行事風景
神との信頼関係
名誉教皇ベネディクト16世の兄、ゲオルグ・ラッツィンガー師が帰天されました。
「わたしが小さな時から、兄はわたしにとって同志であるだけでなく、信頼のおける導き手でもありました。
わたしに、方向性と拠り所をはっきりと、決然とした選択をもって示してくれました。
困難な状況の時も、わたしに取るべき道をいつも示してくれました。」
これは、ベネディクト16世がゲオルグ氏についてかつて語られたおことばです。
おふたりの関係は、強固な信頼関係のうえにあったことが、このたびのいくつかの報道からもよくわかりました。
(余談ですが、映画「2人のローマ教皇」を観てからすっかりベネディクト16世を見る目が変わりました!)
サマリアの女に井戸の水を飲ませてほしい、と頼まれた時のイエス様のことが思い出されました。
多くのエピソードは、死にそうな子どもを助けてほしい、病気を癒してほしい、という人々からイエス様への働きかけであるのに対し、イエス様の方から女性に頼みごとをするというこの逸話は、大変興味深いものです。
なぜか、イエス様はこのサマリアの女を信頼して自ら話しかけます。
そして、最初はいぶかしがった彼女も少しずつ心を開き、町の人に「このひとがメシアかもしれません」とわざわざ言いに行くのです。
彼女はおそらく、自分の身の上から周囲の人々と疎遠になっていたであろうに、だから日中の暑い時間帯(他の人がいない時間)に水を汲みに行っていたであろうに、自分から町まで知らせに行ったのです。
イエス様と長い時間話したことで、彼女もイエス様を信頼し、変貌を遂げたようです。
親、兄弟姉妹、恩師、友人のなかにみなさんも、「信頼する人」がいらっしゃるかと思います。
そう書きながら、わたしにとっては誰だろう、と思いを巡らせています。
「わたしはこの人を信頼しています」
そう明確に言えることは、それだけで幸せなのかもしれません。
わたしたちの信仰は、その最たるものではないでしょうか。
『神との信頼関係』
神への揺るぎない信頼があるわたしたちの生き方
神から信頼されたわたしたちへの招きに、ときにはフワフワとしたり、寄り道をしながらも応えていく生き方。
個人的なことですが、今日7/6はわたしの母が帰天して9年目の日にあたります。
9年前のわたしは、今思い返しても恥ずかしいくらい身勝手な娘でしたが、母がわたしを信頼してくれていることは感じていました。
それにうまく応えられないことへの焦りともどかしさを抱えていました。
最近読んだ本の中で、ダントツにお勧めなのが、この来住英俊神父様の本です。
私は、イエス・キリストに自分の苦労や嘆きを折に触れてよく語りかけています。
くだらない悩み、くよくよした弱音もイエスがすべて受け止めてくれると感じます。
もちろんそれで生活上の苦労や悩みがなくなったわけではありませんが、イエスのおかげでフラストレーションや怒りをほとんど感じなくなりました。
キリスト教信仰は、神からの招き(呼びかけ)への応答です。
一緒に歩もうじゃないかという招きに「わかりました。そうしましょう。」と応答した。
どんなに理不尽なことを体験し、また見聞きしても、「それでも」応答し続ける人がキリスト者と呼ばれる人々です。
来住神父様の語られる、人生経験の中から織り出された生きたことばは、どれも心に深く刺さります。
お互いの信頼関係があるキリスト者として、時にはフワフワとした気持ちになってもいいのだ。
焦らなくていい、もどかしさを抱えるのも普通のことなんだ、と安心させてもらえた本でした。
視点を変えてみる
29日の聖ペトロの祝日に併せ、宮﨑神父様の霊名をお祝いしました。
ジュゼッペ神父様がお祝い(?)の演奏を披露してくださいました!
いよいよ来月23日には、この久留米教会において、久留米教会出身の船津亮太助祭の司祭叙階式が行われます。
今、久留米教会は喜びとお恵みに満ちています。
先日、ある神父様とじっくりお話をする機会に恵まれました。
その神父様の「キリスト者とはなにものか」というお考えが面白いのです。
もし、わたしが「信者ってどういうひと?どういう生活?」と聞かれたら、うまく説明できないと思うのです。
「どうせ、信仰を持っていない人には理解できないだろうなぁ、、。神に祈りを捧げる生活をしている人とか言ったら引かれるかも、、、」と思ってしまいます。
神父様は『しょっちゅう、イエス・キリストという人とおしゃべりしている人』と表現されました。
なるほど!!と目からウロコでした。
何事も、ちょっとずらして考えてみると、違った見え方がしてくるものです。
宗像の黙想の家のこのご像、素晴らしいですね。
ローマ兵に連行されていくイエス様の様子が表現されています。
でも、わたしには「小さな存在にすぎない弱い人間を全てから守る存在」に見えます。
どうですか?!
そう言われてから見ると、そう見えませんか?!
手をつなぎ、信頼のあかしに肩に触れている、小さき我ら
そう見えます。
前々回の記事、「死者とのつながり」を読んでくださったある神父様からメールをいただきました。
わたしたちが死者のために祈ることについて、書いた記事でした。
神父様からのメールには、
「むしろ死者がわたしたちを生かしている。
生ける者の教会は、亡き者の教会によって支えられている。」
「死者は生きていて、今を生きるわたしたちを生かす。
わたしたちが死者に向かうというよりは、死者の方がわたしたちを生かしている。」
そう、本当にそうです、そうなのです。
「亡き母を天国で安らかに過ごさせてください」と毎晩祈るわたしを動かしているのは、亡くなった母とイエス様なのだ、と日々、いつも感じます。
この世の生(ビオス)は永遠の命(ゾエ)に照らされ、守られ、支えられ、導かれているのです。
視点を少し変える。
何事も真正面からだけとらえて考えるのではなく、少し横から眺めたり、一歩引いて考えてみると見えてくるものがあります。
フランシスコ教皇が昨年秋に来日された際の、東京での青年たちとの集いでのお説教の一説です。
なんのために生きているかに焦点を当てて考えるのは、それほど大切ではありません。
肝心なのは、だれのために生きているのかということです。
神様からの質問
ミサが再開されて3週間。土日3回の主日のミサはいずれも100名前後の参列者です。
第2朗読の一説に心を惹かれました。
実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
(ローマ5・14)
神様がアダムとイブ、カインに質問をされている場面は、わたしたちに対する問い掛けと読むと面白いものです。
神様はアダムに質問されます。
「あなたはどこにいるのか」
アダムは答えます。
「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」
「あの女が、木からとってくれたので、(仕方なく)食べたのです」
神様はイブに問い掛けます。
「あなたは、なんということをしたのです」
イブは答えます。
「へびがわたしをだましたのです。」
2人とも、人のせい(へびのせい)にしています。
カインに質問されます。
「弟アベルはどこにいますか」
カインは答えます。
「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」
今でいう、逆ギレのようです。
「なぜ神様はアベルの捧げものを好まれたのでしょうか」と2人の神父様に質問してみました。
おひとりの神父様のお答えは、
「コヘレトにあるように、神の思いを知ろうとしても無駄。
人の考えることと神の考えはかけ離れているのだ。
納得できないこと、理不尽なことは世の中に多くあるものです。」
もうお一方の神父様のお答えは、
「昭和天皇に園遊会で、『陛下、こちらのカインさんがお持ちになったのは精魂込めて作られた新種の米でございます』とお米を献上したら、陛下が『ほぉ、どのような品種改良をされたのですか?』と興味を示される。
次に『陛下、こちらはアベルさんで、最高級の肉をお持ちになりました』、陛下は『あっそ』。
そんなもんです。相手がこちらの期待通りに反応するとは限らないのが世の常です。」
面白い例え話だと思いませんか!?
アダムとイブは神の禁じた実を食べ、楽園を追放されました。
そして、2人の息子を産み、一心不乱に働きますが、弟は兄に殺され、兄は遠くの地に追放されます。
アダムとイブは2人の子どもを一度に失うのです。
その子はさらに、親たちの住む土地からも、神に追われます。
神に対する不従順と傲慢の結果です。
三浦綾子さんの本に、こう書いてありました。
「あなたはどこにいるのか」という問いは、永久に神が人々に問い続けている言葉である。
「あなたはどこに立っているのか」
「あなたの立場はいったいどこなのか」
「何に属しているのか」
という問いだ。
「わたしはいつも神の前に立っています」
「わたしは救い主キリストに属しています」
と、いつ、どこででも、誰に対しても明確に答え得るものは幸いである。
アダムとイブのように、神を避けて、隠れていてはならないのだ。人間はなぜ神に答え得ないか。
それは答え得ぬ生活をしているからである。
来住英俊神父様の本にはこう書いてあります。
「お前はどこにいるのか」神は知っているはずです。それでも質問するのはなぜか。
世々にわたって人間たちがこの質問に答えるためです。
私は結局、いま、どういう状態にあるのか、ということです。
折に触れて、「お前はどこにいるのか」という質問を神から受けて、自分の人生、いま到達している地点について思いをめぐらすことが大事なのです。
誰に対しても「キリストに属しています」と答えるのは難しいですが、「信仰をもって生活しています」と言うことはできるのではないでしょうか。
「信仰を持っていてよかった」とおっしゃるご高齢の方の言葉を何度も聞いたことがあります。
わたしも将来、そうありたいと思ったものです。
死者とのつながり
14日のミサでの第一朗読は申命記からでした。
主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。
(申命記8・14)
自分たちが他国で奴隷の身であったこと、苦難に耐えて生きてきたことを決して忘れるな。
だから、在留する他国の人、やもめや孤児を虐げてはならない。
度々書かれているこのくだりがとても好きです。
人種差別も性差別も、この観点でみなが生きるならばこれほど混乱した世界にはならなかったはずなのに、と思うのです。
昨日のごミサでは手話通訳が行われ、通訳者はフェイスシールドを着用しました。
人はこの世の命が終わったら、もう生者のために働くことはできないのか。
生者が死者のために祈ることには意味があるのか。
これは、身近な大切な方を亡くした経験のある人にとっては「とんでもない!」となる問いです。
ギリシャ語には「命」を表す2つの言葉があります。
「ゾエ」は永遠の命
「ビオス」は現世の命
ギリシャ語で書かれたヨハネの福音書では、この2つの単語が使い分けられています。
↓「ゾエ」バージョン
命を与えるのは霊である。
肉は何の役にも立たない。
わたしがあなた方に話した言葉は、
霊であり、命である。
(ヨハネ6・63)
↓「ビオス」バージョン
再びそれを得るために、わたしは自分の命を捨てる。
それ故、父はわたしを愛してくださる。
誰もわたしから命を奪いはしない。
わたしが自分から命を捨てる。
わたしは自由に命を捨て、また、再び自由に命を得る力を有している。
わたしはこの掟を父から受けた。
(ヨハネ10・17~18)
命には、この世での命と霊的次元での命がある、ということなのだそうです。
使徒信条の中に、「聖徒の交わりを信じます」とあります。
これは、死者との交わりのことも意味しています。
死者との交わりについて、女子パウロ会のホームページにはこう書いてありました。
亡くなられた方々も、イエス・キリストの神秘体に属する人々です。
教会は、その最初の時代から、死者の記念を行い、死者に尊敬を払っていました。
そして、亡くなられた方にもし罪が残っていたとするならば、彼らがその罪から解かれるように、祈ってきました。
このような死者のための私たちの祈りは、死者を助けることになるのです。
先日、教会に信者さんではない方が入ってこられ、
「質問があります。
洗礼を受けていたのか分かりませんが、この教会によく行っていた、という知り合いが亡くなりました。
きちんと教会で葬儀をしていないのですが、その場合、浮かばれないのでしょうか。
11月にお盆のような死者の月があると聞いたのですが、その時に供養すればいいのでしょうか。」
わたしなりのお考えを少しお話しました。そして、
「ぜひ、宮﨑神父様にご相談してみてください。
希望されるのであればきっと、追悼のごミサを執り行ってくださるかと思います。
あなたが洗礼を受けていなくても、その方のためにこの聖堂でお祈りされてもいいですし。」
亡くなられた方のことを思い出されたのか、少し涙を浮かべられた様子でした。
この問いの答えを知りたくて、ここ数か月、何度も教会に足を運ばれたそうです。
ようやく教会の扉が開いているのを見て、入ってこられたのです。
こうした方々のお気持ちを大切にしなければならない、と痛感した出来事でした。
たまに母が夢に出てきて、何かのメッセージをくれます。
「ミサに行きたいけど、いいかな?」と言うので
「ダメよ!あそこでお葬式したのに、連れていけるわけないでしょ!?」
と焦る夢を見たことがあります。
よく見るのです、実は母は亡くなっていなくてどこかに暮らしている、という夢を。
いつも近くに寄り添っていて家族を守っているのよ、というメッセージだと信じて疑いません。
命とは、この世で肉体とともにあったものだけではないのです。
わたしたちの「何が」変わったのか。
久しぶりに、本当に久しぶりに多くの方々とお会いでき、ミサに与ることができた日曜日でした。
土曜日の夜のミサ、日曜日の6:30.9:00.11:00の主日ミサ、いずれも100名以下のご参列でしたので混乱もなく、皆さん注意事項を守って、3か月ぶりの主日ミサに静かに与ることができました。
嬉しいお知らせです!
吉浦神学生の久留米教会での司牧実習がスタートしました。
4月から1年間の予定だったのですが、昨日がデビューでした!!
一見、新しい形のミサが始まったようにも思えます。
変わったのは「ミサの形式」でしょうか。
参列するわたしたちの「意識」でしょうか。
以前は4~5人で座っていた椅子には2人まで、配布された聖書と典礼は必ず持ち帰る、聖歌は歌わず唱える。
しかし勘違いしてはいけないと思うのです。
これは、変化ではありません。
カトリック生活6月号の来住神父様のお話は、少し衝撃的(いい意味で)でした。
タイトル「教会は、たぶん変わらない」
ミサのありがたさを再認識する人もいるだろうが、ミサに行かなくても暮らしは回ることを再認識する人もいるだろう。
意気込みを挫くシニカルな発言だろうか。
しかし、変わる人は、黙って変わるのである。
実際に生き方を変える前に、「これは変わるためのよい機会だ」とか言わない。
なるほど、そうかもしれないと感じます。
戦争が起ころうと、大災害で教会が破壊されようと、ウィルスが蔓延したままの世界であろうと、ミサと教会の役割、わたしたちの持つ信仰の意味は変わらないはずです。
「コロナ『後』の世界はない。」とおっしゃった竹下節子さんのお話を以前にご紹介しました。
「これまでの社会では進むことばかりを強いられてきた。
一人でいること、立ち止まることの大切さを考えさせられる時間だ。」
「今をいつくしむことの大切さ」
「あったほうがいいもの、
なくてはならないもの、
かけがえのないもの、
この生活(自粛生活)で分かるようになった」
これらは、若松英輔さんがNHK FMの宗教の時間でおっしゃっていた言葉です。
「わたしたちが変わらなければならない」のだ、とここ数か月自分に言い聞かせてきたような気がします。
必要なのは、「変わること」ではなく「立ち止まって考えること」なのではないでしょうか。
続けて来住神父様はこう書いておられます。
常識から見れば惨事や災害としか見えないことが、人の生き方を変えることはたしかにある。
私自身、阪神淡路大震災で家族との関係が大きく変わった。
この疫病でも(聖週間とシンクロして)人生が変わりそうになっている。
しかし、そういう出来事はきかっけにすぎない。
ルカの「金持ちとラザロ」のエピソードでイエスはこう言われている。
もし、モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。
(ルカ19・31)
私はこう言う。
「もしイエスの言うことに耳を傾けないなら、たとえ未曽有の大災害が起ころうと、キリスト者としての生き方は変わりはしないだろう」
3か月も立ち止まって考える時間が与えられていたのです。
各々、自分なりに感じていたこと、考えたことを手帳に書き出してみてはいかがでしょうか。