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自分を持つ

わたしが今回ニューヨークに来たのは、家族の今と将来を、自分の目と心で確認するためです。

妹は、ニューヨークに住むようになって30年近くになります。
今ではこちらで会社を運営し、2人の娘がいます。
もちろん日本でもそうですが、働く母というのはとても大変です。

5年ぶりに来ましたが、日本と同じく、物の値段が上がり(と言っても、全てが日本の倍以上の価格です)、ますます暮らすのが大変になっていました。

妹も洗礼を受けていますが、教会からは遠ざかっており、それも心に引っかかっていました。

 

わが子よ、わたしの言うことをよく聞け。
わたしの言葉に耳を傾けよ。
それをお前の目から離さず、お前の心のうちに保て。
それを見出す者には、それは命となり、その全身を健やかにする。
用心深くお前の心を守れ。
そこから、命の水が湧き出る。
ひねくれたことを言う口を、お前から取り去り、曲がったことを言う唇を、お前から遠ざけよ。
お前の目は前を見つめ、お前の視線を、お前の前に注ぐようにせよ。
お前の足の歩みに心を配り、お前のすべての道を堅く固めよ。
右にも左にもそれるな。
お前の足を悪から遠ざけよ。
(箴言4・20〜27)

 

(フリックコレクションで見た、ヴァン・ダイク作の作品です)

 

わたしは二つのことをあなたにお願いします。
わたしが死なないうちに、それをかなえてください。
わたしを不実と偽りから遠ざけてください。
わたしに貧しさも富も与えないでください
ただ、わたしに割りあてられたパンだけで、わたしを養ってください。
満ち足りると、わたしはあなたを否み、「主とは誰か」と、言うようになるでしょう。
また、貧しくなると、わたしは盗みをし、わたしの神の名を汚すようになるでしょう。
(箴言30・7〜9)

 

世界中から人が集まっている人種のるつぼであるこの街は、さまざまな問題を抱えており、貧富の差、人種差別はますますひどくなっているように感じます。

先日書いたように、教会といってもとても多くのプロテスタント宗派がありますし、心に不安を抱えてセラピーを受けるのも(金銭的に余裕があれば)普通のことです。

「人を養うのはもろもろの収穫物ではなく、あなたに信頼する人々を守るみ言葉である」と知恵の書にあるとおり(16・26)、この街では特に、自分をしっかりと持っていないと、不安と不満に押し流されそうになります。

妹もですが、彼女の友人たちも、世界中を移動して仕事をしている女性が多く、仕事と生活、子育てを担うのは本当に大変そうです。

今回、こうして長い時間をこちらで過ごしているのは、旅行ではなく、共に生活をしてみて確認したかったからなのです。

彼女たちが、自分をしっかりと持ち、信念を持って強く逞しく生きている様子を確認でき、安心しています。
わたしが知り得ただけの感覚ではありますが、彼女たちに共通していると感じるのは、「人を羨まず」、「自分の役割が明確で」、「常に先を見据えている」、と言うことです。

 

もしわたしがこの街に住むとしたら、信仰がなければ自分を見失ってしまうかもしれませんが、彼女たちからたくさんのことを学ぶ毎日に感謝しています。

慎み深く自尊心を保ち、自分の真価を知って自らを評価せよ
(シラ書10・28)

あなたに感謝をささげるために、日の出前に起き、暁にあなたに祈らなければならない

感謝を知らない者の望みは、冬の霜のように解け、無用な水のように流れ去る
(知恵の書16・28〜29)

聖書を持ってきて、本当に良かった!
1日に一度は聖書を開き、今日の糧となる言葉を探すことで、心の底から落ち着くことができるのはお恵みです。

 

余談ですが、この街に住む人は多くが外国から移住している人で、苦労して生きているからか、人に優しいと感じます。

イスラエルに行った時に、みんなが「シャローム!」と声をかけてくれたように、毎日何人もの人が小さく微笑みながら「ハァィ」と会釈してくれるか、「ハブ ア ナイス デイ!」と言ってくれます。

日本では、知らない人に挨拶をする、なんて習慣はありませんね。

 

来週は、少し遠くに家族で旅に出るため、このコラムはお休みさせていただきます。

 

キリスト教の芸術

メトロポリタン美術館に行きました。

 

日本で有名な絵画展があっても、写真撮影は出来ないことが普通ですが、こちらではOKです。

もちろん、その美術館の収蔵品だから、と言うこともありますが、例えば小学生が課外授業でクラスごと訪れていて、座り込んで写生していたりするのも普通の光景です。

 

 

とても1日では見て回れない数の展示品がありますので、見たいポイントを調べてから行かないと、疲れ果てるだけに終わる贅沢な美術館です。

わたしはいつも、同じ絵を見るために行くのですが、今回はこれらのキリスト教にまつわる作品を初めて見ました。

 

カトリック教会が芸術に力を入れるようになったのは、宗教改革に端を発しています。
トリエント公会議で、芸術は崇拝の対象ではないとの判断がなされ、建築や絵画が重要な位置を占めるようになって行きます。
絢爛豪華で力強い教会の建築を推し進め、教義の重要性を絵画や彫刻で語ることに力を入れていきます。

1506年に着工されたローマのサン・ピエトロ大聖堂はその事情を反映している、とウィキペディアにありました。

 

「聖人崇拝に好意的ではないプロテスタントへの反動で、多くの聖人画も描かれるようになりました。
カトリック教会が宗教美術の力を利用したのは現代でいうメディア戦略であり、「宗教画=目で見る聖書」によって、わかりやすく、そして劇的に信者の宗教心に訴え帰依させようとしたのです。」

と書いてある記事も見つけました。

事情はどうあれ、現代のわたしたちにとってこうしたキリスト教の芸術は、信仰の助けというよりは心の滋養に最適なものではないでしょうか。

こちらは、ニューヨーク最大のカトリック教会、セントパトリック教会です。
五番街の真ん中にそびえ立つ、豪華絢爛な聖堂です。

 

平日の午後に行ったのですが、平日は毎日3回のミサがあり、ちょうどその最中でした。

どういう事情でかはわかりませんが(わたしが日曜に行く近くの教会も同じで)、聖歌はみんなで歌わず、一人のプロのような人(おそらく、音大の学生)が声高らかに歌い上げます。 

神がほんとうに地上にお住みになるのでしょうか。
天も、天の天も、あなたを包むことはできません。
わたしが建てたこの神殿などなおさらです。
しかし、わたしの神、主よ、あなたの僕の祈りと願いを顧み、今日、あなたの僕がみ前にささげる叫びと祈りを聞き入れてください。
どうか、あなたの住まいである天でこれを聞き、聞き入れてお赦しください。
(列王記上8・27〜30)

8章は、「あなたは天にあってこれを聞き」と繰り返し書かれている、『ソロモンの祈り』という箇所です。

ソロモンが豪華絢爛な神殿を建て、そこに神の櫃を置いた時、雲が神殿に満ちます。
「主は密雲の中に住む」、とソロモンは悟ります。

豪華な神殿も教会も、建物そのものは、わたしたちにとっての一つの祈りの場所にすぎないのです。 

 

自分磨き

先日の記事で、各所で人材が不足しているということについて書きましたが、ここアメリカでも危機に瀕している教会があることを知りました。

今、ニューヨークにいます。

犬の散歩で近所を歩いている時、姪が「あの古い教会は、維持できなくなって売られて、中は素敵なアパートに改装されてるのよ」と、教えてくれました。

↑この古い教会は、外観をそのままに、今はアパートになっているのです。

 

ブルックリンは、ニューヨークの中でもとても教会が多い地区で、2ブロックごとに様々な宗派の教会があります。

↓こちらは、フレンチバプティストの教会

 

そして、こちら↓が、わたしが滞在する時にいつもミサに行くカトリック教会です。
(妹の家から歩いて10分の距離です。
歩いている途中に、4つのプロテスタント教会があります。)

QUEEN of ALL SAINTS CHURCH
学校が併設されている、とても大きな教会です。↓

ご存知の通り、ニューヨークはとても物価が高く、不動産を維持するのはとても大変です。
エアライツ(空中権=近隣のビルからの眺めを阻害しないように、これ以上建物の上を高くしないという約束)を売って、維持費を得ている教会もあるそうです。

韓国では多くの召命があるのに、とも嘆いたことを書いていましたが、12/14発表の韓国統計庁によると、韓国の出生率は2023年は0.72となり、2025年には0.65まで低下するとの推計だそうです。

少子化が社会問題である日本でさえ、2022年の出生率は1.26ですので、いかに韓国が危機的な状況かがわかります。
つまり、韓国の召命が日本のようになるのは時間の問題なのです。

ある神父様に「もう久留米教会に神学生が実習に来てくれることもない。日本の教会はどうなっていくのだろう」という愚痴を話していた時、こうおっしゃいました。

「以前わたしが教えたように、信徒それぞれが『信仰のセンス』を磨いていくしかないのですよ」

信仰のセンスについては、前にもここに書きましたが、大切なことですのでもう一度書いておきます。

大まかに、2つのセンスが必要となります。

①能力としてのセンス

・聖霊によって与えられた、神からの霊的な事柄を感じる能力

・神からの救いへの働きかけを感じ取り、受け入れる能力

・日々の生活の中で、神、キリストの永遠の救いについて、自分なりの考えを見出す能力

②理解としてのセンス

・神の啓示について、各人が理解して得る意味

・人がそれを他者に表現するとき、信仰の知識として顕になるもの

どうですか?
難しい、と感じられたかもしれません。

でも、全てのセンスを持っている、と断言できなくとも、どれも薄っすらとは分かっているものではないでしょうか。

 

「今日、わたしがあなたに命じるこの命令は、あなたにとって難しすぎるものでも、遠く及ばぬものでもない。
それは天にあるのではなく、海の彼方にあるのでもないから、『誰がわたしたちのために天に昇り、海の彼方に渡り、それを取って来て、わたしたちが行うように、それを聞かせてくれるのか』と言うには及ばない。
実に、言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、あなたはそれを行うことができる」。
(申命記30・11〜14) 

ローマ10章に引用されている箇所です。

司祭の数が足りない、少子化が心配だ、と嘆く前に、「わたし」に授けられている「言葉」を自覚する必要がある、と言うことです。
信者としての自分のセンスを、それぞれが磨くのです。 

信仰のセンスは、個人の生き方で現されるものです。
上に書いた5つのポイントを意識して生活してみるといいですね。

わたしたちの信仰のセンスが磨かれれば、自然とその背中を見た若者の気持ちが芽生えてくれるかもしれません。

  

人の痛み

いつも、ここに書くことの基礎は、その週に起こった出来事や考えたことを信仰に結びつけています。

皆様は、今週はどのような日々でしたか?

何か、考えさせられることや、気になることはありましたか?

わたしは、「病気」についてずっと思いを巡らせていました。

以前から何度か書いたことのある、ある神父様から依頼を受けて支援を続けている方のことです。
彼に何かあると、決まって『虫の知らせ』があり、心に引っ掛かるものが湧き、連絡を入れるのです。

また、負のスパイラルに陥っていました。

いくつかの身体的な病気を患っているのですが、根本的な問題は、アルコール依存症です。

身体に不調があると入院し、病院にいる間はお酒が抜けることで精神的に軽やかになります。
信仰を持っていること・神父様とわたしに気にかけてもらっていることへの感謝に満ち、お電話をくださり、優しい言葉で会話をすることができます。

家に戻ると、そのうちまたお酒に浸るようになり、生かされていることの意味を問うようになり、自暴自棄になってしまうのです。

弟子たちはイエスに尋ねて言った、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは誰が罪を犯したからですか。
この人ですか。それともこの人の両親ですか」。
イエスはお答えになった、「この人が罪を犯したのでもなく、この人の両親が罪を犯したのでもない。
むしろ、神の業がこの人のうちに現れるためである。
わたしをお遣わしになった方の業を、
わたしたちはまだ日のあるうちに行わなければならない。
誰も働くことのできない夜が来る。
世にいる間、わたしは世の光である」。
(ヨハネ8・2〜5)

その方が、わたしにこれまで何度もおっしゃいました。

「どうしてわたしを見捨てないんですか。」

わたしは、「神父様から頼まれているからよ。わたしはあなたのことを見捨てませんよ。」とお答えします。

彼のために働くこと、それはわたしに神様がお与えくださった、一つの使命だと思っています。

彼の痛みが、なんとなくですが、わかるのです。
恐らく、わたしたちは誰も、同じような罪を繰り返し犯しているのではないでしょうか。

アルコール依存症は病気です。
それは、罪ではありません。
生かされている意味を疑うこと、それが罪だと思うのです。

病気、それも、本人に治す気があれば治る病気なのに、、、、とずっと考えています。

以前、その神父様から教わったことの一つに、「ある宗教的な体験によって自分が変えられた、という誰かとの出会い。その時を持っていることは幸いだ」というものがあります。

イエス様が十字架の死を予告される場面でおっしゃる言葉があります。

『父よ、わたしをこの時から救ってください』
いや、このために、この時のためにこそ、わたしは来たのである。
(ヨハネ12・27)

「この時」
誰かとの出会いがその人を救う、そのことはイエス様にとっての「この時」である、と教えてもらいました。

その方が、わたしとの出会いをきっかけに変わってくれるのを何年も待っているのです。

 

旧約の「難解さ」が好きなので、いつも好んで旧約を読むのですが、今回はこの記事を書くにあたって、書簡を読み返してみました。
書簡はストレートに心に入ってくる文章が多く、読んでいてワクワクします。

律法全体は、「隣人を自分のように愛せよ」という一句を守ることによって果たされます。
わたしたちは霊の導きに従って、生きているとするなら、また、霊の導きに従って前進しましょう。
機会あるごとに、すべての人に、特に、信仰によっていわば家族となった人々に対して、善を行いましょう。
(ガラテヤ5・14、23、6・10)

聖霊が言っておられるように、「今日、もしあなた方が神の声を聞くなら、心を頑なにしてはならない」。
あなた方のうち誰一人罪にまどわされて、頑なになる者がないように、むしろ、「今日」という日が過ぎ去らないうちに、毎日、互いに励まし合いなさい。
「今日、もし、あなた方が神の声を聞くなら、心を頑なにしてはならない、神に背いた時のように」。
(ヘブライ3・7、13〜15)

「この時」
「今日」

いずれも、神様がわたしたちに語りかけ、働きかけてくださる瞬間です。

人の痛みを感じるならば、神様が「働きなさい」と背中を押しているのだ、ということを忘れないように。

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2年間、久留米教会で司牧実習をしてくれた神学生のホンくん。
28日が最後のミサでした。

いよいよ、3/20に長崎で助祭に叙階されます。
久留米教会からも、バスを借りてみんなで叙階式に参列させていただこうと計画しています。

ホンくんは、韓国から来て日本で神学校に行き、長崎教区で叙階されます。
彼のために祈りましょう。

(彼の送別会を兼ねたバーベキューだったのに、彼が1番働かされていました!)

 

人のちから

「人材不足」、経済活動において今一番重大な問題です。

「置き配」や、飲食店でのタブレットや携帯からのオーダーなど、さまざまな工夫で、業界とユーザー相互で解決できることもあります。

JALの次期社長が初の女性になることは、業界の人材不足解消の一助になるでしょう。
防衛省が、自衛隊の男性隊員への「丸刈りルール」・女性隊員への「ショートカット推奨」を廃止することを発表しましたが、これも人材不足の対策のひとつだそうです。

カトリック教会においても、司祭不足が懸念されています。
将来、「告解はAIが担当します」とお知らせに載る日が来たら、、、。

お隣の韓国では、毎年多くの神学生が召命を受け、司祭を日本に派遣していただけるほどです。
なにがこれほどの違いを生じさせているのでしょうか。

 

「1月15日、アメリカ大統領選挙の共和党公認候補のアイオワ州選挙でトランプ元大統領が圧勝」、というニュースがありました。

人口の約 90% が白人で、エヴェンジェリカル(福音派)が主流という土地柄の影響が大きいとはいえ、(能力や人柄は置いておくとして)(良くも悪くも)「あれほど分かり易くて、あれほどパワーがあれば、きっと何かやってくれるに違いない!」という期待を抱かせるのは、なんとなくわかる気がします。

歴史に残る時代は、その時を象徴するような人のちからによって形成されます。

世界が混沌とし、明るいニュースが聞かれない今、希望の光となる救い主が必要だ、と思うのは極端でしょうか。

現代社会に必要な人とは、どのような人でしょうか。

 

先週ご紹介した本には、アッシジの聖フランチェスコについても少し記述がありました。

フリードリッヒ2世と同年代に生きたフランチェスコのことを、塩野さんは「ルネッサンスの第一走者」と書いていらっしゃいます。

おそらくフランチェスコは、当時相当な変わり者として見られていたはずです。
(親からもらったものは置いていく、と着ていたものを脱ぎ捨てて家を出て、鳥と話していたんですもの・・・)

1182年生まれのフランチェスコの説いたことは、当時のキリスト教界では革命的なものでした。

教皇たちの豪華絢爛ぶりをよそに、清貧であることの尊さを説き、キリスト教の神は、これまでに言われてきたような厳しく罰を与える神ではなく、優しく包み込む愛の神であると初めて説いたのは彼です。

そして何より彼が行った革命は、利潤追求を目的とした工業、商業に専念する人々をも修道僧として受け入れ、組織としてまとめたということです。

修道僧だけでは社会は存続できない、そのためには資金が必要である。
貧しい人、不幸な人に精神的にも物質的にも援助を惜しまない商売人も、修道会へ寄付をすることで信者としての義務を果たし、時には修道僧として共に生活を送ればよい、というのです。

合理的な支援の仕方です。
彼自身が商人の息子であるから生まれた考えでしょうが、お金儲けをする『働く人』(当時の第三階級)が修道士としても『祈る人』(第一階級)となれる、という発想は、当時『働く人』が持っていた劣等意識を取り払ったのです。

塩野さんは、「資本主義はフランチェスコから始まった」とおっしゃいます。

2000年前に人々を導いたイエス様、800年前に活動した聖フランチェスコ、彼らは文字通りの救い主でした。

わたしたちの悪行がわたしたちに不利な証言をしても、
ああ、主よ、
あなたの名のために、何かを行ってください。
まことに、わたしたちの離反ははなはだしく、
わたしたちはあなたに罪を犯したのです。
ああ、イスラエルの希望、困難の時に救ってくださる方よ、
あなたはどうして、在留の他国の者のようにこの地におられ、
一夜だけ宿った旅人のようなのですか。
あなたはどうして無力で、
救うことのできない勇者のようなのですか。
それでも、主よ、
あなたはわたしたちのただ中におられ、
わたしたちはあなたの名によって呼ばれているのです。
わたしたちを見捨てないでください。
(エレミヤ14・7~9)

現代をバビロン捕囚の時代に例えてみると、現状を引き起こしたのは頑なで利己主義に陥ったわたしたちの問題であり、それを神様が嘆いておられる姿が浮かび上がってくるようです。

救い主をじっと待つのではなく、わたしたち一人ひとりのちからが試されているような気がします。

主は憐れみ深く正しい方、
罪人に道を示し、
貧しい人を正義に導き、
へりくだる者にその道を教えてくださる。
主よ、わたしの咎は大きいが
み名の誉れのために赦してください。
主は、その人に選ぶべき道を示してくださる。
(詩編25・8、9、11)

貧しく、へりくだる人
わたしたち一人ひとりが自分の罪を認めて、今自分が選ぶべき道を正しく進むことができますように。

 

聖なるもの

気温はマイナスでも、気持ちの良い青空の日曜の朝でした。

毎週日曜日の朝、教会で皆さんと言葉を交わし、一緒に歌い祈り、そうして過ごせることの喜びをひしひしと感じました。
被災地の教会の被害状況に心が痛みます。
1日も早く、被災された方、海保のパイロットの方に笑顔になれる時間が訪れますように。

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去年からハマって読んでいるのが、塩野七生さんの本。

何冊か読んでみましたが、飛びぬけて面白く、皆さまにお薦めしたい本はこちら。

 

本好きの友人から、「現代のクリスチャンが、安全にイスラエルに聖地巡礼に行けるようになった基盤を作ったのは誰か知ってる?」と、この本を薦めてもらい、昨年の秋から読み始めました。

その時は、まだ現在の戦争状態が起きる前でしたので、まさか「もう二度と行けないかもしれない」という状況になるとは思ってもみませんでした。

塩野さんは、本を書く際にはかなり綿密な調査をされることでも知られています。 
豊富な知識と徹底した資料収集から構築される中世ヨーロッパの歴史は、まるで彼女がその世界に生きていたのかと思わせるものがあります。

友人の質問、「誰がキリスト教徒の聖地巡礼を可能にしたのか」。
それが、神聖ローマ帝国皇帝のフリードリッヒ2世です。

当時のキリスト教世界には、ローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝という、2人の最高指導者がいました。

ローマ教皇は神の代理人とされ、精神上の最高位者
ローマ皇帝は、ヨーロッパのキリスト教世界における世俗の最高位者

『教皇は太陽、皇帝は月』という有名なフレーズは、悪名高き教皇、インノケンティウス3世の残した言葉です。

幼くしてシチリア王国の国王になったフリードリッヒの後見人が、この教皇でした。

(当時は各地方が自治権を持っており、イタリアやギリシャ、という国は存在していません。)

当時の歴代ローマ教皇は、長年にわたってイスラム教徒の支配下にあったエルサレムの奪還が最優先事項であると考え、執拗に十字軍を送ります。

一方で、フリードリッヒはあれやこれやと理由をつけて、十字軍への参加を拒み続けていました。
それは、彼の「平和裏に聖都返還を実現したい」という思いからでした。

1228年、フリードリッヒは第六次十字軍を率います。
軍を率いたのは、あくまでも抑止力としてでした。

その前の第五次十字軍には、アッシジのフランチェスコも修道士として参加していることをご存知でしょうか。
フランチェスコもまた、平和のうちに交渉しようとして、スルタンにキリスト教に改宗するよう迫ったのです。
もちろん、そのような言葉での外交がうまくいくはずは無く、その場で殺されてもおかしくなかったのに、笑い飛ばされて追い返されています。

それに対し、フリードリッヒは聖地でのキリスト教徒の存続の保障を話し合うために、軍を率いてヤッファ(現在のテル・アビブ)に向かいます。
対するスルタン、アル・カミールは、離宮のあったガザにて待ち構えます。

二つの街を双方の使者が行き来して、四か月で講和が成立しました。
その項目の一つが、「キリスト教側の領土であろうとイスラム側の領土であろうと関係なく、巡礼と通商を目的とする人々の往来は、双方ともが自由と安全を保証する」というものでした。

今では大都会であるテル・アビブとイスラム教徒のパレスチナ人が追いやられているガザが、この平和交渉の舞台であったという事実に驚きを感じませんか?

なぜ交渉が成立したか、その内容に教皇が激怒したこと、などはぜひお読みいただくとして、わたしたちキリスト教徒にとって聖なるものが、同じように、イスラム教徒にとっても聖なるものなのだ、ということを痛感させられる本でした。

まことに、教えはシオンから、主の言葉はエルサレムから出る。
主は、諸国の間を裁き、多くの民の仲裁を行われる。
彼らはその剣を鋤に、槍を鎌に打ち直す。
国は国に向かって剣を振りかざすことなくもはや戦うことを学ばない。
(イザヤ1・3〜4)

 

わたしたちの生きている現在も、いつか歴史として語られる大きな転換点かもしれません。

例えば、イスラエルの不安定な状況。
エルサレムがイスラム教・ユダヤ教・キリスト教のいずれかに独立支配されているわけではないのに、巡礼すらままならないということ。

元日の地震で、石川県の海岸では4メートルも隆起している箇所があり、これは数千年に一度の現象であること。

塩野さんの文章に、こんなことが書いてありました。

歴史を書きながら痛感させられることの一つは、情報とは、その重要性を理解できた者にしか、正しく伝わらないものであるということだ。
十字軍の歴史一つとっても同じで。この点では、キリスト教徒であろうとイスラム教徒であろうと、まったくちがいはない。
古代ローマの人である。ユリウス・カエサルも言っている。
「人間ならは誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。
多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。」
情報を活用できるのは、見たくない現実でも直視する人だけなのである。

 

それでも、主はお前たちに厚意を示そうとして待っておられ、
それでも、お前たちを憐れもうとして立ち上がられる。
まことに、主は公正の神。
主を待ち望むすべての者は幸い。
主は、お前が大地に蒔く種のために雨を与え、大地が産み出す食物は豊かで滋養に富む。
その日、お前の家畜は広い牧場で草をはみ、大地を耕す牛やろばは、シャベルと三又で選り分けて発酵させた飼い葉を食べる。
大いなる殺戮の日、塔の倒れる時には、すべての高い山、そびえたつ丘の上に、水のほとばしる流れができる。
主が民の傷口を包み、その討たれた傷を癒やされる日、月の光は太陽の光のようになり、太陽の光は七倍にもなって、七日分の光のようになる。
(イザヤ30・18、23〜26)

弱った手を強くし、ふらつく膝をしっかりさせよ。
心に不安を抱く者たちに言え、
「強くあれ、恐れるな。
見よ、お前たちの神を。
報復が、神の報いがくる。
ご自身がこられ、お前たちを救ってくださる」。
(イザヤ35・3〜4)

宮﨑神父様がお説教で、「聖書にある言葉で1番好きなのは、恐れるな、というものです。わたしたちが選んで洗礼を受けたのではなく、神に選ばれたのだということを心に刻みましょう。」とおっしゃいました。

2024年の始まりに起きた日本の災害だけではなく、終わりの見えないウクライナの戦争とイスラエルの戦争、世界各地で起きている現実を直視し、今を生きる自分にできることは何かを自問自答したいと思います。

 

神様を探して

明けましておめでとうございます。

いつもお読みくださってありがとうございます。

今年も、日常の出来事の中から気づいたことや考えたことを基本に、聖書にその答えや解決のヒントとなる教えを見出していけるような記事を書いていきたいと思います。

年明け、「さて、今年最初の記事は抱負となるような聖書のことばを書こうかな」と思っていた矢先に、大きな災害が発生しました。
元日からこのようなことが起きるとは、驚きと苦しさで、何も考えられなくなっていたところ、2日の夕方のあの航空機事故による大火災の映像。

テレビで「共感疲労」を感じて辛くなっている人が多い、と言っていましたが、まさにわたしがその状態に陥っています。

主の公現のお祝いを迎えたわたしたちキリスト者は、神様を見つけたと喜びに満ちていますが、被害に遭われた方々は、「神はどこにいるのか」と辛い気持ちを抱えられているのではないでしょうか。

 

「今日もまた、わたしは反抗的に嘆き、神の手は、わたしの呻きの上に重くのしかかる
ああ、神に会える所が分かれば、わたしはそのみ座まで行きたい。
わたしは神の前にわたしの訴えを並べ立て、口を極めて論じたい。
わたしは神がわたしにお答えになる言葉を知り、何と仰せになるかを悟るだろう。
神は大いなる力をふるって、わたしと争われるだろうか。
いや、神はわたしの言葉をお聞きになるだけだろう。
そこでは、正しい者が神と論じ合う。
そうすれば、わたしはわたしを裁く者から永久に追放されるであろう。
だが、わたしが東に進んでも、神はそこにおられず、
西に進んでも、
わたしは神を見つけることができない。
北を探しても、わたしは神を見つけられず、
南に向きを変えても、
わたしは神を見ることができない」。
(ヨブ23・2〜9)

奥様と幼いお子さん2人を亡くされた方が、インタビューに答えてこうおっしゃっていました。
「目の前で命が絶えていく子どもを見ながら、何もできなかった父親の気持ちがわかりますか?
この怒りをどこにぶつけたらいいかわからない。
違うとわかっていても、人のせいにする気持ちしかわかない。」

神様なんかいない、きっとそういう心境になられているでしょう。

その方のために祈りたい、と心から思いました。

神はあなたを困難の中から誘い出し、
束縛のない広い所に導き、
あなたの食卓を脂ぎった物で整えられます。
(ヨブ36・16)

フランシスコ会訳聖書の解説によると、この箇所は、神がヨブにその苦しみ悩みから逃れて豊かになり、喜びの生活に戻る機会を与えてくださることを意味しているのだそうです。

被災された方々のうち、どのくらいの方が何かの宗教を信仰されているでしょうか。

祈る気持ちの余裕も気力も失われているかもしれません。
神か仏がいるのなら、自分たちがこんな目に遭うのはなぜなのか、という気持ちかもしれません。

わたしは今、家族、友人、そして家さえも失った方々のために祈ることしかできません。

適切な言い方ではないかもしれませんが、一人だけ生き残られた海上保安庁の飛行機のパイロットの方のためにも祈っています。
なぜ自分だけ生かされているのか、自分を責めてしまわれているのではないか、そう思うと、苦しくて心が張り裂けそうです。

1日のうち、ほんの少しでも笑顔になれる時間がありますように。
1日でも早く、心が落ち着く日が戻りますように。

 

神よ、あなたはわたしたちを見放され、わたしたちを打ち破られました。
あなたは怒っておられました。
わたしたちの所に戻ってください。
あなたは地を震わせ、それを裂かれました。
裂け目を直してください、地が揺れ動くのです。
あなたはご自分の民をつらい目に遭わせ、足をふらつかせる酒をわたしたちに飲ませられました。
あなたを畏れる者たちに旗を掲げ、彼らを弓矢からその旗のもとに逃れさせてください。
(詩編60・3〜6) 

神よ、わたしの叫びを聞き、わたしの祈りを心に留めてください。
心が弱り果てるとき、わたしは地の果てから、あなたに呼び求めます。
わたしを高い岩に導いてください
あなたはわたしの逃れ場。
とこしえにあなたの幕屋にわたしを住まわせ、あなたの翼の陰に逃れさせてください。
(詩編61・2〜5)

神よ、わたしを救いに来てください。
主よ、急いで助けに来てください。
神よ、わたしのもとに急いでください。
あなたはわたしの助け、わたしの救い主。
主よ、ためらわないでください。
(詩編70・2、6)

・・・・・・・・・・・・・・・

今年は、2人の新成人のお祝いを執り行うことができました。

日本の将来を担う彼らの上に、豊かなお恵みが注がれますように。

死者への愛

死者の月、皆さんも天に召された大切な人を想って過ごしておられるのでしょうか。

毎晩、寝る前の祈りの際に、「天国のみなさんを安らかに過ごさせてあげてください」ということばを唱えます。
わたしが神様にお願いしなくても全く大丈夫なことではあるのですが、母をはじめとする、周囲の大切だった人たちが天国でどのように過ごしているのかを想像するのです。
その人たちは、いまでもわたしにとって大切な人々なのです。

デンマークの哲学者、宗教思想家に、実存主義の創始者と言われるキェルケゴールという人がいます。(1813~1855年)
実存という言葉を、「今ここに私がいる」という意味で初めて用いました。

熱心なキリスト教徒でしたが、同時に、形式にこだわりすぎる当時のデンマーク教会への批判もしています。
彼は、人間の自己生成の段階を3つの段階によって説明したことでも知られています。
実存は深化してゆき、人間は最終的に宗教的実存に至る、と。
「宗教的実存」とは、神と一対一で向き合うことで本来の自分を取り戻す、ということです。

彼は、その著書『愛の業』のなかで、隣人には死者まで含めなければならないと言っています。

なぜなら、死者に対してわたしたちは明らかに義務をまた負っているからである。
もしわたしたちが現に見ている人々を愛するべきであるならば、わたしたちが見たことはあるが、死によって奪い去られたゆえに今はもう見ることのできない人々をもおそらくまた愛すべきであろう。
ひとは死者を嘆きやわめきによって煩わせてはならない。

義務を負う、とは、わたしたちは死者からの愛によって生きているということです。

さらに、こう言っています。

わたしたちが愛において死者を想うということはもっとも無私なる愛の行為である
わたしたちが愛において死者を想うということはもっとも自由な愛の行為である
わたしたちが愛において死者を想うということはもっとも信実な愛の行為である

キェルケゴールの思想は、一見かなり難解に思いますが、この文章は心にスッと入ってくる気がします。

毎年この季節には、マカバイ記のこの箇所を読みます。
ユダヤ人とアラビア人の戦いによって亡くなった戦死者が、罪の故に犠牲になったと知り、弔う場面です。

彼がこのように、最も善良で、崇高な心を持って行ったのは、復活について思い巡らしたからである。
もし彼が戦死者の復活することを希望しなかったら、死者のために祈るのは余計なことであり、愚かしいことであったろう。
だが、彼は敬虔な心をもって眠りに就いた人々のために備えられた、素晴らしい報いについて思い巡らしていた。
その思いは清く、敬虔であった。
彼が、死者のためにこの贖罪の捧げ物をささげたのは、彼らが罪から解かれるためであった
(2マカバイ12・44〜46)

死者のために祈るということが無駄なことではない、という言葉は、母を亡くして悲しみに暮れていたわたしにとって大きな救いとなりました。

この箇所では、死者のために祈ることは彼らの罪を解くためですが、わたしが死者のために祈るのは、わたしの罪を赦してもらうためです。

天国で安らかに過ごしてほしい、そして、生前わたしが足りなかったところを赦してほしい、そう思って祈っています。

キェルケゴールの言うように、「ひとは死者を嘆きやわめきによって煩わせてはならない」というのはもっともです。
悲しみ続けることは、天に召された人々を心配させるだけです。 

 

 

23日木曜日の朗読箇所は、まさに今のことを言い当てたかのようでした。

都に近づき、イエスは都をご覧になると、そのためにお泣きになって、仰せになった、「もしこの日、お前も平和をもたらす道が何であるかを知っていさえいたら・・・・・・。
しかし今は、それがお前の目には隠されている。いつか時が来て、敵が周囲に塁壁を築き、お前を取り囲んで、四方から押し迫る。そして、お前と、そこにいるお前の子らを打ち倒し、お前のうちに積み上げられた石を一つも残さないであろう。
それは、訪れの時を、お前が知らなかったからである」。
(ルカ19・41〜44)

聖書で「イエス様が泣いた」と記述されているのはここだけ、と以前教わりました。 

西日本新聞11/20の朝刊に、姜尚中さん(東大名誉教教授)のコラムが掲載されていました。

パレスチナ人もユダヤ人も平和的に共存していた地で建国されたイスラエルは、事実上核武装する、サムエル記に登場するペリシテ人の巨人兵士ゴリアテのような国家になってしまった。
イスラエルの占領地に対するパレスチナ人の抵抗運動は、投石も含めた「石の闘い」と呼ばれた。
しかし、イスラエルの苛斂誅求から「石の闘い」の無力さが浮き彫りになり、やがてテロをいとわない過激な民族運動が台頭したとすれば、それは憎しみをエンジンとする暴力の連鎖を生み出したと言える。

*苛斂誅求(カレンチュウキュウ)=税などを容赦なく取り立てること。また、そのような酷い政治のこと。

イエス様が今生きておられたら、この現状に涙されるのではないかと想像しています。

わたしたち、人というのは、何千年経っても同じ過ちを繰り返しています。
他者を犠牲にして自分の主義主張を満たそうとする。
神様が嘆き、涙されている様子が浮かぶようです。

この死者の月の間は特に、イスラエルの紛争によって犠牲になった方々のためにも祈りましょう。

 

改革の精神

冬は大好きな季節です。
空気が澄んでいて、高い空がキレイ。
朝一番の神様へのご挨拶も、息が白いくらいの方が気持ちがシャキッとします!

以前から、もっと詳しく知りたいと思っていることがあります。

それは、①なぜキリスト教が西ヨーロッパで受け入れられたのか。②初期の時代からどのように組織化(教父、聖職者、教皇などの階層)が進んだのか。
といったこと。

①の疑問については、概ね、「内乱で国が混乱に陥っていた末期のローマ帝国に利用されたから」
②は、分裂したあとの西ローマ帝国は混乱の末に滅びたが、東ローマ帝国はビザンツ帝国としてコンスタンティノープル教会の権威が増していたため、ローマの権威を取り戻すためキリスト教総本山として地位を確立していった。
ということのようです。

わたしがもっと知りたいのは、①利用価値があるほど信者がローマ帝国全土に急速に広がったのはなぜか。②分裂してできたギリシャ正教会、東方教会よりも、十字軍の失敗によって権威が失墜したはずのローマカトリック教会が、現在に至るまで世界的な地位を保っているのはなぜか。

信仰とは直接あまり関係のないことかもしれません。
ですが、この2つについてはもっと掘り下げて知りたい、といろいろな本を読んでみています。

(知りたい好奇心が湧くと、どんどん調べたくなる性分です。)

大抵の本では、強大な権力を握った教皇がいて、時には複数の教皇が同時に存在して反目し合い、政治に関わり、影響を及ぼす力を持っているところから始まっています。

教皇が堕落していた時代が長くあり、十字軍という歴史的失敗、ユダヤ人排斥の根幹、などの黒歴史があるにも関わらず、2000年以上も組織として発展し続けていることの意義、そのスタートについて、わたしなりに確認したいのです。

 

 

教皇フランシスコは、任期中にカトリック教会をより改革しようと、大きな動きを見せている。
ヴァチカンは11月9日、トランスジェンダーの人々について、スキャンダルや「混乱」を招かない限りはカトリック教会で洗礼を受けられると発表した。
10月には、カトリック教会が同性カップルを祝福することに前向きな姿勢を表明。
この件について質問した枢機卿らに対し、「私たちは、ただ否定し、拒絶し、排除することしかしない、そのような裁判官であってはならない」と述べた。

8月のカトリック教会の「世界青年の日」にポルトガル・リスボンを訪れた際には、教皇は一部の人の後ろ向きな姿勢は「役に立たない」と述べた。
「後ろ向きになることで真の伝統を失い、イデオロギーに頼ってしまう。
つまり、イデオロギーが信仰に取って代わってしまう

https://www.bbc.com/japanese/67400362
(BBCニュースより抜粋)

フランシスコ教皇は、着座当時から、それまでの教皇とは違って革新的な新しい感覚を発信してこられています。
当然、それには反発があるでしょう。

映画「2人のローマ教皇」では、超保守的な感覚の持ち主であるベネディクト16世が、ベルゴリオ枢機卿が後継者として相応しいのか見極めようと対話を続けますが、あまりにも感覚が違うことに戸惑います。

国家元首、会社の社長、リーダーが大きなルールを作ったり変えようとすれば、必ず賛否が起こります。

4000年以上前からの教えが、2000年前のイエスというひとりの人によって軌道修正され、それから2000年以上「頑なに」守り続けられているわけではありません。

迫害を受け、時には中世のような乱世の中で国家元首に利用され、または逆に国家を利用し、分裂した教会よりも権威を上に誇示するために多くの新しいルールを作り、、、、。

時代の流れにうまく乗り・逆らいながら、そうして守られてきたのでしょう。
そして、その守られてきたものというのは「信仰」ではなく、「カトリック教会」という組織なのかもしれません。

信仰はわたしたちひとりひとりが守るものであり、同時に、ひとりきりでは信仰は保たれないものではないでしょうか。

「教会」という大きな家があるから安心して信仰を分かち合えるのだとしたら、やはり組織も守られ続けなければならないと思います。

総督ネヘミヤと、祭司であり律法学者であるエズラと、民に説明したレビ人たちは、民全体に向かっていった、「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日である。嘆いたり、泣いたりしてはならない」。
律法の言葉を聞いて、民はみな泣いていたからである。
民はみな行って、食べたり飲んだりし、持たない者と分け合って、大いに喜び祝った。自分たちに告げられたことを理解したからである。
捕囚から帰ってきた全会衆は仮庵を造って、そこに留まった。
ヌンの子ヨシュアの時代からこの日まで、イスラエルの子らがこのように祝ったことはなかった。その喜びは非常に大きかった。
(ネヘミヤ8・9〜12、17)

捕囚が解かれ、数十年ぶりに律法を聞いて喜び泣く民の姿です。
彼らは、捕囚の間もそれぞれが信仰を守り続けていたのですが、こうして集い、律法を分かち合い、仮庵(わたしたちにとっての教会)で信仰を喜びあったのです。

わたしたちの信仰は、ひとりで祈ることだけでなく、集い、分かち合い、喜び合うことによって意味が深まるものです。

そして、ルールが変わっても、わたしたちひとりひとりの信仰心が変わるわけではありません。

昨今のLGBTQの人々への対応については、カトリック教会だけではなく、さまざまな場面や組織において対応の変化が求められてきています。

フランシスコ教皇の進められる時代に合った信仰の新しいカタチが、どのように展開して受け入れられていくのか、注視したいと思います。

上に紹介したInstagramのメッセージで教皇様がおっしゃっています。
「この世界、社会のためにわたしたちは何ができるでしょうか。
どのような未来を子どもたちのために準備できるでしょうか。」

七五三のお祝いをした、この子たちの将来のためにも。

 

 

信仰と所属

福音宣教11月号は「カルトとどう向き合うか」というテーマでした。

いろいろと考えるところがありましたが、その中でも、宗教を論じる際には「信仰・実践・所属」の3つの要素が大切な視点であるとおっしゃる、岡本亮輔さんの文章がとても興味深い内容でした。

書かれていたこととは本質的に違いますが、わたしはこの「所属」というキーワードに関心を持ちました。

というのも最近、ある教会の会議で、「教会維持費を納めていない外国籍の信徒について、懸念を感じている」という発言があったからなのです。
また、別の方からは、「自分の教会には外国籍の信徒がいないので、考えたことがない」とも。

日本らしい、少し恥ずかしい問題提起のような気がしました。

先日ご紹介した、韓国からの巡礼団についての記事でも書いように、日本のカトリック信徒数は人口の0.35パーセントほどです。

そして、先日の記事にも書きましたが、わたしたちは「日本人」か「外国人」という、2種類の分け方をしてしまいがちです。

数で言えば、わたしたちは信仰マイノリティなのです。
それなのに、日本という島国におけるマイノリティ(外国人)を別の人種として見てしまうのです。

 

久留米教会では、多くの外国籍の信徒がミサに参列しています。

教会維持費を納めている方もいらっしゃいますが、3年の期限付きで技能実習生として来日している方々の中には、日本語のミサだけではなく、月に一度の英語、ベトナム語のミサにも与り、きちんと献金をしてくださっています。

「維持費を納めていない外国籍の信徒は久留米教会所属の信徒ではない、という考え方は間違っている。」

先日の教会委員会の会議で、わたしたちはこのことを改めて確認しました。

 

皆さん、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。
そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。
キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
(エフェソ2・19~22)


冒頭に書いた、福音宣教の岡本亮輔さんの記事には、今ニュースになっている旧統一教会についても書かれていました。

世界基督教統一神霊協会(当時の名称)がキリスト教ではなく、ましてやカトリックでもないことを示し、キリスト教一致運動としてのエキュメニズムの対象にもなり得ないことを明確に宣言したいと思います。
その教義は、世界基督教統一神霊協会の『原理講論』にありますが、そこにあらわれる教えは、カトリックの最も基本的な教えである、キリストによる啓示の完成・キリストの神性・十字架によるあがないを否定しております。
1985年6月22日(定例司教総会において)日本カトリック司教団

これは、カトリック中央協議会のホームページにある文書の一部です。

わたしたちカトリック信者の根底は、信仰、つまり「信じること」です。
信仰を基準に、わたしたちと彼らの違いを「正しい」か「間違っているか」で客観的に明示したのが、上の司教団のメッセージです。

「わたしたち」が、彼らを「カルト」である、と決定することについて不安な気持ちになるのも、正直な感想です。

「わたしたち(キリスト者)とは違う」=「異端である」=「カルト」と、信じていることを基準に判断しているのですが、世間一般の人々からみれば、その価値判断はかなり理解が難しいものではないでしょうか。
(実際、旧統一教会の問題で一般に「間違っている」とされているのは、その教義内容ではなく、献金額とその方法です。)

日本人は、お正月には神社で手を合わせ、結婚式ではキリスト教風に誓い、葬儀は仏式でお数珠を手に架ける、という、世界でも稀な文化を持っています。
このような習慣を多くの人が持っていますので、どの宗教の問題についても、その本質的な部分について理解してもらうことは困難なことかもしれません。

どんな宗教も、始まりはカリスマ指導者を中心とするカルトだ。
指導者はたいてい放浪の聖者で、多くは男性だが、女性もいないわけではない。
既存宗教内の派閥争いの結果、新しい宗教が誕生することもある。
そうでなければ、孤独な黙想の日々を過ごし、人生と神学について新たな着想を得た者に感化された人たちによってカルトが出来上がる。

だがその違いは取るに足らないものだ。 
カルトは例外なく、自分たちが身を置いている宗教的景観のどこかに反発して始まる。
そのため、多くの既存宗教はカルトに対して相反する感情を抱き、十分に確立して注目されるようになったカルトに対して何らかの圧力をかけようとする。
「『宗教の起源』私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか」より

著者のロビン・ダンバーはオックスフォード大学の名誉教授であり、世界的にその研究で権威のある方です。
彼は、どんな新しい宗教の創始者であっても、すでにある信念や習慣を新たな方法で、あるいはそれに反発しながら発展させただけであり、始まりはカルトなのだ、と言います。

以前書いたように、2000年以上前にイスラエルの地に現れたイエスさまは、「律法命!」の日々に疑いを持たずに暮らしていた当時のユダヤ人たちに、「胡散臭いやつだ」と思われていたことは想像できます。

まだ、読み進めている途中ですが、とても明快な文章で、読みやすく、読書の秋にお薦めの新刊です。

 

 

 

誇りと義務感

それ以前から、世界各地で紛争が起きていたとはいえ、昨年のロシアによるウクライナ侵攻以来、世界は混沌としたままです。

いわゆる西側諸国だけでなく、ロシア、イラン、北朝鮮なども武器や資金を出し合い、地球全体で戦争が起きているかのような状態と言えるのではないでしょうか。

2019年に、イスラエルを巡礼で訪れました。
パレスチナ自治区内にあるベツレヘムに行った際、壁に覆われた町に入るために検問を通り、パスポートの提示を求められました。
イスラエル国内なのに、と奇妙な感じがしたものの、危険を感じることはありませんでした。

 

壁のRESILIENCE(レジリエンス)の文字が、彼らの立場を象徴しているかのようでした。

社会的ディスアドバンテージや、己に不利な状況などを「外力による歪み」ととらえ、レジリエンスは「外力による歪みを跳ね返す力」、という意味を持っています。

塀に囲まれたクリスマスツリーもシンボリックです。

ベツレヘムには、クリスマスミサの中継がされることでも有名な、聖誕教会があります。

 

 

この教会は、イエス・キリストが降誕されたと伝承される洞穴を中心として、その上に立てられている聖堂を、カトリック(フランシスコ会)、東方正教会、アルメニア使徒教会が区分所有しています。

2枚の写真は、同じ聖誕教会の内部です。

 

エルサレムの旧市街にある神殿の敷地内も、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地が混在し、互いに尊重し合い、それぞれの巡礼者を受け入れてきました。

 

 

自分たちの「神に似る」本性を信じ、自分たちが神に選ばれ、神と交流していることを信じ、与えられた律法の正義の理想を心に保ち、その鏡に映して現実の自分たちの不正、醜さ、欲望と思い上がりと愚かさを嘆き悲しむ精神。

イスラエルの歴史のうちで、多くの希望と失意を経験してきた人々の心根。

エジプトでの奴隷状態からの救出と約束の土地カナンの授与は、ある希望の実現ではあったが、ダビデ、ソロモン王国の繁栄のあとは、周辺諸国による占領・支配が続いた。
その中でこの民族は、選ばれた民の誇りと義務感を保ち続け、預言者たちは現実の苦難を道徳的堕落への警鐘ととらえた。

(〈個〉の誕生 キリスト教教理をつくった人びと 坂口ふみ 著より)

 

「この民族」、イスラエルの人々の理想は今も失われはいないと思います。

現実の世界で戦争を引き起こすのは、暮らしている市民ではなく、過激な思想に偏った人びとです。

ロイター通信のニュースによると、2007年にハマスがガザを掌握して以来、エジプトはガザの封鎖を後押しし、人と物資の往来を大幅に制限してきました。
2008年にはハマスが国境施設に穴を開け、数万人のパレスチナ人がシナイに渡ったため、エジプトは石とセメントの壁を建設しました。
ラファ検問所はエジプトが管理しています。
アラブ諸国は、今回のイスラエルとハマスの戦争が、パレスチナ人が自治区から恒久的に移住する新たな動きにつながる可能性を深く恐れているのだそう。
ガザと国境を接する唯一のアラブ国家であるエジプトと、イスラエル占領下のヨルダン川西岸に隣接するヨルダンは、パレスチナ人が土地を追われてはならないと警告を発しています。

ロイター通信10/18ニュース

 

奥に見えるのはヨルダン、死海を挟んで手前がイスラエルです。

このニュースを読んで、聖書に書かれている史実が思い浮かびました。

3500年前のユダヤ人(ヘブライ人)たちは、エジプトの奴隷状態から脱出するため、シナイ半島を渡って『約束の地』を目指して歩き続けました。

聖書にもし『約束の地』の記述がなかったら。
当時の人々だけが知っていて、信じていた神との約束だったのなら。

そうであったなら、イスラエルという国の建国もなく、当時住んでいたパレスチナ人が追われることもなかったのかもしれない、と考えるのは浅はかでしょうか。

現実の世界では、この地を巡っての争いが長きに渡って続き、終わることはありません。
しかし、イスラエルという土地は、信仰においては他者と共存してきました。

報道されていることが事実であれば、この戦争を始めるのも終わらせるのもイスラエル次第です。

モーセは民に言った、「恐れてはならない。しっかり立って、主が今日あなたたちのために行われる救いを見なさい。
主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
イスラエルの部隊の前を進んでいた神の使いは、移動して彼らの後ろについた。
雲の柱も彼らの前から移動して彼らの後ろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。
雲と闇があったが、み使いは夜を照らした。
(出エジプト14・13〜14、19〜20)

主はモーセに次のように告げられた、「アロンとその子らにこう言え、『あなたたちはイスラエルの子らをこのように祝福して彼らに言え、〈主があなたを祝福し守ってくださいますように。
主があなたの上にみ顔を輝かせ、顧みてくださいますように。
主があなたにみ顔を向け、平安を与えてくださいますように。〉』
このように、彼らがわたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしは彼らを祝福する」。
(民数記6・22〜27)

坂口さんの本にあるような、「選ばれた民の誇りと義務感」をいま一度思い起こし、他者の犠牲の上に成り立つ民族ではないことを示して欲しいと願います。

 

 

旅人たち

日本人は、国籍や見た目が違う人を「外国人」と呼びます。

島国なので、両親、祖父母もみな生まれも育ちも日本です、という人が多いのが日本です。

先日のラグビーワールドカップを見ていた父が、「日本代表は外国人ばっかりだ」と言ったので、「違うよ、日本国籍を持っていたり、長く日本でプレーしている外国籍の人たちなんだよ。国籍やルーツは関係なく、自国の代表を選ばず日本を選んだんだよ。」と説明しましたが、父の感想が大方の日本人の感覚でしょう。

イスラエルで起きていることを思うと、心が苦しくなります。

長い歴史の中での根深い問題であるため、表面的な言い方は不適切かもしれませんが、ユダヤ人とパレスチナ人という人種間の争い、ユダヤ教とイスラム教の闘い、でもあるのでしょうか。

パレスチナの人々の立場で言えば、国になれないままイスラエルの占領下に置かれているというのが現実です。
ガザ地区は、種子島ほどの面積に220万人の人々が住み、最低限の生活さえできない状況なのだそうです。

イエスはガリラヤを巡っておられた。
ユダヤ人たちがご自分を殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。

さて、ユダヤ人の仮庵の祭りが近づいていた。
祭りの時、ユダヤ人たちはイエスを探し求めて、「あの男はどこにいるのだろう」と言っていた。

群衆の間では、イエスのことがいろいろと取りざたされたいた。
「善い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。
しかし、ユダヤ人たちを恐れて、だれもイエスについて公然と話す者はいなかった。
(ヨハネ7・1,11~13)

北イスラエル、南ユダ、現代のわたしたちから見ればどちらもユダヤ人ですが、当時から、こうしたルーツの違いによる争いがありました。

ロシアの、ウクライナにおける戦争犯罪
中国による、新疆ウイグル自治区での人権弾圧

世界中で、国籍や人種間の争いが絶えません。

もし他国の者がお前と共に、お前たちの土地に在留するなら、その人を虐げてはならない。
お前たちのもとに在留している他国の者を、お前たちの国に生まれた者と同じようにみなし、お前自身のように愛さなければならない。
お前たちもエジプトの地において他国の者であったからである。
(レビ記19・33〜34)

10月は宣教とロザリオの祈りに捧げられています。
アフガニスタンで起きた地震の被災者、イスラエルとパレスチナで被害を受けている一般市民、世界中で苦しい思いをしている人々のために祈りましょう。

・・・・・・・・・・・ 

日本と韓国のいがみ合いのような関係は、ここのところ改善に向かっているように思います。
韓国はお隣の国であり、わたしには外国という感覚はあまりありません。

韓国へのキリスト教の宣教は18世紀になってから始められましたが、いまでは人口の3割がキリスト教徒と言われています。
そいのうち11%ほどがカトリック信者なのだそうです。
日本は人口の0.35%ほどです。

日本と比べても、キリスト教に対する熱意が高いことがわかります。

先日、韓国カトリック新聞社が作成したビデオが配信されました。

福岡教区と長崎教区に派遣されている4名の司祭が、なぜ日本で司牧活動をすることになったのか、その経緯と現在のお気持ちをお話しされています。

言葉の通じない国に、神学生時代から派遣され、日本で叙階された韓国人司祭のお話しに、強く心が揺さぶられました。

高見大司教と話していて、日本では、司祭がいくつもの小教区を一人の司祭が兼任しているという現状を知り、「宣教とは、貧しい国や遠い国に行くことではなく、必要なところにいくことではないか、そう思った」とおっしゃった韓国のファンギル大司教のお言葉が印象的でした。

言葉の習得をしながら馴染んでいけるように、と神学生時代から計4名を派遣されることになります。

最初はだれも希望しなかったようです。

ですがそのうちに、「誰も行かないなら自分が行く」と、手を挙げる神学生が出てきます。

「僕が行きたいところに行き、やりたいことをやりながら暮らすのは司祭の生活とは違うのではないかと考えるようになった」というのは、シジン司祭のお言葉。

 

「司祭が少ないこの地こそ、わたしを呼んでくださった理由。日本は宣教の根がないのではなく、まだ火がついていないだけ。私は喜んで火を付けに行く。」

後に、福岡教区の司祭となったウォンチョル神父様のお言葉です。

そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」
わたしは言った。
「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
(イザヤ6・8)

国籍は関係ありません。 

彼らもまた、わたしたちと同じ、人生を旅するキリスト者なのでだと感じました。
日本人の青年に召命があることがもちろん望ましいのですが、こうしてわたしたちの中に来てくださる、お隣の国出身の司祭たちは、わたしたちの宝です。

ぜひ、ご覧ください。

 

 

人としての成長

気持ちの良い秋の朝のごミサに与り、今週も良い一週間になりそうな気がしています。

とっても素敵な映画を観ました。

『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』(Guillermo del Toro's Pinocchio)は、2022年のアメリカ合衆国のファンタジー映画です。
第80回ゴールデングローブ賞ではアニメ映画賞を、第95回アカデミー賞では長編アニメ映画賞を受賞しています。

物語の舞台はムッソリーニが支配するファシズム時代のイタリア。
「市民が従順な操り人形として生きる世界」にピノッキオが生まれますが、ピノッキオは大人たちとは異なり自由奔放に振る舞います。
行儀の良かった息子カルロの代わりを求めるゼペットと自由奔放なピノッキオ
ムッソリーニや死の精霊といった相手に対しても、規則や権威に服従しないピノッキオ
キリギリスのセバスチャンは、木の精霊から「ピノッキオの良心として成長を手助けすれば、一つだけ願いを叶える」と告げられ、提案を受け入れます。
なんだって叶えられるのに、セバスチャンが最後に頼んだ願いは、、、。

わたしたちは、どういう時に成長するでしょうか。

楽しい、嬉しい経験から得るものもありますが、やはり、失敗や苦い経験から学び、それを素直に反省して受け入れることによって成長するものだと思います。

今の時代の人々を何に喩えようか。
何に似ているのだろうか。
それは広場に座り、互いに呼びかけ合う子供に似ている。
『ぼくらが笛を吹いたのに、君たちは踊ってくれなかった。
弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった。』
というのは、洗礼者ヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まないと、あなた方は『あれは悪霊に憑かれている』と言う。
また人の子が来て食べたり飲んだりすると、『見よ、あれは大食漢、大酒飲みで、徴税人や罪人の仲間だ』と言う。
しかし、知恵の正しさは、知恵のすべての子らによって証明される。
(ルカ7・31~35)

「笛吹けど踊らず」ということわざは、ここから来ているのだそうです。
あれこれと手を尽くして準備をしても、それに応じようとする人がいない、という意味です。

サラメシ出演でも有名になった大西司祭が、インスタの投稿にこう書いていらっしゃいました。

「その場所に人はいるか、選曲は間違っていないか、いまそのタイミングか。
どうして人々が踊ってくれなかったか。
おそらくそれには理由がある。
僕たちの日常も同じ。
誰かになにかを伝えたい時、相手の態度を嘆くのではなく、こちらの伝え方を改めたい。」

おっしゃる通りだと、心にしっかりと受け止めました。

成長は自分で公言することではなく、他者が感じてくれなければただの勘違いになりそうですが、母が亡くなってこの12年、我ながらよく頑張ってきたものだ、と思っています。
ですが、常々わたしは「自分は頑張っている」と自認しすぎる傾向があり、相手のリアクションがこちらの予想に反する場合に過剰に反応してしまいます。

大西司祭のおっしゃるように、相手の態度を非難することは解決にはならないとわかっていたのですが、先日、ある方からこう言われてハッとしました。

「もう少し頼み上手になってくれたら、あなたがもっと輝くような気がします。」

なんて素敵な注意の仕方だろう、、、と感激したのです。
その方に強い口調で「どうしてわかってくれないの!?」と言ってしまったわたしを、こう諭してくださったのです。

ゼペットおじいさんもキリギリスのセバスチャンも、ピノッキオの成長を見守っているようでいて、自分たちも大きく成長していきます。

お互いが高め合える関係性は、人が成長していく上で最も素晴らしいものですね。

・・・・・・・・・・・・・・・

18日に、筑後地区の6つの教会のレクレーション大会が開催されました。
二日市、小郡、久留米、今村、本郷、大牟田の司祭と信徒、総勢160名の参加による4年ぶりの集まりでした。

(私服だと、神父様方の様子が全く違って、それぞれの個性も出ていて、それも面白い。
宮﨑神父様はやっぱり学校シューズだし、まじめな大牟田のT神父様は暑いのに司祭の襟のカラーを付けたシャツにチノパンだったし、二日市のT神父様はいつだってスポーツウェアだし!)

参加者全員でのレクリエーション、子どもたちだけのアクティビティ、敬老のお祝いなどがあり、まだ残暑の厳しい日でしたが、大盛り上がりの会となりました。

ご準備された宣教司牧評議会の皆さまには、本当に心から感謝です。

 

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連帯の気持ち

自宅から高校まで、バス電車バスを乗り継いで90分かかりました。

元より、読書家の母の影響で本を読むことは好きでしたが、この90分をいかに有効に使うかは、当時のわたしには大切な問題でした。
電車の中では、とにかく本を読むか英単語を覚えるか!

そんな中で、初めて買ったカトリックの本は森 一弘名誉司教の著書でした。

当時は洗礼を受けることに興味を持っていたわけではなく、担任だったシスターがとても魅力的な人だったこと、毎週月曜にある司祭による集会で、信者だけがステージにあがってご聖体をいただいていたことへの憧れがあったこと、から、カトリック関係の本をたくさん読んだ記憶があります。

先日帰天されたというニュースに、とても寂しさを感じています。
神様の横で、安らかにお過ごしください。

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この動画をご存じでしょうか。(↓動画のスクリーンショット)

これは癌で闘病中のお客さんが、抗がん剤で抜ける髪をあらかじめ剃るために来店し、落ち込んでいる彼女に連帯の気持ちを表そうと、担当した美容師さんだけでなく、その場にいた他の美容師さんもみんな、自分の頭を剃ったのです。

Barber shaves his head in solidarity with his client fighting cancer and then his friends do the same. 

 

皆さん、 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。
キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。
人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。
それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。
キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。
(コロサイ2・6~)

失敗をしてしまい、ちょっと落ち込んだ日々を過ごしました。
友人たちが、わたしに連帯の気持ちを表してくれたのにもかかわらず、何日も引きずってしまいました。

そんな中この箇所を読んで、わたしがいかに「世を支配する霊に従って」いたかを思い知らされた気がしました。

 

あなた方も、霊の賜物を熱心に求めているからには、教会を造りあげるために、賜物を豊かにいただくように努めなさい。
(1コリント14・12)

そのとき、イエスは使徒たちに言われた。
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
(ルカ6・43~)

隣人から受けた不正を赦せ。
そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。
人が互いに怒りを抱き合っていながら、どうして主からいやしを期待できようか。
自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、どうして自分の罪の赦しを願いえようか。
弱い人間にすぎない者が、憤りを抱き続けるならば、いったいだれが彼の罪を赦すことができようか。
(シラ28・1~5)

今週の聖書朗読も、素晴らしい教えがちりばめられていました。

先日、友人がこう言っていました。

「日曜日のミサで読む聖書の箇所は前から決まっているはずなのに、『今の自分へのメッセージ?!』と思うことが多くあり、心にビンビン響く時がある。
誰を通して神様が自分たちに伝えてくるのか分からないけど、常に心を開いておかなければ気づかないのかもしれない。」

 

あなた方が、すべての善い行いを通して実を結び、神を深く知ることによって大きく成長しますように。
そして、あなた方が神の栄光に伴うあらゆる力をもって強められ、いかなる場合にも忍耐強く寛大でありますように。
(コロサイ1・10~11)

 

来週24日の日曜日のミサのあと、信徒集会を開催します。

活動報告、今後の予定、昨年度の決算報告、今年度の予算計画について、信徒の皆さまと共有したいと考えています。

集会では、委員会活動以外にも、いろいろな活動をされている皆さまのご紹介もしますが、やり取りをしていてとても感激したことがあります。

「久留米教会が好きなので、少しでも役に立ちたいと思っている」という言葉が何度も聞かれたのです。

キリストに根を下ろして造り上げられるわたしたち信徒は、だれもが教会共同体の役に立つことが出来ます。

久留米教会は昨年秋に委員会(役員)メンバーが交代し、それまで永年いろいろな役割を担ってこられた先輩方にご指導いただきながら、この1年、若い(?!)わたしたちなりに、丁寧に一生懸命努めてきました。

そして、集会で皆さまにお伝えしたいことを、丁寧に準備してきました。

久留米教会をわたしたちの共同体として維持していくために大切なことのひとつが、お金の管理の問題です。

どのようにお金が使われたのか、これから何に使おうとしているのか。
是非皆さまに知っておいていただきたいと思っています。

何のために集会を開いてまでお伝えするのか。
久留米教会の連帯、一致の一助になると考えているからです。

ご参加をよろしくお願いいたします。

 

女性らしく

ようやく、気持ちの良い秋が久留米にも訪れました。

ベツレヘム、エフラタ、ユダの氏族の中で、最も小さな者よ、わたしたちのために、お前の中からイスラエルの統治者となる者が出る
その起こりは、永遠の昔からのもの。

それ故、主は、身籠った女が子を産む時まで、彼らを敵の手に委ねる。
そして残りの兄弟たちは、イスラエルの子らのもとに帰ってくる。
統治者は立ち、主の力と自分の神、主の名の威厳をもって牧する。
彼らは平穏に住まう。
今や、彼の威力は地の果てまで及ぶからだ。
彼こそ平和をもたらす者。
(ミカ5・1~4)

9月8日は聖マリアの誕生の祝日でした。

カトリック信者であるわたしたちは、マリア様を崇拝することは普通のことであり、「理想の女性として」「理想の母親像として」尊敬している、ということを特別にではなく、当たり前のこととして受け止めています。

「男らしさ」「女らしさ」という表現の仕方は、現代的にはアウトだとされる場面が多く、ちょっと戸惑ってしまうことがあります。

今年はスポーツのワールドカップ当たり年ですが、先日、ラグビー日本代表の稲垣啓太選手がインタビューでこう言っていらっしゃいました。

「日本中のラグビーファンが応援して期待してくれているのを感じる。
男としてはその期待に応えたい。」

わたしは、「かっこいい〜!!」と思いましたが、男らしく、女らしく、と発言することはどんな場面であれ現代では禁句のようにになっている感じがちょっとヤです、、、。

 

『ウーマン・トーキング』を観ました。

この映画は、ある新興プロテスタントの女性たちが、自分たちの意思で、自分たちの女性としての生き方を模索していくお話です。
実際に2000年台初頭にボリビアで起こった事件を元に描かれています。

この村(コミュニティ全体がこの新興宗教の信者)では、女性は家事全般を担い、男性の世話をするため、男性の性欲を満たすため、子供を産むために存在しているかのような扱いを受けています。

若い娘たちが次々とそうした男性の欲求の犠牲となっていく中、母親たち、娘たちが、自分たちの生き方を自分たちで決めるための話し合いを続けるのです。

罪を赦さなければ天国へ行けない、そう教えられてきた彼女たちは、対話を続けながら葛藤します。
イエス様の教えとして心に刻まれたことと現実とのギャップに、もがき苦しみます。
対話がヒートアップして紛糾すると、 誦じた聖書の言葉を祈りとして唱え、聖歌を歌うのです。

特に印象に残っているのが、以下のフィリピの教会への手紙を唱えるシーンでした。 

わたしは、こう祈っています。
神への深い知識と、研ぎ澄まされた感覚を身につけることによって、あなた方の愛がますますいっそう豊かになり、大切なことを識別できるようになりますように。
キリストの日に備えて、あなた方が純粋で、非難されるところのない者となり、イエス・キリストによってもたらされる義の実を豊かに結んで、神の栄光を讃えることになりますように。

(フィリピ1・9~11)

彼女たちは本当に純粋に、心から丁寧に信仰を守ろうとしています。

決して「面白い映画」ではありませんが、女性として生きていくために、女性らしく対話を尽くし、自分たちの未来を自らの意思で決定する彼女たちの姿には感動しかありません。

架空の話ではない、実際につい最近起きたことです。

「自分なりに女性らしく生きたい」と願い考えることは、いつの時代であれ決して間違ったことではないとわたしは考えます。

 

 

 

 

キリスト「教」

先週は、秋はそこまで来ているように感じたのに、猛暑再来!

この夏はあまり読書ができていなかったので、この秋はたくさん読もうと思っています。

今日は、春に買ったのに眠らせていて、ようやく読み進めている、この本をご紹介します。

坂口ふみさんは、1933年生まれ(現在90歳)の宗教・哲学研究者でいらっしゃいます。

この本は、1996年の著作ですが、今年になって岩波現代文庫から再出版されたものです。
彼女のことは存じ上げなかったのですが、タイトルと解説が山本芳久さんだということに惹かれて買ってみました。

とても面白いのです!

難しい内容でもありますが、彼女のエッセイのような始まりで、引き込まれていくうちに難解なテーマが分かり易く解きほぐされていく、という構成です。

山本さんの解説には、「キリスト教教理という特殊なテーマを取り扱った書物で、この書物ほど多くの読者の関心を呼び起こし、キリスト教の信仰の有無を超えて広く読み継がれてきた書物は他にないと言っても過言ではない」、「本書を類書のない名著としているのは、よい意味でのエッセイ的な筆致である」とありました。

以前、「なぜパウロはローマに宣教に行ったのか」と、聖書の師匠に質問した話を書いたことがあります。

この本には、「なぜローマでキリスト教が確立されていったのか」という、これまたわたしの疑問だったことが解き明かされています。

まず、イエス様は「隣人愛」について単純なことばで語ったということ、これが始まりであるということ。

「隣人」とは何だろう。
そこには何の条件もない。
あらゆる属性、地位、身分、能力、等の区別は捨象されている。
おそらく、目がみえること、耳が聞こえること、四肢が揃っていること、また、伝統的に人間の本質だとされている理性さえも、それがもし単なる論議や計測の能力ならば、条件とはされていない。
隣人の唯一の条件は、私に近いということ、私が関わるということである。
唯一そこで現実的で重要なのは、その関わり、愛と規定された関わりである。
(本文より抜粋)

イエス様は、隣人への愛を説き、あるがままの人間の愛について教えられました。
そしてそれが、キリストの教えとして、また、「仲介者キリスト」「贖罪者キリスト」「神人キリスト」というかたちで表現し、現代のものの考え方の基礎を作ったのは歴史の成せる業なのだ、と坂口さんは書いておられます。

イエス様には当然、こんな考え方はなかったのだ、と。

『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』
『隣人をあなた自身のように愛せよ』
この二つの掟よりも大切な掟はない。
(マルコ12・30〜31)

キリストの教えが、キリスト「教」として確立されたのには、歴史の必然がありました。

*何人かの天才的な人々が、決定的な方向づけを与えたこと。
*古代の理想に反旗をひるがえす、世界に対する新しい基本的態度を表したのがイエスの教えだったこと。
*ヨーロッパとアラブを併せた、文明世界全体の様相を呈した末期のローマ帝国にとって、帝国統一の組織造りためにキリスト教は利用価値があったこと。

この宗教はもともと自然宗教と違って、宣教によって伝播する宗教であったから、人的組織を頼りとするところが大きい。
この(ローマ帝国末期までの)300年の間に階層、行政、地域、税制などの秩序をある程度備えた、一つの共和制国家であった。
聖職者と俗人の区別と、聖職者による俗人の統制法、そして聖職者の職掌と階層は精密の度を増していた。
政治家コンスタンチヌスが、これに着目したとしても意外ではない。
しかし、皇帝がキリスト教に価値を認めたのに数倍して、教会の方が、コンスタンチヌスに利用価値を認めたことはいうに及ばないことである。

(本文より抜粋)

つまり、ウィンウィンの関係による、いわゆる「オトナの事情」があったというのです。

 

わたしたちが日常において信仰生活を送るにあたり、こうした事情は直接には関係のないことかもしれません。

ですが、日本の天皇制が脈々と紀元前660年の神武天皇即位から守り続けられているということを、日本人として誇らしく知っておく必要があるように、わたしたちキリスト者は、キリストの教えがキリスト「教」として2000年以上も続くことになった根っこの部分について、知っておいた方が良いのではないかと考えます。

この本からは、まだまだたくさんのことを学べると思いますので、追って皆様にそのアウトプットをお伝えしたいと思います。

来週には、また、秋の足音を感じることができますように。

 

 

 

積み重ねる経験

4年ぶりの納涼祭でした!

台風接近のため、そして参加した多くのみなさんの熱気のため、熱くて暑い、お恵みに満ちた時間でした。

ヨゼフ会の男性陣の頼もしさ、女性の会のおば様方のおもてなし、青年会のみんなの楽しそうな様子、フィリピンコミュニティのお姉様方の明るい笑顔、ベトナムコミュニティの若者たちのエネルギー!!!

久留米教会共同体の良さを改めて実感できた、楽しいひとときを過ごすことができました。

納涼祭のダイジェスト←こちら。 

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以前ご紹介したことのある月刊誌、『致知』の8月号に、古巣馨神父様の対談記事が掲載されました。

内容を少しかいつまんでご紹介したいと思います。

古巣神父様は、「生きていく上で大切なのは、一度きりの人生で誰かから受け取ったものを正しく伝えていくことだ」とおっしゃっています。

わたしもいつも感じながら生きています。
これまでの人生、今日があるのは、出会ってきた人々から受け取った素晴らしいもののおかげだ、と。

古巣神父様は、多くの人との出会いから3つの大切なことを受け取った、と言います。

①「にもかかわらず、まだ笑う」

ユーモアは持って生まれた性格ではなく、人生の中で何度も困難を乗り越え、それでも潰されずに歩む中で得るものだ、というのです。

確かに、わたしの周囲で「素敵なユーモアの持ち主だわ」と思う方は大抵、大きな試練に遭った経験をお持ちです。
順風満帆に生きてきた、と言える人は少ないと思います。
やはり乗り越えたものがある人は、人として魅力的だと思います。

②「非常識」

世間から見たら非常識かもしれないとしても、「わたしはそうするように親から教わりました。
それが 正しいと思うから、同じように生きています。」と言える自分の物差し、価値観を持って生きることは大切だ、と。

頑固に生きるということではなく、ある程度の年齢(=色々な経験を積んできた)であれば、ブレない自分の物差しを持っていなければ、真っ直ぐに生きることはできないと思います。

③「賜物になる」

ただでいただいた、なくてはならないお恵み。
賜物に出会うと、人生の意味がわかります。
そして、自分も誰かのためになろうとします。

わたし自身、大病と洗礼で生まれ変わった、と思って生きてきました。
病気もお恵み、洗礼もお恵み、賜物です。

「誰かの役に立つかもしれないから、受け取ったものを伝えていく」

これは、わたしも努めて心がけるようにしています。

ただで受け取った賜物は、学びに限らず、自分の存在そのもののことも指していると思います。

おこがましい言い方かもしれませんが、自分自身が「神様の子」のひとりとして周囲に良い香りを振りまきたい、そう思っています。

古巣神父様は、長崎刑務所の教誨師を務められています。
おそらく、受刑者からも大きな影響をお受けになっているのだと推察します。 

罪を犯した受刑者の心の中を受け取る、というお仕事については、想像することしかできません。
苦しみや反省、後悔の気持ちに寄り添う中で、神父様もまた、何かを受け取られているのでしょう。

日常において罪を重ねてしまうわたしたちもまた、神様、司祭、そして信徒仲間からの導きが必要です。

雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。
モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。
雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。
雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。
旅路にあるときはいつもそうした。
雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。
旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。
(出エジプト40・34~38)

小学生のとき、いつも空を見上げながら家路に着くのが好きでした。
無意識でしたが、雲の流れを追いながら、神様の存在を想っていたような気がします。

その習慣は今も変わらず、毎日、ふとした時にいつも空を見上げます。

わたしをいつも導いてくださっている神様を思いながら。

 

ビバルディの四季より、『夏』の音色で涼んでください。

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 致知は書店では販売していませんので、興味がおありの方は、お貸しいたします。

 

遠い国

傍島神父様の初ミサには、通常よりはるかに多い、300名ほどの参列がありました。

初ミサの様子は、こちらでご覧ください。

1994年、ルワンダで多数派のフツ族が、少数派で政権を担っていたツチ族を大量虐殺する、という事件が起こりました。
正確には、3か月間にわたって100万人とも言われる人々が虐殺されたのです。

『ハム仮設』という考え方について、初めて知りました。
現代では到底受け入れられないものですが、19世紀のヨーロッパで主流だった思想で、創世記のノアのエピソードを元に、ハム系の民族をカナン(ノアの息子)の末裔とみなして、全ての民族をセム系、ハム系、ヤフェト系などノアの息子たち因んだ名前で人種を分けていました。

中世の時代、ユダヤ人とキリスト教徒はハムをすべてのアフリカ人の祖先であると考えていました。
創世記にあるカナンに対するノアの呪いは、一部の神学者によって、ハムのすべての子孫に黒い肌という人種的特徴を引き起こしたと解釈されていました。
その後、西洋とイスラムの商人、奴隷所有者は、アフリカ人の奴隷化を正当化するために「ハムの呪い」の概念を使用しました。

もともと、フツ族とツチ族は宗教、言語、文化に差異がなく、婚姻も普通に行われていた民族でした。
ベルギーの植民地時代に、フツ族とツチ族が異なった民族として分け隔てられたことが起源と言われています。
また、カトリック教会の運営する学校ではツチ族が優遇され、行政管理技術やフランス語の教育もツチ族に対してのみ行われたこと、べルギー統治時代の初期にはハム仮説を最も強固に支持していたカトリック教会が、第二次世界大戦後には一転して公式にフツ族の支持を表明したこと、など、さまざまな要因があるようです。

こうした、ヨーロッパ(キリスト教)の大きな影響下にあったルワンダ(他のアフリカ諸国においても同じ)で起こった悲劇が、民族間の殺戮でした。

2017年3月、教皇フランシスコは、ルワンダ共和国のポ-ル・カガメ大統領をバチカン宮殿での個人謁見に招き、「近年の慈しみとあわれみの特別聖年と、ルワンダの司教たちにより結論として出された報告により、不幸にもカトリック教会の体面を損なった過ちを謙虚に認めることが、過去の記憶の浄化の助けとなり、人間の尊厳と、共通の利益をきっぱりと中心に据え、共に生き、ともに働いてゆくことを証言し、平和な未来、信頼の回復を願います」と述べられました。
「福音伝道の使命を裏切り、憎しみと暴力に屈した司祭や教会関係者を含むカトリック教会の罪と過ちの許し」を神に改めて嘆願した、ともおっしゃっています。

この、複雑で難しい、そして辛い問題を取り扱ったネットフリックスのドラマを観た直後に、傍島神父様のことを知りました。

43歳になられる傍島神父様は、社会人経験を経て司祭を志されました。
そして、最初の赴任地としてアフリカのザンビアを選ばれています。

神言会の機関紙のインタビューでは、神学校時代に出会った神父がザンビアで働いたことがあった方だったこと、一緒に英語の勉強をした宣教師がこれからザンビアに行くと言っていたこと、ザンビアでは神言会の宣教の歴史が新しいことや会員数が少ないこと、研修でガーナに行ったときにお世話になった方がザンビアで修練長をしていること、が選んだ理由だとおっしゃっています。

召命。

これがお導きなのだ、と強く思います。

アフリカは遠い国ですが、今週はずっとルワンダのことについて考えていた矢先に、傍島神父様に実際にお目にかかってお話しさせていただき、とても興味が湧いています。

ウクライナの穀物輸出がストップしそうな情勢がアフリカに及ぼす影響についても、これからも注視していきたいと思っています。

 

実際に起きた、当時のルワンダのカトリック教会に逃げ込んだ1万人ものツチ族の人々が司祭の手引きによってフツ族に虐殺されたことも、このドラマのなかで描かれています。
ご興味のある方は、是非ご覧になってみてください。
(なお、このドラマの中では残虐なシーンは一切描かれていません。)

 

 

不完全なわたしたち

梅雨とはいえ、朝晩は空気が澄んでいて日中はカラッと暑く、とても気持ちの良い初夏の久留米です。

先週ご紹介した本には、星野富弘さんについて書かれている箇所があります。

星野さんは、大学を卒業してすぐに体育教師となり、24歳の時に授業中のケガが原因で頚髄損傷を負います。
首から下が完全にマヒしますが、2年後、口にくわえたペンで字を書く練習を始めます。
初めは、紙に点を書くだけで精いっぱいだったそうですが、「口で字を書くことをあきらめるのはただ一つの望みを棄てることであり、生きるのをあきらめることのような気がした」と。

次第にキリスト教に惹かれていくのですが、すぐに全てを信じることはできなかったといいます。
ですが、同じ病室で、病気の治る日に備えて懸命に努力している人をみて、少しずつ考えが変わっていったのです。

「いつかは分からないが、神様が用意していてくれるほんとうの私の死の時まで、胸を張って一生懸命生きようと思った」のです。

ケガから3年半後、病室で洗礼を受けます。
「私のいまの苦しみは洗礼を受けたからといって少なくなるものではないと思うけれど、人を羨んだり、憎んだり、許せなかったり、そういうみにくい自分を、忍耐強く許してくれる神の前にひざまずきたかった」と述べています。

 

主のすべての業は何と慕わしいものであろう、見ることのできるのは火の粉にすぎなくとも。
これらすべてのものは生き、永久に残り、すべての用を果たし、もろもろの必要に応じる。
万物はことごとく対をなし、一つは他の一つに対応する。
主が造られたもので不完全なものは何一つなかった。
一つのものは他のものの長所をさらに強める。
誰が、主の栄光を見飽きる者があろうか。
(シラ42・22~25)

 

わたしは、以前も書いた通り、20歳で大病をしたことをきっかけに洗礼を受けました。
後に、ある方から「成人洗礼の人は、病老苦死が洗礼の理由になる場合が多いよね」と言われたことがあります。

まるで、病気の苦しみから逃れるために受洗したと言われた気がして、若かったわたしは傷ついたものです。

ご紹介している本の著者は、星野さんについてこう書いています。

彼は、自分の状況について神を恨むとか、神を疑うとか、そのようなことは一切口にしていません。
彼は、むしろ神に惹かれていったのです。
決して神にすがりはじめたのではありません。
そうではなく、神に感謝する気持ちを持ち始めたのです。
(石川明人 著『宗教を「信じる」とはどういうことか』より)

星野さんやわたしのように、ケガや病気をきっかけに信仰に惹かれていった方は、おそらく多くの場合、同じ気持ちだと思います。

ケガや病気が治ったことへの感謝、ではなく、「与えられた、新しい自分の人生を生きることを受け入れることができた」ということへの感謝です。

シラ書には「主が造られたもので不完全なものは何一つなかった。」とありますが、わたしなりの解釈では、「ひとりでは完全ではなく、互いに補い合い、神を信じることで完全なものになれるよう造られた」と考えます。

旅をした人は多くのことを知っており、
経験豊かな人は知識をもって語る。
試練に遭ったことのない人は僅かなことしか知らない。
しかし、旅をした人は賢さを増す。
(シラ34・9〜10)

星野さんは教会に通えないので、ザアカイを思っていちじくの木の下までお散歩をして考える、と詩にされています。
彼は自分で動けないのですが、日々、旅をされているのだ、と詩画集を見ていて感じるのです。

わたしも入院中に、母校の修道会のシスター方が代わるがわるお見舞いに来てくださっていました。
その際にいただいた星野さんの詩画集は、今でも大切にしています。

福音書、という詩画があります。

毎日見ていた
空が変った
涙を流し 友が祈ってくれた
あの頃
恐る恐る開いた
マタイの福音書
あの時から
空が変った
空が私を
見つめるようになった 

不完全な存在だからこそ感じ取ることができる、素直に信じる気持ち。
星野さんの詩から、そのような、忘れてはいけないものを感じます。


 

信じるとは

二日市教会の献堂式に参列しました。
新しい教会のスタートに立ち会える機会はなかなかないことですので、素晴らしい体験でした。

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わたしは、この人々のためだけではなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
どうか、すべてのものを一つにしてください。
父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、
彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。
あなたがわたしをお遣わしになったことを、世が信じるようになるためです。
また、わたしはあなたからいただいた栄光を彼らに与えました。
わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
あなたがわたしをお遣わしになったこと、そしてあなたがわたしを愛してくださったように、
彼らも愛してくださったことを、世が知るようになるためです。
(ヨハネ17・20〜23)

イエス様が捕えられる直前に、「自分のため」「弟子たちのため」そして「信者のため」に祈られた言葉がまとめられているのが、ヨハネ17章です。

この20〜26は、信者のために祈りを捧げられたものです。

わたしたちは、何を信じているのでしょうか。
カトリック信者である、とは、何を信じているということなのでしょうか。

先日、ジュセッペ神父様がお説教でおっしゃいました。

「信仰とは、大理石の柱のようなものではありません。
病気や困難が起きた時、疑うことがあるのは当然のことです。」

 

 

今、この本を読んでいます。

中身を少しご紹介しますと、著者の石川さんによると、イエス様が十字架上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と絶叫したのは、神に対する抗議だったのだ、と。
わたしは、旧約聖書を大切にされていたイエス様が最後に詩編の祈りを口にしたことは神への信頼の証である、という教えを納得して理解していましたので、石川さんの「無理のあるこじつけだ。激痛の中での壮絶な人生の今際の際に、本当に言いたいことをズバリと言うのが自然なことだ。」という論調には疑問を感じました。

ですが、その後にこう書いてありました。

イエスのこうした言葉は、「信じる」と矛盾するものではないと言うべきかもしれません。
本当に全く神を信じていなかったら、神に対する抗議や疑いが口から出てくるはずがありません。
神に対する文句は、神の存在が前提とされていなければ不可能です。
本当に神を「信じ」ていて、本当に「神は我とともにある」と考えているからこそ、抗議や疑いを含めて、神に対して何かを言うことができるわけです。

苦しいときには神に文句を言ってもいいし、その存在を疑う言葉を口に出しても構わないでしょう。
ちっぽけで愚かな人間が、その狭い視野であれこれ文句を言ったり疑ったりしても、それにも関わらず常に我とともにいてくださるものを「神」と呼んでいるはずだからです。

確かに、イエス様は神である前に、わたしたちと同じ「人」であられました。

イエス様でさえ、神様に抗議され、神様の全能性を疑うような言葉を口にされたのだから、わたしたちもそのような弱い存在であることを恥ずかしく思うことはない、と思えます。

マザーテレサの死後に刊行された彼女の書簡とその解説の書「マザーテレサ 来て、わたしの光になりなさい!」の中には、彼女がある神父様に宛てた手紙が紹介されています。

「わたくしの魂のなかで神の場は白紙です。
わたくしの内に神は存在されません。
神を欲する痛みが非常に強いので、わたくしはただただ神を求めるのですが、わたくしが感じるのは、神がわたくしを望まれないことです。神は不在です。」

マザーテレサでさえ、このような心境になられたことがあるのです。
このように、むしろ「信じることができません」と素直に告白することこそ、真の意味で信仰的なのかもしれない、と本の著者は言います。

ヨハネの福音書にあるように、

「あなたがわたしをお遣わしになったこと」
「あなたがわたしを愛してくださったように、彼らも愛してくださったこと」

わたしたちは、このことを信じているのです。
神様は全能であり、祈ればなんでも叶えてくださるのだ、といった都合のいいことだけを信じるのが信仰ではありません。

今週の聖書朗読と読書から、改めて良い気づきが得られました。

 

世界遺産の姫路城、またの名を白鷺城に行ってきました。
(今日の記事とは関係ないのですが、あまりにも美しかったので。)

 

永遠のいのち

去年の秋に膝の手術をし、今は回復していますが、今度は腰痛に悩まされています。

長年の義足での生活の影響でしょう。

これからは、こうして身体と向き合って生きていくことになりそうです。
そして、これは神様からの徴だと思っています。

神様がわたしを気にかけてくださっているんだ、と思っています。
「身体に不調が出ていて辛いだろうけど、ちゃんと導くから安心しなさい。」そう言ってくださっている気がしています。

 

「去年と今年、膝と腰を悪くしたのは、あなたがこの2年『天中殺』の真っ最中だからだ」と知り合いに言われて驚きました。
占いですから、信じることも惑わされることもありませんが、「運が悪い」と言われるのはやはり残念です。

先日、大きな荷物が届きました。
玄関に「配達物は玄関前に置いて行ってください」と張り紙をしているので、たいていの荷物は置いておかれるのですが、「重い荷物なので中に置いておきますね」と配達の方が玄関の中に運んでくれました。
腰痛に耐えながら食事の用意をしたら、「美味しかった~!」と父が言ってくれました。

こうした些細な事に喜びと幸せを感じることができるのはお恵みで、「信仰を持っているおかげだ、わたしは運がいい!」と思えます。

そんな今週、目に留まったのは詩編の次の箇所でした。

主よ、わたしの声を聞き、わたしが叫び求める時、わたしを憐れみ、答えてください。
わたしの心はあなたの言葉を借りて言います、
「わたしの顔を求めよ」と。
主よ、わたしはあなたの顔を求めます。
わたしの助けとなってください。
わたしの救いの神よ、わたしを見捨てず、見放さないでください。
たとえ、父母が見捨てても、主がわたしを迎え入れてくださる。
主を待ち望め。
心を強くし、雄々しくあれ。
主を待ち望め。
(詩編27・7~10,14)

主よ、わたしを見捨てないでください。
わたしの神よ、わたしから離れないでください。
主よ、わたしの救いよ、急いで助けにきてください。
(詩編38・22~23)

 

キリスト者の信仰は、運勢に惑わされたり、運命に囚われたりはしません。

 

年明けから、この本を読み進めています。
ベネディクト前教皇が学者であったことは知っていましたが、枢機卿になられる以前は長い間大学で教鞭をとられていたことはこの本で初めて知りました。
とても難しい本ですが、ひとつひとつの言葉に重みがあり、丁寧に読みたいと思っています。

 『聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます』

毎週、なんとなく唱えている言葉ですが、次の下りを読んですーっと心に落ちました。

「永遠のいのち」とは、現代の読者がすぐに想像するように、死後のいのちのことではありません。
「永遠のいのち」とはいのちそのもの、本来的ないのち、今この時において生きられ、物理的な死によって何らかの影響を蒙ることのないようないのちなのです。
今、「いのち」を得ること、何ものによっても、何びとによっても奪われ、破壊されることのない真のいのちを得ることが問題なのです。

初期のキリスト教徒たちは、単純に自分たちを「生きるもの」と呼んだのでした。
彼らは、すべての人たちが探し求めているもの、いのちそのもの、完全な、それ故破壊されることのないいのちを見出していたのでした。

「永遠のいのち」は「認識」によって、「知る」ことによって与えられるというものです。
人間は自分の力で、自分のためだけに、永遠のいのちを得るのではありません。
自ら「いのち」である方との関係において、いのちある者となるのです。

死は人間から生命を奪うことができるかもしれません。
しかし、それを超えたいのち、真のいのち、それは残るのです。

わたしたちはイエス様、神との関係のうちに生きているということです。

わたしたちが信仰を得たというのは、神の愛を知り、それが永遠のいのちを生きることであると認識したということです。

こうも書いてあります。

キリスト者はあれやこれやのことを信じるのではありません。
キリスト者は究極的にはただ単純に神を信じるのであり、唯一のまことの神の存在を信じるのです。

朝、「今日の運勢」を気にして一日をスタートさせるよりも、今日も神様に導いてもらえるように祈ることから始めるほうが良いですよね!

四旬節を前に、良い気づきを得ることができた気分です。

 

灰の水曜日のミサの準備ができました。

 

人に伝えるために

寒い寒い一週間でした。
最低気温が氷点下という日が続き、高騰する電気代を気にしながらも、エアコンをつけ続けて過ごしました。

そんな中、考えていたのは「ウクライナの人たちは日本よりずっと極寒の中、電力の供給が制限されているのだ。」ということでした。

そして、最近よく考えます。
おそらく今回の戦争を将来歴史に記す際には、『ある種の第三次世界大戦であった』となるのではないか、ということを。
武器や戦車を供与しているだけで参戦しているわけではない、というのには疑問を感じています。

1日も早くこの戦争が終わることを願うばかりです。

・・・・・・・・・・・・・・

自分の気持ちや考えを人に伝える、というのは難しいことです。
特に最近は、SNSなどで一方的に、しかも安易に自分の価値観による主張を発信することで人を傷つけ、追い込み、裁判にまでなるケースあります。

教皇様は今年の世界広報の日について、これまでの「来て、見なさい」、「心の耳で聴く」といったテーマに続き、今年は「『愛に根差した真理に従い』心を込めて話す(参照 エフェソ4・15)」(仮訳)を選ばれました。

「心を込めて伝えるとは、読む人、聞く人に、今日の人々の喜びや恐れ、希望や苦しみに対するわたしたちの分かち合いを理解してもらうことである。
このように話す人は、相手を大切に思い、その自由を尊重する。」

「わたしたちが『愛に根差した真理』に従って語るためには、自らの心を清める必要がある。
純粋な心で聞き、話してこそ、わたしたちは外見の奥にあるものを見、混乱した騒音を克服することができる。」

このように教皇様はおっしゃっています。

相手を大切に思い、自らの心を清め、純粋な心で聞いて話す。

いつも、教皇様のお言葉から大切な教えをいただきます。

 

 

「善い木は悪い実を結ばず、悪い木は善い実を結ばない。
木はそれぞれの実によって分かる。
善い人は、心にある善い倉から善い物を出し、
悪い人は、心にある悪い倉から悪い物を出す。

口は心に溢れることを語るものである」。
(ルカ6・43〜45)

耳の痛いことばです。
「木はそれぞれの実によって分かる。」
「口は心に溢れることを語る。」

だから、自らの心を清める必要があるのです。
心の中によどみがあれば、口から出る言葉は善い物ではありえません。 

ほんの数分お話をしただけで、相手の人となりや価値観が伝わってくることがあります。
同じように、自分が発する言葉、こうして書いて残る文章には責任を持たなければなりませんね。
(いつも長くなってしまいます・・・。)

 

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
(新共同訳)
信仰は、希望していることを保証し、見えないものを確信させるものです。
(フランシスコ会訳)

Faith is the realization of what is hoped for and evidence of things not seen.

訳によって、伝わり方が違うと思いませんか?

信仰を持っているから確信できる。
信仰があるから保証される。
見えない事実を確認するのはわたし。
見えないものを確信させるのは信仰。

これらの人々はみな、信仰を抱いて死にました。
彼らは、約束されたものを受けませんでしたが、遥かにそれを望み見て歓呼の声をあげ、自分たちが、この世では異邦人であり、旅人に過ぎないことを表明しました。
(フランシスコ会訳)
自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
(新共同訳)

(ヘブライ11・1、13)

どちらが皆さんにとっての「信仰」を言い表していると感じますか?

もちろん、どちらでも良いのです。
純粋な信仰心で読んだ時に、どちらの方が自分に伝わってくるか、だと思います。

 

種を蒔く人はみ言葉を蒔くのである
み言葉を蒔かれた道端のものとはこういう人たちのことである。すなわち、み言葉を聞くと、すぐにサタンが来て、彼らのうちに蒔かれたみ言葉を取り去ってしまう。
岩地に蒔かれたものとは、み言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが、彼らには根がなく、一時的なもので、後になってみ言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人たちのことである。

また、茨の中に蒔かれたものとは、み言葉を聞くが、この代の思い煩いや富の誘惑、またそのほかのいろいろな欲望が、彼らのうちに入ってきて、み言葉を覆いふさぎ、実を結ばない人たちのことである。
そして善い土地に蒔かれたものとは、み言葉を聞いて受け入れ、ある者は三十倍、ある者は六十倍、また、ある者は百倍の実を結ぶ人たちのことである」。
(マルコ4・14〜20)

キリスト者の信仰について言い表されているのです。
善いみ言葉は、相手を大切に思い、自らの心を清め、純粋な心で聞いて話す土壌が整っていてこそ伝わり、実を結ぶのです。
 

教会でともに働く

ACジャパンのこのCM、大好きです。

「たたくより称えあおう
 それが優しい世界」

ラップが心地よく聞こえます。

ACジャパンのホームページには、このCMの意図をこのように解説されていました。

多様性が求められる時代、世代を問わず、自分と異なる立場や考え方に対する不寛容な行動が社会的に問題になっています。
攻撃し合うのではなく、相手を尊重し認め合うことの大切さ、そこから生まれる交流を伝えます。

特にこのコロナ禍になってから、SNS上での誹謗中傷やすべてを政治の責任にしようとする風潮がエスカレートしているように感じます。

久留米教会では、毎月第2日曜日のミサで手話通訳を行っています。

以前もここに書きましたが、「耳の不自由な人が参列しているわけでもないのに、何の意味があるんだ」という意見があったことは事実です。

手話通訳ミサは、久留米教会がさまざまな方に開かれている教会であることのひとつの表れです。
そして、手話通訳をしている信徒は、教会共同体のために働いてくれているのです。

 

わたしは久留米教会で洗礼を受けましたが、受洗後すぐに東京の大学へ戻り、イグナチオ教会に通っていました。
イグナチオ教会はとても大きな共同体ですし、一緒に参列していたシスターと妹の他に信徒に知り合いはおらず、教会の活動に参加したこともありませんでした。

あれから月日がたち、今では久留米教会にたくさんの知り合いができ、教会委員としても働かせていただくようになりました。
先週は、ミサの先唱をさせていただいたのですが、ミサ後に「教会のために働いていらして素晴らしいわね」とお声かけいただいて嬉しくなったり。
少しは教会の活動のことを分かってきたようなつもりになっていました、が。。。

先週、新しくいただいたお役目である、筑後地区宣教司牧評議会の会合に参加しました。

筑後地区(二日市・小郡・今村・本郷・大牟田・久留米)の教会の代表者が集まり、評議会の会長でもある神父様のご指導の下、地区としての宣教司牧活動を行ってこられています。

月刊誌「福音宣教」の1月号には、様々な宣教司牧の活動についての記事がありました。

評議会に参加された各小教区の方々のお話。
「福音宣教」に寄稿されていた様々な活動。

ある種のカルチャーショックのようなものを受けたのです。

わたしはまだまだ教会での働きについて何も知らない!と。

当然ながら、皆さん、それはお仕事ではありません。
ご苦労もかなり多いように思われます。
それでも、誠実に、真剣に取り組まれている働きからは、充実から来る楽しさのようなものが感じられます。

そして何より尊敬するのは、「教会での働き」を「継続」して長年続けていらっしゃるということです。

どの活動も、どの小教区でも、同時に後継者を育てることにも取り組んでいらっしゃるのです。

 

確かにあなた方は、わたしたちの奉仕を通じて書きあげられた「キリストという手紙」であり、墨ではなく生ける神の霊によって、石の板にではなく人間の心の板に書きつけられたものです。
自分自身から何かが生じるなどと認める資格がわたしたちにあるのではありません。
かえって、わたしたちの資格は神からのものです。
神は、わたしたちを新しい契約に奉仕する、つまり、「文字」にではなく「霊」に奉仕する資格のある者としてくださいました。
(2コリント3・3〜6)

 

「教会で自分にできることはないか。」

ずっとそう思っていました。

ミサの前後に忙しく立ち振る舞い、いろいろなお世話をされている先輩信者さんや、ミサの進行をする先唱の方を見ていて、ずっとそう思っていました。

以前あるシスターが、「修道院は聖女の集まりだと思ってるでしょ?そんなことないのよ!いろいろあるのよ!」と笑っておっしゃっていましたが、共同体もある種の社会の縮図です。

色々な方がいて、色々な問題もあり、多くの働き手がいなければより良く前進することは難しいのです。

教会でみなさんとともに働くことを続けて行きたい、と決意を新たにしたところです。

 

人の心を読み取る方は、霊の思いが何であるかをご存知です。
霊が、神のみ旨に従って、聖なる人々のために執りなすからです。
神を愛する人々、すなわち、ご計画に従って神に召された人々のために益となるように、すべてが互いに働き合うことを私たちは知っています。
(ローマ8・27〜28)

「たたくより称え合おう」

これも、心に刻みたいテーマです。

 

今年の誓い

新年、明けましておめでとうございます。

今年も皆様にとって、恵み溢れる豊かな一年となりますように。

前教皇ベネディクト16世がご逝去されました。

皆様は、「2人のローマ教皇」という映画をご覧になったでしょうか。

この映画が公開された時、このページで紹介したことがありますが、もう一度皆様にお勧めさせてください。

 

この映画は、ベネディクト16世がベルゴリオ枢機卿を後任に押すために説得を繰り返す、2人の交流の様子が丁寧に描かれたものです。

実際にバチカンで撮影されたこと、2人の俳優が同時にアカデミー賞にノミネートされたことなどでも話題となりました。

 

アンソニー・ホプキンスがドイツ訛りの英語を話すだけでなく、容姿も風貌も、本当にそっくりです。

わたしの抱いていた前教皇様のイメージとは違い、厳格ながらもユーモアのセンスと愛嬌のある様子が描かれていて、むしろベルゴリオ枢機卿(現 フランシスコ教皇)の方が頑固で融通が利かないようなところがあるのが面白いのです。

この映画で特にわたしが印象に残っているのは、ベネディクト16世がベルゴリオ枢機卿に告解をするシーンです。
当時、幾つものスキャンダルに見舞われ、精神的肉体的に疲労困憊していた教皇が、正反対の主義主張・性格の枢機卿に次第に心を許していく様には、心が揺さぶられます。
そしてその後、バチカン美術館に見学に訪れていた多くの観光客にもみくちゃにされながら、気さくに、楽しそうに自撮りに応じるベネディクト16世の様子が、本当に微笑ましいのです。

ぜひ、ご覧いただきたい映画です。

天国で安らかにお過ごしになられますよう、心からお祈りいたします。

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1月1日、元日の主日のミサで、新成人の祝福が行われました。

 

20歳を迎える3名の新成人が参列し、宮﨑神父様の祝福を受けました。

3人は、今年の抱負を抱いていることでしょう。
そして大人として扱われることになるこれからの人生に、期待と希望を持っていることでしょう。

20歳の時、皆様はどのような誓いをしましたか?
覚えていらっしゃいますか?

わたしは、20歳になってすぐに、大きな病気をしました。
それまでは、勉強とスポーツに明け暮れ、何となく幸せに生きていましたので、生死に関わるような大病を20歳の時に経験したことで、そしてその後すぐに洗礼を受けたことで、文字通り「生まれ変わり」、新しい人生を歩み始めました。

生きていれば誰も、節目となるような出来事に遭遇するでしょう。

まずは、20歳という成人の年は大切にしたい節目です。

人生とは、生きるとは、楽しむことだ。

若い彼、彼女には、そう思ってほしいものです。

望まなくても、辛いことや悲しいことは必ず起こります。
まずは、楽しんで!と伝えたい。

 

わたしも、今年の誓いを立てました。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

素直に耳を傾ける

朝晩の澄んだ空気、本当に気持ち良い季節です。

「朝起きてすぐの心の状態が、その日1日を決める。」

昔読んだ本にそう書いてありました。
この何年もずっとこのことを心に留めていて、起きてすぐにカーテンと窓を開け、神様と母に挨拶をして、「今日も一日よろしくお願いします!」と口に出して言うようにしています。

 

31年前の今頃は、東京の大きな病院に入院していました。

新宿の都庁のすぐそばの病院で、14階の病室からは山手線沿線の街が一望でき、空気の澄んだ日には、遠くに富士山も見えました。
病室からその景色を見渡した瞬間に思ったことは、今でも忘れられません。

「この景色の中に、幾つの病院があって、何人の人が病気で入院しているのだろう。
わたしはその多くの人の中の一人に過ぎない。
わたしは神様から守ってもらえてるはずだから、全然大丈夫!」

ハタチのわたしの心に浮かんだその気持ちは、その後の長い入院生活でもずっと変わりませんでした。

最近、また大きな病院に通院するようになり、コロナが落ち着いたこともあるのでしょうが、本当に多くの方が病院を受診されていることに驚きます。

「スーパーで出会う人々とは違う。
この人たちは皆、どこかに病気や不具合を抱えているんだ。」

25日のミサの福音書では、金持ちとラザロのたとえ話が読まれました。
金持ちは、死んでからようやく周りを思いやる気持ちを見せます。
そして、周りと言っても自分の兄弟のことだけでした。
アブラハムに頼むときにでさえ、「彼らもこんな苦しい場所に来ることがないよう、きびしく言い聞かせてください。」と自己中心的な言い方です。
それに対しアブラハムは、「彼らの言うことを聞けば良い」と答えます。
それでも食い下がる金持ちは口答えをします。
「しかし、アブラハムは言った。『もし、モーセや預言者たちに耳を傾けないなら、たとえ、誰かが死者の中から生き返っても、彼らはその言うことを聞かないであろう』」。
(ルカ16・19〜31)

聞いて行動することが求められているのです。
聞いても行動しないのならば、全く意味がありません。
まずは、耳を傾けるのです。
今、わたしたちの助けを必要としている人のために、心を開き、耳を傾け、愛の実践を実行することが必要なのだ、と、宮﨑神父様がお説教でおっしゃいました。

病院での出会いについて書いたのは、聖体奉仕者の役割を担っていらした方から「コロナ禍になって、病院やご自宅に聖体を持って行くことができなくなって久しい。求めていらっしゃる方がどのくらいいるのかも把握できていない。」というお話を伺ったからです。

宮﨑神父様にお願いしてみました。

「病院はまだ外部からの訪問を受け入れないでしょうが、ご自宅にいて教会に来ることができないご高齢の方のために聖体奉仕者の方々が働けるように、司教様に聞いてみていただけないでしょうか。」

 

わが子よ、施すべき相手に善行を拒むな、あなたの手にその力があるなら。
出直してくれ、明日あげよう、と友に言うな、あなたが今持っているなら。
友に対して悪意を耕すな、彼は安心してあなたのもとに住んでいるのだ。
理由もなく他人と争うな、あなたに悪事をはたらいていないなら。
不法を行う者をうらやむな、その道を選ぶな。
主は曲がった者をいとい、まっすぐな人と交わってくださる。
主に逆らう者の家には主の呪いが、主に従う人の住みかには祝福がある。
主は不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜る。
(箴言3・27~34)

 

耳を傾け、聞いて、自分が今何をすべきかを自問し、実行する。
できないことに囚われずに、やるべきこと、できることを。

神父様のお説教を聞いて、このことを強く感じた日曜日でした。

 

主の御手にあって王の心は水路のよう。
主は御旨のままにその方向を定められる。
人間の道は自分の目に正しく見える。
主は心の中を測られる。
神に従い正義を行うことは、いけにえをささげるよりも主に喜ばれる。
(箴言21・1~6)

 

信愛から自転車で来られて誰にでも元気にご挨拶してくださるシスター、お御堂に入る前に必ずマリア様のご像の前でお祈りされるご夫婦。
こうした風景が、本当に大好きです。

 

神様からのサイン

毎週、ここを読むのを楽しみにしてくださっている仲良しのおばさま方。
最近はなかなかお目にかかる機会がなくなっている方もいらっしゃるのですが、感想を聞かせてくださったり近況を知らせるお電話をくださり、色々とお話しするのも楽しみの一つです。

みなさん、何かしら健康上の問題、日常生活の変化などがあり、何事もなく平穏な日々というわけにもいかないようです。

わたしは、膝の痛みに悩まされています。
この痛みと付き合い始めて1年になります。
最近はますますひどくなってきてかなり辛いのですが、先日、フッとある考えが下りてきたのです。

「この痛みとうまく付き合っていくには、これは神様からの何らかのサインなのだ、と思ったほうがいい。」

そうしたら、(痛みは全く改善しませんが)気持ちがちょっとだけ楽になりました。

信仰を持っていない人からしたら、「それって、プラシーボ効果じゃ?」と言われそうですね。

プラシーボ効果とは、本来薬としての効能が全くない物質を摂取しているのに、「お薬が効いた!」と感じる効果のことです。
一種の「思い込みによる心理的な働き」なのだそうです。

 

識別は、思いがけない出来事の中で、イグナチオの足の負傷のように、時には不快な状況の中でも、主が与えるサインを認識することを助けてくれる。
そして、彼の場合のように、そこから永遠に人生を変える出会い、人生の歩みをより良いものとする出会いが生まれることがある。
教皇フランシスコ
9/7バチカン一般謁見での講和より

どのような困難な状況にあっても、その日々の中に神様からのサインを見出そうと思えることは、それ自体がお恵みでしょう。

いま、アリストテレスに関する本を読み進めているのですが、彼の父親はお医者様でした。
医者と言っても、当時(紀元前4世紀)は、病気の原因は神々の怒りだと考えられていて、医者は病人を癒すために医術の神(アスクレピオス)の力を引き出すという、魔術師のような役割でした。

それでも、アリストテレスの父のニコマコスは新しい発想の医者だったそうで、病気の原因は自然に由来するので、自然に即した方法で病人を治療することができる、という、当時にしては革新的な考えの流派に属していました。
そうした父親の影響がベースにあり、アリストテレスは哲学者として、当時のライバルたちとは一線を画す価値観と感性を磨いていきます。

彼にとって、善い生活とはこの世で幸福に暮らすことでした。
そのための鍵は、友情、家庭生活、政治への参与、観想といったものであると主張しました。
こうした考え方は当時としてはかなり「先を行った」もので、10数世紀のちに彼の倫理学書が再発見されたときには、天国に望みを託しているキリスト教徒たちを驚愕させました。

アリストテレスはBC384〜322年に生きた人です。
イエス様がお生まれになるよりも300年以上も前に、ギリシャには優れた哲学者、数学者、天文学者などが数多くいて、ある程度の階級の人々は、非常に高度な知的教育を受けていたのです。

ですが、長きに渡りイエス様の時代も、病気や災害は(いろいろなパターンの)神の怒りによる仕業、先祖の冒した罪によるものと信じられていました。

そうではないということを知っている、現代のわたしたちは幸いです。

神様は、災害をひき起きしてわたしたちを不安に陥れるようなことはなさいません。
美しい自然を与えてくださるのが神様です。

 

18日のミサのアレルヤ唱は、本当に美しい聖句でした。

アレルヤ アレルヤ
イエス・キリストは富んでおられたのに貧しくなられた
あなたがたがキリストの貧しさによって 富むように
アレルヤ アレルヤ

主は豊かであられましたが、あなた方のために貧しくなられた、という慈しみです。
ご自分の貧しさによってあなた方を豊かにしようとなされたのです。
(2コリント8・9)

 

わたしは、わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。
この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。
(1テモテ1・12)

 

神は、わたしたちがどのような苦難にある時でも慰めてくださいます。
そこで、わたしたちも、自分たちが神から慰めていただくその慰めによって、あらゆる苦難の中にある人を慰めることができるのです。
わたしたちが苦しみに遭うとするなら、それは、あなた方が慰められ救われるためですし、わたしたちが慰められるとするなら、それは、あなた方がわたしたちも受けているのと同じ苦しみを耐え忍ぶにあたって、力を発揮する慰めがあなた方に与えられるためです。
(2コリント1・4〜6)

 

あなたは、持っている確信を、自分自身のために神の前にもち続けなさい。
行おうと決心したことについて、心に疑いを持たない人は幸いです。
確信に基づいていないことはすべて、罪なのです。
(ローマ14・22〜23)

この場合の確信とは、信仰という意味です。

神様からいただいているサインを見逃さす、聞き逃さず、今という時に与えられている使命を果たすと決心しています。

聖書をこうして読み進め、自分が求めている言葉を見つけることは、膝の痛みで外出もままならない今のわたしにとって、最高の贅沢です。

 

洗礼を授ける(バプティゾー)を「漬ける」と訳した人がいます。
「聖霊によって洗礼を授ける」は「聖霊漬けにする」と言ってもよいかもしれません。
福神漬けの中に入っている野菜が、それぞれの個性を失わず、それぞれの野菜のままでありながら、すべての野菜が福神漬けになっている、というイメージを思い浮かべてはどうでしょうか。
「一人一人が聖霊の香りを放つ者になる」と言ってもよいかもしれません。
幸田和生司教「福音のヒント」より

いま、痛み止め漬けになってしまっているわたしですが、神様からのサインを模索するために聖霊漬けになって、キリストの良い香りを放つ存在になれるよう、もっと努力したいと思います!

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台風接近の中、信徒集会にご参加くださり、ありがとうございました。
決算・事業報告は、12月発行の『みこころレター13号』にも掲載いたします。

 

現代のケリュグマ

いま世界各地を襲っているのが、大規模な干ばつです。
ヨーロッパでは60%以上の地域が干ばつの危険にさらされていて、過去500年で最悪の水不足になっています。

ローマでは川底に眠っていた古代遺跡が姿を現しました。
イラク南部のメソポタミア湿地帯でも、3年にわたる干ばつと少雨で肥沃な土地が干上がり、旧約聖書のエデンの園があったとされる場所もひび割れた状態です。

パキスタンでは、6月から続くモンスーン(雨期)の洪水で国土の3分の1が水没しているといいます。
アフガニスタンでは6月の大地震に続き、現在は洪水に襲われ、甚大な被害が続いています。

16歳の姪が言っていました。
「ニュースを見るとひどいことばかりで、こんな世界に生きているのかと思うと悲しくなる。」

国内で起こる(報道される)ニュースも、世界で起こる災害も、確かにわたしたちを不安にさせます。

「世界は、もし愛がなければ、受け入れるにはあまりにも醜いものである」

という言葉を、本の中に見つけました。

どうしたらこのような世界を受け入れることができるでしょうか。
どうしたら神の存在を認めることができるでしょうか。


誰が神の計画を知り得ましょう。
誰が主のみ旨を推し量れましょう。
死すべき者の考えはおどおどし、
わたしたちの思いは確かではありません。
朽ちるべき体は魂の重荷となり、
地上の幕屋は心配事の多い精神に重くのしかかります。
(知恵9・13〜15)フランシスコ会訳

 

現代社会を生きるわたしたちは、現世での旅(人生)にのしかかる重荷と苦労に打ちひしがれる存在なのです。

決して悲観しているわけではありません。
エマオへの途上でイエス様に出会った、「憂鬱そうな」二人の弟子たちのことが思い起こされます。

暗い顔で、混乱と苦しみの中に沈んで、起きた出来事の意味を理解できないままに議論していた彼ら。

イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。
(ルカ24・15)

イエス様は、自ら近づき、救いのイニシアティブを取られます。
彼らと歩調を合わせて、一緒に歩かれるのです。

そして、ごく自然に「歩きながら、語り合っているその話は何のことですか」(16)と話しかけられました。
いきなり彼らの迷いを指摘して叱ったり、動転させるようなことはなさらず、彼らがみずからの内面にある問題をはっきりと捕らえ、それを客観視することで、うちにあるもつれを解いていくように導かれました。

さらに、モーセ五書と旧約全体にわたってご自分について書かれていることを二人に説明されますが、それでも彼らはイエス様であることに気づきません。
気づいたのは、食事の席でした。

イエスはパンを取り、賛美をささげて、それを裂いて、二人にお渡しになった。
すると二人の目が開かれ、イエスであることに気づいたが、その姿は見えなくなっていた。
二人は、「あの方が道々わたしたちに話しかけ、聖書を説き明かされたとき、わたしたちの心は内で燃えていたではないか」
(30〜32)

この二人はすぐにエルサレムに引き返して、他の弟子たちにこのことを話しますが、やはり彼らはすぐには信じません。

このエピソードは、ケリュグマの働きについてさまざまな角度から描いています。

まず彼らの目が開け、心がうちから燃え、とても自分たちの心にだけ秘めておくことができず、伝えずにはいられないメッセージを仲間に知らせに走り、仲間が集まっているのを見つけ、皆にみ言葉を伝えます。

わたしたちとしては、自分の見たことや聞いたことを、話さないわけにはいきません」(使徒4・20)
これが、ケリュグマです。

ケリュグマとは、「彼らの開眼、自分が生きている状況の中に神がみずからを示しておられ、予期していなかったような地平を私たちに開いてくださったということを認めること」だと、今読んでいる本に書いてありました。

 

 

辛い、心配な出来事が多い世界です。 
わたしは、この壮大なテーマについて答えを持っているわけではありません。

わたしたちキリスト者は、心を喜びで満たす内面の変容を生む生き方、外面にも平和に満ちた喜びが溢れる生き方、すなわち現代のケリュグマを実践するように努めなければならない、と本から学びました。

少なくともわたしは、姪の不安な気持ちを明るいものに変える存在であるように。
そして、イエス様の行いに立ち戻り、イエス様が退けられたものを退け、イエス様が大切にされたことを大切にする社会の実現に向けて歩みましょう。
(大分教区報、森山司教様のお言葉より)

 

わたしが宣言し、信じている信仰は、自己満足の平穏につながっているのか、それともわたしの中であかしの炎に火をつけているだろうか?
教会としても、こう問いかけてみましょう。
わたしたちの共同体で、祈りと慈善のわざへの情熱のうちに、また信仰の喜びのうちに、聖霊の火が燃えているだろうか?
それとも、意気消沈した顔をして、嘆きを口にし、毎日噂話をして、疲労や習慣にわたしたち自身を引きずり込んでいるだろうか?
兄弟姉妹の皆さん、これらについて、自分自身を振り返ってみましょう。
教皇フランシスコ、2022年8月14日「お告げの祈り」でのことばより

 

 

愛のきずな

教会にこんなメッセージと写真が届きました。

I wanted to share a 1944 (Showa 19) photo of my father posing in front of the church with 2 friends.

1944年に、当時の久留米教会の前で撮影された写真です。

こちらは、久留米の街中でのお写真。

お父様の大切な思い出を、久留米教会の信徒の皆さんと共有したい、と送ってくださいました。

お父様は国費留学生としてフィリピンから来日し、日本に2年(1943~1944年)滞在されていました。
そのうちの1年は、久留米高等工業学校(現在の久留米高専)で学んでいらしたそうです。

久留米で過ごした間は、久留米教会のミサに毎週通われていたそうで、1945年の空襲で聖堂が破壊されたことを残念に思っていらしたとのこと。

戦時中にお父様が日本で学び、体験されたことをまとめた本を出版されました。

 

本の表紙にも、久留米での写真を使ってくださっています。

Garyさんは作家ではありません。

「なぜこの本を書かれたのですか?」
「最初は本を書く予定はなかったのだが、父たち国費留学生(南方特別留学生)のことを調査しているアメリカの学者から連絡があり、いろいろと調べているうちに自分でもまとめてみたくなった。」

調べているうちに、多くの写真や当時使っていた万年筆(東条英機氏から贈られたもの)などの遺品がきちんと保管されているのを見て、お父様の若かりし頃に思いを馳せられたようです。

わたしたちも、自分の親の若い頃のことは知らないことばかりです。

(お父様のことをご紹介したいので、と少しインタビューさせていただき、写真とお話を掲載する許可をいただいています。)

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コロサイの人々への手紙3章14節です。

これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。
愛は、すべてを完成させるきずなです。
(新共同訳)

これらすべてのことの上に愛をまといなさい。
愛は完全さをもたらすです。

(フランシスコ会訳)

ギリシャ語原文では、“シンデスモス テス テレイオテトス”
ギリシャ語の辞書によると、シンデスモスは「二つ以上のものを一つにまとめる手段」で、紐、綱、環という意味だそうです。
シンクロナイズドスイミング、シンフォニー、の「シン」(“一緒“の意味)がこれにあたります。

愛は完成のきずな
愛は完全の帯

コロサイ1章では、キリストとわたしたちの結びつき、 教会がキリストの体であること、その完成のためにわたしたちがもっと苦労する必要があることが書かれています。

神様の愛というきずなに結ばれているわたしたち一人ひとりが、自分の行いに愛があるか、いつも意識して行動する必要があるのです。

親子のきずなも共同体のきずなも、わたしたちの行動、すべての行為が愛という帯でまとめられることによって、完成(完全な状態)に導かれます。

「先ほど話した方とのやりとりは、愛をまとっていたか。」

最近、こう意識するように心がけています。

毎日の祈りと毎週のミサで、幾つもの誓いをしているわたしたちです。
日々の言動に責任を持ち、愛をまとう生き方をしたいと、さらに誓います。

 

祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。
神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。
天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。
(マタイ23・22)

 

朝晩の澄んだ空気と空の高い雲に、秋の近づいていることを感じる頃となりました。

 

人のためになること

グローバルスタンダード(international standard)という考え方について、最近思いを巡らせています。

例えばバリアフリーのような、誰にとっても利用しやすいまちづくり、というような取り組みは、世界中どこの国でも同じように進めば大変ありがたいことです。

世界にはさまざまな国があり、それぞれの価値観のもとで生活しています。

ロシアとウクライナの争いを見ても、「ウクライナの主張がグローバルスタンダード(世界標準)であり、ロシアが全て間違っているのだ」と、本当のところは言えないところがあるのかもしれません。

 

 

キリマンジャロの標高3720メートル地点にインターネットの基地局が開設され、ネットが使えるようになったというニュースがありました。
年内には、5895メートルの頂上でも使えるようになるそうです。

世界中どこに行ってもネット環境が整っている、というスタンダード。
これは、事故などの際にどこからでも連絡ができるという面では素晴らしい進歩です。
ニュースでは、「登山者がインスタグラムやツイッターに投稿できるようになる」と言った書き方がされていました。

広義で考えると、世の中の技術の進歩、世界中の至る所でなくならない紛争、人種や宗教の価値観、どの側面から見ても、人間の生活にはグローバルスタンダードというポイントを設定するのが不可能なのかもしれない、と思います。

そして同時に、そうした概念をすべてに当てはめる必要はない、とも思うのです。

 

主は言われる。わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。
彼らは来て、わたしの栄光を見る。
(イザヤ66・18)


人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。
(ルカ13・30)

 

スタートは同じはずのキリスト教の信仰も、数えきれないほどに枝分かれし、それぞれの信者が篤い信仰のもとに生活をしています。
ともすると、カトリック信者であるわたしたちは「自分たちの信仰がスタンダードであり、他は・・・」といった感情を抱きがちではないでしょうか。

 

旧約聖書に何度も書かれている、寄留者を労わるように、というくだりがとても好きです。

寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。
あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。
(出エジプト22・20)

あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。
それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。
そうすればあなたの神、主はすべてあなたがする事において、あなたを祝福されるであろう。

(申命記24・19)

自分たちだけが特別なのではなく、人のためにと考えて行動する。
これが、必要とされる、人間生活におけるグローバルスタンダードです。 

キリスト教信者であるかどうかに関係なく、聖書に書かれている膨大な教えは、(読み間違えなければ)誰にとっても有益なものである、といつも思います。

 

先日、ベトナムの2組の結婚式が執り行われました。
友人たちが聖堂内にお花を生けてくれました。

なんて美しいのでしょう。
日本人とは明らかに違ったセンスです。

友の幸せを願う気持ち。
これも、大切なグローバルスタンダートです。

 

 

恵まれた人々

久留米教会の、わたしが1番好きな風景です。
ミサの後、あちらこちらで語り合うみなさんの様子。

コロナ前は、ミサの後にはコーヒーが振る舞われ(バザーとして)、たくさんの方々が集まって語り合っていました。
今は、こうした形ではありますが、大切な時間だと思います。

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特異な才能を持つ子どもたちの能力を伸ばすための教育の必要性が、日本でも議論され始めている、とニュースで知りました。

小学校低学年で大学レベルの教科書を理解している、とか、ある科目だけは抜きんでた理解力を持っている、など、特定分野に顕著に高い能力のある子どもを『ギフティッド』と呼ぶそうです。
そうした子どもたちのためのギフティッド教育は、生まれつき特別な才能を持つ子どもたちの能力を伸ばすための教育手法で、アメリカでは40年以上前から実践されています。

「ある教育研究所の調査によれば、小学校で学校教育についていけない『落ちこぼれ』は約15%いるといわれるが、それとほぼ同じ比率の約13%が『吹きこぼれ』、授業が簡単すぎてつまらないと感じる子どもたちが存在する」とニュースの記事に書いてありました。

 

『吹きこぼれ』という呼び方には少し抵抗を感じますが、『ギフトが与えられた子ども』giftedという表現は、心に響きます。

自分の子どもが「学校の授業がつまらない」と言ったら、「うちの子は落ちこぼれだろうか」と心配になるでしょう。
でも、「うちの子はギフティッドなのかも」と思えたら。

イエス様が好んで関わられた人々、障害のある人たちのことをイエス様は「ギフティッド」だとおっしゃいました。
ヨハネ9章の、「生まれつき目の見えない人」は「神の業がこの人に現れるためである」というように。

 

わたしが大きな病気をすることになったのは、もしかしたら生まれた時からの運命だったのかもしれない、と思っています。
そしてそこのこと自体が「ギフト」なのだ、と思ってずっと生きてきました。

わたしはお前を永遠の愛をもって愛してきた。
それ故、わたしはお前に慈しみを示し続ける。

まことに主はこう仰せになる、
見よ、わたしは彼らを北の地から連れ戻し、彼らを地の果てから集める。
彼らの中には目の見えない者、体の不自由な者、身籠った女と臨月を迎えた女もともにおり、彼らは大きな群れを成してこの地に帰る。
彼らは嘆きながら帰ってくる。
わたしは哀願する彼らを導く。
わたしは彼らを水の流れのほとり、滑らかな道を行かせる。
彼らはつまずくことはない。
(エレミヤ31・3、8〜9)

バビロン捕囚からの帰還を、大きな喜びのうちに主を讃える31章です。

神様は、社会的弱者と言われる人々をいつも心に留めてくださいます。
誰もが大切な存在であること、ギフティットであるのだということが、旧約の時代、遥か昔から言い伝えられてきているのです。

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教皇フランシスコはカナダを訪問されました。
「カトリック教会が運営していた寄宿学校で先住民の子供が虐待されていた問題をめぐり、謝罪することが目的」と報道されていました。
85歳のパパ様は、10時間のフライトを経て車いすで空港に降り立たれ、謝罪のための訪問をされたのです。

「私が話している間にも、古い記憶を呼び起こし不快になる人がいると思う。それでも、思い出さねばならない。忘却は無関心につながるからだ」と述べられ、さらなる実態調査を行う意向を示されました。

カナダでのミサでは、こうお話されました。

「わたしたちは守るべき歴史の子である。
わたしたちは孤立した存在ではない。
誰一人、世界と切り離されて生まれる人はいない。
わたしたちが生まれた時に受け取ったルーツと愛、わたしたちが育った家庭は、ただ一つしかない歴史の一部である。
それはわたしたちが受けた恵み、守るようにと召された恵みである」

カナダの先住民の子どもたちが受けた被害は、壮絶なものです。

現在でも、 白人でなければ暴行を受ける、遊園地でキャラクターに扮した大人から差別を受ける、歩いていていきなり殴られる、などといったニュースは絶えることがありません。

差別や暴力はなくならないでしょう。

宮﨑神父様がお説教で仰いました。

「自分さえ良ければ、という生き方をする者は愚か者と呼ばれる。
神の前に豊かに生きる者は、愛を実践する者だ。」

わたしたち一人ひとりが、生まれた時に神様から与えられたギフトがあるのだと自覚し、尊厳をもって生きていくことができたら。
誰もがギフティッドなのだということを理解し、互いを尊重しあって生きていくことができたら。

愛の実践、とはそういう生き方ではないでしょうか。

ギフトは必ず与えられています。 

 

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ギフティッド教育についての記事です。 

https://toyokeizai.net/articles/-/515051?utm_source=yahoo&utm_medium=http&utm_campaign=link_back&utm_content=related


https://news.yahoo.co.jp/articles/dfe53fc94f699a687dc9d25f6307483c14e9c01a

 

 

信実を祈りのうちに

今年は久留米の夏が戻ってきた!という感じがしています。
毎週土曜日には夜市が賑わっているようですし、この提灯を見ると心が踊ります。

 

教皇フランシスコは、7/10の正午の祈りで「善きサマリア人」についてのお説教をされました。

主の道に従う弟子は、その考え方や行動の仕方が次第に師のそれと似てくることに気づく。
キリストの後を歩むことで、自分も旅人となり、このサマリア人のように、見ること、憐れむことを学ぶ。
主の道に従うことで、まず、見ることを学ぶ。
現実に目を開き、自分の考えに閉じこもって目をつぶらないことを学ぶ。
一方、祭司とレビ人は、災難にあったこの人を見ても、見ぬふりをして通り過ぎてしまった。
福音は見ることを教え、先入観や教条主義を乗り越え、正しく現実を理解するように、わたしたち一人ひとりを導く。
また、イエスに従うことは、憐れみを持つこと、他者、特に苦しむ人や助けを必要とする人を受け入れることを教える。
そして、このサマリア人のように行動することを教えてくれる。

以前、神父様から教わりました。
祭司とレビ人(彼らは下級祭司であり、神殿に仕えていた)が「見ぬふり」をしたのは、当時のユダヤ教の戒律(血や死体に触れることは穢れるとされていた)によるものであり、単純に非難できるものではない、と。

祭司とレビ人のことを非難して、「こんな風であってはならない」と思うことには疑問を感じます。

旧約の時代から、サマリア人は非難され続けていました。
いつの時代も、誰かが誰かを非難し続けています。

問題点は、「見ぬふりをして通り過ぎる人であってはならない」「助けを必要とする人のために行動すること」であり、祭司とレビ人を見下すことでも、サマリア人がユダヤ人の敵であることでもありません。

「隣人を自分自身のように愛すること」

この、旧約で最も重要な教えを伝えるお話です。

 

神に従う者の行く道は平らです。
あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。
主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み、わたしたちはあなたを待ち望みます。
あなたの御名を呼び、たたえることは、わたしたちの魂の願いです。
わたしの魂は夜あなたを捜し、わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。
あなたの裁きが地に行われるとき、世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう。
(イザヤ26・7~9)

「定められた道」とは、主がご自分の民に正しい生活を送らせるように啓示された指示を意味する、とフランシスコ会訳聖書の注釈にあります。

正しい生活、を現代のわたしたちに置き換えて考えてみるとどうでしょうか。
「神に従う者」は、フランシスコ会訳では「正しい者」となっています。

正しさの定義は、現代社会では多岐に渡り、自分の正しさを振りかざすことは他者を非難することにつながる恐れがあります。
わたしが自分の1番の問題点だと思っていることです。
ついつい、自分の尺度で人を判断してしまいます。

正しい者の正しい生活とは、神に従うこと。
自分の判断で人を裁くことは、最も不毛な行為だとわかっているのに、、、、。

①「わたしの魂は、夜、あなたを慕い求め、わたしの中の霊はあなたを慕います。」(フランシスコ会訳)

美しい表現だと思いませんか?
毎晩、この聖句を祈りの中に取り入れようと思います。


そのとき、イエスは言われた。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。

休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
(マタイ11・28~30)

重荷とは、単に貧困や病気を指していただけではなく、当時の人々が律法に縛られていたこと、ローマ帝国の圧政の意味も含んでいます。

そして、イエス様がご自分を「柔和で謙遜な者」とおっしゃった真意は、大きな力で権力者から押さえつけられている気持ちが分かる、ということです。

どのように辛い状況にあっても、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」という気持ちを忘れてはならない、そうおっしゃっているのです。

 

妹家族が滞在している間、遊んでばかりいて、世の中にあまり目を向けていなかった間にも、世界や身近なところでいろいろな大変なことが起きていました。

コロナウィルス感染の波が、再び世界を覆っています。
サル痘というウィルスが、ヨーロッパを中心に広がり始めているようです。

スリランカは国家として「破産」しました。
食料や衣料品、燃料といった生活に欠かせないものが手に入らず、警備にあたる軍や警察と一般の人々による衝突が絶えず起きているようです。
紅茶が手に入りにくくなるかも!?というニュースもありました。

世界の至るところで、心を騒がせるような、不安な出来事が起こり続けています。
このような時だからこそ、わたしが大切にしたい信実を、落ち着いて祈ることのうちに見出したいと思います。

 

主日のミサで、ハッとさせられた答唱詩編の一節。

②ことばで人を傷つけず
悪を行わず、隣人をはずかしめない。
神を捨てた者を戒め、神をおそれる者をとうとぶ。
このようにふるまう人は、とこしえにゆらぐことがない。

人を傷つけず
はずかしめず
ゆらがないこと。

宮﨑神父様のお説教で、ハッとさせられたこと。

③「イエス様のみことばにしっかりと根付いた行動、日常を心がけること。」

今週の祈りの際の格言が3つできました。

 

遣わされたもの

私事ですが、今、3年ぶりに妹と姪がNYから帰省しています。

コロナで分断された世界中の家族が、こうして久しぶりの再会と団欒を楽しんでいるのでしょうか。

わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
(イザヤ6・8)

いつも考えています。
わたしは何のために今、この場に遣わされているのか、と。

こうして家族と過ごしていて、確信するのです。

家族の平安と愛、彼女たちの幸せのために。

そして、自らが幸せであることで、周囲に平安をもたらす存在となれるように、と。

 

そのとき、イエスは使徒たちに言われた。
「わたしはあなたがたを遣わす。
それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。

だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい
(マタイ10・16〜) 

 

わたしたちは、キリスト者として存在している意味を、常に自問する必要があります。

政治信条に関わらず、殺された元首相のために祈りを捧げることは、決して間違ったことではありません。

わたしたちが遣わされている意義を、今、このような時に素直に周囲に示すことができるのではないでしょうか。

平時には一見敵対しているかに思える諸外国も、今はわたしたちに寄り添って、弔意を示してくださっています。

そうしたニュースを見聞きすると、感謝と感動で涙が溢れます。

 

弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。
(イザヤ35・3)

今、わたしたちは 自らに自信を持ち、遣わされたものとしての役割をどのように果たすかについて思いを巡らせる機会でもあるのではないか、とこの数日考えています。


傷ついたものを介抱し、弱いものを力づける。
(エゼキエル34・16)

この聖句は、森山司教様が選ばれたものだと先週ご紹介しました。

自分の存在と言動が、周囲の力となれるとしたらどうでしょうか。

もしも、わたしが誰かを励ますことができ、悲しんでいる人を慰めて力づけることができるとしたら。

何のために洗礼を授かっているのか。
誰かのためなのか。
自分自身だけのためなのか。
もしくは、その意味を見出すように仕向けられているのではないか。

こうした思いを巡らせることは、いつもわたしたち自身のためになるはずだと思いませんか?

 

わたしはこの一週間を、安倍元総理の安息のために捧げたいと思います。

 

 

 

忘れないこと

「顔のないヒトラーたち」という映画を観ました。

1958年のフランクフルト。
市民の間では戦争の記憶が薄れ、若い世代はアウシュビッツのことを聞かれても「知らない」と言います。
元ナチスだったことを隠して普通に市民生活を送っている元親衛隊員たちを探し出し、裁判にかけ罪を償わせるために実際に行われたアウシュビッツ裁判のお話です。
ドイツ人がドイツを裁き、ドイツの歴史認識を変えたと言われる裁判までの苦悩が描かれています。

 

 

教皇フランシスコは、6/12の正午の祈りでウクライナの平和について改めて呼びかけられました。

「月日と共に、深く傷つけられたこれらの人々へのわたしたちの悲しみと心配が冷めることがないように。
この悲劇的な現実に慣れてしまうことなく、それをいつも心に留めよう。
平和のために祈り、努力しよう。」

わたしたちは、どんなに悲惨な現実が起こったとしても、自分が関わっていない・直接被害を受けていないことは忘れてしまうことも多いのです。

 

戦争で疲弊したウクライナ の人々のことを忘れないでいましょう。
戦争がどこか遠くの出来事であるかのような生活に慣れてしまわないようにしましょう。
とても苦しんでいる人、真の苦難を生きる人たちのためにともに祈りましょう 。
(教皇フランシスコTwitter)

忘れないこと。

 

『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
それはみな、異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
(マタイ6・30~34)

Do not worry about tomorrow; tomorrow will take care of itself.
Sufficient‎ for a day is its own evil.

有名な箇所ですが、わたしは最後の一文が特に好きです。

『今日の苦労』

日々の些細な事に気をもみ、仕事、家庭の問題に頭と心を痛める。
そうしたことは、大なり小なり誰もに降りかかる難です。
明日のことまで思い悩むな、というよりも、

☆今日を精一杯苦労して生きること。
☆今日の問題を明日に持ち越さないこと。


それが大事なのだよ、という教えだとわたしは理解しています。

時には、今日起きた嫌なことを忘れることも大事だと思っています。

苦しい思いをしている人のことを忘れないこと。
日々の苦労は寝る前にリセットして忘れること。

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宮﨑神父様がお説教で、「お手紙をいただきました」というお話をされたので、思い出したことがあります。

お説教の内容は、初聖体を受けるお子さんのことを嬉しく報告されたという信者さんのお話でした。
先日、いろいろなものを整理していた時に、わたしが信仰を得た20歳のとき、病院から母に宛てて出した手紙を見つけたのです。
そこには、こう書いていました。

「今、よかったと思っていることがあるの。
それは、誰が見てもすごいオペをしたわたしが、以前と少しも変わらず明るく、病院のみんなと仲良く過ごせているってこと。
気分的にも全然滅入ってないし、いろんな先生や看護婦さんとすごく仲良くしてて、病室のみんなともワイワイ明るくしてるよ。
歩けるようになる希望で、胸も頭もいっぱいで、こういう性格で本当に救われたよ。
これは、お恵みだよ。」

あの時の、確かに神様がわたしと家族に大きなお恵みを下さった信仰の始まりの時期のことは、絶対に忘れません。

 

教皇フランシスコが車いすに乗る姿を見ると、とても心配で悲しくなります。
膝の調子が悪く、治療中だとのことです。
わたしもあの時は、車椅子でした。

パパ様のためにも、忘れずにお祈りしています。

  

聖霊の助け

読売新聞5/29朝刊に、若松英輔さんの寄稿文が掲載されていました。
1ページ全面の文章で、とても読み応えのある、「利他の精神」についての深いお話でした。

「利他は、他者のために行動するということだけでなく、自分も他の人がいなければ存在し得ないという現実を、深く自覚するところに原点がある」

「日本では自らを無宗教者と考える人が少なくない。
それでも、誰かのために『思わず祈った』ことがない人は、かえって少ないのではないか。」

コロナ禍以降、この「利他の精神」が再度見直されたように思います。

わたし自身は、他者とのつながりを強く意識するようになりましたし、無暗に不安を煽るような報道が多くなったことで、一人でいることの弱さを思い知らされた日々を経験しました。

 

アポロがコリントにいたときのことである。
パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。
パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。
そこで、パウロは言った。
「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」
人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。
パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。
この人たちは、皆で十二人ほどであった。

パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。
(使徒言行録19・1~8)

 

うまく書き表せないのですが、「神様に祈った結果、聖霊が助けてくれた」と感じた経験が何度もあります。

「神様お願いします」と祈り続け、聖霊がとりなしてくれたのを実感して「ありがとう!!」と心の中で叫ぶのです。

『時として聖霊は、目に見えるかたちをとって、使徒的活動に先立ち、また種々の方法によってその活動に絶えず伴い、それを導く』
(宣教教令より)

若松さんのツイッターにあった言葉が、まさにこれ。

「人の一生は、自分の力で生きるというよりも何かのちからによって生かされている。」

神様に支えられて、聖霊の助けによって生かされている、そういつも感じています。

聖霊、ギリシャ語でpneuma(プネウマ)のギリシャ哲学における意味は、『人間の生命の原理・一切の存在の原理』というものだそうです。

プネウマがあるから生きていける、プネウマがなければわたしたちは存在し得ない、といったところでしょうか。

 

「平和とは聖霊の息吹きが心の奥底に染み渡る状態のこと」、と教皇フランシスコはおっしゃっています。

「自力で平和をつくり出そうとして焦るのではなく、むしろイエスの支えと聖霊の息吹きによって自分の心を根本的に新しくしていただくことが、人間にはぜひとも必要なのです。」

「わたしたちの旅の日々は、神が一緒にいてくださること(臨在)によって支えられており、聖霊がわたしたちの心に吹き込む恵みの強さによってわたしたちの歩みは導かれ、一人ひとりの心が形づくられ、愛することができるように、神からはからっていただけるのです。」
(教皇フランシスコとマルコ・ポッツァ師との対話「CREDO」より) 

 

若松さんのお話でとても印象深いのは、次のような内容の下りでした。

「日頃意識していなかった他者とつながりのなかに自己を見つめなおしつつ、一日のある瞬間など、どんなに短い間でも利他的になれればいい

利他的な人生を目指すのは難しいけれど、日常的に「一日のある瞬間」そう意識して生きていければ、自分にとっても他者にとっても大きな救いになるのだ、とおっしゃっています。

 

昨夜読んだ箇所に、教皇フランシスコがこうおっしゃっていました。

世間的に見れば弱く無防備で、家族と遠く離れて独りで寂しく暮らしているように、自ら勘違いしている人たちが、実は必要なときに支えてくれる兄弟姉妹の存在をすでに得ているような。
それが「いつくしみのひととき」です。
誰かによって支えていただけるほどに自分の存在に価値があることを実感するような「いつくしみのひととき」が、神によるはからいです。
(「CREDO」より)

利他の精神とは、まさに聖霊の働きによる「いつくしみのひととき」のことだと思います。
その意味を深く感じ、心がほぐれたような読書の夜でした。

 

今年も、森山司教様お手植えの白い紫陽花が美しい季節です。

 

1人の教えと多くの努力

北京オリンピック。
高梨沙羅さんと羽生結弦くんの、本番、4年に一度の大舞台で努力の成果を存分に発揮できなかった時の悔しさ、絶望感などを想像するだけで、胸が苦しくなります。

ついこの前まで、何種類の4回転を飛べるか、を期待されていたのに、4回転半、5回転と、人間の欲は止まることを知りません。
平野歩夢さんが決めた、彼にしかできない大技も「人類史上初の試みを成功させました!」とアナウンサーが絶叫していましたね。
もっと遠くへ、もっと早くと次から次へと期待するわたしたちの欲と、高みを目指して努力する選手たちの努力には、終わりはないのかもしれません。

4年に一度のチャンス、と簡単にわたしたちは口にしますが、平野選手は「前回大会で銀メダルを獲得した後のこの4年間は苦しかった」と言っていました。

彼らにとっての4年とは、どのような時間なのか、簡単に想像できるものではありません。

 

 

わたしたちは、イエスキリストという、一人の人がその言動で示した教えを信じています。

わたしたちにとって、信じるべきはたったひとりの人間です。

そして、わたしたちが信じている教えは、彼がひとりで思いついたこと、自分だけで作り上げたものではなかったはずだということも忘れてはならないでしょう。

イエス様は、敬虔なユダヤ教徒のヨセフ様とマリア様に育てられました。
30歳で公生活を始められるまで、当然、ユダヤ教の教えに従って生活されていたはずです。

 

ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたのち、直ちにイエス様に試練が与えられます。

天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」。
霊はただちにイエスを 荒れ野に追いやった。
イエスは四十日の間そこに留まり、サタンによって試みられ、野獣とともにおられたが、み使いたちがイエスに仕えていた。
(マルコ1・11〜13)

出エジプト記のモーセたちの旅を思い起こします。
彼らは近道を通らず、紅海に沿った荒野の道を通るように神に導かれました。

主は彼らの前を行き、彼らが昼も夜も進むことができるよう、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた。
昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。
(出エジプト13・21〜22)

 

イスラエルの民は神から選ばれ約束の地を目指したものの、四十年、荒れ野をさまよったのです。
イエス様の四十日に及ぶ断食と「試みる者」=悪魔(マタイ)による誘惑のストーリーが重なって見えます。

直接的にはこの2つの箇所には関連性はないのかもしれませんが、どちらも、常に神が片時も離れずに寄り沿い、導かれていたということに心が揺さぶられます。

聖書全体を通して語られる、常に神がわたしたちと共にいてくださるという教えは、こうして旧約の流れを汲んだものなのだということを感じさせてくれます。

同じように、エレミヤたちが繰り返し「主に立ち返れ」と回心を促していた旧約時代の教えを、イエス様は新しい言葉で「悔い改めなさい」と人々に問いかけられたのではないかと、以前書きました。

 

イエス様の公生活は1年半であった、とも3年近くであった、とも解釈されますが、いずれにせよほんの短期間です。

4年に一度のチャンスで成果を出すために、試練と向き合い続けているオリンピアンよりも短いのです。

イエス様は30数年の人生、というより、最後の数年で何かを成し遂げられたわけではない、というのが本当のところでしょう。

イエス様の時代に生きて直接その話を聞いたわけではないわたしたちが、今こうして信じているものはなんなのか。

ユダヤ教徒としてのご両親との慎ましい生活で育まれたイエス様の価値観をベースに、イエス様独特の言葉で語られた神への信頼、
死後の使徒たちによる命懸けの宣教、
後世の人のために文字として残され受け継がれてきた聖書という書物、
2000年以上続く後継者たちのたゆまない努力、
それらすべてがあって、わたしたちが今信じているキリスト教、イエス様の教えがあるのです。

この教えを、これからの世にも繋げていくことは、わたしたちキリスト者一人ひとりに課せられた使命でもあります。

 

 

 

 

 

 

幸福の目的

小雪が舞い、空気が澄み渡り、美しい青空を背景にしたお御堂が美しい日曜日でした。

美味しいものを食べた時、素敵なお店を見つけた時、素晴らしい映画に感動した時、わたしはいつも、誰かと分かち合いたくなります。

わたしの友人が務めている出版社の月刊誌『致知』に、古巣馨神父様の記事が掲載されました。

.

彼女は、こうしたキリスト教関係の記事やわたしが好みそうな本、お菓子、文房具など、「好きそうだから」「美味しかったから」としょっちゅう送ってきてくれます。

わたしも、お礼のプレゼントを考えて送るのが楽しみです。

『美味しいものも楽しいことも、幸せは分かち合うほうがいい。』

これはわたしのモットーになっています。

 

「何をしているのか」と聞かれた3人の石工、というお話です。
一人は「これで食べている」と答え、一人は「国で一番の仕事をしている」と答え、一人は「教会を建てている」と答えました。
誰があるべき姿だと思いますか?
誰が一番幸福だと思いますか?
2番目の石工は、自分の仕事の目的を見失っています。
3番目の石工は、していることの目的、目標、使命を示したのです。


幸福になれるかどうか、それは心のレベルで決まる。
私たちがどれだけ利己的な欲望を抑え、他の人に善かれかしと願う「利他」の心を持てるかどうか、このことが幸福の鍵となる。

こう言ったのは稲盛和夫さんです。
稲盛さんは臨済宗・在家得度をされている熱心な仏教徒です。

ある友人に、「あなたが人のことを思ってあげられるのは、あなた自身に心のゆとりがあるからよ。」と言われたことがあります。

心の中のゆとりを持つだけではなく、福音を多くの人に身をもって広めたいと願うキリスト者として生きるわたしたちは、いつも幸福の目的を他者に向けるべきだと思います。

今週の朗読では、レギオンを宿していた人(悪霊に取り憑かれていた人)への奇跡物語が読まれました。
(マルコ5・1〜20)
レギオンはローマの軍隊のことですが、この場合は多数の悪霊の群団の比喩として表現され、ユダヤ人が穢れていると考えている豚の群れにに移って 溺れ死ぬ、というお話です。

奇跡物語では、いわゆる「沈黙命令」と言って、イエス様は「このことを誰にも知らせないように」とおっしゃいます。
ですがこのレギオンの場面では、「主があなたを憐れみ、あなたにどれほど大きなことを行なわれたかを、ことごとく告げなさい」と言われています。

その人は立ち去り、イエスがどれほど大きなことを自分に行ってくださったかを、デカポリス地方で宣べ伝え始めた。人々はみな驚嘆した。
(マルコ5・20)フランシスコ会訳

なぜでしょうか。

当時のユダヤ人たちを苦しめていたローマによる圧政、そのことへの勝利を意味するこのストーリーは、他者と分かち合うこと、広く知らせることに意義があったのではないでしょうか。
「あの噂のイエスに自分の中の悪霊を追い出しもてらった!すごいやろ!」と自慢して言いふらしたのではないのです。
イエス様が奇跡を行なわれた、ということ自体が強調されるのではなく、この人は「宣べ伝え始めた」のです。
福音を多くの人に知らせた、分かち合ったのではないか、そうわたしは理解しています。

 

聖書に、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」という一説があります。
神の思いを生きる人とは、「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」という教えをただ説いている人ではなく、それを生きる人のことを言います。

古巣神父様の記事に、そう書いてありました。

この記事はぜひ多くの方に読んでほしいと思い、コピーして何人かの方にお渡ししました。
(この月刊誌は書店にはなく、定期購読しなければ手に入らないのです。)

フランシスコ教皇さまは、「無関心のウィルスというもう一つのパンデミック」というたとえを度々されています。
いま、他者とのつながり、自己自身との真のつながりを回復するための格好の機会である、ともおっしゃっています。

自分が幸福であるかどうかは、他者とのつながりの中に見出すことができるものです。

自分が幸福であるかどうかは、「自分の幸福の目的は、他者の幸せを願いながら生きることだ」と実感できた時にわかります。

感動したこと、神父様方から教わったこと、学んだことをひとりでも多くの方と分かち合いたい、と思ってこうして書かせていただいていること。

これはわたしの幸せです。 

 

 

心のシャローム

「WeThe15」(ウィーザフィフティーン)

東京パラリンピックに合わせて始まったこのムーブメント、ご存じでしょうか。

地球上の人口の15%、つまり12億人もの障がいを抱える人々の生活をより良くしていくことを目標として人権運動を展開し、障がい者に対する差別をなくすことを目的としている世界的な運動です。 

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15%の人が心身のどこかに障害を持っている、という現実は、驚きと同時にその割合で自分の周囲にも、という気づきを与えたかと思います。

イエス様の時代にも、栄養や生活環境が原因で不治の病となっていた人や、精神的・身体的な問題を抱えていた人が多くいたことが福音書を読むと分かります。

当時の人々は、シャロームは主が与えてくれる救いや平安という祝福であり、それが与えられていない人々は罪を犯したから、と考えていました。

マルコ2・1~12の中風の人を癒すエピソードでは、「子よ、あなたの罪は癒される」とイエス様がおっしゃいます。
「このことから、病は罪の結果であり、癒されることで罪も赦されるのだとイエス様も考えていた、と考えることができるけれど、聖書学の分析によるとそうではない」と聖書学者の本多峰子さんが書かれています。

ヨハネ9・1~4では、
弟子たちが「誰が罪を犯したからこの人が目が見えなく生まれてきたのか」と問います。
イエス様ははっきりとこう言います。
「彼が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない。」

 

 

バチカンの一般謁見の際、教皇フランシスコが講和しているときに、トコトコと壇上に上がってきた少年。
これが普通の大人であったら、おそらく護衛が止めたでしょう。
でもこの少年(障害がある子でした)は、話している途中の教皇に近づいて話しかけ、隣にチョコンと座り、最終的には「その帽子が欲しい」とおねだりまでして帽子をゲットしました。

 

シャローム(主の平和)
イスラエルに行ったときは、「こんにちは!」という感じでホテルのスタッフやお店の人に言えました。

シャローム(主の平和)
左右前後の方々、周囲の皆さんに笑顔でご挨拶するとき、儀式のようになってしまい、わたしは心から言えていない気がしています。
ニューヨークでいつも行く教会では、届く範囲の方々はハグをして挨拶しあっていました。(コロナ前)
前任の神父様は、「周囲の方と握手をしてください!」と前置きされていました。

シャロームとは、心身ともに満たされた平和な状態を意味していることばです。

現代の複雑な人間関係社会においては、心の平安を保つのが難しい人、孤独のうちにいる人も多いでしょう。
自分の心に平和がなければ、「互いに平和の挨拶を交わしましょう」と促されても、素直に、本当に心からそうすることは出来ないのかもしれません。

ですが、身体や心に問題を抱えていたとしても、それは満たされていないということではありません。
ニュースの少年は、明らかに心が満たされた平和な存在でした。

シャローム「主の平和」と口にするときは、気持ちを楽にして自然体で。

態度で表さなければ、周囲には伝わらないでしょう。
来週こそは、、、やってみます!

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教皇フランシスコは10月7日、ローマ市内コロッセオで行われた諸宗教指導者らとの平和祈願集会に出席されました。
エキュメニカル総主教、アルメニア使徒教会の総主教、イスラム教、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教などの諸宗教の指導者、そして、ドイツのメルケル首相をはじめとする政治家たちが参加したこの集会で、こうお話されました。

「古代、コロッセオでは人や動物が闘わされ、そこでは多くのいのちが失われたが、今日でも暴力や戦争、兄弟殺しを、わたしたちは遠くから眺め、自分たちはその苦しみとは無関係であるかのように思い込んでいる。
人々の生活、子どもたちのいのちがもてあそばれている状況に無関心でいることが決してあってはならない。

他者の苦しみを見世物にはするが、同情することはない今日の社会において、わたしたちが同じ人間であることを認め、共感し、憐れむ心を育てることが大切。

平和は取り付けるべき合意や、単なる言葉ではなく、「心の態度」である。

WeThe15

基本にして最高の祈り

毎週、ごミサの後の大掃除をする様子が好きです。

ようやく秋が訪れたので、落ち葉もキレイに集め、気持ちもスッキリです。

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タイトルのとおり、基本であり、同時にこれを超えるものはないという祈りが「主の祈り」です。

毎日唱えているためか、暗記しているためか、頭に染み込んでいるせいか、その意味を考えることなく機械的に口ずさんでしまっていることがあります。

結論を先に書くと、この祈りは「わたしの願い」を伝えるためのものではなく、「わたしたちがどう生きるか・何をするか」の決意を表すものです。

わたしは、昔の文語体の方がしっくりとくるため、日常的には昔の言葉で祈っています。

天にまします われらの父よ
み名の尊まれんことを
み国の来らんことを
み旨の天に行わるるごとく 地にも行われんことを
われらの日用の糧を 今日われらに与えたまえ
われらが人に赦すごとく われらの罪を赦したまえ
われらをこころみにひきたまわざれ
われらを悪より救い給え

 

福音書では、マタイとルカに書かれています。

普段わたしたちが唱えている祈りはマタイによる7つの祈願です。(マタイ6・9~13)
それに対し、ルカの祈りは5つです。(11・2~4)

天におられる わたしたちの父よ
(あなたの)み名が崇められますように
(あなたの)み国が来ますように
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください
わたしたちの罪を赦してください わたしたちも自分に負い目のある人を 皆赦しますから
わたしたちを誘惑に遭わせないでください

前半は、み名が崇められ、み国が来ますよう願っているのではなく、「わたしたちがそうなるように参画します」という決意を神様に誓っています。

後半は、「わたしたち=世界中で祈っているどこかのわたしたち」のことを心に想いながら祈るものです。

糧とは、パン、水、医薬品、住まい、仕事といった、人間が生きていくために必要なもののことです。
イエス様がこの祈りを弟子たちに教えた時、今日食べるものがない、極度の貧困や孤独の中にある人々のことを思われていたのです。

フランシスコ教皇は、講和の中でこうおっしゃっています。

キリスト者の祈りは対話です。
イエスは「あなた」と最初に口にする祈りを教えてくださいました。
わたしの名、わたしの国、わたしの心が、ではありません。わたし、ではありません。
それから次に「わたしたち」へと移ります。
キリスト者の祈りでは、自分のために食べ物を願う人はいません。
神との対話には、個人主義の入る余地がないのです。
まるで世界で自分だけが苦しんでいるかのような、自分の悩みの誇示はそこにはありません。
わたしたち、兄弟姉妹としての共同体の祈りではなくして、神にささげられる祈りはありません。
「わたしたち」という祈りは、自分一人の平穏にはならずに、兄弟姉妹に対して責任を感じるように促しているからです。

 

罪・負い目(正確には借金のこと)を赦し、悪の誘惑に惑わされないように、とは次のようなことではないでしょうか。

「神は人に作用する火なのです。」というアンゲラ・メルケルさんのことばを以前紹介しました。
フランシスコ教皇の次のことばも、同じような意味に捉えられます。

「『月の神秘』、つまり、自分自身は発する光をもたずに太陽の光を反射する、月のようなものということです。
わたしたちも自分自身に光はもっていません。
わたしたちの光は、神の恵みを、神の光を反射する光です。
月の神秘とは次のようなものです。
わたしたちが愛を行うのは、ほかでもなく愛されたからです。
ゆるすのは、ゆるされたからです。」
 

ある神父様はこうおっしゃいました。

「主の祈りを、単に自分の内面的、霊的な、宗教上の祈りにしてはなりません。
自分が関わっている人、世の中、世界の出来事、苦しんでいる人々のことを心に想いながら祈るのです。」

そう教わってから、主の祈りを口にする時の気持ちが大きく変化しました。

今までは、やはり機械的に、自分のために祈っていたのだということに気付かされました。

皆様はどうですか?
主の祈りの意味を、噛みしめながら唱えていらっしゃるでしょうか。

 

 

信仰を持つこと

世界には素晴らしいリーダーがたくさんいらっしゃいますが、今日書いてみたいのは、ドイツのアンゲラ・メルケル首相についてです。

ドイツでは26日に総選挙が行われ、その結果の如何に関わらず、数年前に自ら決断されていた通りにメルケル首相は退任されます。

2015〜2016年にかけてシリア難民を100万人以上受け入れた際には、世界がその決断を称賛しました。
拒むこともできたのに、弱者に共感して国境を開き社会を巻き込んでいく姿に、当時彼女には「ドイツの母」と称されるほどの賛辞が贈られました。

ですが、予期しない展開が待っていました。
難民が次々と事件やテロを起こすのです。
社会は一気に不安に陥ります。

そして選挙で負け、2018年には党首を退任し次の選挙後には政界を引退する、と表明していました。

 

 

今回の退任にあたり、以前読んだ彼女の本を改めて読み返してみました。

旧東ドイツ出身で、父親は牧師であるメルケル氏は、とても熱心なプロテスタント信者として知られます。
実際、先ほど書いた難民受け入れの政策は彼女の信仰的確信の現われだと言われていました。

この本によると、首相としてのメルケル氏はキリスト教の信仰についてあまり公に強く語ることは控えていたようです。

ですが、本の中の様々な場での彼女のスピーチなどからも、読めばすぐにわかるほどの篤い信仰の持ち主であることは間違いありません。

「信仰と、希望と、愛。
これらが、かなり多くのものごとにおいて、わたしを導いていると思います。

ですがわたし自身は信仰に関していつもはっきりと確信があるわけではなく、ときには疑いも抱きます。」
と述べています。

 

一国のリーダーが迫られるほどの決断の場はないとはいえ、わたしたちにもこちらかあちら、どうするかの判断を迫られる場面はあります。
そのとき、そこに信仰による影響があるでしょうか。

あるときのスピーチで、メルケル氏はこう言っています。

「あらゆる問題、毎日絶望してもおかしくないような問題にもかかわらず、キリスト教信仰はわたしたちに、明るく生きる能力も与えてくれるはずです。
自己満足に浸るべきではありませんが、わたしたちにはたくさんのことが動かせるのだ、と言ってもいいでしょう。
25年前の東ドイツでのデモを思い出すならば、教会で行われたこと、祈りやろうそく、変化を呼び起こした平和的な手段を思い出すならば、わたしたちドイツ人は、ものごとを好転させる力についてたくさんのことを語れるでしょう。
わたしたちは、キリスト者としてもそのことを発言していくべきなのです。」

また、あるときにはこう話しています。

「神は人に作用する火なのです。
この作用する火を、わたしたちも自らの内に持っているべきだと思います。

キリスト教信仰は、わたしたちにとって善き力です。
作用する火であり、わたしたちはその火を使って、すでに成し遂げたことを喜びと共に眺めることができますし、その火のもとにいれば大きな問題の前でも目を閉じる必要がなく、その火を通して、これから来る人々のために努力を続ける力を得るのです。」

たしかに、わたしが前向きで明るくいられるのは、信仰によるものだと気づかされます。

神様がわたしのうちに灯してくださった火が、小さく揺らめいているのを感じることがあります。

そして、信仰を持っている友人と話すと、心地よい優しさと良い影響を感じます。

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「信仰を持つこと、それ自体がお恵みである」といつも思っています。

信仰は、希望していることを保証し、見えないものを確信させるものです。
(フランシスコ会訳)
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
(新共同訳)
(ヘブライ11・1)

信仰を持っている人でも、この世での望みは同じではないでしょう。
少なくともキリスト者としては、大きな視野で望みを持っていたいものです。

信仰を持っている人とは、
望んでいること(希望=いつも神様がともにいてくださること)を持っていて、
目に見えない事実(愛=どんなときも神様がともにいてくださること)を信じている人のことだと思うのです。

 

さぁ、ようやく。
今週末は秋晴れの日曜日の朝、教会でミサに与れることでしょう!

故郷を逃れる人々

1980年代の内戦状態のエチオピアから、モサド(イスラエルのユダヤ諜報機関)のエージェントたちが1万人近いユダヤ人難民をイスラエルに避難させたという実話をもとにした映画を観ました。
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船で紅海を渡って逃がす「モーセ作戦」と、飛行機(先月のアフガニスタンからの脱出の映像のように)での「ヨシュア作戦」が実際に行われたのだそうです。

映画の中で、スーダンの難民キャンプに偽装難民として連れてこられたうちのひとりが、エージェントに文句を言います。

「わたしの父は、ここに来る途中で死んだ。夫とは途中ではぐれてしまった。子どもは病気だ。ここでは食事もまともに食べられない。
約束の地イスラエルに連れていくと言われて信じたのに。」

どこかで聞いたようなお話ですね。

モーセを信じ、それなりに安定していたエジプトでの暮らしを自ら捨て、主が約束された「乳と蜜の流れる」豊かな地を目指して40年もの間、旅をしました。
(途中、「エジプトの暮らしの方が良かった」「食べるものもない」「肉が食べたい」とか文句を言いながら。)

彼ら、古代のユダヤの人々もある意味では難民と言えるかもしれません。

しかし、現代の難民と言われる人々には選択の余地のない、切迫した状況下を逃れるしかなかった人が多いのです。
古代のユダヤ人のように安住の地を求めて自らの意思で国を出る、という状況とは違います。

オリンピックの期間中に亡命を申請してポーランドに受け入れられたベラルーシの選手がいましたが、彼女のようにすぐに他国に受け入れられる幸運な人は稀なのではないかと思います。

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聖書では、イスラエル人はかつては自分たちもエジプトで寄留者であったことを忘れずに、神が困窮者や貧しい者たちを保護するよう心を配っていることから、通りすがりの異邦人をも同胞のように大切にしていました。
神の前では誰もが寄留者であり、借地人にすぎない(レビ25・23)、との考えがあったのです。
新約の時代になると、信仰者はこの世には永遠の住まいをもたない(2コリント5・1~2)、地上では寄留者・巡礼者であり、天の国に入るまでは信仰者は旅人の生活を送るのだ(1ペトロ2・11)という教えに昇華していきます。
(聖書思想辞典より考察) 

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現在、日本の人口の半数を超える8,240万人が難民となり故郷を離れざるを得ない状況にあると言われています。
ですが、難民となった人の正確な人数は把握できない場合も多いと思われます。

2020年末時点で最も多い難民の出身国はシリアで、アフガニスタンやイラクといった紛争地域を抱える中東の人が全体の半数以上を占めているそうです。

政治的な迫害などが原因の政治難民
経済的貧困から外国へ逃避する難民は経済難民
自然災害、飢餓、伝染病などの災害難民
宗教的追放や域内外の紛争から逃れた難民

先週閉幕したオリンピック・パラリンピックでは、前回大会に続いて2回目となる難民選手団が結成されていたことも話題になりました。
今回参加した6名の選手とその家族は、紛争・圧政、国内の混乱から逃れて難民となった人々でした。


「世界難民移住移動者の日」は、日本では9月第4日曜日に定められています。
「各小教区とカトリック施設が、国籍を超えた神の国を求めて、真の信仰共同体を築き、全世界の人々と『共に生きる』決意を新たにする日」として設立されました。

教皇フランシスコが選ばれた今年の9月26日のテーマは、
「ひたすら『わたしたち』でありますように」

遠い見知らぬ国の人々のこと、ではなく、この問題について知ること、そして自分の問題として捉えて考えてみる機会になれば、と思います。

 

日本カトリック難民移住移動者委員会
https://www.jcarm.com/

第107回 世界難民移住移動者の日(2021年度) 委員会メッセージ
https://www.cbcj.catholic.jp/2021/08/10/22983/

 

 

それぞれの持つ個性

パラリンピックが行われています。

わたしは、これまでの人生で「こうすればよかった」と思わないように努めて生きてきましたが、唯一思うこと。

「パラリンピックを目指して何かスポーツを極めればよかった!」

これだけは後悔しています。

わたしの個性で一番自慢できる点は、障害があることです。

これは、障害を持つすべての方を代弁しているわけではありません。
わたし個人の思いです。

わたしのことをご存知の方には、おそらくこう思ってくださっている方がいらっしゃるでしょう。
「体が不自由だとは思えない、バイタリティのある人」だと。
わたしにとって、片足が義足であるということはわたしの「強み」なのです。

 

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イエス様の時代、精神的に障害がある人には悪霊がついていて、身体的に障害がある人は前世や本人が犯した罪による穢れ、罰だと考えられていました。

旧約の時代には、サムエル記下5章にあるエピソード(「ダビデの命を憎むという足の悪い者、目の見えない者を討て。」という記述とそのことにまつわるエブス人との争い)があり、このことから、目や足の不自由な人は神殿に入ってはならないとされたのです。

レビ記では、イスラエルの人々は神によって聖別された民であるからこそ、神の掟に服従して聖なる者であり続けなければならない、と主が語っています。
(19章、22章)

それでも、他宗教に染まり偶像崇拝に走る民と、それを罰する(病気、障害、滅び)神という構図が聖書に書かれています。

同時に、申命記の十分の一税やレビ記の落穂に関する下りのように、社会的弱者を虐げてはならないということも書かれています。

3年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちで、相続地の割りあてがないレビ人や、あなたの町に住む他国の者や、孤児や、やもめが来て食べ、満ち足りるようにしなさい。
(申命記14・28~29)

穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ブドウも摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。
これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。
(レビ記19・9~10)

 

障害のある人は罪人であると考えられ、忌み嫌われていました。
触れたらその人まで穢れる、と思われていたため、人里離れたところに固まって暮らしていた人々もいたように聖書には書かれています。

ですが、イエス様はそうした人々を始め、娼婦、寡婦、といった社会的弱者を最優先にされます。

『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか?
本人ですか。それとも両親ですか』。
イエスはお答えになった。
『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである』」
(ヨハネ9・2~3)

ローマの人々への手紙3章で、結論とも言えることをパウロが書いています。

☆障害のあるなしにかかわらず全ての人は罪人であること
 (ユダヤ人もギリシャ人もみな罪のもとにある 3・9)
☆イエス様の贖いの業を通して神の救いを得ることが出来る
 (3・22〜24)

 

障害があることはわたしの強みであり個性だ、と、わたしは思っています。

パラの選手たちの競技を見ていて、「すごい!」「なぜあんな身体能力が!?」と感じるでしょう。
彼らはその個性を生かして努力を重ね、一見不可能な能力を驚くほど発揮するのです。

入院していたころ、お見舞いに来てくださるシスター方は決まって「あなたは神様に選ばれた子だ」とおっしゃってくださいました。

病気をしたことが「選び」「恵み」だということではなく、そのことを受け止めて前向きに治療に取り組むわたしのことを、そう言ってくださったのです。

信仰によって、わたしたちは誰もが神様からの憐れみを受けることができる。

このことをわたしも、何度も身をもって実感しながら生きてきました。

まだ遅くないかも!?
何かスポーツ始めようかな、、、。

 

暑さを乗りきる術

先週の久留米は、毎日体感気温が40度近かったですね!

日曜日の雨で、暑さが少し落ち着いてくれて助かります。

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この夏の間、立ち止まって休むことを覚えましょう。

携帯電話の電源を切って、他者の目をしっかりと見ましょう。
沈黙の時を持ち、自然を観想し、そして神との対話のうちに生まれ変わりましょう。
(マルコ6・30-34参照)

During summer time, let us learn how to take a break, turn off the mobile phone to gaze into the eyes of others, cultivate silence, contemplate nature, regenerate ourselves in dialogue with God.

2021/7/19教皇フランシスコ twitterより

このTwitterのメッセージ、ものすごく心に染みました。

 

2年前の8月、イスラエルに巡礼に行きました。

「暑い」という言葉では語れない日差しだったこと、生涯忘れられません。

 

 

標高400メートルほど(ただし、立地がマイナス400メートルの死海の西側)のマサダ遺跡の気温は、携帯の温度計で46度でした。

久留米の猛暑は湿度も高いため、家事などで汗をかくと肌がべたつき、不快な感じがしますが、イスラエルはカラッカラの乾燥状態なので、汗が流れながら蒸発します。

毎日一万歩くらい歩いて旅を続けながらいつも思っていたのは、「この気候をイスラエルの人々、イエス様たちも暮らしていたんだ」と言うことでした。

そう思いながら歩くと、意外と頑張れたのです。

暑い
きつい

そう思うのをできるだけ控え、なんのために歩いているのか、何をしにここに来ているのか、そのことに集中するように努めました。

皆さんと同じようには行動できないこともありましたので、無理をせずに時には立ち止まり、一人で立ちすくんで沈黙の時間を持つこともありました。

 

冒頭にご紹介した、パパ様ツイッターのおことば、手帳に書いていて毎日読んでいます。

☆ 立ち止まって休む

☆ 他者の目を見る

☆ 沈黙の時を持つ

何かせわしなく過ごしていると難しいことのように感じるかもしれませんが、どれも簡単にできることです。

わたしは6月から膝を痛めていて、歩くのも椅子から立ち上がるのも辛い日々が続いていました。

「パウロみたいにとげが与えられたんだわ。
何か思いあがってることはないか、よく考えてみよう!」

そう思って、このところずっと割とよく立ち止まり、沈黙の時間を持つようにしています。

「暑い、暑い」と口にしてバタバタしていると、余計に暑くなる気がしませんか?

立ち止まって、少しだけ沈黙を保ってみると、目に見える景色も聞こえてくる蝉の音色も違ったものに感じます。

今年の夏も、これからが本番です。

暑さに負けず、乗り切って元気に暮らすために、パパ様のこのメッセージを心に留めてみませんか?

 

 

感謝の気持ち

東京オリンピック・パラリンピックが始まりました。
ようやく実現しました!
久留米教会の「こどもとともにささげるミサ」もようやく実現しました。

式次第の順番は変わりませんが、多少言葉遣いが平易になっています。
来月からも毎月第4日曜日に予定されています。

いつの大会でも、開会式は一番の楽しみで見ています。

今回の式典も本当に素晴らしかったと思います。

久留米教会とは全く関係ありませんが(いつもですが。。。)、そして式典のテーマがどのようなものだったのかは存じませんが、わたしは式典の中の至るところに「感謝の気持ち」を感じ、胸が熱くなりました。

前日までハプニングやスキャンダラスな出来事が数多くあり、世論も(報道されている限りでは)盛り上がっていたとは言い難い、大変困難な状況でした。

それでも、オリパラの誘致から今日まで、どれほどの方々がご尽力されたか。

どれほどの方々が影で動かれ、矢面に立ち、携わられたか。

 

世界的に活躍されているアーティストの皆さんと並んで、エッセンシャルワーカーと呼ばれる方々がたくさん出演者として登場されていました。

そうした全ての皆さんに「ありがとう!」と心から感じることができる開会式でした。

そして、演出の随所に「ありがとう!」と世界中の方々にメッセージを発しているのを感じました。

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あなた方は神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、思いやりの心、親切、へりくだり、優しさ、広い心を身にまといなさい。
互いに耐え忍び、誰かに不満があったとしても、互いに心から赦しあいなさい。
主があなた方を心から赦してくださったように、あなた方もそうしなさい。
これらすべてのことの上に愛をまといなさい。

感謝の人となりなさい。
キリストの言葉をあなた方のうちに豊かに宿らせなさい。

言葉にしろ、行いにしろ、何かをする時は、主イエスを通して父である神に感謝しつつ、すべてを主イエスの名において行いなさい。
(コロサイ3・12〜17)

「どんなことにも感謝しなさい」と1テサロニケにもあるように、わたしたちキリスト者の信仰の基盤は「愛」「感謝」なのです。
人や物事の粗探しをする風潮がはびこっている現在だからこそ、私たちは「愛」と「感謝」の信仰を実践すべきなのではないでしょうか。

7月25日は、新しく制定された「祖父母と高齢者のための世界祈願日」でした。

84歳の教皇様は「 主は永遠であり、決して引退なさいません。決してです。」とメッセージの中で述べられています。

「兄弟愛と社会的友愛を持って明日の世界を、嵐の後にわたしたちと子どもと孫とが生きる社会を築くには、あなたが必要です。」

高齢の方々、もちろん、自分の親だけではなく地域社会の先輩方への敬意と感謝の気持ちを忘れないようにしたいと思います。

 

 

 

賛美と感謝

今は絶賛「ヨセフ年」の真っ最中ということ、覚えていらっしゃいますか?

昨年の聖マリアの祝日(12/8)から今年の12/8まで、各信者は聖ヨセフの模範に倣うことで信仰生活を深めるよう、この特別年が定められています。

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毎日の生活に疲れたとき、あなたはどうやってモチベーションを高めていますか?

ヨセフ様は、穏やかな献身的な愛情を持って日常生活を神へ捧げることで、日々の一見つまらないことでも喜びに変えられました。

以前もご紹介した、教皇フランシスコの新しい使徒的書簡「父の心で」にはこうあります。

ヨセフの喜びは、自己犠牲の論理にではなく、自分贈与の論理にあるのです。
この人には、わだかまりはいっさいなく、信頼だけがあります。
その徹底した口数の少なさは、不満ではなく、信頼を表す具体的な姿勢です。

 

コロナ禍でなくとも、単調な日常生活に不満やストレスを感じるのは仕方のないことです。
ヨセフ様のように、とはなかなかいきませんが、日常の小さなことに喜びを見出すことはそう難しいことではありません。

家事は家族のための犠牲ではなく、家族とともに心地よく暮らすため、ですよね?
仕事は仕方なく行うことではなく、与えられた役割を果たすことだと思います。

先週から、毎週日曜のミサの後に全員で教会の内外の清掃を行うようになりました。
先月までは「義務」として参加を呼びかけていて、結局いつも同じような数名のメンバーしか集まっていなかったのが事実です。

ところが今月から「一緒にやりましょう」と呼びかけたところ、大勢の方が気持ちよく、当たり前のこととして掃除を行うようになったのです。

 

「賛美と感謝を捧げましょう」

そうごミサで歌っていたのを覚えていますか?
(歌いたい!聖歌を大きな声で歌いたいです!!)

賛美とはどういう意味を持つのか。

神に犠牲として賛美をささげよ。
いと高き者に誓いを果たせ。
悩みの日にわたしを呼べ。
わたしはお前を救い、お前はわたしをたたえる。
(詩編50・14〜15 フランシスコ会訳)

告白を神へのいけにえとしてささげ、
いと高き神に満願の捧げ物をせよ。
それから、わたしを呼ぶが良い。
苦難の日、わたしはお前を救おう。
(同 新共同訳)

賛美、つまり告白とは、罪を神の前に告白し、いかに神がわたしたちを気にかけてくださっているかを讃えることです。
単に、告解して罪を許してもらうことではなく、神への信頼、神から信頼された人として生かされていることへの感謝を表すことではないでしょうか。

昨日の清掃風景が当たり前の日常となることが嬉しく、神父様に「こうして良かったですね!」とお話ししたら、「掃除だけでなく、新しいコミュニケーションの場にもなるだろう。」と

小さな喜びを見つけた日曜日でした。

 

 

 

あの日の誓い

教皇様が日本に来てくださり、長崎でごミサに与った2019年11月24日のことは皆様もいまだ鮮明な記憶として残っているでしょう。

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現在のコロナ禍においては信じられないような密集具合です。

当日の長崎県営スタジアムには3万人の信徒が集まり、パパ様のお姿に熱狂しました。

COVID19という正式名称は、コロナウィルス感染症2019の略です。
つまり、2019年のこの教皇様の来日の際にはもうウィルスがまん延を始めていたのです。
事実、このタイと日本への旅の後は教皇様は外国訪問を控えられ、2021年3月のイラク訪問が久しぶりの旅となりました。

このパパ様の訪日の目的として日本の司教団が意図していたのは次のポイントでした。

◆被爆地からの平和メッセージ
◆東日本大震災の被災者へのことば
◆若者へのメッセージ
◆諸宗教対話
◆福音宣教への鼓舞

これらのことが挙げられていました。

メインテーマとして掲げられたことば「すべてのいのちを守るため」は、回勅『ラウダート・シ』の中の祈りの言葉から引用されました。

すべてのいのちを守るために、人間一人ひとりの尊厳を守ることと同時に、環境も大切にしなければならないという教皇様のお考えを表していると思います。

現在のウィルスのパンデミックは、環境破壊の影響にも起因しているのかもしれません。
2016年に日本でも販売されたこの回勅で教皇様が警鐘を鳴らしていた問題の結果とも考えられます。

わたしたち皆がともに暮らす家である地球は、身勝手な人間の暮らしによって蹂躙されています。
その苦しみが未知のウィルスとなってカタチとなり湧きあがり、瞬く間に広まり、皮肉にも「わたしたちの暮らす星はひとつ」であることを今さらのように思い知らされています。

ウィルスの脅威は、経済、環境、他国との関係といった多くの問題、これまでも世界が抱えていた問題をより大きな規模でわたしたちに突きつける結果となっています。

 

教皇様の来日を単なる思い出、スーパースターを生で目撃したあの日、といった記憶で眠らせていませんか?

あの日、わたしたち信徒は誓ったはずです。
キリスト者としての自分の使命を、各々が様々な形で心に浮かべていたはずです。

わたしの誓いは、少しずつですが、努力して継続しています。

 

 

中央協議会から、訪日公式記録集が発行されました。
大人買い(箱買い)しました。

 

あの日の誓いを思い起こすためにも最適なツールです。

なのよりも、全く聞き取れなかったスペイン語でのお説教や、全日程の中で各所でお話になったこと全てが翻訳されて掲載されていますので、ゆっくりとパパ様のお話を読むことができます。

ぜひこの機会に、1年半前の記憶を呼び覚まし、あの日のパパ様への誓いをさらに強い決意としてみませんか?

 

教皇フランシスコ、長崎へ。(2019.11.25の記事)
http://www.kurume-catholic.jp/blogs/blog_entries/view/11/763b7816f574e7f187df6ce9701066d2?frame_id=16

 

互いを認め合う世界

台湾へのワクチン提供に関する一連のニュース、涙が出ました。
純粋なお互いへの思いやりだと信じたいと思います。ワクチン外交などという報道もありましたが、、、。

宗教間、人種間の対立が世界各地で長い間続いています。
わたしはよくNetfrixで外国のドラマを観ますが、偶然なのか現在の世界情勢を鑑みた意図で配信が多いのか、最近よくイスラエル発のドラマが目に留まります。
イスラエルが製作しているので仕方ありませんが、例えばイラクへの諜報活動が正当性をもって描かれていたり、ハマスが起こす終わりのないテロへの闘いであったり、ハラハラドキドキで(誤解を恐れず書くと)面白いドラマばかりです。
ですが、ハリウッドのありえない設定のアクション映画と違い、おそらくかなり現実に近いストーリーばかりでしょう。

 

除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。
「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。
『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
(マルコ14・12~16,22~26)

 

オリーブ山の上から見たエルサレムの神殿です。
建物は違ったとしても、山から神殿を望む眺望はイエス様が目にされた様子と同じはずです。

 

キリスト教徒がイエス様が過ごされたとして大切に考えているオリーブ山は、ユダヤ教徒にとっても最後の審判の日に神が現れ、死者がよみがえる場所とされている聖地です。
左に並んでいる石棺はユダヤ教徒の墓で、右奥に見えるのはイスラム教のドームです。

 

 

ここがその場所であると言われている最後の晩餐の部屋の南側の壁には、イスラム教の聖地・メッカの方角を示すミハブ(Mihrab)があります。
(上の写真の壁の窪み) 

ユダヤ教の聖地のひとつに数えられているダビデ王の墓(King David's Tomb)の上の階にあります。
(下の写真がその墓。ユダヤ教の聖地なので、男性はキッパか帽子、女性はスカーフで頭を覆う必要がありました。)

実際には十字軍の時代に再建された部屋ですが、わたしたちキリスト教の信者が聖地だと思っている建物は、ユダヤ教徒にとってもイスラム教徒にとってもそれぞれの重要な意味が交差する聖なる場所なのです。

 

同じようなことは聖書のあちこちに見ることができます。
例えば、フランシスコ会訳の聖書のコヘレトの解説を抜粋してみると。

「古代ユダヤ教とキリスト教の伝承は、ソロモン王を著者としてきた。今日では、彼の時代のものではなく偽名を用いて書いたものと考えられている。
本書が書かれたのは、前250年から前200年までの間である。パレスチナの植物やエルサレムの街と神殿の描写からして、パレスチナで書かれたと考えられる。」

パレスチナという国は現在の世界地図にはありません。
イスラエルの中では、パレスチナ自治区は壁で覆われています。

バベルの塔を建設しようとしてバラバラの言葉で世界に散らされることになった 人間は、もう一つになることはできないのでしょうか。

ひとつの聖地を奪い合い、歴史的対立を繰り返しています。
この人間の争いに終わりはあるのでしょうか。

イスラエル、とくにエルサレムの城壁で囲まれた旧市街は3つの宗教の聖地という意味で大変貴重な存在です。

互いを認め、互いの宗教を尊重してきたからこそ世界中から人々が安心して巡礼に訪れていたのです。

イスラエルが世界平和の象徴となることができれば互いを認め合う世界が実現するかもしれない、というのは単純すぎる夢ですが、巡礼で訪れたものの願いです。

 

霊を渡すまで。

コロナ禍において、世界中の人々の様々な生活様式が大きく変わりました。

ミサの在り方もそのひとつですね。

誰もいないお御堂です。

わたしはどうも「youtubeでごミサに与る」というのがしっくりこないのですが、先日お話したおばさまは、
「以前は、決まった祈りの言葉を口にして、聖歌を一生懸命に歌って、という感じだったけれど、今はパソコンの前でごミサに与り、神父様の動きひとつひとつの細部までじっくりと見ることができて新しい発見があるのと、いろいろな教会のミサに与れるのが嬉しい。」
とおっしゃっていました。

もうひとつ、わたしがよく感じるのは葬儀の執り行い方についてです。

仕事の関係上、「訃報」の連絡がファックスで届くのですが、この1年は決まって「なお、通夜葬儀はすでに近親者で執り行いました。ご供花、ご香典などは固く辞退申し上げます。」と書いてあります。

以前であれば、会社の代表者が亡くなられた際は、大きな広い斎場で多くの参列者が一堂に会し、並んでお焼香や献花をしていました。

わたしが最近参列した葬儀では、「お焼香は13時から随時ご自由にお願いいたします」とご案内がされ、会場に同時間に人が集まることはありませんでした。

お別れの仕方が変わったのです。

 

生き物はみな、ふさわしい時期に、
あなたが食べ物を配られるのを待っている。
あなたが与えられると、彼らはそれを集める。
あなたが手を開くと、彼らは善いもので満たされる。
あなたが顔を隠されると、彼らは慌てふためく。
あなたが彼らの息を取り去られると、
彼らは死んで塵に戻る。
(詩編104・27~29)

 

息を取り去られる、つまり神様が与えられた息(創世記2・7)を「引き取られる」のが死であると考えられていました。
命は神から与えられ、神はそれを引き取ってくださる。

このことを噛みしめて考えると、死は「無」ではないということがよく理解できます。

 

イエスは酸いぶどう酒を受けると仰せになった、「成し遂げられた」。
そして、頭を垂れ、霊をお渡しになった。
(ヨハネ19・30)

 

生きるということは、神に与えられたこの世を成し遂げたと思えるように生き、
死ぬということは、神にその霊を渡して引き取ってもらうということです。

霊を神様に渡すまで、よりよく生きるために今自分に何ができるかを最近よく考えています。

与えられた生を成し遂げた、と思える生き方をしたいものです。

 

先日、久留米教会で行われた葬儀に参列した方がおっしゃっていました。
「ご家族とごく近しい友人たちだけのお式だったけど、こういう静かなお別れの会もいいな、と思った」と。

俳優の田村正和さんが亡くなられた際の報道にありました。
「俳優としての人生に悔いはない。やり尽くしたと思っている。」と彼がおっしゃっていたそうです。
羨ましい生き方です。

亡くなった母が大大大ファンでしたので、今頃天国で先輩風吹かせて、あれこれお世話したり案内したりしているのではないかと考えてクスクス笑っています。

 

聖母月だから、とマリア様にお花を捧げてくださった信徒の方、ありがとうございます。

 イスラエルとパレスチナの平和のためにもお祈りしましょう。

 

気にかけてくれる存在

久留米市の感染状況の増減に一喜一憂していたのですが、とうとう3回目の緊急事態宣言が発令されることになりました。

久留米市もワクチン接種の予約が始まっています。

ウィルスが消えてなくなることはないでしょうが、各人が自分にできる対策をとることはできます。

またミサが再開される日まで、静かにロザリオの祈りと共に心穏やかに過ごしましょう。

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皆さんは普段から「気にかけている人」がいらっしゃいますか?

離れて暮らす子ども
コロナ禍でしばらく会えないでいる親兄弟
大切な友人

お正月に家族が一堂に会し、たまに孫たちが訪ねてきて、仲間たちと集まって飲み会をする。
いまでは懐かしい過去の習慣ですね。。。

コミュニケーションの遮断ともいえる日常が当たり前のようになって、もう1年以上になりました。

わたしの場合、人との交わりの機会が8割は減ったように思います。

いまではすっかり、人との距離間が変わってしまいました。
例えば、スーパーなどで後ろに並ぶ方との距離が近いとそわそわしてしまいます。

 

そんな、人との距離が離れてしまった現在だからこそ、誰かのことを気にかけること、人との繋がりを大切にしたい、と考えるようになりました。

若松英輔さんがおっしゃっていたように、「交わりと繋がり」は違うものですね。

妹たち家族にはずっと会えていませんが、彼女たちとはテレビ電話でしょっちゅう連絡を取ることができます。
交わることはできないけれど、いつも繋がっていることを感じます。

 

気にかけている人が元気に過ごしているか。

もしも思い当たる方がいらっしゃれば、このあと電話してみてください。

わたしたちと気にかけている人を結びつけているのは聖霊の働きです。
わたしたちと神様を結びつけているのと同じ聖霊の働きです。 

心身ともに健康であるために必要なことは、規則正しい生活と誰かに必要とされていると感じること、あるいは、誰かに気にかけてもらえていると実感すること、そう思うのです。

イエス様とマリア様、もちろんヨセフ様がいつもわたしたちを気にかけてくださっているように、聖霊の導きに従って周囲の人を気にかけることはすなわち、誰かが自分をいつも気にかけてくれているということなのです。

 

 

5月の聖母月の間、「祈りのマラソン」として世界五大陸の30聖堂にわたりロザリオの祈りが中継されています。
これは教皇様の希望で、すでに一年以上世界を苦しめているパンデミックの収束を願って繋げる目的で行われているものです。

5月1日のバチカンでの教皇様によるロザリオの祈りから始まり、21日(金)には長崎の浦上教会の被爆マリア像を前に祈りの中継が行われる予定です。

 

 

https://youtu.be/4Rb7_WdNlZY

 

 

ひとつのメッセージ

久留米でも感染者が大幅に増加しています。
皆様も十分にお気をつけになっているかと思いますが、どうぞ外出の際の手洗い、手指の消毒といった基本的なことをしっかりとお守りください。

世界のワクチン接種状況、というニュースを見ました。
「日本は〇〇か国中最下位」といった報道は、見ていて悲しくなります。
こうしたネガティブな情報は取り入れてもあまり良いことはないと思うのですが、このニュースをみていてある映画を思い出し、久しぶりに観ました。

ARRIVAL(邦題は「メッセージ」)
2016年のアメリカ映画です。

宇宙から謎の物体が世界の12都市に現れ、エイリアンが何の目的で地球に来たのかを12か国がそれぞれのやり方で探ります。
最初は、zoomのようなシステムで12か国が連携して情報をやり取りしながら協力関係を構築しつつありました。
しかし次第に、それぞれの思惑や価値観の違いでお互いが情報を出し渋るようになり、ある国は武力行使を決定したりとその協力関係が壊れていきます。

最終的には、主人公である言語学者のある言動をきっかけに、12か国の連帯が再度生まれ、エイリアンの目的を解読します。
その目的は「地球人(地球全体)の連帯」だったです。
(その目的には理由があるのですが。)

主人公はエイリアンの言葉を解読し、「Universal Language / 世界共通言語」として確立させ、地球共通の言葉として広めていきます。

まさに、いまわたしたちの生きている現在の地球のことを表現しているような映画なのです。
ネタバレを書いてしまったのですが、音楽も映像も本当に美しく、わたしの拙い文章では伝わらない感動的な映画です。
ぜひご覧いただきたい作品です。

わたしたちの生きる今の世界は、自然(神様)からのこの(パンデミックという)メッセージを読み誤っていないでしょうか。

世界が連帯してこの現実に向き合っていけているでしょうか。

わたしたちは聖書というUniversal Languageを持っています。

いつの間にか自分たち(国、人種、宗派など)に都合のいいように解釈し、同じ聖書を読みながらもバラバラの言葉を話し意思疎通が出来なくなっているかのようです。

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3/11付けで発表された日本カトリック司教団のメッセージです。

今、コロナ禍にあって、世界は『すべてのいのちを守るため』に連帯しています。
教皇フランシスコは対立と分断、差別と排除、孤立と孤独が深まる現代世界にあって、助けを必要としている人、孤立し、いのちの危機に直面している人のもとへ出向いていこうと呼びかけます。
あの未曾有の災害に襲われたとき、わたしたちは、人間の知恵と知識の限界を感じました。
自然の力を前に、どれほどわたしたちが弱いものであるかを知りました。
そのときわたしたちは、互いに助け合うことの大切さ、いのちを守るために連帯することの大切さ、いたわりの心の大切さを、心に刻み込みました。
大震災 10 年の今、世界はまさしくその大切さを思うことを必要としています。
(カトリック中央協議会 会報4月号掲載)

 

4/22のEarth Dayに教皇さまが出されたメッセージです。

「今日、地球全体で共有している新型コロナウイルスによるパンデミック問題もまた、わたしたちの相互依存関係を明らかにすることになった。」

環境保全そしてパンデミックへの対応という二つの大きな急務の課題に、皆が一体となって努力する必要があることをあらためて強調されました。

同じ一つの星に生きていることを思い知らされたパンデミックという現実。
「皆=地球全体で取り組まねばならない」と、自然界がわたしたちにひとつのメッセージを寄せている気がしてなりません。 

 

生きていくちから

池江璃花子さんのことを検索すると、「池江璃花子の名言集」というサイトがたくさん設けられているのがわかります。
病気を公表した18歳からこの2年間に彼女が発した「名言」がたくさん紹介されています。
その中でも有名なのは、次のことばでしょう。

私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、
自分に乗り越えられない壁はないと思っています。

彼女がクリスチャンなのかは分かりませんが、こういうことばが身に染みていて、それが染み出してきたのでしょうか。
彼女は神様に選ばれたのだと思えて仕方ありません。


ヴィクトール・フランクル博士の本を読みました。

『それでも人生にイエスと言う』

 

 

1946年の講演の内容をもとにしてまとめられた本です。
1946年とはつまり、彼がナチスの強制収容所から解放された翌年のことです。

自殺する一番いい方法はなにかという問題に考えが向くと言っても不思議に思う人はいないでしょう。
実際、このような状況ではたぶんだれだって、一瞬であっても、「鉄線に飛び込む」ことを、つまり自殺を考えてみるでしょう。
しかし、わざわざ自殺を決意する必要がないことがわかります。
遅かれ早かれ、「ガス室に入れられ」ないですむ平均的確率がきわめて低いという状況では、自殺しようとすることはむだなことだからです。

「もう生きていたくない」と言う知り合いを励ましたことがあります。
心の中では「どう励ましたらいいのか見当がつかない」と思っていたのですが、口では「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」と。

2人の息子を相次いで癌で失ったその方は、生きている意味が分からないと、涙さえ出ないほど憔悴されていました。

実際にわたしが彼女を励ますことができるはずもなく、ただただ寄り添い、家族を亡くした方に言うわたしの言葉「天国の先輩であるうちのママがお世話してくれるから安心して」と伝え、たわいもない話をしに行く。

そうすることしかできませんでした。

ですが、次第に自然と、彼女は生きるちからを取り戻されたのでした。

わたしもそういう経験をしたからわかるのですが、生きていくちからは内面で育まれていくのです。
誰かに励まされたから、素晴らしいお話を聞いたから、そういうことから突然みなぎるものではありません。

自ら染み出してくるまで待つのです。

 .

「死は生きる意味の一部である」

◆苦難と死は、人生を無意味なものにするものではなく、むしろ、苦難と死こそが人生を意味あるものにするのだ。
◆人生に重い意味を与えているのは、この世での人生が一回きりだということ、私たちの生涯が取り返しのつかないものであること、人生を満ち足りたものにする行為も、人生をまっとうしない行為もすべてやりなおしがきかないということにほかならないのだ。

◆生き延びたことを、身に余る恩寵としか考えられなかった。
◆その恩寵にふさわしいものになり、すこしでもそれに見合うようになる義務が、死んでいった仲間に対してあるように思われた。

こう、フランクル博士はおっしゃっています。

最初にご紹介したように、この内容は強制収容所での体験からそう月日が経っていない時に語られたお話なのです。

この本のタイトルである「それでも人生にイエスと言う」という言葉は、収容所時代に囚人たちが作って歌っていた歌の歌詞なのだそうです。

.

池江璃花子さんの様子をみて感動し、フランクル博士のことばに深くうなずく。
それらが糧となり、生きていくちからの肥やしとなります。

生きるということは人生を楽しむことではない、とここのところよく感じます。
池江さん、フランクル博士ほどの体験をしていなくても、生きていくことは時には困難が伴います。

 

マグダラのマリアがイエス様の墓が空になっていたのを見た時のことです。
(ヨハネ20・11〜18)
泣いていた彼女に
主の使いが「なぜ泣いているのですか」
イエス様が「なぜ泣いているのか」
そう尋ねられます。

「マリア」と名前を呼ばれた彼女は、振り返って「ラボ二」と答える。

これは、イエス様のご復活というよりも、マリアの復活体験の瞬間でした。
一度復活を体験した人は、強い。

 

生きていくちからを耕して耕して、陽の光と水を得て、心と身体を健やかに整えましょう。

生きていくちからを内面で育てていく毎日を、生きることを楽しみましょう。