経験をお持ちではありませんか?

 

年明けのごミサの時、神学生の吉浦君が冬休みで来ておらず、祭壇のロウソクの灯がともっていませんでした。
それに気づいた高校生の男の子が、誰に指示されたわけでもなくロウソクを灯してくれました。
遠くからその様子を見ていて、とても嬉しい気持ちになったのです。

「プレゼピオを片付けなきゃ」と佇んでいたら、「手伝いましょうか?」と集まってきてくれた子どもたちやベトナムの若者たち。

何も言わなくても気づいて動いてくれる若い人がいます。
久留米教会っていいな、と2021年の始めはそんなミサが続いていました。

気を引き締めなおしましょう。
国が、政府が、行政が、と言っている場合でもそういう問題でもありません。
わたしたち一人ひとりの行動がまず第一です。

今年は御復活をお祝い出来ますように。
まずはそこに目標に置いて、静かに暮らしましょう。

 

2021をよりよく生きるために

聖堂の横の庭園スペースに、新しく石碑が据え置かれたことにお気づきになりましたか?

イエスのみこころにささげられた久留米教会 
教会を訪れる人がそのことをいつも思い起こせますように。

 

 

キリスト教は3世紀前半まで、まったく政治利用、権力利用されていませんでした。
エルサレムの神殿が起源70年に壊されてほとんどのユダヤ人のディアスポラが始まるまでは、宗教とさえ認められていません。

なぜならローマ帝国は「新宗教」を認めていなかったからです。
キリスト教はユダヤ教の分派と理解されていました。
それからの歴史のいろいろな経緯で、西欧キリスト教文化という今の「近代世界」のベースができたのです。

これは、竹下節子さんのブログに書いてあったことばです。

今では欧米のほとんどの国が、何らかの形でキリスト教の歴史の上に形成されているのは、そう考えると不思議なことにも思えます。

そう。
現在わたしたちが信じていること、生きているこの世の中は、長い長い歴史と葛藤と不思議なことの積み重ねでできているのです。

いまから何年経ったら、コロナウィルスの蔓延とアメリカ大統領選挙の混乱がもたらしている現状が歴史に意味をもたらすでしょうか。

そう考えずにはいられない、2021年の始まりです。

わたしたちの歴史に刻まれるであろうこの2つの出来事にも、政治的、宗教的な権力闘争、利害の対立があります。
示されているはずの教訓を人々(わたし)が実際に受け止めるのはずっと先のことのように感じています。

理想とする連帯、実際には分断
思いやりと希望、現実には批判と非難と不安

わたしたち人間の弱さと愚かさを毎日見聞きし、実際に自らがその悪魔にとり憑かれることを体感する日々。

なぜ協力できないのか。
なぜ批判ばかりするのか。
そう言いながら、他者を非難する。

この悪循環を今年は断ち切りたい。

わたし自身のこと、わたしの決意ではありますが、多くの方も思い当たることはないでしょうか。

何事にも意味があります。

歴史上、人間は多くの過ちをおかしてきました。

その都度、もとに戻すのではなく軌道を変え、価値観を新たにし、示された意味を理解しようと努めてきたはずです。
洗礼を受けている、というお恵みを忘れてはいけないときです。

2020年は良いことがなかった、と感じている方が多いかと思います。
2021年はよりよく生きていきたい、そう思っています。

 

聖書に落ち着きを見出したい。
そう思って、無作為にページを開いて読むことにしました。

(昔からそうしています。
 今週の朗読箇所を読む、読み方ではなく、あえて無作為に開いてみるのです。
 そうして開いて読んでいくうちに、求めていた言葉に出会えた時の喜びは格別です。)

 

嵐における主の栄光

神の子らよ、主に帰せよ、
栄光と力を主に帰せよ、
み名にふさわしい栄光を主に帰せよ。
主を拝め、聖なる方の現れる時。

主の声は水の上。
栄光の神は雷鳴をとどろかされる。
主は果てしない水の上。
主の声には力があり、
主の声には威厳がある。
主の声は杉の木を砕き、
主はレバノンの杉を打ち砕く。

主はレバノンを子牛のように、
シルヨンを若い野牛のように躍らせる。
主の声は火の炎をひらめかす。
主の声は荒れ野を震わせ、
主はカデシュの荒れ野を打ち震わせる。
主の声は雌鹿をのた打ち回らせ、
森を裸にする。
その神殿ですべてのものは「栄光あれ」と言う。
主は洪水の上に座し、
主は王としてとこしえに座られる。

主はご自分の民に力を与え、
主はご自分の民を祝福し平安を与えてくださる。
(詩編29)

 

荒れ野と乾いた土地は歓喜し、
荒地は喜び、花を咲かせる。
水仙のように花を咲かせ、
まさに喜びに喜んで歓呼し、
レバノンの栄光とカルメルとシャロンの威光がこれに与えられる。
彼らは、主の栄光、
わたしたちの神の威光を見る。
弱った手を強くし、
ふらつく膝をしっかりさせよ。
心に不安を抱く者たちに言え、
「強くあれ、恐れるな。
実よ、お前たちの神を。
報復が、神の報いが来る。
ご自身が来られ、お前たちを救ってくださる。」
その時、見えない人の目は開かれ、
聞こえない人の耳は開けられる。
その時、足の不自由な人が鹿のように跳ね、
口のきけない人の舌が喜び叫ぶ。
荒れ野には水が、
荒地にも流れが湧き出る。
焼けつく砂地は池に、
乾いた土地は泉となり、
かつて山犬が伏した棲処に葦やパピルスが生える。
永遠の喜びが彼らの冠となり、
喜びと楽しみが彼らに追いつき、
悲しみと溜息は去る。
(イザヤ35)

 

聖書を開きましょう。
宮﨑神父様がいつもおっしゃっています。
もっと聖書を身近な存在にしてみるのです。

難しく考えなくてもよいのです。
聖書にもっと親しむことによって、自分に与えられているお恵みに気づき、抱えている不安の解決の助けとし、今本当に必要なことを見極める知恵を呼び覚ましましょう。

☆神の音楽の音を出してくれるハーモニーである聖書
☆相違なる音から一つの救いの音声を放つ聖書
☆一面に花の咲く平原である聖書
☆神からの手紙
☆人間の故郷である天国からの手紙である聖書

初代教会の教父たちは、聖書をこう表現したそうです。

聖書を読んだことのある人はほとんど例外なく、この書物の中に何か大切なことがあると言います。
ある人は判断や行動の基準となるものを見出し、
ある人は人生を精神的に豊かにするものを求め、
病んだ心を癒してくれることば、正しく導いてくれることばを探し出す。
優れた文学や偉大な哲学書として読む人もいるでしょう。

人々は聖書にいろいろな仕方で近づいており、そのいろいろな読者の関心に幅広く答える不思議な書物である、と和田幹男先生はおっしゃっています。

2021年はいつも聖書をそばに。

 

『成人』することの意味

皆さま、2021年あけましておめでとうございます。
今年も、毎日のお恵みを見逃さず、各々が置かれている立場と与えられた責任に忠実に、思いやりと感謝に溢れた日々を生きていけますように。

3日のごミサでは、今年20歳の成人となる信徒のお祝いがありました。

 

 

日本では『成人』というと、「お酒が飲める年齢になった」というイメージが強いのですが、本来の成人するという意味は「社会的責任を持つことを認められた」ということではないでしょうか。

ユダヤ教では、男子は13歳で成人となるバル・ミツバ(女子は12歳バト・ミツバ)という儀式がエルサレムで盛大に行われます。

 

(ユダヤ教では祈りの場は厳格に男女が分けられています。
嘆きの壁も左半分が男性用、右半分が女性用です。
このバル・ミツバの儀式も男子と父親や男性親族だけで行われ、母親や女性親族は仕切りからのぞき込む形です。)


これは、(ウィキペディアによると)中世以降にできたしきたりで、キリスト教の堅信式の影響を受けて始まったと言われています。
つまり、イエス様の時代には無かったのです。

ユダヤ教の戒律を守ることができる年齢が成人である、とされています。
自分の行為で許されることと許されないことを認識し、自分の行動に責任を持てる年齢に達したことを、成人式という形で祝うのです。


ヨセフ様、マリア様が3日も探し回ってようやく見つけた12歳になった我が子イエスが神殿で学者たちと知的なやり取りをしていた、というあの出来事を思い出します。

どうして、わたしをお捜しになったのですか。
わたしは父の家にいなければならないことを、ご存じなかったのですか。
(ルカ2・49)

イエスは知恵も増し、背丈も伸び、ますます神と人に愛された。
(ルカ2・52)

イエス様の少年時代(お生まれになったこと、そしてヨハネから洗礼を受けるまでの間の)唯一のエピソードであるこの箇所は、わたしにはイエス様の成人した記念の出来事に思えるのです。

他にイエス様の少年期、青年期の記述がないので想像にすぎませんが、この日、マリア様は悟られたのではないでしょうか。
幼かった我が子はもう母の手元から離れ、成人として、いつの日か何かを担う存在となるということを。
「これらのことをことごとく心に留めていた」という短い記述がその覚悟を秘めていると感じます。

 

教皇フランシスコ講和集7に「よい羊飼い」というお説教があります。
少し抜粋してご紹介します。

よい羊飼い(イエスのことです)は、わたしたち一人ひとりに目を配り、わたしたちを探し、わたしたちを愛し、ご自分のことばを伝え、わたしたちの心の奥底、願望、希望、そしてわたしたちの失敗や失望を知っておられます。
イエスはわたしたち一人ひとりに終わることのない、全きいのちを生きる可能性を与えてくださいます。
さらにイエスは、愛をもってわたしたちを守り抜き、人生で向き合うことになる険しい道や、時に危険な道をくぐり抜けるのを助けてくださいます。
イエスに倣って、兄弟愛と自己奉献という新しい道を歩むために、自分勝手な行いをやめ、誤った道の迷路から離れるのです。

 

次は、2019年のワールドユースデーで語られたお説教の一説です。

皆さんの自分に与えられた使命は遠い未来の約束ではありません。
青年期は待合室ではありません。
今日のあなたの人生は、今日しかありません。
危険を冒すなら、それは今日です。あなたの出番は今日なのです。
「皆さんは未来です」とよく言いますが、皆さんは未来ではありません。
皆さんは「いま」です。
皆さんこそ「神のいま」なのです。
神と神から与えられた使命に、待ち時間はありません。
それは、いまなのです。

 

単純な言い方ですが、この教皇様のおことばを理解できる、実行するように努めようとできる、それが『成人』なのではないかと考えます。

コロナ禍にあって、学業も就職もままならない、困難な時代を生きる若者を思うと、自分が20歳だった時代がうそのようです。

今年『成人』となる若者たちが、これからも直面するであろう困難に立ち向かうための強さと優しさを身にまとうことができますように。

 

父である方の愛

イエス様の誕生をもって、教会のカレンダーは降誕節に入ります。
クリスマスの次の日曜日は聖家族をお祝いするのが習わしです。

父と子と聖霊の御名によって アーメン

父である神
イエス様
聖ヨセフ様もお父様です。

どうしても存在感の薄いヨセフ様ですが、イエス様がダビデの家系なのはヨセフ様の血です。

ヤコブの子はマリアの夫ヨセフである。
キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。
(マタイ1・16)

イエス様がダビデの家系てあることが書かれたそのあとに続き、ヨセフ様へのお告げについて書かれています。

イエスの母マリアはヨセフと婚約していたが、同居する前に、聖霊によって身ごもっていることが分った。
マリアの夫ヨセフは正しい人で、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。
ヨセフがこのように考えていると、主の使いが夢に現れて言った。
(2・18~20)

ヨセフは眠りから覚めると、主の使いが命じたとおり、彼女を妻として迎え入れた。
マリアが男の子を生むまで、ヨセフは彼女を知ることはなかった。
(2・24~25)

イエス様が生まれた直後にも、エジプトに非難するように主の使いが夢でヨセフ様に現れて言います。
そして、エジプトから出てイスラエルに行け、と主の使いが夢に現れるのもヨセフ様に、です。

ルカには、「ダビデ家とその血筋に属していたヨセフ」がベツレヘムに住民登録にマリア様を連れて行ったことと、主の使いが羊飼いにベツレヘムへ行くように告げたとき「マリアとヨセフ、そして飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた」という2か所にヨセフ様のことがチラッと書かれています。

マリア様を静かに受け入れ、エジプトへ行け、イスラエルに戻れ、と天使のお告げに従って家族を守ったお父様。

なのに、外典に書いてあるからなのでしょうが、中年だったさえないおじさんが若いマリアを嫁にもらうことになり気が引けたから耐えた、ようなイメージがないことはない、、、です。

 

ミケランジェロ HolyFamily

(完全に、お父さんじゃなくておじいさんです、、、)

 

ヨセフは一見すると主役級にはならないものの。その姿勢の中にはすべてのキリスト者の知恵が収められています。
説くことも語ることもしませんが、神のみ旨を行おうとするかたで、しかもそれを福音に沿った、真福八端の仕方で行います。
ヨセフは完全に神を信頼し、天使の言葉に従ってマリアを自分のもとに迎えます。
神に対する固い信頼によって、人間には困難なことを、ある意味納得のいかない状況を、受け入れることができるのです。
ヨセフはマリアの胎から生まれる子は自身の子ではないこと、神の御子であることを、信仰において理解します。
そうしてヨセフは、地上での父であることを全面的に受け入れる保護者となるのです。

(教皇フランシスコ講和集7より)

 

早くから描かれていた聖母子像と違って、聖家族は16世紀頃から描かれるようになりました。
それまではヨセフ様に対する信仰が薄かったからと言われています。
教会がヨセフ様を保護者として認定したのは1870年です。

 

久留米教会にはもともと、マリア様のご像しかなかったのですが、30年ほど前にヨセフ様のご像もこうして設置されました。
(ちょっと頼りない雰囲気?)

 

 

これは、ガイドさんが「イスラエルで一番美しい聖家族のご像だと思っている」とおっしゃっていた、イスラエルの聖ヨセフ教会のご像です。
(頼りがいありそう?)

 

教皇フランシスコは12月8日、聖ヨセフがカトリック教会の保護者として宣言されてから150年を迎えるにあたって、2020年12月8日から2021年12月8日を「ヨセフ年」とすることを宣言しました。

教皇は同日、使徒的書簡「パトリス・コルデ」(父親の心で)を発表し、イエスの養父としての聖ヨセフの優しさやあふれる愛、神からの召命への従順さ、父親としてあらゆることを受容し、創造性をもって行動した勇気、質素な労働者としての姿、目立つことがなかった生き方に触れています。
聖ヨセフは「執り成しの人、苦難の時に支え、導いてくれる人」だと教皇は記しています。

使徒的書簡は福者ピオ9世教皇が1870年12月8日に聖ヨセフを「カトリック教会の保護者」と宣言してから150年を記念して発表されました。
教皇フランシスコは使徒的書簡で、新型コロナウイルスのパンデミックが続く中で、聖ヨセフが示してくれているのは、日々の困難を耐え忍び、希望を示しているが、決して目立つことのない「普通の人々」の大切さだと強調しています。
(カトリック中央協議会ホームページより)

 

2020年は、誰にとっても試練が与えられたような、多くのことを考えさせられる、忘れがたい年となりました。

わたしたちには、幸いにもお父さんがいてくれます。

天の父
イエス様、ヨセフ様
神父様

マリア様へは毎日お祈りしていますが、ヨセフ様にお祈りしたことはないかも。。。

この一年の締めくくりとなるあと数日、ヨセフ様にもご加護をお願いしつつ、地球全体に与えられたこの試練の日々が一日も早く収まりますように祈りながら新しい年を迎えたいと思います。

 

 

久留米教会の召命を考える

久留米教会の広報誌、みこころレターの11号が完成しました。

前任主任司祭の森山神父様が「教会に来られない信徒にも教会の様子を知らせるツールとして」の役割も込めて始められた広報誌です。

 

年に2回、6月と12月の発行を続けていましたが、今年は教会が春に閉鎖されたことで6月の発行は見送りました。

毎回、テーマを決めて記事の構想を考えています。

今回のテーマは『召命』です。

 

このコロナ禍、日曜学校の子どもたちが減り、侍者もいないミサが続き、少年たちを日曜日に見かけなくなってしまいました。
やはりどうしても『召命』=少年たちが司祭を目指してくれる聖霊のお導き、という考えにとらわれてしまうわたしとしては、なにか不安が拭えない日々だったのです。

みこころレターの構成について宮﨑神父様と打ち合わせをしているときに、そのことをお話しました。

「教会の庭を手入れしていつも花を植えてくれている人たち、誰も行かない墓地の清掃をしてくれている人たち、そういう信者の召命の姿も記事にしなさい。」

そう教えてくださいました。

心が湧き立ち、次々とアイデアが浮かんできました。

墓地の清掃のことは、このホームページでご紹介させていただきました。
清掃をしてくださっている信徒のおじさま方に「わたしを墓地に連れてって!!」とお願いし、お話を伺っていたら広報誌のスペースでは足りない!と思ったので、ホームページで熱く語りました。

わたしがこうして教会の広報の役割を任せていただき、楽しみながら取り組むことができていることについても、「あなたはあなたの召命を生きてるじゃない!」とある神父様から言っていただきました。

やはり『召命』は幅も奥も深いのです。

今回のみこころレターでは宮﨑神父様、船津神父様、古市助祭様、神学生の吉浦君にご自身の召命について書いていただきました。

 

アベイヤ司教様にインタビューをし、久留米の信徒へのメッセージをいただきました。

紙面の都合で掲載できなかった、みこころレターのためにアベイヤ司教様が書いて送ってくださったメッセージの全文をご紹介します。

・・・・・・・・・・・・

「小教区共同体を行き来するには」 ヨゼフ・アベイヤ

小教区を訪問するときによく聞かれるのは、小教区共同体はより活発になるために何をすればいいでしょうか、ということです。
その時繰り返し伝えるのは、「初代教会の姿を見ることです、4つの特徴が見られます」

1)共に祈る
皆が集い、共に祈りに参加し、互いに支え合っている姿はとても美しいものです。
一人ひとりが置かれている場でイエスの弟子として生きる力となったのです。

2)キリストを記念する
初代教会の人々は、《これを私の記念として行いなさい》というイエスの言葉を忠実に守りました。
その時から教会は二千年にわたって、この記念を行ってきました。現代、ミサと言います。

3)兄弟とすべての人々を心にかける
すべてを分かち合って、物が足らなくて困った人はいなかったことです。
共同体においてはもちろんのこと、周りの人々の情況を心にかけて関わったのです。

4)福音の喜びを伝える、天の父が望んでおられる社会を築く
現代の言葉で言えば「福音宣教」です。
彼らは人々の心の渇きに気づき、与えられた福音を宣べることによって、それに応えたのです。
また、社会の中にあった矛盾と不正に気づき、福音の力によって、社会を変えていくパンだねになろうとしたのです。

・・・・・・・・・・・・

よいクリスマスを ♰

(ベツレヘムの聖誕教会のステンドグラスです。)

 

信仰の歴史と遺産

先週お越しになったアベイヤ司教様が「久留米は歴史ある教会です。この遺産を守りながら将来をしっかり見極めて進んでください。」とおっしゃった言葉が心に響き、そのことをずっと考えています。

【共同訳】
“霊”の火を消してはいけません。
預言を軽んじてはいけません。
すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。
あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。

【フランシスコ会訳】
霊を消してはなりません。
預言を侮らないようにしなさい。
しかし、そのすべてをよく吟味しなさい。
そのうえで道理にかなったことを大切に保ち、
悪いことならどんなことであっても、それに近づいてはなりません。
(1テサロニケ5・19~22)

この「霊」とは、「霊の特別な恵み(カリスマ)」のことを言っています。

日本の先人たちが初めてイエス様の教えを聞いたとき、どのように感じ、どのくらいの驚きと喜びを胸に躍らせたのでしょうか。そのことをずっと想像しています。

イエズス会の記録によると、慶長5年(1600)前半に久留米に伝道所が開設されレモウラ神父と修道士が駐在し、久留米城下に薩摩から運んだ材木で住院のついた天主堂が建設されました。
このほかにも、町のキリシタン達がもう一つの教会を建てていたそうです。

久留米城主 毛利秀包の熱意に支えられて布教は最盛期を迎え、久留米とその周辺のキリスト教信者は7,000人いたと言われています。

久留米教会が1978年に宣教再開100周年を記念して作成した記念誌に載っている、当時の平田司教様の文章をご紹介します。

1601年にスペインで出版された東方伝道史の中に、
「1595年、26聖人の殉教2年前に神父と修道士は久留米という筑後の城下町に到着した。ここには古い二人のキリシタンがいた。この二人のキリシタンは、日曜・祭日に自分の家にあった礼拝所に信者を集め、皆が一緒に祈り終わると、聖教に関する数種の本を朗読した。300名ほどのキリシタンがいるが、神父はこれらの人の告白を聞き、修道士は教えに関する一般の話をした。」と記録されている。

この時点で、久留米での宣教は400年ぐらい前に始められたと思われる。
その後、迫害の火の手が全土に及ぶにつれ、久留米の信者も苦難の道を歩くようになった。
信仰の火種は消えてなくなったかのように見える状態が250年も続いた。

1878年にはソーレ神父様が久留米に正式に赴任して宣教を再開した。

 

旧筑後久留米藩領の三井郡大刀洗町(今村周辺)が、江戸時代禁教期の潜伏キリシタン(かくれキリシタン)集住地区であったことは良く知られています。
幕末~明治時代初頭に久留米藩による今村キリシタンの一斉検挙拘束があり、殉教者を出しています。

 

大刀洗町にある殉教跡地に建てられた祭壇です。

イクトゥスとは、ギリシャ語で魚を意味します。
そして、同時に「イエス」「キリスト」「神の子」「救世主」の頭文字を並べた単語でもあるそうです。
偶像崇拝を禁止していたユダヤ教の勢力が強い時代の初期のキリスト教徒が、隠れシンボルとして用いていた、と言われ、それがこの今村・大刀洗のキリシタンたちにも伝わっていたのでしょうか。

 

戦国時代末期に秋月にはキリシタンに寛大な秋月種実などの武将がおり、末次興善(コメス)という、博多、長崎、堺などで活躍していた豪商のキリシタンがいました。
永禄12年(1569)に興善は、医師でもあるアルメイダ修道士を紹介して武将など30人に洗礼を授けました。
末次コメスの屋敷裏には小さな教会があって、宣教師達は博多から時々秋月の教会を訪れたようです。

秋月の美しい紅葉の小川に沿った道の奥に、ひっそりとその天主堂の跡地はありました。


昨年11月に訪日されたフランシスコ教皇様がおっしゃったことです。
「この数日間に、何世紀にもわたる歴史の中ではぐくまれ、大切にされてきた日本のすばらしい文化遺産と、日本古来の文化を特徴づける宗教的、倫理的な優れた価値に、あらためて感銘を受けました。
異なる宗教間のよい関係は、平和な未来のために不可欠なだけでなく、現在と未来の世代が、真に公正で人間らしい社会の基盤となる道徳規範の大切さを認められるよう導くために重要なのです。」
(政府および外交団との懇談、同年11月25日)

 

歴史は語り継いでいかなければ、いつか忘れ去られます。

遺産は管理していく人がいなければ、朽ち果ててしまいます。

ですが信仰は、歴史のなかに埋もれた遺産であってはいけません。

先月ここに書いた墓地のように、たとえそこにご遺骨がもう眠っていないとしても、管理し、祈りを捧げている信徒の姿がある限り、霊は働き、信仰の火は灯っています。

そして、アベイヤ司教様が仰ったとても大切なこと。

彼らは教会の「未来」ではありません。

彼らは「現在」の教会の仲間です。

ツリーの飾りつけと、馬小屋セットを出す役割を担ってくれました!

彼らと共に教会の歴史を創っていきたい、と心から思った日曜日でした。

 

「今月の本」はこちら。↓
表裏の帯に書いてあることばを読むだけで心が震えました。
キリシタンの信仰の小説ですが、ノンフィクションかと思われるほどのリアリティです。

江戸時代を通じて、ひっそりと潜教し続けた福岡県「今村信徒」の慟哭の歴史(Amazonの説明より)

 

 

『堅信式』アベイヤ司教様公式訪問ミサ

6日はアベイヤ司教様の司式によるミサの中で、17名の子どもたちの堅信式が執り行われました。

 

マリア様が聖霊によって身籠られたこと、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたこと、このようにイエス様は2回聖霊を受けられています

聖霊の導きによって洗礼を受けることで「神の子」として誕生したわたしたちは、2回目の聖霊の働きである堅信の秘跡によってその信仰を確固たるものとし、派遣されていくという意味があるのです。

アベイヤ司教様は「今日もらう堅信証明書は卒業証書とは違います。今日からみなさんは、聖霊の働きによってキリスト者として新たにされたのです。今日参列している先輩信徒の皆さんは、あなたたちのために祈ってくれています。あなたたちのためにですよ!」と力強くおっしゃいました。

今年はコロナ禍において、何も良いことがなかった、、、ということはありません!

5月にはアベイヤ司教様が着座され、7月には船津司祭が、10月には古市助祭が叙階されるという素晴らしい記念すべき年でした。

司祭
司教
教皇

教皇様が一番偉くて、枢機卿、司教、司祭の順である、ということでは全くありません。
12使徒がどのような人々だったかを思い返してみるとわかります。
それぞれがユニークであり、現代の信徒であるわたしたちがそれぞれに個性があるのと全く同じで、12人は違った特性を持っていました。
違いながらもイエス様への愛と信頼において、彼らはひとつに結ばれていたのです。

誰が一番偉いのか、で言い争ってはいましたが、結局はペトロが一番だった、というわけではないのです。
イエス様は、3度自分を否認したペトロに3度ご自分への愛を確認し、首位権をお示しになります。
(ヨハネ21・15~)
神の国の鍵を与え(マタイ16・17~19)、ご自分の羊の群れ(信者たち)をペトロに委ねられました。

イエス様の教えを次の世代に確実に誤りなく伝えていく役割が使徒たちに委ねられ、それが教父たちによって確立され、現代の司教たちへと続いているのです。

『教導職』と言います。

 

教皇権・教皇職(司教・司祭職)は「信ずる人々のエクレシア(集り、教会)」を生き生きと生かし、分裂なき健やかな集まりとするための奉仕職・奉仕権なのだ。
この奉仕(サービス)を受けて、集る側もまた、世の万人のために奉仕(サービス)する。
では、教皇(ペトロ後継者)は「教会のかしら」か。
めっそうもないことである。

教会のかしらはただキリスト・イエスのみ。
教皇(司教)はキリストのわざと心を託されて継いでゆく管理者的しもべ。
(ルカ12章以降度々出る管理人のたとえ参照)
犬養道子さん「聖書を旅する3」より

 

久留米教会というエクレシアに集うわたしたちです。 

同じひとつの心の集まりである教会における、多様性、ヴァラエティ。
これこそがイエス様の望まれたことなのです。

アベイヤ司教が7月の船津司祭の叙階式で久留米に来られた時のことです。

全ての参列司祭が黒っぽいスラックスパンツに黒の革靴でしたが、ある神父様(久留米の前任主任司祭!)は、ブラックジーンズに裸足に皮のサンダル姿で現れ、そのままその上に着衣されたのです。
思わずわたしは、「え、、、まさかその恰好のまま!?うそでしょ!??!」と言ってしまいました。

するとアベイヤ司教様が笑いながら
「カトリック教会は多様性を重んじていますから!」とおっしゃったのです。

このユーモアのセンスと素敵な笑顔と足の長さに、わたしはすっかりファンになってしまったのでした。

司教様へインタビューさせていただきましたので、みこころレターをお楽しみに!!

神と人の仲介役

今日11月30日は聖アンデレの記念日(聖名祝日)です。
マタイは英語でマシュー、マルコはマーク、ルカはルーク、ヨハネはジョン
そして、アンデレはアンドリュー!

(わたしの好きな映画俳優やシンガーは、決まってこの辺の名前です。)

マルコによる福音書では弟子のリストの中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネについで4番目の位置にあります。

わたしのイメージでは兄ペトロに比べあまり目立たない地味な弟子のような気がしていましたが、アンデレに焦点を絞って聖書を読むと、見えてきたのは彼の存在の深い意味でした。

ヨハネによる福音書ではペトロにイエス様を紹介したのはアンデレです。

ヨハネから聞いて、イエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟のアンデレであった。
アンデレは兄弟シモンをまず見つけて、「わたしたちは、メシアを見つけた」と言った。
アンデレはシモンをイエスの所に連れて行った。
(ヨハネ1・40~42)

ガリラヤ湖畔でパンと魚を持った1人の少年を連れてきてイエスに紹介したのもアンデレです。(6・8~9)
また、ギリシャ人がイエスに会いにきたときも、その間を仲介しています。(12・20~22)

つまり、アンデレはいつも重要な仲介役の役割を果たしていたのだ、とヨハネには書かれているのです。

 

聖アンデレ Josepe de Ribera

一番弟子の兄ペトロの陰にかくれて、アンデレの話はあまりのこっていない。
”側近”はペトロとヤコブ&ヨハネ兄弟であり、アンデレはその3人とごく近しかったのにそこに入っていない。
兄のペトロにイエスのすばらしさを話し、であうきっかけをつくったのもアンデレである。功績は大きい。
でも側近にはなれなかった。ヨハネとともに”最初の弟子”のひとりでありながら、ずっと「あのペトロの弟」で過ごした。
きっとアンデレはそんなことどうでもよかったのだろう。不平ひとついわない。
なにかにつけてだれがいちばんえらいかを口論する弟子たちのなかで、彼はめずらしくおだやかで控えめな男だった。
ちなみにアンデレとは”男らしい”という意味である。
主役ではないが渋いヤツという感じだったのだろう。

(遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子 より) 

 

アンデレが兄とイエス様を繋いだ「間を結ぶ者」であったように、イエス様は人々と神様を結ぶ「仲介者」でした。

今、遥かに優れた務めが、キリストに与えられました。
それは、キリストが、この上もなく優れた約束に基づいて制定され、この上もなく優れた契約の仲介者となられたからです。
(ヘブライ人への手紙8・6)

イエスは単に神と人間との間に立つのではない。その身を捧げて永遠に途切れない関係を保つ者だった。
「見るがよい。神の子羊だ」という洗礼者ヨハネの言葉によって、イエスを見たあと、戦慄にも似た畏れと共にイエスに従ったアンデレは、彼の意志とは別なところで、小さな「仲保」の役割を分有されている。
聖書を読む限り、アンデレはそのことを自覚していない。だが、それゆえにこそ、彼の働きは不朽なのだともいえる。
(「イエス伝」 若松英輔 著より)

 

成人洗礼の場合、信仰を持つに至るには運命的な出会いがあったという方が多いと思います。
教会に連れて行ってくれたり聖書講座に誘ってくれた人、つまり、神様との仲介役の存在が大きいのです。

代父、代母の存在もその一端でしょう。
わたしの場合は高校の担任の先生だったシスター。
母の場合は旅行先で訪れた教会で出会った神父様。

神様とわたしを繋いでくださったシスターは、いまでもとても大切な大切な存在です。

そしてわたしも、その体験を生かしてどなたかがわたしの言動で神様を感じてくれる存在になれますようにという希望を心に留め、生きていきたいと思います。

 

久しぶりに、犬養道子さんの「聖書を旅する 3」を読み進めていたら、こんな箇所を見つけました。

充満の生のよろこびから遠くはなれて、死という大制限の方に行ってしまった人類をつれ戻す橋わたし役(救い主とはこれも意味する)は、去って行った者たちの中からは出て来っこない、のである。
去って行った人類の中の男と女の結合は、橋わたし役をゆめ生み出せない。
永劫の充満の者自らが創造の息吹き(創世記)によって、汚れ(原罪)を前以てとりのぞいた乙女の胎に入り、そこで胎児となりひいては誕生し、人間のひとりとなって人間史に介入しない限り。
橋わたし役と言ってもよいし、歪んだ方向に向かってしまった人間性を、元来の方向に向けて逆転させる事業と呼んでもよい。

さぁ、待降節が始まりました。
わたしたちと神様の仲介役、人類を生のよろこびにつれ戻してくださる橋わたし役であるイエス様の御生誕をお祝いするために、わたしたち個々が目を覚ましてこの4週間を過ごしましょう。

↓ 今年は紫色を基調として、こんな感じに作りました!

 

死者への祈り

久留米には2か所の教会墓地があるのをご存じでしょうか。
新しいお墓の設置が中止され、教会内に納骨堂が増設されたこともあり、今は皆さま納骨堂をお選びになっています。

久留米教会の宣教100年を記念して作られた本によると、歴代宣教師のうち初代のソーレ神父様(1917年没)、3代目のフレスノン神父様(1936年没)、チリ司教様が眠っておられたのです。
(現在は和田墓地に移されていらっしゃいます。)

 

 

野中町の墓地の様子です。
遺骨はすべて納骨堂に移設されています。ほとんどのお墓は傾き、訪問者もほとんどないそうですが、こうしてお花を添えに通われているかたもいらっしゃいます。

次は、鳥飼にあるもう一か所の墓地です。
(墓地跡、というほうが正確かも。)

 

 

マリアの墓、と墓石にはありました。
こちらは、もうどなたも通ってこられている気配はありません。
それでも2か所とも久留米教会の有志の信者さんが定期的に草を刈り、除草剤をまき、通路を整備し、清掃してくださっていることで管理されているのが実情です。

 

みなさんはご自分の死後、遺骨をどうしてほしいか、ご家族などにお伝えになっていますか?

亡くなった母は生前、「教会の納骨堂に入れてほしい」と言っていましたが、実際には(仏教のお寺にある)我が家のお墓に眠っています。

理由は「父の希望」です。

父は毎朝、愛犬を連れてお墓にお線香を上げに行っています。
カトリック信者ではない父が「母に手を合わせる場所が欲しいから」として、お寺のお墓に納骨したのです。
(罪滅ぼしです)

この場合、母の希望よりも残された父の気持ちを優先したことは間違っていないと思っています。

長年連れ添った愛する妻サラを葬るために、アブラハムがお墓を造るための土地を買った話があります。

私はあなたがたのもとでは寄留者であり、滞在者です。
あなたがたが所有している墓地を譲っていただきたいのです。
そうすればこのなきがらを移して葬ることができます。
(創世記23・4)

残された者の義務として、私有の墓地にこだわったアブラハムの気持ちがよくわかります。

ローマ教皇庁では「遺骨を親族などで分骨してはならない」としているのですが、日本のカトリック協議会では風習も勘案して許可しているようです。
(注:最下段にリンク)

わたしは、NYと横浜に住んでいる妹たちに少し分骨して渡してあります。
彼女たちも「毎朝お茶を供えて祈る対象として」の分骨を希望したのです。

死者への祈りは、生者の務めであると同時にわたしたちの希望する追悼の形でもある気がします。

死者はそこにはいない、いつもわたしたちとともにいるとわかっていても、わたしたちはどこか定位置を決めて手を合わせることで心が落ち着くのを感じることが出来るし、死者を「追悼している雰囲気」を大切にしているのです。

遺骨のないお墓、聖墳墓教会では毎日ものすごい数の巡礼者が『お墓参り』に来て祈っていました。
(今は閑散としているのでしょうか。)

 

毎日、それぞれの宗派が決められた時間にミサや礼拝を捧げています。
(ほとんど一日中、次々と、です!)
カトリック、東方正教会、アルメニア使徒教会、コプト正教会、シリア正教会の複数教派による共同管理の「イエス様のお墓」なのです。

お墓(納骨堂)という場所は、死者のためではなく残された生者のために必要なものであることが実感できます。

草が生い茂って苔が生えたまま放置されている墓石では、眠っている死者に失礼だ、というよりも、わたしたちがいたたまれない、落ち着かない気持ちになります。

こうして教会の墓地を管理してくださっているボランティアの方がいらっしゃること、心に留め於いてくださいませ。

--------------------------------------------------------

*現在、久留米教会の納骨堂は、ご入場いただける時間と人数が決まっています。
 蜜をさけるため土日はお入りいただけません。
 平日の開館時間に、一度に2人まで(もしくはひと家族のみ)でお祈りをお願いしています。

--------------------------------------------------------

参考:教皇庁教理省『死者の埋葬および火葬の場合の遺灰の保管に関する指針 (Ad resurgendum cum Christo)』の日本の教会での適応について
https://www.cbcj.catholic.jp/2017/07/20/14105/

 

自分の中に見るユダ

15日のごミサの中で、七五三の子どもたちのお祝いがありました。

 

子どもたち、なんて可愛いのでしょう。
毎週会っている子たちなので、成長の様子をこうして見られることで幸せと喜びを感じています。

 

ただいま、絶賛 聖書週間中(11/15~22)です。みなさま、聖書を開いてみてください。

イスカリオテのユダについては、ずっとわたしの中でくすぶっているテーマの一つです。

12使徒のひとりとして数えられ、イエス様をわずかな額の銀貨で売り渡したとされるイスカリオテのユダ。
彼は本当に救われないのか、考えてみたことがある方は多いのではないでしょうか。
カール・バルトの『イスカリオテのユダ』の中から、バルトの考えにわたしが共感した個所をご紹介します。

 

ジョット Kiss of Judas

バルトはまず、ユダがイエス様の使徒であったという事実を強調しています。
また、「ユダがイエスを裏切った」という言葉の「裏切った」にあたる単語は、もともと「引き渡す」というほどの意味である、といいます。
イエス様は逮捕されるときに、密告者が必要なほど隠れていたわけではなく、バルトによればユダは銀貨で「引き渡した」のだ、と。

ヨハネの福音書13章には、ユダの裏切りの予告の場面につづきペトロの否認の予告が書かれています。
ユダがイエス様を「引き渡した」ことと、ペトロが「3度イエスを知らないと言う」ことは、罪としてどちらかは赦されるというような類のものなのでしょうか。

「あなた方のうちの1人がわたしを裏切ろうとしている」とイエス様がおっしゃったとき、弟子たちは皆「非常に心配して」「主よ、まさかわたしではないでしょう」と尋ねるのです。
ここについてバルトは、誰でもがその裏切り者でありうるし、ありえたのだ、と言います。
さらには、捨てられた人間はユダの中に自分自身を再認識しなければならず、ペトロは自分がユダと連帯責任があることを知るべきだ、と。

自分の中のユダ、ユダの中の自分を認識してみなさい、ということなのでしょう。
そうして初めて、捨てられた者としての自分が救われる福音を、本当の福音として受け止めることが出来るのです。

実際にわたしたちは、日ごろの少しの時間の祈りと、少しばかりの献金と主日のミサに与ることで、イエス様を信じるキリスト者として救いにあずかろうとしているのです。

大変興味深かったのは、ユダの使徒職を実質的にはパウロが継いだのだ、という見解です。

使徒言行録1・15~26によれば、ユダのあとを埋めたのはマティアという人ですが、パウロは迫害者であったのに選ばれて使徒となったのだ、つまり、最初はユダのようにイエス様に敵対していたにもかかわらず使徒とされたのだ、と言います。
ユダの棄却こそがイエス様が担った棄却であり、パウロの選びこそがイエス様の選びなのだ、と。

 

若松英輔さんの「イエス伝」にはこう書いてあります。

さて、ユダが出ていくと、イエスは仰せになった、
今こそ、人の子は栄光を受けた。
神もまた人の子によって栄光をお受けになった。
わたしは新しい掟をあなた方に与える。
互いに愛し合いなさい。
わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。
ヨハネ13・31~34

ここで語られた「愛」の掟からどうしてユダが除外されなくてはならないだろう。
ユダはイエスが自ら選び、近くに暮らした弟子のひとりである。
使徒として権能を与えられた者である。

「新しい掟」によればむしろ、弟子たちにとってのユダは、最初に愛を注ぐべき隣人になったはずだ。
裏切りをすべてユダに背負わせるように福音書を読む。
そのとき人は、「姦通の女」に石を投げつけようとしている男たちと同じところに立っている。


バルトの結論は、ユダがイエス様を売り渡し、自らの運命を自分でさばく自殺という手段をとったために彼の救いを確信することはできないが、それでも、彼のように捨てられた者こそ真の救いを必要としているのだからユダの救いという希望は捨てていない、ということです。

イエス様の言葉です。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう、罪を犯してはならない」
(ヨハネ8・11)

 

煉獄と天国

死者の月です。
みなさんも、天国にいる大切な人のことを想い、日々祈りを捧げていらっしゃることでしょう。

 

 

「死について黙想し、周囲の亡くなられた方が永遠の命に招かれるように祈ることは、私たちがよりよく生きることに繋がります。」
宮﨑神父様が以前、ごミサでおっしゃった言葉です。

信者の友人と話していた時、彼女がこう言いました。
「親が亡くなった時も、悲しくて悲しくて、という感じはなかった。
だって、この世の生活のほうが苦行のようだもの。
辛いこと、大変なことが多いし、なんで私ってこうなんだという自己嫌悪、そんな苦行のようなこの世よりも、天に召された第2の人生のほうがずっと素晴らしいはず!と信じてるから。」と。
彼女は信仰があるからそういうのではなく、素直にそう思っている様子でした。

カトリックでは、死後はすぐに天国へ直行するのではなく、煉獄に行くとされています。
ですが、わたしは母が亡くなった時「できることなら、スーッと天国にお召しください」と祈りました。
頭では煉獄にまず行くとわかっていた(習ったからそう理解していた)のですが、できれば天国に直行させてあげたい、と。

 「亡くなった人は神様の元へ行ったのだから、何も心配することはありませんよ。」

ある神父様からそう言われ、とても心が軽くなりました。
神様の元、とは天国のことでしょう?!
母が亡くなって9年になりますので、もうとっくに煉獄から天国へ移動していると信じています。

煉獄とはなんでしょうか。

福音書にはその単語やその存在について明確な記載はない、と山田昌先生の本に書いてありました。
以下、山田先生の著書「アウグスティヌス講話」の内容から少し書いてみます。

イエス様とともに十字架に架けられた2人の強盗のうちの1人は、イエス様から「今日、あなたは私とともに楽園にいるだろう」と言われました。
イエス様に罪を告白し、同じ十字架の死を受け入れ、一緒に直ちに天国に上ったのです。

だが、このような人は少ないのではないか。
償うべきものを完全には償いきれないまま人は死ぬ。
そこで、煉獄という発想が生まれた。
煉獄は、生前に償いきれなかった罪の償いのために行く場所である。

そう書いてありました。
聖書には明確な記載はないのですが、山田先生によればその根拠とされている箇所が2つあるそうです。

①マタイ12・31~32
だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。
人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。

この箇所を教父たちは、天国に直通する人と地獄に直通する人の間に、この世においては許されないけれど来たるべき世において許される人がいるはずだ、と解釈したのです。
その来たるべき世とは終末の時を待つ場所であり、そこが煉獄なのだ、と。

②1コリント3・10~15
わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。
この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。
だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。
ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。

わたしの土台の上に建てた者はいったんは火をくぐり抜けてきた者のように、試練をへた後に救われるであろう、ということです。
「火をくぐる」=つまり浄化を意味しています。
キリストを信じる者が完全に救われるためには、その前に火によって試され、浄化されなければならない。
その魂の火による浄化の場所が煉獄である、と教父たちは解釈したそうです。

煉獄にいる魂は非常に苦しんでいるけれど、その苦しみは絶望の苦しみではなく、希望を内に含んでいるのだ、と山田先生はおっしゃいます。
そういう魂にとって、ただひとつの慰めは祈りである、と。
だから、生者が死者のために祈ること、祈りによって煉獄の魂を助け、その魂が一刻も早く煉獄の火を通過して天国へ行くことが出来るように祈ること、それがキリスト者の大事な務めとなったのです。

どうでしょうか。
解釈も、納得も、それぞれのお考えに委ねます。
わたしはここまで読んでも、あまりスッと納得できなかったのですが、次の箇所で少し心が軽くなりました。
本の原文のまま記載します。

現在のわれわれの生のなかで、天国も地獄も煉獄も、ある意味で既に始まっているように思われます。
この世界は天国と地獄の混同した世界であり、最も煉獄に似ているように思われます。
この世の中にはいろいろな嫌なことが沢山ある。
外からも苦しめられるが、それだけでなく、内からも苦しめられる。すなわち、自分自身が自分を苦しめるたねとなる。
丁度、煉獄の魂が火によってあぶられ、苦しみもがいているように、この世では一人一人の人間が既に生前において、苦しみの火によってあぶられている。
この世が既に煉獄なのです。
この世は苦しいことにみちている。さながら煉獄である。
しかし、地獄であるとはいわない。
なぜならこの世は苦しいけれども希望があるからです。
この世で受けるさまざまな苦しみを、試練として、あるいは浄化として捉えることができるならば、この世は煉獄となる。
そのように苦しみを受け取るならは、苦しみの中に希望が出てくるからです。
あるいは、逆かもしれない。
希望があるからどんな苦しみも試練として耐えることができるようになるのでしょう。
そしてこの希望を与えてくれるものが信仰であると思います。

お御堂のなかで、天使が舞い踊っていたように感じました。

マグダラのマリアの存在

死者の月、今年は特に、新型コロナウィルスによって命を落とされた多くの司祭、医療従事者のために祈りを捧げたいと思います。

--------------------------

マグダラのマリアについて、皆さんはどのようなイメージをお持ちでしょうか。
フランシスコ教皇は、お説教の中で彼女のことを「希望の使徒」と呼ばれました。

福音書には、イエス様が十字架に磔にされるのを見守り、埋葬される際に立ち合い、そして復活したイエス様に最初に出会った重要な女性として登場します。

またそこには、多くの婦人たちがいて、離れたところから見守っていた。
彼女たちはガリラヤからイエスに従ってきて、イエスに仕えていた人たちである。
その中に、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、およびゼベダイの子らの母がいた。
(マタイ27・55~56)

ヨセフはイエスの体を受け取って、清らかな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓に納め、その入り口に大きな石を転がしておいて、立ち去った。
そこにはマグダラのマリアともう一人のマリアが、墓に向かって座っていた。
(マタイ27・59~61)

さて安息日が終わり、週の第一日が明け初めるころ、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に来た。
み使いは婦人たちに言った、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのであろうが、その方は、ここにはおられない。かねて仰せになったとおり、復活された。」
婦人たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去ると、弟子たちに知らせるために走っていった。
すると、イエスが彼女らの行く手に立っておられ、「おはよう」と声をかけられた。
彼女たちは近寄って、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
(マタイ28・1~9抜粋)

マグダラのマリアは、イエス様の遺体に香油を塗ろうと香油壺を持って行った際にイエス様の復活を目の当たりにするというエピソードから、絵画に描かれる際には香油壺がアトリビュートとされています。

また、『イエス様の一番近くにいる女性』として描かれるのも彼女です。

ルカの8・1~3には、イエスに仕える婦人たちのひとりとして描かれています。
「彼女たちは自分たちの財産を出し合って、一同に奉仕していた」という記述は、男性に仕えていた、という意味ではなく、男性たちと同様にイエス様に仕えていたのだ、と聖書百週間で教わりました。

ヨハネでは、復活したイエス様が彼女に現れたとき「マリア」と呼び掛けられる様子が感動的に表されています。
(ヨハネ20・16)

 

以前もご紹介したことのある、ジェームス・ティソのこの珍しい構図の絵(十字架上のイエス様の視点から描かれた磔刑図)でも、十字架の真下に描かれているのはおそらくマグダラのマリアです。

 

カラバッジョの「キリストの埋葬」では、ヴェール姿の母マリア様の横に描かれています。

 

 

そして今日、ご紹介したいのはこの映画。

『Mary Magdalene』マグダラのマリア

 

近年の小説や映画では、彼女は実はイエス様の妻であったというストーリーで描かれることもあり、聖書を読んだことがない方の中にはそう信じている人も少なくないのかも、、、、。

この映画では、マグダラのマリアはガリラヤ湖畔からエルサレムまでの道中も(後ろから付いてくる婦人たちの一人ではなく)十二使徒と並んで共にイエス様に従い、重要な役割を担う使徒の一人、いやむしろパウロの右腕のように描かれています。

福音書の記述では「5000人の群衆の空腹を満たした」際も女性と子どもはカウントされていませんので、男性ばかり12人を『使徒』としたとも考えられます。

マグダラのマリアが男性使徒と同等の存在であったかどうかはともかく、彼女が使徒たちにそのご復活を知らせる役割を担ったため、初期キリスト教父たちから「使徒たちへの使徒」(the Apostle to the Apostles) と呼ばれていたのは事実です。

この映画は、福音書の記述通り(わたしたちの理解の通り)に描かれていない場面も多いのですが、イスラエルの風景、当時のユダヤ社会の生活と風習、イエス様の葛藤と苦悩、弟子たちの人間性、マグダラのマリアの静かでありながらも力強い存在がとても丁寧に表現されています。

秋の夜長の映画鑑賞にぜひ。

 

イエスに出会うまで悪霊にとりつかれていた(ルカ8・2参照)この女性は、今や「新しく偉大な希望の使徒」となっています。
彼女の取り次ぎと助けによって、わたしたちもこのような体験をすることができますように。
苦しみと無関心がはびこるこの世界で、名前で呼んでくださる、復活したイエスに耳を傾け、出かけて行って「わたしは主を見ました」(ヨハネ20・18)と告げ知らせることができますように。

教皇フランシスコ、2017年5月17日一般謁見演説
キリスト教的希望に関する連続講話より

 

もう一本!という方は、↓こちらもとてもお勧めです!!
(百人隊長の視点で描かれたイエス様の復活(Risen=起こされた)が描かれています。)

知ることと実践

25日のミサの中で、9人の赤ちゃんの幼児洗礼式が執り行われました。

 

この子たちのためにも、真に平和な世界を求めて行動できる大人でありたいものです。

 

10/20にローマで諸宗教指導者らによる平和の集いが行われました。

この集いは、1986年、聖教皇ヨハネ・パウロ2世が招集したアッシジでの平和祈祷集会の精神にのっとり、平和のために祈り、諸宗教間の対話を促進するために、聖エジディオ共同体が毎年開催地を変えながら行っているもの。

 

 

教皇フランシスコをはじめ、エキュメニカル総主教府のバルトロメオス総主教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、ヒンズー教など、諸宗教の指導者が参加されました。

インスタグラムで見て知ったのですが、バチカンニュースとインスタグラムの他はテレビなどで報道されたのかどうかわかりません。
こうした様々な宗教指導者の連帯の言動に大変興味があります。

この意義深い集いは「誰も一人では救われない‐平和と兄弟愛」をテーマに開催されました。

このニュースはぜひ多くの方に見て知っていただきたい!
日本からも曹洞宗の指導者の方が参加され、スピーチをされています。

世界には様々な宗教が存在します。
同時に、世の中には「なんの宗教も信じていない」人が多く存在します。

だとしても、こうした試みがあることを知ることも大切なことだと思います。

https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2020-10/incontro-per-la-pace-in-campidoglio-20201020.html

集まったことに意味があるのではありません。

この集いに参加された各指導者たちが、どのようにそのことを各信徒たちに伝え、ともに実践していくかにかかっていると思います。
なぜなら、「真に平和な世界」は実現されたことがないからです。

人々の間に諍いがなかった時代はあるでしょうか。
戦争やテロだけではなく、わたしたちの日常にはいつも祈りと争いが併存しています。

平和は取り戻すものではない、人間が真に求めているのは争いのない世界のはずなのに。

「Enough!」

 

フードドライブという活動があります。

カトリック教会、プロテスタントの教会、仏教のお寺の信徒が協力して、家庭で眠っている食材を毎月第4金曜・土曜に集め、コロナで生活が困窮している方やホームレスの方など必要としている方々に配布する、という実践活動です。

今月は10/23.24の2日間、食材を持ち寄っていただく活動が開催されました。

 

 

知ることが、まず大切ですね。
知らなければ、なにも始まりません。
そして、自分にできることを実践することができたら。

 

貧しいこと、幸いなこと

久留米教会の秋の風景です。

 

 

『心の貧しい人は幸いである』
このことばにはかなり深く広く解釈できるために、正しく理解されていない場合があるように思います。

わたしも、以前書いたように、ガリラヤ湖畔で自分のこととして捉えるまでその真意を誤解していました。

.

.

旧約のなかにも「幸い」という単語は多く使われています。
ヘブライ語で「アシュレー」と言い、本当に幸いに生きている人に感動した時の言葉として、8割近くが詩編と箴言に使われているそうです。
「アシュレー」だと呼ばれている人は、神のとの関わりの中にある人を表現しています。

 

いかに幸いなことでしょう
背きを赦され
罪を覆っていただいた者は。
(詩編32)

心の貧しい人々は幸いである
天の国はその人たちのものである
Blessed are the poor in spirit,for theirs is the kingdom of heaven.
(マタイ5・3)

心の貧しい、という箇所は直訳すると「霊において貧しい」となるそうです。
フランシスコ会訳の聖書では
「自分の貧しさを知る人は幸いである。」となっています。

「霊を用いて、貧しく生きている」と言う意味にも解釈できるそうです。
例えば、アッシジのフランチェスコにように、神の霊によって貧しい生活を選んで行く生き方を見出すことのように。

イエス様はアラマイ語で語られていたのですが、福音書はギリシャ語で書かれています。
貧しいと訳されている単語「プトーコイ」と同意義で使われている旧約の単語は、有力者に圧迫されて貧しい、と言う意味なのだとか。

 

わたしが目を留めるのは何か。
それは貧しい人、心砕かれた人であり、わたしの言葉を畏れ敬う人。
(イザヤ66・2)


貧しい人々は幸いである
神の国はあなたがたのものである
Blessed are you who are poor,for the kingdom of God is yours.
(ルカ6・20)

 

マタイでは「心の」貧しい人々、そしてマタイは「神」という言葉を避ける傾向が強いので「天の国」となっています。

ルカでは「あなた方のもの」と二人称になっているのに対し、マタイは旧約の流れを汲んで「その人たち」という三人称を使っています。

マタイとルカの違いは、イエス様をどう見ていたのか、つまり「わたしにとってのイエス様とは誰なのか」を書いている点にある、と雨宮神父様のお話にありました。

「霊において貧しい者」とも「物質的に貧しい者」とも解釈できる、イエス様の言葉の広さと深みの表れなのだ、と。

 

現代社会において「心の貧しい人々」は幸いでしょうか。

幸いであると神様から言われたいけど、心が貧しい人ではありたくない、と思うのが普通の感覚かもしれません。
ですが、自分が心の貧しい者である、と気づくことが出来ることは大切なことなのだと思うのです。

自らの足りないところ、人への接し方、信仰生活の乏しい結果としての言動など、ガリラヤ湖畔で風に吹かれながらわたしが感じたのはそういう「自分の貧しさ」でした。

もちろん、それらは克服できていなくて、いまでもしょっちゅう「あ~、わたしって心が貧しい、、、」と反省することばかりです。。。

そして、気づけて良かった、気づけて幸いだった、と。
その繰り返しです。

召命のきづき

今年はよく、召命ということについて考えています。

今年は船津司祭の叙階式に立ち会うことが出来、そのころから、このコロナ禍にあっての身近な召命について、思いを巡らせているのです。

 

 

何度かご紹介したことのある、カラヴァッジョの『聖マタイの召命』です。
みなさんは、どれがマタイなの?と考えたことはありますか?

わたしはずっと、左端の青年だと勝手に解釈していたのですが、美術研究者の間では「マタイ問題」というほどのテーマなのだそうです。

イタリアではおおむね、左から3人目のおひげのおじ様がマタイである、と主張されているとか。

どれがマタイなのかはともかく、このマタイの召命についての聖書の記述を見てみると、
マタイ9・9、マルコ2・14、ルカ5・27~28のいずれも非常に簡潔なものであり、イエス様の呼びかけにレビ(マタイ)が従ったというだけのエピソードで、まったくドラマチックでも何でもないのです。

レビが徴税人であった、というのが重要なポイントなのです。
当時は罪人と同意味であった徴税人、ユダヤ社会の憎まれ者をイエス様が弟子に召し出した、というのがこのお話のドラマです。
仕事やお金を捨て、世間のしがらみや葛藤を断ち切ってイエス様に従ったマタイは、放蕩息子のように救われました。

現代においての召し出しは、どのような人に、どのようなタイミングで与えられているのでしょう。

聖職者としての召し出しだけではなく、わたしたちそれぞれに与えられている呼びかけについて、キリスト者としてもっともっと思いを馳せて日々を丁寧に生きていかなければならない、そう思うのです。

召命、は英語ではcalling、イタリア語ではvocazione、ドイツ語ではBerufで、どの単語も職業や職務、広義で仕事という意味を持っています。

つまり「マタイの召命」は「マタイの仕事」という意味にもとれます。
人の仕事というのは自分で選んで従事するのではなく、神から与えられた使命である、という考え方ができます。 

 

 

youtubeで配信された、古市助祭の叙階式のスクリーンショットです。

久留米で司牧実習をしてくださっていた古市さんの召命が、一つのステップを上がったのです。

そして、この春からは、吉浦神学生が久留米に来てくれています。

彼も、自らが得た召命を生き、前に進んでいるのです。

船津司祭、古市助祭、吉浦神学生、こうして神様から特別な愛を注がれている方々が久留米教会に縁があるのは誇らしいことですね!

3人には、次号のみこころレター(12月号)に寄稿していただく予定ですのでお楽しみに!

 

 

 

残りの日々の過ごし方

今年は特に何もしていない気がするのに、残り3か月となりました!
毎年秋になると、年初に計画したことや抱負をどのくらい達成したか自己検証し、悔いなく残りの日々を過ごせるように考えてみます。

今年はどうでしょう。。。

抱負として掲げたのが「去年のように、そして去年よりも素晴らしい一年にする」でした。

去年までは、ごミサに与り、時には朗読や答唱詩編を歌わせてもらい、みなさんと語らう。
これがわたしの日曜日でした。

今年は、6月にミサが再開されてからというもの、いつも座る席でじっと静かに手を合わせて祈る、ことはほとんどなく、裏方としていろいろとお手伝いをさせていただけるようになりました。

去年までよりも、わたしにとっては意味のある(絶対にサボることのできない)日曜日となっています。

 

 

第一朗読ではイザヤ5・1~7が読まれました。
7節にはこうあります。

イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。
主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。
正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)。
(イザヤ5・7)

そのあとには、こうした言葉があります。

災いだ、悪を善、善を悪と言い、
闇を光、光を闇とし、
苦いものを甘い、甘いものを苦いとする者たちは。
災いだ、自らを知恵あるものとみなし、
自分一人で賢いと思っている者たちは。
(イザヤ5・20~21)

この箇所は性悪説の表現ですが、マタイ5・1~に書かれた性善説の真福八端との対比で読むことができる、と教わりました。

 

災いだ、わたしは破滅だ。
わたしは汚れた唇の者、汚れた唇の民の中に住んでいるのに、
わたしの目は、王である万軍の主を見てしまったのだから。
(イザヤ6・5)

そして、こう続くのです。

その時、わたしは主の声を聞いた、
「わたしは誰を遣わそうか。誰がわれわれのために行くだろうか」。
わたしは言った、
ここに、わたしがおります。このわたしを遣わしてください」。
(イザヤ6・8)

これはルカ5章のペトロの召命に繋がっています。

「しかし、お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と、疑わず素直に召されていくシモンのように。

 

 

第2朗読は、わたしが大好きな暗記している箇所です。

皆さん、どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。
そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
(フィリピ4・6~9)

この前後にはこうあります。

主に結ばれた者として、いつも喜びなさい。
重ねて言います。喜びなさい。
あなた方の寛容さをすべての人に知らせなさい。
(フィリピ4・4~5)

わたしに力を与えてくださる方に結ばれていることによって、わたしはどんなことでもできます。
(フィリピ4・13)

 

神への従順は返事にではなく、実際の行動にあります。
神への信仰は、悪ではなく善を、虚偽ではなく真理を、利己主義ではなく隣人愛を、毎日繰り返し選択することを要求します。
教皇フランシスコ 9/27 バチカンでの正午の祈りより

 

残りの3か月の抱負が決まりました。

◆神様からの召し出し(それぞれの立場で与えられる役割)に忠実に生きる。

◆くよくよと思い悩まず、神様に明け渡して委ねる。

◆これまでの信仰生活で学んだことを、いつでもどこでもだれにでも実行するよう心掛ける。

 

こうして書きだして決意を新たにすることで、自分に刻み付けることができると思います。
手帳にも書きました。
毎日を少しでも悔いなく(あれもできなかった、そうすればよかった、と思うことなく)生きたい、これはわたしの信仰生活の基本的な考え方なのです。

10/18の福音宣教の日に向けて、わたしたちそれぞれが「わたしがここにおります」と応えることができるような日々を重ねていきましょう。

心の隙間とゆとり

先週は東京に行っていました。
そのため、昨日のミサは自主クアランティンで欠席しました。

2週間教会に行けないことで、今感じているのは心に隙間が空いたような、空虚な感覚です。

都会で過ごした1週間、時間の流れが全く違うことに改めて驚きました。
静かに祈る時間が取れない、というか、祈ることを忘れてしまうような速さで時間が流れていきました。

久留米に戻って聖書を手にして、詩編を読みたい。
ずっとそう思っていました。

 

詩編103をじっくり読んでみました。

主は憐みに満ち、恵み深く、
怒るに遅く、慈しみに溢れておられる。
主は永遠に責めることはなさらず
とこしえに怒り続けられることはない
主はわたしたちの罪に従ってわたしたちを扱わず
わたしたちの咎に従ってわたしたちに報いられない

アンダーラインを引いた箇所は、神の主体性を感じさせる表現です。
神はいないようで存在している、ということを感じさせてくれます。

飛行機から見る空は、本当に美しい。
神が存在しない、とは思えません。

 

天が地より高いように、
その慈しみは、主を畏れる者が考えるよりも遥かに大きい。
東が西から遠く隔てられているように、
主は、わたしたちの罪をわたしたちから遠ざけられる。
父が子を憐れむように、
主はご自分を畏れる者を憐れまれる。
主は、わたしたちの造られた有様を知り、
わたしたちが塵にすぎないことを思われる。
人の日々は草のようにはかなく、
その栄えは野の花のように短い。
風がその上を通り過ぎると跡形もなく、
その場所さえ知る由もない。

この箇所は、わたしたち人間が神と出会うために弱くはかなく造られたことを感じさせる表現です。
人は存在しているようでないもの、ということを感じさせてくれます。

 

分厚い聖書を手に取ってお気に入りの箇所を読むことで、今感じているのは心にゆとりが出来たような、満ち足りた感覚です。

心の隙間は、大事なことです。
心のゆとりは、必要なものです。

隙間をいつも気にかけながら祈り、聖霊が神様との執り成しをしてくださるようにそこに入ってきてもらうのだ、とパパ様の本で読みました。

自分にゆとりをもって他者のために祈ることができれば、その謙虚な心からの祈りは神によって受け入れられるのだ、とパパ様の本に書いてありました。

何をどう言おうかと心配してはならない。
言うべきことは、その時に示される。
というのは、語るのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる父の霊だからである。
(マタイ10・19~20)

 

立派な信仰とはどのようなものでしょうか。
立派な信仰とは、傷をも伴う自分の物語をたずさえ、主の足元に置き、いやしてください、意味を与えてくださいと願うものです。
だれもが、自分の物語をもっています。それは必ずしも清い物語とは限りません。
往々にして、多くの痛み、悲しみ、罪を伴う困難な物語です。

教皇フランシスコ、2020年8月16日「お告げの祈り」でのことばより

 

心に意味のある隙間を保ち、心にゆとりをもって生活できることのお恵みを噛みしめています。

霊的読書のすすめ

教会の手入れされた庭ではいつも、季節を感じさせてくれる植物がわたしたちを出迎えてくれます。

空の雲、草花の色から季節を感じられることは、幸せなことだといつも思います。

 

読書の秋、とよく言われますが、みなさんは本を読みますか?
いつ読みますか。
どのような本を選びますか。

デジタル社会で、スマホで漫画を読む人も多いようですが、それでも次々と新書が発行されていることをみても、実際に紙の本を買い求めて読むわたしのような人がまだまだたくさんいるのです。

本を選ぶポイントは、私の場合はこのような感じです。

◆心の養いとなる

◆できるだけ実話に基づいている

◆信仰生活の道しるべとなる

本棚に並べるのは「また読みたい本」「人に薦めたい本」と決めています。

ヘンリ・ナウエン神父様は、

「霊的な読書とは、私たちの内側と外側の生活における神の霊の働きを、心の目で注意深く読むことです。
霊的な読書を毎日15分でもいいので続けていくことによって、自分の頭がゴミ箱のようになることは減り、反対に、よい思いによって満たされた花瓶に変えられてくることが分るでしょう。」

とおっしゃっています。

 

究極の霊的読書は、やはり聖書を読むことでしょう。

わたしは、4年かけて聖書1冊を学ぶ聖書百週間を経験したことで、聖書の面白さにすっかり魅了されてしまいました。

(本来は100週間=2年と少しで終了するようプログラムされているのですが、神父様の転勤などもあり、4年もかかりました!)

聖書百週間とは、指導役の神父様と信徒10数名のグループで、決められた割り振り(例えば今週は出エジプト記の1章~4章、来週は5章~8章、と黙示録まで割り振られている)に沿って進めます。
事前に読み込んできた結果感じた感想や疑問を、全員が発表し分かち合います。
疑問を晴らすことは目的ではなく、全員が意見を言うためにしっかりと予習して発表することが大切です。

自分一人で聖書を読むだけでは得られない、深まりと広がりを感じることができるのがこのプログラムの魅力です。

全部読み切ったらイスラエル巡礼へ!という目標を掲げ、(意見を発表しなければならないので)毎週真剣に聖書を読んでいました。

最近は、今週の聖書朗読から目に留まった聖書の箇所を開くという読み方です。
宮﨑神父様がいつもおっしゃるように、その前後も読むようにしています。

いつも、この↓ページで朗読箇所を通読しています。

http://www.m-caritas.jp/reading.html

 

霊的読書、なにも聖書や高尚な本ばかりを読む必要はないのです。
自分にとって、生きていくうえで糧となる、癒しとなる、救いとなる、そういう読みものに出会えることはそれだけでお恵みです。

お薦めのサイトは、教皇様の謁見などでのお話を翻訳して掲載してくれるカトリック中央協議会です。

だれにでも容赦なく襲いかかるウイルスに立ち向かう中で、わたしたちの信仰は、人権侵害を前にして、真剣に積極果敢に無関心と戦うよう駆り立てます。
この無関心の文化は、使い捨ての文化も伴っています。自分に関係のないことには興味がないということです。
信仰はつねに、個人的であれ、社会的であれ、利己主義から離れ、回心するよう求めます。
利己主義の中には、集団的な利己主義もあります。

人間家族の一員であることの意味に改めて目を向けられるよう、主が「わたしたちの視力を取り戻して」くださいますように。
その視力が、あらゆる人への共感と敬意に満ちた具体的な活動、共通の家を気遣い、守る活動のために活かされますように。

https://www.cbcj.catholic.jp/2020/09/15/21208/

 

お薦めの雑誌は ↓ これです。

 

わたしたちの『おきて』

季節は秋へと移ろい始めました。

 

13日から教会学校が再開され、子どもたちが教会に戻ってきてくれました。
侍者もいないごミサが続いていますので、子どもたちの姿に目頭が熱くなる思いがしたのはわたしだけでしょうか。
教会共同体が未来に繋がっていく実感が持てるのは、子どもたちの教会での様子を目にできるからだと思うのです。

 

 

13日の第一朗読のシラ書です。

滅びゆく定めと死とを思い、掟を守れ。
掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。
いと高き方の契約を忘れず、他人のおちどには寛容であれ。
(シラ28・6~7)

2200年前に語られたこの『おきて』は、当時の社会に起きていた様々な問題を正面から捉えて、それを踏まえての生き方を説いています。
いまの混迷の時代の最中にあるわたしたちにも迫ってくることばが多く、たくさんアンダーラインを引いているお気に入りの聖書の文書のひとつです。

預言書を除いて、旧約聖書のなかで著者の名前が判明している唯一のものです。
教父たちはシラ書のことを「パナレトス(最も優れた本)」や「パナレトス・ソフィア(最も優れた知恵)」と呼んでいました。
3世紀以降は「エクレジアスティクス(教会の本)」と呼ばれ、教理の教科書として用いられていたのです。

オリジナルのヘブライ語版が19世紀に入って発見され、カトリックでは正典として位置づけられます。
1964年にはイスラエルのマサダの城壁発掘の際に、ほぼ5つの章を含む巻物の写本が発見されています。

 

これが、マサダの城壁です。
この写真を撮影しているとき、携帯の気温計は46℃でした!

主は彼らに判断力と舌と、目と耳を与え、考えるための心をお与えになった。
主は知恵と知識で彼らを満たし、善と悪とを彼らに示された。
主はご自分と同じ力を彼らに帯びさせ、
彼ら一人ひとりに、隣人についての掟をお与えになった。
(シラ17・3~14抜粋)

 

先週ご紹介した、教皇様の説教集からのお話です。


感謝の心を持ち、自由で偽りなく、祝福する心を持った責任ある大人という存在であること
忠実で寛大で裏表なく、いのちを守り愛する者であること

教皇様は説教の中で「十戒で語られる生き方」について、こう語られています。
暗記したい、いや、これは暗記すべき『おきて』です。
キリスト者に限らず、この生き方を全ての大人が心がけるならば、若者や子どもたちに良い影響を与えることができるはずです。

また、「祈り」について語られたことにも触れておきたいと思います。

わたしたちの祈りの多くは、かなえられていないようだからです。
求めても得られなかったことがどれだけあったか。だれもが経験しています。
扉をたたいても、開かれなかった経験をどれだけ重ねたことか。
そうしたときにも、しつこく、決してあきらめてはならないと、イエスは忠告しています。
祈りによって必ず現実は変わります。必ずです。
たとえ周囲の状況が変わらなくとも、少なくともわたしたち自身が、わたしたちの心が変わります。

神はこたえてくださる、それは確信出来ます。
唯一不確かなのはその時期ですが、それでも神がこたえてくださることを疑ってはいけません。

もしかすると、生きている間ずっと待ち続けなければならないかもしれません。
それでも神はこたえてくださいます。

生きている間ずっと待ち続ける、という表現にはハッとさせられました。
聞き入れられないのではなく、待つことに意味があるとは。
これも、心に刻んでおくべき現代の『おきて』です。
わたしを始め、現代人はせっかちで、不安定で、脆い心を持った人が多いからです。

祈ってください。祈りは現実を変えます。
事態を変えるか、わたしたちの心を変えるか、どちらにしても必ず変えます。

パパ様がそうおっしゃるのです。
なんと心強いおことばでしょう。

わたしたちに与えられた十戒も、現代において教皇様が示してくださる新しいおきても、決してわたしたちをしばるものではありません。

これは、神様が与えてくださる『ことば』なのです。

神様はこれらのことばを通してご自身を伝えてくださり、わたしたちがそれに応えて生きていくことを望まれています。

 

安息日の過ごし方

6日のごミサでは、敬老の祝福が行われ、50名ほどの大先輩方をお祝いすることができました。

コロナ禍において初めての、久しぶりの教会行事でしたので、感染防止対策もいつも以上にしっかりと取り組み、お祝いのひと時を過ごすことが出来ました。

 

 

9/1はカトリック教会の「第6回環境保護のための世界祈願日」でした。
10/4までは被造物を保護するための祈りと行動の月間、「被造物の季節(Season of Creation)」がキリスト教諸教会と共に行われています。

特に「アースデイ(地球の日)」の誕生より50周年を迎えた今年は、この期間を「地球のジュビリー(祝年)」として記念されており、教皇様も特別のメッセージを寄せられました。

 

 

神は、大地と人々を休ませるために安息日を設けられたが、今日のわたしたちの生活スタイルは地球をその限界まで追いやり、絶え間ない生産と消費のサイクルは環境を消耗させている。

このジュビリーを「休息の時」とし、いつもの仕事の手を休め、習慣的な消費を減少させることで、大地を生まれ変わらせる必要がある。

現在のパンデミックは、ある意味で、わたしたちによりシンプルで持続可能な生活様式を再発見させることになった。
今こそ、無駄や破壊につながる活動をやめ、価値や絆や計画を育むべき時である。

 

安息日について、中央協議会から出版された最新の教皇講和集のなかの言葉もご紹介します。

十戒のおきてでいう休息とは何でしょうか。
それは思い巡らす機会であり、逃避ではなく賛美の時です。
現実を見つめ、生きるとはなんとすばらしいことかと、感嘆するのです。

現実逃避としての休息に対し、おきては休息を現実の祝福と受け止めています。
わたしたちキリスト者にとって、主の日、日曜日の中心は「感謝」を意味する感謝の祭儀(ミサ)です。

主日は、それ以外の日を忘れ去る日ではなく、それらの日々を思い起こし、感謝し、人生を肯定する日です。

 

 

安息日については、昨年のイスラエル巡礼の記事でも取り上げましたが、ユダヤ教徒とキリスト教徒では捉え方が全く違います。

ユダヤ教徒は、冷蔵庫の扉を開けることさえも労働ととらえ、金曜の午後のうちに土曜の夕食まですべて作り置きして並べておきます。
もし電気のスイッチを押す必要が生じたら、他の宗教の隣人を呼んで、目で合図してつけてもらうそうです。
(スイッチを押して、と頼むのも労働!)

わたしからすると「安らげない安息日」と感じてしまいます。。。

教皇様は、安らぎは偶然手に入るものではなく、自ら選び取るものだとおっしゃいます。
自分が目を背けてきたことがあるのならば、それとも和解し、自らのわだかまりを解消して得るものなのだ、と。

真の安らぎとは、自分の人生をあるがままに受け入れて、その価値を認めることなのだ、と。

 

今日のコロナ禍のわたしたちにとって、安息日はまた新たな役割を持ったと思います。

自分の置かれた今の境遇、社会・生活環境に押しつぶされそうになったり、不満や不安ばかりが募ることも少なくないでしょう。

ですが、日曜日には、安息日である主の日には、真に安らぎを自ら得る努力をしてみませんか。

1週間のうちにいくつかのつらいことがあるでしょう。
喜びや楽しいことばかりの毎日を過ごしている人はいないのです。

それら全てを肯定して、真の休息である『恵みと解放』のために、自らの人生に感謝を捧げる日にしたいものです。

 

わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
神にわたしの救いはある。
(詩編62・2)

 

 

未来を想像してみる

去年の今頃、この今の現状を想像していた人はいるでしょうか。

私の友人の話です。
ある国立大学の3年生の娘さんが、リモート授業が後期も続くことに納得が出来ず、大学を休学すると言っているというのです。
友人も、国が何も対策をしてくれない、大学が満足のいく説明をしてくれない、と不満を持っていました。

私個人としては、そうした考え方の方向に疑問を持っています、
ですが、働き方や学び方、就職活動もままならない現状に不安を持っている人が多いのは事実ですので、その友人が少しでも安心できるよう話ができたら、と真剣に考えてみたのです。


世の中の多くのことは、「どうせ、こうなる」、「こうなるしかない」という予想通りに起こる。
しかし、それが起こる前には「想像もしなかった」良いことが起こって、事態が進展することもある。
それを経験したことがある人は、世界の見方が変わるかもしれない。

「この世界は思いがけない素晴らしいことが起こりうる世界である」。

キング牧師の演説に込められた力は「こんな現状は許せない」「何としても変革しなければならない」ではなく、
「それは起こりえる」、「その世界は可能である」という希望を身体の中に呼び起こすところにあるのです。

「必ず起こるはずだ」ではないのです。
神様は、人間には不可能としか思えないことを成し遂げることが出来る方なのです。
今回も、成し遂げてくださるかもしれないと希望し、祈り続けていくのだ。

この青字の部分は、来住英俊神父様の講演の中でのお話です。

先ほどの友人の話に当てはめて考えてみると、「こんな現状は許せない」という気持ちを、「この逆境とも思える状況を経験した自分をどのような未来に向けていくか考える好機」と捉えてみることはできないでしょうか。

 

イエス様は、悲しむ者だけが慰められる(マタイ5・4)とおっしゃいました。
死の現実を受け入れる者だけが、新しいいのちを受け取ることができます。
嘆かない者は慰められず、終わりに直面しない者は始まりを受け取ることができない、と。

現状に置き換えて考えてみると、嘆き悲しみもがく者だけが、本物の体験を体験し前進できるのだ、と言えると思うのです。

前回も引用したブルッゲマンによると、
イエス様は、古い秩序に凝り固まっていた人に対してではなく、古い秩序に失望したり、そこから締め出されたために何かを切望している人に対して、食べ物を与え、癒し、悪霊を追い出し、赦す、という衝撃的な働きをなされたと言います。

自らのうちに葛藤を抱えている人たちが、自らの意思で善いと思うことを実践しなければ、そこから抜け出すことはできません。

葛藤なしに神様からメッセージを受け取った預言者などいないのです。
ゲッセマネにおけるイエス様でさえそうでした。

地にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう仰せになった。
「アッバ、父よ、あなたにはおできにならないことはありません、
わたしからこの杯を取り除いてください。
しかし、わたしの思いではなく、み旨のままになさってください」。
(マルコ14・35~36)

 

ゲッセマネの園の一番樹齢の古いオリーブの木です。
この木陰でイエス様が祈られたのかもしれません!!

 

 

パパ様ツイッターにも、ヒントがありました。

被害者はわたしたちではないのです。
すべての被造物、地球そのものに目を向ける必要があることを、いまさらながらわたしたちが自覚して未来を想像し、新しい世の中を創造していかなければならないのです。

国が、学校が、会社が、と言っているうちは、「自分は正しい」と凝り固まった考えを持ってしまっています。

現状や体制への不満ではなく、自分がどういう未来(来年の今頃のことでいいので)を生きようとしているのか、どう生きたいのか、想像してみてください。

 

イエス様の涙

最近、泣きましたか?
どういう時に泣きますか?

悲しみ
呻き
傷ついた心

アメリカの旧約聖書学の第一人者であるブルッゲマンによると、
帝国主義的な意識は、呻きを黙らせる能力と、傷ついている人や呻いている人がまるで存在していないかのように、いつものように日々を過ごす能力を用いて生きている、と言います。
もしその呻きが街のあちこちで誰の耳にも聞こえるるような状況になったら、それはもう取り返しのつかないほど追い込まれているのだ、と。

エジプトでの呻きが社会革新の先駆けであり、黙らされた呻きや痛みの代弁者となったのがイエス様でした。

 

都に近づき、イエスは都をご覧になると、そのためにお泣きになって、仰せになった。
「もしこの日、お前も平和をもたらす道が何であるかを知ってさえいたら・・・・。
しかし今は、それがお前の目には隠されている。」
(ルカ19・41~42)

 

 

去年の今日、2019年8月23日に訪問した、エルサレムの『主泣きたもう教会』から旧市街の神殿にある岩のドームを望む写真です。

(この教会はオリーブ山の中腹にあり、上から急勾配の山を下りるのに必死でしたので、ここでほっと一息休憩できた時は本当に泣きそうになりました。)

この場所でイエス様が涙を流されたとされています。
人々に愛された神の都、エルサレム。
イエス様がエルサレムのために涙したのは、ラザロについて涙したのと同様に、死への苦悩を共有されたからです。

ほとんどの人がエルサレムはいのちに満ちた聖地だと考えていた中で、イエス様はその都の死を悲しまれたのです。

 

 

これは、去年の8月24日に歩いたビアドロローサ(エルサレムの十字架の道行き)の途中にある、『茨の教会』の内部です。

茨の冠をかぶらされ、ゴルゴタまで歩かれたイエス様を思いながら、去年の今頃、酷暑のエルサレムを毎日歩いていました。

(そのあとの行程、荒野のさらなる酷暑のことを思い出すと、久留米の40℃近い夏などなんてことありません!)


カトリック生活9月号の李神父様のコラムからのお話です。

感染が疑われる人を入国後2週間、空港近くのホテルなどで待機させる、といった検疫のことをquarantine(クアランティン)と言います。
この言葉は、中世にペストが流行した際、ベネチア共和国が外国からの船の入港を40日間(quaranta)留め置いたことに由来するのだそうです。
40と言う数字が聖書では度々登場する大切なキーワードであることに関係しているのでしょうか。

イスラエルの民がエジプトを脱出して約束の地に至るまで40年
モーセがシナイ山に登って十戒を受けるまで40日
エリアがホレブ山の逃れて神と出会うまで40日
イエス様が荒野で誘惑を受けたのも40日間

お前たちの最後の屍が荒れ野で朽ち果てるまで、子供たちはお前たちの不忠実を背負って、40年間、荒れ野で羊飼いとなるであろう。
お前たちがあの土地を偵察した40日の1日を1年と数えて、40年間、お前たちは自分の背きの罪を負う。
こうしてお前たちは、わたしに反抗するとどうなるかを知るであろう。
(民数記14・33~34)

この場合の40年という数は、文字通りの数字ではなく、次のステップに行くための準備に必要な年数を表現しているのだと教わりました。

神に反抗し続けた結果が今の世界の状況であるとしたら、わたしたちが新しい生活環境を手に入れるまで40か月?40年?、つまり結構長い時間を要するということになります...。

 

異邦人であるということ

異邦人、という単語は聖書を読んでいると度々出てくるのですが、聖書の中での意味は「イスラエルの民ではない人々」を指しています。

日本に暮らしていると、両親が日本人である、という人が多いため、移民や難民、多国籍の人々の暮らしに疎くなります。

つまり、「自分とは成育環境が違いすぎる人々」を『異邦人』として精神的に(無意識に)排斥してしまっていると自分で感じることがわたしには度々あります。


 

第106回「世界難民移住移動者の日」教皇メッセージに呼応して出された、日本の2020年「世界難民移住移動者の日」委員会メッセージからの抜粋です。

教皇フランシスコは、今年のメッセージの中で特に国内避難民について触れています。
難民とは「国境の外に出てきた人」と定義されていますが、現代の日本にも多くの「国内避難民」が存在しています。すでに日本で生活しながら、さまざまな理由で家を失い避難している人びとです。
非正規滞在となり、長期間入管施設に収容されている人、仮放免されても家が無い人、野宿を強いられている人、「ネットカフェ難民」と呼ばれる人。

 

マタイ15章の21~28が読まれました。

イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

この福音にあるように、それまでのイエス様は神から離れていったイスラエルの民への救いを第一に考えていたのです。
イエス様に食い下がったカナン人(異邦人、と言っても、パレスチナの先住民)の女の「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」「主よ、どうかお助けください」という切実で誠実な願い、そして、自らを主人の食卓から落ちるパン屑をいただく小犬にたとえるという謙遜な態度に、イエス様が心を動かされ、その娘の病気を癒すのです。

 

『人間的情感が交わされるこのエピソードは、万人に向けられる福音のもつ意味を温かく感じさせる。』

『イスラエル中心の宣教意識が、復活を通してすべての民への宣教という意識に発展しているともいえる。
このように、マタイの叙述に従って見ると、イエスにおいて「すべての民をわたしの弟子にしなさい」いう意識が顕在化し、明確に告げられるようになるために、宣教活動の中での個々の人たちとの出会いが作用していったともいえる。
イエスの救いのみわざは人々との出会いと交わりを契機として生き生きと展開されていくのが福音書である。』

『 』内は聖書と典礼を発行しているオリエンス宗教研究所のホームページより
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2020/st200816.html

 

回心しないイスラエルの民の不忠実さと頑なさ、王や神殿祭司の愚かさを、そしてシナイ山の契約のような石の板ではなく「彼らの心に記された新しい契約」を預言者としてはばからずに述べたエレミヤ。
わたしはエレミヤを、当時の王政社会において衝撃的であったという点で異邦人だと考えます。

解放の神学を唱えた当時の聖職者たちもしかりです。

 

そして、イエス様こそが当時の社会における異邦人の最たる存在であったのではないでしょうか。

イスラエルだけでなく「すべての民」へ、その教えを広めるよう意図されていたイエス様。
この世における最後には、それまで従っていた人々や弟子たちも離散してしまい、見放されたイエス様。

近現代においては、異邦人でなかった人はいないのではないでしょうか。

根強い人種差別問題を抱える欧米で、その祖先が移民でなかった人はどのくらいいますか?

そうしたことに思いを馳せていて考えてみると、現在の社会における異邦人とはだれを指すのかという問いが浮かびます。
それは、教皇フランシスコ様がおっしゃっているように「忘れられた人々」なのです。

誰からも気にかけてもらえず、社会の周縁に追いやられた、孤独な、希望を持つことを忘れてしまったような人々、それが現代の異邦人です。

イエス様の時代、「律法に十分かなっていること」が最重視されていたため、人間関係にかかわる資質のなかで「あわれみ」は許されていませんでした。

あわれみを表現するギリシャ語《スプランクニゾマイ》には、他者の感情や状況を自分のはらわたが受け止めるという意味があります。 

飼い主のいない羊のような、周縁に追いやられた人々へ、もっともそのあわれみを示されたイエス様のみこころに思いを寄せてみましょう。

 

 

主の平和を生きる

8月6日は、主の変容の祝日でした。

聖書には山の名前についての記載はないのですが、イエス様が山で預言者とともに語り合いながら光り輝く姿を弟子達に見せたと書かれています。

この世的な意味でのイエス様の勝利(イスラエルの解放)を願う弟子たちに対し、自らの受難を予言し続けたイエス様が、これから受ける苦難に際して信仰し続ける希望を与えるためにこの奇蹟を行ったと教えられています。

(マタイ17・1~ 9、マルコ9・2~8、ルカ9・28~36)

伝承では、山の名はタボル山と言われています。

 

 

去年のイスラエル巡礼の際に、タボル山の主の変容教会で撮影しました。

光り輝くイエス様と二人の預言者(モーセとエリヤ)、三人の弟子(ペトロ、ヨハネ、ヤコブ)が描かれています。

 

 

そう!
描かれている、のではなく、モザイクの作品なのです。

素晴らしい。。。(今頃、、、ため息)

 

中央協議会のホームページには、この祝日についてこのように書かれています。

「教会は、ともすると、復活のいのちに至るまでの壮絶な苦しみという面を強調しすぎていたかもしれません。
しかし、その苦難は、神の栄光を表す輝かしい姿でもあります。
私たちには、人生の中で大きな苦しみを耐えなければならない場面が必ずあります。
そのとき、私たちは血にまみれた惨めな姿をさらすだけではありません。
私たちが苦しむとき、人々の前では惨めで情けない姿に見えるかもしれません。
しかし苦しみを神様に委ねるとき、自分自身が神の栄光に輝くまばゆい光を帯びていることを忘れてはなりません。」

 

先日の記事にも書きましたが、船津神父様がおっしゃった
「あなた方の光を人々の前に輝かせなさい、というマタイの教えを忘れないでください。」というお言葉がずっと頭の中でこだましています。

『主の平和』を生きることなのだわ、と解釈して心に刻んでいます。

 

持病を抱えて苦しんでいる知人と話したとき、
「わたしは毎日、痛いし苦しい。祈るし、聖書も読むが、つらい。
神様はなぜこんな重い十字架をわたしに背負わせて、生かされているのか、毎日毎日考えて生きている。」
そう言うのです。

わたしはその方にこう言いました。
「生かされていることそれ自体に意味があるのでしょうね。
神様から目をかけてもらってるということを忘れないで。
わたしがいつもここにいることも忘れないで。」 

『主の平和』

 

先日、友人のお母様の葬儀がありました。
祭壇の遺影が、ご夫婦での素晴らしい笑顔の写真だったのです。
ごあいさつで、「一人で旅立つのはとても寂しいと思い、途中まで同行することにしました。大変不謹慎で非常識とは重々知りつつ、あえて遺影を2人の写真にしました。」と。
おじさまらしいなぁ、とこちらがホッコリさせられました。

『主の平和』

 

平和とは、神とともにある状態を意味します。

弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちがいた場所の戸にはことごとくカギをかけていた。
そこに、イエスがおいでになって、真ん中に立って仰せになった。
「あなた方に平和があるように」。
そう仰せになって、両手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
イエスは重ねて仰せになった、「あなた方に平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす」。
こう言ってから、弟子たちに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けなさい。誰の罪であれ、あなた方が赦せば、その罪は赦され、あなた方が赦さないなら、赦されないまま残る」。
(ヨハネ20・19~23)

主があなた方を心から赦してくださったように、あなた方もそうしなさい。
これらすべてのことの上に愛をまといなさい。
愛は完全さをもたらす帯です。
そして、キリストの平和にあなた方の心を支配させなさい。
あなた方が一つの体に結ばれるものとして招かれたのも、この平和のためなのです。
(コロサイ3・13~15)

+++++++++++++++++

主の変容の出来事から、二つの重要な要素を引き出したいと思います。
わたしはそれを二つのことばで要約します。
「登る」と「下りる」です。
わたしたちは人々から離れ、山に、すなわち沈黙の場所に登らなければなりません。
それは、自分自身を見いだし、主の声をよく聞き取るためです。
わたしたちはこれを祈りの中で行います。
しかし、ここにとどまってはなりません。
祈りの中での神との出会いは、新たに「山を下り」、低いところに、平地に戻るようわたしたちを促します。

わたしたちはこの平地で、労苦、病気、不正、無知、物質的・精神的な貧困にあえぐ多くの兄弟と出会います。
わたしたちは、困難のうちにあるこれらの兄弟に、神とともに体験したことの実りを伝え、受けた恵みを分かち合うよう招かれています。
祈りをもって「登り」、イエスに聞き、兄弟愛をもって「下り」、イエスを告げ知らせることを少しずつ学ぶことができますように。
教皇フランシスコ様 2014年のお説教より

 

8月6日は、広島原爆投下の日です。
終戦の日、8月15日は「聖母マリアの被昇天」の祝日に当たります。

教会では、6日から15日までの10日間を「日本カトリック平和旬間」と定めています。

昨年までは、広島教区と長崎教区では、全国から司教をはじめとして多くの信徒が集まって「平和祈願ミサ」がささげられ、各教区でも平和祈願ミサや平和行進、平和を主題とした映画会、講演会、研修会、平和を求める署名などが行われていました。

主の変容が現代のわたしたちに語りかけている意味について、平和旬間とリンクして平和について思いを馳せる日々が続きます。

 

時代を見分ける選択

梅雨明けし、いよいよ本格的な夏がやってきました。

 

春先、コロナウィルスの市中感染が始まったころ、「夏になって気温が上がればウィルスは終息に向かうだろう」と報道で聞いたことがあります。
現実には、現在、第2波とも第3派とも言われる感染状況です。

わたしたちは、自分に問い続けなければなりません。

「このことに、いったいどんな意味があるのだろうか。
神様はどのようなことをわたしたちに語りかけようとしていらっしゃるのか。
この現実の中、神様はどのように生きるようにとわたしたちを招かれているのだろうか。」

 

イエスはまた群衆にも仰せになった、
「あなた方は雲が西に出るのを見ると、すかさず『雨になる』と言う。
果たしてそのとおりになる。
また南風が吹くと、『暑くなる』と言う。
果たしてそのとおりになる。
偽善者たち、あなた方は大地や空の模様を見分けることを知っていながら、どうして、今の時代を見分けることを知らないのか」。(ルカ11・54~56)

この部分は「時代を見分ける」というタイトルがついています。
いまのわたしたちにもスッと当てはまる教えかと思います。

 

コロナウィルスの感染拡大防止の対策について、評価が様々行われ(報道され)ています。
対策そのものであったり、リーダーの格付けであったり、合格点を出している(と報道されている)、または完全に成功している(と報道されている)国があるでしょうか。
見聞きする多くは、裁き、非難するものであると感じています。

つまり、わたしたちが現在情報として得ているのは、報道機関の取捨選択による「人の評価」によるところが大きいと言っても過言ではないのです。

メディアリテラシーの重要性は言うまでもなく、人の評価ではなく、自分で考えて選択することが大切です。

 

今日は、この時代を見分ける、今を見極めるために有益と思われるいくつかの本、文書をご紹介します。

まずは、つい先日出版された、カトリック中央協議会の『パンデミック後の選択』という本です。
教皇様がこのコロナ禍において語られたいくつかの説教、書簡をまとめたものとなっています。

 

 

感染者、医療従事者へ思いを寄せられているのはもちろんですが、わたしが目に留めたのは次の一文でした。

「普段の生活を取り戻したときには、だれもが人間らしい品位ある生活を送れるよう、必要な方法や手段を提供し、国民の共通善のために精力的に働く責任を負う政治家の皆さんを、力づけたいと思います。」

このような思いやりの言葉を見聞きしたことはありませんでした。
政治家、各国のリーダーへの思いやり。

5月のロザリオの月にあたり「すべての信者に送る手紙」として出された書簡に添えられたマリアへの祈りにも、次の一文があります。

「各国の指導者を支えてください。
知恵と配慮を惜しみない心をもって、
生活に必要な物にも事欠く人々を助け、
将来への展望と連帯の責任をもって、
社会的、経済的な対策を講じることができますように。」

 

このウィルスは消えてなくなることはないでしょう。
わたしたちがどのように生きていくのかを「自ら選択すること」 が必要です。
そして、この現状のために「自分に何ができるのか」についても選択することについて考えてみましょう。

「こうした努力では世界は変えられないだろう、と考えてはなりません。
そうした努力は気づかれないこともしばしばですが、目には見えずとも必ず広がるであろう善を呼び出すがゆえに、社会にとっては益となります」(ラウダート・シより)

以下、あとがきの最後の一文です。

「パンデミック後の社会が、ただ単にパンデミック前に戻ることではなく、弱い人、貧しい人にいっそう寄り添う新たな世界の構築を選択できるよう、教皇の発するメッセージが、カトリック教会にとどまらず、一人でも多くの人に届けられることを願ってやみません。」

https://www.cbcj.catholic.jp/publish/pandemic/

 

次にご紹介するのは、最近わたしがハマって読んでいる故ヘンリ・ナウエン神父様の「いま、ここに生きる」からの一説です。

神が問われることは、「あなたはいまの時代のしるしを、あなたが悔い改め、回心するように求めるしるしとして見分けていますか」ということです。
何よりも大切なことは、兄弟姉妹の味わっている非常な苦しみにあずかって、私たちがあらゆる思い上がり、また、あらゆる裁く態度や非難する態度から解放されて、イエスの心のような柔和で謙遜な心が与えられるよう心の底から求めているか、ということです。

 

3つ目は、教皇庁生命アカデミーから発表された、 『パンデミック時代における人間のコミュニティ:生命の復活についての季節外れの省察』という文書です。

少し難解な文章だったのですが、わたしなりに大事だと思った点をいくつか記してみます。

◆人間家族が現実に直面している本当の問題は、道徳的な、単に戦略的ではない、連帯の意味である。それを必要としている他者への責任も含んでいる。

◆Covid-19の現象は、単なる自然の出来事ではない。
 我々は自然環境への関係を再考するように要求されている。
 我々は支配者や君主としてではなく、地球に執事として居住する必要がある。

◆生命の脆弱性の悲惨な証明は、それが賜であるという我々の自覚も新たにする。

◆誰もが自らの役割を果たすよう要求されている。

https://www.cbcj.catholic.jp/2020/07/27/21006/


最後は、バチカン出版局から発表された、新型コロナウイルス危機をめぐるキリスト教的考察をテーマにした本『交わりと希望』です。

教皇様が序文で「パンデミック危機は、わたしたちの生活の中の幸福やキリスト教信仰の宝について考えさせ、この嵐の中で自分たちを支えるための根をどこに深く張るべきかを考察させた」と書いてあるそうです。

日本語訳が中央協議会から出るのが楽しみです。
(森山神父様、よろしくお願いいたします!)

 

祝「初ミサ」of 初ミサ

新司祭がその教会で初めて執り行うごミサを「初ミサ」と呼びますが、本当に初めてのごミサを久留米教会で上げてくださいました!

 

最初のごあいさつです。

「司祭に叙階されて4日目のわたしがミサをちゃんと捧げることができるのか?と不安に思われている方もいらっしゃるかもしれませんが、ご安心ください。
神様がわたしを通してミサを行ってくださるのです。」

(船津司祭らしい、誠実なお話しぶりです!)

「叙階にあたり、多くの方からお手紙をいただきました。そのなかにはお会いしたことのない方からのものもありました。
全く知らない方からの本当の祈り、願いが込められたお手紙をいただきました。
『この手紙の目的は、あなた様に叙階のお祝いを申し上げるためです。
今日から司祭のための祈りを始めます』と書いてありました。この手紙はわたしにとって、宝です。」

 

 

 

 

 

宮﨑神父様が昨年イタリアで買ってきてくださったカリスを、久留米教会の信徒からの贈り物としてお渡ししました。

 

新司祭からの祝福は、全免償が与えられるとされています。

 

 

最後のごあいさつでは、こうおっしゃいました。

「神様の呼びかけに耳を澄まし、それに応えて生きていく。
わたしの司祭としての道もそう、皆さんひとりひとりもそうです。

あなた方の光を人々の前に輝かせなさい、というマタイの教えを忘れないでください。

10数年前にこの久留米教会から寺濱神父様が誕生したとき、『わたしの願いは、次の10年で新しい司祭がこの教会から生まれることです』とおっしゃっていました。
わたしも同じことを祈りたいと思います。」

 

イエスがご自身の貧しさで豊かにしてくださらなければ、司祭はもっとも貧しい者です。
イエスが友と呼んでくださらなければ、司祭はもっとも役に立たないしもべです。
ペトロにしたようにイエスが忍耐強く説いてくださらなければ、司祭はもっとも無知な者です。
よい羊飼いが羊の群れで強くしてくださらなければ、司祭はもっとも脆弱なキリスト者です。
私が聖職者でいるのは、神が私の小さに「目を留めてくださったからです」(ルカ1・48)
その小ささのなかに、私たちは喜びを見出します。
私たちの小ささのなかにある喜びを!
(教皇フランシスコの説教より)

 

幸せな喜びとお恵みに満ちた、この活気ある久留米教会をこれからもともに前に進め、新司祭のご活躍を祈りたいと思います。

 

船津亮太 司祭 叙階式

23日、久留米教会において、叙階式が執り行われ、船津司祭が誕生しました。

司祭叙階式は、一人の男性が「地に落ちて一粒の麦となる」緊迫した雰囲気であってほしいと思う、と来住神父さまがカトリック生活8月号の連載記事に書かれていました。

もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、
それは一粒のままである。
しかし、死ねば、豊かな実を結ぶ。

(ヨハネ12・24)

3月に予定されていた叙階式が延期となりました。

しかし、5月にはアベイヤ司教が着座され、お心遣いで久留米教会での開催となったという経緯は、わたしたち久留米教会の信徒にとっては大変光栄なことでした。

残念ながら招待者のみの参列ではありましたが、福岡教区のご尽力で初めて生中継され、まさに、厳粛でありながら、喜びに満ち溢れた叙階式でした。

今週末、25日(土)19時、26日(日)9時、11時、3回の主日のミサで船津司祭の初ミサが執り行われます。

 

 

 

最高の笑顔です。

亮太司祭の今後の歩みが愛と恵みに満たされるよう、祈りましょう。

 

 

「父になる」召命

19日のごミサは、6人の子どもたちの待ちに待った初聖体のお祝いでした。

 

 

 

 

6人中5人が男の子という、なんとも期待に胸が膨らむ(笑)初聖体の晴れの日のお祝いでした。

みんなでお揃いの、十字架の刺繍の入ったマスクを作ってもらったようで、晴れ晴れとした子どもたちの姿に、教会中が幸せと喜びに満ち溢れた、久しぶりに活気の戻った久留米教会でした。

 

ルカに書かれている放蕩息子のたとえ話は、福音書の中でも一般的によく知られたストーリーでしょう。

この物語は、次男坊に甘い父(よくある)、兄が弟より愛されておらず、弟よりも価値を認められていない、どうしようもない弟と妬む兄(あるある)、そういうことを言っているたとえ話ではありません。

父は2人の息子を比較していません。

父が2人の息子を愛していることは明らかで、それぞれの置かれた立場に合わせて愛を表しています。

弟を迎えた父は祝宴を催し、畑から戻った兄を迎えた父は弟の帰還をともに喜んでほしいと願います。

 

ヨハネの14章のタイトルは『父への道であるイエス』

わたしの父の家には、住むところがたくさんある。

わたしが行って、あなた方のために場所を準備したら、
戻ってきて、あなた方をわたしのもとへ迎えよう。
わたしのいる所に、
あなた方もいるようになるためである。
(ヨハネ14・2~3)

神の子とされたわたしたちには、ひとりひとりに特別な場所が与えられています。
比較、嫉妬、ライバル心、競争心を捨て、父の愛にゆだねることを暗示しているのが、この放蕩息子のたとえ話です。

真に憐れみ深い父性が生き生きと描かれているのです。

このたとえ話の前には、見失った羊となくした銀貨の話があり、この3つを合わせた15章のタイトルは『憐れみの三つの喩えの序』です。

嘆き
赦し
惜しみなく

この3つのキーワードが秘められています。

祈りの多くは嘆きであり、それを受け止めてくださる父

心からの絶えざる赦しを与えてくださる父

父は自分のために何も取っておかず、子どもたちのために自分自身を注ぎ出します。
何のためらいもなく自分を与え尽くします。

その善良さ、愛、赦し、ケア、喜び、憐れみに何の限界も設けない神の存在が暗示されています。

わたしたちもキリスト者として、この父性に倣うべきところが大きいと思います。

大変難しいことですが、イエス様をとおして表された父の憐れみ深さを、いつも心に刻んでおかなければなりません。

あなた方の父が憐れみ深いように、
あなた方も憐れみ深い者となりなさい。
(ルカ6・36)

これは、神の子となるための根本条件なのです。

 

いよいよです。

神様がわたしたちに新しいお父さんをお与えくださる日が近づいてきました。

およそ父と名づけられるすべての父性の源である天の父(エフェソ3・14~15)の代理人の一人として、わたしたちの船津新司祭の誕生を祝う日が迫ってきました!

召命とは、よく耕された相互愛という畑で熟す果実です。
忘れないでください、召命はひとりでに生まれるものではありませんし、ひとりでに育つものでもありません。
召命は神のみこころを起源とし、信仰心の土壌で、兄弟愛を体験するなかで芽吹きます。
(教皇フランシスコ 世界召命祈願の日メッセージより)

叙階式の模様は、YouTubeでライブ配信される予定です。(23日午後2時より)

準備に余念のない宮﨑神父様と久留米の信徒たちです!

 

 

詩編で祈る

12日の第一朗読と答唱詩編にハッとさせられました。

まことに、天から雨や雪が降れば、地を潤し、これに生えさせ、芽を出させ、
種蒔く者に種を、食べる者に糧を与えずに、天に戻ることはないように、
わたしの口から出る言葉は、わたしが望むことを行い、
わたしが託した使命を成し遂げずにむなしくわたしに戻ることはない。
(イザヤ55・10~11)

あなたは地を訪れて、潤わせ、それを大いに豊かにされました。
天の水路には水が満ちています。
あなたは彼らに麦を用意されました。
あなたはこのように大地を整えられました。
畝間を豊かに潤し、土塊をならし、夕立で大地を柔らかにし、
芽生えたものを祝福されました。
(詩編65・10~11)

恵みの雨を降らせてくださる神に感謝する祈りの詩編です。

今この時だからこそ、この詩編を祈りとして唱えることが必要だ、と感じました。

 

 

黙想会に参加すると、(安易な表現ですが)心も身体もデトックスされたような気持ちになります。

「さあ、静かなところへ行ってしばらく休みなさい。」
マルコ6.31

黙想の家を、英語ではRetreat House(リトリートハウス)といいます。
Retreatには「退く」と言う意味があります。

日常生活からひとまず退き、離れ、独りになって静かに祈りの時を持つ。
そして、こころに語りかける神のことばに耳を澄まします。
(カトリック福岡黙想の家 ホームページより抜粋)

 

「詩編で祈る」 というテーマでの黙想勉強会に参加しました。

詩編についてこれほど深く考えたのは初めての経験でしたし、詩編が「使える」ことに目からウロコでした!

聖書は神から人への語り掛けですが、唯一詩編だけは、人間が神に語りかけている言葉、詩です。

 

自分のなかに渦巻く様々な思い、怒り、嘆き、痛悔、あるいは信頼、感謝、賛美といった思いを、神様に向かって、詩編にのせて「注ぎ出す」ことで、神様との関係が循環し、生き生きと生きることが出来るのです。

人間のあらゆる思い、それらを偏らずに祈ることによって、自分の心という畑をまんべんなく深く耕し、肥沃なものにしていくことができるのです。


神様には何を言っても大丈夫なのです。

怒りに任せて、祈りかどうかもわからず、不安や不満をぶちまけることさえも受け止めていただけます。

 

詩編には「嘆きの詩編」「怒りの詩編」などと呼ばれている詩があります。

たとえば、あなたが今苦難を抱えていて嘆き悲しんでいるとしたら、その詩編(ex.102)に乗せて嘆き抜いてみるとよいでしょう。

嘆きの詩編102は、こう神に語りかけます。

 

不幸なものが心挫け、その憂いを主の前に訴える時の祈り。
主よ、わたしの祈りを聞き入れ、
わたしの叫びをみ前に至らせてください。
わたしの悩みの日に、あなたの顔を隠さず、
わたしに耳を傾け、わたしが叫び求める日に速やかに答えてください。
(1~3)

父が子を憐れむように、主はご自分を畏れる者を憐れまれる。
主は、わたしたちの造られた有様を知り、
わたしたちが塵にすぎないことを想われる。
人の日々は草のようにはかなく、
その栄えは野の花のように短い。
風がその上を通り過ぎると跡形もなく、その場所さえ知る由もない。
しかし、主の慈しみは主を畏れる者の上に、とこしえからとこしえに。
(13~17)

 

このポケットに入るサイズの祈りの本は、数年前の御復活祭の時にプレゼントでいただいたものです。

 

バッグに入れて持ち歩き、ふとした瞬間に開くだけでお祈りが出来るという優れものです!

 

嘆いて嘆いて、嘆きの底までたどり着いて、その底に足がついたら蹴り上げて上昇するのだ。
底までいかずに途中で上昇しようとすると、中途半端な気持ちのままに嘆きがくすぶり続ける。
嘆きたいときは、神に嘆き尽くすほうがよい。

黙想を指導してくださった神父様がおっしゃっていました。

詩編65の恵みの雨に感謝する詩は、この水害の時だからこそ、唱えなければならないと思うのです。
雨は本来、神からの大地への、わたしたちへの恵みなのです。
そのことを、災害時には忘れてしまいます。
雨を、恵みとして降らせてください。
被災された方々に一日も早く心の平安をお与えください。

そう祈りたいと思います。

 

祈りに求めるものは何でしょうか。

「安らぎ」が得られる祈りができることは、喜びでしょう。

ご自分のもとに来る者を「休ませて」くださると、イエスは言います。
キリストが疲れた者、重荷を負う者に与える「安らぎ」は、単なる心理的な慰めでも、施しでもありません。
それは、福音を知り、新しい人類の構築者となった、貧しい人たちの喜びです。
イエスご自身があたえる喜び、それが安らぎです。

(7/5 教皇フランシスコのお説教より)

 

神との信頼関係

 

名誉教皇ベネディクト16世の兄、ゲオルグ・ラッツィンガー師が帰天されました。

「わたしが小さな時から、兄はわたしにとって同志であるだけでなく、信頼のおける導き手でもありました。
わたしに、方向性と拠り所をはっきりと、決然とした選択をもって示してくれました。
困難な状況の時も、わたしに取るべき道をいつも示してくれました。」

これは、ベネディクト16世がゲオルグ氏についてかつて語られたおことばです。
おふたりの関係は、強固な信頼関係のうえにあったことが、このたびのいくつかの報道からもよくわかりました。

(余談ですが、映画「2人のローマ教皇」を観てからすっかりベネディクト16世を見る目が変わりました!)

 

サマリアの女に井戸の水を飲ませてほしい、と頼まれた時のイエス様のことが思い出されました。

多くのエピソードは、死にそうな子どもを助けてほしい、病気を癒してほしい、という人々からイエス様への働きかけであるのに対し、イエス様の方から女性に頼みごとをするというこの逸話は、大変興味深いものです。

なぜか、イエス様はこのサマリアの女を信頼して自ら話しかけます。
そして、最初はいぶかしがった彼女も少しずつ心を開き、町の人に「このひとがメシアかもしれません」とわざわざ言いに行くのです。
彼女はおそらく、自分の身の上から周囲の人々と疎遠になっていたであろうに、だから日中の暑い時間帯(他の人がいない時間)に水を汲みに行っていたであろうに、自分から町まで知らせに行ったのです。

イエス様と長い時間話したことで、彼女もイエス様を信頼し、変貌を遂げたようです。

 

親、兄弟姉妹、恩師、友人のなかにみなさんも、「信頼する人」がいらっしゃるかと思います。

そう書きながら、わたしにとっては誰だろう、と思いを巡らせています。

「わたしはこの人を信頼しています」

そう明確に言えることは、それだけで幸せなのかもしれません。

わたしたちの信仰は、その最たるものではないでしょうか。

『神との信頼関係』

神への揺るぎない信頼があるわたしたちの生き方
神から信頼されたわたしたちへの招きに、ときにはフワフワとしたり、寄り道をしながらも応えていく生き方。

個人的なことですが、今日7/6はわたしの母が帰天して9年目の日にあたります。

9年前のわたしは、今思い返しても恥ずかしいくらい身勝手な娘でしたが、母がわたしを信頼してくれていることは感じていました。
それにうまく応えられないことへの焦りともどかしさを抱えていました。

 


最近読んだ本の中で、ダントツにお勧めなのが、この来住英俊神父様の本です。

 

私は、イエス・キリストに自分の苦労や嘆きを折に触れてよく語りかけています。
くだらない悩み、くよくよした弱音もイエスがすべて受け止めてくれると感じます。
もちろんそれで生活上の苦労や悩みがなくなったわけではありませんが、イエスのおかげでフラストレーションや怒りをほとんど感じなくなりました。

キリスト教信仰は、神からの招き(呼びかけ)への応答です。
一緒に歩もうじゃないかという招きに「わかりました。そうしましょう。」と応答した。
どんなに理不尽なことを体験し、また見聞きしても、「それでも」応答し続ける人がキリスト者と呼ばれる人々です。

 

来住神父様の語られる、人生経験の中から織り出された生きたことばは、どれも心に深く刺さります。

お互いの信頼関係があるキリスト者として、時にはフワフワとした気持ちになってもいいのだ。
焦らなくていい、もどかしさを抱えるのも普通のことなんだ、と安心させてもらえた本でした。

 

視点を変えてみる

29日の聖ペトロの祝日に併せ、宮﨑神父様の霊名をお祝いしました。

ジュゼッペ神父様がお祝い(?)の演奏を披露してくださいました!

いよいよ来月23日には、この久留米教会において、久留米教会出身の船津亮太助祭の司祭叙階式が行われます。
今、久留米教会は喜びとお恵みに満ちています。

 

先日、ある神父様とじっくりお話をする機会に恵まれました。
その神父様の「キリスト者とはなにものか」というお考えが面白いのです。

もし、わたしが「信者ってどういうひと?どういう生活?」と聞かれたら、うまく説明できないと思うのです。

「どうせ、信仰を持っていない人には理解できないだろうなぁ、、。神に祈りを捧げる生活をしている人とか言ったら引かれるかも、、、」と思ってしまいます。

神父様は『しょっちゅう、イエス・キリストという人とおしゃべりしている人』と表現されました。

なるほど!!と目からウロコでした。

 

何事も、ちょっとずらして考えてみると、違った見え方がしてくるものです。

宗像の黙想の家のこのご像、素晴らしいですね。

 

ローマ兵に連行されていくイエス様の様子が表現されています。

でも、わたしには「小さな存在にすぎない弱い人間を全てから守る存在」に見えます。

 

 

どうですか?!
そう言われてから見ると、そう見えませんか?!

 

手をつなぎ、信頼のあかしに肩に触れている、小さき我ら

そう見えます。

 

前々回の記事、「死者とのつながり」を読んでくださったある神父様からメールをいただきました。

わたしたちが死者のために祈ることについて、書いた記事でした。
神父様からのメールには、

「むしろ死者がわたしたちを生かしている。
生ける者の教会は、亡き者の教会によって支えられている。」

「死者は生きていて、今を生きるわたしたちを生かす。
わたしたちが死者に向かうというよりは、死者の方がわたしたちを生かしている。」

そう、本当にそうです、そうなのです。

「亡き母を天国で安らかに過ごさせてください」と毎晩祈るわたしを動かしているのは、亡くなった母とイエス様なのだ、と日々、いつも感じます。

この世の生(ビオス)は永遠の命(ゾエ)に照らされ、守られ、支えられ、導かれているのです。

 

視点を少し変える。

何事も真正面からだけとらえて考えるのではなく、少し横から眺めたり、一歩引いて考えてみると見えてくるものがあります。

フランシスコ教皇が昨年秋に来日された際の、東京での青年たちとの集いでのお説教の一説です。

なんのために生きているかに焦点を当てて考えるのは、それほど大切ではありません。

肝心なのは、だれのために生きているのかということです。

 

神様からの質問

ミサが再開されて3週間。土日3回の主日のミサはいずれも100名前後の参列者です。

 

第2朗読の一説に心を惹かれました。

実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
(ローマ5・14)

 

神様がアダムとイブ、カインに質問をされている場面は、わたしたちに対する問い掛けと読むと面白いものです。

神様はアダムに質問されます。

「あなたはどこにいるのか」

アダムは答えます。

「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」
「あの女が、木からとってくれたので、(仕方なく)食べたのです」

神様はイブに問い掛けます。

「あなたは、なんということをしたのです」

イブは答えます。

「へびがわたしをだましたのです。」

 

2人とも、人のせい(へびのせい)にしています。


カインに質問されます。

「弟アベルはどこにいますか」

カインは答えます。

「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」

今でいう、逆ギレのようです。

 

「なぜ神様はアベルの捧げものを好まれたのでしょうか」と2人の神父様に質問してみました。

おひとりの神父様のお答えは、
「コヘレトにあるように、神の思いを知ろうとしても無駄。
人の考えることと神の考えはかけ離れているのだ。
納得できないこと、理不尽なことは世の中に多くあるものです。」

もうお一方の神父様のお答えは、
「昭和天皇に園遊会で、『陛下、こちらのカインさんがお持ちになったのは精魂込めて作られた新種の米でございます』とお米を献上したら、陛下が『ほぉ、どのような品種改良をされたのですか?』と興味を示される。
次に『陛下、こちらはアベルさんで、最高級の肉をお持ちになりました』、陛下は『あっそ』。
そんなもんです。相手がこちらの期待通りに反応するとは限らないのが世の常です。」

面白い例え話だと思いませんか!?


アダムとイブは神の禁じた実を食べ、楽園を追放されました。
そして、2人の息子を産み、一心不乱に働きますが、弟は兄に殺され、兄は遠くの地に追放されます。
アダムとイブは2人の子どもを一度に失うのです。
その子はさらに、親たちの住む土地からも、神に追われます。

神に対する不従順と傲慢の結果です。

 

三浦綾子さんの本に、こう書いてありました。

「あなたはどこにいるのか」という問いは、永久に神が人々に問い続けている言葉である。
「あなたはどこに立っているのか」
「あなたの立場はいったいどこなのか」
「何に属しているのか」
という問いだ。

「わたしはいつも神の前に立っています」
「わたしは救い主キリストに属しています」
と、いつ、どこででも、誰に対しても明確に答え得るものは幸いである。

アダムとイブのように、神を避けて、隠れていてはならないのだ。人間はなぜ神に答え得ないか。
それは答え得ぬ生活をしているからである。

 

来住英俊神父様の本にはこう書いてあります。

「お前はどこにいるのか」神は知っているはずです。それでも質問するのはなぜか。
世々にわたって人間たちがこの質問に答えるためです。
私は結局、いま、どういう状態にあるのか、ということです。
折に触れて、「お前はどこにいるのか」という質問を神から受けて、自分の人生、いま到達している地点について思いをめぐらすことが大事なのです。 


誰に対しても「キリストに属しています」と答えるのは難しいですが、「信仰をもって生活しています」と言うことはできるのではないでしょうか。

「信仰を持っていてよかった」とおっしゃるご高齢の方の言葉を何度も聞いたことがあります。

わたしも将来、そうありたいと思ったものです。

 

死者とのつながり

14日のミサでの第一朗読は申命記からでした。

主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。
(申命記8・14)

自分たちが他国で奴隷の身であったこと、苦難に耐えて生きてきたことを決して忘れるな。
だから、在留する他国の人、やもめや孤児を虐げてはならない。

度々書かれているこのくだりがとても好きです。

人種差別も性差別も、この観点でみなが生きるならばこれほど混乱した世界にはならなかったはずなのに、と思うのです。

昨日のごミサでは手話通訳が行われ、通訳者はフェイスシールドを着用しました。

 

 

人はこの世の命が終わったら、もう生者のために働くことはできないのか。

生者が死者のために祈ることには意味があるのか。

これは、身近な大切な方を亡くした経験のある人にとっては「とんでもない!」となる問いです。

 

ギリシャ語には「命」を表す2つの言葉があります。

「ゾエ」は永遠の命
「ビオス」は現世の命

ギリシャ語で書かれたヨハネの福音書では、この2つの単語が使い分けられています。

↓「ゾエ」バージョン

命を与えるのは霊である。
肉は何の役にも立たない。
わたしがあなた方に話した言葉は、
霊であり、命である。

(ヨハネ6・63)

↓「ビオス」バージョン

再びそれを得るために、わたしは自分の命を捨てる。
それ故、父はわたしを愛してくださる。
誰もわたしから命を奪いはしない。
わたしが自分から命を捨てる。
わたしは自由に命を捨て、また、再び自由に命を得る力を有している。
わたしはこの掟を父から受けた。 

(ヨハネ10・17~18)

 

命には、この世での命と霊的次元での命がある、ということなのだそうです。

使徒信条の中に、「聖徒の交わりを信じます」とあります。
これは、死者との交わりのことも意味しています。

死者との交わりについて、女子パウロ会のホームページにはこう書いてありました。

亡くなられた方々も、イエス・キリストの神秘体に属する人々です。
教会は、その最初の時代から、死者の記念を行い、死者に尊敬を払っていました。
そして、亡くなられた方にもし罪が残っていたとするならば、彼らがその罪から解かれるように、祈ってきました。
このような死者のための私たちの祈りは、死者を助けることになるのです。

 

先日、教会に信者さんではない方が入ってこられ、
「質問があります。
洗礼を受けていたのか分かりませんが、この教会によく行っていた、という知り合いが亡くなりました。
きちんと教会で葬儀をしていないのですが、その場合、浮かばれないのでしょうか。
11月にお盆のような死者の月があると聞いたのですが、その時に供養すればいいのでしょうか。」

わたしなりのお考えを少しお話しました。そして、
「ぜひ、宮﨑神父様にご相談してみてください。
希望されるのであればきっと、追悼のごミサを執り行ってくださるかと思います。
あなたが洗礼を受けていなくても、その方のためにこの聖堂でお祈りされてもいいですし。」

亡くなられた方のことを思い出されたのか、少し涙を浮かべられた様子でした。
この問いの答えを知りたくて、ここ数か月、何度も教会に足を運ばれたそうです。
ようやく教会の扉が開いているのを見て、入ってこられたのです。
こうした方々のお気持ちを大切にしなければならない、と痛感した出来事でした。

 

たまに母が夢に出てきて、何かのメッセージをくれます。

「ミサに行きたいけど、いいかな?」と言うので
「ダメよ!あそこでお葬式したのに、連れていけるわけないでしょ!?」
と焦る夢を見たことがあります。

よく見るのです、実は母は亡くなっていなくてどこかに暮らしている、という夢を。

いつも近くに寄り添っていて家族を守っているのよ、というメッセージだと信じて疑いません。

 

命とは、この世で肉体とともにあったものだけではないのです。

わたしたちの「何が」変わったのか。

久しぶりに、本当に久しぶりに多くの方々とお会いでき、ミサに与ることができた日曜日でした。

土曜日の夜のミサ、日曜日の6:30.9:00.11:00の主日ミサ、いずれも100名以下のご参列でしたので混乱もなく、皆さん注意事項を守って、3か月ぶりの主日ミサに静かに与ることができました。 

嬉しいお知らせです!
吉浦神学生の久留米教会での司牧実習がスタートしました。
4月から1年間の予定だったのですが、昨日がデビューでした!!

一見、新しい形のミサが始まったようにも思えます。

変わったのは「ミサの形式」でしょうか。
参列するわたしたちの「意識」でしょうか。

以前は4~5人で座っていた椅子には2人まで、配布された聖書と典礼は必ず持ち帰る、聖歌は歌わず唱える。

しかし勘違いしてはいけないと思うのです。
これは、変化ではありません。

 

 

 

カトリック生活6月号の来住神父様のお話は、少し衝撃的(いい意味で)でした。

タイトル「教会は、たぶん変わらない」

ミサのありがたさを再認識する人もいるだろうが、ミサに行かなくても暮らしは回ることを再認識する人もいるだろう。
意気込みを挫くシニカルな発言だろうか。
しかし、変わる人は、黙って変わるのである。
実際に生き方を変える前に、「これは変わるためのよい機会だ」とか言わない。

なるほど、そうかもしれないと感じます。

戦争が起ころうと、大災害で教会が破壊されようと、ウィルスが蔓延したままの世界であろうと、ミサと教会の役割、わたしたちの持つ信仰の意味は変わらないはずです。

 

「コロナ『後』の世界はない。」とおっしゃった竹下節子さんのお話を以前にご紹介しました。

「これまでの社会では進むことばかりを強いられてきた。
 一人でいること、立ち止まることの大切さを考えさせられる時間だ。」

「今をいつくしむことの大切さ」

「あったほうがいいもの、
 なくてはならないもの、
 かけがえのないもの、
 この生活(自粛生活)で分かるようになった」

これらは、若松英輔さんがNHK FMの宗教の時間でおっしゃっていた言葉です。

 

「わたしたちが変わらなければならない」のだ、とここ数か月自分に言い聞かせてきたような気がします。

必要なのは、「変わること」ではなく「立ち止まって考えること」なのではないでしょうか。

 

続けて来住神父様はこう書いておられます。

常識から見れば惨事や災害としか見えないことが、人の生き方を変えることはたしかにある。
私自身、阪神淡路大震災で家族との関係が大きく変わった。
この疫病でも(聖週間とシンクロして)人生が変わりそうになっている。
しかし、そういう出来事はきかっけにすぎない。
ルカの「金持ちとラザロ」のエピソードでイエスはこう言われている。

もし、モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。
(ルカ19・31)

私はこう言う。
「もしイエスの言うことに耳を傾けないなら、たとえ未曽有の大災害が起ころうと、キリスト者としての生き方は変わりはしないだろう」

 

3か月も立ち止まって考える時間が与えられていたのです。

各々、自分なりに感じていたこと、考えたことを手帳に書き出してみてはいかがでしょうか。 

 

教会のアイデンティティ

いよいよ6月1日、今日の朝ミサから再開されました。
もう一度、自分たちにとってのミサとは何なのか、を考える良い機会です。

イエズス会前総長、元上智大教授、アドルフォ・ニコラス神父様が5月20日にお亡くなりになりました。

ニコラス神父様の上智大学での講演内容について、3月にこのホームページでご紹介しました。
『教会の秘跡としてのミサ』というタイトルの講演で、教会とミサの役割についてのお話です。

長らくミサに与れない日が続いていたわたしたちにとって、とても大切なことが書かれていますので、今日はもう一度、その内容をかいつまんでご紹介したいと思います。

最初に結論をまとめてみます。

ニコラス神父様のおっしゃるミサの意味は、

「聖餐は、個人の信心の場だけではありません。
それはキリストの体の秘跡であり、すなわち教会の体の秘跡です。
教会の自己表現、教会の生きる場です。
教会が聖餐を祝います。そのとき逆に、聖餐は教会を造ります。
そこから答えが与えられ、そこから新しい歩み、現実への対応、自発性が生まれます。」

 

公開ミサが中止となったこの3か月の間に、信徒の皆さんもそれぞれのご家庭やご自身で「ミサとは何なのか」と問われたことがあるでしょう。

3月は、毎週行くのが当たり前だったのに、、、
4月は、御復活祭をお祝いできないなんて、、、
5月になると、日曜の朝はゆっくりする習慣が、、、

わたしの場合は、こんな感じです。

 

ニコラス神父様によると、現代の教会とミサの在り方には3つの問題があると言います。

①礼拝への逃避
 日常生活や困難からの逃避としてのミサ

②「祭壇の秘跡」と「隣人愛の秘跡」の分離
 信心深く祭壇の秘跡に参加しながら、兄弟姉妹相互の交わりの秘跡であることを忘れている

③精神安定剤としての利用
 悩みや問題を抱えて参加し、ミサを自分の心を落ち着かせるための助けとして利用する

どれも、なんとなく当てはまるなぁ、わたしにも、、、と反省。

 

キリストの体の秘跡とは、聖櫃の中に安置されている聖体のことではありません。
ホスチアだけではなく、ともに食べ、ともに飲む「おこない」としての感謝の祭儀です。

教会がミサを祝うと同時に、ミサが教会を造るという相互関係を、司祭も信徒も皆が意識していなければなりません。
ここにわたしたちのアイデンティティがかかっています。

ミサは「派遣」である、ということを忘れてはなりません。
Missaという言葉はラテン語で「派遣されている」という意味です。
ラテン語でミサが祝われていたとき、司祭は式の終わりに「イテ・ミサ・エスト」Ite, Missa estと宣言しました。
これは「行きなさい、あなたがたは派遣されている」という意味です。
これはまた「ここで体験したことを生きなさい」ということです。
儀式で表現した神秘は、今度は生活の中の神秘とならなければなりません。

 

世界広報の日のパパ様のメッセージにはこうありました。

キリストの物語は過去の遺産ではありません。
それは、今もたえず進行中の、わたしたちの物語です。
神は自ら、わたしたち人間の中にご自分を織り込むことにより、わたしたちの物語を織る新しい方法を示してくださいます。


「当たり前に」参加していたミサを、「派遣されるために」与る聖餐、と考え直したい、そう思っています。

信者として、ひとりの人間として紡いできたこれまでの物語を、教会を通して探求し、他者と分かち合う。
自らの物語を語ることで、だれかの役に立てるように。

神様から頂くお恵みや気づきを自らのなかに「織り込み」ながら、教会内外の人々と共鳴し、互いに救い合う社会の一端となる。

そういう人間になるために、ミサに与りたいと思います。

 

 

神はどこに?

もう、紫陽花の季節になりました。

わたしたちの新しい生活が進むにつれ、季節も神様が与えられたその時を知っていて、前に進んでいるのですね。

 

「神はどこにいるのか」という問いは、人類がこれまで繰り返し問うてきたように思います。

特に、困難な時代、戦争、大規模な自然災害の際には、神はどこに?とつい思うのが人間でしょう。

神がそれらの困難を引き起こしているのではない、我々人間の仕業、傲慢な生活の末に我々自身が引き起こしているのだ、ということについては以前ここに書きました。

今日は、違う視点から考えてみます。

 

モーセは荒野の山の麓で、燃える柴の中から神の声を聞きます。

「わたしの民イスラエルの子らをエジプトから導き出せ」出エジプト3・10)

「わたしは必ずお前とともにいる」3・12)

「わたしは『ある』ものである」 3・14)

「これは永遠にわたしの名、これは代々にわたってわたしの呼び名である。」3・15)

 

古代の神々には、名前があるのが普通でした。

黄泉の神イシス、太陽の神ラー、嵐の神バアル、などです。

ですからモーセは、あなたの名前を教えてください、と言ったのでしょう。

その答えが「わたしは『ある』もの」とは、なんと面白い答えでしょう。

(ちなみに、共同訳聖書では「私はいる、という者である。」)

英語の聖書では、 "I am who I am." となっています。

 

今回読んだ本で初めて知ったのですが、原典の古代ヘブライ語には過去形、現在形、未来形という考え方は存在しないのだそうです。

著者によると、「ある」の部分は「あるだろう」となるのだというのです。

「わたしはあるだろう、わたしがあるであろうように」

と訳するのが妥当なのだと。

「ある」というなら、(さらに言えば、共同訳の「私はいる」ならば)神はすでに「存在している」ことになります。

ですが、「あるであろう」となると、「将来あるだろう」「いつか姿を現すだろう」、つまり「今はまだいない者」となるのです。

 

「わたしは今はいない。

 だが、いつか出てくるだろう。
 わたしがあろうと望んだ時に。

 あるであろう者、それがわたしの名」

 

わたしたちは神様を「存在」としてとらえようとするとき、「神はどこに?」と考えているのです。

神様は「時間」のなかに姿を現されるのだ、というのがこの著者の考え方です。

神様は自分の好きな時に、好きなところで、好きなようにわたしたちに触れてこられるのです。

人間が、好きな時に自分の都合で神様を引っ張り出してきて「どこに?」というから、「求める時にいない」などと思ってしまうのでしょう。

神様は「体験」する対象なのだ、と目からうろこでした。

 

ところで、 水を入れた容器の中心に強力な磁石を入れると水が左右へと分かれる現象が生じることを、『出エジプト記』のモーセにちなみモーゼ効果 (英語で Moses Effects) とよばれていると、ご存じでしたか!?

 

「神様がわたしの肩に触れてくださった」ような気がした、ガリラヤ湖畔を歩いた日を思い出しています。

 

 

去年は、夏にイスラエルに巡礼に行くことが出来、秋にはパパ様のごミサに与ることができ、神様の愛を全身に浴び続けた日々を過ごしていました。

今年は、教会に行くことができず、仲間たちと集まって教会の行事の準備をすることすら出来ない日々が続いています。

 

だからと言って、今はなかなか「神様を感じられない」なんてことはありません。

神様は、今日、今という時間にもわたしたちに触れてくださっているのを感じるようになりました。

教会に行けないから、ミサに与れないから、感覚が鋭くなっているのかも?!

 

「愛」にまつわる言葉

「愛」「愛する」という言葉は、口にすると少し気恥しい気がしますが、最近いくつかの「愛」にまつわる言葉を目にしたので、書いてみたいと思います。

5/17「世界広報の日」にあたっての教皇様のメッセージの一文です。

わたしたちを造り、救ってくださった愛を思い起こすなら、日々の物語の中に愛を差し込むなら、日常の筋書き〔横糸〕をあわれみで織るなら、そのときわたしたちは、ページをめくっているのです。

主とともに、ほころびや裂け目を修繕しながら、いのちの織物を再び織り上げることができるのです。

 

パパ様のメッセージはいつも愛に満ちていて、読んでいて涙が溢れそうになります。

 

1コリント13章は、パウロの愛の賛歌とでも言えるもので、とても好きな箇所です。

たとえ、わたしが人間の異言、み使いの異言を話しても、
愛がなければ、わたしは鳴る銅鑼、響くシンバル。
たとえ、預言の賜物があり、あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、
たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、
愛がなければ、わたしは何ものでもない。
(13・1~3)

「その時」引き続き残るのは、信仰、希望、愛、この三つ。
このうち最も優れているのは、愛。
(13・13)

フランシスコ会訳聖書の解説にはこうあります。

「愛」はあらゆる「特別な恵み」(カリスマ)に本質的に伴うものであり、「愛」がなければ、賜物はそれを与えられて行使する人にとって無意味なものになる。
「愛」は「信仰」「希望」とともに人を神と直接に結び付けるが、この2者にさえも勝るものである。

 

昨日の聖書朗読はヨハネの福音書でした。

「わたしの掟を自分のものとし、それを守る人、その人は、わたしを愛する者である。
わたしを愛する者は、わたしの父に愛される。
わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現す。」
(ヨハネ14・21)

さらに15章には、

父がわたしを愛してくださったように、わたしもあなた方を愛してきた。
わたしの愛のうちに留まりなさい。
(15・9)

 

ドン・ボスコの言葉です。

「若者たちを愛するだけでは十分ではない。
若者たちに『愛されている』とわからせることが必要だ」

信頼関係を築き、若者の生きづらさを取り除くには「愛する」だけでは不十分で、それを分かってもらえる努力をしなければならない、ということだそうです。

 

竹下節子さんの本にはこうありました。

「愛する」とは愛する「相手をリスペクトすること」と、「相手のためにだけとってある時間や場所があること」とが組み合わさったものである。
誰かを愛するというのは、自分の生きる努力の中に、スケジュール帳の中に、心の中に、愛する人のためにだけ取り出せる「空き」があるということだ。
だから、「自分は愛されている」と子どもたちにわかってもらうには、言葉だけでは十分ではない。
子どもたちに必要とされるときに、いつも応える用意があることを伝えること、全身全霊を投入して世話したり本気でともに遊んだりすることが必要だ。

 

もう一人、竹下さんと同様にわたしが尊敬する若松英輔さんの言葉です。

神が私に愛を注いでくれるということは、
この世界全体の根源である神が、私自身を肯定してくれていることに他ならない。
そして、神から肯定されているという事実を受け入れることによって、
自己を自分自身によって肯定することができる。
これが自己愛の出発点になる。

(これは、わたしの手帳に書き留めてあります。)

 

一方で、信仰についての心打たれる表現を見つけました。

1998年のヨハネ・パウロ2世の教書の中の言葉です。

「信仰と理性は、人間の精神が真理の黙想へと飛翔するための二つの翼である」

 

わたしの今日の結論は、パウロの言葉に行きつきます。

最後に残るのは、信仰、希望、愛、この三つ。

 

最後にもう一文、世界広報の日のパパ様メッセージより。

聖書は、神と人間との壮大なラブストーリーです。
その中心にはイエスがおられます。

イエスの物語は、神の人間への愛を完成させ、同時に、人間の神へのラブストーリーも完成させます。

是非、全文を読んでみてください。

https://www.cbcj.catholic.jp/2020/04/30/20698/

命のパン

ロザリオを手に、マリア様への祈りの毎日です。

ベツレヘムで買ったロザリオとマリア像です。

これがあるので、無敵の気分です。


そして、昨日の母の日の久留米教会の様子です。

 

ガリラヤ湖畔の小さな集落、タブハというところに、その名も『パンと魚の奇跡の教会』があります。

4つ全ての福音書に書かれている、5つのパンと2匹の魚で5000人の男性(女性と子どもはカウントされていないので、膨大な数の人々、という意味)の飢えを癒した奇跡を記念した教会です。

英語名は、Church of Multiplication of the Loaves and the Fishes

昨年の巡礼で訪れた際の写真です。(ピンボケですみません。。。) 

 

 

よく見ると、魚にはなく、パンにだけ十字架のしるしがあるのがご覧いただけると思います。

わたしが命のパンである。
わたしの所に来る者は、決して飢えることがなく、
わたしを信じる者は、もはや決して乾くことがない。
(ヨハネ6・35)

わたしは天から降ってきた、生けるパンである。
コのパンを食べる人は永遠に生きる。
(ヨハネ6・51)

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は永遠の命を得、
わたしはその人を終わりの日に復活させる。
(ヨハネ6・54)

生きておられる父がわたしをお遣わしになって、
わたしが父によって生きているように、
わたしを食べる人もわたしによって生きる。
(ヨハネ6・57)

 

イエス様の教えがどんどん発展していくのが分かります。

イエス様の行ったパンと魚の奇跡については、「パンだけがイエス様との関係がある」というように昔の人々が受け取っていたことが、この床のモザイクに表されているのです。

 

 

命のパン

イエス様のことであり、御聖体を指していることは言うまでもありませんが、御聖体拝領ができる日は近いうちに来るでしょうか。

今日は、現実の御聖体拝領ができなくとも命のパンをいただき続けることが出来ること、そのご経験から得た祈りの仕方、今を生きるということ、について書かれた本をご紹介します。

その名も、 『5つのパンと2ひきの魚』

2002年にお亡くなりになった、ベトナム出身のトゥァン枢機卿

1975年に当時のベトナム共産党政権に不当に逮捕され、13年もの間、拘留、監禁、独房生活を送られました。

ですが、その間も決して希望を失わず、イエス様という命のパンを噛みしめながら耐え抜かれました。

その記録です。

揺るがないことば

通常(去年まで)のGWは、多くの方がお仕事、学校がお休みとなり、家族が帰省して賑やかだったことでしょう。

今年は、静かに新しい連休の過ごし方を楽しんでいるところです。

その一つが、最近よくご紹介しているインスタグラムの楽しみ方です。
世界中の美術館が、おしみなく素晴らしい作品をどんどん紹介してくれています。
バチカン美術館は、日々の聖書朗読の箇所に関連した作品をあげてくれています。
パパ様のアカウントでは毎日、その優しいお顔やお声に触れることが出来ます!

 

 

ヨハネ・パウロ2世の、1997年のワールドユースデイでのメッセージです。

「わたしたちは、激変する世界の中で生きています。
絶対と思われたイデオロギーも、終わりを迎えようとしています。
地球上の多くの国の国境線を引き直さなければなりません。
全世界の人々は、うろたえ、怯え、不安を感じています。
(マタイ9・36)
しかし、主のみ言葉は消え去ることはありません。
歴史を読み返すとき、各時代は絶えず栄枯盛衰を繰り返してきましたが、主のみ言葉は、揺らぐことなく輝いています。
(マタイ24・35)
教会の信仰は、唯一の救い主、主イエス・キリストの上に、昨日も、今日も、そしてこれからも永遠に築かれていくのです。」

 

1997年は、香港が中国に返還された年です。

また、イギリスのダイアナ妃、マザー・テレサがお亡くなりになった年でした。

 

群衆が牧者のいない羊のように疲れ果て、倒れているのを見て、憐れに思われた。
(マタイ9・36)

天地は過ぎ去る。しかし、わたしの言葉は決して過ぎ去ることはない。
(マタイ24・35)

 

23年も前のお言葉ですが、たまたまこの箇所が紹介された本を読んでいて、とても驚きました。

まるで、昨日、教皇が世界中の信徒に向けて発せられたメッセージのようです。

その時代を反映した、その時々の場所と相手を想定して語られる歴代のパパ様のお言葉は、いつの時代も古びることなく、わたしたちの心を深く揺らします。

 

決して消えない、揺るがずに輝き続ける祈りの言葉、みなさんも自分の気に入ったものをいくつか心にお持ちだと思います。 

キリストによって、
キリストとともに、
キリストのうちに、
聖霊の交わりの中で、
全能の神、
父であるあなたに、

すべての誉れと栄光は、
世々にいたるまで。
アーメン

(書きながら思わず歌ってしまいました。)

 

どうか、すべてのものを一つにしてください。
父よ、あなたがわたしのうちにおられ、
わたしがあなたのうちにいるように、
彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。
(ヨハネ17・21)

 

聖なる神の御母よ、御保護に寄りすがり、御助けを求めます。

わたしたちは、あなたにより頼みます。
あなたはわたしたちの歩みを救いと希望のしるしとして照らしてくださいます。
いつくしみ深き、慈悲あふれる、優しきおとめマリアよ。

アーメン。
(パパ様のロザリオの月にあたっての書簡より)

 

祈りの言葉は、こうした揺るぎない聖書のことばを唱えるだけでいいのです。

祈る人ほど強い人はいない、と思うのです。
主はすべてを与えると約束してくださいました。
わたしたちが心を一つにして祈るとき、主はわたしたちのあいだにおられます。
(マタイ18・19~20)

心にエネルギーが湧いてくるような、元気な気分になる新しいお気に入りの祈りのことばを、聖なる読書や聖書のなかから見つけてみませんか。

 

我が家でも甥たちが帰省できないGWですが、ご近所に元気をお裾分けする意味で鯉のぼりを上げました。

 

 

マラナ・タ

教会は閉鎖されていますが、以前と同じように、事務の森さんと有志の方が聖堂を整えてくれています。

 

 

久留米教会の行事風景を、聖書の言葉と神父様、先輩方に教わったことを交えながら書いてきました。

ご紹介すべき行事がありません。
神父様や先輩方とお会いしてお話することもありません。

ですが、素敵な写真をこうして撮影して送ってくれる友だちがいます。
今週の記事についての感想を聞かせてくださる先輩方がいらっしゃいます。

 

外出自粛の生活の中で、読書の時間がたっぷりとあることは、お恵みのひとつでしょう。
そして、信仰に関する本を読んでいると聖書を開いて確認したくなります。
聖書を開き、以前、神父様に教わったことを書きこんでいる箇所に出会ったときの喜び!

「聖書に直接どんどん書きなさい。
 聖書が汚れるくらい書いていいのです。」

と、よくおっしゃっていました。

(故人ではありません!お元気です。
 東京で頑張っていらっしゃるようです!)

 

十字架の教えは、滅びてしまう者にとっては愚かしいことですが、救いの道を歩いているわたしたちにとっては神の力です。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする」と聖書に書き記されています。

事実、この世は神の知恵に囲まれているのに、自らの知恵によって神を知るには至りませんでした。

ユダヤ人は徴を要求し、ギリシャ人は知恵を追求していますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えているからです。
つまり、わたしたちが宣べ伝えているのは、ユダヤ人には人をつまづかせること、異邦人には愚かなことですが、ユダヤ人であれギリシャ人であれ、召された者にとっては、神の力、神の知恵であるキリストなのです。
神の愚かさは人間より賢く、神の弱さは人間より強いからです。

(1コリント1・18~19、21~25)

 

この箇所には、 

ギリシャ人(=異邦人)は知性を求めているが、本当の知恵とは「十字架につけられたキリスト」である。

十字架につけられたイエスは、今もなおわたしたちとともに苦しんでくださっている。

と手書きしていました。

「十字架につけられたキリスト」の事件は、その意味に共鳴しない者にとっては、単なる愚かな出来事にすぎないのです。

一方で、この事件の悲劇的な出来事が勝利であると目を開かされた者にとっては「神の力」となり、それが生み出すのが「神の知恵」というわけです。

 

 

バチカン美術館のインスタグラムからの画像です。
(天使がおじさんっぽいのがちょっと怖いですが。。。)

この絵の説明にはこうあります。

「キリストだけが、沈まない光の夜明けを引き起こすことができるのです。
 なぜなら、彼は正義の太陽だからです。(Mal3・20)」

マラキ書の3章を開いてみました。

しかし、わたしの名を畏れるお前たちには、正義の太陽が輝き、その翼には癒しがある。
(マラキ3・20)

正義の太陽( sun of justice )のところに、「メシア」と鉛筆で記入していました。

 

いま、切に願います。

マラナ・タ

神のもとにいらっしゃる「生けるキリスト」の再来を乞い願う言葉です。
いわゆる「再臨」信仰で、今の世の終わりと新しい世の到来を期待する、当時の黙示思想的信仰の表れだそうです。

黙示録に描かれているような状況が来るかは別として、「今の世」(=人間のおごりが招いた混沌)の終わりが近づき、「新しい世」(=世界が協調してより良い社会を築く時代)の到来が期待される現在は、ある意味では黙示思想の時代なのかもしれません。

今もなおわたしたちとともにいてくださる方、苦しんでくださっている方、わたしたちのすぐ近くに来てください。

迷い、苦しみ、正しくない方向へと進んでしまう弱いわたしたちのすぐ近くにいてください。

 

将来ための、今の時。

桜と菜の花の季節から、久留米はつつじが咲き誇る時がやってきました。

コヘレトのことばが頭をよぎります。

天の下のすべてのものには、その時期があり、すべての営みにはその時がある。
生まれてくるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、癒すのに時がある。
壊すのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、笑うのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
(コヘレト3・1~4)

 

今回は、2つの記事をご紹介したいと思います。

一つ目は、カトリック新聞に掲載されていた、京都の柳本神父様の記事の一部です。

以前の状態に戻ることが正しいことでしょうか。
確かに、感染症に対する恐れは今ほどありませんでした。
けれども、貧困や格差、紛争や圧政によっていのちの危険にさらされていた人も多くいます。
国境が封鎖される前から、追い返される難民の人たちがいます。
わたしたちがパンデミック(世界的大流行)の恐ろしさを感じる前から、彼らは恐怖と不安を押し付けられていたのです。

新型コロナウイルスの恐怖から一刻も早く解放されることを願うのは当然ですが、そのときに「元の平穏な生活」に戻るのではなく、「排除のない神の国」へと少しでも進めていかねばなりません。

http://www.cwjpn.com/cwjpn/article/index.htm

 

2つ目は、竹下節子さんのブログからの一部です。

ローマ・カトリックというのは、何しろ強大なローマ帝国の国教になったのだから、ありとあらゆる「変異」を遂げてきた。
もとは何しろ「神の子」が刑死するというスキャンダルから発して、信徒も迫害を受けそれこそ隠れて生き延びた。
ありとあらゆる逸脱があった。
それなのに、消滅しないで、奇跡的に時々、「キリストに倣う」という人々が出てきて、苦しい自浄を重ねて生き延びだ。
言ってみれば、何度も瀕死になりながら生還して、過ちへの抗体を獲得したわけだ。

フランシスコ教皇。
彼が一貫して警鐘を鳴らしている環境破壊と、エコロジー的回心の必要は、このコロナ危機と四旬節をまさに先取りしたものだ。

コロナ危機の「後」の世界はない。

コロナ危機は、まさに、私たちの逸脱と過ちの「後」の出来事だからだ。

これまでの私たちの驕りと全能感が「前」にあり、今の「危機」はその帰結なのだ。
新型コロナウィルスとの「戦い」に「勝利」したら「戦後」のより輝かしい復興があるのではない。
私たちには「今」を変える以外には未来はない。

https://spinou.exblog.jp/31001045/

 

ニューヨークに住む妹が、日本に緊急事態宣言が発令される前に言った言葉が心にささっています。

「この危機が収束した後、世界の様子は激変してると思う。」

世界の風景が大きく変わりました。
日本の街の様子も、変わりました。

ですが、変わらなければならないのは、わたしたち人間なのですね。


 

昨日の主日には、ヨハネの福音書が読まれました。

トマスが指を入れて見なければ信じない、と言った後、

「わたしの主、わたしの神よ」

と言った有名な箇所が第2朗読でした。
詩編からの引用です。

主よ、あなたは見ておられました。
黙っていないでください。
主よ、わたしから離れて遠くにいないでください。
わたしの神よ、わたしの主よ、奮い立ってください。
わたしの裁き、わたしの争いのために、目を覚ましてください。
(詩編35・22~23)

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

ペテロたち使徒は、イエス様の死後、漁師や徴税人の仕事に戻ってはいません。

一度大きく変革した事態は、決して元に戻ることはないのです。

コロナ後に「元の平穏な日々が戻る」と信じるのではなく、近い将来にわたしたちが生きることになる「新しい世界」のために、「今わたしたちが変わる必要がある、自分たちの行動と意思で現状を変えることができる」と信じて、今を生きる時なのだと思います。 

同じ、ひとつの言葉を話す世界

聖書の中に、「様々な言葉で話す人々」「いくつもの言語」に触れて書かれた箇所があります。

今の世界の状況と重なって読めないでしょうか。

同じひとつのウィルスと闘っているはずなのに、バラバラの言語で話し、資源・物資を囲い込み、他国・他者を非難する。

エリザベス女王のスピーチに感動しました。
NY州のクオモ知事のリーダーシップに感心しています。
マスクを日本に送ってくれた中国の都市がありました。
コロナウィルス感染症の治療薬として期待されている日本製の薬であるアビガンを、希望する世界の国々にも利用してもらえるように増産が始まっています。

わたしたちは、バラバラの言語で話している場合でしょうか。

 

創世記10章には、世界には様々な民族、言語があることが述べられています。
バベルの塔の話しは、その言葉や民族の違いを超えて世界はもともと一つで、皆が通じ合い、コミュニティをつくっていた、というところから始まります。

同じ言語を話す人々が自分たちの名声を高めるとともに、人々が他の地に散逸するのを妨げるためにバベルの塔の建築を始めたと記されています。

『町を造り、頂が天に達する塔を建てよう。われわれの名を高め、われわれが全地に散らばらないようにしよう』。
主は人の子らが建てた町と塔を見るために降ってこられた。
そして主は仰せになった、
見よ、彼らはみな同じ言葉をもつ一つの民である。これは彼らの業の初めにすぎない。

これからも彼らが行おうと思うことで、成し遂げられないものはないであろう。
さあ、われわれは降りていって、あそこで彼らの言葉を乱し、互いの言葉が分からなくなるようにしよう」。
(創世記11・4~7)

 

今こそ、全地の面に散って生活しているわたしたちが、そして世界が、「同じ言語を話す人々」であるべきではないかと感じます。

聖霊降臨の場面を思い出します。

この場面は、「自分の尺度で神をつくらず、神の言葉に忠実に従い、聖霊で満たされれば、意思の疎通が実現し民族や個人の一致が可能であることを教えている」と書かれた故 小平神父様の本(聖書散歩)を読みました。

「話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。
それなのに、どうしてわたしたちは、めいめい生まれ故郷の言葉を耳にしているのだろうか。
わたしたちの中には、パルティア人、メディア人、エラム人もいれば、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、フリギアとパンフィリア、エジプトとキレネに近いリビア地方などに住む者もいるし、また、滞在中のローマ人や、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。
それにクレタ人やアラビア人もいるのだが、わたしたちはそれぞれ自分たちの国の言葉で、あの人たちが神の偉大な業を語るのを聞こうとは」。
(使徒2・7~11)

ウィルスは、世界中、文字通りくまなく蔓延してしまっています。
それぞれが自分たちの国の言葉で話しています。
医療体制も対策もさまざまです。

それでも願いは同じ、同じことを目指しています。

感染者の回復
医療従事者の負担軽減
この事態の収束

今こそ、もう一度私たちが人類共通のことばを構築する必要があるのではないでしょうか。
つまり、批判ではなく、互いに理解しあい、世界が協力することが今こそ必要なのです。

「わたしはいつも目の前に主を見ていました。
主がわたしの右にいてくださるから、
わたしは動揺することがない。
それ故、わたしの心は楽しみ、
わたしの舌は喜びに溢れた。
わたしの体もまた希望のうちに憩う。
あなたは、わたしの魂を陰府に捨ておかず、
あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。
あなたは、命に至る道をわたしに示し、
み前にあって、わたしを喜びで満たしてくださる」。
(使徒2・25~28)

 

危機的な中でありながらも、世界中の人が同じことを願うというこの状況のなか迎えたご復活の日でした。
ともに祈り続けましょう。

Stay home.

 

受難の主日

久留米教会は美しい。
久しぶりに訪れてみて、その威厳に満ちた佇まいを見て心からそう思いました。

 

5日日曜日は受難の主日(枝の主日)、イエス様のエルサレム入場を記念する日でした。

『集会祈願』
わたしたちが、主とともに苦しみを耐えることによって、復活の喜びをともにすることができますように。

 

久留米教会は、平日の午後のみ、皆さんの祈りの場として開放されています。
聖書と典礼も、4月分が置かれています。

 

以下、教皇フランシスコ 2020年3月27日新型コロナウイルスの感染拡大にあたっての「特別な祈りの時」でのことば(ローマと全世界へ)から抜粋しています。

この四旬節、あなたの差し迫った呼びかけが聞こえます。
「回心せよ」、「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」(ヨエル2・12)。
主はこの試練の時を選びの時とするようわたしたちに求めておられます。
それはあなたの裁きの時ではなく、わたしたちの判断の時です。
何が重要で、何が一過性であるかを識別し、必要なものとそうでないものを見分ける時です。
人生が向かう方向を、あなたと他者に向けて定め直すときです。

主はわたしたちに呼びかけておられます。
この嵐の中で目覚めるよう、イエスはわたしたちに招いておられます。
そして何もかもが難破しそうに思える今このときに、堅固さと支えと意味を与えることのできる連帯と希望を促すよう呼びかけておられます。


「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、岩のように固いペトロの信仰を物語るこの場で、今夜わたしは皆さんを、嵐の海の星であり民の救いであるマリアの取り次ぎのもとに、主にゆだねたいと思います。
ローマと世界を抱きしめるこの広場から、神の祝福が皆さんに、なぐさめに満ちた抱擁として注がれますように。

主よ、世界を祝福してください。
人々のからだに健康をもたらし、心を慰めてください。
恐れてはいけないと呼びかけてください。
けれども、わたしたちの信仰は弱く、わたしたちは恐れてしまいます。
それでも主よ、どうか嵐のなすがままに、わたしたちを放っておかないでください。

もう一度「恐れることはない」(マタイ28・5)とおっしゃってください。
そうすれば、わたしたちはペトロとともに、「思い煩いを、何もかも神にお任せします。
神が、わたしたちのことを心にかけていてくださるからです」(一ペトロ5・7参照)。

 

---------------------------------------------------------------

教会でミサに与れる日がいつまた訪れるのか分かりません。

ですが、祈りはどこででも、いつでもできます。

わたしたちは、祈りの力を信じています。

福岡教区では聖週間の過ごし方として、次の祈り方を薦めています。

新型コロナウィルス感染の終息と、これに苦しむ人々への慰め、そして主が自らのもとへ呼び寄せられた人々の永遠の救いを全能の神に祈願する人は、
ロザリオ、十字架の道行き、聖体訪問、聖体礼拝、最低30分の聖なる読書のうちのいずれかを行い、神への信仰と隣人へのいつくしみと愛をもって、次の祈りを唱える。

- 信仰宣言
- 主の祈り
- アヴェ・マリアの祈り

 

心をこめてわたしに立ち返れ。
お前たちの衣服ではなく、心を引き裂き、
お前たちの神、主に立ち返れ。
ヨエル2・12~13(フランシスコ会訳)

 

聖週間の過ごし方とお願い

聖週間は、以下の通り、非公開でミサが捧げられます。

信徒はミサに与ることは出来ませんが、同じ時間に各家庭にて心を合わせてお祈りください。

 

4月 5日(日)枝の主日 6:30

4月 9日(木)聖木曜日  19:00

4月10日(金)聖金曜日(大斎・小斎)19:00

4月11日(土)聖土曜日 19:00

4月12日(日)復活の主日  6:30

 

福岡司教区内で、公開のミサはすべて中止となっております。

世界中で、信徒が教会でのミサに与れない現状であるという現実についても思いを馳せ、ともに祈りましょう。


カトリック久留米教会

信仰を持つという強さ

ドイツのメルケル首相の16の講演とインタビューをまとめた一冊の本があります。

『わたしの信仰 キリスト者として行動する』
という素晴らしいタイトルがついています。

 

この本は、彼女のキリスト者としての信念を根底に置いた力強い指導力を垣間見ることができます。

現在、わたしたちは困難な時代の中にあると言えるのではないでしょうか。
そんなときに、メルケル首相のこの本を読んで、力づけられました。


「紀元前5世紀前半、イスラエルの歴史においては困難な時代でした。
でも、イスラエルとユダヤ民族の歴史において「困難」でなかったときがあるでしょうか。
何千年にもわたるイスラエルの歴史は、大きな苦しみの道でしかなかったようにも読めます。
平和で幸せな時期もごくわずかに混じっていますが、ほとんどは苦難と痛みと悲劇の連続のようでした。

ユダヤ人の何千年もの歴史のなかで、彼らの希望と生命力の強さを目の当たりにするならば、大いに畏敬の念に襲われるでしょう。
この民族は常に、神が歴史の本来の主であるという信仰の掟を守り続けたのです。

この世界が直面する脅威や不安、破滅の淵を目にして、日ごとにおかしくならずにいられるでしょうか。」

 

2020年の春、まさに世界がそのさ中にあります。

お前たちは、『神に奉仕するのはむなしいことだ』と言う。
『その戒めを守ったからといって、
万軍の主の前に慎んで歩んだからといって、何の益があるだろう。
(マラキ3・14)

 

人生の方向や価値観を見失いそうな深刻な危機のなかで、現代のわたしたちにとってもこのマラキの問いは縁のないものではありません。

メルケル首相は、マラキの関心は、神を思い出させることにあった、と言います。
方向を見失って分裂した社会において、神を想起するように促し、
よき人生の支えであり最終的に人生を決めるものでもある、人間の存在理由を考えるように呼び掛けたのだ、と。

しかし、わたしの名を畏れるお前たちには、
正義の太陽が輝き、その翼には癒やしがある。
お前たちは外に出て、肥えた子牛のように跳ね踊る。
(マラキ3・20)

 

彼女の政治家としての信念は、キリスト教的な人間観に基づいています。

あらゆる人(ドイツ人だけではなく)の尊厳を守ろうとし、「被造物」に対する責任を全うしようとする姿勢。
次世代の繁栄に配慮し、スピードを増していく社会変化に取り残される人のないよう気を配り、高齢化社会への努力を続ける誠実さ。

政治家がキリスト教の信仰に基づいて行動する、というのは日本人には違和感があるかもしれませんが、現代の困難に立ち向かうためには、彼女のような確固たる信仰、ぶれない信念があることは最大の強みなのかもしれません。

この状況を、イスラエルの歴史と重ねるのは強引だとわかっています。

それでも、どうしても感じるのです。
希望と生命力の強さは、信仰というゆるぎない信念からくるのだ、と。

日本にいると、いえ、久留米で生活していると、この今の、恐怖に飲み込まれそうな現実から遠い世界に生きているようにも思えます。
ニューヨークとカリフォルニアに住んでいる知り合いは、不自由な生活の中、不安な日々を過ごしています。

強い信仰心があっても、この危機から逃れられるわけではありません。

今こそ、神様への信頼を見失わないように、心を鍛えるときでしょう。

 

パパ様は3/20のビデオメッセージで、こうおっしゃっていました。(意訳しています)

「イースターを前に告解したくても、教会に行けない、神父はどこに?
 家から出れないのにどうすれば?

 そういう人の声を聞きます。

 いまこそ、神様と直接向き合いなさい。」

 

ミサ、信徒の役割

イエズス会の英(はなふさ)神父様の本に、こういうくだりがありました。

日本の教会はすでにイエスの口から吐き出されてしまったのだろうか。
主任司祭が不在になっている教会は多い。
そのとき、信者さんの心配はただ一つだけである。

日曜日のミサはどうなるのか。

もちろんそれは大きな問題だが、日曜日のミサさえあれば、それで教会と言えるだろうか。
もちろん日曜日のミサは中心的なものだが、それだけで教会が成り立っているわけではない。

今こそ、教会のメンバーすべてが目を覚ますように、主から望まれているのではないだろうか。
イエスは次のように語っている。

わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。
だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。
(黙示録3,19)

四旬節という、わたしたちキリスト者にとって最も大事なシーズンに入った途端にミサができない事態となりました。

この本は、今のコロナウィルスによる影響について書かれているわけではなく、カトリック教会全体の今置かれている危機的状況について書かれたものです。

ですが、今のわたしたちへのメッセージとも受け取れないでしょうか。

 

前イエズス会総長のアドルフォ・ニコラス神父様は、上智大学の講演で以下のように話されています。

「キリストの体の秘跡とは、聖櫃の中に安置されている聖体のことではありません。
キリストの体の秘跡とは、ホスチアだけではなく、ともに食べ、ともに飲む「おこない」としての感謝の祭儀です。

教会がミサを祝うと同時に、ミサが教会を作るという相互関係を、司祭も信徒も皆が意識していなければなりません。

ここに私たちのアイデンティティがかかっています。」


弟子たちとともにする食事のなかに、イエス様はその生涯の究極の意味を表現されています。

愛する弟子たちに、これまでのご自分の生き方を集約し、これからの十字架の死を先取りする表現として、この食事を祝っています。

最後の晩餐に限らず、イエス様は何度も何度も貧しい人々とともに食事をした姿が福音書に描かれています。
特に、罪びと、徴税人など社会の中でつまはじきにされていた人たちとともに食事をし、神の国の宴への招きを示したのです。

また、どこに座るか、だれを招くか、どのようにふるまうかなど、イエス様の大切な教えの場でもありました。


あなたがたのうちで一番偉い者は年下の者のようになりなさい。
上に立つ者は、給仕する者のようになりなさい。
食卓に着く者と給仕する者とでは、どちらが偉いか。食卓に着く者ではないか。
しかし、わたしはあなた方の中で、給仕する者のようになっている。
(ルカ22・26~27)

さらにペトロは説教の中で、イエス様の復活の証人を、
「前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活したあと、ご一緒に食事をした私たち」
(使徒言行録10・41)
と呼んでいます。
キリストとしてのイエス様を証しするのは、ペトロたちだけではなく、キリストともに食事をするすべての人々です。

現代のわたしたちも、その証しする人々なのではないでしょうか。

見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。
もし、誰かがわたしの声を聞いて戸を開くなら、わたしはその人の所に入って、食事をともにし、
その人もまたわたしとともに食事をする。
(黙4・20)

ニコラス神父様によると、ミサは個人の信心ではなく、教会にとってそのアイデンティティを表す表現です。
つまり、教会の自己表現、教会の生きる場である、というのです。

ミサを祝うことによって、私たちはキリストとの交わり、またお互い同士の交わりを新たにしてるのです。

 

お二人の神父様のお言葉から、ミサの意義、そのなかでの信徒の担う役割と責任について、とても考えさせられました。

久留米教会のお二人の神父様、「Mr.なごみ神父」と「Mr.癒し助祭」です。

 

聖書の成り立ち

日曜日にはミサに与り、一堂に会し、感謝をささげ、御聖体をいただく。

これまで当たり前だったことが、これほどの喜びだったとは、、、と多くの方が感じられでいるのではないでしょうか。

パパ様は「ミサで集まることができなくても、ウィルスに感染している方、そのために働く医師、看護師、ボランティアで対応する方、そのご家族のために特に祈りを捧げてください。」とビデオメッセージでおっしゃっていました。

 

ミサのない日々でも、こうして花壇のお手入れをしてくださっている方がいらっしゃることを心に留めてください。

 

「なぜ、新約聖書はギリシャ語で書かれたのか。」

という質問を、ある神父様にしてみました。


◆アレクサンドロス大王(在位BC336~323)の東方遠征以降、「コイネー」と呼ばれるギリシャ語が、地中海沿岸全域で共通語として用いられた

広く多くの人々に教えを広めるためには、バビロン捕囚後、異邦人世界に離散したユダヤ人たちの言葉であるヘブライ語ではなく、ギリシャ語で書くことが最善策であった。
(移住先での暮らすユダヤ人たちは次第にヘブライ語を理解できる人が少なくなり、ギリシャ語など移住先の言葉を習得していく。)

◆新約聖書の著者たちが、ヘブライ語にこだわることなく、すべての人の救いという普遍性の観点から70人訳と呼ばれるギリシャ語旧約聖書(BC3世紀頃)を重視し、新約に引用していること。


イエス様の死後、非ユダヤ人キリスト教徒が増えると同時に、聖書(律法)を軽んじる傾向が芽生えていきます。
エルサレムを中心とした初代教会の使徒たちが、割礼、食物規定などの旧約の律法の規定にこだわっていたのに対し、掟にしばられずにキリストの弟子となる人々が増えてきたのです。

「私は律法を廃止するためではなく、完成するために来た」(マタイ5,17)

と言われたイエス様の教えに従って、使徒たちはその基本的スタンス、聖書(律法の文字ではなく精神を)重んじる態度を受け継ぎながら、イエス様の愛と無条件のゆるしを説くようになります。

そして自分のためにも、聞き手のためにも、イエス様の宣教内容を要約して書き留めていく作業が必要となってきました。

遠く離れた信徒を指導するために、手紙と言う形態で宣教することも必要となります。

時間的にもイエス様から離れるようになるに従い、その言葉と活動を集め、書にして後世に残すことも必要です。

このように、イエス様の言葉として伝えられた口伝えの伝承が文書化されていくようになり、これらが編集されたのが新約聖書です。


聖書はすべて、神の霊感によるもの で、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするために有益です。
(2テモテ 3,16)

聖書のなかで、聖書の霊感について書かれている唯一の箇所だそうです。


何よりも心に留めておくべきことは、聖書のすべての預言は勝手に解釈すべきではないということです。
預言は決して人間の意志によってなされたものではありません。
聖霊に動かされた人々が、神からの言葉を語ったのです。
(2ペトロ 1,20~21)


福音書は、もちろん当時は「聖書」としての扱いではありませんでした。
ですが、徐々に「聖書と同じように」イエス様の言葉である福音書が意識されていくのです。

毎週のごミサで、旧約と新約、両方の聖書の箇所が読まれる意味は、ここにあります。

聖書は、イエス様が大事にされていた聖書(旧約)と、それを根底に置いたうえでイエス様が教えられたことを記した聖書(新約)を並べて読むことに意味があると言えるでしょう。

 

よく、宮﨑神父様が「聖書を声に出して読みなさい」とおっしゃいます。

聖ベネディクトゥスの戒律によれば、修道者が「聖書を読む」というのは、
声を出して読み、心に銘記し、暗誦し、黙想し、実行に移すことを意味するそうです。

そこまでは、、、。

ですが、試しに声に出して読んでみてください。

目で字を追うのとはまた、全然違った発見があります。