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聖書の読み比べ

先日のミサのの朗読で、「あぁ、ここは素敵。帰って聖書を開いて前後を読んでみよう」と思う個所がありました。
家に帰って聖書を開くと、あまりにも訳が違うことに気づきました。

それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。
目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。
わたしたちは、心強い
そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。

(2コリント5・6〜8 新共同訳)

そこで、わたしたちはいつも安心しているのですが、この体に住みついている間は、主のもとを離れているのだと知っています。
見えるものによってではなく、信仰によってわたしたちは生活しているからです・・・・。
わたしたちは安心しているのですが、体の住まいを離れて主のもとに住みつくほうがいいと思っています。
(フランシスコ会訳)

それで、私たちはいつも安心しています。
もっとも、この体を住みかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。
というのは、私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいるからです。
それで、私たちは安心していますが、願わくは、この体という住みかから離れて、主のもとに住みたいと思っています。
(聖書協会共同訳)

読み比べてみて、いかがですか?
わたしは普段、フランシスコ会訳聖書を読んでいるのですが、この部分は断然、新共同訳の言い回しが好きです。
3つ目の聖書の文章はどうですか?
読みやすく、文章が綺麗だと思いませんか?

新共同訳の「わたしたちは、心強い」という部分は、英語聖書では「We are courageous.」です。

聖書と典礼で使用されているのは、新共同訳聖書です。
18年の歳月をかけて1987年に生まれた、現代日本の代表的翻訳です。
カトリック教会とプロテスタント教会の聖書学者の英知を結集した国内初の共同訳。
中央協議会の教皇メッセージ日本語訳は、新共同訳聖書を引用しています。

わたしが普段読んでいるのは、フランシスコ会訳聖書です。
これは、カトリックの聖書です。
(カトリックの学校時代から、この訳に親しんでいます。)

そして、1番新しい訳の聖書が、 聖書協会共同訳聖書。
次世代の標準となる日本語訳聖書を目指して2010年に翻訳を開始し、2018年12月に初版が発行されました。
カトリックとプロテスタント諸教会の支援と協力による共同の翻訳事業です。
国内の聖書学者および歌人などの日本語の専門家によって翻訳されました。
翻訳にあたり「礼拝での朗読にふさわしい」文章にすることを目的にして訳され、格調高く美しい日本語訳になっています。

 

翻訳の微妙なニュアンスの違いによって、頭と心にどのように入ってくるか、その違いをいつも感じています。

時には、「あ〜、やっぱり慣れ親しんだフランシスコ会訳がいい」と思うこともあれば、今回のように、「新共同訳の方がストレートに伝わるな」と思ったり。

それでも疑問に感じる時は、英語の聖書を開いて自分なりに納得したり、しながら読んでいます。

今回、聖書協会共同訳の聖書を手に入れたので、ますます読むのが楽しくなりました。

 

例えば、ガラテヤ6・9〜10の新共同訳

たゆまず善を行いましょう。
飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。
ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、善を行いましょう。

これに対して、フランシスコ会訳は次のとおり。

倦まず弛まず善を行いましょう。
飽きずに励めば、時が来たとき、わたしたちは刈り取ることになります。
ですから、機会のあるごとに、すべての人に、善を行いましょう。

さらに、聖書協会共同訳ではこうなります。

たゆまず善を行いましょう。
倦むことなく励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。
それゆえ、機会のある度に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。

 

「 たゆまず」ではなく、フランシスコ会訳の「倦まず弛まず」という言い方は、ひらがなで表記することの多い聖書の訳の中でも一際強調されたことを感じる表現です。

パウロが伝えたかったのは、「ずっと善を行いましょう」ではなく、「たるまずに(倦まず弛まず)、しっかりとして」善を行うように、なのだろう、とよく理解できます。

 

サンパウロ修道会の神父様の面白いコラムを見つけました。

パウロの勧めは、単に「時のある間に」とか、「機会が訪れれば」とかいう意味ではなく、まさに今がその「機会」、「特別な時」なのだから、という意味です。
わたしたちは、善を行うための「特別な時」、「重要な時」を実感し、行動に移すよう招かれているのです。

訳文の違いから聖書を味わい直す | 聖パウロ修道会 サンパウロ 公式サイト

第4回 機会のあるごとに、すべての人に、善を行いましょう――訳文の違いから聖書を味わい直す
https://www.sanpaolo.jp/14296

読み比べる読み方、これもまたお勧めです。

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聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。
こうして、神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです。
(2テモテ3・16〜17 聖書協会共同訳)

 

つたわる言葉

中世ヨーロッパはラテン語が唯一の公用普遍語であったため、キリスト教ではラテン語を使ってその教えを広めていった、ということを以前書きました。

地方の話し言葉としてのラテン語は、ローマ帝国崩壊後は各地でそれぞれ独自の変容を遂げていき、フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語などの言語が生み出されることになりました。

これらの地方に伝播されたラテン語(Vulgar Lain、俗ラテン語)と、その各地方の現地語とが時とともに融合し、各地で別々に発達し、ついに相互に通じなくなったのです。

「相互に通じなくなった」と聞くと、バベルの塔と聖霊降臨について思い浮かびます。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。
そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
(使徒言行録2・1~3)

 

聖書は、冒頭からこのことを警告しています。
バベルの塔の話について考えましょう(創世記11・1―9参照)。
この話は、人間、被造物、そして創造主とのきずなをないがしろにしながら、天(=わたしたちの行き先)にたどり着こうとする時に起こることを描いています。
つまり、他者のことを考えずに、ひたすら上へ登ろうとするたびに、このようなことが起こるのです。
自分のことだけなのです。
わたしたちはタワーや超高層ビルを建てていますが、共同体を衰えさせています。
さまざまな組織や言語を統一化していますが、文化的な豊かさを抑えつけています。
地球のあるじになろうとしていますが、生物の多様性と生態系の均衡をむしばんでいます。

聖霊降臨はバベルの塔とはまったく逆です。
聖霊が風と炎となって天から降り、高間に閉じこもっていた共同体に、神の力を与え、すべての人に主イエスのことを伝えるためにそこから出るよう駆り立てたのです。
聖霊は、多様なものを一致させ、調和をもたらします。
バベルの話にあるのは調和ではなく、勝ち取るための前進だけです。
そこでは人は単なる道具、「労働力」にすぎません。
しかし、聖霊降臨においては、わたしたち一人ひとりが一つの道具、共同体の建設に全身全霊で参加する一つの共同体という道具なのです。

教皇フランシスコ、2020年9月2日一般謁見演説より抜粋
https://www.cbcj.catholic.jp/2020/09/02/21390/

言語だけでなく、互いになにもかもが通じなくなったかのような世界情勢です。

物理学者のアインシュタインと精神分析家のフロイトの往復書簡、『ひとはなぜ戦争をするのか』というものがあります。

ナチスが政権奪取する前年の1932年に、アインシュタインは「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」というテーマでフロイトと書簡を交わしました。

それにたいしてフロイトは、「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにもない!」と明言しました。
さらに、戦争とは別のはけ口を見つけてやればよいと言い、最期にはこう書いています。

「文化の発展を促せば、戦争の終焉ヘ向けて歩み出すことができる!」

二人ともユダヤ人で、亡命したためホロコーストの犠牲にはならずにすんだのですが、現在の世界に彼らが生きていたら、どんな発言が聞かれたでしょうか。

戦争に対する互いの主張が全く嚙み合わず、果たして何が正しく、何が正義だというのかすら分からない(理解できない)、現在の世界です。
そもそも、正しい戦争などというものはないでしょうが、、、。

争っている国同士は、言葉が通じない、のではなく、心をふさいでいるのだと思うのです。

種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。
道端のものとは、こういう人たちである。
そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。
御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。
この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
(マルコ4・14~19)

今週もマルコが読まれています。
宮﨑神父様はいつも、「朗読される箇所の前後を読みなさい」とおっしゃいます。

聖書、特に福音書は、キリスト者でなくても、誰が読んでもその真意がつたわる言葉だと思っています。

自分の根とは何でしょうか。
揺るぎのない信仰への信頼、とでも言いますか、わたしたちキリスト者が持つべき理想ではないでしょうか。

お説教で、宮﨑神父さまはこうおっしゃいました。

「神からの恵みを、どう自らが成長させるかが大事です。
育てるのは神様ですが、手入れするのは自分です。
神様のお恵みに感謝し、努力する。つまり、不必要な雑草は時々自分で抜かなければなりません。」

メアリー・ヒーリーは、このくだりについての解説で、こう書いています。

「イエスの弟子たちが彼自身の苦しみの神秘を分かち合う上で体験する妨害や失敗は、その計画において予期せぬものではあっても、必要不可欠な部分なのです」

石だらけの人生で、深くはった根を持たず、茨の中に暮らすように心に隙間が多い自分である、と理解すること。
その上で、揺るぎのない信仰への信頼を渇望し、日々を新たに前進する。
神様に対して心をふさがず、「またやってしまった」と反省できることも、内的進歩のためには必要不可欠だと思います。

 

フロイトの言うように、心がささくれたようになった時には、美しい音楽を聴くのが一番の薬です。

普段クラシックを好んで聴かない方でも、これを聴けば喜びの気持ちが湧く、と保証します!

 

新しい楽しみ

NYに聖書を持って行ったことを書きましたが、妹は友だちが来たとき、「姉は毎日聖書を読んでいる」と驚いた様子で話していました。
(毎日読んでいた訳ではないのですが、、、、)

その彼女から、「ボーイフレンドがプロテスタントの熱心な信者で、聖書を勉強してほしいと言われたの。Aki(わたしの妹)に聖書を借りて読んでるけど、眠くなるだけで全然意味がわからない。どうしたらいい?」と聞かれました。

「一人で家で聖書を読んでも、理解は難しいよ、、、。」
その時は、そう答えました。

『信仰が先か、聖書が先か。』その時は、そう思ったのです。

聖書をどこから読むかによっても、「面白くない」「意味がわからない」という感想だけに終わってしまいます。

福音宣教の3月号、高橋洋成さんのコラムに、
「マルコの福音書はせわしなく場面が切り替わる。導入部分のイエスの出現と洗礼、荒野の試練、宣教の開始、使徒たちとの出会いに至るまでの経緯を、マタイとルカでは4〜5章を費やしているのに、マルコはたったの1章で駆け抜ける。」
と書いてありました。

今では1番最初に書かれた福音書はマルコである、とわたしたちは認識していますが、実はこの福音書は他の3つの福音書に比べて軽視されていたという歴史があります。
マルコに関する注解書は、中世のはじめまで何一つ世に出ることはなかったのです。

マルコの661節のうち、90%がマタイの中に複製され、55%はルカにあります。 

マルコは使徒たちの幾つもの欠点を赤裸々に描写しているのに、マタイとルカはそれを柔軟に扱っています。
そして、イエスのかなり人間臭いさまざまな活動と感情を描いているのに、マタイとルカはそれを削除しています。 

そのような細かな研究が進む中で、20世紀になってようやく「マルコが最初に書かれた福音書である」と学者たちは結論づけるに至ったのです。

 

 

冒頭に書いた妹の友人に、この本を薦めようと思います。 

この本は、聖書の師匠から「素晴らしいから、ぜひ読んで!」と教えてもらった、今年の1冊目です。

マルコを1章1節から、1節ずつ、様々な解説文を添えながら深く、それでいて分かりやすく解きほぐしていきます。

例えば、イエスの洗礼についての箇所
1・9の解説
「彼自らが、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けるために、悔い改める謙遜な人物の役目を担って現れるというのは驚くべきこと」
「キリストが洗礼を受けたのは、ご自分が水で聖化されるためではなく、水を聖化するためであり、ご自分が水で洗われることによって、ご自身が触れた川の水を清めるためだった。」

1・10の解説
「イエスが水から上がってくることに応えて、上から聖霊が降っています。神は恐らく、その民が不浄から清められた後に初めて、彼らのもとに降って来るのでしょう。イエスの上に霊が降るということは、十字架によって罪が取り除かれた後、聖霊降臨の時に教会にその霊が降ることを予示しています。」

11章のイエスのエルサレム到着の場面についての解説
「イエスの時代に、神殿は改修され、エルサレムはほとんど地上に存在する壮麗さの頂点を極めていました。
ユダヤ教の三大祝祭、過越祭、五旬祭、仮庵祭がそれぞれ祝われる頃になると、その町は巡礼者であふれ、通常4万人いる人口が三倍以上にもなりました。
さらに、イエスの言葉と預言的行為が明らかになるにつれ、その聖都は頽廃と宗教的偽善によって損なわれていきました。
この都が著しく荒廃することを彼は警告しましたが、紀元70年にエルサレムがローマ軍によって徹底的に破壊されたときに、それは悲劇的にも成就しました。(マルコ13・1〜30)」

とても具体的で深く、そしてわたしにとっては時折、とても新しい視点で解説されていて、読んでいて多くの発見があります。

マタイ、ルカ、ヨハネについても書かれているようですので、翻訳されるのが楽しみです。

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先日の記事で「日本人には知らない人に挨拶をする習慣はない」ということを書きましたが、飛行機を降りる時に「これが日本人」と思ったことがありました。

わたしはいつも、空港内は車椅子でのサポートを頼むため、一番最後に飛行機を降ります。

そのため、全員が下りるまで座席で待つのですが、乗客一人ひとりに「ご搭乗ありがとうございました」と挨拶するCAさんに対して、ほぼ全員の日本人乗客が頭を下げていたのです。

おそらく、皆さんは「礼節を重んじた」というような感覚ではなく、自然とそうされたのではないでしょうか。

心と身体に染みついた、そうした自然な振る舞いが、日常生活の中でもっと表現されれば、と思うのです。

 

 

学ぶ喜び

勉強は何歳からでも始められる、とはよく言われますが、時間はあっても、気力とタイミングが必要です。

以前、わたしが大学の学部を選ぶときは「就職に有利かで決めた」、と書きました。

今、もしまた大学で学ぶ機会があったら、迷わず「神学部」を選びます!

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福岡の神学院が閉鎖となり、最後の神学院祭でした。

このホームページにこうして記事を書くようになって、6年ほどになりました。
宮﨑神父さまが「あなたの好きなように書いていい」と言ってくださり、聖書のこと、神父様方に教わったことなどを「好きなように」書いてきました。

学びながら、書きながら、聖書の奥深さの魅力にどんどんハマり、たくさんの本を読むようになりました。
「もっと学びたい!」
18歳の自分は絶対に選ばなかった神学部に、今は興味津々です。

現在、ローマで神学を勉強をされている船津神父様は、最近Facebookで発信してくださっています。
イタリア語、ヘブライ語、ドイツ語だけでなく、ギリシャ語、ラテン語でも聖書と神学を深く学ばれている様子に、わたしもワクワクさせられています。

 

福岡の神学院で神学を学ばれた、たくさんの神父様方とお目にかかることができました。

 

 

 

久留米教会の彼ら二人が、侍者を務めてくれました。

久しぶりに久留米の信者たちと交流してくださった森山司教様に、みんな大喜びでした。

 

わたしは見張り場に立ち、砦にしっかりと立って見張りをしよう。
主がわたしに何を語られ、わたしの訴えに何と答えられるかを見るために。
主がわたしに答えておおせになった、「啓示を書き記せ。それを読む者が容易に読めるように、板の上にはっきりと書きつけよ。
この啓示は定められた時までのもの、終わりの時について告げるもので、偽りはない。
もし、遅れるとしても、それを待ちなさい。
それは必ず来る。
それは遅れることはない。

見よ、心がまっすぐでない者は崩れ去る。
しかし、正しい人はその誠実さによって生きる」。
(ハバクク2・1〜4)

ここでいう誠実とは、「信仰」「アーメン」と同じ語源です。
主の日にも、神への不動の信頼を持つ人は「生きる」と書かれています。

この聖書の箇所を文字通りに信じるかどうか、それが神学ではなく、神様の導きを信じること、信じて待つことの意味、そうしたことを考えさせらるのが聖書の面白さだとわたしは思っています。

わたしは福音を恥としません。
福音はユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じるすべての人の上に救いをもたらす神の力だからです。
人を救うのは神の義であり、それはひとえに信仰を通して与えられることが、福音に現われています。
正しい人は信仰によって生きる」と記されているとおりです。
(ローマ1・16〜17)

こうして新約聖書を紐解くと、必ず旧約の箇所と結びつきます。
神の義、つまり神の愛・優しさはイエス様が来られて最高潮に達しましたが、旧約の時代からもともとユダヤ人の間では理解され、大切な教えとして信じられていました。

ハバクク書は紀元前600年ごろに書かれたとされています。
2600年前に書かれたことを、2000年前の人々が守り継ぎ、それを現代のわたしたちがまた読んでいるのです。

そのように学びました。
このような読み方、旧約と新約を同時に読むことを学びました。

読書の対象としても、聖書は本当に面白いのです!

わたしの聖書の師匠の教えです。

 

運命を愛する

自分の運命について考えたことがおありでしょうか。

「あの人は運がいい」「あんな事故にあうなんで運が悪い」などという言い方をしますが、運命だと受け入れるにはあまりにも辛い現実もあります。

Amor Fati

ラテン語で、『運命を愛せよ』という意味なのだそうです。

運命は選べないが、寄り添うことはできる。
そう解釈する言葉です。

運を良し悪しで判断することはあまり好きではないのですが、この単語を知り、「寄り添う」という表現に惹かれました。

聖書では、運命のことを「神の摂理」(Providentia)という言い方をします。

すべての被造物は、神がお望みになる、究極の到達点に「向かう途上」にあるものとして造られました。
神がこの途上にある私たちを導かれるはからいのことを、「摂理」と呼んでいます。

世界は、何らかの必然性、まったくの運命、偶然などの産物ではありません。
神は、御子と聖霊を通して被造界の存在を保ち、これを支え、これに活動する能力を与え、完成へと導かれます。

カテキズムでは、このように説明されています。

畏れおののきながら、自分の救いを力を尽くして達成しなさい。
あなたがたのうちに働きかけて、ご自分のよしとするところを望ませ、実行に移させるのは神だからです。
(フィリピ2・13)

カテキズムによれば、聖書のこの箇所の通りに、神様が内側から働きかけることによって、わたしたちの自由を尊重しながらも、自らの行いと祈り、苦しみによって協力する力を与えてくださるのだ、ということです。

運命、摂理について考えてみたのは、自分の「信仰史」を書いてみたからなのです。

信仰を持つきっかけとなったこと、自分のこれまでの人生に信仰がどのように関わってきたのか、今現在の日々のなかで信仰がどのような位置づけにあるか。

きちんと書き残しておきたい、と突然思いつきました。

書いているうちに、自分の人生そのものが整理されていくようでした。
文字にしたことで、人生の節目節目で信仰が大きな支えであったこと、ターニングポイントとなった時期には寄り添っていた力があったことを感じていた、と改めて理解しました。

運命という言葉のイメージは、「変えられないもの」ではないでしょうか。

ですがわたしたちキリスト者は、「神が寄り添い、導かれるもの」である人生が摂理である、と心で理解しています。

主は憐れみ深く正しい方
罪人に道を示し、
へりくだる者を正義に導き、
へりくだる者にその道を教えてくださる。
主は、その人に選ぶべき道を示してくださる。
(詩編25・8〜9、12)

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子をあわれまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。
(イザヤ49・15)

神はわたしたちを、わたしたちの一人ひとりを決して忘れない、という『もっとも慰めに満ちた真理』が摂理である、とフランシスコ教皇はおっしゃっています。

キリスト者として、このことを心にしっかりと刻んでおけば、「運が悪かった」などとは決して思うことはないでしょう。

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2日の夕方、韓国の安東(アンドン)司教区・南城洞(ナンソントン)教会から30名の巡礼団が久留米教会を訪問されました。

長崎への巡礼が目的でしたが、途中の久留米に立ち寄り、ミサを捧げるために訪問してくださったのです。

言葉はまったく分かりませんでしたが、ミサの雰囲気の中に、同じキリスト者として神様が与えてくださった摂理への感謝の気持ちを感じたような気がしました。