行事風景
わたしたちの「メシア」
クリスマス、おめでとうございます。
日本語では「厩」もしくは「馬小屋」を表現することが多いようですが、
イエス様がお生まれになったのは家畜小屋です。
一方、正教会では洞窟と伝承されていて、イコンにも洞窟の場面が描かれています。
新約外典『ヤコブ原福音書』には洞窟で産まれたと書いてあるそうです。
イエス様のご降誕の情景は、カトリック教会やその影響の強い国々では人形で再現します。
イタリア語のプレゼピオ(Presepio)は飼い葉桶を意味します。
我が家のプレゼピオです。
「メシアとは何ですか?」と、ある神父様に質問されました。
「救い主です」と答えたら、「誰がそう言ったのですか、聖書になんと書いてありますか?」と。
ヘブライ語のメシアに相当するギリシャ語がクリストス、日本語ではキリストと表記し、
イエス様をメシアとして認めた呼び方がイエス・キリストということになります。
英語ではセイバー(Savior)、スター・ウォーズのライトセイバーも語源は救世主なのかも?!
イエス様の死後も、現代にいたるまでユダヤ教ではメシアはまだ現れていないと考えられていますし、
メシアの再臨だと自称した人は実際に数多くいるようです。
イエス様は自分のことをメシアだ、神の子だ、とは名乗っていません。
そして、弟子たちも「神の子キリスト」としての認識はなかったのです。
当時のユダヤ人にとってのメシア(キリスト)とは何者だったのでしょう。
そこでイエスがお尋ねになった。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
マルコ8・29
この時、ペトロはイエス様を「神の子」、あるいは必ずしも「神」であると言ったのではないとも考えられます。
ローマからの圧政から解放してくれる救い主を待ち望んでいた当時のユダヤ人にとってのメシアは、文字通り「救い主」であり、油注がれた王として神が選ばれた存在であったのです。
デューラーの「東方三博士の礼拝」という作品です。
イエスが、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、
東方の博士たちがエルサレムに来て、尋ねた、
「お生まれになったユダヤ人の王は、どこにおられますか。」
マタイ2・1~2
ユダヤ人のメシア観がよく表されているのが、詩編72です。
神よ、あなたの裁きの力を王に、あなたの義を王の子にお与えください。
王が義をもって、あなたの民を治め、
公平をもって哀れなもののために取り計らいますように。
彼は太陽のように末永く、月のように代々生き永らえる。
マタイによる福音書には、「主よ、ダビデの子よ」という表現で人々がイエス様に呼びかける場面が度々書かれています。
これは、イエス様をダビデの子孫として生まれたとして書き始められたマタイにおいて、「ダビデの子孫であるメシアよ」という意味です。
苦悩のうちにある人々とともにおられる旧約の理想的な王、まさに「インマヌエル、我らとともにおられる方」の実現なのです。
ピラトのもとで「お前はユダヤ人の王か」と聞かれたとき、イエス様は
「それは、あなたが言っていることである。」と答えます。
十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫び、息絶えたとき、
百人隊長がこうつぶやくのです。
百人隊長と、彼とともにイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れて言った、
「まことに、この人は神の子であった。」
マタイ27・54
百人隊長はこの出来事を見て、神を賛美して言った、
「まことに、この方は正しい人だった。」
ルカ23・47
イエス様を「神の子であった」と初めて認識したは、他でもない、ローマ人だったのです。
御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
聖なる霊によれば、死者の復活の時から、力ある、神の子として立てられました。
これがわたしたちの主イエス・キリストです。
ローマの人々への手紙1・3~4
マタイとルカ、イエス様の誕生物語が書かれている2つの福音書では、
イエス様は「神の子」としてお生まれになったと言うことを強調するために、ご生誕のシーンが感動的に表現されています。
さあ、いよいよクリスマスです。
2020年前にお生まれになったイエス様が、生まれながらに神であったか、ご復活後に神となられたか、いずれにせよ、わたしたちが信仰しているのは、その教えです。
ともに、お祝いしましょう。
カトリックと女性たち
久留米教会の、わたしの一番好きな光景です。
ミサの後、気持ち良い陽射しの下、年代も国籍も様々な信徒がこうしてコーヒーや温かいスープを片手におしゃべりして笑い、交流し。
ベトナムのみんなも、彼らの飾り付けのお手入れに余念がありません!
昨年、ハリウッドの世界で盛り上がりを見せた運動に、#meetooというものがありました。
女性であるがゆえに軽んじられてきた地位の向上や、
セクハラによる被害を訴えていく活動をハリウッドの有名女優たちが行ったことで、
とても大きく取り上げられました。
先週の報道では、「サウジアラビア政府は、レストランなどに設けられている男女別の入り口を撤廃すると発表」とありましたし、エルサレムでは神殿の西の壁(ユダヤ教徒の祈りの場)では壁は男女別に祈るよう分けられていました。
このように、宗教の世界では、男女の区別(差別ではなく)が色濃く残っている現実があります。
歴史を振り帰ってみると、イエス様のお墓を最初に訪問して、遺体がなくなっているのを発見したのが女性だった ように、
目を引く、女性が成し遂げた活躍や転換点があったと思います。
ルイーザ・ロルダン作
The Entombment of Christ(「キリストの埋葬」一部)
また、ローマ帝国の皇帝があれほど迫害していたキリスト教を結局認め、
ローマ帝国の国教にまで格上げしたのはなぜか。
その理由の大きなひとつとして考えられるのが、
皇帝の母親や妻たちの存在であったと言われています。
コンスタンティヌス帝の母ヘレナ
313年に皇帝コンスタンティヌス1世がキリスト教を公認しました。
母ヘレナが320年ごろにエルサレムを巡礼し、イエス様の処刑に使われた十字架や釘を発見したことで聖墳墓教会が建てられた、と言われています。
長い伝統と既成宗教によって、イエス様の生きた時代から先もずっと、当時の女性たちはとても抑圧されていました。
ですが、初期のキリスト教(といっても宗教としてではなく、イエス・キリストの教えそのもの)は、
規制や戒律といった堅苦しい義務を語らず、
「夫が妻を離縁する」などという一方通行の男女関係はありえない、とまで言いました。
女性に支持されたのは当然でしょう。
バチカンでも、女性の活躍がめざましいようです。
首長も政府の首脳も全員がカトリックの聖職者(=独身男性)のみ、という特異な国、バチカン市国。
2014年の統計では、バチカンの公務員として働く一般女性は全体の19%を占めています。
修道女の場合でも、観想型修道会のシスターと違い、世界中をまわるアクティブな修道会のメンバーが多いそうです。
実際に、各国政府の招聘するさまざまなテーマの国際会議にバチカン代表として出席するシスターもいらっしゃるのです。
1983年には、一般信者が男女の区別なくバチカンの職員になれることが、
教会法の中に正式に書き加えられました。
わたしたちにとって一番身近な教会共同体を取ってみても、女性(おばさま方!)の活動なしには語れません。
これは、どこの教会でも異論のないところでしょう。
昨日の女性の会のバザーも大盛況でした。
久留米教会も、素敵なおばさま方が精力的に様々な役割を引き受けてくださっています。
プレゼピオの意味と価値
久留米教会のナティビティセットの飾りつけが始まりました。
御降誕の場面が再現されています。
今年は聖家族のご像、プレゼピオを新しくしました。
本当の「貧しい厩」を再現してほしい、という宮﨑神父様のリクエストで、今年はとにかく「シンプル」にしてみました。
教皇フランシスコは待降節の始まりに、プレゼピオの意味と価値をめぐる使徒的書簡
「アドミラビレ・シニュム」を発表されました。
プレゼピオ発祥の地、1223年の降誕祭にアッシジの聖フランシスコが
幼子イエス降誕を観想するための馬小屋を初めて再現したと言われている
イタリア中部グレッチョで、この書簡に署名されました。
「キリスト者たちにこれほどにも親しまれる、プレゼピオの素晴らしいしるしが、
常に驚きと感嘆を呼び覚しますように」
という言葉で始まっています。
「イエスの降誕の出来事を表現することは、
神の御子の受肉の神秘を単純さと喜びを持って告げることに等しい。」
プレゼピオを準備し飾ることを、福音宣教の行為として示されました。
「プレゼピオは、わたしたちの小ささまでに身を低くされ、
貧しい者となられた神の優しさを表すがゆえに、わたしたちに驚きと感動を起こさせる。」
教皇は、プレゼピオに見られるさまざまなしるし、
たとえば、わたしたちの人生の苦しみの闇を象徴する夜の沈黙や暗さの中に、
光をもたらす星の存在に触れています。
プレゼピオは信仰の伝達における甘美で必要とされるプロセス、と述べつつ、
「重要なのは、毎年どのように飾り付けるかではなく、
それがわたしたちに対する神の愛をいかに語りかけるかにある。」
と強調されました。
厩、羊飼い、博士たち、そして天使、ヨセフ様とマリア様を取り囲むように、
いろいろな飾りが準備されて全体でナティビティ(御降誕の再現)となります。
みなさんも、ご家庭に飾られますか?
久留米教会では、台座などの大物をヨセフ会の男性陣が設置し、
細かな飾りつけは若い信徒が担当します。(含む:わたし)
今年はベトナムのみんなが手伝ってくれました。
(実際の厩は藁ぶき屋根ではないと思うのですが、
ベトナムの男子たちが楽しそうに藁ぶき屋根を作っていたので、良しとしてください!)
まだ完成ではありません!
東方からの博士たちも、小屋の裏で待機中ですし、なにより、イエス様はまだお生まれになっていません。
豊かな緑の芝生のような大地の上の小屋、これは変更の余地が大いにあります。
そしてさらに、今年はなにやら大掛かりな飾りつけがベトナムコミュニティのみんなによって進んでいました!
楽しみです!
彼らは本当に手先が器用で、この岩屋のセットも竹で編んで作っていました。
ライトアップも美しい季節です。
生き方の指針
待降節が始まりました。
今年も、自称「若手の女性信徒グループ」でアドベントクランツを作りました!
フランシスコ教皇様が、東京での青年の集いでおっしゃいました。
「どんな複雑な状況でも、自己の行動において、公正で人間的であり、
責任を持ち、決然とし、弱者を擁護する誠実な者になってほしい。」
上智大学の学生たちとの交流の際には
「必要とされる誠実な人でありなさい。」
長崎でのごミサのお説教では
「わたしたちの信仰は、生きる者たちの神への信仰なのです。
キリストは生きておられ、わたしたちの間で働かれ、
わたしたち皆をいのちの充満へと導いておられます。
キリストは生きておられ、わたしたちに生きるものであってほしいと願っておられるのです。
キリストはわたしたちの希望です。」
使徒的勧告「キリストは生きている」に書かれている
「キリストは生きておられる」というお言葉を直接教皇様からお聞きできた時は、感動で心が震えました。
イエス様が示されたことの一番の、そして根幹ともいえる教えは
「その場で最も弱い立場の人に手を指し伸べる」ということでしょう。
カトリックでは大回勅の中で、「七つの良い行い」という形で示されています。
・飢えている人に食べさせること
・乾いている人に飲み物を与えること
・着るものを持たない人に衣服を与えること
・宿のない人に宿を提供すること
・病者を訪問すること
・受刑者を訪問すること
・死者を埋葬すること
マタイの福音書25・31~40に出てくるお話に基づいています。
東京ドームのごミサではこうおっしゃいました。
「キリスト者の共同体として、わたしたちはすべてのいのちを守り、あかしするよう招かれています。
知恵と勇気をもって、無償性と思いやり、寛大さとすなおに耳を傾ける姿勢、
それらに特徴づけられるあかしです。
それは、実際に目前にあるいのちを、抱擁し、受け入れる態度です。
(教皇様と船津助祭の貴重なお写真2枚は、バチカン公式ホームページより)
パパ様が日本に残してくださった多くの言葉の中から
みなさんも「生き方の指針となる、心に刻んでおきたい教え」を読み取ってください。
高見大司教様が記者会見でおっしゃいました。
「教皇の言葉にどう納得して、どう動くのか。
一人一人が考えないといけない。」
パパ様の各地でのお説教、講話は、すべてカトリック中央協議会のホームページに掲載されています。
待降節をより有意義に過ごせますように。
教皇フランシスコ、長崎へ。
長崎での教皇さまのごミサに、久留米教会からは約300名で参列しました。
長崎の街は、24日のパパ様訪問のため、おそらくかなりの時間をかけて準備がなされていたものと思われます。
信者ではない一般市民の方には大変なご迷惑をおかけしたかと思います。
そして、この日を迎えるまで、大変な苦労があったであろう、準備をされた事務局の皆さんに心からの敬意を表します。
午前中は悲しくなるほどの大雨、そして、パパ様到着を空が知っていたかのように突然の晴天。
パパ様を先導したのは久留米の船津亮太助祭!
共同祈願は、5か国語でなされました。
【教皇さまのため】スペイン語
主よ、わたしたちの声を聴いてください。
それは、あなたが与えてくださった教皇フランシスコのために感謝して祈る神の民の声だからです。
日々全世界の人々のために心を砕いておられる教皇様が、この日本訪問を無事に、また有意義に全うされますように。
【国の指導者のため】韓国語
主よ、わたしたちの声を聴いてください。
それは、安心して生活することを望むすべての民の声だからです。
政治に携わる人々が、それぞれの地域、国、そして世界の人々の真の幸福と平和のために、与えられた力を用いることができますように。
【困難の中にある人のため】タガログ語
主よ、わたしたちの声を聴いてください。
それは、さまざまな困難や苦しみの中にある人々、とくに、戦争や暴力から逃れ、災害や事故から生活再建に努める人々の声だからです。
苦しみと死から新しいいのちをもたらしてくださったキリストに信頼し、わたしたちが互いに、希望をもって生きる助けとなることができますように。
【日本のキリスト者のため】日本語
主よ、わたしたちの声を聴いてください。
それは、この国では小さな群れにすぎない日本のキリスト者の声だからです。
殉教者と先祖の信仰に倣い、アジアの兄弟姉妹とともに、神のいつくしみをパン種のように人々に伝える知恵と勇気が、わたしたちに与えられますように。
【召命のため】
主よ、わたしたちの声を聴いてください。
それは、あなたの呼びかけに誠実にこたえる人を求める神の民の声だからです。
神の国の完成のために働く人が、日本の教会にもますます与えられますように。
【平和のため】ベトナム語
主よ、被爆地に立って祈るわたしたちの声を聴いてください。
それは、戦争の犠牲となって、苦しみの内に眠りについた人たちの声だからです。
お互いにゆるし合い、助け合い、協力し合う、愛の上に築かれる平和が、この世界に実現しますように。
感想などはあえて書かないことにしました。
各々が感じたこと、それがすべてです。
パパ様の日本滞在のあと二日、お元気で、有意義な時間をお過ごしになられますように。