考える心
その人のことは、簡単なコミュニケーションからある程度わかるものです。
「コミュニケーションするということは、キリストが人間に対してしたように、身を低くすることです」
これは、前教皇フランシスコのお言葉です。
アメリカメジャーで活躍する大谷選手は、毎回打席に入る前に審判に挨拶する、唯一の打者だそうです。
多くの選手は最初の打席に入るときにキャッチャーに挨拶をしますが、大谷選手は毎回審判にも挨拶をするのだそうです。
さらには、相手チームのベンチにも試合前に挨拶をすると、アメリカのメディアが驚きをもって報じていました。
先週、デッドボールを受けた時、(監督は猛抗議で退場処分となりましたが)ベンチに向かって無事を強調し、「出てくるな」とばかりに手で制していました。
1塁に行き相手の選手と笑顔で会話する様子に、NHKの実況は「まるで親善大使のような」と表現していました。
大谷翔平選手、30歳です。
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福岡教区青少年委員会では、11月に仁川教区への訪問が予定されています。
仁川教区の青年たちと共に交わり、分かち合い、信仰を強めることを目的とし、18~35歳までの信徒の募集を行っています。
久留米教会にも青年会があり、自主的にいろいろな取り組みをしています。
わたしが「青年」だったころには、そうした集まりはなかったように思います。
本当のことを言えば、その年代にはあまり教会に積極的に足を踏み入れてはいませんでした。
バチカン天文台のサマー・スクールに参加している若者たちとお会いになった教皇様は、学生たちに、「皆さんが体験することは、われわれ全体のためになるということを決して忘れないでください」と話され、自分が学んだこと、経験したことを、可能な限りできる方法で寛大に分かち合って欲しいと希望された、とバチカンニュースにありました。
[彼らは主から5つの能力の使用を授かった。
6番目として、知性が授けられ、7番目として、その働きを解く言葉が授けられた。]
主は彼らに判断力と舌と、目と耳とを与え、考えるための心をお与えになった。
主は知恵と知識で彼らを満たし、善と悪とを彼らに示された。
主は彼らの心に、ご自分への恐れを植えつけられた。
これはその業の偉大さを彼らに示すためである。
[主は人々にその不思議な業を代々に誇るようにさせられた。]
(シラ書17・5~8)
「今どきの若い者は、、、」という表現自体が死語ですが、わたしが20代だったころと今とではあまりにも社会の構造、価値観、生き方が違いすぎて、戸惑うことばかりです。
友人が自分の会社の広告原稿をChatGPTを使って作っている、と聞いて驚きました
ChatGPTでは、論文を要約させる、論文を解説させる、もちろん翻訳や書いた論文の校正もできます。
論文そのものを作成させることも可能、ということです。
・学会や大学によってはAI作成の論文は禁止されている
・下書きやサポート目的ならOK
なのだそうですが、自分で考えを巡らせて書き上げた論文なのか、コンピュータを駆使して創られた文章なのか、見極める先生方も大変なご苦労でしょう。
このページにこうして記事を書くときには、もちろんネットで情報を検索し、ネットのニュースも参考にします。
教皇様のXやインスタも見て、記事に織り込むこともあります。
そうやって、得た情報をもとに聖書を開き、心で感じたことを自分の頭で考えて書いています。
わたしは、自分の心で捉えたことを言葉にして書き留める、ことに喜びを感じます。
現代の学生たちが、自分の心と頭を十分に使えていない、とは思いません。
ただ、とても「控え目」な人が多い、と感じます。
一人1台のPCもスマホもなかったわたしが学生だった頃と比べて、心を鍛えて頭を働かせるチャンスがたくさん用意されています。
その機会を貪欲につかもうとするかどうか、なのでしょう。
神を知らない人々はみな、生まれつきの愚か者である。
彼らは目に見える善いものを通して、存在そのものである方を知ることができず、またその業に目を留めながら、その作者を認めなかった。
また、それらの力と働きに心を打たれる彼らであれば、それらを形づくられた方がどれほど力強い方であるかを、それらを通して悟ることができるはずではないか。
被造物の偉大さと美から推し量ることで、その造り主を認めることができる。
しかし、この人々の責めは軽い。
彼らは神を求め、見出そうと望みながら、迷っているのかもしれない。
彼らは神の業と慣れ親しんで、神を探し求める。
しかし、彼らは外観にだけ心を留める。
目に映るものがまことに美しいから。
(知恵の書13・1〜7)
目に見えない神を信頼し、見えない聖霊の働きを感じる わたしたちは、とても恵まれています。
「主は彼らに判断力と舌と、目と耳とを与え、考えるための心をお与えになった」
「被造物の偉大さと美から推し量ることで、その造り主を認めることができる」
自分の心で感じ取り、自分の頭で考え、行動することの大切さを忘れないようにしたいと思います。
初聖体を受けた時の気持ちを、彼らが忘れないでいてくれますように。