カテゴリ:典礼

あなたとともに

バチカンの一般謁見での教皇様のお話しには、いつも心を打たれ、新しい気づきを与えてもらいます。

わたしたちがある人物について最初に知ること、それは名前である。
わたしたちはそれによってその人を呼び、認識し、記憶する。
聖三位一体の三番目のペルソナも名前を持っている。
それは聖霊である。
しかし、聖霊を指す「スピリトゥス」という呼び方はラテン語化されたものである。
最初に聖霊を啓示された人々が知った名前、預言者や、詩編作者、マリア、イエス、使徒たちが呼び祈った名前、それは風や息を意味する「ルーアハ」という名であった。
(6/5教皇フランシスコ水曜一般謁見でのお説教より)

 

主は皆さんとともに dominus vobiscum
またあなたとともに et cum spiritu tuo

昨年、ミサの式次第が変更になる前は、「また司祭とともに」と言っていました。

先日、友人から「本当は『あなたの霊とともに』と言うのが正しい訳なのよ」と教えてもらいました。

日本語で「主は皆さんとともに」と訳されている表現も、直訳では「主はあなたたちとともに」であり、それに対する会衆の応答が「またあなたとともに」なのだそうです。

主がイサクにかけた言葉「わたしがあなたとともにいる」(創26・3、24)
ボアズが自分の農夫たちへ「主があなたたちとともにおられるように」と言うと、彼らも「主があなたを祝福してくださいますように」と答える(ルツ記2・4)
大天使ガブリエルがマリア様へ「主はあなたとともにおられます」と告げる(ルカ1・28)

神がこのように人に語りかけられるいくつかの場面では、主ご自身か主の御使いが、「主があなたとともにいる」と確信を込めてその人物に語っています。

またあなたとともに et cum spiritu tuo

ラテン語が分からなくても、太字にしたところが英語のスピリットの語源であることには気付きます。

古典ギリシャ語 πνευμα (プネウマ)、ψυχή(プシュケー)
ヘブライ語 רוח(ルーアハ)
ラテン語 spiritus(スピリトゥス)
英語 spirit(スピリット)

(式次第が変わるときに「またあなたの霊とともに」とはならなかったのは、日本語の「霊」は人それぞれに様々な意味に受け取られるため、他の国々や他教派の式文を参考にして「霊」という言葉は使わないこととされたためです。
ちなみに、英語の式次第ではThe Lord  be with you--And with your spirit となっています。)

 

東京教区の田中 昇神父様のnote(ブログのようなもので、色々なジャンルで書かれたコラム)に、「典礼における挨拶」というタイトルの文章が掲載されていました。

その中で、田中神父様はこうおっしゃっています。

「あなたの霊とともに」という表現は、聖書ヘブライ語においては「あなた自身」という意味に解釈することができます。
「あなたにも、神様がともにおられますように」という意味合い以上の何かが含まれています。
「あなたの霊とともに」ということによって、信仰者は、聖なる典礼の間、司祭叙階の際に与えられた聖なる力によって、「主があなたとともにおられる」と宣言するところの司祭を通して聖霊が特別な働きをしていることを認めているのです。
真の意味での司祭とは、ただ一人、キリストご自身のみです。
単なる「あなた」ではなくあなたをキリストの祭司とされた「あなたの霊」とともになのです。

田中神父様は、ここでも何度かご紹介している本、カトリック聖書注解「マルコによる福音書」メアリー・ヒーリー著の翻訳をされた方です。

その本のあとがきの中で、田中神父様はこう書かれています。

「マルコによる福音書」のオリジナルが、あえて復活したイエスとの出会いを書き残さなかったということ。
その理由として考えられるのは、福音書を始めて耳にした(恐らくローマの)教会の人々は、ガリラヤで復活したイエスにすでに出会っていて、あるいは復活したイエスに出会った人からその体験を伝えられていて、イエスの復活をあたりまえのように信じていたということです。
マルコは、今、わたしたちの生きている現実の中で、イエスはともにいて働かれているということを伝えているのです。
ですから、いつもマルコは福音が語られる時、イエスはそこでまさに語りかけているということ、そのイエスをいつも感じるように、いつもそんな風にイエスの前に自分たちが置かれているのだという感覚を伝えたいのではないかとわたしは思うのです。

「主は皆さんとともに」「またあなたとともに」

この1週間、この言葉について考えていて、「神様がともにいてくださる」というより、「風が吹くように、聖霊がいつもわたしたちのまわりに漂っている」、と理解するようになりました。

どこへ行ったら、あなたの霊から離れられようか。
どこへ行ったら、あなたの前から逃れられようか。
わたしが天に昇っても、あなたはそこにおられ、
陰府に横たわっても、あなたはそこにおられる。
わたしが曙の空に翼を駆っても、西の果ての海に住み着こうとも、
あなたの手はわたしを導き、
あなたの右手はわたしを離さない。
(詩編139・7〜10)

風は思いのままに吹く。
あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。
霊から生まれた者もみな、それとおなじである。
(ヨハネ3・8)

「風」「霊」、つまりプネウマが、いつもわたしの頭のまわりに漂っている気がします。

 

「悲しみ」の意味

コロナ禍においては、信仰の有無に関わらず、多くの人が「生と死」について考えを巡らせたでしょう。

今はどうでしょうか。
あれほど世界中が大混乱に陥れられ、見えない感染症に怯えて暮らしていたのが、もう過去のことのような気がしてしまいます。

コロナウィルスで亡くなられる方が、家族に看取られることなくお骨になって自宅に戻る。
これは、今現在も少なからず起きている、旅立ちの現実です。
これまでに、全世界で658万人の方がこのウィルスの犠牲になったと報道されていました。

家族や大切な友人の最期を見送ることができる、見送ってもらえることは、とても恵まれたことです。

終活、という言葉がありますが、自分がいつ天に戻されることになっても良いように備えておけることも、また恵まれた状況でしょう。

残される人をできるだけ悲しませないように、煩わせないように、と準備しておくことと同様に、日頃からわたしたち自身が心と生活において豊かに構えることが必要です。

 

わたしたちは皆何らかの形で悲嘆を経験しているだろう。
問題は、それにどのように耐えるかである。
なぜなら、悲しみにもわたしたちにとって重要な意味があり、そこから性急に逃れようとするならば、その意味を見失う恐れがあるからである。

悲嘆や心痛を望む人はいない。
誰もが常に喜びにあふれ、陽気で、満足した生活を望んでいる。
しかし、それは不可能であるばかりか、わたしたちのためになることとも言えない。

「悲しみを読む」ことを学ぶのは大切である。
今日、それはどちらかというとネガティブなことのように考えられている。
ところが、悲しみはわたしたちの人生に不可欠な非常ベルのようなものであり得ると同時に、より豊かな心の風景を旅させるものでもある。

わたしたちが孤独と悲嘆を開かれ目覚めた心で体験するならば、人間的・霊的により強められてそこから脱することができるだろう。
わたしたちの限界を超える試練はない。
(教皇フランシスコ10/26のバチカン一般謁見での講話より)

悲しみを読む。
その中に意味を見出す作業もまた大切なことなのだ、というパパ様のお言葉に感動しました。

悲しみはたいていの場合、突然わたしたちを覆い尽くします。

悲しさに支配されないようにするには、普段の生活の仕方が大事なのだと教えられています。

「いつも目を覚ましていなさい。」

イエス様がそうおっしゃっていたとおり、いざという時のために日頃から備えておきたいものです。

 

明日から11月、死者の月です。
個人的に、一年で一番大切に想っている祈りの月です。

「亡くなった人のことは心配しなくていい。
神様のところにいるのだから。」

11年前、そう言ってもらったことで心の底から救われました。

それから数年後、悲しみがようやく癒やされたと感じることが出来た時から今日までの、豊かな心の風景の旅路を振り返りながら感謝する、そんな時がわたしの11月です。


御前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、
朝早く地に降りる一滴の露にすぎない。
全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
あなたは存在するものすべてを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し、
あなたが呼び出されないのに存在するものが
果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
あなたはすべてをいとおしまれる。

あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。
主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、
罪のきっかけを思い出させて人を諭される。
悪を捨ててあなたを信じるようになるために。
(知恵 11・22〜12・2)

 

「暗闇からの祈り」と題された詩編88を、死者の月に心に留めたいと思います。

わたしの救いの神、主よ、わたしは叫びます。
昼も夜も、あなたに向かって。
わたしの祈りをみ前に至らせ、わたしの叫びに耳を傾けてください。
わたしの魂は悩みに満ち、わたしの命は陰府に近づきました。
わたしは穴に下る者のうちに数えられ、
力尽きた者のようになりました。
わたしの床は死者のうちにあり、わたしの寝床は墓の中にあります。
わたしは刺し殺された者のようです。
あなたはもはや死者を心に留められず、彼らはあなたの愛から切り離されています。
主よ、わたしは日ごと、あなたに呼び求め、
あなたに向かって手を伸べました。
あなたは死者のために不思議な業を行われるでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・

どこにも出掛けられなくて悲しいな、、、、と思っていたら、イタリアに出張中の妹がたくさん写真を送ってくれました。
少し旅行に行けたような、幸せなお裾分けでした。

Basilica di Santa Maria Novella(サンタマリアノヴェッラ聖堂)

 

Duomo(ドゥオモ)

 

Basilica di San Lorenzo-Cappelle medicee(メディチ家の礼拝堂)

マリア像byミケランジェロ

このマリア像は初めて見ました!

心豊かな一週間になりますように。

 

美しい祈り

毎日、主の祈りを唱えています。
わたしの場合は、亡くなった母の習慣をまねて、湯船の中で唱えています。
一番、心を落ち着けて、一人静かに祈れるのです。

天にまします われらの父よ
願わくは 御名の尊まれんことを
御国の来たらんことを
御旨の天に行わるるごとく
地にも行われんことを
われらの日用の糧を 今日われらに与え給え
われらが人に赦す如く われらの罪を赦し給え
われらを試みに引き給わざれ
われらを悪より救い給え
アーメン

この、昔の主の祈りの方が、音も響きも美しいと思っているのはわたしだけではないと思います。

主よ あわれみたまえ

キリスト あわれみたまえ

「給え」 

「世の罪をのぞきたもう主」

この、日本語のもつ美しい響き、ことばにこもった敬いの心、これは今の若い方々には通じないのですか⁈

通じなくしてしまっているのではないですか⁈

  

創世記の第1章、天地創造の話の31節に
「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて善かった。」
とあります。
「善かった」と訳されている言葉は、ヘブライ語の訳なのだそうです。

(ちなみに、新共同訳は「良かった」、フランシスコ会は「善かった」となっており、
この違いもまた絶妙ですね。)

旧約聖書がBC3~1の間に古代ギリシャ語に訳されたときには、この言葉が「美しい」と訳されたそうです。

「神によって創造された全世界は極めて美しかった。」

なんと美しい世界観でしょうか。

主の祈りは、現代語で簡単に、意味が分かりやすいようにと変えられたために、日本人にとっての古語の美しい響きがなくなってしまったのは残念に思います。

美しい日本語を後世に残したい。

ベトナムの若者たちとジュゼッペ神父様と神学生です。信仰が繋がっている、続いていく希望を感じ、思わず写真を撮らせてもらいました。

これからも毎晩、お風呂の中で祈るときは、美しいく心に届く、全身で感じて頭にも心にもしみついている「天にまします」をこれからも唱え続けたいと思います。

今日、初聖体を受けた7人の子どもたちにも、美しい祈りを教えてあげたいです。

挨拶してくれたとき、「よろしくおねがいします!」 と言ってくれました。

こちらこそ!

 

 

 

神の母聖マリア

 1月1日午前0 時、寒い中多くの人がミサに参加し、新年の挨拶をしました。続いて、10 時のミサでは成人を迎えたの8 名が新成人の祝福を受けました。ミサの中でろうそくを灯し成人としての決意と信仰宣言が高らかになされました。