カテゴリ:みこころレター 第4号より

カトリック久留米教会誌 第4号

主のご復活おめでとうございます

 皆様とこんなに早いお別れの時が来るとは私も思っていませんでした。でも、場所は離れても復活したキリストに祈るとき、私たちは互いに結び合えるのです。

 「私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが言葉にならないうめきをもって執り成してくださいます。」(ローマ8,26)人はどんなときに〝うめく″のでしょうか。言葉に出来ればいい、誰かが聞いてくれさえすれば少しは楽になるかもしれない。しかし、言葉にならない、あるいは話す相手がいない、うめきしか出ない。義人ヨブの3人の友人は、「ヨブのあまりにも激しい苦痛を見ると、1週間話しかけることも出来なかった」(ヨブ2,13)と言います。また、私たち人間は皆、母親の陣痛を経てこの世に生を受けました。母親は喘ぎ、うめきながら苦しみに耐え、とうとう新しい生命を生み出します。「被造物はすべて、滅びから解放されて、神の子の自由に与るためにともにうめき、生みの苦しみを味わっている」(ローマ8,22)とパウロが言う通り、私たちの苦悩は、次に来る新たな誕生や喜びのための準備なのです。確かにうめきしか出ないほどの苦悩は、その只中にある人にとっては、一刻も早く過ぎ去ってほしいものに違いないでしょう。しかし、出産を考えてみても、その一時の艱難(かんなん)は、必ず喜びに変わります。さらに、その言葉にならない苦しみは、イエス様も同様に十字架上で体験されたばかりではなく、聖霊自身が今も私たちとともに、あるいは私たちの代わりに、うめいてくださるのです。何とありがたいことでしょう。「女は子どもを産むとき苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで今はあなた方も悲しんでいる。しかし私は再びあなた方と会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪い去る者はいない。」(ヨハネ16,21-22)

 久留米教会の皆さん、この世界には何と想像もできないほどの苦悩が存在していることでしょうか。しかし私たちの信仰は、復活の信仰です。私たちは栄光へと変えられる存在であること固く信じ、歩んでいきましょう。これからは福岡の地で、神学生と日々歩みながら、皆様方の幸せを祈ってまいります。

スルピス 森山 信三

 


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