行事風景

今ここにあるお恵み

ご家族やご友人などと、賑やかで楽しいお正月を過ごされましたか?

わたしは妹家族が帰省していましたので、それはそれは賑やかな(騒々しい)年末年始でした。
大騒ぎしながらみんなで鍋を囲んでいるときに、思わず涙ぐんでしまいました。

「何という幸せだろう。
今ここに、神様がいてくださっているんだ。」

心からそう思いました。

主の御国が来ますように。マラナタ、マラナタ。

頭の中で、聖歌がぐるぐると鳴り響いていました。

「神の国」

その時に、このテーマで記事を書こう、と思ったのです。
いつもこのように、日々の些細な出来事や、目にした、耳にしたニュースから聖書の言葉が浮かび、iPadに向かって聖書を開くのが、わたしのここ数年の日課となっています。

今読んでいる本はこれ。
クロッサン
「最も偉大な祈り 主の祈りを再発見する」

 

主の祈りのワンフレーズずつが章になっていて、広く深く考察された、クロッサン独特の洞察力による解説です。

この中の、神の国の到来についての下りによると、ヨハネは神の国は『神による世界の大掃除』であり、今にも起きるかもしれないが未来のことである、と語っていました。
一方でイエスは、すでに今ここに現臨していると語りました。

わたしが神の指(神の力)で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなた方の所にすでに来ている。
(ルカ11・20)

律法と預言者はヨハネの時までである。
それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、あらゆる人が力ずくで、そこに入ろうとしている。
(ルカ16・16)

神の国は目に見える形で来るのではない。
また、『見なさい、ここに』とか、『あそこに』とか言えるものでもない。
神の国は、実にあなた方の間にあるのだから。
(ルカ17・20〜21)

当時の人々にとって、神の国がすでに存在していると言われても、理解することができなかったことは容易に想像できます。

クロッサンによると、イエス様の言いたかったのは次のようなことなのです。

あなたがたは神を待っているが、実際には神の方があなたがたを待っているのだ。
どうりで何も起こっていないわけだ。
あなたがたは神の介入を求めているが、神があなたがたの協力を求めているのだ。
神の王国はここにある。
あなたがたがそれを認めて、その中に入り、それを生き、そしてそれを築きさえすれば。

イエスは、神の介入ではなく、神への参与を説いたのです。
神による世界の大掃除は、人が神によって力づけられて参与し、超越的な力に動かされて協力しなければ開始せず、完成しないのです。

わたしにとって、この考え方は新しく斬新で、とても腑に落ちました。

神の国は、人の協働がなければ始まらない。
神の介入だけでは神の国の実現は起こらない。

主の祈りが、神に対する祈りの前半と、わたしたちの祈りの後半で構成され、均等にかつ相関的に成り立っているように。

 

どんなことであれ、もしあなた方のうち二人が心を一つにして地上で願うなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださる。
二人また、三人がわたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる。
(マタイ18・19〜20)

わたしたち現代人にとっては、イエス様のこの言葉が1番「神の国」のイメージに近いのではないでしょうか。

わたしたちの間に、今ここに神様がいてくださる。
互いが思いやりを持って愛し合っている場に、神様の愛がある。

 

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪のために、贖いの供え物として、御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
いまだかつて神を見た者はいません。
しかし、わたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちに留まり、神の愛はわたしたちのうちに全うされているのです。
(1ヨハネ4・10、12)

神の国は、わたしたち次第でわたしたちのうちに実現するお恵みです。

 

飛行機から見る景色にも、神様の現存を感じます。

 

今年の誓い

新年、明けましておめでとうございます。

今年も皆様にとって、恵み溢れる豊かな一年となりますように。

前教皇ベネディクト16世がご逝去されました。

皆様は、「2人のローマ教皇」という映画をご覧になったでしょうか。

この映画が公開された時、このページで紹介したことがありますが、もう一度皆様にお勧めさせてください。

 

この映画は、ベネディクト16世がベルゴリオ枢機卿を後任に押すために説得を繰り返す、2人の交流の様子が丁寧に描かれたものです。

実際にバチカンで撮影されたこと、2人の俳優が同時にアカデミー賞にノミネートされたことなどでも話題となりました。

 

アンソニー・ホプキンスがドイツ訛りの英語を話すだけでなく、容姿も風貌も、本当にそっくりです。

わたしの抱いていた前教皇様のイメージとは違い、厳格ながらもユーモアのセンスと愛嬌のある様子が描かれていて、むしろベルゴリオ枢機卿(現 フランシスコ教皇)の方が頑固で融通が利かないようなところがあるのが面白いのです。

この映画で特にわたしが印象に残っているのは、ベネディクト16世がベルゴリオ枢機卿に告解をするシーンです。
当時、幾つものスキャンダルに見舞われ、精神的肉体的に疲労困憊していた教皇が、正反対の主義主張・性格の枢機卿に次第に心を許していく様には、心が揺さぶられます。
そしてその後、バチカン美術館に見学に訪れていた多くの観光客にもみくちゃにされながら、気さくに、楽しそうに自撮りに応じるベネディクト16世の様子が、本当に微笑ましいのです。

ぜひ、ご覧いただきたい映画です。

天国で安らかにお過ごしになられますよう、心からお祈りいたします。

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1月1日、元日の主日のミサで、新成人の祝福が行われました。

 

20歳を迎える3名の新成人が参列し、宮﨑神父様の祝福を受けました。

3人は、今年の抱負を抱いていることでしょう。
そして大人として扱われることになるこれからの人生に、期待と希望を持っていることでしょう。

20歳の時、皆様はどのような誓いをしましたか?
覚えていらっしゃいますか?

わたしは、20歳になってすぐに、大きな病気をしました。
それまでは、勉強とスポーツに明け暮れ、何となく幸せに生きていましたので、生死に関わるような大病を20歳の時に経験したことで、そしてその後すぐに洗礼を受けたことで、文字通り「生まれ変わり」、新しい人生を歩み始めました。

生きていれば誰も、節目となるような出来事に遭遇するでしょう。

まずは、20歳という成人の年は大切にしたい節目です。

人生とは、生きるとは、楽しむことだ。

若い彼、彼女には、そう思ってほしいものです。

望まなくても、辛いことや悲しいことは必ず起こります。
まずは、楽しんで!と伝えたい。

 

わたしも、今年の誓いを立てました。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

神様の子

主の御降誕、おめでとうございます。

ADVENTアドベントとは、「到来」を意味します。

メシア、キリストの到来を祝うのがクリスマス、キリストのミサです。

実際に12月25日にベツレヘムでお生まれになったわけではありませんが、史実かどうかは問題ではないのです。

何のために、誰に向けて誕生物語が描かれているのを理解することが大切です。

わたしたちキリスト者は、このイエス様の誕生の意味をどう捉えているでしょうか。

当時のユダヤ人たちにとってのメシア(キリスト)とは何者だったのか。
ナザレのイエス
歴史上の人物
信仰のキリスト

ユダヤ人にとっての救い主は、当時のローマ帝国からの圧政から救ってくれる王としての神でした。

現代のわたしたちキリスト者にとっては、イエス様は神の子、そして同時に神様です。

パウロの認識では、イエス様は神の子としてお生まれになったのではありませんでした。
一人の人間として生まれ、活動したイエス様がご復活を通して神となられた、という考え方です。

ペトロの認識では、イエス様は特別な使命を神から受けたメシア(王)である、というものでした。
彼はイエス様を神の子であるとは思っていなかったのです。
「あなたはメシアです」(マルコ8・29)

1番古い福音書であるマルコによる福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の始まり。」という出だしで進みます。
これは、最初から神の子だった、という認識からではなく、イエスとは何者なのか、そして「神の子」として人々に認識されていく過程を中心テーマとする、マルコの洞察の表れです。
「まことに、この方は神の子であった」(マルコ15・39)
この百人隊長の言葉は、マルコの神学的頂点である考え方、受難・死・復活によって全世界の異邦人から神の子であることが認められたことを暗示しています。

それに比べ、誕生物語を記したマタイとルカは、当時のユダヤ人に向けて「この方は神の子、神様だ」と伝えたかったので、生まれた時から神の子であるということを強調しているわけです。

 

 

ルカ2章のイエスの誕生物語は、旧約聖書からの多くの逸話が散りばめられた、映像が目に浮かぶような美しい描写です。

今日、ダビデの町に、あなた方のために、救い主がお生まれになった。
この方こそ、主メシアである。
あなた方は、産衣にくるまれて、飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見出すであろう。
これが徴である。
(11〜13)

イエス様が神の子、神様であるからこそ、わたしたちはその神様の子なのです。

25日のミサでは、2名の方の洗礼式が執り行われました。 

 

来る年も今年のようでありますように。
あなたの上に、平安がありますように。
あなたとあなたの家、あなたのすべてのものに平和がありますように。
(サムエル上25・6)

良いお年をお迎えください。✝️ 

 

クリスマスの過ごし方

久留米は初雪の日曜日でした。
朝は吹雪のような降り方でしたが、主日のミサにはいつも通り100名以上の参列がありました。

先日、ジュゼッペ神父様が「あなたにラブレターです」、とお手紙をくださいました。

先週のごミサで、ジュゼッペ神父様がこうおっしゃいました。

「人を喜ばせるために、努力・苦労していますか?
今年のクリスマスこそは、誰かを幸せにするための努力をしましょう!」

この前、わたしの前の席に座られていたご年配の女性。
お見かけしたことのない方でしたし、明らかにごミサに与るのは初めて(数回目?)のご様子。
聖体拝領の時に「洗礼を受けておられますか?」とお尋ねしてみました。
「いいえ。両親は信者でしたが、わたしは受洗していません。今日は父の命日なので、教会に来てみました。」
「それでは、神父様の前に行かれた時に、頭を下げてみてください。祝福してくださいますから。」
「本当にいいのですか?」
「もちろんです。お父様も喜ばれますよ。」

席に戻られた時、とても晴れやかなお顔をされていました。

毎年この季節になると、信者ではない方のミサへの参列が増えます。
フラッと入ってこられるだけではなく、ミサに参列してみよう、というのはおそらく勇気のいることではないでしょうか。

そうした方を見つけたら、「はじめてこられた方へ」という教会のパンフレットをお渡ししたり、少しお話を伺ったり。

ジュゼッペ神父様のおっしゃったように、「この季節だからこそ!」とできることはいろいろとあります。

十戒には、「お前の父と母を敬え」という項目があります。

男性優位社会であったのに、「父に従い、母を尊重」ではなくどちらも同じように「敬え」となっているところがポイントです。

シラ書には、この十戒について解説された箇所があります。

父を敬う者は罪を償い、
母を尊ぶ者は宝を積む者に等しい。
言葉と行いを持って、父を敬え。
そうすれば、父の祝福が、お前の上に臨むだろう。
父の祝福は、子供たちの家を強めるが、
母の呪いは、その土台を覆す。
(3・3〜4、8~9)

心を尽くして父を敬え。
母の産みの苦しみを忘れるな。
お前は、両親によって生まれたことを銘記せよ。
彼らがお前に与えたものに、
何を持って報いることができようか。
(7・27〜28)

箴言23章24~25節には、次のように書かれています。

正しい者の父は大いに楽しみ、
知恵のある子を産んだ人は、その子を喜ぶ。
お前の父はお前とともに喜び、
お前の産みの母はお前とともに楽しむ。

今週は、耳を疑うような事件がありました。
親を大切にする家庭で育っていれば、その習慣は自ずと子どもに引き継がれるものだと思うのです。

「両親を大切にする。」

当たり前のような、誰もが分かっているこの大切な務めは、同時にみんなが「思ったほどできていない」ことではありませんか?

遠く離れて住んでいても、亡くなって天国にいても、できる親孝行はあるものです。

わたしがモットーにしているのは、次の聖句です。

『天国にいる母のために』

主に従う者は、母に安らぎをもたらす。
(シラ書3・6)

教会で与えていただいている役割を務めていると、母が喜んでいるような気がするのです。

『助け合って暮らす父のために』

子よ、年老いた父の世話をせよ。
その余生を悲しませるな。
たとえ、父の知力が衰えても、これを大目に見よ。
(シラ書3・12〜13)

かなり大目に見ています。
歳と共に優しくなってきているので、これからも大目に見ることとします。

・ 

フランシスコ教皇様は水曜日の一般謁見のお説教で、クリスマスを祝うことは良いことだとしながらも、「しかし、お金をかけずに、もっと質素なプレゼントを用意し、節約した分をウクライナの人々に送ろう」と呼びかけられました。

これもまた、クリスマスのよい過ごし方でしょう。

降誕祭までのあと数日、丁寧に、悔いのないように、大切に過ごしていきましょう。

愛すること

アウグスティヌスの「告白」第10巻第27章は、彼の回心後の心境を表現した美しい文章です。

古くて新しき美よ、おそかりしかな、御身を愛することのあまりにもおそかりし。
御身は内にありしにわれ外にあり、むなしく御身を外に追いもとめいたり。
御身に造られしみめよきものにいざなわれ、堕ちゆきつつわが姿醜くなれり。
御身はわれとともにいたまいし、されどわれ、御身とともにいず。
御身によらざれば虚無なるものにとらえられ、わが心御身を遠くはなれたり。
御身は呼ばわりさらに声高くさけびたまいて、わが聾せし耳をつらぬけり。
ほのかに光さらにまぶしく輝きて、わが盲目の闇をはらいたり。
御身のよき香りをすいたれば、わが心は御身をもとめてあえぐ。
御身のよき味を味わいたれば、わが心は御身をもとめて飢え渇く。
御身はわれにふれたまいたれば、御身の平和をもとめてわが心は燃ゆるなり。

先週ご紹介した、山本芳久さんの本に、この箇所の解説があります。
「何を愛しても何を手に入れても本当の満足が得られなかった。
しかし、神と出会って、神を愛するようになって、真の恋人である神と出会って、自分の心は本当の満足をはじめて得ることができた。
なぜなら、もともと自分は神に向けて造られていたのだから、と。
自分が「あなた(御身)」を愛するようになったのは比較的最近のことだが、「あなた」の方では、私があなたを愛し始める前から私と共にいてくださって、私のことを愛し導いてくださっていたのですと。」

先日、宮﨑神父様がおっしゃっていました。
「最近では、わたしは無宗教です、家には仏壇も神棚もありません、そういう人がとても多い。」

自宅の神棚に手を合わせなくても、神社でお賽銭を投げて祈る日本人は多いのでしょう。
ワールドカップで日本の勝利を祈った人、受験の合格を願って祈る人、何かに向かって祈るという行為はそう難しいことではないのです。
ですが、それは「信仰」ではありません。

自分が神様から愛されている、そう実感して涙したことがある。
自分の事だけではなく、友のため、誰かのために祈りを捧げる。

信仰があるというのは、そういうことだと思います。

 

「ラザロの蘇生」(1631)

この絵は、最近観た映画の中で初めて知りました。
オランダの画家、ヤン・リーヴェンスの作品です。
映画のストーリーが頭に入らないほど惹きつけられました。

イギリスのBRIGHTON&HOVE MUSEUMSに収蔵されています。

ヨハネの福音書11章のラザロの蘇生のエピソードでは、イエス様が涙を流された様子が描かれています。 

わたしたちの親しい友ラザロが眠ってしまった。しかし、わたしは彼を眠りから覚ましに行く。」(11)
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に死ぬことはない。このことをあなたは信じるか」。(25~26)

心に憤りを覚え、張り裂ける思いで、(33)
イエスは涙を流された。(35)
イエスは、またも心に憤りを覚えて、墓においでになった。(38)

ラザロを愛しておられたから悲しまれた涙ではない、といろいろな方が解説されています。

愛する者たちが、イエス様の言葉を理解していないことへの怒りもあったのでしょう。
死から逃れられない、罪深い人の性への怒りもあったことでしょう。
そして、このこと(ラザロを起こされたこと)がイエス様の逮捕につながる重大な出来事となったのでした。

「ラザロ、出てきなさい」(43)

こう叫ばれて、「イエス様は愛するラザロを死から脱出させたのだ」と、わたしは聖書の師匠から学びました。

この絵のイエス様の天を仰ぐような様子を見た時、やはりイエス様は愛しておられた友の死に涙を流されたのだ、と感じました。

イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。(5)

イエス様の涙が書かれているのは、3か所あります。
エルサレムに近づいたとき(ルカ19・41)、「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」(ヘブライ5・7)と表現された箇所、そして、ラザロの蘇生に関する箇所です。

わたしは、この3つのエピソードいずれからも、イエス様の愛を感じるのです。 

民(エルサレム)を救う愛、天の父への愛、そして愛する友(仲間、弟子)を想う気持ち。

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バキアーナスという曲をご紹介します。
日本語では「ブラジル風バッハ」と言うようです。
ブラジル出身のエイトル・ヴィラ=ロボスの代表作です。

先ほどのラザロの蘇生の絵を見ながら第4番の1、前奏曲Prelúdioを聴いてみてください。

わたしはこの曲に、イエス様の涙を感じるのです。

 

目覚めの季節

宮﨑神父様はお説教の中で、たびたびおっしゃっています。

「自分がいつ天に召されるかはだれにも分からない。
 いつも、目を覚ましていなさい。」

 

神は最も普通の日常、毎日の生活の中に隠れておられるということを忘れないようにしよう。
神は日々の仕事の中に、偶然の出会いの中に、時には助けを必要とする人の中や、退屈な灰色の日々の中にもおられ、わたしたちを呼び、話しかけ、わたしたちがどのように行動すべきか促される。

この待降節、無気力を振り払い、眠気の中から目を覚そう。
意識し、注意深く、目覚めて生きているか、日常生活の様々な状況における神の存在に気づく努力をしているか、自問しよう。
もし、今日、わたしたちが神の訪れに気づかないならば、終わりの時が来ても、準備できていないだろう。
だから、目覚めていよう。

教皇フランシスコ 11/27 正午の祈りでの説教より

 

先週、友人のお兄様が亡くなられたと連絡がありました。
まだ50歳でした。
家族と夕食を食べていて、突然倒れられたそうです。

持病があったわけではないそうなので、こどもたちと食事中に自分が天に召されることになるとは、夢にも思っていらっしゃらなかったでしょう。

ですが、葬儀でご家族からお話を聞いて、大変驚いたことがあります。

「会社の事務の専門的なことを、数か月前から奥さんに教えていた。
分与できる財産を、弟たちの名義に変える手続きも先月済ませていた。」

おそらく、死期が近いことを察してではなく、偶然のことなのだろうとは思います。
ですが、彼は「準備ができていた」のです。

 

目を覚ましていなさい。

いつもこの言葉とその教えを耳にし、理解しているはずのわたしたちは、「目を覚ます」ことの意味をしっかりと意識しておかなければなりません。

パパ様のお説教にあったとおり、「意識し、注意深く、目覚めて生きているか、日常生活の様々な状況における神の存在に気づく努力をしているか」を自らに問い掛けてみましょう。

 

山本芳久さんの、「愛」の思想史という新刊を読みました。
山本さんの本はいつもわたしには難しく、途中で挫折してしまうこともあるのですが、この本は分かり易く、とてもお勧めです。

たくさんの学びがありましたが、特に心に残った箇所を抜粋しながらご紹介します。

「主はわたしの牧者。」で始まる、詩編23章についての下りです。

「愛」という言葉は一度も使われていませんが、この詩篇以上に鮮やかに神の愛とはどういうものかを表現した旧約聖書のテクストはほとんどないと言っても過言ではありません。
旧約聖書の中には、イスラエルの民の導き手である神のことを「牧者」として捉える箇所はいくつもあります。
ですが、「わたしの牧者」というような仕方で個人の内面的な神への信頼関係が描き出されている箇所は他にはほとんどありません。
単なる一般論ではなく、極めて親密な「わたし」と「神」との信頼関係が描き出されているのです。

「恵みと慈しみは生涯わたしに伴う」の「わたしに伴う」と訳されている部分は、原文のヘブライ語では「わたしを追いかける」と訳することができる単語になっています。
神の「恵みと慈しみ」の方が、わたしを見失わないように、わたしを追いかけてくるというわけです。

この詩篇に表現されているのは、「死の影の谷を歩む時」とか「敵」といった詩句に顕著なように、この世界が様々な危険に満ちた場所であることが痛切に自覚されたうえで、その危険や困難に正面から立ち向かう力を与える者として、牧者である神に対する信頼が歌い上げられているのです。


 

危険や困難に立ち向かう、病気や苦しみと向き合う、そうした場面に置かれたとしても「目覚めて」いることが大切です。

 「意識し、注意深く、目覚めて生きているか、日常生活の様々な状況における神の存在に気づく努力をしているか」

このパパ様のお言葉を、胸に刻み、今年の待降節の日々を大切に過ごしていこうと思います。

 

ベトナムコミュニティの力作が完成しました!! 

 

 

 

待降節を創る

いよいよ今年の待降節が始まりました。

ミサの式次第が新しくなったこともあり、背筋が伸びるような、清々しい気分です。

待降節になると、今年を振り返ってやり残したことはないか、今年を誠実に生きたか、などを丁寧に想う気持ちが自然と湧き起こります。

もし心に引っかかった棘のようなものがあれば、降誕祭までにクリアにする。
いつも、そうやって新年を迎えることができるように取り組みます。

 

毎年、久留米教会では祭壇に大掛かりな馬小屋の飾り付けをしますが、コロナ前は日曜学校のこども達や青年会の若者たちが協力して取り組んでくれていました。

一昨年からは、ベトナムコミュニティのみんなが率先して手伝ってくれていましたが、今年は、神父様が全面的におまかせになり、かなり凝った設定になっているようです。

 

 

筑後地区には、300名ほどのベトナム人の若者たちが暮らしています。
留学生、技能実習生、中には資格をとって就職している人もいます。
みんな20代前半ですので、おかげで久留米教会は若いパワーで活気に満ちています。

これは、本当に素晴らしいお恵みです。

月に一度、ベトナム人の司祭を招いてベトナム語のミサがありますが、それでも毎週日曜日の日本語でのミサにも参列する、熱心な信仰を持ったベトナムコミュニティの若者たち。

彼ら、彼女たちに、「隣人愛」を抱くのはごく自然なことです。

 

ベネディクト16世の回勅「神の愛」には、こうあります。(18)

神への愛と隣人愛を切り離すことはできません。
それらはただ一つのおきてをなしています。
しかし、この二つの愛をともに生かしているのは神の愛です、
まず神がわたしたちを愛したからです。

重要なのは、無償で与えられる愛を自分のなかで経験することです。
そして、この愛は、本性的に、人に分け与えないでいることのできないものです。
愛は愛によって成長します。
愛は「神的」なものです。
愛は神から出て、わたしたちを神と結びつけるものだからです。
愛はわたしたちを神と結びつけながら、わたしたちを一つの「わたしたち」にします。
こうしてこの一つとされた「わたしたち」は、わたしたち人間の分裂を乗り越え、わたしたちを一致させます。

神様に愛されていること実感したら、無償で誰かにその愛を伝えたくなる。
そういう連鎖が起こるのが「神の愛」なのだ、とベネディクト16世はおっしゃいました。

 

来月発行の久留米教会の広報誌みこころレター、今回のテーマは「共同体の役割」としました。 

コロナ禍にあって、本来の共同体活動が全面的にできるようになるにはもう少し時間がかかるでしょう。

それでも、例えばベトナムコミュニティの若者たちの献身的な行動は、わたしたちに無償の愛を与えてくれています。

わたしたちはとかく、「まだできない」と考えがちです。
「役に立ちたい」という 若者たちの愛が、わたしたち久留米教会共同体をひとつにしてくれている、毎週、そう感じています。

来週の完成が楽しみです!

 

 

聖書の楽しみ方

紅葉が美しいですね。

聖書は、すべての人を心にかけてくださる神の愛といつくしみを示す本であり、そのかかわりの中に生きるように人間を招く本です。
聖書は、「内容を覚える」教科書ではなく、人生を支える「糧」です。
だからこそ、わたしたちの心に響きます。

これは、今年の聖書週間(11/20~27)のリーフレットに寄稿された、アベイヤ司教様のお言葉です。

リーフレット『聖書に親しむ』
https://www.cbcj.catholic.jp/wp-content/uploads/2022/08/bibleweek2022.pdf

 

「新約聖書外典」を読みました。
正典から排除された(正式に採用されなかった)文書を、外典と言います。

以前、ある神父様が「昔は神学校で『これは読んではいけない』と言われていたようですが、面白いので読んでみました。」とおっしゃったので、いつか読もうと思って買ったまま、ほこりをかぶっていました。

たとえば、ラファエロの「聖母の結婚」という絵をご覧になると、聖書のどこにこのエピソードが?と思われるでしょう。

外典のヤコブ原福音書にあるのは、次のような物語です。

マリアは神殿で育てられていました。
大祭司ザカリアの夢に天使が現れ、マリアの結婚相手にふさわしい人を集めて、その手に持った杖に徴があらわれた人を夫とするように、と告げられました。
ヨセフの杖から鳩が出てヨセフの頭にとまるという徴があり、マリアを引き取って保護したのです。
この物語では、「結婚した」とはなっていません。
というのも、この時マリアは12歳、男やもめだったヨセフには息子が何人かいて、自分はマリアの夫には年を取りすぎていると思っていたからです。
マリアがイエス様を産んだ時は、16歳になっていました。

(このストーリーは福音書には書かれていませんので、2人の年齢、ヤコブが2度目の結婚だと知っていたと思われた方は、この物語を知っていらしたのです。)

この絵は、1504年に描かれました。
わたしたちが外典として普段読むことの無い書物は、キリスト教徒の中で人気のある大衆文学作品として広く親しまれていたのです。

次の写真は、イスラエルに行ったときに撮影した、ナザレの聖ヨセフ教会のステンドグラスです。
ヨセフの杖にユリの花が咲いている、という徴が表現されています。 

この教会は1914年に建てられたそうですので、長い間に浸透した福音書と外典の物語が、自然と融合したことが分ります。

冒頭にご紹介した、今年の聖書週間のリーフレットの2ページ目は、若松英輔さんのコラムです。
わたしが一番好きな彼の著書は、「イエス伝」です。
その中に、こういう記述があります。

ある若きインド人はこう語り始めた。
「もし皆さんがキリスト教徒になりたいと希望するなら、キリストが生まれたのはエルサレムかベツレヘムのどちらかといったことや、 山上の説教が語られた正確な日時を知る必要なない。
もとめられているのは、ただ山上の説教を感じることである。
説教がなされた時期を論じるために書かれた数多くの言葉を読む必要はない。
それらはすべて学者たちのたのしみにすぎない。
そうしたことは彼らに任せておこう。
私たちは『マンゴ』を食べようではないか。」

マンゴとは、この場合「聖典」を意味している。
キリスト者に求められているのは「山上の説教」について知ろうとすることではなく、そこで語られる言葉を「感じる」ことだというのである。
何かについて知ろうとすることに留まるものは、空腹にもかかわらず『マンゴ』を目の前にいつまでもその生態を調べているような者だというのである。

聖書の楽しみ方は、ぞれぞれにいろいろとあるかと思いますが、わたしは絵画や音楽の中に聖書のエピソードを見つけてその箇所を読むのが好きです。 

聖書を読んでもわからないことが多い、と思っている方には、わたしが聖書を学んだ師匠がおっしゃった言葉をお伝えします。

「イスラエルの人々の体験を通して神様を知るために、聖書があるのです。」

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死者の月、毎日の祈りの中で、特に親しかった方々のことを想っています。
大好きなマックス・リヒターのNovember(11月)という曲があります。
最近気に入っている、マリ・サムエルセンの北京での演奏は、何度聴いても涙がこぼれます。
天国の皆さんのことを想いながら、聴いてみてください。

 

 

 

 

模範となる人

12日土曜日は、宮﨑神父様の71歳のお誕生日でした。

夜ミサで、花束をお渡ししてお祝いしました。
久留米教会に赴任して来られて6年です。
ちょっとコワモテですが、意外とチャーミングで素敵な神父様、まだまだよろしくお願いします!

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七五三のお祝いを、13日のミサのなかで行いました。
無邪気なこどもたちの様子を見ていると、いつも思います。
「教会で出会うわたしたち大人が、この子たちの模範となる存在でいたいな。」と。

 

愛する者よ、あなたは健全な教えに適うことを語りなさい。
年老いた男には、節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい。
同じように、年老いた女には、聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教える者となるように勧めなさい。
そうすれば、彼女たちは若い女を諭して、夫を愛し、子供を愛し、分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うようにさせることができます。
これは、神の言葉が汚されないためです。
同じように、万事につけ若い男には、思慮深くふるまうように勧めなさい。
あなた自身、良い行いの模範となりなさい。
教えるときには、清廉で品位を保ち、非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。
そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。
(テトス2・1~8)新共同訳

あなたは、健全な教えにかなうことを語りなさい。
年老いた男性には、節制し、謹厳で、思慮深く、信仰と、愛と、忍耐においても健全なものであるように勧めなさい。
同じく、年老いた女性には、敬虔な生活を送る者にふさわしく振る舞い、人を謗ることも、酒におぼれることもなく、善いことを教える者となるように勧めなさい。
そうすれば、年老いた女性は、若い女性に、夫を愛し、子供を慈しみ、慎み深く、貞潔で、家事に勤しみ、親切で、夫に従うようにと、教え導くことができます。
これは神の言葉が謗られることのないためです。
若い男性も同じく、すべてにおいて慎み深くあるように勧めなさい。
あなた自身を善行の手本として示しなさい。
教える場合には、誠実で謹厳で、非の打ち所のない、健全な言葉を用いなさい。
そうすれば、反対する者は、一言も悪口を言うことができず、恥をかくことになります。
(同)フランシスコ会訳

新共同訳よりフランシスコ会訳の方が柔らかい書き方ですが、年老いた男、年老いた女、若い女、若い男、という分け方がストレートで分かりやすい!
現代人には多少、抵抗がある表現かもしれませんが、ストライクに正論ではないでしょうか。

年配の男性=忍耐深くあるように
年配の女性=善いことを教える者となるように
若い女性=家族を愛するように
若い男性=思慮深くふるまうように

(ストレスの多い女性にお酒の注意を促し、男性に忍耐を求める。昔からそうなのですね、、、。)

信者の場合、自分の信仰の模範となる人が代父、代母であることも多いかと思います。
わたしも、自分の代母をとても尊敬しています。

現代社会のさまざまな問題のなかでも、わたしが特に気になっているのがこどもの不登校です。

11日の西日本新聞朝刊の社説に、9年連続で不登校の小中学生の数が増加している、と書いてありました。
2021年度は24万4940人で、コロナ禍にあって臨時休校や活動制限もあり、学校を休むことへの抵抗感が薄れたことも影響している、とのことでした。
そして、3人に1人が誰にも相談せず、支援を受けていない現状なのだそうです。

久留米教会も、コロナ前のミサはこどもの参列がとても多かったのですが、家族の仕事の都合や感染のリスクを考えて、などの事情があり、最近はこどもたちの姿がめっきり減ってしまっています。
もしかしたら、教会のこどもたちにも不登校の問題を抱えている子がいるのでは、と心配になります。

このことを友人と話していたら、「うちの娘も小学校の時、5ヶ月不登校だったよ。弟の息子も不登校になって、転校したよ。」と、当時の話を聞かせてくれました。

あたらめて、この問題が身近なことなのだと痛感させられました。

 

そのとき、 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。
「神の国は、見える形では来ない。
『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
(ルカ17・20)

こどもが必要としているのは、必ずしも「模範となる大人」ではないかもしれません。
優しい親、素敵な家族であっても、大人もこどもも生きづらさを感じる世の中です。

それでも、わたしたち大人が担う役割は小さくはありません。

せめて姪たちには、模範、お手本となる存在であるよう、善いことを教えることができるように、わたし自身が生き方を見せることができるようにならなければ。
今、このことを強く感じながら過ごしています。

それぞれの家庭の中に、そして久留米教会の中に、神の国がありますように。

 

死と共に歩む

6日の午後、久留米教会のすべての死者のための追悼ミサが捧げられました。

わたしも、この数年のうちに親しかった人たちが天に召されたので、参列して祈りを捧げてきました。

侍者は、3人の女の子でした!

皆さん、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
(フィリピ2・1~4)

普段のごミサももちろん、皆で心を一つに祈るのですが、「死者のためのミサ」の祈りの一体感はまた違ったものを感じます。
心を合わせ、天に召された近しい人々のために思いを一つにして祈る時間には、特別な力があると思います。

・・・・・・・・・・・

映画監督のジャン=リュック・ゴダールさん(91)がスイスの自宅で「安らかに息を引き取った」というニュースをご覧になったでしょうか。
「スイスで法的支援を受けて自発的に旅立った」という声明でしたが、スイスでは状況によっては自殺幇助が合法なのだそうです。
オーストラリアの環境・植物学者デイビッド・グドールさん(104)も、2018年にスイスの医療機関でこの措置によって死を選択しています。

現在、10カ国以上の国・地域で自殺ほう助が認められています。
伝統的にカトリック教徒の国だったスペインでも昨年、右派政党やカトリック教会の強い反対を押し退けて「死ぬ権利」が合法化され、積極的安楽死も認められるようになりました。

「カトリック教会は、神の法に触れるとして死を手助けすることに反対しており、フランシスコ教皇も医師に対し、死を手助けしたいという誘惑を退けるよう促していた。」
と、CNNのニュースサイトに書いてありました。

教皇様は「私たちは死と共に歩んで行くもの。死を挑発したり、いかなる類いの自殺も支持したりしてはならない。」とコメントされています。

日本ではそれ自体が罪として罰せられていますし、倫理的な観点からもこの制度が導入されることはおそらくないように思います。

そもそも、人間の「倫理」とは何なのでしょうか。
基準があるとすれば、それはどのようなものなのでしょうか。

死とは、望んで得るものではなく、神様に(天に)その命を託すこと、身を委ねることであってほしいと思います。

 

「今、わたしの心はかき乱されている。
何と言おうか。
『父よ、わたしをこの時から救ってください』
と言おうか。
いや、このために、この時のためにこそ、わたしは来たのである。
父よ、み名の栄光を現してください」。
(ヨハネ12・27)

死を目前にして、イエス様が心を騒がせた様子が、ここに書かれています。

「この時」は、イエス様のようにわたしたちに示されることはないでしょう。
イエス様は、全ての人を導く光としての役割を担っていました。

「もうしばらくの間、光はあなた方のうちにある。
闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。
闇の中を歩く人は、自分がどこに行くのかを知らない。
あなた方は光のあるうちに、光の子となるために光を信じなさい」。
(ヨハネ12・35〜36)

 

教皇様のお言葉のとおり、わたしたちは「死と共に歩む」人生を送っています。

自分に残された、この世での時はわからないのですから、神様の導かれる光に従って歩んでいくしかないのです。

主は信頼に値する方です。
必ず、あなた方を強め、あなた方を「邪悪なもの」から守ってくださいます。
どうか、主が、あなた方の心を神の愛とキリストの忍耐へと導いてくださいますように。
(2テサロニケ3・3、5)

生きることは時に、忍耐を必要とします。
特に、病に苦しむ人にとっては、生きることは大変な苦痛を伴うでしょう。

この死者の月には、そうした方々のためにも祈るように導かれているように思います。

 

「悲しみ」の意味

コロナ禍においては、信仰の有無に関わらず、多くの人が「生と死」について考えを巡らせたでしょう。

今はどうでしょうか。
あれほど世界中が大混乱に陥れられ、見えない感染症に怯えて暮らしていたのが、もう過去のことのような気がしてしまいます。

コロナウィルスで亡くなられる方が、家族に看取られることなくお骨になって自宅に戻る。
これは、今現在も少なからず起きている、旅立ちの現実です。
これまでに、全世界で658万人の方がこのウィルスの犠牲になったと報道されていました。

家族や大切な友人の最期を見送ることができる、見送ってもらえることは、とても恵まれたことです。

終活、という言葉がありますが、自分がいつ天に戻されることになっても良いように備えておけることも、また恵まれた状況でしょう。

残される人をできるだけ悲しませないように、煩わせないように、と準備しておくことと同様に、日頃からわたしたち自身が心と生活において豊かに構えることが必要です。

 

わたしたちは皆何らかの形で悲嘆を経験しているだろう。
問題は、それにどのように耐えるかである。
なぜなら、悲しみにもわたしたちにとって重要な意味があり、そこから性急に逃れようとするならば、その意味を見失う恐れがあるからである。

悲嘆や心痛を望む人はいない。
誰もが常に喜びにあふれ、陽気で、満足した生活を望んでいる。
しかし、それは不可能であるばかりか、わたしたちのためになることとも言えない。

「悲しみを読む」ことを学ぶのは大切である。
今日、それはどちらかというとネガティブなことのように考えられている。
ところが、悲しみはわたしたちの人生に不可欠な非常ベルのようなものであり得ると同時に、より豊かな心の風景を旅させるものでもある。

わたしたちが孤独と悲嘆を開かれ目覚めた心で体験するならば、人間的・霊的により強められてそこから脱することができるだろう。
わたしたちの限界を超える試練はない。
(教皇フランシスコ10/26のバチカン一般謁見での講話より)

悲しみを読む。
その中に意味を見出す作業もまた大切なことなのだ、というパパ様のお言葉に感動しました。

悲しみはたいていの場合、突然わたしたちを覆い尽くします。

悲しさに支配されないようにするには、普段の生活の仕方が大事なのだと教えられています。

「いつも目を覚ましていなさい。」

イエス様がそうおっしゃっていたとおり、いざという時のために日頃から備えておきたいものです。

 

明日から11月、死者の月です。
個人的に、一年で一番大切に想っている祈りの月です。

「亡くなった人のことは心配しなくていい。
神様のところにいるのだから。」

11年前、そう言ってもらったことで心の底から救われました。

それから数年後、悲しみがようやく癒やされたと感じることが出来た時から今日までの、豊かな心の風景の旅路を振り返りながら感謝する、そんな時がわたしの11月です。


御前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、
朝早く地に降りる一滴の露にすぎない。
全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
あなたは存在するものすべてを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し、
あなたが呼び出されないのに存在するものが
果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
あなたはすべてをいとおしまれる。

あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。
主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、
罪のきっかけを思い出させて人を諭される。
悪を捨ててあなたを信じるようになるために。
(知恵 11・22〜12・2)

 

「暗闇からの祈り」と題された詩編88を、死者の月に心に留めたいと思います。

わたしの救いの神、主よ、わたしは叫びます。
昼も夜も、あなたに向かって。
わたしの祈りをみ前に至らせ、わたしの叫びに耳を傾けてください。
わたしの魂は悩みに満ち、わたしの命は陰府に近づきました。
わたしは穴に下る者のうちに数えられ、
力尽きた者のようになりました。
わたしの床は死者のうちにあり、わたしの寝床は墓の中にあります。
わたしは刺し殺された者のようです。
あなたはもはや死者を心に留められず、彼らはあなたの愛から切り離されています。
主よ、わたしは日ごと、あなたに呼び求め、
あなたに向かって手を伸べました。
あなたは死者のために不思議な業を行われるでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・

どこにも出掛けられなくて悲しいな、、、、と思っていたら、イタリアに出張中の妹がたくさん写真を送ってくれました。
少し旅行に行けたような、幸せなお裾分けでした。

Basilica di Santa Maria Novella(サンタマリアノヴェッラ聖堂)

 

Duomo(ドゥオモ)

 

Basilica di San Lorenzo-Cappelle medicee(メディチ家の礼拝堂)

マリア像byミケランジェロ

このマリア像は初めて見ました!

心豊かな一週間になりますように。

 

毎日を生きる

1ヶ月ぶりにごミサに与ることが出来ました。
今求めていた聖句に出会えるのも、ミサの醍醐味であると思っています。

自分を正しい人間であると思い込み、ほかの人をさげすむ人々に、イエスは喩えを語られた。
(ルカ18・9)

「思い込み」新共同訳では「うぬぼれて」、つまり自分自身に頼る人々とは、「むしろイエスの弟子たちのことであろう」と聖書と典礼の注釈にありました。

「胸を張って立ち、心の中で祈ったファリサイ派の人」と、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら声に出して言った徴税人」。

とてもハッとさせられました。

 

私は聖書が私を理解し、私を説明してくれているのを感じます。
聖書は私が切望していたことや恐れていたことを私に指摘し、待望と期待のかぎを与えてくれます。
聖書は神を探す人、真理と人生の意味を探す人、絶望や恐怖から逃れようとする人にとって、自分を見せてくれる鏡です。
聖書は人間に人間自身、その種々の望み、その目的を啓示し、復活されたかたのことばは、ほんとうに世の救いの歴史のなかで行われつつあるすべてのことの上に押された神の封印であるということを悟らせてくれます。
(「宣教者をそだてるイエス」カルロ・マリア・マルティーニ著より)

 

世界にはまだキリストを知らない人がたくさんいます。
日本でもわたしたちはキリストを知らない人たちに囲まれて生きています。
キリストを伝えることである宣教は、神の子ども、キリストの弟子となったわたしたち皆に与えられている使命です。
(カトリック中央協議会 「日本の祈願日における解説」より)

 

世界宣教の日にあたり、自分自身をきちんと見直し、信仰を持っていることをうぬぼれず、自分を通して宣教できるようになるためには、もう少し謙虚にならなければいけないと強く思った日曜日でした。

 

今回の入院中も、1日に一度は聖書を開いて読んでいました。

昔、入院していた時に母がしてくれていたように、目をつぶり、パッと開いたページを読むのが好きです。
抗がん剤の治療中に吐き気を少しでも忘れることができるように、と、母がそうやってわたしに聖書を読んでくれていました。

死者の月を前に、「生」についてのいくつかの聖句をピックアップしてみました。

生きるということはこういうことである、と、聖書ではさまざまな表現でわたしたちに問いかけています。

 

永遠の命とは、
唯一のまことの神であるあなたを知り、
また、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
(ヨハネ17・3)

たとえ、誰かが自分は信仰をもっていると言っても、行いを伴わないなら、何の役に立つでしょう。
人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるものではありません。
息をしない体が死んだものであるのと同じように、行いの伴わない信仰もまた死んだものです。
(ヤコブの手紙2・14、24、26)

この箇所は、いつも胸にグサッと刺さります。
行いの伴わない信仰では、誰にも宣教することはできません。

 

地の塵の中に眠っている多くの者が目を覚ます。
ある者は永遠の命に。
ある者は永遠の恥とさげすみに至る。
懸命な者たちは、大空の光のように輝き、
多くの者を義へと導いた人々は星のように夜々限りなく輝く。
(ダニエル書12・2〜3)

これは、旧約聖書中の最初の復活信仰に関する記述なのだそうです。
紀元前2世紀ごろに書かれたこの文の美しさに、現代のわたしたちも感動させられます。

 

お前は最後までお前の道を行き、憩いに入りなさい。
その時の終わりに、定められた分を受けるために、お前は立ち上がるであろう。
(ダニエル書12・13)

「立ち上がる」、すなわち復活を意味します。
最後まで自分の役割を果たす生き方をしなさい、と言われているような気がします。

 

毎日をより良く生きていくために、こうした聖書のことばはわたしにとって欠かすことのできないものです。

秋の夜長に、聖書を開いてみませんか?
きっと、聖書がわたしを理解してくれている、と感じることができると思います。

みなさんの役割

美しい空、澄んだ空気、可憐な草花、美味しい果物、秋は本当に素晴らしい季節です!

教会の前庭も、いつもの季節を知らせる香りが漂い始めています。

むせ返るような香り!(だそうです!!)

こんな気持ちの良い気候の中、自宅で療養生活を送っていますが、妹が家事をしに来てくれているので本当に助かっています。

やはり、こう言う時に頼りになるのは姉妹ですね。

家族にはそれぞれの役割があり、いつどんな時にも助け合える関係を日頃から築いておくのはとても大切なことだ、と、こういう時にしみじみと感じます。

 

ところで、わたしたち一人ひとりに、キリストから受けた賜物の種類に応じた恵みが与えられました。
そして、この方ご自身がある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を教師または牧者として与えてくださいました。
それは、聖なる人々を奉仕の働きができるように準備させ、キリストの体を築きあげるためです。
(エフェソ4・7、11〜12)

お知らせでご案内した通り、10月から久留米教会の各種役割を担う委員会が新体制となりました。

当然のことながら、教会はミサを行うだけではなく、様々な裏方さんたちの役割分担があって維持されています。

今回の新体制では、
■典礼奉仕(毎週の典礼、侍者、オルガン体制の調整)
■各種行事(復活祭、初聖体、冠婚葬祭など)
■渉外・広報(宣教司牧委員会、外国籍の方々との連携)
■営繕(教会、信徒会館、駐車場、墓地の管理)
■財務(毎週の献金・予算決算の管理)

大きく分けてこの5つの役割に、8人の委員が割り振られました。

このキリストによって体全体は、必要なものをもたらす互いのあらゆる触れ合いを通して、また、各部分の役割に従った働きに応じて一つに組み合わされ、結び合わされて大きく成長し、愛に基づいて自分を築きあげていくのです。
(エフェソ4・16)

フランシスコ会訳聖書の注釈には、「ここで強調されているのは、ご自分の体の異なった各部分の相互の触れ合いと愛の交流を通して、キリストは教会を成長させるという点である。」と書いてあります。

これらの役割を担う人の働きと、それをサポートする共同体の皆さんの助けがあってはじめて、わたしたちの教会が築き上げられていくのです。

5つの仕事以外にも、
■女性の会
■ヨゼフ会
■納骨堂維持管理
■日曜学校
■手話の会
■フードドライブなどの福祉活動
■正義と平和を考える会
といった活動が活発に行われているのが久留米教会です。

わたしたちはこのわざに参与することが、恵みとして、キリストの賜物の量りに従って与えられます。
わたしたちが、それを復活された方から絶えまなく与えられる恵みであり、賜物であると認めている限り、この御父とキリストのわざへの参与は、重荷や苦しみとしてではなく、むしろ情熱と創意の泉としてわたしたちのうちに、新鮮で湧き出るような自由なものとしてとどまるのです。
わたしたちを刺激して、自らの立場を本当に見直し、再考し、機会あるごとに新しい目で眺め、わたしたちがしていることの意義と理由、および、どうしたらいっそうよく実行できるかを問うように刺激します。
(「宣教者をそだてるイエス」カルロ・マリア・マルティーニ著より)

 

久留米教会は登録信徒が1000人近く、毎週のごミサには延べ400人ほどが参列する大きな共同体です。

当然ながら、8人の委員だけでは維持管理は困難です。

教会という共同体をより良く築きあげるためには、信徒の皆さんのご協力、アドバイス、ご指導が欠かせないのです。

 

かつて、あなた方は闇でしたが、今は、主に結ばれて光となっています。
「光の子」として歩みなさい。
 実に、光が結ぶ実は、あらゆる善意、正義、真実を備えたものです。ー
主に喜んでいただけることは何か見極めなさい。
(エフェソ5・8〜10)

霊に満たされ、互いに詩編や、賛美の歌、霊的な歌をもって語り合い、主に向かって心から歌い、琴を奏でなさい。
わたしたちの主イエス・キリストの名において、いつも、父である神にすべてのことを感謝し、キリストを畏れ敬う心をもって互いに従いなさい。
(エフェソ5・19〜21)

新しく任命された委員は、平均年齢50歳ほどのメンバーです。
知らないこと、気づかないこと、見落としていること、足りないことが多々あるかと思います。

どうぞ、遠慮なくご指摘いただきたいと思います。

共により良い久留米教会共同体を築きあげていきましょう。
よろしくお願いいたします。

 

 

 

信じていること

教皇フランシスコは、10月の祈りの意向を「すべての人に開かれた教会」とされました。

また、10月はロザリオの月、福音宣教の月です。

すべての人に開かれた、とは、「多様性のうちに互いに耳を傾け合い、教会の外にいる人に扉を開くこと」であると教皇様はおっしゃっています。
教会の外にいる人とは、信じることを熱望し、探している人、とも言えるでしょう。

宣教のためには、わたしたちキリスト者が自分の信じていることを自分の言葉でわかり易く語ることができなければなりません。

膝の治療のため、しばらく入院していました。

入院中、ずっと考えていたことがあります。
「孤独」とは何か、と言うことです。

この2年の間に、知り合いが何人も入院されていたので話には聞いていましたが、コロナ禍の入院生活は本当に孤独でした。
お見舞いどころか、必要なものを届けてくれる家族にでさえ、会うことは許されませんでした。

前回書いたように、「こんな時に、神父様が訪ねて来てくださってご聖体をいただけたら、どんなに幸せか。」と何度も頭をよぎりました。

ですがよくよく考えてみると、本当の孤独というものは、話し相手がいないことではなく「信じられるものが何もない」状態を指すのではないか、そう思ったのです。

 

ダニエル書3章では、偶像崇拝を強要するネブカドネツァル王が、その命令に従わなかった3人の若者を火の燃え盛る炉に投げ入れます。

主の使いが炉の中に下りて来て、アザルヤを囲む者たちのそばにつき、炎を炉の外に追い払った。
そのため、火は全く彼らに触れることもなく、何の危害も苦しみも与えなかった。
その時、三人は炉の中で口をそろえて神をほめたたえて、栄光を帰し、賛美した。
(49〜51)

52節からの長い祈りは、「聖職者が祝日に唱える祈り」なのだ、と以前教わったことがあります。

美しい祈りです。
抜粋してご紹介します。

わたしたちの先祖の神、主よ、あなたが賛美されますように。
代々に、たたえられ、崇められますように。
天の大空におられるあなたは賛美されますように。
代々にほめたたえられ、栄光が帰されますように。

天よ、主を賛美せよ。
主の使いたち、主を賛美せよ。
日と月よ、天の星よ、すべての雨と露よ、すべての風よ、火と熱よ、寒さと暑さよ、夜と昼よ、光と闇よ、稲妻と雲よ、大地よ、山と丘よ、地に生えるすべてのものよ、海よ川よ、空のすべての鳥よ、地のすべての獣と家畜よ、人の子らよ、、、、
主を賛美せよ。
代々に主をほめたたえ、崇めよ。

主に感謝せよ。
主は善なる方、その憐れみは永遠。
主を礼拝するすべての者よ、神々の神を賛美せよ。
ほめたたえ、感謝せよ。
その憐れみは永遠であるから。

彼らのこの美しい祈りを聞いて、ネブカドネツァル王は神を信じるのでした。

主を賛美する。
ほめたたえ、感謝する。

これは、キリスト者にとっては当たり前のようなことかもしれません。
このシンプルで素直な気持ち、わたしたちが信じていることを「孤独な」方々に伝えることができれば、この祈りに触れたことで神の愛に包まれた王のように、その方の心の霧が晴れるかもしれません。

 

福音宣教10月号に、本多峰子さんが書いていらっしゃいます。

福音書の中で「神は愛である」と、神が愛そのものであり、イエス様を見た者は愛なる神を見たのだ(14・9)と断言しているのは、ヨハネだけです。

ずっとイエスの近くにおいていただいて、イエスの愛を感じ知ることができたヨハネは、イエスを「命の言(ことば)」と悟り、イエスとの交わりによって喜びにあふれ、またそうした交わりの輪が広げられることで、イエスをじかに知らない人たちにも喜びが満ちあふれると確信しました。

神が存在し、いつも私たちを愛して、ともにいてくださると確信すれば、どのような時にでも絶望に沈みこんでしまうことはできなくなるでしょう。
神様は私たちを愛し、私たちのつらさを憐れみ、私たちの最も暗いところに入ってきてくださる方です。
(福音宣教10月号 本多峰子さん連載より)

福音宣教月間の今こそ、私たち一人ひとりが「すべての人に開かれた教会」となることを意識して、日々を丁寧に生きましょう。

神様を感じる

10月になりました。
教会では「待降節まであと2ヶ月!早い〜!」なんて言う声も。

日中はまだ暑さが残っていますが、遠くにドライブでもしたくなる気分です。

今週はヨブ記が読まれましたが、この物語を読んで納得するのは難しいですね。

この人は非の打ち所がなく、正しく、神を畏れ、悪を遠ざけていた。
(1・1)

その義人ヨブに、神はサタンを使って苦しみをお与えになるのです。

先月は、静岡県に上陸した台風15号で広範囲に渡って断水が続き、今もまだ解消されていません。
先週は、アメリカのフロリダ州にハリケーン「イアン」が上陸し、街が破壊されました。
風速67メートルで高潮・洪水も起き、10/2の報道ではまだ100万世帯が停電しているようです。

Apple TVでFIVE DAYS at MEMORIAL というドラマを観ました。
2005年8月、ニューオリンズに上陸したハリケーン「カトリーナ」では町の8割が冠水し、当時の政府(ブッシュ大統領)の救出活動の遅れは、貧富の格差や人種問題をあらためて浮き彫りにしました。
実在したメモリアル病院の医師、看護師たちの患者への懸命の対応と、あってはならないある決断の意義について考えさせられる、息の詰まるドキュメンタリーのようなドラマです。

 

 

ヨブ記では、すべての災いはサタンの業である、としています。
イスラエルの民は、何世紀にもわたって、善を行う者は幸福で、悪を行う者は不幸だと信じていました。
フランシスコ会訳聖書の解説には、こう書いてあります。

神がヨブに現れ、語りかけるが、苦しみの意義は明らかにされない。
それは神秘のまま留まる。
だが、重要なのはヨブが苦しんでいる時に神が現れたことである。
これによって、人は苦しんでいる時も孤独ではなく、自分の傍には神が常におられることを深く感じるのである。
ヨブは苦しみの中で改めて神を見出し、その苦しみの中にも慰めを見出す。
神の臨在こそが人々に真の霊的な喜びを与えるものであり、また敬虔な人に繁栄の時も苦難の時も神の臨在を悟らせるのである。

 

3章20節から26節のサブタイトルは「人生の価値」
読んでいて、心が苦しくなる思いがします。

なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛む者に命が与えられるのか。(20)
神はなぜ、光をお与えになるのか、その道が隠されている者に、神ご自身がその道を囲っておられる者に。(23)
わたしには安らぎも、静けさも、憩いもない。ただ悩みだけが訪れる。(26)

さらに、著者は「悪の源」と題する5章でこう断言します。

なぜなら、災いは地から生じるものではなく、苦しみは地から芽を出すものでもないから。
そうだ、人は苦労するために生まれる、鳥が高く飛ぶために生まれるように。(6〜7)

人間の災いも苦しみも、人の心に原因があるのだ、と言います。
言われている厳しさに胸が押しつぶされそうな気持ちになりますが、同時に美しい文章に心が揺さぶられます。

ヨブの究極の信仰告白は、この言葉でしょう。

たとえ、神がわたしを殺しても、わたしは神に信頼する。
しかし、わたしは神の前で、わたしの道を申し立てたい。
これもまた、わたしの救いとなるだろう。
不敬な者は神の前に立つことができないのだから。
(13・15〜16)

 

先ほど紹介したドラマで病院が極限状態にまで追い込まれたのは、ハリケーンや高潮による洪水よりも、対策の甘さ、対応の遅れ、判断の遅さ、幾つもの人為的なミスが原因でした。
真夏に電力も止まり、救出もいつになるかわからない病院で、数人の医師たちによって究極の決定がなされます。

彼らは皆、クリスチャンでした。
病院には聖堂があり、病室の壁にも主人公の胸にも十字架が。
ことあるごとに神に祈り、「自分たちの下した決断は決して間違っていない、神に誓って罪は犯していない。」と確信しているのです。
これは実話です。

「どんなに大変だったか分かります」と言われ、主人公はこう言い返します。

「絶対にあなたには分からない」

 

わたしは、床上まで泥水が浸水して、電気も水道もない生活を何日間も強いられた、そういう体験はありません。
ヨブが受けたほどの苦しみも、想像がつきません。

あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。
(42・5〜6) 

ですが、ヨブのように、苦しみの最中にあっても神様を感じたことはあります。

その時の神様は、平和な日常で出会う神様とは印象が違うのです。

平時に思い描いている(出会ったと思っている)神様は、柔和で落ち着いた、優しいお父様のような笑顔です。

涙が止まらない、涙も出ないような苦難に喘ぐとき、神様はわたしを抱きしめておられるほど近くにいらっしゃるので、どのような表情をされているか分かりません。

世界各地で絶え間なく起きる災害によって、甚大な被害に苦しんでいる方々のために祈りましょう。

一人でも多くの人が、神様を感じることができますように。 

 

素直に耳を傾ける

朝晩の澄んだ空気、本当に気持ち良い季節です。

「朝起きてすぐの心の状態が、その日1日を決める。」

昔読んだ本にそう書いてありました。
この何年もずっとこのことを心に留めていて、起きてすぐにカーテンと窓を開け、神様と母に挨拶をして、「今日も一日よろしくお願いします!」と口に出して言うようにしています。

 

31年前の今頃は、東京の大きな病院に入院していました。

新宿の都庁のすぐそばの病院で、14階の病室からは山手線沿線の街が一望でき、空気の澄んだ日には、遠くに富士山も見えました。
病室からその景色を見渡した瞬間に思ったことは、今でも忘れられません。

「この景色の中に、幾つの病院があって、何人の人が病気で入院しているのだろう。
わたしはその多くの人の中の一人に過ぎない。
わたしは神様から守ってもらえてるはずだから、全然大丈夫!」

ハタチのわたしの心に浮かんだその気持ちは、その後の長い入院生活でもずっと変わりませんでした。

最近、また大きな病院に通院するようになり、コロナが落ち着いたこともあるのでしょうが、本当に多くの方が病院を受診されていることに驚きます。

「スーパーで出会う人々とは違う。
この人たちは皆、どこかに病気や不具合を抱えているんだ。」

25日のミサの福音書では、金持ちとラザロのたとえ話が読まれました。
金持ちは、死んでからようやく周りを思いやる気持ちを見せます。
そして、周りと言っても自分の兄弟のことだけでした。
アブラハムに頼むときにでさえ、「彼らもこんな苦しい場所に来ることがないよう、きびしく言い聞かせてください。」と自己中心的な言い方です。
それに対しアブラハムは、「彼らの言うことを聞けば良い」と答えます。
それでも食い下がる金持ちは口答えをします。
「しかし、アブラハムは言った。『もし、モーセや預言者たちに耳を傾けないなら、たとえ、誰かが死者の中から生き返っても、彼らはその言うことを聞かないであろう』」。
(ルカ16・19〜31)

聞いて行動することが求められているのです。
聞いても行動しないのならば、全く意味がありません。
まずは、耳を傾けるのです。
今、わたしたちの助けを必要としている人のために、心を開き、耳を傾け、愛の実践を実行することが必要なのだ、と、宮﨑神父様がお説教でおっしゃいました。

病院での出会いについて書いたのは、聖体奉仕者の役割を担っていらした方から「コロナ禍になって、病院やご自宅に聖体を持って行くことができなくなって久しい。求めていらっしゃる方がどのくらいいるのかも把握できていない。」というお話を伺ったからです。

宮﨑神父様にお願いしてみました。

「病院はまだ外部からの訪問を受け入れないでしょうが、ご自宅にいて教会に来ることができないご高齢の方のために聖体奉仕者の方々が働けるように、司教様に聞いてみていただけないでしょうか。」

 

わが子よ、施すべき相手に善行を拒むな、あなたの手にその力があるなら。
出直してくれ、明日あげよう、と友に言うな、あなたが今持っているなら。
友に対して悪意を耕すな、彼は安心してあなたのもとに住んでいるのだ。
理由もなく他人と争うな、あなたに悪事をはたらいていないなら。
不法を行う者をうらやむな、その道を選ぶな。
主は曲がった者をいとい、まっすぐな人と交わってくださる。
主に逆らう者の家には主の呪いが、主に従う人の住みかには祝福がある。
主は不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜る。
(箴言3・27~34)

 

耳を傾け、聞いて、自分が今何をすべきかを自問し、実行する。
できないことに囚われずに、やるべきこと、できることを。

神父様のお説教を聞いて、このことを強く感じた日曜日でした。

 

主の御手にあって王の心は水路のよう。
主は御旨のままにその方向を定められる。
人間の道は自分の目に正しく見える。
主は心の中を測られる。
神に従い正義を行うことは、いけにえをささげるよりも主に喜ばれる。
(箴言21・1~6)

 

信愛から自転車で来られて誰にでも元気にご挨拶してくださるシスター、お御堂に入る前に必ずマリア様のご像の前でお祈りされるご夫婦。
こうした風景が、本当に大好きです。

 

神様からのサイン

毎週、ここを読むのを楽しみにしてくださっている仲良しのおばさま方。
最近はなかなかお目にかかる機会がなくなっている方もいらっしゃるのですが、感想を聞かせてくださったり近況を知らせるお電話をくださり、色々とお話しするのも楽しみの一つです。

みなさん、何かしら健康上の問題、日常生活の変化などがあり、何事もなく平穏な日々というわけにもいかないようです。

わたしは、膝の痛みに悩まされています。
この痛みと付き合い始めて1年になります。
最近はますますひどくなってきてかなり辛いのですが、先日、フッとある考えが下りてきたのです。

「この痛みとうまく付き合っていくには、これは神様からの何らかのサインなのだ、と思ったほうがいい。」

そうしたら、(痛みは全く改善しませんが)気持ちがちょっとだけ楽になりました。

信仰を持っていない人からしたら、「それって、プラシーボ効果じゃ?」と言われそうですね。

プラシーボ効果とは、本来薬としての効能が全くない物質を摂取しているのに、「お薬が効いた!」と感じる効果のことです。
一種の「思い込みによる心理的な働き」なのだそうです。

 

識別は、思いがけない出来事の中で、イグナチオの足の負傷のように、時には不快な状況の中でも、主が与えるサインを認識することを助けてくれる。
そして、彼の場合のように、そこから永遠に人生を変える出会い、人生の歩みをより良いものとする出会いが生まれることがある。
教皇フランシスコ
9/7バチカン一般謁見での講和より

どのような困難な状況にあっても、その日々の中に神様からのサインを見出そうと思えることは、それ自体がお恵みでしょう。

いま、アリストテレスに関する本を読み進めているのですが、彼の父親はお医者様でした。
医者と言っても、当時(紀元前4世紀)は、病気の原因は神々の怒りだと考えられていて、医者は病人を癒すために医術の神(アスクレピオス)の力を引き出すという、魔術師のような役割でした。

それでも、アリストテレスの父のニコマコスは新しい発想の医者だったそうで、病気の原因は自然に由来するので、自然に即した方法で病人を治療することができる、という、当時にしては革新的な考えの流派に属していました。
そうした父親の影響がベースにあり、アリストテレスは哲学者として、当時のライバルたちとは一線を画す価値観と感性を磨いていきます。

彼にとって、善い生活とはこの世で幸福に暮らすことでした。
そのための鍵は、友情、家庭生活、政治への参与、観想といったものであると主張しました。
こうした考え方は当時としてはかなり「先を行った」もので、10数世紀のちに彼の倫理学書が再発見されたときには、天国に望みを託しているキリスト教徒たちを驚愕させました。

アリストテレスはBC384〜322年に生きた人です。
イエス様がお生まれになるよりも300年以上も前に、ギリシャには優れた哲学者、数学者、天文学者などが数多くいて、ある程度の階級の人々は、非常に高度な知的教育を受けていたのです。

ですが、長きに渡りイエス様の時代も、病気や災害は(いろいろなパターンの)神の怒りによる仕業、先祖の冒した罪によるものと信じられていました。

そうではないということを知っている、現代のわたしたちは幸いです。

神様は、災害をひき起きしてわたしたちを不安に陥れるようなことはなさいません。
美しい自然を与えてくださるのが神様です。

 

18日のミサのアレルヤ唱は、本当に美しい聖句でした。

アレルヤ アレルヤ
イエス・キリストは富んでおられたのに貧しくなられた
あなたがたがキリストの貧しさによって 富むように
アレルヤ アレルヤ

主は豊かであられましたが、あなた方のために貧しくなられた、という慈しみです。
ご自分の貧しさによってあなた方を豊かにしようとなされたのです。
(2コリント8・9)

 

わたしは、わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。
この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。
(1テモテ1・12)

 

神は、わたしたちがどのような苦難にある時でも慰めてくださいます。
そこで、わたしたちも、自分たちが神から慰めていただくその慰めによって、あらゆる苦難の中にある人を慰めることができるのです。
わたしたちが苦しみに遭うとするなら、それは、あなた方が慰められ救われるためですし、わたしたちが慰められるとするなら、それは、あなた方がわたしたちも受けているのと同じ苦しみを耐え忍ぶにあたって、力を発揮する慰めがあなた方に与えられるためです。
(2コリント1・4〜6)

 

あなたは、持っている確信を、自分自身のために神の前にもち続けなさい。
行おうと決心したことについて、心に疑いを持たない人は幸いです。
確信に基づいていないことはすべて、罪なのです。
(ローマ14・22〜23)

この場合の確信とは、信仰という意味です。

神様からいただいているサインを見逃さす、聞き逃さず、今という時に与えられている使命を果たすと決心しています。

聖書をこうして読み進め、自分が求めている言葉を見つけることは、膝の痛みで外出もままならない今のわたしにとって、最高の贅沢です。

 

洗礼を授ける(バプティゾー)を「漬ける」と訳した人がいます。
「聖霊によって洗礼を授ける」は「聖霊漬けにする」と言ってもよいかもしれません。
福神漬けの中に入っている野菜が、それぞれの個性を失わず、それぞれの野菜のままでありながら、すべての野菜が福神漬けになっている、というイメージを思い浮かべてはどうでしょうか。
「一人一人が聖霊の香りを放つ者になる」と言ってもよいかもしれません。
幸田和生司教「福音のヒント」より

いま、痛み止め漬けになってしまっているわたしですが、神様からのサインを模索するために聖霊漬けになって、キリストの良い香りを放つ存在になれるよう、もっと努力したいと思います!

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台風接近の中、信徒集会にご参加くださり、ありがとうございました。
決算・事業報告は、12月発行の『みこころレター13号』にも掲載いたします。

 

大切に想うこと

先週の日曜日は、月に一度のベトナム語のミサの日でした。

アベイヤ司教様が司式してくださり、ローマ留学に旅立たれるピーター神父様の通訳で、盛大なミサとなりました。

ピーター神父様の右は、福岡教区に新しく着任されたベトナム人司祭のトゥエン神父様です。
(カッコイイ!)

 

ベトナムコミュニティのみんなは、ほとんどが20代前半です。
多くは、技能実習生として久留米近郊で様々な業種に従事しています。
そして、3年から5年でベトナムへ戻ってしまいます(制度上仕方ないのですが)。

日曜日にこうして集うことの意味、みんなにとっての久留米教会の存在、共同体の仲間であること。
そうしたことを、次号のみこころレターに寄稿してもらう予定です!

そして、11日のミサでは敬老祝福式が執り行われ、班分けの都合で会う機会の少なくなった方々が集い、久しぶりの教会行事となりました。

 

ジュゼッペ神父様も、無事にイタリアへの里帰りからお戻りになりました。

「久留米教会はいい共同体だよね!」

わたしはそう思っていて、ミサで会う方にも時々そう伝えます。

共同体とは、メンバーが人格的に参加し、分に応じた役割を果たすことを通して、一人ひとりが生かされ成長してゆく仲間を意味する。
教会は単なる無名の大衆ではない。
それは、宣教によって呼び集められ、信仰と洗礼によってキリストに結ばれ、聖霊に生かされる共同体であって、「彼らの中には一人も乏しい者はなかった」(使徒言行録4・34)と言われるように、霊的面だけでなく、毎日の生活面でも互いに思いやり、分かち合いながら、天の国目指して地上を「旅する神の民」(教会憲章第7章参照)なのだ。
小教区とは、キリストを信じる地域の信者全員が参加し、主任司祭を中心として責任を共有する共同体である。

鹿児島教区の司教だった、故 糸永真一司教様のブログに、このような記述を見つけました。

 

「共同体主義」という言葉をご存じでしょうか。
民主主義、社会主義のように、政治的なスタンスを表すものですが、普遍的、単一的な価値観ではなく、文化的な共同体(国家、地域、家族など)の中で培われる価値観を重視する政治哲学の立場を、共同体主義(コミュニタリアニズム/communitarianism)と言います。

共同体主義の考え方では、コミュニティを、共通の歴史を通じて発展した興味、伝統、道徳的価値を共有する、単一の場所または異なる場所に住む人々のグループと見なします。
たとえば、世界中に散らばっているユダヤ人(ディアスポラ)は、強い共同体意識を共有し続けています。


進化論的にも、社会進化論的にも、自己中心主義や、自分の属する共同体中心主義という本能、圧力、誘惑は強大だ。
核兵器使用の決定など、権力者の自己中心主義がたとえ「類的破滅」につながっても暴走する可能性だってあるのだ。

(竹下節子さんのブログより)

このように、この単語はあまり良い意味で使われるものではないようです。

でもいいのです。
わたしは自分を「共同体主義」の信者だなぁ、と思っています。
久留米教会という共同体が好きです。

大先輩方と語らうのも、若いベトナムコミュニティのみんなと言葉を交わすのも、「初めて来ました」という方をご案内するのも、こうして広報のお仕事を任せていただけていることも。

同じ信仰、道徳的価値感を持ち、大切に想っていることを共有できる人々との交わりは、わたしの心の支えです。

ベトナムコミュニティのみんなのように、教会に集うことをもっと楽しんでくれる若い人たち、子どもたちが増えるように働きたい、という希望を持っています。

 

夏休みにベトナムに帰省したメンバーが、アベイヤ司教様へのプレゼントを買ってきてくれたそうで、司教様は大変お喜びになっていました。

敬老祝福式では、詩篇1章が読まれました。

幸せな人、神のおきてを喜びとし、昼も夜も教えを心に留める人。
流れのほとりに植えられた木が、
季節になると豊かに実り、葉もしおれることのないように、
この人の行いも実を結ぶ。
神に従う人の集いは神のもとにあり、
神に逆らう者の道は滅びへと続く。

 

 

現代のケリュグマ

いま世界各地を襲っているのが、大規模な干ばつです。
ヨーロッパでは60%以上の地域が干ばつの危険にさらされていて、過去500年で最悪の水不足になっています。

ローマでは川底に眠っていた古代遺跡が姿を現しました。
イラク南部のメソポタミア湿地帯でも、3年にわたる干ばつと少雨で肥沃な土地が干上がり、旧約聖書のエデンの園があったとされる場所もひび割れた状態です。

パキスタンでは、6月から続くモンスーン(雨期)の洪水で国土の3分の1が水没しているといいます。
アフガニスタンでは6月の大地震に続き、現在は洪水に襲われ、甚大な被害が続いています。

16歳の姪が言っていました。
「ニュースを見るとひどいことばかりで、こんな世界に生きているのかと思うと悲しくなる。」

国内で起こる(報道される)ニュースも、世界で起こる災害も、確かにわたしたちを不安にさせます。

「世界は、もし愛がなければ、受け入れるにはあまりにも醜いものである」

という言葉を、本の中に見つけました。

どうしたらこのような世界を受け入れることができるでしょうか。
どうしたら神の存在を認めることができるでしょうか。


誰が神の計画を知り得ましょう。
誰が主のみ旨を推し量れましょう。
死すべき者の考えはおどおどし、
わたしたちの思いは確かではありません。
朽ちるべき体は魂の重荷となり、
地上の幕屋は心配事の多い精神に重くのしかかります。
(知恵9・13〜15)フランシスコ会訳

 

現代社会を生きるわたしたちは、現世での旅(人生)にのしかかる重荷と苦労に打ちひしがれる存在なのです。

決して悲観しているわけではありません。
エマオへの途上でイエス様に出会った、「憂鬱そうな」二人の弟子たちのことが思い起こされます。

暗い顔で、混乱と苦しみの中に沈んで、起きた出来事の意味を理解できないままに議論していた彼ら。

イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。
(ルカ24・15)

イエス様は、自ら近づき、救いのイニシアティブを取られます。
彼らと歩調を合わせて、一緒に歩かれるのです。

そして、ごく自然に「歩きながら、語り合っているその話は何のことですか」(16)と話しかけられました。
いきなり彼らの迷いを指摘して叱ったり、動転させるようなことはなさらず、彼らがみずからの内面にある問題をはっきりと捕らえ、それを客観視することで、うちにあるもつれを解いていくように導かれました。

さらに、モーセ五書と旧約全体にわたってご自分について書かれていることを二人に説明されますが、それでも彼らはイエス様であることに気づきません。
気づいたのは、食事の席でした。

イエスはパンを取り、賛美をささげて、それを裂いて、二人にお渡しになった。
すると二人の目が開かれ、イエスであることに気づいたが、その姿は見えなくなっていた。
二人は、「あの方が道々わたしたちに話しかけ、聖書を説き明かされたとき、わたしたちの心は内で燃えていたではないか」
(30〜32)

この二人はすぐにエルサレムに引き返して、他の弟子たちにこのことを話しますが、やはり彼らはすぐには信じません。

このエピソードは、ケリュグマの働きについてさまざまな角度から描いています。

まず彼らの目が開け、心がうちから燃え、とても自分たちの心にだけ秘めておくことができず、伝えずにはいられないメッセージを仲間に知らせに走り、仲間が集まっているのを見つけ、皆にみ言葉を伝えます。

わたしたちとしては、自分の見たことや聞いたことを、話さないわけにはいきません」(使徒4・20)
これが、ケリュグマです。

ケリュグマとは、「彼らの開眼、自分が生きている状況の中に神がみずからを示しておられ、予期していなかったような地平を私たちに開いてくださったということを認めること」だと、今読んでいる本に書いてありました。

 

 

辛い、心配な出来事が多い世界です。 
わたしは、この壮大なテーマについて答えを持っているわけではありません。

わたしたちキリスト者は、心を喜びで満たす内面の変容を生む生き方、外面にも平和に満ちた喜びが溢れる生き方、すなわち現代のケリュグマを実践するように努めなければならない、と本から学びました。

少なくともわたしは、姪の不安な気持ちを明るいものに変える存在であるように。
そして、イエス様の行いに立ち戻り、イエス様が退けられたものを退け、イエス様が大切にされたことを大切にする社会の実現に向けて歩みましょう。
(大分教区報、森山司教様のお言葉より)

 

わたしが宣言し、信じている信仰は、自己満足の平穏につながっているのか、それともわたしの中であかしの炎に火をつけているだろうか?
教会としても、こう問いかけてみましょう。
わたしたちの共同体で、祈りと慈善のわざへの情熱のうちに、また信仰の喜びのうちに、聖霊の火が燃えているだろうか?
それとも、意気消沈した顔をして、嘆きを口にし、毎日噂話をして、疲労や習慣にわたしたち自身を引きずり込んでいるだろうか?
兄弟姉妹の皆さん、これらについて、自分自身を振り返ってみましょう。
教皇フランシスコ、2022年8月14日「お告げの祈り」でのことばより

 

 

愛のきずな

教会にこんなメッセージと写真が届きました。

I wanted to share a 1944 (Showa 19) photo of my father posing in front of the church with 2 friends.

1944年に、当時の久留米教会の前で撮影された写真です。

こちらは、久留米の街中でのお写真。

お父様の大切な思い出を、久留米教会の信徒の皆さんと共有したい、と送ってくださいました。

お父様は国費留学生としてフィリピンから来日し、日本に2年(1943~1944年)滞在されていました。
そのうちの1年は、久留米高等工業学校(現在の久留米高専)で学んでいらしたそうです。

久留米で過ごした間は、久留米教会のミサに毎週通われていたそうで、1945年の空襲で聖堂が破壊されたことを残念に思っていらしたとのこと。

戦時中にお父様が日本で学び、体験されたことをまとめた本を出版されました。

 

本の表紙にも、久留米での写真を使ってくださっています。

Garyさんは作家ではありません。

「なぜこの本を書かれたのですか?」
「最初は本を書く予定はなかったのだが、父たち国費留学生(南方特別留学生)のことを調査しているアメリカの学者から連絡があり、いろいろと調べているうちに自分でもまとめてみたくなった。」

調べているうちに、多くの写真や当時使っていた万年筆(東条英機氏から贈られたもの)などの遺品がきちんと保管されているのを見て、お父様の若かりし頃に思いを馳せられたようです。

わたしたちも、自分の親の若い頃のことは知らないことばかりです。

(お父様のことをご紹介したいので、と少しインタビューさせていただき、写真とお話を掲載する許可をいただいています。)

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コロサイの人々への手紙3章14節です。

これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。
愛は、すべてを完成させるきずなです。
(新共同訳)

これらすべてのことの上に愛をまといなさい。
愛は完全さをもたらすです。

(フランシスコ会訳)

ギリシャ語原文では、“シンデスモス テス テレイオテトス”
ギリシャ語の辞書によると、シンデスモスは「二つ以上のものを一つにまとめる手段」で、紐、綱、環という意味だそうです。
シンクロナイズドスイミング、シンフォニー、の「シン」(“一緒“の意味)がこれにあたります。

愛は完成のきずな
愛は完全の帯

コロサイ1章では、キリストとわたしたちの結びつき、 教会がキリストの体であること、その完成のためにわたしたちがもっと苦労する必要があることが書かれています。

神様の愛というきずなに結ばれているわたしたち一人ひとりが、自分の行いに愛があるか、いつも意識して行動する必要があるのです。

親子のきずなも共同体のきずなも、わたしたちの行動、すべての行為が愛という帯でまとめられることによって、完成(完全な状態)に導かれます。

「先ほど話した方とのやりとりは、愛をまとっていたか。」

最近、こう意識するように心がけています。

毎日の祈りと毎週のミサで、幾つもの誓いをしているわたしたちです。
日々の言動に責任を持ち、愛をまとう生き方をしたいと、さらに誓います。

 

祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。
神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。
天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。
(マタイ23・22)

 

朝晩の澄んだ空気と空の高い雲に、秋の近づいていることを感じる頃となりました。

 

人のためになること

グローバルスタンダード(international standard)という考え方について、最近思いを巡らせています。

例えばバリアフリーのような、誰にとっても利用しやすいまちづくり、というような取り組みは、世界中どこの国でも同じように進めば大変ありがたいことです。

世界にはさまざまな国があり、それぞれの価値観のもとで生活しています。

ロシアとウクライナの争いを見ても、「ウクライナの主張がグローバルスタンダード(世界標準)であり、ロシアが全て間違っているのだ」と、本当のところは言えないところがあるのかもしれません。

 

 

キリマンジャロの標高3720メートル地点にインターネットの基地局が開設され、ネットが使えるようになったというニュースがありました。
年内には、5895メートルの頂上でも使えるようになるそうです。

世界中どこに行ってもネット環境が整っている、というスタンダード。
これは、事故などの際にどこからでも連絡ができるという面では素晴らしい進歩です。
ニュースでは、「登山者がインスタグラムやツイッターに投稿できるようになる」と言った書き方がされていました。

広義で考えると、世の中の技術の進歩、世界中の至る所でなくならない紛争、人種や宗教の価値観、どの側面から見ても、人間の生活にはグローバルスタンダードというポイントを設定するのが不可能なのかもしれない、と思います。

そして同時に、そうした概念をすべてに当てはめる必要はない、とも思うのです。

 

主は言われる。わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。
彼らは来て、わたしの栄光を見る。
(イザヤ66・18)


人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。
(ルカ13・30)

 

スタートは同じはずのキリスト教の信仰も、数えきれないほどに枝分かれし、それぞれの信者が篤い信仰のもとに生活をしています。
ともすると、カトリック信者であるわたしたちは「自分たちの信仰がスタンダードであり、他は・・・」といった感情を抱きがちではないでしょうか。

 

旧約聖書に何度も書かれている、寄留者を労わるように、というくだりがとても好きです。

寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。
あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。
(出エジプト22・20)

あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。
それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。
そうすればあなたの神、主はすべてあなたがする事において、あなたを祝福されるであろう。

(申命記24・19)

自分たちだけが特別なのではなく、人のためにと考えて行動する。
これが、必要とされる、人間生活におけるグローバルスタンダードです。 

キリスト教信者であるかどうかに関係なく、聖書に書かれている膨大な教えは、(読み間違えなければ)誰にとっても有益なものである、といつも思います。

 

先日、ベトナムの2組の結婚式が執り行われました。
友人たちが聖堂内にお花を生けてくれました。

なんて美しいのでしょう。
日本人とは明らかに違ったセンスです。

友の幸せを願う気持ち。
これも、大切なグローバルスタンダートです。

 

 

わたしたちは神の住まい

コロナウィルスはまだ消えたわけではありませんが、日本の各地では今年は「3年ぶり開催」のイベントやお祭りで賑わっています。

夏の帰省を断念された方もいらっしゃるでしょう。
3年ぶりに孫に会えたという方もいらっしゃるでしょう。

それぞれの楽しみ方で、今年の残暑を過ごしていきましょう!

・・・・・・・・・・・・・・・

いったいアポロとは何者ですか。
パウロとは何者ですか。
あなた方を信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった分に応じて働いた奉仕者なのです。
わたしは植え、アポロは水をやりました。
しかし、成長させてくださったのは神です。

わたしたちは神の協力者であり、あなた方は神の畑、神の建物なのです。
(1コリント3・5~6,9)

あなた方は使徒と預言者という土台の上に、キリスト・イエスご自身を要石として築き上げられたのです。
このキリスト・イエスに結ばれることによって、建物全体は組み合わされ、主のうちにあって大きくなり、聖なる神殿となります。
キリストに結ばれることによって、あなた方も霊によってともに組み入れられ、神の住まいを築きあげることになるのです。
(エフェソ2・20~22)

主は人に捨てられましたが、神によって選ばれた尊い生きた石です。
この主に近づいて、あなた方もまた、生きた石として、霊に満たされた家に築きあげられます。
(1ペトロ2・4~5) 

 

パウロは度々、わたしたちは神の住まいである、と例えています。 

最近、この本を読みました。

 

パウロの人生、信仰を振り返りながら深く霊操する内容です。

パウロについて知れば知るほど、複雑な自信家、ちょっとめんどくさい頑固者だったのだろうなぁ、、、などと思ってしまいます。

ですが、彼を助けた重要な人々、バルナバ、アポロ、アキラとプリスキラなどの人々と決定的に違ったのは、頑固さゆえの根気強さと熱意でしょう。
希望と情熱に満ちた、大胆な言葉で多くの書簡を残しています。

だから、支援者の彼らと違い、イエス様への信頼に基づいた彼の教えが、こうして聖書として受け継がれてきたのではないかと思います。

 

パウロの遺言とも言える、使徒言行録20・18〜35でも、わたしたちが神の家であることを書き記しています。

そして今、わたしはあなた方を、神とその恵みの言葉に委ねます。
このみ言葉には、あなた方を造りあげ、全ての聖なる人々とともに受け継ぐ遺産をあなた方に与える力があるのです。

32節の「造りあげ」は、ギリシャ語で「家を建てる」に当たるそうです。
キリスト教的生活は、家を建てるのと同じく、教会と信者を次第に完成させるものだ、とフランシスコ会訳聖書の注釈にあります。

あなた方も、このように働いて、弱い人を助けなければならないこと、また、『受けるより与えるほうが幸いである』と仰せになった主イエスご自身の言葉を、心に留めておくように、わたしはいつも模範を示してきました。

35節は、自信家で熱意が溢れるパウロらしい言い方です。
『受けるより与えるほうが幸いである』とは、福音書中にイエス様の言葉として出てこない(注釈による)のですが、とても重要な教えだと思っています。

聖書の聖句の中で、いくつかわたしの人生の指針としているものがありますが、これはその一つです。

受けるより与えるほうが幸い

現実には、どうしても「こんなに与えてるのに・・・」と思ってしまうのですが、、、、、。

 

わたしたちが神様の住まいである、のならば、いつでも居心地良く過ごしていただけるように、心と身体を整えておくべきです。

ですから、あなた方は神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、思いやりの心、親切、へりくだり、優しさ、広い心を身にまといなさい。
キリストの平和にあなた方の心を支配させなさい。
感謝の人となりなさい。
キリストの言葉をあなた方のうちに豊かに宿らせなさい。
(コロサイ3・12〜15抜粋)

 

「了解です!」

 

暑い夏の盛りもあと少しです。

お身体にお気をつけになって、有意義な日々をお過ごしください。 

 


 

平和の岩

8/6は、77回目の広島の原爆の日でした。
国連の事務総長を始め、99カ国とEUの代表も参列されての平和式典の中継をテレビで観ていました。

世界各国の方々が参列してくださるのは本当に素晴らしいことですが、その国で報道され、一般市民にも伝えられたのでしょうか。

同じ日のニュースでは、パレスチナ自治区のガザ地区へのイスラエル軍による空爆について、そして台湾を囲むようにして実施された中国の軍事演習について報じられていました。

平和を願う祈りは、「神様、平和をもたらしてください」「争いのない世界を実現させてください」ではなく、「わたしたちが戦争を起こさない未来を創ります」という宣誓であるべきです。

甲子園の開会式で選手宣誓をした球児の言葉を聞いて、改めて強くそう思います。

頑張るのは神様ではないのです。
努力するべきは、わたしたちなのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

主は岩。
その業は完全で、その道はことごとく正しい。
真実の神で、偽りがなく、
正しく、まっすぐな方。
(申命記32・1)

申命記32章には、他にも「救いの岩」「自分を産んだ岩」「彼らの岩」「身を避ける岩」といった表現で、堅固で安全な保護者である神を岩に例えています。

信じれば願いが叶う
信じれば癒される

聖書には、そう書かれているように感じるかもしれませんが、決してそうではありません。

神様は岩のように揺るがない、わたしたちの拠り所です。
悔い改めて熱心に祈れば、なんでも許される、叶えられるのではなく、どのような状況にあっても神様が隣にいてくださると信じて、一人ひとりができる限り、できる以上の努力をする必要があります。

教区報に載っていた、アベイヤ司教様のお言葉です。

「いつも以上に平和を祈り、平和のために働く決意を新たにする事が大切です。
私・私たちに何ができるでしょうか。
一人ひとりが考えるべき課題です。」

 

エレミヤは言った、
アーメン。主がそのとおりにしてくださるように。

主があなたが預言した言葉を成就させ、主の神殿の器とすべての捕囚の民とをバビロンからこの場所に連れ戻してくださるように。
わたしがあなたの耳と民全体の耳に語る言葉を聞け。
わたしとあなたよりも先にいた預言者たちは、昔から、多くの地と偉大な諸王国に対して、戦い、災い、疫病を予言した。
平和を預言する預言者は、その言葉が実現してはじめて、ほんとうに主が遣わされた預言者であると認められる」。
(エレミヤ28・6~9)


こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。
土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。
それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。
触れた者は皆いやされた。
(マタイ14・35~36) 

 

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
そのとき、娘の病気はいやされた
(マタイ15・28)

「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」という名言をイエス様に言い放った女性も、願いが聞き入れられました。

当時の彼らは皆、 簡単に祈りが聞き入れられたわけではないと思うのです。

アベイヤ司教様のお言葉にある通り、「神様の望みに応える」生き方が必要なのです。

 

わたしたちの魂は主を待ち望む。
主こそはわたしたちの助け、わたしたちの盾。
わたしたちの心は主の故に喜び、
聖なる名に寄り頼む。
主よ、わたしたちはあなたを信頼してきました。
慈しみはわたしたちの上に。
(詩編33・20〜22)

わたしの口の言葉があなたの望みにかない、
わたしの心の思いがみ旨にかないますように。
わたしの岩、わたしの贖い主である主よ。
(詩編19・15)

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ミサの後の掃除を、いつもより念入りに行いました。
愛すべき、平和の風景です。

 

 

恵まれた人々

久留米教会の、わたしが1番好きな風景です。
ミサの後、あちらこちらで語り合うみなさんの様子。

コロナ前は、ミサの後にはコーヒーが振る舞われ(バザーとして)、たくさんの方々が集まって語り合っていました。
今は、こうした形ではありますが、大切な時間だと思います。

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特異な才能を持つ子どもたちの能力を伸ばすための教育の必要性が、日本でも議論され始めている、とニュースで知りました。

小学校低学年で大学レベルの教科書を理解している、とか、ある科目だけは抜きんでた理解力を持っている、など、特定分野に顕著に高い能力のある子どもを『ギフティッド』と呼ぶそうです。
そうした子どもたちのためのギフティッド教育は、生まれつき特別な才能を持つ子どもたちの能力を伸ばすための教育手法で、アメリカでは40年以上前から実践されています。

「ある教育研究所の調査によれば、小学校で学校教育についていけない『落ちこぼれ』は約15%いるといわれるが、それとほぼ同じ比率の約13%が『吹きこぼれ』、授業が簡単すぎてつまらないと感じる子どもたちが存在する」とニュースの記事に書いてありました。

 

『吹きこぼれ』という呼び方には少し抵抗を感じますが、『ギフトが与えられた子ども』giftedという表現は、心に響きます。

自分の子どもが「学校の授業がつまらない」と言ったら、「うちの子は落ちこぼれだろうか」と心配になるでしょう。
でも、「うちの子はギフティッドなのかも」と思えたら。

イエス様が好んで関わられた人々、障害のある人たちのことをイエス様は「ギフティッド」だとおっしゃいました。
ヨハネ9章の、「生まれつき目の見えない人」は「神の業がこの人に現れるためである」というように。

 

わたしが大きな病気をすることになったのは、もしかしたら生まれた時からの運命だったのかもしれない、と思っています。
そしてそこのこと自体が「ギフト」なのだ、と思ってずっと生きてきました。

わたしはお前を永遠の愛をもって愛してきた。
それ故、わたしはお前に慈しみを示し続ける。

まことに主はこう仰せになる、
見よ、わたしは彼らを北の地から連れ戻し、彼らを地の果てから集める。
彼らの中には目の見えない者、体の不自由な者、身籠った女と臨月を迎えた女もともにおり、彼らは大きな群れを成してこの地に帰る。
彼らは嘆きながら帰ってくる。
わたしは哀願する彼らを導く。
わたしは彼らを水の流れのほとり、滑らかな道を行かせる。
彼らはつまずくことはない。
(エレミヤ31・3、8〜9)

バビロン捕囚からの帰還を、大きな喜びのうちに主を讃える31章です。

神様は、社会的弱者と言われる人々をいつも心に留めてくださいます。
誰もが大切な存在であること、ギフティットであるのだということが、旧約の時代、遥か昔から言い伝えられてきているのです。

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教皇フランシスコはカナダを訪問されました。
「カトリック教会が運営していた寄宿学校で先住民の子供が虐待されていた問題をめぐり、謝罪することが目的」と報道されていました。
85歳のパパ様は、10時間のフライトを経て車いすで空港に降り立たれ、謝罪のための訪問をされたのです。

「私が話している間にも、古い記憶を呼び起こし不快になる人がいると思う。それでも、思い出さねばならない。忘却は無関心につながるからだ」と述べられ、さらなる実態調査を行う意向を示されました。

カナダでのミサでは、こうお話されました。

「わたしたちは守るべき歴史の子である。
わたしたちは孤立した存在ではない。
誰一人、世界と切り離されて生まれる人はいない。
わたしたちが生まれた時に受け取ったルーツと愛、わたしたちが育った家庭は、ただ一つしかない歴史の一部である。
それはわたしたちが受けた恵み、守るようにと召された恵みである」

カナダの先住民の子どもたちが受けた被害は、壮絶なものです。

現在でも、 白人でなければ暴行を受ける、遊園地でキャラクターに扮した大人から差別を受ける、歩いていていきなり殴られる、などといったニュースは絶えることがありません。

差別や暴力はなくならないでしょう。

宮﨑神父様がお説教で仰いました。

「自分さえ良ければ、という生き方をする者は愚か者と呼ばれる。
神の前に豊かに生きる者は、愛を実践する者だ。」

わたしたち一人ひとりが、生まれた時に神様から与えられたギフトがあるのだと自覚し、尊厳をもって生きていくことができたら。
誰もがギフティッドなのだということを理解し、互いを尊重しあって生きていくことができたら。

愛の実践、とはそういう生き方ではないでしょうか。

ギフトは必ず与えられています。 

 

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ギフティッド教育についての記事です。 

https://toyokeizai.net/articles/-/515051?utm_source=yahoo&utm_medium=http&utm_campaign=link_back&utm_content=related


https://news.yahoo.co.jp/articles/dfe53fc94f699a687dc9d25f6307483c14e9c01a

 

 

現代における平和

教皇フランシスコは、「今日の危険はウクライナの悲劇を忘れること」と先週おっしゃっていました。

争いやテロによって、一般市民が苦しい思いや悲劇的な日常を強いられているのは、何もウクライナだけではありません。
21世紀はテロとの戦いに象徴される、と誰かが言っていましたが、わたしたちにできるのはせめて「忘れないで祈ること」かもしれません。

 

2022年平和旬間(8/6~15)が近づいてきました。

菊地 功大司教のメッセージは、このように始まります。

「平和が暴力的に踏みにじられた年になりました。
いのちの尊厳がないがしろにされ、その保護が後回しにされる年になりました。」


そして、このように締めくくられています。

「平和旬間を迎え、わたしたちはさまざまな角度から平和について学び行動する時を与えられています。
「すべての戦争は全人類に影響を与え、死別や難民の悲劇、経済危機や食糧危機に至るまで、さまざまな後遺症をもたらします」。
そう述べたうえで教皇フランシスコは、復活祭メッセージを次のような呼びかけで締めくくっています。

「兄弟姉妹の皆さん、キリストの平和において勝利を収めましょう。
平和は可能です。
平和は義務です。
平和はすべての人が責任をもって第一に優先するべきものです」。

皆さん、この平和旬間に、暴力によらない平和は可能だと、連帯こそが平和を生み出すのだと、あらためて声を上げ行動しましょう。」

 

毎年8月になると、原爆投下の慰霊祭と終戦記念日のニュースが連日報道され、わたしたちに戦争と平和について考える機会が与えられます。

ですが、日本人にとっての戦争は第二次世界大戦のことだけなのか、とどうしても感じてしまうのです。

今年は特に、連日のようにウクライナの戦況について見聞きしながらこの5ヶ月ほどを過ごして来ましたので、若い世代に戦争と平和について掘り下げて伝えることができるのではないでしょうか。

「あの悲劇(第二次世界大戦で犠牲になった日本人)を繰り返してはならない。」
だけではなく、
「今もなお、世界の至るところで戦争によって苦しんでいる人々がいることを心に留め、考えてみよう。」
そう、子どもたちにより現実的に伝えることが大切でしょう。

24日のミサは、こどもとともに捧げるミサでした。

「神様、ひろい心、やさしい心、平和を強く求める心、
そしていつも神様にむかう心を与えてください。
けんかや争いのない、きょうだいの心を持つことができますように。」

 

宮﨑神父様がお説教でおっしゃいました。

「祈りは信仰の心臓とも言えるものです。
そして、祈りは自分のためにするものではありません。」 

旅行中の友達のために、真夜中に友達のところへ「友よ、パンを三つ貸してください」と頼みに行った人のように、わたしたちは、家族のため、友のため、誰かのために祈りを捧げるのです。

それしかできなくても、続けるのです。

 

「あなたがたに平和があるように」(ルカ24・36)
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20・21)

福岡教区でも、平和を祈る集いが企画されています。

 

 

 

信実を祈りのうちに

今年は久留米の夏が戻ってきた!という感じがしています。
毎週土曜日には夜市が賑わっているようですし、この提灯を見ると心が踊ります。

 

教皇フランシスコは、7/10の正午の祈りで「善きサマリア人」についてのお説教をされました。

主の道に従う弟子は、その考え方や行動の仕方が次第に師のそれと似てくることに気づく。
キリストの後を歩むことで、自分も旅人となり、このサマリア人のように、見ること、憐れむことを学ぶ。
主の道に従うことで、まず、見ることを学ぶ。
現実に目を開き、自分の考えに閉じこもって目をつぶらないことを学ぶ。
一方、祭司とレビ人は、災難にあったこの人を見ても、見ぬふりをして通り過ぎてしまった。
福音は見ることを教え、先入観や教条主義を乗り越え、正しく現実を理解するように、わたしたち一人ひとりを導く。
また、イエスに従うことは、憐れみを持つこと、他者、特に苦しむ人や助けを必要とする人を受け入れることを教える。
そして、このサマリア人のように行動することを教えてくれる。

以前、神父様から教わりました。
祭司とレビ人(彼らは下級祭司であり、神殿に仕えていた)が「見ぬふり」をしたのは、当時のユダヤ教の戒律(血や死体に触れることは穢れるとされていた)によるものであり、単純に非難できるものではない、と。

祭司とレビ人のことを非難して、「こんな風であってはならない」と思うことには疑問を感じます。

旧約の時代から、サマリア人は非難され続けていました。
いつの時代も、誰かが誰かを非難し続けています。

問題点は、「見ぬふりをして通り過ぎる人であってはならない」「助けを必要とする人のために行動すること」であり、祭司とレビ人を見下すことでも、サマリア人がユダヤ人の敵であることでもありません。

「隣人を自分自身のように愛すること」

この、旧約で最も重要な教えを伝えるお話です。

 

神に従う者の行く道は平らです。
あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。
主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み、わたしたちはあなたを待ち望みます。
あなたの御名を呼び、たたえることは、わたしたちの魂の願いです。
わたしの魂は夜あなたを捜し、わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。
あなたの裁きが地に行われるとき、世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう。
(イザヤ26・7~9)

「定められた道」とは、主がご自分の民に正しい生活を送らせるように啓示された指示を意味する、とフランシスコ会訳聖書の注釈にあります。

正しい生活、を現代のわたしたちに置き換えて考えてみるとどうでしょうか。
「神に従う者」は、フランシスコ会訳では「正しい者」となっています。

正しさの定義は、現代社会では多岐に渡り、自分の正しさを振りかざすことは他者を非難することにつながる恐れがあります。
わたしが自分の1番の問題点だと思っていることです。
ついつい、自分の尺度で人を判断してしまいます。

正しい者の正しい生活とは、神に従うこと。
自分の判断で人を裁くことは、最も不毛な行為だとわかっているのに、、、、。

①「わたしの魂は、夜、あなたを慕い求め、わたしの中の霊はあなたを慕います。」(フランシスコ会訳)

美しい表現だと思いませんか?
毎晩、この聖句を祈りの中に取り入れようと思います。


そのとき、イエスは言われた。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。

休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
(マタイ11・28~30)

重荷とは、単に貧困や病気を指していただけではなく、当時の人々が律法に縛られていたこと、ローマ帝国の圧政の意味も含んでいます。

そして、イエス様がご自分を「柔和で謙遜な者」とおっしゃった真意は、大きな力で権力者から押さえつけられている気持ちが分かる、ということです。

どのように辛い状況にあっても、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」という気持ちを忘れてはならない、そうおっしゃっているのです。

 

妹家族が滞在している間、遊んでばかりいて、世の中にあまり目を向けていなかった間にも、世界や身近なところでいろいろな大変なことが起きていました。

コロナウィルス感染の波が、再び世界を覆っています。
サル痘というウィルスが、ヨーロッパを中心に広がり始めているようです。

スリランカは国家として「破産」しました。
食料や衣料品、燃料といった生活に欠かせないものが手に入らず、警備にあたる軍や警察と一般の人々による衝突が絶えず起きているようです。
紅茶が手に入りにくくなるかも!?というニュースもありました。

世界の至るところで、心を騒がせるような、不安な出来事が起こり続けています。
このような時だからこそ、わたしが大切にしたい信実を、落ち着いて祈ることのうちに見出したいと思います。

 

主日のミサで、ハッとさせられた答唱詩編の一節。

②ことばで人を傷つけず
悪を行わず、隣人をはずかしめない。
神を捨てた者を戒め、神をおそれる者をとうとぶ。
このようにふるまう人は、とこしえにゆらぐことがない。

人を傷つけず
はずかしめず
ゆらがないこと。

宮﨑神父様のお説教で、ハッとさせられたこと。

③「イエス様のみことばにしっかりと根付いた行動、日常を心がけること。」

今週の祈りの際の格言が3つできました。

 

遣わされたもの

私事ですが、今、3年ぶりに妹と姪がNYから帰省しています。

コロナで分断された世界中の家族が、こうして久しぶりの再会と団欒を楽しんでいるのでしょうか。

わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
(イザヤ6・8)

いつも考えています。
わたしは何のために今、この場に遣わされているのか、と。

こうして家族と過ごしていて、確信するのです。

家族の平安と愛、彼女たちの幸せのために。

そして、自らが幸せであることで、周囲に平安をもたらす存在となれるように、と。

 

そのとき、イエスは使徒たちに言われた。
「わたしはあなたがたを遣わす。
それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。

だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい
(マタイ10・16〜) 

 

わたしたちは、キリスト者として存在している意味を、常に自問する必要があります。

政治信条に関わらず、殺された元首相のために祈りを捧げることは、決して間違ったことではありません。

わたしたちが遣わされている意義を、今、このような時に素直に周囲に示すことができるのではないでしょうか。

平時には一見敵対しているかに思える諸外国も、今はわたしたちに寄り添って、弔意を示してくださっています。

そうしたニュースを見聞きすると、感謝と感動で涙が溢れます。

 

弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。
(イザヤ35・3)

今、わたしたちは 自らに自信を持ち、遣わされたものとしての役割をどのように果たすかについて思いを巡らせる機会でもあるのではないか、とこの数日考えています。


傷ついたものを介抱し、弱いものを力づける。
(エゼキエル34・16)

この聖句は、森山司教様が選ばれたものだと先週ご紹介しました。

自分の存在と言動が、周囲の力となれるとしたらどうでしょうか。

もしも、わたしが誰かを励ますことができ、悲しんでいる人を慰めて力づけることができるとしたら。

何のために洗礼を授かっているのか。
誰かのためなのか。
自分自身だけのためなのか。
もしくは、その意味を見出すように仕向けられているのではないか。

こうした思いを巡らせることは、いつもわたしたち自身のためになるはずだと思いませんか?

 

わたしはこの一週間を、安倍元総理の安息のために捧げたいと思います。

 

 

 

森山司教様 誕生

2022年7月3日、森山司教様が叙階されました。

2014~2017年まで、主任司祭として久留米教会に来てくださいました。
司教様にとって、最後に赴任された小教区です。

信徒一同、心からお祝い申し上げます。

今日は、少しだけセンチメンタルに、思い出に浸っています。

 

森山神父様(そう呼ばせてください)らしい聖句を選ばれたと感じました!!

 

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毎年、女性の会で楽しく新年会をしていました。
その時に、1月生まれの神父様のお誕生日会も!

 

 

毎週、聖書の勉強会をしていただき、「聖書100週間」で学んだメンバーは、2019年にイスラエル巡礼に連れて行ってもらいました。

 

 

洗礼を授けてもらった信徒も大勢です。

 

 

コロナもなかった時代ですので、ご復活のミサのあとは、こうして賑やかに懇談していたのですね。

 

 

ゴールデンウィークにはバーベキューをし、6月には熊本地震の被災地で田植えを!

 

 

 

久留米のフィリピン人コミュニティが、タグレ枢機卿をお招きしました。

枢機卿と一緒に、まるでジャニーズのアイドルのようにもみくちゃにされている様子です。

 

 

 

子どもが大好きで、子どもたちも神父様が大好きでした。

 

「隣の県にいますよ。東京より近いですよ。」 
そうおっしゃっていましたが、やはり、隣の県の司教様は遠くに感じてしまいます。

司教様のご健康とご活躍、神様のお導きを心よりお祈り申し上げます。

 

熱い信仰

梅雨明けであって欲しい、そんな空です。
ジメジメとしているよりも、カラッと暑い季節が好きです。

以前、宮﨑神父様が「あなたの信仰がなまぬるいものでないか、自問してみてください」とお説教でおっしゃったのが、ずっと心に残っていました。

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信仰とは火を消してしまう水ではありません。
燃え上がる炎なのです。
ストレスにさらされている人のための鎮静剤でもありません。
信仰は、神を求めて恋をしている人のラブ・ストーリーなのです!
ですから、イエスは何よりも「なまぬるいこと」を嫌われるのです。
Faith is not water that extinguishes flames, it is fire that burns; it is not a tranquilizer for people under stress, it is a love story for people in love! That is why Jesus above all else detests lukewarmness (cf. Rev 3:16).
(教皇フランシスコ Twitterより)

 

最近は、この本と並行してヨハネの黙示録を読んでいます。

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黙示録は、旧約聖書の内容をベースに、独特の言い回しでさまざまなシンボルに例えて書いてあります。
わたしたち現代人にはそのシンボルを理解するのが難しく、とても難解で分かりにくい聖書の代表のように捉えてしまいます。

福音書の著者ヨハネではなく、ヨハネと言う名前の1世紀末の人物によって書かれたものだそうです。

自らを預言者であるとし、黙示録は典礼祭儀のなかで会衆に向けて朗読するための書である、と書いています。

この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。
時が迫っているからである。
(1・3)

会衆に向けられた書、ということで、わたしたちはもう少し気楽に読んでも良いのかもしれません。

 

『今おられ、かつておられ、やがて来られる方』という、黙示録独特の神様の呼び名が、1章に2回出てきます。(1・4&8)

これは、出エジプト記にある「わたしはある、わたしはあるという者だ」を分かり易くいいかえたものだ、と今道さんは書いておられます。

エジプトからの脱出、約束の地に導き、バビロン捕囚を通して民に自尊心を与え、主に忠実な民に立ち返らせてくださった神。
かつてこれほどのことをしてくださり、今わたしたちを支えてくださる神は、世界にキリスト教が広まることを通して深い意味でともにいてくださる方であり、終末にはキリストの再臨をもたらしてくださる神。
それが、『今おられ、かつておられ、やがて来られる方』なのです。

 

アーメンである方、忠実で信実な証人、神の創造の初めである方が、こう仰せになる、
わたしはお前の行いを知っている。
お前は冷たくもなく熱くもない。
むしろ、熱いか冷たいか、いずれかであればよいものを。
だが、このように、お前は熱くもなく冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはお前を口から吐き出そうとしている。
(3・14~16)

『アーメンである方』という言い方も、黙示録特有のものです。
新約の中で、アーメンがキリストの属性として使われている唯一の例だそうです。

今道さんによると、わたしたちへの神の約束に対する忠実と、神の呼びかけに対する人間のポジティブな応えとしての「アーメン、はい」の両方を、一身に具現しているキリストを表すのが「アーメンである方」、ということです。

「むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」という表現、面白いと思います。
まるで恋人同士の会話のような、真摯な愛を求めるイエス様のみ心でしょう。

冒頭に紹介したパパ様のツイッターにある通り、信仰は、神を求めて恋をしている人のラブ・ストーリーなのです。

 

見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。
もし、誰かがわたしの声を聞いて戸を開くなら、わたしはその人の所に入って、食事をともにし、その人もまたわたしとともに食事をする。
(3・20)

神様は、わたしたちが熱い気持ちで信仰を求める気持ちを期待されている、そういう感じが伝わってきます。

まだ3章までしか読み進めることができていませんが、今道さんの解説を同時に読みながら聖書をめくると、ヨハネの意図していたことが薄っすらと理解できるような気がしてきます。

 

忘れないこと

「顔のないヒトラーたち」という映画を観ました。

1958年のフランクフルト。
市民の間では戦争の記憶が薄れ、若い世代はアウシュビッツのことを聞かれても「知らない」と言います。
元ナチスだったことを隠して普通に市民生活を送っている元親衛隊員たちを探し出し、裁判にかけ罪を償わせるために実際に行われたアウシュビッツ裁判のお話です。
ドイツ人がドイツを裁き、ドイツの歴史認識を変えたと言われる裁判までの苦悩が描かれています。

 

 

教皇フランシスコは、6/12の正午の祈りでウクライナの平和について改めて呼びかけられました。

「月日と共に、深く傷つけられたこれらの人々へのわたしたちの悲しみと心配が冷めることがないように。
この悲劇的な現実に慣れてしまうことなく、それをいつも心に留めよう。
平和のために祈り、努力しよう。」

わたしたちは、どんなに悲惨な現実が起こったとしても、自分が関わっていない・直接被害を受けていないことは忘れてしまうことも多いのです。

 

戦争で疲弊したウクライナ の人々のことを忘れないでいましょう。
戦争がどこか遠くの出来事であるかのような生活に慣れてしまわないようにしましょう。
とても苦しんでいる人、真の苦難を生きる人たちのためにともに祈りましょう 。
(教皇フランシスコTwitter)

忘れないこと。

 

『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
それはみな、異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
(マタイ6・30~34)

Do not worry about tomorrow; tomorrow will take care of itself.
Sufficient‎ for a day is its own evil.

有名な箇所ですが、わたしは最後の一文が特に好きです。

『今日の苦労』

日々の些細な事に気をもみ、仕事、家庭の問題に頭と心を痛める。
そうしたことは、大なり小なり誰もに降りかかる難です。
明日のことまで思い悩むな、というよりも、

☆今日を精一杯苦労して生きること。
☆今日の問題を明日に持ち越さないこと。


それが大事なのだよ、という教えだとわたしは理解しています。

時には、今日起きた嫌なことを忘れることも大事だと思っています。

苦しい思いをしている人のことを忘れないこと。
日々の苦労は寝る前にリセットして忘れること。

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宮﨑神父様がお説教で、「お手紙をいただきました」というお話をされたので、思い出したことがあります。

お説教の内容は、初聖体を受けるお子さんのことを嬉しく報告されたという信者さんのお話でした。
先日、いろいろなものを整理していた時に、わたしが信仰を得た20歳のとき、病院から母に宛てて出した手紙を見つけたのです。
そこには、こう書いていました。

「今、よかったと思っていることがあるの。
それは、誰が見てもすごいオペをしたわたしが、以前と少しも変わらず明るく、病院のみんなと仲良く過ごせているってこと。
気分的にも全然滅入ってないし、いろんな先生や看護婦さんとすごく仲良くしてて、病室のみんなともワイワイ明るくしてるよ。
歩けるようになる希望で、胸も頭もいっぱいで、こういう性格で本当に救われたよ。
これは、お恵みだよ。」

あの時の、確かに神様がわたしと家族に大きなお恵みを下さった信仰の始まりの時期のことは、絶対に忘れません。

 

教皇フランシスコが車いすに乗る姿を見ると、とても心配で悲しくなります。
膝の調子が悪く、治療中だとのことです。
わたしもあの時は、車椅子でした。

パパ様のためにも、忘れずにお祈りしています。

  

わたしたちを満たすもの

「今日の聖書朗読」を読むのが習慣だという方、多いかと思います。

好きな箇所、特に旧約のお気に入りの箇所が出てくると嬉しくなり、満たされた1日を送ることができます。

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見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。
主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。
しかし、風の中に主はおられなかった。
風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
(列王記上19・11~12)

19章では、エリヤが長距離の逃避行をします。
神のことばに従って、その通りに生きてきたと自負していたエリヤは、報われないと思っていました。
そして、アハブに命を狙われ、神の山ホレブへと逃げて洞窟に引きこもります。

神が激しい風を吹かせ、地震、火を起こしても、エリヤはそこから出てきません。
「静かにささやく声」(フランシスコ会訳では「かすかにささやく声』)で、神様の現存をようやく感じ、出てくるのです。

強制的にではなく、エリヤの自由意思に任せようという神様の優しさ、エリヤへの信頼なのだ、と教わりました。

英神父様は「神はささやく声で語りかける。静けさがないと聞こえない。心の静けさを大切にして、神のささやく声を聞こう。」とおっしゃっています。

 

体は一つ、霊は一つです。
それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。

主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、
すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
(エフェソ4・4~6)

体、霊、希望、主、信仰、洗礼、神
この7つはそれぞれ一つであり、同時に7つの共同体でもあります。

父と子と聖霊が、それぞれ独立したものではないのと同様です。

宮﨑神父様がお説教で、こうお話しされました。 

「三位一体について説明するのはとても難しい。わたし自身も完全に理解しているとは言えない。
でも、大切なのは、理解することではなく信じること。」


ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。
そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
(マタイ5・15~16)

この箇所は、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10・8)と同様に、わたしがとても大切に心に刻んでいる教えです。
自分のいただいている光が輝くような生き方をしたい、いつもそう思っています。


わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達(試練に磨かれた徳)を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。
わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(神の愛がわたしたちの心の中で溢れ出ているからです。)
(ローマ5・3~5)()はフランシスコ会訳

聖書はいつも、わたしの心を満たし、生活に潤いを与えてくれます。
それが、穏やかな日常、ストレスに負けない精神の基になっていると思っています。

アウグスティヌスの「告白」の一説です。

私たちはあなたから遠ざかったり近づいたりいたします。
しかし、けっして場所ではありません。
すべての人は、自分の聞きたいことをあなたにたずねます。
しかしかならずしも、聞きたい答えを、いただくとはかぎりません。
自分の聞きたいことをあなたから聞こうとするよりもむしろ、あなたから聞くことをそのままにうけとりたいと心がける人こそは、最良のあなたのしもべなのです。
(第10巻 第26章)

人生における苦しい局面も、聞きたくないような耳の痛い言葉も、避けて通ることばかりはできません。
苦難が希望へ繋がるという教えは、生きて行く上でとても大切なものです。

 

最後は、今週の読書で1番心に残った文章をご紹介します。

栄光は神である御父に、また万物の王である御子に。
栄光は最高の讃美をささげるべき至聖なるお方である聖霊に。
三位一体の唯一の神は、万物を創造し、天には天に住むものを、地には地に住むものを満たされた。
神は、海と川と泉を水に住むもので満たされ、ご自分の霊であらゆるものにいのちを与え、あらゆる被造物が、智慧あるその創造主を、つまり生き続け、いつまでも永らえる唯一の原因であるお方を讃美するようにされた。
理性を備える被造物(天使および人間)は、しかし、特に、常に神を大いなる王、善き父として讃美せよ
(ナジアンゾスの聖グレゴリオス)阿部 仲麻呂神父様 訳

 

聖霊の助け

読売新聞5/29朝刊に、若松英輔さんの寄稿文が掲載されていました。
1ページ全面の文章で、とても読み応えのある、「利他の精神」についての深いお話でした。

「利他は、他者のために行動するということだけでなく、自分も他の人がいなければ存在し得ないという現実を、深く自覚するところに原点がある」

「日本では自らを無宗教者と考える人が少なくない。
それでも、誰かのために『思わず祈った』ことがない人は、かえって少ないのではないか。」

コロナ禍以降、この「利他の精神」が再度見直されたように思います。

わたし自身は、他者とのつながりを強く意識するようになりましたし、無暗に不安を煽るような報道が多くなったことで、一人でいることの弱さを思い知らされた日々を経験しました。

 

アポロがコリントにいたときのことである。
パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。
パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。
そこで、パウロは言った。
「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」
人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。
パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。
この人たちは、皆で十二人ほどであった。

パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。
(使徒言行録19・1~8)

 

うまく書き表せないのですが、「神様に祈った結果、聖霊が助けてくれた」と感じた経験が何度もあります。

「神様お願いします」と祈り続け、聖霊がとりなしてくれたのを実感して「ありがとう!!」と心の中で叫ぶのです。

『時として聖霊は、目に見えるかたちをとって、使徒的活動に先立ち、また種々の方法によってその活動に絶えず伴い、それを導く』
(宣教教令より)

若松さんのツイッターにあった言葉が、まさにこれ。

「人の一生は、自分の力で生きるというよりも何かのちからによって生かされている。」

神様に支えられて、聖霊の助けによって生かされている、そういつも感じています。

聖霊、ギリシャ語でpneuma(プネウマ)のギリシャ哲学における意味は、『人間の生命の原理・一切の存在の原理』というものだそうです。

プネウマがあるから生きていける、プネウマがなければわたしたちは存在し得ない、といったところでしょうか。

 

「平和とは聖霊の息吹きが心の奥底に染み渡る状態のこと」、と教皇フランシスコはおっしゃっています。

「自力で平和をつくり出そうとして焦るのではなく、むしろイエスの支えと聖霊の息吹きによって自分の心を根本的に新しくしていただくことが、人間にはぜひとも必要なのです。」

「わたしたちの旅の日々は、神が一緒にいてくださること(臨在)によって支えられており、聖霊がわたしたちの心に吹き込む恵みの強さによってわたしたちの歩みは導かれ、一人ひとりの心が形づくられ、愛することができるように、神からはからっていただけるのです。」
(教皇フランシスコとマルコ・ポッツァ師との対話「CREDO」より) 

 

若松さんのお話でとても印象深いのは、次のような内容の下りでした。

「日頃意識していなかった他者とつながりのなかに自己を見つめなおしつつ、一日のある瞬間など、どんなに短い間でも利他的になれればいい

利他的な人生を目指すのは難しいけれど、日常的に「一日のある瞬間」そう意識して生きていければ、自分にとっても他者にとっても大きな救いになるのだ、とおっしゃっています。

 

昨夜読んだ箇所に、教皇フランシスコがこうおっしゃっていました。

世間的に見れば弱く無防備で、家族と遠く離れて独りで寂しく暮らしているように、自ら勘違いしている人たちが、実は必要なときに支えてくれる兄弟姉妹の存在をすでに得ているような。
それが「いつくしみのひととき」です。
誰かによって支えていただけるほどに自分の存在に価値があることを実感するような「いつくしみのひととき」が、神によるはからいです。
(「CREDO」より)

利他の精神とは、まさに聖霊の働きによる「いつくしみのひととき」のことだと思います。
その意味を深く感じ、心がほぐれたような読書の夜でした。

 

今年も、森山司教様お手植えの白い紫陽花が美しい季節です。

 

自分の主張

先週から、宮﨑神父様が新しいミサ式次第の解説と練習をしてくださっています。

まだ全てを理解したわけではありませんが、とても心を動かされた変更箇所があります。

主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、
あなたをおいて、だれのところに行きましょう。

これが、↓

主よ、わたしはあなたをお迎えするのにふさわしい者ではありません。
おことばをいただくだけで救われます。

これは、マタイ8章の百人隊長のことばに基づいた文で、規範版ではこちらの式文が用いられてきたようです。

すると、百人隊長は答えた。
主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。
ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます。
(マタイ8・8)

ただし、これまでのとおりに唱えてもよい、となっています。

控えめな態度、言葉が美しい箇所です。

・・・・・・・・・・・・・・・

安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。
そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。
ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。
そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。
(使徒言行録16・11~15)

この積極的な態度、面白いですね。
旧約、新約、どちらの聖書も、自分の主張をハッキリとさせるタイプの女性が多く登場します。

21世紀の現代とは違い、女性の社会的地位はとても低かったはずです。
自分の意見や意志をしっかりと持っていた女性が多くいたことよりも、そうした彼女たちの様子が聖書にイキイキと物語られていることに関心があります。

 

マルタとマリア姉妹のエピソードがあります。

イエス様が弟子たちとともに姉妹の家を訪問した際、食事を用意して給仕してせわしなく立ち働くマルタと、弟子たちに交じってイエス様の教えに耳を傾けるマリア。
そのことをイエス様に率直な言い方で「手伝うように、妹になんとか言ってください!」と迫るマルタ。
(ルカ10・39~42)

『マルタとマリアの家のキリスト』フェルメール作

『マルタとマリアの家のキリスト』ベラスケス作

 

兄のラザロが病気になったとき、人を遣わしてイエス様を呼びます。
イエス様が来られた時、マルタは迎えに行きますが、マリアは家の中に座っています。
二人とも、同じ気持ちだったのでしょう。
「ここにいてくれたら、もっと早く来てくれたら、兄は死なずに済んだのに、、、」
マルタはそれを直接ことばにして伝えますが、マリアは沈黙のうちに抗議したのかもしれません。

 

有名な絵画にも、意図的に「口うるさい姉」と「観想的な妹」として表現されているとおり(ベラスケスの絵は明らかにふてくされた顔の姉)、古代から西洋世界ではマリアの方が優れた人間性の持ち主だという解釈がなされていたようです。

じつはわたしも、「長女は家のために働いて、だいたい口うるさいものよ。わたしみたいに、、、。妹は気楽でいいよね~。」と思っていました。

 

福音宣教6月号の本多峰子さんの連載に、こう書いてあります。

「マルタはイエスを敬愛し、イエスを精いっぱいもてなそうとしていますが、同時にイエスには、全く隔てのない近さで接しています。
これはマルタが、すべての思いを包み隠さず、イエスに完全に心を開いていることの表れです。」

「ほとんどイエスをとがめるような言い方をしています。
でも同時に、イエスに行動を求め、ラザロの救いをあきらめようとはしません。

これは、マルタの信仰の強さです。
マルタはとことんイエスに食い下がります。
イエスが神に願うことは何でもかなえられると信じるマルタは、同時に、自分が心からイエスに願うことをイエスはかなえてくれると信じているのです。」

気が強く、男性にも負けずに食い下がる女性。
昔も今も、こういう女性はめんどくさいと思われるかもしれません。

 

「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。
まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。
この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。

(使徒言行録16・22~34)

真夜中なのに、洗礼を授けてもらい、家に連れて帰って食事まで。
やや強引とも思える行動です。

信仰を持つ、ということは、ときには「強引に」自分を主張してもよいのだ、とも思えます。
めんどくさいくらいに自分の主張を神様にぶつけることも、時には必要でしょう。

リディアのように積極的で、マルタのように意志が強く、妹のマリアのように秘めた強さを持ち、

「はいはい、わかりました」

そう神様に言われるくらいまで、強い信仰を貫いて生きて行ってもいいのです。 

 

 

神様に留まる

お薦めの海外ドラマがあります。

医療もののアメリカの作品で、毎回、様々な病気(それもかなり難病)の患者が、研修外科医とそのチームによって治療を受け完治したり時には亡くなったり、という内容です。
主人公は「チャーリーとチョコレート工場」のチャーリー君。(もう30歳!)
自閉症でサヴァン症候群(アスペルガーのなかでも特に、ある分野の能力だけが際立っている症状)という設定です。

主人公が自閉症であることを受け入れながら人間的に成長していく様子、周囲の人々があるがままの彼を受け入れていく様子が感動的なドラマです。

 

わたしはあなたがたを友と呼ぶ。
(ヨハネ15・15) 

ドラマの中で度々出てくるキーワードが、「友だち」です。

自閉症のため、人の気持ちを慮ることが難しい主人公は、友だちをなかなか作ることができません。
ですが、周囲は彼を友だちとして受け入れていくのです。

たとえ自分が孤独だと感じても、イエス様は「友」としてわたしたちのことを受け入れてくださっている。

ヨハネの福音書には、「わたしを受け入れなさい」というイエス様のことばがたびたび出てきます。 

よくよくあなた方に言っておく。
わたしが遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れるのであり、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。
(ヨハネ13・20)

わたしを見た者は、父を見たのである。
(ヨハネ14・8)

当時のファイサイ派の人々や神殿祭司たちは、イエス様のことを受け入れることがどうしてもできませんでした。
多くのユダヤ人も、全面的に受け入れていたわけではないと思います。

「神を信じなさい、そして、わたしをも信じなさい」

この世は仮の住まいであり、死後の心配はしなくていいのだ、と言われても、恐らくピンと来なかったのでしょう。

■自分のことを受け入れる

■人のことを受け入れる

これは、現代人が最も難しいと感じていることではないでしょうか。

わたしも時々、どうしても自分を好きになれない、人の言動を受け入れられないことがあります。
すぐに自分の不甲斐なさに失望し、人の小さなミスを許せないと感じてしまいます。

 

わたしのうちに留まっていなさい。
そうすれば、
わたしもあなた方のうちに留まる。
(ヨハネ15・4)

あなたが方がわたしのうちに留まっており、
わたしの言葉が、
あなた方のうちに留まっているなら、
望むものを何でも願いなさい。
そうすれば、かなえられる。
(ヨハネ15・7)

わたしの愛のうちに留まさい。
(ヨハネ15・9)

自分のことも人のことも受け入れられないのに、神様に願いごとばかりしていることを痛感させられます。

神様のうちに留まる、神様の愛に留まる。
イエス様と一致している(信仰を持っている)ならば、自分と人のことを受け入れたいという祈りも聞き入れられるのだ、と思えます。

 

イエスさま、どうかわたしのことを覚えていてください。
わたしは善い人になりたいのです。
善い人にはなりたいのですが、自分には力がないので、できそうにありません。
わたしは罪びとなのです。
しかし、わたしのことを覚えておいてください。
イエスさま!
あなたはわたしのことを思い出すことができます。
あなたは、あらゆるものの中心におり、まさにあなたの王国にいるからです。
主よ、どうかわたしを覚えていてください。
あなたの王国では、あなたが全てを決定できるのです。
(教皇フランシスコとマルコ・ポッツァ師との対話「CREDO」より)

 

いつのまにか、美しく咲いていました。

 

 

 

「ありがとう」

15日は、ローマへ出発される前日にもかかわらず、船津神父様が久留米の信徒たちに旅立ちのご挨拶も兼ねてミサに来てくださいました。

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弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。
(使徒14・23)

長老とは今の司祭のことです。
アベイヤ司教様から、わたしも神様に任されたのだと思っています。
「神様、船津のことをあなたに任せます」、と。
司教様から、「学びに行くことは奉仕することです」というお言葉をいただきました。
マザーテレサの詩にこうあります。
「信仰の果実は愛
  愛の果実は奉仕」

そう、船津神父様がお話くださいました。

 

「おめでとうございます」

「お身体に気をつけて頑張ってください」

わたしたち信徒は、心からそう思って簡単に口にしてきましたが、船津神父様のお気持ちを深く考えてみると、気安く「頑張って」とお声をかけるのは少し違うような気がしています。

「知り合いの神父様から『ありがとう』と声をかけてもらいました。」

そうおっしゃっていました。

「ありがとう」

確かに、1番相応しい言葉だと思います。

わたしたちのために勉強しに行ってくれてありがとう
大変な任務を引き受けてくれてありがとう

そういう意味なのだと思います。

 

普段は「ありがとう」と言ってもらえると、気恥ずかしいような、嬉しい気持ちになります。

船津神父様のお話を聴いて、その言葉の持つ意味がより深いものであることを感じながらお御堂を出たところで、一人の方に声をかけられました。

「いつもありがとう」

わたしが「?」という顔をしていると、その方はこうおっしゃいました。

「今日もずっと写真を撮ってくれていたのを見ていました。
ホームページに載せるためでしょ?
いつも記事を書いてくれて、ありがとう。
教会のために働いてくれて、ありがとう。」

 

 

この日のミサも、7人の子どもたちが侍者を勤めてくれました。

船津神父様も、「これまで、こんなに大勢の侍者が奉仕してくれたミサは、与ったことも司式したこともありません。
久留米教会は本当に恵まれています。」と。

聖体拝領のお手伝いをしてくれたのは、神父様の甥の壱騎くんです。

 

 

いつくしみ深い父よ、わたしたちは新たないのちに満たされ、今、派遣されていきます。
御父への道であるキリストを、喜びをもって伝えていくことができますように。

 

母の日に、お母様に感謝を伝えましたか?
お子さんから「いつもありがとう」の気持ちが届きましたか?

わたしは、母の祭壇の大掃除をしました。

イエスの十字架の傍らには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアがたたずんでいた。
イエスは、母とそのそばに立っている愛する弟子とを見て、母に仰せになった、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」。
それから弟子に仰せになった、「見なさい、あなたの母です」。
その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

(ヨハネ19・25〜27)

 

The descent from the Cross ジェームズ・ティソ

もし、福音書がヨハネだけだったら、わたしたちはイエス様の母親の名前がマリアだとは知らないのです。

ヨハネは「彼の母」「婦人」と記しています。

 

西暦30年4月7日午後。
イエスは腰布以外の何ものをも持っていなかったのだ。
「彼の者達・弟子群」は母を助けて十字架の下に立った若者をのぞき、みな逃げ去っていたから、彼イエスは弟子たちからも友からさえも「棄てられた」者となっていた。 

だから、最後の最愛の「わがもの」はイエスにとって、足もとに立ちつくす母だけ。
その母を、原始の創造期と同じ「女」の語で呼び、「おまえの子」として万人にあたえた!
われわれに最後のときに与えられたのは「母」だった。
われらの女性(ノートルダム)。アヴェ・マリア。
刃を万人のため心に受けた母。
悲哀の限りを体験して知っている母・マリア。

(聖書を旅する4 女性と聖書 犬養道子 著)

 

「母」でいつも頭に浮かぶのは、アウグスティヌスの母モニカです。

ある日私が不在のとき、母は私の友人のある者たちと、この世のむなしさ、死の善きことなどについて母親らしい確信をもって語りあい、彼らがこの女性の勇気ーーあなたがそれを与えたーーに驚いて、故国からそんなに遠く離れたところに身体をのこすのはこわくないかとたずねると、「神さまからは遠くありません。世の終わりに神さまが、どこからよみがえらせたらよいかご存じないとこまるなどと心配する必要はありませんよ」と答えたそうです。
(告白第9巻 11章) 

母親という存在は、心強いものです。

昨日、妹と話していたら、「毎日ママと話してる」と言っていました。
わたしは、毎日母に話しかけていますが、言葉が返ってきたという感覚はあまりありませんでしたので、妹を羨ましく感じていました。
ですが、ミサで「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」(ヨハネ10・27)という箇所を耳にしたとき、わたしは神様と母の声を聞き分けて生きるように努めることができているかもしれない、と思えたのです。 

 

マグニフィカトに、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」という一文があります。
聖書学者の本多峰子さんによると、この「幸いな」と言う言葉は、「神がどのような方であるかを身をもって味わい知っている」と言うような意味なのだそうです。
イエス様が貧しい人、今飢えている人、今泣いている人を「幸い」とおっしゃったのもこの意味なのです。

控えめで優しくて、柔和な思慮深い方、であるだけではなく、力強い母の一面を垣間見ることができます。

 

ウクライナから各国へ避難している人々の映像を見ていて、いつも思います。

男性は国を守るため残る、として、その姿は避難民の中にはほとんど見られません。
幼い子どもを抱き、手をひいた母親たち。
高齢の母親を気遣う女性の姿。

聖書のストーリーが描かれた名画には、ヘロデ王による幼児虐殺をモチーフにしたものが数多くありますが、どの絵も、泣き叫ぶ母親や兵士たちに立ち向かう母親の姿が描かれています。
母子を守るために立ちはだかる父親の姿はありません。

重なって見えるのです。

いつの世も、子どもを守るために素手で立ち向かうのは母親なのだ、と思うのです。

  

ペルゴレージのSTABAT MATER、アンナ・ネトレプコの美しい歌声で聴いてみてください。

https://youtu.be/gL1fi_2ya7g

 

連休後半は、「母」について想い、スタバート・マーテルを聴きながらいろいろな本を読んで過ごしました。

 

気にかけてくれる人

穏やかな天候が続くGWですが、皆様はどうお過ごしですか?

わたしは、信者の先輩おばさま方のお宅に必ずある「祈りの空間」に憧れて、祈りのコーナーを作りました。

母が大切にしていたマリア像、わたしが小学生の頃に母がプレゼントしてくれたマリア像、わたしの洗礼式の時の蝋燭などで、神様と母に「わたしの罪をお赦しください」と祈る空間にしました。

福音書に罪人と呼ばれる人たちは何人も登場しますが、実際に具体的な罪を犯したことが書かれているのは弟子たちのイエス様に対する裏切りだけだ、と福音宣教5月号の本多峰子さんの連載に書いてありました。

わたしの感じている罪は、とっくに神様も母も赦してくれていると思いますが、毎日ここで祈る習慣を大切に続けようと思っています。

 

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。
神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
身を慎んで目を覚ましていなさい。
(1ペトロ5・7〜8)

あなたの重荷を主にゆだねよ。
主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。
(詩編55・23)

いと高き主こそ、あなたのために計らう方、あなたを支える恩人
(ウガリト文献訳)

 

いつもこの聖句を心に留めています。

神様がわたしたちのことを心にかけてくださっていることを忘れないように。

 

弟子たちは漁に出ますが、「その夜はなにもとれなかった」(ヨハネ21・3)とあります。 

さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。
その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。
それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。
弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。
主であることを知っていたからである。
イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。
魚も同じようにされた。
(ヨハネ21・9~13)

153匹もの大きな魚がいっぱい取れます。
当時、ガリラヤ湖の魚は153種類いると考えられていたそうですので、これは、全ての人々の救いを象徴しているのです。

仕事を終えて疲れて帰ってきたら、部屋が暖まっていて食事の用意もできており、
「さぁ、食べましょう」と言ってくれる人がいる。

そんなシーンを思い浮かべます。

イエス様が弟子たちを、それも、決して出来の良い弟子たちではなかったのに、捉えられた時には裏切られ、十字架につけられた時は誰もそばにいてくれなかったのに、それでも彼らを気にかけてくださっている様子。

5つのパンと2匹の魚で5000人が満腹になった喩えがあります。

マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ、全ての福音書にこの喩えは書かれていますが、誰も「パンが増えた」とは書いていません。
(タイトルは4つとも「パンを増やす」となっていますが、文中にはどこにも書かれていません。)

雨宮神父様は、福音記者たちはパンの増加に主眼を置いていなかったから、とおっしゃっています。
5つのパンと2匹の魚を食べて満腹になった5000人の男たちは羊に喩えられ、その羊が青草の上に伏して、牧者に養われる、そういうイメージが表現されているのだ、と言うことです。
つまりこの例えで、イエス様は「導き養う神」であることが示されているのに、そのことを弟子たちは当時はまだ全く悟っていなかったのです。

ガリラヤ湖での漁の逸話は、弟子たちが自らの復活体験をした後の出来事でしたので、「誰も、あなたはどなたですか?」と問う必要はありませんでした。

イエス様がいつも自分たちのことを思ってそばにいてくださり、気にかけてくださっていることを、もう彼らははっきりとわかっていたのです。

 

久留米教会のことをいつも気にかけてくださっている東京教区の古市匡史神父様が、初ミサを捧げてくださいました。

 

 

古市神父様は3年前に久留米教会で司牧実習をなさっていたおり、日曜学校のこどもたちの教育にも熱心に携わってくださっていましたので、ミサの後も多くの信者たちに囲まれて大人気でした!
絵もお得意で、素敵なカードをプレゼントしてくださいました。
(左が叙階記念のカード、右は神学生時代に描かれたものです。)

ロザリオの月、マリア様にとりなしの祈りを捧げ、神様がわたしたちのことを心にかけてくださっていることを日々感じて過ごしましょう。

 

 

復活したあとの歩み

先週、アベイヤ司教様が配ってくださった、福岡教区の宣教司牧方針の冊子を読みました。

正直に書きますが、昨年末にアンケート方式で意見を求められた時は、「こんなたくさんの項目を信徒全員に意見を聞いてまとめるなんて、、、。司教様はどのような結果を期待されているのだろうか。」と疑心暗鬼だったのです。

 

「とにかく、この21ページ目が大事なのです!」 と司教様がおっしゃっていました。

この9項目は、どれも大切なことです。

例えば、
1(1)(2)
多くの人に福音、教会のことを知っていただけるように、このホームページやフェイスブックでの発信に取り組んでいます。
2(2)
組織の見直し、コミュニケーションの強化のため、宮﨑神父様がわたしたちひとりひとりのことを良く見て考えてくださっています。
3(3)
久留米教会では、毎月第4日曜日に教会委員会を開催していますが、フィリピンコミュニティとベトナムコミュニティの代表者も参加し、活動報告や神父様への要望・提案事項を積極的に発言してくれます。

3(1)青年たちの活動を支援、3(2)青少年の召命のための取り組みは、今後の大きな課題です。

「出向く、交わる、開かれた」久留米教会であるよう、これからも行動していきたいと、心を新たにできる冊子でした。

アウグスティヌスの格言にあるように、
神なくしてわたしたちはなく、わたしたちなくしては神はありません。

わたしたちが神様の業を待つのではなく、神様がわたしたちの行動を待っているのです。

 ***

「主の復活の8日間」と呼ばれる、復活後の8日間は、復活祭の喜びとともに続く、わたしたちの新しい約束の日々です。 

ルカに書かれているエマオ途上の顕現物語は、初代教会の間で数年にわたって熟成して形作られた、「信仰の旅路」という主題を表すための譬えなのだそうです。 

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
(ルカ24・13~35)

クレオパたちの体験が史実であるかどうかは、この場合、全く問題ではありません。
ルカはこの譬えで、信仰の在り方について暗示しています。

・イエス様は聖書の意味を分かり易く説明します。
・パンが裂かれるときに、復活のイエス様を体験することができます。
・気づかなくても、復活されたイエス様はわたしたちと旅路を共にしています。
・わたしたちには、復活されたイエス様が「分かった」という体験があります。

 

イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(ヨハネ20・20)

トマスは、復活したイエス様に直接会いたかったのです。
そして、イエス様はトマスを責めているのではなく、復活したイエス様を直接見ることがない者も同様に幸いである、という教えなのです。

 

福音書に書かれている数多くの譬えは、実際に起きたことかどうかは別として、そのことが示す意義、真理を理解する必要があります。

この二つの譬えは、復活の信仰とはなにかを物語っています。

聖書を説き、食事をともにすることで、生前のイエス様がおっしゃったこと、なさったことに立ち戻りなさいと言うこと、つまり、教えの原点に戻ることを説いています。

ガリラヤに行きなさい、そこで会える。
ガリラヤにおられたころ、あなた方に仰せになったことを思い出しなさい。

この「ガリラヤ」は、イエス様の教えの原点の象徴なのです。

復活したイエス様に会ったことのないわたしたちが信じる「復活」とはなにか。

亡くなられたイエス様が、いつもわたしたちの中に今も生きておられることを実感するのが復活の信仰です。

 

復活祭が終わり、一年で最も大切なミサが終わった、と思って過ごしてしまうかもしれません。

そうではなく、それぞれが復活の信仰についてよく思いを巡らせ、神様との約束を新たに思い起こして再び歩みはじめる、今はその大切な時なのです。

 

 

わたしたちの宣教

イエス様が十字架刑に処せられた日は、教会の暦では最も厳粛な日です。
英語では、「グッドフライデー」と言います。
ギリシャ教会では「聖く大いなる金曜日」、ドイツ語では「嘆きの金曜日」「神の金曜日」などという言い方をするようです。
そして、罪と死に勝利した主イエス・キリストを記念するのが復活祭(イースター)です。

凄惨な金曜日の事件に対して「良い」という形容詞をあてることに、キリスト者はほとんど疑問を感じません。
イエスの死がどれほど悲惨なものでも、それを通して世の贖いが達成されたのだという、何世紀にもわたる教会の確信が、金曜日を肯定的に表現する理由として考えられます。
(「イエス最後の一週間」より抜粋)


「その勝利は罪と死に対してであり、誰かに対してではない。
それなのに、今日、戦争がある。なぜこの世の方法で勝とうとするのか、それは敗北をもたらすだけだ。

なぜ神が勝つままにしないのか。

キリストはわたしたちを悪の支配から解放するために十字架を背負われた。
キリストはいのちと愛と平和が統治するために十字架上で死なれた」

4/10バチカンでの教皇フランシスコのお説教より

 

イエス様の死は『贖罪のための代理死』である、という考え方はキリスト教信者にとっては一般に浸透しているものですが、この概念が一般化するのは1000年ほど経ってからのことでした。

一番最初に福音書を書いたマルコは、イエス様の死を代理死ではなく、「権力者による処刑」と捉えています。
そして同時に、暗闇が地を覆い、神殿の幕が裂けたことを、神殿と神殿権力者たちへの裁きの象徴として表現したのです。

マルコによる福音書10・45の記述から、イエス様の死を罪の対価、代理死であると解釈できるかもしれません。

「人の子は仕えられるためだけではなく仕えるために、
また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

ギリシャ語の原文でこの「身代金」にあたる単語は、捕虜や奴隷を開放する代償金を指しています。
つまり、この文章は「束縛から人々を解放するという大義のために自らの命を投げ出した」ことを意味するのだそうです。

そう理解して、上述の教皇様のお説教の文章を読み直してみると、とてもスッキリと心に響いてきます。

 

 

ご復活のミサは、アベイヤ司教様が司式してくださいました。
11名の子どもたちの洗礼式も執り行われ、ご復活の喜びとともに、将来の希望が誕生しました。

お説教で、「福岡に来て2年になりました。その間ずっと、コロナと一緒です。
わたしたちは、“できること“をしなければなりません。
“できないこと“ではなく、 具体的に行動することが大切なのです。」とお話しされました。

そして、この2年かけて準備され、わたしたち信徒に広く意見を聞いて作り上げられた宣教司牧方針の冊子を配ってくださいました。

 

イエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。
(使徒言行録10・42~43)

わたしたちキリスト者にとって、宣教は重要な務めです。

各自の置かれた立場に応じ、自らの生き方を通して周囲にお恵みを与えることができますように。

子どもたちのためにも、豊かな教会共同体を共につくり、守り、育てていきましょう。 

 

昨年の4月に書いた記事も、ぜひもう一度読んでいただきたいと思います。

「復活」による変化

 

 

これまで、これからの日々

マルコによる福音書は、イエス様の最後の一週間を一日ごとに追って、日記的に描写しています。

そして、マルコだけが、日曜日、月曜日、木曜日の朝と夕の出来事を詳細に語っていて、ローマ軍の時間区分と同じ、3時間ごとに金曜日の出来事を追って書いています。

マルコ福音書が書かれたのは、エルサレム神殿が崩壊したころです。
神殿の崩壊によって、当時のユダヤ教のあり方が一変しました。
ユダヤ人は供儀を捧げる場所を失い、祭司職の役割は薄れ、ユダヤ教の中心は聖典と会堂へと移行しました。

神殿崩壊、つまり戦時下に書かれたこの福音書では、その時代背景もあってエルサレムが中心的な役割を果たしています。

書かれた当時、AD1世紀の教会にとって、十字架は2つの意味を持っていました。

ひとつは、ローマ帝国による処刑。
もうひとつは、死と復活につながる生き様=古い命に対して死んで新しい命にいたる道、の象徴です。

マルコとパウロ書簡では、十字架を新生(新しく生まれ変わる、生き方を刷新する)への道と捉えています。

 

そして、これはとても大切なことですのでしっかりと理解しておきたいのは、イエス様の十字架刑の原因である衝突についてです。
イエス様とユダヤ教の衝突と安易にとらえていた過去の歴史が、その後のユダヤ人迫害へとつながっていったことはご存じのとおりです。

イエス様の声は、当時のユダヤ人たちが発した声のひとつであり、神の名を用いて正当化された支配構造への抵抗、ユダヤ教の神に対する敬神の思いを訴えるものだったのです。

 

棕櫚の聖日に神殿に集う熱狂的な群衆と、その後の数日間の出来事を時系列で追って理解することで、イエス様の死とご復活の意味をより深く正しく捉えることができます。

聖週間の1日1日を噛みしめながら、大切に日々を歩みましょう。

 

日曜日(11・1,11)
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。
・・・
二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。
いと高きところに、ホサナ。」

月曜日(11・12,19)
『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった。

火曜日(11・20)
「神を信じなさい。はっきり言っておく。
だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになる。
また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。
そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

水曜日(14・1)
さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。
彼らは、「民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

木曜日(14・12,17
除酵祭の第一日、すなわち過越の子羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
・・・
弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。

金曜日(15・1,22)
夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
・・・
そして、イエスをゴルゴタという所に連れて行った。
没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。

土曜日(15・42~43)
すでに夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身のヨセフが、思い切ってピラトのもとへ行き、イエスの遺体の引き取りを願い出た。
この人は高名な議員であり、自らも神の国を待ち望んでいた人であった。

日曜日(16・1~8)
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
・・・
若者は言った。「驚くことはない、あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。
さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われた通り、そこでお目にかかれる』と。 

 

 

春は、イエス様の足跡を振り返る季節です。

この春を、新しい環境で迎えた方も多いかと思います。

これまでの日々に思いを馳せながら、同時に、これからの新しい人生に不安や戸惑い・期待と希望といった思いが絡み合う、そんな季節でもあります。

 

4月から、ホン・チャン・キ神学生が司牧実習に来てくださっています。
韓国出身の、神学校3年生です。

意外と、おちゃめな一面がある49歳です。

 

船津神父様は、もうすぐローマへ旅立たれます。
久留米教会で司祭叙階式を終えられた時のお写真です。

この笑顔にはいつも癒され、心が和みます。

 

久留米教会に2017年まで赴任していらした森山神父様が、6月から大分教区に司教として着座されることが先日発表されました。
ガリラヤ湖で、小魚に足をつつかれて喜んでいらした時のお写真です。

「司教様」というと、なにか遠い、恐れ多い存在のように感じてしまいますが、こうした笑顔を思い出すと「同じキリスト者」でいらっしゃるのだ、とじわじわと感じます。

 

ホン神学生、船津神父様、森山新司教様へお祈りを贈りましょう。
わたしたちが心をこめて力強く祈り続け、多くの祈りに支えられながら、これからの日々を強く歩むことができますように。

 

信仰のセンス

長年、教会でお付き合いのある方で、いつかゆっくりお話ししてみたい、と思っている方がいました。
毎週のようにミサの時に言葉を交わしてはきたものの、お互いのことを知っているような知らないような関係でした。

コロナ禍になってから、ご家庭の事情でなかなかお目にかかれなくなっていたので、先日お宅を訪問してお話してきました。

 

自分はこれまで、こういう風に生きてきました

今は、こんな風に生きています

将来は、こういう風に生きたいと思っています

 

その方は、ご自分の人生を話してくださいました。

人に、これまで・今・これからの自分について語ることができますか?

「こうありたい」という理想を語ることはできても、「こういう風に生きよう」という決意を心に持つことは素晴らしい、羨ましい、わたしにはまだ出来てない、と思ったのです。

 

「わたしの父は今もなお働いておられる。
だから、わたしも働くのだ。」
(ヨハネ5・17)

以前書いたことがありますが、ある神父様が、亡くなられたお父様の葬儀ミサがきっかけで、それまで教会から離れていた兄弟がまたミサに足を運ぶようになったこと、「父は今もなお働いている」と感じた、とお話しくださいました。

そして、わたしも、仕事などで困難にぶつかり、それが良い方向に変化していくのを感じる度に「母が今もなお働いている」と強く感じるのです。

 

わたしは自分では何もできない。
ただ、父から聞くままに裁く。
わたしの裁きは正しい。
わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。
(ヨハネ5・30)

困難な状況を克服した時、いつも思います。

「わたしが解決に導いたのではない。
神様が言われることを聞いて、そのように行おうと努めることができた。」

神様と母ばかりを働かせて、わたし自身の働きが弱いのかもしれない、と冒頭の方と話していて感じたのです。
「神頼み」「母頼み」になりすぎています。

わたしが今日あるのは神の恵みによることであり、そして、わたしに対する神の恵みは無駄にはなりませんでした。
それどころか、わたしは使徒の誰よりも多くほねをおって働きました。
わたしが、というより、神の恵みがわたしとともにあって働いていたのですが・・・・。
(1コリント15・10)

その方は、年齢的には大先輩であり、当然わたしよりもずっと色々な経験をされ、今も決して楽な日々ではないはずなのに、ご自分のこれまで・今・将来について話されるときの表情はイキイキと輝いていました。

だから、わたしも働く
神様の御心を行う

その方のお話の中には、この2つの言葉が散りばめられていたと感じました。

「信仰のセンス」と言う言葉について、以前、聖書研究会で教わりました。

◆聖霊によって与えられた、神からの霊的な事柄を感じる能力
◆神からの救いへの働きかけを感じ取り、受け入れる能力
◆日々の生活の中で、神、キリストの永遠の救いについて、自分なりの考えを見出す能力

こうした意味を持つ言葉で、信者個人の生き方で表されるものです。

その方は、抜群の信仰のセンスを持ち合わせた方だ、と、初めてじっくりとお話を伺ってわかりました。


決勝点への邁進
わたしは、そこへ、すでに到達したわけでも、自分がすでに完全なものになったわけでもないので、目指すものをしっかり捕えようと、ひたすら努めています。
このために、わたしはキリスト・イエスに捕らえられたのです。
ただ一つのこと、すなわち、後ろのことを忘れて前のことに全身を傾け、目標を目指してひたすら努め、キリスト・イエスに結ばせることによって、神が、わたしたちを上へ招き、与えてくださる賞を得ようとしているのです。
ですから、わたしたち信仰に成熟した者はみな、このことを念頭に置きましょう。
何はともあれ、ここまでたどりついた道を歩み続けましょう。
(フィリピ3・12~16)

「ただ一つのこと」は、新共同訳では「なすべきことはただ一つ」となっています。

前に書いたキーワードのように、「信仰はいつも発展途上」ですから、わたしたちはどんなに熱心に祈り、毎週ミサに与っていても、完全なものではありません。

目指すもの、とは、この世での生活においても必要なものです。

信仰のセンスを磨き、この世での目指す目標、神様が与えてくださる賞を目指して、自分の生き方を人に話すことのできるキリスト者になりたい、そう思った週でした。

 

キリストを知り、その復活の力を知り、また、キリストの苦しみにあずかることを知って、ますます、キリストの死に様を身に帯び、何とかして、死者の中から復活するまでに漕ぎつけたいものです。
(フィリピ3・10~11)

 

 

神様はゆるす方

ウクライナのことを思わない日はありません。
「ロシアによるウクライナ侵攻」ではなく、戦況はロシアvs西側諸国の様相に変わったかのようです。
ウクライナの街が破壊され多くの市民が亡くなっていることは、惨く、信じられないことですが、ロシアの戦艦が破壊されて激しく燃え盛る様子を見て、良かった、とは決して思えません。

教皇様は、3月25日のお告げの日にバチカンでミサをささげられました。
そしてその中で、ウクライナとロシアを聖母マリアに奉献されたのです。

 

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。
我々は御前に生きる。
我々は主を知ろう。
主を知ることを追い求めよう。
主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。」
(ホセア6・1~3)

 

自分が正しい。
わたしは間違っていない。
あの人の考え方はおかしい。

よく言えば正義感が強くもあり、わたしの欠点である「自分の主張を押し付ける言い方」をして、また人を傷つけてしまいました。
「あんな風に言われて、残念な気持ちになりました。」とメッセージが来るまで、そのことに気づかなかった自分が嫌になりました。
この一週間、その罪の意識がわたしを覆い、ずっと後悔の念に苛まれて過ごしてしまいました。 

 

わたしたちは、言葉をとおして偏見を育てたり、隔ての壁を築いたり、さらには相手を攻撃し、破壊してしまうことさえあります。
わたしたちが日ごろ使っている言葉について、問い直してみましょう。
その言葉は、配慮や尊重、理解や寄り添いを表すものでしょうか、それとも自分をひけらかすためのものでしょうか。
柔和さを持って話していますか?
それとも批判や嘆きや攻撃性で、世の中に毒をまいているのでしょうか。
神がその謙虚さを顧みたおとめマリアが、わたしたちが眼差しと話し方を清められるよう助けてくださいますように。
2/27教皇フランシスコ お告げの祈りでの説教より

 

そんな時に、この教皇様のお説教の言葉を読み、ますます落ち込んだまま日曜日のミサに与りました。

 

「素直に、心から悔い改め、感謝して正直に信仰に生きましょう。
神様は罰する、怒る神ではありません。
ゆるす神です。
両手を広げて、父の愛、母の愛でわたしたちを受け入れ、 ゆるしてくださいます。」

宮﨑神父様がお説教でこう言われ、わたしの心も救われました。

 

 

そのとき、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスは次のたとえを話された。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。

ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
(ルカ18・9~14)

時々、わたしはファリサイ派の人のようです。
「わたしは熱心な信者です。
わたしは一生懸命に役割に取り組んでいます。
褒めてください!」
そういう気持ちが湧き上がってきて、自己満足している自分が嫌になることがあります。

でも今日は、徴税人のように素直になって、正直に信仰に生きるものとなるよう努めよう!
そう、決意を新たにできた気分です。

わたしの罪は赦された、と(勝手に)感じた日曜日でした!

・・・・・・・・・・・・・・・・

「ロシアとウクライナをマリアの汚れなきみ心に奉献する祈り」

 わたしたちはあなたにより頼み、あなたのみ心の扉をたたきます。
あなたは、愛する子であるわたしたちをいつも見守り、回心へと招いてくださいます。
この暗闇の時、わたしたちを救い、慰めに来てください。
わたしたち一人ひとりに繰り返し語ってください。
「あなたの母であるわたしが、ここにいないことがありましょうか」と。
あなたは、わたしたちの心と時代のもつれを解くことがおできになります。
わたしたちはあなたに信頼を寄せています。
とくに試練の時、あなたはわたしたちの願いを軽んじることなく、助けに来てくださると確信しています。

https://www.cbcj.catholic.jp/2022/03/24/24408/


 

信じて生きてみる

教会は古くから舟に例えられてきました。
教会とはわたしたちであり、舟はイエス様でもあります。
そして同時に、イエス様は、荒波の中を舟に揺られ続けるわたしたちのための錨でもあるのです。


わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなもの
(ヘブライ6・19)

 

この写真は、イスラエルのマグダラにある教会です。
祭壇が船の形をしているので、船の教会と呼ばれています。

奥に見えるのはガリラヤ湖です。
聖堂でミサをしていただいたときの写真です。

 

 

先日、久留米の聖マリア学院の公開講座で久留米出身の船津亮太神父様(小倉教会)の講演があり、わたしもzoomで参加しました。

福岡司教区の主日の音声説教でも、船津神父様はいつも「誰にでも分かり易く」を心がけてお話されている、と伺ったことがあります。

公開講座のテーマは「コロナ禍をよりよく生きる」

聖書のことばだけでなく、映像を使って具体的にイメージできるように工夫してくださっていて、神父様の考えていらっしゃることがよく理解できる講演でした。

特に印象に残っているのが、選び取るのは「生活」か「人生」か、というくだりです。

生活を重視するならば、安穏で波風の立たないように日々を生きることを重視しながらも、あくせくと自分の毎日を切り盛りして過ごすことになる。
人生を重視するならば、情熱を持って理想へと日々邁進し、超越者(神)がわたしを動かし生かしているのだと理解することができる。

主体を自分に置くか、神に置くか。

コロナ禍、「生活」を失ってその大切さを誰もが痛感したが、わたしたちが選び取るべきは「人生」である。

大きな時間軸の中で今を捉えること。

束の間の「生活」のなかに与えられた神の賜物に感謝し、
神の導きに応える「人生」を選び取っていく。

生活を大切に生きることは当たり前のことであり、わたしたちは信じて生きる「人生」を歩まねばならないのだ、ということなのでしょう。

船津神父様は、臨床心理士として働かれていた時に運命的な出会いにより召命を受けられました。

「今だったら、このまま働いていたい気持ちと、神学校に入りたい気持ちが半々です」と迷われていたそうです。
「半々なら、神学校に入ろう」と背中を押され、司祭を目指す道へと入られました。

信仰をもつわたしたちの人生は、自分以外の誰かに突き動かされて生かされていく日々です。

神様への信頼に根差したこの人生は、神様の呼びかけに応える「召命」の道と呼応するものだ、と船津神父様のお話にありました。

 

わたしは乾いている地に水を注ぎ
乾いた土地に流れを与える。
あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
あなたの末にわたしの祝福を与える。
彼らは草の生い茂る中に芽生え
水のほとりの柳のように育つ。
(イザヤ44・3~4)

信じる、というのは、信じて生きてみること。
そして、信仰というものはすでに完成したものとして持つものではなく、いつも発展途上にあるもの。

これは、手帳に走り書きしていたのでどなたのお言葉だったか分からないのですが、「信じて生きてみる」「信仰はいつも発展途上」というキーワードが気に入っています。

信じて生きる人生とは、イエス様を信じて皆で共に同じ舟に乗る、ということでしょう。

 

春の乾いた土地が、雨で潤されて新芽が芽吹くように。
茶色だった大地が、いつの間にか生い茂る草に覆われ緑に変わっていくように。

わたしたちの信仰は、特にこの春の四旬節の間に大きく育つように思います。
信じて生きてみよう、とこの季節は気持ちを新たにするよい機会です。

御復活祭の時に洗礼式が執り行われるのは、確かに最高のタイミングです。


船津神父様に続く召命が、久留米の少年たちにいつか降りてきますように。

 

 

 

行う人

311について思いを馳せる日々でした。

西日本新聞の3/10の朝刊には、当時の釜石の子どもたちが11年後の今、当時を振り返って取材に答えた特集が組まれていました。

お読みになっていない方は、ぜひ読んでみてください。

心にずっと刺さった、棘のような「後悔」や「罪の意識」のような気持ちを吐き出すように語った、20代になった人たちの声にいろいろなことを考えさせられました。

地震や津波での被害だけではなく、まだ苦しんでいる人が多くいる現実を再認識することができました。

 

以前ここに書いたことのある、ある支援している方に久しぶりに電話をしてみました。
久しぶりだったからか、溜まっていたのであろう言いたいことや現状への不満を爆発させて、ガチャっと電話を切られてしまいました。
施設の方に再度電話してお話を伺ったら「自分のことをかまってくれる、気にかけてくれる人がいて、本当は嬉しかったのだと思いますよ。」と言っていただきました。

この方も、釜石の方々も、 自分の中に溜め込んでいる思いを思いっきり伝え、聞いてもらえる人がいる、と言うことがどれほどの救いになるか。

わたしもその相手になることができれば、と思うのです。

 

ヤコブの手紙は、短い中にも深く、理解しやすいことばでわたしたちの心に迫ってくるものがあり、とても好きな書簡です。

試練を耐え忍ぶ人は幸いです。
その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。
神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。

御言葉を行う人になりなさい。
自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。
このような人は、その行いによって幸せになります。
自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。
(ヤコブ1・12~27)

 

「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
(ヤコブ2・26)

 

「行う人」でありたい。

役割をいただいているので、毎週ミサに参列させていただいています。
ミサに与ることそのものではなく、教会で出会うすべての皆さんとあいさつを交わすことが、わたしの一週間で一番の喜びになっています。

わたしにとって「行い」は、自分の至らないところを補うように物事を実践し、人に関わることで実現しています。
少なくとも、そう思っています。
良く行えているかどうかはわかりませんが、人付き合いが得意ではないわたしが、こうしてミサ前に聖堂入り口で毎週皆さんをお迎えする役割をいただけていることで、行おうと努めています。

今朝は、先週転勤してこられたばかりというシスターを、満席だったのに偶然空いたお席にご案内することができました。
「初めて久留米教会に来たのに席がなくて、それなのにあなたに案内してもらえて嬉しかったわ!」
そう言ってくださり、少し色々とお話しさせていただく機会となりました。

清々しい、嬉しい日曜日の朝を過ごすことができました。

 

キリスト教の最もすばらしいところのひとつは、神が私達に、過去が何であっても常に、新しい人生をやり直させてくださることだと思います。
神さまが私たちを罪に定めないでいるのに、私たちが自分をもうだめだと、罪に定める理由はないでしょう。
友達や隣人を罪に定めるのは、もっといけないのではないでしょうか。
希望と愛を持って、いつも、助け合い、前を向いて生きていきたいと思います。

聖書学者・本多峰子さんの福音宣教3月号の記事に、このように書いてありました。

この視点は、当たり前のことのようであって、当然のこととして現実に認識できていないことのように思います。

改めて文章で読み、心が救われた気がしました。

 

カリタスジャパンでは、「ウクライナ危機人道支援」緊急募金の受付が行われています。
郵便局、銀行、クレジットカード決済のいずれかを選択できます。

ぜひ、ご検討ください。

https://www.caritas.jp/2022/03/04/4997/

亡くなられたウクライナの市民、軍人、そしてロシアの軍人たちのために、魂の平安を祈ります。

 

いつも「ここにいる」

黄砂や花粉が飛び始めても、久留米の空はエルサレムのように澄み渡っています。

新緑の力強さが感じられる四旬節が始まりました。

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イエス様は、神から『わたしの愛する子、わたしのこころに叶うもの』と言われたのちすぐに悪魔の試みにあわれました。

「神様から愛され、我が子とまで呼ばれたのに、なぜ試されたのでしょうか。」
森山神父さまに質問してみました。

「イエス様もひとりの人間です。
わたしたちと同じように、苦しんだり悲しんだりする存在です。
人間とは、とかく独りよがり、自己中心に陥りがちで、神への信頼を忘れてしまいます。
旧約の民がそうであったように、イエス様でさえ、神にイニシアティブがあることを徹底的に教えられたのです。
わたしたち人間への徴として、イエス様にも試練が与えられたのです。」

6日のごミサのお説教では、宮﨑神父様がこうおっしゃいました。

「四旬節の四十日、四十年といった数字は、永遠の命への準備期間の象徴であり、わたしたちの人生そのものを指しているとも言えるでしょう。
人生では当然、試されたり試練に遭うこともあります。
イエス様も霊によって守られたのですから、どのような時も聖霊の導きに委ねるのです。」

 

わたしたちは、何か困難に遭った時にそれを「神からの試練」とはすぐに捉えられないものです。
苦しい時間を過ごし、神様に祈りながら(時には神様に文句も言いながら)時間の経過を耐え、物事が好転したり気持ちが落ち着いて後、「あぁ、あれは与えられた試練だったのだ」と振り返ることができるものでしょう。

その時のために、あらためて常に心に刻んでおかなければならないと、気持ちが引き締まりました。

今のわたしは、本当の永遠の命を得るために多くの試練を乗り越える必要があること、聖霊がいつもともにいてくださること。

 

悪魔はあらゆる試みを終えると、定められた時までイエスを離れた。
(ルカ4・13)

フランシスコ会訳聖書の注釈にはこうあります。

[「定められた時」はイエスの受難の時を指す。
その時には、悪魔はユダヤ祭司長や長老たちを使って、イエスに対して最後の攻撃を行う。]

マタイとマルコの並行箇所は、次のように書かれています。

そこで、悪魔はイエスから離れた。
すると、み使いたちが現れ、イエスに仕えた。
(マタイ4・11)

イエスは四十日の間そこに留まり、サタンによって試みられ、野獣とともにおられたが、み使いたちがイエスに仕えていた。
(マルコ1・13)

答唱詩編の詩編91・11〜12がこの箇所の根拠です。

神があなたのために使いに命じ、
あなたの進むすべての道を守られる。
神の使いは手であなたを支える。

「あなた」とは、わたしたちのことであると捉えると、とても心強く響いてきます。

 

お前たちの中の誰が、主を畏れ、その僕の声に聞き従うのか。
明かりを持たずに暗闇を歩いて、
なお主の名に信頼し、自分の神に頼るのか。
(イザヤ50・10)

まことに、お前たちの手は血で、指は悪行で汚れ、
唇は偽りを語り、舌は邪なことを発する。
彼らの働きは不正な働き、手にあるのは暴力。
彼らの足は悪に走り、罪なき者の血を流そうと急ぐ。
彼らの思いは不正の思い、その行く道にあるのは荒廃と破壊。
平和の道を彼らは知らず、巡りゆくその道筋に公正はない。
彼らは自分の行く道を曲げ、その道を歩む者は誰も平和を知らない。
(イザヤ59・3~8)

去年の今ごろは何が起きていただろう、と思い、気になった記事などをファイリングしているものを開いてみました。

ちょうどこの頃、パパ様はイラクを訪問されていました。
過激派組織によって長年苦しみ、宗教的にも政治的にも混乱が続くイラクへの教皇の歴史的な訪問は、冷ややかな姿勢で報道されました。

一昨年のこの頃には、イタリアで新型コロナウィルスが猛威を震い、多くの司祭・修道者が感染者に寄り添うために出かけて行き、命を落としました。

いつも世界のどこかで、想像を絶する苦難や試練に遭っている人がいるのです。

ローマ教皇というお立場は、平和の象徴でもあると思っています。
わたしたちは、いつも困難に遭っている人々に寄り添われる教皇様を信頼し、その言動から神様がいつもそばにいてくださることを感じることができます。

 

 この四旬節の間、食を断つ意味ではなく、本来の「断食」を続けましょう。

 「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
(ローマ10・8~13) 

わたしは、わたしを尋ね求めなかった者にわたしを追い求めさせた。
わたしは、わたしを捜さなかった者にわたしを見出させた。
わたしは、わたしの名を呼ばなかった国に向かって、
『わたしはここにいる、わたしはここにいる』と言った。
(イザヤ65・1)

いないのは神様ではなく、人の心なのだ、ということです。

神様はいつも「ここにいるよ」と寄り添ってくださっていることを、誰もが忘れないように。

 

「断食」という言葉の本来の意味は、次のイザヤ書の言葉の通りである、と以前教わりました。

これこそ、わたしが選ぶ断食ではないのか。
不正の鎖を解き、軛の結び目を解き、
虐げられた人を開放して自由の身にし、
軛をすべて、打ち砕くこと。
飢える人にお前のパンを分かち与え、
家のない貧しい人々に宿を与え、
裸を見れば、着物を着せ、
お前の同胞に対して見て見ぬふりをしないこと。

その時、お前の光は暁のように輝き出で、
お前の癒しは速やかに生じる。
お前の正しさがお前の先を行き、
主の栄光が背後の守りとなる。
その時、お前が呼べば、主は応え、
叫べば、『わたしはここにいる』と仰せになる。
もし、お前の中から軛を除き、
指をさすことや中傷をせず、
飢える者のために尽くし、
虐げられる者の必要を満たすなら、
お前の光は闇の中に輝き出で、
お前の暗闇は真昼のようになる。
(イザヤ58・6~10)

2022年の四旬節を、断食の祈りと共に過ごしましょう。

 

希望の火

天皇陛下は、62歳の誕生日に際してのお言葉で、コロナ禍に対し「支え合う努力を続けることにより、この厳しい現状を忍耐強く乗り越えていくことができる」とおっしゃいました。
また、「つながりを大切にしながら、心に希望の火を絶やさずに」と呼びかけられました。

忍耐強く、希望の火を絶やさずに。

まもなく始まる今年の四旬節を前に、困難の最中にある人々へ心を向けることの大切さを再認識したいと思います。

四旬とは、試練・苦難の象徴である数「40」を意味します。

ウクライナの人々のことを思い、苦しい気持ちで過ごしています。
まさに聖書で言うところの「荒野の40年」のような状況に置かれているのかもしれません。

旧約のイスラエルの民と重なって見えます。
バビロン捕囚で苦しみ、外国勢力による支配で迫害を受け続けた彼らは、民族の救いと、救い主の到来を忍耐強く、希望の光を絶やさずに待ち続けたのでした。

40年という数字は、文字通りの年月ではなく、試練・苦難の象徴として使われます。
新しい秩序に向かうための時間であり、神に出会うために必要な時を表す数字です。

 

 

 

四旬節の教皇様のメッセージを皆様もお読みになったことでしょう。

「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」(ヨハネ4・37)

他の人のために良い種を蒔きなさい。

この回心の時に、神の恵みと教会での交わりに支えを得て、たゆまずよい種を蒔きましょう。
断食は地を整え、祈りは地を潤し、愛は地を実らせます。

断食と祈りは一人でもできます。
それに比べ、地を実らせるための愛の実践はなんと難しいことでしょうか。

人のために良い種を蒔く、とはどういうことでしょう。


わたしはあなた方を遣わした。
自分で苦労しなかったものを、あなた方に刈り取らせるためである。
ほかの人々が苦労して、あなた方はその労苦のお陰を被っている。
(ヨハネ4・38)


種蒔く者に、種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなた方に蒔く種を与え、増やし、また、あなた方の慈しみが結ぶ実をますます大きくさせてくださいます
(2コリント9・10)

 
わたしたちの人生全体が良い種を蒔く時だ、と教えてくださっています。

今日わたしたちが出会った人に、キリストの香りを振りまくことができたでしょうか。


霊という畑に種を蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
倦まず弛まず善を行いましょう。
飽きずに励めば、時が来たとき、わたしたちは刈り取ることになります。
(ガラテヤ6・9)

わたしたちの日々の行いは、すべて種を蒔く行為なのだ、と考えることができます。

その言動は、良い実を結ぶのか。

いつもそう考えて人に接し、言葉を発する、とても難しいことかもしれませんが、少なくとも「あんなことを言わなければよかった」「もっと優しくすればよかった」などといった後悔の気持ちからは解放されます。

先日の宮﨑神父様のお説教にあったように、「教会に来て神父や信者の悪口を言うような日曜日を送ってはならない」のです。

 

荒野の40年は、あの時のイスラエルの民には必要な犠牲だったかもしれません。
ですが、今のウクライナが置かれている状況は耐えるべき苦難とは言い難いものです。

アメリカとドイツが、ウクライナへ地対空ミサイルや戦車といった武器の提供を決定した、と報道がありましたが、それは決して良い種ではないと思います。

ウクライナ正教会は、ロシア正教会から分離独立したという経緯があります。
宗派は違えど、キリスト教の教えを汲む東方正教会の一員である、ロシア正教とウクライナ正教。

少なくとも、多くのウクライナ人、ロシア人がキリスト者であるという事実も忘れてはならないでしょう。

宗教的にも政治的にも、自分が正しい、という驕りは良い実を結ぶ考え方ではありません。

経済制裁で直接的に影響を受けて苦しむのは、ロシアの一般国民です。

何が解決法なのか。

ウクライナの人々が希望の火を失わないように、全身全霊で祈ること、今わたしたちにできるのはこれしかありません。

犠牲になった人々、今困難の中にあるウクライナの人々、リーダーの行動のために不本意な迫害を受けているロシアの人々のために祈りを捧げることに注力するときです。

倦まず弛まず、飽きずに、世界中のキリスト者が一丸となって祈り続けるのです。

宮﨑神父様もおっしゃっていました、「ロザリオの祈りは世界を変える力を持っている」と。

 

教皇フランシスコは、ウクライナにおける状況に深い悲しみを表明され、次のように呼び掛けられています。

「信者の皆さん、そうでない皆さん、すべての人に呼びかけます。
暴力の悪魔的な無分別さに対して、神の武器、すなわち、祈りと断食をもって答えることをイエスは教えました。

来る3月2日、「灰の水曜日」を、平和のための断食の日とするよう皆さんにお願いいたします

特に信者の皆さんが、その日を祈りと断食に熱心に捧げるよう励ましたいと思います。
平和の元后マリアが、世界を戦争の狂気から守ってくださいますように。」

 

奇跡物語が語るもの

中庭の春の装いが、小雪の舞うなかとても美しい日曜日でした。

宮﨑神父様のお説教にとても心を打たれました。
「ウクライナのために祈っていますか?」と問われ、気になってはいるものの、それは「戦争が始まるかも」というニュースとしてに過ぎなかった自分が恥ずかしくなりました。

遠い国のニュースではなく、隣人が戦争と隣り合わせの現実に直面していることを忘れずに、みなさん祈りましょう。

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マタイ、マルコ、ルカの3つの共観福音書には、同じ出来事や教えが書かれている箇所があります。
福音書を読んでいると、注釈でその並行箇所が示されているので、同じ話を他の2人も書いていることを知ることが出来ます。

全く同じエピソードが、福音記者によっては詳しく書かれていたり、短かったり、時には全く違った趣旨で書かれていることがあります。

話の大筋はだいたい同じなのですが、当然3人にはそれぞれに伝えたいポイントがあって、よく読むとわたしたちに訴えていることが違うことが分かります。

エリコの盲人、バルテマイが癒される奇跡物語があります。

(その道の)道端に座っていたバルテマイという盲目の物乞いが、何度黙らせようとされても「ダビデの子イエスさま、わたくしをあわれんでください」と叫び続けます。
イエスが「何をわたしにしてもらいたいのか」とお尋ねになると、盲人は、「先生、見えるようにしてください」と言った。
そこでイエスは仰せになった。
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。
するとたちまち、盲目の人は見えるようになり、(その道を)イエスに従った
(マルコ10・46~52)

 

イエスは立ちどまり、彼らを呼んで、「何をしてもらいたいのか」とお尋ねになった。
二人は「主よ、わたくしたちの目を開けてください」と言った。
イエスは哀れに思い、その目に手をお触れになると、彼らはすぐに見えるようになった。
そして、イエスについて行った。
(マタイ20・29~34)

 

そこで、イエスが「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と仰せになった。
すると、盲人はたちどころに見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスについて行った。
これをみて、民は皆、神を賛美した
(ルカ18・35~43)

 

3人の福音記者たちの意図はそれぞれ違うところにある、と雨宮神父様の本にあります。

マルコ
■「見えるようにしてください」と、物事を見抜く視力の回復が願われている。
■(その道の)という言葉が本来のギリシャ語原文には書かれていて、エルサレムに向かう途上で盲人に会っている。
■奇跡そのものよりも、イエスに叫んだ者が十字架への道=苦難を通って救いへと至る道に招き込まれたことを表現。
■わたしたち読者にも、どうすればイエスによる救いの道へ入れるのかを教えている。

 

マタイ
■「目を開けてください」と、ごく実質的な願いがなされている。
■盲人の目が開かれた、という奇跡物語を語ることに主眼がある。

 

ルカ
■奇跡を通して働く神の力への賛美。
■イエスが神として顕現し、叫び求める者に救いを与えるという教え。


『なぜ聖書は奇跡物語を語るのか』
 雨宮 慧 神父 著より


ひとりで聖書を開いても、ここまで深く意図を読み取ることはできません。
この本を読んで、まさにわたしも「目が開かれた」気持ちです。

 

聖書は、歴史的な出来事を客観的に書いている本ではない、ということはご存じのとおりです。

聖書を書いた人々が伝えたかったのは、その出来事の背後にひそんでいた意味なのだ、と雨宮神父様が書いておられます。

「そして、聖書が出来事を叙述するとき、詩や戯曲の表現方法を駆使し、シンボルや詩的表現を使って把握した意味を伝えようとしています。
イメージを限りなく広げる言葉が好まれるのです。読むほうもそのつもりで読む必要があります。」

 

歴史書は出来事を正確に客観的に叙述して真理を追求するに対して、新約聖書は復活体験が根本になって、知りえた真理からさかのぼって出来事をとらえているのです。

イエス様が行われた奇跡に立ち会った弟子たちでさえ、その時にはその本来の意味を理解できていなかったのす。

復活体験によってイエス様の神性を知り、宣教活動を通してその真理を理解した彼らは、そのことを以前の出来事のなかに確認しながら書き記したのです。

ですから当然、一つの奇跡物語にいくつもの強調したい真理がうまれるわけです。

聖書を読む時にこのことを分かっていて読むかどうかで、心に訴えてくることが変わるはずです。

このことを踏まえたうえで以下の箇所を読んでみてください。
わたしは、以前とは違う景色が見えた気がしました。

 

「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。
覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
(マルコ8・14~21)

 

 

1人の教えと多くの努力

北京オリンピック。
高梨沙羅さんと羽生結弦くんの、本番、4年に一度の大舞台で努力の成果を存分に発揮できなかった時の悔しさ、絶望感などを想像するだけで、胸が苦しくなります。

ついこの前まで、何種類の4回転を飛べるか、を期待されていたのに、4回転半、5回転と、人間の欲は止まることを知りません。
平野歩夢さんが決めた、彼にしかできない大技も「人類史上初の試みを成功させました!」とアナウンサーが絶叫していましたね。
もっと遠くへ、もっと早くと次から次へと期待するわたしたちの欲と、高みを目指して努力する選手たちの努力には、終わりはないのかもしれません。

4年に一度のチャンス、と簡単にわたしたちは口にしますが、平野選手は「前回大会で銀メダルを獲得した後のこの4年間は苦しかった」と言っていました。

彼らにとっての4年とは、どのような時間なのか、簡単に想像できるものではありません。

 

 

わたしたちは、イエスキリストという、一人の人がその言動で示した教えを信じています。

わたしたちにとって、信じるべきはたったひとりの人間です。

そして、わたしたちが信じている教えは、彼がひとりで思いついたこと、自分だけで作り上げたものではなかったはずだということも忘れてはならないでしょう。

イエス様は、敬虔なユダヤ教徒のヨセフ様とマリア様に育てられました。
30歳で公生活を始められるまで、当然、ユダヤ教の教えに従って生活されていたはずです。

 

ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたのち、直ちにイエス様に試練が与えられます。

天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」。
霊はただちにイエスを 荒れ野に追いやった。
イエスは四十日の間そこに留まり、サタンによって試みられ、野獣とともにおられたが、み使いたちがイエスに仕えていた。
(マルコ1・11〜13)

出エジプト記のモーセたちの旅を思い起こします。
彼らは近道を通らず、紅海に沿った荒野の道を通るように神に導かれました。

主は彼らの前を行き、彼らが昼も夜も進むことができるよう、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた。
昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。
(出エジプト13・21〜22)

 

イスラエルの民は神から選ばれ約束の地を目指したものの、四十年、荒れ野をさまよったのです。
イエス様の四十日に及ぶ断食と「試みる者」=悪魔(マタイ)による誘惑のストーリーが重なって見えます。

直接的にはこの2つの箇所には関連性はないのかもしれませんが、どちらも、常に神が片時も離れずに寄り沿い、導かれていたということに心が揺さぶられます。

聖書全体を通して語られる、常に神がわたしたちと共にいてくださるという教えは、こうして旧約の流れを汲んだものなのだということを感じさせてくれます。

同じように、エレミヤたちが繰り返し「主に立ち返れ」と回心を促していた旧約時代の教えを、イエス様は新しい言葉で「悔い改めなさい」と人々に問いかけられたのではないかと、以前書きました。

 

イエス様の公生活は1年半であった、とも3年近くであった、とも解釈されますが、いずれにせよほんの短期間です。

4年に一度のチャンスで成果を出すために、試練と向き合い続けているオリンピアンよりも短いのです。

イエス様は30数年の人生、というより、最後の数年で何かを成し遂げられたわけではない、というのが本当のところでしょう。

イエス様の時代に生きて直接その話を聞いたわけではないわたしたちが、今こうして信じているものはなんなのか。

ユダヤ教徒としてのご両親との慎ましい生活で育まれたイエス様の価値観をベースに、イエス様独特の言葉で語られた神への信頼、
死後の使徒たちによる命懸けの宣教、
後世の人のために文字として残され受け継がれてきた聖書という書物、
2000年以上続く後継者たちのたゆまない努力、
それらすべてがあって、わたしたちが今信じているキリスト教、イエス様の教えがあるのです。

この教えを、これからの世にも繋げていくことは、わたしたちキリスト者一人ひとりに課せられた使命でもあります。

 

 

 

 

 

 

幸福の目的

小雪が舞い、空気が澄み渡り、美しい青空を背景にしたお御堂が美しい日曜日でした。

美味しいものを食べた時、素敵なお店を見つけた時、素晴らしい映画に感動した時、わたしはいつも、誰かと分かち合いたくなります。

わたしの友人が務めている出版社の月刊誌『致知』に、古巣馨神父様の記事が掲載されました。

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彼女は、こうしたキリスト教関係の記事やわたしが好みそうな本、お菓子、文房具など、「好きそうだから」「美味しかったから」としょっちゅう送ってきてくれます。

わたしも、お礼のプレゼントを考えて送るのが楽しみです。

『美味しいものも楽しいことも、幸せは分かち合うほうがいい。』

これはわたしのモットーになっています。

 

「何をしているのか」と聞かれた3人の石工、というお話です。
一人は「これで食べている」と答え、一人は「国で一番の仕事をしている」と答え、一人は「教会を建てている」と答えました。
誰があるべき姿だと思いますか?
誰が一番幸福だと思いますか?
2番目の石工は、自分の仕事の目的を見失っています。
3番目の石工は、していることの目的、目標、使命を示したのです。


幸福になれるかどうか、それは心のレベルで決まる。
私たちがどれだけ利己的な欲望を抑え、他の人に善かれかしと願う「利他」の心を持てるかどうか、このことが幸福の鍵となる。

こう言ったのは稲盛和夫さんです。
稲盛さんは臨済宗・在家得度をされている熱心な仏教徒です。

ある友人に、「あなたが人のことを思ってあげられるのは、あなた自身に心のゆとりがあるからよ。」と言われたことがあります。

心の中のゆとりを持つだけではなく、福音を多くの人に身をもって広めたいと願うキリスト者として生きるわたしたちは、いつも幸福の目的を他者に向けるべきだと思います。

今週の朗読では、レギオンを宿していた人(悪霊に取り憑かれていた人)への奇跡物語が読まれました。
(マルコ5・1〜20)
レギオンはローマの軍隊のことですが、この場合は多数の悪霊の群団の比喩として表現され、ユダヤ人が穢れていると考えている豚の群れにに移って 溺れ死ぬ、というお話です。

奇跡物語では、いわゆる「沈黙命令」と言って、イエス様は「このことを誰にも知らせないように」とおっしゃいます。
ですがこのレギオンの場面では、「主があなたを憐れみ、あなたにどれほど大きなことを行なわれたかを、ことごとく告げなさい」と言われています。

その人は立ち去り、イエスがどれほど大きなことを自分に行ってくださったかを、デカポリス地方で宣べ伝え始めた。人々はみな驚嘆した。
(マルコ5・20)フランシスコ会訳

なぜでしょうか。

当時のユダヤ人たちを苦しめていたローマによる圧政、そのことへの勝利を意味するこのストーリーは、他者と分かち合うこと、広く知らせることに意義があったのではないでしょうか。
「あの噂のイエスに自分の中の悪霊を追い出しもてらった!すごいやろ!」と自慢して言いふらしたのではないのです。
イエス様が奇跡を行なわれた、ということ自体が強調されるのではなく、この人は「宣べ伝え始めた」のです。
福音を多くの人に知らせた、分かち合ったのではないか、そうわたしは理解しています。

 

聖書に、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」という一説があります。
神の思いを生きる人とは、「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」という教えをただ説いている人ではなく、それを生きる人のことを言います。

古巣神父様の記事に、そう書いてありました。

この記事はぜひ多くの方に読んでほしいと思い、コピーして何人かの方にお渡ししました。
(この月刊誌は書店にはなく、定期購読しなければ手に入らないのです。)

フランシスコ教皇さまは、「無関心のウィルスというもう一つのパンデミック」というたとえを度々されています。
いま、他者とのつながり、自己自身との真のつながりを回復するための格好の機会である、ともおっしゃっています。

自分が幸福であるかどうかは、他者とのつながりの中に見出すことができるものです。

自分が幸福であるかどうかは、「自分の幸福の目的は、他者の幸せを願いながら生きることだ」と実感できた時にわかります。

感動したこと、神父様方から教わったこと、学んだことをひとりでも多くの方と分かち合いたい、と思ってこうして書かせていただいていること。

これはわたしの幸せです。 

 

 

イエス様の方を向く

宮﨑神父様にゆるしの秘跡をしていただきました。

自分のおかした罪を認め、告白し、アドバイスをいただき、神様に代わって赦しをいただく。
もう同じ過ちをおかさないように、心に、そして神様に誓う。

これは、「悔い改め」なのか「回心」なのか。

南山大学の名誉教授でもあった故 浜口神父様の論文に、以下のように書かれています。

教会は最初の回心を思い起こして、再び神に立ち返る方途と機会を保持している。
それが「ゆるしの秘跡」である。
罪に陥った信者が再び神と和解することができるという神の無限の憐れみを宣言するのは、「再回心(re-conversio)」である。
真に罪を痛悔する者は、たとえその痛悔が不完全なものであっても、真にキリストに向かっているのである。

 

「改め」、だと「改心する」という言葉のように、罪を認めて心を入れ替える意味になります。
Googleで「かいしん」と検索するとわかりますが、「回心=キリスト教で神の道に心を向けること」と表示されます。

新約聖書で「悔い改め」の意味で使われるメタノイア( meta・noia /μετανοια )は、古いギリシャ語を起源とする言葉で、直訳すると「視座の転換」という意味となるそうです。


悔い改めなさい。
めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。

そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。
(使2・38~39)

また、マルコ福音書の中で最初にイエス様が口を開く場面でおっしゃった、

「時は満ち、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信じなさい」

(マルコ1・15)

この「悔い改め」にあたる単語がメタノイアです。


本田哲郎神父様は、「『時は満ち、神の国はすぐそこに来ている』から、『低みに立って見直しなさい』(メタノエイテ)という。悔い改めなさいではありません。」とおっしゃっています。

メタノイアに対応するヘブライ語はニッハムという単語で、「痛み、苦しみを共感・共有する」という意味だそうです。

「つまり、メタノイアとは、人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りに、共感・共有できるところに視座・視点を移すこと」と本田神父様の著書にあります。

 

 ムリリョ「パウロの回心」

 

以前、HPの記事に以下のように書きました。

E.P.サンダースの著書「イエス その歴史的実像に迫る」によると、
「ルカと使徒行伝の著者が悔い改めを強調することをとりわけ好んだ。
そして、それはイエス自身の教えの重要なテーマではなかった。
イエスは悔い改めに関心を持つ改革者ではなかった。」

福音書に語られる「悔い改め」の概念は、旧約時代にはもっといろいろな意味を持つ曖昧なものでした。
いくつもの単語がそれにあたるとされていますが、もっとも多く出てくるヘブライ語の単語の意味は、「道を変える」「引き返す」「立ち戻る」というものだそうです。
つまり、悪から遠ざかって神に向かう姿勢を意味し、「生き方を変えて生活全体を新しい方向に向ける」ということです。

 

エレミヤは、繰り返し「立ち返れ」と民に呼びかけています。(エレミヤ書3章)

契約の神の愛に立ち戻りなさい、と言うのです。

つまり、旧約時代の教えをイエス様の新しい言葉で問われたのが、この「悔い改めなさい」というものなのではないかと思うのです。

神の教えを確かなものとして受け入れ(アーメン)、自分の凝り固まった考え方、惰性に陥った生活、そうしたものの視点を変えなさい(回心)。
神の方に今一度、自分を向き直しなさい。
それが、「回心=悔い改め」なのだ。

そう、この一週間で学びました。

 

キリストに出会う前のサウロのように、わたしたちも方向を変え、習慣になっていることや楽な道から戻る必要があります。
それは、主がわたしたちに示される、謙遜ときょうだい愛と祈りの道を見出すためです。
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