行事風景
気にかけてくれる存在
久留米市の感染状況の増減に一喜一憂していたのですが、とうとう3回目の緊急事態宣言が発令されることになりました。
久留米市もワクチン接種の予約が始まっています。
ウィルスが消えてなくなることはないでしょうが、各人が自分にできる対策をとることはできます。
またミサが再開される日まで、静かにロザリオの祈りと共に心穏やかに過ごしましょう。
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皆さんは普段から「気にかけている人」がいらっしゃいますか?
離れて暮らす子ども
コロナ禍でしばらく会えないでいる親兄弟
大切な友人
お正月に家族が一堂に会し、たまに孫たちが訪ねてきて、仲間たちと集まって飲み会をする。
いまでは懐かしい過去の習慣ですね。。。
コミュニケーションの遮断ともいえる日常が当たり前のようになって、もう1年以上になりました。
わたしの場合、人との交わりの機会が8割は減ったように思います。
いまではすっかり、人との距離間が変わってしまいました。
例えば、スーパーなどで後ろに並ぶ方との距離が近いとそわそわしてしまいます。
そんな、人との距離が離れてしまった現在だからこそ、誰かのことを気にかけること、人との繋がりを大切にしたい、と考えるようになりました。
若松英輔さんがおっしゃっていたように、「交わりと繋がり」は違うものですね。
妹たち家族にはずっと会えていませんが、彼女たちとはテレビ電話でしょっちゅう連絡を取ることができます。
交わることはできないけれど、いつも繋がっていることを感じます。
気にかけている人が元気に過ごしているか。
もしも思い当たる方がいらっしゃれば、このあと電話してみてください。
わたしたちと気にかけている人を結びつけているのは聖霊の働きです。
わたしたちと神様を結びつけているのと同じ聖霊の働きです。
心身ともに健康であるために必要なことは、規則正しい生活と誰かに必要とされていると感じること、あるいは、誰かに気にかけてもらえていると実感すること、そう思うのです。
イエス様とマリア様、もちろんヨセフ様がいつもわたしたちを気にかけてくださっているように、聖霊の導きに従って周囲の人を気にかけることはすなわち、誰かが自分をいつも気にかけてくれているということなのです。
5月の聖母月の間、「祈りのマラソン」として世界五大陸の30聖堂にわたりロザリオの祈りが中継されています。
これは教皇様の希望で、すでに一年以上世界を苦しめているパンデミックの収束を願って繋げる目的で行われているものです。
5月1日のバチカンでの教皇様によるロザリオの祈りから始まり、21日(金)には長崎の浦上教会の被爆マリア像を前に祈りの中継が行われる予定です。
https://youtu.be/4Rb7_WdNlZY
ひとつのメッセージ
久留米でも感染者が大幅に増加しています。
皆様も十分にお気をつけになっているかと思いますが、どうぞ外出の際の手洗い、手指の消毒といった基本的なことをしっかりとお守りください。
世界のワクチン接種状況、というニュースを見ました。
「日本は〇〇か国中最下位」といった報道は、見ていて悲しくなります。
こうしたネガティブな情報は取り入れてもあまり良いことはないと思うのですが、このニュースをみていてある映画を思い出し、久しぶりに観ました。
ARRIVAL(邦題は「メッセージ」)
2016年のアメリカ映画です。
宇宙から謎の物体が世界の12都市に現れ、エイリアンが何の目的で地球に来たのかを12か国がそれぞれのやり方で探ります。
最初は、zoomのようなシステムで12か国が連携して情報をやり取りしながら協力関係を構築しつつありました。
しかし次第に、それぞれの思惑や価値観の違いでお互いが情報を出し渋るようになり、ある国は武力行使を決定したりとその協力関係が壊れていきます。
最終的には、主人公である言語学者のある言動をきっかけに、12か国の連帯が再度生まれ、エイリアンの目的を解読します。
その目的は「地球人(地球全体)の連帯」だったです。
(その目的には理由があるのですが。)
主人公はエイリアンの言葉を解読し、「Universal Language / 世界共通言語」として確立させ、地球共通の言葉として広めていきます。
まさに、いまわたしたちの生きている現在の地球のことを表現しているような映画なのです。
ネタバレを書いてしまったのですが、音楽も映像も本当に美しく、わたしの拙い文章では伝わらない感動的な映画です。
ぜひご覧いただきたい作品です。
わたしたちの生きる今の世界は、自然(神様)からのこの(パンデミックという)メッセージを読み誤っていないでしょうか。
世界が連帯してこの現実に向き合っていけているでしょうか。
わたしたちは聖書というUniversal Languageを持っています。
いつの間にか自分たち(国、人種、宗派など)に都合のいいように解釈し、同じ聖書を読みながらもバラバラの言葉を話し意思疎通が出来なくなっているかのようです。
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3/11付けで発表された日本カトリック司教団のメッセージです。
今、コロナ禍にあって、世界は『すべてのいのちを守るため』に連帯しています。
教皇フランシスコは対立と分断、差別と排除、孤立と孤独が深まる現代世界にあって、助けを必要としている人、孤立し、いのちの危機に直面している人のもとへ出向いていこうと呼びかけます。
あの未曾有の災害に襲われたとき、わたしたちは、人間の知恵と知識の限界を感じました。
自然の力を前に、どれほどわたしたちが弱いものであるかを知りました。
そのときわたしたちは、互いに助け合うことの大切さ、いのちを守るために連帯することの大切さ、いたわりの心の大切さを、心に刻み込みました。
大震災 10 年の今、世界はまさしくその大切さを思うことを必要としています。
(カトリック中央協議会 会報4月号掲載)
4/22のEarth Dayに教皇さまが出されたメッセージです。
「今日、地球全体で共有している新型コロナウイルスによるパンデミック問題もまた、わたしたちの相互依存関係を明らかにすることになった。」
環境保全そしてパンデミックへの対応という二つの大きな急務の課題に、皆が一体となって努力する必要があることをあらためて強調されました。
同じ一つの星に生きていることを思い知らされたパンデミックという現実。
「皆=地球全体で取り組まねばならない」と、自然界がわたしたちにひとつのメッセージを寄せている気がしてなりません。
子どもたちへの福音
昨年、宮﨑神父様は毎月第4日曜日を「子どもたちと共に捧げるミサにする」とお決めになり、準備をされていました。
感染症対策でごミサが中止になったり、いろいろな制約で子どもたちの参列が減ってしまったこともあり延期になっている子どもミサ。
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今月こそは開催できる!と日曜学校の先生方と、誰に聖書朗読をお願いする?とワクワクしていたのですが、久留米でのコロナウィルス感染者が急増してきたことで、今月も中止になってしまいました。
久留米教会は子どもたちのミサへの参列が多く、それが自慢の一つでもありました。
しかし昨年からのこの事態の中で、仕事上の影響を考えてミサへの参列を控えていらっしゃるご家庭も少なくないため、子どもたちも少なくなっていることはとても寂しい状況です。
日常が以前のような状態に戻るとは思いませんが、教会に子どもたちが戻ってきてくれることだけは願いたいと思います。
大人たちがもっとしっかりしなくては。
お中元・お歳暮などでいただいたけど食べないもの
まとめ買いしてしまったけど余っているもの
そうした食品などを持ち寄り、必要としている方々に届ける活動が、フードドライブです。
1960年代にフードドライブが盛んになったアメリカでは、食品以外にも「Paper Drive(古紙回収)」や「Book Drive(本の寄付)」「Toy Drive(おもちゃの寄付)」「Clothing Drive(衣類の寄付)」「Uniform Drive(着なくなった制服の寄付)」「Blood Drive(献血)」など様々な「ドライブ」、つまり寄付活動があるそうです。
フードバンクという言葉もご存知かもしれません。
フードドライブの違いは、参加対象です。
フードバンクは、例えばエフコープなど、企業が食品ロス削減のためにも食品などを提供します。
一方、フードドライブはわたしたち一般個人が家庭のものなどを提供します。
久留米でもフードドライブの活動が数年前から行われており、久留米教会には毎月第4土曜日にメンバーが集って受け付けています。
食品だけではなく、タオルや粉ミルク洗剤といった日用品も持ち込まれていました。
カトリック久留米教会、久留米と鳥栖のプロテスタントの教会と仏教のお寺に持ち寄られた品を一箇所に集めて仕分けし、毎月必要とされている個人にお届けされています。
4月から久留米教会で司牧実習に来てくれている、笑顔が素敵な池田裕輝神学生(神学科の1年生!)です。
29日には、久留米教会に司牧実習に来てくださっていた古市助祭の司祭叙階式が東京のカテドラルで執り行われます。
近しくしてくださっていた神学生の召命による叙階。
大人たちのフードドライブの活動。
若い神学生と過ごし、学ぶ日曜学校。
そうしたこと全てが子どもたちの信仰生活へのよい励みになるはずです。
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教皇様は25日にバチカンでローマ教区の司祭の叙階式をとり行われました。
出身や経歴も様々な9人の助祭が司祭に叙階されました。
バチカンニュースに掲載されていた、9人の召命について書かれていた記事がとても興味深かったのでご紹介します。
「復活」による変化
信者ではない友人から「クリスマスよりもイースターのほうが重要って、どうして?」と質問されました。
ご復活の意味について説明するのは難しいですね。
旧約聖書の預言者たちは「主に立ち返れ」と繰り返し人々を諭している。
それでも、主を忘れ、主に背き、罪から逃れられないのが人の常である。
その救い主として生まれ、十字架につけられ、死んで復活したイエス様。
救い主が生まれたことがめでたいのではなく、死んで復活してくださったことが救いなのだ。
この説明は間違っていないと思うのですが、こう言っても友人は「?」という顔をしていました。
復活したイエスは、何度か弟子たちの前に現れ、忍耐強く彼らの不信を解くことで、いわば「弟子たちの復活」を行い、こうしてイエスによって再び引き上げられた弟子たちは、これまでと違う人生を歩み始めることになった。
弟子たちは、これまで主の多くの教えに耳を傾け、多くの模範を目撃したにもかかわらず、自分を変えることはできなかった。
しかし、イエスの復活は彼らに新しい何かをもたらし、彼らを変えた。
それはいつくしみのしるしのもとに起きたことであった。
イエスは弟子たちをいつくしみによって引き上げ、「いつくしみを与えられた者」になった彼らは、今度は「いつくしみを与える者」に変容された。
4/11「神のいつくしみの主日」の教皇様のお説教より
教皇様のこのお説教はとても分かり易く、なるほどと深くうなずけます。
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先週書いた、マグダラのマリアの感動的な復活体験。
マグダラのマリアがイエス様の墓が空になっていたのを見た時のこと。
(ヨハネ20・11〜18)
「マリア」と名前を呼ばれた彼女は、振り返って「ラボ二」と答える。
これは、イエス様のご復活というよりも、マリアの復活体験の瞬間でした。
イエス様は、死の後に「生き返った」のではありません。
写真にとれば一緒に写るような、身体の蘇りをなさったのではないのです。
「私は主を見ました」
そうマリアは弟子たちに告げますが、幽霊を見たのではなく、イエス様は自ら「現れ」て弟子たちに「ご自分を見せられた」のです。
ご復活の出来事は、イエス様が弟子たちに現れてくださったという、弟子たちの復活体験に基づいているのです。
弟子たちはイエス様を裏切り、逃げて、十字架の足元にいたのは女性たちとヨハネだけでした。
それでもご自分を現わしてくださった主の愛と赦しを身に受ける弟子たち。
彼ら自身がその復活体験を通して、命をかけて福音を宣べ伝える人に造り変えられます。
自分の惨めさ、醜さを直視させられ、しかもそういう自分を圧倒的な愛で包んでくださる主を体感した弟子たちは、もう畏れるものはなにもありませんでした。
これが、キリスト教の信仰の根源です。
復活体験によって造り変えられた弟子たちの信仰がなければ、2000年以上もこうして福音が宣べ伝えられ続けることはなかったのです。
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わたし個人としては、20歳で洗礼を受けましたが、今思い返せばそれは復活体験ではありませんでした。
確かに洗礼で生まれ変わりましたが、わたしに神様が現れてくださったのは、20年後、母が亡くなった後でした。
自分の罪を直視し、我に返ったのです。
マリアが名前を呼ばれた時のように。
それからは、問題が起きて迷ったり困っているときなどに、神様と母がわたしに何を望んでいてどう歩んでいくべきかをさし示してくれているのを感じ取ることができるようになりました。
どなたにも、キリスト者としての復活体験がおありだと思います。
その時のお気持ちを、どうか思い返してみてください。
復活とは、「立ち上がる」「起き上がる」ということなのです。
神様との間にあった障壁のような、さえぎっていたものが取り払われる体験のことです。
わたしたちには、いつでも神の愛によって立ち上がることができる機会が与えられています。
それが信仰なのではないでしょうか。
わたしたちは、このことの証人です。
(使徒3・15)
生きていくちから
池江璃花子さんのことを検索すると、「池江璃花子の名言集」というサイトがたくさん設けられているのがわかります。
病気を公表した18歳からこの2年間に彼女が発した「名言」がたくさん紹介されています。
その中でも有名なのは、次のことばでしょう。
私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、
自分に乗り越えられない壁はないと思っています。
彼女がクリスチャンなのかは分かりませんが、こういうことばが身に染みていて、それが染み出してきたのでしょうか。
彼女は神様に選ばれたのだと思えて仕方ありません。
ヴィクトール・フランクル博士の本を読みました。
『それでも人生にイエスと言う』
1946年の講演の内容をもとにしてまとめられた本です。
1946年とはつまり、彼がナチスの強制収容所から解放された翌年のことです。
自殺する一番いい方法はなにかという問題に考えが向くと言っても不思議に思う人はいないでしょう。
実際、このような状況ではたぶんだれだって、一瞬であっても、「鉄線に飛び込む」ことを、つまり自殺を考えてみるでしょう。
しかし、わざわざ自殺を決意する必要がないことがわかります。
遅かれ早かれ、「ガス室に入れられ」ないですむ平均的確率がきわめて低いという状況では、自殺しようとすることはむだなことだからです。
「もう生きていたくない」と言う知り合いを励ましたことがあります。
心の中では「どう励ましたらいいのか見当がつかない」と思っていたのですが、口では「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」と。
2人の息子を相次いで癌で失ったその方は、生きている意味が分からないと、涙さえ出ないほど憔悴されていました。
実際にわたしが彼女を励ますことができるはずもなく、ただただ寄り添い、家族を亡くした方に言うわたしの言葉「天国の先輩であるうちのママがお世話してくれるから安心して」と伝え、たわいもない話をしに行く。
そうすることしかできませんでした。
ですが、次第に自然と、彼女は生きるちからを取り戻されたのでした。
わたしもそういう経験をしたからわかるのですが、生きていくちからは内面で育まれていくのです。
誰かに励まされたから、素晴らしいお話を聞いたから、そういうことから突然みなぎるものではありません。
自ら染み出してくるまで待つのです。
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「死は生きる意味の一部である」
◆苦難と死は、人生を無意味なものにするものではなく、むしろ、苦難と死こそが人生を意味あるものにするのだ。
◆人生に重い意味を与えているのは、この世での人生が一回きりだということ、私たちの生涯が取り返しのつかないものであること、人生を満ち足りたものにする行為も、人生をまっとうしない行為もすべてやりなおしがきかないということにほかならないのだ。
◆生き延びたことを、身に余る恩寵としか考えられなかった。
◆その恩寵にふさわしいものになり、すこしでもそれに見合うようになる義務が、死んでいった仲間に対してあるように思われた。
こう、フランクル博士はおっしゃっています。
最初にご紹介したように、この内容は強制収容所での体験からそう月日が経っていない時に語られたお話なのです。
この本のタイトルである「それでも人生にイエスと言う」という言葉は、収容所時代に囚人たちが作って歌っていた歌の歌詞なのだそうです。
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池江璃花子さんの様子をみて感動し、フランクル博士のことばに深くうなずく。
それらが糧となり、生きていくちからの肥やしとなります。
生きるということは人生を楽しむことではない、とここのところよく感じます。
池江さん、フランクル博士ほどの体験をしていなくても、生きていくことは時には困難が伴います。
マグダラのマリアがイエス様の墓が空になっていたのを見た時のことです。
(ヨハネ20・11〜18)
泣いていた彼女に
主の使いが「なぜ泣いているのですか」
イエス様が「なぜ泣いているのか」
そう尋ねられます。
「マリア」と名前を呼ばれた彼女は、振り返って「ラボ二」と答える。
これは、イエス様のご復活というよりも、マリアの復活体験の瞬間でした。
一度復活を体験した人は、強い。
生きていくちからを耕して耕して、陽の光と水を得て、心と身体を健やかに整えましょう。
生きていくちからを内面で育てていく毎日を、生きることを楽しみましょう。