カテゴリ:御ミサ
沈黙のうちに
2024年10月の祈りの意向は、「使命を担い合う」ために。
教皇様は次のようにおっしゃっています。
わたしたちキリスト者は皆、教会の使命に責任を負っています。
すべての司祭が、すべての人がです。
信徒たち、洗礼を受けた人たちは、教会の中に、自分の家にいます。
そして、その家の世話をしなくてはなりません。
それはわたしたち司祭や修道者にとっても同じです。
一人ひとりが自分に得意なことをとおして貢献するのです。
わたしたちは教会の使命における共同責任者です。
わたしたちは教会の交わりの中で、参加し、生きています。
主なる神は言われた。
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。
人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。
(創世記2・18、21~22)
この箇所は、女性は男性の一部から造られたものであり、男性より劣っている、などという意味ではありません。
教皇様のお考えでは、こうです。
最初のアダムを深い眠りに落とされた後に、神が彼の脇腹からエバを引き出したように、十字架上での死の眠りに落ちた新しいアダムの脇腹からは、新しいエバである教会が生まれたのです。
(使徒的書簡「わたしはせつに願っていた」14)
わたしたちキリスト者は、いつも、旧約に書かれていることがどのようにイエス様によって成就されたのか、という並行的な読み方で聖書を理解する必要があります。
必要がある、というより、その方が何倍も、聖書を身近で面白いものに感じられるはずです。
新しいエバである教会の一員として、冒頭の10月の祈りの意向のように、教会に集うわたしたち皆が、その使命における共同責任者であることに誇りと喜びを感じることができますように。
教皇様の使徒的書簡「わたしはせつに願っていた」は、70ページほどの薄い本ですが、毎週ミサに集うわたしたちが理解しておくべき教えがぎっしりつまっています。
イエスは言われた。
「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」。
(ルカ22・15)
過越の食事であるミサ、その『祭儀の美』としての典礼について、教皇様の教えが述べられています。
その中でわたしが特にご紹介したいと感じたのが、ミサにおける「沈黙」の重要性についてです。
洗礼を受けた時、代母であるシスターから「ミサ中に何度か『祈りましょう』という場面があるから、その時は目を閉じて頭を少し下げて、静かに祈るのよ」と教わりました。
ミサのなかでの所作については、以前このページに書いたことがありますが、わたしはミサの中で特に大切にしているのが、この『祈りましょう』の時間です。
会衆全体に属する儀式行為の中で、沈黙は絶対的な重要性をもっています。
感謝の祭儀全体は、それに先立つ沈黙と、展開する儀式のあらゆる瞬間を特徴づける沈黙に浸されているのです。
回心の祈りの中に、「祈りましょう」という招きの後に、ことばの典礼の中に、奉献文の中に、そして聖体拝領の後に、沈黙が存在しています。
典礼的な沈黙とは、祭儀の行為全体にいのちを吹き込む聖霊の現存と働きのシンボル(象徴)なのです。
だからこそ典礼的な沈黙は、聖霊の多面的な働きを表現する力を持っているのです。
沈黙はみことばを聞く心構えを呼び覚まし、祈りを目覚めさせます。
そして、沈黙はわたしたちを、キリストの御からだと御血への礼拝へと向かわせます。
これらすべての理由から、わたしたちは細心の注意を払って沈黙と言うシンボリック(象徴的)な動作をするように呼ばれているのです。
沈黙を通して、聖霊はわたしたちを磨き、形づくります。
(52)
ミサのなかでの沈黙は、ある意味で「間(ま)」とも言えるかもしれません。
展開する儀式、シンボリックな所作、みことばの連続の中に織り込まれた「間」。
聖霊の働きを、わたしたち一人ひとりが体感するための「間」。
形式的に祭儀を進めない(受けない)ように、ミサの先唱をする際にわたしが特に気を付けているのも、「間」です。
ひとつひとつの典礼が進むたびに、わたしなりにごく小さな時間を置くようにしています。
久留米教会では、ミサの5分前までロザリオの祈りを行います。
そして、ミサまでの5分間、それぞれが静かに沈黙し、祈っています。
ミサが終わると、(すぐに立ち上がって帰る方もいますが)ほんの少しの時間だけ、皆がまた座り、沈黙の時間を持ちます。
沈黙にはじまり、祭儀中に訪れる沈黙を守り、沈黙のうちに終える。
次のミサで、これまでよりもう少しだけ、この沈黙を意識してみませんか?
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上智福岡高校の生徒たちが、夏休みに行ったカンボジアでの研修の報告をしにきてくれました。
毎年実施されている研修だそうで、多数の応募者の中から選抜された12名が参加したとのことでした。
久留米教会から派遣されている中島 愛さんとの交流もあったようで、貴重な体験をした高校生たちの生き生きとしたレポートに、多くの質問が投げかけられました。
人生
2024年の全国の100歳以上の高齢者は、2023年から3000人近く増えて9万5000人あまりで、女性が8万3958人(全体の88%)、男性が1万1161人との統計が発表されました。
1924年(大正13年)は、シャネルがリップスティックを初めて発表した年であり、日本初の大規模多目的野球場である甲子園球場が竣工し、越路吹雪・淡島千景・竹下登・相田みつを・力道山などが誕生した年でもあります。
1924年生まれの山頭原太郎神父様は、9/20に100歳を迎えられました。
まだまだお元気で、相変わらずお茶目で、みんなの人気者です。
以前は時々久留米教会のごミサに来てくださっていましたし、現在は久留米の施設にいらっしゃるということもあり、久留米教会で100歳記念ミサを開催しました。
アベイヤ司教様、森山司教様を始め、神父様方が各所からお越しになり、盛大なお祝いのミサとなりました。
山頭神父様がお説教で、色々なお話をしてくださいました。
365日前の、まさに今日、救急車で病院に運ばれました。
悪魔にやられた、と思うほどの痛みに苦しみました。
そのちょうど1年後に、司教様から「ミサで説教をしなさい」と言われてこの場にいます。
神様がこうして、また司祭としての道に帰してくださいました。
今、聖母の家という施設で、なんでもやってもらえて何不自由ない生活をしているのに、やはり寂しいです。
ステーキもトロも、何にもいらない。
ただ、どこかの教会で信者と過ごして、ミサを捧げたい。
それだけが望みです。
カトリック教会は今、衰え始めているのかもしれませんが、イエズス様は全く衰えていません。
司教や司祭だけではなく、あなたたち一人ひとりにイエズス様が力を与えてくださっていることを忘れないでください。
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人生100年時代、と言われて久しいかと思いますが、自分がまだ折り返したばかりなのかと思うと、、、、(;'∀')
人の生とは、語り尽くすことのできない、100人100様の生き様です。
お前は白髪の人の前で起立し、老人を敬い、お前の神を畏れなければならない。
(レビ記19・32)
白髪は栄光の冠。
それは正義の歩みによって得られる。
(箴言16・31)
ヤコブの家よ、わたしに聞け、イスラエルの家のすべての残りの者よ、母の胎にいた時からわたしに担われてきた者たち、腹にいた時からわたしに背負われてきた者たちよ。
お前が老いるまで、わたしはその者である。
白髪になるまで、わたしは担う。
わたしは造り、わたしは背負う。
わたしは担い、わたしは救う。
(イザヤ46・3〜4)
このイザヤの言葉は、こうして書いていて、涙が出そうになります。
あと残りの人生がどのくらい与えられるか、見当もつきませんが、背負って救って頂かなければ。
山頭神父様の人生は、県内各地から集まってくださった、この参列者の溢れんばかりの愛が物語っています。
わたしが今すべきこと
お盆休みの間、皆さんも、ご家族が帰省されていたり、ご家族の元を訪ねて遠出されたりと、それぞれの過ごし方をされていたことでしょう。
お盆、というのは仏教に起源がある風習なのかもしれませんが、日本の夏の習慣として定着しています。
改めて家族のことを深く想う、日本の美しい季節です。
わたしも、横浜に住む甥を預かって、美味しいものを食べに行き、宿題を見てあげたりお買い物をしたり、と、楽しい時間を過ごすことができました。
子よ、すべての行いに注意し、すべての振る舞いに節度を守りなさい。
お前自身が嫌うことを他人にしてはならない。
(トビト4・14)
信仰を持たない家族に、自分の生き方を示して理解してもらうのは、そう難しいことではないと思っています。
わたしは、妹と、亡くなった母が信仰を持っていますが、姪・甥は洗礼を受けていません。
だからこそ、機会あるごとに、「人からしてほしいと思うことを、人にもしなさいね」と伝えるようにしています。
小さな頃から、機会があればごミサに連れて行き、一緒に祈って一緒に歌って、そうやって大きくなった姪と甥です。
カトリックの教義や信仰の意味については、おそらく全く理解していないでしょうが、わたしは彼らとミサの時間を共にすることが大切な喜びです。
聖母の被昇天の祝日のごミサに、甥を連れて行きました。
ジュゼッペ神父様のお説教は、今のわたしの心境を表してくださったような、とても大切な教えでした。
マリア様の被昇天については、聖書には全く書かれていません。
1950年に、教皇様が正式にカトリックの信仰として確立されました。
このことは、マリア様がわたしたちの父である神のお母様であることを、改めて「信じるべきこと」として宣言されたと理解するべきことです。
わたしたち信者は、胎内の子が喜んで踊ったように、いつも喜んでいなければなりません。
そして、周りの人も喜ばせなさい。
あなたが出会う人々に、あなたがもらっているお恵みを与えなさい。
そうすれば、イエス様があなたを通してあなたにも周囲の人にも、喜びを与えてくださいます。
わかりやすい、とても心に響くお話でした。
中2の少年にこのお話が響いたとは思いませんが、わたしが受けているお恵みを彼にもお裾分けしていることを、いつか気付いてくれたら、と思っています。
いつもこのことを基本として、わたしが家族の中ですべきことはなにか、を考えています。
こうして、聖書を開きながら書いている横で、甥はイヤイヤながら夏休みの宿題をしています。
この瞬間も、わたしにとっての思い出深いお恵みのひとときです。
すべての思慮深い人から助言を求めなさい。
そして、有益な助言を軽んじてはならない
いかなる時にも主である神をたたえ、お前の道をまっすぐにし、お前の歩みと計画とが栄えるように神に祈りなさい。
ただ主だけが、ご自分の欲する人にすべての善いものを与えてくださるからである。
(トビト4・18〜19)
受けているお恵みを家族にもお裾分けし、わたしの歩み(生き方)と計画(家族の幸せ)を神様が力強く導いてくださるように、と毎日毎日お祈りしています。
神様が、今もいつも、わたしたちの祈りを聞き入れ、導いてくださいますように。
傍島神父様による初ミサ
23日は、神言会の傍島神父様による初ミサでした。
宮﨑神父様が東京の吉祥寺教会に赴任されていた時に、「司祭になりたい」と相談を受け神言会を紹介したという経緯があり、今回の初ミサのお申し出となったそうです。
小神学校に行かれていたのですが、そこが閉鎖されることになり、そのまま一度神学校をお辞めになったそうです。
美大を卒業後、美術教師として働いておられましたが、やはり「司祭になりたい」との思いから、再度挑戦されたのだそうです。
「一度挫折したわたしのことを、神様は諦めてなかったんだと思います。」
少しはにかんだような笑顔で、そうおっしゃっていました。
全免償が与えられるとされている、新司祭の初ミサでの赦しをいただくことができました。
「ミサ後に、個別に免償を授けますので、ご希望の方はどうぞ」
そうおっしゃってくださり、ほぼ全員が並びました。(笑)
9月から、ザンビアに赴任されます。
日本ではなく外国を最初の赴任地に選ばれたのはなぜ?と質問しましたら、「日本での宣教はいつかできるでしょう。だから、最初から選択肢にはありませんでした。」とのお答え。
傍島神父様の実り豊かな宣教を、ご縁をいただいたわたしたちは心から祈りたいと思います。
美大ご出身の神父様の作品を、カードにされました。
初聖体の喜び
世界各地の教会でも、この日曜日は初聖体の子どもたちを祝福するミサが行われたことでしょう。
久留米教会でも、3人の子どもたちの記念すべき日をお祝いしました。
彼女たちの晴れやかな顔を見て、喜びに溢れた幸せな日曜日となりました。
初めて聖体拝領した日のこと、覚えていらっしゃいますか?
わたしは、うっすらとした記憶ですが、「嬉しい!」と感じた気持ちを思い出しました。
生きておられる父が、
わたしをお遣わしになって、
わたしが父によって生きているように、
わたしを食べる人もわたしによって生きる。
これは天から降ってきたパンである。
先祖は食べたが、
それでも死んでしまったようなものではない。
このパンを食べる者は、永遠に生きる。
(ヨハネ6・57〜58)
コロナ禍は、ご聖体をいただくことが出来なかった日々がありました。
そして今、以前の教会の姿に戻りつつあります。
間違いなく、以前いただいていたご聖体と、今日いただいたご聖体は、違った意味合いを持っているような気がしています。
習慣的に口にしていたご聖体が、今はまるで、話しかけてくるような存在になったのです。
「いただいているお恵みに感謝します。
いただいている役割に感謝します。
お導きくださっていることに感謝します。」
そう心の中で唱えながらご聖体を味わうことが、一週間の始まりの記念として、ようやくわたしの中で定着してきました。
当たり前のことだ、と思われるかもしれませんが、今日の子どもたちの様子を見ていて改めてそう感じています。
今日からの一週間も、神様のお導きを信じて、穏やかに、優しい気持ちで過ごしたいと思います。
共に食卓を囲む
教皇様の2023年1月の祈りは、「教育にたずさわる人たち」のためにとなっています。
「教育にたずさわる人たちが、信頼される証し人となって、競争ではなく友愛を育みながら、とりわけ幼く傷つきやすい者の助けとなることができますように」
みこころレター13号に、日曜学校からのメッセージを掲載しました。
「日曜学校は祈りの場」
毎月第4日曜日は「こどもとともに捧げるミサ」です。
たくさんのこどもたちを待っています。
学年が上がるにつれてなかなか日曜日のミサに行けなくなってしまうという現象は(習い事、部活、塾等で)、どこの共同体も同じ悩みだと思います。
だからこそ日曜日、ミサに行けるときはぜひこどもたちに来てほしい、と願っています。
教会学校では、久しぶりにミサに来たこどもには必ず、言葉かけを行っています。
「待っていたよ!来てくれるのを!!」という気持ちです。
それは、イエス様も同じ気持ちだからです。
お父さん、お母さんにお願いです。
祈りの場へこどもを導いて下さい、大人が祈る姿をこどもに見せることが、一番の信仰教育だと思います。
こどもたちの成長を間近で見ることは、すごく嬉しく、楽しい事です。
神に感謝!!
コロナ禍以前に比べ、日曜日のミサ、日曜学校へのこどもたちの参加がとても減ってしまったことは、みなさまもお気づきだと思います。
日曜学校にたずさわる担当者の声は、ご家族の皆さんに届いているでしょうか。
わたしたち大人も、こどもたちと共にミサに与ることで信仰を確信し、深めていくことができます。
大人だけでなく、共に集まって祈り、共にイエス様の食卓に並ぶことが神様のお望みです。
先週ご紹介した本に、マルコ6章のパンと魚の奇跡についての考察があります。
そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちはイエスに近づいて言った、「ここは人里離れた所です。もう、時もだいぶたちました。みなを解散させてください。
そうすれば、周りの村里や村々に行って何か食べるものを買うことができるでしょう」。
すると、イエスは答えて、「あなた方が食べる物をやりなさい」と仰せになった。
(マルコ6・35~37)
弟子たちの解決策は「人々を解散」させることでした。
それに対してイエス様の解決策は「あなた方が彼らに食べるものを与える」でした。
クロッサンは、この物語はイエス様がパンと魚を増やしたことを表した譬え話ではなく、神の国の食べ物を民に分配する責任を強調する譬え話だ、と言っています。
弟子たちとイエス様の繰り返されるやり取りは、イエス様が自らの神の国のビジョンへ弟子たちを引き込んでいく過程なのです。
そこで、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰ぎ、賛美をささげてパンを裂いて、弟子たちに渡し、みなに配らせ、二匹の魚もみなに分け与えられた。
みなは満腹するまで食べた。
(6・41~42)
神の国がすでにこの地に存在しているのだから、弟子たちが食べ物の適切な分配の責任を負うように、イエス様は仕向けているのです。
だから、「あなたがたがの手で食べ物をあげなさい」が、「人々を解散」させるに打ち勝つのです。
イエス様にとって、神の国について教えることは、人々に食べさせることだったのです。
神の正義の手をとおして分配するならば、私たちの地にはすでに十分に、必要以上の食べ物があると言っているのだと私は考えます。
取られ、祝福され、裂かれ、渡されるならば、つまりそれを聖別された神の贈り物と見るならば。
今ここに存在する神の国とは、この地をすべての人に公正に分配することです。
イエスはただ、世界の世帯主である神の譬えを実演しているだけなのです。
(「最も偉大な祈り 主の祈りを再発見する」166ページ)
主の食卓であるミサには信仰を持つすべての人が集うべきである、とわたしは痛感させられました。
親の意思で洗礼を授かったこどもたちは特に、保護者や家族が導いてあげる必要があります。
周囲のこどもたち、こどものいる家庭の方々に、今年はもっと積極的に声をかけていきましょう。
来週は、こどもとともに捧げるミサです。
死と共に歩む
6日の午後、久留米教会のすべての死者のための追悼ミサが捧げられました。
わたしも、この数年のうちに親しかった人たちが天に召されたので、参列して祈りを捧げてきました。
侍者は、3人の女の子でした!
・
皆さん、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
(フィリピ2・1~4)
普段のごミサももちろん、皆で心を一つに祈るのですが、「死者のためのミサ」の祈りの一体感はまた違ったものを感じます。
心を合わせ、天に召された近しい人々のために思いを一つにして祈る時間には、特別な力があると思います。
・・・・・・・・・・・
映画監督のジャン=リュック・ゴダールさん(91)がスイスの自宅で「安らかに息を引き取った」というニュースをご覧になったでしょうか。
「スイスで法的支援を受けて自発的に旅立った」という声明でしたが、スイスでは状況によっては自殺幇助が合法なのだそうです。
オーストラリアの環境・植物学者デイビッド・グドールさん(104)も、2018年にスイスの医療機関でこの措置によって死を選択しています。
現在、10カ国以上の国・地域で自殺ほう助が認められています。
伝統的にカトリック教徒の国だったスペインでも昨年、右派政党やカトリック教会の強い反対を押し退けて「死ぬ権利」が合法化され、積極的安楽死も認められるようになりました。
「カトリック教会は、神の法に触れるとして死を手助けすることに反対しており、フランシスコ教皇も医師に対し、死を手助けしたいという誘惑を退けるよう促していた。」
と、CNNのニュースサイトに書いてありました。
教皇様は「私たちは死と共に歩んで行くもの。死を挑発したり、いかなる類いの自殺も支持したりしてはならない。」とコメントされています。
日本ではそれ自体が罪として罰せられていますし、倫理的な観点からもこの制度が導入されることはおそらくないように思います。
そもそも、人間の「倫理」とは何なのでしょうか。
基準があるとすれば、それはどのようなものなのでしょうか。
死とは、望んで得るものではなく、神様に(天に)その命を託すこと、身を委ねることであってほしいと思います。
「今、わたしの心はかき乱されている。
何と言おうか。
『父よ、わたしをこの時から救ってください』
と言おうか。
いや、このために、この時のためにこそ、わたしは来たのである。
父よ、み名の栄光を現してください」。
(ヨハネ12・27)
死を目前にして、イエス様が心を騒がせた様子が、ここに書かれています。
「この時」は、イエス様のようにわたしたちに示されることはないでしょう。
イエス様は、全ての人を導く光としての役割を担っていました。
「もうしばらくの間、光はあなた方のうちにある。
闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。
闇の中を歩く人は、自分がどこに行くのかを知らない。
あなた方は光のあるうちに、光の子となるために光を信じなさい」。
(ヨハネ12・35〜36)
教皇様のお言葉のとおり、わたしたちは「死と共に歩む」人生を送っています。
自分に残された、この世での時はわからないのですから、神様の導かれる光に従って歩んでいくしかないのです。
主は信頼に値する方です。
必ず、あなた方を強め、あなた方を「邪悪なもの」から守ってくださいます。
どうか、主が、あなた方の心を神の愛とキリストの忍耐へと導いてくださいますように。
(2テサロニケ3・3、5)
生きることは時に、忍耐を必要とします。
特に、病に苦しむ人にとっては、生きることは大変な苦痛を伴うでしょう。
この死者の月には、そうした方々のためにも祈るように導かれているように思います。
価値ある判断
21日のごミサでは、9名の子どもたちの初聖体があり、晴れやかな子どもたちとご家族の様子に心から幸せを感じることができました。
初めてイエス様の体(聖体)をいただくこの日のために、子どもたちは長い時間をかけて勉強をし、日曜学校の先生方のご指導のもとこの日を迎えました。
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日本でも、感染拡大を抑制するために「ワクチン接種済み、あるいはPCR検査での陰性証明の義務化」をする方向性が取られ始めました。
アメリカ南部では、今でもマスク着用を「禁止」するレストランやバーがあるそうです。
店も客も自由の権利があり、全ては自己責任という考え方なのだそう。
一方でニューヨークでは、レストランの室内営業や劇場などでは利用者にワクチン証明書の提示を義務付け、9/27からは医療機関や教職員に対する接種義務化がスタートしています。
オーストリアでは11/15から、新型コロナウイルスのワクチン未接種者(人口の3分の1以上を占める)には、不要不急の外出の禁止措置がとられています。
警察官が巡回し、外出中の人がワクチをン接種済みかどうか抜き打ち検査を実施するのだとか。
(違反者の罰金は500ユーロ)
ドイツでは、娯楽施設などへの入場に加えて、バスや列車に乗車する際にもワクチン接種証明書か陰性証明書の提示を義務付ける法案が審議中。
ベルギーでは、12歳以上はマスクの着用を義務づけられていて、今後は10歳以上に拡大。
在宅勤務については、11/20から週4日が義務。
ポーランドでは、入国しようとベラルーシの国境で多数の移民が立ち往生していて、その対策(国を守る権利)として政府は来月から国境に壁を建設することを発表。
フ〜ッ。。。。(ちょっとため息)
いまわたしたちが生きているこの時代は、どうなっていくのでしょうか。
わたしたちの生きる社会は、どのような未来を描いているでしょうか。
いつの時代も、その時代ごとに大きなジレンマを抱えていたのだろう、ということを考えます。
わたしたちが抱えている問題は、トリレンマかもしれません。
トリレンマとは、どれも好ましくない三つのうちから一つを選ばなければいけない、という三者択一の窮地を意味します。
義務
権利
自己責任
この3つは、本来は大切な概念であり、それぞれ独立したものであるべきですが、ひとたびはき違えると「選択肢」と捉えてしまうことがあります。
義務という名のもとに、本来好ましくないはずの政策が押し付けられているかもしれません。
権利を声高に叫ぶことで、他者への配慮が無視されているかもしれません。
難民とは自己責任で生きていけない人々である、ということを忘れているふりをしているのかもしれません。
初聖体の子どもたちを見ていて感じました。
ご聖体をいただくことは、キリスト者の義務や権利ではありません。
わたしたちは、信じているから、導かれているから、「はい、そのようにします」と確信と希望を持ってイエス様とともに歩んでいるのです。
パスカルは『パンセ』のなかで、人は3種類いる、と言っています。
「神を見出したので、これに仕えている人々」
「神を見出していないので、これを求めることに従事している人々」
「神を見出してもいず、求めもしないで暮らしている人々」
科学者の視点で、人間の心の特徴を分析したパスカル。
パスカルが生きた時代は、科学が目覚ましく進歩し、人間の理性への過信がはびこり、キリスト教に基づく世界観に疑問の声があがり始めていました。
しかし世の中を冷静に見つめていたパスカルは、理性こそ万能だという考えには危うさがある、と確信するようになります。
「人間はおごってはならない」と考えたパスカルは、人間の弱さを明らかにするため、日々考えたことを書いてまとめたのが「パンセ」です。
(NHK 100分de名著 ホームページを参考)
かなりの長編ですが、今この時代に読むべき本ではないかと思い、読み始めました。
イギリスで路上ライブを行なっていた女性シンガーが、ライブ中にゴミ箱を漁っているホームレスを見つけました。
近寄って自身の収益をホームレスの男性に寄付したところ、通行人がその倍の金額をシンガーに寄付してくれた、というニュースが目に留まりました。
沖縄の海に押し寄せている軽石を除去するボランティアを人気のユーチューバーが呼びかけたところ、多くの人が集まって作業した、というニュースもありました。
この2つの例は、どちらも「個人の判断」による選択です。
わたしたちはいつも正しい判断ができるわけではありませんが、神の導きをいつも意識しているわたしたちは、何が価値あることで何が必要とされることかはわかっているはずです。
昨日のミサで、初聖体を終えた子どもたちに宮﨑神父様がおっしゃいました。
「教会で、みんなの必要に応えることができる人になってください。」
............................
ヨセフは、本当に価値あることはわたしたちの関心を惹かないが、それを発見し、価値づけるために、忍耐強い識別が必要であることを教えてくれる。
本質を見極めるこの眼差しを、全教会が取り戻すことができるよう、聖ヨセフに取り次ぎを祈ろう。
(11/17教皇フランシスコ 一般謁見でのお説教より)
聖ヨセフよ、
あなたはいつでも神に信頼し、
御摂理に導かれ、判断しました。
わたしたちの計画ではなく、
愛の御計画を大切にすることを教えてください。
辺境から来たヨセフよ、
わたしたちの眼差しを変え、
辺境へ、世が切り捨て疎外するものへと、
向けてください。
孤独な人を慰め、
人間のいのちと尊厳を守るために、
静かに努力する人を支えてください。
アーメン。
この世の祈り
6日に母校である雙葉学園の同窓会が主催した、死者追悼ミサに与ってきました。
この1年の間に、3名の先生と25名の卒業生が天に召されました。
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久しぶりに、所属教会以外の浄水通教会でのごミサに与りました。
7日には久留米教会の死者追悼ミサが捧げられました。
キッペス神父様がお亡くなりになったという、悲しいお知らせがありました。
これは、2019年のクリスマスのごミサの写真です。
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こうして、クリスマスや敬老のお祝いのごミサなどにいつも来てくださっていたキッペス神父様。
いつも陽気なお姿でした。
安らかに憩われますように。
わたしも今年、親しい方々が天に召されました。
コロナ禍にあって、会えずにいた間に病魔に襲われた子ども時代からの友だち。
一緒にイスラエル巡礼にも行った、仲良しのおじさま。
わたしが洗礼を受ける時からずっと気にかけてくださっていた先生。
親しくしていた後輩の奥様。
わたしたちにいつ、その時が訪れるのかは本当にわからないのだ、と痛感した一年でした。
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11/2の死者の日の朗読箇所です。
神に従う人の魂は神の手で守られ、
もはやいかなる責め苦も受けることはない。
愚か者たちの目には彼らは死んだ者と映り、
この世からの旅立ちは災い、自分たちからの離別は破滅に見えた。
ところが彼らは平和のうちにいる。
人間の目には懲らしめを受けたように見えても、
不滅への大いなる希望が彼らにはある。
わずかな試練を受けた後、豊かな恵みを得る。
神が彼らを試し、御自分にふさわしい者と判断されたからである。
るつぼの中の金のように神は彼らをえり分け、
焼き尽くすいけにえの献げ物として受け入れられた。
主に依り頼む人は真理を悟り、
信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる。
主に清められた人々には恵みと憐れみがあり、
主に選ばれた人は主の訪れを受けるからである。
(知恵の書3・1~6, 9)
4節の「彼らには不滅への希望が満ちている。」(フランシスコ会訳)
不滅という単語は、終わりなき命、完全な幸福の永遠性を意味しています。
この箇所を母校の追悼ミサで朗読させていただき、イザヤ書の言葉が浮かびました。
太陽はお前にとってもはや昼の光ではなく、
月の明かりはもはやお前を照らす光ではない。
主がお前にとって永遠の光となり、
お前の神がお前の輝きとなる。
お前の太陽が沈むことはもはやなく、
お前の月が欠けることはない。
まことに、主がお前にとって永遠の光となる。
お前の嘆きの日々は終わる。
(60・19〜20)
死者は平和のうちにあり、永遠の完全な幸福の中にある。
この信仰は、この世で祈り続けるわたしたちにとって、最高の救いではないでしょうか。
死者は神様とともにいるので何も心配することはない、と何度言われても、何年経っても、「天国の母が安らかに過ごすことができますように」と祈り続けています。
信じていないからではなく、この世のわたしが天の母のためにできることは、祈ることとその意思を引き継ぐことだけだと思っているからです。
ほんの少し前に、土から生まれた彼自身が、
少し後に、借りていた魂を返すように求められるとき、
元の土に帰っていく。
(知恵の書15・8)
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フランシスコ教皇は、この1年に亡くなられた枢機卿を始めとする方々のためにミサを捧げられました。
以下、バチカンニュースのサイトからです。
「主の救いを黙して待てば、幸いを得る」(哀歌3,26)という聖書の言葉を観想しながら、従順に信頼して主を待つことを学ぶよう招かれた。
困難の時も沈黙のうちに希望をもって主を待つことを学べば、人生の最も大きい試練である死に備えることができる、と教皇は説かれた。
新型コロナウイルス感染によって亡くなった人々をはじめ、最近故人となった枢機卿・司教らを悼まれた教皇は、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(マタイ25,34)という、主の忠実なしもべたちへの招きを、これらの兄弟たちが今、喜びをもって味わっているようにと祈られた。
庭で撮った写真です。
天国と死者と生者が繋がっている、と感じた一枚です。
派遣されたわたしたち
ミサに与るために、日曜日の朝、いつもよりも早く起きて家事を終わらせる。
そして、早めに教会に行ってお祈りをし、一週間の感謝を伝える。
ミサ前に幾人かの方々と言葉をかわす。
ミサにみなさんとともに与る。
新しい一週間の始まりに、決意を新たにする。
ミサ後に神父様にお声をかけ、また幾人かの方々と交流する。
本当にすがすがしい気持ちになります。
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あらためて、ミサに参列してご聖体をいただく意味と意義について考えました。
以前もご紹介した、故アドルフォ・ニコラス神父様の本にある、わたしがみなさんにもう一度(何度でも)お伝えしたい言葉を書いておきたいとおもいます。
☆教会がミサを祝うと同時に、ミサが教会を造るという相互関係を、司祭も信徒も皆が意識しなければならなりません。
ここに私たちのアイデンティティがかかっています。
☆ミサは個人の信心ではなく、教会にとってそのアイデンティティを表す文化的・歴史的な表現です。
ミサを祝うことによって、私たちはキリストとの交わり、またお互い同士の交わりを新たにします。
☆ミサは教会の顔である。
☆ミサはラテン語で「派遣されている」という意味です。
「行きなさい、あなた方は派遣されている。」
「ここで体験したことを生きなさい。」ということです。
毎年10月は宣教の月で、最後から2番目の日曜日は「世界宣教の日」とされています。
宣教、というと「宣教師」とか「一信者には恐れ多い」といったイメージがあるかもしれませんが、これはわたしたち一人ひとりに向けられた、わたしたちの使命なのです。
わたしたちは、周りにいるひとに「教会について」「信仰とは」と聞かれたときに、目を見て、素直な心で、優しい言葉で語りかけることができるように準備しておかなければなりません。
2021年「世界宣教の日」の教皇メッセージのテーマです。
「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」
(使徒言行録4・20)
聖書のこの箇所は、ペトロとヨハネが捕えられ、尋問された時のものです。
「神に聞き従うよりも、あなた方に聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか判断してください。
私たちとしては、自分の見たことや聞いたことを、話さないわけにはいきません」
(フランシスコ会訳)
そう言われた大祭司たちは、二人を罰するすべをなくし、彼らを釈放せざるを得なくなりました。
「信仰は聞くことから始まります」(ローマ10・17)とパウロが言っているとおり、キリスト者はイエス様の言葉に出会い、教え導いてくださる先輩信徒や司祭の言葉に耳を傾けながら生きています。
信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょうか。
聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょうか。
宣べ伝える者がなければ、どうして聞くことができるでしょうか。
遣わされなければ、どうして宣べ伝えることができるでしょうか。
(ローマ10・14)
聞いて信じているわたしたちが、それぞれの場所で周囲に宣べ伝えていく使命を帯びていることを忘れないようにしましょう。
聖書を論じる必要はありません。
わたしたち一人ひとりは「神にささげられた、キリストのかぐわしい香り」(Ⅱコリント2・15)です。
このことを心に刻みながら、周囲にその香りをふりまく生き方を心がけたいと思っています。
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以下、教皇様のメッセージを少し抜粋します。
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このパンデミックの時代、正しいソーシャルディスタンスという名目で、無関心と無感動をマスクで覆って正当化する誘惑に直面する中で、求められる人との距離を、出会い、世話、活動の場にできる、あわれみの宣教が急務です。
わたしたちが受けたものすべて、主がわたしたちに与えてくださったものすべては、わたしたちがそれを持ち出し、他の人に無償で与えるために主から与えられているのです。
https://www.cbcj.catholic.jp/2021/06/29/22623/