カテゴリ:聖書

神様への文句

空はすっかり秋です。
猛暑日も、きっとこの日曜日が最後でしょう。(希望)

今週は、ちょっと痛いお話しを。

事故や病気で手足を切断、もしくは神経を損傷して感覚を失った人が、以前と変わらず存在するかのように感じている手足を「幻肢」と呼びます。

そして、幻肢を経験している方の約5〜8割は「幻肢が痛い」ことに悩まされています。
この痛みが「幻肢痛」と呼ばれるものです。

幻肢痛は、無いはずの手足が刃物で裂かれるような、電気が走るような、しみるような、痙攣するような、こむら返りするような、ねじれるような、など、感じる(幻の)痛みは様々です。

わたしは、20歳で右足を離断しました。
つまり、20年間は脳が右足のことを記憶していたのです。
幻肢痛は、この「脳の記憶」が消えないために起こると考えられていますので、治療法はないと聞いていました。

術後数日はこの痛みに悩まされた記憶がありますが、わたしのようにスパッと諦めがついた人は、あまり長い期間痛みは続かないようです。

ところが、今頃になってこの痛みが襲いかかり、眠れない夜を過ごしたのです。
幻の痛みであるとはいえ、雷に打たれたような(打たれた経験はありませんが・・・)、のたうち回るほどの痛みでした。

 

わたしの神よ、わたしの神よ、
なぜ、わたしを見捨てられたのですか。
なぜ、あなたは遠く離れてわたしを助けようとせず、叫び声を聞こうとされないのですか。
わたしの神よ、昼、わたしが叫んでも、あなたは答えられません。
夜、叫んでも、心の憩いが得られません。
(詩編22・2〜3)

大袈裟ではなく、本当にこのような心境でした。

願う時も、祈る時も、感謝する時も、文句を言う時も、やはり相手は神様なのです。

わたしの神、主よ、わたしが救いを求めたとき、あなたはわたしを癒してくださいました。
主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げてくださいました。
わたしが穴に落ちかかったとき、命を新たにしてくださいました。
主の怒りはほんの一瞬、その厚意は一生。
夜は嘆きに包まれ、朝は喜びに明ける。
(詩編29・3〜6)

主はわたしの求めに応えて、あらゆる恐れから助けてくださった。
主を仰ぎ見る者は輝き、恥じて顔を赤らめることはない。
主は哀れな者が叫び求めたとき、耳を傾け、あらゆる悩みから救われた。
主を畏れる者の周りには、み使いが陣を敷き、彼らを助け出す。
(詩編34・5〜8)

 

以前、『詩編で祈る』という小さな本をいただきました。

それ以来、辛いことがあったり、心が落ち着かなくなると、詩編を開く習慣ができました。

幻肢痛が起きた初日は、聖書を開く余裕はありませんでした。
2日目の夜、どうにか心の平安を得たくて、詩編を読みました。
もちろん、全く頭に入ってきませんでしたが。

ダメ元で病院に行き、主治医に相談したところ、なんと!今は緩和するお薬があったのです。
医学の進歩はすごいですね!

あまりに神様に文句を言ったので、「まぁそう言わずに、病院に行ってみなさい」と言われた気がしました。

 

子よ、主のもとで仕えたいのであれば、お前の心を試練に備えよ。
心を正し、耐え忍び、艱難の時に慌てふためくな。
主に寄りすがって離れるな。
身に降りかかるすべてのことを甘んじて受けよ。
主に寄り頼め。
主はお前を助けてくださるだろう。
お前の道をまっすぐにし、主に希望せよ。
主を畏れる人々よ、主の慈しみを待ち望め。
道をそれるな。倒れるかもしれないから。
主を畏れる人々よ、主に信頼せよ。
お前たちの報いは、失われることはない。
(シラ書2・1〜8) 

シラ書2章のタイトルは、『試練についての心得』となっています。

ちょっと痛かったくらいで大袈裟な、という気が自分でもしますが、わたしなりに色々な艱難を経験して生きてきましたので、そのような時に「聞きたかったのはこれ!」と言う聖書の言葉に出会うのは、至福の時です。

こうした時、いつも思うのです。
世の中には、悩みや痛みを抱えている人がたくさんいるのだ、と。

3日のお説教で宮﨑神父様がおっしゃったことは、まさに今のわたしが求めていたものでした。

「自分の苦しみの時に、イエス様の御受難を重ねてみてください。
宗教が重んじられない今の時代だからこそ、より一層しっかりと自分の信仰を生きなければならないのです。」

皆さんは、どういう時に聖書を開きますか?
友人は、こうしてわたしがここに紹介する聖句をきっかけに、その箇所を読むようになった、と言ってくれました。

以前も書きましたが、「無人島に何か持って行けるとしたら?」と聞かれたら、わたしは迷わず「聖書とワイン」と答えます。

 

考えるちから

日中は35℃を超える日もありますが、朝晩の風、空気が少しずつ変わってきているのを感じます。

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このお盆休みに、姪の大学選びについて一緒に考えていて、色々な驚きと発見がありました。

わたしが大学を選んだ時は、もちろん実際に見学にも行きましたが、「偏差値」と「就職に有利か」だけがポイントだった記憶があります。

歴史や考古学に興味があったわたしが史学科を選んで先生に相談したら、「史学科に行っても学校の先生にしかなれないよ」と言われ、無難な経済学科を選択したのです。

「リベラルアーツ」という学問をご存知でしょうか。

現代社会のさまざまな問題に立ち向かうための「総合力」を養う教育のことです。
単に知識を身につけるだけでなく、実践的な知性や創造力を養うための学問です。

リベラルアーツの起源は、古代ギリシャ・ローマ時代の「自由七科(じゆうしちか)」にあります。
自由七科とは、「文法」「弁証」「修辞」「算術」「幾何」「天文」「音楽」の7つを指します。
当時、リベラルアーツは、人間が自由に生きていくため、束縛から解放されるための素養とされていました。

時代の変化によって、近年日本でもリベラルアーツ教育が注目され、大学教育で取り入れられています。
学部・科目横断的に幅広い分野を学び、問題発見・課題解決型の実践的な学習スタイルが採用されているのが特徴です。
テクノロジーの発展やグローバル化によって複雑化する社会における「答えのない難問」を解決するには、幅広い知識を持ち、さまざまな角度から物事を考えられる柔軟な思考が必要とされています。

時々ご紹介する随筆家の若松英輔さんは、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授でもいらっしゃいました。

富が人生において望ましい宝であるなら、どんなことにも万能な知恵に勝る富があるだろうか。
賢慮がものを作り出すとすれば、万物の中で、知恵に勝る作り手がいるだろうか。
人がもし義を愛するなら、知恵の働きの実りこそ徳である。
知恵は節制と賢明、正義と剛毅を教える。
人生において、これらよりも人に益するものはない。
また、もし人が広い体験を得ようと望むなら、知恵こそが昔を知り、未来を推し量り、言葉のあやを悟り、謎を解き、徴と不思議、季節と時代の移り変わりを予見する。
(知恵の書8・5〜8)

知恵の書は、ユダヤ教、プロテスタントでは聖書と認められていません。
しかし、道徳生活においての考察がわかりやすく書かれたこの書物は、現代のわたしたちにも色褪せることなく、自ら考えるちからを「知恵」によって養う必要性を説いていると考えます。

「知恵」すなわち、わたしたちが神様から生まれながらに授けられた能力は、生かすも殺すもわたしたち次第です。

わたしのように勉強=暗記力が求められた時代の学び方では、リベラルアーツという実践的な知性や創造力を養うことはできません。

ハワイで起きた山火事では、住民に危険を知らせる警報サイレンを作動させなかったことが被害の拡大を招いた、と問題になっているようです。
サイレンが「津波用」だったから、という理由のようですが、「もしもサイレンが鳴っていたら」という議論には、双方の言い分に違和感を覚えました。

サイレンが鳴っていたら、火の手のある山の方に避難することになり、さらに被害者が増えていた。
サイレンが鳴っていたら、もっと早く危険を察知することができ、被害は抑えられたはず。

事後になって「もしも」と争うことは、本来神からわたしたちに与えられた考えるちからを養う妨げにしかならないように思うのです。

20日のミサの福音書朗読は、マタイ15章のカナンの女のエピソードでした。
わたしは、彼女が大好きです。
賢く、熱意を持った、立派な信仰の持ち主であり、パレスチナの先住民といういわゆる『異邦人』の彼女は、弟子たちだけでなくイエス様からも冷たくあしらわれます。

イスラエル民族の救いのために遣わされていると自負していたイエス様は、乞い願う彼女にこう言い放ちます。

わたしはイスラエルの家の失われた羊のためにしか遣わされていない。
(マタイ15・24)

まず子供たちに満腹するまで食べさせよう。
子供たちのパンを取って子犬に投げ与えるのはよくないことだ。
(マルコ7・27)

並行箇所であるマルコに書かれたこの言い方は、ちょっと冷たすぎると思いませんか?
子供たち=ユダヤ人、子犬=異邦人を指しています。

主よ、ごもっともです。
でも、食卓の下にいる子犬も、子供たちのパン屑を食べます。
(マルコ7・28)

あっぱれ!と言いたくなる彼女の名回答です。
彼女には、立派な信仰だけではなく、考えるちからが備わっていたのだと感じます。

宮﨑神父様は、この箇所についてお説教でおっしゃいました。

「苦しい時の神頼み、という人も多いが、この話では、彼女の日頃からの信仰の姿をイエス様が見抜かれたのだ。」

さまざまな角度から物事を考えられる柔軟な思考を磨き、自分がどうすべきかを考えるちからを養い、賢い信仰を生きたいものです。

 

信仰の誇り

1998年公開の『プリンス・オブ・エジプト』(The Prince of Egypt)を久しぶりに観ました。

出エジプト記の、モーセ率いるイスラエル人のエジプト脱出を描いた、ミュージカルアニメーション映画です。
『十戒』『ベン・ハー』『パッション』などの作品と並んで、聖書の映画化としては史上最高の作品と評価されています。

25年前の作品ですが、その映像と音楽の素晴らしさは全く色褪せていません。
ひとつには、ストーリーが旧約聖書のとおりであり、余計な脚色がない、わたしたちがよく知っている、あのモーセの物語だからです。

わたしが一番好きな曲であると言っても過言ではない、テーマソング「When you beleive」は、ホイットニー・ヒューストンとマライア・キャリーによる美しいデュエットソングです。

イスラエル人の脱出、と先ほど書きましたが、映画の中のセリフでは「わたしはヘブライ人だ」とモーセが言っていました。

イスラエル人、ヘブライ人、そしてユダヤ人。

ヘブル(ヘブライ)人(Hebrew) 
➡︎他民族からの呼び名。
特にエジプトの奴隷時代にそう呼ばれた。
「国境を越えてきたもの」「川向こうから来た者」の意味。
イスラエル人が異民族に自分を紹介する際に用いた言葉。

ファラオは自分の民全体に命じて言った、「ヘブライ人に男の子が生まれたなら、みなナイル川へ投げ込め。しかし女の子はみな生かしておけ」。
(出エジプト1・22)

イスラエル人(Israeli)
➡︎神から与えられた自らの呼び名。
現在のイスラエル人国家の市民を指す。

「お前の名はもはやヤコブではなく、イスラエルと呼ばれる。
お前は神と闘い、人と闘って勝ったからである」。
(創世記32・29)

ユダヤ人(Jew)
➡︎“バビロン捕囚”以降の呼び名。

いずれの呼び方にしても、自らの民族性に誇りを持っていることが感じられます。

この映画を観て強く感じるのは、「このストーリーを4000年以上言い伝えられて来たユダヤ人が、自分たちのルーツや信仰に誇りを持つのは当然のことだ」ということです。

実際の出来事かどうかは問題ではなく、言い伝えが書き残され、『自分たちの先祖は選ばれた民として神から導かれたのだ』と聖書に記されているということは、疑いようのない事実です。

アメリカに住む友人は「わたしはユダヤ人」と言いますが、映画ワンダーウーマンの主演俳優であるガル・ガドットは「わたしはイスラエル人です」と言っていました。

わたしは、生後八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民、しかも、ベニヤミン族の出身で、生粋のヘブライ人です。
(フィリピ3・5)

パウロも、自分を説明するときにこのように使い分けています。

 

しかし現実には、今の混沌とした、国家としてのイスラエルを見ると複雑な気持ちになります。
民族としての、国際的に認められた国としての誇りが、裏目に出ているのかもしれません。

西日本新聞7/6の朝刊の記事によると、1948年のイスラエル建国で故郷を追われたパレスチナ人が難民となって移り住んでいるジェニンという街がパレスチナ武装勢力の拠点となっており、イスラエルによる大規模な軍事作戦で多数の死傷者が出ました。
昨年末に誕生した、対パレスチナ強硬派のネタニヤフ政権の政策により、反発するパレスチナ人のユダヤ人襲撃も増えています。

エジプトから逃れて荒野を40年にわたってさまよったヘブライ人は、その経験から他国の寄留者や弱い立場の人を虐げてはならないと教えられてきた、と聖書で学んだわたしは、こうしたイスラエルのニュースをいつも注視しています。

 

イスラエルに巡礼した2019年は、エルサレムにいても危険が迫っているような状況ではありませんでしたが、最近は旧市街(神殿のあたり)でも砲撃が起きています。
巡礼の間、バスを運転してくださったのはイスラエルに住むアラブ人の男性でした。
アラブ人とはアラビア語を話す人のことで、そのうち、パレスチナ自治区に住む人をパレスチナ人と言います。

複雑です。
ユダヤ人vsパレスチナ人の問題は、とても複雑なのです。
おそらく、解決することはないのでしょう。
それぞれが、民族と信仰に誇りを持っているのです。

娘シオンよ、大いに喜べ。
娘エルサレムよ、歓呼せよ。
見よ、お前の王がお前の所に来られる。
またお前についても、お前と血で結んだ契約の故に、わたしは囚われ人となっているお前の民を、水のない穴から助け出そう。
囚われの身にあっても希望を持つ人々よ、砦に帰れ。
わたしはユダをわたしの弓として引き絞り、エフライムをその矢としてつがえる。
(ゼカリヤ9・9、11〜13)

出エジプト記24・6〜8にあるとおり、主はモーセを通してイスラエルと「契約の血」を結ばれたのです。

 

『プリンス・オブ・エジプト』はネットフリックス」でご覧いただけます。
テーマソングもyoutubeでぜひお聴きください。

 

疑いと信頼

「それは本当に当たり前か」

時には疑ってみることも必要です。

金曜日の大きなニュース、アメリカで長年採用されてきた「アファーマティブ・アクション」(積極的差別是正措置)が憲法違反であるとの判決がでました。
これは、1960年代に導入された、大学入学選考に際して黒人やヒスパニックの学生が一定の割合で優遇されるというものです。
「公正な入学選考を求める学生たち」の主張が認められた形です。

性的マイノリティーLGBTQに関して、性的指向や性自認についての特定の議論を学校の授業で行わないよう規定する法案、いわゆる「ゲイと言ってはいけない法」は、アメリカのマイアミ州で成立し施行されています。

昨年は、女性の中絶の権利を認めた1973年の「ロー対ウェイド」判決が覆されました。

アメリカは保守派が主流になってきた、と言えるでしょう。

黒人差別を禁止する流れでできたアファーマティブ・アクションが「白人差別だ」「不公平だ」とされ、性的マイノリティーの権利擁護が叫ばれる一方で「言ってはいけない」となり、、、、。

「人種や性的嗜好で人を差別してはいけないのは当たり前」と言われる一方で、他方の権利がこういった形で主張されるのも、また「当たり前」なのかもしれません。

 

サラは心の中で笑って言った。
主はアブラハムに言われた。
「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」
サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。
「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。
「いや、あなたは確かに笑った。」
(創世記18・12〜15)

サラは主のことばを信じず、疑っていました。

この後に続く話では、ソドムとゴモラの全住民を土地もろとも滅ぼされた、厳しい神です。
同性愛が「ソドムの罪」と言われる所以となっています。
続いて、主の使いによってソドムから脱出させてもらったロトと、その二人の娘の近親相姦による家系存続のエピソード。
38章にある、ユダとその息子嫁のタマルの同様のエピソード。

聖書の注釈には、「家系を存続しようとする意欲は理解できるが、許されることではない。キリストの系図にはタマルが入っている。」と書いてあります。

マタイ1章のイエス様の系図を見ると、確かにこのタマルや、娼婦であったラハブの名前があります。

神であるイエス・キリストは、由緒正しい家系のおぼっちゃまではありません。
いわゆる罪人や当時嫌われていた異邦人をルーツに持ち、しかもそのことを聖書に書き記されている、「人」なのです。

あなた方によく言っておく。イエスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない。
あなた方に言っておく。多くの人々が東からも西からも来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブとともに宴会の席に着く。
しかし、み国の子らは外の闇に投げ出される。
そこには嘆きと歯ぎしりがある。
(マタイ8・10〜12)

この「信仰」の意味は、その人を全面的に信頼して全てをその人に任せるという態度の現れのことです。
百人隊長は、イエス様に全幅の信頼を寄せました。

罪人であったとしても、その罪のためにその人の全てを疑ってはいけません。

あなた方によく言っておく。
徴税人や娼婦が、あなた方より先に神の国に入る。
なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなた方は彼を信じなかったが、徴税人や娼婦は彼を信じたからである。
あなた方はそれを見てもなお、悔い改めてヨハネを信じようとしなかった。
(マタイ21・31〜32)

その話は、そのニュースは本当か?!と疑ってみることは、ときには必要です。

そして、信じられないようなことでも、信仰によって全幅の信頼を持って受け入れた聖書の人々を自分に重ねてみることも、ときには大切でしょう。

アファーマティブ・アクションに関するニュース
https://www.yomiuri.co.jp/world/20230630-OYT1T50001/

ゲイと言ってはいけない法に関するニュース
https://lgbter.jp/noise/0155/

 

大事な掟

先週の父の日、友人男性たちは様々だったようです。
娘からプレゼントをもらえた人、「お父さんいつもありがとう」と息子から言ってもらった人、あと数時間で父の日が終わるのに何も起こる気配がない、、、と嘆いていた人。

我が家の場合は、父の一番のお気に入りの妹が帰ってきていたので、それが贈り物でした。

先日、ある神父様から「十戒の第4の掟はなんでしたか?」と突然質問されました。

「『あなたの父母を敬え』という、当たり前のことがわざわざ十戒に入っているのはどうしてだと思いますか?」と続けて質問されました。

答えは、カトリック教会のカテキズムにありました。

2005年に『カトリック教会のカテキズム綱要』編纂委員会委員長だったヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(故ベネディクト16世)は、以下のように述べられています。

カトリック教会のカテキズムは、「カトリックの教え全般についての正当な説明を行うことによって、教会が何を宣言し、どのような祭儀を執り行い、どのような生き方をし、日々どのような生活方針をもって祈るべきかをすべての人に知らせること」を目的としています。
これは、あらゆる年齢と境遇のキリスト信者の真理への渇きと、信仰をもたない人々の真理と正義への渇きとを満たすための、新たな源泉となるものです。

カテキズムは、(信仰を持たない人にも)わたしたちは人生をどう生きるべきか、何がわたしたちとこの世界に生きるに値する将来を与え得るのかといったことを教えてくれるものです。

 

第4の掟は、直接的にはこどもたちの父母との関係に関するものです。
この関係がもっとも普遍的なものだからです。
同じように、これは近親者との関係にも当てはまります。
(カテキズム2199)

父母と子どもたちの関係に留まらず、例えば教師に対する生徒の、上司に対する部下の、祖国に対する国民の義務にも及んで当てはめることができる、と書いてあります。

神の父性が人間の父性の源泉です。
両親が敬われる根拠はここにあります。
子どもたちの父母への尊敬は相互を結ぶきずなから生まれる自然の愛情によって培われます。
これこそ、神のおきてによって命じられているものなのです。
(2214)

「神様の父性が源泉、父なる神、わたしたちは神様のこども」、こうして紐解いて考えてみると、両親を尊敬し、感謝することは強いられるものではなく、自然と湧きあがるものだとわかってきます。

両親は、神の写しなのです。
地上を旅するわたしたちを、神様は「両親」に託したのです。

両親への尊敬(孝行心)は両親に対する感謝の心から生じるものです。
(2215)

心を尽くして父を敬い、また、母の産みの苦しみを忘れてはならない。
両親のおかげで今のお前があることを銘記せよ。
お前は両親にどんな恩返しができるのか。
(シラ7・27~28)

わが子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。
(箴言6・20~21)

両親へ従順の義務は子どもが後見から解除されるときに終わりますが、尊敬の義務のほうはいつまでたってもなくなるものではありません。というのは、その根拠が、聖霊のたまものの一つである神への畏敬にあるからです。
(2217)

イエス様は、世の中で最も弱い立場の人々を心に留め、癒し、導かれました。
そのことは、この第4の掟に繋がっていると言えます。

両親の老後や、病気・孤独・悲しみなどに際して、できる限りの物的・精神的援助の手を差し伸べなければなりません。
イエスはこの感謝の義務について語っておられます。
(2218)

モーセは、『お前の父と母を敬え』と言っている。
(マルコ7・10)

イエス様は、ファリサイ派の人々との問答でこうおっしゃり、神の掟を蔑ろにしていることを責められました。

 

この第4の掟に関するカテキズムを読んでいて、一番心に響いたのはこの箇所です。

孝行心は家庭生活全体の調和を生み出し、兄弟姉妹の関係にも影響を与えます。
両親への尊敬は家庭環境を明るくします。
(2219)

カテキズムではこの後、両親の子どもたちへの義務について述べています。
ここまで読んでみても、信仰の有無にかかわる書ではないことが伝わると思います。

わたしたちが大切にしなければならない掟、十戒のうち4から10は「当たり前のこと」なのです。
ですが、とても難しいのがこの第4の掟です。

この記事でお伝えしたかったことは、この2つです。

①神の父性が人間の父性の源泉である。

②両親への尊敬は家庭環境を明るくする。

今週も、心に刻みたい教えをいただきました。
カテキズムは、要約版もあります。