応えていく信仰
受難の主日からのこの聖なる一週間、どのような祈りの日々にするか決意したところです。
枝の主日には、一昨年までは聖堂の前に信徒が大勢集まり、共に聖書を朗読し、枝を掲げて祝福を受けて行進して入場していました。
今年は静かに、前もって祝福していただいていた枝をいただきました。
女性の会、ヨゼフ会の皆さんがこうして毎年準備をされているのをご存知でしたか?
木から枝を落として一本ずつ洗い、トゲを落とします。
拭きあげてから皆さんが持ちやすいサイズにし、持ち手の部分の葉を落とします。
茶色に変色している葉先は一枚ずつハサミでカット。
こうして手間暇かけて準備され、枝の主日の朝には当然のように聖堂入り口に置いてあるのです。
持ち帰った枝は、来年の灰の水曜日前まで大切になさってください。
第一朗読のイザヤ書はわたしが好きな箇所でした。
4つある「僕の歌」のうち、3つ目の「主に応える僕」です。
主なる神は、教えを受ける者の舌をわたしに与えてくださった。
疲れた者を言葉によって支えることを知るために。
主は朝ごとに呼び覚まし、
わたしの耳を呼び覚まし、
教えを受ける者のように聞くようにしてくださった。
主なる神は、わたしの耳を開いてくださった。
わたしは逆らわず、背を向けて退くことはなかった。
(イザヤ50・4〜5)
主に応える生き方ができているか。
よく自問自答します。
楽しみを求めることに執着していたり、金銭欲に囚われてしまったり、わたしたちは弱い存在です。
そのような迷いから目覚めることを表現した詩があります。
わたしは眠り夢見る、
生きることがよろこびだったらと。
わたしは目覚め気づく、
生きることは義務だと。
わたしは働くーーーすると、ごらん、
義務はよろこびだった。
これは、1931年のノーベル賞を受賞したインドの哲学者であり詩人でもある、タゴールの詩です。
生きるということはある意味で義務である、とタゴールは言います。
生きることこそが、たった一つの重大な責務である、と。
よろこびは、得ようとして努めることはできない、
よろこびは、自ずと湧いてくるもの。
しあわせは目標ではなく、目標であってはならない、
しあわせは義務を果たした結果に過ぎないのだ。
厳しいような、難しいような価値観だと最初は思いましたが、この詩を繰り返し噛み締めているうちにスーッと「そうかもしれないな」と考えるようになりました。
朝ごとに耳を澄まして神様からの呼びかけに応える生き方は、わたしの理想とする義務のかたちです。
この聖週間の間、誰のためになんのために祈るのか、神様からのメッセージがわたしの内面に降りてきた受難の主日のミサでした。
こういう瞬間は本当に嬉しいよろこびです。
日曜学校の子どもたちの十字架の道行の様子です。