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教会でともに働く

ACジャパンのこのCM、大好きです。

「たたくより称えあおう
 それが優しい世界」

ラップが心地よく聞こえます。

ACジャパンのホームページには、このCMの意図をこのように解説されていました。

多様性が求められる時代、世代を問わず、自分と異なる立場や考え方に対する不寛容な行動が社会的に問題になっています。
攻撃し合うのではなく、相手を尊重し認め合うことの大切さ、そこから生まれる交流を伝えます。

特にこのコロナ禍になってから、SNS上での誹謗中傷やすべてを政治の責任にしようとする風潮がエスカレートしているように感じます。

久留米教会では、毎月第2日曜日のミサで手話通訳を行っています。

以前もここに書きましたが、「耳の不自由な人が参列しているわけでもないのに、何の意味があるんだ」という意見があったことは事実です。

手話通訳ミサは、久留米教会がさまざまな方に開かれている教会であることのひとつの表れです。
そして、手話通訳をしている信徒は、教会共同体のために働いてくれているのです。

 

わたしは久留米教会で洗礼を受けましたが、受洗後すぐに東京の大学へ戻り、イグナチオ教会に通っていました。
イグナチオ教会はとても大きな共同体ですし、一緒に参列していたシスターと妹の他に信徒に知り合いはおらず、教会の活動に参加したこともありませんでした。

あれから月日がたち、今では久留米教会にたくさんの知り合いができ、教会委員としても働かせていただくようになりました。
先週は、ミサの先唱をさせていただいたのですが、ミサ後に「教会のために働いていらして素晴らしいわね」とお声かけいただいて嬉しくなったり。
少しは教会の活動のことを分かってきたようなつもりになっていました、が。。。

先週、新しくいただいたお役目である、筑後地区宣教司牧評議会の会合に参加しました。

筑後地区(二日市・小郡・今村・本郷・大牟田・久留米)の教会の代表者が集まり、評議会の会長でもある神父様のご指導の下、地区としての宣教司牧活動を行ってこられています。

月刊誌「福音宣教」の1月号には、様々な宣教司牧の活動についての記事がありました。

評議会に参加された各小教区の方々のお話。
「福音宣教」に寄稿されていた様々な活動。

ある種のカルチャーショックのようなものを受けたのです。

わたしはまだまだ教会での働きについて何も知らない!と。

当然ながら、皆さん、それはお仕事ではありません。
ご苦労もかなり多いように思われます。
それでも、誠実に、真剣に取り組まれている働きからは、充実から来る楽しさのようなものが感じられます。

そして何より尊敬するのは、「教会での働き」を「継続」して長年続けていらっしゃるということです。

どの活動も、どの小教区でも、同時に後継者を育てることにも取り組んでいらっしゃるのです。

 

確かにあなた方は、わたしたちの奉仕を通じて書きあげられた「キリストという手紙」であり、墨ではなく生ける神の霊によって、石の板にではなく人間の心の板に書きつけられたものです。
自分自身から何かが生じるなどと認める資格がわたしたちにあるのではありません。
かえって、わたしたちの資格は神からのものです。
神は、わたしたちを新しい契約に奉仕する、つまり、「文字」にではなく「霊」に奉仕する資格のある者としてくださいました。
(2コリント3・3〜6)

 

「教会で自分にできることはないか。」

ずっとそう思っていました。

ミサの前後に忙しく立ち振る舞い、いろいろなお世話をされている先輩信者さんや、ミサの進行をする先唱の方を見ていて、ずっとそう思っていました。

以前あるシスターが、「修道院は聖女の集まりだと思ってるでしょ?そんなことないのよ!いろいろあるのよ!」と笑っておっしゃっていましたが、共同体もある種の社会の縮図です。

色々な方がいて、色々な問題もあり、多くの働き手がいなければより良く前進することは難しいのです。

教会でみなさんとともに働くことを続けて行きたい、と決意を新たにしたところです。

 

人の心を読み取る方は、霊の思いが何であるかをご存知です。
霊が、神のみ旨に従って、聖なる人々のために執りなすからです。
神を愛する人々、すなわち、ご計画に従って神に召された人々のために益となるように、すべてが互いに働き合うことを私たちは知っています。
(ローマ8・27〜28)

「たたくより称え合おう」

これも、心に刻みたいテーマです。

 

今年の誓い

新年、明けましておめでとうございます。

今年も皆様にとって、恵み溢れる豊かな一年となりますように。

前教皇ベネディクト16世がご逝去されました。

皆様は、「2人のローマ教皇」という映画をご覧になったでしょうか。

この映画が公開された時、このページで紹介したことがありますが、もう一度皆様にお勧めさせてください。

 

この映画は、ベネディクト16世がベルゴリオ枢機卿を後任に押すために説得を繰り返す、2人の交流の様子が丁寧に描かれたものです。

実際にバチカンで撮影されたこと、2人の俳優が同時にアカデミー賞にノミネートされたことなどでも話題となりました。

 

アンソニー・ホプキンスがドイツ訛りの英語を話すだけでなく、容姿も風貌も、本当にそっくりです。

わたしの抱いていた前教皇様のイメージとは違い、厳格ながらもユーモアのセンスと愛嬌のある様子が描かれていて、むしろベルゴリオ枢機卿(現 フランシスコ教皇)の方が頑固で融通が利かないようなところがあるのが面白いのです。

この映画で特にわたしが印象に残っているのは、ベネディクト16世がベルゴリオ枢機卿に告解をするシーンです。
当時、幾つものスキャンダルに見舞われ、精神的肉体的に疲労困憊していた教皇が、正反対の主義主張・性格の枢機卿に次第に心を許していく様には、心が揺さぶられます。
そしてその後、バチカン美術館に見学に訪れていた多くの観光客にもみくちゃにされながら、気さくに、楽しそうに自撮りに応じるベネディクト16世の様子が、本当に微笑ましいのです。

ぜひ、ご覧いただきたい映画です。

天国で安らかにお過ごしになられますよう、心からお祈りいたします。

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1月1日、元日の主日のミサで、新成人の祝福が行われました。

 

20歳を迎える3名の新成人が参列し、宮﨑神父様の祝福を受けました。

3人は、今年の抱負を抱いていることでしょう。
そして大人として扱われることになるこれからの人生に、期待と希望を持っていることでしょう。

20歳の時、皆様はどのような誓いをしましたか?
覚えていらっしゃいますか?

わたしは、20歳になってすぐに、大きな病気をしました。
それまでは、勉強とスポーツに明け暮れ、何となく幸せに生きていましたので、生死に関わるような大病を20歳の時に経験したことで、そしてその後すぐに洗礼を受けたことで、文字通り「生まれ変わり」、新しい人生を歩み始めました。

生きていれば誰も、節目となるような出来事に遭遇するでしょう。

まずは、20歳という成人の年は大切にしたい節目です。

人生とは、生きるとは、楽しむことだ。

若い彼、彼女には、そう思ってほしいものです。

望まなくても、辛いことや悲しいことは必ず起こります。
まずは、楽しんで!と伝えたい。

 

わたしも、今年の誓いを立てました。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

素直に耳を傾ける

朝晩の澄んだ空気、本当に気持ち良い季節です。

「朝起きてすぐの心の状態が、その日1日を決める。」

昔読んだ本にそう書いてありました。
この何年もずっとこのことを心に留めていて、起きてすぐにカーテンと窓を開け、神様と母に挨拶をして、「今日も一日よろしくお願いします!」と口に出して言うようにしています。

 

31年前の今頃は、東京の大きな病院に入院していました。

新宿の都庁のすぐそばの病院で、14階の病室からは山手線沿線の街が一望でき、空気の澄んだ日には、遠くに富士山も見えました。
病室からその景色を見渡した瞬間に思ったことは、今でも忘れられません。

「この景色の中に、幾つの病院があって、何人の人が病気で入院しているのだろう。
わたしはその多くの人の中の一人に過ぎない。
わたしは神様から守ってもらえてるはずだから、全然大丈夫!」

ハタチのわたしの心に浮かんだその気持ちは、その後の長い入院生活でもずっと変わりませんでした。

最近、また大きな病院に通院するようになり、コロナが落ち着いたこともあるのでしょうが、本当に多くの方が病院を受診されていることに驚きます。

「スーパーで出会う人々とは違う。
この人たちは皆、どこかに病気や不具合を抱えているんだ。」

25日のミサの福音書では、金持ちとラザロのたとえ話が読まれました。
金持ちは、死んでからようやく周りを思いやる気持ちを見せます。
そして、周りと言っても自分の兄弟のことだけでした。
アブラハムに頼むときにでさえ、「彼らもこんな苦しい場所に来ることがないよう、きびしく言い聞かせてください。」と自己中心的な言い方です。
それに対しアブラハムは、「彼らの言うことを聞けば良い」と答えます。
それでも食い下がる金持ちは口答えをします。
「しかし、アブラハムは言った。『もし、モーセや預言者たちに耳を傾けないなら、たとえ、誰かが死者の中から生き返っても、彼らはその言うことを聞かないであろう』」。
(ルカ16・19〜31)

聞いて行動することが求められているのです。
聞いても行動しないのならば、全く意味がありません。
まずは、耳を傾けるのです。
今、わたしたちの助けを必要としている人のために、心を開き、耳を傾け、愛の実践を実行することが必要なのだ、と、宮﨑神父様がお説教でおっしゃいました。

病院での出会いについて書いたのは、聖体奉仕者の役割を担っていらした方から「コロナ禍になって、病院やご自宅に聖体を持って行くことができなくなって久しい。求めていらっしゃる方がどのくらいいるのかも把握できていない。」というお話を伺ったからです。

宮﨑神父様にお願いしてみました。

「病院はまだ外部からの訪問を受け入れないでしょうが、ご自宅にいて教会に来ることができないご高齢の方のために聖体奉仕者の方々が働けるように、司教様に聞いてみていただけないでしょうか。」

 

わが子よ、施すべき相手に善行を拒むな、あなたの手にその力があるなら。
出直してくれ、明日あげよう、と友に言うな、あなたが今持っているなら。
友に対して悪意を耕すな、彼は安心してあなたのもとに住んでいるのだ。
理由もなく他人と争うな、あなたに悪事をはたらいていないなら。
不法を行う者をうらやむな、その道を選ぶな。
主は曲がった者をいとい、まっすぐな人と交わってくださる。
主に逆らう者の家には主の呪いが、主に従う人の住みかには祝福がある。
主は不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜る。
(箴言3・27~34)

 

耳を傾け、聞いて、自分が今何をすべきかを自問し、実行する。
できないことに囚われずに、やるべきこと、できることを。

神父様のお説教を聞いて、このことを強く感じた日曜日でした。

 

主の御手にあって王の心は水路のよう。
主は御旨のままにその方向を定められる。
人間の道は自分の目に正しく見える。
主は心の中を測られる。
神に従い正義を行うことは、いけにえをささげるよりも主に喜ばれる。
(箴言21・1~6)

 

信愛から自転車で来られて誰にでも元気にご挨拶してくださるシスター、お御堂に入る前に必ずマリア様のご像の前でお祈りされるご夫婦。
こうした風景が、本当に大好きです。

 

神様からのサイン

毎週、ここを読むのを楽しみにしてくださっている仲良しのおばさま方。
最近はなかなかお目にかかる機会がなくなっている方もいらっしゃるのですが、感想を聞かせてくださったり近況を知らせるお電話をくださり、色々とお話しするのも楽しみの一つです。

みなさん、何かしら健康上の問題、日常生活の変化などがあり、何事もなく平穏な日々というわけにもいかないようです。

わたしは、膝の痛みに悩まされています。
この痛みと付き合い始めて1年になります。
最近はますますひどくなってきてかなり辛いのですが、先日、フッとある考えが下りてきたのです。

「この痛みとうまく付き合っていくには、これは神様からの何らかのサインなのだ、と思ったほうがいい。」

そうしたら、(痛みは全く改善しませんが)気持ちがちょっとだけ楽になりました。

信仰を持っていない人からしたら、「それって、プラシーボ効果じゃ?」と言われそうですね。

プラシーボ効果とは、本来薬としての効能が全くない物質を摂取しているのに、「お薬が効いた!」と感じる効果のことです。
一種の「思い込みによる心理的な働き」なのだそうです。

 

識別は、思いがけない出来事の中で、イグナチオの足の負傷のように、時には不快な状況の中でも、主が与えるサインを認識することを助けてくれる。
そして、彼の場合のように、そこから永遠に人生を変える出会い、人生の歩みをより良いものとする出会いが生まれることがある。
教皇フランシスコ
9/7バチカン一般謁見での講和より

どのような困難な状況にあっても、その日々の中に神様からのサインを見出そうと思えることは、それ自体がお恵みでしょう。

いま、アリストテレスに関する本を読み進めているのですが、彼の父親はお医者様でした。
医者と言っても、当時(紀元前4世紀)は、病気の原因は神々の怒りだと考えられていて、医者は病人を癒すために医術の神(アスクレピオス)の力を引き出すという、魔術師のような役割でした。

それでも、アリストテレスの父のニコマコスは新しい発想の医者だったそうで、病気の原因は自然に由来するので、自然に即した方法で病人を治療することができる、という、当時にしては革新的な考えの流派に属していました。
そうした父親の影響がベースにあり、アリストテレスは哲学者として、当時のライバルたちとは一線を画す価値観と感性を磨いていきます。

彼にとって、善い生活とはこの世で幸福に暮らすことでした。
そのための鍵は、友情、家庭生活、政治への参与、観想といったものであると主張しました。
こうした考え方は当時としてはかなり「先を行った」もので、10数世紀のちに彼の倫理学書が再発見されたときには、天国に望みを託しているキリスト教徒たちを驚愕させました。

アリストテレスはBC384〜322年に生きた人です。
イエス様がお生まれになるよりも300年以上も前に、ギリシャには優れた哲学者、数学者、天文学者などが数多くいて、ある程度の階級の人々は、非常に高度な知的教育を受けていたのです。

ですが、長きに渡りイエス様の時代も、病気や災害は(いろいろなパターンの)神の怒りによる仕業、先祖の冒した罪によるものと信じられていました。

そうではないということを知っている、現代のわたしたちは幸いです。

神様は、災害をひき起きしてわたしたちを不安に陥れるようなことはなさいません。
美しい自然を与えてくださるのが神様です。

 

18日のミサのアレルヤ唱は、本当に美しい聖句でした。

アレルヤ アレルヤ
イエス・キリストは富んでおられたのに貧しくなられた
あなたがたがキリストの貧しさによって 富むように
アレルヤ アレルヤ

主は豊かであられましたが、あなた方のために貧しくなられた、という慈しみです。
ご自分の貧しさによってあなた方を豊かにしようとなされたのです。
(2コリント8・9)

 

わたしは、わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。
この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。
(1テモテ1・12)

 

神は、わたしたちがどのような苦難にある時でも慰めてくださいます。
そこで、わたしたちも、自分たちが神から慰めていただくその慰めによって、あらゆる苦難の中にある人を慰めることができるのです。
わたしたちが苦しみに遭うとするなら、それは、あなた方が慰められ救われるためですし、わたしたちが慰められるとするなら、それは、あなた方がわたしたちも受けているのと同じ苦しみを耐え忍ぶにあたって、力を発揮する慰めがあなた方に与えられるためです。
(2コリント1・4〜6)

 

あなたは、持っている確信を、自分自身のために神の前にもち続けなさい。
行おうと決心したことについて、心に疑いを持たない人は幸いです。
確信に基づいていないことはすべて、罪なのです。
(ローマ14・22〜23)

この場合の確信とは、信仰という意味です。

神様からいただいているサインを見逃さす、聞き逃さず、今という時に与えられている使命を果たすと決心しています。

聖書をこうして読み進め、自分が求めている言葉を見つけることは、膝の痛みで外出もままならない今のわたしにとって、最高の贅沢です。

 

洗礼を授ける(バプティゾー)を「漬ける」と訳した人がいます。
「聖霊によって洗礼を授ける」は「聖霊漬けにする」と言ってもよいかもしれません。
福神漬けの中に入っている野菜が、それぞれの個性を失わず、それぞれの野菜のままでありながら、すべての野菜が福神漬けになっている、というイメージを思い浮かべてはどうでしょうか。
「一人一人が聖霊の香りを放つ者になる」と言ってもよいかもしれません。
幸田和生司教「福音のヒント」より

いま、痛み止め漬けになってしまっているわたしですが、神様からのサインを模索するために聖霊漬けになって、キリストの良い香りを放つ存在になれるよう、もっと努力したいと思います!

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台風接近の中、信徒集会にご参加くださり、ありがとうございました。
決算・事業報告は、12月発行の『みこころレター13号』にも掲載いたします。

 

現代のケリュグマ

いま世界各地を襲っているのが、大規模な干ばつです。
ヨーロッパでは60%以上の地域が干ばつの危険にさらされていて、過去500年で最悪の水不足になっています。

ローマでは川底に眠っていた古代遺跡が姿を現しました。
イラク南部のメソポタミア湿地帯でも、3年にわたる干ばつと少雨で肥沃な土地が干上がり、旧約聖書のエデンの園があったとされる場所もひび割れた状態です。

パキスタンでは、6月から続くモンスーン(雨期)の洪水で国土の3分の1が水没しているといいます。
アフガニスタンでは6月の大地震に続き、現在は洪水に襲われ、甚大な被害が続いています。

16歳の姪が言っていました。
「ニュースを見るとひどいことばかりで、こんな世界に生きているのかと思うと悲しくなる。」

国内で起こる(報道される)ニュースも、世界で起こる災害も、確かにわたしたちを不安にさせます。

「世界は、もし愛がなければ、受け入れるにはあまりにも醜いものである」

という言葉を、本の中に見つけました。

どうしたらこのような世界を受け入れることができるでしょうか。
どうしたら神の存在を認めることができるでしょうか。


誰が神の計画を知り得ましょう。
誰が主のみ旨を推し量れましょう。
死すべき者の考えはおどおどし、
わたしたちの思いは確かではありません。
朽ちるべき体は魂の重荷となり、
地上の幕屋は心配事の多い精神に重くのしかかります。
(知恵9・13〜15)フランシスコ会訳

 

現代社会を生きるわたしたちは、現世での旅(人生)にのしかかる重荷と苦労に打ちひしがれる存在なのです。

決して悲観しているわけではありません。
エマオへの途上でイエス様に出会った、「憂鬱そうな」二人の弟子たちのことが思い起こされます。

暗い顔で、混乱と苦しみの中に沈んで、起きた出来事の意味を理解できないままに議論していた彼ら。

イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。
(ルカ24・15)

イエス様は、自ら近づき、救いのイニシアティブを取られます。
彼らと歩調を合わせて、一緒に歩かれるのです。

そして、ごく自然に「歩きながら、語り合っているその話は何のことですか」(16)と話しかけられました。
いきなり彼らの迷いを指摘して叱ったり、動転させるようなことはなさらず、彼らがみずからの内面にある問題をはっきりと捕らえ、それを客観視することで、うちにあるもつれを解いていくように導かれました。

さらに、モーセ五書と旧約全体にわたってご自分について書かれていることを二人に説明されますが、それでも彼らはイエス様であることに気づきません。
気づいたのは、食事の席でした。

イエスはパンを取り、賛美をささげて、それを裂いて、二人にお渡しになった。
すると二人の目が開かれ、イエスであることに気づいたが、その姿は見えなくなっていた。
二人は、「あの方が道々わたしたちに話しかけ、聖書を説き明かされたとき、わたしたちの心は内で燃えていたではないか」
(30〜32)

この二人はすぐにエルサレムに引き返して、他の弟子たちにこのことを話しますが、やはり彼らはすぐには信じません。

このエピソードは、ケリュグマの働きについてさまざまな角度から描いています。

まず彼らの目が開け、心がうちから燃え、とても自分たちの心にだけ秘めておくことができず、伝えずにはいられないメッセージを仲間に知らせに走り、仲間が集まっているのを見つけ、皆にみ言葉を伝えます。

わたしたちとしては、自分の見たことや聞いたことを、話さないわけにはいきません」(使徒4・20)
これが、ケリュグマです。

ケリュグマとは、「彼らの開眼、自分が生きている状況の中に神がみずからを示しておられ、予期していなかったような地平を私たちに開いてくださったということを認めること」だと、今読んでいる本に書いてありました。

 

 

辛い、心配な出来事が多い世界です。 
わたしは、この壮大なテーマについて答えを持っているわけではありません。

わたしたちキリスト者は、心を喜びで満たす内面の変容を生む生き方、外面にも平和に満ちた喜びが溢れる生き方、すなわち現代のケリュグマを実践するように努めなければならない、と本から学びました。

少なくともわたしは、姪の不安な気持ちを明るいものに変える存在であるように。
そして、イエス様の行いに立ち戻り、イエス様が退けられたものを退け、イエス様が大切にされたことを大切にする社会の実現に向けて歩みましょう。
(大分教区報、森山司教様のお言葉より)

 

わたしが宣言し、信じている信仰は、自己満足の平穏につながっているのか、それともわたしの中であかしの炎に火をつけているだろうか?
教会としても、こう問いかけてみましょう。
わたしたちの共同体で、祈りと慈善のわざへの情熱のうちに、また信仰の喜びのうちに、聖霊の火が燃えているだろうか?
それとも、意気消沈した顔をして、嘆きを口にし、毎日噂話をして、疲労や習慣にわたしたち自身を引きずり込んでいるだろうか?
兄弟姉妹の皆さん、これらについて、自分自身を振り返ってみましょう。
教皇フランシスコ、2022年8月14日「お告げの祈り」でのことばより