行事風景

キリスト者としての心構え

久留米も秋の気配です。

 

昨日のごミサでは、フィリピンの若者たちの姿に感激しました。

 

『日本で生きていくけど、祖国を愛してる』

若者たちのグループで、インターネットでこのお揃いのティーシャツを作ったそうです。

お揃いのシャツを着て教会に集まる彼らを見て、そのメッセージにも感動しました。

 

わたしたちは弱い人間ですから、「〇〇神父様がいい」「〇〇神父様は少し苦手」などといった気持ちを抱いてしまうこともあります。

以前、人間関係についてある神父様にご相談した際、意外なお答えが返ってきました。

司祭の皆様は神様からの召命を受けて職務に当たる聖職者なので、
そうした些細な人間関係のもめごととは無縁なのでは?と勝手に思っていたのですが、

「わたしたち司祭も同じようなことで悩みますよ。」

心の中の小さな棘が取れ、気持ちが軽くなりました。

また、東京に住んでいたころに、ある神父様につい愚痴を言ってしまった際に返ってきたお言葉も心に刻まれています。

苦手な神父様がいて、その神父様のごミサに行くのが億劫だと話したら、

「あなたは”イエス様”を信じているのでしょう?
 〇〇神父教の信者ではないでしょう?」

笑ってそうおっしゃった言葉に、ハッとさせられ、自分で自分の言ったことがおかしくなりました。

 

イエス様の時代はおそらく、『ユダヤ教イエス派』といった感じだったでしょう。

そのユダヤ教も、ファイサイ派、サドカイ派、エッセネ派など様々なグループ、宗派があり多様性に満ちていました。

以前読んだ曽野綾子さんの本に、現代のわたしたちは『キリスト教パウロ派』のようなもの、と言ったことが書いてありました。

 

キリスト教が形成されていく使徒たちの宣教の時代には、まだ当然、新約聖書という形作られた経典はありませんでした。

一番古い福音書であるマルコも、65年~70年ごろに成立したとされています。

その後、他の3つの福音書が書かれても一冊の本として印刷されて人々が手にしていたわけではないのです。

実際に、4つの福音書が揃い、正典とされたのは2世紀ごろだそうです。

初期のキリスト教は、旧約の諸文書を大切にしながら、あくまでも口述により使徒たちを通してイエス様の言葉を聞いた多くの人々が、その教えに共感し形作られていったのです。

イエス様が直接お選びになった使徒たちでさえ、だれが一番偉いか争い、ゲッセマネの園では眠りこけ、一番弟子のペトロでさえ3度「知らない」と言う、そんな始まりだったのです。

人間的である、つまり、弱さや愚かささえも包み隠さずさらけ出し、その中に救いとお恵みを見出していく。

これは、旧約聖書にも表される教えの根本です。

 

わたしたちは、弱い人間です。

悩み、苦しみ、悲しみがあるから、祈りを捧げます。

この1週間、改めてそのことを感じ、考えました。

 

守るべきおきて

今月のベトナム語ミサの様子です。

久留米教会のベトナムコミュニティは人数がどんどん増えて、活気が増してきているように思います。

 

 

彼らの日本での労働の実りと教会コミュニティでのお恵みが豊かなものになるよう、祈っています。

 

【教会のおきて】というのをご存じでしょうか。

教会共同体の約束事として、5つのことが決められています。

1.主日と守るべき祭日のミサにあずかり、肉体労働を休むこと

2.毎年少なくとも一度、ゆるしの秘跡を受けること。

3.少なくとも復活節の間に聖体の秘跡を受けること。

4.教会が定めた大斎と小斎の日を守ること

5.各々の分に応じて教会の維持費を負担すること。

 

そう難しいことではない、と思いませんか?

1の「肉体労働を休むこと」というのは、安息日だから、ということです。

わたしたちキリスト教徒にとっての安息日は、この【おきて】によると、

「ミサにあずかり、そのあとは安らかに過ごしなさい」くらいのニュアンスですが、

ユダヤ教徒にとっての安息日は、ヘブライ語でシャバットと言い、とても厳格に決められた日です。

 

安息日は日曜日ではなく、金曜の日没から翌土曜日の日没までを指します。

ですが、実際には、金曜の日没に備えて午後早い時間からお店などが閉まり始めます。

日没までに家に帰り、翌日の分までの食事を用意しなければならないからです。

ホテルの近くにあったマクドナルドまで閉店していました。

ホテルのエレベーターも「シャバットエレベーター」になり、

ボタンを押さなくてもいいように各階停止モードに切り替えられます。

つまり、何も「労働」をしてなならないのが安息日なのです。

 

ある安息日のことであった。
イエスが麦畑の中を通っておられたとき、弟子たちは道々、穂を摘み始めた。
すると、ファリサイ派の人々がイエスに言った、
「なぜ、安息日に許されていないことをするのか」。
(中略)
イエスはこう仰せになった、
「安息日は人のために設けられたのであって、
人が安息日のためにあるのではない。
それ故、人の子は安息日の主でもある」。

マルコ2・23~28

「あなた方は、わたしが律法や預言者たちを廃止するために来たと思ってはならない。
廃止するためではなく、成就するために来たのだ。」

マタイ5・17

 

イエス様は、ユダヤ人でありユダヤ教徒でした。

おそらく、30歳になられるまでは安息日だけではなく、厳格に律法に従った生活をされていたことでしょう。

だからこそ、こうした教えが生まれたのです。

人の子は安息日の主である
律法を廃止するためではなく、成就するために来た

律法のおきてを守ることに執着し、それに縛られて大切なものを見失っていた当時の人々への警告でした。

 

わたしたち(一般的キリスト教徒)の目には、安息日にはエレベーターのボタンを押すことさえ労働であるから禁止する、というのは不思議な気がします。

 

正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。
わたしたちの主イエス•キリストが現れる時まで、汚れなく、咎められることもなく、この掟を守りなさい。

1テモテ6•11,14

 

【教会共同体のおきて】

ミサにあずかることはもちろん一番大切ですが、

教会維持費を納入し、共同体をわたしたちが守り、将来にわたり維持発展させていくことは、いまのわたしたちの一番重要な責務ではないでしょうか。

 

「あなたに、話がある。」

フランシスコ教皇様が長崎と東京でごミサをあげられます。

日本中のカトリック信者が集まることでしょう。

今からとても楽しみです。

このポスター、ご覧になったかと思いますが、キャッチコピーがいい!

 

(どこかの広告代理店の方が作ったのかもしれませんが)
わたしたちに訴えかけられるものを感じます。

 

パパ様、初来日ではないのですね。

カトリック新聞に記事が載っていました。

1987年に、イエズス会の新学院の院長であった
ベルゴリオ神父さまとして来日されていたのです。

 

 

国際会議では、各国の首脳が何を言うか、
あらかじめほとんど決まっています。

けれども教皇は政治家ではありません。

私が教皇フランシスコと会うときにいつも受ける印象は、
その言葉と行動が、祈りから生まれているということです。
教皇は聖霊に導かれて動いています。
そして聖霊はいつも何か新しいことをします。

教皇フランシスコが私たちに希望を与えるのは、
彼がこの世界のリーダーとは全く違うリーダーだからです。

教皇フランシスコは、「この世界は福音の価値観で変わる」と固く信じて、
その通りに生きている人です。

 (写真、文章はカトリック新聞より)

 

今月のパパ様カレンダーのメッセージは

「 自分の限界や弱さを知ることはよいことです。
 むしろ、知らなければなりません。
 しかしそれは、絶望するためではありません。
 神におささげするためです。」

 

 教皇フランシスコとしての来日は、これが最初で最後の機会になるかもしれません。

どのようなメッセージをわたしたちに語られるのか、とても楽しみです。

久留米教会からは300名近くで申し込みをします!!

教会ごとの大移動のようになるでしょう。

いちじくの実、オリーブの木

マタイとマルコの福音書にある「実のないいちじくの木」の例え話をご存じでしょう。

イエス様が、道端のいちじくの木に葉のほかには何も見当たらなかったので
呪って「今後、永遠にお前は実を結ばないように」と仰せになると枯れてしまった、
というお話です。

ルカの喩えでは、
「3年このかた、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、
一つも見つけたことがない。切り倒しなさい。」

とまで言われています。

以前、聖書の勉強会で、

「これは、神殿そのものに仕えている不毛な人々への警告と
イスラエルの宗教的不毛の暗示です」

と教わりました。

 

今回イスラエルに行った時にガイドをしてくださった牧師さん(↑写真の、立ってお話されている方)によると、

「いちじくの木は、葉が茂っているということは同時に実もなっているもの。
その木に葉しかついていないということは、
実りのないうわべだけの偽善者のようなもの、ということなのです。」

とのこと。

 

(↑写真は、ゲッセマネの園の立派な年代物のオリーブの木です!)

イスラエルをオリーブの木に喩えられている箇所も多くあります。

エレミヤ書11・16では
主はかつてお前を、
「素晴らしい実のなる、美しく生い茂るオリーブの木」と名付けられた。

・ぶどう園、ぶどう畑、ぶどうの木
 =旧約時代のイスラエル(ユダヤ人)

・いちじくの木
 =イエス様の時代のイスラエル(ユダヤ人)

・オリーブの木
 =将来の患難時代のイスラエル(ユダヤ人)

という見方ができる箇所もあります。

 

イスラエルは、死海の西側のユダの荒野と対照的にガリラヤ湖やヨルダン川流域は緑豊かで、
お野菜と果物がとても美味しい国です。

 

ぶどう(ワイン)、いちじく、オリーブオイル、
これらは毎食わたしたちを楽しませてくれました。

当然、イエス様の時代も、こうしたものを楽しむのが日常だったので、
喩えとして大衆にわかりやすく話す際に多用されたのでしょう。

 

根が聖なるものであれば、枝もそうです。
しかし、枝のあるものが折り取られ、
野生のオリーブであるあなたがその代わりに接ぎ木され、
元の木の根から来る豊かな養分にあずかっているからといって、
元の木の枝に対して誇ってはなりません。

思いあがってはなりません。
むしろ、恐れなさい。
神が自然のままに生えた枝を惜しまなかったとすれば、
あなたをも惜しまれないでしょう。
ここに神の慈しみときびしさがあります。

ローマ人への手紙11・16~22

 

わたしたちキリスト者(野生のオリーブ)は
ユダヤ教徒(元の木の根)であったイエス様の新しい教えを受け取っています。

「思いあがってはなりません」

パウロの厳しい愛の言葉ですね。

 

聖書の読み方

 イスラエル巡礼後、今までと違った感覚で聖書を読めるようになりました。

特に、旧約聖書を読みたい!とよく思うのです。文中に地名が出てくる箇所を読んでいると
「あぁ、あそこのことだ」と思い出しながら読め、
そこで言われていることが実感として伝わってくるように感じます。

 

聖書は特別な「本」であり、
同時に、人生に必要なことがすべて書いてある「本」です。

英語で【 the Book 】 は、「聖書」を意味します。

ある信者さんは、自分がまだ洗礼を受けていなかった頃に、高校生だった娘さんに、
「一生のうちに一度は読んでおくべき本だ」と言って聖書をプレゼントされました。
それから20年後、娘さんはその本を手に教会に通うようになり、
聖書の勉強に行き始め、洗礼を受けました。

そしてその後、お父様も聖書講座に通い始め、
3年後に洗礼を受けることになりました。

 

聖書に求めるべきは、真理であって、雄弁ではない。
われわれは聖書を、それが書き記された精神に従って読まなければならない。

われわれは聖書を、著者の権威や、その文学的評価にかかわりなく、
真理に対する純粋な愛をもって読むべきである。
誰がこれを言ったのかを問題にせず、
どういうことが言われているかに注意しなければならない。

人は過ぎ去る。
しかし主の「まことは代々に及ぶ」(詩編117.2)
神はだれかれの差別なしに、われわれ人間に、いろいろな方法で語りたもう。
われわれが聖書を読むにあたってしばしば邪魔になるのが好奇心である。

われわれが素直に読み進めるべきところを、詮索し、議論じようとするからである。
もしあなたが聖書から利益を汲み取りたいと望むならば、
へりくだって、単純で、敬虔な信仰をもって読むべきであり、
学識があるなどという評価を得ようなどと望んではならない。

自由に質問し、聖人たちの言葉を黙って聞き、
また年配者たちの言うことを拒否してはならない。
彼らは、理由なしには、そのように語ってはいないからである。

 

わたしの愛読書のひとつ、
「キリストを生きる」(デ・イミタチオネ・クリスティ)からの一説です。

 

 

トマス・ア・ケンピスの原書が「キリストに倣いて」というタイトルで何種類か訳されていますが、わたしが何度も読み返しているこの本は、2017年に新しく翻訳されたものです。

聖書と同じように、何度読んでも新しい気づきと発見がある
素晴らしい本です。