みこころレター

カトリック久留米教会誌 第7号

復活祭の喜びのうちに主任司祭

ペトロ 宮﨑 保司

 春の息吹のなか、いのちの躍動を身体全体に感じるこの時季、復活のキリストに結ばれている信仰の喜びを新たにしたいと思います。そして、受洗された新しい兄弟姉妹たちに心から慶びと祝詞を述べたいと思います。おめでとうございます。

 話は変わりますが、今から20年前、地球温暖化の原因となる温室効果ガスの一種である二酸化炭素(CO2)やメタン(CH4)…などの消滅を目的とした会議が京都で開催されました。そこで決議されたものを俗に京都議定書と呼んでいます。

 地球温暖化防止のために開催されたはずの会議なのに、先進国の経済的な思惑が重なり、20年以上経っても未だその枠組みさえ整えられていないと聞きます。

 異常気象から生じる自然災害は、毎年、世界の各地で猛威を振るっているといっても過言ではありません。近年、その影響は日本の各地でも見られます。昨夏、九州北部を襲った集中豪雨(ゲリラ雨)は朝倉、日田地方に甚大な被害を及ぼしました。

 災害によってもたらされる『死』は他人事ではなく、何時、われわれに降り懸かるか予測がつきません。

 ところで、ペトロの手紙のなかに、「常に目ざめていなさい。『死』は盗人のように突然やって来るからです」という箇所があります。

 確かに、健康な人であっても病床にある人であっても、どのような形で『死』が訪れるかは誰にもわかりません。中世の修道士たちは「memento mori=死を覚えろ」をモットーに、何時、どんな状況下で最期を迎えても恐れなく『死』を受け入れる信仰生活に徹していたといわれています。それは復活のいのちへの希望に満ちた裏付けがあったからに違いありません。

 『死』はすべての終わりと考える無神論者たちの生き方ではなく、洗礼によって新たに生まれ、キリストの死と復活に結ばれて生きている私たちは、『死』は永遠のいのちの門であることをしっかりと肝に銘記する必要があります。そして、それに与るために日々の回心を怠らないことが最も大切なことであることを改めて自覚したいものです。


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カトリック久留米教会誌 第6号

静けき真夜中

主任司祭 ペトロ 宮崎 保司

 カトリックのクリスマス・キャロルに「静けき真夜中、貧しいうまや、神のひとり子は~♪」とあるが、今年も世界各地でテロ事件、地震、自然災害…と枚挙に遑が無いほど悲しい出来事があった。そのせいか、「静けき真夜中.」というフレーズが妙に心に掛かり、聖堂で夜遅く一人静かに物思いにふけってみた。

 人も車も忙しく行き交う昼間の喧騒さのなかでは思考回路が充分に働かないが、静寂な夜はゆっくりと思考素子を回転させることができる。森羅万象の出来事について、人智の限界(不慮の出来事における生と死)について熟慮できる。

 ところで、ルカ福音書によれば、人となってお生まれになった救い主キリストは、静けき真夜中、人知れず、町外れの家畜小屋の中で産声を上げたと記されている。何故に、糞尿がこびりつき、異臭が鼻をつくような家畜小屋を選ばれたのか?また、何故に、生まれてまもなくエジプトへ逃れ、難民生活を余儀なくされたのか?さらに時が満ち、救い主(メシア)としての使命・福音宣教を始めて3 年目に、大祭司や律法学者など当時のユダヤ人指導者たちの手によって、残酷なる仕打ちのうちに十字架に磔にされて亡くなったのか。

 今年起こったさまざまの悲しみと不幸な惨事とを重ね合わせながら私なりに黙想してみた。結局、艱難辛苦や死は復活の前提であり、栄光の喜びに入るための最良のプロセスであると思うようになった。それをローマ書8章から読み取ることができる。「わたしたちすべてのために、その御子さえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょう。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か、苦しみか。迫害か。餓えか。裸か。危険か。剣か。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するもの、現在のものも、未来のものも、力あるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(32 節.39 節)

 静寂のなかで何度も繰り返し繰り返しこの箇所を読んで、妥協を全く許さない神の徹底した愛は、人智では知り得ない壮大な計画(主の誕生の瞬間から十字架の死と栄光ある復活)のなかで、救済の業を実現されたことを改めて覚えた。そして、愛である神は人間が受けるすべての艱難辛苦をいつくしみとあわれみを持って癒しと希望、勇気と力へと変容される方であり、命を愛される神であることも再認識した次第である。

 歳末の雑踏を避けて静寂のなかで心落ち着かせて聴くクリスマス・キャロルこそ、キリストの誕生とそのご生涯の意味をより理解させてくれるものであろうと思う。♪♪天に栄光、地には平和がありますように。♪♪


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カトリック久留米教会誌 第5号

初めまして、そして、よろしく

主任司祭 宮崎 保司

 この度、久留米教会に任命された宮崎保司です。どうぞよろしくお願いいたします。私は、1951 年長崎市内の神ノ島で生まれました。28 歳の時に司祭に叙階され今年で司祭生活38 年目を迎えます。教区司祭でなく名古屋に本部を置く神言会という修道会に所属しています。これまで主に本州の教会で司牧に従事していましたので、九州地方の教会で働くのは初めてです。皆さまのお祈りとご協力に支えられて頑張っていきたいと思っています。

 私がいつも心に描き目標としているのは、一人の信者のために信者皆で、信者皆のために一人の信者が必要である教会共同体です。ラグビーでいうone forall、 all for oneの教会共同体作りです。ラグビーではありませんが、数年前、女子サッカーワールドカップで「撫子ジャパン」が優勝した時のチームプレーは素晴らしかったと思います。それまで、男子サッカーに比べてマイナーなイメージが強かった女子サッカーでしたが、今や、その人気は男子サッカーを凌駕したといえます。奇跡の優勝…などと、マスメディアは囃し立てましたが、人知れず黙々と練習に打ち込んだ彼女たちの努力が実った結果が、優勝を生んだといったほうが当を得ていると思います。

 スポーツ界では、個人(例えばテニス等)の競技と違ってチームワークで行う競技は信頼と尊重の上に成り立つといっても過言ではありません。たとえそのチームに何人ものスーパースターがいたとしても、個性と個性がぶつかっていては勝利には結びつきません。監督の指揮の元、各選手がそれぞれ互いの特性を尊重し、練習を積み重ねることによって阿吽の呼吸は生まれ、チームの士気は高まっていきます。西欧の選手たちに比べて小柄で見劣りのする彼女たちではありましたが、身長の差を粘りとチームワークの良さでカバーし、世界一の栄冠に輝いたことは歴史を塗り替えたと言ってもオーバーな表現ではないと思います。多くの人たちに感動と勇気を与えてくれた「撫子ジャパン」に、政府も団体としては初めての国民栄誉賞を授与しました。

 因みに、撫子の花言葉は、愛、やさしさ、無邪気、純粋…といわれています。

 ところで話は変わりますが、「撫子ジャパン」の活躍は私たち教会共同体にも一つヒントを与えてくれたように思います。教会は司祭だけで成り立つものでもなければ、特定の信者たちによって成り立つものでもありません。個人プレーではなく、チームワークプレーと言えます。

 教会共同体は信者同士の繋がり、協力、働きによって、発展していきます。各会の活動をはじめ、聖堂やトイレ、信徒会館の掃除、聖具や庭園の手入れ…等々、多くの信者たちの奉仕と犠牲に支えられていることを忘れてはいけないと思います。毎週日曜日のミサにだけ与っていれば良いと思い込んでいる人たちは、教会共同体の活動や奉仕に無関心であってはいけないことを、特に、心に銘記して欲しいと思います。

 第二バチカン公会議・教会憲章は次のように記しています。-教会とはキリストの神秘体であり、「一つのからだに多くの部分があり、すべての部分が同じ働きをしていないように、われわれも数は多いが、キリストにおける一つのからだであって~」-と。つまり、信者ひとり一人がone forall, all for one の意識を持って、教会共同体の活動に積極的に参加するように奨励しています。

 「主よ、主よと言うものが皆、天の国に入るのではない。」父のみ旨を行う者だけが入ることを常に覚え、久留米教会共同体の発展と一致のために積極的に寄与していただきたいと思います。


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カトリック久留米教会誌 第4号

主のご復活おめでとうございます

 皆様とこんなに早いお別れの時が来るとは私も思っていませんでした。でも、場所は離れても復活したキリストに祈るとき、私たちは互いに結び合えるのです。

 「私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが言葉にならないうめきをもって執り成してくださいます。」(ローマ8,26)人はどんなときに〝うめく″のでしょうか。言葉に出来ればいい、誰かが聞いてくれさえすれば少しは楽になるかもしれない。しかし、言葉にならない、あるいは話す相手がいない、うめきしか出ない。義人ヨブの3人の友人は、「ヨブのあまりにも激しい苦痛を見ると、1週間話しかけることも出来なかった」(ヨブ2,13)と言います。また、私たち人間は皆、母親の陣痛を経てこの世に生を受けました。母親は喘ぎ、うめきながら苦しみに耐え、とうとう新しい生命を生み出します。「被造物はすべて、滅びから解放されて、神の子の自由に与るためにともにうめき、生みの苦しみを味わっている」(ローマ8,22)とパウロが言う通り、私たちの苦悩は、次に来る新たな誕生や喜びのための準備なのです。確かにうめきしか出ないほどの苦悩は、その只中にある人にとっては、一刻も早く過ぎ去ってほしいものに違いないでしょう。しかし、出産を考えてみても、その一時の艱難(かんなん)は、必ず喜びに変わります。さらに、その言葉にならない苦しみは、イエス様も同様に十字架上で体験されたばかりではなく、聖霊自身が今も私たちとともに、あるいは私たちの代わりに、うめいてくださるのです。何とありがたいことでしょう。「女は子どもを産むとき苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで今はあなた方も悲しんでいる。しかし私は再びあなた方と会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪い去る者はいない。」(ヨハネ16,21-22)

 久留米教会の皆さん、この世界には何と想像もできないほどの苦悩が存在していることでしょうか。しかし私たちの信仰は、復活の信仰です。私たちは栄光へと変えられる存在であること固く信じ、歩んでいきましょう。これからは福岡の地で、神学生と日々歩みながら、皆様方の幸せを祈ってまいります。

スルピス 森山 信三

 


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カトリック久留米教会誌 第3号

主のご降誕おめでとうございます

 今年は10 月に司教様の公式訪問、堅信式そして、フィリピン・コミュニティー結成15 周年を記念して、フィリピンからタグレ枢機卿様をお迎えするという恵みの年となりました。

 私は枢機卿様のお姿とお言葉の中にイエス様を感じました。多くの方々も同じ思いでしょう。枢機卿というグローバルな視点で教会と世界を見ておられる方であるにもかかわらず、どんな人にも、特に小さき人々、陽の当たらない状況に置かれている人々に特別の慈しみを示される姿勢にイエス様を感じたのです。カトリック教会は世界で10数億と言われる信徒を抱えた教会です。そこには組織もありますし、様々な制度もあります。しかし、原点は福音です。すなわち、イエス様が何を仰ったか、イエス様はどのように行動されたか、私たちキリスト者の生き方のすべてはその中にあります。超少子高齢化といわれる時代の中で、教会の力も日々衰えているように感じられます。しかし、どんな状況においても、福音には無限の力があります。

 イエス誕生の時代、ユダヤはローマ帝国に支配されていました。人々は圧倒的なローマの力の前になす術を知りませんでした。しかし、そこに登場したイエスはローマ帝国に勝る武力を持っていたわけでもなければ、権力者たちを掌握しようとしたわけでもありませんでした。ただ病人を癒し、ユダヤ社会から疎外されている人々を力づけ、女性や子どもたちを大切にしました。その行動は、当時の人々にとって価値がない、どうでもよいと考えられていた人々を大切にすることだったのです。そのお姿に接した多くの人々にとって、それはとても新鮮な振る舞いでした。そして、そこからイエスの神の国の運動が始まるのです。

 クリスマスのメッセージも同じく、羊飼い、あるいは異邦人の博士たちなど、当時の社会から大切にされていなかった人々への救いのメッセージです。

 震災やテロなどの事件が多かったこの年、苦難の中にある方々のために、幼子キリストの光が届きますよう祈りましょう。

主任司祭 スルピス 森山信三


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カトリック久留米教会誌 第2号

聖母被昇天に寄せて

 「『みこころレター』楽しく読ませていただきました。体の具合が悪く、教会に行けないので、ありがたいお便りでした。」そんなお声を信徒の方からいただきました。担当者の方のご尽力で『みこころレター』第2号、聖母の被昇天号を送り出すことが出来ますことをうれしく思います。久留米教会は、在籍信徒1000 名を超える大所帯です。司祭一人の力では、すべての皆様と関わることは、困難です。日曜ごとにミサに来られる方はもちろん、教会から離れておられる方、心身の不調で、ミサに参加出来ない方のために、ささやかですが、助けになればと思います。そのような方がおられましたら、どうぞ、配布したり、郵送したりしてください。

 かつては、地区制がしっかりしていて、各地区に地区長さんがおられ、その地域の信徒の方々のお世話をするというようなシステムが多くの教会にありました。当教会にもあったと思います。しかし、それぞれの地域に住む方々の結びつきや絆が希薄になり、地域力が弱くなったのは、いつごろからでしょうか。当時は、平屋の家屋に住む人が多かったので、隣近所と声を掛け合いながら暮らすという形がありました。しかし、住居環境が変わり、人々はセキュリティーのしっかりしたマンション等に住むようになり、互いの関わりは密ではなくなりました。孤独死や無縁死などという言葉がマスコミに出てくるようになりました。教会もそのような状況の中にあります。

 国籍や出身などに関係なく、信仰を同じくする者が、深く結び合い、助け合う教会共同体でありたいと思います。また、このレターを通して、転入して来られた方、また洗礼を受けて新しく教会のメンバーになられた方にも、教会内の活動や、動きを少しずつですが紹介していきたいと思います。このみこころレターが末永く継続され、久留米教会の歩み、歴史を刻んでいくものとなりますよう願います。

 最後に、生涯をキリストに捧げられた後、身も心も天に挙げられた聖母マリアが、テロや凶悪な事件が頻発するこの世界を守り、導いてくださいますように祈ります。

主任司祭 スルピス 森山信三


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カトリック久留米教会誌 創刊号

ご復活おめでとうございます

 復活徹夜祭に入信の秘跡を受けられ、教会のメンバーとなられた方々、また初聖体を受けた子どもたちとともに、小教区すべての皆様に主の復活のお慶びを申し上げます。多くの実りのうちに復活祭を迎えられたことに感謝いたします。

 さて、「みこころレター」創刊号をお届けします。小教区報を作成しようと思ったきっかけは、病床訪問をする折に、様々な事情で教会に来られない方にも久留米教会の近況をお知らせし、みんなで「お祈りしていますよ」というメッセージを送りたいと思ったからです。また、教会内部の方々にも久留米教会でどんな行事が行われているか、あるいは皆さんの声、司祭の思いなど、さまざまな記事を載せ、さらに記録として、また小教区共同体の歴史として残していきたいと考えたからです。

 「いつくしみの特別聖年」という特別のこの年に、3 月には聖ヨハネ・パウロ2 世と聖ファウスティナの聖遺物が安置され、多くの方が祈りを捧げてくださり、「祈る教会」の姿が印象的でした。また、鐘楼も完成し、お告げの鐘が12 時と18 時には、久留米の街に鳴り響いています。
久留米の明治通りはシンボルロードと呼ばれ、シティプラザの建設、街灯の設置、道路の拡張など街並みも新たにされ変わりつつありますが、天に向かって聳え立つ私たちの教会はこれからも変わらずに、鐘を鳴らし、日々の時を告げ知らせ、久留米の街で神の現存を証していきます。

 教皇フランシスコは「教会は野戦病院たれ」とおっしゃっています。教会とは積極的に社会に門を開き、病む人、苦しむ人を迎え入れ、歩んでいく場所とも言えます。わたしたちも一人一人が福音宣教者です。
日々の生活の中で疲れた人に手を差し伸べ、福音を告げ知らせ、イエス様の愛の教えを広めるよう招かれています。この小教区報をとおして神さまのお恵みがすべての皆さんに行きわたることを望んでいます。
これからの歴史を展望し、開かれた教会として久留米教会が今後より良き発展をしていくことを願っています。

 最後に召命の道を歩んでいる2 人の神学生、船津亮太さんと横山智さんのため引き続きお祈りいたしましょう。

主任司祭 スルピス 森山信三


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