行事風景
隣人愛のかたち
4回目の緊急事態宣言となり、久留米教会も教区の決定に則り、公開ミサが中止となりました。
「宣言には意味がない」という意見があるようですが、そのように不満を抱いてもなにも状況は変わりません。
わたしたちはいま自分にできることを粛々と、そして、感染しない・させない対策を徹底的に行うのみです。
そんな中、パパ様のお言葉がまた心にとまりました。
神は、日々生じる問題から、私たちを解放するために来られるのではありません。
愛の欠如という本質的な問題から、私たちを救うために来られます。
愛の欠如は、私たちの個人的、社会的、国家間、また環境の問題の根本原因です。
自分のことしか考えないことは、すべての悪の始まりなのです。
God does not come to free us from our ever-present daily problems, but to free us from the real problem, which is the lack of love.
This is the main cause of our personal, social, international and environmental ills.
Thinking only of ourselves: this is the father of all evils.
8/17教皇フランシスコ Twitter
夏の甲子園、2回戦を目前に辞退した宮城県代表の東北学院の主将のインタビュー、お聞きになりましたか?
監督と選手たちの話し合いで、「感染した人のことはみんなで守ってあげようという話があった」と報道されていました。
高校生のことばです。
わたしたち大人も、彼らを見習い、恥じない言動をとらなければならないなと身が引き締まる思いがしました。
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何度も書いていますが、今回もお伝えしたいことです。
◆「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」
(マタイ7・12)
この教えは、姪たちが小さいころから彼女たちにも度々言い聞かせてきました。
「おなじように、自分がされたくないことは人にしてはいけないのよ。」とも。
この黄金律は、イエス様の時代よりずっと以前から、ユダヤ人の間で律法全体の要約として語られていたことでした。
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◆「あなた自身にとっていやなことは、あなたの隣人に対してもしてはならない。
それは律法全体であって、あとのものはそこから推し計られるものにすぎない。」
◆「あなたの隣人を裁いてはならない。あなた自身が隣人の立場にならないためである。」
◆「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」
これらもすべて、福音書に書かれる遥か昔からユダヤ人の間では格言として知れ渡っていたことばでした。
イエス様も、黄金律はモーセの律法の要約だと考えていたようです。
◆「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」
(ㇾビ19・18)
古いアラム語の訳では「あなたの隣人を愛しなさい。あなたを不快にさせることはどんなことでも、隣人にしてはならない!」となっているそうです。
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そのとき、ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
(マタイ22・34~40)
イエス様はユダヤ人であり、ユダヤ教の教えのもとに育ち、暮らしておられました。
福音書に記されている教えの重要な箇所からも、イエス様が旧約の教え、律法をとても大切にされていたことが分ります。
黄金律と隣人を愛することの戒めは、その最たる例でしょう。
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隣人愛の実践に尽くし、「これはキリスト教に限った教えではなく、遥か昔からの格言なのよ」と、わたしたちが周りの人にも伝えていくのです。
何かが変わっていくかも、という希望を持って。
少しずつ、秋の気配が。
求めている平和とは
15日までの10日間は、カトリック教会の平和旬間でした。
各々、平和への祈りを捧げ、平和とは何かを考える機会をお持ちになられたのではないでしょうか。
8月15日は、わたしたちにとってたくさんの意義深い日です。
福音宣教の始まりである、フランシスコザビエルが鹿児島に上陸した日
終戦記念日
日本の伝統文化であるお盆
そして、聖母マリア様の被昇天の記念日
宮﨑神父様はお説教の中でこうおっしゃいました。
「8月15日は平和を噛み締める日です。そして、故人を想い、祈り、同時にいずれ訪れる自らの死を重ねて黙想する日です。」
あなたは何のために平和を求めますか?
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わたしはいつも、パパ様の優しい笑顔に平和を感じます。
先日ご紹介した、教皇フランシスコ訪日公式記録集をようやくじっくりと読みました。
広島平和記念公園での「平和のための集い」では、プロテスタントの各宗派の代表だけでなく、神社や様々な仏教の宗派の代表、日本のユダヤ教、ムスリム、ロシア正教などの代表者の方との交流、参加があったことをご存知でしたか?
核兵器の廃絶、戦争のない世界の実現はもちろん平和の重要な条件ですが、最も重要な要件は「人々の間に平和があること」だと思うのです。
コロナ禍において、世界中のいたるところで人間の愚かさ(差別、偏見、誹謗中傷)、不平等などが改めて顕になりました。
紛争のない国であっても、そうした醜い人間の状態が渦巻く状況で平和な社会と言えるでしょうか。
これまでは、世界の差別の大要因は「人種」と「宗教」の問題が根底にあるからだと考えていました。
そして、その根本的な原因の一端はキリスト教にあるのではないかという葛藤があります。
コロナウィルスが世界を席巻する今、問題はさらに大きく深く広がってしまっている気がします。
今このような時代だからこそ強く思うのは、平和はわたしたち一人ひとりの中で育てるべきことであり、平和のためにわたしたちが求めるべきは、お互いの他者への思いやりだということです。
世界が繋がっている一つの社会なのだ、とわたしたちは今、思い知らされているはずです。
平和は自分のためだけに求めるものではないはずです。
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詩編の、いつも心の中に響かせたい、美しい平和の祈りです。
いつくしみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、
まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。
(新共同訳)
いつくしみとまことはともに出会い、義と平和は抱き合う。
まことは地から生えいで、義は天から身をかがめる。
(フランシスコ会訳)
(85・11〜12)
(122・8)
わたしはいおう、わたしの兄弟、友のために。
『あなたのうちに平和があるように』」
(122・8)
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オリンピック陸上競技800メートルの準決勝で、転倒してしまった選手にもう一人の選手が巻き込まれたシーンをご覧になりましたか?
巻き込まれた選手が最初に転倒した選手に手を差し伸べて抱き起こし、抱き合った後、「行こう」「ゴールしよう」と声をかけ、二人で揃って走り出して他の選手から1分近く遅れて一緒に肩を並べてゴールしました。
そこに、平和がありました。
少なくともわたしたちにできることは、周囲の人々に思いやりと優しい気持ちを持って接し、お互いが気持ちよく過ごせる日常を作っていくことでしょう。
平和はそこから生まれます。
自分なりの実り
毎年、8月になると台風が接近し、猛暑を少し和らげるという自然の営み。
地球が温暖化しているとはいえ、このサイクルが日本の季節を作っていることには驚きます。
被害がなければ良いのですが、台風がいくつか通り過ぎてくれると、過ごしやすい夏になります。
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もしも無人島に何か2つ(ひとつではない)持っていけるとしたら?
わたしは迷わず、聖書とワイン一箱(一本ではない)を選びます!
聖書を選んだのは、何も真面目で敬虔な信者だからとかではなく、純粋に読むのが面白いからです。
聖書とワインさえあれば、退屈することはありません。
旧約にはぶどうの木、ぶどう園のたとえが数多く語られています。
それに呼応するように、新約でもぶどうに関する記述があります。
旧約には直球で「飲み過ぎ注意!」という記述も結構あるのですが、多くは「役に立たない、神に背いたものの象徴」「実を結ばなければ価値のないもの」として語られます。
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詩篇80のタイトルは「荒らされたあなたのぶどう園を元どおりに」
あなたはぶどうの木をエジプトから移し、異邦の民を追い出して、これを植えられました。
あなたは前もって地を整え、その木を根づかせ、生い茂らせました。
万軍の神よ、立ち返ってください。
天から見下ろし、目を留めて、このぶどうの木を顧みてください。
(9〜10、15)
BC722年のアッシリア軍侵攻による北イスラエル王国滅亡の直前の自分たちを、ぶどうの木にたとえています。
イザヤ書5章のタイトルは「ぶどう園の歌」
さあ、エルサレムに住む者とユダの人よ、わたしとわたしのぶどう園の間を裁け。
ぶどう園になすべきことで、わたしがしなかったことがまだ何かあるか。
わたしは善い実が結ぶのを期待したのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
まことに、万軍の主のぶどう園とは、イスラエルの家。
主が喜んで植えられたのはユダの人。
(3〜4、7)
イザヤという人はユダ王国の貴族で、エルサレムに暮らしていたとされています。
北王国イスラエルが南王国のユダに攻め入った戦争とその後のアッシリアのユダ侵略が背景にあるのが、本人が書いたとされる第一イザヤ(1〜39章)です。
エゼキエル書15章のタイトルは「無用のぶどうの木」
人の子よ、ぶどうの木はほかの木、すなわち森の木々の間に生える木の枝より優れているだろうか。
その木で何かを作ろうとするだろうか。
それでものを掛ける木釘が作れるだろうか。
それどころか、薪として火にくべられるだけである。
その両端は火で焼き尽くされ、その芯は黒焦げになる。
それが何かに役立つだろうか。
そのままの時でも役に立たないのに、火に焼け、黒焦げになってしまえば、いったいなんの役に立つというのか。
(2〜5)
先ほどのイザヤ書の箇所と同様に、イスラエルが神に背き続け、不忠実であったことへの神の裁きを表現しています。
このように旧約では、救いようのないぶどうの木を神が見放した=エルサレムの崩壊、が語られ、ひたすらに「神に立ち返ること」の重要性が書かれてます。
一方で、新約におけるぶどうの木のたとえは「苦しみのシンボル」であると同時に、「希望の象徴」でもあります。
ヨハネ15章のタイトルは「イエスはまことの〈ぶどうの木〉」
わたしはぶどうの木であり、わたしの父は栽培者である。
わたしにつながれていて、実を結ばない枝はすべて、
父がこれを切り取られる。
しかし、実を結ぶものはすべて、もっと豊かに実を結ぶように、
父がきれいに刈り込んでくださる。
わたしのうちに留まっていなさい。
そうすれば、わたしもあなた方のうちに留まる。
ぶどうの枝が木につながれていなければ、枝だけで実を結ぶことはできない。
それと同じように、あなた方も、
わたしのうちに留まっていなければ、実を結ぶことはできない。
わたしはぶどうの木であり、あなた方は枝である。
人がわたしのうちに留まっており、わたしもその人のうちに留まっているなら、
その人は多くの実を結ぶ。
(1〜5)
できない、ダメなことだけでなく、どうすれば実のるか、どうすれば多くの実を結ぶことができるかが書かれているのが新約のイエス様の言葉なのです。
わたしたちは、この言葉に象徴されるような信仰心を日々鍛えることが必要だと思います。
実を結ぶ、それぞれにとってその意味は違うかもしれません。
わたしにとっての実りとは、
1番大切に思っている家族のためによりよく生きること。
1番大切にしている教え「何事につけ、人にしてもらいたいと思うことを、人にもしてあげなさい。」を努めて毎日行うこと。
自分なりの実を豊かに結ぶことのできるよう、日々を大切にしたいと思っています。
余談:ワインといえばフランス、というイメージの方が多いかと思いますが、イスラエルの北部は肥沃な土地で、ワイン栽培が盛んです。もちろん今でも多くのワイナリーがあり、とても美味しいワインを作っています。
カルメル山という名前はへフライ語で「神のぶどう園」という意味です。
買ってきたコーシャーワイン(ユダヤ人のみが栽培から収穫、瓶詰めまで全ての工程を行なったワイン)が我が家にまだありますが、現地で飲むのとはやはり味わいが違います。。。
イスラエルが恋しい!
暑さを乗りきる術
先週の久留米は、毎日体感気温が40度近かったですね!
日曜日の雨で、暑さが少し落ち着いてくれて助かります。
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この夏の間、立ち止まって休むことを覚えましょう。
携帯電話の電源を切って、他者の目をしっかりと見ましょう。
沈黙の時を持ち、自然を観想し、そして神との対話のうちに生まれ変わりましょう。
(マルコ6・30-34参照)
During summer time, let us learn how to take a break, turn off the mobile phone to gaze into the eyes of others, cultivate silence, contemplate nature, regenerate ourselves in dialogue with God.
2021/7/19教皇フランシスコ twitterより
このTwitterのメッセージ、ものすごく心に染みました。
2年前の8月、イスラエルに巡礼に行きました。
「暑い」という言葉では語れない日差しだったこと、生涯忘れられません。
標高400メートルほど(ただし、立地がマイナス400メートルの死海の西側)のマサダ遺跡の気温は、携帯の温度計で46度でした。
久留米の猛暑は湿度も高いため、家事などで汗をかくと肌がべたつき、不快な感じがしますが、イスラエルはカラッカラの乾燥状態なので、汗が流れながら蒸発します。
毎日一万歩くらい歩いて旅を続けながらいつも思っていたのは、「この気候をイスラエルの人々、イエス様たちも暮らしていたんだ」と言うことでした。
そう思いながら歩くと、意外と頑張れたのです。
暑い
きつい
そう思うのをできるだけ控え、なんのために歩いているのか、何をしにここに来ているのか、そのことに集中するように努めました。
皆さんと同じようには行動できないこともありましたので、無理をせずに時には立ち止まり、一人で立ちすくんで沈黙の時間を持つこともありました。
冒頭にご紹介した、パパ様ツイッターのおことば、手帳に書いていて毎日読んでいます。
☆ 立ち止まって休む
☆ 他者の目を見る
☆ 沈黙の時を持つ
何かせわしなく過ごしていると難しいことのように感じるかもしれませんが、どれも簡単にできることです。
わたしは6月から膝を痛めていて、歩くのも椅子から立ち上がるのも辛い日々が続いていました。
「パウロみたいにとげが与えられたんだわ。
何か思いあがってることはないか、よく考えてみよう!」
そう思って、このところずっと割とよく立ち止まり、沈黙の時間を持つようにしています。
「暑い、暑い」と口にしてバタバタしていると、余計に暑くなる気がしませんか?
立ち止まって、少しだけ沈黙を保ってみると、目に見える景色も聞こえてくる蝉の音色も違ったものに感じます。
今年の夏も、これからが本番です。
暑さに負けず、乗り切って元気に暮らすために、パパ様のこのメッセージを心に留めてみませんか?
感謝の気持ち
東京オリンピック・パラリンピックが始まりました。
ようやく実現しました!
久留米教会の「こどもとともにささげるミサ」もようやく実現しました。
式次第の順番は変わりませんが、多少言葉遣いが平易になっています。
来月からも毎月第4日曜日に予定されています。
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いつの大会でも、開会式は一番の楽しみで見ています。
今回の式典も本当に素晴らしかったと思います。
久留米教会とは全く関係ありませんが(いつもですが。。。)、そして式典のテーマがどのようなものだったのかは存じませんが、わたしは式典の中の至るところに「感謝の気持ち」を感じ、胸が熱くなりました。
前日までハプニングやスキャンダラスな出来事が数多くあり、世論も(報道されている限りでは)盛り上がっていたとは言い難い、大変困難な状況でした。
それでも、オリパラの誘致から今日まで、どれほどの方々がご尽力されたか。
どれほどの方々が影で動かれ、矢面に立ち、携わられたか。
世界的に活躍されているアーティストの皆さんと並んで、エッセンシャルワーカーと呼ばれる方々がたくさん出演者として登場されていました。
そうした全ての皆さんに「ありがとう!」と心から感じることができる開会式でした。
そして、演出の随所に「ありがとう!」と世界中の方々にメッセージを発しているのを感じました。
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あなた方は神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、思いやりの心、親切、へりくだり、優しさ、広い心を身にまといなさい。
互いに耐え忍び、誰かに不満があったとしても、互いに心から赦しあいなさい。
主があなた方を心から赦してくださったように、あなた方もそうしなさい。
これらすべてのことの上に愛をまといなさい。
感謝の人となりなさい。
キリストの言葉をあなた方のうちに豊かに宿らせなさい。
言葉にしろ、行いにしろ、何かをする時は、主イエスを通して父である神に感謝しつつ、すべてを主イエスの名において行いなさい。
(コロサイ3・12〜17)
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「どんなことにも感謝しなさい」と1テサロニケにもあるように、わたしたちキリスト者の信仰の基盤は「愛」「感謝」なのです。
人や物事の粗探しをする風潮がはびこっている現在だからこそ、私たちは「愛」と「感謝」の信仰を実践すべきなのではないでしょうか。
7月25日は、新しく制定された「祖父母と高齢者のための世界祈願日」でした。
84歳の教皇様は「 主は永遠であり、決して引退なさいません。決してです。」とメッセージの中で述べられています。
「兄弟愛と社会的友愛を持って明日の世界を、嵐の後にわたしたちと子どもと孫とが生きる社会を築くには、あなたが必要です。」
高齢の方々、もちろん、自分の親だけではなく地域社会の先輩方への敬意と感謝の気持ちを忘れないようにしたいと思います。