行事風景

待降節、新しい1年の始まり。

典礼暦では、待降節から新しい1年がスタートします。

久留米教会でも、アドベントの飾りつけを始めました。

 

 

 

これは、待降節の間、毎週1本づつ灯すロウソクを立てるためのもので、
ラテン語で、アドベントゥス クラントゥスと言います。

毎年、一人の有志の方が素敵なものを作ってくださっていたのですが、
今年からは、わたしたち(Team40代!)が担当させていただくことになりました。

 

こちらは、去年のもの。

 

完成度が高く、とてもこんな風にはできませんでした。(^_^;)

それでも、神様を感じながら、戴いた役割を楽しみました。

 

「どんなことであれ、あなた方のうち二人が心を一つにして地上で願うなら、
天におられるわたしの父はそれをかなえてくださる。
二人また、三人がわたしの名によって集まっているところには、わたしもその中にいる。」

マタイ18・18~20

 

この聖書の言葉を思い出さずにはいられませんでした。

「今年から、作るのをお願いできない?」と言われた時、わたしたちはとても嬉しく、
「ほかにもお手伝いできることがあれば、なんでも言ってください!」
と、誰もが口を揃えて言うことができました。

 

 


 

久留米教会にはいろいろな役割があり、お手伝いしてくださる方が必要です。

 

力仕事は20代の「青年会」のみなさんにお願いしています。

バザーをして、収益を支援が必要なところへ送ってくださる
 「ピースナインの会」「女性の会」「フィリピンコミュニティ」の方々。

掃除やイベントの裏方をやってくださる「ヨゼフ会」の男性方。

花壇のお手入れをしてくださっている「女性の会」の方。

ごミサの時、初めて来られる方に案内をしてくださる「教会学校保護者会」の方。

教会の備品を管理してくださっている「役員」の方。

教会学校担当、納骨堂委員、営繕委員、広報委員など。

いろいろな方が、快く役割を担ってくださっていることで成り立っているのが教会です。

その方々すべてに、神様のお導きがあります。

 

「主は彼らの前を行き、彼らが昼も夜も進むことができるよう、
昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた。
昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。」

出エジプト13・21~22

 

モーセが民を率い、エジプトから紅海に向かう時の様子を書いた箇所ですが、
わたしはこのくだりがとても好きです。

誰もが、神の導きによって、昼も夜も迷うことなく前に進めるように、
という神様の愛を連想します。

 

わたしたちは、教会、家庭、職場、地域社会などでさまざまな役割を担っています。

待降節の期間、今年の残りの日々、周囲の人々への優しさと感謝の気持ちを大切に。

そして、どんな時も神が導いてくださっている、ということを忘れないように過ごしたいものです。

 

 

神学院祭、召命。

少し前のことになりますが、11/3 福岡キャンパスでの開催は今年で最後となった、神学院祭に久留米教会からも大勢で参加してきました。

恵まれた敷地!

 

 

 

素晴らしい環境で、17名の神学生が学んでいます。
われらが誇り、船津神学生もその一人です。

丘の上から神学生の挨拶があり、開会しました。

 

 

 

各教区の神父様方も勢揃いし、美しい秋晴れの空の下、
贅沢なごミサに与ることができました。

 

 

企画ももりだくさんで、大人も子供もとても楽しい時間を過ごすことが出来ました。
丘を利用した草スキー(?ソリ?)、神学生を探してシールを集めてお菓子をもらったり、
神学生によるマジックショー、ウッドビーズでのロザリオ作りなど。

各教会ごとのいろいろな食事やお菓子の露店も出ていました。

こんな面白いランキングも!

 

 

 

 

日本の神学生の数は、年々減少しています。
わたしたち信徒にとっても、カトリック教会全体にとっても、とても深刻な問題です。

聖アウグスティヌスは、自身の放蕩生活やマニ教への入信を振り返り、苦悩していたさなか、
隣りの家の子どもが遊びながら歌う声にハッとします。
「とれ、よめ」
そこにあった聖書を手にし、どこを読むとも意識せずに開いたページが、パウロの回心するくだりでした。


「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けてはならない」
ローマ人への手紙13・13~14


そして洗礼を受け、修道生活へと入っていきます。

ひとりでも多くの若者が、神の招きに気づき、導かれるように祈りたいと思います。

 

 

この中に、将来の神学生がいるかも!?!

 

バザーと聖書

11/18〜25は聖書週間となっています。

みなさん、聖書はどのくらいのペースで手にしますか?

聖書に親しんでいますか?

今日はごミサの後、バザーが開催されました。このバザーも、聖書の教えを実践しているのだわ、と感じました。

 

 

 

今日のバザーの収益金は、震災後続けられている福島家族支援のプログラム「博多にきんしゃ〜い」への支援金として充てられます。

久留米教会には女性の会というグループがあり、定期的にコーヒーバザーが開催されます。

ごミサの後、教会前の広場で皆がコーヒーを片手に語り合う、貴重な親睦の場でもあります。その収益は、例えば教会の空調献金に充てられたりしているのです。

なぜ、バザーをするのか。

答えは、聖書のいたるところに書かれています。

 

これは、わたしの聖書、フランシスコ会翻訳です。

 

 

このように、気に入っている箇所や大事にしている言葉のページには付箋を貼っていて、時折読み返しています。

 

今日のごミサの箇所。

『天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。』マルコ13・31

共同訳が採用されている聖書と典礼はこう訳されていますが、フランシスコ会だと。

『天地は過ぎ去る。しかし、わたしの言葉は過ぎ去ることはない。』

 

どうでしょうか。

この微妙なニュアンスの違いを楽しむのも、わたしが聖書を開く理由のひとつです。

 

宮﨑神父様がおっしゃいました。

「聖書は神様からのラブレターです。

ラブレターをもらったら、それに答えようとしませんか?

神からの教えに応えなければなりません。

教会は、人の言葉、聖書の教えの上に成り立っています。

聖書に書かれた、使徒たちの苦難に満ちた宣教の旅のことを知らなければ、本当の意味でのイエス様の教えを知ることはできません。」

 
この期間のうちに、ぜひ聖書を開いてみましょう。

どこを読んでもいいのです。気負わず、気軽に。

 

 

先週の神学生たちと久留米の子供たちの集合写真です。

みんな、素敵な笑顔‼︎

 

 

 

七五三のお祝いとお恵みの子どもたち

11日のごミサでは、七五三のお祝いがありました。

そして、長崎の神学校から13名の神学生と3名の神父様がたもお越しになり、
お恵み溢れる素晴らしい日曜日のミサとなりました。

 

 

 

現在、14名の神学生が在籍していて、そのうち12名が長崎教区の出身とのこと!

2名は、われらが福岡教区の誇り、久留米の横山神学生と、今村教会出身の鈴木神学生です。


5人の神父様による贅沢なごミサ。

そして、お恵みに満ちた神学生たちと七五三の祝福を受けるたくさんの子どもたち。

 

 

 

みなさん、教会中に満ち溢れる聖霊のパワーを感じられたのではないでしょうか。

特別のお恵みを受けた子どもたち&青年たちからのおすそ分けをいただいたような気持ちで、
息を吸い込むたびに、体内に良いエネルギーが入ってくるのを感じました。

ごミサのあと、何人もの方が「今日は素晴らしいごミサだった!」とおっしゃっていました。

 


最後に神学生たちがギターの演奏付きで素敵な歌声を披露してくれました。

3曲目は自らのアンコールによって。(笑)


♪聖霊きてください

あなたの光の力で

わたしたちを照らしてください♪


♪わが主イエス

わたしを包む、わたしを満たす♪


横山神学生の挨拶がとても心に響きました。

「わたしたちも皆さんのために日々お祈りしています。
来週末に大学受験を控えている2名の神学生のために、わたしたち神学生のためにもお祈りください。」

 

 


彼らがこれから、高校へ進学し、大学生となりコレジオで学び、その後に神学院で6年学び、
助祭、司祭となっていく長い道のり。

彼らのためにも、わたしたち信徒のためにも、心を込めて祈り続けて行きましょう。

 

死者の月に想う。

3日の秋晴れの美しい空の下、盛大に行われた神学院祭については、また次回!

 

今月は、死者の月です。

「死について黙想し、周囲の亡くなられた方が永遠の命に招かれるように祈ることは、

私たちがよりよく生きることに繋がります。」

宮﨑神父様がミサでおっしゃった言葉です。

 


今日のミサで撮影した写真。

朝日の偶然による光の屈折が美しく、聖霊が、天と教会のなかのわたしたちを結んでいるような気がしました。

 

こちらは、ボリビアの死者の日の様子。

 

 

ボリビアでは死者の日から数日、お仕事はお休みだそうです。

「みなさん、お墓参りに行ったり、もし今年亡くなった方が家族にいたら、その方が好きだったものを準備して、お祈りに来て下さる方々とそれらを分かち合う日となっています。

わたしも、知り合いの家にお祈りに行き、パンとワインをいただいてきました。」

ボリビアのAkikoさんより。

日本のお盆のような感じですね。

 

午後3時から、久留米教会の全ての死者の追悼のためのごミサが捧げられました。

 


聖アウグスティヌスは、母モニカが亡くなったとき、悲しみにくれていました。


「私は終日、心の奥底においては、重いかなしみに沈んでいました。

そして、精神をかきみだされ、このかなしみをいやしたまえと、あなたにむかってなしうるかぎり乞いもとめましたが、あなたはその願いを聞きとどけてくださらなかった。」


告白 第9巻 第13章


紛らわすため、入浴したり眠ってみたり、いろいろ試してみます。

そして、アンブロシウスの”夕の讃美歌”を想い出し、敬虔な母の想い出にひたるのです。

 

かみよ、すべてのつくりぬし

あまつそらを しろしめす

ひるは あかるきひかりもて

よるは めぐみのねむりもて

よそおいたまえば もろびとは

ゆるみしからだ よこたえて

あすのちからを やしなえり

つかれしこころ かろやかに

なやみはとけて あともなし

 

わたしも、母が亡くなったとき、神様にながいあいだ問い続けました。

なぜ、こんなに早く母を召されたのですか?と。

簡単には哀しみは癒えませんでした。

神様からお返事が聞こえたような気がしたのは 随分時間が経ってからでしたが、いまでも鮮明に覚えています。

 


「亡くなった人のことを祈るより、

残った家族や友人のために祈るのです。

亡くなった人は神様の元へ行ったのだから、

何も心配することはありませんよ。」


と神父様から言われ、とても心が軽くなりました。


死者の月に、周囲で大切な方が神様の元へ召された全ての方のために祈りましょう。